第一章 池袋という街

第一章
池袋という街
1、はじめに
池袋という街を思い浮かべた時、あなたは何を思い浮かべるだろうか。
雑然とした街並み、渋谷にも秋葉原にもなり得る中途半端さ、それともド
ラマ「池袋ウエストゲートパーク」のような危険に満ちた場所…。しかし
ながら、それらは我々と池袋を身近にし、気安く池袋を訪ねていくのに不
可 欠 な 要 素 と な る 。も ち ろ ん そ れ は 、埼 玉 に 住 ん で い る 高 校 生 に と っ て も 、
新 し く 日 本 に 進 出 し て き た 中 国 人 に と っ て も 、オ タ ク 達 に と っ て も で あ る 。
我々が池袋という街を研究対象に選んだ動機も、まさにそこにある。誰
もが気安く闊歩できる池袋は、どのようにして成立したのであろうか。現
在池袋に存在する2つのコミュニティー「池袋チャイナタウン」と「乙女
ロード」の調査を通して探ってみたいと思う。
2、池袋の成り立ち
いきなり本題の「チャイナタウン」や「乙女ロード」の研究に入ること
も可能ではあるが、ここではその前に池袋副都心の成り立ちについて述べ
てみたい。池袋副都心の成立なくして今日の池袋を語ることは不可能だか
らである。
池 袋 を 副 都 心 と し て 整 備 す る と い う 考 え は 、1950 年 代 半 ば に は す で に 調
査段階に入っていた。敗戦直後の荒廃した姿から立ち直りつつあった東京
は 、1965 年 に は 人 口 が 一 千 万 人 を 突 破 す る 。人 口 や 産 業 が 過 度 に 集 中 す る
一方で、公共投資の立ち遅れからくる市街地の無計画な膨張や住居不足、
交通条件の悪化など、都市機能は低下しつつあった。そこで都心機能を分
散し、能率的な現代都市として再生する必要が生じていたのである。東武
東上線や西武池袋線沿線で膨れ上がった人口、それに対する副都心地区と
して発展しつつある池袋が、副都心整備の対象として浮上したのだった。
同じ時期、池袋では民間資本のデパートが乱立したり、巣鴨プリズンの移
転が問題になったりと、国の意向としても、区民や区政の側としても、池
袋駅周辺を整備することは急務であった。
ここで、田嶋淳子著『世界都市・東京のアジア系移住者』でも述べられ
ていた木賃住宅問題について触れておきたい。今日の木賃住宅の典型であ
る、外に廊下がついて便所も浴室も共同で使用するという形のものが登場
す る の は 、1950 年 代 の 半 ば に さ し か か っ て か ら で あ る 。そ れ ら が 都 市 圏 に
大量に出現したのは、前述の通り、公的住宅の決定的な不足に代表される
ような日本の都市住宅政策の貧困さが最大の原因である。古く、狭く、高
密度であるという务悪な住環境にも関わらず、東京の全世帯の実に三分の
一が木賃アパートに住んでいたということだ。更にその三分の一の世帯は
最低居住水準未満であったが、木賃アパート周辺の銭湯やコンビニ、コイ
ンランドリー、自動販売機、飲食店などと相互に連関しながら存在してい
るということで、その利便性からも都市の構造の一端を担い、住宅需要を
吸収していたのである。だが、高度経済成長が陰りを見せ始めるのと同時
期にこれら木賃住宅も更新期へと入った。都心部ではマンションの開発が
起こり、木賃住宅がマンションに建て替わった場所は家賃が高騰して以前
の住人が住めなくなる一方で、経済的な理由などで木賃住宅のまま残った
場 所 は 、更 に 住 環 境 が 务 悪 と な り 、同 様 に 入 居 者 数 は 減 尐 を 辿 っ て い っ た 。
こうして木賃住宅であった場所からは日本人の入居者がどんどんと減って
いったのである。
その木賃住宅へ、新たに入居してきたのが、中国人が主となるアジア系
の外国人である。元々は豊島区に限らず、日本各地の外国人の居住者数は
戦後に入って一定して増加していたし、むしろ外国人に関しては港区など
の 地 域 の 方 が 多 い く ら い で あ っ た 。そ れ も 、
「 ガ イ ジ ン さ ん 」の よ う な 欧 米
系の外国人が主であり、目白地区などはそのおかげか高級住宅地であるか
の よ う な イ メ ー ジ さ え 持 た れ て い た 。し か し 、1970 年 代 半 ば 頃 か ら 東 京 都 、
とりわけ豊島区において、中国人を主とするアジア系外国人の居住者数が
圧倒的な増加を見せた。先に述べた木賃住宅の一部屋に、多いケースでは
十数人もの中国人が寝泊りをしていたこともあったそうだ。彼らの目的は
出稼ぎである。当時の日本は「一億総ホワイトカラー化」などという言葉
に象徴されるように、若者の就職先は金融・流通業などに人気が集まって
いた。反面で3Kと称されるきつい、きたない、危険な作業をともなう中
小の工場や建設現場では労働力が不足していたのである。そこで目を付け
られたのが彼らアジア系の外国人であった。これは日本側のプル要因であ
っ た わ け だ が 、中 国 側 の プ ッ シ ュ 要 因 と な っ た の は 経 済 開 放 政 策 が 大 き い 。
外資導入政策や市場経済原理などの導入により、中国の若者たちは先進工
業国の豊かな社会と接し、富と成功に憧れ海外に出稼ぎに行くようになっ
たのである。
豊島区では日本語学校が多かった。しかし日本語学校といっても、特別
な設置基準がなく自由に開校できるものであったため、
「 就 学 」資 格 で 日 本
に入国させておきながら、前述のプル要因に即した「仕事」をさせること
を目的とした出稼ぎの「隠れ家」のような学校も尐なからずあった。これ
ら 要 因 が か み 合 い 、豊 島 区 の 中 国 人 人 口 は 顕 著 に 増 加 し て い っ た の で あ る 。
この中国人の増加は豊島区の行政が予見していなかった事態であったが、
日本の高度経済成長の中では欠くことのできないファクターの一つである。
対 し て 、 時 を 同 じ く す る こ と 1978 年 10 月 、 池 袋 サ ン シ ャ イ ン シ テ ィ が オ
ープンする。池袋を副都心として再開発する上でのこのランドマークの設
置もまた容易なことではなかった。駅前から離れているという立地上の不
安、商店街から人が離れることの不安、住宅地で建設することの騒音や公
害問題、東京タワーの電波を遮る問題…。立地問題は、出店予定だった百
貨店の撤退が起こるなど、サンシャインシティのテナントを埋めるのに実
に3年の歳月を費やしたことからもうかがえる。商店街の問題は賛否両論
あった。ランドマークから客が流れてくるという波及効果が望める店と、
望めない店で衝突が起こったのである。これは駅前にデパートが乱立して
いた頃から起こっていた問題であるが、一進一退の攻防の末、建設に賛成
と な っ た 。騒 音 公 害 の 問 題 は 、住 宅 地 に 初 め て 超 高 層 ビ ル を 建 設 す る 上 で 、
日曜祝日や夜間の作業を行わないことを盛り込んだ、全国で初めての公害
防止協定を結ぶに至った。電波問題は、悪影響が出ている地域にケーブル
テ レ ビ の 無 償 加 入 を 行 う な ど し て 解 決 を み る 。今 日 で は よ く 見 受 け ら れ る 、
騒音公害の防止や電波障害の保障などが問題となった初期の頃の出来事で
あり、これが現在へと引き継がれているのである。
3、池袋の負のイメージ
副都心としての池袋をさらに時間軸的にさかのぼってみると、池袋は明
治末期から大正期にかけての東京の郊外化の先端を担った場所であった。
現在の池袋駅を中心点として山手線の西口側と東口側はそれぞれ特徴ある
地域舞台として存在していた。旧長崎・巣鴨村にあたる西口側は、学校の
郊 外 移 転 の 有 力 な 候 補 地 で あ っ た 。 明 治 女 学 校 ( 1897 年 )、 豊 島 師 範 学 校
( 1908 年 )、 立 教 学 院 立 教 大 学 ( 1918 年 ) な ど が そ う で あ る 。
一方、東口側は、旧巣鴨・巣鴨・高田村にあたり、村から町、そして区
へと合併編成されるにいたる。戦後の池袋のイメージは、西口の闇市を除
けば、むしろ東口側によって形作られたとも言えるが、先の郊外化につい
て 言 え ば 、巣 鴨 監 獄・刑 務 所 、脳 病 院 、精 神 病 院 、養 育 院 、廃 兵 院 、墓 地 、
貧民窟がつぎつぎと立地した。いずれも迷惑施設と呼ばれる負のイメージ
の施設である。当時の池袋が東京の外縁、場末として位置づけられていた
ことが分かる。
し か し 、 前 記 し た よ う に 、 60 年 代 の 高 度 成 長 期 以 降 は 、 東 京 の 代 表 的 副
都心として位置づけられるにいたっている。そして、負のイメージの施設
や制度が、つぎつぎと正のイメージに転換されようとしていた。負のイメ
ージの堆積が、都市空間化の編入のバネとして作動していたのである。そ
の 象 徴 が サ ン シ ャ イ ン シ テ ィ ( 1978 年 ) の 誕 生 で あ っ た 。
図 1
図 2
図 1 は現在のサンシャインシティである。池袋のランドマークをなす、
この場所は、巣鴨監獄→巣鴨刑務所→巣鴨プリズン→東京拘置所と名称は
変わってきたが、一貫して負のイメージを纏う場所であった。サンシャイ
ンシティの誕生は負のイメージから正のイメージに転換しようとした池袋
の象徴である。
図 2 は、サンシャインシティの真下に位置する東池袋中央公園にある戦
犯刑務所跡地碑である。巣鴨プリズンには、極東国際軍事裁判の被告人と
された戦争犯罪人が収容され、同裁判の判決後、東條英機ら 7 名の戦犯の
死刑が執行された。
次に「乙女ロード」について多尐触れておく。
サンシャインシティの足元、西側の通りを挟んで「乙女ロード」が存在
す る 。元 々 1980 年 代 か ら ア ニ メ グ ッ ズ を 扱 う 店 舗 は 存 在 し て い た 。し か し 、
2000 年 に ア ニ メ シ ョ ッ プ の 大 手 で あ る ア ニ メ イ ト が 女 性 向 け の 傾 向 を 打
ち出したリニューアルオープンをしたのを皮切りに、同人誌ショップであ
っ た K-BOOKS も 女 性 向 け 同 人 誌 専 門 に 切 り 替 え る な ど 、 そ の 周 辺 に 女 性
向けの店舗が集まる形で「乙女ロード」を形成していったのである。
以上のように豊島区史を中心として池袋の出来事についてまとめてみた
が、行政の側からこんな声が漏れ聞こえてくるのである。豊島区役所には
至る所に「文化芸術創造都市」というのぼりが立っていた。職員の方にこ
れについて伺ってみると、小劇場などを通じて劇団や文化芸術団体などの
活動を促進したことが表彰されたそうだ。豊島区の小劇場の数は全国一位
であるらしい。
「 頑 張 っ て プ ラ ス イ メ ー ジ を 創 り 上 げ た ん で す 」と 彼 は 語 る 。
「 チ ャ イ ナ タ ウ ン 」や「 乙 女 ロ ー ド 」に つ い て 伺 う と 、「 あ れ( チ ャ イ ナ タ
ウン)はメディアの論調とか、ちょっとよくわからない部分があるし、乙
女ロードは秋葉原や中野にも似たようなものがあって、豊島区の個性では
ない」ということであった。
以下調べる二つの事柄、
「 チ ャ イ ナ タ ウ ン 」に し て も「 乙 女 ロ ー ド 」に し
ても、極端に現在進行中の事象であるため、行政としても成り行きを見守
っているというのが現状のようであり、その苦悩は測り知れないものがあ
る。同時に本サブゼミとしても、池袋に存在する二つの事柄を通して、池
袋の現在を尐しでもリアルに浮き出させていければと考えている。
第二章
池袋におけるチャイナタウン
杉本考庸・林憲人
1、池袋チャイナタウン
今 日 で は「 チ ャ イ ナ タ ウ ン 」と い う 言 葉( も し く は「 中 華 街 」)を 誰 も が
知るようになり、雑誌やテレビといったメディア業界でも取りあげられる
ことも多くなった。そんな中、チャイナタウンとして知名度の高い街が日
本に 3 箇所ある。それらは、横浜・神戸・長崎の 3 都市だ。これらの都市
には、エキゾチックな雰囲気が満ちていて、地元の人々にとってはとても
身近な存在となっている。また、尐し気分転換をしたい時の食事や散策、
世代を問わずにカップルのデートなどにも欠かせない場所でもある。さら
に、春節などのお祭りでは、本場中国でも見ることができないような「超
中華世界」と化しているのである。
しかし近年になって、これら 3 大都市には及ばないものの、チャイナタ
ウ ン と し て メ デ ィ ア に 顔 を 出 す よ う に な っ た 街 が あ る 。そ れ が「 池 袋 」だ 。
池袋とはいっても、主に取りあげられる区域があって、そこが池袋西口・
北口なのである。このあたりを歩いてみると確かに、中国人が多かったり
中国語で書かれた看板があったりとエスニック性を感じ取ることができる。
しかし、僕らはそこから横浜や神戸・長崎といったチャイナタウンという
ものをあまり感じなかった。このような思いを抱きながら、実態を確かめ
ようと、今回の調査に至った。
2、中華街の歴史
池袋の中華街を調べるには、まず中華街の歴史を調べる必要があるだろ
う。そのために、横浜・神戸・長崎の3大チャイナタウンの歴史から見て
みる。
元々、中国には「海水いたるところに華僑あり」という諺がある。その
諺を証明するかのように、これらの都市は港町であり、その他世界各国に
あるチャイナタウンも港町が多い。それでは、なぜ港町に多いのか。それ
は 、 19 世 紀 頃 の 海 を 越 え る 交 通 手 段 が 船 し か な か っ た 事 が 関 係 し て い る 。
加えて、当時の中国人は海洋民族として訓練していたとされるほど高度な
技術を持っていて、交通の面から都合の良い港町が移住先に選ばれたので
ある。
そして、彼らが初めて日本にやってきたのは江戸時代初期まで遡る。当
時、唯一の開港地だった長崎に、三江や福建などから貿易に従事する中国
人が渡来してきたのが中華街の夜明けであるとされている。そして、その
後横浜や神戸が開港すると同時に多くの中国人がやってくるようになった。
また、これらの都市には条約国の外国人を集中的に居住させる外国人居留
地が設置されるようになり、彼らはこの一角にひっそりと住むようになっ
た。この一角こそが現在における中華街にまで発展したのである。
3、老華僑と新華僑
次に、これらの都市と池袋を語るにあたって重要となってくる存在がい
る 。 そ れ ら は 、「 老 華 僑 」と 「 新 華 僑 」 で あ る 。 彼 ら は 、 リ ス ク を 冒 し て 日
本までやってきて、中華街の根本的な土台を築きあげ、現在に至る中華街
まで発展させた立役者たちである。
さ て 、「 老 華 僑 」と「 新 華 僑 」と で は 何 が 違 う の か 。簡 単 に 言 っ て し ま え
ば 、読 ん で 字 の ご と く 世 代 の 違 い で あ る 。主 な 区 別 の さ れ 方 で は 、1970 年
代 以 前 に 海 外 へ 移 住 し た 人 々 の こ と を「 老 華 僑 」と 呼 び 、1970~ 80 年 代 に
移住した人々を「新華僑」と呼んでいる。これら「華僑」の歴史を読む際
に、しばしば「三把刀」という言葉が出てくる。これは、戦前に海外へ移
住した老華僑たちが、包丁・剃刀・はさみを用いて調理業、理髪業、裁縫
業を営み、生計を立てていたことが由来となっていて、このことから、老
華僑たちは比較的に教育水準の低い人間集団というイメージを持たれてい
た。これに対し、新華僑は高等教育を受けた人々が多く、中堅・大企業に
就職し上層社会に進出している者も尐なくない。比較的に教育水準の高い
人間集団というイメージを持たれているのだ。
そ し て 、日 本 の 3 大 チ ャ イ ナ タ ウ ン を 主 に 形 成 し て き た の が 、前 者 の「 老
華僑」であり、チャイナタウンと呼ばれつつある池袋を主に活動拠点とし
ているのが、後者の「新華僑」である。もちろん、明確に 2 分化されてい
るわけではなく、横浜に新華僑がいれば、池袋にも老華僑が住んでいる。
しかし、両者間では意識の違いが生じてきている。老華僑という存在は、
日本中華街の先駆者であり、日本に溶け込もうと努力してきた。日本の文
化を肌で感じ取り、その文化に合わせるように彼らも変化していった。ま
た、地域の人々と協力し合うことで信頼を得て、伝統を大事にしつつ日本
文化に馴染んでいった。実際、老華僑の人々は日本人と比べてもほとんど
違和感のない存在となっている。しかし、新華僑の人々は高等教育を受け
てきただけあって、実力主義的なスタイルを持っている。だから、移住先
の人々と協力していくという姿勢ではなく、彼らを押しのけてでも成り上
ろうという姿勢が目立って見受けられるのである。これは、横浜や神戸の
中華街では観光者向けに用意された中国店が多いのに対して、池袋では、
現在居住している中国人やこれからやってくる留学生向けに用意された店
が多いことにも影響していると思われる。逆に言えば、本場の中華料理や
中国産の商品を求めている人たちにとっては、横浜や神戸などよりも、池
袋の方がより中国に近い場所だと感じることができるのかもしれない
4、中国人たちの「隠れ家」
そして、彼らの「隠れ家」として、序章で述べたような木賃住宅が存在
する。新華僑は、高等教育を受けたとはいえ富裕な人間が多いわけではな
い。そこで、彼らは家賃の安価な木賃住宅に、それも集団で住み込むこと
になる。日本に夢や期待、はたまた野望を持って渡ってくる中国人の手助
け を す る の は 就 学 ビ ザ を 発 行 で き る 日 本 語 学 校 で あ る こ と が 多 い 。つ ま り 、
池 袋 に は 中 国 人 が 日 本 に 渡 り 、そ し て 日 本 で 生 活 す る 上 で 恰 好 の「 隠 れ 家 」
が多く点在していたということになる。
5、メディアから見た池袋チャイナタウン
去年初め頃、池袋チャイナタウンはしばしばメディアで取りあげられる
ことがあった。その内容は、池袋西口・北口住民と新華僑の対立問題であ
る。事の発端としては、新華僑の人々が池袋を「東京中華街」として中華
街化したいという提案を出したところ、これに対して地元住民が反発した
のである。実際に小さい枠ではあったがメディアで扱われたので、その詳
細を知るために、当事者の代表と言える「池袋西口商店街連合会」の会長
である三宅満氏にインタビューする機会を設けることができた。当事者だ
けあってメディアで語られていない部分まで話を聞く事ができた。
新華僑が池袋を中華街にしたい、と上述したが、これは厳密に言うと駅
か ら 半 径 500 メ ー ト ル 以 内 を 中 華 街 と し た い と の 要 望 だ っ た よ う だ 。 そ れ
があまりにも突然の出来事だったために、商店街側としても簡単に了承で
きるわけではなかった。そうでなくても、以前から新華僑の人々に対して
は悩まされることが多かった。現在居住している中国人だけでなく、その
他の外国人に対しても、特に悪い印象というのは持っておらず、むしろそ
ういった人たちが増えることに関して言えば、国際化という時代の流れに
沿ってゆくということだとして前向きに捉えているとのことだ。今まで築
き上げてきた伝統を大切にしながらも、時代の変化に対応していき、そう
することで池袋という街が活性化していけば喜ばしい話であるとも仰って
いた。
しかし、新華僑の人たちは街のルールやマナーを守れていないという事
を強調していた。例えば、ゴミ出しでルールに従った行動ができていなか
ったり、お店の陳列物の中でも特に生物を道路にはみ出して販売していた
りなど、地域住民にとっての迷惑になっているとのことだ。他にも、彼ら
の姿勢にも問題点をあげていた。池袋の町会の人々は協力して池袋という
街づくりを行ってきたのに対して、新華僑は協力せず、彼らは彼らのコミ
ュニティを形成して、拡大してきた。一部ではあるものの協力してきた新
華僑もいるようだが、ほとんどが非協力的であった。横浜などの中華街を
目指しているのではなく、新華僑のコミュニティとしての中華街を作ろう
としているように感じられ、池袋の伝統あるお祭り「フクロ祭り」に参加
したいと言ってくるのも、これを機にもっと拡大させたいという野望のよ
うに感じられるとのことだ。これらが悪化していくと、治安の悪い池袋と
いうイメージが立ち現われてしまうことに繋がるかもしれない。何よりも
ま ず 地 元 住 民 か ら 信 頼 を 得 て 、共 同 意 識 を 持 っ て も ら い た い と 仰 っ て い た 。
また、
「 そ も そ も こ こ に は 中 華 街 は 存 在 し て い な い 」と も 仰 っ て い た 。メ
ディアでは中華街として扱われることが多くなったが、そのような記事は
だいたい朝日新聞によるものであると語っていた。朝日新聞はどうにも中
国側の肩を持つらしく、池袋に関しても、あたかも中華街が存在している
かのようにほのめかす内容の記事が多いようだ。あるいは右翼との関連性
もあるようだ。
図 1
図 2
図 1 の 中 央 に あ る 店 は 、 中 国 の 食 材 が 1500 種 類 以 上 そ ろ う 食 品 店 「 陽
光 城 」。
図 2 のように商品が並んでいる。
第三章
乙女ロード
亀 井 威 ×大 塚 隼 人
1、はじめに
「乙女ロード」という通りをご存じだろうか。おそらく、最初にこの言
葉を聞いた一般人は、きっと華やかな恰好をしたうら若き乙女たちが闊歩
し、その乙女ロードとやらには、これまた色彩豊かな乙女のブランドショ
ップが並んでいるに違いない……と大きな勘違いをしたのではないだろう
か。
しかし、実際のところは、何の変哲もない通りに表面上は見えるのであ
る。あくまでも「表面上は」である。
2、乙女ロードとは
首都高速 5 号池袋線下の「サンシャイン前」交差点から、春日通り(国
道 254 号 ) の 「 東 池 袋 三 丁 目 」 交 差 点 ま で の 200m ほ ど の 道 路 の 片 側 に 、
女性を対象にしたアニメグッズや同人誌など、通称「乙女系」の商品を扱
う店舗が密集していることから名付けられた。それが乙女ロードである。
これは、漫画情報誌「ぱふ」が名づけたもので、アニメグッズ販売大手
の 「 ア ニ メ イ ト 池 袋 本 店 」 や 、 同 人 誌 販 売 の 「 K- BOOKS」「 ま ん だ ら け 」
「らしんばん」といった専門店が乙女ロードには並んでいる。
ここまでで書けば、察することができるだろうが、つまり「乙女」とい
うのは、アニメが好きなオタクの女性のことなのだ。そのような女性オタ
クの中でも最大派閥と言われる「腐女子」という女性たちが好んで来るの
が、乙女ロードというわけだ。
な ぜ 乙 女 ロ ー ド が 池 袋 で 生 ま れ た の か 。な ぜ 女 性 オ タ ク で あ る「 腐 女 子 」
をそこまで引きつけるのか。そこには何らかの理由があるように思える。
私たちは、乙女ロードに焦点を当て、その空間的特徴、そこに集まる女性
たちの内面などを調査し読み解いていくことにした。
また、実際、乙女ロードに訪れる人たちが池袋という街をどのように考
え て い る の か を 知 る た め に 、 約 100 人 に 街 頭 イ ン タ ビ ュ ー を 敢 行 し た 。
「 ア ニ メ イ ト 」「 ら し ん ば ん 」「 K- BOOKS」 が 並 ん で い る 。 乙 女 ロ ー ド
の中心となる場所である。
3、女性オタク
今までオタクというと、秋葉原に生息するオタク男性(アキバ系)ばか
りが注目されてきた。もちろんそこには、身なりに気を使っていなくて、
独特の恰好をしたコミュニケーションが苦手そうな人たち、というバイア
ス が 長 く 存 在 し て き た 。し か し 、近 年 、
「 電 車 男 」な ど の 男 性 オ タ ク を 題 材
とした作品がヒットし、オタクという存在に対するマイナスイメージも弱
まっているように見える。
その流れとともに、しだいに注目され始めたのが、女性オタクたちであ
り、腐女子であった。
しかし、女性オタクは、メディアで取り上げられ、注目されるようにな
るずっと前から多く存在していたのである。精神科医の斎藤環氏も「オタ
ク は 男 性 よ り も 女 性 の 方 が 多 い 」と 指 摘 し て い る 。私 た ち も 驚 い た の だ が 、
毎年 2 回、東京国際展示場で開催される 世界最大の同人誌即売会「コミッ
クマーケット」
( 通 称 コ ミ ケ )で は 、参 加 し て い る サ ー ク ル も 女 性 た ち の 方
が多いのだという。
そのように考えると、若い女性に人気のあるジャニーズジュニアの追っ
かけもオタク(通称ジャニオタ)であるし、ペ・ヨンジュンを追っかけて
いた年配女性の方たちもオタクなのかもしれない。
4、女性オタクの中のカテゴリーとしての「腐女子」
「腐女子」とは、広義の意味では女性オタク全体をさし、狭義では「男
性 同 士 の 恋 愛 や セ ッ ク ス を 題 材 と し た 小 説 、 漫 画 な ど の 作 品 ( BL: ボ ー イ
ズ ラ ブ )」を 好 む 女 性 を 指 す 。最 近 で は 、男 性 オ タ ク も 含 め て 、オ タ ク の イ
メージが以前ほど悪く思われなくなってきていることもあり、女性オタク
も増加している。ここで、そもそもオタクの定義とはなんなのか、最近増
加 傾 向 に あ る オ タ ク は ラ イ ト な オ タ ク ( 所 謂 、「 に わ か オ タ ク 」) で は な い
のか、という議論が生じるが、ここでは省くこととする。
重要なのは、オタクのイメージが変化するにつれて、一般的にオタクと
呼 ば れ る 存 在 が 増 え て い る こ と 。そ れ は 女 性 オ タ ク に も 言 え る と い う こ と 。
こ の 2 点 で あ り 、そ の 結 果 、
「 腐 女 子 」と 呼 ば れ る 女 性 オ タ ク は 、多 様 化 す
る 女 性 オ タ ク た ち か ら 区 別 す る た め 、 狭 義 の 意 味 で あ る BL を 好 む 女 性 オ
タクを指す傾向が強くなっているのだろう。
そのような腐女子たちが乙女ロードに足を運んでいる。彼女たちは休日
に 、 あ る い は 仕 事 帰 り に 乙 女 ロ ー ド で BL 作 品 を チ ェ ッ ク し て い る の だ と
いう。
また、腐女子の歴史は古い。男性同士の恋愛に興味のあった女性は、そ
れこそ江戸時代以前からいたのかもしれないが、腐女子研究をしている杉
浦 由 美 子 氏 に よ れ ば 、1978 年 に 創 刊 さ れ た 女 性 向 け の ゲ イ カ ル チ ャ ー 雑 誌
「 comic
Jun」( 後 に Jun と 改 名 )や 、そ れ に 続 く「 ALLAN」が 腐 女 子 文
化の始まりだという。
2000 年 に 入 る と ア ニ メ イ ト 池 袋 本 店 が リ ニ ュ ー ア ル す る 際 に 女 性 向 け
の 傾 向 を 強 め 、 そ れ に 続 い て 、「 K- BOOKS」 や 「 ま ん だ ら け 」 が 女 性 向
け同人誌の専門店として乙女ロードを形成することとになった。
腐 女 子 た ち の 好 む BL 作 品 と い う も の を 簡 単 に 説 明 し て お こ う 。 そ の 名
の通り、男性同士の恋愛やセックスが描かれるのだが、そこには「受け」
と「 攻 め 」と い う 概 念 が 存 在 す る 。つ ま り 、
「 受 け 」は 女 役 で あ り 、
「攻め」
が 男 役 の こ と で 、「 人 物 A×人 物 B」 と い う 形 で 表 現 さ れ た り す る 。( こ れ
を カ ッ プ リ ン グ と 呼 ぶ )こ の 場 合 、人 物 A が「 攻 め 」
( 男 役 )で あ り 、人 物
B が 「 受 け 」( 女 役 ) と い う こ と に な る 。
腐女子はこの「受け攻め」という二元論で妄想する。その想像力はしば
しば男性オタクを凌駕し、腐女子たちのカップリングは、漫画やアニメの
キャラクターに縛られない。例えば、彼女たちは、夏目漱石の「こころ」
で先生と僕との濃密な関係に萌え、太宰治の「走れメロス」で描かれる友
情にただならぬものを感じるのである。
さらに、腐女子たちの想像力は創作物を飛び出し、現実世界のスポーツ
選手や政治家までも「受け攻め」の二元論で考え、楽しむ。中には、生物
であるかにこだわらないほどの腐女子も存在しているのだ。例えば、本気
で、鉛筆と消しゴムではどちらが「受け」で「攻め」かを真面目に議論し
ているのだ。恐るべしとしか言いようがない。
5、隠れる腐女子たち
では、これまで説明してきた、けして尐なくない腐女子たちを乙女ロー
ドに行けば容易に発見することができるのだろうか、と問われればそうで
はない。なぜならば、腐女子たちの内面的特徴に大きな理由があるからで
ある。
そ も そ も「 腐 女 子 」と い う 言 葉 自 体 、BL 作 品 を 嗜 好 す る 女 性 オ タ ク た ち
が自嘲を込めて名乗りだしたと言われており、腐女子たちは周りからの視
線を非常に気にしている。そのため、男性オタクのように趣味にお金をつ
ぎ込んでしまうということはあまりない。腐女子たちは、オタクである前
に 女 性 で あ り 、最 低 限 の 身 だ し な み に は 気 を 使 っ て い る の だ 。し た が っ て 、
外見だけで腐女子と判断することはとても難しい。
腐女子たちは現実世界と、自分たちの趣味の世界を明確に区別し、その
間をすんなりと移動しながら生活している。その手段の一つが最低限の身
だしなみであった。腐女子たちはそのようにして演じることで、負のまな
ざしを巧みにかわしてきたのだ。歴史が古く、相当数存在していた腐女子
た ち が メ デ ィ ア に 取 り 上 げ ら れ る こ と な く 21 世 紀 に 至 っ た の に は 、こ こ に
理由があるのかもしれない。
また、その隠れようとする腐女子の特徴は、乙女ロードの空間にも影響
を与えている。
前記したように、乙女ロードを歩いてみても、そこは一見何の変哲もな
いただの通りである。そこには、男性オタクの聖地である秋葉原のような
街の側から訴えかけてくるようなオタクエネルギーは存在しない。具体的
に言えば、広告が尐ない。たしかにアニメに興味のある人物ならば、アニ
メ シ ョ ッ プ が あ る な 、 と 思 う か も し れ な い が 、 腐 女 子 た ち の 好 む BL の 雰
囲気は実際にお店に入ってみるまではわからないのである。もし、アニメ
に興味がない人ならば素通りしてしまうことだろう。
つまり、乙女ロードにある同人誌専門店は腐女子が隠れようとする意識
を 強 く 反 映 し て お り 、そ こ は 腐 女 子 た ち の「 隠 れ 家 」の よ う な も の な の だ 。
実際、秋葉原では堂々とそびえ立つ「まんだらけ」の池袋店は地下に存在
し、見つけることも難しい。まるで、道路を挟んでそびえ立つサンシャイ
ンシティの視線から逃れるようにひっそりと存在しているのである。
上図 3 つは「アニメイト」と「らしんばん」の前を通る人々を映したも
の。
様々なファッションに身を包んだ女性たちがいる。もし彼女たちが腐女子
ならば、外見で判断することは難しいだろう。
6、池袋のイメージ
次に、池袋全体のイメージを考えてみることにする。
盛 り 場 と し て の 池 袋 を 研 究 し た「 盛 り 場・ 池 袋 の 魅 力 」
( 牛 窪 浩 、奥 田 道
大著
時嘲社
1985 年 発 行 ) を こ こ で 引 用 し て み る 。
「 町 と い う も の も 専 門 家 さ れ て い く と 思 う ん の で す 。つ ま り 、原
宿 と か 渋 谷 と か い う の は 、あ れ は も う 女 子 大 生 や 女 の 子 の 行 く 町
で あ る 。新 宿 と 言 う の は 多 尐 活 気 が あ る か ら 、若 い エ ネ ル ギ ッ シ
ュ な 、ま だ 血 の 気 の 多 い 、血 が 騒 ぐ 野 郎 ど も が 行 く 町 で あ る 。そ
れなら多尐くたびれかけてきた人間が行く町があってもいいの
で は な い か 。そ う い う 点 で は 、む し ろ 原 宿 か ら は 馬 鹿 に さ れ て い
る 町 と い う 、こ れ こ そ 池 袋 の よ さ で は な い か と 私 は 考 え ま す 。事
実 、池 袋 ま で 来 て 、わ ざ わ ざ サ ン シ ャ イ ン ビ ル に シ ョ ッ ピ ン グ に
行 く な ん て 言 う こ と は ま ず あ り 得 な い の で 、や は り 西 口 の シ ネ マ
ロ サ と か 、東 口 の 文 芸 座 の よ う に 多 尐 小 便 臭 い 映 画 館 な ど 、ど う
しても池袋らしいダサイところに行きたいという希望はあるわ
け で す か ら 、 そ れ を 大 事 に し て い き た い 。」
こ の 書 で は 、変 わ り つ つ あ る 80 年 代 の 池 袋 を 調 査 し た も の で あ る が 、特
に繰り返し述べられているのは、池袋は、渋谷や新宿に比べて「猥雑で、
ダサくて……」などの負のイメージが多いということであった。
では、現在の池袋を乙女ロードにいる人々はどのように捉えているのだ
ろうか。私たちは、乙女ロードを歩いている男女、ショップの店員、合わ
せ て 約 100 人 に イ ン タ ビ ュ ー を 行 っ た 。 そ の 結 果 が 以 下 で あ る 。( た だ し 、
インタビューした女性が全員腐女子という確証はない。なぜならば、前に
述べたように、腐女子たちは自分が腐女子であることを隠そうとするから
で あ る 。)
池袋のイメージ
人数
オタク、乙女ロード
26
よくわからない
24
人が多い
7
女の子がたくさんいる
6
サンシャインシティ
6
明るい
5
居心地がいい
5
アニメイト
3
サンシャイン通り
3
飲み屋
3
ラーメン
3
池袋ウエストゲートパーク
2
バランスが良い
2
キャッチが多い
1
映画
1
クレープ
1
東急(*存在しません)
1
ナンジャタウン
1
本屋
1
乙 女 ロ ー ド で 調 査 し た こ と も あ り 、オ タ ク と 答 え た 人 が 多 か っ た 。ま た 、
実際に池袋に訪れている人々に池袋のイメージを聞いたこともあり、負の
イメージよりは、正のイメージが多かったのかもしれない。
そ こ で 、私 た ち は イ ン タ ビ ュ ー の 中 で 、
「 池 袋 の イ メ ー ジ で 怖 い 、と か ダ
サイとか良くないイメージはないですか」と尋ねたところ、そのような負
のイメージはないと答えた人がほとんどであった。中には、以前はあった
が 、今 の 池 袋 に は な い と 答 え た 人 も い た 。
「 わ か ら な い 」と 答 え た 人 が 多 か
ったのも重要である。
(それは池袋の中途半端さを示している のかもしれな
いのだ)
インタビューの中でも、特に長い時間応じてくださった池袋の女性向け
漫画喫茶のプロデューサーの方によると、池袋という街はとてもバランス
が良い街で、最近では大手の家電量販店ができ、本屋、ファッションビル
などあるため、なんでもそろえることが可能になった。渋谷や新宿に比べ
て、女の子だけで来やすい、とのことだった。
7、サンシャイン通りとサンシャインシティとの間で
知らない人ならば素通りしてしまう乙女ロードだが、実際、私たちのイ
ンタビューの最中で「乙女ロードってどこですか」と乙女ロードのど真ん
中で尋ねられたことがあった。それほど乙女ロードのオーラは内側にベク
トルが向いている。
乙女ロードはサンシャイン通りとサンシャインシティの間にある空間に
存在している。池袋駅からサンシャインシティに向かう人々は、サンシャ
イン通りの下にある地下道を通ってサンシャインシティに行く人が多いと
いうこともあり、サンシャイン通りとサンシャインシティの間にある乙女
ロードには繁華街と呼べるほどの 人通りは無い。
もし、池袋を歩いて回ろうとする腐女子たち以外の人々のメンタルマッ
プを作ったならば、乙女ロードはすっぽりと空白になっているのかもしれ
ない。それは腐女子たちには好都合であることだろう。
腐女子たちは隠れようとする性格から、その目立たない空間的性質を利
用しているように思える。彼女たちは、気の合う友人、あるいは同じ腐女
子であろうと推測する同士たちと同人誌専門店などの「隠れ家」に訪れ、
そこで自分たちの趣味の世界に夢中になっている。
また、一方で、乙女ロードの周りに存在する、サンシャインシティを始
めとするファッショナブルな店や、サンシャイン通りを渡れば広がってい
る繁華街の中にある、ゲームセンター、喫茶店、居酒屋、映画館などは、
腐 女 子 た ち が 現 実 世 界 の 中 で 一 般 人 と し て 紛 れ 込 む 恰 好 の「 隠 れ 蓑 」
(池袋
の曖昧さによる)となっていると考えられる。
第四章
池袋の曖昧さ
1、池袋のイメージ転換の失敗
元 来 よ り 、池 袋 は 負 の イ メ ー ジ の あ る 街 だ っ た 。ダ サ イ 、怖 い 、汚 い … 。
それは、巣鴨プリズンをはじめとする迷惑施設や戦中から存在した闇市が
負のイメージをもつものとして存在していたこと、あるいは、池袋の猥雑
さや場末性の体質が温存されてきたことに由来しているのだろう。そうい
った世間から見た悪いイメージを払拭しようとして、行政・公安・商店街
などが一体となって浄化を行い、それは一定の成果をみた。池袋は尐なく
とも夜に出歩けないほど危険な街ではなくなったのである。それは、乙女
ロード街頭インタビューでの「女の子だけで来やすい池袋」を始めとする
正のイメージ回答からもわかる。しかし、負のイメージが消え去ったわけ
ではない。事実、私たちも深夜に池袋西口・北口をフィールドワークした
際、何回もキャッチにつかまった。また、一歩路地に入れば、今までの喧
騒は消え、そこには不気味な静けさと緊張感が漂っていたのだ。尐なくと
も私たちはそのように感じた。つまり、池袋が目指した副都心開発からの
イメージ転換の失敗、それこそが池袋独特の曖昧さを生んだ最大の原因で
はないだろうか。そして、その曖昧さが、第二章・第三章で述べた「隠れ
家 」的 な「 チ ャ イ ナ タ ウ ン 」
「 乙 女 ロ ー ド 」の 形 成 に 強 い 影 響 を 与 え た と 考
えられる。
2 、「 プ ル 要 因 と プ ッ シ ュ 要 因 」 → 「 隠 れ 家 」 → 「 対 立 」
1970~ 80 年 代 に 新 華 僑 が 池 袋 に や っ て き た こ と に よ り 、池 袋 に 中 国 人 の
コ ミ ュ ニ テ ィ が で き あ が っ た 。そ こ に は 、
「 プ ル 要 因 と プ ッ シ ュ 要 因 」が 明
確に存在していて、どんどん同世代の仲間や次の世代の仲間たちがやって
くることで、次第に日本における池袋という街が、中国人にとっての一種
の「隠れ家」となっていったのは間違いない。池袋北口・西口に関してみ
てみると、様々な国籍の人たち、中でも中国人が圧倒的に増えていった。
中国人も含め街が多国籍化していくことに関しては、池袋の人々だって決
して悪い印象を持っていったわけではないし、そういう時代なのだと納得
し受け入れようという姿勢は持っていた。しかし、彼らのゴミ出しをする
上でのマナーの悪さや、商店街という街区形成への考え方の相違から、双
方に軋轢が生じている、というのが現在的な池袋の商店街の抱える問題で
ある。この問題は商店街側と中国人の側だけのものではなく、中国人の間
での老華僑と新華僑との対立の問題でもある。これらは、曖昧さから脱却
しようとする流れと、その曖昧さを保とうとする流れの対立にも思える。
「池袋チャイナタウン」という存在は、メディアが先行して作り上げた
空想の都市であるのかもしれない。結局それはいくつかの中国系の商店が
池袋の商店街に組み込まれているというのが現状だ。しかし、池袋におい
ては、私たちはこれ以上に明確にチャイナタウンとして区域化されること
は無いのではないかと考える。池袋の曖昧さは、あらゆる文化がモザイク
状に広がっているということにその醍醐味がある。
一方で、乙女ロードの腐女子たちの視点から考えると、女性オタク向け
の商品などは、秋葉原などには尐なく、腐女子たちの需要に応える場所は
存 在 し て い な か っ た 。し か し 、そ の 後 、 2000 年 代 に 入 っ て か ら 、ア ニ メ イ
トを始めとして女性オタク向け商品が池袋の乙女ロードで供給され、現在
の乙女ロードが形成されることになる。そこにはチャイナタウンのように
プル要因とプッシュ要因が存在していた。そのようにして完成した乙女ロ
ードは、腐女子たちの隠れようとする性質と共鳴していたため、乙女ロー
ドは「隠れ家」として機能することになった。
チャイナタウンと同様に、乙女ロードもオタクブームに乗っかる形でメ
ディアが先行して取り上げた。オタクらしき者達(ライトなオタク)の増
加とともに、乙女ロードは活気づいてきたわけだが、古参の腐女子たちか
らすれば、
「 隠 れ 家 」を 居 心 地 の 悪 い も の に し て き て い る 。こ れ は 、男 性 オ
タクの聖地である秋葉原にも言えることである。それは紛れもなく、曖昧
さからの脱却の流れと、その脱却に気持ち悪さを感じる腐女子たちの曖昧
さを保とうとする流れの対立である。
やはりチャイナタウンと同じく乙女ロードもこれ以上、曖昧さを回避し
て明確化していくことはないと私たちは考えている。その理由を私たちは
「曖昧であることへの引力」という概念で説明することにする。
3 、「 曖 昧 で あ る こ と へ の 引 力 」 と は
これまで述べてきたように、チャイナタウンや乙女ロードができる基盤
には、イメージ転換の失敗から生じた池袋特有の曖昧さが存在している。
ある文化を受け入れる懐の深さや、それをある程度まで醸成させる寛容
な姿勢は、その曖昧さゆえである。だが池袋においては、ある文化が次の
段階に進むことはないと私たちは考える。つまり、ある文化が加速、先鋭
化し、池袋の象徴になるということは難しいと考えているのだ。この街は
ある一定の程度を超えて、曖昧さを脱却しようとする文化をやわらかく内
に 引 き 戻 す 力 が 働 い て い る 。私 た ち は そ の 力 を「 曖 昧 で あ る こ と へ の 引 力 」
と命名した。そしてこれは、行政の方でも予期していたものではない不可
思議な力なのだ。
では「曖昧であることへの引力」を次の図で説明する。
秋葉原
池袋
乙女ロード
オタク
電化製品
チャイナタウン
例えば秋葉原においては「オタク」や「電化製品」が文化として強く特
徴を持つことは自明である。それを我々は上図のように示した。周囲の大
き な 円 は 文 化 と し て の 一 定 の レ ベ ル を 示 し 、 秋 葉 原 に お い て は 「 オ タ ク 」、
「電化製品」がそのレベルを大きく超えている。そのため、秋葉原は「オ
タクの聖地」や「電気街」として一般に認識される。
つまり、上図の秋葉原の文化的特徴を示す三角形の輪郭が強固であるた
め に( そ れ は 歴 史 的 要 因 も 加 味 す る 必 要 が あ る が )、秋 葉 原 に お け る「 新 し
い 」文 化 は こ の 二 つ の 大 き な 特 徴 に リ ン ク す る 形 で し か 発 展 で き ず 、ま た 、
この二つの特徴とリンクできない文化は発展する術がない。今では珍しく
ない「メイド喫茶」が秋葉原で発展したのは「オタク」文化と強くリンク
していたからであろう。
一方で池袋はかつて、その負のイメージを払拭しようと足掻いたが失敗
した経緯がある。そのため、立ち位置が中途半端な曖昧な性質を帯びるこ
と と な っ た 。そ の 曖 昧 さ は 、上 図 に お い て は 点 線 で 示 さ れ る 。
「チャイナタ
ウン」や「乙女ロード」はその曖昧さのためにスムーズに池袋に入り込み
形成された。曖昧さは「隠れ家」として機能するのに好都合だったのであ
る。
しかし、池袋で醸成された「チャイナタウン」や「乙女ロード」のよう
な文化が、メディアがしばしばトリガーとなって、池袋を代表するような
ものへと発展しようとすれば、
「 曖 昧 で あ る こ と へ の 引 力 」が 働 く 。外 側 へ
と 文 化 を 形 作 ろ う と す る 力 を 内 側 か ら や わ ら か く 引 き 戻 し 、許 さ な い の だ 。
それは、前述した、曖昧さを脱却しようとする流れに対する、曖昧さを保
とうとする流れと対応している。
私 た ち は あ え て「 や わ ら か く 」と い う 言 葉 を 使 用 し て い る 。な ぜ な ら ば 、
引き戻そうとする力には強硬的なものを感じることができないからである。
そ れ は 、簡 単 に 言 え ば「 自 重 の 精 神 」で あ り 、よ り わ か り や す く 言 え ば「 そ
んなに前にでなくてもいいんじゃない?」ということなのだ。
確かに、池袋という街は渋谷や新宿などに比べれば、曖昧で、中途半端
という良からぬ負のイメージをもたれている。しかし、その曖昧さは新た
な文化が入り込むことを受け入れてくれるのだ。そして、池袋で醸成され
た文化に生きる人々は、自らを受け入れたその曖昧さ自体に愛着を覚えて
い る の で は な い だ ろ う か 。そ れ こ そ が 、
「 曖 昧 で あ る こ と へ の 引 力 」の 原 動
力となっていると考えられる。
また、池袋の曖昧さゆえに、受容された文化は多様化し、互いに引き合
う力が働いているのかもしれない。その力も「曖昧であることへの引力」
の一部分と考えることができるだろう。
4、おわりに
これまで述べてきたように、池袋では「チャイナタウン」や「乙女ロー
ド」はメディアイメージにより、強く表れはするものの、その街自体を象
徴する文化としては不完全である。豊島区の区役所職員の方も仰っていた
が、
「 チ ャ イ ナ タ ウ ン 」や「 乙 女 ロ ー ド 」は 池 袋 の 文 化 的 特 徴 と し て と ら え
られるほどではないのである。
また、
「 曖 昧 で あ る こ と へ の 引 力 」に よ っ て 、こ れ か ら も「 チ ャ イ ナ タ ウ
ン」や「乙女ロード」が池袋の象徴文化として発展することもないと考え
る。
しかし、私たちはその「池袋の曖昧さ」を肯定的に捉えている。なぜな
ら、
「 曖 昧 さ 」こ そ が 池 袋 の 本 質 で あ り 、存 在 価 値 だ と 考 え ら れ る か ら で あ
る。これからも、池袋を利用する人々は、何気なく書店に足を運び、ゲー
センで遊び、映画を鑑賞し、チャイナタウンで中国料理を食べ、乙女ロー
ドでアニメグッズを購入するだろう。池袋はきっと、くたびれた私たちを
区別なく受け入れてくれるはずだ。
私たちはそんな池袋が大好きですっ!
・【 参 考 文 献 】
四 」( 豊 島 区 史 編 纂 委 員 会 編 ・ 1992 年 )
・「 豊 島 区 史
通史編
・ Wikipedia
乙 女 ロ ー ド ( http://ja.wikipedia.org/wiki/ 乙 女 ロ ー ド /)
・「 素 顔 の 中 華 街 」
・「 新 華 僑
老華僑
王維
洋泉社
変容する日本の中国人社会」
・
「池袋のアジア系外国人―社会学的実態報告―」
譚璐美
文藝春秋
奥田道大
田嶋淳子
明石書店
・朝日新聞
・ http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/cat_50026845.html
・ http://news.livedoor.com/article/detail/3981180/
・「 盛 り 場
池袋の魅力」立教大学社会学部
・「 オ タ ク 女 子 研 究
・「 腐 女 子 化 す る 世 界
腐女子思想体系」
Otome
奥田道大
杉浦由美子
時潮社
原書房
東池袋のオタク女子たち」
杉浦由美子
・「 TOKYO
牛窪浩
中公新書ラクレ
Road」
株式会社
マッグガーデン
・【 取 材 先 】
・豊島区役所
文化観光課
・池袋西口商店街連合会
高 橋 氏 ( 2009.11.5 取 材 )
会長
三 宅 満 氏 ( 2009.11.5 取 材 )
・乙女ロード沿いのお店の店員さん方
・乙女ロードを通行していた人々
貴重な時間を割いて下さり、本当にありがとうございました。