わき さか さち え 名 脇 坂 幸 恵 学 位 の 種 類 博 士(芸術) 学 位 記 番 号 甲博制第 20 号 学位授与の日付 平成 22 年 3 月 23 日 学位授与の要件 学位規則第 4 条第 1 項該当(課程博士) 学 位 論 文 題 目 女のなかの男たち ―“オタク”女性と内なる性 氏 作 品 名 マイ・ファムファタル・クライ(小説) 論 文 題 目 幻根と幻蕾の精神 ―“オタク”女性たちのなりきりメールについて― 論文審査 委員 主査 客員教授 眉 村 卓 副査 教授 山 田 兼 士 副査 教授 阪 井 敏 夫 副査 准教授 市 川 衛 内容の要旨 論文要旨 現代の多様化の様相の中で、いわゆるオタク女性たちの、虚構のキャラクターへの愛好性向、 あるいは同化の傾向について、一般には単なる夢想のように受けとめられている趣があるが、 論者はこれを、 「絵空事」どころか、身体的感覚すら伴うリアリティを持つ場合があるとする。 そしてこのことを、①バーチャルとリアルに関する身体機能の面からと、②人格や内なる性と いう心理的な面から論じている。 ①については、 「幻肢」を例に挙げる。 「幻肢」は本人には体験であり現実なのだ。また、鏡像 が本人に及ぼす心理的作用も述べ、アニメのキャラクターなどに没入するときには、リアリティ のある身体感覚が得られるのではないかと考える。このような現象がもっとも強く現れる事例 として、論者は、インターネットと携帯電話の普及により発生した「恋愛なりきりメール」に 注目した。そこでは参加者はゲームのキャラクターとして身体的感覚もキャラクター化すると し、その状況を説明する。論者はこれを「多重人格」と区別し、電脳空間という平行世界で生き ている二重存在者と表現している。こうしたかたちで成立する別のペルソナの問題が②であり、 そうしたペルソナが、本来の当人ではない「第二の肉体」としてのリアルな感覚での「幻根」 「幻 −35− 女のなかの男たち ―“オタク”女性と内なる性(脇坂) 蕾」を可能にして、そこから生み出される快楽につながると説く。 そして論者は、こうした世界がしかし完全にリアルを捨て切れるわけでもないことを認めた 上で、このような状況がなお、現代における価値観や感覚の多様化の一局面に過ぎないと述べ、 われわれの世界がさらに変容し多様化するであろうことを予見して、しめくくっている。 作品要旨 あまうら 22 歳の雨 浦 さなは、かつて疎外され孤独な問題児であった母校へ、教育実習のために戻って おり べ ゆ か くる。そこで彼女は、過去の自分と同様かそれ以上の状況にある織 部 由香という生徒と出会う。 雨浦さなは織部由香の助けになりたいと試みるが、由香は心を開こうとしない。 間もなくさなは、由香が現実の世界ではうまく他人とコミュニケーションをとれず、だがメー ルを利用した架空の世界に没入していることを知る。そのなりきりメールに入ることで由香と この しろ あゆむ つながれるのではないかと考えたさなは、大学の同級生の木 城 歩 がそうしたことに詳しい のを幸い、なりきりメールについていろいろ教えてもらい、由香もメンバーだという歩が参加 しているサイトに入ることにした。 現実とは全く違うそのサイトは、 「妖魔都市ヴェルヘイム」という名前であった。こうしてさ なは、妖魔世界の住人として、その世界での存在になる。そこは様々な妖魔や、妖魔と人間のハー フである半魔たちが暮らす別世界なのだ。さなは中級悪魔レインレフとして、そこで愛したり 争ったりしていく。由香のキャラクターは、ウィケッドの黒猫・ルクス。他に木城歩のキャラ クターなどさまざまな存在があって、レインレフはレインレフとして他との関係を作ってゆく のであった。 の がみえいすけ だが一方、さなには、同じ大学の同級生 野上 英 介とか、さなが母校の生徒だった頃からさな を知っている教師村安との対応もしなければならない。 −といった状況のうちに、現実となりきりメールの混同も生じる。だが由香は、レインレフ がさなであることを悟りつつあった。そしてなりきりメールだけではすべてでないこともわかっ てきたさなは、現実世界で由香をおどそうとする男生徒たちに、現実世界の人間として対応す べく行動を起こしたのであった。論文は本作品を読むための手引きであると言えるが、逆に、 この作品を読むことによって、論文が理解し易くなるのもたしかである。 −36− 審査結果の報告 山田兼士 副査 (1) 「なりきりメール」という若者文化の奥に深層心理の闇を想定し、ユングやラカンの精神分 析を応用してその謎を解こうとする大胆な野心作であることに、まず興味を持った。 (2)その手法は、無意識の探究に有効な手段であるが、やや類型的で細部の照応にまで到達し ていない点が惜しまれる。 (3)むしろ中心は、ケータイ文化の細部を実体験をもって探究したレポートの部分にあり、こ ちらをより重点的に扱った方が得策ではなかったかと思われる。 (4)とはいえ、学問的な作法と経験的な報告とはかなり綿密に結ばれており、独自の文化論的 価値を持つことは評価に値する。 (5)創作においても、実験的な手法を用いながら、現実の生活観と密着したパラレルワールド を築いており、十分に読みごたえのある作品になっている。 阪井敏夫 副査 (1)長編小説「マイ・ファムファタル・クライ」 この小説は教育実習の高校現場の出来事を第一次ストーリーにして、女子大生の主人公が、 クラスから孤立した一人の女生徒とコミュニケーション回復しようとして、友人が開設してい る「なりきりメール」のフィクションづくりに二人とも参加するヴァーチャルリアリティの世 界が第二次ストーリーとして並行している。女生徒の現在のドラマに主人公の過去が重なり、 二人とも本体とアバターないし分身に二重化されつつ、主人公らの物語は、現代の複雑化した 若い人の人間像と人間関係の虚実のリアリティが、巧みなストーリーテリングにより過不足な く書きこまれている。 (2)論文「女のなかの男たちー“オタク”女性と内なる性」 小説創作のモチーフとテーマを深化させるため標題の実証例を自身の内外に集め、フロイト、 ラカン、ユング理論を引用して、副論文として的確にまとめられている。 市川 衛 副査 題目:女のなかの男たちー“オタク”女性と内なる性 作品名:マイ・ファムファタル・クライ(小説) 論文題目:幻根と幻蕾の精神−“オタク”女性たちのなりきりメールについて 脇坂幸恵が論文および作品テーマとしたボーイズラブという“オタク”女性のなりきりメー ルの世界は、一見リアリティを伴わない仮想で擬似でしかないバーチャルな倒錯した世界のよ −37− 女のなかの男たち ―“オタク”女性と内なる性(脇坂) うに見られがちである。しかし、現在の人間の様々な精神の危機の諸問題と深くつながってい ることを考えると、こうした世界を真正面から切り裂こうとする取り組みは、時代の真相を見 据えた視点を含むものであると、大いに評価される。 リアルとバーチャルは反意語ではなく、人間が認識している世界自体が本質的にバーチャル であり、リアルな世界とはバーチャルな世界で確実性を持って信頼される部分に過ぎず、時代 の変化によってリアルの内容も質も変化するものだというのが私のバーチャルとリアルの理 解であるが、脇坂の考えは私の考えとほとんど合致しており、高度に情報化した世界に対する 認識は、深い理解力と先進性を感じさせられた。 生身の人間同士が自然にコミュニケーションし愛を健全に育むような社会生活の基盤が根底 から崩壊してきている時代にあって、古き良き時代への復古を叫んでも新たな時代を生きてい る若者たちの心に響くものは極めてわずかであろう。脇坂がボーイズラブのなりきりメールの 世界の自らの赤裸々な体験によって得た生身の人間としての実感から生まれた作品からは、現 在と未来への絶望ではなく、困難な時代であろうとも必死に「生きよう」とする固く強い意志 がにじみ出ている。そうした人間としての真摯な叫びは文字という芸術の表現者として最も大 切な人間性であろうと感じさせられた。 ボーイズラブの性愛の世界は極めてエキセントリックではあるが、人間が死なないで人間を 続けていくための手がかりを性愛の世界に求めたことは、人間の生と性の根源的な深い結びつ きを新たな形で露わにし、開示するものであると受け止められた。 論文ではボーイズラブの世界が成立している複雑な構造を様々な角度から広範囲に分析し ており、内容は説得力に富み大いに評価できる。 作品については、登場人物や場面の紹介において若干の説明不足があり読者が状況を正確に 理解しにくいという初歩的な小さなミスが 3 か所ほどあると感じられたが、全体としては読み ごたえのある作品であると高く評価される。 眉村 卓 主査 ◎作品について まことに現代的なテーマを、概念としてではなく実際的に展開してみせたことを評価したい。 従来作者はしばしばアイデアが先走って説得力に欠けるうらみがあったが、現在ではそれを克 服して厚みを持つようになっている。ことに本作では、このような世界にうとい読者をも首肯 せしめるように、具体的に、充分な分量を以て書いている。 この作品の主人公は、かつて問題児であった。対象である女生徒は現在問題児である。こう −38− いった相似た魂は、型として類型的に描かれる場合が多いけれども、ここでは妙にリアリティ を持っている。あるいは作者の過去の体験が投影されているのかもしれない。もしそうであれ ば、昨今の若い書き手がしばしばおちいるロボットのような人間描写から免れているのも不思 議ではない。今後も人間の描き込みにこの呼吸を大切にして欲しいと思う。 ◎論文について この論文は、作品の内容を支えるためのものとして、よく書けていると思う。とはいえみず からの思考をそのまま広げていこうとする傾向が窺えて、これは作品づくりにおける本人の特 性の反映であろうが、やや、論文というよりは小説的な感じがしないでもないのは、やむを得 ないとするべきか。 以上、作品テーマの先見性と具体的展開の力量、及び作品世界の背景・現実の状況を説いた 論文により、充分博士として評価できるものと判定する。 −39−
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