新潟大学人文学部 社会行動論履修コース 2006 年度卒業論文要旨 <社会学専攻> 荒川恵太 パラサイト・シングル論再考 〜パラサイト・シングルの親子関係〜・・・・1 安藤奈緒 若者を取り巻く厳しい労働環境の考察 ―若者がやりがいを感じて働くためには― 石井 桂 「嫌韓」ブームに関する考察 ・・・・・・・・・・・・・・・・2 ―「若者の右傾化」言説に注目して―・・・・3 石部悠海 童謡による国民動員についての考察 ―大正期『赤い鳥』を中心に―・・・・4 大久保貴子 現代日本社会における死生観 ――死生観は変化したか 川名洋平 防犯型ボランティア活動の展開に関する考察 ・・・・・・・・・・・・・・・5 ──「ボランティア」言説の転換と主体の意味構築に着目して──・・・・6 熊谷春香 現代日本における性別二元論の検討 ―ラディカル・フェミニズムの考察― 小池舞美 ・・・・・・・・・・・・・・・・・7 演劇を生産する活動についての社会学的考察 ――新潟市万代市民会館を拠点に活動するアマチュア劇団を対象に――・・・・8 古川陽祐 母性愛神話を背景とした育児不安と児童虐待についての考察 坂井菜美 若者向けファッション雑誌における性役割と恋愛市場に関する考察 佐藤加奈 セルフヘルプ活動における患者家族の役割認識の変化に関する一考察・・・11 菅沼朋美 インターネットにおける「ニート」イメージの変化に関する考察 ―「ニート」の語りを通じて― ・・・・・・・・9 ・・・10 ・・・・・・・・・・・・・・・12 関根典己 野宿者支援運動の可能性と今後の課題 ・・・・・・・・・・・・・・・13 添田摩耶 コミュニティ FM 放送局が地域社会において果たす社会的役割の考察・・・14 高久竜典 日本におけるリーダーシップ研究の再考 ―社会心理学におけるリーダーシップ理論の検討を通して―・・・15 圓谷昌彦 高等教育における「ポスト大衆化」の検証 ・・・・・・・・・・・・・・・16 竹内裕美 日本のインバウンドツーリズムについて ・・・・・・・・・・・・・・・17 鳥原浩太 新潟県における就業支援事業に関する考察 ――ジョブカフェを通した支援の実態について―― ・・・・・・・・・・・18 内藤祥子 トランスジェンダーの性自認からみる「性の二元制」 ・・・・・・・・・・・19 中越有美 エンターテインメントによる商店街の活性化について ・・・・・・・・・・・20 中條良明 消費社会における主婦像 ―雑誌『オレンジページ』に見る家父長制の作用形態― ・・・・・21 中野沙耶 男性誌にみる身体への語りかけに関する考察 野口 農村女性の自立に関する考察―直売を行う女性の事例研究を通して―・・・23 悠 堀内未来 現代社会における若者の恋愛意識に関する考察 水吉直美 教師のバーンアウトに関する社会学的分析 ―教育雑誌における教師像の変化に着目して― ・・・・・・・・・・・・・22 ・・・・・・・・・・・・・・・25 ・・・・・・・・・・・26 宮下景子 ファッション雑誌にみる現代の女性像 ―女性が性的規範を受け入れるメカニズム― 村越有香里 地域社会におけるソーシャル・ガバナンスを可能にするような 諸要因の分析―――横手と岩崎の比較を通して 山田 慧 ・・・・・・・・・・・27 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 司法過程におけるジェンダーバイアスについての考察 ――ドメスティック・バイオレンスの事例を通して―― 吉竹奈緒美 ・・・・・・・・29 地域社会に開かれた学校づくりについての考察 ―聖籠町立聖籠中学校の取り組み― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30 <文化人類学専攻> 鈴木愛 高齢者福祉施設におけるレクリエーション −デイサービスセンター職員のレクリエーション認識の視点から− 谷 潮博 ・・・・・・31 マンガにおける文体 ――『ハチミツとクローバー』の記号論的分析を通して文体を語る―― ・・・32 荒川恵太 パラサイト・シングル論再考 〜パラサイト・シングルの親子関係〜 未婚率の上昇をもたらす要因として、近年問題視されているのが、パラサイト・シング ルである。親子関係がパラサイト・シングルを形成している最大の要因であることから、 その親子関係を中心にさまざまな研究がされている。本論文では、そのなかで田中慶子氏 と山口倫子氏の学説に注目して取りあげた。両者の学説は、量的調査から得られる膨大な データからパラサイト・シングルの親子関係について考察している。しかし両者はまった く異なる主張をしている。これは、パラサイト・シングルの親子関係を明らかにするには 量的調査では不十分であることを示していると考えられる。本論文では、量的調査では把 握することができなかったパラサイト・シングルの親子関係を、独自に行った聴取調査を もとに考察した。そして、量的調査を踏まえてパラサイト・シングルの親子関係について 論 じ て い る 田 中 慶 子 氏 と 山 口 倫 子 氏 そ れ ぞ れ の 学 説 の 妥 当 性 を 考 察 す る こ と を 目 的 とし た。 調査対象者は、パラサイト・シングルとした。調査内容がきわめて個人的な内容を含む ため、調査の趣旨を理解したうえで調査協力を得られた知人・友人、計 4 名に依頼した。 調査は聴取でおこなった。パラサイト・シングルの形成を規定した要因が、親子関係に大 きく影響していると考えられるため、性別、年齢、学歴、職業、人格形成の過程について 聴取した。 今回の調査からは、パラサイト・シングルの親子関係は悪いという田中氏の学説は支持 されず、良好という山口氏の学説が支持できることが明らかになった。なぜならば、親子 間のトラブルが存在することは確かであるが、そのトラブルの内容に注目すると、親子関 係が悪いからこそ生じたケースは認められなかったからである。 また、「母親への愛着度」はパラサイト/ノン・パラサイトを問わず女性は総じて高いと いう山口氏の学説は、今回の調査からも母親に愚痴をこぼしたり、一緒に買い物に行った りなどというケースが今回もみられたことから支持できると考えられる。とくに、友達感 覚で接していると判断することが妥当である。 パラサイト・シングルに対する評価には、若者の就業意識の低下、また、親元を離れる 時期が遅れることから未婚率の上昇、世帯数の減少や消費財の減少などという理由から批 判的なものが存在する。しかし、今回の調査からは、パラサイト・シングルの親子関係の 良好さだけではなく、親子が友達感覚でお互い接していることなど、依存ではなく共生関 係を築いていると考えられる。 安藤奈緒 若者を取り巻く厳しい労働環境の考察 ―若者がやりがいを感じて働くためには― 日本労働研究機構がフリーターに行ったヒアリング調査では、彼らの特徴は大きく 3 つ、 細分化すれば 7 つの類型に分けられるとしており、若者がフリーターになる経緯はさまざ まである(日本労働研究機構,2000)。複雑なフリーター問題の中から、今回注目したのは、 正社員職を離れフリーターになる若者たちである。 熊沢(2006)は、近年の企業による正社員新規採用の抑制によって、就職できた若者たち にも「不本意就職」や「即戦力」としての成果達成の要求等の困難が生じている中で、 「や りたいことを職業にする」という文脈の「自分探し」について注意を払っている。仕事に できることが自分の好きな行為であるというよりは社会の人々に喜ばれる営みであるため、 経済的な自立と「自分探し」を果たすことの両立は、ある「気づき」と「思い定め」にい たることで可能になる、と熊沢は述べる。では、若者たちは具体的にどのような「厳しい労 働環境」の中にいて、その仕事の現場には「気づき」 ・ 「思い定め」のルートのように若者が 仕事へ「やりがい」を感じられるような条件は存在しているのだろうか。 本考察では、現在公表されている若者を対象としたヒアリング調査を用いて質的分析を 行った。分析からは、正社員が離職した理由をもとに、正社員職のなかに労働時間・賃金等 の労働条件の厳しさ、職場の人間関係、仕事のなかの「責任」という 3 つの困難が存在し ていたことが読み取れた。基本的な労働条件が企業によって守られていないという非常に 大きな問題だけではなく、人間関係も、時として安定した職業生活をも壊してしまうほど、 彼らにとって重要な条件になっている。また、正社員職では、 「会社中心」に動き「仕事を 一番」に考え、その仕事には常に「責任」を持たなければならない、と若者たちは感じて おり、このことは企業の成果主義に関係する問題と考えられる。これらの問題は、正社員 離職後の仕事への姿勢にも影響を与えている。正規雇用から離職した若者のなかには、こ れから就きたい職業を具体的に述べている者が多い。正社員を辞めた若者たちには、 「 仕事」 をしたという実感が感じ取れず、そのなかで達成することができなかった「やりがい」を、 離職後「自己実現」という方向にだけ追い求めてしまうのではないだろうか。 このような若者と正規雇用の労働社会の間に存在する大きな隔たりを、若年者雇用政策 や就職支援施設だけではなく社会のさまざまな場面において埋める努力をしていかなけれ ばならないだろう。若者が職業世界と仕事の「やりがい」を正しく学ぶことができ、積極的 に労働環境を改善できる開かれた機能や機会が求められる。 【主要参考文献】 熊沢誠,2006,『若者が働くとき』,ミネルヴァ書房 日本労働研究機構,2000,『 フリーターの意識と実態 調査研究報告書 136 号 −97 人へのヒアリング結果より−』, 石井桂 「嫌韓」ブームに関する考察 ―「若者の右傾化」言説に注目して― 「韓流」が一大ブームとして市場に溢れたのはまだ記憶に新しい。その「韓流」ブーム によって日本と韓国の友好が深まったように感じた人も多かったと推測される。しかし、 読売新聞社と韓国日報社が実施した「日韓共同世論調査」(「読売新聞」2006 年 8 月 6 日) では、日韓関係が「悪い」と見る人が日本ではほぼ 6 割に上り、調査を始めた 1995 年以来、 5 回の調査で最悪となった。2005 年、島根県で「竹島(韓国名・独島)の日」条例が制定 されたことを機に韓国では反日感情が高まり、竹島問題と靖国問題での韓国の反発に、日 本側が不信感を強めたと考えられている。 もともと「嫌韓」とは、1990 年代前半頃より日本の保守系マスメディアなどによって使 われはじめた言葉だと言われている。この言葉は、過去の日本による植民地支配と戦時下 の不法行為について日本政府の明確かつ公式な「謝罪と賠償」などを強く求める韓国世論 にたいして日本人が反発するようすを示す表現であった。 近年、 「若者の右傾化」がいわれるようになった。これは、自らの国家や民族に固執する 若者が増えているということであり、 「嫌韓」という立場も、もちろん右傾化のあらわれと いわれている。しかし、はたして「嫌韓」は本当に「右傾化」といえるのだろうか。本稿 では、日本と韓半島との歴史的な関係や現在の関係をふまえ、データを参照しながらこの 問題について考察した。 現在の「嫌韓」は、近代以前の小中華思想に根差すそれとは一線を画しているようにみ うけられる。2002 年に、FIFA ワールドカップが日韓共同開催され、また日朝首脳会談が実 現し、北朝鮮による日本人拉致問題が大々的に報道されたことにより、人びとの韓半島へ の関心・不安感が高まった。翌 2003 年には「韓流」ブームが起こり、各メディアでこの「韓 流」を強力に推し進めるようになった。この時期、文化の面では交流が深まったが、一部 の人びとはそれじたいがマスメディアによる印象操作であると考え、むしろその態度を硬 化させた。そして 2005 年、竹島問題で両国間の関係が冷え込むなかで『マンガ嫌韓流』が 発売された。この本の目的は、韓国の否定的な側面をも広く伝えることで、韓国にたいす る認識をあらためて考えさせることであり、その点において、この『マンガ嫌韓流』は相 応の成功を収めたといえるだろう。 「嫌韓」と「右傾化」の観点から読売新聞社と韓国日報社の世論調査の結果をみてみる と、関連すると思われる 8 つの項目における数値をみるかぎりでは、そこに「若者の右傾 化」があらわれているとはいえないことがわかった。しかし、近年日本人は韓半島の動向 に気を配り、警戒していることがうかがえた。 「日本人の誇り」という項目においては、 「長 い歴史と伝統」「すぐれた文化や芸術」を挙げる人が多く、この点において「『模倣』の文 化」とされる韓国の国民性と日本のそれとのあいだに感情的な摩擦が生じているのではな いかと考えられる。 「嫌韓」はあくまで韓半島の文化や人が嫌いであるという感情であり、それは日本人の 文化や芸術を「韓国起源説」などとして卑下されることへの耐えがたい苦痛に由来するも のであり、「若者の右傾化」というのは真理には遠い言説なのではないかと考えられる。 石部悠海 童謡による国民動員についての考察 ―大正期『赤い鳥』を中心に― 近代日本において国民統合装置の役割を担う学校唱歌に対抗し、自由主義的精神と童心 礼讃を理念として誕生したとされる大正期の童謡は、子どもの心身ともに健やかな成長を 願うものとされ、公定イデオロギーの伝達機能としてはほとんど考えられてこなかった。 本稿では、この大正期童謡が近代国家形成期の国民動員に関与したのではないかという仮 説をたて、大正期童謡運動の先駆けとなった雑誌『赤い鳥』の大正期に掲載された童謡作 品を対象として考察をおこなった。 学校音楽の国民統合機能やヘゲモニー装置としての唱歌科の研究によって唱歌が国民 統合装置として機能したことを明らかにしている西島央の研究にならって、初めに童謡に 歌われている歌詞の内容を分類した。その結果、童謡においては「日常生活」と「自然・ 季節」に関するものが圧倒的多数であることがわかった。 次に、童謡の歌詞や歌われている題材に注目した。その結果、一見すると日常生活の何 気ない一面を素直な感情で歌っているだけのように思われる童謡にも、その素直さや純粋 さゆえに、子どもたちや童謡作家たちが気づかないうちに国民動員のための基礎をかため ていくことになるのではないかという考えに至った。そこには本来、想像上でしか存在し ない国家という共同体を身近な地域や故郷の延長としてとらえるように仕向ける近代の国 家政策の影響があり、結果として各個人の自発的な愛郷心が国家レベルの愛国心の養成へ と展開される。また、童謡運動最大のテーマであった「童心」が、純粋さを求めたがゆえ に可塑性を備え、自由になかみを描ける「白紙」、また汚れなき純粋な魂の持ち主で外的環 境の影響を受けやすい「白紙」となることを推進する結果、近代日本国家の国民教育を展 開する土台となった可能性もある。 さらに、『赤い鳥』に掲載されている「通信」欄から、『赤い鳥』の受容のされ方や人々 の意識について考察をおこなった。そして、 『赤い鳥』が芸術的・教育的価値の高いものと して読者の信頼を得、学校で唱歌の時間に取り入れられたり発表会の曲目に選ばれていた ことがわかった。すると、唱歌を通じて定着させようとしていた「団体生活の徳義」を生 徒・教師らが自発的に推進していったことが考えられる。また、人々の信頼が厚い童謡作 家の北原白秋は、昭和期には戦争を賛美する歌を多数作成しており、人々が戦争遂行の思 想に馴染んでいくことに童謡が関わったとも考えられる。 これらのことから、唱歌のように明示的な国民教育ではなく、むしろ「善意」に満ちた 活動として童謡運動が人々に広く浸透することによって、童謡が人々に国民教育としての 影響を与え、それが国民動員へとつながっていく機能を果たしたと結論づけたい。 <主要参考文献> 西島央 1994「学校音楽の国民統合機能:ナショナル・アイデンティティとしての『カント リー意識』の確立を中心として」『東京大学教育学部紀要』34 巻 pp.173-184 大久保貴子 現代日本社会における死生観 ――死生観は変化したか かつて人間にとって疫病や天災、飢饉、戦争によって起こる醜いものであった死は現代、 医療や公衆衛生の発展によって限定的になり、そのために「死はほとんど感覚的な手ざわ りを失って、人はみな死ぬというたんなる知識として抽象的なかたちで私たちの観念のな かに宿っているにすぎない」。 (小浜逸郎 1996: 14)。 「死の醜さが、現代人の眼前から消え」 (岸本英夫 1976: 256)、私たちが接することができるのは、脚色された他人の死なのであ る。こうして「今日『死』はおそらく最も饒舌に語られるべきなにものかになっ」た(市 野川容孝 1991: 152)。「映画やドラマのように虚構と銘打たれた映像においてのみ、かろ うじて」(小浜 1996: 16)私たちは死に触れることができる今、現実の死はますます遠ざ かり、死生観は虚構と化しているのではないか。 かつての死の受容と、死を避けながらも饒舌に語る現在との間に、18 世紀からの西洋で の、ロマン主義の確立が大きく関わっている。想像性豊かに幻想の美として死を語り、悲 しみの感情で誇張し始めた。それが、悲しみの表出は不健全で無作法だという認識を高め、 死は「タブー視される」(Aries 1983: 69)ようになった。死にゆく過程と死別の悲しみは 隠蔽され、死は「ポルノグラフィー」のようなものになった。社会が取り澄ました態度を とるので、人々は忍んで死のテーマを楽しむようになる。 日本では、かつての武士や切腹の印象が強く、死を潔く受容するというが、消極的な解 決方法としての美的態度に止まっている。イデオロギーや宗教的体系にとらわれたエリー トと違い、庶民や町民たちは仏教の現世主義の考えから、死後ではなく社会の将来にユー トピアを構想した。共同体の定めた方式に従って死ぬことが重要であったが、個人では死 の受容を拒んだのに対し、エリートは死を個人化していった。 近年では、医療の発展が死を高齢者に偏在させた。病院での死が当たり前になったこと が、老いや死を生活から遠ざけ、隔離、隠蔽し、タブー視させた。しかし「死生観の空洞 化」 (広井良典 2002)から、若者たちは徐々に「死生観に対する飢餓感」 (前掲)を持つ。 Gorer の指摘する「死別の悲しみのタブー化」による「死のポルノグラフィー」という 様相は、現代にも当てはまる。遠ざけられるために、怖いものとなり、「怖いものみたさ」 (澤井敦 2000a: 25)で近づこうとする。「『視えない死体』をめぐって際限なくおしゃべ りを繰り返している」、「『死の語り』ブーム」(小浜 1996: 26)なのである。 死が大いに語られるようになり、安らかな死が良き死であるという認識は広く共有され るものとなった。そうなると、その死を周囲から強制されることもあるだろう。そこには 特攻隊のような周囲の圧力があり、死への社会の接し方はあまり変化していないと見える。 現代、死のタブー視と解放は混在する。しかし死を饒舌に語り、見世物にする態度は今 も昔も、日本にも西洋にもあった。しかしどう死ぬかということは大きな関心を集め、自 分の死を、納得のいくように遂げることを望む。高齢化社会になり、ますます関心が高ま るが、 「死に際の数時間はもちろん重要である。しかし他者との別れは、実はそれよりもは るかに早く始まっていることが多い」と Jankelevitch(1990: 3)はいう。「人は徐々に死 んでゆく」(前掲)。死に際だけではなく、死に向かっている過程を全うするべきであり、 それは尊厳死の議論だけではたりないのである。誰もが、その生は死に向かっているので あり、つまり生を全うすることが、死を全うする条件なのである。 川名洋平 防犯型ボランティア活動の展開に関する考察 ──「ボランティア」言説の転換と主体の意味構築に着目して── 防犯ボランティア団体とは、防犯を目的として活動する非営利団体一般を指す。その活 動内容は、防犯パトロールや地域の環境浄化、子どもへの声掛け運動の奨励など多様であ る。こうした防犯型ボランティア活動は、近年人々のボランティア経験の中でも大きな比 重を占めるようになってきた。これに対する評価には、①国家や市場を補完する活動的な 「市民社会」の体現と捉える肯定的評価、②戦前・戦中の町内会や「隣組」、「自警団」と いった国家の下請けとしての旧中間組織との親和性を危惧する否定的評価という 2 つの立 場があり、両者の間の議論自体は硬直化しているのが現状である。 その原因の 1 つには、ボランティア活動がいかに「自発的」に行われていようとも、行 政コストを減らし社会に適合的な「主体」を用意するという意味で「社会福祉」から「経 済的なシステム危機への対応」という転換の要請に従っており、新たな管理形態を支える ものだという、ボランティア一般が抱える本質的な問題についての指摘がある。この指摘 は「市民社会論」にとって看過できないものではあるが、行為者にとっての「意味」と社 会的に果たす「機能」 (帰結)とを区別して考えるべき、という立場をとるため防犯型ボラ ンティアは負の歴史的背景を持つ「機能」の面からのみ評価される傾向にある。本稿では、 防犯型ボランティア活動をめぐる議論でこれまで重視されてこなかった「ボランティア主 体の意味構築」という視角を導入することで、 「システム動員」されやすいという「防犯型」 の特徴に対する主体の抵抗の可能性を探った。 町内会活動ではない「自発的な」防犯パトロール活動に参加しているボランティア主体 へのインタビュー調査を通じて明らかになったのは、従来指摘されてきたような「警察や メディアによって駆り立てられた不安」だけではなく、 「ながら」パトロールのように散歩 などの普段の行動の延長として「ボランティア」ができるという「気楽さ」も動機として 大きな意味を持っていることが明らかになった。また、彼/彼女らは「自分のため」と活 動の意味を説明する。これは「ボランティア」の意味をめぐる言説が、社会福祉領域にお ける「慈愛の精神」といった特別な動機を必要としなくなり、自己成長などの「人間形成」 を目指すためという「誰でも行える」行為だと捉えられるように変化してきたことが影響 している。それゆえに、現在の防犯型ボランティア活動においては「気楽さ」の範疇を超 えたり、 「国家や町内のため」という動機を必要とする「隣組復活論」のような意識的「シ ステム動員」に対しては、主体が抵抗性を持っているという点が指摘される。 一方で、ボランティアによってケアされる人々の外部には、常に「共感不可能」とされ る〈他者〉が存在するという問題が、 「犯罪者の排除」という側面を背負う防犯型ボランテ ィア活動には常につきまとう。 「気楽さ」や「自分のため」を超えて「防犯」を広い視点か ら考え、更生保護ボランティアといったような〈他者〉との対話を志向する活動の可能性 を模索する必要があるだろう。 熊谷春香 現代日本における性別二元論の検討 ―ラディカル・フェミニズムの考察― 「人は皆、身体も心も完全に男/女である」という「性別二元論」は私たちが当然のよ うに持っている考え方であるが、実際はその規範に当てはまらない人々がいる。まず、身 体的性別といわゆる「心の性」の間に違和感があり、そのことに苦痛を感じる性同一性障 害という疾患がある。その性同一性障害を理由に、社会的・身体的性をホルモン療法や性 別適合手術(性転換手術)で移行する人のことをトランスセクシュアルと呼ぶ。またトラ ンスセクシュアルを含む、性別概念にとらわれないセクシュアリティ(性のありよう)を 持つ人を、トランスジェンダーと呼ぶ。さらに半陰陽という男とも女とも判断しかねる状 態の身体を持つ人々も存在する。性別二元論から外れるこのような人々が差別などの不利 益を被る原因は、人間の無数な性を無理に男/女の 2 つに分けるという性別二元論にある。 では女性が男性から支配・抑圧されていることに問題を提起し、男性と女性の立場を平 等にすべきであるという主張を掲げているフェミニズムは、性別二元論の陰に隠れている トランスジェンダーや半陰陽者といった人々の存在を想定し、性別二元論から脱却できて いるのだろうか。その視点から、現代日本におけるフェミニズムの第一人者である江原由 美子が標榜する、ラディカル・フェミニズム学説を検討する。 まず第 1 章では新聞における性同一性障害・半陰陽の報道のされ方を紹介する。半陰陽 者はまだまだセクシュアル・マイノリティとしての認知度は低いが、それに対して性同一 性障害は 1998 年に初めて公の性別適合手術が行われてからよく記事に取り上げられてい る。しかしその記事件数がピークを迎える 2003 年以降は、その記事は減少して落ち着き を見せている。 次に第 2 章では、性別二元論批判の現状を示していく。第 1 節では、性別二元論を批判 する人々のさまざまな観点を追う。半陰陽者やトランスジェンダー、その他にも様々な立 場の人が性別二元論を批判し、 「性別ではなく人間性を見てほしい」という点で主張を共有 している。 つづく第 2 節では、トランスセクシュアルである Y への聞き取り調査から性別二元論に 対する意見を紹介し考察する。Y は性別二元論を批判すると同時に、トランスジェンダー の当事者内では性別適合手術を受ける意志のない人が「最後までがんばろうとしない人」 として差別される現実を問題視している。Y はこのような差別をする人を、人の多様性を 認めない点で性別二元論者と同じだと指摘している。 そして第 3 章では、現代日本を代表するフェミニストである江原由美子が主張するラデ ィカル・フェミニズムを考察する。それは、トランスジェンダーや半陰陽者などのセクシ ュアル・マイノリティの存在とその主張にきちんと対応しているのかどうか、つまりラデ ィカル・フェミニズムは現実からずれている性別二元論からの脱却をはかっている理論と いえるのかどうか、という点を検討する。 結論としては、かならずしも江原の著書すべてを扱えたわけではないが、江原の学説に おいて性別二元論から脱却したラディカル・フェミニズムの姿を認めることはできなかっ た。しかし半陰陽者やトランスジェンダーと同じセクシュアル・マイノリティであるレズ ビアニストは、自らがフェミニズムを批判してその存在を認めさせ「レズビアン・フェミ ニズム」という地位を確立している。この事実を考慮すると、当事者からの働きかけ次第 ではフェミニズムが性別二元論から脱却できる可能性があると言える。 小池舞美 演劇を生産する活動についての社会学的考察 ――新潟市万代市民会館を拠点に活動するアマチュア劇団を対象に―― 現代において「芝居」を利用したメディアの主流は映画等であるが、 「生」の芝居にこだ わり、演劇を作り出していく人びとも存在する。演劇に関する社会学的な研究は大変少な いため、今後展開されるべき領域であるだろうと言えるだろう。 本稿の第一の課題は、アマチュア劇団の活動の内容とそこでの人びとのやりとりの姿を 明らかにすることである。第二の課題は、演劇を生産する諸個人(劇団員)の意図と、活 動を通じていかなる影響がもたらされているのかを明らかにすることである。第一の課題 は宮本(1999、2002)の「演劇を実現する現実」に、第二の課題は「演劇が実現する現実」 に強く関連している。 第一の課題について、新潟市万代市民会館を拠点に活動する A 劇団を対象に参与観察を 行った。公演期間中の現場には、 「自分にできること」を全力で行う関係者の生き生きとし た姿があった。また、一つの公演は、万代市民会館にて活動する劇団員同士のつながりに よって支えられている(「演劇を実現する現実」)という点が明らかになった。ここから、 劇団の枠を超えたマンパワーの提供・交換により強化されたつながりが次回以降の公演の 基盤になるという循環的な構造を指摘できる。 第二の課題について、役者を対象に聞き取りを行った。役作りでは、台本から人物の性 質をかいま見て、想像力を駆使し、社会的な背景までを含めて彼・彼女を深く理解しよう とする。このように一人の人間について深く思考することは通常の人間関係では稀であり、 独特の感覚がもたらされると思われる。舞台上での演技においては、チクセントミハイ (1979)の楽しさに関する概念「フロー」(「ある行為に完全に没頭しているときに感ずる 包括的感覚」)を経験している場合がある。観客については、演技に対する評価や感想の源 として認識している。石川(1999)は、評価は選択の責任を自分が負うこととなる自発性 を喚起するとしており、ここから演劇生産活動は関係者を進んで行動させるシステムを孕 んでいると考えられる。また、対象者の回答は演劇生産活動と石川(1992、1999)の「存 在証明」が強く関連していることを示している。宮台(1995)の議論と絡めれば、演劇生 産活動は「終わりのない日常」の外部に小さな「非日常」を作り出す活動であり、石川(1999) の論述から「非日常」にこそ価値のある存在証明があると考察できる。すなわち、演劇生 産活動においては、特殊なアイデンティティの獲得・存在証明が可能になると考えられる。 最後に以上の分析を合わせて、演劇生産活動における「中毒」という感覚について考察 したい。 「中毒」の要因として、上述した活動による獲得物の存在を指摘できるが、参与観 察の結果を見ると、それだけでは説明されえない部分があるように思う。公演期間中、各 自が「工夫」し、多くのものを「犠牲」にすることで、 「自分にできること」を行ってきた。 それは辛く苦しい部分を多分に含んだ活動である。しかし、だからこそ「誰も得ることが できない」達成感を得ることができ、それが活動に大きな魅力を与えているのではないの だろうか。これこそ、既存の社会学的な枠組みでは捉えきれない部分であり、また、 「中毒」 という彼・彼女ら自身の感覚に強く結び付いていると思われる。 古川陽祐 母性愛神話を背景とした育児不安と児童虐待についての考察 現在、児童虐待は社会的な大きな問題になっている。特に実母による虐待事件に大きな 関心が寄せられ、母親は、母親失格、母性喪失という批判にさらされる。日本においては、 子育ては母親の仕事とされ、母性が強調される。大日向(2000)は、母性愛の崇高な面だ けを賛美する風潮を指して「母性愛神話」と呼び、これが「むしろ虐待や事件を発生させ る素地をつくり、問題解決の目を曇らせているのではないか」という。そこで本論では、 母性愛神話という特殊な背景における母親の育児不安が、どのように児童虐待と関わるの かということを考察していった。 「母性愛神話」とはどのようなもので、母親たちにどのように影響をもたらすのかにつ いて先行研究から確認した。 「母性愛神話」は、性別役割分業を支える根拠とされ、性差を 不当に拡大した。また、その時代の政治的経済的背景の要請を受けて、母性を強調して母 親の育児責任を強化する必要性に生じた結果の母性観であり、近代社会になって導入され た新しい考え方である。この考え方は、子育てや女性の生き方が変化することを無視した ものであり、母親たちの実態とかけ離れてしまったものなのである。そして、三歳児神話 や、母親の出産能力を育児能力と結びつける根拠を生むといった弊害をもたらしたのであ る。 松村(2005)の先行研究から、母性意識について検討した。子育てを経験していない男 女学生においては、性差はあるが、母性の認知が知識によって形づくられていくと考えら れる。また、子育て経験のある父母では、実際の経験に大きく影響されると考えられる。 さらに、乳幼児に関わる肯定的な意識も否定的な意識も、子育て中であれば、女性や男性、 母や父に関係なく共通なものであると考えられる。 子育てに対する不安や不満は、どのように母性を捉えるか、乳幼児にどのような意識を 持っているかということに強く影響される。育児不安や不満は、母親だけに限られたもの ではなく、父親や子育て経験のない男女にも見られるものであった。そして、母性意識は 子育てに悪影響をもたらすだけではないことも明らかになった。 参考文献 大日向雅美 2000 『母性愛神話の罠』 日本評論社 松村惠子 2005 『母性意識を考える』 文芸社 坂井菜美 若者向けファッション雑誌における性役割と恋愛市場に関する考察 本稿は、「自分探し」をキーワードとして、現代の若い女性達のアイデンティティがどの ようにして保たれているのか、その社会的背景を明らかにしようとしたものである。現代 の若い女性達のおかれる社会的状況を探るためにファッション雑誌が適していると考え、 『non.no』 『CanCam』の2誌をとりあげて「消費」と「恋愛」行動に注目して考察した。 1980 年代においては、「自分探し」とはモノを消費することによって確立できるもので あった。しかし、モノが溢れすぎてしまった現代においては、消費することだけでは「自 己」を表現できなくなってしまっている。そこで、消費と並んで重要な役割を果たすのが 「他者とのつながり」である。他人と少しだけ違う自分を消費によって表現するだけでな く、他者から認めてもらうことが「自己」を保つ上で大切になっているのだ。 雑誌の誌面の考察において着目した二点をあげる。一点目は「モテ」である。 「モテ」と いう言葉では、他者に認められたいという欲求が端的に表現されている。 「モテ」は、かつ ての女性雑誌が描いていた「異性に愛される」女性ではなく「誰からも愛される」女性で ありたいという欲求を含んでいるのだ。 二点目は「恋愛」である。恋愛特集の記事は 2 誌とも多くとりあげられていた。「恋愛」 が多くとりあげられる背景には、他者との関係のなかに「自己」を見ようとする女性達の 姿があると思われる。雑誌において、読者たちは、誰かの経験したもしくはこれこそが愛 と言わんばかりの記事からロマンチックな恋愛観を夢見させられるものの、実際の経験に おいて「恋愛」がそれほどロマンチックなものでも、劇的な変化をもたらしてくれるもの ではないことを実感せざるをえない。というのも、雑誌はモノを消費することで「素敵な 恋」をあおるが、それは誰かが体験した「恋愛」の提示にすぎないからだ。そして、他者と のつながりの中で「自己」を見出そうとする行為のひとつとして「恋愛」が日常的なもの になればなるほど、人々にとって「恋愛」はゴールの見えない終わりのないものになるの だ。女性雑誌は、現代女性に「消費」と「恋愛」をあおっている。女性達は、膨らむ一方 の理想だけを抱えて、その恋愛はアノミーといえる状況にあり、終わらないおいかけっこ は今後も続いていくと考えられる。 〈主要参考文献〉 上野千鶴子 1987『<私>探しゲーム 欲望私民社会論』筑摩書房 諸橋泰樹 1993『雑誌文化の中の女性学』明石書店 浅野智彦「「1 章 自我論になにができるか―関係・パラドクス・再帰性」1997 奥村隆〔編〕 『社会学になにができるか』八千代出版 佐藤加奈 セルフヘルプ活動における患者家族の役割認識の変化に関する一考察 本稿では、病気を持つ人の家族の問題について取り扱う。現代社会において、家族に病 気の者や障害を持つ者がいる場合、家族の生活時間の大部分は介護や看病に当てられ、家 族は自分の自由な時間を持つことが困難になることも少なくない。しかし、家族がケアを 担当することは決して「当たり前」として捉えられるべきものではない。たとえ看病や介 護を必要とする者がいたとしても、家族は自分の余暇生活を楽しむことや自分で時間を好 きなように使う自由は保障されるべきではないだろうか。このような考えの下、本稿では 特に ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の家族を中心に、患者家族を取り巻く「リアリティ」 に焦点を当てていく。 先行研究によれば、患者家族は複数の異なる役割を兼ね備える立場にあることが指摘 されている。患者家族は大きく分けて「援助者」としての家族、 「生活者・労働者」として の家族、 「当事者」としての家族の 3 つに分類される。このうち本論では、患者家族が「生 活者」役割を取得するまでの過程や方法に焦点を当てるとともに、それを実現するシステ ムとして SHG(セルフヘルプグループ)の貢献が大きいという仮説を設定する。また、同時 に「当事者」としての家族の「リアリティ」を詳細に記述することも課題とする。 ALS 患者家族への聞き取り、参与観察の結果、次のようなことが明らかになった。SHG は家族に「生活者」役割を取得させる機能を持つ一方で、 「援助者」役割をも促進する機能 を持っていることが明らかになった。 「生活者」役割の取得機能としては、主として患者用 の便利グッズを作成する作業などにおいて確認された。こうした作業を行っている参加者 たちは、「家族の代わりに」自分たちが作業を行うことに自覚的である様子が確認された。 このように SHG が家族の「援助者」役割の一部を担うことで、間接的に家族の「生活者」 役割を促進しているのである。 「援助者」役割の促進機能については主に、グループの行う活動の多くが患者の QOL(ク オリティ・オブ・ライフ=生活の質)向上を意図した活動であるという点に見出される。患 者の QOL 向上を意図した場合、家族はそれをサポートするような立場に置かれる場合が 多い。これは、SHG において家族が患者を裏方で支えるという意味での「援助者」として の役割を促進されていると考えることが可能である。また本グループでは多くの家族が介 護を終え、遺族となってからも活動を継続している場合が多く見られた。このように患者 が亡くなった後も活動を続ける遺族は、SHGを通して「援助者」役割を獲得したことを 示唆している。 菅沼朋美 インターネットにおける「ニート」イメージの変化に関する考察 ―「ニート」の語りを通じて― 「ニート」問題は、若者自身の問題ではなく、社会の問題である。「ニート」が、「ニー ト」になった理由を、考えた際に、 「ニート」自身の中よりも、社会に見出すことができた。 「いじめ」、家族との関係、雇用の縮小、マスメディアの影響など、たくさんの社会的要因 が影響して、「ニート」たちは、「ニート」になってしまったのである。決して、「ニート」 問題は彼らだけの問題ではない。彼らのせいにして、彼らだけに解決することを求めるの ではなく、社会問題として、社会全体で取り組んでいかなければならないのだ。 実際に、インターネットにおける「ニート」自身の語りを集めてみて、私が注目すべき だと思ったことが 3 つある。 まずは、やはり、「ニート」たちが抱えている一番の大きな問題が、「対人関係に対する 不安・自信のなさ」である。ほとんどの「ニート」は、これが原因の一部になっていると 思われる。また、「働きたい」けど、「最初の一歩が踏み出せない」という「ニート」たち の、その最初の一歩を躊躇させている主な理由も、これであった。しかし、これを考えた ときに、実際に「いじめ」にあったことによって、人間関係に対する恐怖を抱いてしまっ ている「ニート」も相当数いる、ということは注目すべきである。 もう 1 つは、「ニート」問題を考えた際に、大きな問題ではないか、と思ったのが、「ニ ート」とその家族との関係である。 「ニート」は誰にも相談できないことによって、孤独感 を感じている。その孤独感から、社会に取り残されたような気分になり、ますます社会か ら遠のいていってしまっているのではないだろうか。 「ニート」たちの中には、家族とのコ ミュニケーションすらうまくとれていないものもいた。私は、 「ニート」たちは、家族すら 世間一般の人々と同様に、自分たちを偏見の目で見ていると感じているのではないか、と 思う。自分のことを理解してくれそうにないから、相談しない。むしろ相談できないでい るのではないだろうか。家族ですら、自分を偏見の目で見ている、ということによって、 ますます自信を喪失しているのかもしれない。 最後は、マスメディアとの関係である。私もいくつか、 「ニート」の特集をしているテレ ビ番組を見たことがあるが、そこにでてきている「ニート」と呼ばれる人たちと、私が今 回調査した「ニート」たちでは、全然違った。私は、自ら調査したため、テレビで放送さ れたような「ニート」ばかりではないのだということが身をもってわかったが、そうでは ない人たちはテレビに映っている「ニート」の姿が全てだと思い、確かに、その姿しか見 ていないのなら、 「 ニートはダメなヤツ」と考えてしまうのも無理はないと思った。さらに、 そこから懸念されることは、 「ニート」たち自身が、世間が自分たちに対してネガティヴな イメージを持っているということが、わかっているがゆえに、なおさら社会に出にくくな ってしまうということである。 関根典己 野宿者支援運動の可能性と今後の課題 1990 年代に入ってから、野宿者は増加し、国も対応の必要に迫られ、2002 年に日本で 初めての、野宿者支援を目的とした法令「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」 が施行された。また、その頃から全国の各地では、野宿者を支援する NPO 団体等が設立 され、その数を増加させてきており、野宿者を支援・援助しようとする動きが活発になっ ている。同法では、民間団体との協力の必要性が明記され、その働きや、自治体との協力 関係が期待されており、国レベルでの対策が必要となった野宿者の問題において、その支 援体制が重要な役割を担うこととなる。本稿では、新潟市の状況に焦点をあて、聞き取り 調査や参与観察を通して、野宿者を取り巻く現実、そして、野宿者、支援者や支援団体、 行政、また近隣地域住民などのせめぎ合いや協働の過程において繰り広げられる現実を捉 え、野宿者支援の方向やあり方、課題や問題点を検討していく。 NPO・市民・行政など、あらゆる立場の人たちが、どういった関係を築いていけるかは、 野宿者問題解決において、重要な要素となるだろう。しかし、新潟市のように野宿者の少 ない地域では、野宿者に対して、市民に差別や偏見が生まれ、野宿者に対する意識は啓発 されにくいという状況にあるようである。さらに、行政も大きな対応をとれず、それによ って支援団体や野宿者との確執が生まれ、協働による支援体制の整備は生まれにくい。 新潟市における行政や支援団体による支援として、生活保護適用の拡大や、民営自立支 援アパート「まちかど館」の開設など、野宿生活から安定居住の生活へ向けての道が開か れはじめてきたが、安定居住での生活を送る上での問題を抱えている野宿者も多い。そう いった理由から、住居から退去させられたり、自ら野宿生活に戻る人も数多くいる。また、 野宿者の多くは、家族などの関係から切り離された存在であったり、孤独な存在であり、 それは野宿生活から脱した後にも言えることで、そういったことからさまざまな人との関 係を構築するための支援の動きもある。このような、野宿生活を脱した後の支援というこ とが問われはじめてきた。 さらに、新潟市において、支援によって自立した野宿者は数多くいるが、比較的若い世 代の人たちなどの新たな参入者がいるため、野宿者の人数は横ばい状態である。野宿者問 題への対応は、常に対症療法的に行われ、複雑に絡み合う野宿者を生み出すさまざまな要 因それ自体への対策はたてられていない。また、大阪市で行われた市民意識調査での市民 の考えや、 「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」においても、重きが置かれて いるのは就労支援である。しかし、就労支援に関して具体的な制度というものはなく、支 援団体ごとに個別的に支援を行っていくというかたちになっている。こうした就労支援の 制度の確立、野宿者を生み出す構造的な要因の解明とその解決が、課題として残されてい る。 添田摩耶 コミュニティ FM 放送局が地域社会において果たす社会的役割の考察 近年、住民による自主的なまちづくり活動がさかんに行われている。川上光彦は、まち づくりについて「それぞれの地域や都市における住みよい、活気のある環境を形成するこ とを目的として、それを担う人々を形成するための各種の努力や運動、環境整備を進める ための各種の制度および枠組みの形成、さらに、さまざまな物的および社会的な環境を建 設したり整備する過程、およびそれらを維持、活用していくための努力や運動」と述べて いる(川上,1994:2)。現在、リサイクル活動や住民会議、福祉活動、地域での起業など、 じつに多様なまちづくり活動が実践されている。 しかしその一方で、まちづくり活動をはじめとした様々な地域活動に対する住民の意識 について「コミュニティの理想像としては、主体的参加を期待しているものの、それが自 己の行動の責務としてかかることは忌避したい傾向」だという指摘もある(高倉,1993)。 本稿では住民が主体となって行っているまちづくり活動の具体例としてコミュニティ FM 放送をとりあげ、その活動に関わる人々が、どのような意義をもって活動を行ってい るのか、そしてコミュニティ FM 放送は地域においてどのような役割を果たすのか、とい うことについて考えた。 コミュニティ FM 放送局が地域社会において果たす役割は、あくまでひとつの民間放送 局としての役割と、まちづくり活動のひとつとしての役割という二つの側面をいかに両立 させるのか、そしてどのようなことに放送局のコンセプトを置くのか、ということに大き く左右される。 調査対象としたコミュニティ FM 局が設立された目的は、住民が様々な地域活動を行う 様子を取材したり、多くの住民に放送に参加してもらったりすることで、地域の情報を多 く発信し、地域の活性化をはかることであった。これは、 「社会運動が(中略)主体的にメ ディアを用いて直接、社会コミュニケーションに働きかけようとする意欲を高めて」(松 浦,2006:332)おり、その運動の理解や共感が人々に定着、拡大するためには、ローカルな、 あるいはコミュニティレベルでのコミュニケーションを可能にする必要がある(同:335)、 という松浦の意見に合致する。 また、コミュニティ FM 放送は「地域の住民に向けた情報や地域住民間の情報交換」 (小 内,2003b:2)をより活発にすることが可能である。 松浦は「鍵となるのはコミュニティであり、恒常的なつながりのなかに顕れるものが信 頼を受ける」 (同:344)と述べているが、そういった地域住民どうしの「恒常的なつながり」 や「信頼」を生み出す役割を担う可能性をコミュニティ FM 放送は持っている。 高久竜典 日本におけるリーダーシップ研究の再考 ―社会心理学におけるリーダーシップ理論の検討を通して― 集団が一体となって行動し、ある一定以上の成果を挙げようとするとき、リーダーシッ プというものが重要な意味を帯びてくる。1 人の人間だけである仕事を成し遂げることが 可能な場合、集団を組織したり、その仕事を集団に割り当てたりするのが正当とは思われ ない。しかし、現代社会におけるほとんどの生産活動においては 1 人の人間が単独で行動 することによっては達成し得ないというのが現実である。その場合、集団を形成して生産 活動にあたることになる。リーダーシップは形こそさまざまだが、集団を構成する際に欠 かせないものであるといえる。 社会学の研究の多くが集団や組織を対象としている。その組織の集団規範などがリーダ ーシップのスタイルの違いによって影響を受ける。組織・集団を研究対象とする際に、集団 の行動様式とともに集団のリーダーを考察する必要がある。そこで本稿では社会心理学に おいてこれまで行われてきたリーダーシップについての研究のうち、確立されている主要 な理論をたどり問題点を提示することで、これまでのリーダーシップ理論を整理するとと もに、日本におけるリーダーシップ理論の課題を考察した。 社会心理学では効果的なリーダーシップを発揮するための条件としてリーダーの特性 と、リーダーの行動スタイルに注目し、さらにそれぞれいつも同じ特性・スタイルのリー ダーシップが効果的とする考え方と、状況によって効果的な特性・スタイルは違うとする 考え方がある。そして、それらの考え方の違いからリーダーシップは 4 つの枠組みに分け られる。それらは特性理論・行動理論・状況即応理論・状況対応理論の4つである。これ らの理論を検討してみると、最初の2つが普遍理論を指向しているが、どのような状況で も普遍的に効果を発揮する万能型のリーダーシップ理論というものは存在しないことがわ かった。後者の2つの理論は状況が変われば効果を発揮するリーダーシップのスタイルも 変わるという結論であったが、じっさいにはそれが妥当であろう。 これらすべての理論に共通した問題として、性差などを考慮した研究がほとんどないと いうことである。このことは大きな問題である。それまで育ってきた環境が違えば考え方 も違うし、同じことを考えるときでも、男女でその答えがまったく違うということもある。 こうしたことをこれまで等閑視してきたといえる。 これらのことから、日本のリーダーシップ理論を構想するうえで性差による違いなど、 ステレオタイプの考え方なども考慮して調査した理論が必要とされるだろう。 圓谷昌彦 高等教育における「ポスト大衆化」の検証 本論文は、各種統計データから大学「大衆化」の流れを追うとともに、この「ポスト大 衆化」概念に社会学的な立場からアプローチし、それが有効であるかどうか問うものであ る。そして大学の「大衆化」現象において、 「ポスト大衆化」という概念が「大衆化」に続 く分離・独立した時期概念として認識すべきでないこと、むしろトロウの大学大衆化論を 再読・評価し、 「大衆化」の延長としてとらえることのほうが適切であることを以下の二点 で検討している。まず、アメリカをモデルに構築した「ポスト大衆化」が日本にそのまま 当てはめられるのかという点、そして「大衆化」概念そのものの妥当性である。 大学の「大衆化」現象は近年に限っての問題ではなく、1960 年代にはすでに問題視され ていた。大学の「大衆化」現象を論じた代表的な人物にマーチン・トロウがいる。彼は、 学生の進学率を指標に取り、エリート、マス、ユニバーサルの三段階にわけ、それぞれの 段階ごとに大学は変遷していくと考えたのである。それは一定の説得力を持って受け入れ られる一方、日本に紹介された当時から批判もあり様々な議論がなされてきた。今日、こ れまでの「大衆化」概念でとらえられない社会変化を説明するために、新たな概念をもっ てして「大衆化」現象をとらえなおそうという主張が登場している。それが「ポスト大衆 化」という時期概念である。 アメリカは 1960 年代以降「大衆化」が順調に進行し、近年は停滞傾向にあるが、日本 の場合は 1960 年代後半と 1990 年代に入ってからの 2 度、「大衆化」が確認できる。日本 のケースは産業構造の変化、女子学生の進学率拡大などの要因が関係し、アメリカの停滞 期とは性格が異なる。少なくとも同じ概念で両国の変化を説明することは難しいといえる。 本来トロウが定義していた「大衆化」は量的拡大と質的変化の両側面を持つというものだ った。それにたいして、日本では「ポスト大衆化」は「大衆化」現象の内包する量的拡大 と質的変化それぞれに線引きをすることによって区別した。この観点に基づくと、 「ポスト 大衆化」と「大衆化」を区別する必要はなく、ひとつの大きな「大衆化」段階としてとら えることが可能である。そして、 「大衆化」は量的拡大に質的変化を含みながら複合的・相 乗的に起こるものと認識すべきという結論に至るのである。 最後に、日本的「大衆化」の特徴である「産業社会の変化」や「女子学生の進学率の上 昇」を指標にして「大衆化」を前期・中期・後期と区分していくことが「大衆化」現象を クリアにとらえる方法のひとつとなるだろうと提示している。 竹内裕美 日本のインバウンドツーリズムについて 21 世紀は「観光の時代」といわれている。観光は、世界の経済的発展と国際的相互理解 を可能にする世界最大の産業だ。日本の観光業が抱える問題は、日本人海外旅行者(アウ トバウンド観光者)数に比して、訪日外国人旅行者(インバウンド観光者)数が極端に少な いということである。2004 年の数字をみると、前者が 1683 万人であるのに対して後者が 614 万人、というアンバランスな状態を是正するために政府は、2002 年には国土交通省に よる「グローバル観光戦略」策定、2003 年から「ビジット・ジャパン・キャンペーン」を 実施し、2010 年までには訪日外国人旅行者数を 1000 万人にまで引き上げることが目標と している。政府のこれまでの政策や海外、国内でインバウンド・ツーリズムが成功した地 域を見ることで、日本のインバウンド・ツーリズムを振興させるための視点を提示したい。 そもそも日本の観光政策が、1986 年に約 550 万人だった日本人の海外旅行者数を 5 年 間で倍増し 1000 万人にしようとする「テン・ミリオン計画(海外旅行倍増計画)」を推進な どアウトバウンド先行の政策であったことが、インバウンド・ツーリズムに影響をあたえ ている。観光政策がアウトバウンド先行であったため、日本ではハード面、ソフト面とも に、外国人観光客を受け入れるための素地が整っているとは言いがたい。また、日本でも 観光業の統計やアンケートを調査情報の提供を行うようになったが、方向性については具体的、明 確に述べられてはおらず、それぞれの地域が独立して観 光政 策を生み出すことを推進している程 度である。 観光業に力をいれているオーストラリアや日本国内のニセコや湯布院といった成功例を見てみる と、開発の初期の段階から地元コミュニティを巻き込むよう努力して、行政・民間企業・地元住民な どが協力して観光地を作っている。由布院では「湯布院らしさ」を徹底し、「自然観光地」、「生活観 光地」として温泉地のブランドを作り上げていった。また、ニセコでは冬の質のよいパウダースノーや 温泉を対外に PR することで、海外からの観光客を集めている。 日本のインバウンド・ツーリズムを振興させるためには、問題解決の母体となるべき政 府、関係省庁の執行能力を高め、政策執行に際しての俊敏性を増すこと、地元の人々と観 光客の共存を図った観光政策であること、その地域にしかないセールスポイントを明確に し、アピールすること、が必要であると考える。 鳥原浩太 新潟県における就業支援事業に関する考察 ――ジョブカフェを通した支援の実態について―― 近年フリーターの増加が問題視されている。マスコミ報道や政府による政策の対象とし ても取り上げられており、その多くはフリーターという就業形態の問題点や若者の就業意 識の低さといった点に主に焦点が当てられ、フリーターが増加している原因は若者の意識 の低さにあるという論調である。しかし実際に若者の話を聞くと、働く意欲はあるのだと いう。そこで実際にフリーターが増加していることが大きく取り上げられるべき問題であ るのか、またフリーター増加の原因の所在はどこなのかという二点について先行研究を元 に明らかにし、その上で現在行われている対策の実態を調査することで対策の方向性と今 後の課題について論述する。 フリーター側の意識に着目した研究は、日本労働研究機構による調査報告書『フリータ ーの意識と実態─97 人へのヒアリング結果より─』や『進路決定をめぐる高校生の意識と 行動─高卒「フリーター」増加の実態と背景─』で行われており、これらの調査の中では 高校での進路指導がほとんどなされていない、あるいは不十分だと感じているという回答 が数多く見られた。若年層にフリーターが増加している一因として就職希望者への指導が 不十分なままであり、そのために職業指導が必要とされているのではないだろうか。 現状の制度の中において様々な問題を抱えているフリーターの増加の背景には雇用側 の変化、教育現場の変化による若者の職業意識の未形成がその要因として存在すると考え られており、政府による「若者自立・挑戦プラン」ではそのうちの職業意識の面について の対策が主である。本稿では若年労働者支援事業の中からジョブカフェを取り上げ、その 取り組みと課題を明らかにすることで若年労働者にとって必要なこととは何かを検討する。 インタビュー調査を通して、その取り組みの一つであるジョブカフェは若年労働者の職 業意識の形成の助力となっていることが確認できた。しかし一方で人材育成を受けた若年 者に対する雇用受入れ先は満足に確保されておらず、人材育成を行う目的、最終的な雇用 先の拡大については課題が残る結果となった。これからの対策の方向としては雇用の創出 が最優先で行われるべきだろう。 フリーターが問題視される要因としてフリーターからの離脱の困難さが挙げられてい たが、その離脱を困難にしているのは新卒採用を採用の中心としていることで、学校卒業 後すぐに就職するというレールが敷かれていることである。就職氷河期のように採用先が 減少したことが原因で、または学校生活の中では働くための意識が出来上がっていなかっ たという理由で、そのレールを外れた者に対して再び元のレールに戻ることができる体制 を作る、あるいはフリーターの待遇改善によってフリーターでも暮らしていけるというよ うな、既存のレール以外の道筋を作ることができなければフリーター問題の解決にはなら ないと言える。雇用形態の変化が起こっている現状に対して、それに対応した制度の見直 しが急務なのではないだろうか。 内藤祥子 トランスジェンダーの性自認からみる「性の二元制」 トランスジェンダー(transgender,TG)と呼ばれる人びとの場合、身体の性と自分が女 性、男性のどちらに属しているかという認識が一致しない。この「自らが認識している性」 を「性自認(gender identity)」という。トランスジェンダーとは、みずからが認識してい る性と身体の性や社会的な立場が一致しないため、身体を医療的な手段を用いて変更した り、衣服やしぐさなどを変えたりすることで希望する性への移行を図る人びとである。近 年では法の改正などトランスジェンダーに関する理解も広まっているように思えるが、や はり「女」もしくは「男」のどちらかの性に同一化しようとする傾向が強い。なぜ、 「女/ 男」という枠の中にとらわれなければならないのか。 先行研究では、社会が「女/男」という二分化された性を基盤として成り立っているこ とが読み取れた。これらのことを踏まえ本論では、社会には性を二分化しなければ機能で きない制度、つまり「性の二元制」があるという仮説を立てる。先にも述べたようにトラ ンスジェンダーとはみずからの手で与えられたジェンダーを変更しようとするひとを意味 する。よってトランスジェンダーは二元的な性から開放されているはずだ。本論では『性 同一性障害 30 人のカミングアウト』(針間・相馬 2004)に掲載されている FTM15 人、 MTF14 人の当事者を中心に、その他の文献に掲載されている手記を参照しながらトラン スジェンダーがどのように性自認をとらえ、表現しているかを分析する。 自分の性に対する違和感、学校・就労の場、性的志向を表すカテゴリーの選択、 「性同一 性障害」という疾患名に対する認識、これらの点を中心に分析した結果、社会は「女/男」 という二元的な性、つまり「性の二元制」によって成り立っており、多くのトランスジェ ンダーもまた「女/男」という二分化された性にとらわれていることがわかった。さらに FTM、MTF ともに「女性嫌悪」の感情が表れていることも明らかになった。両者とも「男」 ではない性を否定しており、その否定される性が「女」であるということは、当事者が「女 /男」という二元的な性のあり方を前提としていると言える。 社会全体が性は二元的であるという認識を見直せばトランスジェンダーが性の違和感 を抱えることもないだろう。また、このようなジェンダーの認識の変化によって「性の二 元制」は社会の基盤ではなくなるはずだ。本論では明確な案を示すことができなかった。 しかし、現在地方自治体を中心に取り組まれている男女共同参画の活動をはじめ、就労の 場や学校でも性を「女/男」に単純化するのではなく、二分的な性にあてはまらない人びと がいることを前提として、その活動や組織のあり方を考え直す必要があることを主張した い。 〈主要参考文献〉 伊野真一,2006,「脱アイデンティティの政治」 上野千鶴子編『脱アイデンティティ』 勁 草書房,43-76. 佐倉智美,2006,『性同一性障害の社会学』現代書館. バトラー, ジュディス,竹村和子訳,1999,『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデ ンティティの攪乱』青土社. 針間克己・相馬佐江子,2004,『性同一性障害 30 人のカミングアウト』双葉社. 中越有美 エンターテインメントによる商店街の活性化について いま、全国各地で中心商店街の衰退が問題となっている。それは、郊外型大規模ショッ ピングセンターの乱立、消費者ニーズの多様化・個性化、モータリゼーションの進展、大 都市集中傾向と地方の人口空洞化、コンビニエンスストアや無店舗販売等の新業態の進展 といった、生活様式の変化が原因となっている。 このような状況のなかで、行政も「まちづくり三法」を制定して活性化を目指している。 しかし、このような法律が制定されてからも中心商店街の衰退には歯止めがかかっていな いのが現状である。では、どうすれば商店街を活性化することができるのだろうか。 先行研究では、これからの商店街は、行政や商店街の組合が中心となった取組みだけで はなく、市民が自主的に無理なく協力するような取組みが必要であるといわれている。ま た、魅力ある個店を充実させ、他の商店街にはない個性を見つけて伸ばしていく事も重要 であるといわれている。こういった点をふまえて、本稿ではエンターテインメントを提供 している店に注目した。その意義は 4 点ある。1 点目は、エンターテイメントを提供する 店を中心に起こる活性化は、関係する人が皆、自主的に活動するため、商店街組合と客の 意見が反してしまうようなことがないという点である。始めから活性化を目的とする活動 では、客と商店街の考えが食い違い、協力が得られないということがよくある。2 点目は 他の街との差異化ができるという点である。今回、調査した街は港町であるためにジャズ が盛んであったり、昭和初期までは劇場が並ぶ演劇の街であったりした。エンターテイン メントに注目することは、この街の個性に注目するということである。3 点目は「ハレの 場」を創出しているということである。郊外型大規模ショッピングセンターに勝るだけの 利便性を確保するのが難しい商店街が生き残るには、商店街ならではの魅力を作り出さな ければならない。消費者が商店街に求めるのは、単なる買い物施設ではなく、「ハレの場」 である。エンターテインメントを提供する店は、街に出てくる理由を作り、ふれあいの場 を作り出すのである。4 点目は、常設であるということである。これまで、活性化を目的 に全国各地の商店街で祭りやイベントが行われてきた。しかし、それで創出されるにぎわ いは、一時的なものであり定着しない。それに比べてエンターテインメントを提供する店 は、常設なのでにぎわいを定着させることができる。調査は、ジャズ喫茶(レストラン) やライブハウス、大衆演劇の劇場、画廊、地元のお笑い芸人が常駐しているカフェで行っ た。それぞれの店の客、出演者、経営者にインタビュー調査を行った。その結果、エンタ ーテインメントを提供している店を中心に濃い人間関係ができていることが分かった。店 の後援会を作って、定期的に客と出演者の交流会を行っていたり、店で出会った客どうし が意気投合し、町を活性化するための組織を作っていたりする。このように、エンターテ インメントを提供する店はにぎわいの創出、そして定着に一役買っているといえる。今後 はこのような店をどのように活用して、にぎわいを広げていくかが課題である。 中條良明 消費社会における主婦像 ―雑誌『オレンジページ』に見る家父長制の作用形態― 戦後日本社会は、高度経済成長やバブル経済の成立・崩壊にともなう経済構造の転換と ともに、流動的で複雑なポストモダン的な構造に変容していった。フランスの思想家 J.ボ ードリヤールは戦後の日本のように、資本主義経済が発達しポストモダン的な構造になっ た社会を「消費社会」と呼んだ。つまり上記のような社会変容は日本の「消費社会化」で あると言える。このような日本の消費社会化にともない女性のライフスタイルも、従来の 専業主婦だけでなくキャリアパーソンや主婦労働者など多様な形態を取るようになってい った。しかしその一方で、性別役割分業やジェンダー・バイアスなどの「構造的な女性差別」 =「家父長制」はいまだに根強い。しかしこのような家父長制は、女性のライフスタイル が多様になっているために「女性問題」として一般化するのが困難になっている。そして このような日本社会の状況は「主婦」というライフスタイルにおいて顕在化しやすいと考 えられる。本稿では主婦の価値観やライフスタイルを反映し、またそれらに影響を与えて いる雑誌『オレンジページ』を対象に、日本の消費社会化の大きな契機となったバブル経 済の成立・崩壊を通時的な軸にすえ、フェミニズム理論・ジェンダー論にもとづく「性別 役割分業」と「ジェンダー」、ボードリヤールの消費社会論にもとづく「差異化/個性化」 と「肉体の矯正」、そして「主婦イメージ」という枠組を用いて分析することによって、消 費社会における家父長制の作用形態を明らかにする。 分析の結果、資本主義経済にもとづいた消費社会化の進展によって、主婦は「労働者」 として労働市場に組み込まれ、「消費者」として差異化/個性化、肉体の矯正のモードにし たがい消費を行うようになる。これらの影響は「性別役割分業」や「ジェンダー」などの 家父長制のコードにしたがって作用している。つまり前者の文脈では「女性=再生産労働」 という性別役割分業と「母性」というジェンダーによって、 「パートタイム労働者」として 組み込まれることが正当化され、後者の文脈では「妻らしさ」や「母らしさ」などの性別 役割分業と 「美しさ」 や「若さ」、「女性らし さ」などの ジェンダー にしたがっ て差異化 / 個性化、肉体の矯正のモードが構成されている。そしてこれらの性別役割分業とジェンダ ー・バイアスは、消費社会化の影響によって「その人らしさ」や「個性」の問題に収斂さ れてしまう。このように消費社会における家父長制は、消費社会のシステムによって正当 化される。しかしその一方で、流動性が高い消費社会においては、家父長制が変革される 可能性は高いと考えられる。 <主要参考文献> Baudrillard, Jean, 1970, La Societe de consummation: ses mythes, ses structures , Gallimard. (=1995, 今村仁司・塚原史訳 『消費社会の神話と構造』, 普及版, 紀伊 国屋書店.) 中野沙耶 男性誌にみる身体への語りかけに関する考察 私たちはさまざまなマスメディアから、外見に関するメッセージを受け取っている。最 近では、そのメッセージは女性だけではなく男性に対しても多く投げかけられている。本 稿では、男性雑誌の身体への語りかけから、加藤まどかが論じているような異性の視線だ けではなく、同性や自分自身の視線についても注目し、男性が「見られる」存在としてど のように身体に気を使うように促しているのか、また自分で自分をコントロールする構造 についても考察した。 本稿では『BiDaN』、『Tarzan』、二誌を分析した。『BiDaN』で多くみられた語りかけ は身体を清潔に保つように促す語りかけである。そこには女性にモテるためだけではなく、 同性や自分の視線を意識した語りかけもみられた。身体を清潔にして他者との間に境界線 を引くことで、自分のアイデンティティを確認しようとしている姿が見られた。 『Tarzan』の語りかけからは、「自分らしさ」「個性」を自分の身体に求めていく姿や、 外見を気にする記事から第一印象が重要となっていることがわかる。また、エクササイズ やトレーニングをすることによって自分の思うように自分の体を変えることができるとい う語りかけから、体を変えることで内面がポジティブになり、自分で「何かを生み出すこ とができる」ことを証明しようとする姿が見られた。そして、社会から要請される自己管 理は自分の願望であるように思わされている。現代社会では、 「太っているのは自分が怠惰 だからだ」と、太っている原因を自分の内面に帰すような「心理主義化」が起こっており、 やせるように促す社会コントロールが隠蔽されている。そして、男性に対してやせている だけではなく、適度な筋肉、機能的な身体であることを求めている語りかけが見られる。 その自己コントロールは男性に強く求められているといえるのではないか。だが、自己コ ントロールが厳格になると、達成できなかったときに自己評価を下げる要因となる。 男性がやせていて筋肉のついた、機能的なカラダになることは「今とは違った自分」に なれて自己評価を上げることもあるが、理想の身体というものはなかなか手に入るもので はない。手に入ったとしても、理想の身体は時代や流行とともに変わっていくものであり、 何度も理想の自己イメージを流行に合わせて変えなくてはいけなくなる。女性に多く見ら れていたアイデンティティの危機は、男性の自己コントロールが厳しくなることで無関係 とは言えなくなるのではないだろうか。 <主要参考文献> 加藤まどか 1995 「「きれいな体」の快楽」井上俊、上野千鶴子、大澤真幸、見田宗介、 吉見俊哉編『ジェンダーの社会学』岩波書店 石井政之・石田かおり 森真一 2000 2005 『「見た目」依存の時代』原書房 『自己コントロールの檻』講談社 野口 悠 農村女性の自立に関する考察―直売を行う女性の事例研究を通して― 農村女性は家事労働と農業労働の二重負担という過酷な状況におかれているにもかか わらず、男性や姑の指揮・指導の下に働く「働き手」に過ぎず、その働きに対する評価はあま りにも低いものだった。農業に占める女性労働の重要性が高まってきた今日になってよう やく、家族経営協定等の農村女性の労働を支援する様々な施策が整備され始めており、農 外就労での労働に対する評価基準を農業労働や家事労働にも適用することで、その無償制 は改善されつつある。これを背景に農村女性による女性起業の一つである直売が近年盛ん になっている。本稿では直売に参加する農村女性の自立の要件を、直売の収入による労働 評価、客や仲間とのコミュニケーションによる意思形成、直売の品目の決定による意思決 定と売上への責任(経営と労働の一致)、家事労働と生産労働の時間配分の決定、性別役割 分業の乗り越え、と仮定する。山形県山形市の七日町商店街で行われる「ほっとなる金曜 市」の参加者 5 人にインタビュー調査を実施し、その事例から、農村女性の自立を検討す る。 本稿の調査では女性が直売に参加し生産労働の負担が増えたにもかかわらず、家事労働 はすべて女性の家族員が担っており、男性家族員のサポートはすべて生産労働におけるも のであることから直売の規模は性別役割分業により規定されている。一方で労働時間の配 分を自己決定し、農業労働と家事労働と直売をこなしていることをむしろ誇りに思い自己 評価基準のひとつとしており、また、直売を「子供のため」という言葉で自他に正当化し ていることからも、性別役割分業規範を内面化している女性が、その役割規範をうまく利 用して自立化していく可能性が読み取れる。このように現時点では役割規範が女性の自立 を阻害すると同時に促進している点から、本稿では、女性を家事労働の面から評価すること は、あくまでも女性の地位を向上させる戦略としてとられるべきであり、将来的には性別役 割分業規範を乗り越えて女性の活躍の場が提示されるべきであると考える。 また、すべての参加者が直売での販売品目の作付けの決定に参加しており、売上への責 任を負うという経営と労働の一致は達成されている。直売ではこうした現金収入に加えて、 客からの反応、家計への貢献などにより自分の労働や能力が逐一評価され、現状を確認す ることで自信の獲得や自己肯定感の強調が行われたり、仲間との関係の中から新たな目標 の設定が継続的に行われたりする。こうした直売での経験は女性の意思形成に寄与する。 直売の収入は、経済的自立を通した精神的自立として理解できる「女性個人の働きに対 する評価」であると同時に、経済的自立を通した社会的自立として理解できる「直売を家 計に貢献する仕事の一つとして認める評価」でもある。直売の収入は「家族のために使う」 ことから、対象者は現金収入を得ることで「家計に貢献し家族の役に立つ」ことを直売の 目的としており、それに加えて年配の対象者は「自己の労働に対する評価」も求めている。 年齢を重ねることで、農業の基幹労働力、家事の基幹労働力、子育て、といった家族内役割分 担を退くほど、直売での積極的な活動が可能になり、それによって外部から評価を得る機会 にもより恵まれるようになる。 このように農村女性の自立には、ライフコースにおける継続性が重要となっている。直 売への参加を通して、自分の人生や労働について外部から断続的に評価を得ることで、自己 肯定感や自信を高める。しかしこうした女性の自立も、農政の矛盾した変化により農家の 経営が継続性を失うと同時に、農業者の就労形態や労働の内容も継続性を失うことで脅か されるものである。また、農村女性の自立の形態は個々の女性のパーソナリティによっても 大きく変化する。直売のように目立った活動を精力的に行う活発な女性だけを自立した女 性像として賞賛することは、かえって女性の自立を阻むことになりかねない。したがって、 農村女性の自立に対する評価基準や自立の形態が多様性を持つものであることを忘れては ならない。 堀内未来 現代社会における若者の恋愛意識に関する考察 現代の若者にとって、今日、 「恋愛」は大きな関心事のひとつになっているだろう。社会 では、恋愛をテーマとしたテレビドラマがもてはやされていたり、雑誌などの「恋愛マニ ュアル」が溢れている。しかし、これまで恋愛が社会科学の対象とされることは少なかっ た。本稿では、大学生の恋愛意識に関する研究や、若者向け雑誌における恋愛に関する言 説に関する研究を取り上げるとともに、社会人向けと思われる雑誌における、20〜30 代の 若者における恋愛意識の考察を試みた。なお、ここで扱う恋愛は、ヘテロセクシュアルの ものだけになっている。 まず、現代若者の恋愛意識として特徴的なものは、愛情を強調し、それを美化して考え るとともに「相互の向上」 「自己の成長」が期待できる恋愛を理想としている、という点で ある。また、自由な関係、自然な関係を理想としている人も多い。異性の友人が「いる」 学生は 9 割以上、そのうち約半数弱の人は「恋人以外でデートする異性がいる」としてい たり(山田、1991)、6 割の学生が「友達以上恋人未満」の関係がありうるとしている(石 川、1994)が、一方で、約 8 割の人が親しい異性の友人と恋人とを区別し、3/4 の人が 恋人と異性の友人の付き合い方には差があるとしている(山田、1991)という。 若者向けの雑誌における恋愛に関する研究は、谷本奈穂(1998)が行っている。1992 〜1994 年に出版され、対象年齢が 15〜25 歳の雑誌(男性誌、女性誌とも 3 誌ずつ、計 69 冊)における恋愛記事の特徴として谷本は、「近代的『恋愛の』衰退」と「現代的『恋 愛』の誕生」という 2 点を挙げている。また、このような物語を生み出し、受け入れる読 者(若者)の心性の特徴として、①結果よりプロセスを大事にする、②仲間内でシェルタ ーの中に閉じこもる、③不確定で曖昧な態度を志向し、結末を先送りにする、という 3 点 を指摘している。 それでは、20〜30 代向けの雑誌では、恋愛はどのように描かれているのだろうか。分析 対象雑誌は、2001〜2005 年出版分の朝日新聞社『AERA』である。ここで描かれている恋 愛記事は、ほとんどが未婚の女性に対する記事であった。また、2004 年、2005 年の流行と して、 「セカチュ―」 「負け犬」 「電車男」などがあったが、これらに関連して描かれた記事 が多く、年別に見ると、2005 年における恋愛記事が最も多かった。 【引用文献】 石川英夫、1994「大学生の恋愛観」 『東京経済大学人文自然科学論集(通号 98)』pp.53-79 谷本菜穂、1998「現代的恋愛の諸相―雑誌の言説における社会的物語―」『社会学評論 49 (2)』pp.286-301 山田昌弘、1991「現代大学生の恋愛意識―『恋愛』概念の主観的定義をめぐって―」『昭 和大学教養部紀要 22』pp.29-39 水吉直美 教師のバーンアウトに関する社会学的分析 ―教育雑誌における教師像の変化に着目して― 学校教師の病気休職者が年々増加しており、その中でも精神性疾患による休職者の割合 が増加し、その割合は近年急増している。これらの心の健康を損なっている教師は、バー ンアウトという燃え尽きの症状にあるという。バーンアウトの要因としては、教育方針や 教育観などの信念の葛藤や混乱や、教師のアイデンティティを支える機能を果たしてきた 自己犠牲的・献身的教師像が崩壊しつつあることなどを、先行研究として検討した。そこ で本稿では、近年の教育改革にともなう制度の変化により、教師が振り回されているので はないかという仮説を立て、教育雑誌を用いて分析をおこなった。 国土社の『教育』を対象とし、教師自身が理想とする教師像の変化と、教育改革により 求められる教師像が変化していることに戸惑う教師の声を分析し、さらに久冨(2003)が推 測していた、教師のバーンアウトの減少の背景として考えられる教師同士の寛容的な新た な雰囲気が実際に存在しているのかについても、分析を試みた。 教師自身の理想とする教師像は、1990 年代後半以降「児童生徒の荒れやわがままなど、 あるがままを受け止める教師像」から、 「児童生徒と共に悩み、教師自身の言葉で将来や希 望を語る生きいきとした教師像」と変化し、現実とはかけ離れた理想像を教師自身が抱い ていることが読み取れた。これには社会全体に拡がりをみせる心理主義化の影響を教師も 受け、高度な理想像とうまくいかない現実との格差や葛藤で、教師は追い詰められている と考えられた。 教育改革による変化に戸惑う声は、新学習指導要領が完全実施される 2002 年以降に急 増する。多忙がますます悪化したという声や、同僚教師との職場での会話の中にも、休職 や退職を話すことが増えたことを危惧する声も聞かれた。その中でも最も戸惑う声が多く 聞かれたのが、新学力観や生きる力に関するものであった。現場教師の声から、現場では 児童生徒のことを思い、自分の信念や教育観と異なることを行政や学校の管理職から求め られても、最大限の努力でなんとか対応している様子が伺えた。しかしその一方で教育改 革により行政の方針が、生きる力の育成から学力低下論争、そして学力向上というように 頻繁に変更されることで教師は疲弊し、また失望感を抱き、振り回されていると考えられ る。 教師同士の寛容的な雰囲気については、教師も 1 人で悩まずに、失敗や愚痴、弱音も吐 けるような関係を築くべきだという声が 2000 年代から聞かれた。このような雰囲気は 90 年代の急激な改革の準備に追われ、忘れられていたのではないかと考えられた。これは精 神的な疲労で休職している同僚教師や現職死した人の話を聞くなどして、バーンアウトや 精神性疾患を身近に感じるようになり、教師側からのバーンアウト予防策・改善策の現れ ということができ、希望のもてる動きである。 〈主要参考文献〉 久冨善之 2003「日本の教師―今日の『教育改革』下の教師および教員文化」『一橋大学 研究年報 社会学研究』第 41 集 pp.137-187 宗像恒次・稲岡文昭・川野雅資・高橋徹 メンタル・ヘルス』金剛出版 1988『燃えつき症候群:医師・看護婦・教師の 宮下景子 ファッション雑誌にみる現代の女性像 ―女性が性的規範を受け入れるメカニズム― 女性雑誌は、人びとの社会意識や世間が反応するマスコミのひとつであり(井上 1989)、 男性中心社会において女性たちに対して「美しさ」 「かわいさ」 「セクシーさ」といった「女 性らしさ」を要求する役割を担っている。女性たちは、これらを男性側の一方的な要求と いうわけではなく、能動的な理由からも受け入れているのではないだろうか。そこで本稿 では、女性ファッション誌『spring』 (2006 年 1 月号〜12 月号)を調査対象とし、女性た ちが男性中心社会における性的規範を実際に受け入れるメカニズムを明らかにしようとド キュメント分析を行った。 本稿の調査を通して、以下のような、私たちが消費システムの中に組み込まれていく状 況が浮かび上がってきた。女性ファッション雑誌における「理想のおしゃれな女性」像の 提示は、大衆消費社会においての自己表現、自己実現欲求、思い通りにはいかない現代社 会のなかでの自己変革欲求、そして「成功したい」 「幸せになりたい」という女性たちの欲 求を作り出し肥大化させている。それらはまた女性たちに、自身に対する不満足感と、他 者への羨望と競争心を半永久的に与え続けている。欲求が絶えず再生産されている現代社 会において、たとえ最初の目的が達成されたとしても、また新たな目標が生み出されるよ うに作用しているということである。 女性たちは、「ミクロな権力」によって導かれる「主体性」を持って、自ら「おしゃれ になる」ことを選択する。「ミクロな権力」とは、「人々の意識下において機能し、社会の 中の主体を構築していく役割を果たすもの」(中山 2004)であって、「社会がみずからの 身体を維持し、運営するために必要とした<生の権力>である」(中山 2004)。また、 「ミ クロな権力」は、資本主義の発達には必要不可欠な要因であり、現在の資本主義の日本社 会において大変重要な役割を果たしていることは、間違いないだろう。 これには、確かに悪い面が多く存在しているが、ここに働く「ミクロな権力」が持つ良 い面にも目を向ける必要があるだろう。私たちの生活に浸透している「ミクロな権力」の 「両義性」を問うことは、多数派=「普通」であろうとする私たちの「自発性」や「主体 性」を問うことである。それはつまり、私たち自身を問うということになるのではないだ ろうか。 <主要参考文献> 井上輝子+女性雑誌研究会 米・メキシコ比較研究』 中山元 2004 1989 『女性雑誌を解読する COMPAREPOLITAN−日・ 垣内出版 『はじめて読むフーコー』 洋泉社新書 村越有香里 地域社会におけるソーシャル・ガバナンスを可能にするような 諸要因の分析―――横手と岩崎の比較を通して ソーシャル・ガバナンスとは、 「社会に共存する様々なアクター(担い手)が、相互の協 調と協力によって社会秩序を保ち公益を実現する社会運営の仕組み」 ( 日本国際交流センタ ー1998『ガバナンスの課題』)である。日本においては、かつての国家・政府の単独統治 機構は、その機能不全や失敗により崩れ、ソーシャル・ガバナンスの方向へ近づいてきた。 また、地方分権一括法が 2000 年に施行され、分権の担い手として住民の組織も注目され ている。つまり現在においては、コミュニティを、ソーシャル・ガバナンスの担い手、分 権の担い手として、強化していく必要がある。しかし、1970 年頃からのコミュニティ施策 に関する研究では、地方の地域社会のそれに関する研究が不十分であった。そこで、秋田 県湯沢市岩崎地区、秋田県横手市を調査対象地とし、数名にインタビュー調査を行った。 岩崎地区では、1970 年頃に「住民会議」という町内会や諸団体の代表で構成される組織 を、住民自らで組織し、様々な地域のための活動を行ってきており、現在では、この地縁 を基礎とした組織が NPO とも協働し地域づくりを行っている。一方、秋田県横手市にお いては、1971〜1991 年の間市長であった千田氏は様々な市民参加の施策を行ってきたが、 市民の間にそれはあまり浸透しなかったようである。岩崎のコミュニティ形成・活動と、 横手のそれとを比較し、岩崎においてコミュニティ形成・活動がうまくいっていた要因と して、①住民の声をまとめることのできる住民組織の存在により、住民が主体的に組織を つくることができた、②実践を通して組織づくり、問題認識、問題解決の方法を学び、徐々 に大きな問題に対処していった、③住民組織の事務局を、市役所の職員が、職員としての 知識・技術を大いに生かし、地域住民の一人として担っていた、④誰でも参加ができる「対 話の場」が多くあった、⑤住民組織と行政組織が別々に存在し、共通の課題に対しては解 決に向かい共に活動している、ということをあげた。また、これまでのコミュニティ論で いわれてきたコミュニティやその施策の問題点との相違点としては、①2 つの調査対象地 においては、コミュニティづくりが唱えられた始まりは、一般的にいわれているような、 地域の共同体的連帯感が崩壊・喪失し、伝統的コミュニティが崩壊した、地域内での問題 解決ができなくなった、というものではなかった、②情報提供を行政だけではなく、住民 組織自らも他の住民組織に対して行う必要がある、ということなどをあげた。 以上のような調査結果の分析により、ソーシャル・ガバナンスを可能にする諸要因とし て、①小さな常設の話し合いの場と住民運営の事務局の存在、②まずは小さな共助的意識 から育てること、をあげた。まずは小さな問題に興味をもつ、小さな課題を解決する、小 さな仕事をする、小さな範囲で活動する。そのような実践を通して学んだり、共助的意識 を育んだりしていく。コミュニティも、ソーシャル・ガバナンスも、長い時間をかけ、少 しずつ育んでいくものである。 山田 慧 司法過程におけるジェンダーバイアスについての考察 ――ドメスティック・バイオレンスの事例を通して―― 本論文は、司法過程におけるジェンダーバイアス 注 ) について、ドメスティック・バイオ レンス(以下、DV)という親密な間柄における暴力が関わる判例と、実際に DV などの問 題で判決を得るまでのプロセスに携わっている人々の話に焦点をあて考察することを目的 としたものである。DV とは、夫婦間、元夫、元妻といった親密な間柄で起こる暴力の問 題である。特にジェンダーバイアスに基づく言動が多く認められたのが家族紛争の場であ ることをふまえ、分析の対象を、その一つである DV という親密な関係におこる暴力に限 定することにより、親密な関係が孕む危険性が明らかになってくると考える。 判例分析では、2001 年から 2006 年までの間の判例で、TKC 法律情報データベースに 収録されている判例、最高裁判所 HP で公開されている判例、 『家庭裁判所月報』、 『判例タ イムズ』、『判例時報』に掲載されている判例の中で、DV をめぐる 7 つの判決を分析対象 とした。インタビュー調査では、DV 被害者等の司法支援を行っている NPO スタッフの方 にインタビューを行った。それには、実際にスタッフが司法関係者から発せられたことば と、DV 被害者である相談者から聞いたものとが含まれる。先行研究での、法的言説にお いては、DV を、他の攻撃ほど深刻でもなく危険性も低いとみなす傾向があるという指摘 や、親密な関係における暴力を軽視してきたという研究をふまえ分析を進めた。 分析の結果、先行研究でも指摘されていた通り、DV を他の攻撃ほど深刻でもなく危険 性も低いとみなす傾向があることがわかった。判例分析では、暴力の原因は妻の不貞行為 であるなど、妻にも責任を求める結果となっていた。これはインタビューにおいても同様 で、裁判に行きつくまでの司法過程においても、被害者を責める言動がなされていること がわかる。暴力を正当化しないにしろ、妻にも責任を求めることで、夫の暴力を理解可能 な行動としている。このように妻にとってのみ危険とする記述は、DV を軽視する方向に 働くものではないだろうか。 親密な関係における暴力が語られるとき二つの場合があるように思う。一つは夫と妻の 関係が対等であるという前提に立っている場合、もう一つは親密な関係において夫から妻 へ向けられる暴力は理解可能な行動となる場合である。夫婦間においては少しの暴力は伴 うものという認識、それが多くの場合女性に向けられているのにも関わらず、いざ問題が 明らかになると、あたかも力関係が対等であるかのように語られている。そして、二つの 場合はどちらも、女性に不利益を与えるものとなっている。つまり、このような語られ方 をする「親密な関係」自体が一種のジェンダーバイアスとなっているのではないだろうか。 「親密な関係」には「家族」という要因が作用しており、司法過程においては、司法関係 者によってその要因が強調され、その中で起こる問題を見えづらくしているのである。 注)本論文では、 「『司法過程』という社会規範上公正かつ客観的に判断・計測・評価されるべき事象が、 ジェンダーに基づく評価基準や価値観などの混入によって、人に不利益を与えるやり方」と定義する。 吉竹奈緒美 地域社会に開かれた学校づくりについての考察 ―聖籠町立聖籠中学校の取り組み― 人間の成長・発達といった、社会的な作用、教育を中心的に担う家庭・学校が、人間の 共同生活の場としての「地域社会」と関連していくことの必要性はますます叫ばれてきて いる。本論文は、地域社会と連携した学校、聖籠中学校を調査対象とし、開かれた学校づ くりのプロセスや実際にどのような問題点があるのかについて考察する。そのために、学 校の町民ホームベースという部屋に常駐し、活動している地域の方々「どんぐりたい」に 注目し、 「どんぐりたい」の活動を中心に「どんぐりたい Jr」の生徒(「どんぐりたい」と 共に菜園作りやお菓子づくりなど様々な活動をする集まり) ・教師との関係について観察し、 インタビュー・アンケート調査を通して考察した。 「みらいのたね Jr」に入っている生徒は、他の生徒に比べ町民の方と触れ合う機会が圧 倒的に多い。町民の方と触れ合いは、 「教育」とまではいわなくとも町民の方と「様々な性 質の社会的相互作用」(住田 2001: 38)を行っているように思われる。その他者との対面 的状況において、子どもは「他人に対する理解力や共感性を培い、他人に対しての配慮能 力を形成していくのである」(住田 2001: 39)。 また、〔聖籠中学校では、他校に比べて生徒の逸脱行動、登校拒否、いじめなどの問題 行動はどうか〕という質問に対し、多いと答えた方半数以上であった。理由には、 〔自己中 心的な考えである〕、 〔開放的な校舎なために、精神面で差が出てきているのかもしれない〕 という声があった。地域の人々が常に学校に居るからといって、生徒の問題行動が少なく なることはないようである。その対策として、町民と教師が協力して問題行動に取り組ん でいく必要がある。 先生方を対象に町民ホームベースにくる頻度をアンケートしたところ、半数の先生がほ とんど訪れないと回答したが、訪れない方も「どんぐりたい」を高く評価していることが アンケート結果から分かった。 「どんぐりたい」の利点として〔地域の方と一緒に学校を作 っているという雰囲気があり過ごしやすい〕、〔顔を出せば受け入れてもらえる〕という声 があった。これらから生徒だけでなく先生方も「どんぐりたい」がいることで安心できて いるといった一面がうかがえる。 さらに、聖籠中学校は町民の生涯学習の場としての役割を果たしている。「どんぐりた い」の方から〔出会いによって人は磨かれていくことを実感している〕、 〔社交的になった〕 という声があった。 「どんぐりたい」の方は、人間同士の繋がりによって管理人としてのや り甲斐や生甲斐を得ている。 聖籠中学校の問題点として、先生方との関係性が開校時より薄れてきていることがある。 背景には、開校6年目を迎え、開校時と先生方が入れ替わったために、 「どんぐりたい」と どのように接していいか分からないといった事実があるようである。 また広田は、「地域ぐるみ」、「学校ぐるみ」の運動は、過剰な同調システムを呼び込みか ねない、といった問題を指摘している(広田 2003: 124)。聖籠中学校では、どのように生 徒に接するべきか、といった答えが1つではない問題点に関してはケースごとに話し合い で対応し、多様性を尊重しようと努めている。 鈴木愛 高齢者福祉施設におけるレクリエーション −デイサービスセンター職員のレクリエーション認識の視点から− 社会的役割を終えた高齢者にとって、余暇をどう過ごしていくかを考えることが近年重 要になってきた。高齢者福祉施設では、高齢者の余暇の充実のためにレクリエーション活 動が取り入れられている。 「みんなで一緒にする」 「ゲーム・歌・ダンス」と認識されてきた レクリエーションの考え方は健常者に適用できても、高齢者・障害者、特に痴呆・寝たき りの人に適用するのは困難である。垣内はこれらの人を含め、社会福祉領域内でのレクリ エーションを「生活を楽しく、明るく、快くするための一切の行為である。行為とは単に 四肢のみの行為ではなく、視覚、聴覚、嗅覚、触覚などに関する一切の行為を含む」と定 義した[垣内 1997:17]。また、これを満たす行為を「日常のレクリエーション」と呼んだ。 一般的にレクリエーションは具体的な一つの行為を指すと考えられていたが、垣内の概念 が研究者内で一般的な概念になると、研究者は「日常のレクリエーション」の視点でレク リエーションの研究をするようになった。しかし、それらの研究には活動内容は詳細に書 かれているものの、職員のレクリエーション観に全く触れていないため、職員がどのよう な認識の下、活動を行っていたかは定かではない。垣内のレクリエーション概念と、職員 のレクリエーション活動とでは、認識の仕方に違いがあると考えられる。そこで、山形県 のある老人デイサービスセンター(N施設)において、施設で行われているレクリエーシ ョンの現状を把握しながら、職員はどのようなレクリエーション認識の下、活動を行って いるかを検討することとした。 垣内は快となる行為全般をレクリエーションと呼ぶのに対し、N施設職員は 14 時から 施設内で行われる活動のみをレクリエーション、さらにはこの行為をレクと呼んで認識し ていた。職員はレクを施設に必要な業務の一つであると考えるも、メインの業務とは認識 しておらず、むしろ入浴介助、利用者とのコミュニケーション等に力を入れていた。これ らの行為は利用者への生活の快の提供のために行われる業務として取り組み、レクとは全 く異なる活動として職員は認識していた。職員は利用者に快適に過ごしてもらおうと考え ながら活動していることから、職員が行っている活動は「日常のレクリエーション」と化 していると言える。 これらのことから、職員のレクリエーション認識とは、垣内のレクリエーション概念と 認識の仕方が異なると言える。しかし、実際に職員が行っているレクリエーションはレク を含め、垣内のレクリエーション概念に該当するものであり、職員は垣内のレクリエーシ ョン概念を知らないまま、無意識のうちに利用者に「日常のレクリエーション」を提供し ていたのである。研究者にとって垣内の概念は一般的なものとして扱われているかもしれ ないが、N施設には未だ定着していない概念だと言える。 【引用文献】 垣内芳子・大場敏治・薗田碩哉 1997『改訂 レクリエーション指導法』東京: 建帛社. 谷 潮博 マンガにおける文体 ――『ハチミツとクローバー』の記号論的分析を通して文体を語る―― 近年の日本における出版市場は 1950 年代から上昇を続けていたものの、1996 年をピー クに下降傾向である。しかしこのような出版市場全体の下降傾向に反し、2005 年に過去最 高の推定販売部数を記録したのがコミックスのジャンルである。出版物に全体におけるコ ミックス・コミック誌の割合も 1995 年から 2005 年の間まで、推定販売金額と推定販売部 数ともに安定した占有率を示しており、さらにコミックスだけを取り上げると緩やかな上 昇傾向である。 このようなマンガの市場における成功は、時代背景や流通体制、編集者の強力なバック アップといった外部的要因によって語られるか、 「ストーリーが面白い」、 「絵が良い」など といった曖昧な言葉によって説明されてきた。しかし、外部的要因だけを取り上げるのは 一面的である。そこで本研究は、大衆文化であるために軽視され、自明視されがちなマン ガの内部的要因を、文体という概念を用いて改めて明らかにすることで、より全体的な観 点からマンガの成功を説明する可能性の提示を試みた。 具体的に市場での成功作『ハチミツとクローバー』(2002~2006)を記号論的に分析し た結果、動的な場面ではディフォルメされた身体記号や騒がしいオノマトペを用いて、徹 底的に賑やかさを醸し出しているのに対して、静的な場面では眼球や頬の丸みまでも描き 出し、何段階にも渡る細かな陰影をつけて人物の内面描写さえも行ない、不要な記号を排 除することで静寂を形成するという表現の揺れや、背景に人物のコマを重ねるといった画 面全体の雰囲気による伝達が本作の文体であるという結論に達した。 これまで主にメディアミックスや少女マンガブームなどの外部的要因で説明されてきた 本作の分析を通して、本研究は成功作の内部的要因を分析する1例を提示する。また、マ ンガの記号論的分析に関する四方田犬彦(1999)の先行研究をタイピングされた文字やト ーンといった視点を加えて検証、補完を行なった。そして、内部的要因は市場での成功を 即座に説明するものではないが1つの作品を総合的に語る上で必要であり、可能性として 考慮されるべきものであるという結論に達した。 <主要文献・資料> 四方田犬彦 1999 羽海野チカ 2002~2006 『漫画原論』 ちくま学芸文庫 『ハチミツとクローバー』 全 10 巻 集英社
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