小劇場運動全史 (wada-no-MacBook-Air 上の問題の

 自由の原像をおって
第一章 「遊び人」たちの初発の原基へ
「小劇場の旗手」たちの尊大な退廃ぶり
かつて「小劇場・アングラ」を撰摸した群盗たちも遂に頻死の玉座に鎮座まし
まし てしまった! しかしこの〝ふりだし が危機的・退廃的である証拠に
は、新劇を侵犯したかつての「アングラ」に対応する新たな盗賊が未だ蜂火を
上げぬということ。壮大なる(空白期)として現前している過渡期に臨み、小
劇場演劇総体の再異化を画し、本紙では菅孝行「続・解体する演劇」にひきつ
づき、演出家瓜生良介氏による連載「記録・発見の会l小劇場運動前史」を開始
します。乞ご期待。 「日本読書新聞」編集部 一九八一年二月十六日付より
気の重い私の、にえきらぬ返事に業をにやした編集部の一言で、この企画はやっと
スタートすることになった。
「いくら考えたって、やってみなくちゃ何も出てきませんよ」
そうだ。ヘタの考え休むに似たりだ。いままでだって「発見の会」の芝居は、用意
万端ととのえてやったためしなどありはしない。いつも出たとこ勝負の、いいかげん
泥縄でやってきたじゃないか。
治療室や、健康講座や、寝たきり老人ホームでの仕事や、芝居の演出やなにやかや
の合間を縫ってやれるところまでやってみよう。でもいまなぜ「発見の会」の軌跡が
問題なのだろうか。
表現主体の身分制
「肉体言語」十号と「新日本文学」一九八〇年九月号に、「発見の会」史についての
概説を書かせてもらったが、本紙連載にあたってそれらをまとめて三回にわけて、さ
しあたって私なりの考えを出しておきたいと思う。あとはもう忠実なドキュメントに
徹するつもりだ。六〇年代後半の演劇運動の原資料のひとつにはなることだろう。
「日本読書新聞」連載の菅孝行の「続・解体する演劇」が終了したあとの総括編(二
〇七三号七面「『続・解体する演劇』を読む」本書230貢参照)でも私はいっている
が、六〇年代後半の「小劇場運動」が菅さんたちがいうほどに新しい内実を伴ってい
たのだろうかという想いは近頃ますます強い。「小劇場の旗手」たちの尊大な頽廃ぶ
りは、嘔吐をもよおすほど醜悪だ。 たしかに衝撃的な身ぶりや政治的状況につき動かされての切迫した疾走はあった
し、言語(テキスト)を絶対的規範とした「近代劇」の構造が必然的に引き起こし
た、作者から演出者から役者へと、上から下へと貫通していくイメージの「身分制」
はある程度破壊したといってもいい。
また、創るものから観るものへと恥しげもなく押しつけられていく、演劇屋の教養
番組は少しは色あせたのかもしれない。
だが、あの頃もいまも、演劇表現にかかわるきわめて重大な課題、つまり、表現主
体の身分制の破壊はついに手つかずのまま放置され、ことの重大さの認識すら不十分
きわまる現状だ。
かつて私を襲ったこうした現状へのやりきれなさゆえに、演劇的言語にのみ集中す
る状態から逃げだして、超越的快楽というか、表現全般や、医療や農・食(味覚)と
いつた茫漠たる領域(フィールド)にただよつている私(私たち) の変遷のプロセ
スを、もういちど初発の原基へ向つて辿り返してみるのもひとつの必然だろうか。
表現主体(集団)の身分制の破壊とは、イメージの共同性や、新しい演劇的言語
を、観客とともにつくりだしていく演劇的「場」の自由な関係性そのものの生成とで
もいうしかない。自由な関係性の根源に、他者性そのものをつねにおいて考えてみる
ことだろう。
人々を楽しませること、人々を快楽の場へといざなうことに、自らの物狂いの「核
音」注1のバイブレーションを感じうる一群の者を芸能(わざおぎ)人というならば、
そして「わざおぎ」のゆきかう眼差しのうちに、自由の極北としての幻想の現世が、
立ち現われるべきだとしたら、まずはこの一群のうちに、もっとも自在な他者性の発
露がなければなるまい。
自由対等な一群がかけぬける時空に「芸能」の始源の場があるとすれば、それは徹
底したお互いの生へのやさしさや寛容さを基底にした、透徹した知と直観を働かせて
自らと他者との差異を見つめ、そのくいちがいにこそ共同性の原動力があることを、
そこに組織の根源があることを自覚した恐るべき技芸の集団の策動であるはずだ。
このような可能性を秘めた集団が、果してかつてもいまも、どこかに密やかにでも
存在しつづけているのだろうか。
「自由なる組織」へ
技芸とは、たんに演劇的身ぶりや華やかな口舌の技術ではない。それは他者に至る
的構成力であり、他者の想いを自らの胸奥にキャッチするひとつのバネ(他者性への
跳躍台)である。
それは、血縁や性愛を越えて存在する、人間の、もつとも結合力の高い関係性の現
場を形成しうる、触媒的役割を果すものだろう。
こうした内実を伴った表現主体(集団) はまた、自らのいざなった快楽の場へ居
合せてくれる人々 (観客)との関係性の自由さへと突き進み、他者へと至るゆきつ
くはてのない無限の道路行為を、嬉々として遊びたわむれることだろう。この遊びた
わむれるプロセスをひとまず表現と呼ぶしかないのは当然のことだ。
この自由な集団には、構成員の個々を規制して、年のせいやカンのせいで分断統治
する必要性はなく、お互いそれぞれが、世界と向い合う世界への志向性(趣味や好み
といってもいいが)、この個々の志向性を絶対的に保証しながら、これらのくいちが
いの総体こそが、一挙に快楽の場を現出させるエネルギーの根源なのだということ
を、骨身にしみて知っているにちがいない。
ここにあるのは「身分制」や「差別」の構造を無意識におおいかくす、べたべたと
した陰湿な仲間意識でなく、お互いの生きてある現在を絶対的に尊重し、相互扶助の
極北にうかがわれる、自らの生死を共同のゆきかいの場へさし出す、醒めきった洞察
に慕うちされた躍動する「生の環結合体」である。
「自由なる組織が自由なる表現を生み出す」という危うい思いこみを唯一の基軸と
して展開されてきた「発見の会」の十七年間の軌跡は、内実はボロボロな崩壊過程を
つねに辿りつづけていたとはいえ、いままでに述べてきたような「自由なる組織」へ
の夢想は、一瞬とも中断したことはないはずだ。
もっと辿れば、「人民のための演劇」とか「社会主義リアリズム」などという、ひ
からびた教養番組に血道を上げてきたかにみえる「舞芸座」注2 の内部に芽をふき出
して二十数年、いくどかの変容の必然を契機にして、今や演劇を越えて、人々の生の
原基へ、人々の表現(殺意) のダイナモへと、極端な振幅の幅をふりきってきた一
群の「遊び人」の夢想の歴史である。
注1 山下洋輔の「ブルーノートの研究」(『風雲ジャズ帖』音楽の友社、本書214貢
参照)で教わった。私の独断的解釈では、民族音楽の、生活に寄着して湧き起こっ
てくる、音のひろがりをつくり出すタタキ台になるもの。雨や雪の結晶の中核にな
る大空の浮遊塵のように、多元的な音の流れをっくり出す、自在に浮遊するゴミ的
存在の音群とでもいおうか。「発見の会」のメンバーである、ジャズギターリスト
の長谷川健は、次のような概説をまとめてくれた。
『日本を含む世界の多くの諸民族の音楽において、旋律の中で主音や終止音として
の機能をもつぱかりでなく旋律の中核にになる音程の安定した音のこと。旋律とし
て他の音を支配し、引き寄せる力をもっている……』とのべている。また山下洋輔
氏の『ブルーノートの研究』の中でも重要な概念として使われている。とくにひと
つの調性には、ひとっの主音(自我)が決まっている西欧的見地ではなく、ひとつ
音を中核にしたグループ(テトラコード不安定な音程)がいくつかできる可能性
があってそういう場をフワリと動くことができるような、柔らかな構造を可能に
する概念だともいえる」
注2
本書44頁∼68貫参照。一九五五年創立。一九六四年「発見の会」へと発展的解消
をする。
「場としての演劇」小思考原理
自由なる組織は自由なる表現を生み出す
私たちはしきりに「場としての演劇」ということをいってきた。「自由なる組織が
自由なる表現を生み出す」という危うい思いこみは、人々との自在な関係性の現場を
形成する演劇的構造を求めて、ひとまず「場としての演劇」ということばにいきつい
たようだ。
いまや演劇を越えて、表現・医・食(味覚)のトライアングルの領域に、人々の楽
しみが包摂されているはずだという独断(ドグマ)的教義にもとづいた、もっと多元
的な快楽の現場づくりをもくろんでいる私だが、「場としての演劇」という考えはな
かなか捨てがたい魅力がある。
演劇という古くさい関係性は、しばしば、耐えがたい集団的強制や服従差別をつく
り出してくるが、場合によっては、人々の自由な連環を多層化していく、いくつもの
「連結手」を生み出す可能性も秘めている。
「場」という考えは、人々への強制という一方的なタテの関係を廃棄して、各人の歴
史性(血縁や氏素性を越えて人の自然な本性へと至る間断のない運動性の全過程)の
対等な広がりの基調音だともいえる。
「自己の肉体と思念の全てをしぼりつくして、世界の全体へと迫り来たる(表現)の
原基的エネルギーがつくりだす(全力疾走)の形態(場)が(演)劇的なるものの核
心を構築することはまちがいない。しかし、演劇が人間の関係性の現場である以上、
そこには人々への強制(権力)がまた、密かに発動してくる。このことへの見きわめ
のない演劇論なんて、私にとっては無縁のものだ」(本書213頁参照)
この見きわめを欠いたところに、かつてもいまも連綿としてつづいている演劇の頽
廃がある。
集団的強制と服従
客の眼前に自分たちの肉体と思念の全てをさらけ出し、共同性の根拠で(ァイアン
チイチイ)ある自らの集団の資質を問いつづけ、観客から問われつづけざるをえな
い、ただ今一回限りの芝居の「現前性」が問題なのだ。
この「現前性」を成り立たせるエネルギーの集中化や爆発過程で、よほどの覚悟が
ない限り、自在な関係の歴史性の結実としての芝居の楽しさは、集団的強制と服従の
結果としての、演劇的濃密度の競合へとすり替っていく。
ここでは自由なる技芸は発酵することなく、私たちの日常の底の底にはりついてい
る強制と差別との馴れあいの構造 - 内なる天皇制 - のあいまいな追認に終始していく
のだ。これこそが、かつてもいまも演劇一般の華麗にして虚妄な展開を保証している
ともいえる。
こうした権力や集団的強制の発動を徹底的に押えこんで、各人の世界への志向性を
自立・確立させながら、お互いの絶対的他者性(相手を生かしつくす)への運動を、
どのようにして集団的主題となしうるのだろうか。
「場としての演劇」は、まさにこの主題を波動させていく
「核音」(4頁注1参照)である。「場」とは何か。ひとつの確実な文脈として構成され
ぬまま投げ出さざるをえない、きわめて直観的なことばであるが、そのいくつかを列
挙してみよう。
★自由なる組織は自由なる表現を生み出す。集団内階層制の徹底した排除(年や
才能や財産や血や氏素性で差別しない)。各自が自由の重荷を担う相互扶助と生死の
ゆきかいの場である。それは私有とあらゆる特権の廃絶の果てに現出する自由と快楽
の極北の場である。
★創造と普及、送り手と受け手の関係などではない。こうした表現における支配
(与えるもの)と被支配(与えられるもの)の廃絶の彼方処にあるものだ。問題の提
起であり、そしてただちに高次のものへと旋回していく参加者全ての「共同」の討論
の場だ。それは人々の沈黙の構造の底にひそむ潜在的エネルギー(限りないやさしさ
と殺意の原基態)発動の場である。
★世界の多元性を触知し、人だれもがかかえている表現の原基なるものと相交わ
る寄り合いの場である。自らを無化し、他者(万物) へ至る回路を追い求める運動
の場であり、他者の変貌をとらえ、変幻自在な身替りを果す「行」の場である。
★非完結性と一回性、偶然性に賭ける。自己と他者と世界の、めまぐるしい変貌
の様相を果てしもなく切りとりつづける、永劫の作業場である。
★対立物を対立のまま認知し、異なる論理の枠組を一挙に置換可能なもの、了解
可能なものと化してしまう、「感性」と「理性」との錬金の場である。
これらのことばには演劇的空間を濃縮する原理はない。強制・差別・服従に支えら
れた集団的習練や修業の結果として光輝を発する、「お芸術」など豚にでも食われて
しまえ。いささかでも失われる自在な関係性と引きかえに確立される演劇的凝縮度な
ど糞くらえだ。
世界の多義性や多元性の只中に自らをひろげ、ついには風の如くに消えさってい
く、決してシステム化し完結することのない、現在ただいま一回限りの報告(ドキュ
メント)であり、メッセージの原理だ。
「あの時代」の感性
これらのことばは、六〇年代後半の美術のハプニングの考えや、フリージャズの動き
や映像の実験的作業とも重なり合って、「あの時代」の感性の運動の結実だといえる
のかもしれない。これらのことばが、表現そのものの構造を問い返す、ある普遍性を
もたざるをえなかつたのも故なきことではない。
過去の手もちの考えでは処理できなかった各ジャンルの矛盾は、時代の政治社会的
な大状況に併発されて、いや応もなくそれぞれがぬきさしならぬ地点にまで過み出さ
なくてはならない様子だった。
演劇も、いちど全てのものを持て去り、改めて演劇とは何かを問い返す行為のうち
にはじめて演劇的な新たな地平が見えてくるといった、しんどいがある意味ではきわ
めて幸運な時期に、私の演劇的自立の暗が遭遇したといつてもいい。
唐十郎などとちがう点は、私が築地小劇場を創設した土方與志の晩年最後の弟子だ
・ ・
という、いわゆる「新劇」の大枠の中で教育された「貴重」な体験をもっていたこと
だろう。
私は自分の殻を脱ぎ、捨て去ってきた。この習性はいまだに止めようがなく、世界
の多義性の茫漠たる只中へ、ただよう破目になっているようだ。
パ ロ ディ
「自由の原像」とその偽風景
遊びの日常から生活の日常へのプロセス
私が、十数年間ただ一途に、芝居とたわぶれ暮した「遊び人の日常」から身を引き
はがして、もっと深々とした世界の広がりへと志向するに至った経緯はなんだったの
だろうか。
かつての「小劇場の旗手」たちが成り上ってしまつたように、世間なみの常識や秩
序との妥協で、上手に芝居で食っていくこともできなければ、遊び人の日常で身につ
けた「異形さ」を商品に仕立てて、それを媒介に「まともな人間」に立ち戻るといっ
たこともできなかった。私の才能のなさも幸いしている。私にはこうした身のこなし
はとてもできないし、第一それまでの間、私の我健勝手な「自由」なふるまいを寛大
に許容してきてくれた世界や、人々のお情けへの義理からいっても無理なことだっ
た。
演劇の袋小路で尊大にふるまっている限り、決して世界を何ほども視ることなどで
きやしない。ふと街角にたたずむ女の子のなにげもない視線が、私などの思いも及ば
ぬ世界の深みを見抜いているにちがいないという畏怖なしに、私たちは誰に頼まれた
わけでもない芝居なんかをやっているわけにはいかない。注1
「自由に生きる」とは恰好はいいが、人々の生活の苦闘をカスメとっているにすぎ
ないのだ。人々の苦渋の底の底によどむ、沈黙の構造を果して私たちのようなヤワな
「遊び人」の目で見届けることができるのだろうか。
抑圧され不快の極に立ち至った人々の沈黙の構造が、密やかな復元を開始しはじ
め、ついには快の極限を夢想した殺意や消滅の衝動として射型化していく。こうした
予測不能の、不定形の生そのもののドラマ (表現の原基態の発動)を見届けるに
は、自らを生死のゆきかいの場へと追いつめる「遊び」の深化徹底が不可欠のはず
だ。
世界や人々の寛容さによつて、かろうじて生かされている私たちにできることは、
人々の沈黙の底にひそむ自由への波立ちの「共感」に賭けて、私たちの「虚妄なる自
由」を舞い狂ってみるしかない。
ゴミの浮遊運動
私たちの「遊びの日常」が、人々の表現の原基態を生成しつづける「生活の日常」
へ近づく、終りのないプロセスでしかないのは当然のことだ。
私たちは芸術家でも表現者でも創造者でもない。それは人人がお情けで投げ与えて
くれるかりそめの称号だ。「芸術家の豊穣な精神生活」なんて悪い冗談にもなりやし
ない。私たちをゴミやクズや余計者と自己規定してみても、まだまだ倣慢すぎるのか
もしれぬ。私の好きなことばだが「視るもの」もまた、あまりにもよい恰好のつけす
ぎだ。
ふとそこにたたずむ一人の人間(生きとし生けるものといってもかまわないが)に
いきつく、果てしのない近づきの行為をさしあたって「表現」とでも名づけるほかは
ない。
相手の変容を機敏にキャッチして、自在に自らの存在そのものを調節しうるフィー
ドバックシステム、つまり他者性そのものともいえる「存在の可変性」が、ゴミの浮
遊運動を成り立たせ、これは「場としての演劇」をつくり出す「技芸」の重要な表現
形旗でもある。
ゴミになんで芸術だの創造だの、表現主体の自我だのつくり手の主観などがあるの
か。「人民のための演劇」も「革命のための演劇」もお笑い種だ。「特権的肉体」も
「錯誤の特権」も、ものものしく意識された「劇的なるもの」も私には不可解なもの
だ。
こんなものをふりかざしている限り、国家によって組織されつくしている人々の沈
黙の構造や「生の執着」を逆組織して、見さかいのない快楽の爆発現場へといざな
い、「無心の生」の連鎖を波及させていくことなどできやしない。
演劇を越えて世界の多義性の只中へなどとことさらに書きつける真意は、性懲りも
なくつづくゴミの浮遊運動を、人々のお情けでいただいている「自由」とひきかえ
に、自らの肉体の消滅を賭けて、厳格に断行すべきだと思いこんでいる私の禁欲主義
の表われなのだろう。
ゴミがなすべき、いやゴミだからなしうる、メッタヤタラとくりひろげる人々の夢
想する「自由の原像」の、ただいまっっxさしあたっての偽風景である。
「共同性」の幻影
こうした「演劇的立場」 へと私を方向づけてくれたのは、自在にふるまわらせて
くれた「舞芸座」以来の長いつき合いである「発見の会」創立メンバーの月まち子や
牧口元美であり、決定的にはいつも、新しく参加してきてくれたいちばん新参の若い
人々だった。世間一般に通用する意味での演劇のエの字も知らない若い人々が、私た
ちの「関係性の現場」で発揮する行為の「意味するもの」は、私の演劇観を根底から
ゆるがし、その時々の現在ただいまの、時代の感性やその底流にあるものへのつきつ
めた認識をうながしてくれた。
だがしかし、つねに大なり小なり、若き左翼反対派として立ち現われる彼らの内部
に、たちまちにして醸成される小ざかしい権謀術数は二重の意味で、私に能力以上の
緊張を強いてきたといってもいい。もちろん彼らだけの問題ではなく、古い私たちと
の相互関係の問題だが、「発見の会」のうちにさえ形成されてくる「集団的陰湿さ」
の原因はなんなのか。
私には、さきにのべた、演劇を演劇たらしめる「現前性」のうちにその真因を見な
いわけにはいかない。この演劇の構造的保守性こそ、芝居の楽しさでもあり、つまら
なさでもあるのだ。集団構成員の全てがこの保守性を鋭く認識して自在な関係性を無
心に、日々新たにつくりつづける「技芸」を自らの歴史性となしうるとき、演劇は真
の楽しさを、お互いを「神」として敬愛し、自らも「神」として自在にふるまえる、
芸能の発する始源の場が展開されていくことだろう。
注1 このくだりは、「発見の会」のメンバーに痛烈にやられた。「女の子を無意識に
差別していることに、気付いてもいない」と。すると何かの折に書いた「誰とで
もいい。我々の(自由な関係性)に関心があり、ふとそこにたたずむことに興味
のある人たちに、私たちはきわめていいかげん(寛容)でありつづけること、こ
れにつきる。このことは夜のバス停に立つひとりの老婆に、街角の立ち飲み屋で
焼酎をあおるひとりのおっちゃんにいきつく、果てのない行程を、正確に測定し
うる者には、ことさら念をおす必要もない事柄だ」こういういいまわしも、老婆
やおっちゃんを無意識に差別していることになるのか。私は四十七年の生きざま
を賭けて断言できるが、世界のなにほども見ることのできぬ、たわいのない、た
だのぐうたらな遊び人だという恥しさと、ふがいのない自分への苛立たしさから
一瞬とも開放されたことがない。それがこうしたいいまわしをさせるのかもしれ
ない。
私の戦後史
第二章 生理的リズムの源泉へ
読書会「流木」から「 鷗座」初舞台 なんどもいうが、「私の現在」は「発見の会」によってつくられ、これからの私
も、「発見の会」に集まってくる人たちの共同の関係性の現場を、くぐり抜けていく
過程のうちで変っていくだろう。
この『記録・発見の会』も、私の見方や切りとり方を越えて、「発見の会」にかか
わった全ての人々の、私をして語らせている、共同の想いを追っていく作業であるこ
とはいうまでもない。
ただ昔とちがって、芝居一筋の現場ではなく、もっと茫漠とした治療や、食(味
覚)や農や、性愛などを含みこんだ、人間の楽しみの重層化した「現場」のなかで、
私の生の「表現」をつくり出していきたいわけだ。
ある場合は論理をはみ出しても、徹頭徹尾、人間のまるごとを視ていこうとする生
理的リズムが、この「記録」に一貫して流れてくれればいい。この意味からも私の生
理的リズムができていく、生い立ちや、私の個人史を綴ってみることからはじめる必
要があるようだ。
「魚座」・O型
私は一九三五年(昭和一〇)三月三日、九州若松市浜町二丁目開七七で、父正平、
母キヨとの間に生れた。正平とキヨとは互いに再婚同士で、兄弟は正平と亡妻トモと
の間に長女一枝(現瓜生商店経営六十五歳)、長男正二(幼時期に死亡)、次男摘郎
(幼時期に死亡)がいる。キヨとの間は、三男正美(現劇団青年劇場代表五十六
歳)、四男秀美(現東和グローブK・K常務五十三歳)、五男良介(現「発見の会」所
属四十六歳)という順で、私は正平四十五歳、キヨ四十二歳の時の子である。
西洋星座は魚座。気学の九基術では二黒土星、年座だけでなく月座もともに二鳥だ
から大陰の極、母なる大地の性をもち、表面は寛容やさしさの権化だが、裏に尊大、
冷酷、意地悪な性質がある。
血液型は戦時中胸の名札に明記してあったのはAB型だったが、三年前に献血の際日
赤から送ってきた血液カードはRH(+)0型だった。戦時下のいいかげんな検査で凝集
反応を見誤ったのか、試薬が駄目だったのだろう。
若松という街は、日本近代の急激な膨脹を支えたエネルギー源である、石炭の最大産
地筑豊炭田の積み出し港として、明治以降一寒村から急速に発展した。
火野葦平の『花と竜』に措かれているように、石炭景気に群がる各地からの食いつ
め者や流れ者が集まってできた街で、がさつで活気にあふれ、お互い故郷を捨ててき
た者同士の、淋しがりやで世話好きの気質が特徴だ。
沖伸士や船員たちでゴッタがえす港町の、斬ったはったの喧嘩は若松の日常のリズ
ムになっていた。わずか人口七万ばかりの街に、連歌町、西本町、新地、駅前といっ
た大きな遊郭があり、昼間から客の出入りの絶え間ないのを、子供心にごく普通の情
景とうけとっていた。
はぶ
筑豊線(若松ー原田) に筑前植生という駅があり、そこから徒歩三十分のところ
に底井野という部落がある。瓜生家は幕末まではここで両替商(金融業)をやってい
た。
父正平は隣りの部落の森家の出で、祖父森謙作の七人目の末っ子だった。祖母は瓜
生家からきていたが、瓜生の跡取りがなく、正平は母に頼みこまれて養子にきたとい
う。
面白いのは瓜生の家紋が打出小槌で、これには右打出と左打出があり、底井野の裏
山にある瓜生家累代之墓には、右打出の小槌がちゃんと彫りこんである。
祖父謙作の晩年は、末っ子の正平がみてやっていたが、おかげで私たちは、したた
かな遊び人だった祖父のいろんな芸を、浄瑠璃や浪花節や、昔話のパロディーや、落
語「寿限無」の奇妙なヴァリエーションの「つんくりめんたかりんかんきょう」など
を、毎日毎晩聞かされて育った。祖父は一九四二年(昭和一七)、この年開通した関
門海峡トンネル (下関一門司の海底トンネル) を列車で往復したあと、十一月五
日行年九十五歳で脳卒中死した。
父正平は森家の兄たちが博多で衣料問屋やふとん屋をやっていた関係で、ふとん職
人を経験したようで、母に代ってふとんの仕立てをやるのを何度か見たが、目にもと
まらぬ素早さで縫い上げ、たたみこまれていくのを一種の爽快感で眺めていたのを想
い出す。外見はゲジゲジの太い眉にギョロ目のいかつい風貌だが、真底心やさしいま
めな人だった。「人のために涙を流し、自分のために汗を流し、国のために血を流
す」という三流(さんるい)の誓いが、人生哲学だった。
酒好きで食い物は贅沢で「財産は頻してやれぬが、食い物だけは腹一杯食わしてや
る」というのが口ぐせだった。
戦時中や戦後は、炭鉱相手の機械工具や「万年漆器」という合成樹脂製品の食器類
を商っていた。
「 鷗座」第一回公演
母キヨは今年八十八歳の米寿を迎える。旧性花田、長崎出身。門司高等女学校二期
卒、声楽にすぐれ音楽学校へいく準備をしていたが、家の経済的事情で断念したとい
う。明鳥敏全集全巻をたんねんに読破したり、戦後三十年近く日誌をつけつづけてい
たり、明治の女の凄味を見せつけてくれる。昨年大腿骨頸部骨折をやって寝たきりに
なったとたんに老化が急激に進行し、最近は日誌や読書はもちろんのこと、下の始末
までできなくなった。(一九八三年四月一日老衰死行年九十歳)
私の戦時中は、昭和一六年に近くの浜町小学校(国民学校といっていた)に上る
が、肺門リンパ腺炎で一年休学し、そのあとは疎開や転居で各地を転々とする。小倉
に転校したり、熊本の知人宅に縁故疎開をしたり、最後は底井野の隣り部落の上木月
で敗戦を迎え、昭和二〇年十月には若松の生家へ帰り、浜町小学校へ戻つてくる。小
学四年生の秋だ。
第五高等学校在学中に軍事教練を徹底的に拒否して、教練士官の怒りをかって幹部
候補生の資格を与えられず、一兵卒として久留米連隊へ入隊していた長兄正美が復員
して、「流木」という読書会をつくり活動をはじめる。
小倉中学から海軍経理学校へいっていた次兄秀美は、第五高等学校二学年へうまく
編入学できた。これは、口頭試問のときに出た正美の名前のおかげで、軍隊関係者に
拒否反応を示していた教官の気持ちのなごんだためと話していた。
「流木」は翌二一年には、「 鷗座」第一回公演へと発展していき、私も子役で初舞台
をふむことになる。
隙間見た「日本の青春」の残像
自立劇団「鷗座」結成 − そして人形劇上演活動へ一
戦後の激変を子供心に痛感したという想い出はない。新聞は驚天動地の世相を伝え
ても、むしろ何ひとつ変らないという印象の方が強かった。隣組のおっちゃんも元気
だし、市役所も警察も、学校の先生も健在だった。
畑浄水場駐留の米第五海兵師団のMPが一回だけ学校の視察にきたが、その前後に、
いままで使っていた戦時中からの教科書に、スミを塗らされる作業が何日かつづいた
ことがある。「鬼畜米英」だとか「撃ちてしやまん」などということばを塗りつぶし
ていたのだろう。こんなこともあってか、やれ民主主義だ、文化国家だ、平和国家だ
というお題目に嘘っぱちの浅薄さを感じとっていた。
ドライ・フール
もっとも冷ややかな野次馬根性は、生れつきのものかもしれない。閑職当日か、翌
日の新聞で、五隻の特殊潜行艇が真珠湾深く潜入して、敵艦隊に体当りを敢行した特
別攻撃隊「九軍神」の死を悼んで親父をはじめ兄貴もお袋も、号泣しているのを横目
に、九人とは半端な数だ、二人ずつ乗りこんだとするとあとの一人はどうなったのか
と考えながら、おつき合いに湯のみのお茶でそっと目をぬらした私だ。戦後になって
判ったが、このときの一人はアメリカ軍に捕まり捕虜第一号になっていた。
北九州は八幡の製鉄所、小倉の造兵廠(兵器工場)海軍火薬庫、門司、若松、戸畑
の港湾関係と重要な施設があり、日本初空襲は北九州だった(昭和一八年六月)。
この初空襲の夜、小倉造兵廠の近くの大門というところにいたのだが、猛烈な対空
砲火の真最中に防空壕から飛び出して、探照灯にとらえられた敵機の、キラリとかし
いだ姿を眺めてた想い出もある。あの時は、気づいた親父に力まかせにぶん殴られた
が、あの頃からおっちょこちょいで、ドライ・フールな素質がチラついていたのだろ
う。
戦後の「虚妄」を子供心に感じたのは、メーデー歌の「聞け万国の労働者」だ。戦
時中私の住んだ小倉も熊本も、連隊本部のある街で、兵隊の行進はまいどのことだ
ばんだ
が、決まって「万朶の桜か襟の色」を大声で歌っていく。それがなんと赤旗の林立す
る二・一ストの集会で歌われていたのだ。戦争中の代表的な軍歌と同じメロディー
を、「戦時」をいちばん否定している人たちが、なぜに歌っているのかどうしても解
せなかった。二つの歌の元歌がどうなのか知らぬが、とにかく新しい時代の、新しい
歌をつくり出せない人たちを私は軽蔑していた。笠置シズ子の「ブギウギ」や並木路
子の「リンゴの歌」の方がずっと素敵だった。
正美は九大文学部に通い、アルバイトに米軍の通訳をやりながら、若松での文化運
動「流木」読書会をつづけていたが、やがて河原重巳をかつぎ出して自立劇団「鷗
座」を結成する。
河原重巳(七八年七十七歳没)といえば、大正末期から火野葦平や劉寒吉などと九
州文学という文学運動をやったり、一座を率いて台湾、中国、朝鮮等を巡業してま
わった男で、浅草オペラで丸山定夫と共演したこともあるそうだ。親から引きついだ
河原鉄工所を、結局食いつぶしてしまった欲得なしの根っからの風来坊で、父正平も
人柄の良さに魅かれて、この放蕩左翼の仲人をしたようだ。河原家とは親戚同様の親
しいつき合いをしていた。
甘ずっばいドーラン
「鷗座」第一回公演は一九四六年の何月か正美も正確に覚えていない。演目は有島武
郎の『ドモ又の死』(演出瓜生正美)と久米正雄の『地蔵教由来』 (演出河原重
巳)だ。場所は繁華街明治町にある旭座という、つめて千人程の桟敷になった映画館
兼用の芝居小屋だった。
私は『地蔵教由来』のラストで「あッいざりになった!」と大声で叫ぶ村の子供役
だったが、あの時以来ドーランの甘ずっぱい匂いや劇場の埃くさい暗闇から抜け出せ
なくなってしまった。
第一回公演は大成功だった。がさつな街なりに、新しい戦後の息吹きを求める人々
の欲求があったのだろう。劇場の前には花輪が並び大入り満員の盛況だった。
河原鉄工所の二階の大広間でやった打上げの豪勢なすきやき鍋も、強烈な覚えがあ
る。大皿に山盛りの牛肉の、食いほうだいの乱痴気騒ぎは、確かに戦時中の陰気くさ
い品行方正とはちがった、戦後の風が吹きぬけていくようだった。品格はないが、い
かにも若松らしい「酒盛り」のやり口を、私はしっかり見てとったにちがいない。
「鷗座」は私の記憶では、その後小山内薫の『息子』や菊池寛の『父帰る』をやっ
たりしたが、この時にはもう第一回の熱気は失せて、河原重巳も「一座」をおこす意
気こみがなくなった。
正美は九大演劇部を足場に、現在「東京アンサンブル」の代表者格の広渡常敏や熊
井啓などと「九州学生演劇連盟」を組織、土方與志を審査員に招いて自立劇団のコン
クールを開催したりするが、やがて上京し「前進座」の客員演出をしていた土方與志
の助手をつとめるようになる。
一九四八年、学校制度の改革で、新制中学となって第二年度に、私は新制中学生と
なる。浜町小学校の卒業生は、若松の北のはずれ、洞海湾の灯台近くの、元捕虜収容
所あとの第一中学校」にいくことに決まっていた。
環境設備ともに劣悪なところよりは、戸畑の明治工専附属中学にいくように両親に
すすめられ、クラスのエリートたちと試験を受けるが、私の心の中では、そうした特
殊な処遇を拒否し、はじめて自身の選択を行なったようだ。
そして、その選択は正しかったと思える。「第一中学校」時代は、自在気ままにふ
るまったといいきれる、私の自由な時代だった。それは戦後の一時期幸運にも隙間見
た「日本の青春」の残像だったのだろう。
当時東大経済学部二年の秀美は、「プーク」の川尻泰司にたのまれて、東大人形劇
研究会(劇団ポポロの前身)をつくって活動していたが、帰省の折、私に人形のつく
り方や人形劇団「プーク」の活躍ぶりなどを教えてくれた。私は早速仲間と図ってそ
の年の文化祭に、『赤鬼と青鬼』『ヘンゼルとグレーテル』などを上演する。
これはその後の「若松児童文化会」三十年もの人形劇上演活動の発端だった。
戦後民主主義の幻影
「鷗座」第二次公演 ー 土方與志演出
若松第一中学校時代は、戦後民主主義の幻影が跳梁してたかに思える、奇妙な時間
だった。いくつかの偶然が重なってのことだろうが、それにしても不思議だ。
学校制度の改革で、急過市内にできた五つの新制中学校のうち、第一中学校は特別
にひどい環境だった。北湊という造船工場街を通り「朝鮮人部落」を抜け、私の家か
ら三キロメートルほど歩く、最北端の埋立原野にある木造バラック建の元捕虜収容所
は、シベリアの寒風が真向から吹きつけてくる冬には、粉雪がチラチラとノートの上
に落ちてくる。運動場もただ広い砂浜で、赤土が盛られたのは私が三年生になっての
ことだった。ストーブが入ったのも二年の終りだったと記憶する。
そのかわり、自然は雄大だった。高い収容所の塀を抜けて二百五十メートルもいく
ともう海だ。毎日無限に変化する玄海灘に映える夕景は、いまだに忘れられない。自
然とのつき合いと同じ様に、先生と生徒との間も、一味同心的な無頼なつき合いでも
あった。何の伝統も、係累も歴史もないこの学校では、だだっ広い砂浜に何かつくり
だすにはともにカを合せる他はない。意地の悪い見方をすると、戦後教育の混迷激
動期にあたって生徒の自発的行動を、ただただ傍観している
他はなかったのだともいえよう。
「洗脳、つるし上げ」
私は小学校からの親友だった藤井晃(九大史学科大学院在籍中鉄道自殺死)と組ん
で、勝手気ままな中学生活を送った。あらゆる面で抜群の才能のあったこの男は、私
のやんちゃな発想に寛容につき合ってくれ、人形劇研究会や、映画演劇鑑賞会や生徒
自治会の組織などで力をふるった。人形劇グループは藤井の他、同期に野口民治(松
下電工研究所主任)、高橋義次、門田健太郎、一期上に久保明子(京大野上裕生助教
授夫人)、足立沙恵子、下に上野広精(若松小学校教師)などがいた。
私たちは授業時間に頑迷な先生たちの「洗脳、つるし上げ」をやって、聞き囓り読
み囓りの弁証法的唯物論の物の見方をアッピールしたり、『戦火のかなた』『海の
牙』『自転車泥棒』などのイタリアンリアリズム映画の鑑賞会をつくって、廊下の黒
板を二枚独占的に使用して映画解説を試みたり、「前進座」や人形劇団「プーク」の
観劇を行なったりした。
生徒自治会の規約は私が書き、目的のところの「新しい民主的な学園」云々という
ことばに、新しい民主主義とは何だと校長や教頭に問いつめられ、ずいぶんもめた記
憶があるが、私たちの卒業まではそのまま通用していたはずだ。
こんなことが可能だったのも、私たちのグループに親密感をもってくれていた、久
我、菊田、藤木、田中各先生たちのバックアップがあってのことだった。藤木先生は
「鷗座」の効果係をやっていて知り合いの仲だったし、菊田、田中先生には演劇部の
顧問に引っばりこんで世話になった。とくに当時日本共産党員だった久我太加人は、
九大造船科出身の英語教師で職員や生徒たちの間で人気も篤く、私たちの相談相手に
・ ・
なってくれていた。久我先生の教唆煽動を受けていたわけではなく、むしろ私たちの
・ ・
暴走を心配しながら見守ってくれていたようだ。
体育ではバレーボール部をやっていた。こっちの方も豊田や平田や金屋という腕力
胆力優秀な人材がいて、二年のとき市内大会で優勝し、北九州や県大会にも遠征し
た。練習がひと区切り終っての打上げは、例の先生方やバレー部担当教師をまきこん
で、宿直室を使っての酒盛りが定例で酒がなくなると「朝鮮部落」出身の部員がひ
とっ走りでマッカリ(朝鮮ドブロク)を仕入れてくるといった按配だった。
中学三年(一九五〇)の六月二十五日に朝鮮動乱が勃発する。日本共産党は非合法
下に追いこまれ、北九州は米軍の補給兵砧基地の関係もあって、にわかに政治的緊張
がたかまってきた。
「鷗座」第五回公演
この年の二月から風邪をこじらせているかに見えた父正平の病状は、肺結核が進行
していて衰弱の度がひどく再起不能の様子となる。秀美は東大を卒業して郵政省入り
が決まっていたが、一家をみるため三月帰省して家の仕事をはじめる。
父正平は出まわりはじめた特効薬ストレプトマイシンの効なく、一九五〇年七月十
二日五十九歳で永眠した。
正平の死の数カ月前から正美も帰省していた関係で、葬式がすむと早速、「鷗座」
第二次公演の準備がはじまった。正美が師事していた土方與志は、演劇界にも波及し
ていた共産党の分裂問題のゴタゴタに厭気がさしていたのか、声をかけると喜んで九
州くんだりまで、素人劇団の総演出をかって出た。
公演は九月初旬、若松公会堂で行なわれた。出し物は、チェホフの『煙草の害につ
いて』ジョルジュ・クルトリーヌの『署長さんはお人好し』、それに私たち第一中学
校人形劇研究会「ユナ・グルッポ」(若い仲間)の中江隆介作『魔法使いの弟子』
だった。
瓜生家には土方與志が泊りこみ、二階の大広間で芝居の稽古や酒盛りが連日連夜引き
つづいた。
「お父さんの四十九日もすまないうちに」と母は、私たちや座長格の河原重巳に泣
きごとをいっていたが、図らずもこの公演は父正平の追悼公演ともなった。また瓜生
家はこれ以降、若松の文化的、政治的拠点としての機能を発揮したようだ。
「公会堂でひらかれた『あひる(鷗座)』第五回公演は非常な成功だった。……
新しい芝居の面白さを、浪花節と漫才とチャンバラ好きの若松市民に知らせたのであ
る。ことに、パリの場末にある小さな警察署長を演じた森久作(河原重巳)の演技
は、いろいろ批判はあるとしても、観客の喝采を博した。たくさんきていた子供の見
物人たちは、人形劇『魔法使いの弟子』に満足した。これを演じた『ユナ・グルッ
ポ』の連中というのは、いづれも、まだ高等学校(第一中学校)の生徒たちで、その
努力と成果はたかく買われた」(火野葦平『新遊侠伝・第十二話あひる座』、東京神
田・小説朝日社刊、カッコ内は筆者注)
戦時戒厳令的状況下で
武器製造パンフ、秘密機関紙の配達受け渡し
火野葦平が「高等学校の生徒たち」と思いこんでいたように、私たちの人形劇
は、土方與志も舌をまくほど、高いレベルだった。
中学三年(昭和二五)の秋の文化祭には、村山亜土作『コックの王様』という本
格的な芝居に取り組んだ。これもまた中学生にしては早熟すぎるほどにでき上った舞
台だった。人形劇のレパートリイも『夢を見た大臣』『ドン太の樽屋』『豚飼いと羊
飼い』『魔法使いの弟子』といった、人形劇団「プーク」の代表作が並んでいた。あ
の頃から高校時代にかけてが、はちきれんばかりにはずんだ、もっともイメージのあ
ふれていた時代だったのかもしれない。
「他人の不幸」を足場に
政治的にも過激な赤色少年だった。時代は戦後革命(そんなものが果してあったの
かどうか)の敗退と重なり合ってはじまった朝鮮動乱という「他人の不幸」を足場
に、急速に立ち直っていく日本独占資本が、第二次吉田内閣下に自信をもって、人々
の「内なる天皇制」を逆手にとった、戦前以上に巧妙でソフトな管理体制を整備して
いく時期にあたる。それはまた、現在の荒廃を引き起こしているエネルギー問題、農
業問題、土地利用環境破壊や教育問題等の真因の、初発の発生時期でもあった。吉田
内閣は朝鮮動乱を好機に、日本国内にも一種の戦時戒厳令的状況をつくり出し、平和
を口にすることさえ勇気のいることだった。
一九五一年(昭和二六)若松高校に入った私たちの仲間は、演劇部に入部した。そ
ろってといいたいところだが、一人Kという男は入学できず私立へ行った。学業、体
力、人格申し分ない奴だったが、朝連系朝鮮人ということが問題だったのだろうか。
私たちはひとつの「無念さ」を心に刻みつける。
「若松高校へ入学した瓜生良介は、中学時代の仲間を引き連れて、演劇部に入部し
た。一足早く、演劇の世界に足を踏み入れていた長兄正美や次兄の秀美の影響であっ
た。良介を頂点とする彼らの結束の固さ、ユニークな発想、行動力は抜群であった。
旧制女学校時代の残滓を引きずった学芸会風の演劇部は、間もなくこれら新入部員た
ちによって席巻された。良介の演出は熾烈を極め、数人の女性部員が泣かないと、ひ
とつの芝居があがらない、といったあんばいであった。その年、若高演劇部は、北九
大主催の演劇コンクールに〈修学旅行〉を上演。初出場にして優勝をさらう、という
快挙をなしとげた。学業成席の面でも十傑中、常に四、五人は、このグループが占め
る、といった見事さであった」(火野葦平記念館を若松につくる会篇『若松庶民烈
伝』裏山書房刊)
演劇コンクールに出場するのにさえ、学校側の反対で、一苦労した覚えがある。中
学時代の気ままさを体験している私には、ここで大小さまざまの壁を意識するが、こ
れはまた朝鮮動乱を契機にした、急激な日本全体の「反動化」でもあった。永野稔作
『修学旅行』は県大会でもRKB毎日放送賞などもらったが、この時の審査委員長が例
の河原重巳だった。
演劇部は中学時代の仲間のほか、NHKの人形番組で長年主役の人形を操作している
小松市子がいた。後輩には横内正、大先輩には特異な性格俳優の天本英世がいる。ま
た、秀美の中学時代の友人ということもあって、演劇部の顧問教師に引きずりこまれ
てしまった鶴島正男は、その後校長にこそなれなかったが、優秀な高校演劇の作品や
火野葦平伝の労作などの作家活動をつづけている。
五二年「若松事件」
演劇部の活動のほか、全校有志に呼びかけて、「まつぼっくり」というミニコミ誌
を刊行する。校内外を問わずいいたいことを自由に発言する主旨のこの雑誌は、足か
け四年十号までつづいたが、この同人たちの活動のおかげで丸木位里・俊子夫妻の
「原爆の図」展を一九五二年(昭和二七)に、開催することができた。この原爆図展
の全国的オルグをやっていた美術評論家のヨシダ・ヨシエは、私の家に泊りこみ、北
九州地区のアレンジをしていた。「まつぼっくり」誌に彼の描いてくれたカット数点
がのっている。
一九五二年(昭和二七)六月三十日未明、若松事件が起こる。若松市史には「北朝
鮮系鮮人男女二百名が竹槍、火焔ビンなどをたずさえて民団事務所、土居町派出所そ
の他を襲撃する」という差別言辞をまじえた記述があるが、これは直接的には、六月
・ ・
二十五日の「解放記念日」の集会の模様を警察に報告した、民団幹部のスパイ行為を
糾弾する行動だった。警察は四百名を出動させ、北湊の「朝鮮人部落」の急襲や山狩
りを行ない五十名を逮捕、数日は殺気をはらんだ状態となる。
当時日本共産党は非合法下に追いこまれ、「球根栽培法」「栄養分析法」などとい
う武器製造や宣伝技術の秘密パンフや「平和と独立」(ドッペイと呼ばれていた)と
いう秘密機関誌の配達受け渡しを私はやっていた。なんども要請はされたが、党員に
はならなかった。党員には私なんかよりもっと真面目で優秀な、節操のある人間がな
るべきだという思い込みがあり、気ままな性格と気ままな生活をめざすゴミ意識の芽
ばえがあった。秀美は家業に従事していて、私は危険な「汚れ役」をかってでたので
あろう。若松事件の「処理」もたのまれ、小石町の馬小屋のワラ束の中からとり出し
た弁当箱に入った「拳銃」を、博多の箱崎宮の何本目かの鳥居で出逢った男に手渡し
たこともあった。
祝祭的空間における諷刺精神
「高下駄一挟」事件のてん末
一九五三年(昭和二八)秋の運動会で、三年生の特権的楽しみだった仮装行列を、
風紀の乱れや県の通達を理由に、突然一月前に禁止してきた学校当局の横暴さは、三
年生全員の怒りをかきたてた。九月には下駄ばき登校や長髪の禁止があったばかり
で、怒りの素地は充分にあり、進学をあきらめている生徒たちには、学校生活最後の
楽しみを奪われたという切なさもあった。
私たちは早速「反撃」を組織した。八学級から学校側認定のクラス委員に関係な
く、熱心な戦闘的委員が選ばれ、各クラス独自の仮装と行動プランをたてた。統一
テーマは「高下駄一揆」だった。学校当局に感づかれないように、各クラスの横の連
絡を一切とらないこと、どの組がどこで何をやっているかを知っているのは、私の他
数人の統一司令部だけだった。藤井晃は、退学処分等のあとのゴタつきに備えて、第
二戦線を確保しておくため、司令部からはずされた。お寺や畑の仮小屋に密かにダシ
製作場がもうけられ期日も迫っていたため徹夜貫行となった。
義理人情と退学処分
が、運動会前夜になって事は発覚した。運動会の練習と偽って深夜に帰宅する女生
徒に不審を抱いた親たちが学校に連絡し、問いつめられて白状してしまったのだ。非
常呼集を受けた市内在宅の教師たちで職員会議が開かれ、三年担当の組主任がそれぞ
れ製作場を訪ね、義理人情と退学処分をちらつかせて説得に当ったが、失敗に終っ
た。
組主任が帰ったあと、私たちは市内大井町の立宜寺に集結して、はじめての全体会
議をもった。予想以上にきびしい学校側の態度だったが、私たちの結束も固く、退学
処分覚悟で、たとえ一クラスになってもやりとげることが確認された。夜明けに行動
を開始し、ダシを製作場から会場周辺に移し変え、昼休みに秘匿場所から会場裏山に
移動集結し、会場に繰り出すことが決まった。
私はその夜一睡もしなかった。場合によっては数百人の人間の運命に影響を及ぼす
事態の決定をまかされた、空恐ろしさを感じていた。
運動会当日の職員朝礼は職員会議に切りかえられ、仮装行列参加の生徒は退学処分
にする事が決まった。組主任から再度の説得を受けるが私たちの腹は決まっていた。
女生徒だけの一クラスは脱落した。女教師の涙の説得にほだされての事だった。
「本部席のテントから、一人の教師(番犬とあだ名の体育教師だ)が飛び出して
いったかと思うと、いきなり、数人の生徒を殴りつけた。先頭のダシがもだえるよう
に、大きくひと揺れした」「続いて巨大な下駄をよろめきながら引きずる奴隷の群
れ。その後で、悪代官よろしく、校長をはじめとする首脳部の教師をかたどった、見
上げるようなハリボテ人形が、秋晴れの目にしみる空に大きく舞った。それは、まこ
とに諷刺精神に満ち満ちた行列風景だった」
「翌日から、参加生徒の処分について連日職員会議が開かれた。しかし、ある日、
事件は突然、校長の裁断によって意外な結末をみせて落着いた。良介をはじめとする
十数人の生徒は、父兄召喚、校長訓戒という、異例の軽い処分を受けたにとどまっ
た」(司令部は父兄召喚、委員は校長室に呼ばれ訓戒、参加者全員は講堂に集められ
て訓戒)
「人々のお世話」を受けて
「これは、事件発生後、学校当局よりも早く、PTA会長、同窓会長宅をはじめ、主
だった役員宅を手分けして訪ね、事の発端、当日の行動などを詳細に報告、事態の収
拾を依頼するという、良介の手回しのよさによるものだった」(前出『若松庶民烈
伝』裏山書房、カツコ内は筆者注)
当時の若高教師の筆になるだけあって、正確な記述だ。私たちは硬軟両用のかまえ
で学校の出方を見ていた。処分粉砕のストライキを準備し、マスコミ関係者へのアッ
ピールを用意する一方で、若松の名士達へ頭を下げてまわった。運動会の仮装行列ぐ
らいで「なんばゴチョゴチョいいよるとナ」といった庶民感情を当てにしていた。
とにかく、学校当局の堅苦しい管理強化の主謀者が教頭の瓜生二成だった。あざと
い権謀術数の小細工をこらして、のちには県教育次長にまでのし上っていくが、仮装
行列事件で私たちをかばったため、断固退学処分を主張するこの男の機嫌をそこねた
先生方が、その後どのような冷酷な扱いを受けたかを知ったのは、つい数年前のこと
だ。私たちは無事にすんだが、この事件の大きな影響を受けた先生方が幾人もいた。
「お前のため校長になれなかったよ」とニンマリ笑いながら話されていたが、私はこ
こでも「人々のお世話」を受けて、生かされてきたわけだ。ついでにいえば、伝習館
三教師 注1 処分問題も、この男の県教育次長時代の産物だった。私たちは、彼の権力
志向の生涯に数少ない、ちょっぴり苦い、お返しをやったのかもしれない。最近の若
高君が代事件 注2 にも私たちに共通する反骨の気流があって、さすが若高だと、意を
強くしている。
朝鮮戦争によって湧き立っていた石炭景気の若松は、停戦会談の開始と、進行して
いた、強引な石油エネルギーへの転換政策によって急速にさびれていく。炭鉱関係の
工具商だった瓜生家は、婚家先であまりにけちくさい夫に反発して、製鉄所相手の商
売をしていた、姉一枝の失敗のしわよせと、石炭切り捨て政策の二重打撃で破産に追
いこまれ、高校三年の秋にはおかず代にも事欠く有様になる。一枝の商売の失敗は、
離婚問題にまで発展して、三人の子供を引きつれて帰ってきた。普通ならば地獄の陰
憂さだが、相変らず人々は寄りつどい、ささやかにはなったが酒盛りはつづき、仮装
行列事件前後には瓜生家の「コミュニケーション機能」は一層拡大していた。
運動会の秋から翌一九五四年(昭和二九)の一月、二月と、異様な祝祭的空間はつ
づいていたようだ。大学受験など問題ではなかった。あきらめて来年に賭ける奴もい
れば、九大くらい朝飯前だといった顔つきの連中もいた。私は二月早々、東京へ出て
早稲田大学演劇科を受けたが失敗した。秀美は、ともかく一年頭張って大学へいけと
いってくれるが、私には兄にたよる気はなかった。
当時正美は演劇を中断して、ソ連貿易の小会社をやっていたが、そこの離れの三畳
間に居候をさせて貰って、仕事先を探した。座間の米軍基地の仕事を断った翌日、若
松の知人が、とてつもない所へ連れていってくれた。
注1 柳川市の「伝習館高校三教師の処分問題」
一九七〇年六月六日、伝習館高校の三教師茅嶋洋一、半田隆夫、山口重人は、
福岡県教育委員会から「偏向教育」を理由に、懲戒免職処分を受けた。「教科書
不使用」「特定思想の鼓吹」「一律評価」等の事実誤認やデッチ上げをもとにし
た処分だった。三教師のきわめて正当な教育実践と、生徒たちの活発な自主活動
(大学闘争に触発されて、当時全国的に湧き起こっていた)が、権力の設定した
「差別」と「服従」の教育を、内側から突崩すことに危機感をもった県教委タカ
派の見せしめの儀式でもあった。
福高教組、日教組は支援闘争を放棄し、柳川市民、伝習館高生、全国有志で結
成された「伝習館救援会」が、三教師の提訴した「処分取消」の裁判支援闘争
を、全国的に展開した。
この闘いの過程で生れた共同体の根拠地「柳下村塾」では、差別と服従の構造
を破砕する前提ともいえる《公教育の全面奪還》《真の教育の創生》をめざす息
の長い闘いがつづけられている。
一九七八年七月、第一審の福岡地方裁判所は「被告(県教委 筆者注)が原告半
田隆夫、同山口重人に対し昭和四十五年六月六日付でなした各懲戒免職処分はこ
れを取り消す。原告茅場洋一の請求は棄却する」の判決を下し、原被告ともこれ
を不服として、控訴している。おそらく最高裁までいくことだろう。
「発見の会」は一九七一年柳川の花畑公園で、伝習館不当処分に反対した森山
安英、新開一愛らの表現行為が、ワイセッ物陳列罪に引っかかり、そのワイセツ
裁判を支援する野外劇『紅のアリス兇状旅』を上演した。以来「柳下村塾」の武
田桂二郎、大牟田の画家働正、茅嶋津一たちの世話になっている。
なお瓜生二成は、一九四七?四八年(昭和二二 ー ニ三) の両年度若松高校
高教組分会長と若栓支部長を併任。一九五五年(昭和三〇)豊津高校長を皮切り
に、糸島、鞍手の各高校長を経たのち、一九六八年(昭和四三) 五月から一九
七〇年(昭和四五) 四月まで県の教育次長職に就いている。悪名高い教育長吉
久勝美とのコンビで、校長着任拒否闘争等への大弾圧を策謀、伝習館処分につい
ても任期外ではあるが、実質的な準備作業をしたようだ。現在北九州の名門予備
校の校長をしているという。
注2
若松高校「君が代」事件
祝日などの儀式の場合「国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが望ましい」
と、憶面もなく文部省『学習指導要領』に記載されたのは、一九七九年のこと
だ。現在(一九八ニ年)福岡県では小・中学校は全員起立で、高校では生徒は起
立し、先生父兄は任意で「君が代」を斉唱しているという。
一九七九年三月北九州市若松高校の卒業式で、音楽教師小弥(こや)信一郎
は、感性と思想の表出と、生徒たちへのはなむけとして「君が代」のパロディを
演奏した。五月県教育委員会は小弥一郎を、教員として不適格者だという意味で
の、分限免職処分にした。
明治憲法復活を揚言し、天皇御製を授業にもちこみ、日の丸を自動車にひらめ
かせて登校する右翼教師と、受験地獄への鞭打ちを教師の本分とする多数の教師
たちのなかで、少数の信頼できる教師である、小弥信一郎の不当処分に反対して
生徒たちは立ち上った。だが、伝習館闘争を放棄した福高教組は、「君が代処
分」からも逃げ、生徒の異議申立てを黙殺した。
一九七九年十月三十一日若松高校生徒総会での公開質問状を教師が阻止、総会
は中止された。この日四十名の生徒が〝泊り込み 抗議を行なった。十一月七日
「生徒の自主的活動は認めない」との校長発言によって再び〝泊り込み の動きが
起こり、十二月七日、生徒四名の無期停学処分が行なわれ、十二月十日、内二名
は退学届を出した。
小弥は「処分取消」の提訴を、県人事委員会へ行ない、一九七九年(昭和五
四)九月十九日第一回口頭審理があり、現在まで五回の審理が開かれているが、
なお審理が続行中で、結審にはいたっていない。
非合法機関紙「平和と独立」の技術
あまりにも見事な波瀾万丈の話
品川・大井町にある木造二階建のしもたや風の家には「黒雅舎」と表札がかかって
いて、引戸を開けるとムッとする蒸気が立ちこめていた。一階は刷版製版のための薬
品とゼラチンの調合、塗布、乾燥、焼付、現像、刷りと、一貫した工程がわずか九坪
(三十平方メートル)ほどの場所でできるようにまとめられていて、二階は印刷原版
の印字や製図の仕事場兼住居となっていた。
知人の友田雅章が芦をかけると、現像室のバネ戸を開けて、濠々とした湯気の中か
ら、紫色の試薬メチルバイオレットに染まった汚い作業衣のオッちゃんが、同じく紫
色の大きなゴム手袋を脱ぎながら姿を現わした。背は低いが、頑丈な体格の、陽気で
開けっぴろげな下町にならどこにでもいそうな、頑固一徹な職人の横顔と、豪放さと
繊細な精神とが同居している不敵な面魂を破顔一笑させると、急にやんちゃなガキ大
将のおもむきになる。
「革命的」印刷技術
この人が、「おやじ」と呼んでいる、いろんな意味をこめて、私の人生の師である
佐々木正治だった。東大哲学科出身で、杉浦明平、磯田進、伊藤律らと親交があり、
ヘーゲル哲学をきわめ、出隆の変容に影響を与えた人とは、とても思えぬ風貌だ。こ
の時は逮捕 注1・釈放のあと細々と街の印刷屋をはじめたばかりだった。
一高、東大時代から激烈な政治活動にたずさわり、戦後は生活社の編集長などを
やっていた。一九五〇年に共産党が非合法下に追いこまれ、依頼する印刷所が次々と
官憲の摘発を受けて、機関誌紙の発行が困難な状況となった。こうした事態を打開す
るため徳田球一直々の要請で地下に潜り、つくり上げたのが、若松時代に配布を手
伝った想い出のある非合法機関紙「平和と独立」の印刷技術だった。ヘーゲル、マル
クスの弁証法を自らのものとした佐々木正治にしてはじめて可能な、それまでの印刷
技術では考えられぬ、いくつもの独創にあふれた「革命的」なものだった。
一九五二年頃の技術レベルでは、ガリ版で写真を刷ることなど夢のような話だっ
た。佐々木正治は、写真も図版も入った体裁のととのった印刷原版を完壁に復製し、
同時に政治的状況にみあった数十万部もの機関紙を、非合法下にあって毎日印刷し、
秘密裡に全国的に配布する壮大なシステムを考え出し、実行した。しかも経済的には
格安のものでなければならなかった。彼はいくつもの難問を見事に解決してしまっ
た。
印刷原版はタイプライターで薄紙に印字し、それをセルロイド板にゴムのりで透か
してはりつけると、白黒のはっきりした原版ができる。図版はトレーシング。へlパー
に烏口で製図したものを油で透かしてはりつける。製版用の写真は、いまのような
フィルムではなく、湿版といってガラス板のものだったが、これを原版の必要な場所
に組みこんでしまえばよかった。
次に刷版の作成だが、これは日本古来の和紙の中でも最高品質の土佐典具帖紙(て
んぐじようし)を支持体にして、これに重クロム酸カリ・アンモン感光剤を含有した
鯨のゼラチンを塗布乾燥させると、印刷原版に重ね合せてアーク灯で焼付け酸化す
る。つまり光のあたった透明な部分は、光によって感光剤含有のゼラチンは硬化し、
印字、製図、写真の、ポジ印画の部分は光があたらないため、流動的状態が持続して
いる。これをお湯の中につけて現像すれば、「流動的状態」のポジ印画はお湯にとけ
出し、和紙一枚をのこした孔のあいた状態になる。現像の良否を判定するには、試薬
メチルバイオレットでゼラチンを染色して透明度差を見ればよいわけだ。
耐刷能力八千枚の孔版
理想的には、しっかりと紫色に染まった感光された部分(これは印刷インキを通さ
ない)と、和紙一枚をのこしてゼラチンの洗い流された白っぽく染まった部分(これ
は印刷インキを容易に通す)とがくっきりと区別されればいい。これを再び乾燥して
土台のセルロイドを引きはがせば、印刷原版から完壁に複製され、和紙とゼラチンに
支持された強靭な耐久力をもった、ガリ版で印刷できる孔版用刷版ができ上る。普通
の孔版用紙だと、どんな名人が刷っても千枚も刷れれば上等だが、これだと七、八千
枚は可能だ。
配布のシステムがまた意表をつくものだった。大井町の地下工場で、一日四、五十
版の刷版がつくられ、これを小さく丸めて理科実験の棒状温度計のケースに入れて、
それらしい登別で、全国各地の拠点に郵送する。そして各地の拠点で印刷し配布す
る。耐刷効率を半分の三千枚と見ても、十五万部の「平和と独立」がでていたことに
なる。
私の記憶では、ドッぺイの配布期間は一九五一年から五三年にかけてだったと思う
が 注2、 この間の権力の狼狽ぶりは想像にあまりあるものだ。よりすぐりの印刷技術
者を動員しての、警視庁の必死の努力にもかかわらず、これがどのような技術によって
印刷されているかはついに判らなかった。ましてわずかの資金で、十五万部もの非合
法紙が長期に日本列島に流布されていた、 その政治的影響は大きかった。「平和と独
立」はたんなる一党派の政治的機関紙としてだけではなく、その技術と配布のシステ
ムを含めて、日本の革命史上特筆すべきものだろう。現在では、この技術は過去のも
のになってしまったが、資源の乏しい状況下では、格安の薬品類とお湯を使ったこの
技術は、形を変えて生かされる暗があるかもしれない。
パブロ・ピヵソの作品に、人々の胸元にバズーヵ砲をつきつけた構図の「朝鮮戦
争」という絵がある。「ゲルニヵ」の精神が脈うって流れている切迫感にあふれたも
のだが、この作品が一面の中央に大きく紹介された「平和と独立」の号が、妙に私の
頭にこびりついていた初対面の日、焼酎をご馳走になりながら、何気なくとり出して
見せてくれたドッぺイの印刷原版の中に、この「朝鮮戦争」の湿版写真を見出した
時、あまりにも見事な波潤万丈の話に半信半疑だった私は、佐々木正治を師とする
「黒雅舎大学」を「私の大学」にしようと心に決めた。
注1
佐々木正治の逮捕理由、年月日は、正確には聞いていない。
大井町の「黒雅舎」を、十重二十重に警官隊がとりまく、大捕物だったそう
だ。おそらくアメリヵの日本占領政策に反対する、あらゆる動きを封じこめるた
めに発動された、政令三二五号違反でやられたにちがいない。
注2 「読書新聞」連載終了後、手に入った資料によると、「平和と独立」は一九五
一年に発行され一九五二年三月には党内スパイの策謀でいちど潰滅状態になって
いるようだ。一九五二年七月頃から「平和と独立のために」という非合法紙が出
ているが、これは普通のガリ版や活版印刷が多くなっている。これが一九五四年
十一月まで発行されている。
「私の大学」の反面教師
寛容さから強制へ 「内なる天皇制」
佐々木正治に逢った翌朝早くに、たしか三月下旬の雪の降る朝だったと思うが、
私は黒雅舎で働くつもりで、出かけていった。彼はよもや翌朝やってくるとは思わな
かったようで、びっくりしていたようだ。この日から、一九五六年(昭和三一)四月
舞台芸術学院へ入学するまで満二年間、印刷工をやることになる。
もっともその後もちょくちょく黒雅舎で働いていたし、一九七〇年(昭和四五)
からウリウ治療室を開くまでの八、九年は、友人の印刷会社 注1で、翌年に使用する
手帖類のフィルム貼りこみを、秋口から暮にかけてやっていたから、私の印刷関係の
仕事は案外に長いわけだ。ついでに私の遊び人の生活を保つためのアルバイトは、サ
ンドイッチマン、パチンコ屋の店員、塗装工、舞台の大道具、照明助手、舞台監督、
新聞の校正、週刊誌のデーターマンなどだ。収入は治療室を開いてからは年収百万円
ほどになったが、それ以前は三、四十万で食っていた。三畳間五千円以上の場所に住
まなかったこと(現在住んでいる三畳間は満十八年になる)、結婚もせず(できな
かったが正確か)、残念ながら一人の子供もいない、まことにゴミクズの細々とした
貧相な生きざまをつづけてきた故に可能の生活だ。それでも十二指腸潰瘍で入院中
と、べーチェット病の初発症状の時期に断酒した数ヵ月の他は酒を飲みつづけてこれ
たのは、ゆすりたかりを許容してくれた人々の「寛容さ」のお陰だ。
「無意味」な労働
私が、生活人の何気ない視線に恐怖を覚えるひとつの理由は、黒雅舎の満二年間
に、労働の苛酷さと、意味するものの底深さを味わったためだろう。この後のゴミク
ズの生活では、むろんその時々に私の性格上そつなく懸命にやってはきたが、アルバ
・ ・
イトはいつでも逃げだせる徹底的に「無意味」な労働だった。いやそれ以上に、大道
具のバイトなどで、舞台袖からのぞく大劇団の芝居には、苛立たしい殺意すら覚える
・ ・
ほどだった。ゴミクズを意識すればするほど労働は、私の本質をますます疎外してい
く悪循環だった。逆説的にいえば、これが「発見の会」や遊び人の生活を持続させて
きたひとつのエネルギーだつたといえるのかもしれない。
黒雅舎での労働や、その体験を追体験しながらのぞき見をしていたアルバイト先
の、本物の印刷工たちの生活風景を知らなかったならば、私は遊び人やゴミクズを意
識することもなく、芝居もまた価値ある「労働」だなどとうそぶきながら、演劇「商
売」の大道を歩いていたことだろう。
黒雅舎では朝八暗から夜中の十二時近くまで働き、疲れるとおやじと二人で、奥さ
んに内緒で抜け出して、路地のつき当りの酒屋で焼酎正一合をグイと空けて、何食わ
ぬ顔で帰ってくる。ゴーリキーか誰かの小説にある、工場が終るとウォッカのロウ栓
を塀にこすり開けて、あおりながら帰路につく、無数のロウ栓の跡のついた高い工場
の塀が印象深く想い出されてくるような日常だった。一週間ぶっつづきの徹夜もよく
あることだった。
当時は、例の「ドッぺイ」の刷版を使って、出版社関係の原稿用紙や、会社の書類
を印刷したり、銀粒子の代りにグラハイトカーボンを使った永久保存に耐える第二原
図用の特殊のフィルムをつくるのが仕事だった。この仕事では感光剤とグラハイトが
うまく混合せず困っていたが、ふと芝居の大道具製作で泥絵具をまぜ合せる時、よく
エチルアルコールを用いていたことを思い出してやってみると成功して、グラハイト感
光剤の品質が安定したこともある。
佐々木正治からは、仕事にたち向っていく剛直さや、ねばり強い忍耐力や、物の変
化を見抜く観察力や、それらをひとつの形にまとめていく技術というものの普遍的な
あり方ー決して特殊に磨きあげられるものではなく、そのものの論理が了解できれば
即座に成立可能なーを教わった。
世界の多義・多元性の極北
失敗を決してとがめられず、もっととんでもない失敗をやること、いきづまったら当
の袋小路でモゾモゾと手直しをするのではなく、一八〇度違う方法でやってみること
を示唆された。それは正・反・合の弁証法が、仕事の現場で渦まき、成り立ってい
く、具体的な作業を認識体得していく教育でもあったようだ。
年のせいやカンのせいで人の労働を差別しないこと、あとからきたものの方が偉い
こと、過去の未練や落した金を決して拾わない思い切りのよさや、人々との開けっぴ
ろげな関係のもち方や、浅草育ちの江戸前の、粋な酒の呑み方など、人生全般の大切
な秘訣を教わった。
だが気に食わない面もあった。自らの激烈な生きざまや、自己の論理の絶対性を確
信した、自分の論理や言語構造の枠からはみ出したものや、ついてこれないものに対
するあまりのきびしい厳密さは、私のような果てしない自由自在さを夢想する立場か
らは、ある違和感があった。世界の多義性や多元性のひとつの極北である、一人の人
間というものの、絶対的存在の「どうしようもなさ」というものを、どのように認識
しているのか、と判らなくなるような場面に幾度か出くわした時、ここにもまた、寛
容さが論理的検証抜きに、突然強制へと変質していく、「内なる天皇制」の影を見な
いわけにはいかなかった。
これは私の底の底にもオリのようにしてある、いちばんの恐怖の原罪なのだ。他者
の存在の絶対性をどこまでも許容していく「寛容さ」のギリギリ決着の果ての、どん
づまりの亀裂状態の中で、なおも他者性そのものと化して我身を捨て無我無心となり
うるのか、自己執着の化けの皮がはがされ、他者への強制や無関心をよそおったあき
らめへといきつくのかは、いつも自らにかえってくる永久の循環運動だろう。「発見
の会」の「場の論理」が、佐々木正治をひとつの「反面教師」として構築されてきた
としても、理由のないことではない。
東京での三度目の春を迎えた一九五六年(昭和三一)四月、はじめの約束どおり黒
雅舎を円満退職して「河原乞食」の人生を歩き出した。私の入った舞台芸術学院(略
称舞芸)には「 鷗座」公演以来のなじみである土方與志がいたし、節操のある自由主
義者秋田雨雀が学院長だったこともあって、私の肌に合いそうな魅力があった。
注1 この友人都築三郎は同じ黒雅舎で一緒に働いた。私より年は七つほど上だが、
私の弟弟子にあたる。黒雅舎を退めて、中学時代の同級生と「アジア印刷」とい
うオフセット工場を経営する。黒雅舎での体験は、私と都築それぞれに世界を見
る独得の眼力を、鍛えてくれたようだ。
私にとって黒雅舎もさることながら、「アジア印刷」の印刷工たちとの生活で
教わった、(労働)というものの〝どうしようもない 正負の重みは貴重な体験
だった。
「発見の会」前史
第三章 遊び人の「訓練」と「技芸」
三大劇団の、火の子を避けて通る処世術
舞台芸術学院は野尻与顕(よしあき)という産科医が、天折した息子の俳優野尻徹を
記念して、彼の活動根拠地だった場所を提供し、郷里の青森に疎開していた秋田雨雀
を学長に仰いで設立した(一九四八年九月)。設立後一年ほどして、共産党の文化活
動家を養成する中央演劇学校(校長土方與志)と合併して、学長秋田雨雀、副学長土
方與志となった。校主の野尻与顕は気骨のある老産科医で、戦前から社会運動や産児
調節運動にかかわっていたようで、入学式のあいさつにも、恋愛は自由だが女優志願
の子が子供ができることでむなしく挫折していくといった愚は避けるべきだといっ
て、ぺッサリー、リング、コンドームといった産児制限の具体的な話をしたのには
びっくりした。
野尻医院と棟つづきの古ぼけた木造の建物で、スタジオ・デ・ザールと大きな看板
がかかっていた。現在の池袋西口丸井の裏にあったが、入学した年の秋には新校舎が
できて、三百メートルほど東南の、目白寄りに移った。
講師陣は故秋田雨雀(六二年没)、故土方與志(五九年没)の他、ことばの訓練を
担当していた築地小劇場以来の演出家故山川幸世(七四年没)、イタリアでベルカン
ト唱法を学び、帰国後「無情の夢」「愛馬行」で売り出した声楽家の児玉好雄、絵画
デッサンの故近藤晴彦(六九年没)、心理学の乾孝、新劇史の茨木憲、美学の井手則
雄、バレーの岩田美津子、体操の故三橋喜久雄(六九年没)、教務主任の藤枝一雄、
そしてクラス担当に相当する演技実習の指導教官が故風見鶏介(八二年没)といった
メンバーだ。
役者志望者も、演出、美術、音響、照明といった裏方(役者を裏から支える人の意
で制作・宜伝、営業等の表を支える人を表方という)志望者も、二年間は演技の基礎
を叩きこまれるシステムで毎日朝九時から午後三時まで、発声やバレー、体操、早口
ことばなどをやらされた。二年になると中間公演と卒業公演という二本の芝居の実習
がある。
あの頃の新劇界の主流は「俳優座」、「文学座」、「民芸」が圧倒的な力量を誇
り、それぞれの附属養成所の出身者たちが、いわばエリートとしての将来を約束さ
れ、舞芸出身者は傍流におかれるといった状況があった。これは戦後革命の敗退や朝
鮮戦争以後のレッドパージや共産党の非合法という政治状況を、うまくごまかして火
の子を避けて通った三大劇団の処世術の問題とも関連するだろう。気骨のある共産党
員秋田、土方の舞芸はマイナーな状態を甘受する他はなかった。三大劇団の養成所に
入りなおすのもいたようだ。
日本共産党に忠節すぎたために、硬直した教条的な部分はあるにしても、秋田雨雀
や土方與志がもつインターナショナルな視野の広がりや、自己の信ずるところを貫き
通した生き方と身近に接しうる楽しさは、私には何物にもかえ難いものだった。
私のいた舞芸八期生の何人かは、板橋にあった秋田家の二階の八畳間を間借してい
た。真下が書斎兼寝間で、先生は奥さんにも娘さんにも先立たれ、孫の静江(五九年
自殺)さんと二人で暮していた。貧乏な演劇学校のわずかな手当の他、持病の結核で
執筆活動も精力的にできず、ほんとに質素な生活だった。私は黒雅舎時代から引きつ
づいて、五反田の正美の会社の三畳間に夜番兼の居候をしていたが、秋田先生の何か
しらの気配に接したくて、ちょくちょく二階の八畳間での酒宴を励行していた。
ご機嫌うかがいにたまに書斎を訪ねると、童顔をほころばせて、私のロシア語の勉
強の進行状態などを聞いて下さった。お見舞いにさし上げたシェフチェンコの詩と手
紙に対して、若き露語(パルスタイ)の友に贈ると題して、啄木の「新しき明日の来
るを信ずという自分の言葉に嘘はなけれど」のロシア語訳の色紙をいただいたことも
ある。またある時はしたたかに酔っぱらってマッカリ(朝鮮ドブ)をぶちまけてしま
い、階下の書斎の大事な本を汚してしまった。翌朝、一同悄然としておわびにいくと
「あまり飲んで体をこわしてはいけませんよ」とポツリといわれて、いたたまれなく
なったこともあった。
「舞芸」第一学年の夏休みから翌年春までの十ヵ月近くは、秋田家へ巣くっていた
連中を中心に有志を集めて人形劇をはじめた。かつての若松時代にやったレパートリ
イや新しく創作した作品をもって、東京近郊の障害児童や戦災孤児などの施設を巡回
してまわった。バレーや発声や「公開の孤独」(他人の視線に身をさらしながら、注
意を集中して舞台の虚構に没入する訓練)や「鏡の訓練」(二人で向いあって鏡に映
る仕草を追っかけるように一人の仕草を素早く正確に真似る訓練)や「無対称行動」
(茶ワンやハシや酒びんをもったつもりで仕草をする)などの糞面白くもない基礎訓
練よりも、子供でもいいから生の観客の反応が欲しかったのだろう。
いまだに疑問なのは、観客の存在をただちに想定できないこの種の訓練が、果して
新しい演劇人の養成や教育に必要不可欠のものなのだろうか。能狂言などの古典芸能
でのすり足や歌舞伎の所作事などを、子供の頃から何十年と叩きこまれる過程と、つ
いに素人でしかない私たち遊び人の「訓練」とは本質的に位相が違う気がしてならな
い。私たち素人がやるべき重要なことが、もっと他にありそうだ。こうしたひとつひ
とつの断片をいくら磨きあげて精密にしてみたところで、これらの集積が私のいう
「技芸」になるわけではない。
私たちが、したたかな遊び人としての「わざおぎびと」になっていく根拠は何なの
だろうか。そのための効率のよい方法やシステムがあるものなのか。私にはしかと考
える術はない。が、演劇のエの字も知らない連中が、悠然として演劇を楽しみ、はる
か先までつき抜けてしまった、いくつかの「発見の会」の現場のうちから、答えとな
るべき種子を見つけ出してくる他はないだろう。
「芸」の始源の混沌へ
現在ただいまの、最大関心事へのとり組み
舞芸一年目の秋には砂川基地拡張のための測量が強行され騒然となった。私たち舞
芸自治会は全学連に加入して砂川町に泊りこみ、歌と踊りのバラエティーショーを仕
こんで、闘争の合間のひとときを、隊列のあちこちや神社の境内でやった。これは土
方與志がいうところの「コンチェルト・エストラーダ」(朗読小咄、歌、踊りなど多
種のジャンルをひとつの政治的メッセージにまとめる文化煽動隊の形式。エストラー
ダは高座、寄席の意)の実践だった。
「伝統芸」の生活者
数千のデモ隊と機動隊とが対峙した夕刻の一触即発の時、「赤とんぼ」の歌が湧き
起こった隊列の只中に私はいたが、あの歌の意味はなんだったのか。次々と歌でも
歌ってなきゃ間ももたなかった。全くの素手でスクラムを組んでいたデモ隊には、次
にくる機動隊の暴力の予感にふるえる悲鳴だったか、あるいはアメリカ軍の基地拡張
への、日本人のナショナルな心情の吐露だったのか。おっちょこちょいの舞芸の連中
が、折からの夕焼けシーンに乗って歌いはじめたのかもしれぬが、とても奇妙な情景
だった。「赤とんぼ」の歌を打ち消すように機動隊が襲いかかり、引きずり出されて
は、機動隊の乱打のトンネルに次々と送りこまれていった。機動隊の暴力行為で多数
の負傷者を出したこの日の流された血の代償として、政府は強制測量無期延期を決定
しなくてはならなかった。
翌一九五七年には中間公演と卒業公演の、二本の芝居の準備がはじまり、いまなに
をやるべきかが問われてきた。当時は戦後の挫折を問い返す「国民文学論」を背景
に、さかんに伝統の継承発展が論議されていた。いまならすでに見える形に固着され
てしまった「伝統芸術」なんてものは、制度の中での「常識」を疑うこともなく、
食ってきている「伝統芸」の生(、)活(、)者(ヽ)にまかせて、私たちは「芸」
の始源の混沌へ辿りつきたいのだと、はっきり断言できる。があの頃は、自分が立っ
ている歴史的土壌から生み出されたひとつの「形」を知らなくて、なにが新しい演劇
創造かと一途に思いこんでいた。また修業中の課題作品にふさわしい、シェイクスピ
アやモリエールや三好十郎や田中千禾夫などの作品を選ぶべきだとする意見に対し
て、修業中の身であろうがなかろうが、年や才能に関係なく現在ただいまの、最大関
心事にとり組みたかった。
私たちの指導教官風見鶏介は、アメリカ三〇年代の黒人文学に造詣が深く、立教大
や戸板短大の講師のあと、三島雅夫や玉川伊佐男などと集団をつくって劇作や演出を
やっていた。どういう事情か知らぬが、私たちとの二年間は、舞芸の講師以外の仕事
はしていなくて、四十半ばにして女房子供の影も見えず、俗事にうとい無欲情淡の暮し
をしていた。
私たちのわがままに寛容だったことと、風見鶏介自身の関心事が合体して、中間公
演にはフリードリッヒ・ヴォルフの『森の野獣』を選び、卒業公演は「伝統(芸)」
が庶民の生活のなかに色濃く残っている、深川木場を題材にした集団創作を行なうこ
とになった。どちらも私たちの手にあまる大仕事だった。
『森の野獣』は、敗走を重ねるナチス・ドイツの東部戦線へ狩り出される、少年兵と
幼馴染の娘との愛の悲劇で、骨格のしっかりした近代的手法のドラマだった。これま
での慣例では、公演前の何日間かは土方與志が稽古を見てくれることになっていた。
私は風見鶏介の演出助手をつとめていたが、土方與志が現われてからは、ぼんやりと
した不鮮明な部分がしっかりとした描線に変り、各役の行動のぶつかりが露わになっ
ていく様子を興味深く見ていた。
「契機性」と「逐次性」
この引き締っていく稽古場のキイワードは、「契機性」と「逐次性」というもの
だ。つまり次への行動の契機となる具体的な行為を、その場の関係のなかから(相手
役との交流などというが)逐次確実に見つけ出して、役の一貫した必然性を(貫通行
動などといってたが)追求していくといった、後でふれるつもりだが、「スタニスラ
フスキー・システム」注1 というものの具体的な展開の現場を垣間見た。中間公演は二
組に分けての配役のため、時間がなく徹夜の強行軍だったが、はじめてクラスのまと
まりができた。
木場は江戸時代からの木材の集散地で、川並という筏乗りの特殊な職人をはじめ、
各種の木材関係業種の集まった街だ。私たちは約十ヵ月間、やがては東京湾の埋立地
へできる巨大な木材プールへ吸収され、川並などという職業は、江戸文化の残香を伝
えるこの街とともに消え去る運命にあった、深川木場に入りこんで調査や聞き書きを
集めた。風見鶏介は執筆責任者として木場に泊りこみ、小山内薫の息子さん(評論
家、小山内宏)一家に偶然出逢って、そこの二階にお世話になったりした。 一方では何も知らない「伝統芸」の知識をなんとかしようと、私は伝統芸術に関す
るカリキュラムを作成し、藤間多門の日舞や岡本文弥の新内の稽古事をはじめ、田辺
尚雄の邦楽、
崎宗重の浮世絵、神保五弥の江戸文学、廣未保の伝統論などの特別講
座のアレンジをした。
老川並と十八歳の娘との恋物語をタテ軸に、消えゆく木場の哀歓をうたった難渋を
きわめた集団制作『木場物語』は、決して深々とした問題提起にはなりえなかった
が、そこへ投入された私たちのエネルギーは莫大なものだった。私は権十という川並
の頭を演じて、観に来た川並の親方連に「なんだ若松の生れか、どおりで仲士の臭い
のする泥臭い川並だった」と皮肉をいわれた。
卒業後、私たち八期生の集団をつくろうという動きもあったが、私は土方與志に師
事して彼の図太い骨格の演出術をもっと学びたいと思い、彼を芸術的指導者として、
舞芸出身者でつくっている劇団「舞芸座」に入座した。直接のきっかけは、シェイク
スピア作『ベニスの商人』の「舞芸座」公演を観て、土方與志の舞台づくりのダイナ
ミックな感覚と、のびやかな躍動感に目を見はったことだ。風見鶏介を中心とする八
期生の集団「白鳥座」も結成され始動をはじめた。ともに一九五八年五月の頃であ
る。
注1 「あとでふれる」といいながら、全くふれる機会もなく終ってしまった。いうまで
もなく、ネビログィチ・ダンチエンコとともに、「モスクワ芸術座」を創立したコ
ンスタンチン・セルゲーェヴィチ・スタニスラフスキーの俳優教育と舞台形象のため
のシステムだ。役の人物を生きる「体験の芸術」は、技巧をこらした紋切り型や、
小手先の芸ではなく、真の創造的インスピレーションにささえられた体験の自然さ
(純粋さ)だという。ここへ一歩一歩近づく過程のための「創造的コンディショ
ン」の確立と、その上にたって典型的舞台形象を創造する方法だというのだが、ど
んなものか。
世界の多元的演劇構造のなかでみると、きわめて振幅のせまい戯曲の絶対性を固
持する近代劇の心理主義的自然主義や、現実のなぞりとしての写実主義の一方法に
すぎない。まあ、役の集中化の過程での、日常から非日常への契機をっかむ 分析
法 としての意味はあるようだ。
こういうのが好きな趣味の者を、どうこういう必要もないが、これがロシヤ革命
の根底的基盤である《ツヴィエト》(自治的共同体)を圧殺したスターリン体制に
よって「国策的演劇」
制作の理論的支柱に取り上げられ、日本の戦後演劇にも重大な影響を与えた歴史的
事実は、徹底的に検証する必要がある。土方與志が、スタニスラフスキー晩年の、
役の「行動」のな
かに全ての契機性の種子をみようとする、「身体的行動の方法」を、重要な示唆と
して受け取っていた様子は、彼の 心理主義 を毛ぎらいしていた本性からのものだっ
たようだ。
「革命芸術」旗手たちの圧殺
社会主義リアリズムの日本における定着の大網
「舞芸座」は一九五五年一月に、秋田雨雀を所長に、土方與志を芸術指導者として、
それまで各劇団に散在していた舞芸出身者が寄り集まって発足した舞台芸術学院附属
研究所が、五六年から劇団「舞芸座」を名乗るようになったものだ。西沢由郎、森三
平、飯岡敏一、牧冬吉、月まち子、村井志摩子、後藤陽吉、小竹伊津子、南祐輔、木
俣貞雄、岡部隆、野中培子、坂口俊、中島幸雄、上甲まち子、牧口元美などいま考え
るとかなりの力量の連中がいた。
今の私には考えられないことだが、遊びの集団が自らの制度を持つことへの、何の
疑いも異和感もなかったらしく、劇団規約があり総会があり、幹事会があり、座員の
等級づけ(劇団員、準劇団員、研究生)があった。またこうした秩序をつくること
が、「民主的」だと思いこんでいたようだ。もっともいまだに、絶対的権力をもちた
がる演出者や作家や人気俳優が、肉体関係や金銭関係や何かしらの特権と引きかえに
つくり上げた、パーソナルで陰湿に閉鎖した数人の劇団幹部会が、権力者の意を体し
て運営していくのが、大から小まで一貫して共通な演劇集団の内実のようであるか
ら、「舞芸座」の「制度」はまだ、開放的であろうとする可愛らしさがあった。
「劇的なるもの」との対決
規約の目的には「『舞芸座』は舞台芸術学院の伝統を生かし、その芸術的基礎の上
にたって、国民演劇の確立に参加する」とあり、創造路線(こんなことばをマジにい
いかわしていたものだ)は、シェイクスピアを土台にして、チェホフ、ゴーリキーをく
ぐり、動く大衆の生活の真実を措く創作劇へといったものが、座員の了解項というか
お題目になっていた。これがどうも土方與志が考える、社会主義リアリズムというも
のの日本における定着の大綱ということになるらしかった。ただ、ことばではこんな
雑駁なお題目を唱えながらも、土方與志の本質は明らかにちがっていた。
《伯爵という生れついた「栄光」(一八九八年四月十六日生れ)と、父親の自殺
(生後三ヵ月目にピストル自殺。私は父親の血しぶきをあびて産湯をつかったといっ
ていた)や明治天皇の懐刀といわれた祖父土方久元の残した、莫大な負債という人生
の重荷を切り返して、小山内薫と共に築地小劇場を創立し(一九二四年)、その小屋
主ともなって経営全般の目くばりをした(祖父の三十数万円の負債は、土方家の番頭
三宅某の助けをかり、わずか二年間の株の操作で返済しさらに五十万円近い金を浮か
した。これが劇場建築と運営の資金となる)。さらに小山内死後(一九二八年)、築
地小劇場の分裂、新築地劇場の創立(一九二年)。左翼演劇への傾倒。モスクワ国際
演劇オリンピアード日本代表として密かに入ソ(一九三三年)。その後モスクワ革命
劇場演出班員。第一回ソ連作家同盟での報告演説のため爵位剥奪。一九三七年スター
リンの反革命分子粛清の余波をうけて国外退去、フランスサンピエールでの農業経
営。一九四一年帰国、作家同盟での演説と日本での共産党への献金のカドで即日逮
捕。五年の刑を受け、新劇人で唯一人敗戦までの四年間獄中にといった、常人には想
像もつかない、波瀾万丈の人生を歩いた土方與志の目は、日本共産党への忠節を誓う
自らの意志さえ裏切って、したたかに世界の深部の混沌を見すえていた》尾崎宏次・
茨木憲『土方與志ーある先駆者の生涯』(筑摩書房)、『土方與志演劇論集・演出者
の道』(未来社) 参照。
土方與志が出逢った第一次外遊時(一九二二ー二三年) のヨーロッパ・ソヴエト
演劇は、いまなお私たちの熱情をかきたててやまない、可能性あふれる燃えさかるル
ツボだった。第一次世界大戦で引き起こされたソヴエト革命の勝利と、ヨーロッパ革
命の敗退による、世界秩序の、破綻から修復へのプロセスは、いや応なく表現者に、
世界の深部にある「劇的なるもの」の存在と真向から対決せざるをえない緊迫した状
況を突きつけていた。
共産党の文化使節として
この世界的な演劇の高波の前には、スタニスラフスキー、ネミロヴィッチ・ダン
チェンコをはじめ創立のメンバーの名優が出そろっている、パリで観た「モスクワ芸
術座」ソヴエト国外公演も土方與志には「激しい感激を与えてくれず」色あせて見え
た。
「私は『どん底』『桜の園』などを連夜見つづけた。……『どん底』の上演も、何か
完成美のようなものは感じられたが、ひどく平板なものに感じられた。私はその後長
い間(モスクワ芸術座)の創造に対して疑問を感じ、批判的になりがちだったのは、
この第一印象のためであった」(『演出者の道』)。
そして第一外遊時の出逢いのなかで、決定的な影響を受けたのは、関東大震災の報
を知らせる河原崎長十郎の手紙で発奮し、焼跡の東京に新しい演劇興隆の夢の殿堂を
建てるため、急ぎ帰国の途上、モスクワで観たメイエルホリドの『大地は逆立つ』
だった。
「スポットライトのみの照明、客席を通過して舞台に馳せるサイドカア、思い切った
俳優の動き、などなどすべて新鮮な撥刺とした感じを与え、驚嘆せしめるに十分のも
のばかりであった。
〈自然主義〉的な、あるいは〈印象主義〉的な演出に疑問をもち、真実なものを探
しもとめていた私にとって、其の演劇の開放がここに実現されているかのように感ぜ
られた。
後年、私はドイツ留学時代の観念的な〈表現主義〉と共に、この時激しく私を捉え
た〈形式主義〉の影響に、長く苦しめられるであろうことには気ずかず、この新た
な、奇智縦横ともいうべきメイエルホリドの演出に圧倒されてしまった」(『演出者
の道』)
土方與志が左翼演劇に傾倒していく時期と、ソヴエト革命の内的敗退による、ス
ターリン体制の確立(社会主義リアリズム論の提唱や、メイエルホリドやエイゼン
シュタイン等に対する形式主義批判は、表現運動へのスターリン体制の浸透だった)
の時期とが、きしみ合いながら、重なり合っていったのは、土方與志にとってもまた
不幸な時代だったといわねばならない。しかも、彼は死ぬまでこの自らを縛る、「社
会主義リアリズム」論に象徴される「圧制の体制」から抜け出ずに終った。
土方與志の不幸は、ソヴエト革命の自由な息吹きを感得させた、メイエルホリドに
よる「真の演劇の開放」と、それにひかれる自分の感性を「反革命的」「反人民的」
なものとして、それからの脱却を図る、無意味なまでに悲しい作業を自らに強制して
いたことだ。
『演出者の道』に収められている「メイエルホリドの死」というエッセイを読む
と、土方與志のメイエルホリドへの親密感あふれる「友情」と、忠節な党員芸術家と
しての、堅いタテマエとの分裂がよくわかる。
「再びモスクワにいく機会がきた。旧知メイエルホリドに会えることも、この旅の
喜びのひとつであった。しかし、私はこの旅の最大の目的は演出者として欠陥を生ん
だ過去のあらゆる影響からーなかんずくメイエルホリドの影響から脱却して、新しい
真の創造的方法を学ぶことにあった」「過去の演劇的伝統に根ざした真の写実主義演
劇を探求創造することが、演出者の課題となり、私は、自分に対しての再教育再出発
の必要を痛切に感じた」
土方與志は、国際演劇オリンピアード日本代表として入ソし(一九三三年)、彼の
いう「再教育」のため、アレクセイ・ポポーフの率いるモスクワ革命劇場に就職し
た。モスクワ革命劇場の演出班員時代にも、メイエルホリドに大きな親近感をもっ
て、メイエルホリド劇場にいつも出入し、メイエルホリドの形式主義批判の総攻撃の
現場にも立ち合っている。戦後はじめて「モスクワ芸術座」が来日した時にも「お金
を貯めて全部観なさい。でもあれは日本の歌舞伎と同じで、もっと現代的で面白いの
があるんです」といっていた。
私たちは幾重にも重なるトバリを透して察知している。ソヴエト革命の挫折による
スターリン体制の確立と軌を一にして、国策芸術の土台づくりに利用されたゴーリ
キーやスタニスラフスキーの「社会主義リアリズム」や「システム」の蔭で、メイエル
ホリドをはじめとする「革命芸術」の旗手たちが圧殺されたと同様に、土方與志は自
らみずみずしい感性をねじまげ、共産党の文化使節として懸命な戦後だったようだ。
最後の演出である花田清輝の『泥棒論語』は、自己批判で葬った土方與志の本質が、
閉ざされた棺の蓋を押しわけてほとばしった、素晴らしいフィナーレだつた。
注1 本書 50頁注2「メイエルホリドのビオ・メハニカ」参照。
「戦後演劇」の転換の指標
六〇年代演劇の引金 「舞芸座」公演『泥棒論語』
『泥棒論語』が書かれたいきさつには、私は直接タッチしていない。入座すると早
速、私たち八期生の幾人かは『ベニスの商人』の旅公演をやらされた。私も裏方をや
りながら、チョイ役を貰って東海、中国地方を巡演して帰ってくると準備が進んでい
た。口では図式的なリアリズム路線を唱えながらも、土方與志の本質や、シェイクス
ピアで開放された俳優たちの肉体は、もっと違った新しいリズムを求めていたのかも
しれない。現在朝鮮民主主義人民共和国へ帰り、児童劇やTVのシナリオなどを書いて
いる鄭泰裕が、この新たなリズムをつくることに熱心だった。
啓蒙主義者花田清輝
当初安部公房に創作劇を依頼したのだが、彼は書かずに花田を紹介した。あの頃花
田清輝のところに創作劇を書くようにいってくる劇団は皆無だったようだ。花田はな
ぜ 「舞芸座」に書いたのだろうか。安部公房の紹介で、やってくるはずのない劇作
の依頼がとびこんで、自分の批評運動のひとつの「形」を見届けたかったのか。ある
いは新劇の主流からはずれた地点で、孤立無援の活動をつづけている秋田・土方とそ
こへ集まっている若い連中になにがしかのシンパシィや可能性を見たのか。いくつか
の偶然と、花田のやりたい意志が合わさって、戦後演劇の転換の指標ともいうべき
『泥棒論語』が生れた。
「土佐日記」によるファンタジーと副題のついたこの作品は、藤原摂関政治の没落
で、人々は泥棒をするか、乞食をするかの道しかない混乱の転形期を背景に、土佐の
国司から京へ帰任する紀貫之を主人公にして、幻の政治的レポート「土佐日記」をめ
ぐっての争奪戦に、藤原純友や平将門の反乱をからめ「戦争か、平和か、ということ
が、泥棒をするか、乞食をするかといいなおしてもおかしくない現状」(花田)に対
して第三の道を、つまり暴力を否定して、人々の不動金縛りの心をのびのびと解きは
なつ「革命」への道を示唆している。注1
紀貫之の帰任の船を乗っ取った地蔵一味と、解放軍純友一派の船上での大乱闘や、
紀貫之が称賛してやまない江口の里の遊女蝶々御前がひきいるくぐつたちのサーカス
芸や、陰陽師安部幽明に弟子入りする少女霧の秘術などの、アクションの楽しみを配
して、花田の主張である、芸術の大衆化=ジャンルの綜合化というテーマを、ひろび
ろとした「柔らかなユーモア」(秋田雨雀)に包んで展開した、偉大な啓蒙主義者花
田清輝の面目躍如としたものだった。
これが「戦前」の構造をそのままに、戦後へのめりこんでしまった「戦後演劇」と
の訣別と新たな演劇運動の「のろし」であり、六〇年代演劇の引金にもなったはずだ
という私の従来の考えを、いくら強調してもしすぎることはない。また花田のその後
の劇作に比べても、骨格の大きさや舞台化のリズム、空間配置や、アクションの大衆
性などの点からいって、いちばんの成功作といえる。
『泥棒論語』土方演出プラン
土方與志は、前年にも新劇代表団長として訪中したが、この年の三、四月と、松山
バレー団に随行して再度中国を訪れた。鬼のいない間のたとえではないが、帰ってく
るとお膳立が進行していた。尾崎・茨木の『土方與志 ー ある先駆者の生涯』による
と、この仕事は気に染まぬと梅子夫人にもらしていたそうだ。「三十年前にやったこ
とを、今更なぜやらすのだ」といった意味のことを聞いたことがある。
公演終了後の「座内合評会」のメモをみると、土方與志は、家中のものには不評判
で「親父はなぜあんなものをやったのか。超々課題(スタニスラフスキー・システム
慣用語で、個々の作品のテーマを超えて「人民のために」志向する心情や、社会主義
の絶対性の確信を讃う信仰のようなもの)がなく古くさい。せっかくあそこまでやっ
てきて(意味不明)なぜ逆行するのか」といわれた様子を語り、月まち子はそれに対
して「不充分だったとは思うが、不評判だったとは…‥」とことばをにごして、「お
客が喜んでくれたというのはいまのお客の要求に応えたものではないか」と反論して
いる。この合評会でこの上演をきちんと評価したのは月まち子、村井志摩子、坂口俊
他少数の人々で、大部分はあいまいな態度のままで終っている。土方與志が「メイエ
ルホリドやタイーロフの、テアトロ・サチール(諷刺劇)や拡大されたリアリズムに
基礎をおいて、この仕事をやりとげた」といっているのが印象的だ。
私はこの公演では舞台監督助手で大道具屋の交渉や小道具づくりに追われ、美術の
安部英知と徹夜でサーカスの馬をつくったりで、あまり稽古には立ち合えなかった
が、土方與志は「演出者は五十本くらい演出すると、戯曲とともに呼吸することがで
きるようになる。私はこの作品を毎朝四時に起きて百回ほど読んだ」となみなみなら
ぬ意欲を語っており、はじめての演出部会で演出プランを説明する興志の奇抜な思い
つきに仰天し、ここで鯨が潮を吹くだの、マサカリでぶち切った時犬の首が飛んでい
くだの、暴風雨で舞台の床を大ゆれに揺らせだのの要求に頭をかかえたものだ。稽古
が盛り上ってくると、信頼していた俳優三島雅夫を呼んで何日か、演技指導に立ち合
わせたりした。
この公演での土方與志は、どんなに気に染まぬことばを吐いてたにせよ、稽古の過程
や公演中のダメ出しには、水をえた魚のような若々しい身振りがあった。土方與志の
群衆場面(海賊地蔵一味と解放軍純友一派との乱闘や、船上での人民裁判の場など)
の処理は圧巻だった。まさにメイエルホリドのビオ・メハニカ 注2 の再来だといえる
だろう。「三十年前にやったことを、今更なぜやらすのだ」ということばの裏には、
「もはや劇場や俳優技術の、生物学的なあるいは機械的な解放ではすまなくなり」其
の写実主義演劇を探求創造するための再教育を自らに課している興志の、とまどいと
旧知の情人に逢った一種のテレのようなものだったのかもしれない。土方演出によっ
てこの作品は骨格のはっきりとした、論理性と大衆性とが、ひとつの新しいリズムと
なって舞台化された。ただ最後の幕切れで、一言なにかいいたかったらしく、花田と
やりあった結果、蛇足的な蝶々御前のあいさつをつけ加え、花田に「PTA的発想だ」
と皮肉られている。注3
上演の成果は、花田も感嘆していたし、世評も高かった。『泥棒論語』との出逢い
ほ、この後の「舞芸座」と私の生き方にぬきさしならない大きな影響を与え、それは
「発見の会」や六〇年代演劇の成立にも深くからみ合ってくるものだった。
注1『泥棒論語』上演パンフレットより作者のことば
演劇の大衆化を笑劇のかたちでやってみたいのです。『土佐日記』をとりあげ
たのは、生活つづりかたその他の今日の記録文学にたいするわたしの考えを述べた
いためもありますが、なによりそこで描かれている平安中期が、藤原氏による摂関
政治の没落期にあたっており、現在と同様、転換期であることに興味をいだいたか
らであります。
当時は飢饉天災が相い次ぎ、人民は、乞食になるか、泥棒になるか、いずれかを
えらばなければならないような状漆におちいっていました。わたしはこの作品のな
かで、それ以外にも第三の生きかたのあることを強調してみました。戦争か、平和
か、ということが泥棒をするか、乞食をするかといいなおしてもおかしくないよう
な現状では、仕方がないと考えたからであります」
注2 演出家メイエルホリドが一九二〇年代初頭に提唱した俳優術の理論。
創立メンバーでもあった「モスクワ芸術座」の保守的な、写実主義心理主義的傾向
に反対して、アクロバットやマイムの即興や律動的アクションを重視し、俳優の体
力を最大限に駆使することによって、《時代と呼吸をする》強烈な表現をえようと
する。以下メイエルホリドの『演劇メモ』(『世界評論 社)の一節を紹介してお
く。「赤軍兵士や労働者、農民たちの脈動する劇的生活に向けて、われわれは何を
準備すべきか。もしも、既成の戯曲がないとしたら 一 郎興ということになる。
劇場や野外におけるこの自由な即興の経験は、いったいどんなものか。ここでただ 目につくのは、徹底的に相反しあう二つの方法である。
ひとつはモスクワ芸術座のご婦人部屋で使いふるされた、心理的自然主義の苦
悶、精神的緊張のヒステリー、風呂でふやけた筋肉から生れたやつだ。これら
は、揺りかごや、ティーポットのあるマイホーム的快適さの『エチュード』と
『即興』、空騒ぎする古い通りや並木道の『エチュード』であり ー これらす
べては、現象の心理的本質を覗きとらんがためになされるのだ。
もうひとつの方法はー真の即興の方法であり、あらゆる時代、様々な民族の真
の演劇の成果と魅力を手品のように結び合せる方法である。ここにこそ初期の娯
楽的集い、踊り等が演劇化されていくシステムの根源に通じる、真に演劇的、真
に伝統的なものが匿されている。
そしていうまでもなく、新しい共産主義的ドラマツルギーの根っこは、古くさ
いエセ科学、あやしげな心理的法則に対し、ビオ・メハニカと運動力学に基礎を
おく『うごき』の正確な法則を対置させる、演劇の肉体訓練のなかにあるのだ。
この『うごき』というのは、すべての『心的体験』がその『うごき』のプロセス
のなかから生みだされる種類のものだ。『心的体験屋』たちが、インポテントな
溜息によってそれに代えようと無駄な苦しみをする、せいいっぱいの間投詞『あ
あ』は、たった一度、手を叩くことで解決できる。このシステムこそが、また脚
本構成の唯一の正しい方法を示唆するのだ。動作が、喚声や言葉を生むのであ
る。〈略)
何が必要なのか。身体的技術が、俳優にとって唯一の生産手段たる、もの〈肉
体)を完成させる肉体的表現性の技術が必要である」
文教人民委員会演劇部長にまでなって、ロシヤ革命の渦中にとびこみ、演劇
運動をおしすすめたフセフォロド・メイエルホリドは、一九三七年十二月十七日
付ソ連共産党機関紙「プラウダ」の「われわれに無縁なる劇団」にはじまる政治
的キャンペーンにより劇場閉鎖、演劇活動の停止、自己批判の要求を受ける。
しかし自らの信念を曲げず、革命の敗退や、体制に順応する演劇人の頽廃を逆
批判する反撃に出たため、一九三九年逮捕され、一九四〇年二月二日銃殺刑に処
せられた。夫人のジナイーダ・ライヒは、メイエルホリド逮捕直後に何者かの手
で、無残な虐殺を受けた。
注3 蝶々御前(観客に向って)紀貫之先生は、暴力がまったく消滅してしまうまで
には、これから千年ぐらいかかるだろう。いや、千年ぐらいでは、まだ無理か
な。とおっしゃいましたが、ちょうど今年がその千年目にあたります。皆さま。
はたして暴力は消滅してしまったのでしょうか……。今日のお芝居はこれでおし
まいでございます(と、ニッコリ笑ってお辞儀をする)。
花田 昭和初期にプロレタリア芸術運動があった。しかし、今の芸術運動は、そ
れを越えてそれが更に否定されねばならぬ段階にきている。大衆化ということは
上から押しつけることではない。アヴァンギャルドというと、彼等は「昔われわ
れはやってきた」というようなことを言って、前のまま進められている。しかし
われわれは戦争の体験を通して学んで来たんだ。そこのところを素通りしてはい
けない。戦争中の抵抗の問題をとり入れていない。モダニズムとプロレタリヤ芸
術、この一方だけではどっちをとっても駄目で、綜合しなくてはならない。それ
には「社会主義リアリズム」なんていうアイマイなものによりかかっていたんで
はどうにもならないんだ。
花田 固定したリアリズムの観念と、道徳的なヒューマニズム、そういうものを
徹底的に否定しなくちゃならん。PTA的なやつも芸術を解らないんじゃないん
だ。解っていて、PTAの立場としてはこうあらねばならんという心にもない説教
をする。それがPTAのPTAたるゆえんだ。それが左翼の欠点で、何か言うと勅語
みたいになっちゃう。
花田 やはり打開の道は進歩的な運動をやっているところから見出さなくてはな
らない。それなのにそこがPTA的なんじゃ困っちゃう。文学なんてもっとひど
い。
(『泥棒論語』上演パンフレット「大衆化とは何か」花田清輝、安部公房、尾崎
宏次の座談会より)
「舞芸座」革新派の組織力
花田清輝を転回点とした新たな演劇運動
『泥棒論語』の公演をどう評価するか。自己の内在する欲求が、この作品との出逢
いで解き放たれ、のびやかに息づいていくのを感得することができたのか。あるいは
いつもの惰性で、与えられた役をそつなくこなして「たまにはこんなものもいいや」
と受け流していったのか。または硬直した共産党員にありがちの形式主義、モダニズ
ムと否定し去るのか。
花田清輝の時代への感性や論理を、同時代人としてどのように感知するのかという
問題ともからめて、「舞芸座」の将来に重大な方向性を与えるべきはずなのだった
が、この作品の舞台での衝迫力に比べると、愚直平穏な対応で終った。この時の各人
の態度決定のあいまいさが、土方與志亡きあと四年間の「舞芸座」の妥協的統一と一
九六三年(昭和三八)の分裂の決定的な要因となる。
土方與志 最後の「奉仕」
土方與志は『泥棒論語』演出後、体の不調で高血圧から心臓弁膜症を併発し、暮に
は流行性感冒で病床にこもりがちとなった。築地小劇場時代のお弟子さんたちのカン
パで、新しい書斎ができ上りつつあるのが嬉しそうな様子で、私を呼びつけては、書
棚や部屋のインテリアの設計や、次回の候補作品(郭沫若『毒薬孔雀譚』)の事務的
進行を指示していた。
折から来日中の「モスクワ芸術座」の話や、近衛師団の将校だった父親のピストル
自殺で、到底まともなコースを順調に歩けないとの判断で、演劇を選択したもので
「君たちのような純粋な気持ちはなく、私の動機は不純だった」とギクッとするよう
な話を聞いたのもこの時のことだ。一九五九年〈昭和三四)四月、一時小康をえた興
志は再び倒れ、代々木病院で肺臓癌の診断を受ける。四月十八日、恒例の「メーデー
前夜祭」の総指挿では、病床を抜け出し一日中舞台袖のスタッフ席で、メモを渡して
は進行の指図をしていたが、これが興志の最後の「奉仕」だった。五月同病院に入
院、六月四日午前五時永眠した。
この年は私は全くついていなかった。縁起をかつげば、数えの二十五歳の厄年の故
か。四月の皇太子結婚式当日に、親友の藤井晃が木曽福島で線路を枕に鉄道自殺をし
(九大史学科大学院在籍中、戒名釈青山寂光居士)、相前後して若高時代の天才的閃
きのあった木村晃尚が急性肺炎で死亡(東北大理工学部大学院在籍中)、舞芸同期の
劇団「風の子」で活躍していた岡崎利次が、酔っばらって西武線の線路上で事故死し
た。
親友の自殺の話を聞いて力づけてくれ、でき上った新しい書斎も、私が設計した書
棚も一度も見ることなく逝った興志の死は、私の演劇修業の支えを一気に取っぱらっ
てしまったようだった。
土方梅子夫人は、そんな私を心配したのか、彼女が高く評価していた「民芸」の菅
原卓に師事することを奨めて、宇野重吉に逢うように手筈をととのえてくれた。この
頃宇野重吉は「民芸」内で、滝沢、菅原派を凌駕する陰然たる実力を蓄えつつある時
だったらしく、菅原卓ではなく、俺のところで勉強しろよというようなニュアンスの
会見だった。梅子夫人の顔を立てるのと、ちょいとした助平根性で宇野と逢った私
は、権謀術数のほのかな匂いに、たちまち逃げ出し敬遠して
しまった。いまおかれている現在を、ともかく生きてみようと思い切ったようだが、
あの時宇野重吉のところに身を寄せていたら、ただいまはどんなことをしているのだ
ろうか。
『ロミオとジュリエット』
この年の十月、舞台芸術学院が焼失し、同居していた「舞芸座」も場所を失った。
学院の再建や、座の財政的、創造的両面での立て直しや、土方與志追悼公演の準備な
どで、私もやっと慌しさのなかで、自分をとり戻していた。
追悼公演のレパートリイは『ロミオとジュリエット』に決まった。その頃私は幹事
会のメンバーではなく、決定には直接立ち合っていないが、月まち子などは『泥棒論
語』の再演を強力に主張したようだが受け入れられなかった。花田をひとつの転回点
として、新たな演劇運動をめざす「舞芸座」革新派の組織力はついに及ばず、『ロミ
オとジュリエット』は妥協の産物だ。私の長兄正美が、ソ連貿易から芝居へ戻ってき
て、山川幸世と共同で演出をした。六〇年安保の湧きかえる状況の只中で、古くさ
い、あまりにも常識的な『ロミオとジュリエット』の土方與志追悼公演は、白けた空
間のまま終ったとみた。
一方では土方與志、秋田雨雀の迫産の継承化と、リアリズムの深化を主張する多数派
に対し、革新派は『泥棒論語』を契機にして、「舞芸座」の可能性に賭ける安部公
房、廣末保、内田栄一、針生一郎などと、演劇運動のひろがりのなかで、ひとつの共
同の運動体をつくっていこうとしていた。私は、スローガンではなく、ひとつひとつ
の具体的な作業で、世界との多元的なかかわりや、私たちの現存そのものの再認識を
うながすイメージの発見を、いままでの常識を破って、突出できるところまで突っ走
ってみたいと思っていた。
土方與志や秋田雨雀やシェイクスピアは、こうした動きを許容してくれる視野の広
さや寛容さをもっていると考えていたのだが、これはつきつめた検証の結果ではな
く、妥協の結末を自己納得させる詐術だったのかもしれない。私がいま「舞芸座」時
代にやりかけたシェイクスピアをやってみようと思い立っているのも、この辺のこだ
わりもあるようだ。ともかく土方與志亡きあと、分裂までの「舞芸座」レパートリイ
を列記してみる。想い出してもおかしくなるバランス・オブ・パワーのけったいな足
取りだ。
六〇年六月 シェイクスピア作『ロミオとジュリエット』
(山川幸世・瓜生正美演出)
六〇年十一月 浮上忠作『やりくり矢利兵衛』(服部笙演出) クルトリイヌ作・瓜
生正美翻案『気ちがいに刃物』(瓜生正美演出)
六一年四月 廣末保作『悪七兵衛景清』(武智鉄二演出)
六二年一月 カラジアーレ作『スキャンダル(失われた手紙)』(山川幸世・瓜生正
美演出)
六二年九月 内田栄一作『表具師幸吉』(瓜生良介演出)
六三年七月 シェイクスピア作・岩田宏訳『十二夜』(瓜生良介演出)上演準備中分
裂
これらの公演の間を縫って年間七十回以上もの『ベニスの商人』巡回公演を全国の
高校生を対象に行なっている。
楕円の思想」実践ノート
『悪七兵衛景清』 一 廣末保と武智鉄ニと「舞芸座」と
劇団内政治の奇妙なバランスと妥協の結果としてつづいた四年間の足取りを振り
返って、当時私はどのような考えでやっていたのかと想い出そうとするが、明確な軌
跡は浮かんでこない。一部の連中の感性のにぶさや教条的な視野の狭さに絶望的にな
りながらも、まだ他の集団よりましな可変的部分を認めていた。また相手が逃げ出さ
ないかぎり、どこまでもつき合っていく、私のいいかげんな「寛容さ」「義理固さ」
の故だったのか。
劇団政治の枠
花田清輝に教わった「楕円の思想」にみられる多元的な世界認識や、インパーソナ
ルな、人間の乾いた知の結びつきが、根源的な結合の関係性をつくり出していくはず
だという危うい思いこみが、大きな支えになっていたようだ。血縁や性愛を越えて存
在する「関係性の磁場」を夢想する「発見の会」の原基形態が、花田を引金にして私
や月まち子や幾人かの連中の間に醸成されつつあったのかもしれない。それは劇団政
治の枠をちょっぴりではあるが、いつもはみ出して、教条主義の単純な党派的発想を
拒否してはいたが、われわれの「関係性の夢」をひとつの潮流とするためには、妥協
もまた混沌とした可変性が少しでも存在する限り、どうでもいいことだった。
廣末保は処女戯曲『悪七兵衛景清』が具体化したのは「『舞芸座』に誘惑されて芝
居をかいた」といっているが、『泥棒論語』の成果を的確に評価し、演劇運動の可能
性を認めて、自分もやってみたいという廣末保の意思表示がなされたからだった。舞
台芸術学院の頃、「伝統継承論」の講義を依頼したり、「近松序説」をテキストにし
て近松を囓った、近松学者廣末保のファンだった私は、本腰を入れてこの公演の実現
を図った。身辺上の必要から、この頃東京へ出て来ていた武智鉄二を演出に引っばっ
てきたのも私の発案だった。
近松の「出世景清」では、平家の残党景清の頼朝への復讐劇が、古典的悲劇として
完結していく部分と観音霊験譚といった中世叙事詩的なものとが未分化なまま結合し
て、中世的残滓が「悲劇」の成立を妨げている。最初はこの悲劇の可能性を再創造し
てみるつもりが、それだけでは物足りなくなって「中世残滓の方を僕流に空想しボウ
張させ、それを『悲劇』の部分と新しく交錯させることによって、集中化された『悲
劇』をもう一度拡散させようとした「景清の物語を伝えた語り手つまり民衆のエネル
ギーを通して、もう一度悲劇をとらえなおす」(廣末)といった意図で作業が進めら
れた。 注1
演出助手をやった私のメモには「景清は生きながら死んでいる。約束事を生き抜か
ねばならない荒武者の行為と、行動へ駆りたてる過去への思い〈怨敵右大将頼朝を一
太刀恨み〉の執着には、当然のように敗北への道をたどる孤独なミゼラブルな限界が
ある。景清霊験譚を伝えた民衆は、同感と愛惜を強く覚えれば覚えるほど一歩引いた
ところで外面はより敬虔な態度で祭り上げていく。同情はするがまきこまれたくはな
い。民衆の弱さや残酷さが、つまりは非常に屈折した形での民衆の英知やエネルギー
が表現されればいい」「直進的勇者景清と合理主義的政治家畠山重忠と、この関係を
見守る民衆の三つ巴の構造で、くねくねと屈折させてはじめてとらえられる民衆意識
が提出できればいい」といった書きつけがある。
詩劇原型を探る武智演出
武智鉄二は、はじめ皆が心配していたような、演出者独断の自己満足的形式主義者
というところはなく、深い伝統芸術への蓄積を、素直に提示してきわめて大真面目に
この作品に取り組んでいたようだ。近松が演劇の世界から浄瑠璃というミュージカル
物へ逃げこまざるをえなかったことは、語り物の表現法を前進させユニークな芸術を
開花させたが、同時に演劇精神を一歩後退させた。近松の挫折した演劇的リアリズム
を、その原点に立ち返って継承すべきだとする従来の主張通り、坂田藤十郎との共同
でやりかけた近松の果し得なかった悲願を、現代演劇確立の姿勢のなかで果していく
という演出意図は壮大だった。
幕明き黒一色の闇の世界からブラックシアター的手法で、白塗りの景清、熱田の大
宮司、小野姫の首がよみがえり、〈恨みの一太刀〉への出立の語りに合せて、白ぬり
の手、足がからみ合う別れの性愛の暗示や、立ち廻りの荒事に結城人形を使ったユー
モラスな殺陣や、伊藤晴雨そこのけの小野姫のつるし責めや、嫉妬に狂って裏切った
阿古屋の自害や景清の牢破りなど、随所に様式美の見せ物を配していた。
景清に代表される悲劇の主人公のものいいにも、日本の詩劇の原型を探る武智の永
年の主張が展開されていた。日本語の高底アクセントは現在のように平板なものでは
なく、もっと雄大な音の広がりをもっていた。基本的には、二字目起こしの三段上り
という晋の転調と高まりの波がある。意味の強調や感情の激出や抑制によって、「ア
タリ(音の高まりや転調の強打点)」「ウラアタリ」「ムノマ(無の間)」などの組
合せができ、そこに詩劇表現の可能性があったのが、能狂言の段階でとどまったまま
散文詩劇へと発展せず、藤十郎以後歪められ現在の歌舞伎はいびつで空虚な発声に
終っている。はっきりこうだといえる手本はないが、少しでも原型に近いものを探り
いというのが武智の主張だった。
全体の演出的統一という点からは様式的な面が目立ちすぎ、作品の意図するものが
伝わりにくかったということはある。廣末の作品も学者らしい折目の良さで、大胆不
敵な破格のものになり切れなかった面もある。が、これは廣末、武智、「舞芸座」の
ぶつかりをもっと深化させ意味のあるものにできえなかった私や座の力不足だろう。
私としては楽しい仕事だった。自分の演出では、いちばん大事な時期には、空白が
つづき空白のまま尻切れトンボでノートは終るのが常だ。何十本かの演出の仕事で終
りまで演出ノートを整理してあるのは『ベニスの商人』と『景清』くらいのものだ。
これ以後武智は「発見の会」になってからも二本演出をやっている。私たちとの仕事
は、彼自身意識しているかどうかは知らないが、彼のなかでは筋の通った、上質の仕
事のはずだ。
注1 『悪七兵衛景清』上演パンフレットより作者のことば「集中から拡散へ」
「『舞芸座』に誘惑されて芝居をかいた。二年ほどまえになろうが、近松物を新
しく書き直してみないかといわれ、割に軽い気持でひきうけたが、ぐずぐずとあっ
ためているうちに、近松の世界からとびだしてしまった。はじめ、近松の『出世景
清』のなかにある(悲劇)の萌芽を軸に、古典的な史劇を再現してみようと思って
いたが、そういう試みが、なんだか道楽じみて感じられだし、そのころ気になって
いたもう一つのモチーフの方向にきりかえていった。
『出世景清』では、古典的な悲劇に近い部分と中世叙事詩的なー観音霊験譚と
いったようなー部分が、未分化なまま結合している。近松のこの作品にそくしてい
うならば、中世的残滓が(悲劇)としての成立を妨げているが、僕はその残滓の方
を僕流に空想しポウ張させ、それを(悲劇)の部分と新しく交錯させることによっ
て、集中化された(悲劇)をもう一度拡散させようとした。そうすることで自分の
モチーフを実現しょうとした。ところで、拡散から集中へ、ではなく、集中から拡
散へということは、古典的なドラマの概念から或る程度はずれることになるかもし
れない。そうならそうで、もっと思いきって大胆に発想し構想した方がよかったと
いうことにもなるが、根負けしてしまったようだ。それに、いまにして思えば、演
劇という共同作業の枠のまえで、書くまえから自分勝手に根負けしていたふしもあ
る。いまはやっと、とっかかりができたというところか」
前衛〈座〉戦闘再開草案
内田栄一破格の戯曲『表具師幸吉』初演出前夜
『泥棒論語』(一九五八年)『ロミオとジュリエット』(一九六〇年)とつづい
た、かなり大掛りな公演費用の無理のために、『悪七兵衛景清』(一九六一年)の終
了後、非常な経営上の困難に直面した。加えるに、創立以来経営を担当してきた飯高
次郎の財政上の乱雑さと任務放棄の退座のあおりで、一層抜きさしならぬ状態となっ
た。借金返済や乱発した手形の処理等で、私はいや応もなく、幹事会のメンバーとし
て当面の切り抜けと、今後の打開策を考えねばならぬ立場に追いやられてきた。
突然累急の連絡が入る。朝五時三十分。妊娠中からずっと母体の健康管理をやって
きて、つい三日前の五月二十四日無事出産し、母子とも元気一杯だった「ウリウ治療
室」の患者、Mさんの赤ちゃんの容体がおかしくなったとのことだ。呼吸心臓も止
まっているようだ。電話でもどかしく心肺蘇生法(心臓マッサージとマウス・ツウ・
マウスの人工呼吸)と救急車の手配を指示、国立のお宅まで駆けつけたが駄目だっ
た。出産に立ち会い、名前まで頼まれて、初めての名付親の嬉しさにわくわくして、
この稿を書いたらじっくり考えることにしていたのに。私たちの共同の夢を担う有力
な一員になったであろう未来の戦友、三日でこの世の何事かをさとり終ってしまった
了くんの霊を弔うためにも、原因の究明が必要だ。
「『舞芸座』二ヵ年プラン」提出
なんともいいようのない虚脱状態にムチ打ちながら、中断した筆をとって書きつづ
けるが、ふと、未来の可能性を賭けてきたものに了解不明のまま去られてしまう、今
日のような虚脱感は、私の演劇生活でも幾度となく経験したようだと思う。「舞芸
座」の分裂から「発見の会」の数次の組織的混乱や、最近の豊田勇造との別離まで、
馴れっこになり、ついに「運動」とは無限に繰返すスタートラインの引き直しだと開
き直った、いささか滑稽な悲哀ではあるが、私たちの夢に依怙地に執着する限り、こ
れからも噛みしめる苦い味だろう。
飯高次郎に去られガタガタになった座の立て直しに踏み出した時が、この後幾度も
繰返す苦い想いの第一歩だったのかもしれない。私はこの時、異様に気負った「『舞
芸座』二ヵ年プラン草案」を総会に提出した。「このプランは、『舞芸座』が今日の
日本の芸術運動、演劇運動の中で果すべき前衛的役割をはっきりと見定め、この運動
の課題を遂行していく目的意識的な行動のプランであり、そのために座全体をあらゆ
点から、みずみずしい力の充足した戦闘体制にし上げていく組織と力の蓄積のプラン
である」と序文にあるが、このプランの骨子は次のように要約される。注1
ひとつは、危機に際して劇団員、準劇団員、研究生などの階層制の廃止を一層深化
させて、平等対等な、徹底したディスカッションによる全員の劇団政治への参加。二
つは、『泥棒論語』『悪七兵衛景清』につづく、創作劇をつくり出す。新しい演劇運
動の旗幟を鮮明にして、この主張に共鳴する作家群との結びつきを強化する。三つ
は、劇団財政のガラス張りを徹底して、帳簿や収支決算を明確にし、座の財政立て直
しを、シェイクスピア劇の「青年劇場」学校巡演システムを確立することで果してい
く。資金稼ぎのシェイクスピア劇ではなく「もっとも信頼できる座付作者」としての
新しいシェイクスピア劇をつくり出していく。
私の草案は予想外にすんなり受け入れられ、発動を開始した。私や月まち子、牧口
元美は幹事となって他の三人と幹事会を構成する。そして借金の棚上げや手形の書き
直しや利息の引き下げなどを、頭を下げてまわってお願いし、なんとか破産状態を繕
うことができた。
飯高次郎退座による動揺期に、「舞芸座」革新派の支援工作の尖兵として、針生一
郎につづいて安部公房の紹介で、座の文芸演出部に乗りこんできた内田栄一は、延々
と一年間もの苦闘の末『表具師幸吉』という、日本で初めて空を飛んだ男を題材にし
た戯曲を書き上げた。注2
「発見の会」疾走の基盤
はじめ演出は、当時芸術祭男と異名をとり、テレビ的表現を切り開いていた和田勉
がやることになっていた。劇場も契約し、台本の第一稿ができ上る頃になって突然演
出を下りるといい出した。いまだに理由が判らぬが、いろいろな条件を推し量って、
逃げるが良策と決めたのだろう。で私がやることになり、これが初演山となる。
内田栄一とは『表具師幸吉』の書き初めからつき合ってきて、作家との共同作業と
いうものの萌芽が少しずつでき上りつつあった。あの頃の鈍い演劇のよどみをつき破
る、新たな出帆の確実な手ごたえを感じていた。この可能性は、安部公房のおせっか
いで不発に終る。
「あのころ内田栄一は、安部公房の弟子だった。いわば生殺与奪の権をにぎられ、当
時の私のいた劇団〈「舞芸座」〉にも彼の命でのりこんできたようだ。すでに文壇や
劇壇の秩序に組みこまれ、赤レンガつくりの瀟奢な邸宅をたてて住み、自己の文体へ
の確信と〈もの〉に対する見通しの正確さに浮々していたらしい安部公房には、江古
田の西日のあたる四畳半の一室で一年近く悪戦苦闘をつづけたこの作品の軌跡を了解
できなかったのも当然だろう。奴は全面的改訂を要求し、内田栄一は奴の要求を受入
れ、私は安部の横槍をねじふせ内田栄一の〈咽吐の現場〉に私のゲロ吐きを重ね合せ
ることができなかったというわけだ」「映画評論」一九七三年五月号「現代作家論内
田栄一ともども」)
この破格な傑作は安部の「忠告」のおかげで、ある種の手堅さとドラマの体裁を整
えることはできたが、その貴重な暴発カは失われ、荒々しく変妙なイメージは平板に
流れた。私は安部に「いまは貴方と仕事をしているのではない。内田栄一との作業に
軽々しく口を出すな」といった意味のことばを投げつけ、結果的には稽古場から閉め
出した。これは内田栄一の安部公房傘下からの脱出自立の契機ともなった。また後の
「発見の会」の疾走を支えた『ゴキブリの作りかた』や『流れ者の美学』などの作品
を生みだす共同性の基盤も、この頃できていったのだろう。
注1
注2
飯高次郎が退座したのは一九六一年の七月か八月頃だったので「二ヵ年プラン
草案」(一九六二年四月)とは一年近くのズレがある。私の思い違いだ。飯高が
去ってからの、一年間の試行錯誤の結果、出てきたプランだといえる。私の草案
は序文、創造路線、本公演、青年劇場運動(シェイクスピア劇の巡回上演) マ
スコミ対策、劇団運営の五つで構成されている。
私はこの当時しきりに、ロシア語の原義での「ソヴエト」(相談、話し合い)
体制の確立というようなことをいっていた。座内の共産党員たちへの、ある種の
妥協的言辞であったかもしれぬが、ロシヤ革命の真の底力が、無数に湧き起こっ
た「ソヴエト」にあり、人々の自治自立の基盤であった「ソヴエト」の権利を奪
い去り、共産党官僚体制下へと権力化したとき、革命は敗退し革命の倫理はくず
れ去ってしまったのだ。
私は「舞芸座」から「発見の会」へとひきつづいて、いまにいたるも、人々
の自由平等な「ソヴエト」=「コンミューン」連合の夢にかられているといえ
る。
『表具師幸吉』上演パンフレットより作者のことば。
「これは、私のはじめての戯曲です。飛び立ちたいと、ねがわねばならぬ状況
と、飛び立ちたいと、ねがうことのできる自由とが、どのように衝突し、馴れあ
い、絡みあってすすんで行くか、この戯曲の上で、丹念に照射していこうとくわ
だてたのです。登場人物たちは、幸吉カラクリによって、飛び立つ道があること
を、教えられたのです。しかし、溺れる者は藁をも掴む……という気持ちでな
かったのは確かです。あとにもさきにも、飛び立つ自由があることを知ったの
は、このとき一度しかなかったのですから。だから、ねがう自由すら持てなかっ
た人たちの……また、ねがわねばならぬ状況すら知り得なかった人たちの、これ
は、突発的ともいえる夢の部分の……それぞれの人物たちの、内部に屈折した
ファンタジーを追跡して行った夢についての戯曲、と云えるかもしれません。
(後略)」
中間報告 「芸術の大衆化と変革の論理」
「青年劇場」巡演システムの確立『十二夜』公演
『表具師幸吉』(一九六二年九月俳優座劇場)の舞台は演出の力不足や、安部の入
れ知恵でちんまりとまとまった決定稿(内田栄一戯曲集『吠え王オホーツク』三一書
房刊には破格の第一稿が収められている)や、役者の飛翔力の弱さなどで、凄味のあ
るものにはなりきれなかったが、芸術的指導者を失ったひとつの集団が、全ての点で
自前のものを提出しえたということは意議深いものだった。その舞台成果がたとえ力
弱いものであっても『泥棒論語』『悪七兵衛景清』『表具師幸吉』とつづいた「運
動」の蓄積は、ここで初めて長期の見通しをもった「必然性」の認識を内外ともに要
求してきたこと、またそれにかかわる新たな人材を生み出したことでは貴重な経験と
なった。
革新派「二ヵ年プラン」発効以後
・・
・・・・
作家先生と劇団とのつきあいや、教育者としての演出家と俳優との、先生生徒の関
係ではない、作者、演出者、役者が対等な立場で、集団内部の相互の内在的批判を可
能にする場ができ上り、『泥棒論語』以後五年を経てやっと新たな創造の、具体的な
作業実体が探り当てられたという実感があった。しかし内部の、表だった反対はしな
いが、決して運動の意味を了解しない陰湿で強力な反対者や傍観者とのバランスの上
で形成されつつある、かぼそい可能性を見てとる人はきわめて少なく、「日本読書新
聞」評(一九六二年十月一日号)のセゾーノ・Bのような「演出は、戯曲とは全く関係
のない歴史観だかを持ちこみ、見事に分裂。極めてお粗末な演技とあいまって、(真
田風雲録)の猿真似に仕立てあげた」と切
り捨て、内田栄一には若々しい物の見方などとおだて上げて「次作上演は、戯曲にふ
さわしい演出者と俳優を探してから演ることをすすめたい」などと、形成されつつあ
る共同の関係性に、きちんとした定見もなく、無責任に水をさす度し難い意見もあっ
た。セゾーノ・Bのいう舞台がどんなものだったかは、私自身こまかな事は忘れてし
まったが、少なくとも自分たちの身に染みついた演劇的約束事を嘲笑的に取り扱う無
頼さが、底流にあったことは事実だ。
「舞芸座」革新派のイニシアチープによる創造的・財政的両面の再生を図る「二ヵ
年プラン」が発効して一年が経過した。この間創造面では私や月まち子、牧口元美の
意見が先行し、財政面では学校巡演を決めてくるオルグ班の担当者たちが実権を握る
といった分裂ができてきた。
「青年劇場」巡演は重視していた。旅の中で鍛えられる感性は、安っぽい意見の対立
など吹きとばしてしまうはずだという想いであった。『ベニスの商人』では土方與志
演出を踏襲してその補佐的稽古をやってきたが、「二ヵ年プラン」にふさわしい、
「青年劇場」作品を皆が望んでいた。
岩田宏訳の『十二夜』が決まり、演出も私がやることで準備が進行し、音楽の林光
や美術の安部真知などのスタッフも決まった。岩田宏に翻訳を依頼したのは、日本で
のシェイクスピアの紹介は坪内逍遙以後は、無味乾燥な英文学者の訳文でしかなく、
ついに坪内逍遙訳の韻文のリズムや躍動感をのり越えてはいないという想いがしきり
にあって、なぜ詩人の訳がないのかが不思議だったからだ。訳の正確さよりも劇的空
間の楽しみを重視したかったし、どんなに曲解し、ねじ曲げてもやはりシェイクスピ
アでしかない永遠の同時代性とでもいう「いいかげんさ」を内包していて、これが
シェイクスピアの面白さだと勝手に思いこんでいた。注1
「舞芸座」の最後の総会
岩田宏の流麗でシャレた訳文は、稽古の過程で縦横自在に姿を変えていく余裕が
あって、私たちのシェイクスピアは、その新たな姿態を見せてくれるにちがいないと
いう予感がしていた。『十二夜』の東京公演での劇場予約金を払い、地方巡演も決ま
り、宣伝パンフも印刷された。
「二ヵ年プラン」では公演の発表形態を、本公演、「青年劇場」巡演、勉強会(実
験劇場)という三つのやり方でいくことにしたが、本公演では次回作に内田栄一の
『高級料理』が決まり、岩田宏のマヤコフスキーの『風呂』『南京虫』を題材にした
S・Fドラマや花田清輝、廣末保の新作が予定された。勉強会(実験劇場 には岩田豊
雄、真山青果、秋田雨雀、深沢七郎『かげろう囃子』、サルトル『恭々しき娼婦』
『汚れた手』、オルビー『動物園物語』、ロルカ『陽気な靴屋のおかみさん』、マヤ
コスキー『ウラジミール・マヤコフスキー』やイオネスコ、ベケットなどを年三回上
演することになっていた。
「二ヵ年プラン」前半終了時の総会で、これらのレパートリイ群を確認し、一層
「運動」に適応した「青年劇場」巡演システムを確立して、これを車の両輪にした座
創立以来初めての、内実のある疾走が開始されようとしていた。私は再び「相互の浸
透と相互の対立による徹底したディスカッションの場をつくっていく」ことを前提に
した「芸術の大衆化と変革の論理」と題した中間報告を書く。私は六〇年安保闘争時
に、日本共産党に対して、決定的な見切りをつけていたが、座内の党員の存在につい
ては一緒にやれる限りはやっていくつもりにしていた。連中のいう「リアリズム演
劇」の概念が、結局は自然主義や安易な政治的啓蒙の範囲を出ない以上、創造的、政
治的対決よりも、時間をかけた共同作業のなかでの変容を、期待する他はなかった。
「舞芸座」最後の第十一回総会(一九六三年七月二十九日)の前日、突如オルグ班
担当幹事三名を含む六名の脱退届は、座内のさまざまな気に食わぬ状態から目をそら
し、祝祭的空間を幻視することに努めてきた私に、冷々とした現実の不条理をつきつ
けた。まさかこんな馬鹿げた辞め方をするとは想ってもみなかった。『十二夜』はす
でに数十万の先行投資がなされていて、公演の日時まで決まっている。これはまる
で、ザイルを巻いて岩登りをしている仲間の共縄をぶち切るようなものではないか。
注1
「舞芸座」青年劇場秋田雨雀=土方與志記念シェイクスピア 劇場シリーズ
No.3として、パンフレットまで作成していた。そのパンフより「『十二夜』演出
のことば」本書234頁参照。
作家集団との連携の可能性
「舞芸座」と「自由劇場」の合併による新集団の出現
政治的権力の「意志」
一つの仕事が中途まで進行し、しかもこの「青年劇場」巡演の実質面を担当してき
た中心メンバーの無通告、無条件の大量脱退には、「未必の故意」とでもいうべき底
意地の悪い悪意すら感じとれた。
この公演のためになけなしの資金をつぎこんだ、劇団の生活基盤である「青年劇
場」の存続不能の事態がどういう結果になるか、いちばんよく知っている連中だ。た
とえ互いに納得のいかぬ対立があったにせよ、ヒトたるものの信義からいって、あっ
てはならぬ事を引き起こす背後には、自己の影響下から脱却しようとする芸術集団
の、自由な自律的存在を快く思わぬ政治的権力の、一歩も引けぬ「意志」があったの
か。連中はこれを大真面目に演じてみせたにすぎないのだ。
と、私はどこかでそう思っていたし、そう思うことで、あとは四年間の妥協のこの
ような馬鹿げた結末を予測できなかった、自らの不明を恥じる他はなかった。この事
態を芸術的闘争の、われわれの受けた戦術的打撃だったと思うことで、やりきれない
虚無感を次のステップへのエネルギーに転化し、がむしゃらな助走をはじめることで
葬り去ってきた。連中がこの後、私の長兄正美を引っぱり出して秋田雨雀・土方與志
記念「青年劇場」を創立し、日本共産党の周辺劇団として、シェイクスピアの学校巡
演で劇団の基礎をつくり上げ、真面目な教養番組制作で、新劇の中堅劇団に成長して
いく過程は、私の当初のカンを正当化しているように思われる。
が、今回当時のメモを読み返し、二十年もの時間の経過が、ことばの裏側の意味す
るものを冷静に受け取れるようになってみると、そんな明確な意図をもった大仰な政
治的な陰謀などどこにもありはしなかったのだ。あるのは皮相なといって悪ければ、
もっと実生活に密着した、芝居やマスコミ出演で食っていける展望が見い出せないこ
とや、自分たちがこれほど懸命にやっているのに、他の奴らは何をしているのか信頼
できぬといった不満や、もつと陰湿のもろもろの瑣末な事情が、創造上の大義名分と
のコンプレックスを形成して進行したようだ。
こうした確執に疲れきった、人間的には実直そのものの大人的風格をもつ脱退組の
Ⅰのように、この後芝居から一切足を洗ってしまった者や、いちばん強硬なリアリズ
ム論者のGが、脱退組の無分別を批判しながら、私たちの帰趨を最後まで見届けてか
ら(第一次「発見の会」解体後)、結局は「青年劇場」にいったことなど、あれやこ
れやのその後の生き方を想い出してみると、一面的解釈では割り切れぬ、人間の関係
性や信義といったものの重層的進行がここでも見られる。
明確な創造上の対立の結果でも、政治的陰謀の結実でもなくて出発した集団が、安
定した中堅劇団に成長していくところに、状況のしんどさや恐さがあるともいえよ
う。抜きさしならぬギリギリ結着の、切迫した行為だったとは到底思えぬ「未必の故
意」が、あの人たちのその後の時間のなかで、どのように位置づけられているのだろ
うか。気がかりなことだが、芝居も諸行無常の、万物によってかろうじて生かされて
いるにすぎないヒトの生命の流れの、ひとつの現象として実
感できる今の私には、どうでもいい覗き見的な「趣味」の問題とでもいえる。
ともかく『十二夜』公演は挫折して「二ヵ年プラン」は変更を余儀なくされた。そ
れほど六名の実権派の実力は大きかったといえる。また六名の穴うめをしながら計画
を実行していく意欲もなく、いままでと違った発想やイメージを必要としていた。
花田清輝の強い「煽動」
ちょうど同じ時期に程島武夫の率いる「自由劇場」が、劇団運営の対立で大量の脱
退者を出していた。その理由や経緯については、ほとんど記憶にはない。「自由劇
場」はいまの「68/71黒色テント」の前身とは違う集団で、程島武夫と小山源喜の舞
芸での教え子で組織され、ウェスカーや宮本研のものを地道にやっていて、重厚な舞
台づくりには定評があった。新劇のよどんだ現状を何とかしなくてはという問題意識
では、私たちと共通の基盤があったし、いいだもも、武藤一羊、開高健などの作家・
批評家の存在もあって、共同の運動体を形成する可能性があった。
この頃私は何か問題にぶつかると、花田清輝宅を訪れては相談にのって貰ってい
た。花田は親切に自分の意見をいってくれたし、あまりにも物を知らなさすぎる私を
いささか憐んでくれていたのか、ていねいな解説つきの授業でもあった。
「舞芸座」の脱退騒ぎとこれからのことについても、当然花田の意見を聞いた。そ
して花田清輝の強い「煽動」といってもいいほどの新しい演劇運動の提唱は、私たち
に新たなイメージとファイトを与えてくれた。
舞芸座と自由劇場の合併による新たな演劇集団の出現は、演劇創造に主体的にかか
わっていく作家集団の創成を必然化し、さらにいくつかの演劇集団と、この作家集団
との連携で広範な演劇運動を進めていくというのが、花田の見取図だった。『泥棒論
語』以来の「舞芸座」の内部変革の歴史と、その当然の結末としての大量脱退には、
花田もいささかの責任を感じたのか、いつもは口ぐせのように、俺の出る幕ではない
もっとヤンガージェネレーションと仕事をしろといってきた花田だったが、今回はむ
しろ積極的に身を乗り出してくる様子があった。私たちもこうした機会を望んでい
た。
「自由劇場」との合併を進める一方で、武井昭夫、いいだもも、武藤一羊、内田栄
一などと話し合って、作家集団の可能性と展望、具体的人選や、最初の仕事になるは
ずの合併後の旗上げ公演のレパートリイの検討などをはじめた。作家集団のまとめ役
は、その後武井昭夫と松本俊夫が担当することになる。
一九六三年九月末から話し合いをはじめた合併問題は年内には合意に達し、一九六
四年二月五日演劇集団「『発見の会』創立にあたって」という声明書 注1 が発表さ
れ、二月二十二日には結成記念パーティーが催された。
注1
創立にあたって
ここに、演劇集団「発見の会」、が創立されます。
この新しい集団は、「舞芸座」十年問、「自由劇場」六年間のあゆみと成果を土
台とし、新芸術協団「犯」が、合流参加し成立したものです。
われわれは、自身のおかれている現状のきびしい自己認識から出発し、諸状況の
変革を志向する、大胆な演劇運動の必要性を痛感しています。
この運動を成立させるためには、状況の芸術的革新と、芸術的状況の革新の課題
を、あくまで芸術独自の問題として考えぬいていかなければなりません。そのため
に創造的自由と、内部組織の徹底した民主的昂揚をもった集団をつくりあげていく
方針です。
安保闘争以後四年間に、体制側の「近代化」「合理化」を旗印とする積極的な支
配の強化・確立 ー この「眩るい闇」の腐蝕力による人間疎外・空洞化は、演
劇・芸術の分野でも、創造的主体を荒廃させ、孤立化させています。
すでに、体制側の「近代化」路線をいちはやくキャッチし、繁昌を狙う政治ばな
れ即人間回復・芸術性の獲得とこじつける劇団の出現があり、既成劇団のそれへの
傾斜がみえます。また硬直した政治主義と、芸術的保守主義によりかかって、自ら
の創造的自律性を失い結果的には安易な演劇通俗化への道をたどるものがありま
す。さらには「芸術的」灼熱にとりのぼせる疑似アバンギャルドの空虚な興奮もみ
うけられます。
こうして、新劇本来の任務の一つである批評精神をもつ観客の創出事業、たとえ
ば舞台との真の対話を成立する観客団体へと、「労演」を強化発展させていかねば
ならないという課題などは、ほとんどかえりみられていないありさまです。
われわれの課題は、この世界史的な転換期において、インターナショナルなひろ
がりと、未来のヴィジョンをさし示す、新しい「ことば」の発見と創造にあり、こ
・ ・ ・
のことが、現代演劇のもつ有効性・可能性の決定的主因である観客との対話を成立
させる不可欠の方法だと考えます。そしてこのためには、現在の狭い演劇創造の枠
を破っていくこと、とくに「新劇」というジャンルの中で固着している「近代劇」
的発想をどうやって打破していくかが問題です。
日本という土壌の上で変質し、ナヨナヨとのびてしまった自然主義リアリズム
や、本来の緊張を失い、ふやけたヒューマニズムを否定して、ナショナルなものと
の対立・止揚を内包するインターナショナルな視点から、演劇本来の機能の回復拡
大につとめるべきでしょう。
このことはまた、われわれの眼を古典へむけなおすことにもなります。古典が古
典として定着する以前の、激しい流動状態を現代の視点から照明しなおすことに
・ ・ ・
よって、新しい「ことば」の再発見再創造の可能性があると考えます。
・ ・ ・
われわれはまた「ことば」の発見・創造を他ジャンルの芸術家たちとの共同作業
によって、とくに最も重要なかかわりをもつ作家集団との新たな創造的連帯によっ
て、これを果していこうと考えます。
以上のべてきた課題にそって、われわれの創造的特色を、つぎのような多様な公
演活動の実践のなかで果していくと同時に、電波・映像・活字等のあらゆる大衆伝
達の方法と、能動的にかかわっていきたいと考えています。
一 本公演 これは、われわれの運動の集約点であり、芸術的社会的デモンスト
レーションでもあります。新しい創作劇を生みだすことによって、演劇像の総体的
な変革をはかり、さらに演劇運動全体のつながりのなかで、合同企画・提携公演等
の制作面での実践も進めます。
二 実験小公演 最も先進的・前衛的な舞台芸術の実験の場です。これは作家、
演出家、俳優それぞれの立場から新しい試みを提示する場です。
三 移動劇場 本公演、実験小公演の芸術的成果を土台として、青年、学生を主
対象とした広範囲な普及運動です。
われわれは狭い劇団セクトを排し、おなじ方向にあゆもうとする劇団・演劇人・
演劇サークルはもとより、各ジャンルの芸術家たちと、積極的な創造交流・共同作
業を推進し、観客大衆との創造と批評の正しい関係をめざす幅ひろい結合文化運動
を展開していく決意です。
おおかたの参加協力を切望します。
一九六四年二月五日
演劇集団 「発 見 の 会」
東京都豊島区池袋二の一、二三入
電 話(九八一)二七〇一
〈シアター25〉開始
第四章 うらおもて「つぎはぎの妙」
衆議一決演劇集団「発見の会」創立
新集団の名称をどうするかで皆苦労した。命名者には金一封を贈ることにしたが、
なかなかよい名が出てこない。「舞芸座」の十年間と「自由劇場」の六年間の歴史が
あり、合併問題の進行中に小林寛の「犯」というグループが参加を要請してきて、三
つ巴の雑居集団になったため、全ての点でそれぞれの思惑がからみ合ってギクシャク
と進行していた。劇団名もその混沌の表われで、いよいよ時間切れのドンジリで、全
員の出席を求めて命名式を行なった。この場で「発見の会」を提案したのは、内田栄
一だ。その頃「日本発見」という雑誌があて、そこへ彼がエッセイを書いていたこと
も影響したのか。
新集団の雑居性
私は、全ての法則や秩序は宇宙の生々流転の歴史のうちにすでに存在していて、人
間の実践や認識の深まりによって少しずつ新たに発見してくるものであって、ヒトの
つくり出す発明は発見の組合せにすぎないこと、ヒトの全ての営為はこの「存在」に
向っての無限の接近でしかないことについての特別の思いこみがあったし、「発見の
会」という名前は壮大な演劇運動を推進する共同体にふさわしく斬新で、しかも変な
気負いが露わにみえる恥しさのないところが気に入った。
皆も「ロシナンテ」や「演劇センター」や「青年劇場」などにうんざりしていたの
か、衆議一決「発見の会」に決まり、約束どおり内田栄一は金一封千円也を貰った。
創立にあたっての声明文は、小山源喜が書いたものを私がかなり強引に、大幅な手
直しをした。
「われわれの課題は、この世界史的な転換期において、インターナショナルなひろ
がりと、未来のヴィジョンをさし示す、新しい〈ことば〉の発見と創造にあり、この
・ ・ ・
ことが、現代演劇のもつ有効性・可能性の決定的主因である観客との対話を成立させ
る不可欠の方法だと考えます」
「このためには、現在の狭い演劇創造の枠を破っていくこと、とくに(新劇)とい
うジャンルの中で固着している〈近代劇〉的発想をどうやって打破していくか」
「日本という土壌の上で変質しナヨナヨとのびてしまった自然主義リアリズムや、
本来の緊張を失い、ふやけたヒューマニズムを否定して、ナショナルなものとの対
立・止揚を内包するインターナショナルな視点から、演劇本来の機能の回復・拡大に
つとめるべきでしょう」「古典が古典として定着する以前の、激しい流動状態を現代
・ ・ ・
の視点から照明しなおすことによって、新しい〈ことば〉の再発見・再創造の可能性
があると考えます」
・ ・ ・
「〈ことば〉の発見・創造を他ジャンルの芸術家たちとの共同作業によって、とくに
最も重要なかかわりをもつ作家集団との新たな創造的連帯によって果していこうと考
えます」
これらの文章は、私の花田詣でや、いいだもも、武藤一羊、大井正などとの「文化
問題研究会」での討論や、なにやかやの寄せ集めだ。新集団の雑居性に見合った、八
方美人的性格の文章だ。また「運動の集約点であり、芸術的社会的デモンストレー
ション」の本公演と、「最も先進的・前衛的な舞台芸術の実験の場」である実験小公
演と、「本公演、実験小公演の芸術的成果を土台として、青年、学生を主対象にした
広範囲な普及運動」の移動劇場という三本立ての公演形態は、「『舞芸座』二ヵ年プ
ラン」をそっくり踏襲している。
ケン玉の政治力学
創立時の構成員は、「舞芸座」から、私に月まち子、牧口元美、坂口俊、一谷俊
彦、稲田良平、橋口博、赤羽根敏雄、後藤陽吉、坂主充子、小泉健二、瀬川新一、石
井智佐、渡辺珠子、大橋芳枝、内田栄一。「自由劇場」から、程島武夫、小山源喜、
南祐輔、金井佳子、中村富士子、山本令子、榎本陽介、いいだもも、武藤一羊。
「犯」から、小林寛、大木史朗、公門雅之、佐野巳恵子、山内富男らで経営制作は
「舞芸座」で飯高次郎のあと手腕を発揮していた植松隆と舞台芸術学院の藤枝一雄が
やることになった。結成後も何人かの参加者があった。転形劇場の作・演出をやって
いる太田省吾は、「自由劇場」に入ろうとしたら解体した後とかで、程島武夫を頼っ
て「発見の会」に参加したといっている。
うらおもて四谷怪談』(一九六四年七月厚生年金ホール)を「演
旗上げ公演は廣末保の『新版
劇座」と合同でやることになった。
作家集団の進行や「発見の会」の掲げる大義名分や、新日本文学会の団体買いなど
の、玉つき運動の結果の、時の勢いだった。この作品は一年前に、人形劇団「ひとみ
座」の依頼で書かれたものだが、「ひとみ座」の演出者の清水浩二が、ゴタゴタを起
こして「ひとみ座」を退団したりしたため、棚上げになっていた。
鶴屋南北の『四谷怪談』のダイジェストで ー以前はパロディだと読みこんでいた
が、パロディとはもっと強烈な批評精神が躍動していなくては存立しないものだ ー その軽味が、人形でやる場合思いがけぬ奇妙な効果を出すかもしれぬと、「新日本文
学」一九六三年九月号誌上で読んだとき思ったものだ。お岩の執念に巻きこまれて、
いつまでも成仏できぬ小平の描写や、幽霊となってのお岩、小平の道行や、お袖の幽
霊や伊右衛門とお岩の逆立の見得など面白い思いつきはある。だが、幕末の頽廃期の
裏長屋の陰々とした現実に、怨霊や執念のとびかう超現実の手法を投入して、いっ
きょにこの転形期を立体化し、しかも『忠臣蔵』と同時上演することで、忠孝の倫理
が、伊右衛門の倣然とした悪の息吹きによって、メッタヤタラに嘲笑されていく仕掛
けをつくった南北の凄まじい反権威の精神には到底比較できぬ作品だ。これがどうし
て前近代を否定的媒介にして近代をのり越える課題作になりえているのか、評価する
花田清輝などの胸の内を推量しかねた。
そして「発見の会」の三つの分派と「演劇座」との四つのケン玉の政治力学のあげ
くの果てに、私が演出をやる破目になった時、このダイジェストの軽味を生かして、
うらおもての「つぎはぎの妙」にまではしたいと思った。
作家集団は一九六四年七月一日「鴉の会」が結成された。いいだもも、井上光晴、
岩田宏、内田栄一、遠藤利男、加瀬昌男、木島始、小林祥一郎、塩瀬宏、清水邦夫、
武井昭夫、竹内泰宏、野間宏、長谷川四郎、花田清輝、廣末保、松本俊夫、宮本研、
笠啓一の連名で声明文が出されている。注1
注1
現代演劇作家批評家集団「鴉の会」結成声明書
私たちは、新しい現代演劇の創造を、芸術運動としておしすすめてゆくことを
めざし、ここに、作家を主体とした演劇創造者の集団を結成します。
私たちは、かねてから、綜合芸術のもつ可能性に着目し、そのひとつとして
演劇運動のありかたに関心を抱いてきました。
しかし演劇界の現状は、私たちが模索してきたヴィジョンとは大きくずれてお
り、私たちは、そのことに絶えず批判を持ちつづけてきたといえます。私たちが集
団を結成した理由は、もっぱらこのような現状を変革するためにほかなりませ
ん。
私たちは、いま何よりも、新しい演劇理念を確立することが急務であると考
えます。それは既成の演劇観、とくにわが国の新劇の世界を牢固として支えてきた
近代劇の演劇観を、根底的に批評し、否定することであります。近代劇のゆきづ
まりと対決し、これを超えようとすることは、言いかえれば自己批評の問題で
す。なぜなら、近代を超えようとすることは、とりもなおさず、私たち自身を超え
ようとすることだからです。したがって、新しい演劇運動は、徹底した自己批評の
精神を、何よりも演劇創造の課題としてとらえるところから出発させなければな
りません。
このことは、具体的には演劇表現の変革の問題につながってゆきます。私た
ちは、その観点から、これまでのドラマトゥルギーをこわす必要を感じており、
また古いジャンル意識を払拭する必要を感じています。それは、自然主義とモダニ
ズムをともに否定する現代的表現方法を確立することであり、ナショナリズムとそ
の裏返しのコスモポリタニズムをともに否定することでもあります。より具体的に
言えば、それは、メイエルホリドからブレヒトに至る系列と、ジャリからアンチ・
テアトルに至る系列を、いわば相互否定的に止揚することであり、前近代を否定的
な媒介として近代を超えることであり、近代の文学的表現のもっている思想性、批
評性を、みずからの演劇的表現のなかに生かしつくすことであり、新劇の変革を通
して既成の大衆演劇を止揚することであり、それらを別々の課題としてではなく、
あくまでも一つの課題として統一的にとらえることであります。要するに、いわゆ
る慣習としての演劇を破壊して、演劇表現の真の批評性を回復しようというのが、
私たちを結びつけた共通分母であり、私たちの一致した主張であります。
私たちのみるところ、現状の演劇界は、転形期の課題に対応できず、確固とした
演劇理念を確立することもできず、惰性と商業主義に毒されて、いまや演劇そのも
のの本質的な危機を招いているように思われます。しかし、そのことは、一方で
は、これまで日本の新劇界を覆っていた古い演劇観とそれに基づく運動が、諸種の
状勢から崩れつつある過程としてとらえられないこともありません。その意味で
は、演劇界の示す現状の混乱には、積極的な変革のモメントがかくされているとみ
るべきでしょう。事実、既成の劇団の中にも、集団として、あるいは個個の動きと
して、新しい演劇運動を意識的に求めようとする情熱や努力が少しずつみられるよ
うになってきています。演劇運動が終局的には舞台表現である以上、さしあたって
の可能性はそこにしかありません。
私たちは、何よりもその可能性と結びつき、それらの動きとたがいに自立的な協
力関係を創り出しながら、先に述べたような新しい演劇の創造運動を具体化してゆ
きたい、と考えます。そのために、あくまでも作家の主体性を貫徹する観点から、
私たちは、劇作活動・批評活動を展開するとともに、公演活動・現場活動へのさま
ざまな形の参加をおしすすめていきたいと考えています。
ここに、私たちの演劇創造運動の出発を公開し、この運動を共有するよう広く、
呼びかける次第です。 一九六四年七月一日 現代演劇作家批評家集団「鴉の会」
いいだもも、井上光晴、岩田宏、内田栄一、遠藤利男、加瀬昌男、木島始、小林祥一
郎、塩瀬宏、清水邦天、武井昭夫、竹内泰宏、野間宏、長谷川四郎、花田清輝、廣末保、
松本俊夫、宮本研、笠啓一
「集団的知性」の崩壊過程
煽りたてられた「運動」・便宜的野合の影
三つの分派が集まってできた演劇集団「発見の会」の旗上げ公演として考えても、
くせ者ぞろいの芝居屋の集まりが、初手からまとまった演劇的内実をもたらすとは思
えない。煽りたてられた「運動」の大義名分や、各々の内部の力不足や、組織的行き
づまりの打開策としての、便宜的野合の影が感じられるとしたらなおさらのことだ。
それに加えて、「演劇座」との合同という見知らぬ関係まで引きこんでの公演となる
と、そのしんどさは進行しだした途端に、露骨な重圧となって私のなかに感じられだ
した。
今の私なら徹底的にだらけて「千秋楽の打上げの酒が旨かったらそれが全てだ」と
かうそぶきながら周りを呆然とさせるか、演劇の保守性(芝居の現前性を成立させる
負の集団的強制)を逆手にとっての強行策で、なんとかとりつくろってしまうのだろ
うが、当時は糞真面目に、最も非能率的なやり方で頑張っていたにちがいない。
小さな相違・大きな対立
演出補佐役の程島武夫は健康状態もよくなかったのか、積極的介入や援助は全くな
かったし、「演劇座」の高山図南雄は、四つの分派の平衡の上に成立している危うさ
には無頓着に作者の側にべったりで、作者のイメージの結実のみを求めてくるといっ
た調子にほとほと困惑し、ついには私一流の居直りで押し通そうとしたようだ。
そして役者のカンにさわるようなこと、例えば基本舞台を左右、上下ともに斜めに
傾けて役者の〈存立の快感〉をおびやかしたり、作品の面白さであり、弱点でもある
南北と廣末保の「つぎはぎ」の思いつきを一屑強調して、作者との対立をことさら求
めたりといった具合に、変に気負ってみたり、逆になよなよと八方美人的に妥協した
りで、四つの分派の政治力学の波紋でもがいていた。作者の廣末保が熱心すぎて、毎
日の稽古に執拗なダメ出しを持ち出し、小さな相違が、大きな対立となって受け取ら
れるのも善し悪しだった。
三十代、四十代の年配者が多く、二十代の私には、このような状況を克服してまと
まりをつくる胆力と知力に欠けていた。公演間近になって与茂七役の小山源喜を下し
たり、作者の注文をことさらに拒絶したりといった「若気の至り」でささくれ立った
のも、こうした圧迫感への反動だろう。
結果は見事に失敗だった。舞台の、演劇的結実度の問題ではない。舞台のでき上り
でいえば、初日のぶざまさと、最終日のある程度のまとまりの落差を見れば、この程
度の舞台のまとまりは、稽古場の確保や舞台稽古を一日増やすといった配慮で、どう
にでも解決できるものだ。そして諸々の悪条件を克服してそれなりの努力はした。こ
の年十一月に「俳優座」が『四谷怪談』をやったが、それと比較した時、私たちのも
のがどれほど南北に親しいものだったか、判る人には判ったはずだ。問題はさまざま
な欠陥や弱点を公平に見ていく集団的知性と、現在のいたらなさを次の仕事で矯正し
ようとする持続する志の欠如だ。残念なことだが演劇集団の側にもなかったし、作家
集団の側にもなかった。
作家の側は、芝居屋の無知蒙昧さに失望したようだが、私の方も文学者の根気のな
さや、集団的作業の訓練や資質のなさにうんざりした。芝居屋の陰湿さにまさるとも
劣らぬ陰性さに、呆れ返った。私には弁明も釈明も山ほどあったし、作家との共同作
業についての焦立たしい想いもあった。
この総決算を作家集団「鴉の会」での席上で果すため是非出席させてくれるよう何
度も申し入れたがなしのつぶてで、冷ややかな反響や噂だけが伝わってくるといった
仕打ちに対して、私は私なりのおとしまえをつける決意をせざるを得なかった。
演劇企画室的「発見の会」へ
作家集団との共同作業を大きな眼目にして結成された「発見の会」は、野合と志の
欠如の自乗作用の結果、公演終了後たちまちにして分解してしまう。「鴉の会」もや
がて、雲散霧消した。私は十二指腸潰瘍になり、結成時有限会社にして健康保険が使
えたので、食いつなぎを図るためもあって劇団事務所(「舞芸座」から「発見の会」
のある時期まで舞台芸術学院内)近くのH病院に入院した。病院にいたおかげで、四十
名もの集団が刻々と瓦解していく様相を客観視でき、この一年に出逢った二度の崩壊
過程 (一九六三年七月二十八日の「舞芸座」中心メンバー六名の脱退と、一九六四
年七月『新版四谷怪談』終演直後からはじまった。第一次「発見の会」の解体)を客
体化できた。
東京オリンピックの開催日(一九六四年十月十日)に退院した私は、残った旧「舞
芸座」の八名に、南祐輔、中村富士子、太田省吾らと再建策やレパートリイの検討を
はじめたが、地すべり状態は止めようがなく潰滅状態になっていった。太田省吾が
「今は全てを否定していく作業が大事に思えるのだが、瓜生さんのようにあれもよい
これもよいではいいかげんすぎて、ついていけない」といった意味のことばを吐いて退
めていき、また頼りにしていた制作部の植松隆は、公演終了後から辞意を表明してい
たが、「俳優座」に勤務することになり、私には一切の打開策がなくなった。経済的
にも精神的にも事態は最悪で、内田栄一すら寄りつかなくなって、孤立無援の状態に
なっていた。
翌一九六五年三月十四日の残務整理の総会で、「発見の会」の解散決議を返上し
て、残ってやっていく者にまかせることになり、三月二十二日には残党の顔ぶれが決
まった。私に月まち子、牧口元美、坂口俊、稲田良平、南祐輔、橋口博、瀬川新一、
渡辺珠子の面々だ。
芝居で食うことも、マスコミで稼ぐこともあきらめ、ユスリ、タカリで好きなこと
をやってやると思い切った。「なーんにもない」ということが、こんなにもさばさば
とした快さだったのか。集団運営の煩わしさも、演劇運動も、作家集団も、もの書き
先生への気の使いも一切関係ない。財布も空っぽだし、演劇的才能への気負いも一切
がなくなっていた。
あるのは唯一つ、『泥棒論語』以来のひとつながりの仕事が、新しい演劇の実質を
つくってきたに違いないという確信と、もっと鋭くもっと楽しくできるはずだという
思いこみだ。少人数の身軽さを生かした機動性と、尖鋭な実験が気がねなくできる演
劇企画室的な性格と、一味同心の共同体の疾走で、三六五日の芝居狂いをしてみよう
と思い切った。観客ものべたらに拡大するのではなく、撰択することで、観客との共
同の場をつくるのだ。それには前々から狙っていた信濃町駅前の千日谷会堂(一行
院)という恰好の場所があった。
演劇的快楽への全力疾走
第二次「発見の会」・〈シアター25〉の始動
千日谷会堂(浄土宗永固山一行院)は、月まち子の友人の須藤啓という建築家の設
計で、高速道路によってつぶされた本堂や墓地を収容するため、その補償金で建てら
れ、高層の納骨堂や五階建の会堂となっていた。本堂は二百五十人ぐらい収容できる
フロアーと、左右九メートル、奥行七・二メートルの舞台が一部分は上下に昇降でき
るようになっていて、ホリゾント幕の後に仏壇があって、照明や音響装備もある多目
的ホールの面目をととのえていた。
25・異次元の時空
和尚の八百谷孝保は仏教大学の教授も勤め、寺院本来のコミュニケーション機能を
回復させるための本堂の使い方を、広い視野で考えているようだった。一九六四年十
二月完成前から、何回か話を進めてきたが、第一次「発見の会」の終焉は絶好の機会
だった。和尚の好意で、私たちにできる範囲のお布施で定期的な使用が可能になり、
〈シアター25〉と名づけた小劇場活動が開始された。この名称は、二ヵ月に一度、月
末の二十五日を初日にして三日か四日の公演をやるためだ。二十五日が世間の給料日
で、入場料やカンパが頂きやすいのではないかという厚かましい下心と、一日二十四
時間の日常からはみ出した異次元の時空という意もあった。 注1
第一回公演は一九六五年五月二十五日初日、アラバール作『ファンドとリス』だ。
小品だが、アラバールの純な幼児性や性倒錯者特有の、奇妙な香気にあふれた作品で
〈シアター25〉の開始にふさわしく、仰々しくはないがビリリと引きしまった舞台
だった。私がアラバールに魅かれたのは、第一次「発見の会」のアレヨアレヨという
間もなく、無残に解体していくブラック・ユーモアと無縁ではない。ふと読みはじめ
たアラバールの登場人物たちの、先の見通しについてのトンチンカンで懸命なディス
カッションや、いってもまたもとの場所に戻ってくるグルグル回りや、死んではじめて
了解できる愛の純粋さなどが、私たちのこれからやろうとする全てが無の状態での、
オッチョコチョイの冒険行にピッタリのような、異常な親近感にとらわれたといって
もいい。
当時「文学座」の役者だった若林彰の訳は、俳優の訳業にふさわしい的確なことば
の意味や動きが想定できるものだった。他に『祈り』『戦場のピクニック』『ポンコ
ツ車の墓場』が訳出されていて、アラバールをきっちり通過するのも悪くはないと思
った。とくに『ポンコツ車の墓場』には、いささか腕の鳴る気負いがあったのだが、
続出してきた創作劇をあたふたとこなしているうちに上演の機会を逸してしまった。
若林彰に手紙を頼んで、四本の一括した上演許可を貰った。私たちの経済的困窮や、
これからやろうとする抱負などを書き送ったのに対して、アラバールから上演料のこ
となど気にしないでやってよいとの親切な返事と、新作の戯曲集などを贈って貰っ
た。お礼に送った切紙細工や扇子は喜んでくれたが、ここにも世話になったきり義理
を返していない男がいる。
この公演で特筆すべきは音楽だ。『新版四谷怪談』で音楽を担当した石井真木が作
曲演奏をかって出て、友人の小林健次(ヴァイオリン)、桑田春子(オーボエ)、大
島典雄(フルート)のグループで毎回演奏してくれた。当時すでに世界一流のソリスト
たちで、小林健次が一晩の出演料一千ドルときいてたまげたものだ。木管の抒情と硬
質な偶発性が一体となったまことに贅沢きわまる音の流れだった。普通ではとうてい
不可能なことが、ふいとできるのも私たちの「無」の威力だろう。
新劇的枠組の踏破
入場料は二百五十円だった。総予算は十五万円ぐらいだ。この中には出演料や演出
料は一切なく、交通費や通信費なども自弁の持ち出しだ。大道具、小道具、衣裳合せ
て一万五千円ぐらいでやっていたが、打ち上げの酒代は一万円を確保することにして
いた。これまでの公演の総予算が百八十万円前後だったのに比べると想像もつかない
身軽さだ。金がないから、役者がいないからできない、不充分だったと思いこんでい
たことが、ふと発想を変えると、こんなにも広々とした世界が開けていくものかとい
うことを実感できたことは、なによりも楽しいことだった。
翌月一九六五年六月には、新府三光町交差点脇の日立電気ビルの中の、客席四、五
十人の小ホールが無料で借りられたので、そこで詩の朗読会をやった。岩田宏、三木
卓、堀川正美、大岡信たちの自作詩の朗読に、アラバールの『祈り』とロベール・
フィリュウ作・大岡信訳『ポイポイ』というこれも贅沢な会だった。岩田宏とは作家
集団「鴉の会」の解散後もつき合えた、唯一人のもの書きだった。私たちの孤立無援
の状態をドン底で支えてくれたのが、詩人たちだったというのは印象深い。
『ポイポイ』ということばはポエムの変形らしく、うろ覚えで申しわけないが、重
いトランクをもった男が客席から登場して舞台のつい立のカゲにかくれていき「俺の
歴史は? 俺の存在の悪夢は? 俺の始源の世界は? 俺のキンタマは?俺の胃袋の
調子はどうだ」なんていう問いの連射の合間に「ポイボーイ」と叫んで客席に小石を
投げつける。その問いにオウム返しに答えながら必死に小石を拾い集めるもう一人の
男との掛け合いは、虚実のはぎまにただよう肉体と精神の「行方不知」を現前化させ
た。六〇年代の、そして第二次「発見の会」の疾走の号砲として象徴的な作品だっ
た。
翌月〈シアター25〉第二回公演(一九六五年七月二十五日初日) はアラバールの
『戦場のピクニック』と、同じ詩人たちに山本太郎を加えた自作詩の朗読に、間駿た
ちのパントマイム、石井真木たちの即興演奏がからみ合う『立体詩の試み』をやる。
第三回公演(一九六五年九月二十五日初日)は木島始の『喜逸K判事の法廷』『だ
れのお慈悲で』をやり、第四回(一九六五年十一月二十五日初日)は、「舞芸座時
代」からのレパートリイだった、深沢七郎の『かげろう囃子』を上演する。
第二次「発見の会」は立上りもすばやかったが、七ヵ月で五回の公演をもった十人
たらずの集団のエネルギーも尋常ではない。自らの新劇的枠組を踏み破った新鮮な感
興が駆りたてる全力疾走によって、なおもまつわりつく古い衣を引きはがしチラリと
見えはじめた演劇的快楽をさらに確かなものにしようとする、終りのない突進だっ
た。
注1
〈シアター25〉第一回公演上演パンフレット、「発見の会〈ことば〉1」に、い
いだももあての私信の形で、このあたりの事情を書いている。本書236頁参照。
快い「場」を持続する組織論
深沢七郎原作『かげろう敬子』 世界の変容を見届ける戦懐的文体
深層に密む原形質
『かげろう囃子』は「舞芸座」の頃からのレパートリイで、深沢七郎ご本人の推選
作だ。「風流夢譚」事件の余波のおさまらぬ一九六三年初頭の頃、右翼の追求をのが
れて隠れ家に住んでいた深沢を訪ねて、創作劇だったか、作品の脚色だったかをお願
いした時、「新しくは書けぬが、ぜひこれをおやんなさいョ」と推めてくれ、延々一
時間ほどにわたって声色つきで語ってくれたものだ。
《筋は昔のご牢内。無実の罪でこんなところへ入れられたと訴える、新入りの小間
物屋の政吉は、親の家より大切なご牢内をこんなところといわれては生かしておけぬ
と、激怒した囚人たちのリンチを受けそうになるが、隅の隠居のとりなしで助かる。
退屈な牢名主の欠伸のたびにピョンと飛び出しては、皆それぞれとっておきのいい話
を聞かせ、うまくいけばおかずのひとつもありつけるが、機嫌をそこなうとキメ板で
尻を叩かれる。舞いこんだ一枚の桜の花びらを追って牢内は一瞬ざわめき、桜の花び
らを握ってもの想いにふける牢名主に合せて、耳をすますと遠く祭り雌子が聞こえて
くる。御輿をかついで浮かれる一同。
取調べで引き出された政吉は、役人の甘言を信じた母親の懇願に負けて罪を認め、
十年の遠島をいいわたされる。「ジタバタしてもはじまらねえ。情のために教えてや
る。いい盗っ人になって、誰にきかれても恥しくねえ、いい仕事をしてデカイ面がで
きるようになれ」といい諭す隠居は、急に激して政吉に飛びかかる。「手前はなんと
いう憎い奴だ。三十五年前に、手前と同じシクジリをして…‥手前のような奴がきや
がったために、忘れていた三十五年前のことを思い出したわ」……政吉も入れて島送
りの四人に、牢名主は餞別をやる。「島にいったら身体に気をつけろ。暑さ寒さによ
く気をつけて、身体を大事にしろ」急に淋しくなって、牢名主の欠伸であわてて飛び
だすいい話も、さまにならない。やがて格子の外の気配で「ホイホイ」「ソレソレ」
と活気づく牢内。留口が開いて、新入りが蹴りこまれてくる》
放送作家の堀英伸が、小説『かげろう囃子』をすんなりと脚色してくれた。深沢七
郎の作品は、ことばが音になり、セリフとなって立ち現われてくるので何を読んでも
芝居になってしまいそうだが、特にこの作品では、囚人たちの「ホイホイ、ソレソ
レ」というざわめきや、牢名主の「アーアー」という欠伸の音がきめ手だ。囚人たち
の笑いや割りゼリフのリズムやテンポと、祭り囃子で浮かれる御輿のマイムが決まれ
ば、私の仕事は終りだった。
『かげろう囃子』はいくつかの点で、〈シアター25〉にとって画期的なものとなっ
た。ひとつは深沢七郎の、人々の深層にひそむ生命の原形質を造作なくとり出し、そ
れに独特のユーモアのある節まわしや語り口を与えて、自由自在に活歩させ、世界の
変容を見届ける戦慄的な文体に、演劇的接近で密着し、それと呼吸を合せて、共同し
て新たな劇的言語をつくっていく、「発見の会」的〈文体論〉を掴みはじめたこと。
二つは「発見の会」の開放性が、波動を与えはじめ、役者やスタッフの集まっては
散っていく一回性や偶発性と、その快い「場」を持続する集団の役割についての〈組
織論〉ができはじめてきたことだ。客演には八人もの役者に頼み、落語の三笑亭夢楽
師匠には毎回前座で泥棒ものをじっくり話しこんで貰った。隠居役の小栗一也の抑制
と爆発のダイナミックスはさすがだった。
四年間一銭の報酬もなく、私たちと同じように身銭を切って、この場を支えてくれ
た多くのスタッフの中でも、とくに世話になった美術の矢野真や照明の原田進平と
の、ズケズケと気がねなくいい合える関係が成立したのも、この公演だった。舞台稽
古ではすっきり納得できなかった装置と照明だったが、本番当日の早朝五時頃、長電
話でそのムシャクシャを二人にぶっつけて、根本的にプランを変更してもらった。
遊びの論理の徹底化
装置はつくった舞台を全部とり壊して、舞台右手前面に白い細ヒモで蜘蛛の巣をは
ること、紗幕に牢の高窓を描いて、桜の花びらを追いかけての御輿の場では、紗幕の
後に照明をつけ会場のご本尊にお顔を出して貰った。照明も全ての仕こみや調光の組
合せをご破算にして、舞台左右から、低い横からだけの光にやり直した。当日の夜の
開幕にはなんとか間に合ったのだが、こんな滅茶苦茶がやれるのも、私たちの遊びの
徹底化が、内在する論理としてそれぞれにあるからだろう。衣裳の佐藤香梨が、徹夜
で囚人の衣裳を染め直したのもこの時だ。マイムの間駿も徹底的につき合ってくれ
た。『かげろう囃子』は演劇雑誌などでは無視されたが、意味するものは大きかっ
た。作家の小沢信男は、ベタボメで面映ゆいが、次のような感想を書き送ってくれて
いる。
「『かげろう囃子』には、正直、敬服しました。あれだけコナしてくれれば、原作
ももって瞑すべしと思いました。 『云わなければよかったのに日記』か『とてもじゃないが日記』をみると、深沢さ
んが歌舞伎座でやった『楢山節考』をいかに否定しているかがよく判りますが、あな
た方の芝居には、満足されるのではないかと愚考します。
群衆処理がじつに巧みと思いました。あの場面で、ホトケさんまで出演したのには
アマり適切すぎてタマげました。適切すぎることがおそらく欠点ともいえるでしょう
か。しかし、あれだけ十全に表現されることは、私は好きです。要は小間物屋を主人
公にしなかったことが成功と思います。なんだか『かげろう囃子』は、あなたたちの
ために書かれてあった作品のような気がしてきました」
前回分を書いたあと、〈シアター25〉初期のパンフレット類を探し出したので補足
しておく。作家集団「鴉の会」は、第一次「発見の会」の解体と相まって雲散霧消し
たと書いたし、作家たちのそれまでのつき合いの一切が、断絶していたと思っていた
が、〈シアター25〉のパンフにはいいだももが「鴉の会」会員の肩書きで、三回ほど
エッセイを連載しており、〈シアター25〉の予定レパートリイには、アラバール、ス
トリンドべり、シスガール、ベケット、イオネスコ、岩田豊雄、飯沢匡、深沢七郎の
作品と並んで、いいだもも、岩田宏、内田栄一、花田清輝の書き下ろしが予告されて
おるところを見ると、これらの作家たちとのつながりは細々とではあるが、維持され
ていたようだ。
「発見の会」美学の成立
第五章 多義性への懸命なる接近
竹内健の独創的な〈存在論〉ー『ワクワク学説』
『かげろう囃子』や、この後の〈シアター25〉の濃密な演劇空間に立ち合った人た
ちは、公演毎に四百人たらずだろう。芝居というものがもつ、現在ただいまの一回性
や偶発性の宿命は、あまりにもはかないものだが、とくに〈シアター25〉では、お寺
の法要や葬式の合間を縫って会場を確得しなくてはならないため、長期公演がやれな
い事情があった。一方では幻の舞台となって、評判だけが残る「はかない宿命」を、
私たち自身がむしろ喜んでいた風潮もある。世界を覆すに値するものが、誰にも知ら
れず秘めやかに遂行されていくその秘儀性への快感と、嗅覚を働かせてかぎつけてく
る観客の「発見」の栄誉を、確保しておきたいという気持ちもあったのか、積極的な
宜伝やマスコミ対策はまるで無頓着だった。
提起者と参加者の関係
批評家やマスコミ関係者には、頼みこんで観てもらうのではなく「手前らの鼻をき
かせて嗅ぎつけてこい」という態度だった。世の秘めやかな胎動を探しだし、伝達す
るのがジャーナリストの使命のひとつであるなら、それが当然だろう。
今視えているやりたいことを、徹底してやっていくことに気をとられ、観客の拡大
よりもむしろ、私たちの場に立ち合った貴重な一人の観客と、どうかかわり合うのか
ということに、私たちの関心があった。教養のための演劇でも、政治や思想の宣伝劇
でも、風俗やファッションでもない。観客という立ち合い人ぬきには成立不能な、提
起者と参加者とが自由対等な、同位次元での演劇的出来事を楽しみ味わいつつ、提起
者のもてる全てを吐き出した後の虚妄な舞い狂いが、この場のラセン状の旋回を生
み、思いがけない変容を引き起こしていくといったことを考えている、私たちの
「場」の演劇には、立ち合い人の多い少ないより、事の本質は、立ち合い人との自在
な関係のあり様だ。
私たちの虚妄な舞い狂いが、数百万数千万の人々の舞い狂いを密かに準備し、ナダ
レ現象を誘発する引金になるのかもしれないという妄想にとりつかれていた。今野勉
のやっていたテレビ番組「七人の刑事」の数百万の視聴者と、彼の処女戯曲『一宿一
飯』の四五百人の観客とは、いくつかの条件を調整すれば等量等価のものとして、私
たちの戦略論のなかへ組みこまれるはずだ。当時のテレビには、こうした思いこみや
等式の成立する新鮮な関係性が少しは存在していた。それにしても、私たちの自己宣
伝のまずさや商売下手や物書きどもの嗅覚の鈍さは、私たちの「場」の演劇の維持と
持続をしばしば困難にするものだった。
演劇状況に一言ふれておくと、一九六五年九月には、「ぶどうの会」の解散後竹内
敏晴たちが結成した「変身」が、代々木小劇場という客席六、七十人ほどの小屋をつ
くり、毎月の定期公演をはじめた。一九六六年四月と十月に「状況劇場」が戸山ケ原
ハイツの野外劇で、後の赤テントの原型を噴出し、同年十一月には麻布霞町に佐藤信
たちの「自由劇場」と、早稲田に鈴木忠志たちの「早稲田小劇場」がそれぞれ定期公
演を開始する。一九六七年一月には寺山修司たちの「天井桟敷」が創立され、「小劇
場」「地下演劇」「アンダーグランド (アングラ)」の名が人々の前に喧伝されは
じめ、「発見の会」〈シアター25〉はいわゆる「小劇場運動」なるものの先駆けの栄
誉をになうことになる。
一九六六年〈シアター25〉第二年度は、一月、三月、五月、七月、九月、十一月と
六回の公演がもたれた。〈シアター25〉No.5の一月公演はロベール・フィリュー作
『ポイポイ』とアラバールの『戦場のピクニック』の再演に、阪田寛夫の『いしき
り』という音楽詩劇の三本立てでいずれも私の演出だ。
存在論的明哲さへ
とくに『いしきり』は、いろはにほへとを、七音ずつ区切っていった、五十一文字
の上下の配列の組み合せが、「いちよらやあえ」「とかなくてしす」という、エホバ
(ヤーべ)を讃える頌歌と、咎なくて死すという祈文になるという、東北地方のキリ
スト伝説に題材をとったユニークな発想と、牧師にだまされた女を演じた月まち子の
存在と大中恩の音楽が、緊張した空間を創成していたが、くわしくふれる余裕がな
い。
〈シアター25〉No.6の竹内健作『ワクワク学説』は異様な興奮にかられる作品だっ
た。また最初から〈シアター25〉のために、二週間ほどの短期間で書き下ろされた記
念すべき戯曲だ。「怪奇と清純の奇妙に同居するこの作品から、どのような演劇空間
をつくりだせるか。まさに悪魔からの贈物を貰った感がある」と私は宜伝文に記して
いるが、最初のキッカケは、竹内健にイオネスコかべケットの未紹介の作品を訳して
貰って三月に上演するつもりだった。それが「今、あまりあいつらには興味がない。
僕が新しく書いてもいい」ということになった。
《人の生れる樹ワクワクの謎を求めて船出をした失踪者で氏の失踪の真相が、失踪
後、息子に託された「ワクワク起源論序説一人類の発祥地は何処か」というT氏の論文
の、発表会の席上で明らかにされ、妻の姦淫と、愛する夫の肉体の消滅が、世界を覆
う大樹と妻の逆ハリツケY形のダブルイメージで締め括られていく》
笠原伸夫にいわせれば、現代芸術に現象化されるさまざまな〈虚空遍歴〉を〈消
滅〉という過激なものにすりかえ、変形していく竹内健の独創的な〈存在論〉だ。
私のいままでの演劇体験や感性のなかで出逢ったことのない、衒学的な意匠をま
とったきわめてリリカルなこの作品を舞台化していくことは、苦痛に近い作業だっ
た。私のもたつきを苦々しく眺めていた竹内健は、やがて強引に稽古に介入してきた
が、私も率直に彼のイメージを尊重した。おかげで作品の裏にひそむ彼の狂信性が、
生々しい迫力で私たちの眼前にあらわになり、緊密度のある舞台になったようだ。
『かげろう囃子』の平明さから、『ワクワク学説』の存在論的明哲さへの振幅の大
きさは、そのまま〈シアター25〉の、世界の多義性への懸命な接近の過程(ルビ プ
ロセス)でもあった。『ワクワク学説』の書き下ろしは、この後の創作劇一筋の思い
がけない展開を引き出す契機ともなった。
「場の演劇」の構造化のために
機関誌「発見の目」と地道な批評運動
竹内健の『ワクワク学説』が、イオネスコかベケット訳出の依頼からヒョイと生れ
たことは前述したが、これと時期を同じくしたいくつかのできごとは、「発見の会」
が一層はっきりとした自己の文体や論理をもった演劇集団へ変容していくキッカケに
なった。これは先の見通しのまるでない、万事を偶然にまかせながら、なおも偶然の
なかに必然性を見通す眼を、なんとかもとうとしてあがいてきた〈シアター25〉の一
年の動きが、やっとある波動を引き起こしてきたといえるかもしれない。
内田・今野戯曲連続上演
いくつかのできごとのうち最大のものは、内田栄一との作業の再開と、内田が引き
逢わせてくれた今野勉との出逢いだ。内田栄一は、第一次「発見の会」の解消時に
は、いささか冷ややかに事の成行きを見ていたようだが、〈シアター25〉の疾走がひ
とつの形をとりはじめたこの時期、再び全面的な協力体制をとって『ゴキブリの作り
かた』(一九六六年七月)、『流れ者の美学』(一九六七年二月)、『でたらめバカ
のくそったれ』(一九六七年五月)と三本の作品を立てつづけに書いた。『でたらめ
バカのくそったれ』上演のやりかたをめぐってケンカ別れをしてしまったが、「発見
の会」が内田作品によってひとつのスタイルをつくったと同様に、内田はこれらの作
品によって劇作における彼の主要なスタイルを確立した。
今野勉はこの頃、TBSの『七人の刑事』のディレクターで、内田栄一とコンビで、
刑事たちの存在そのものを根底からゆるがしてしまうような、彼らの「踏みいること
を決して許さない領域を内部にもった人間」が引き起こす不気味なリアリティのある
作品をつくっていた。またテレビ部門での国際的コンクール「イタリア賞」の一九六
五年度の一位を受賞して注目されていた。内田栄一がいつ紹介してくれたのか定かで
はないが、池袋の朝鮮料理屋で三人で逢ったのが初めてで、一九六六年の三月か四月
だろう。「この人は芝居も書けるよ」と内田はいった。記録芸術の会の活動家でも
あった内田には、人の才能を見抜き、自在の場に引きずりこむ能力があったようだ。
今野勉との出逢いがなかったなら、私の演劇体験はずいぶんと幅の狭いものになった
だろうし、「発見の会」の「場の演劇」も構造化できなかったにちがいない。今野は
〈シアター25〉のために『一宿一飯』(一九六六年九月)、『エンツェンスベルガー
「政治と犯罪」よりの幻想』(一九六七年四月)と佐々木守との共作で『千日島のハ
ムレット』〈一九六七年十二月)の三本の作品を書いている。
「発見の会」の後援会ができて、機関誌「発見の目」が発行されはじめたのも見逃
せない事だ。『ワクワク学説』の公演パンフに「後援会へのおさそい」があり、「私
たちが『発見の会』と緊密な関係をもち、同調者というだけでなく、ある場合は批判
者ともなり、彼らと共鳴して、対立しながら魅惑的な舞台をつくりあげるということ
は、これからの日本の新しい芸術運動に大きな役割を果すのではないかという楽しい
抱負を抱いております」という一節がある。後援会発起人には、いいだもも、今井直
次、竹内勇太郎、武智鉄二、中村正義、八百谷孝保等の名前があるが、いちばん熱心
にやってくれたのは、指田芙佐子、野口民治、関根順子、岸本舜晴の四人だ。なかで
も指田はかつての「舞芸座」に短期間いたことのある人で、機関誌の原稿つくりから
ガリ切りまで大奮闘して、いま読んでも読みごたえのある充実した内容のものを、九
号まで出している。
「発見の会」御用評論家?
後援会とは、ベタベタチャラチャラとしたつき合いではなかったし、お金の援助を
受けた覚えもないし、観客の動員にも、それほど大きな力になってくれたわけではな
かった。が広がりのある地道な批評運動を、私たちにつきつけたことは、観客との関
係性にこそ創造性の唯一の原点を見つづけようとする「発見の会」にとって、貴重な
存在だった。「発見の目」の全巻は、寄贈依頼で送っていた記憶があるから、もし管
理がいき届いていれば国立国会図書館にあるはずだ。
美術評論家の故石子順造とのつき合いもこの頃からはじまり、「発見の会」の御用
評論家を自認して、ハプニング大会を企画したり、「発見の目」の座談会の司会や、
死の直前の、豊田勇造『さあ、もういっぺん』のライナー・ノートまでずいぶん世話
になった。石子もまた「発見の会」論の成立に、自らの肉体を賭けて参加していたと
いえるだろう。注1
石川淳原作、藤田傳脚色、武智鉄二演出の『おとしばなし和唐内』(一九六六年五
月)が実現したのは女優月まち子を評価していた武智の積極的な申し入れがあったか
らだ。「舞芸座」の『悪七兵衛景清』以来のつき合いは、映画『黒い雪』などに月ま
ち子や坂口俊が出演したことで、より一層密接になり〈シアター25〉の動きにも、あ
るシンパシイをもってくれていた。石川淳のお宅へ一緒に出向いて上演許可を貰った
り、稽古にも熱心に出てきたりで、あるいは自分の持続的な演劇活動の最後の場とし
て「発見の会」を考えていたのかもしれない。私は武智演出の〈シアター25〉No.7公
演には一休みして、「藤田まことショー」の舞台監督でドサ回りをやって一稼ぎさ
せて貰った。このため「発見の会」の芝居では、本番を見ていない唯一の心残りのも
のになった。
内田栄一に聞いた『ゴキブリの作りかた』成立前後のいきさつでは、処女戯曲『表
具師幸吉』のあと凄い奴を書くぞと思っていて、〈○○の作りかた〉というパターン
は先に決まっていたそうだ。〈作り方〉というハウツーものの単純なイメージではな
・ ・
く、〈作りかた〉とヒラがなでわざわざ書く、混沌としたイメージなのだが、とにか
くなにか汚いもの、ハエの作りかたでも、ネズミの作りかたでもよかったが、ハエは
サルトル風だし、ネズミは安部公房で嫌だ。ゴキブリは誰もやっていないと気付いて
これに決めた。「卵焼きの作りかた」というのをテレビシナリオで書いたがボツに
なったそうだ。
「発見の会」は廣末保の失敗のあと、ダメだと思っていたが、七人程で頑張っている
のを見て、すっきりしてやりたいことがやれると思い直し、一九六六年の五月頃、二
十日間程で「パッと書いて渡したら、パッと上演した」といっている。
注1 石子順造の感性や肉声を伝えるものとして、『此方か彼方処かはたまた何処か』を
めぐる「発見の会」の動きや今後の課題等を話し合った、私との対談を収録した。
「演劇センター68」参加の地方公演のために特集した「発見の目」九号におさめ
られているものだ。本書164頁参照。
集団の内的衝動をオブジェ化
「アングラ演劇」の記念碑『ゴキブリの作りかた』
『ゴキブリの作りかた』は「アングラ演劇」というものの精神的傾斜の構造と具体
的な造形性の全ての面を開示した、「小劇場運動」史上、最初の記念碑的なできごと
(作品)といえる。その圧倒的なエネルギーと破れかぶれの〈存在論〉の質感や密度
は、この上演一年後に出現した「状況劇場」の花園神社での「赤テント」興行と双壁
をなすものだった。「状況劇場」の、唐十郎の個的な天才性と、暴力的なというか、
他者性の侵害を必然とする、パーソナルなタテ社会の組織論で構築する「河原者」の
純朴な演劇性や情念に対して、「発見の会」の「天才」のいない無名性と、あらゆる
表現に対しての絶望や不信からくる、乾いた発作的行為や、インパーソナルな徹底し
たヨコの組織論との決定的な違いはあったが。
「場としての演劇」の意味・構造論
「発見の会」と「状況劇場」が描く、振幅の大きな軌跡のなかへ、この時期の演劇
的楽しみと未来の課題とが、全て包摂されてしまっていたといってもいい。長部日出
雄が評した「『状況劇場』はウルトラ右翼で、『発見の会』はウルトラ左翼だ」との
ことばがこの辺の事情を物語っているようだ。「状況劇場」やその亜流たちが、やが
て演劇的制度のなかで市民権を獲得していき「発見の会」が、いまだに無名性のもと
での再生と解体を繰返しているのは「ウルトラ左翼」こそが負うべき永遠につづく表
現の宿命だろうか。
『ゴキブリの作りかた』は演劇状況的にも、ある一点を突破したものだったが、〈シ
アター25〉にとっても、私たちの全力疾走の内的衝動をオブジェ化した記念すべきも
のだった。ゴキブリ博士のあらゆるものに対して投けつける、憎感と不信のことばは
音の機関銃と化して、現代の不毛を象徴するコラージュとなって撃ちこまれていく。
それは、なりふりかまわず斬りつけていく私たちの、一回性に賭ける表現衝動の楽屋
裏をあっさりとまくり上げて見せたようであった。役者たちはこの公演で、確実なひ
とつのリズムを身につけた。
重要なことは、ワイザツなことばや身振りの連射によって射型化されてくるコラー
ジュやオブジェの即物的な即興性は、内田栄一が意図した演劇効果を超えて、作家と
稽古場の関係を変えた。後生大事に持ちこんでくる作家の立場などは、気恥しく引っ
こんでしまい、壊してはつくり上げる自在な運動は、表現集団内部の自由さや、デモ
デモクラチックな感性をあらわにしていくことになった。このことは、次にやった今
野勉の『一宿一飯』での共同作業によって一層鮮明にされ、「場としての演劇」とい
うことばに集約される意味論・構造論になっていった。
『ゴキブリの作りかた』の筋立てはよくあるパターンだ。《未来の人間づくりに熱中
するゴキブリ博士は、未来の人間も人間の形をしていると思いこんでいた幻想や神話
を自己批判して、本当の新しい人間「ゴキブリ」作りをはじめる。培養箱には、ベト
ナム戦争で死んだ兵士の鉄カブトの中にタマゴをカチ割り、その上にゴマ粒をのせ、
万国旗と世界中の糞尿と唾液と残飯を入れ、コカコーラをふりかけながら二十一日
間、未来人間「ゴキブリ」は熟成される。噂を聞きつけて、未来人間ゴキブリ神のご
利益にあやかろうと、流れ者の逃亡者や女優志願の娘や、新聞記者や商店主などが
やってくる。博士の弟子は密かに、失敗作の未来人間の膣穴づくりにはげみ、愛し合
うようになる。やがて人々の熱狂のうちに、ゴキブリ人間が飛び出して失敗作の美女
の膣穴に入りこむ。「ゴキブリ」との結合によって動き出したスクラップの美女に、
博士も弟子も人々も全て食べられてしまい、食傷気味の美女は、デザートに片隅のコ
カコーラのビンを食べながら「ソノウチトケルネ」とにっこりする)
美術の基本プラン
内田栄一が第一稿をくれた時、美術のワダエミは同時に美術プランのメモを提出し
た。ワダエミのイメージは『ゴキブリの作りかた』が、一線を悠々と飛翔しながら突
破していくことを可能にしたといってもいい。「舞台そのものが現実に対するひとつ
のものになること」「従って決して地球の引力にとらわれてはならない」「あらゆる
条件を無視すること」「もうひとつの世界の見世物であること」「内部の心理的、日
常的な意味を附加してはならない」「小道具はすべて人間と同格均質であること」
「色彩についても人間の条件及びそのものの個有の色を無視すること」というような
基本プランから、具体的には黒カーテン前に吊した金網に、人間のパーツ(マネキ
ン)、日用雑貨、衣類など白ラッカーで吹きつけた一切のガラクタをぶら下げ、美女
に食われるあたりから、徐々に金網のバトンを下ろして崩壊していく舞台となった。
博士や弟子や女中が、太いメン棒の。ぺニスや浮袋の子宮を引きずって、ドタバタと
駆け廻るのも面白かった。ゴキブリ博士の牧口元美や美女の月まち子がつくったアク
ションの造形性も、美術のイメージに触発されたものだろう。
美術評論家東野芳明の感想を紹介しておく。
「内田栄一さんの『ゴキブリの作りかた』を見たあと、花田清輝さんが、ワダエミ
さんの装置をしきりにほめ、科白については、ありゃ音だよ! といわれたのは面白
かった。『ゴキブリの作りかた』は、アルフレッド・ジャリの『ユビユ王』とマヤコ
フスキーの『南京虫』をくっつけて、ポップ・アート用のソースを加えた奇妙なゴッタ
煮である。近来になく、人間味とか意味ありげな〝意味〟とか、押しつけがましい概
念とかの全くない、さばさばとしたドタバタ喜劇である。博士や弟子や女中の衣裳
は、まさにユビユ的であり、未来人間がコカコーラで培養されたゴキブリとできそこ
ないの女ロポットとの〝交尾 から生れて、コカコーラの瓶をバリバリ食べるというと
ころなどは、マヤコフスキー以上に面白い。そして、『ユビュ王』の〈おいらの緑の
ローソクにかけて〉や〈糞ッタレメ〉などの有名な新造語と同じく、やたらに〈デタ
ラメバカ! 糞ッタレメ!〉などと、おだやかでない科白が機関銃のように飛び出
す。とくに面白いのは、できそこないの女ロボットが、パピプペポ、ガギグゲゴ、モ
ンクアルカなどの(音)を発する件りだ。まずもって(文字)に毒されすぎた観のあ
る新劇界には、異例のイカサマ・ダイヤのような作品だろう」(〈シアター25〉No.9
パンフより)
劇的なるものの解体作業
今野勉『一宿一飯』 知的遊戯の磁場で
〈シアター25〉No.8の『ゴキブリの作りかた』(一九六六年七月) についで〈シ
アター25〉No.9は今野勉の『一宿一飯』(一九六六年九月)だ。これもまた、ヒョイ
と書いてヒョイとやってしまったようだ。
今野に聞くと、私と出逢ったのが三月頃で〈シアター25〉No.6の『ワクワク学説』
とNo.7の『おとしばなし和唐内』を観せられて、あれだったら俺にも書けるナと思っ
たのだそうだ。そういえば『ワクワク学説』の二重三重に重層化した、現実(事実)
と虚構の反転する構造が、似ていないこともない。
資料を駆使した推理劇
今野勉は昭和11年秋田で生れで、三歳から高校卒業まで、北海道登川炭坑で育った
炭坑夫の息子だ。東北大の社会学科卒で、卒論は「友子制度 ー 小社会における集団の
変遷」というものだ。東大社会学部教授松島静雄の『労働社会学序説』を読んで、友
子制度の残存している数少ない鉱山が自分の育った登川炭坑であることを知って、大
学三年の夏に松島教授を訪ねて卒論のテーマに選ぶことを決め、四年の夏に調査をし
て書き上げたという。
「友子」というのは徳川期から発達した坑夫たちの相互扶助組織で、第一次大戦後
のパニックで崩壊していくまで、全国的な連帯が保持されていた。一鉱山内の友子で
は救済しきれない重傷者には、奉願帳という身分証書を与えて、それをもった傷病者
には一宿一飯を供して金銭を授与し、次の鉱山へ送り届けるといったシステムで諸国
を回遊させて、全国友子の共済で扶助していた。その他、親分子分の共同体で技術の
伝授や、失業救済なども行なっていた。
『一宿一飯』はこの友子制度の記録資料を駆使した一種の推理劇だ。
《男ABCと女Aの四人の俳優が、奉願帳もちの、男Aの祖父と、送り届け人の、男B
の父親とが、忽然と姿を消したその真相を追求する。祖父を谷底へ突き落し、その金
を奪って逃走した男Bの父親は、その後鉱山のガス爆発で死亡したと、男Aが告発する
男Bの父親の犯罪は、別の視点からは全く異なる風景が展開する。審判官役の女Aの身
上話にも陰欝な因縁話がからんできて、事実と虚構の ー それは舞台の進行が、台本に
書かれてあるのか、役者がその場の即興でやっているのかということまで含めて ー 綾
目もわからぬ二重三重の屈折した構造のうちに、近代日本の人々の「真実」が浮き
上ってくる。芝居の進行中、常に映りつづけていたテレビと、ウイスキーを飲みなが
らのテレビの監視役の男Cだけが、観客と同次元の劇場の「日常」(現実)なのだろ
うか。最後のドンデンガエシは、そうした醒めた意識をも、徹底して白けた街頭(日
常)へと放り出してしまう》
とまあ、こういう芝居なのだ。
舞台の上の奴らが一方的に〝我を忘れ 観客席のぼくらが一方的に〝感動 させられ
〝畏怖 させられるのでは、少し間尺に合わない」「ナマイキな観客は、感動すること
をテレ、舞台の上の〝没我 を、冷ややかに見つめる。ここで主客が転倒する。ザマァ
みろ」「しかし、舞台と観客との間に主客の関係があるというのは、少し現代的では
ない」「観客が、つねに自らの観客としての位置を意識しながら舞台の上の俳優に向
きあい、舞台の俳優は、つねに対手の観客に、意識を確かめさせながら、自らを対応
させていくー演劇的というのは、こういう対話のことではないか」(〈シアター
25〉No.8パンフ)
と今野は書いているが、当り前すぎる論旨とはいえ、こうした醒めた意識のかけ合
いを、演劇的なるものの中核に見すえていく努力はあまりにも少ない。「没我」「憑
依」や「感動」「畏怖」が、いまだに劇的なるものの奥ノ院におさまりかえってい
る。
波長の合った「共同者」
劇的なるものの解体が、「発見の会」の一方でのテーマだったはずだが、内田栄一
のドタバタ風の生理衝動のオブジェ化や内面的リズムのドキュメントが、あくまで内
田栄一の個的な表現主体の叫びに対し、今野勉は「友子」やエンツェンスベルガーの
『政治と犯罪』という著作などの、事実そのものを正面に押し出して、開放された空
間には、種も仕掛けもないことを見せびらかしながら、二重三重のトリックで、いや
応もなく役者と観客の総体を、ひとつの危険な〈存在その
ものの知覚の場〉へと引きこんでいく。役者と観客との醒めた意識のかけ合いなしに
は成立不能な、知的遊戯の磁場がひろがっていくのだ。
内田栄一的な破れかぶれの〈存在論〉には、この後いくつもお目にかかるようだ
が、今野勉的知的遊戯の〈存在論〉にはとんど出逢ったことがないのはどういうわけ
なのだろうか。花田清輝の切り開いた、論理性とアクションの大衆性ふまえた、知的
楽しみとしての新たな演劇は、今野勉というしたたかなテレビの「感性」によってひ
とつの展開がはじまったはずなのだが、この後の軌跡や系譜は一向に現われてはこな
い。
『一宿一飯』は私にとってしたたかに手ごたえのあるものだったが、じつにのびのび
と楽しませてもらった。「舞芸座」、「発見の会」と四十本ほどの演出をしている
が、今野勉との仕事が、つまり彼の発想や資質やリズムが、いちばん私の波長に合っ
ていたようだ。
初演は奴との共同演出だったが、稽古場で何の打合せもなく、二人が同時にしゃべ
りはじめても、全く同じ論旨を叫んでいることもしばしばだった。可能性の時代でも
あったあの頃のテレビの「現場」で鍛えられた、今野勉の明快な作家的立場ー「戯曲
もひとつの素材にすぎない」ーこれこそ私の求めていた「共同者」だったということ
だろうか。役者がのれないところをチェックすると、その場で戯曲は変容していく。
そのテンポやリズムは痛快だった。つくりつつ壊していく稽古の課程そのものが、す
プロセス
でに舞台そのものでもあった。本番二日前に突然、胸膜に穴を開けて緊急入院した故
高橋英二や、見事その穴埋めをした小林和夫(隆利)や、現在「68/71黒テント」で
活躍している斉藤晴彦の初登場なども忘れがたい。
津野海太郎はかなり丁寧な批評を書いてくれ、
コンベンション
「現代演劇のさまざまな慣習を図々しくいただいて、かえってコミュニケーションの
断絶などなにほどのこともないといった調子で、確実なメッセージを伝えてしまう。
ラディカルということばがいささかラディカルすぎるくらいのたしかさで、演劇的感
受性の根本的な急所が変りつつあり、もっと変えることだってできるのだという印象
を、ぼくは受けた」(「新日本文学」一九六六年十二月号)と結んでいる。
「発見の会」美学成立の契機
自由についての夢物語 ー 内田戯曲『流れ者の美学』
『ゴキブリの作りかた』と『一宿一飯』は、「発見の会」の〈シアター25〉の運動
に、確固とした足場を与えてくれた。もちろん、いままでの〈シアター25〉九回の公
演の全てが、私たちのその時々の存在証明であったわけだし、どれひとつ手を抜い
た、あやふやなものはなかった。
だが、竹内健が後援会機関誌「発見の目」六号に「作家としていうなら、ボクの作
品より内田栄一のものが、この劇団に向くようである。ボクは、実の所『ゴキブリ』
を見ながら、役者たちの生き生きした演技(それは演技を超えたものだったが)に感
心したのだ。はっきりいって、ボクの作品の場合は、役者が窒息しそうだったから
だ。窒息する芝居もいい。しかし、それは一度だけで充分だ。少なくとも役者の生理
が反発しすぎる。と、そう思ったのだ。そして、だからこそ、最近ボクはこの劇団に
愛憎をさえ抱きはじめているのだ」と書いているように、内田栄一や今野勉の資質
が、私たちの生理とピッタリとウマが合っていたということは否定できない。
演戯プランとしての戯曲
この二人によって、この時期の表現にかかわる現在性と、永遠につづく課題とが混
然となって私たちの肉体になだれこみ、「舞芸座」以来の混沌を一歩大きく踏み出し
はじめた〈シアター25〉の動きは、一層明確に意職化・構造化されて「発見の会」美
学の成立の契機になっていったといえる。
竹内健もいい。彼が自分と「発見の会」と他の作家との関係を、前記のように見て
いたということ自体、充分に共同性の成立基盤があるではないか。でも当時は、徹底
した平易さや、透明さを好む私の性癖と不勉強からくる感性の狭さは、竹内の衒学趣
味や独特の存在論よりも、内田や今野の開放感や論理的平明さに傾斜していった。最
近、資料を借りるため竹内と久しぶりに逢って、短い時間話をしたが、ふっと呼吸が
合うのに驚いた。呼吸や波長が合うというのは、直観的洞察が、互いをしっかりと結
合させる、生きる場の共創性とでもいうことだろうが、あの時から十五年の時間が、
それぞれに確実な変容を強いてきたようだ。
戯曲や台本に対しての私たちの基本的立場はこうだ。演劇的出来事の第一歩とし
て、表現集団を、ある狂的なものへ誘いこむ最初の提案であり、原初のイメージ、提
出された遊戯(遊行)プランとしての戯曲である。初発の提案が、どれほど快適な自
在さにあふれているか。各人の自由自在な動きにどれほど寛容でありうるのか。そし
て観客を含め、演劇的出来事に立ち合う全ての人々が、どこまで、この提案を契機に
して自己の沈黙の構造を開放し、互いに交接(交流)し合えるのか。どこまでこうし
た可能性を保証しうるかどうかが、戯曲の質量当否を判定する唯一の基準にすべきも
のだ。そこにほんの少しの可能性が感じられれば、早速とりかかればいい。ちまちま
と、原稿用紙に向って考えこんだ痕跡は、稽古から上演にまで至る、壮大な人間の関
係性のフィールドで、表現過程の演劇的「場」のなかで、思いもかけない波動(変
容)を引き起こすはずなのだ。
こうした立場をもっともラジカルに、当然至極といった自然さで貫き切ったのは今
野勉だ。あの時代のテレビで鍛えられた今野の感性が「戯曲もひとつの素材(条件)
にすぎない」と叫ぶのは、当然の帰結だった。こんなことは、上杉清文以降、現在の
「発見の会」の書き手たちには、念を押す必要のないことだろう。
〈シアター25〉は内田、今野コンビで、鮮明なカラーを出していくため、恥10は
『ゴキブリの作りかた』の再演をやり、この後内田、今野作品の交互の公演をもっ
た。いずれも、さきの基本的立場を、一層深化させたものといえる。
危険な楽しみ
〈シアター25〉No.11内田栄一作『流れ者の美学』一九六七年二月)のチラシに
は、「共産党宣言」と「医学カード」と「いろはがるた」の弁証法的統一を実現した
ポップ・コメディとある。
《ふと日常の空虚さに気づいた市民たちが、お告げを聞いて、自由な流れる流れ者に
なるために集まってくる。日常の一瞬の空虚のなかでの「自由についての夢物語」
だ》
私のメモには「唯一の演出プランは、この芝居が芝居ともいえぬ代物であり、内田
栄一の倣岸不遜な現代芸術への挑戦状であり、共に闘うべき『発見の会』の同志たち
への共同闘争宣言である以上、僕らのとる道は唯一つ、各人の現代芸術に対しての考
え、『発見の会』などでやっている自己の存在理由、意味、それらについての、それ
ぞれの明白な態度の表白にこそかかっている。この芝居の究極的なやり方は、〈『発
見の会』美学〉についての一大討論の場と劇場を化すこと、それにつきる」と記して
いる。冗談話になるが、真面目な山岳部の学生で、末は山小屋のオヤジにでもなるつ
もりだったのに、この芝居を観たために道をふみ外したと述懐している映画作家布川
徹郎 注1 がいる。
〈シアター25〉No.12 今野勉作『エンツェンスベルガー「政治と犯罪」よりの幻』
(一九六七年四月) の舞台は、《ある劇団の稽古場で、劇団というのは世を忍ぶ
仮の姿で、実は秘密演技訓練所というテロリスト養成所なのだ。この秘密結社のメン
バーたちが、エンツエンスベルガーの『政治と犯罪』という書物を読んで「こいつ
奴、俺たちのことに感ずきやがったな」と疑いはじめるところから芝居は展開する。
この本に出てくる主人公たちは、独裁者トルヒーヨも、暗黒街の帝王アル・カポネ
も、ロシアン・テロリストアゼーフも、イタリアの政界を舌先三寸でかきまわした小娘
プぺッタ・マレスカも皆、この養成所の出身だったのだ。大和騎馬民族殲滅の悲願に
燃えるテロリスト・アイヌ、テロリスト・イズモ、テロリスト・コリアは、どんづま
りの淵で、虚在をなりわいとする、たかが芝居の役者でしかないことにあらためて気
づく。果して彼らに、どのような脱出路が見えてくるのだろうか》
『一宿一飯』で今野勉の提出した事実と虚構を貫く劇構造の、入念で周到な軌道
は、ここではもっと開放的に、俳優各自の肉体化のバネにまかされていた。それだけ
に、時代の狂乱や波動は、直接劇構造にまで至る危険な楽しみをもっていた。私たち
は、『一宿一飯』よりも、もっと鋭くて過激な、知的遊戯の場をつくりあげたはずだ
が、私たちに内在する「のめりこみ」を了解する人々は、演劇畑ではきわめて少数
だった。
注1 布川徹郎は『不純異星交遊』(一九七八年)の上演パンフレットに次のように
書いている。
「十数年前、僕は若くて素朴で優秀なアルピニストであった。
〈若く〉も〈素朴〉も、まして〈優秀〉などということを、今は忌み嫌らうこと
だが、当時はそうであった。〈優秀〉さについては、相対的なことだから、広河
隆一と対比してのことである。その広河隆一と一緒に、トレーニングを終えて学
生服を着て、何故か、『発見の会』の『流れ者の美学』を観に行ったのである (広河隆一は以後イスラエルに行き『ユダヤ国家とアラブゲリラ』『パレスチ
ナ・幻の国境』の本を著わし、今は『人民新開』でアフリカの革命を伝えてい
る)。
《チラリと見たのが不幸の始まり》とはまことに真実である。将来は、山小屋
の〝オヤジさん で終る一生が変ってしまった。山で死ぬかもしれない不幸の他
にも、〝何をやってもいい と教えてくれたのである」
関係性の弁証法と作家的立場
内田戯曲『でたらめバカのくそったれ』上演中止事件
一九六七年六月に予定されていた〈シアター25〉No.13内田栄一作『でたらめバカ
のくそったれ!』は、五月三十日、稽古場会議の全員の意見で上演中止となった。
作品の質やボルテージの問題ではない。それは全ての公演についてまわるものだ
し、今読み返して『ゴキブリの作りかた』や『流れ者の美学』と比べて遜色のないど
ころか、その破れ方や解体の方向には、充分納得できる必然性があり、時代の風と格
闘している内田栄一の「現湯」がある。
演劇集団としてのカの蓄積という点では、やるべきだったし、やれば確実に衝撃的
な演劇空間をつくり出せただろう。この事態は、どんなことになろうとも、この一点
は許しがたいというものに執着した結果であり、台本も場所も役者もスタッフも、こ
の公演を心待ちにしている観客も存在する状況での、贅沢きわまる上演中止だった。
これは、この後の「発見の会」の、ますます過激な自己解体への拍車ともなる。
開いた寛容な感性
許しがたい一点とは、いうまでもなく、戯曲や台本に対する私たちの基本的態度
だ。第一稿を渡されたとき、いくつかの問題があるが、稽古の過程で変っていけばい
いと思っていた。内田栄一がなぜそういう態度に出たのか、いまだに不可解であるが
「とにかくこれをやるのか、やらないのか、はっきりしろ。今度の台本は一切手直し
をしない」といいはじめたのだ。
いまになって思えば「発見の会」の共同作業に、どこか嘘くさいものを感じ、どこ
まで提出した台本を、自分のイメージ通りに上演できるか、一切手出しをせずに、み
てやろうと思っていたのかもしれない。でもそんな、物書きのエリート意識を、私た
ちが許すはずはない。台本のもつ原初のイメージがどのような変貌をとけていくのか
に、無類の興味をもちうる者のみが味わえる、芝居の極上の楽しみに、ケチをつけて
きたのだと思ったのだろう。人々の関係性の只中で、自分を無化しうる者のみが、究
極的に 一 本来の面目(本質的存在性)をとり戻す。人間にとって宿命ともいえる
この関係性の弁証法に、作家の主体性や想像領域の侵害といったザラつきを覚える人
は、演劇などには、少なくとも「発見の会」の芝居の現場には、近づかない方がい
い。倣慢に自分のわがままを押し通すことのできる表出方法は、この世には無数にあ
るからだ。 内田栄一は、もともとこうした開いた寛容な感性が身上であったし、『ゴキブリ』
も『流れ者』もこのような共通意織のもとに創りだされたはずだった。しかし、上演
中止の経緯を冷静に追っていくと、今野勉ほどに開放的ではありえぬ、自己の作家的
立場や資質やイメージにとまどう、あの頃の内田栄一のタテマエとホンネのキシミあ
いがあったようだ。
たとえば『ゴキブリ』や『流れ者』での、アドリブや即興的演技 ー もちろん稽古観
での検証を通過した 一 に対して寛容をよそおった反発は、ひとつの遠因になっていた
ようだ。ニコニコしながらもニガニガしく思っていたらしい。
また戯曲集『吠え王オホーツク』と評論集『生理空間』に関して私の書いた、次の
ような文章もひとつの見方だろう。
「私の知っている内田栄一は、決してこれ程まで決然とした身のこなしを示しつづ
けていたとは思えない。いくつかの時期には、人がいちどは陥るであろう、秩序がに
こやかに準備する栄光と居心地の良い場所に、意識はあくまで明晰にそれを拒否しな
がらも、のめりこんでいく風情があったことを否定するわけにはいかない」(「映画
評論」一九七三年五月号現代作家論「内田栄一ともども」)
上演中止事件は、自己の確立と無化との間の無意識の軌轢だったのかもしれない。
上演中止にまで至る間に、内田栄一と私たちの、しつこいほどの話し合いがもたれ
ている。これを正確に再現する手段はないが、中止を改めた五月三十日、三十一目の
日記から、要点を抜き書きしておこう。
〈内田栄一とワダエミの帰ったあと、もういちど公演の可能性を探ることを続け
る。実に奇抜なイメージが噴出しだす。いちどはテープにそれぞれの熱弁を録音したく
らいだったが、それは僕に同情して、皆それぞれにやる気をかき立てているのにすぎ
ない。ここに至って僕は、この公演が完全に潰れたことを思い知らされる。/このあ
と今野勉来る。実に冷静に事態を割切っていく。
今野がいうには、内田栄一はいま完全に自己を確立した一人の作家として、堂々と
歩いていきたいと決めているのだ。お前たちは、俺が必要であれば俺のいうとおりに
しろ。このため「発見の会」と手をきったにしても、その方がいいと思ったにちがい
ない。一人の作家がある時そう決意し、選んだとき誰も止めようがないのだ。『ゴキ
ブリ』や『流れ者』が妥協の産物だと、きっというにちがいない、そのセリフまで予
測できた。まあ、出逢いがあって、別れがあったと考えていいのではないか。/コン
ノの奴冷たいなと思いながらも、第三者の判断として納得できる。
マスメディアに生きる者の、冷静ないさぎよさか〉(一九六七年五月三十日)
「テロモグラ団レポート」まで
〈新聞社関係へ公演中止の連絡を入れる。月まち子の妹さんが「私は絶対作家の味方
だわ。どんな方法をこうじてもやるべきだ。可哀相に、一文にもならないのを、三本
も書かせて」といってたと聞くと、ひどくセンチにわびしく、内田氏に悪いことをし
たのだという実感が改めて胸に迫ってくる。牧口元美が「俺だって内田さんと同じ傷
を負った」といったのに対して「ふざけるな! 内田栄一の痛みが判ってたまるか」
と思わず怒鳴りつけたが、まったくそうなのだ。/いまの僕の結論はこうだ。ひとつ
は作品の焼燃時間の不足。脚本検討の問題を整理し、再突撃する時間が、内田氏の他
の仕事とのやりくりでつくれなかった。また、僕らの新しいものぺの触覚の鋭さを、
彼は全面的に信頼できなかったことが最終的に全ての可能性を奪ってしまった。/二
つは、舞台化への方法で、『流れ者』のハプニング的処理などを彼が拒否したこと
で、創造的見通しが立たなくなった。『ゴキブリ』や『流れ者』が妥協の産物で、こ
んどは俺の書いた通りをやれというのでは、ほとんど絶望的だ。/ひとつの不安は、
この作品の面白さや可能性を僕らは完全にとらえているのだろうか。はじめてつき合
う客演者諸君の、この作品への共感を組織する戦術的問題を含めて、手抜かりはな
かったか。問題提起の質量に不満が残るにしても、現代芸術の課題という観点から、
この作品を充分に討論しつくしたのだろうか。今日はからずも斉藤晴彦が「俺、最初
こんなもん誰でも書けるって思っちゃったもんね。でもいま俺自身考えなきゃいけな
い問題が含まれていると思いはじめているよ」といい、牧口元美がそれに同意してい
たことにもつながる〉(一九六七年五月三十一日)
話はちがうが、時期を同じく、雑誌「新評」に色物三十二ぺージを頼まれ、今野
勉、月まち子と三人で、「テロモグラ団レポート」の連載をはじめる。編集担当はル
ポライターとして優れた仕事をしている鎌田慧と、ダイヤモンド社で活躍している佐藤
徹郎だ。『エンツェンスベルガー』を観て考えた企画だそうで、ゲストに足立正生や
佐木隆三、唐十郎などを布陣してやりはじめるが、三回で上層部からつぶされ鎌田、
佐藤は「新評」を退めた。
厳密な反省の契機のための「儀式」
『L・S・Dとハイミナール飲みくらべ大会』へ
『でたらめバカのくそったれ!』の上演中止は、ただひたすら疾走をつづけてきた
「発見の会」にとって、厳密な反省の契機となった。内田栄一と「発見の会」の間
で、結局は何が問題となっていたのか、はっきり見定めなければ、先へは進めない、
危機感があった。この後も何度か「発見の会」は厳密な反省を繰返して今に至ってい
るが、そのたびに、演劇言語の枠組みから離脱して、私などは「ウリウ治療室」をつ
くるまでになってしまっている。いわばその最初の立ち止りだった。
ただこの時期の「発見の会」の錯綜した状況は、まさに混沌のゴッタ煮で、一方で
は大学闘争に象徴される、戦後の彼我の総決算を賭けた政治決戦が展開され、その波
動は、第一期の研究生諸君の入会と共に、直接的に伝達されはじめてくる。
過激な突っ走りの引金
他方ではこうした状況とのからみで、小劇場運動の動静も、「六〇年代演劇」とい
う形をとって、人々のなかに意識化されはじめ、全般的な構造や見取図が描ける状況
になってきた。いわば「小劇場運動」は市民権を獲得しつつあった。「発見の会」は
他に先駆けて、聖域から飛び出したオッチョコチョイの分だけ、状況の影響も大き
かったのか。「発見の会」内部では、内田栄一の問題があり、研究生のなだれこみ的
現象があり、八月に予定されていた佐藤重臣の作品が、とうとう書けずじまいになっ
ての、やけっぱちのお詫び興行や〈シアター25〉オトムライ公演と、混乱は引きつづ
いた。一歩の立ち止りは一層過激な突っ走りの引き金となった。
メモを見ると、一九六七年六月十日頃から月末まで毎日四、五時間ずつ、集団構成
員全員がレポーターとなった討論会をやっている。「発見の会の創造原理」瓜生、
「発見の会の演技」牧口元美、三好道明、「発見の会の軌跡」斉藤晴彦、「発見の会
と私」頼川新一、渡辺キヨコ、「小劇場の演技」山田圭也、「内田栄一論」月まち子
とある。また大島渚、武井昭夫、佐藤重臣、今野勉、石子順造、武智鉄二、津野梅太
郎、松本俊夫に講師をたのんで、「発見の会」評を中心にディスカッションをやった
ようだが、記録は現存しない。今から思えば、よくもまあ大真面目に、とそのエネル
ギーの浪費ぶりは感嘆するが、あの頃はそれが集団の持続力や爆発力の基盤となるも
のと思いこんでいたわけで、私たちには必要不可欠の儀式だったのかもしれない。
「発見の会」の研究生募集は、大事件だった。「『発見の会』は、〈シアター25〉
三年目を迎えるに当って、劇団の事務所と稽古場を〈シアター25〉本拠地である千日
谷会堂に移し、やがては我々の芸術運動の同志となり、真正の演技者ともなりうる人
材の発見と養成にのりだすことにしました」と、いささか歯の浮くようなうたい文句
を並べているが、私には共に語り合い、表現の根源の危険な領域にまで、一歩踏みこ
んでいく同志が欲しかった。私たちがいま見ている演劇というものの構造を、もっと
広がりのあるヤングパワーの交流のなかで、もひとつ確かなものにしたかった。同時
に自分たちの掴んでいる、表現におもむく根拠を伝達する体制もある程度できつつあ
るという思い上りもあった。
断っておくが、私たちにとって研究生ということばは、身分制や階層性の対象では
なく、たまたま慣用的に使ってしまった「演劇用語」にすぎないし、入ってきた連中
白身が、早速自らを「発見の会」 マジカル・ミステリー・チルドレン派を標榜し
て、私たちはそいつを追認したり、あるいは「発見の会」左翼反対派の名乗りを嬉し
がったりしていた。でも研究生という慣用語を無意執に使ってしまったことのなか
に、当時の組織論のぬきがたいまやかし性があるようだ。現在「発見の会」は久方ぶ
りの「新入会員」(これもまた何という味気ないことばか)を募っているが、真正の
共同者とめぐり逢いたいという欲求は、ますます切実なものとなっている。
〝現在ただいま のゴッタ煮
一九六七年七月に入ってきた、十数名の「研究生」たちは時代の風そのものだっ
た。たしかに上杉清文や杉田一夫、内山豊三郎、三輪勝恵、春木良昭、川上和加乃、
飯田孝男、坂口真人といった粒よりの才能が集まったことも驚きだが、この連中が演
劇歴十年、二十年の構成員を屈とも思わぬ、確固たる自己をもっていて、いやもとう
としていて、私の甘い思いこみもあったが、ともかく時代と共に呼吸しているその身
振りは魅力的だった。私は毎夜連中とGOGO喫茶をわたり歩き、「発見の会」での連
中の好き勝手な自在な「場」を、確保してやるのが私の任務だと思っていた。
佐藤重臣とのつき合いは『一宿一飯』を観てくれて以来急速に親密になった。今野
勉が「あの人は下から物を見るから、逢ってみたら」といったのがきっかけだ。変な
エリート意識や表現者意識のない、開けつぴろけで、気楽そうだが、きめ細かく傷つ
き易い精神が志向する、憧れの胎内回帰退行願望からくる下降意志は、「映画評論」
誌を独自のアングラ指向のものにしていた。「発見の会」の純情なハレンチぶりが、
彼はことの他気に入って、自ら作者をかって出てくれ月まち子宅にカンズメになって
努力はしたが、ついに書けなくて、八月公演『わが愛しのチャンボン姐 ルビ』もま
たまた無期延期になってしまった。
やけのやんぱちで、公演予定の最終日に、現在ただいまの混沌のゴッタ煮的表現で
ある『わが愛しのチャンボン姐を待ちながらの夜 ー ハプニングとGOGOフェスティバ
ル。L・S・Dとハイミナール飲みくらべ大会』(一九六七年八月二十六日)というイ
ベントをやった。
会場には金魚やどじょうすくい、綿菓子屋、風船屋、占いなどの夜店が並び、さる
大病院から手に入れた二千錠のハイミナールやアメリカ直輸入の覚醒剤の売人がウロ
つき、舞台では、風倉匠の風船やゼロ次元の儀式や、石子順造、刀根康尚の構成によ
る、「発見の会」総出演のハプニングが進行した。佐藤重臣はワダエミ特製の素裸の
日の丸姿で、公演延期のお詫びをしてまわった。
私は石子の発案による『オン - オフ』というハプニングに出演した。乱数表を見て
石子が秒読みをやり、オンでは今野が私の髪の毛を剃りはじめ、オフではシャボンを
塗りたくり、見事な虎剃りとなった。隣りのコーナーでは月まち子が、オンで佐藤首
相宅はじめ当時の閣僚の自宅一軒一軒に電話をかけて、オフで電話を切る。それが会
場内に大きく増幅されるといった趣向で、そうした遊びが入組ほど同時進行した。
「ガキを使ってみっともないことをする」と、真面目な芸術運動者のひんしゅくを
買った一晩だった。
過激な自爆=再生への意志
〈シアター25〉サヨナラオトムライ公演
内田栄一の第三作上演中止を契機にしてはじまった《厳密な反省》や《立ち止り》
は、一層過激な対象化の作業を強める結果になった。「研究生」のなだれこみや、佐
藤重臣作品の無期延期や、『ハプニングとGOGO大会』の乱痴気騒ぎが、この作業を
加速化した。
吹きこんでくる時代の風や感性と、まともに向い合わずにはいられない極点へと、
なにものかが、私をつつき出していく。私は、ひとつの価値をつけ加えつつある〈シ
アター25〉の連続をいったん断ち切ることで「研究生」たちとの落差を一挙に埋めつ
くして、対等平等な関係性を獲得し、壮大な祭りを夢見ようとした。当然のことだ
が、まず古手の構成員たちが自らの演劇にかかわった体験を歴史化し、そいつを「研
究生」をふくめた関係性の磁場で無化する作業を、自らの運動と化す必然に根ざさな
いかぎり、無意味なことだ。
ナレアイ的大立回り
もっとも保守的なはずのロートルたちが、先を制して危険な場所へと、身体を移さ
ない限り、いや、自ら消滅の極点へ身を移さざるをえない、根源の衝動を率直に表出
しない限り、物事の本質は微動だにしないことは、世の動きの全てにあてはまる原則
のはずだ。長生きや、それに伴うわずかばかりの体験や智恵の加重が、より深々とし
たこの世の殺意を、噴出させえないとしたら、何の意味もない。老成の宿命は、一層
過激な自爆=再生への意志によって、かろうじて平衡が保たれる。
それほど大仰なものではないが、私たちはついに〈シアター25〉サヨナラオトムラ
イ公演というところにいきついてしまった。一九六七年九月二十八日?三十日は内田栄
一の『ゴキブリの作りかた』を、十月九日 ー 十一目には今野勉の『一宿一飯』を上演
した。
このあたりの事情は、いささかシニカルな調子を含んではいるが、同郷の足立正生
が、的確に、九州人らしいはにかみ屋の、友情にあふれた文章にして残してくれてい
る。
「『発見の会』は古狸である。何しろ劇団活動らしきは、他の中小劇団と同等の悩
みを常に持ちながら、それら諸現実
・ ・ ・
を天に誓って問題としない化物性がある。いやそればかりか、少なくとも劇団組織な
のだから、その中枢というか権力意志の在りかたというか、とにかく劇団のイメージ
メイクや創作活動の方針といったものがあってもしかるべきなのに、どうやら劇団と
しての基本的なあらゆる実態を放棄しているらしいむきもある。一般のように、劇団
の核があってその周囲に、思想的、観念的な磁場があるといった集団でもなさそう
・ ・ ・
だ。ヤクザなのである。(中略)だから古狸よ! お前に最後のカが残っているのな
ら、あたら姥桜に化けるよりは、そんなことぐらい朝飯前の一事と嘲らずに、古狸と
しての終焉を見せて欲しい。最早、古狸に望む見世物は、ファン心理として奔放な自
爆を待つだけなのである」(オトムライ公演パンフより)
ケンカ別れをした内田栄一は『ゴキブリの作りかた』の再々演を快諾してくれ、チ
ラシにはナレアイ的大立回りの文章を並べてのせた。
因習の只中の遺物
一九六七年九月二十一日付毎日新聞コラムには「異色の作品を意織的につくりだし
てきた劇団『発見の会』が、近く〝サヨナラオトムライ公演 を行なう。これは劇団の
解散を意味するのではなく、従来の公演システムの再検討という気持かららしい。
(中略)愉快なのは、これらの上演予告をしているチラシだ。内田と瓜生の考え方が
真向から対立したとみえ、互いに猛烈な批判文を書き合っている。それもかなりの品
のなさだが大向こうをワザとねらったフシもあり、なかなかの壮観だ(後略)」とあ
る 注1。
私のもくろみでは、「研究生」の連中も引きこんでの「オトムライ」にしたかった
のだが、彼らはスタッフで協力するに止めて、役者でやるのを拒絶した。彼らの感性
では、『ゴキブリ』も『一宿一飯』も、演劇の因習の只中にある古くさい遺物とし
か、見ていないようだった。彼らには、ことばではいえぬが、私たちを反面教師にし
て何かモヤモヤとしたイメージが醸成されつつあった。
オトムライ公演は、徹底した対象化の作業にはなり切れなかったにしても、表現と
は何かを問い返す永久の道程のうちにしか、本質の一切は視えてこないという、この
無限の繰返しを選び取る〝意志 の確認はできた。『一宿一飯』の初演で、本番寸前に
肺に穴があいて断念した故高橋英二(七〇年三十三歳没)は、その後の検査で悪性の
肉腫に犯されて、あと数年の命だということになっていたが、あの世への土産に、ど
うしても初演の男Bをやりたいといって、配役の決まっていた三好道明に直談判をして
役をゆずり受け、壮絶な生きざまを見せた。「
TBSの今野勉が書いた『一宿一飯』というやつは、彼の『七人の刑事』と共にさいき
注2
んもっともテレビ的な出来事である」とはじまる、和田勉の『一宿一飯』評 (日
本読書新聞」一九六七年十一月六日号)は、この時代のテレビマンの鋭く、ずっしり
とした硬質な感性の断面を見せてくれている。私は、年に数回しかテレビを見ないの
で、何ともいいようがないが、和田勉や今野勉たちの、あの時代のテレビの感性は、
この十四、五年の時間のなかで、どのような変容をとげてきたのか。私と同じよう
に、老成の宿命は、一層過激な自爆=再生への意志を、かき立てているはずなのだ
が、私のアンテナには一向に感応してこないのはどういうわけだろう。
オトムライ公演のあと、十一月に予定していた武智歌舞伎は、南北の絶筆で将門純
友の乱をテーマにした『金幣猿島都(きんのさいさるしまだいり)』だったが、武智
鉄二の映画スケジュールの都合で、またまた翌年二月に延期された。
「研究生」たちが、何かやらしてくれといってきた。自分たちだけでやるので、古
手は一切タッチしないでくれということで、なかには何をとカチンとくる者もいたよ
うだが、私は彼らの『ゴキブリ』や『一宿一飯』への冷ややかな視線と、私との間の
射程距離を測定し、私への「批判」の照準を合せている連中が、どんなものを提起し
てくるか、異常な興味があった。公演日は十一月十日。十二日の佐藤訪米阻止行動で
羽田に出かけるため、デモの前々日を選んで設定された。場所は千日谷会堂の地下駐
車場と呼んでいた、信濃町駅プラットホーム傍に走る、高速道路下にひろがる広大な
グランドだった。
本書244頁〈シアター25〉オトムライ公演チラシよりの内田栄一と私の文章を参
照。
注2 「大きな風俗。新鮮な料理」と題する和田勉の『一宿一飯』評を収録しておく。
〈TBSの今野勉が書いた『一宿一飯』というやつは、彼の「七人の刑事」と共
にさいきんのもっともテレビ的な出来事である。
そこで『一宿一飯』は、いわば人間に関して百戦練磨のテレビ人間が、テレビ
をテレビ化したような感じを僕にあたえる。
これはすごいことである。
「発見の会」というのがその舞台化をやった。このいいかたは正確には実にお
かしい。舞台化ではなくて、テレビ化なのだ。
この劇団のへタクソさが、ますますそのテレビ化への成果をたかめた、といっ
ておこう。このことは非常にはっきりしていることなのでここでキチンと書いて
おくけれど、ヘタだけども熱心だということはたいへんテレビ的なことなのであ
る。
テレビジョンにおいて守られなければならないさいていギリギリのエチケット
は、まず熱心で一生けんめいであることなのだ。このことが実に如実に生きてい
た。今野勉の狙いは緒戦においてまさにぜんぜんテレビということからはずれて
はいなかったのである。命中したのである。
こうした人間のヘタクソさが真に生きる表現というものは、かつて決してなか
注1
ったはずである。
この劇団の『ゴキブリの作り方』というのがよかったという人がいる。しか
しすくなくとも「ゴキブリ」というやつはぼくの見るところ舞台というものにつ
いての新しいスノッブにしかすぎない。いぜんとして役者の演技力というものに
ものほしさの余地を残しているその舞台を見て、ぼくはこれならばまだしもタカ
ラズカがやったほうがましだろう。ととっさに思ったのだった。しいていえば
「ゴキブリ」にはかたちがあったのだ。舞台であるというかたちが、月まち子さ
んとぜんたいのデザインにはあった。
『一宿一飯』における炭坑の友子制度は記録にもとづいている。その制度にお
ける真実と真実でなかったことについて延々と二人の人間が虚構のドラマをくり
ひろけてゆく。回想はすべて従来の演劇という形式において、虚構なのである。
まず人々はそういうなかへとはいってゆく。
それから舞台というのではなく空間の上手には時間がおかれていた。ただいま
放映中のテレビ受像機がおかれているのだ。この小さな時間、つまり現実の正真
正銘のただいまが虚構の一方でたえず人々の目のなかにおかれているのである。
こんどは下手の虚構の方がこのただいまによって犯されはじめてくる。虚構の
なかの友子たちが、死んでしまった友子たちがこの小さなただいまを流れる上手
の時間に目をむきはじめ、やがて自分自身の虚を笑いとばすことになってしまう
のである。
〝空間は、見事に時間によって笑いとばされてしまう 。つまり、「演劇」は「テ
レビ」によって正しくひっくりかえされてしまうのである。
こうして真実ではなくて、下手の事実だけがくっきり残され
る。事実は、残るのだ。
そのときちょうど開演一時間五十分後、上手のテレビジョンがちょうど九時に
なってサントリーのコマーシャルを流しはじめる。
ぜんたいがもうひとつの事実を告げることとなる。どうもその友子の一人がこ
の東京でまだ生きているらしいこと、それからさいごに報告がひとつはいる、そ
の友子も、ただいま息をひきとった?。
さいしょ中央、それから上手にうつされておかれたままのただいま放送中の小
さなテレビ受像機からはじまったこの世界は、さいごにもっと大きなテレビ、自
分自身に化して終る。役者はむろんもともと素材であるけれどその素材たちはこ
うしていわば自分の獲れた場所と、その場所に応じたただいまをこうしてためさ
れるというわけである。素材は料理と同じで、まづ新鮮でなければならない。
テレビはぼくたちの「生き方」と一致する。
このドラマはだから、さいごにまさしくテレビ受像機のあるぼくたちの生活
と、一致しているのである。
状況劇場のテント劇場というのから僕はぬけ出してきた。ここでは「ジョン・
シルバー」にひきつづいてテントの布地と中味とが、区分けなくまだ一致してい
た。このことは心からよろこぶべきことである。まず人間の肉体の、ヒフのよう
なものからだけ出発して大きな風俗をつくりあげ、それから『一宿一飯』の素材
そのものの世界に近づいてゆくことがぼくたちの表現にとってもっとも重要なこ
とである〉(日本読書新聞一九六七年十一月六日)
新生と再生の秘法
第六章 時代との訣別の「遺書」
『此処か彼方処か、はたまた何処か?』
「研究生」たちの「発見の会」ベビー公演またの名、「発見の会」マジカル・ミス
テリー・チルドレン派の『此処か彼方処か、はたまた何処か?』(一九六七年十一月
十日)は、あの時代が生みだした歴史的産物だった(注l)。あの時受けた衝撃は、当
時の山下洋輔や富樫雅彦たちのジャズ演奏とともに、いまだに私にひとつの憧憬と越
えがたい規範を与えつづけているといっても、決していいすぎではない。 台本を番
いたのは上杉清文と内山豊三郎で、ビートルズの最新盤「サージエント・。ペパーズ・
ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を聴きながらたまたま周りにあった埴谷雄高や
ランボウや中原中也を、一晩がかりでつなぎ合せたコラージュにすぎないが、ここに
は、こういうふうにしか表出せざるをえない、永劫に世界の断片を切り取りつづける
他はない、自分たちの存在の様相が痛烈に出ていた。(「映画評論」一九六八年二月
号には、この芝居の台本が掲載されているが、これは初演の翌年、一九六八年三月か
ら五月までの土日に、「発見の会」公演としてやったものの台本で、初演時のものを
かなり改訂している。なお、同誌一九六八年六月号には「ハプニングが生んだアング
ラ芝居の傑作」とコメントされた写真や石子順造の批評も載っている)。
自己解体の純粋結晶
石子順造もいっているが、「世界にかかわることの不可能性」にこそ、表現行為に
おける現代が集約でき、それが制度としての芸術の現代を、いっそう内構造的に、不
確定的、運動的、未完結的、現象的に結果してくるのだとすれば、この自覚を唯一の
バネにして、どのようなぶざまな自己解体をさらけ出そうとも、このようにしかあり
ようのない真正直な行為の、あまりの純粋結晶として析出してきた「結果」であっ
た。
一九六七年は、六月、八月、十一月と三つの公演予定がぶっつぶれ、この過程でい
くつかの啓示があったわけだが「研究生」たちのつきつけた表出行為は、最後のダメ
押しとなって、私たちにいまだにモヤモヤとしてあった「新劇的発想」(表現にかか
わる憶病さや視野の狭さ)を破砕した。ふと見ると〈シアター25〉で切り開いた地平
のずっと先を、彼らはトコトコと歩いていた。十数年の演劇的時空のなかで果してき
た、私たちの対象化と無化の作業を、ほとんど無視したま
ま、演劇のエの字も知らない連中が、嬉々として表現の本質そのものと遊びたわぶれ
る「姿態」は、時代の風でまい上った砂煙りのなかで見えた、一瞬の幻覚だったのだ
ろうか。
本堂直下の駐車場の砂利道を、コンクリートの柱を利用して、ドンゴロスの張り合
せや、かっての「舞芸座」で使用していたシェイクスピアの『ベニスの商人』の街頭
風景の引き幕などで仕切って客席にして、背景を一気に引き落すと、五十メートル先
に高速道路の橋脚が望見され、大都市の忘却の空間がひろがる。その道路下の暗闇か
ら客席に真一文字に疾走してくる自動車のヘッドライトや、超ロングの空間を全力疾
走で駆け去っていくヒトの見事な小さくなり方や、さびついたドラム缶に頭から突っ
こみそのまま転がされていった男や、ビートルズの「ハローグッバイ」の曲に合せて、
全員が遊び振りまいた花火と焚火の情景などなど、想い出すたびに切ないロマンスの
香気がただよってくるようだ。
それは、この後何回となく出逢ったテント興行の常套手段に似ているが、佐藤訪米
阻止のための第二次羽田デモに合せて公演日を設定したことや、公演参加者全員が、
それぞれのイメージやプランを持ち寄り、そうした作業に耐ええないものは稽古から
はじきとばされるといった彼らの身がまえは、この空間を「面白い場所」として選ん
だにしては、あまりにも切迫した時代の叫びに充満した、アッケラカンとしてはいる
が、凄絶な遊びの「狂気」が渦まく場に仕上けていた。
第一回ミチクサ公演
彼らにハプニングの講議をやり、なんの反応もなかったことを反省して、石子順造
は「かれらはとくに気負ったわけでも、深刻ぶったりもせず、しごくらくらくとハプ
ニングを知覚的に通過してしまっているようだ。演劇や絵画、映画などすべてのジャ
ンルの今後について、かねてからハプニングの認識的な通過などとしゃべりまくって
いたぼくは、素手のままでハプニング以後から出発したかれらから、すでに近代主義
者と笑われていることだろうと情けなく思ったものである」(「映画評論」一九六八
年六月号)
といささか淋し気に書きつけているが、私は石子よりもっと直接的に、彼らの矛先
をモロに受けとめ、そいつの痛みを血肉化せざるをえない立場にあった。
私たちに投げつけた彼らの、二日後の肉体の物理的消滅も覚悟した、のっぴきなら
ない内奥の叫びでもあった、時代との訣別の「遺書」に対して、どのような冷笑をあ
びようとも、私たちのよりどころの歴史性をもとに、正直に応える他はない。「ひと
み座」との合同公演『千日島のハムレット』(一九六七年十二月)は新生「発見の
会」第一回ミチクサ公演と銘うたれているが、いわば私たちの精一杯のお返しだ
った。
『ひょっこりひょうたん島』などで有名な「ひとみ座」は、人形劇界のメジャーで
あるが、須田輪太郎(スターリンにあやかってつけたといわれるから、彼のおおよそ
のきまじめさがうかがわれる)宇野小四郎、片岡昌などの「ひとみ座」幹部には、メ
ジャーに徹底できぬ、恥しさを思い知っている連中がいて、美術の矢野真の紹介では
じめた「ひとみ座」のアルバイト以来のつき合いがつづいて、どういうキッカケで
か、合同公演をやろうという話になった。
「予定の芝居をイタにのせられないんで、一座一党のオトムライでゼニをとろうと洒落
こむあたりまでは感動のしようもないが、ぼうずにされてぶんなぐられて、バナ血を
出してゴーゴーを踊るアッケラカンとした瓜生良介の姿に涙をさそわれた」と須田は
書いているから、連中のナミダモロサに乗じて、「ひとみ座」のもっているにちがい
ないオゼゼをあてに、ひと遊びをたくらんだのだろう。
注1
当時の「映画評論」編集長佐藤重臣の『此処か彼方処かはたまた何処か』講を収録
しておく。また本書164頁石子順造との対談参照。
〈昨年、見た芝居のなかでなにが面白かったか、と聞かれれば、私はチュウチョす
ることなく「発見の会」のBABY公演『此処か彼方処かはたまた何処か』をあげ
る。このBABY公演の精神的開き直り方というのは、まずはかつ目に価する。普段
裏方や受付係やお茶汲みをやっていた研究生が、いつどこで「発見の会」が売りも
のの芸術的破天荒さを身につけてしまったのであろうか。
それでも始めは若干、私はたかをくくって見ていた。インデアンやポルトガルの
踊り子の扮装よろしく出て来て「傘がないから悲しいのよ」などという珍なるセリ
フに私は心から笑っていたが、突然、今迄の紙芝居は終ったかのように正面がとり
払われると、向うの高遠道路の地下が一望千里(?)のように見えてきて、役者は
突きぬけたこの空間に水を得た如く五十メートルも向うから砂塵をまきあげて、観
客席になだれこんでくるのである。筋がどうというわけでない。しかし、芝居をす
るということが肉体的においても精神的においても、どういう緊張関係をもって自
己を賭けなければいけないか ー それが、あたかも砂塵をまきあげて突っこんでく
る。という状態になっていると私には思えてくるのである。
私はこの公演を『砂煙り公演』と呼ぶより、『砂かぶり公演』とすべきだと提唱
した。前列のお客さんは、まずは役者がまきあげる砂ぽこりの迫力に、いい知れぬ
恍惚感にひたられたであろう〉(十六回公演『金幣猿島都』上演パンフレットよ
り)
狂気の「共感」のためのコラージュ
別題「ひょっこりひょうたん島のハムレット」
『千日島のハムレット』(一九六七年十二月十日ー十二日、十七、十八日)の脚本
は今野勉と佐々木守で、題名ははじめ「ひょっこりひょうたん島のハムレット」と決
めていたが、NHKの著作権にひっかかるとかで、改めたものだ。私は「ひとみ座」の
宇野小四郎と共同演出をやった。
《あらすじは、ある人形劇団の稽古場では、シェイクスピア劇の『ハムレット』の
稽古がはじまっている。演出家は築地小劇場出身とかいうふれこみの、地下道で拾っ
てきた狂気の浮浪者らしく、自分を神だと信じている演出家と、その狂気を利用しよ
うとする劇団員の、奇妙な緊張関係のなかで稽古は進行する》
Yとゲバラの鎮魂劇
《エルネスト・チエ・ゲバラの『革命の回想』や『ゲリラ戦争』、千田是也の『近代
俳優術』、永六輔担当の毎日新聞 ー 悩みのコーナー」、坪内逍遥訳の『ハムレッ
ト』、「週刊朝日」一九六七年十月二十七日号の山崎博昭の日記といった引用文で構
成されているこの芝居は、一九六七年十月八日、佐藤首相の東南アジア訪問に抗議す
るデモの最中に、羽田弁天橋上にて、機動隊の警備車にひかれて死亡した東大生山崎
博昭と、ちょうど同じ日、ボリビアのゲリラ戦で死亡したエルネスト・チェ・ゲバラ
の二人に捧げる鎮魂劇だ》
日常のささいな事柄にもまれ、もがきながら、自己と世界の埋めようはずのない深
淵を、狂気であらざるをえぬ理性をもって、一挙に、一体化しようとして消滅して
いった二人の生死が、ゴミのような存在でしかない虚実の狭間を細々と生きる芝居屋
に与えたものは、自分のうちにふとした瞬間突出してくる狂的な衝動を見すえる契機
となっていく。二人の狂気の「共感」に賭ける構造的コラージュとして、私たちの身
振りの質を決め、現在ただいまに、かろうじて成り立つ表現となっていたはずだ。注1
唐十郎が一党をひきつれて観にきてくれたが、「面白くないねえ」と吐き捨てるよ
うにいって、私も充分にそのことを自覚していたのを覚えている。あの頃の唐がみす
えていた地軸の暗闇には、私たちよりももっと痛切に、捨身の覚悟なしには近づけな
い、人々の狂気の渦まきが見えていたのだろうか。
Y(山崎博昭)を演じた『此処か彼方処か』の作者の一人の内山豊三郎は、最大限の
振幅でYと共に生きようとしていたし、もう一人の上杉清文は、開演三十分前の客入れ
からスタートして、空舞台にパイプを組立てる超スピード作業を、美術の矢野真の助
手でやっていた。「ひとみ座」の片岡昌は、毎回Yが握りつぶす『ハムレット』の人形
たちを、うすい精巧なプラスチック張りで、百数十個も製作するという大浪費をやっ
てのけた。〈シアター25>の音響を担当してくれていた文化放送の玉井和雄は、この時
も硬質で深味のあるサウンドをつくってくれ、「研究生」杉田一夫のまれに見る作曲
家としての才能を見たのも、この公演だった。
共同生活体である川崎井田の「ひとみ座」ビルの中庭にパイプ舞台を組立てて、朝
十時から夜十時まで、ぶっ通しの合宿稽古を十日間やった。稽古が終ると夜明けま
で、呑んで騒いで、毎朝大食堂の掲示板に、おわびと断酒の誓いをはり出して、結局は
一日も休まず明け方までの狂喜がつづき、アルコールには縁のない「ひとみ座」幹部
をあきれさせたのも、この公演の楽しみのひとつだった。
南北、一四〇年目の再演
一九六七年は内田栄一(六月)と佐藤重臣(八月)と鶴屋南北(十一月)の三つの公
演が挫折、延期し、「研究生」たちのベイビー公演やハプニング大会をふくめて、七
回の公演をもった波乱にとんだ年だったが、一九六八年は、「演劇センター68」参加
の地方公演や、芥正彦たちとの合間公演など、一層開放的な活動を展開する年となっ
た。
一九六八年の初頭を飾った『金幣猿島都(きんのさいさるしまだいり』(一九六八
年二月十八、十九日、二十二日 一 十四日)は、初演(一入二九年文政十二年十一月)
の同じ月に七十五歳で没した四世鶴屋南北の絶筆で、初演以来一四〇年ぶりの上演
だった。将門と純友の乱に題材をえた叛乱怪奇劇を、演出の武智鉄二は見事に、今日
的な知的遊戯のイヴェントにつくり上げた。
武智が書いているあらすじでは
《藤原純友は伊予の反乱に敗れた後、修験者に姿を変え、ひそかに再挙を計ってい
る。純友の盟友平将門は、源氏の頭領満仲の娘滝夜叉姫(長子頼光の姉)と恋愛し、
一子まで設けているが、乱に敗れて戦死、滝夜叉も父に討たれて死ぬ。純友は行法に
よって滝夜叉を蘇生させ、滝夜叉の身体に将門の霊を呼びよせて蘇生させ、共にカを
合せて再挙をはかろうとする。しかし行法は半ばにして破れ、蘇生の滝夜叉は、行法
の秘具を盗んだ山賊坂東太郎のところへ押しかけ女房となって乗りこみ、それを取り
返そうとする。純友も山賊のもとに入りこむ。
しかし、そこで、実は純友は父の姦計で幼少の時とりかえられた偽もので、山賊
の頭目坂東太郎こそ、まことの純友であることが判明する。/一見荒唐無稽なすじの
なかで、南北が主張しようとしている歴史観は、民衆の反乱への必然的欲求が敗れる
わけはない、ということなのだ。純友の反乱が破れたのは、それが偽ものだったから
で、本物の純友があらわれることによって未来への可能性を残し、この芝居をしめく
くったのである》(「小原流挿花」一九六八年四月号「私の伝統論、歌舞伎戯曲の新
劇化」)
武智はこのエッセイで「『発見の会』を中心とする俳優たちの努力と、私の歌舞伎
における知識や体験の総和との、奇しき結合」で成功したといっているが、私はこの
公演で武智の遊び心もなかなかのものだと、改めて見直したものだ。
ワダエミの美術(とくに衣裳)や刀根康尚の音楽のような奔放な遊びが「発見の
会」だからこそ、武智演出と統合的に成り立ったのだともいえる。衣裳は武智の顔
で、ティジンなどのセンイ会社から提供された高価な布を、大きな風呂敷状に両腕に
結えつけて身体の前面に垂らすのみで女優陣は全員ビキニスタイルで、男優陣はフン
ドシや海パンひとつだった。
注1 「現実生活者の照射法」と題するTVディレクター大山勝美の批評を収録してお
く。
環境芸術的「砂かぶり公演」
関係性の自由さを唯一の原理に新生「発見の会」へ
この叛乱怪奇劇の終幕に「謀叛の張本その名も轟く日本の毒虫伊予掾藤原の純友と
はおれが事だワ」と名乗りを上げる山賊坂東太郎(牧口元美)は、「アハ、アハ、ア
ハ、アハ」と呵々大笑して大見得で決まるが、そのとき風呂敷状の衣裳を何枚も折り
たたんで仕こんでおき、黒子が左右に引きのばすと、舞台一杯に縫いこんであった
「アンポ反対」や「北バク反対」のスローガンが引かれていくといったバカバカしい
趣向もあった。かつらは海水帽に銀箔で組立てたオブジェを林立させ、メークアップ
は赤や黒や白のビニールテープを顔中はりつけて、隈取にするといったものだった。
関係性の浅滓を栄養分に
音楽は刀根康尚十八番の「環境音楽」で、舞台床に三十センチ幅にシールド線を引
きまわし、役者は全員素足で、その線を踏むたびに「ピーッピーッ」と発振音が鳴
り、さらに集音器で舞台の音を拾い、舞台上で音をたてたり、セリフをしゃべってい
る間はとまっているが、とだえると三局か四局からのラジオ放送やニュースが間断な
く流れてきて、ついにはノイローゼ状態になった役者たちが反乱を起こして、本番の
開幕さえあぶなくなるところで、演出助手の私は、内心ニヤニヤしながらも、なだめ
役に大童だった。
この『金幣猿島都』(一九六七年二月十八目 ー 二十四日)のチラシのレイアウトや
解説は、国文学の藤井貞和が担当してくれたのだが、細かい字でピッシリと印刷され
ている、南北とこの芝居についての簡にして要をえた説明はさすがだ。藤井のように
一回か二回のつきあいの、人々のたえまのない出入りが、自らを寄り合いの場と化そ
うとする「発見の会」のひとつの特色だろうか。よく地方などで「『発見の会』にい
ました」という人に出逢うが、物忘れのひどい私には記憶がなく、酔がまわり話が進
んで突然「ああ、あの時の」ということがしばしばだ。藤井の場合も、評論で活躍し
ているその名は知っていたが、チラシの解説と同一人物とは気がつかず、つい最近、
彼の詩集の書評に出ていた写真の横顔を見て、想い出したものだ。 話はちがってくるが、積み重ねの財形も伝統も一切が残っていかず、できては壊
れ、集まっては去っていく、人々の関係性や乱痴気騒ぎの残滓を栄養分にして、「発
見の会」は生きのびてきたし、これからも生きつづけることだろう。このような無意
・ ・
味な歴史性を楽しみと思いこむのか、徒労と感じるのか。私は好きこのんでこうした
徒労に、生きがいを見出しているわけではない。どんなにかぼそいものであっても、
関係の自由さを唯一の原理にして、共同の何かを、事あるごとに新しくはじめ直そう
とするとき、たまたま、このような過程をたどるしかなかったというだけだ。
『金幣猿島都』のあと、前年十一月に一回だけやった「研究生」べピー公演『此処か
彼方処かはたまた何処か』を、「発見の会」の第十七回公演として一九六八年三月中
旬から五月までの土・日に連続公演をやることにした。お寺への義理も立て、彼岸の
中日と釈迦の誕生日の四月八日は特別興行で甘茶を配ったりした。
10YENバック・シアター
脚本も手を加え、役者に古手も全員参加した。私も演出助手をやった。お寺の駐車
場公演だから、予測不能な人の死を考慮に入れなければならず、「お通夜が入った場
合は翌日に延期しますので必ず電話で確かめ」てくるように宣伝し、電話代十円を受
付で返却することにしたのも、苦肉の策だった。
風が吹けば役者も客も、砂をかぶって「砂かぶり公演」となり、雨が降ればそこか
しこの水たまりや小川が照明に映え、お月さんが高速道路の橋ゲタから顔を出し、劇
中の「沈黙の三分間」に聴く電車の音や街の騒音といった、たくまずして生れた趣向
は、まさに「環境芸術」そのものだった。現実の日常の真只中に、私たちの遊びの非
日常の空間をさらけ出すことで、一挙に全てが反世界への、どんでん返しを楽しもう
というわけだ。
ビートルズの「ヒア・ゼア・アンド・エブリウェア」の直訳であるこの芝居の題名
にも、副題の「ハロー・グッドバイ」にも、ビートルズへの異常な傾倒がうかがわれ、
ビートルズ・ナンバーが全編を流れ、終幕はやはり「ハロー・グッドバイ」の高鳴るな
かで、出演者全員で花火がうち振られた。
「芝居はいつも、出逢いの形式をとった本質的に別れの共有ではなかろうか」「芝居
は出逢うという典通体験を動機とした別れの感覚の基盤の上に置かれている」「僕ら
は登場したとたん、軽やかにHELLOW!・と訣別のあいさつを送る。別れるのであ
る!」と演出の春木良昭は記しているが、彼らの心象を肉体化した新鮮な感覚は、ど
んなに素人っぽく、ぎこちないものであっても、私の底の底に埋められていた郷愁を
呼びおこし、子供の頃に出逢っては別れてきた、サーカスや覗きカラクリや、疎開先
の村の青年団のコントや、初舞台の子役で立った若松の芝居小屋の暗闇やドーランの
匂いに、再び遭遇しているような興奮を味わっていた。
集まってくる観客も、そうした想いをかき立てられるらしく、なかには浮かれすぎ
て、当時フーテンをやっていた牧田吉明のように幕外につれだされ、コブだらけにさ
れる者もいた。牧田とはこれが縁で、いまに至るも実にキチョウメンなつき合いがつ
づいている。
彼らの私に向けられている照準を意識するほどに期待は大きくふくれ上っていき、
連中とのケンカ腰の討論から生れるにちがいない、新生「発見の会」の、かつての作
品群を軽々とのり越えていく楽しみの総和は、想像するさえある高鳴りを覚えるもの
だった。
一方では「演劇センター68」の構想が、私たちと「自由劇場」、「六月劇場」の三者
の間で進行していた。『金幣猿島都』のチラシのあいさつで、私は「今年は、最も困
難な課題である、地方公演を考えています。それは(小劇場運動)などとごていさい
のよい言葉で、まさに全世界的な達成をなしつつある(発見の会演劇)を、東京地域
文化に押しとどめようとする陰謀を粉砕するだけでなく、未来への壮大な展望とみず
みずしい理念に支えられた新たな文化運動を、日本全土に一挙に押し広げるその火付
役になる決意なのです」と書いているが、これは「自由劇場」にも、「六月劇場」に
も共通の想いであったはずだ。もうひとつは芥正彦の率いる劇団「駒場」との合同公
演「現代前衛演劇フェスティバル『ジィス・イズ・ジャパン』」が企画されていた。
「演現」化と遊戯共同体
冗談演劇の初発・『誰がアリスを殺したか』
この『ジィス・イズ・ジャパン』の話は、西ドイツ通信社の東京支局長ウィリアム・
ランゲがもってきた。ラングは、〈シアター25〉No. 『おとしばなし和唐内』以来の
「発見の会」のファンで、いつぞやは外人記者クラブの夕食会に招待されて、日本の
「小劇場運動」にっいてしゃべらされて、名誉会員章などを貰ったこともあった。
ランゲの最初の話では、寺山修司の「天井桟敷」とイヴェントをやってくれれば、
外人記者クラブで一晩主催ができるとのことだったが、「天井桟敷」と一緒にやるの
は気が進まず、いまもっとも先鋭的な演劇活動をしている芥正彦の「駒場」との合同
公演ならやってもいいということで、スタートしたものだ。私の皮算用では、外人記
者クラブの一晩の主催で、四十万ほどの金が入れば、両者の最底の公演費用がでる
ので切符売りに神経を費すこともなく、悠々と遊べるナということで、その話にのっ
た。
時代の風に吹かれる快
芥とは、この年(一九六八年) のはじめに佐藤信の紹介で知り合い、前年に演っ
た『太平洋戦争なんて知らないよ』という芝居の台本を読ませて貰ったり、駒場駅前
の喫茶店で演った『僕のモナリザ/まぬけ大通り』(一九六八年五月)を「映画評
論」に連載していた、今野勉との対談形式の「新劇モグラ月評」(一九六七年八月号
ー 一九六九年十二月号通算十五回)にとり上げたりしたことで、急速に親しくなって
いた。
芥の清楚といってもいい、奇妙に澄んだ目と、猛烈なスピードとゼスチュアと大声
で叫ぶように語る、無限につづくアフォリズムとレトリックの流れは、自らの生の存
在それ自体を「遊戯共同体」の形成に叩きこむ、奴の、一瞬のたるみも見せない意志
表示だったのか。人によっては、いささかうんざりするような、彼との向い合いの時
空だが、日常そのものを遊戯空間として「演現」化(演劇を現前化させる〉してい
く、その無意味な時空に賭ける芥のいさぎよさには「発見の会」の「研究生」たちの
何気もない自在さや、ふんわりとした感触と比べて、一味違ったいかにも大真面目で
硬質な、でもどうしようもない時代の風に吹かれる快さがあった。芥を中心とした、
芝山幹郎や盛岡康晃など東大生七、八人の集まりの「駒場」の芝居は、この時代が生
んだ特筆すべき暴力と抒情と知の混然とした「運動」だった。
私は、東京の小劇場に呼応して各地に起こっていた動きのひとつである、名古屋の
〈シアター36〉に演出をたのまれた時、芥の『太平洋戦争なんて知らないよ』の台本
を渡して、これをやる気があるならやってもいいと、連中の反応を試したことがあ
る。筋は忘れたが、日本人の戦争責任や戦後黄任を、何ものからも自由な私生児
(フーテンタール)という立場から、観客を野次り倒して挑発する、直接的暴力性に
充満したこの台本の上演をめぐって、〈シアター36〉に亀裂が生じ、空中分解してし
まった。
この〈シアター36〉の代表者で、小屋主でもあった丹波政孝は、この後、名古屋に
帰った「発見の会」の「研究生」日比野暁雄と組んで、劇団を再建してやっていた
が、やがて日比野は白血病で病死し(一九七二年七月)、丹波は東京へ出て、最後は
元川崎市長の孫娘を殺し、自分も電車に飛び込んで死んでいる(一九七四年十二
月)。思えば「発見の会」の歴史にも、幾人もの死者の影がまつわりついているわけ
だ。この丹波と日比野のことを、田村孟が作品化すべく幾年か前からやっているよう
だが、その後の形を聞かない。
日大芸術学部キャンパスへ
一九大入年、大学闘争はピークを迎え、六月十五日には日比谷野外音楽堂で、全国
全共闘が結集した、反安保、ベトナム反戦、樺美智子追悼の大集会が開かれたが、
「発見の会」、「駒場」、「自由劇場」それに新劇人反戦の連中と、公園の中の
小さな音楽堂で「日比谷の六月十五目」と称する集会とデモをやった。
東大全共闘の安田講堂占拠のニュースがとびこんだりしたのも、この日だったと記
憶するが、火焔瓶と角棒で武装して権力と対侍している政治的暴力性の渦中で、如何
に徹底的に遊ンでいられるか、痛烈にゴミクズを意識する、絶好の磁場をつくってや
ろうというのが、私たちの密かなテーマだった。デモにしても、横について来る警官
をからかいながら、爆竹を鳴らし、通行人を指さして「ニンゲン、ニンゲン」と連呼
するたぐいのイヴェントだった。この時も、「自由劇場」や新劇人反戦の連中の、遊
び心のないだらしなさが目についた分だけ、芥たちのいさぎよさが印象的だった。
外人記者クラブ主催、「現代前衛演劇フェスティバル『ジィス・イズ・ジャパ
ン』」(一九六八年九月十三日ー十八日)は、述べてきたいきさつから必然的に劇団
「駒場」との合同公演となり、「発見の会」は上杉清文作、瓜生良介演出『誰がアリ
スを殺したか』を、劇団「駒場」は芥正彦脚本演出『OH/YELLOW SUBMALINE』
を上演した。
それぞれの作品にふれる余裕がないが、上杉清文のは、彼のこの後の多くの作品と
同じく、古今東西に通じる博覧強記と仏性に根づく衆生救済の志を、強烈なパロディ
の精神で冗談と化す、羞恥を思い知った「冗談演劇」の初発の意志が見てとれるもの
だ。芥たちは、開演の一時間ほど前から、国電信濃町駅前にくり出して、通行人を挑
発するイヴェントからはじまって、そのまま会場へなだれこんでくる、客への暴力
的なメッセージは、外人記者たちのドギモを抜いた。一九六七年のバイミナールと
GOGO大会やこの駅前のイヴェントなどで、四谷署から強い圧力がかかり、この公演
が千日谷会堂での最後の公演となった(千日谷会堂では通算十九回の公演をもっ
た)。またウィリアム・ラングとの約束の金は、何分の一しか払ってくれず、外人との
口約束が全くあてにならぬこと、契約書のない約束を破ることは、彼らの常識や体質
になっていることを知ったのも勉強になった。
この公演終了十日後(一九六八年九月二十九日)には、最も戦闘的に大学闘争を
闘っていた、日大全共闘への支援と連帯のあいさつをこめて、日大芸術学部(江古
田)キャンパスで『誰がアリスを殺したか』を上演したのも印象深い。
注1 六〇年代演劇」の最盛期、十五回にわたって「映画評論」に連載。今野勉と私と
の対談だったが、三回ほどは「発見の会」のメンバーでやった。批評家の立場で
はなく、ものをつくる現場からの、相互批評の波立ちを狙う、ケンカ腰の身がま
えだった。この当時は、いまでは考えられないことだが年に百数十本の芝居を観
ていた。本書には枚数の関係もあって、最終回六九年十二月号のものだけを収録
した。174頁参照。
「夢のネットワーク ー ただひとたびの」 「演劇センター68」構想の中絶をめぐって
「演劇センター68」確認事項
「演劇センター68」の構想が、いつ頃どんなキッカケではじまったのか、忘れてし
まって定かではないが、一九六七年の暮か、一九六八年のはじめに「六月劇場」の津
野梅太郎、佐伯隆幸、「自由劇場」の佐藤信、斉藤憐たちとの話し合いがスタートし
て、一九六八年四月に具体的に動き出している。
私たちが相互に確認したことは次の点だ。
一、「小劇場運動」などという枠組に一括されて、東京の片隅の小さな劇空間や地
方文化の領域に押しこめられている状態をくつがえして、われわれの演劇を、各地の
人々の自由な参加を可能にする状態にしていきたい。
一、このためのやるべき仕事をできうる範囲で共同でやる。戦後の金時期を見て
も、質の異なる集団が共同で、持続的な旅公演実現のための連絡実行機関を設けた例
はなく、こうした共同の作業が根づいていくかどうかは、まさに私たちの演劇が、新
たな構造や感性をつくり出しつつあるのかどうかを検証する、バロメーターでもあ
る。
一、各地の観客組織、例えば労演などでの選択不能な、大劇団本位の独善的状態を
可変的にしていくこと。労演内部の可能性の部分を掘り起こしていく。
一、とりあえず、「発見の会」、「自由劇場」、「六月劇場」の三劇団によって発
足するが決して閉鎖的な組織ではない。もちろん各集団の舞台表現や公演制作の独自
性は完全に保証される。さしあたっての共同の仕事、つまりパンフレットの共同編
集、観客名簿、収支決算等の一切の公演データーの公開が、最低限の参加条件であ
る。
私には物足りないいくつかの問題、例えば東京から地方へという一方的な動きでは
なく、地方から東京へという全列島的な相互の流動状態をつくり出すことや、もっと
立ち入った相互批評や相互扶助を確立することといった問題があったが、ともかくこ
うしたゆるやかな条件ではじまった「演劇センター68」は、一九六八年六月に「六月
劇場」が、九月に「自由劇場」が、十一月に「発見の会」が各地を廻った、ただ一度
のサイクルで終ってしまった。佐藤信や津野梅太郎たちは、翌一九六九年には、「自
由劇場」と「六月劇場」を解消して、現在の黒色テントの前身である「センター68/
69」をつくる。「発見の会」は、一九六八年十二月に「研究生」の主要メンバーが脱
退して、私は大きな衝撃を受け、「発見の会」成立以来の、というより私(たち)の
演劇的生活史全過程の総検討を迫られるといった事態に立ち至ったことや、「自由劇
場」や「六月劇場」の連中の、(新劇優等生)的体質や、自らを開けっぴろげに無化
していく精神の欠如に幻滅したことも手伝ったのか、津野や佐藤、佐伯などと幾度も
話し合いをもったがまとまらず、「センター68/69」には参加しなかった。
津野たちは「演劇センター68」を一層本質的に深化発展させた組織という考えだっ
たのだろうが、私には「各集団の寄り合いではなく、真にそれを必要としている個人
の」注1(津野)組織ということが了解できなかった。集団内部の相互批判や相互扶助
の衝撃力が「センター」という共同の環のなかで、さらに一層立体化され構造化され
た磁場を通過して噴出していくといった、「対立」や「共同」の多元化された構造に
こそ意味があると思っていたからだ。それを「センター68/69」という形で一元化し
てみたところで、ひとつの集団ができるにすぎないではないか。統一したイメージや
課題ではなく、異質の集団の対立や混迷や助け合いを、動きの原動力として保証して
いく、相互の対立・扶助の過程に、これからの運動の楽しさがあるはずだ。
この立場はいまでも変りはしない。いまだかつて、私たちは異なった集団相互の、
真の共同が成り立ったり、持続した経験はきわめて乏しい。ひとつの自由な空間を、
共同で運営することさえできてはいない。まして列島的規模で、物と共に私たちの夢
や幻想や未来の設計図が飛びかう、権力や金では決して成立不能な、「夢のネット
ワーク」の形成など、夢のまた夢といった話だ。「センター68」の「ゆるやかな条
件」に含まれていた可能性は、いまだにひとつの新しさをもちつづけている。
「われわれの旅公演」
「発見の会」の「演劇センター68」参加作品は、一九六七年四月(シアター25)No.
12で演った今野勉作『エンツェンスベルガー「政治と犯罪」よりの幻想』だった。津
野梅太郎は『一宿一飯』がいいとしきりにいっていたが、「発見の会」の『此処か彼
方処か』以降の混沌とした現在を切り取るには『エンツェンスベルガー』が適当だと
思ったからだ。
当初の計画では、十月に紀伊国屋ホールが空いていて、劇場側も「発見の会」に
使って貰いたい意向があり、千日谷会堂から打って出るには恰好なものかと思った
が、「研究生」の連中との「発見の会」演劇をめぐって、はじめてできはじめた激烈
な流動化のきざしが、再び「新劇的発想」の疑似性へと後退しかねないこと、私たち
の現状は、紀伊国屋ホールあたりに力を結集してみたところで、大して意味がないと
いったことで、取り止めにした。むしろこの旅を、徹底的に自らを開いて、世間の風
に触れる試行の場にしていくために、各地での公演と同時に、「現代芸術の不可能性
をめぐって」の集会・シンポジウムや大学キャンパスでの上演や、街頭劇のデモンス
トレーションなどを計画した。同時に「研究生」は、早大その他の学園祭で、内山豊
三郎作『GIRL・がある』を上演することにした。
ただでさえ小さなカを、旅公演と「研究生」公演とに二分することは論議を呼んだ
が、私は「研究生」を含めて全体としての「われわれの旅公演」がイメージされ、対
立の場が立体化され、新たな幻想が噴出してくる契機となればいいと思っていた。
『エンツエンスベルガー』は、一九六八年十一月二十日、法政大での上演を皮切り
に、横浜スカイ劇場(十一月二十一日)、慶応大(十一月二十二日)、外語大(十一
月二十三日)、下関婦人会館(十一月二十六日)、同志社大(十一月二十九日〉、東
都教文センター(十一月三十日〉、大阪厚生会館(十二月
二、三、四日)、名古屋CBCホール 〈十二月五日)と十一回の公演をもち、外語
大、東都、大阪、名古屋でのシンポジウムでは、手土産に詩劇『ポイポイ』や針生一
郎作幻灯綺譚『ああ無情夜嵐お百』などを演った。参加観客総数二七〇〇名、給収入
二二○万円、「発見の会」はじめての遠征は、経済的にもなんとか赤字を出さずにす
んだ。
注1 津野梅太郎がいつ頃いいだしたことばなのか、はっきりしない。あるいは文章の
一節かもしれぬが、私のメモに書きつけてあるのをみると、話し合いの席上で
いったことばだろう。興味深いのは「演劇センター68参加公演」の特集号であ
る、「発見の目」最終号で佐藤信が「『演劇センター68』はひとまず終った」と
述べ、私は「第一歩を踏み出したばかりだ」といってる。津野や佐藤の間ではこ
の頃〈六八年十月)すでに次のステップが話し合われていたのかもしれない。
「現在」を葬り去る旅興行
脱会届ー共同性への夢は伝達不能
「演劇センター68」参加公演のいくつかのエピソードを記しておくと、京都のシン
ポジウムでは、狂言の茂山千之丞が『ポイポイ』(78頁参照)の男の一人をやってく
れて、大汗を流して小石をかき集めていた姿がいまでも目に浮かぶ。
名古屋ではCBC(中部日本放送)ホールの入口に、半欠けの日の丸 注1(誰の制作
か忘れてしまったが)を敷きつめ、そいつを踏まなければ入場できないようにしたこ
とで、一騒動が起こった。
また岩田信市の率いるハプニング集団「名古屋ゼロ次元」の二十名程が、開演と同
時に、平土間(フロアー)の芝居の外側を大きく円形に取り囲んで、きわめてゆっく
りした動きで無言のまま廻りはじめた。
迫真の演出
私も事前に知らされず、突然の「出演」で不意打ちを食った役者連中の苛立ちも、
三十分四十分と経過するうちに極点に達しつつあることは手に取るように分かるが、
でもひとつの空間として許容できなくもない。私は照明の原田進平などと相談して密
かにスタッフ・役者の全員にメモを回した。
「ギリギリまで一緒に遊ぶが、芝居の意味が伝達不能になったと判断した時には、ウ
リウが客席から合図するので一斉に立ち上れ!」
奇妙な緊張状憩で一時間ほど経過した時、突如客席の通路でハプニング集団「プラ
スアルファ」とかいう若い連中が、ピッピッと笛を吹きながら四五組で拳闘をはじめ
た。無音の「出演」には耐え忍んでいけるが、笛を吹かれては続行不能だ。私は通路
に飛び出して「フザケルナ といきなり殴りつけた。途端に耐えに耐えていた出演者全
員が一斉におどりかかって、大乱闘となった。こういう場面を「発見の会」は何回と
なく経験していて、手馴れているとはいえ、彼我のボルテージの違いは圧倒的で我方
は三対一の少数だったが、アッという間もなくハプニングの集団はコブだらけのボコ
ボコになり、排除されてしまった。この間五分程だろうか。牧口元美が「エーどうも
お騒がせしました」といって芝居は続行し、客の大半は迫真力のある演出だと思って
いたようだ。
文芸評論の丸山静も観てくれていたが「瓜生君、あの演出は、マイムも乱闘も少し
くどいよ」といわれ、唖然として説明のタイミングを逸してしまった。もちろんハプ
ニング集団とは打上けで酒をくみかわし、こういう場合の参加のルールについてディ
スカッションをやったものだ。幾年かたって聞くところによると、あの時の打撃が原
因で、いまだに頭のおかしい人もいるとのことで、高い遊びについたナとシュンと
なった。
この旅で須藤久(下関)、小松辰男(京都)、丸山静、久保則男、岩田信市(名古
屋)などとのつき合いがはじまり、また外語大公演の実行委員会が、曲馬館の翠羅臼
たちだと後で知った。ともかく『エンツェンスペルガー』は各地で「小劇場運動」が
生んだ新しい感性の結実として受けとってくれた 注2 ようだが、内実は私たちの現実
を自ら葬り去る、私たちの現状への不満や貧困さの自覚をかき立てる、苛立ちの旅 注
3 でもあった。
私は各地の残務整理のために少し遅れて帰京したが、この直後(一九六八年十二月
十五日) に、「研究生」の春木、内山、上杉、長田、坂口、三輪の脱会届が出され
た。数からいえば「研究生」の半数ほどだが、中心メンバーでこれからの「発見の
会」の新たな展開にはなくてはならない存在だった。
脱会理由ー私信からの要約
私は大きな衝撃と同時に、早稲田祭の「研究生」公演での春木、内山たちの組織的
な小細工や、早稲田祭新聞(一九六八年十月三十一日付)での私への批判などから、
危映していたとおりの事態が起こったことで、急速にさめていく感覚をもった。批判
や対立こそが集団の原動力になるべきだという、私の共同性への夢は、ついにこの連
中にも伝達不能だったのか。連中の根気のなさや、すぐに使いたがる姑息な権
謀術数の小細工を想うとき、この若い感性をも駄目にしていく、日本の風土や内なる
天皇制にぶち当った。こんないい連中がなぜなのか。私は、私の考えてきた演劇表現
というものを、根底から疑って、そこからの脱出の作業にとりかからねばならないと
思い至った。
春木たちは、それぞれ私への私信の形で、脱会理由を述べているが、春木良昭のも
のを要約するとこうだ。
①『エンツェンスベルガー』は誰れもがもたざるをえぬ歴史性を越ええず、逆に越
えられてしまって、立つ位置すら確認できない、空虚な芝居だった。
②なぜか。既成の演劇世界への反発・批判として出発した.「発見の会」は、組
織内の人間関係の自由平等を、身分制に対決させた。図式的には「官僚主義」に非官
僚主義」を対決させるように、制度を支えるぶ厚い近代に眼を向けず、自由平等を唱
えたところで、古くさい進歩主義のたわごとにすぎない。
③「場としての演劇」は美術・アバンガルド理論の無媒介なあてはめに過ぎず、演劇
自体との対決で生れたものではない。ここからは演劇的方法論は出てこない。臨在感
ピレーションにしたがって書く)と同じものだが、脚本が俳優たちに、ハプニ
ングを強いる時点が前もってきまっているために、上演すればするほど舞台が美
しく芸術的になっている。
牧口たちの当意即妙の演技がコント55号はだしの呼吸で決まって、幕切れ、彼
らは長々と舞台に伸びてしまった。ところが、当夜の客が一人も立ち上がらない
ものだから、彼らは汗をぬぐって装置を改め、またはじめから上演しはじた。舞
台のハニング性が、東大紛争のハプニングと決定的にちがうのはここなのだ。
牧口たちの意図がどこにあろうと、青春の肉体を舞台にかけるとき今すぐれた
俳優が生まれつつある。芸術の魔力がしのびよっているのだ)(大阪読売新聞一
九六八年十二月ニ日号)
注3
本書250頁「『演劇センター68』運動からの公開状」参照。
「転換期に当っての諸課題」
津野試案 「センター計画」にのることはたやすかった
「いや! あの日々はもう去ったのだ」というキーツの一節を引用し、「天の夕顔」
の「二人は流れの中を歩きました。それからあの人は自分の足をハンカチを出して拭
きだしました。次ぎにそれをわたしに貸さうとしました。然しわたしはどうしたの
か、自分のハンカチを出して拭いたのです」という一節で結んでいる内山豊三郎の退
会届は、「場としての演劇」への疑問と、面白い人がいないという二つの理由をあげ
ている。いささか倣慢な内山の文章は、新集団結成とこれからの創造への高鳴りが、
筆をすべらせているのか。
脱退劇の内幕
この時期、激烈な日大闘争を闘っていた芸術学部「芸闘委」の一員で、「発見の
会」の「研究生」でもあった川上和加乃は、春木・内山の誘いを断ったいきさつと脱
退劇の内幕を次のように述べている。
「鈴木忠志のように俺の気に入った奴だからこうだとか、俺の考えた方法だからこ
うするとか、バカバカしいがそれはそれで責任の取り方がある。瓜生は俺が俺がをし
なさすぎて、茫漠とした実体のない圧力という出し方をする。方法論の当然の表れだ
ろうが、あまりにも全体に課してしまう、その味けなさは……二の句がつげないリア
リストと思っていた。全体に問題をばらまくと、まかれた側にいる限りは、責任のと
り方のぼやけたものに見えてくる。/責任能力をあの連中はゴタゴタいっていた。瓜
生は頭の中に何もないから、ああいうやり方をするのだ。私はこういう人間見たこと
はないと思ってたから、次に何をやる気かと興味があったのと、もうつき合いたくな
いというのとの差でしょう。瓜生の私たちへのアプローチも非常に判りにくかった。
別のテクニックが必要だった。やりたいことを自由にやらせて、そういう場を確保し
て、はじめてケンカができるという、そこまであの人たちは見れなかった。/「発見
の会」の動きが止って、その後春木に逢った時、「発見の会」のアンチテーゼをやり
たかったのに、「発見の会」が動いてくれないと自分らの場がもてないと、悲壮な顔
でいって唖然としたことがある。じゃ研究生まるだしじゃないか。そういう側面もっ
てた。あの男はホモ男で瓜生にどうかして欲しい、それをお前やれば、とつき放され
るとヒーッとなっちゃう。の人はお釣りを払わされてるなとふっと思うことがある。
ああいうことやっちゃうとあとが大変なのね。/私は集団とか連帯とかを痛切に感じ
ていた時だったし、カタマリでやってた時だったから、なんの鍛え方もしないで、合
「転換期に当っての諸課題」
津野試案 「センター計画」にのることはたやすかった
「いや! あの日々はもう去ったのだ」というキーツの一節を引用し、「天の夕顔」
の「二人は流れの中を歩きました。それからあの人は自分の足をハンカチを出して拭
きだしました。次ぎにそれをわたしに貸さうとしました。然しわたしはどうしたの
か、自分のハンカチを出して拭いたのです」という一節で結んでいる内山豊三郎の退
会届は、「場としての演劇」への疑問と、面白い人がいないという二つの理由をあげ
ている。いささか倣慢な内山の文章は、新集団結成とこれからの創造への高鳴りが、
筆をすべらせているのか。
脱退劇の内幕
この時期、激烈な日大闘争を闘っていた芸術学部「芸闘委」の一員で、「発見の
会」の「研究生」でもあった川上和加乃は、春木・内山の誘いを断ったいきさつと脱
退劇の内幕を次のように述べている。
「鈴木忠志のように俺の気に入った奴だからこうだとか、俺の考えた方法だからこ
うするとか、バカバカしいがそれはそれで責任の取り方がある。瓜生は俺が俺がをし
なさすぎて、茫漠とした実体のない圧力という出し方をする。方法論の当然の表れだ
ろうが、あまりにも全体に課してしまう、その味けなさは……二の句がつげないリア
リストと思っていた。全体に問題をばらまくと、まかれた側にいる限りは、責任のと
り方のぼやけたものに見えてくる。/責任能力をあの連中はゴタゴタいっていた。瓜
生は頭の中に何もないから、ああいうやり方をするのだ。私はこういう人間見たこと
はないと思ってたから、次に何をやる気かと興味があったのと、もうつき合いたくな
いというのとの差でしょう。瓜生の私たちへのアプローチも非常に判りにくかった。
別のテクニックが必要だった。やりたいことを自由にやらせて、そういう場を確保し
て、はじめてケンカができるという、そこまであの人たちは見れなかった。/「発見
の会」の動きが止って、その後春木に逢った時、「発見の会」のアンチテーゼをやり
たかったのに、「発見の会」が動いてくれないと自分らの場がもてないと、悲壮な顔
でいって唖然としたことがある。じゃ研究生まるだしじゃないか。そういう側面もっ
てた。あの男はホモ男で瓜生にどうかして欲しい、それをお前やれば、とつき放され
るとヒーッとなっちゃう。の人はお釣りを払わされてるなとふっと思うことがある。
ああいうことやっちゃうとあとが大変なのね。/私は集団とか連帯とかを痛切に感じ
ていた時だったし、カタマリでやってた時だったから、なんの鍛え方もしないで、合
わないから退めるとはくだらんと思っていた。才能やレベルの違いがいいバランスを
保っていて、これから面白くなるという時どうして退められるのか不思議だった」
私のなかでは一切が終った。〈シアター25〉開始以来約四年間の疾走で、「発見の
会」はひとつの相対的な突出を敢行し、いままでの方法や組織論では、新たな展開の
できぬ限界にきていた。「研究生」たちが参加してからの一年有余の多層的な矛盾や
対立は、この限界をつき破る確実な可能性の萌芽だった。
「センター計画」の野合性
私をあれほど有頂天にさせ、いままで出逢ったことのない、いや私の奥底にうごめ
いて希求していた演劇的楽しみを、なにげもなく開示してくれた「研究生」たちの、
時代と向きあう感性や身振りが圧倒的だっただけに、この連中の底の底にもしみつい
ている、ちゃちな権力意志や、自分を徹底的に無にして他人と相渡り合うことのでき
ぬ根性のなさの、了解不能な現象は、私をいいようもない絶望や虚妄に引きずりこん
だ。
全てを見つめ直すこと、前身を無にして過去の一切と断絶し、一点に止まって現在
の自分の位置測定の凝視をつづける他はなかった。やっと六九年四月に「『発見の
会』 転換期に当っての課題 ? ぼくらの新たな認識と表現のために」というガリ版
十二頁のレジメができた。注1 同じ頃〈シアター25〉の舞台だった千日谷会堂を追い
出されて、笹塚のマンションの一室に事務所を移さざるをえなくなった。ともかく全
てが終り、はじまるとすれば全てが新しくはじまる他はない。私たちは気も遠くなる
ほど広げきったレジメの問題点と、自分たちの力のなさや孤立状態のあまりの落差に
呆然自失としながらも、集まってはしゃべり合い、酒を呑んでは無為の時を過した。
ある人には耐えがたい時間だったのか、発狂して入院したものもいた。サウナ通いを
して「金を湯水のように」使ったり、筒井康隆と西伊豆に遊んで「ニシイズ・ア・ぺ
ン」などと大騒ぎしたのもこの頃だ。
津野試案の「センター計画」にのって一緒にやることは、たやすいことだった。演
劇集団としては、この時期それがもっとも力を発挿できる方法だっただろう。彼らも
「発見の会」の能力や人材を必要としていたはずだ。七月頃までかなり執拗に、勧誘
や話し合いがもたれていることからも判る。
私(たち)には、「センター68」の総検討から次への展望が生れたものではなく、
また各集団のポテンシャルなエネルギーが、センター計画へと合流していく必然から
でもなく、「六月劇場」と「自由劇場」のお家の事情や趣味的な色あいから、セン
ター計画という大義名分が生れてきたようなウサンくささを感じていた。「センター
68」で見てきた、「六月劇場」や「自由劇場」と「発見の会」との、旅公演のとびは
ね方の違いや、一九六九年に演った「六月劇場」や「自由劇場」の生ぬるさと、「発
見の会」が立ちどまって見つめようとしている位置測定の様相とは、かなりの異和感
があった。
こうした異和感をつき合す原理的な作業ぬきには、次への具体的な問題は、インチ
キなものならばできるかもしれないが、本質的なものは出てくるはずはなかった。そ
の後の「演劇センター」の歴史は全く関知しないが、この時の津野や佐伯の試案に
は、原理的作業ぬきの野合性があったようだ。
生き死にの場を探して
第七章 わが表現論の「希望の星」
磁場の爆発 ー 山下洋輔トリオとの出逢い
意識的な解体作業と位置測定作業をつづければつづけるほど、人間の関係性の最も
生々しい「直接性」や「現前性」の現場である演劇というものの底に隠れている、人
への強制や差別や権力意志の発動しやすい構造的保守性が、ますますはっきり見えて
きて、人間の自由な結合を追い求める組織論と表現の自在さや自由が、どこまで結抗
しながらバランスをとっていけるのかという、私(たち)の唯一の原理は一層不安な
状態におちいり、行動停止の不安定な宙吊り状態は、自虐的な快感ともなっていた。
こうした私(たち)を虚妄の淵から救い上げてくれたのは、山下洋輔、森山威男、中
村誠一トリオや、富樫雅彦、吉沢元治、高木元輝、沖至クワルテットなどのフリー
ジャズだ。
「場としての演劇」は瓦解する
私はこの時期はじめてジャズと出逢った。そして、私の夢想してきた自由な関係性
の、現在ただいまさしあたっての具体的な「現場」が、眼前に展開されるのをみて夢
中になった。私は私なりの「スウィング」をした。
富樫雅彦は、私が熱狂的にジャズ喫茶「ピットイン」に通いだして間もなく、三角
関係のもつれから女房に腰部を刺されるという事件で演奏活動を中断したため、彼の
神秘的で虚無的なドラム演奏には、その後立ち合う機会を逸しているが、山下トリオ
の自在で開けっぴろげな「現場」を、一挙に濃密な知的空間へと変容させる、凄まじ
いボルテージとスピードの、狂気であらざるをえぬ理性の暴発的な躍動を、長時間に
わたって持続させうるトリオの自由な共同作業は、私の表現論の「希望の星」になっ
た。ただソシャクするには巨大すぎて、いまに至るもジャズといえば山下洋輔しか知
らない。
各自が表現者としてのまれにみる資質と、超一流の技術をもった独立独行の(つまり
はメチャクチャの)行為のかけ合いとして噴出されてくる巨大な自由のうねりは、表
現論でも組織論でもない、ついには「暗号」や「手くせ」というような抜きさしなら
ない生身の絶対的関係性にまで到達する。互いが、創造的煽動者として立ち現われ、
交接し合う、他者を自在にくぐりぬけるトリオの「現場」に、観客をまきこみ、私の
いう「磁場の爆発」である「スウィング」へと急上昇の旋回をしていく。一見観客な
ど無視した、拍手もへったくれもありはしない山下たちの突っ走りは「ジャズ演奏者
こそが、ついに自ら『ジャズ』になり得ない唯一の人間だろう」(山下『風雲ジャズ
帖』)という哀しい実感にもとづいた、自己の表現者=遊び人としての位置確認の果
ての、かぼそさと倣岸さの相克の故なのか。
山下たちの営為の前では「観客の存在を表現過程の主要な契機にとりこみつつ進行
するそのプロセス全体を創造と呼びたい」などという、私たちの「場としての演劇」
は瓦解してしまい、より高次のというか、より一層捨てばちに我身の生き死にを投げ
入れる場を、考えざるをえない切迫したものをつきつけられたようだ。
「自分も自立して、かつ相手も自立して、そこにあるつき合いってのを凝縮したもの
がジャズ……オレたちのやっているものじゃないかな」(菊地雅章、前掲書)。夢で
はなく私の熱狂的に希求していたものが、ごたいそうな意味づけに関係なく軽々とや
られている。「自立した人間たちのつき合いを凝縮したものが、オレたちのやってい
る演劇だ」といえるものを求めて、何度かの仕切り直しをしながらいきせききってき
て、ついにそこへは到達できぬ演劇の構造的保守性を見てしまっている私たち。こい
つを内側から食い破る何らかの論理と実体を、私の演劇的生を賭けて手に入れる必然
に立ち至る、本質的な転回点が山下トリオとの出逢いだった。 注1
『アリス兇状旅』シリーズ化
「あいつらには到底かなわないし、あそこに行きつくことはできぬかもしれぬが、俺
は俺のやり方でもう一度やってみよう」私は濃密なジャズ空間に出追って、あらため
て「研究生」たちのふとした「世界とのたわぶれ」の意味を了解したのかもしれな
い。もはや演劇など、いや演劇的濃密度などどうでもよかった。演劇の袋小路を抜け
出して、芝居しかできぬ自分たちのなけなしの感性と肉体をはたいて、世界の只中
へ、快楽の広大なフィールドにただよい出たかった。
竹中労と出逢ったのはこの頃(一九六九年春)で、彼はピートシガー(だったか)
を日本に呼んで、日本のフォークシンガーたちと一緒に全国フォークキャラバンのコ
ンサートを計画していた。彼の紹介で岡林信康や高石友也などとも逢った。後に私た
ちとエルトローボレコードをつくり、四年にわたって全国延五百ヵ所ものコンサート
を開催してまわった豊田勇造との最初の出逢いも竹中の紹介だ。
このフォークキャラバン構想がつぶれて、いささか振り上げた手のやり場に困って
いる竹中労に「発見の会」兇状旅のプロデュースを頼んだのが、一九六九年の夏頃だ
ろう。竹中の風狂への志と、私たちの浮遊の重心とがいっときの共同を形づくること
になった。注2 竹中のからんでいた山谷解放戦線の夏祭りを手伝ったり、反万博の寺
小屋の講師をやったこともあった。
一九六九年秋には、牧口元美、三好道明、斉藤晴彦は、「演劇センター68/69の交
互上演システム第一回公演山元清多作『バーデイ・バーディ』に出演した。斉藤はその
ままセンターに残ることになったりして(あるいは斉藤はもっと前に退めていたか)
何らかの具体的な動きを起こすことなしには、位置測定のボーリングの作業は空虚の
まま素通りしていくことに、気付いたというわけだ。
「研究生」の脱退組は、一度か二度ビートルズ映画とだき合せのイベントをやった
程度で、この頃にはバラバラになっていて、上杉清文が『紅のアリス兇状旅シリーズ』
というつづきものを書いてくれることになった。流れ流れて、その日その日のおもら
いで、メシ代とガソリン代をうかせて廻る乞食公演のレパートリイにはうってつけ
だった。牧口元美、月まち子、三好道明、川上和加乃、杉田一夫、黒岩睦子などの他
退めた飯田孝男が戻ってきたし、後に上杉の女房になったアリスを演った入山幸子や
「状況劇場」にいた椎名彦四郎や、いまニューヨークで最も。パワーのあるハード
ロック「ボン・エルモ」のサックスを吹いているジュノ・サターンこと筒井忍など幾
人かの強豪も現われた。
注1
本書214頁『風雪ジャズ帖』書評および本書174頁「新劇モグラ月評」参照。
注2
竹中労事務所で発行した「風信」三号にのっている「パイポパイポの地獄めぐ
り」本書181頁参照。生硬な文章だが、旅立ち前の私たちの心情と、一年間の沈黙
のひとつの断面はうかがえるだろう。
〈夢の結合体〉のために
「紅のアリス兇状旅第二話『射風華吹雪緑姿絵』」
上杉清文の「紅のアリス兇状旅シリーズ第一話『怨霊血染めの十字架』」は、「演
劇的時空とは無関係に存在する世界の深みに身をさらすために」(今野)最後の仕切
り直しというか、根源への無限の沈下の旅を開始したいと願っている私たちの、確固
としたまとまりはないが、八方破れの開き直りを挺子にしての狂的な跳躍力を秘めた
「遊び人」の一団に、共通の了解を与えるものだった。
自らを乾いた哄笑のうちに対象化し、ナンセンスや。パロディのえじきにしてしま
う、あくことのないデタラメは、大学闘争を契機にして視えた一瞬の幻想を、多義的
構造の場で再認識する余裕もなく溶け去っていく、私たちの革命的妄想(想像力と
いってもいいが)の持続力のない一元性や、単細胞的な誠実さをジメジメと育てつづ
ける風土や心情への徹底した批評でもある。
乱闘・失火・自殺
第一話ではいささか心情的傾斜の残るものだったが第二話、『射風華吹雪緑姿絵
(シャンプーはなふぶきみどりのすがたえ)』になると、緑のゲリラロビンフッドの
冒険辞に、間抜けたドラキュラ伝説の主人公をからめた乾いたナンセンス劇になって
いた。
一九七〇年は竹中労のプロデュースで第一話『怨霊血染めの十字架』をもって、五
月、六月と京都、岡山、名古屋、大阪、静岡、沼津、東京、日立などをうろついた。
石子順造の口ききで林静一が夢と血しぶきに舞う少女アリスのポスターを描いてく
れ、暗黒舞踏の石井満隆が振付を担当し、シンポジウムに備えて、若松プロの作品や
林静一、大井文雄、月岡英夫のアニメーションも持参した。各地では思いがけないで
きごとを次々と味わうことになる。
京都ではコンミューン五月実行委員会ができて、同志社大、京大新聞部、立命館大
寮連合それに京都の文化運動の主体的な担い手が連合して、公演とイベントと、後夜
祭の乱痴気騒ぎの多層な場を設定してくれた。大阪や日立ではハレンチすぎるという
理由での会場の閉め出しを暴力的に突破したり、静岡では野外劇の解放感の度がすぎ
て主催者と大乱闘なった。東京は若松孝二の顔でやっと借りられた京王名画座のスク
リーンを、楽日の徹夜興行の大騒ぎの際飛びかった花火で焼いて大事件となった。こ
の旅のあと、大阪の日本維新派で怪力を毒する白藤茜が急性腎炎で入院して、奴の隻
眼のキリスト役を旅の後半私が演る破目になったり、大阪公演の主催者の一人、「大
阪プレイガイドジャーナル」の創立メンバーの阿部幸夫が、私たちの大阪公演の楽日
の翌朝ガス自殺をするという衝撃的な出来事もあった。
「演劇センター68/70」出版委員会編集の季刊「同時代演劇」第三号(一九七〇年
九月)にこの旅のレポートを載せている 注1 が、この旅もまた本質的で自由な人間の
つながりには至らなかった。役者たちとの間も甘ったれたものだったし、竹中労との
関係も、どこかにしんどさが残るものだった。竹中とはこの企画が崩壊する危険を冒
しても、一歩突っこんだ関係をもつべきだったようだ。その後共同の仕事はしていな
いが、彼から受けた「恩義」の中身をそのうち互いにキッチリ検証する機会をもちた
い。
旅班は解消した。再度再組織に着手して流浪の旅をつづける準備に、九州へ牧口、
月、飯田と私の四人で出かけた。一九七一年は上杉清文、今野勉、筒井康隆の三本立
ての長期の旅を企画していた。
偶然を〈旅〉の必然に
九州から帰って準備は渋滞した。十二月初旬、牧口元美、三好道明、飯田孝男が退
めるといいだした。このままつき合っていたら地獄にでも引きずりこまれかねない恐
怖を感じたのかもしれない。私の身体の調子が変で、肉体の異常は、精神的にも緊迫
していたのかもしれない。旅の間中私は取り立て
の免許で自動車を運転していたが、「虹彩炎」のため夜間対向車の光がまぶしくて、
そのつらさは尋常ではなかった。口にはアフター性の口内炎が次々にできて、尿道炎
はいつまでも治らず、手足には圧痛のある結節性紅班様皮疹があった。明らかにべー
チェット病の初発症状群だ。現在だったらこの自己免疫疾患の構造、失明にまで至る
恐さを知っているので絶望的になるところだが、この時はメクラ蛇におじずだった。
たとえ失明の危険を感じたところで、自分の生命よりも、もっと人間の底の底のうご
めきを見届ける遊行を徹底していただろう。明日が突然失くなっても、どうというこ
とはない、ひとつの開き直りの決意があった。病気の方は月まち子に勧められた玄米
食のおかげか、そのうちなんとなくおさまってしまった。
「今回の旅班のメンバーは解散した。組織再組織のめまぐるしい切り換えのうちにジ
リジリと危険なスリバチににじりよっていくつもりだ。我と思わん猛者ども寄ってこ
い。我々はいま、五年ぶりの混迷そのものの中にある」と結んだ「同時代演劇」のレ
ポートを読んで、水産大生の長谷川健から連絡があった。長谷川は立川好治や伊郷俊
行や、先年くも膜下出血で急死した西ヶ谷覚など幾人かの水産大生をつれてきた。彼
らは「発見の会」を発見したのだ。
彼らのさわやかな感性と、身軽な行動力、他者性への機敏で慎重な触覚や、全体性
へのバランスのきいた目くぼりなどは、大学闘争の本質を見すえながら通過してきた
者たちが、獲得した「成果」なのか。彼らは、教条的な硬直さにおち入りやすい私
に、自在な「関係性の楽しみ」を教えてくれた。彼らとはもう十年以上のつき合いに
なるが、この時の出逢いがなかったなら、いまの「発見の会」の、ふんわりと気がね
なく知的遊戯の楽しみを味わえる、こうした場は存在しなかったにちがいない。
上杉清文は第二話を書き上げてまもなく、スぺイン遊学に旅立っていった。旧「発
見の会」の人間関係は解消したが、「発見の会」は解散したわけではない。〈夢の結
合体〉は一人でも歩みる者がいる限り存在していける。この一、二年ようやく見えて
きた世界の根源へと志向し、想像力の働く場を切り開く快楽をイメージしては、その
不可能なることの切なさに焦燥する私の熱源は決して弱まることはなかった。
一九七一年四月から再開した「紅のアリス兇状旅第二話『射風華吹雪縁姿絵』」
の旅興行は、月まち子、椎名彦四郎に、「状況劇場」や「若松映画」で人気の高かっ
た吉沢健、谷川俊之、「人間座」の『愛奴』を演り、内田栄一の『でたらめバカのく
そったれ』にも客演を予定していた工藤和子、刑事事件で保釈中の中村愛文に水産大
の長谷川健、立川好治のくせ者ぞろいの一行だった。
気楽にブラリと浮遊していくため、下準備のオルグはせずに、主催者のできうる範
囲の協力で、行った先々での偶然を、私たちの旅の必然としてしまおうということ
だった。会場も野外が多くなり、当日急に会場をキャンセルして、河原や、神社や、
公園で、持参した寄付金カンパ者の名前の書き並べてある紅白幕を引きまわして、自
動車のヘッドライトやローソクや懐中電灯の照明で芝居を演るのが日常となった。
注1 本書186頁『ねっけつまるかじりぼうけんたん』参照。
芝居をダシにしての遊び
沖縄公演『ソウル・フル・テロモグラ』まで
一九七一年四月二十四日、浜松をふり出しに流れはじめた「紅のアリス兇状旅第二
話『射風華吹雪緑姿絵』」の陣立ては、ニッサンとトヨタの二台のバンに、ナベ、カ
マ、食器、寝袋、プロパンガスセットの世帯道具一式は手抜かりなく積みこんだが、
芝居道具の方はいたって貧素なものだった。ワークショッブMU!の連中がつくってく
れた折りたたみの花札、絵巻物の画布、紅白幕、衣裳梱、某ホールから拝借してきた
数個の照明器具とコード類といった程度で、仮装というにはあまりにみじめな道具立
てだが、それだけ各自の肉体を極限までさらけ出すことにもなったようだ。私など
も、「幻」と染め抜いた腹掛けに赤ふんどしの珍妙な恰好で、芸を演り、市場で買物
をし、街中を歩いた。
街は市場で決まる
宿泊も、興行のない日は海岸にテントを張ったり、見知らぬ漁師町の漁業組合の二
階に四、五日居候をして、生きのいい小魚を食べきれないほど貰って朝から酒をくら
い、ウニや貝給いに遊び興じた。街の性格は、市場たよって判断するというのが私た
ちの持論だから、気になる街は必ずまず市場に立ち寄って、食料を仕入れて公園かど
こかでその街を味わってから一仕事にとりかかるのだった。
芝居を見せるための旅ではなく、普及でも教育でも、革命でも反革命でもなかっ
た。ただただ芸をダシにしての遊びだった。遊びを徹底するとき、そこに逆まわりの
ミュニケーションが、あるいはできてくるかもしれないし、できてこないところで別
にどうということもない。この旅は、前回よりいいかげんだった分だけ、人々の共感
をより多くうることができたようだ。
鹿児島などは、自主映画の会の主催で演ったのだが、当日会場の自治会館ホールが
面白味のない場所だったので、キャンセルして探しまわった結果、白羽の矢を立てた
護国神社に交渉すると、何を勘違いしたのかすんなりOKとなり印象深一夜を楽しん
だ。主役格の椎名彦四郎が母親の急死で帰京し、私が代役のロビンフッドを演るアク
シデントも、楽屋落ちの躍動感を高めるだけのことだった。「鹿児島新報」は十一面
全部を使って、「小劇場運動の最先端を行く『劇団発見の会』」と題する特集を組ん
で、この夜の興行を報道し、「南日本新聞」も大きなスぺースをさいてくれた。
「村芝居を思わせる野外舞台で、夜空の星の下、神社の灯ろうにオドロオドロした
火がともり、痛快きわまるスタイルと意表をつくセリフが織りなす舞台絵巻に、ある
場面では爆笑が、あるときには拍手が、あるときは共感の同意の言葉が飛び出した。
/一種のドタバタ喜劇といえるものだが、その根底には、自由と愛と真実を求めてや
まない人間の〝真の美しさ 〝真のやさしさ が脈打っていた。セリフはケタはずれの
論理を展開させ、それが演技とたくみにとけ合い観客を引きつけ、舞台と客席を完全
に融合させた。とりようによっては言葉のあそびともとれるセリフが、その実、人間
が心底から求めているものとは何かを示唆していた。/ここに劇団『発見の会』の本
領があるのであろう」(「鹿児島新報」一九七一年五月二六日付)
あとで聞くとこの記事は、論説主幹の黒木正彦が書いてくれたということだった。
鹿児島でも各地と同じように、東京にいてはわからずじまいになってしまう、人間
たちとの熱いつながりがもてた。ジャズ評論の中山信一郎、作家の古田工子、その娘
で、何年か後に自殺した才能あふれる少女の古田生子など、こうした放浪の旅で出
会った人々との手応えのある結びつきが、後年の豊田勇造の精力的な演奏活動を生み
出す母体となった。また倉敷では世話になった田辺泰志に義理返しの気持ちもあっ
て、この旅が終って彼の映画『空見たか』に、吉沢健、工藤和子、私などが出演し
た。
ドガチャカの旅
九州が終って沖縄まで流れる力量がなく山陽路を点々と演って戻ってきた。姫路で
は「自由連合」の向井孝と西武劇場の制作をやることになる東海晴美が主催してくれ
たが、この公演終了後、谷川俊之が私と殴り合いをして雲隠れしてしまった。いまだ
に彼の真意が判らないが、谷川はリーダーとしてのメリハリを私に求めていて、そいつ
の不満が蓄積した結果だろう。
中一日おいて京都同志社大の公演で、こんどは谷川の代役のドラキュラを演らねば
ならなかった。無事なんとかゴマかしてホッとしたのか、したたかに酔っばらった私
は、同志社大の正門によじのぼって、月光仮面か空飛ぶドラキュラを気取って跳躍し
たらしく、朝気付くと無残な状態だった。顔中血だらけでボールのように腫れ上り、
前歯が三本折れて一本は紛失し、二本はかろうじて歯茎にぶら下っていた。
この日はフリースペース「パルダー」という場所で演ったのだが、運悪く吉沢健の肘
鉄砲を前歯に食って、ボトボト血を吹き出しながら演る破目になった。また豊田勇造
が、前日の「発見の会」を観てつくったという、名曲「行方不知」を歌ってくれたの
が、彼と私たちとの本質的なつき合いのはじまりとなった。
七月までつづいた三カ月有余の長いドガチャカの旅を終えて、一段落の休息が必要
だったのか、沖縄、北海道と、止まることなく浮遊する旅のイメージに、皆つき合い
きれなかったようだ。私は月まち子、豊田勇造と三人で沖縄へ渡った。出し物は、今
野勉と私との合作の『ソウル・フル・テロモグラ』という奴で、中身は豊田の歌や、
永山則夫の『無知の涙』や、歌謡曲のかえ歌や、太田省吾の『黒アゲハの乳房』から
の引用などで構成したものだ。
復帰一年前の沖縄では、人々の間に、日本への甘い幻想が湧き立っていた時期だっ
たのかもしれない。『ソウル・フル・テロモグラ』のなかで、日の丸を焼いたのが刺
激的だったらしく、那覇では月まち子の指圧学校時代の同窓のGさんのお宅に泊めて
貰っていたのだが、観に来たその家の長兄が、その夜、私を殺すといって短刀をふり
かざしてきた。日の丸は、日本のために苛酷な戦後を生きさせられた沖縄の人人に
とって、錯綜した自己史にまつわりつく青春の象徴でもあったのだろうか。
私たちの与えた傷の深さを了解すればするほど、こうした逆倒した精神構造を持続
させている、荻滑残忍な権力支配の極点に居直る「天皇制」というものへの嫌悪は増
幅してくるのだった。
体力と知力の再整備期
生きざまの凄みを見届ける「風のような」旅
コザ市では琉米親善センターを借りて演った。「劇団創造」の協力や作曲家の上地
昇のピアノ演奏もあって、まずまずの交流の場となった。
コザ公演(一九七一年八月一一日)が終って、那覇へ帰った私たちは、映画づくり
をやっていた詩人の吉本陸生宅で、吉屋元、森田茂などグループの面々や京都の
フォーク歌手で沖縄に住みついた黒川修司や、琉球独立運動の宮城賢秀など、私たち
の公演を準備してくれた人たちと打ち上げの宴会をやった。メキシコ産の良質のマリ
ファナがあり、石垣島の泡盛銘酒菊の露もあって、私は浮々と庖丁を使って大皿に豚
肉や刺身を盛りつけ、さあはじめるぞと思った矢先に、ドヤドヤと三人の屈強な男が
なだれこんできた。
不細エなパロディ
子分の一人は庖丁を握り、もう一人はビール瓶を叩き割った。どちらも巨大な体躯
に狂暴な顔つきだ。「日本思想普及会」と名乗る右翼の連中で、どこでかぎつけたの
か、先日の日の丸焼却の詫び状を書けということらしい。こりゃただではすまぬと観
念したが、なにより心配なのは、沖縄の人たちに万一のことがあっては申し訳がな
い。二階に吉本家のご両親が寝ていて、騒ぎで下りてこられては大変だ。といって、
詫び状など死んでも書けやしない。私は静かに「コンニャク問答」を繰返した。業を
煮やした連中が、カッとなって襲いかかるのを月まち子が、気勢を殺いでくれた。三
時間ほどの緊張がつづいたか。
やがて根負けした兄貴分の男が、月まち子に「お前がいなかったら、こいつの命は
なかった」と脅しをいって、「日本からきたクズ共にだまされているお前たちに、沖
縄の精神を叩きこんでやる」と、若い連中を一発ずつ殴って帰っていった。ここにも
倒錯した「どす黒い」天皇制の糞壷があった。私は先日の長兄の短刀事件と今回と二
度までも月まち子に助けられた。短刀事件の時は、前後不覚に酔っぱらっていて、あ
とで話を聞いて、純朴な人々の心に食いこんでいる「天皇制」の恐怖をひしひしと感
じたが、今回は不細工なパロディだった。帰る目、那覇港に向うタクシーの中から、
あの狂暴な二人が、道路工事のトラックの上に、土工姿でちょこんと坐っているのを
見かけて、奇妙な親近感を覚えたのも、彼らの演じたパロディを、必死な面もちでは
あったが結構楽しんでいたからかもしれない。 この年は芝居の合間を縫って「週刊
アサヒ芸能」に連載の《ドキュメント太平洋戦争 ー 最前線に異常あり》の仕事で
従軍兵士からの開き書きをやっていた。記事をまとめる佐木隆三と、つまらぬ事柄で
絶交してしまい、この仕事をおろされたが、私の知らない世界の凄みを覗かせてく
れ、後に『敵前逃亡 一 生きている陸軍刑法』という本を出版するキッカケをつ
くってくれたことは感謝している。
一九七一年十、十一月は東北巡業の旅をやった。メンバーは月まち子、豊田弟造、
立川好治、長谷川健、伊郷俊行と私の六人で、極彩色のトヨタのバンに、ナベ・カマ
一式を積みこんでの浮遊の旅だ。水産大と名古屋の名城大の大学祭で旅費を稼いで、
金のつづくかぎりの遊行でオルグは出さず、予定も立てず、各地の知り合いに「何日頃
行きますからよろしく」とハガキ一本出すきりだった。三上寛も一行に加わる予定
が、一、二カ月でアッという問に売れっ子になり、大学祭の出演だけでおりてしまっ
た。
敵前逃亡兵聞き書き
観光の名所をめぐり、市場をあさっては、プロパンガスをもち出して鍋物を食い、
気がむけば『ソウル・フル・テロモグラ』を演り、土地の人とセッションをして踊り
狂った。いままでの芝居屋の旅では考えられぬ、音楽を自分の表出の媒介に、たやす
く使いこなせる連中にしてはじめて可能な自由気ままな「新たな旅」だった。秋田で
は打ち上げでジャズ研と徹夜のセッションをして、私も生れてはじめてピアノを叩き、
素っ裸ではしゃぐ女の子もいた。街頭デモで逮捕された秋大生の奪還を叫んで、秋田
署構内深く侵入して、立川が捕まりあわてたこともあった。この時急を開いて駆けつ
けた一人が、秋田の出版社「無明舎」の安倍甲の親類で、劇団「究境頂」をやってい
る当時高校生の山川三太だった。
仙台では宮城教育大に泊って、例によってドンチャン騒いでいると、誰かが「『発
見の会』が明日やるというビラをくばってました」という。ハガキを出したことを忘
れて、明日は松島めぐりをしようなどといい合っていた。翌朝早々に、ユネスコ会館
というところで待ち伏せしていると、予想通り主催者と覚しきのがやってきた。私た
ちと連絡がつかず、途方にくれて会場をキャンセルにきたのだ。「エッ、あなたたち
が、『発見の会』! ああよかった。今日一時から公演の予定なんです」という。
寒風吹きすさぶ陸中海岸の種差駅にいって「弁当を使わせてください」と頼むと
「ああ、どうぞどうぞ」と愛想がいい。それではと小さな待合室にプロパン一式もち
込んで「今夜は中華鍋だ」とやっていると、駅員がびっくりして、裏の宿直室に案内
してくれたこともあった。万事がこの調子だ。この二週間たらずのふとした「風のよ
うな」生き方が、その後の私たちを決定づけているようだ。でも何かが不足してい
〈足かけ八ヵ月もの長い旅もようやく終った。この旅も根源的な、人間の生きざま
の凄味を見届けることにはならなかった。さてもと唸りたくなる瞬間には、幾度も遭
遇はしたが。/新たな転進に向けて、いままでとはちがった、根底的な訓練が必要
だ。粘りのある、どこへ放り出されても生きて、視てゆくことのできる体力と、知力
と、身のこなし方をカッチリと再整備する時期に入る。もちろん私自身に課して ー 〉
(一九七二年一月二十二日))
と記した私は、この年一九七二年には、戦後二十七年間逃亡兵として潜伏をつづけ
た横井庄一上等兵帰国の英雄騒ぎを契機に明るみに出た、敵前逃亡兵たちの戦後の生
きざまの聞き書きをはじめた。
一九七二年十月には、早稲田鍼灸専門学校に入学した。深い理由はなく、月まち子
が入学予定をしていたが取り止め、代りにふと気持ちが動いて面接を受けたら入って
しまった。
立川好治は割烹料理屋屋に、伊郷俊行は水産会社に、長谷健は高柳昌行について本
格的なジャズギターの勉強をはじめた。豊田勇造は毎週土曜日下賀茂の「マップ」と
いう店でライブ演奏をやり出した。月まち子の指圧も本格的になってきたようだっ
た。
「発見の会」のゆきつく果て
第八章 消滅の美学 関係性の学
映画『味覚革命論序説』の「風景」
物心ついて以来、芝居と酒を呑むことしか能のない遊び人が、と書くと芝居と酒に
ついてはひとかどの見織があるかのような誤解をまねきかねないが、これもただ流れ
にまかせてのいいかげんさだ。その他一切の、家庭も子供も、財産も貯蓄も、地位も
名誉も権威も、筋道だった仕事の技術も、学問も芸術も、賭博もスポーツも芸事も、
・ ・ ・ ・
およそありとあらゆるこの世の、人間がつくってきた規範や制度とは、ほとんど無関
・ ・
係(完壁に無関係でありえないところが、私のどうしようもないところだが) であ
りたいと思っている私が、東洋の知の体系の典型である、鍼灸を学ぼうなどという気
になったのだからおかしな話だ。
共存・共同の絶対性
裏返すと、この世のあらゆるものに好奇心はあっても、懸命に学びとる努力も勇気
もなく、あまりの厖大さに呆然自失して、対象が定まらぬまま、ふあふあと好奇心だ
けが四十年近く、ただよってきた。そして芝居のつまらなさが身にしみた時、この世
の地獄の底までを覗き見したり、私の勝手気ままな「趣味」を満喫させる、遊びの徹
底化のためには、なにかしっかりとした、危険な斜面を降下する道具が必要だと思い
知ったのだろう。
鍼灸を学ぶといっても、動機がでたらめだったためか、鍼灸の奥義である経絡経穴
学や五行論や師匠を定めて修業するなど大の苦手で、またまた独断的解釈で押し通し
ている。それでも演劇の勉強などはしたこともなかったが、こちらの方はそうはいか
ず、それなりの努力をしているのも面白い。早稲田鍼灸に入学して、入学金や授業料
のやりくりにまず当惑したが、次兄の秀美や友人のおかげで助かった。なかでも牧口
元美が、この時はTV番組で稼いでいて、ポンと二十五万円をくれたのには感激した。
お気づきのことだろうが、「発見の会」を退めた人間たちが、すぐにまた一緒の仕
事をはじめたり、助け合ったりしていることだ。かなり激烈な批判を交し合って、深
刻に別れるのだが、そのあと再びワイワイやっているケースが多い。これも私たちの
組織論の故か、あるいは別れの論理があやふやな故なのだろう。要するに芝居の上で
の意見の相違など物の数ではなくなっているのだ。
意見の相違で殺し合っても、それもまたかなり面白い。などと言うと怒り出す人も
いるかもしれないが、たかが芝居の上のいきさつや男女の仲などの、その瞬間の殺意
や絶望感や憎悪を、死ぬまで固執してもちつづけたい人はもちつづければいい。人ひ
とりの想いや生命は、地球の重さだといういい方も嫌いではないが、人ひとりの感情
や決意や生命など、世界の多義性の前にはなにほどのこともありはしない。 この世
のあらゆるものに生かされて、そのお返しもできず、いやそのことの認識すらできず
に、地球上の全ての生命の破滅行をおし進めている人間という種の倣慢さと、人ひと
りでは決して生きられぬ「最も不安定な体型と、最も不適な生きざま」で、「ヨロヨ
ロと生きのびてきた」(藤井平司)ヒトの不適応看であるがための共存・共同の絶対
性を考える時、芝居屋は芝居屋なりの、人々の労働をかすめ盗って生きている遊び人
のやらねばならない生きざまが、浮かび上ってくるはずだ。自由自在の遊びができな
ければ、せめて差別と強制の一切を許さず、自分の欲すること以外は絶対にしないそ
のくらいの決意は、最低の身がまえだろう。
楽しみのトライアングル
鍼灸をやりはじめて、「医」というものの構造が、私の考えている表現や芝居の構
造とひどく似ていることにびっくりした。また私の主要な興味のひとつである「食
(味覚)」の構造とも通い合うものがある。この間題について、私の直観を解析する
には、長期にわたる根気が必要だろうが、一言でいうと、これらは全て、知の根源を
形成する体験の学であり、人々と自然とのゆきかいの関係性の学であり、自分を無に
して人々のなかへ消えさる消滅の美学であり、なによりも快楽の究極を志向するもの
だ。人の楽しみはほぼこの三つのトライアングルのうちに包摂されているという、独
断的教義を勝手にでっち上げ、いまや私の遊びの行為は、この広大なフィールドへと
拡大してきている。芝居ひとつまともにできないくせに、おこがましいことおびただ
しいが、これもオッチョコチョイの野次馬である、私(たち)の宿業だ。
早稲田鍼灸の二年半は、鍼灸と、敵前逃亡兵の聞き書きと、登山だった。私はこの
年(三十八歳)になってはじめて、登山靴をはき、山小屋泊りを経験し、山頂に立つ
快感を味わった。二十年前に知っていたら、芝居などやめて岩登りや冬山で多分、あ
の世へいっていることだろう。そのくらい登山という体験の学の、骨格の太さと奥ゆ
きに魅せられた。一年に、三十日か四十日は山へいっていた。動機は、井上幸治著
『秩父事件』(中公新書)を読んで、事件の主人公たちの面影と共に歩いてみたいと
いう、ミーハー的センチメンタリズムだ。いまだに秩父の山並みやヤプに吸いよせら
れる。
一九七四年十月には『証言記録敵前逃亡!生きている陸軍刑法』(新人物往来社)
が出版された。「アサヒ芸能」の平塚柾と共著になっているが、取材は私が全てやっ
て、本文の一章だけ無理に担当して貰った形で、今は私のエセの共同を反省してい
る。内容にふれる余裕はないが、日本軍隊の敵前逃亡罪に関する「原資料」的価値は
永く残るだろう。編集を担当した片桐軍三が、七七年十二月に狭山事件にからむ謎の
死をとげたのは痛恨のきわみだ。同じく七七年七月には『ワクワク学説』以来私たち
の芝居を欠かさず観てくれて、御用評論家を自認していた、創造的共同者石子順造
が、肺癌から転移した、脳腫瘍のため亡くなった。
一九七五年四月、早稲田鍼灸を卒業して、六月に鍼灸師の免許を取得した。私も皆
も、何かやりたくて、うずうずしていた。
一九七五年一月に能登半島に遊びにいき、そこでたらふく食って呑んで踊った様子
を二千フィートのフィルムに撮ったものを『味覚革命論序説』(十六ミリ五十三分)
という映画に編集した。 注1 東北巡業の一行と新たに加わったメンバーで、内容は、
ただただ一行の遊びの「風景」にすぎないが、人類が運よく生きのびるとすれば、後
世の自由人は、この時代にこんな精神の躍動があったのかと、新鮮な目で見てくれる
にちがいない。遊ぶことと、ものをつくることとが、これ程なんの異和感もなく、こ
の世を生きる全てのものとの共生・共悦の感性のうちに混り合い、融け合って、一陣
の風のように吹きぬけていくものを、ビートルズの一群の作品の他、私は映画に見出
したことがない。悲しいことに、ここには月まち子がいなかった。
注1 この映画とは全く関係ないが、私が味覚に対して、興味をいだく方向性につい
ては、本番206頁「味覚革命論序説 ー 人類変容術入門」を参照。映画に関し
ては〝制作ニュース〟より「あいさつ」「制作者の弁」を収録。本番254頁参
照。
なおこの映画に関して、故石子構造、今野勉、佐藤重臣、夏文彦、平岡正
明、松田政男、山下洋輔、ヨシダ・ョシェたちから熱烈な批評を貰っている。
平岡などは五十枚ほども書いてくれた(平岡正明『スラップスティック快人
伝』白川書店所収)。
諸兄の『味覚革命論序説』評のさわりの部分を収録しておく。
〈猫の名はリュウといって、ミケの犬猫で、瓜生艮介が何年かがかりで野良猫
から友だちへ変身させた。能登半島の荒海にむかって後足で立たせ、前足を瓜
生がもって〝梅は広いな、大きいないってみたいな、インド、インド、インド
と唄に合せてお遊戯させても、リュウは動じない。/みずから立って唄わず
に、リュウを対手にあたかもリュウの思いの代弁のごとくに唄うところに、自
由への思いを吐露する瓜生独自のやり方をみる。切ない自由への衝動の表現す
らも、タワプレのように、冗談のように、夢のようにやってのけたいというス
トイシズムがある)(今野勉「読書新聞」一九七六・八・二)
〈この映画も、まあ何げなくデタラメに作られたのに違いないが、どうも不
思議なことは、世の中には、その中から、実に快よい何かの秩序を、我々が自
分の重心でいくつも引き出せるようなデタラメが生じることが、時々あるとい
うことだ。この映画をみると、そういうデタラメをセットすることこそが、
我々の最高の楽しみなのだという気がますますしてくる。ぼくもそういうのは
きらいではない。しかし、この映画ほど何げなく人
を巻きこむことができるとは残念ながら思えない)(山下洋輔『味覚革命論序
説』上映チラシ)
〈この映画の印象はどうか。郷愁をおぼえてこころいいのである。「郷愁」と
いうことを「やさしさ」と理解されたくない。
瓜生良介、齢四十、四十男が同棲時代の意志も張りもない美少年のようにやさ
しかったら、彼は精神薄弱だ。ノスタルジーという語感ともちがう。それがサ
ウダージなのだ。/瓜生良介であるがゆえに、この映画はサウゲージな感じに
なったのだと断言する〉(平岡正明『味覚革命論序説』上映チラシ)
〈わたしの胸はひさしぶりに熱いものが泡立つようでさえあった。これはノス
タルジーの映画だ。/心のなかを吹き抜ける風のような映画だけれども、その
風は六〇年代を吹き抜けてきた。そのキナくささが波に洗われて、そうして滅
法かなしかったのである。私たちは、その風の行方について知らないけれど
も、いま列島の北端で、南方を恋慕しながら、かれらを包みこんでいる〉(ヨ
シダ・ヨシエ「ジャズ批評」二十二号)
〈「風のような映画をつくりたかった」と、瓜生良介はいっているが、この映
画は監督名なしの映画になっている。アングラそのもののもっていた下降思考
とリベラリズムを、脈々と今だにもち得ているのは、〝呵々 瓜生良介、その
ものだ、という気がしてくる。/〝行ってみたいな、インド、インド と海に
向って唄う時、それはもはや、単なる南方憧憬としての意味でなく、自分の肉
体が退化してゆく叱責のように私には思われた〉(佐藤重臣「キネマ旬報」六
七一号)
〈かつて、瓜生良介にとっても師匠筋にあたる花田清輝が、芸術家の仕事を、
人々の肉体のしこりを揉みほぐすアンマとの対応において、人々の精神のしこ
りを揉みほぐし、「たとえ一時的にもせよ、人々をたのしませたいとねがって
いる」ところに措定したことを、私は、いま想起する。瓜生良介は、おそら
く、今や私たちの肉体も精神も共に揉みほぐしうる前人未踏の境地に到達した
のでもあろう。かくて、瓜生良介の魅力とはまさに「はだしの医者」の魅力で
あり、『味覚革命論序説』は「はだしの映画」の魅力によって、私たちをしみ
じみとさせてくれる〉(松田政男「ジャズ批評」二十二号)
音盤上のゴミの浮遊運動
エルトローボ・レコードから『不純異星交遊』
「舞芸座」から「発見の会」へと引きつづいて、十五年の遊びの内実を共につくって
きた、本質的な関係性のきわめて貴重な結実だった、月まち子とのつながりは、断ち
切られてしまった。キッカケは、彼女がヘドの出るような、うす汚い『未知日記』な
るものをもち出してきたり、霊魂不滅を云々したことに私が激怒したことからだが、
真因は十五年引きつづいた男と女の、この事件の底深くに存在する切端つまった
「愛」の試験に、月まち子がついにというか、断固、不合格の鉄槌を下したことだ。
私には、特定の家庭や、平安な拠り所をもつことを想像するだけでも、異様なほど
の後ろめたさや恥しさを覚えてしまうといった、パラノイア的反射路が形成されてい
て、それが好き勝手をやらせて貰っていることへの、せめてものお返しだという度し
がたい独断がある。
多層な交接の場
性愛が嫌いなわけはない。ヒトの関係性の最も具体的で直接的な衝動であり、地軸
の最深部から宇宙の最遠端までを味わいつくす快コースへの出発点であり、時にはふ
と起こる人のつき合いの現象的身振りであり、作法でもある。しかし、それがなけれ
ば成り立たないものでもない。肌を合せれば、関係性の深化がはじまるといった、単
細胞的発想はお笑いだ。ついにそこにゆきつくのではなく、そこから継起してきて、
多層なヒトの広がりや交接の場ができなければ面白くない。
男女や家族や同性の「愛」が、ヒトの関係性の深部の姿を象徴しているものとし
て、それは人間の根源的自由を育てつづけてきたはずだ。しかしそれが、所有の感覚
を増幅し合って、相手の自由を拘束して、「愛の絶対性」のもとに、ヒトの自在なつ
ながりの快楽をいささかでも侵害するのなら、「愛」など糞くらえだ。こうした私
の、十五年引きつづいたパラノイア的反射や小児病的痙攣には、さすがの月まち子も
呆れ果てたのだろう。
一九七五年は、私の青春の終りであり、苦味のあるはじまりでもあった。「発見の
会」にとっても、月まち子といった仕掛人のいない新しいつながりの転換点でもあっ
た。『味覚革命論序説』の制作を契機にして、演劇集団という冠詞をクリエイティ
ブ・アクションズと改めた。面白そうなことは何でもやってやろうという気がまえの
表明だ。「発見の会東洋医学研究所」という大げさな名前もでっち上けた。
この映画『味覚革命論序説』をもって六、七月と旅をする。映画と上杉清文作『ア
クション料理教室』というコントと、豊田勇造コンサートという構成で、東京では吉
祥寺の、常打ち小屋になる可能性もあったビルの地下で演った。この時にも殴り合い
の「幕間劇」があったが、こんどは百万円の慰謝料といまだに治療代を払いつづけて
いるといったお粗末である。
この年(七五年)、私は『真説四谷怪談』を、南北の原作にほぼ忠実に、原宿学校
の演技科の生徒諸君と演った。演劇経験のない、時代物などはじめての生徒たちの南
北が、どんなに南北的であったかを強調しておきたい。廣末保作『新版四谷怪談』
(六四年)惨敗以来の私の執念と、今野勉の大枠の設定のアイデア(つまり非人小屋
の囲いの中で、非人たちの納涼盆公演のお遊びに、いま市中ではやりの「四谷怪談」
をやろう)と、花柳幻舟のダイナミックできめこまかな振付の、からみ合いの成果
だ。
映画の旅の途中で、共演の豊田勇造との間にレコード制作の話がでて、エルトロー
ポ・レコード(エスペラント語で発見の意)が生れ、一九七五年暮から録音に入っ
て、一九七六年四月『さあもういっぺん』というLPが発売された。豊田ほどの歌い手
が、細々と知る人ぞ知る状態にあることが、我慢ならなかったことと、面白そうなこ
とは何でもやってやるという私たちの欲望のえじきに、レコードというメディアが選
ばれたのだ 注1 。
猥雑無頼な奔放さ
私は一九七六、七七、七八年と三年間、豊田勇造のコンサートツアーのマネー
ジャーをやった。初年度と二年目は旅から旅へと十ヵ月以上もうろついていた。音楽
運動などといいながら、大手のレコード会社やプロダクションの使い走りになってい
る、各地のコンサート・メーカーや自分の怠慢をタナに上げて「豊田なんて知らな
い」とうそぶく新聞記者や局のディレクター共と、ケンカ腰で対決の毎日だった。
豊田ファンや「発見の会」のつながりにお願いして、一口一万円の出費で、二千五
首円のレコードを五枚渡して帳消しにして貰う虫のいい苦肉の策で、資金を調達し、
三枚のLP ? 『さあもういっぺん』(七六年)、『走れアルマジロ』(七七年)、
『血を越えて愛し合えたら』(八〇年)を制作し、五年間で延四百五十ヵ所以上の土
地でコンサートを開いた。豊田と「発見の会」の切り開いた「既成のルートとは別
の、ものと一緒に私たちのメッセージや夢が自在に飛びかう、ネットワークづくりの
試み」は、今後の表現運動に、示唆と底力を与えるものであるはずだ。
豊田勇造は、トドのつまりは私たちの考える表現者=遊び人=ゴミの浮遊運動のメ
ッタヤタラのデタラメではなく、確固とした歌手の立場をつくり出したかったよう
で、私たちとは一線を画すことになるが、この間題については、徹底した討論の深化
による新たな「共同」のはじまりを期待している。注2
一九七八年七月、七年ぶりに再開した芝居は、上杉清文作『不純異星交遊』(七月
二十日?二十三日四谷公会堂)だ。注3 映画『スターウォーズ』をもじって、或る星
のピンクサロンを舞台に展開するお家騒動で「徹底したバカ騒ぎにしよう」という方
針のもとに、あらゆる大衆芸能のネタを使って上杉の才能が練り上げたギャグ、コン
トの総絵巻だった。私は一切の演出をはぶいて、のんびりといいかげんな稽古に終始
した。
志の低さを云々する人もいたが、人間の集まりの猥雑無頼な奔放さを保持するため
には、演劇的表現の解体や密度の崩壊も悔いはないという、再三繰返す関係性の自由
さの「凄味」や「志の高さ」を見届けてくれる人は、極めて少ないようだった。
一九七八年十一月、池袋駅北口前に「ウリウ治療室」を開いた。一銭の自己資金の
ない者が、なにげもなく三百五十万円ほどの「事業」ができてしまう。私はここでも
人々のお世話になり、人々との関係性の凄味やありがたさが、骨身にしみて判ってき
た。
注1
豊田勇造に関しては、『さあ、もういっペん』のライナー・ノートに書いた
五十枚の「豊田勇造論」があるが割愛させてもらった。本音216頁には、「日
本読書新聞」に連載した、「偏愛的音楽論=豊田勇造」の一節がある。エルト
ローボ・レコードの動きに関しては、本書224頁「総括と展望」、228頁「レ
ゲエとの出逢い」参照。
注2 豊田との別れのいきさつは、いずれきっちりと「発見の会」サイドの見方を
出さなくてはと思っているが、彼が本格的活動を再開してしっかりと歩み出す
まで待ちたいと思う。残念なのは、私たちが豊田との「共同」に、なんらかの
衝動をもっているのに対して、彼の方では全くその気がないようだ。
注3
七年ぶりの芝居の再開に際して、全国の諸兄へあてたメッセージ、「発見の
全通話」および公演のチラシ・。パンフレット等の文章参照。本書256∼259
貢。
関係性の墓場かはたまた生成か
墓守兼トレーナーの「資料」篇として
三畳五千円の部屋に二十年近く、猫との共同生活 ーここ十年はカピタン・リュウと
名付けた白黒の大雄猫とのつき合いだがー をつづけている身にとって、駅前の新築ビ
ルの一室月八万円の家賃は、大決心だった。年に三、四十万円の稼ぎで生きのびてき
た者が、月最低の必要経費三十万円をひねり出すのは、想像もつかないことだ。
豊島区から借りた生業資金八十万円の他は、会員制にして、一口一万円のウリウ治
療室の入会金を集めてまわって、二百万円近くになったのが大きな支えとなった。十
口、二十口とやってくれる人や、遠い地方からの送金もあった。こうした人々の支え
と、私の見さかいのないオッチョコチョイが、スタートを切らせた。
治城室は、非日常の遊びの空間、私の旅の一節だ。三畳間を出て治療室でヒョイと
診察衣をまとうと、一瞬のうちにこの世の深みを覗く旅人となる。人々との関係性の
結晶である、治療室の空間のありがたさが了解されればされるほど、ますます過激な
遊びとなる他はない。先日開設二周年記念の集まりをやったが芝居に片足をかけ、月
二十日足らずの半端なやり方で、よくもまあつぶれずにつづいたという痛切な実感が
ある。ここまで支えてくれた人々の想いや、三年間に相まみえた六名の死者の霊に対
して、私はもはや引き返しのきかぬ所までただよい出ていて、治療の場においても、
自由な関係性のどんじりまで、突走ってみる他はなさそうだ。
「老残の自由の戦士たち」
「発見の会」で鍛えられた感性や論理が、つまりはお互いの好き勝手を断固保証し
合うという基本的なテーマが、生命の根源とも深いかかわりをもっていることを再発
見できたことも嬉しいことだ。快い方向へ身体を動かし、快い温度で内臓を調整する
という、快感をペースにして身体の内外の歪みを正す、「操体法」と「綜統医学」と
いう生命の根幹を見抜いている驚嘆すべき宝の山に出違って、もし芝居屋の自由勝手
な二十年がなかったなら、私にとってこれほどの深い「共感」や「了解」に達するこ
とはできなかっただろう。 注1
生命とはあくことのない快への前進運動で、生きとし生けるもの全ては、自己の快
感を頻りに自己の快領域の保持安定に全力を上げている。そして、自己を生かしつく
すことと、他者を生かしつくすこととが、切っても切れない同義のものとして、「生
命の循環系」が、「喰み合いの関係」が、「共存共同の交流」が成り立っている。生
の究極に死の充足があり、快楽の究極に死の楽しさがある。「医療」の究極は、「死
の楽しさ」を保証することだという私の独断は、決して突飛なものではない。
ついでにいうと、老残の「自由の戦士」たちが、残り火の性愛や関係性の夢をかき
立てながら、お互いの死を見とり合う「関係性の墓場」が「発見の会」のゆきつく果
ての姿であろう。これから出逢う人々と、いままで出逢った全ての人たちと共に、永
遠の自由の場への旅立ちを見守って、私は最後の一息までこの「墓場」の墓守の勤め
を果したいと思う。
一九七八年に芝居を再開して以来、三年間に七回の公演をもった。①上杉清文作
『不純異星交遊』(一九七八年七月二十日∼二十三日四谷公会堂)②今野勉作『一宿
一飯』(一九七九年一月二十日∼ 二十四日四谷公会堂)「新宿熱い冬参加」注2 ③
上杉清文作『熱中爆烈時代』(一九七九年十一月八日∼十七日林泉寺)④西村仁作
『茯苓は叫びたり』(一九八〇年六月二十日∼二十二日池袋シアターグリーン)⑤筒
井康隆作『ヒノマル酒場』(一九八〇年九月十二日∼十四日方南会館)⑥上杉清文作
『よろめきの星座』(一九八一年四月一日∼ 四日キッドアイラックホール)⑦シェイ
クスピア作・岩田宏訳『十二夜』(一九八一年十月十六日∼十九日明石スタジオ)
だ。
私は①③⑦の演出を担当し、他は立川好治たちがやっている。注3
「会」ができ上りつつある
『十二夜』を演ったのは、この連載のおかげだ。「舞芸座」の分裂騒ぎで上演中止
になった岩田宏訳の台本が、この連載のための資料整理の時ひょっこり出てきて、皆
と相談すると「やろうやろう」ということになって、私は二十年来の借りを返すこと
ができた。私にはいまや、新たな演劇戦線や演劇言語を切り開くといった気概はな
い。それは若い連中にまかせて、「発見の会」の歴史や軌跡の基本形を提供すること
と、私なりに身につけた芝居の組立て方を生かした、トレーナー的役割を果すこと
だ。それにはシェイクスピアや南北が恰好のもののようで、この先何本かのシェイク
スピアを演ったあと、南北に取り組みたいと思っている。
さて『十二夜』だが、私はシェイクスピアの劇構造には一切手をつけずに、どこま
で自在に遊べるかということを試みた。なんだっていいわけだ。シェイクスピアだろ
うが、誰かの書き下ろしだろうが、クズカゴから拾い上けた新聞だろうが、ヒョイと
身にまとえば、変幻自在な私たちの遊びの場が幻出されてくる、そのためのキッカケ
さえあればいい。そのくらいには、私たちの関係は自由であるはずだからだ。
そして予想どおり、とても楽しい仕事になった。私もかなり勝手ないい方をした
が、皆それぞれが何かをもち寄って、おしつけがましい関係ではなく、各人のイメー
ジの重層化した場ができていくほのかな可能性があった。役者たちがのびのびと楽し
んだのはいうまでもないが、スタッフの作曲の長谷川健や杉田一夫が、公爵や警吏で
渋い役柄をつくり出し、美術の田口智朗が下僕フェビアンでとてつもない精神の躍動
を見せてくれ、舞台監督の立川好治が、最後に突然双生児の兄で現われて満場の笑い
をさらった。際限がないのでやめにするが、勝手な内輪ぼめではなく、「発見の会」
演劇のきわめて正当な典型だったといってもいい。
シェイクスピアの全作品をやったと有頂天になっている若いグループがあったが、
そいつらへの批判もこめて、なによりも六〇年代演劇を共につくってきた、唐十郎や
鈴木忠志や佐藤信などへの、私(たち)としてはめずらしく本腰の批評を提出したつ
もりなのだが、多分真当に受けとめる余裕も土壌もないのだろう。山下洋輔が「日本
読書新聞」評(一九八一年十二月七日号)で
「『古典』となった『作品』があり、それをとにかく『今』演ずる者がいる。そ
の『今』の表現のあり方への非常にあっけらかんとして気持ちの良いしかも大事な解
答が、この公演で示されているのだ」と書いてくれたのは、意を強くしてありがた
かった。ひょっとして、いま、もっともバランスのよい自由気ままな「発見の会」が
でき上りつつあるのかもしれない。どう、あなたもヒョイとやってみたら。
尻切れとんぼだが、息せき切って駆け抜けてきた「発見の会」の現場を、猛烈なス
ピードで追ってきて、やっとひとまずの形となった。粗雑なものだが、変な思惑や遠
慮は一切なく好き放題に書かせて貰った。編集部の熱意と「発見の会」にかかわった
人々の想いと、読者諸兄の寛容さにお礼を申し上げる。
評価の食いちがいは当然として、事実関係に多くの間ちがい思いちがいがあること
だろう。書き足りぬところや書き残しも多くある。できれば関心のある方々の「共
同」によって、ひとつの時代の「資料」にしていただきたい。
注1 「操体法」というのは、いまなお第一線で活躍している仙台の橋本敬三(明治三十
年生)という医師が、針灸・民間療法に共通している本質は、運動系(筋骨格系)
の歪みの調整にあることを発見し、享年の臨床経験と、東洋自然哲学に鍛えられた
鋭い洞察力とで、これら、全ての治療法の根元をみぬいた原理を体系化した。生命
はバランス現象であり、生命の本質は《快の維持安定》にある。《気持ちのいいこ
とは何をやったっていい》のだ。
息(呼吸)食(飲食)動(身体活動)想(精神活動)という、ヒトが生きていく
ため必要最小限の生活態度と環境との、五つの相互相関のバランスがくずれるとこ
ろにあらゆる病的傾斜の原因がある。これが生命の三十数億年の歴史的法則に背反
すると、生命エネルギーの収支のバランスがくずれ、身体に歪みができる。身体の
形態的変化に刺激された内圧の変化で、ホルモン・血液・神経系に生化学的変化が
起こり、痛みやしびれ、皮膚変化などの感覚異常が起きる。この段階で身体の異常
に気づく人もいれば、気づかない人もいる。やがて肩が上げにくいとか、便秘、下
痢、吐気、息切れといった機能異常となり、さらに進行すると潰瘍やガン化などの
器質の破壊がはじまる。ここでやっと気づいて、すでに復元不能になっている人も
いる。
身体の復元コースは四つの生活態度の違反を正す程度に応じ、努力に応じて回復
していく。操体法のやり方はいたって簡単だ。快い方向に身体を動かせばいい。そ
うすれば内部の生化学的レベルや器質変化のレベルまで波及していた病的異常が回
復する。そういうふうに身体はつくられている。ウソかホントかやってみればよく
わかることだ。 ヒトの身体は、全体をとっても、どこか任意の関節をとっても、
前後屈伸、左右屈伸、左右回旋それに伸ばす(牽引)のと、縮める(圧迫)この八
方向にしか動かない。身体を八方向に動かしてみて、いちばん気持ちよく動く方向
(痛みから逃げる方向)にゆっくり息を吐きながら動かしていって、快の可動域の
限界で息を吸い、ストンと息を吐ききると同時に全身のカを抜けばいい。これに
よって何十年もの身体の異常が、一挙に解決することもある。
大事なことは、日常生活では腰をまっすぐのばし、腰をカナメとして運動をす
る。そのためには手は小指に、足は拇指に力点をおく。急速、強力な運動は、呼気
か息を止めて行なうこと。屈曲運動(前後屈、左右屈)時には反対側に、伸展およ
び回旋時には同側に重心を移動させることだ。ラジオ体操のときなど上半身の左右
屈を皆まちがってやっている。
生命の本質を《快の維持安定》《快への回帰運動》としてみる「操体法」の原理
は、三十数億年の生命の根源的法則の再発見であり、私たちはいま全ての分野にわ
たって、この根源への立ちかえりを必要としている。
「綜統医学」は、昭和九年東大理工学部の学生だった多田政一が、生理学の知見
と、東洋医学の生命観とを綜合統一した治療学。戦後多田政一は治療をはなれ、政
治活動に専任したため、昭和九年以来の同志である今沢武人(明治三十年生)が後
をつぎ、綜統医学による五十年近い臨床経験を生かして理論的深化を進め、現在
「家庭医学協会」という全国組織の会長として、カクシャクと活躍している。
病的傾斜の原理は、操体法の教える、息、食、動、想、環の原則どおりだが、こ
ちらは生命の法則に背反した結果、内臓の歪みが起り、それが身体の歪みを引き起
こすという、操体法と表裏の関係にある
身体の多くの臓器のなかで、肝臓、腎臓、肺臓が、内臓の基礎構造であり、これ
らの臓器を悪くしないよう、息・食・動・想四つの生活態度を正しくして、病気に
なったときには、この三つの臓器の働きをよくしてやればいい。つまり、生きてい
くうえに絶対必要な栄養の総仕上げをする肝臓と、生体活動のあとの老廃物の跡始
末をする腎臓と、身体の免疫防御力(リンパ組織の働き)の中核をなす牌臓の働き
をよくする。
方法はきわめて簡単で、気持ちのいい温度で肝臓、腎臓を温め、気持ちのいい程
度に牌臓を冷やせばいい。これもウソかホントカやってみればいい。
注1 身体の内外の歪みを「気持ちのいい方向」や「気持ちのいい温度」で調整する、
快感をベースにした二つの方法は、とても簡単だが、私たちにはうかがい知れな
い、精密な生体の一大化学機能や、多元的な情報統合システムや、免疫防御機構を
実に巧妙に利用している。私の十年間の治療体験や、各地で出逢った難症の治効例
を考え合せると、薬や手術や放射線等の現代医学的治療では不可能な、偉大な生体
の自然治癒力(大手術も針治療もあらゆる治療は究極的にはこの力に依拠してい
る)を、最高度に引き出す方法だと断言してもいい。
私はこのニつの方法を、表裏一体のものとしてシステム化すべく、列島各地の
「操体法」「綜統医学」の実践家を訪ねて、体験の交流や教示をうけるなどの努力
をつづけている。