CCIII hrsg. am Institut für Cusanus

研究課題
現行の翻訳プロジェクト
研究代表者
中世思想研究所
1.
――
原典翻訳の意義
――
佐藤直子
新規の原典翻訳プロジェクトの目的及び背景
ここでは、中世思想研究所における新規の原典翻訳プロジェクト、『クザーヌス説教集』(仮題)の紹介と報告を行う。本研究所は19
92年から2002年にかけて、原典翻訳シリーズ『中世思想原典集成』
(全20巻+別巻、平凡社)を刊行した。時代精神を理解する上
で当時の原典の研究が最も基本的な方法であることから、本シリーズは西洋中世についての高度な学的理解を本邦に根付かせることに貢
献している。のみならず、各巻が再版を重ね、その成果をマス・メディアも取り上げた 1 ことが示すように、こうした原典翻訳は、中世
の専門研究に寄与するのみならず、本邦知識人の期待に広く応えるものでもある。
2.
ニコラウス・クザーヌスの説教翻訳の意図
現在、中世研究のみならず哲学史研究全体において、中世から近世へ移行の原動力と経緯の解明が重要課題の一つとなっている。本プ
ロジェクトは転換期である15世紀の一思想家の説教活動の全貌を明らかにすることを通して、この要請に応えていくものである。
2-1.
クザーヌス研究の意義
クザーヌスは、中世と近世の狭間で独自の体系を展開した――15世紀前半ではほぼ唯一の――思想家である。その全著作の批判校訂
版は1932年よりドイツで刊行されている。テキスト・クリティークより明らかであるのは、クザーヌスは古代・中世の多様な思潮―
―プラトン主義と新プラトン主義(アラブ思想を含む)、修道院神学、アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus 1193/1200-80)、ト
マス・アクィナス(Thomas Aquinas 1224/25-74)およびボナヴェントゥラ(Bonaventura 1217/21-74)による盛期スコラ主義、14世
紀の唯名論など――を創造的に統合していた、ということである。この統合は、その就学と活動の一拠点であったイタリアで彼が身につ
けた 人 文主 義的 姿 勢を もっ て 蒐集 され た 広範 な文 献 資料 に基 づ く。 彼は ま た、 マイ ス ター ・エ ッ クハ ルト ( Meister Eckhart 1260 頃
-1327/28)をはじめとするドイツ神秘主義思想の思想家の手稿も積極的に蒐集した。クザーヌスにおいてイタリア・ルネサンス的思潮と
中世末期のドイツ思想の接点も、容易に見出されるのである。のみならず、彼の思想の根底に備わる人間精神に対する反省的理解は、1
7世紀の大陸合理論さらには18世紀のドイツ観念論の先取りなので、その詳細の究明は超越論的問題意識とその歴史的推移とを浮き彫
りにする。このようにクザーヌスの著作の徹底研究は、西洋の精神史の結節点の考究としてきわめて重要である。
2-2.
クザーヌス説教の研究の必要性
クザーヌスの体系的著作のほとんどは独訳され、数編は邦語を含む他の近代語に翻訳されている。だが見落としてはならないことは、
彼の思索は修道院的静謐や講壇において構築されたのではなく、当時もっとも影響力のあった教会政治家の一人として、時代の矢面に立
ちつつ活動するなかで醸成されていったという点である。クザーヌスは、バーゼル公会議(1431-1449)での公会議派から教皇派への転向
(1437)以来、人生の大部分を教皇特使などとして旅中に置き、あるいは枢機卿、司教、教皇代理としての激務のうちに費やした。説教
はそうした任にある彼の主たる活動の一つであった。実に彼の著述の3分の1は説教原稿であり、その数は293にも及ぶ。
哲学・神学・霊性の優れた統合であるクザーヌスの説教には、キリスト教古代から中世の数多の著述家からの引用が縦横無尽に見られ、
彼の思想的源泉を如実に示す。またそこには、彼の著作の基本的なモチーフが時に著作に先立って現れる。それゆえクザーヌスの説教研
究は、彼の全生涯にわたる思想的展開を、その源泉から辿ることを可能にする。さらに彼の職分から、その説教には、当時の――彼の活
動範囲から、とくにイタリアとドイツ文化圏の――教会史上の諸問題と、宗教的メンタリティが際立った形で反映されている。
説教は、披瀝される時・場所・聴衆が限定されているという性格上、体系的に構造化された著作以上に、その当時の時代精神を体現す
る。クザーヌスが中世と近世の狭間で、時代の先頭に立って活躍した高位聖職者であることを考え合わせれば、その説教研究は一思想家
の全体像の解明という意味合いをはるかに超え、思想史、教会史研究に広く寄与するものとなる。その際に原典翻訳という手法は、まさ
しく原典に密着してなされるため、他のアプローチに比して研究者の予断を容れる余地は著しく少なくなる。それゆえクザーヌスの説教
翻訳は、クザーヌス自身と彼の生きた時代の全貌を現前させるためにきわめて有効である。
3.
実現に向けての本研究所の役割
このプロジェクト実現の諸段階において、本究所は母胎として中心的役割を担う。各翻訳者は批判校訂版 2 を定本に担当箇所を翻訳し、
定本の注を参考にしつつ、出典、クザーヌスの他の著作との関連を注記し、さらに読者の理解のために内容についての注を作成する。翻
訳者から原稿を受領したのちに研究所は訳文および注のチェックを行い、場合に添削を施すと同時に、翻訳者間での訳語、文体の統一を
図りつつ完全原稿を作成する。序文作成も今回は研究所が担当する予定である。さらに本プロジェクトには、翻訳者として、実績のある
研究者に加え、博士後期課程在籍の大学院生が参加している。こうした若手研究者を対象に、研究所は定期的に研究会を開催し、内容・
背景理解の深化と翻訳技術の向上に努めている。この研究会は、プロジェクト参加を促しつつ人材育成を図るという、本研究所が今後ま
すます自任すべき役割を果たしていく上でのモデル・ケースでもある。
2007年1月にトリア大学のInstitut für Cusanus-Forschungは、批判校訂版に基づいて説教122から203の独訳を出版した 3 。
本企画はこの海外の研究動向を踏まえたものでもある。時代の最先端の知が「説教」という形でその時代の要請に応えていく様を描き出
すことは、本邦における知の在り方の再認識を促す意味合いも持つ。このことはまた、キリスト教的ヒューマニズムを掲げつつ、本邦の
知の一翼を担う本学に優れて相応しい課題でもあろう。
2
『読売新聞』2008 年 4 月 24 日(木)朝刊、「日本の知力」.
Nicoali de Cusa Opera Omnia vol. XVI-vol. XIX に全説教が収録されている。
3
Nikolaus von Kues Predigten in Deutscher Übersetzung Bd. 3 Sermones CXXII- CCIII
1
vonW. A. Euler, K. Reinhardt und H. Schwaetzer, Aschendorff Münster 2007.
hrsg. am Institut für Cusanus-Forschung