音楽への愛に満ちた63歳の「青春」:アストル・ピアソラ

「わたしは若い人たちに対してはペシミスティックなんです」
なんでまた?
音楽の世界でも、この時代にあっては、若い人たちの嗜好を積極的に、しかも巧妙に取り入れた作
品が量産され、あたかも若者主導の傾向さえなくもないのに、一九二一年に生まれたアルゼンチンの
音楽家アストル・ピアソラは、そういう。
「今の若い人たちの多くには、易しいものばかりを手にいれたがるようなところがあります。その結
果、精神が飽和状態になって、たとえばベートーヴェンの音楽とか、オペラとか、あるいはピアソラ
の音楽をきくのが、億劫になっているんです。それで、マイケル・ジャクソンとかミック・ジャガー
などの、暴力的な精神に適した音楽をきくことになってしまうんですね」
このような言葉は、わからずやの頑固親父が口にしそうである。相手がその手の人間なら、そんな
ものですかと、軽くきき流せばいい。ところがそうではない。この言葉は、すでに長いこと、新しい
音楽の世界を切り開きつづけてきた、したがって保守的な姿勢からもっとも遠いところでその音楽を
展開してきた、ほかならぬアストル・ピアソラの言葉であった。
しかもピアソラは、あからさまに苛立ちの表情をうかべて、あるいは絶望的な口調で、そのように
いったわけではなかった。ピアソラは、むしろ淡々としたはなしぶりで、そういった。その言葉は、
悲憤慷慨した人の口からでたものではなかったので、胸にずしりと重く響いた。
では、そのような大胆な発言をするピアソラとは、いかなる背景をもった音楽家か。ピアソラは、
イタリア系移民の子として、アルゼンチンで生れ、幼い頃にニューヨークに移住した。ピアソラがア
ルゼンチンに戻ったのは、十六歳のときである。
「記憶に残っている最初の音楽的な体験といえば、ニューヨークにいたときですから、多分一九三〇
年頃だと思いますが、近所に住んでいたコンサート・ピアニストがひいてくれたバッハの音楽をきい
たことです」
やがてピアソラはタンゴの音楽家として活動を開始する。しかしながら、ピアソラの音楽は、伝統
的なタンゴに愛着を抱く人たちにとっては、とても許容しがたいものであった。あるとき、ピアソラ
が、アルゼンチンの町を歩いていた。すると、「タンゴ殺し!」という罵声とともに、小石が飛んで
きた。そのことからもあきらかなように、ピアソラの音楽はタンゴという音楽の枠を踏みこえたとこ
ろにある。
そして、今、ピアソラは、音楽とは「愛のようなものです」と、晴々とした表情でいいきり、さら
に、このようにいう、「したがってわたしにとっては、バンドネオンをひくということは、愛のおこ
ないです」。
音楽に対する並々ならぬ愛があるためか、ピアソラには、いわゆる還暦をすぎた人とは思えぬ活力
が感じられた。はなす声には張りがあり、そしてまたそのはなしぶりは限りなくしなやかであった。
ピアソラの瞳は、まるで好奇心旺盛な少年の瞳のように、きらきらと輝いていた。はなしをきいてい
て、相手が二十代の青年と錯覚しかねないようなオフ・ステージのピアソラであった。
しかし、ピアソラがその持前の尋常ならざる生気をあきらかにしたのは、むろん演奏会場でであっ
た。一九二一年生れのピアソラは、いかなる音楽家にもまして若若しく、彼の音楽を提示した。若い
人たちに対してペシミスティックであるといったピアソラの言葉は、ピアソラの永遠の若さがいわせ
た言葉であった。
僭越を承知のうえで、最後にひとこと、つけくわえさせていただく。昨年の十一月二十一日に、五
反田の簡易保険ホールでおこなわれた、ピアソラ五重奏団による演奏会の模様は、NHK がテレビと
FM 放送用に、収録した。放送日はまだ未定ということであるが、どうぞ、おみのがし、おききのが
しのないように。当日の演奏をきいているので、自信をもっていえるが、そこできけるのは、きく人
を圧倒せずにはおかない、まさに歴史的な名演奏である。
※「エル・ジャポン」1985 年 2 月号
1984 年のピアソラの演奏会は、後に「東京のアストル・ピアソラ」として CD 化されました。