悪魔を敗走させる てある箇所です。 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

悪魔を敗走させる
ヤコブ書の福音 8
悪魔を敗走させる
4:1-10
テーマは 7 節と 8 節から取りました。「だから、神に服従し、悪魔に反抗
しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づき
なさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」
悪魔が敗れて逃げて行くとか、神が近づくとか、何かとても抽象的な事柄
に思えますか。そうかも知れません。でもこの前の箇所で、特に 14 節の所で
したが、自分が人の賛嘆の的になれないと嫉妬心で膨れ上がる教師とか、自
分のファンを回りに集めて党派を牛耳りたい、卑しい根性の指導者について、
ヤコブが語ったと申しました。「内心ねたみ深く利己的であるなら」と訳し
てある箇所です。は「苦い嫉妬心」、は「自分を売
り込む卑しい態度。」ヤコブは一部の教師にそういう悲しい傾向を見たので
す。
この 4 章の「戦いや争い」というのも、人間不和と軋轢の根本原因……と
いうような一般論ではなく、多分その「派閥争いといがみ合い」の話が続い
ているのだと理解しました。これには、現代の代表的な二人の研究家―英
国のタスカーと、ドイツのシュナイダーの意見をも参考にいたしました。こ
れはあるいは現代の教会の中でも一歩間違えば同じ悲しい状態が再現されて
しまう可能性を持っています。私たちもやはり「襟を正して」聞かねばなら
ないのです。まず本文を味読してから、ヤコブの意味を噛み締めた上で、千
九百年のへだたりをつないで、この中に生きたメッセージがあるかどうか、
考えてみましょう。
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1.派閥争いと軋轢の根を掘り起こして見る。 :1-3.
1.何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたが
た自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。 2.あなたがた
は、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることが
できず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、 3.
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違っ
た動機で願い求めるからです。
「戦いや争い」は、新しい英訳で“conflicts and quarrels”(NEB)です
が、昔は“wars and fightings”と訳したものですから、戦争とか、人間が
戦い合う原因はここにある……という角度から見たものです。もちろん、応
用としてはそういう一般論としても当て嵌まりますから、間違いではありま
せんけれど、ヤコブは差し当たり、そこまで広げて考えなかったと思います。
彼が憂えたのは教会内で自分の信望と影響範囲を争う指導者たちの利己心と、
それを担いで張り合うグループの考え方が、この世の派閥作りのそれと同じ
だということでした。
ヤコブはこの卑しい根性の根が、「自らの欲望を遂げて満足したい執念」
だと、鋭く指摘しました。3 行目の「争い合う欲望」というところ、
は欲望そのものと言うより、「思いを遂げて満足する」執念です。普通は「快
楽」と訳すことが多いですがここでは「欲望」(:1)、「楽しみ」(:3)
と二通りに訳してあります。例えばどんな満足と楽しみがあったでしょう?
誰も無視できない教会の有力者となった満足感、私の信仰的判断に心ある人
は尊敬と畏れを持っているんだと張り合う人が、周りに賛嘆者の群れを集め
る。そういう強烈な人物が複数いて派閥ができる。あるいは一人の強烈な性
格の人がいて、その人の目の色を窺わずにはだれも動けない。個人の考えの
自由や行動の自由が縛られる。こんなのは、ヤコブの時代からあったのです
ね。ヤコブはそういう「思いを遂げて満足する」執念が、人間の頭も体も全
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部占領して、破壊大作戦をしているのだと表現します(:1)。
2 節と 3 節は、かなり飛躍して聞こえますが、趣旨は恐らく、真の祈りの
精神がない―自分の悲しさを正直に見据えて、謙遜に神に祈る祈りが無い
からだ、というのが 2 節。「いや、祈っている」と言うだろうが、それは祈
りではなくて、「自分の思いを遂げる」ための卑しい願望で神をゆすってい
るだけだ、というのが 3 節。同じことを、言葉を変えて厳しく反省を迫るの
でしょう。
4 行目の「人を殺します」は、実際に殺人が行われていた意味ではなくて、
その行き着く所は、憎くて殺したい殺意にたどりつく、あるいは人を殺して
いるのと事実上同じに悲惨なことだ、とヤコブは言うのでしょうか。山上の
説教で主がおっしゃったような意味に受け止めてみました。「昔の人は『殺
すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられた。しかし、わたしは言う。」
(マタイ 5:22)―あの趣旨です。
2.罪の世と同じ野心に引きずられる人へ……神は呼び掛ける。 :4-6.
話が切れずに続いているとすれば、やはり、クリスチャンの中で「自己の
欲望を遂げる」べく争い合う人に、向けられているのでしょう。とすると、
主はまだその悲しい人たちを見限ってはおられないのです。この世の精神に
引き込まれて神の敵となるな! まだ恵みを受ける道は残されている。
ここの切り出しの言葉「神に背いた者たち」は意訳としてまあこれで良い
と思います。聖書協会の口語訳は「不貞のやからよ。」これは耳でだけ聞く
と、別の字(不逞の輩)を想像させます。新改訳の「貞操のない人たち」の
方が意味が明瞭でしょうか。原文は「姦婦たちよ!」で現代式には「不倫の
妻たちよ」……これはホセア書などに見る預言者特有の表現です。「主なる
神への誠実を裏切った民」です。イエスのお言葉にも「よこしまで不貞の女
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のようなこの世代」と(マタイ 12:39)ありますから、この新共同訳の意訳
が、大体の意を尽くしているでしょう。フランシスコ会訳は「神を捨てた人々」
です。
4.神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知ら
ないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。 5.
それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、6.
もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。
「神は、高慢な者を敵とし、
謙遜な者には恵みをお与えになる。」
「世の友」は、この世と同じ考え方に引き込まれた同類です。神を否定す
る罪の世界の方が大事で、そこの生き方で私は十分。私はそれで行く、と言
う人です。その人は建前としては信仰を口にしながら、神を捨てて、神に憎
悪をぶつけた敵対者であることに気づかないか。その次の言葉が不思議な響
きを持っています。
二つの引用句はどう読んでも、「神はあなたをまだ大事に思っておられる。
心を謙遜にして戻って来るなら、恵みを与えようと待っておられるんだ」と
言うようです。後の方の 6 節の 2 行はペトロも引用(1ペトロ 5:5)してい
る詩篇の言葉(3:34)で、よく知られていた聖句でした。「高慢になるな。
自分の虚栄と欲望を遂げることしか考えられない悪魔の道具にされてしまう
な。自分の姿をはっきり見て、神の前に謙遜になれ。一度はそこまで落ちた
としても、それでもまだお捨てにならない神のお心に気づけ!」
でも最初の引用の方は、「聖書に次のように書かれている」とありますけ
れど、実はこれは旧約聖書には見当たりません。多分離散のユダヤ人にとっ
ては、長年会堂で親しんだ“教え歌”のような聖歌だったのかも知れません。
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広い意味での聖なる書に入ったのだろうと推測されています。これは、ホメ
ロスの叙事詩と似たエクサメトロス というリズムの詩になって
います。


“神様は私たちの中にどんなこの世の霊を入れることも許さない。それほ
ど、妬む位に大事に思って、御霊を与えて下さった。そんな悲しい姿になれ
ばなったで、なおさら大きな恵みをくださろうと愛で燃え上がっておられる”
とでもなりましょうか。神の敵になって党派心と利己心で空しくのぼせ上が
った人に、なお呼び掛けて謙遜にさせようとなさる神のお心を表したもので
しょう。
この後に続く言葉は、だから、その愛に気付いたら、悔い改めて帰って来
いという呼び掛けになります。
3.謙遜に神に服せば、悪魔の策略を崩す道がある。 :7-10.
悪魔の策略と言うのは、教会を派閥と軋轢の場に変えてしまおうという作
戦です。前回の 15 節にも書かれていましたが、そうやって醜い党派争いをし
ている当の本人が、自分では、優れた知恵を持って指導しているつもりでい
るが、そんなものは知恵でも何でもなくて、悪霊による悪魔的なものだ
()とありました。悲しいけれどもこれは、現にいろんな所で
起こっている悲劇です。その悪魔の恐るべき破壊作戦を完全に失敗させる道、
サタンを敗走させる道がここにあると……。
7.だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた
がたから逃げて行きます。 8.神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて
くださいます。罪人たち、手を清めなさい。 9.悲しみ、嘆き、泣きなさい。
笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。 10.主の前にへりくだりな
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さい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
悪魔の作戦をまず見抜いて、これと戦え。そして、その悪魔と戦うただ一
つの有効な戦略は、「神に近づくこと」だと。……「そうすれば、神は近つ
いてくださる」というのは、まず私たちが近づくのが条件で、こちらが近づ
かなければ近づいてはくださらない……ということがポイントなのではなく
て、ここは「悪魔が逃げ去る」と対句にして文章の形を合わせてあるのです
ね。本当の趣旨は、「神はあなたのすぐ近くにおられて、いつでも助けはそ
こにある。本気で頼る心を持てば、すぐ目の前にいらっしゃるのだ」という
ことが、「近づいてくださる」の第一の意味であります。ここは、これだけ
取り出してモットーにしたり、全国大会の主題にしたりしますと、どうも「近
づかないと、近づいてくださらないよ」という威しに使われますが……。8
月 5 日の朝のメッセージは今から、どう話したら皆さんのイメージを壊さな
いで、しかも正確な意図をお伝えできるか、心配になっています。前の講師
が「あなたの近づき方が真剣で、純粋でなければ無効なんだ!」という激し
い説教をなさったら、それも尊重して差し上げなければなりませんし、どう
しましょうね……。
私自身の理解は、ここの重点は、たとえば申命記の 4:7 のお言葉、「いつ
呼び求めても、近くにおられる我々の神、主……」とか、ローマ書の 10:18
「御言葉はあなたの近くにある。あなたの口に、あなたの心にあるんだ!」
というあれと同じだと思うのです。とにかく、極端にいうなら、ヤコブの過
激な言い方で「不倫の妻みたいに神に背いて世の友となる過ちを犯した者で
も、気がついて帰って来れば赦す。私はすぐそばにいるぞ。謙遜な祈りをも
し忘れていたら思い出せ」と、神は待っておられるのです。これを聞いたら、
「苦い嫉妬と己を売り込む」なんか持っていた人でも、自分の威信
や影響力を誇っていた派閥作りのリーダーでも、自分を賛嘆してくれるファ
ンの賛辞で辛うじて自信を保っていた有力者でも、雷に打たれたように罪を
恥じて、主の前にひざまずくことを、ヤコブは願っているのだと思います。
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ですから、次の「悲しみ、嘆き、泣きなさい」と言うのも、おおぎょうな
悔い改めのショーをやれということではなくて、そのキリストの変わらぬ愛
と、自分の虚栄や嫉妬心に気づいたら、もう泣くしかない位の虚しい自己の
姿にショックを受けるはず……という意味です。歴史を読むと、19 世紀のア
メリカのリバイバルなどでは、ここの趣旨がひどく曲げて利用されたようで
す。伝道集会では、決心者のために一番前の所に“mourners' bench”と呼
ばれる、ひざまずくための台があり、悔い改めた人はそこで大声を上げ、涙
を流して「悲しみ、嘆き、泣く」ように命じられたのでした。もちろん、そ
ういう表現が体質に合った人の場合は、それが悔い改めの自然な表現である
こともありましょう。しかし真剣な悔い改めがかならずしも、同じパターン
の激しい形を取るとは限らないのです。第2コリント書に言う「神の御心に
従う悲しみ」(7:9)は、人格の深い所で静かに起こることもありましょう。
ヤコブがここで「悲しむ」ことを命じているのは、軽薄な笑いを持つ“誇
れる者"たちに対してです。もし「神のお心に沿った悲しみ」を知ったら、「笑
いが止まらない」位にチヤホヤされて英雄顔をしていた指導者も、恥じて顔
を隠すだろう。「喜びを愁いに」の「愁い」は―これは顔うなだ
れて前も見る元気がない姿……夕べの千代の富士みたいな顔になる。これは
ヤコブのユーモアです。(註:1990 年 5 月 19 日,安芸ノ島に敗れたため,連
勝中の 2 横綱 4 大関の中で一人だけ 7 連勝を果たさなかった)
8 節の終わりの「二心の者どもよ」は原文“”、心が二つに分裂
した者よ、神でないものに愛と真実を捧げようとしている不実な者よで、新
改訳と口語訳が直訳に近いのですが、新共同訳は「心の定まらない者たちよ」
は少し和らげ過ぎですか……。これは本当は、前の「不倫の妻のような裏切
り者よ」の続きです。でも、そういう悲しい者に、「謙遜になって主に服せ
よ。主は恵みを下さろうとして待っておられる。身を低くせよ。主はあなた
を本当の意味で高めてくださる!」と呼び掛けているのですね。ヤコブ書と
いうと何でもかでも、命じて叱りつけていると思っていた人には、これは新
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鮮な驚きであります。
《 まとめの感想 》
間もなく 9 月に田中志郎さんが、守口教会での 1 年間の務めを終えて帰っ
て来られたら、皆さんの協力を得て、新しい時代の新しい計画を少しずつ考
えて行きたいと、楽しみにしています。もちろん、山本哲也さんにも助けで
頂きたいが、彼が上から使命を受けたら、どこへ遣わされるかは未定です。
大事な人だが、我々の独占物ではない。アンティオキア教会のパウロのよう
に、やがて聖霊が「この人から手を放して釈放せよ」とお命じになる時が来
ましょう。その点、田中志郎さんの方は(独占物だという訳じゃありません
が)、この大東に帰って務めを果たしたいというのが、今彼に与えられてい
るヴィジョンです。もしそれが実現したら……この 30 年間に主が与えてくだ
さった貴重なものは、できれば生かして行きたいですし、我々が壁に突き当
たって行き詰まったりマンネリの轍に嵌まっているかも知れない点はまた、
“新しい血”“new blood”の力を借りて、新鮮なアイディアとしっかりし
た方向づけが示されるかも知れません。
もちろん私も、まだお役に立つ間は、バトンを手渡しながらでも“伴走”
するつもりです。マタイとヤコブとペトロが終われば、ボケない限りは、ま
た短いシリーズを始める用意はあります。私は、織田家での父としての務め
は多分、今年中に最後の行事をめでたく終了して“打ち上げ”ですけれど、
主から与えられた務め―教会に仕える務めは、犬飼さんや中村さんや中川
さんたちと一緒に、必要とされる間は、そして主が解放してくださるまでは
続けたいと、楽しみにしています。ポール・クラークさんがよく使われる言
い方を借りれば、この教会もいよいよ“New Age”に入ろうとしています。
それがどんな形になって行くか……今までとはかなり変わっても良いわけで
す。私が向こう側に行った後のことも含めて、いろいろ想像を逞しくするの
は楽しいものです。
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過去を振り返るのは、老人くさくてあまり気乗りがしませんけれども、今
日のテーマと関連して一つ、主に感謝していることがあります。それはさっ
きのヤコブの言葉にあったような「派閥争いといがみ合い」みたいな間違い
から、この 30 年間守られて平和だったこと、そういう古典的な落とし穴に落
ちずに済んだことです。そんな瞬間が全く無かった訳ではありません。いろ
んな人が次々に来ては去って行きました。しかし、幸いにも今の私たちのこ
の交わりがこうして、ここにあります。
実は私たちの知る近い交わりの中でも、特定のリーダーと一緒に一つのグ
ループがゴッソリ離れたり、入れ代わったりした教会は二三あります。また
先々週は「当教会の牧師を解任しました」という通告が東京の都心にある教
会から来て、心を痛めました。先週は引き続いて、「この解任は無効である」
という通知が役員の一部と弁護士の連名で来ました。何億という財産の処分
がからまっているのも悲しいですが、私の知る 40 年のキリストの教会の歴史
で最も悲しい事件です。そんな醜い事件はそう幾つもある訳ではありません
が、強烈なパーソナリティと苦い党派心でチャウシェスクのように君臨する
指導者もあります。特定の有力者やマドンナにお伺いを立てずにことを進め
ると、婦人会でもパーティでもギクシャクする……そんな教会もあります。
私たちが小さい家庭的な交わりながら、派閥もいがみ合いも作らずに 30
年やって来たということは“奇跡”です。これは一つには、福音を伝える者
自身が“平凡”であまり強烈なパーソナリティじゃなかったことも幸いして
います。それに、一緒に皆さんに仕えて来た数人の大人たちが、そんな派閥
やファンを集めるほどカラーの強いヒーローでも女丈夫でもなかったことも、
感謝すべき恵みでした。これは御愛嬌とユーモアで申したのですが……。
本当は、これは主の憐れみ以外の何ものでもありません。私たちが聖書の
学びという一事に励んでいる間に、聖霊が「高慢な者を謙遜に」し、罪人以
外の何者でもない我々の「心と手を清め」て、苦い嫉妬心を私たちの心から
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取り除き、自分を売り込んで派閥の領袖にしてもらう卑しい根性などは入り
込む隙が無いように守ってくださったのです。悪魔が逃げて行ったのです。
主を第一にして、それ以外のものにシラケていられる余裕。イエス・キリス
トだけに愛と真実を捧げる交わり。人間を崇めて「二心を」持つ暇などない
教会を、主御自身が憐れんで与えて下さったのです。そしてもし許されるな
らば、この特色だけは 30 年後にも保存したいものです。
兄弟たちに仕える役目の人たちも、やがて年の順にヨルダンの向こうへ行
きます。新しい仕え人たちも次々に入って来て、長老たちの顔触れも変わり
ましょう。その中で、新しい伝道者を支える次の時代のリーダーたちに、こ
れまでと同じような、あるいはそれ以上に謙遜な人たちが輩出する時代であ
るように願っています。……これでヤメル訳ではありません。念のため。
(1990/05/20)
《研究者のための注》
1. (,複)は 1 節では「欲望」、3 節では「楽しみ」と二通りに訳されてい
ます。もともと「充足された欲望」また満足と快楽を指します。英“hedonism”はこ
の語に由来します。ここでは「充足された欲望」の喜びや満足感そのものというより
もそれを追及する意志を指しており、新共同訳が 1 節と 3 節で別の訳語を配して補っ
ているのも、そのためでありましょう。「欲望充足への執念」「快楽への意志」です。
2. (members)はここでは文字どおりの「肢体」の意味に理解しました。つま
り、種々の欲望の満足感を追及する意志が人間の体を戦場にして作戦を遂行
“”しているという絵になっているのでしょう。が複数で
あるのは人間の体(脳も含めて)でこの戦場にならない器官は一つもないことをいう
(Tasker)と理解しました。
3. は当時の教会で実際に殺人が行われていた意味ではないと判断しましたが、
字義どおりに解して生じる困難を除去すべく B 写本や Erasmus,Tyndale を含む一部
の研究家はこれをと読み替えましたが、本文の証拠から言って無理な読み
替 え で す 。 こ の く だ り は ま た 句 読 の 上 で も 問 題 を 提 供 す る 箇 所 で 、 UBS は
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と続けていますが邦訳の中でこの読み方を取るものは日本正
教会訳だけで、たいていはの後で切って、新共同訳のように訳します。
4.2 節のは、初めのは、戦い会うが求める欲求の対象を「得られな
い」、後のは、神が与えようとなさるもの、真に受けるべきものを「得られない」意
味に解しました。
5. は、マタイ 12:39 で主が言われたのよう
な比喩的な意味に理解しました。字義通りに解釈しようとした人たちは、これでは片
手落ちと考えて、を補った形跡が一部の写本に見られます。
6.「もっと豊かな恵みを」(6 節)のの意味についてはは「必要
が大きければ大きいほど、より大きな恵みを与えてくださる」と説明しています。
7.「神に近づく」と「手を清める」はいずれも、旧約の祭司たちの幕屋での儀式とつな
がる表現(出エジプト 19:22,30:20)でしょうが、前者はヘブライ 4:16 のように、
キリスト者一人一人に許される特権として、また後者はファリサイ派がしたような字
義的行為として(マルコ 7:3,4)ではなく、「具体的な生き方を清くする」意味で命
じられているものです。
8.新共同訳は巻末「用語解説」を見る限り「悪魔」と「悪霊」を区別していますが、「悪
霊を源とする」意味のは(多分の背後にあるに遡
って)「悪魔から出たもの」(3:15)と訳しています。
9.19 世紀米国のリバイバルで使われた“mourner's bench”については、私の「キリス
トの教会について─復帰運動の反省と分析」の 8 頁で触れています。
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