ビートルズの女性学

The Extension Course of the BEATLES Part2
Instructor : Toshinobu Fukuya
(Ube National College of Technology)
The 1st Session : Women whom Beatles Loved
8/10 2006
1
パティ・ポイド
ジョージの最初の妻。モデル兼俳優。映画『ハード・デイズ・ナイト』に、ビートルズ・ファン
の役で出演したことでジョージと出会う。ジョージの一目ぼれだったようで、彼はことあるごと
に「最高の女性だ」と語るほどの入れこみようだった。二人は、二年間の交際を経て、1966 年
1 月 21 日にヘザーヘッド・アンド・イーシャー登記所に結婚届けを提出している。付添い人は
ポールとマネージャーのブライアン・エプスタインが務めている。翌日ロンドンの空港で記者会
見を開いて結婚を報告し、パルパドス島へ新婚旅行に出かけた。
ロンドンの街を歩く2人
パルバドル島に遊ぶ2人
幸せな結婚生活は長くは続かず、1970 年代に入ると 2 人の間にすれ違いが顕著になって
くる。そのときパティは、ジョージの親友であったエリック・クラプトンに相談をもちかける。クラ
プトンは、はじめは彼女を慰めていたが、やがてその同情は愛情に変わり、親友の妻を愛し
てしまったことで悩むようになる。その葛藤を描いた歌が "Layla" である。曲中の主人公レイ
ラとはパティその人に他ならない。
ジョージとパティとの夫婦仲はついに破綻をきたし、1974 年に別居。パティはやがてクラプ
トンと暮すようになり、1977 年にはジョージと正式に離婚。1979 年 5 月にクラプトンと結婚する。
クラプトンのもう一つの代表曲 "Wonderful Tonight" には、パティを得た喜びが歌いこまれて
いる。
レイラを演奏するクラプトン
2
オリビア・トリニダード・アライアス
ジョージの二番目の妻。ジョージは、パティとの仲が冷え切っていたさなか、A&M レコード
に勤めていたオリビア・アライアスに出会っている。彼女は東洋思想にも深い関心を抱いてい
た女性であった。やがてジョージにみそめられて、彼が立ち上げたレコード会社ダーク・ホー
スの秘書となる。パティへの別れを告げた曲 "By By Love" が収められたアルバム『ダーク・
ホース』には、クレジットとしてオリビアの名前が登場している。
1978 年 8 月、オリビアとの間に男の子が誕生する。インド音楽の音階から "dha" と "ni"
をとって ダニーと命名。翌月、ヘンリー・オン・テムズの登記所でジョージとオリビアは正式に
結婚した。立会人は、オリビアの両親と息子のダニーという、簡素で静かな式であった。
空港での3人の家族写真
ジョージがパティと別れた 1974 年頃は、ジョージの精神状態はかなりひどい状態にあった
ようだ。時にはブランデーのボトルを一本空ける夜もあったという。他にもいろいろ無茶な馬鹿
騒ぎをしたようだ。ツアーとアルコールと喧騒のなかで、ジョージの喉は痛んでいき、気がつい
てみたら一人になっていた。それがオリビアと出会って、すべてがいい方向に向かい始める。
1979 年のアルバム『慈愛の輝き』のなかに収められた「ダーク・スウィート・レディ」は、オリビ
アに捧げられた曲。当時のジョージの心境が以下のように歌われている。
君が現われて、助け出してくれた
だめになりそうなときに、君が突然現われた
君がいなかったら、ぼくはどうなっていたかわからない
子供が誕生したことも、ジョージには大変大きな力をもたらした。「素晴らしい出来事だった
よ。子供を持つと誰でも自分の子が一番と思うようだけど、僕もまさにそうなんだ。子供と過ご
す時間はとても楽しい。ジョンが自分の時間を、できる限りわが子の成長を見守るために使い
たい気持ちがよくわかるよ」と、インタビューに答えている。
3
モーリーン・コックス
リンゴの最初の妻。リンゴがリバプールのロック・シーンで活躍し始めた頃からの恋人で、
1965 年 2 月にリンゴと結婚。
モーリーンは、15 歳から美容師見習いとして働いていたが、ロックが大好きで、リンゴのス
テージもよく見ていたという。ある日、通勤途中にリンゴを見かけ、サインをもらったのがきっ
かけで、リンゴがデートに誘うようになり交際を開始。ビートルズの成功後、モーリーンの存在
は秘密にされていたが、リンゴが扁桃腺の手術で入院したときにずっと付き添ったことで、リン
ゴは結婚を決意したという。ザック、ジェイソン、リーの3人の子供をもうけるが、1975 年に離
婚。1994 年に白血病で他界した。
結婚式とボブ・ディランのコンサートにおける2人
バーバラ・バック
リンゴの二番目の妻。1946 年、ニューヨーク生まれ。1972 年にイタリアで女優としてのキャ
リアをスタートさせる。英語による映画に出演したのは、1975 年からであり、国際的に活躍す
るようになり、1977 年の『007/私が愛したスパイ』ではボンド・ガールを演じた。最初の夫であ
るイタリア人実業家とのあいだに 2 人の子供をもうけていたが、その後離婚。1980 年に『おか
しなおかしな石器人』でリンゴと共演したのち、1981 年に結婚した。
しだいに2人とも役者としての仕事から遠ざかるが、バーバラが公に姿を見せるのはチャ
リティーの場が多い。安全食品を求めるキャンペーン、ファッション・エイド他、リンゴとともに
多数の慈善事業に協力している。
映画『おかしなおかしな石器人』からのひとこま
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しかし、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。リンゴは、ソロになってから、
アルバムのレコーディング中、スタジオで絶えずアルコールを口にしていた。このアルコール
依存症によって、社会生活が困難になり、そのうちに家から一歩も出られなくなった。そして、
夫の飲酒を止める側にいたバーバラまでが同じような症状に陥ってしまった。このままでは命
が危ないとおもったリンゴは、1998 年、バーバラをともなってアリゾナ州にある専門のリハビ
リ・センターの門を叩いた。そして 2 人で集中的な治療を受け、依存症を克服した。晴れて全
快したあとは、酒もタバコもコーヒーもやめ、ベジタリアンになった。
健康を回復したリンゴとバーバラ
ジェーン・アッシャー
ポールの婚約者であったが、結局結婚までは至らなかった。ロンドン生まれ。上品な私立
女子学校、クィーンズ・カレッジで教育を受けた。1960 年、ウエスト・エンドの舞台でそれまで
の最年少女優として、ウェンディ役で『ピーター・パン』に出演、1961 年には評判になったルイ
ス・ギルバートの映画『グリーン・ゲイジ・サマー』に出演し、ポールと出会った頃には、女優と
してその名を知られるようになっていた。
1963 年、BBC は自局の番組『ジューク・ボックス・ジュリー』において、ゲスト解答者で 17
歳の女優ジェーン・アッシャーをビートルズとともにレンズの前に立たせた。ジェーンは不思議
な魅力を持っていた。ティーンエイジャーらしいエネルギーを持ち合わせながら、若さに似合
わない自信も感じられたという。普通の 17 歳の少女よりもずっと洗練されていた。その上、彼
女はとびきりの美人だった。番組が終わると、ジェーンは楽屋でビートルズと合流した。
ポールは、「唯一、暗記していたチョーサーの一節をさりげなく暗証してみせたのがよかっ
たのかな。彼女なら意味も分かっていただろうし。うん、きっとそうだ!」と出会いを振りかえっ
ている。中世文学を代表する作家の一節をポールをして口に出させたところに、ジェーンの知
性的雰囲気が鮮やかに読み取れる。
このような出会いによって始まった 2 人の交際は、すぐにマスコミの知れるところとなった。
プリンス・オブ・ウェールズ劇場にニール・サイモンの『ネヴァー・トゥ・レイト』を一緒に見に来
ていたのをカメラに捕らえられたのであった。以来、2 人は、時代のシンボルを求めるマスコミ
の格好のターゲットとなった。ポールとジェーンはお洒落なカップルであった。そしてお洒落な
ロンドンの扉は、彼らに開かれていた。
結婚するのが当然と思われていたポールとジェーンであったが、1967 年 6 月にプリンスト
ル・オールド・ヴィクのアメリカ公演から帰国したジェーンは、「ポールは変わってしまった。私
には想像もつかない LSD をやっていたし、家の様子もすっかり変わって、私の知らないものが
いっぱい詰まっているの」とマスコミに語った。ポールは、当時、アメリカのカウンター・カルチ
ャーの洗礼を受けて、ドラッグ・カルチャーの真ん中に身をおいていたのであった。そのなか
から生まれたのが、アルバム『サージャント・ペッパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド』であ
った。
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フラワー・チルドレン風のたたずまいのポールとジェーン
その後、ポールとジェーンは、6 週間のギリシャ旅行で関係の修復を図ろうとした。それは
婚約発表という形で実を結んだかにみえたが、結局 2 人は結婚には至らなかった。都会的な
ジェーンには、土着的なヒッピー文化は生理的に受けつけられないものだったかも知れない。
リンダ・イーストマン
リンダ・イーストマンは、ニューヨークの裕福な一家に育った。リンダの父、リー・イーストマ
ンはショウ・ビジネスの世界で活躍する弁護士であった。しかし、リンダはビジネスより芸術を
好み、地位や名誉より自然や動物を好む女性に育った。そんな彼女ゆえに、写真家の道を選
んだ。
ポールとの出会いは、1967 年 5 月、ニューヨークでのライブハウスであった。彼女はニュー
ヨークで撮影したことのあるアニマルズと一緒に来ていたのであったが、ポールが「僕らはこ
れから別のクラブに行くんだけど、君も来ない?」と誘ったのがきっかけとなった。その後、リ
ンダは、彼女のニューヨークをポールに見せて歩いた。街角のバーや食堂、ピザ屋に軽食屋。
今でもニューヨークのホテルに滞在すると、ポールは、ワッフルとパンケーキとコーヒーと絞り
たてのオレンジ・ジュースといったニューヨーク式の朝食を食べに出かけるという。
1969 年 3 月、ポールとリンダは結婚。リンダは、写真家としての仕事はそれを機会に止め
ている。1971 年、ウイングス結成の際、キーボード・プレイヤーとして参加。以来ポールととも
にバンド活動を展開していく。
ウイングス時代のポールとリンダ
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世界的成功を納めたウイングスの活動の合間をぬって、ポールとリンダは 1966 年に購入
して以来荒れ放題になっていたスコットランドの農場に手を加え、余暇を過ごすようになって
いった。1973 年の「愛しのヘレン」では、スコットランドの農場からロンドンの家まで車で戻って
くるときの道のりが歌われている。
スコットランドの農場でのリンダ
リンダは、環境保護運動にも興味を持ち始め、数々のイベントに参加していった。しかし、
1995 年、乳癌におかされていることが発覚し、手術を受けた。その後いく度かは公の場に姿
を見せたが、癌は肝臓に転移し、1998 年 4 月、休暇を過ごしていたアリゾナの農場で亡くなっ
た。ポールは自伝『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』のあとがきにおいて、「リンダに最後にこう
言いました。『君はあの美しいアルパーサ馬に乗ってるんだよ。素敵な春の日だ』。そう言い
終わるか終わらないうちに、彼女は目を閉じ、そっと去っていきました」と書いている。
ヘザー(通称)
2002 年 6 月、ポールは還暦直前に、ヘザー(通称)と結婚。結婚式は、アイルランドのモナ
ガン郡にある、絵のように美しいレスリー城で行われた。ポールがそこを選んだのは、彼がテ
ィーンエイジャーの頃になくなった母メアリーの家族のルーツが、ここから程近いキャスルブレ
ニーであったゆえである。
結婚式でキスを交わすポールとヘイザー
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ジョージ、リンゴ、ポールの愛した女性について述べてきたが、一つのパターンが浮き上が
ってくる。それは、3 人のビートルズが 1960 年代に愛した、パティ、モーリーン、ジェーンは当
時活気に溢れていたスゥインギング・ロンドンの息吹を全身に漂わせていた女性たちであり、
主に 1970 年代以降をともに過ごした女性たちは、程度の差こそあれ、母性を漂わせた女性で
あった。しかし、ジョンは、最初から母性に溢れる女性を愛した。この点が他の 3 人のビートル
ズと決定的に違う点である。
シンシア・パウエル
1939 年リバプール近郊のブラックプール生まれ。ジョンより一歳上である。ジョンに出会っ
たのは、学生時代であった。彼女は当時を振り返って手記のなかで以下のようにジョンの印
象と彼に抱いた恋心を綴っている。
ジョンのことは最初は好きではありませんでした。片方の肩にギター、もう片方の肩
はくたくたのリュックサックという姿で、いつも何かにせかされているように、それでいて
我が物顔で、校内を大股で歩いていました。私には理解できないタイプの男の子でし
た。彼が怖かったのです。でも、同時に心ひかれるものがありました。あんな人に会っ
たのは初めてだったのです。
ジョンは痩せていて、リーゼントにした黒い髪は、くしを入れてなかったのか、後ろの
ほうで少しはねていました。私がそれに気づくと同時に、隣に座っていたヘレンもそれ
に気がついて、笑いながら手を伸ばし、ジョンのはねた髪をなでつけました。その時で
す。彼女の指がジョンの髪に触れた瞬間、私の胸は激しい嫉妬で焼けるように熱くなっ
たのです。自分にはどうにもならない、不可解な感情でした。
シンシアとジョンはこうして出会い、つき合うようになった。彼女は、アマチュア時代のジョン、
ハンブルグ修行時代のジョン、そして世界のアイドルになった 1960 年代前半のジョンを影から
支えた。1962 年にはジョンと結婚し、翌年には息子ジュリアンが生まれたが、当時の「アイド
ルに妻がいるのはよくない」というマネジャーのブライアン・エプスタインの方針で、ジョンが家
庭をもっていることは、デビュー後数年間秘密にされ続けた。
家族3人の家庭的スナップ写真
ジョンがオノ・ヨーコに出会った 1966 年頃から、シンシアは夫婦の絆が細くなっていくのを
察したという。そこでシンシアは、自らジョンのもとを去っていく。しかし、その後もシンシア・レ
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ノンと名のり続けた。ジョンの亡き後、手記を発表。その手記は、初期のビートルズを裏側か
ら捕らえた貴重な資料となっている。ヨーコさえ、簡潔かつ豊かな筆致に感銘を受け、読みふ
けってしまったという。
手記を発表した当時のシンシア
オノ・ヨーコ
1932 年、東京の裕福な家庭に生まれる。コンセプチュアル・アーテストとして活動。1966 年、
ロンドンのインディカ・ギャラリーで個展を開いた際、街を歩いていたジョンが偶然立ち寄った
のが出会いであった。1969 年にジブラルタルで結婚式をあげる。その直後、アムステルダム・
ヒルトン・ホテルで「ベッド・イン」と銘うったイベントをジョンとともに敢行。また、プラスティック・
オノ・バンドにも参加し、ジョンとの共同制作のアルバムにも力を注いだ。1980 年に発売した
アルバム『ダブル・ファンタジー』は、あまりにも有名。加えて、息子ショーンが生まれた後、ジ
ョンがハウス・ハズバンドに徹していた5年間、ジョンの財政管理を一手に引き受け、ビジネス
面での実務的能力の高さも披露している。
ジョンの死後も精力的に平和運動に参画し、現在も、彼女独自の視点から平和へのメッセ
ージを送り続けている。オノ・ヨーコは、間違いなく、「ビートルズが愛した女たち」のなかで最
強の女性である。
ベッド・イン中のジョンとヨーコ
現在のオノ・ヨーコ
ジョンが射殺されたとき、ヨーコはポールとジョンの育ての親、ミミおばさんとシンシアに直
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接電話している。ジョンの死後ヨーコとシンシアのあいだには、憎しみを越えた大人の女性ど
うしの共感が生まれているのかもしれない。息子を交えた家族ぐるみの交際が現在でも続い
ている。
左からヨーコ、ジュリアン、ショーン、シンシア
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