調べて GO! 志筑たんけん隊

調 べ て GO!
志筑たんけん隊
志筑小
4年
秋山遥
浅野琴美
石井敬太
市ノ澤翔一
梅沢幸斗
大山陽人
釜津田優花
久保田健太
小松崎永遠
杉本梨奈
鈴木花佳
冨田明日香
友常瑞稀
長澤龍人
中島綾香
一
安達未来
中島唯
沼田博樹
長谷川晴香
長谷川莉子 松信祐里
宮本あさみ
森ヶ崎美紀
山口泰生一
はじめに
総合的な学習で「志筑の歴史を調べよう」をテーマにみんなで手分けしてい
ろいろなことを調べ始めたのですがなかなか先に進めることができずにいまし
た。ちょうど、社会科の学習で昔の道具について調べるために郷土資料館に行
きました。そこで、学芸員の千葉さんに、「志筑は昔から人があこがれるすば
ら し い と こ ろ だ っ た ん だ よ 。」と 言 わ れ て 急 に み ん な の や る 気 が 高 ま り ま し た 。
また、毎年行われている秋田との交流を前に、志筑と秋田との関係について
もよく知りたいという気持ちで学習を進めることになりました。
二
調べること
(一)志筑城の歴史
(二)志筑小の歴史
(三)志筑の地域について
(四)志筑の自然
三
調べる方法
(一)参考になる本をさがして調べる。
(二)学芸員の千葉さんの話を聞く。
(三)インターネットで調べる。
(四)石ひなどを調べる。
(五)家の人や近所のお年寄りから話を聞く。
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四
わかったこと
(一)志筑城の歴史
志 筑 か ら 恋 瀬 川 と 筑 波 山 が 見 え る 景 色 は と て も 美 し く 、昔 か ら た く さ ん の 歌
人がその景色や様子を歌にしました。この歌を鑑賞した多くの人々がイメージ
をふくらませ、志筑の地を訪れたそうです。また、江戸時代にも「志筑は常陸
の名所なり」といわれ、多くの人々があこがれて集まるところでした。
一三〇〇年代には志筑氏という武将がいました。
一六〇〇年代になると、徳川家康が日本をおさめ将軍になりました。家康は
秋田の本堂茂親(しげちか)氏に国替え(今でいう転勤)を命じました。茂親
は奥州(今の秋田県)から500㎞もはなれた常陸の国(今の茨城県)の志筑
藩の領主になりました。志筑の地は茂親の希望もあっったようです。(初めに
言われた佐竹領は交通も不便で山が多いところだったので)
茂親が志筑に到着したときはそこに城はなく土地は荒れほうだいでした。そ
こで、下佐谷の威徳寺(えいとくじ)に入り、その後、中佐谷の笠松というと
ころに陣屋(本堂氏が仕事をするところ)を作りました。
しかし、本堂氏はしばらくの間、領主の証拠である『朱印状』を渡されなか
ったため、志筑の人たちから領主と認められず、反感を持たれ、たいへんだっ
たそうです。
一六二五年にやっと『朱印状』をもらうことができました。そのときは志筑
のお百姓さん達を招いて盛大にパーティーをしたそうです。このときから秋田
から来た領主と、地元志筑の人たちは仲良くなりました。ちなみにこのお祝い
の行事は毎年正月に行われ、幕末まで続いたそうです。
一六四五年に今の志筑小学校の場所にあった下河辺氏(しもこうべし)の城
あとに陣屋をかまえました。
以降、本堂氏は十代二七〇年続きました。茂親が来たばかりには八五〇〇石
の 旗 本 で し た が 、 十 代 目 の 親 久( ち か ひ さ )は 活 や く し 一 八 六 八 年( 明 治 二 年 )
一万石に増加され、出世して大名になりました。この頃の国をかえていくため
の大活やくが認められて高浜の方まで領土になったそうです。(家臣としては
兵藤さんのご先祖が京都へ行ったり来たりして活躍したのだそうです。)
一八七一年廃藩置県の制度ができ、志筑藩はなくなりました。親久は引き続
き、志筑県知事になりました。
初代藩主茂親、四代、九代、十代藩主は小学校のすぐ近くにある志筑長興寺
に埋そうされています。長興寺のお坊さんは秋田県からつれてきた方だったそ
うです。そのせいでしょうか長興寺のまわりに住んでいる人は先祖が秋田だと
いう人が多いそうです。
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(二)志筑小の歴史
志筑小は明治七年(一八七四年)今から一三六年前に家塾として建てら
れました。はじめの頃は「中志筑学校」といわれました。
生徒は二五,六名で月謝は月二円。
明治九年に公立の『志筑小学校』ができました。
〈校章〉
本校の敷地は鎌倉時代南郡の地頭である下河辺政義の築城によるもの
で、その後本堂茂親が秋田県から来て明治初年までここで暮らしました。
本 堂 家 は 源 頼 朝 の 直 流 で 、笹 り ん ど う を も ん ど こ ろ と し ま し た 。明 治 二 十
六年ここに開校したのを記念して笹りんどうを校章としました。
〈校訓〉
明治四十五年に制定したものは
着実・協同・熱心・勤勉・礼儀
昭和四十年に制定したもの
明るく
校
昭 和
根強く 正しく
校
訓
3 0 年 運 動 会 遊 技
3
章
〈生徒数〉
昭和三十年度の卒業生が一番多く九十名もいました。
〈クラブ活動〉
小鳥クラブ・編み物クラブ・美術クラブ・音楽クラブ
書道クラブ・発明クラブ・手芸クラブ・採集クラブ
人形劇クラブ・体育クラブ
〈委員会活動〉
放送・気象・花だん・広報・図書・保健・
育・購買・給食・
飼育・集会
〈写真からわかったこと〉
ク ラ ブ は 今 と は ち が い ま す が 、委 員 会 は 昔 も 今 ほ と ん ど 同 じ も の が あ り
ま し た 。書 き 初 め 集 会 や 音 楽 会 や 運 動 会 ,遠 足 な ど 行 事 も 同 じ よ う な も
のがあったことがわかりました。
明 治 の 頃 の 卒 業 記 念 写 真 は 男 女 と も 着 物 を 着 て い ま す 。明 治 四 十 四 年 の
写 真 は 十 六 人 の う ち 女 の 人 が 二 人 し か い ま せ ん で し た 。男 子 は は か ま を
は い て い ま す 。大 正 時 代 の 写 真 は 男 女 が 半 々 で 女 子 は み ん な は か ま を は
い て い ま す 。先 生 た ち は 学 生 服 を 着 て い ま す 。昭 和 二 十 七 年 の 東 京 遠 足
の写真はみんな制服を着ています昭和四十年代になると女子はスカー
トをはいています。
今 の 校 舎 の 前 は 木 造 校 舎 で 今 の プ ー ル の あ た り に あ り ま し た 。今 の 校 舎
は昭和四十四年にできました。昭和四十六年にはプールもできました。
体育館ができる前はランチルームで入学式を行っていました。
昔 の 運 動 会 は は だ し で 走 っ て い ま し た 。授 業 参 観 に き て い る お 母 さ ん た
ちはほとんどの人が着物を着ていました。給食の牛乳はびんでした。
昔は小学校と中学校がいっしょだった。
(三)志筑の地域
志筑地区の地図を見るとは田や畑がたくさんあることが分かります。
志筑で一番おいしいくて有名なのは「くり」です。
中志筑・下志筑・上志筑・五反田・横堀大峰・高倉粟田の六つの地区でできて
います。
志筑地区の人口二六二一人。〈昭和四十九年は二八三五人)
世帯数八四三軒。
寺は三つ、神社は八つあります。初代の長興寺のお坊さんは本堂氏が秋田県か
らつれてきた方だったそうです。(長興寺のまわりに住んでいる人は先祖が秋
田だという人が多いそうです。)本堂氏が氏神とした八幡神社や、下志筑の文
珠院などが有名です。
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(四)志筑の自然
志筑の自慢の一つは美しい景色です。特に「庭に茂った古い木々」と校歌で
も歌われているように校庭のまわりにはたくさんの木があります。その中でも
ひときわ目立つ中庭のくすの木は志筑小のシンボルといってもよいと思いま
す。
この木は樹齢三〇〇年から四〇〇年くらいの太さだそうです。このあたりに
はくすの木は少なく、しかもあれだけ大きな木はあまりないことから茂親が植
えた(種をまいた?)ものかもしれないと聞きました。秋田の本堂城には巨
大なくすの木があると聞いて、本当のことを調べる手段はないけれどとても興
味がわきました。
また、中志筑の通りは本堂さんがつくったと知りました。この通りを筑波山
方面に向かう景色は秋田県美郷町の本堂城近くの真昼山に向かう通りの景色と
とてもよくにています。
このようなことから、茂親は遠いふるさとの景色を志筑に再現したかったの
だろうと聞きました。
鉄 筋 校 舎 昭 和
五
4 5
年
今 の く す の 木
感想
昔の志筑小のことを調べました。歴代の校長先生(二八代までいます)や今
と昔の違いをいっぱい知ることができました。木造校舎から今の校舎になって
来年からは新校舎に引っ越します。この学校の場所にこのような歴史があった
ことがわかってうれしかったです。そして、もっといろいろなことを知りたく
なりました。
新しい学校ができるところは昔焼き物をした跡があるのだそうです。その土
で何か焼き物などをしたいと思いました。
〈参考にした資料〉
写真で見る学校百年史 志筑小学校
九十年のあゆみ
志筑小学校
本堂氏と志筑
志筑と文殊院
かすみがうら市郷土資料館
かすみがうら市郷土資料館
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