ホテルタバエジプト

蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
山形浩生訳
この本はベンとシャーロットのために
Page 1
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
序
きみたち読者のだれかが、あの影のテロルを通じて世界を支配する謎の集団、公衆というも
のの一員なら、お願いだからこの本がぼくの他の二、三冊のように、売春というもっとも正直
な形の愛を少し扱っているからというだけで、検閲の糸を引っ張らないでほしい――偽善的な
人なら、この主題はちょっと考えただけで語り尽くせると思うかもしれない――あるいは、考
えるまでもなく、という方が好都合か――でも真実はと言えば、公衆のメンバー(むろんお道
具という意味でのメンバーだよ)より少なくとも十三倍以上の種類の娼婦がいるのだ。立ち止
まって、その公衆すべて(といっても大人の、妙に管状に長いマウスピースをぶら下げた連中)
を愛でてみようか?
木々の下をのぞいて、ぼくは何億もの種を観察する。その多くは、呼び
名をとった昆虫とはちがって、夜だけにしか飛ばない:さなぎの段階ではしばしば、まばゆい
絹のまゆに包まれている。それでもあるものは生き、あるものは死に、あるものは金の心配な
どとるに足らぬものであることを学ぶ!――ああ、ぼくのプリズムのようなタテハチョウ、ぼ
くの横脈走るミノガ、おいしい肛門血管を持ったぼくのセシウムチョウよ、なんといっても世
界はかくも悲しいまでに大きいというのに、残酷なまでに想像力の欠けた鱗し目研究者たちど
もときたら、どうしてありきたりの分類用コルク・ボードなんかにきみたちをピン止めしてし
まえるのだろう。ぼくはそんな罪は犯すまい。だから、繰り返しを恐れるな。越えるべき血の
海やクリームの海は、いくらも残っている。もしこの広告が不十分であるなら、ぼくとしては
ミミズのようなお詫びの巻きひげをさしのべ、作家は自分の知っていることについて書くほか
はなく、このぼくはどんな対象についても何も知らない以上、ぼくがどこに耽溺しようとほと
んど何の意味もないのだというのを根拠に、伏してご辛抱を乞うしかない。
きみの友だち
Page 2
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
蝶少年
獣たちが導き出す結論は、単純な経験主義者の結論とまったく同じだ。前
に起こったことは、かれらが似ていると感じた状況下ではもう一度起こると
主張し、同じ原理が作用しているかどうかを見極める力を持たない。だから
こそ、獣を捕まえるのは実に簡単なのだ・・・
G・W・ライプニッツ
『新論集』への序文(1703-5)
1.
傾く植物群の下には、逃亡者たちが隠れる濡れた土のギャラリーがあった。逃亡者た
ちは動物のようにあえぎ、はだかで震え、見上げる葉は生い茂り、エンドウマメのさやより淡
い茎がお互いのサインを編み上げている。全員が再び捕まったわけではない。その家族は、か
れら抜きでアメリカ軍爆撃クレーターにブルドーザーで生き埋めにされなければならなかった。
ミミズまじりの土が血塗れの土の上から、何も動かなくなるまで押さえつけられ、奴隷たちは
その土まんじゅうが落ちつくまで一月、そこで働くのを禁じられた。奴隷たちも、どうせそこ
に行きたい気はしなかった。水牛は水田で、食べ物を探して水をはねている。水牛は大切だっ
た。奴隷のほうはといえば、かれらについてスローガンがあった。生きていても何の得にもな
らない。死んでも何の損もない。そういうわけで、奴隷たちは絶対的な沈黙の規則を守った。
一月たつと、かれらは墓場にキャッサバを植えに送り出された。一方で、逃げおおせた連中は
一時間ごとに、闇の群がる斑点だらけの葉の屋根の下をタイに向かって隠れ進み、縁は緑の紫
葉の下をくぐりぬけ、銅のように固い金の果実をかわしていた。時には地雷にやられ、時には
ヘビにやられた。地雷がロシア製が中国製かはどうでもよくて、どちらも人を、煙に縁取られ
た突然の炎で包みこむ。でもヘビはありとあらゆる種類がやってきて、おもしろい死は保証付
きだった。あるヘビは、噛まれてから一日だけ生き延びさせてくれる。あるヘビは一時間で殺
す。倒れて死ぬまで二歩歩けるのもいる。ヘビから生き延びた人々はタイに向かって逃げ続け
た。そこでは、もし運がよければ、鉄条網の檻に入るのを許してもらえるのだ。逃げながら、
この人たちはシダのきつい湿った臭いにあえいだ。落ちた花が赤、黄色と、ひざまで深いシダ
のじゅうたんの中に横たわる。とても高湿なところだと、木の幹からコケが生えて、それが折
り重なってラズベリーのように積みあがる。そういう場所からシダが芽吹いて、シダにはクモ
が巣をつくって、巣の中ではクモが待ち受けていた。毒グモもいればそうでないのも。時には、
クモから生き延びた人たちが道に迷って、空き地にでるとそこでは死刑執行人たちがあつらえ
たように待ちうけている、なんてこともあった。爆弾の穴の縁のまわりでは、豊かにおい茂っ
た草が、自分の湿った重みで頭をたれ、暗い星形の葉をした木が、恐怖の地平でそれと出会う。
Page 3
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
人々は叫び出す。墓場には一列縦隊で向かうよう命令が下される。時に死刑執行人は、サトウ
ヤシの木の剃刀並に鋭い葉で、かれらの腹や子宮を切り開く。時にはピッケルであれらの頭蓋
骨を叩き潰す。これに特に習熟した執行人たちは、「コマ」と称する技を実行して楽しんだ。
人の背後に立って、うまい具合に頭蓋骨を叩き潰すと、相手は倒れながらくるくる回って、死
にゆく目でこちらを見上げるのだ。時には銃床で殴り殺した。時には崖から突き落とした。時
には木にはりつけにした。時には皮をむいて、まだ悲鳴をあげている犠牲者の肝臓を喰った。
時には濡れタオルで頭をくるんで、ゆっくり窒息させた。時には切り刻んだ。
2、
蝶少年は、こんなことは少しも知らなかった。まずはまだ七歳で、別の国にいたから
で、それともう一つは、これがまだ起こっていなかったから。死人を初めてみるのすら、あと
二年先の話だった。
3、
蝶少年は、書取競争で「バクテリア」という単語の綴りを知っていたので、二年生の
時は人気がなかった。だから他の男の子たちは少年をぶちのめした。それと、蝶少年は女の子
が好きだった。二年生の男の子は女の子が大嫌いのはずなのに、少年はまるでそんなことなく
て、だからほかの男の子たちは蝶少年を軽蔑した。
4、
ジャングルがあって、拷問による殺人があったけれど、蝶少年はそんなことは知らな
かった。でも、自分を毎日いじめる学校のいじめっ子のことは知っていた。すぐさま蝶少年は、
身を守るすべなどないことを悟った。いじめっ子は自分より強くてすばやかった。蝶少年はけ
んかの仕方を知らなかった。いじめっ子になぐられても、なぐりかえそうなどと思ったことさ
えなかった。腕を使って顔と腹をできるだけ守ろうとして、それと泣くまいとした。もしいじ
めっ子の二人きりだったら、たぶん泣いただろう。蝶少年から見たいじめっ子は、大力無双の
無慈悲な力であり、それに比べたら自分はどうしようもなく無力で邪悪な神への生け贄にも等
しく、だから相手の前で泣いても何を恥じることもなかったから。でも、ほかの男の子たちは
まわりを取り囲んで、蝶少年がぶちのめされるのを眺めるのが大好きだったので、泣かなかっ
た。みんなは蝶少年にとって同輩だったから――もちろん、男の子たちはそうとは思っていな
かった。学校の他の男の子たちにとって、蝶少年はあまりに低級で醜悪で、人間ですらなかっ
た。
Page 4
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
5、
いじめっ子は知恵遅れだった。四年生を三回落第していた。だから小学校のだれより
も、ずっと大きくて強かった。冬になると用務員が、運動場の雪を隅に集めて一つの大きな山
にして、この山は二月か三月頃には学校の柵より高い、氷の山へと凍り付く。いじめっ子はこ
の山を自分の王国と宣言した。この凍ったみぞれの汚い青い山のてっぺんに立ち、犠牲者を選
び出すのだけれど、その選別アルゴリズムは蝶少年が成長して、どの娼婦と恋に落ちるべきか
を決めるようになった時のアルゴリズムと似ているかもしれない。でもいじめっ子は、鷲の学
校で勉強してきたかのようだった。こぶだらけの頭を間欠的にひきつるように動かし、ほとん
どまばたきせず、拷問できそうなヤツを見つけると鳥のように甲高い声をあげて、腕を翼状に
広げる。男の子の歩き方、靴の色をはじめ、道のさまざまな基準がその険しい小さな目で検分
され、やがてその悪意にふさわしいごみクズ野郎を選び出す。いつもは真っ先に蝶少年だった
が、時にはだれか別の子だったりもした。そのだれか別の子と蝶少年が仲間になると思うかも
しれないけれど、そういうことは絶対に起きなかった。いじめっ子にいじめられた者は、極度
に辱められて貶められるから、もはや何の役にもたたない存在となってしまうのだ。いじめら
れるという悪徳によって、その子はあまりに唾棄すべき存在となってしまうので、他の唾棄す
べき存在の連中さえ、その子を我慢できなくなってしまうのだ。
6、
だから蝶少年の遊び相手といったら、女の子たちだけだった。少年は女の子たちが大
好きだった。ときどき女の子たちにキスしたし、ときどきはキスされた。時には、強い女の子
たちがいじめっ子からかれをかばってくれさえした。でも、これは蝶少年を一層惨めにするだ
けだった。女の子にかばわれるという余計な汚名を堪え忍ぶより、鼻血を流して帰るほうがま
しだった。
7、
だから蝶少年の喜びは、一人きりのものだった。ある晩、巨大なオオカバマダラチョ
ウが、家の入り口の階段のてっぺんに降り立ち、少年はそれを一時間ながめ続けた。そいつは
ドアマットにとまって、豪華な羽をゆっくり動かし続けた。とっても幸せそうだった。そして
宙に舞い上がって、二度と見かけることはなかった。少年はその蝶を一生忘れることはなかっ
た。
8、
終業のチャイムが鳴った。子供たちは、嬉しげな叫びをあげ、ランチボックスをカタ
Page 5
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
カタいわせながら、湿って泥だらけの廊下に怒涛のように飛び出した。超少年がオーバーシュ
ーズのバックルを半ばまでとめかけたところで、女の子がきて手伝ってくれた。バックルの中
には歪んでいたり、ちょっとさびていたりするものもあった。毎日この女の子は、一番むずか
しいやつをはめてくれた。外のドアは子供たちが雪のなかに駆け出すたびにバタンと開いては
閉じた。湯気をあげて待つスクールバスが、ストロボ像のようにチラチラ見えかくれしたけれ
ど、その黄色は書き取り用に配られる HB 鉛筆の黄色よりさらにまぶしく自己主張する、あの春
雨の中の真新しい豪華な黄色さほどは黄色くなかった。べとつく雪片はバスを色あせさせ霜を
つくり、なにかはにかみがちでレモンゴールドの存在に仕立て、その淡い黄色のヘッドライト
に照らされた吹雪のなかを泳ぎ抜けるにふさわしくなっていた。
うちにくる?
いつ?
と女の子。
と蝶少年はびっくりして言った。
いま。
女の子が最後のバックルを締めてくれるのを、蝶少年は気恥ずかしそうに見おろした。――
いいよ、と少年。
女の子とバスに乗りこむと、なにかすばらしくいけないことをしているような感じがした。
女の子のバスに描かれた黒い数字は、蝶少年のとはちがっていたし、運転手もちがっていた。
黒いビニールシートの臭いもちがっていた。チューインガムがくっついている場所もちがって
いた。バスに乗ってくる子供たちもちがっていた。もっと静かで幸せそうで、もっと完璧な子
たちに思えた。少年を放っておいてくれた。
いつも乗るバスが先に発車して、それを見ると蝶少年は一瞬不安になった。お父さんやお母
さんに怒られるかも。
女の子は、初めてのところに少年を連れていこうとしていた。二人とも仲良くランチボック
スをひざにのせて、おとなしく並んで座り、白い冬の丘や農家や、雪を振り払っている馬の横
を過ぎた。木の一部は、ケーキに砂糖を振った程度に雪を軽くかぶっているだけだったけれど、
その下で雪の荷をしょいこまされた木は、まるで雪だるまか丸々したひな鳥のようだった。小
さな常緑樹が厚く雪に包まれて、まるで脳が逆立ちしているようなのの横を通り、その作用で
バスの窓から入りこむ光は漂白されていたから、女の子が急に少年の方を向いたときには、彼
女の顔は大理石の天使みたいで、その木を通り過ぎてしまうとその顔立ちも、もっとバラ色の
光の波動に従うのだった。なぜ、何をしているのかわけもわからないまま、少年はいきなり女
の子の温かな髪に顔を埋めた。女の子はすごく真剣な顔で少年を見た。この未知の地にますま
す入りこむに連れて、雪もますます深くなり、あたりは暗くなり始めた。少年は女の子の横で、
とことん幸せだった。バスは生徒をおろすので、さっきより頻繁に停まるようになった。もう、
ほとんど空っぽだった。それからまた、雪だらけの畑の端に沿って、長い間停まらずに走り続
けた。沈む太陽の方角の窪地に、池が見えた。その氷の表面が割れて、黒い運河ができている。
――うちの犬は、あそこで遊ぶのが好きなんだよ、と少女が言った。――巨大でなだらかな丘
が、遠くで夕日に照らされていた。そのふもとには、急な屋根の農業用さしかけ小屋と、凍り
Page 6
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
かけた池や木のある広い畑があって、そこの木は遠くに行くほど霜が厚くなっていくのだった。
二人は丘のふもとにさらに近づいて、そこで女の子が白い家を指さした。――あそこがうち、
と彼女。
もう夕暮れ遅くで、バスが二人をおろした時には寒くなってきていた。――ここからちょっ
と歩くの、と女の子。――女の子の後について、むきだしで広々とした森の中をくねくね走る
広い道をのぼっていった。道は雪のため、魅力的なほど純白でクリームっぽくて、学校で使う
ノートの紙みたいだった。蝶少年は、ミトンをはめた手で丸や円を描いた。――行きましょう
よ、と女の子。あたしのもの、いろいろ見せたいし。――道はまがりくねりながら、雪まみれ
の陰を通って二人を導きつつ、だんだん急になった。白くなった枝が頭上にたれさがり、そし
て今一度カーブを曲がると、また畑に出て女の子の家が見えた。――悲しいな、朝につくった
足跡を見てほしかったのに。雪に埋もれちゃってる、と女の子。
蝶少年は、この子が自分のことをとても好きなんだと気がついた。女の子の方を見ないよう
にして、後について家に入ったけれど、穏やかで温かい喜びが全身を包んでいた。
あら、だれ?
と女の子のお母さんがびっくりして言った。
夕ごはんをいっしょに食べるの、と女の子が説明した。
女の子は少年を自分の部屋につれてあがり、くすくす笑いながら、洋服だんすの引き出しを
開けて、きちんとたたんだ白いパンツを見せてくれた。女の子のパンツを見るのは初めてだっ
た。あの蝶を見たときと同じくらい嬉しかった。特別の秘密が自分に明かされたのだ。
その後、夕ごはんの時間まで、かれと女の子はお話の本をいっしょに読んだ。どうしても殺
せない五人のシナの兄弟たちの本があった。一人は溺れ死にさせられようとしたけれど、海の
水を全部飲んでしまった。ページに描かれているのは夜の場面で、児童書特有の豊かな顔料で
輝いていて、明かりをともしたフルーツボウルのようだった。人々は鋤を木陰にたてかけて、
淀んだ池に飛びこむ。そして腕一杯の頭蓋骨を持ってあがってくる。茶色い川の橋の向こうで
には、白いモニュメントがクメールの墓石のように立っている。そこで死刑執行人たち(黒い
パジャマのやせたまじめな男たち)は、シナの兄弟を溺れさせようとしていた。兄弟を針金で
後ろ手に縛り、頭を水に押しこむのだけれど、兄弟は頬をふくらませてそれをみんな飲んでし
まう。白い牙のぎらつく、獅子のあぎとの前ですら、兄弟を傷つけることはできなかった。機
会に乗じて子供たちがお祭り騒ぎを始め、太鼓を叩き、電柱についたオレンジ型の裸電球一個
で照らされただけの汚い通りを、はだしで飛び跳ねていた。黒パジャマの男たちが、鉄の棒で
電球を叩き割りにやってきたのには気がついていなかった。シナの兄弟はまだ飲み続けている。
水位はどんどんさがってきた。橋の上では、片足の男の子が松葉杖によりかかり、驚嘆してい
る。背景には黄金の寺があって、柱にはにやつく石の顔が彫ってある。他に羽の生えた動物た
ちが襲いかかろうとしている。黒パジャマのやせた少年たちが、それをつるはしでたたき落と
している。明かりのない差しかけ屋根の下にすわる人々の前には暗い格子があって、女の子た
ちが笑っていた。かれらが食べているテーブルは、インゲンやライム、黄色い花、コショウの
小鉢、とうがらしの小鉢、箸でごったがえし、みんなスープにその全部を入れて、小さな四角
Page 7
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
い背なしの椅子にすわって、背後では大きなスープの鉢がもっと湯気をたてている。背を向け
ていたので、黒パジャマの男たちが機関銃をもってやってくるのが見えなかった。蝶少年は、
白人以外の人間を見たことがなかった。シナの人って、みんなこういう超自然の力を持ってい
るのかしら、と思った。
これがあたしの一番好きな絵、と女の子はページをめくり、別の殺せないシナの兄弟ががけ
っぷちから突き落とされている絵を見せた。がけの壁面は、ロウにつけたみたいにギラつく濃
い緑のヤシの木でおおわれ、その木の間にはつややかな闇があり、そこを子供たちがはだしで
逃げまどう。シャツが熱いそよ風の中で清潔にまばゆくはためく。ヤシの木が振り子のように
揺れる。黒パジャマの男たちが子供たちを待ち受けていた。バナナの葉が緑の日除けとなる。
そして中景には、星座のように輝く露まみれの葉を持つ茂みや、幾色もの光を放つ緑の星。そ
の下に、赤さび色の花かたまりが、暗い灰色っぽい緑の葉のレース状の迷路にのっかっていて、
そのすべてが暗い水面に向かって傾き、その水が白く泡立ってやってくる、幅の広い白い滝を、
シナの兄弟は微笑みおろして絶叫。
蝶少年は、この絵を女の子と長いこと見ていた。そして顔を伏せた。
――きみのパンツ、
また見ていい?
9、
次の年、学区が変わって、だからもうその女の子には会わなかった。別の女の子が、
樹脂ムシをつくろうと言って家に呼んでくれた。少年が持っているのはプラスチック樹脂だけ
だったけれど、女の子の方は別の、焼くとゴムキャンデーになるやつを持っていた。二人でア
リのキャンデーやカナブンやクモのキャンデーをつくって食べて、少年はとっても幸せだった。
でも、その子を自分の家に呼ぶのは恐かった。女の子と遊ぶなんてお母さんたちがどう思うか
わかんなかったからで、だからその子も少年を呼ばなくなった。
10、
いじめっ子は吠えて、雪と氷の山から駆け下り、いっぱいにのばした腕で蝶少年を攻
撃した。いじめっ子のパーカは毎年同じだった。かれの親は一度もそれを洗わないみたいで、
だからドロドロに汚れていた。それと、もう小さくなっていた。いじめっ子は怪物みたいな毛
むくじゃらな腕をしていて、赤紫の顔一面に黄色い歯をはやしていた。かれは蝶少年を殴り倒
し、その腹にすわった。そして顔にツバをはきかけだした。ツバを吐いて吐いて、その間、他
の少年たちは歓声をあげた。それからいじめっ子は蝶少年の眼鏡をとって、割った。蝶少年の
鼻を血が出るまでなぐりつけた。それから立ち上がった。そして蝶少年の腹に飛び乗って、蝶
少年はゲロを吐いた。みんな笑った。それでいじめっ子は蝶少年を放してくれた。蝶少年は鎖
の柵の遠くの角に行って、自分にかかった血とゲロを落とそうとした。
Page 8
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
11、
また転んだの?
と蝶少年の母親はあぜんとして言った。
うん。
今度はどうしたのよ。
知らない。ころんじゃったの。
眼鏡をかえさせたほうがいいかもね、と母親は父親に言った。
12、
もう休み時間に外に出たくないです、と蝶少年。
出なきゃだめよ、と先生。
どうして?
だってここにわたしといたら、自分の身のまもりかたを覚えられないでしょう。
だって、仕方ないでしょう。出ていけば必ずぶちのめされるんです。今もぼくを待ってるん
です。
先生はコーヒーをすすり、蝶少年を半人間の状態から成長させるような、奇跡のような戦略
を考えつこうとした。でも何もおもいつかなかった。
じゃあ、今日はわたしといてもいいけど。でも今日だけよ。
ありがとうございます、と蝶少年は感謝して言った。
先生は、一学年上の子たちが読んでいる教科書を読ませてくれた。『外国の人たち』という
本で、そこで見かけたのは半ば影におおわれた脇道で、木陰ではシクロの上で運転手たちが休
んでいて、足指には暑い日差しが照りつけ、中空ブロックが街角に積まれ、でもそこで大時計
の長針がカチッと音をたてて、気がつくと蝶少年は、はやくも明日の休み時間をこわがってい
るのだった。
13、
汚れた小山のてっぺんで、いじめっ子はしゃがみ、腕をワシのように羽ばたかせ、ブ
ツブツつぶやいていた。生け贄を求めて校庭に目を走らせつつ、頭がガクガクと前後に動いた。
かれの魂なる物質は苦痛でできていた。物質の最も根元的な快楽は、自分自身の複製を見るか
夢見ることなので、いじめっ子は他人に苦痛を与えることで己を満足させたのである。かれが
知覚して解釈できるのは、これで証明された。そうでなければ、どうやって他人の苦悶に魅入
られることができようか。しかしながら、もし一部の哲学者の行いを真似て、つまりは記憶が
意識の不可欠な一部だとするなら、いじめっ子に意識があったかどうかは断定できない。攻撃
Page 9
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
のしかたはいつもまったく同じだったし、蝶少年の苦痛からまったく同じ快楽を引き出してい
るようだった。意識的な快楽は、これとは逆に、刺激の継続的で絶え間ない増加を必要とする
ようだ。快楽をもたらす感覚と、埋めこまれた感覚の記憶との比較のため、その感覚の価値が
だんだん逓減するからだ。これでお高い審美家どもが、駆け出しの数年を過ぎると必ずコンド
ームを嫌うようになって、結果として性病をわずらってしまう理由が説明つく。
蝶少年はオーバーシューズのバックルを留めるのに、なるべく時間をかけた(もう今では全
部のバックルを自分で留められた)。ほかの子たちが叫んでいた。出てこい!
弱虫め!
恐いのかよ、
――少年が出てくると、みんな拍手して叫びだした。そして期待しつつ、いじめっ
子の住む氷の山のほうに頭をめぐらす。いじめっ子は下唇をガチガチ噛みだした。目をギョロ
つかせる。そして金切り声をあげて、腕をあげ、死のように蝶少年に襲いかかった。
その子に手を出すんじゃないわよ!
と上級生の女の子が怒鳴った。彼女はいじめっ子に駆
け寄ると、思いっきり殴った。いじめっ子は後ずさった。そして派手に泣き出した。一瞬で、
他の男の子たちは蝶少年のことを忘れた。そして嬉々としていじめっ子に雪玉を投げつけ、ろ
くでもないバカな精薄呼ばわりした。いじめっ子はすわった。かれのまわりの雪に、湯気たつ
黄色のしみが広がっていった。男の子たちは笑い、女の子たちはひそひそ話をした。
蝶少年は、敵への攻撃には加わらなかった。校庭の女の子たちの遊び場に行って、さっきの
上級生の女の子の横におずおずと立った。
あなた、ここじゃ遊べないわよ、と上級生の子は言った。でもあなた、女の子だったらよか
ったのに。そしたらいっしょに遊べたのに。だってあなた、すごく可愛いんだもん。
蝶少年は黙っていた。そしてゆっくりと他の男の子たちのほうへ戻っていった。
14
男の子たちは女の子たちに宣戦布告した。女はブス。女は弱虫。女はいるだけで校庭
が汚れる。男が女と同じ空気を吸わされるというだけでも我慢ならない。男の子たちは女の子
たちを追いかけ、叫んでは凍りついたアスファルトに転ばせ、髪を引っ張った。わめきながら
女の子たちも引っかき返した。銃床とつるはしの組織的キャンペーンというわけではなかった。
なぜならこれらの男の子たちは、やがて立派なイーグルスカウトになって、焚き火をおこし、
ジャングル・グリーンの制服ではねまわり、たいまつをかかげて煙信号で、いろんな女の子の
胸のサイズについて会話をすて、お互いのネッカチーフ・リングを盗み、相手の顔におならを
かけ、迷子にもならずに森の中を更新する子たちだったから。だから屋内でコーヒーをすすり、
ごくたまに窓の外を見るだけの先生にとっては、生徒たちはまったくいつもと同様に遊んでい
るだけで、ちょっといつもより荒っぽいかな、というくらい。女の子たちはなわとびをしてい
なくて、これはちょっと変だったけれど、でもこれまで毎日なわとびをしていたんだから、変
でないかもしれず、非常に精力的に男の子たちと混ざっているようで、これはとてもよいこと
だわ、と先生は考え、そして彼女は正しかったのかもしれない、なぜなら始業ベルが鳴って生
Page 10
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
徒たちが戻ってきてみると、みんな痣以上の深刻なけがはまったくなく、つまりは要するにみ
んな楽しんでいたらしということになるのだから。そこでみんなは上級生の女の子をつかまえ、
どうしようかと思案した。そこで蝶少年のことを思い出した。 ――あいつにキスさせようぜ!
と男の子が叫んだ。
みんなとしては、辱めていじめたかったのだ。女の子は、キスされればいたぶられることに
なる。だってキスがばっちいのは宇宙的真理だったし、みんなの見ている前なんだから。蝶少
年もこの手続きによって強姦されるわけだけれど、みんなの道具となることで、ちょっと地位
が向上してしまう可能性も残念ながらあった。それでも全体として、この仕掛けはエレガント
で実際的でもあった。こういう知恵には感心するしかない。
まったく同じ理由で、みんなは自分たちの一人を使ってこの辱めを下そうとはしなかった。
蝶少年に手出しをしなかったのだ。かれは自分たちの一員ではなかった。蝶少年に一番近いの
は、あのいじめっ子だった。蝶少年は不可触賎民で売春婦で、土を喰うやつだった。したがっ
て無理強いする必要はなかった。みんなが蝶少年に要求したことは気持ち悪いことで、蝶少年
は気持ち悪いヤツなんだから、あいつは自分から進んでやるはず。そうなったら、何も問題は
ない。なにか犯罪が行われたとしても、それはあいつのせいであって、みんなのせいじゃない。
――またもや知恵の勝利。
そして計算通り。この生き物には、自由意志も勇気も自信も、かけらもありゃしない。呼ん
だら来やがった。
引き延ばせば、休み時間の終わりのベルが鳴る可能性はあった。でも、あまりゆっくり歩く
と、もっとひどい目にあわされるかもしれず、だからかれが見つめるうちに、自分のツヤツヤ
した黒いオーバーシューズの先っぽは、つくりものの熱意をもって白い雪を踏みしめるのだっ
た。一歩ごとに校庭は縮み、自分ともう一人の犠牲者との間の儀式的な結びつきが深まった。
男の子たちの輪がせばまった。みんな叫んでいて、それから静かになって、女の子が叫んで、
それからみんなもまた叫んだ。それから静かに道を開けて、蝶少年を通した。少年は、みんな
の目を見なかった。見つめていたのは、もう叫びもあらがいもせずにしゃがんでいる女の子だ
けだった。上級生の男の子が、彼女の髪を強く引っ張った。
もうほとんど彼女の目の前にきていて、自分でも何をするつもりなのか全然わからなかった。
でも、何をすべきか知るのは少年の役目ではなかった。かれの行為が、赤トウガラシのように、
ペニスのように、熱帯の蘭のめしべのように屹立するのだ。もちろん少年は、こういうことば
では考えなかった。かれはそもそも考えなかった。世界はいまや、自分のオーバーシューズの
爪先と、女の子のひきつった顔の間の傾いた平面の大きさしかなかった。歯を恐怖と憎悪に食
いしばり、首は木の幹みたいにセーターの襟首までこわばっていた。男の子たちの逃れがたい
手の中で、身をよじってあえぎ、かれに向き合うために息を吸いこんだので、鼻の穴がほとん
どぺったんこになっていて、蝶少年はもう一歩踏み出して、もうこれ以上一歩も踏み出せなく
なった。男の子たちの手が離れ、みんなの輪が肛門のように二人をしめつけた。みんな、まち
がいなく彼女が発狂して、逃げまどい、蝶少年を蹴って引っかいてかきむしるのが見たかった
Page 11
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
のだ(彼女が逃げ出す心配はなかった)。彼女の目はしっかりと、細い線にまで閉じられた。
蝶少年がだれかもわからず、覚えてもいないようだった。少年はゆっくりと彼女に手をのばし、
パーカのフードを頭にかぶせてやった。彼女がふるえていることしかわからなかったから。そ
して彼女は一瞬、少年をにらみつけ、犬が水をふりはらって身体を乾かすように頭をゆすって
フードを落とし、少年は彼女を抱きしめた。
かれは、唯一知っているやりかたで少女にキスした。お母さんのほっぺたやおばさんのほっ
ぺたや、家に訪ねてくるご婦人たちみんなのほっぺたにキスするように。(他の男の子たちは、
嫌悪のうめきを盛大にあげた)。彼女に何かが起きるのが感じられたけれど、なんだかわから
なかった。少年は言った。好きです。
すると少女も決然と少年を抱きしめかえしてきた。
――あたしも好きよ、と少女。
男の子たちは、ほとんど正真正銘の吐く音をだしてみせた。恐怖でげんこつをかかげた。
先生が見てるぞ!
と男の子の一人が叫んだ。
いじめっ子をつれてこい!
いじめっ子!
いじめっ子は自分の小山から、吠えつつ急降下してきて、みんなは後ずさりしてラインを形
成し、自分たちに累が及ばないようにしたけれど、蝶少年と少女が罰を逃れ得ないことについ
ては確信がもてなかった。二人があれを楽しんでるなんて、なんと恐ろしい見せ物だったこと
か!
――そいつらをぶちのめしちゃえ!
と男の子が金切り声をあげ、いじめっ子は牡牛の
ように鼻を鳴らして、両手両足で二人に襲いかかろうとしたところで、自分を殴った女の子を
認め、足をとめてすごすごと引き下がった。
先生だ、先生が来る!
男の子たちは個別の原子へと爆発し、四方へ逃げまどい、他の女の子たちのまわりを狂った
サメのようにぐるぐるまわって(女の子たちが何をしていたのか、蝶少年はついに知ることが
なかった)、少女と蝶少年は二人きりで残された。
あたしたち、結婚するの?
と少女。
この事態の流れは、それまで蝶少年が考えもしなかったものだったけれど、でも彼女がこう
やって口にしてみると、それが唯一の考えうる選択肢のように思えた。少年はうなずいた。
その学年いっぱい、少年は二人が婚約したものと考えていたけれど、でも秋には彼女の家族
も引っ越したと報らされ――
Page 12
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ウルリッヒとドクター
実際、一生消えない外傷性の穴は……物事に対する影響力が一時的な穴よ
り明らかに大きい。一時的な穴は回復力に富む体液の作用でほとんどの場合
すぐにふさがってしまうためだ。
チャック・テイラー「実戦拳銃読本」
1、
地球で最後の夜となるはずだった日の翌朝、ジャーナリスト志望の少年は、地球が木
星に向かって落ちていく夢をみた。他の人間はどんなに恐ろしいことになるかまるでわかって
なかったが、少年は大気のエキスパートだったからわかっていた。まず、木星の大赤斑が時間
を経るごとに巨大化していくのが観察されるだろう。それは全てを赤く美しく染め、動物たち
を異様に興奮させる。海洋のうねりは三百メートルにおよび、都市を暗黒の魚臭い波で打ち砕
いて、アジアとアフリカを海底に沈め、山岳部の秘密シェルターで生き延びる金持ちのぶよぶ
よエリート以外の全てが絶滅する。だが金持ちに残された時間もあとわずかだ。メタンと防虫
剤臭いガスの強風が大気をはぎ取ってしまうため、みんな駆除用の瓶に入れられた虫けらのよ
うにのたうちまわり、言いようのない苦痛を伴った痙攣を起こして死んでいく。ジャーナリス
ト志望の少年はそうなるまで待たないことに決めた。塗料剥離剤を飲み、痛み止めをのんだ。
やさしい少女が発見し、木星に激突したらどうせ死んでしまうのにどうして死に急ぐの、とた
ずねた。説明しようともがくうちに、自分の骸骨に打ち負かされ、少年は体の震えを止めよう
ともせず涙を流しはじめた。やさしい少女は少年を抱き寄せた。振り解こうとしたがさらに強
く抱きしめられて、気持ちが落ちついた。少年はいつものようにさらに激しく泣き叫ぶかわり
に、少女に毒を全部吐きかけてしまった。少女がジャーナリスト志望の少年を救った。
ドアを叩く音で目が覚めた。ノブが無益にガチャガチャいうのが聞こえた。昨日の夜、初め
て部屋に鍵をかけて眠ったのだ。
少年は下着を着てドアを開けた。そこにいたのは習わしを信じていた少年だった。ジャーナ
リスト志望の少年の計画を知っていて、どうなったか確かめようと早めにやってきたのだった。
― ― おめでとう!
生きてたね。
ああ。
ジャーナリスト志望の少年は下着姿でしばらく立っていたが、生きていることを正当化する
必要があると思いはじめた。習わしを信じていた少年に、無駄足をふんだと思わせないように。
コインを投げて決めることにしたんだ、と少年は言った。表が命で裏がその逆だ。コインを
投げたら裏だった。けど、その時は自分で思ったより早めに投げちゃったように思ったから、
もういちど投げた。また裏だった。もう一度やってみることにした。投げた。また裏だった。
Page 13
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
だからコインが間違ってるってことにしたんだ。
2、
数週間後、少年は手首を切り始めた。だが実害があるほど深く切ったことはなかった。
バンドエイドの長さ程度で気が済むようだった。
3、
古い書庫のついた、風通しの悪いすてきな屋根裏をみつけた。ドアには内側からかん
ぬきがかかる。時々そこに上がっては椅子の上に立ち、ちょうどいい長さのロープを梁に投げ
かけて結び、輪を首にかけた。それからゆっくり膝を胸に引き寄せ、宙吊りになった。目先が
変わって気はまぎれたけれど、後でのどがすごく痛くなった。
4、
あるとき、少年は半窒息状態で手首を切ろうと思いついた。これぞ理想的なやりかた
に思えた。そのあと少年はやさしい少女を死姦する夢をみる。夢の中で少女の死体がロープな
しで頭上に宙吊りになり、ゆっくりと漂いおりてくる。少女の膝が脚に触れると射精してしま
い、萎えた。死んだ少女の手が少年の手にのび、少年の手が死んだ。彼女の胸が優しく少年の
心臓にこすれると、それは不整脈を打ち停止。とうとう少女が少年の上に重なった。動かず扱
いやすく、やわらかい……他の人が死姦を好まないのは知っていたが、それはみんなわかって
いないせいなのだ。みんな死体が冷たいと思っている。口に何か塗って黒く見せ、悪臭をはな
ち、腐ったみたいにやわらかくしていると思っている……少年は、骨盤がウィシュ・ボーンを
折るようにへし折れるまで少女を押し広げたかった。これって死姦?
5、
やさしい少女が結婚したあと(それはカンプチア人民共和国への郵便配達が中止にな
ったのと同じ週だった)、少年はその汚らわしい関心の対象を言語学者志望の少女に移した。
言語学者志望の少女は少年に手紙を書いた。
あなたのわたしへの発言で、いつもあなたが率直でないような気がしました。
その言葉に理解しきれない、理解したいかどうかもわからない意味をこめてい
る気がしたし、わたしを精神分析し、もしかして巧妙に操ろうとしているんじ
ゃないかという気がしました。あなたの手紙をもらって最初に思ったのは、わ
Page 14
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
たしには何だかわかってないけど、あなたは絶対わかってるんだということ。
あなたは絶対わたしの反応をじっくり見てるに決まってる、いわばテストして
るんだ、と思ったのです。あとになって、あなたが卑しい人間じゃないのはわ
かりました。つまり侮辱していいような人間ではないということです。でも、
あなたを助けたい、助けられるようになりたい、方法さえわかれば助けたい、
そう思う一方で、自分にそんな力があるとは思えません。あのやさしい少女み
たいな人だったら助けることもできるでしょうが、わたしは彼女とはちがうん
です。わたしに愛してるふりなんかしてもらいたくないでしょう。あなたはわ
たしが不満で、その分だけわたしに変わってほしいと思っている。でもあなた
が求めているのはわたしじゃない。それに気がついてください。愛してるって
言うけれど、そんなふうに愛するのをやめてください。なぜ愛してるなんて言
うのかわからない。あなたの愛を求めた覚えはないし、愛すべき理由を与えた
覚えもないのに。
少年はベッドにもぐりこんで泣いた。その後、レズビアンに恋をした。
6、
今、二人きりでコンパートメントにすわっている。シオンを出た列車は薄紅の黄昏に
向かってのろのろと進む。レズビアンは隣でガイドブックを読んでいた。少年は咳をするかの
ように横を向いて、精神安定剤を手にとり、水なしでのみこんだ。とりあえず今夜は大丈夫。
レズビアンはガイドブックの記述に頷いた。ぷっくりした腕にブレスレットが食いこんでいる。
よく我慢できるものだ。見れば見るほどブレスレットがつらそうだった。今にも彼女の指が青
くなってボトリと落ちるところが目に浮かぶ。でもレズビアンは別に気にならないようだった。
二人を乗せた列車は、赤い明かりとへんてこりんなガラス窓だらけの駅を通り過ぎた。
7、
ドゥブロブニクを見て、スプリットを見た。レズビアンはガイドブックを閉じた。
バックパックを見てて、席を取ってくるから。
席は二つね。だんだんレズビアンのことがわかってきた少年は言った。
荷物室に自分たちの荷物が積まれたのを確認し、バスに乗りこんだ。
二つはとれなかったわ。後ろにひとつ空いてると思うけど。
ああ、隣でいいよ。そこ空いてるんだろ。
二つ席を使って体を伸ばしたいのよ。
わかった。
Page 15
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
そうそう、あたしの分の切符代も払ってね。レズビアンはにっこりと微笑みかけて言った。
少年は後ろへ行くと薬をのんだ。
8、
朝五時にチトグラードに着いた。異様に寒くて、噴水までアーチ型に凍り付いていた。
ジャーナリスト志望の少年はドイツ語で鉄道までの行き方をたずねた。待合室と思ったところ
に着いて、ドアを開けるとそこは信号手の事務所だった。信号手はレズビアンをじろじろ見て
舌なめずりをした。ジャーナリスト志望の少年はスリボビッツの瓶を取り出し、それをみんな
に回した。飲めばみな友達だった。信号手たちは少年にスケベな漫画を見せ(レズビアンには
見せなかった)、ドライ・ポーク、浸したパン、缶詰の鯖と野菜を二人にしつこく勧めて食べ
させた。信号手たちはアメリカ人二人をおもしろがっていた。レズビアンが男みたいに握手を
したときには、男たちがあんまり笑いすぎてテーブルの上のコップが落ちてしまった。いちば
んいい椅子に体をまるめてレズビアンが眠ってしまうと、信号手は少年に、おまえのシスター
なのか(彼らはこの言葉の意味を知っていた)、と聞いた。少年は違うと答えた。一人が少年
とレズビアンを指差し、二本の指を衝突コースに動かし、それから指をくっつけて動かし続け
た。― ― ヤー、ヤー?
ジャーナリスト志望の少年はうなずき、力をこめて胸を叩いた。信号
手は指輪をはめる身振りをして少年を見た。少年は腕時計の上で指を時計回りに動かし、「い
ずれ時期がくれば」という身振りをしてうなずき、また胸を叩いた。これでレズビアンは大丈
夫だろう。それでみんなが納得した。
信号手たちは大して仕事をしていなかった。夜通し長電話をしたり、代わる代わる大声でわ
めいたり笑ったり、新しく来た人を両頬にキスして迎えたりするだけ。みんなとても楽しそう
だった。朝、クリーニング店から制服が戻ってくると、お互いのを交換して着てみたり二着い
ちどに着たりして、袖をまくり上げ、制帽をそこらじゅうに投げた。
少年は思った。この人たちが持ってるものを手に入れるためなら何だってあげよう、むこう
はたぶんぼくが持ってるのもを手に入れるためなら何だってくれるだろう。
9、
サロニキで一泊しようと、二人はホテルにチェックインした。フロント係がたずねた。
ベットはひとつですか、二つですか?
ジャーナリスト志望の少年は希望を抱いた。彼女は本当はレズビアンじゃないかもしれない。
レズビアンでもかまわないくらいぼくを愛してるかもしれない。少年は待った。
レスビアンは少年を見ていた。フロント係も少年を見ていた。とうとうレズビアンが口をひ
らいた。ベッドは二つ。
少年のストイックな顔が真っ赤に上気した。
Page 16
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
10、
サロニキからイスタンブール行きの列車は通常二日かかるが、三~四日かかることも
あった。その時次第。ギリシャの兵隊は、少年とレズビアンに行き先をたずねると、首を振り、
憎々しげに喉を切り裂くジェスチャーをした。兵隊は国境の手前で下車するとき、新鮮な山羊
のチーズをくれ、また首を振った。レズビアンが笑った。
今回、列車は最低三日はかかりそうだった。二回故障した。列車はワイヤーを張りめぐらせ
たトルコ国境を越えてすぐのところだった。みんなお互いがカンにさわりはじめていた。コン
パートメントにいたのは五人;ジャーナリスト志望の少年、何にもなりたくなかったレズビア
ン、イギリスから来た悲しげな少年、ウルリッヒ、それにドクター。ドクターは看護婦に手を
だしてサウジ・アラビアを追放されたのだ。― ― サウジ・アラビアの女は、処女だって意味で
はきれいだよ、とドクターはレズビアンに苦々しげなウインクをし、― ― けど臭い処女は好き
になれんね!
臭いのはおまえの脳味噌だ、とウルリッヒ。おまえの心が臭い。魂が臭い。
ウルリッヒはナチ将校の息子だった。アル中の放浪者。ジャーナリスト志望の少年とはなか
なかウマが合った。― ― ああ、哀れなアメリカ人、となにかにつけてクスクス笑った。少年は
苦笑した……
11、
イギリスから来た悲しげな少年はレズビアンのガイドブックを音読するのが好きだっ
た。レズビアンは悲しげな少年が気に入りだしているようだ。少年は同じところを何度も繰り
返して読み、レズビアンはその肩にもたれかかって、目を閉じたまま微笑んでいた。ジャーナ
リスト志望の少年は、二人の様子を見て時々どうしようもない嫉妬と惨めさを感じ、コンパー
トメントを出て通路に立ったり、列車を降り雪の中をとぼとぼ歩いて、火を囲んでしゃがんで
いる黒っぽいショールをかけたトルコ人の女たちのそばを行ったり来たりした。ウルリッヒは
そんな少年の散歩に一度もつきあわなかったが、たまに首のうしろあたりに不気味な気配を感
じて振り向くと、後方の半分暗くなった窓からドイツ人が皮肉っぽく手を振って少年を見てい
た。
12、
フランスに知り合いがいてさ……悲しげなイギリス人少年が話し始めた。
ほう、それはそれは、ストレートのブランデーのおかわりをひっかけながらウルリッヒがい
やみっぽく言った。
Page 17
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
列車は太陽で照り輝く雪の中で止まっていた。
フランクフルトではよく雪が降るだろ?
愛想よくしようとしてドクターが言った。
いいや、とウルリッヒが答えた。
ウルリッヒとドクターはすでに一度殴り合いの喧嘩をしていた。
ブリジッテ、ブリジッテ、ブリジッテ……と繰り返すイギリス人少年。
違うわ、わたしはブリジットよ、とレズビアンが言った。ブリジッテはフランス語よ。
ジャーナリスト志望の少年は席を立ち、通路に出た。そうすれば誰にも知られずに薬をのむ
ことができる。少年が薬瓶の蓋を開けたとたん、大きな薄汚れた手が音もなく少年の手首めが
けて下りてきて、灰色の傷跡のある指があっというまに手首をつかみ、もう片方の灰色の手が
薬瓶をとりあげた。
なんだこれは?
灰色の手の持ち主が言った。どうしたんだ?
精神安定剤だよ。のまなきゃいけないって言われてるんだ。これをのまないと自分で自分を
殺してしまうかもしれないって。
殺すだって?
ドイツ人が驚いて言った。殺せばいい。
ドイツ人は薬瓶をかえした。ジャーナリスト志望の少年は薬をのみ、二人ともコンパートメ
ントに戻った。
しばらくしてウルリッヒが言った。ドイツ人は殺すだけじゃない、殺し方が徹底している。
ドイツ人だけが頂点を極めるんだから。
バカな気狂い。ドクターはそう言うと、黒い旅行カバンを開け、とっておきのスコッチのボ
トルを取りだした。
13、
それで私はかわいい看護婦の脚を押し広げた、すると、何を見たと思う?
誰もまともに聞いていなかったが、ジャーナリスト志望の少年だけは興味をそそられた― ―
何?
何を見たの?
蛆虫だよ。その女のちっちゃなピンクの裂け目が虫で白くなってた。蛆虫と言っても通俗的
な表現でだよ、わかるかな、あれがハエの幼虫だったかは定かじゃないがね― ―
前触れなしにウルリッヒがドクターの顔面を殴り、その頭がまともに壁に打ち付けられた。
ドクターは口をあんぐりと開け、鼻からは血が流れだした。誰も何も言わず、ドクターは肩で
息をしながらしばらくそこに座っていた。それからウルリッヒにストレート・パンチを出した
が、ニヤリと笑ったウルリッヒは灰色の棍棒のような腕を正確にふりあげると、ドクターの胸
を強打し後方に投げ飛ばした。
ドクターはうめき声をあげて崩れ落ちた。鼻を袖で拭い、血をじっと見た。もういちど鼻に
触った。その手が人殺しでもしたかのように真っ赤に染まった。ドクターは鼻を押さえた。立
ち上がる。刺すようにみんなの目をのぞきこむ。そして旅行カバンをとるとコンパートメント
Page 18
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
を出ていった。ジャーナリスト志望の少年は、ドクターが空席を探してコンパートメントのド
アをひとつひとつ開けていく音を聞いた。しばらくすると戻ってきて反対の方向へ席を探しに
いくのが聞こえた。少年が薬をのむために外へ出ると、通路には血がしたたり落ちていた。ほ
どなくドクターはまた戻ってきた。空席のあるコンパートメントがなかったのだ。ドクターは
その日一日中通路に立って、怒ったように鼻を窓に押しつけていた。夜になってまた列車が動
きはじめ、翌日の朝イスタンブールに着くまでそのままだった。駅につくとドクターはまっす
ぐに空港に向かった。飛行機で世界中を回ってるんだと言っていた。これで五回目だという。
14、
ウルリッヒ、レズビアン、イギリス人少年、それにジャーナリスト志望の少年は、ホ
テル・グンゴールの一室に一緒に泊まった。レズビアンがガイドブックでみつけたホテルだっ
た。四人はスルタンアフメット地区の地図を持っていなかったので、ジャーナリスト志望の少
年がレズビアンと交番に道を尋ねにいった。黒い制服の巨漢が警視のところへ案内すると、警
視は立ち上がって自分の椅子をレズビアンに勧めた。レズビアンの手首にキスをし、親しみを
こめて少年と握手をした。すべてはっきりすると、巨漢は外で待つウルリッヒとイギリス人少
年のところに案内してくれた。イギリス人少年は怯えているようだった。ウルリッヒが拳を振
り回して叫んでいた。おれはファイティング・マシーン!
みんな、おなかすかない?
レズビアンがその場を仕切ってたずねた。
みんなすいていたので、ホテルにチェックインしてから一緒にプリン屋を見つけた。60年
代の忘れ物のような店で、ジュークボックスでは「レボリューション」、「ストロベリー・フ
ィールズ・フォーエバー」、「ペニー・レーン」が繰り返しかけられていた。ウルリッヒは自
分に我慢できる人たちと一緒になることが滅多になかったので、みんなといられるのが嬉しく
て夕食をおごった。ジャーナリストが食べたかったのはバニラ・プリンだけだった。
だんな、ハッシシはどう?
うせろ!
トルコ人の少年がきいた。
消えなきゃ殺してやる。ウルリッヒが答えた。
あの子もたぶん生活が苦しいんだと思うわ、とレズビアンが言った。
殺してやる!
とウルリッヒが叫んだ。
人生って本質的に大変なものなんだって思わない?
レズビアンはしつこく繰り返した。
本質的に大変だとは思わないよ、ジャーナリスト志望の少年が言った。人によって、自分で
大変にしてるだけだよ。
それどういうこと?
レズビアンが蔑むように言った。薬をのまなきゃ生きていられないく
せに。
何をするって?
とイギリス人少年が言った。
ジャーナリスト志望の少年は何も言わなかった。ウルリッヒは高笑いしてブランデーをもう
一杯飲んだ。― ― 哀れな、本当に哀れなアメリカ人、と少年の肩に手を置いて言った。
Page 19
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
15、
レズビアンはストッキングの上に白いハイソックスをはいていた。胸が大きく、スカ
ートの上にだして着た紫や黒のブラウスの上からいつも乳首がすけて見えた。イギリス人少年
はレズビアンに夢中だった。ジャーナリスト志望の少年は、もうどうでもよかった。少年から
急に死学的なところが消えたのはそのせいかもしれない。少年の不幸(何の根拠もなかったか
ら、たぶん生化学的なものだったのだろう)とは関連性がないみたいだった。親友のひとり、
革命家志望の少年が手紙をくれたことがあった。
ここ数年、自分自身の可能性として自殺をまじめに考えるのを止めた。
そこに人生に対するぼくの批判の基盤のほとんどをつくる中立性を根
本的に超越した視点があるからだ。その視点は、働きにおいて、実のと
ころきわめて平凡であり、生において人が味わう痛みの常識的で慎まし
い解釈からなりたつ― ― 自分の失敗を根拠にして極論を一般論に仕立
て上げることの拒絶、どんな個別の体験があろうとも痛みは一時的なも
のでしかないという仮定。もちろん君が共有していない視点をもとに君
を説きつけることはできない。ぼくがこんなことを言うのは、君にとっ
てちょっとしたヒントになればと思ってのことだ。だって(結局のとこ
ろ)君は生ききたわけだし、そうするにあたってこれと似たような基盤
に基づいてきたのだろうから。ぼくが過去形を使ったのは、君とくらい
真剣に自殺を考えるからには、こういった視点と君との間には、すでに
かなり大きな隔たりがあると思うからだ。
こんなふうにあいつは感じていたのか?
雪はほとんどとけ、空が淡い青になっていた。四
人はアヤ・ソフィアとブルー・モスクを観にいった。昼食のあとはトプカプ宮殿へ行った。レ
ズビアンはエメラルドの間が気に入った。翡翠の間にくるころには飽きてきたが、イギリス人
少年はそれでもすべての解説を音読した。武器の間に来ると、ウルリッヒが壁に掛けられた中
世の棍棒をとろうとしたが、解説員が微笑んでだめだという合図をした。
レズビアンが何か軽く食べたいと言った。ジャーナリスト志望の少年はバクラバとミネラル
ウォーターをとった。イギリス人少年がメニューを音読した。― ― 黙れ、とウルリッヒが言っ
た。
ウルリッヒはすわって大きなパンにバターをぬり、レズビアンはスープを飲んでいたが、イ
ギリス人少年は何も食べていなかった。突然その顔が引きつったかと思うとどもりだした。
ウルリッヒはすっと立ち上がると、銃声のような音をたてて少年の頬を平手打ちし、出てい
った。三人がその晩ホテルに戻ると、ウルリッヒの荷物は消えていた。
Page 20
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
16、
翌日、レズビアンとイギリス人少年とジャーナリスト志望の少年は、グランドバザー
ルへ行った。イギリス人少年の顎はウルリッヒに平手打ちされたところがまだ痺れていたが、
歯は一本も折れていなかった。それどころか、この一件はかれにかなり有利に働いた。ウルリ
ッヒがいなくなり、レズビアンがとても同情的になったからだ。ジャーナリスト志望の少年は
嫉妬のあまり、イギリス人少年が仕組んだんだという証明をほとんど幾何学的な厳密さで構築
してしまった。イギリス人少年は、少なくとも本人の言では、ほとんど何も考えていないし計
算もしていないようだけれど、でもイギリス人少年が狡猾なだけかもしれない。要するに、レ
ズビアンとイギリス人少年は手を握っていた。レズビアンは実はレズビアンじゃなかったのか
も。
17、
それでもやはり、妙に満ち足りた気分ではあった。レズビアンとイギリス人少年はト
ルコ風呂へでかけていた。ジャーナリスト志望の少年は、褐色の肌をした微笑みを絶やさない
ホテル従業員のところへいった。旅行もそろそろ終わりだったので、持ってきたスイスシリア
ルを食べきってしまうことはないだろうと考え、従業員にわけてあげることにしたのだった。
初めそれが何だかわからなかった従業員も、ジャーナリスト志望の少年がどんなに美味しいか
手にとって食べてみせると、少しつまんでみた。目を見開いた。フルートを取り出し、大喜び
で一曲演奏した。手もう一人の少年をカウンターに追い払って、唇を指さして言いたいことが
あるんだというジェスチャーをした。自分の頬を軽く叩いた。それからトルコ語英語辞典を取
りだした。長いこと単語を探していた。やっと見つけると、しかめ面をして練習するように口
の中で何かつぶやいてから、顔をまっすぐにあげ、ジャーナリスト志望の少年の肩を軽く叩い
て嬉しそうににっこりと微笑み、こう言った。
ぼくは、きみを、あいしてる……
18、
少年が薬をのみに外へ出ると、ウルリッヒに見つかった。ウルリッヒの掌は傷だらけ
で、草の屑にまみれていた。ウルリッヒは言った。だっておれは父を殺す。一九七二年に。お
まえが泣いてやったあの医者、あれはただのケチなろくでなし。だが父はナチ将校だった。父
が頂点だったんだ。この手にかかって死ぬに足るだけの……
お父さんを愛してる?
愛?
愛せばいい。
とジャーナリスト志望の少年。ぼくは愛の意味が知りたいんだ。
さあ、今度はおまえの番だ。愛の意味を知りたい。じゃあ、おまえは
Page 21
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
誰を愛してる?
誰も。
ああ、それならもう薬をのむ必要はないよ、哀れなアメリカ人。誰も愛していないって?
も?
よし!
誰
おまえが頂点だ。おまえとおれ、おれたちは愛の意味を知っている……
そしてウルリッヒは手を叩きはじめた。大きな灰色の手を打って草屑が落ち、血がほとばし
るまで― ―
Page 22
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ベナドリルをもっと、とジャーナリストは泣き言
雄の最終的な再生産上の成否にかかわる明らかな問題の一つは、己の精子を
すべて一匹の雌に投資すべきか、それとも複数の雌と交合すべきか、という
ことである。
ベルト・ヘルドブラーとエドワード・O・ウィルソン『蟻』(1990)
1、
むかしむかしあるところにジャーナリストと写真家がおりまして、アジア娼婦めぐり
に出かけることにいたしました。お金はニューヨークの雑誌に出させまして、それぞれ冷たく
軟らかい KY ゼリーのチューブとコンドームの箱で武装。写真家は、すごくきれい!いくら!あ
りがとう、さあはめまくってやるぞ!(トプサ・ロプサ・レイ)、といった大事なタイ語のせ
りふを知っておりまして、超強力潤滑剤つきのを好みましたが、ジャーナリストは潤滑剤なし
の特製精液だめつきのを選びました。ジャーナリストは写真家のコンドームを試すことはなく
て、それというのも自分自身のすら(正直言って)本来使うべきほど使わなかったからなので
した。でも写真家は自分のと両方試してみて、摩擦とつまりは快楽の観点から、ジャーナリス
トの選択のほうが正しかったと判断したのでした、というわけで、これがこの物語の真の教訓
というわけで、物語に教訓以上のものを求めぬ人々は、この先を読むには及びません。――さ
あ、これで善悪話が片づいたから、ひとつ盛大に(是非!)バンコクはホテル・メトロの放蕩
者二人の部屋に乗りこもう。そこでは写真家は水虫よけに、いつもサンダルをはいてから湿気
た青いカーペットの上を歩く。ジャーナリストはといえば、かれは水道の水をフィルターで濾
した(写真家はびん詰めの水を飲んだ。二人とも腹をこわしたけど)。たんすに大きなかぶと
虫がいた。ジャーナリストはボーイに、かぶと虫がいいペットになるかどうかきいた。――は
い、とボーイはにやにやした。何をきいてもこの返事だった。――マンコをつけてなかったの
が、こいつにとってせめてもの幸せよの、と写真家は、溜息をついて黒のコンバットブーツの
ひもをとき、足にシッカロールをつけた。そしてジャーナリストはきしむベッドの上で脚をの
ばし、初の南京虫を待ち受けた。この部屋で思い出すのは、北磁極でみじめな二週間ほどを何
とか生き延びた時の、打ち捨てられた雪まみれの気象観測台だった。何もかも、そこそこ正常
に見えるけれど、死ぬほど危険で、ここでの危険は冷気ではなく病気だった。少なくとも、ま
だゴムを使うつもりでいた汗まみれの超慎重な最初の晩、かれはそう思った。写真家はすでに
ソイ・カウボーイから若い女を買ってきていた。朝には彼女は、紫に塗った唇を開けてベッド
に横たわっていた。そして落ちつかなげに脚をあげた。
Page 23
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
きのう、トゥクトゥク五〇バーツ 1 。ソイ・カウボーイ戻る、三〇バーツ。
え?
つまりトゥクトゥク乗るのにもっと金よこせっての?
そう言いたいわけ?
と写真
家は吐き出すように言った。まったく、信じらんないよ。なあこいつ、昨日だって一発しかや
らせないでやんの。それで千バーツもくれだと――だから五百お前に借りなきゃなんなかった
わけ。
女の歯が光った。自分のももを叩くと、あくびをして、明るい黒い目でこちらを見つめなが
ら歩き回った。
ねえきみ、どっから来たの?
とジャーナリストは、デンタルフロスで歯を磨きながら言っ
た。
わたし、カンブジャ。
カンボジア?
イエス。カンブジャ
おれたち、カンブジャ行くね。きみ、カンブジャ来る?
とジャーナリスト。
ノー。
なぜ?
女は恐怖で顔をしかめた。――バン、バン!とささやく。
外ではトゥクトゥクが、スモッグをふかしていた。ハニー・ホテルの横では男たちが新聞を
囲んでいた。――あなたタイ料理欲しい、あたし待つね、と女。
いやいいよ。おまえはソイ・カウボーイに戻れ。おれたちは大丈夫だから。と写真家。
あなた、今夜ソイ・カウボーイあたしくる?
もちろん、もちろん。だからソイ・カウボーイに戻って、おとなしく待ってな。
あなた好き?
あたし好き?
もちろん。さあ、行けったら。
あなた今夜くる、わたしの友だち、あなたとホテル行く、と女はジャーナリストに言った。
OK。とかれ。女ににっこりしてみせた。女はにっこりしてトゥクトゥクに駆けこんだ。
すると今夜は彼女とその友だちが相手ってわけだろ?
とジャーナリスト。
バカ言うんじゃねーよ、と写真家。あんな女、何千といるんだぜ。倍もすてきで半額の連中
が。あの女、図々しくもおれに千バーツ請求しやがった!
ったことないのに!
今まで五百以上なんか、一回も払
店からつれだしたら、一銭も払わなくていいんだから。前にバカな女が
いてさ、金よこせってしつっけーの。文無しで追い返してやったよ。もう泣いちゃって、最高!
じゃあなんでその娘を連れ出したわけ?
その娘?
ぴかいちだったんだよ――長い髪、尻の割れ目に食いこんだパンティ。ありゃ気
にいった。でもつぎは、もっと大人の娘がいいな。何してんのかもわかんねーようなくそガキ
なんかじゃなくてさ。
1
1991 年に、1USドルは 25 タイバーツ、または 1000 カンボジア・リアルに相当した。
Page 24
蝶の物語たち
でも後で写真家はこう言った。
ウィリアム・T・ヴォルマン
あの娘はかわいそうだったな。こんど女を連れ出したら、
やらないどいてやろう。
2、
ちょっと傾いたそのテーブルには蝿が訪れ、びんが四つのっていた。一つは塩、一つ
はケーパーと酢と水槽植物みたいなものが入っていて、もう一つはカレー粉、一つには酢づけ
のトウガラシ。写真家とジャーナリストはそこにすわって昼食を食べていた。色の縞模様が入
った布が日除けになっていて、テーブルの上には色つきの傘がかかっている。二人は野菜入り
のタイそばを食べていた。屋根の水がゆっくり滴って、汚いニス塗りテーブルに水たまりを作
っている。モンスーンの季節だ。バイクがテーブルの間をゆっくりと縫う。若いツルリとした
顔の女店員が、背を向けて中華鍋の肉をかきまわし、ガラスのケース内につまれた卵やトマト、
ボク・チョイ、タケノコ、芽キャベツ、いろんな麺類の向こうで、辛抱強そうな様子を見せて
いた。女店員は中華鍋に油を注ぎ、それから窓の格子のほうにふらっと近寄り、エプロンに手
をつっこんでだれかに金を渡した。そして悠然と戻ると、ちょうど油が煮え立ちだしたところ
だった。警官がやってきて、財布を取り出すと氷を買った。コケっぽいベンチに水が滴った。
ジャーナリストは、カンボジア娘の目に浮かんだ、傷ついた表情が忘れられなかった。どう
しよう?
どうしようもない。
3、
午後四時半、指の間のべとつく汗の感じは、そこにキノコが生えているような感じだ
った。アメリカの探偵物ビデオがかかっていた。銃声と割れるガラスとうなりをあげる車が、
ボリューム最大で。かれはバンコク・ポストを読んでいた。「クメールの腕切断をめぐりビッ
グ・ファイブ正面対決」。女の子が二人、バーの曲がったところにすわっていて、木の枠内で、
ポーカーチップを使って三目並べをしていた。二人のタバコの煙が長い鏡の闇を下っていった。
テレビで男が拷問されていると、娘たちは興味深そうな微笑を浮かべて顔をあげた。それから
ボード上にかちりとポーカーチップをおいた。女の子がもっと漂いこんできて、書類に記入し、
仕事上の電話をかけた。回転する輪になった明かりが回わりだした。一人がテレビで素手のケ
ンカをながめ、その人差し指が鼻の上で頂上を形成している。女の子がきて、ジャーナリスト
のビールのグラスを満たしてボトルを空け、それを下げて次の一本を売りつけられるようにし
た。指の間の皮膚の網は、過ぎゆく一瞬ごとにもっとくっつくようだ。また銃撃戦。娘たちは、
かれがニヤニヤしているのを見て、ニヤニヤし返してきた。彼女たちはゲームにも飽きて、こ
ちらとの間に格子のようにたてた、ゲームボードの穴ごしにのぞいていた。
白人が入ってきて、口をぬぐいつつ、財布を確かめ、テーブルの上に腕をのせた。
タバコを吸っていた娘たちは、らっぱ手のように口元に手をやった。一人は白人の若者とプ
Page 25
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ラスチックのカウンターを使ったゲームをしていて、いまの彼女は勝ち負けのたびに、前の女
の子と遊んでいたときよりずっと大きく微笑むようになっていた。若者はタバコをくわえ、娘
二人の手がのびてそれに火をつけようとした。
ゆっくりと、ビールの伝票がジャーナリストの輪付きチーク製カップにたまっていった。女
の子がビールを注ぐとき、みんな極端に神経を集中し、びんを正確に目の高さに掲げる。
眉毛のまっすぐな顔、弓型眉の顔、そのどれもが金色で楕円形でストレートの黒髪に縁取ら
れ、ゲーム盤やテレビや、ピンクの縁の鏡の中の自分を見ている。テレビで何か暴力的なこと
が起きると、落ちついた関心をもってみんな顔をあげた。
外では交通が大渋滞。警察の笛がずっと鳴り続けていて、そして遠くで歌うか叫ぶかする音
が聞こえてきた。トゥクトゥクがゆっくり通り過ぎ、あまりに遅くて乗客たちもテレビを観ら
れたほど。六時十五分前、次の白人男が入ってくると、しばらく音楽がかかり、女の子が一人、
バーによりかかって手を叩きつつ、踊り始めた。外で日光が赤く変わり、いたるところ女たち
がセクシーなスカートをはいて立ちはじめた。ダブルのスーツを着た中年の小人が小路をやっ
てきて、一人の娘のスカートの下に潜りこみ、手をのばしてそれを自分の上に屋根のようにか
ぶせ、しゃぶりだした。娘は、焦点のあわぬ目で立ちつくしていた。小人は終えると、彼女の
パンティを上げてやり、歩道につばを吐いた。そして財布に手をのばした。音楽がいたるとこ
とでボリュームをあげていた。時には手をつないだビジネスマンたちが通り過ぎる横で、あら
ゆる戸口では女の子たちが優しく笑っている。女の子が一人、野菜の屋台によりかかって長い
髪をとかす横を、バイクが走りぬける。
バーガンディーのシャツを着た髪の長い娘が電卓から目をあげて、ジャーナリストのビール
に氷を入れに来た。
4、
バーは痛々しいほどの大音量のアメリカ音楽が流れ、虹色に輝く水着が脈打っていた。
かれは青を着た十四番を選び、いっしょに出ようと言ったけれど、娘はかれが踊ってくれと言
ったのだと思って、だから他の娘たちと笑いながら立ち上がり、だらだら、ぎくしゃくと、可
愛らしくターンしてみせた。ちょっと太り気味だった。
いっしょにくる?
とチップをあげながらかれは言った。
娘は首を振った。――わたし、事故したよ、と股間を指さして言う。
彼女は横にすわって、買ってやったドリンクをもてあそんだ。すごく気遣うようにかれに寄
り添い、手を握った。顔を見つめるたびに、目を伏せてくすくす笑う。
友だち選んでくれる?
だれでもいいよ。
カンブジャ、いついく?
三日で。
彼女はためらったが、ついに別の女性を呼んだ。――友だちのオイ。わたし、トイ。
Page 26
蝶の物語たち
きみ、ぼくとホテルいく?
ウィリアム・T・ヴォルマン
とかれはオイに言った。
彼女は上から下までかれを眺めた。――あなた、オールナイト、ショート?
オールナイト。
わたしオールナイトだめ。ショートだけ。
わかった。
5、
タクシーの後部シートで、かれは自分が恥ずかしがり屋なんだとささやき、すると彼
女はトイとまったく同じように、かれにすり寄った。シャンプーみたいな匂いがした。おしつ
けられたからだが、とても熱くて優しかった。もし彼女の心を見ることができたとしても、そ
れは国立博物館の黄金の財宝と同じく鉄格子越しにしか見られないことをすでに知りつつ、か
れは娘にキスしようとして、すると彼女は顔をそむけた。
おねがい。
彼女は微笑み、困惑して、顔をそむけた。
だめ?
彼女は急いで首を振った。
6、
彼女のからだ越しに手をのばして明かりを消すと、彼女は抱きしめてくれた。小さな
乳首を吸うと、うめいた。腹にキスすると、優しく脚の間に手をわりこませた。恥毛を剃って、
細いモヒカン状にしてあって、たぶん水着で踊れるようにということなのだろう。あの小人の
ように、口を彼女につっこみ、押しのけられるかな、と思ったけれど、やらせてくれた。マン
コの味がするまで、長いことしゃぶらなくてはならなかった。彼女はまたうめきだして身を上
下にくねらせ、ほとんど演技と思えないほどだった。しばらくそうしていると、彼女がやさし
く顔をおしのけた。かれは起きあがって、指二本で彼女を押し開いてどのくらい濡れているか
調べた。痛い思いはさせたくなかったのだ。予想通り、あまり濡れていなかった。かれはベッ
ドの下に手をのばし、KY ゼリーのチューブを取り出した。少し手に絞り出すと、彼女の中に塗
り付けた。
それ、なに?
きみを濡らすためだよ。
いざ出し入れする段になると、かれはゴムは使わなかった。彼女は処女みたいな感じだった。
半分ほど入れたところで、すごくきつくなって、痛がっているのがわかった。できるだけゆっ
くり、優しく出し入れして、あまり深く入れないようにした。これまでで最高の一発だった。
やがてかれはペースを上げ、快楽もどんどんよくなっていった。なんて可愛くて清潔で若い娘
Page 27
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
だろう。娘の髪をなでてこう言った。どうもありがとう。
ありがとう、と女は面倒そうに言った。
かれは立ち上がって下着をつけた。そして明かりをつけて、トイレットペーパーを持ってき
てやった。
彼女は痛くて床にしゃがんでいた。
見て、と彼女。
血が流れていた。
ごめん、本当にごめん、とかれ。
だいじょうぶ、と微笑む彼女・・・
ごめん!
医者よぶかも。
かれは、包帯と軟膏をあげた。彼女は手を祈るようにあわせた。ありがとう。
かれは、千バーツあげた。彼女は何もくれと言わなかった。――ありがとうございます、と
頬笑む彼女。
医者代に足りる?
これタクシー代。トゥクトゥク代。
かれはもう五百あげて、彼女はまた手を祈るようにあわせてささやいた。ありがとう。
かれが軟膏をあげると、彼女は背を向けてそれを塗りこんだ。服を着終えると、彼女は力い
っぱい抱きついてきた。そして顔をあげて、キスしたければできるようにした。かれはおでこ
にキスした。
彼女は何度も抱きついてきた。トゥクトゥクまで送ると、彼女は手を握ってきた。
うん、これは AIDS になって当然だな、とかれは考えた。
7、
どうも間違ってる気がする。
だって、ちゃんと金払ってるじゃん、と写真家はきわめてまっとうな意見を述べた。そうし
なきゃ連中、喰ってけないんだぜ。あれがあいつらの仕事なんだからさ、そういうもんなんだ
よ。それにおれたち、すっごく気前よく払ってるじゃん。ほかの男よりずっと。
8、
ジャーナリストが本当に求めていたのは何なのか?
何一つとしてかれを幸せには
してくれないようだった。かれは人生のジレッタントだった。選んだあらゆる道を離れた。他
の道が恋しかったからだ。言い逃れの余地なし!
写真家につれられて、コン・トイの長い狭
いトンネルをぬけてゆくと(カンボジア用に蚊帳が要ったのだ)、いろんな手段や道があるの
Page 28
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
でかれは途方にくれてしまったのだけれど、ほかのみんなは、箱をかついでいたり、コンデン
スミルクの缶やドレスやティーポットやおもちゃを探していたりして、自分の道がわかってい
るらしいのだった。梁の暑いアーチの下はすごく混雑していて、通りすがりに人々のからだが
こすれあい、赤ん坊が泣き、人々は低く落ちついた声でしゃべり、何も静止しない。オイのけ
がは深かったんだろうか。どうしてももう一度会わなきゃ。迷子になった吸血鬼二人は、額に
入った国王の肖像や、脂ぎった小さくて血の色をしたソーセージ、ゆでトウモロコシ、緑っぽ
いもののフライの袋、焦げたタイヤみたいな匂いの炒めたナッツ、握りのないカナヅチの頭の
中をさまよい歩いた・・・でも一方で、この吸血鬼二人、エアコンのきいたホテルで娼婦とや
ってたので、万事快調という気分だったのも、これまた事実ではあった。
9、
雨の後、バーの中で、娘がラム・コークごしに派手に身をのりだし、しゃがれた笑い
声をたてた。みんなゲーム盤を眺めたり、タバコを吸ったりしている横で、テレビがこう言っ
た。まったくお前はどこにいるんだ?
そして娘は写真家に言った。ねえ、誕生日いつ?
彼女はジャーナリストに言った。タバコ吸う?
そこでかれはストローを噛みしめてタバコ
を吸うまねをしてみせて、彼女を笑わせた・・・
女の子たちはもたれかかって集まっていた。写真家の女の子はジョイという名前。彼女はい
つもこう言う。ハーイ、ダーリン!
ハーイ、ダーリン!
――その友だちの名前はプキだっ
た。
いらっしゃいよ、ダーリン、とプキ。何書いてるの?
それがわかればねえ。そうすれば結末もわかるのに、とジャーナリスト。
おふくろさんに長い手紙を書くのが好きなんだよ、こいつ、と写真家。
女の子たちは、写真家にステーキを持ってきた。食べ残しを、かれはジョイに食べたいかと
たずねた。プキがジョイのためにそれを切ってやった。分厚く、おいしそうに。固くて切りに
くかったので、彼女はからかうような悲鳴をあげた。
わたしを買ってプリーズ、とプキはジャーナリストに叫んだ。
ぼくはオイが好きだ。今夜はオイを買う。
(うまいなあ、と写真家は感心して言った。ああやっていじめないとな!)
ジャーナリストはちょっと酔ってしまって、バーの伝票を紙飛行機に折って部屋中に飛ばし
た。女の子の一人が辛抱強くそれを全部拾い集め、コップに戻して、かれは言った。お、やる
気か?
すると彼女は笑ってノーと言った。女の子がもっと群がってきて、ドリンクをたかり
(かれは言いなりに買ってやった)、かれに腕をまわして頭をすり寄せ、財布をずるそうに撫
で回す。
写真家はジョイの尻とプキのおっぱいをつかみ、ほかの子たちは本気にせよふりにせよ、嫌
悪の叫びをあげた。この浮気男!――かれはジョイを買い、プキはジャーナリストに叫んだ。
Page 29
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
プリーズわたし買わないどぉぉして?
ごめん。オイと約束したんだ。ホントにごめん。
百バーツ握らせると彼女も機嫌をなおし・・・
10、
そこでかれらはオイのバーに行った。写真家とジャーナリストとジョイ。トイ曰く、
オイ今日は休み。
具合でも悪いの?
とジャーナリスト。オイのことが心配。マンコにけがさせたから。ごめ
ん、ごめん・・・
今日は休み、とトイはにっこりした。
11、
支配人が出てきた。オイ?
どのオイ?
――明らかにオイはたくさんいるのだっ
た・・・
写真家が出かけて見回した(かれは人を見つけるのがすごく上手だった)けれど、見つけら
れなかった。
12、
動かぬ車の列の中で、不幸せそうにアクセルをふかしつつ、タクシーの運転手は黒い
屁のような匂いの空気中でしおれて玉になった木の葉を無視した。ジャーナリストはその運転
手といっしょに前の席にすわり、写真家とジョイが後部シートでプライベートにいちゃつける
ようにした。横のバスに書かれた字が白炎にゆらぐ。後部シートからは濡れた音がする。運転
手は右の窓からのぞきこみ、不服そうな、うらやましそうな、あきれたような、無関心な様子。
この人どこいくかあたしに言うから、メトロホテル言った、とジョイが宣言。
やっと信号が変わり、運転手はギアをシフトして、貝殻まみれの変てこな車はかちゃかちゃ
鳴り、犬やトウモロコシ屋台のよこをタクシーは加速した。カンバス幌の大型トラックが闇の
中でうなる。再び止まると、運転手は先を見た。唇は厚く、丸かった。他の車の窓ガラスには
雨粒がほこりのように輝いている。トゥクトゥクに乗った外人が、噛むようなしぐさをして、
すぐに永遠に消えてしまった。タクシーの運転手がまわりこんで、霧の中にクラクションを鳴
らしつつ、ねじれた柱の間を駆け抜けたのだ。秘密の矢印がついた裏道をぬけてホテルに向か
ったのだった・・・
Page 30
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
13、
一晩中テレビがアア!
オイ!
と吹き替え映画にあわせてうめく中、娼婦は写真家
のベッドで目を大きく見開いたまま、退屈で一人ぼっちで、彼女の眠る食事券に抱きつき、一
方のジャーナリストもまたテレビのせいで眠れず、したがって同じく退屈で一人ぼっちで、娼
婦にこっちにこいとも言えず、写真家はそうしろと勧めてくれたのだけれど、彼女があんなに
愛情深げに写真家に寄り添っているので、いけないような気がしたし(やがて彼女をもっとよ
く知るようになると、どのみち呼べばきただろうというのはわかってきたが)、それに睾丸に
広がりつつあるしこりも気になっていたのだ。かれはだまってジョイをねたにオナニーした。
まだ痛くはなくて、ちょっと変な感じがしただけで、だからまだ何でもないのだというふりが
できた。終わったとたんに、前と同じくらいジョイにはめたくなって、するとまた小便がした
くなった。これは悪い兆候だった。小便を終えたとたん、また小便したくなった。
14、
夢うつつで聞き耳をたて、シーツのなかで彼女が身動きする音がするたびに、ペニス
がキンキンにかたくなって痛み、目がさめた。六時ちょっと前だった。欲望が、ゆっくりとさ
しこむ熱帯の陽光のようにしみこんできた。まずカーテンの白い谷間に、次に鏡の中のカーテ
ンの縞模様に、そして白いシーツ、自分の白いシーツ、彼女の肩にかかった彼女の白いシーツ、
白い枕の上の、彼女の楕円形の頭(シーツの上の彼女の指は見えただろうか?)。今や、窓の
向こうの格子の輪郭が育ち、今度は白い光の腹が天井に、白い壁の上部に、黒の羽目板に、白
いたんすの棚の栗服に。彼女のシルエットが鮮明さを増していた。彼女の髪の形が見分けられ、
自分の靴下とパンツがカーテンに乾かしてあるのが見えてきた。格子の向こうに木の葉の輪郭
も見えた。壁の黒も、いまでは真っ黒というわけではなかった。テレビのフレームが、スクリ
ーンから峻別された。洗面所のドアが、壁のマスから切り離された。服やかばんがテーブルの
上に生まれでた。いま、彼女の肩がシーツから分離したのが見え、白いブラジャーのひもが飛
び出した。彼女の顔は、向こうの写真家の方を向いていた。首、耳、頬が、髪とは別個の物体
として存在しはじめるのが見えた。毛布のはしの、淡さの境界が見えた。彼女の呼吸が見えた。
15、
白く霞のかかった朝の空気は、新鮮な芽キャベツの匂いで湿っていて、まだ排気ガス
で濃密になってはいなかった。小さなまだらの犬が、歩道でキャンキャン鳴いている。警官が
二人、バイクで通り過ぎた。トゥクトゥクはほとんどが空で、バスも半分空だった。
太陽は運河の上の赤い玉で、その運河の紫灰色の霧もまだ悪臭を放ちだしてはいなかった。
モーターボートが弱々しく真ん中を進むその茶色の水は、唾のように濃くて、油やゴミ、落ち
葉が散っていた。ボートは橋の下の霧の中に消えたがその音はずっと後まで続き、ブロッコリ
Page 31
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
の頭を思わせる、大きく広がった木からは鳥たちが短い声をあげていた。アルミ屋根の小屋、
下見板に板壁が、河岸ややバナナの木をぬって走る運河の左右をかためている。日除けの下で
は男の子がしゃがんで脱糞し、横で母親が着替えている。運河沿いにはベニヤや下見板の長い
トンネルが走り、その中で人々は思い思いの生活をしている。茶色の犬と白い犬が、ノミをか
じっている。格子模様のサロンガを着た男が、樽から水を汲んでいる。赤ん坊が泣いている。
少年が服を洗っている。犬たちが濡れた足跡を歩道に残した。太陽は白さを増し、もっと高く、
熱くなっていた。空気はもっとすえた匂いになる。別のモーターボートが来て、こんどはとて
も速く、航跡を残してゆく。ほかのボートもエンジンをかけだした。サロンガを着た男が小屋
から出てきて、濡れたシャツを着た。はだしで歩いている。ほかの男たちもボートに乗りこむ。
この朝の始業風景は、ジョイのバーで女の子たちがだんだん集まってくる夕方の様子を思わせ
た。
16、
朝食時、写真家は枕の上にすわり、やさしい茶色の腕がその腰に巻きついて寝ている。
その秋、パッポンの女の子の八〇パーセントが AIDS 陽性と判定された。たぶん彼女も五年以内
に死ぬだろう。
17、
彼女は前と同じように目を大きく見開いてテレビまんがを見た。ルームサービスで頼
んだのはコーヒーだけで、あごを枕にのせて恍惚としてくすくす笑っている。一方で、ホテル
の高湿な廊下では、青い制服のメイドがタオルを畳みながらしゃべり、机にひじをつき、トゥ
クトゥクが通り過ぎて中庭の向こうの窓では洗濯物が乾き、ほとんど動くこともなく、タイル
の雨水も乾いく中、赤いお仕着せのホテル従業員の一人がタバコを吸いに出て腹をかき、中庭
の向こう側では上半身はだかの男が影になった窓にちらちらと反射している。
ジャーナリストの睾丸がかすかに光った。足の裏が、ゴムサンダルにはりついてかゆい。
突然、調光器のダイヤルを急に最大にまわしたようい太陽が照りつけだして、暑くなりだし
た。
18、
ジョイは去るとき、非常に控えめな服装で、愛想良く笑って見せた。そして二人と握
手した。彼女がそうなったのは、朝になって写真家が彼女の肛門を犯し、写真家も他の男と同
じだと彼女が思ったからなのだろうか。(写真家にいわせると、彼女は自分のヴァギナを指さ
して、ここ OK コンドーム OK と言い、そしてアヌスを指さしてここ OK コンドームなし OK と言
Page 32
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ったのだそうだ)。それとも彼女の愛情はただの演技だったのか?
さが演技なのか?
それともこのよそよそし
ジャーナリストの心は沈んだ。決してわかりはしないのだ。
19、
で、こんどの注射は何なんです?
とかれ。
医者の眼鏡が光った。――純粋カフェインです、とうれしそうに言う。
もしこれからはゴムをつけて他の女の子にうつさないようにしたら、今日からセックスして
もいいですか?
それはよくないと思いますよ、と医者。だって菌がもう精管のずっと奥まで入りこんでます
し・・・
20、
伝票 No. 03125(ソーダ水2、六〇バーツ)はもうコップの中で、淋病の熱の汗が顔
をつたい落ちた。バーではあの女の子二人がキングコングを見ている。頬がぽっちゃりしてい
て、めが大きく、ほとんどまばたきしない。(ジョイはまだ来ていなかった。たぶん狭い路地
のどこかよそで、まだ寝ているのだろう・・・)まぶしいほど白いTシャツを着た女の子が入
ってきて、続いてもう一人。二人ともその暑い午後、バーにもたれてしゃべり、一方でディス
コライトのスポットが動き出して、扇風機がギョロ目のようにぐるぐるとふくれあがり続ける。
ヌカカがサンダルのひもの間のところでジャーナリストの足を噛んだので、虫よけ薬を塗った。
女の子全員がこっちを見たので、商売が止まった。頬のぽっちゃりした娘二人は、キングコン
グの吠える、対角線上に向かい合ったテレビを見ていた。そしてテレビがヘリコプターだけに
なると、二人とも赤と黄色のカウンターでパチンパチンパチンと遊びだし、6x6、パチン、
またパチンとパターンが形成されるにしたがって熟考。集中しているので鼻面が下がってほと
んど盤の壁面にくっつきそうだ。髪は長く、頬は黄金のネクタリンよりすべすべ、あまりに若
く、あまりに完璧。もしかすると、彼女たちが完璧に見えたのは、こちらが毛穴の開いた白人
だからなのかもしれない。パチン、パチン。やがて無意味な遊びは終わり(無意味というのは、
ジャーナリスト相手に遊ぶ時のように十バーツ賭けていなかったから。ジャーナリストはいつ
も負けた)、すると女の一人がリリースを引っ張って、プラスチックのカウンターはガムの玉
のように下のトレーにジャラジャラ落ちる。そして彼女たちはまた始め、髪をなでつけ、手を
のばし、穴越しに手の肉を見せる。
ジャーナリストは仕事中で、女の子たちはときどき集まって、かれが書くのを眺めた。バー
から顔をあげて、写真家が説明する。こいつは自分の金玉に長い手紙を書くのが好きなんだよ。
オイのバーでは、西部劇のビデオが繰り返しかかっていて、もう六時なので夕食はオーダー
ストップになっていた。そして写真家が親切にも確認してくれたところでは、オイがやってき
Page 33
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
て働く時間だ。そしてたくましい白人男たちがにたついた。店員はダンスタイムの準備をして
いた。だれかが氷を割り、ベージュのミニスカートをはいた女の子が、グラスのおかれたレジ
のところで股を広げてすわり、ももの蚊に喰われたところをかいて、でかい緑の天井グリッド
のスイッチが入れられた。すると青い蛍光灯がついて、そして黄色と緑のスポットライトが斜
めに走り、そしてミラーボール、そして他のみんなと同様(みんな次第に幽霊じみてきていた)
に美しい顔をした女の子が、誘うようにジャーナリストに微笑み、パラシュートのリップコー
ドを引く時のように、大きな身ぶりで手を上から下に翻し、トイレに消えた。
ジャーナリストの歯が、熱でガチガチいった。――おい、たのむから倒れんなよ、と写真家。
だいじょうぶ。オイをどっかで見かけた?
とジャーナリスト。
待ってな。聞いてくる。
一瞬後に写真家が言った。えーとね、七時か七時半にくるって。待つ?
うん。
七時にトイがきた。ハーイと言って微笑んだ。今日オイこない、という。排泄物に香水をか
けたような匂いをさせていた。彼女には実に真摯なところがあって、ジャーナリストはもう少
しでどうでもいいやと言って、彼女に申しこむところだったけれど、断られたにちがいない。
かれはオイあての手紙を彼女に渡し、単語の一つ一つを英タイ辞典で彼女に示した。オイ――
ぼく、あの夜、きみの血が心配。だいじょうぶ?
オイは今日くる?
念を入れて、かれはもう一度たずねた。
トイはかれの腕を叩いた。――今日はこない。
トイ、今日ぼくとホテルくる?
いいえ。
きみ、ともだち?
OK ともだち OK。
オイ病気?
オイ今日ない。
そこへオイが微笑みながらやってきた。トイは踊りにいった。
ジャーナリストはオイを買って店を出て言った。きょうはいっしょに帰るだけ。寝てテレビ
見てマンコなし寝るだけ、わかる OK?
OK、とオイは笑った。
彼女はまったく健康そうだった。あれだけ心配した後なので、それがカンに障った。オイ?
オイ、ぼく、きみから病気。きみのマンコから。
オイはにっこりして顔を伏せた・・・
写真家は別のバーに戻ってジョイを買い、四人は暑く狭い小道を歩いた。男二人は色あせた
ちょっと汚い服で、女たちは華やかなイブニングウェアで。なんというもてなし!
オイは店
に入ってコンドームを買おうとして。いらない、というと彼女は嬉しそうだった。みんな、タ
クシーを拾ってホテルに戻った。ジョイが前の席で運転手と並んだ。オイがからだを押しつけ
Page 34
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
てくる。彼女の手を握り、脚をなでた。ドレスが汗でびっしょり濡れている。――暑い?
と
ジャーナリスト。――彼女はうなずいた。いつも、かれが何を言おうとうなずく。
パッポンではどれだけ働いてるの?
六カ月。
トイはどれだけ?
十カ月。
(トイ自身は、そこで六カ月働いていると言った)
写真家はにやにやした。ねえ、おまえ六カ月しかいないんなら、なんでトイが十カ月働いて
るって知ってるわけ?
オイは赤面して、罪深い頭を垂れた。
ジャーナリストがオイをホテルにつれこむ後ろで、写真家がタクシー運転手に金を払った。
ジャーナリストは雄々しくフロントに向かった。――二一〇号室を頼む。
ロビーのタイ人全員がだまって見つめた。オイは恥ずかしがって、背中にかじりついた。す
るとみんな、彼女を話題にしはじめた。オイは顔をあげて、所有者の後について階段をのぼり、
湿った熱気と露の匂いの中へと向かった・・・最初の踊り場で、もうみんなから見えなくなる
と、彼女はジャーナリストの手をとって情熱的に身をよせてきた・・・
かれはもう一度、彼女のせいで病気になったけど、かまわないんだよと伝えた。
わたし医者いった、医者、ここにこれした!
彼女はくすくす笑い、自分の尻を指さした。
後で彼女をはだかにすると、なにやら筋肉注射をされた痕のきょだいなばんそうこうが見えた。
女と自分の病気は同じはずなのに、受けた治療がちがうというのはどうも不安だった。――ま
あ考えないでおこう。
写真家が入ってきた。――同じ部屋?
とかれの腕にしがみついたジョイ。
だいじょうぶ。セックスしない。心配ないよ、とジャーナリスト。
本当にそのつもりだった――闇の中、ただそこにオイと横たわって、身を寄せあい、タイの
テレビを見る横で、写真家とジョイも同じようにするのだ。言うまでもなく、ひとたび写真家
がシャワーを浴びて、タオル一枚で出てきて自分のチンポコについて冗談を連発しだすと、ジ
ャーナリストにも実際のことの成りゆきが理解できた。かれもシャワーを浴びた・・・
写真家は笑った。――マジでシャワーに戻れよ。終わったか?
ジャーナリストはただうなずいた。寒気がしていた。シャツを腰にまいてうろうろした。女
たちは笑った。ジョイは首を振って、あなたバー、と言い続けたが、それはあなた気狂い、と
いう意味で、かれはびしょぬれのままベッドに飛びこんだ。従順なオイは、華やかな服のまま
寄り添ってきた・・・
シャワー浴びてこいよ、とかれ。
やっと彼女は、もう一枚のタオルをつけて浴びにいった。明かりはまだついていた。だれか
がトイレを流す度に、床にあふれた。その水の心休まるきらめきが、洗面所のタイルに見いだ
せた・・・彼女はベッドにもぐりこみ、かれを抱きしめ、かれは手を彼女の股間にさしこんで、
Page 35
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
狭い茂みを感じて嬉しかった。
わたし、十時いく。トイの誕生日。トイ、姉さん。
はいはい、おおせのままに。
かれは女の乳首を吸って横たわり、女はかれを抱いた。ちょっとキスさせてくれたけれど、
気に入らないようだった。からだはほっそりして、乳首もちょうどいい。今夜は、顔が前より
丸く、老いて見えた。声も前よりしゃがれていた。咳ばかりしている。しばらくすると、かれ
のペニスで遊びだした。さっさとすませてしまおうと思ったのだろう。勃起はしたが、それを
使いたいとは思わなかった。グレープフルーツ大にふくれた金玉は、からだの他の部分から切
り離されたかのようだった。まだやる気はなかったが、腰にシャツを巻いただけで洗面所に向
かうとき、娼婦たちはルームサービスを食べながらすわっていて(ボーイは半暗がりの部屋に
食べ物を運びこむとき、半裸の女たちをはべらして王侯のようにすわる写真家とジャーナリス
トから、慎重に目をそらした)、亀頭がシャツの下からのぞいて、女たちは笑い出して、それ
からジャーナリストも学校のおどけ者みたいにわざとらしく振る舞いだした。まじ、オイをく
すぐりだした。そして彼女を抱えてまわり、カバーをめくってはだかの彼女をさらしものにし
た。オイは笑った(たぶん本気でやなやつと思われてるぜ、と写真家はかぶりをふった)。そ
してからだをこすりつけてきては、何かをジャーナリストにさせようとして、それから時計を
見る・・・
やがて、彼女はうまい具合にからだをこすりつけてきて、やらざるを得ないことをかれも悟
った。なんと面倒な。でも、人生アボカドソースのベッドばかりではないのだ。かれは KY を彼
女のマンコにしぼりこみ、ゴムを渡すと、するとそれのつけかたを知らないという・・・大し
たもんじゃないか!
いっしょうけんめいやってはくれたが、どうも理解できなかったようだ。
かれは自分でつけると、挿入した。彼女はいくふりをして、かれもいくふりをした。どうでも
よかった。半開きの洗面所のドアから漏れる光のカーペットの中で、他の二人が遠くのベッド
で励んでいた。オイは横たわって、写真家がシクロの運転手のように、三輪の間高くにすわっ
てゆっくりペダルを漕いでいるのを眺めていた。そして手で口を覆い、そっと笑った。一方ジ
ョイは、突然オイがジャーナリストの上にのっかっているのに気がつき、自分の相手から降り
ると洗面所に入り、大きな音でシャワーを長いこと浴びた。
彼女のからだで遊ぶのは本当に楽しかった。熱っぽくリラックスして横たわり、テレビがア
イアイと言う横で、何でもしたいことをする――もし指を女につっこみたければ、グリースを
塗って即つっこむ!――おれは淋病だ!
とかれは自分に宣言し、なんだか大賞をもらったよ
うな気がした。頭が軽く、客観的なまま、かれは彼女にすりよって匂いをかぎ、沿った脇かを
しゃぶり、避けようとする彼女の顔をキスで探求した。たまにつかまえて、唇にキスすると、
彼女は笑った。股間に触れるたびに彼女はアンアンと言い出して、エクスタシー時のように腰
をゆすりだしたが、マンコは乾いたままで表情も変わらず、鼓動もかれのもう片方の手の下で
一向にはやまらなかった・・・かれは横たわり、遊び、愛撫したが、それは喜ばしい病気のき
りの中でのことで、あと四時間で去るバンコクの煙るスプロールのようであり、それは東に連
Page 36
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
なり、大きな灰色の水の四角の上空をすぎて灰色となり、暑いオレンジ色の空にたなびいてい
るのだった。いまのところ、まだ暗かった。彼女はかれにまたやらせようとして、かれは自分
の無益で無意味な勃起で彼女が遊ぶに任せた。後に、かれは彼女を肩車して、下着姿で部屋を
かけまわり、彼女は肩の上でしがみつき、おもしろがってかこわがってか笑い、それを見て写
真家と娼婦が苦しくなるほど笑い転げるのだった。
かれは言い続けた。オイ、カンブジャ行きたい?
いくない!
いくない!
カンブジャの人、悪い!
タイの人、こう(と祈った)。カンブ
ジャの人、こうね!(と謹厳に敬礼)。ジャーナリストも敬礼を返し、彼女はまた身をすくめ
るのだった・・・
21、
オイは注射のおかげですこぶる元気だった。――でも、もし本当は元気でなかった
ら?
もし最初の時も今回も、ひどい痛みにおそわれていたら?
もし彼女が、医者代か家賃
のための金目当てにやったのだとしたら?
22、
ジョイはもちろん、最後の最後まで写真家と一緒だった。ジョイには格というものが
あった。写真家にも格があった。タイにいる間ずっと、ジャーナリスト(あわれなダメ男)は
ショートの相手の女の子しか見つけられなかった・・・
23、
灰緑とベージュの四角が、はがれかけて下のコルクをのぞかせているダート盤のよう
だ。これやその他の、灰色の水の四角が、朝に冷やされた茂みや、輝きつつ湿った様々な緑や
灰色の長方形の中を加速する飛行機の影を吸収した・・・
カンボジアはナンセンスなしの国のようだった。滑走路には兵士の列が待ち受け、各兵士が
写真家やジャーナリストを次の兵士へと向かわせるのだった。
24、
ホテルのロビーに入って、紙袋からリエルの札束をいくつか取り出した。 ――お金
を少々いかが、とコンシェルジュに言う・・・そしてフランスからの独立記念モニュメントの
ある巨大ロータリーの中心を駆け抜ける。暑く、力がなく、寒気がした。カフェイン注射のお
かげで、もう二晩寝ていない。外務省の、幅広い大儀そうな中庭やポルティコは、残りのプノ
Page 37
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ンペンと同じく空っぽに見えたけれど(何人が殺されたのだろう)、そこでかれと写真家はプ
レス通行証をもてあそびつつすわり、自分たちの命運が決せられるのを待っていた。――わが
国では、目下、市民軍のほうが正規軍より大きな役割を担っています、と役人が説明し、ジャ
ーナリストはそれを慎重に書き留める横で、写真家はあくびをした。――タイル張りの屋根が、
ところどころピンクの四角になってはがれていて、へんてこな錆かコケのようだった。午後は
白檀のような匂いがした。役人が散在する小屋の一つに案内してくれて、明日またくるように
と言う。二人はシクロでホテルに戻り、写真家は外に出て、地雷を踏んだという乞食たちの写
真を撮り、ジャーナリストはベッドに横になって休んだ。腹這いになると同時に、金玉袋の中
でなにかが動くようで、痛くはないけれどきわめて深いなしこりとなって、金玉を圧迫するよ
うで、まるでそれが腐って中で液体化して、ゆっくりと陰嚢の底につたい落ちてゆくような感
じだった。これを考えると、笑わずにはいられなかった。
もう夕方で、外出禁止令の時間が迫っていた。男の子たちがおもちゃのピストルを撃ってい
て、みんな歓声をあげていた。サンダル履きで、紺のシャツを着て、紺の人民帽をかぶった少
年が、ゆっくりとシクロをこいで通り過ぎる。写真家は、ホテル向かいのフランス・レストラ
ンからテイクアウトの食事を持ってきてくれた――ステーキとフライ。ジャーナリストは大い
に感謝した。
25、
朝空は繊細な灰色で、テラスをネコが徘徊し、ご婦人方が鉢植えの間をぶらぶらし、
四、五階建てのアパート群の、冷ややかなドアのすべてが開け放たれ、X型の換気口がそれぞ
れの領土のてっぺんに開き、窓には格子。ジャーナリストはベッドに横たわり、ふくれあがっ
た金玉を握りしめていた。すてきに熱を発している。パンツが尻にはりついて湯気たつようだ。
ホテルのメイドがやってきて部屋を掃除した。月七千リアルの稼ぎだという。クメール・ルー
ジュが彼女の父親、祖父、妹、弟二人を殺したという。戦場では、クメール・ルージュのため
に一生懸命働いた・・・
26、
通りの上空を雲が吹かれゆく。紙が舞い上がりだす。物売りたちが、自分の屋台を覆
いに走る。いきなり雨の驟音がやってきた。民兵が駆け出す。はだか同然の子どもたちが、笑
いながら踊る。鉢植えがテラスでふるえる。いまや雨が本気で斜めに降り注ぎ、人々は閉じか
けの格子の間に身をはさんで外を眺めている。シクロの運転手が漕ぎ続けていた。その乗客の
女性二人は、赤いカサをさしていた。電線が揺れる。雨は重い白い川となって身震いする。少
年が、通りの仏像にはだしで祈り、それから手を握りあわせて踊ると、びしょぬれのシャツか
ら水がなだれ落ちる。雷鳴、そして雨は煙のようにたたきつける。屋根の雨樋から水がほとば
Page 38
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
しる・・・
27、
英語教師は黒板に sixteen と標準アルファベットと発音記号で書き、子どもたちはノ
ートに sixteen と書き、そして英語教師が seventeen と書こうとしたとき停電となって、み
んな暗闇の中ですわっていた。
英語が上手ですね、とジャーナリスト。
イエス、と教師。
どこで習ったんですか。
イエス。
お名前は?
イエス、いや、二十二。
うん、まったく見事なもんだ、と写真家が晴れ晴れと言った。本当にお見事。マンコって何
のことか知ってます?
28、
湯気たつほど新鮮に、白檀の夜は外出禁止の時間に近づき、バルコニーからは水がチ
ョロチョロ流れ落ち、孤児たちは歩道のベッドフレームにすわって飯に群がっている。格子窓
はほとんどすべてが閉じられていた。一つだけ開いている。黄色の光の中で、婦人が子どもと
立っていて、守る青い自転車の列の泥除けが金色の輝きを放っている。歩道では少年たちが鹿
を切り分けていた。鹿は死んで鈎につるされている。その残りはヘビのようなステーキの帯、
赤と白のあばらとなって、みんなのナイフに引きはがされつつ踊る。ジャーナリストはそれを
見物にでかけ、みんながかれを見物におしよせて叫んだ。ナンバーワン!――まだ娼婦を選ん
ではいなかった。みんなまだかれが好きだった。――また一つ長い筋が切りはがされた――も
はや骨以外ほとんど残っていない。たくましい茶色の腕をした少年が、揺れる背骨を恋人のよ
うに抱きしめた。別の少年が、そこに肉切り包丁を走らせる。鳥のように細い首の死骸は、窓
の格子に向かって逃げようとしたけれど、強い少年がそれを許さなかった。
29、
抗生物質から三日目、金玉の中で何かがポップコーンのようにはじけ、気分がよくな
りだしたときは、なんと幸せだったことか!
しこりはいまやリンパ腺の中に移動していたけ
れど、それも消えるのはまちがいない。
お祝いに、かれはホテルのメイドたちみんなにプレス通行証を見せびらかした。――あなた、
Page 39
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
すごくハンサム、と彼女たち。
30、
英語のしゃべれない英語教師と約束があった。子供たちは闇の中のシルエットになっ
ていて、ABCDEFG・・・と歌っていた。黒板には THE ENGLISH ALPHABET と書いてあった。教師
がこれを指さすと、子供たちは
ダ・イーエー・アーファベッ
なんでこのアルファベット、Sで止まってるんですか?
と言った。
とジャーナリスト。
イエス、と教師は答えた。
ジャーナリストは、聖像画のように闇を集約した写真を指さした。――わたし父、ポルポト
政権に死にました、と教師はあっさり言った。アンコール・ワット行って仏像隠そうしました。
それでゆっくり痛く殺しました……
一瞬、ジャーナリストはこの教師を抱きしめたいと思った。かわりに床を見つめ、鼻と額か
ら汗が滴った。顔をぬぐうと、すぐにまた濡れてきた。
英語教師とその友人は、ジャーナリストと写真家をだれかの家に連れていった。部屋は暗か
った。だれかがロウソクを灯し、外のガソリン発電機につないだ。すると明かりがパッとつい
た。壁の格子越しに見える外は闇だった。ジャーナリストはすみにすわり、冷たい紅茶とケー
キを消費した。写真家は不安そうに汗を流していた。とても暑かった。数分後、かれらは家の
主人に礼を述べて食事にでかけた。
雨降る通りの屋外テーブルにつくと、明かりのついたキャノピーの下から、または木にもた
れたりしてかれらを眺めた。雨がバイクのヘッドライトにきらめく。テーブルの上には冷たい
お茶のポットがあった。片足の乞食が次から次へとやってきて、中には軍服を着たのもいた。
ジャーナリストはその全員に百リアルずつやった。かれも写真家も、まだたくさんお金を持っ
ていたからだ。英語教師は内蔵とトウガラシ入りの中華麺を頼んだ。それからみんなで散歩に
いった。英語教師の友達が、映画を観ようと行ったが、それはポスターにあった支那の怒れる
幽霊の映画ではなく、吹き替え版のアメリカ映画だった。セメントの壁をトカゲが登り下りし
ていた。うだるような暑さだった。五分もしないうちに、ジャーナリストはそこを出たくなっ
た。十分後、かれは座席からすべり出て暗い階段を下りた。英語教師とその友人が傷つくのは
わかっていて、だから後ろめたかったけれど、でもほんのちょっとだけ。だって、夕食をおご
ってやったんだし。少なくとも写真家は気にしないだろう。
外出禁止の夜は素晴らしかった。雨は暑く黒い空から汗粒のように、かろうじて水滴へと凝
集して降っていた。バイクが通りをブルブルと通り過ぎる。女性が一人、ゆっくりと雨の中で
自転車をこいでゆく。濡れた青のスカートがももに張り付いている様子を見るのはすてきだっ
た。新市場の横を通り、邪悪な意外性をもって口をあけているディスコの暗い入り口を見つけ
た。写真家に話し手やろう、と思った。(中には入らなかった。タクシー・ガールやバイクの
運転手の群れが、手をももにのせたり、優しげに、蒼白に、肩越しにこちらを見たりしつつ笑
Page 40
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
っているようすは、黒灰青の謎の氷のかたまりのようでかれをしりごみさせたのだった。)床
がチェス盤状の小さなレストランは映画館に早変わりして、隅の高いところにおかれたテレビ
を、母親と子供たちが椅子をすし詰めにしながら、熱心に眺めていた。はだかの子供が二人、
兄と妹が、歩道にすわって格子をのぞきこんでいた。ハニカム格子の升目一つ一つが、ジャー
ナリスト一人のために切り抜かれた世界で、かれは他のみんなにとってのテレビのように、そ
れをのぞきこんでは、その中に連れこまれることを渇望するのだった。真っ暗な通りを横断し
つつ、かれはシクロや自転車(みんなヘッドライトなしで無音)をかわした。だれも夜間外出
禁止令をあまり気にかけなくなっていた。それでも、時間が短縮するにつれて、伸縮性の鉄格
子がますます延伸され、すべてを捕捉して闇の中に閉じこめようとするのだった。女の子たち
がテラスから身を乗り出す。ドアが開いて、暗闇か、あるいは明るく回る扇風機をのぞかせる。
女の子たちは両手を手すりにかけて身を乗り出し、その腕時計の文字盤が炎のように白い。お
互いにゴシップをかわしあい、暑い夜の雨粒を楽しみ、少年が長くゆっくりとした歩調で道を
横切るのを眺める。そのサンダルのこすれる音が続き、青いシャツが夜の水族館のように輝い
ている。ホテルの壁では頭を下にしてトカゲが待っていた。女の子たちはジャーナリストを見
て手を振った。かれは手を振り返した。黒犬が、動く穴のように大急ぎで道を渡る。
31、
ホテルには、胸をはだけた女の子の写真が蝶の羽根状のスカートを着て、SF宮殿の
前で腰まで霧につかっている絵がかかっていた。夜があまりに暑くて、顔はまるで湯気たつや
かんをのぞきこんだような感じだった。部屋に入り、エアコンをつけ(かれと写真家は、高潔
なモラルの持ち主であったがゆえに、いつもファーストクラスで旅行した)、シャワーを浴び
た。はだかで冷たいシャワーの中に立っているところへ、写真家が娼婦二人をつれて入ってき
た。
32、
かれらはジャーナリストが通り過ぎたあのディスコからきた、ということがすぐにわ
かった(写真家の心は、立派な戦果をあげるたびにはずむのだった)。――おれ、背の高いほ
うをとるつもりだったんだけどね、ほら、あの脚がおれに巻き付いたらよさそうじゃん、でも
通りに出たとたん、ちびのほうが手を握ってきたから、まあそういうことでいいか。――まあ
いいだろう、とジャーナリストは答えてタオルでからだをふくと、女の子たちは叫んで目をそ
らした。――まずかれの薬や錠剤をすべて検分し、ふくろはクンクン嗅ぎ、ンンンニィ!
と
叫び、コンドームにくすくす笑い、女学生のように指さしてはささやきあっている。写真家の
女はすでにシャワーを浴びて出てきており、タオルにくるまって半ばとりすましている。ジャ
ーナリストの女は服を着たままだった。かれのことがさほど好きではないようだったが、でも
Page 41
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
それは毎度のことで、女の子はだれもかれを好きじゃないのだ。扁平足のせいか、根性がやわ
なせいか?
幸運なことに、これは小ニュースにして書けという依頼が一度もきたことのない
ネタだった。――見ろよ!
むきだしだぜ!
と写真家は叫んだ。まったくあいつら、くそザルみたいに好奇心
――女たちは、かれのガイドブックの実用用語編に載っているクメール語の
単語を、苦労しいしい口にした。角砂糖の箱をあけ、無数のアリが群がっていたのに、一つず
つ口にした。ジャーナリストの女は片目の上にほくろがあった。何かを閉じたり開いたりする
たびに、その眉が優美な驚きでひそめられるのだった。ストライプ入りの黒いドレスを着てい
る。とても上品な雰囲気を漂わせていた。ジャーナリストはちょっと気圧されてしまった。汗
をかきつつベッドに横たわり、二人を眺め続けた。検分を終えると、女たちはすべてを善良な
主婦のようにきちんと整頓したので、ジャーナリストと写真家は自分の持ち物を見つけだすの
に何日もかかってしまった。でも、非常に善意の若い女性たちだったのだ……満足そうに鏡を
のぞき、写真家の女は口紅の紫の筒を傾け、それを優しく愛するペニスのように、下唇に沿っ
てはわせると、イヤリングとネックレスが黄金に輝き、髪が黒、それもイカ墨のように漆黒に
こぼれ落ちた。突然彼女は写真家に向きなおり、鼻のほくろでかれを盗み見ながら、闇の中の
紅茶色の顔と目に、キラキラとうかがうような色を浮かべつつ髪を三つ編みにしてくれて、は
じけそうな青のドレスをおっぱいの上から撫でつける。でも、ジャーナリストの女は、一度も
鏡から目を離そうとしなかった。それに微笑みかけたり、鼻をおしつけて、鏡以外の何も見な
くてすむようにしたり。ホテルの部屋の湿った闇の中で、彼女の褐色の乳房のまわりの黄金の
輝きだけが、光のしずくのようで、顔は正面を向くか伏せられて、実はそれなりに満足してい
たのかもしれない。それともあの微笑は、実は諦め半分の渋面だったのか。
33、
写真家の女はすぐに準備万端だった。でも三十分たっても、ジャーナリストの女はま
だ洗面所に音もたてずにこもりきり、ドアを閉めていた。立ち尽くして眺めている自分の小さ
な鏡の裏には、男女交合の図が描かれ……
34、
彼女とはもっぱら身ぶりで会話した。彼女はかれの頬やおでこを、小さく鼻を鳴らし
ながら嗅ぐのが好きだったけれど、キスはいやがった。キスしようとすると、顔をそむけて枕
に伏せるので、かれはオイが買われた時に急いでやったように、手を三角にあわせて拝んで見
せて、オイはたぶん、見られませんようにと思っていたのだろうけれど、たぶんかれがたくさ
んお金をくれますようにと祈っていたのだろう。それでかれは、それをこのカンボジアの娘に
向かってやった。乞食がそうするのを見た。お願いだ、と言うのに手を合わせ、人差し指を自
分の唇に触れてから、相手の唇に触れた――そして彼女は拝み返してきて、やめてくださいと
Page 42
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
言う。ときどき、無理にキスすると、彼女は顔を強くそむけ、あるいは閉じた唇にしかさせて
くれなかった。そしてたまにかれが手を三角にあわせてお願いして、自分の唇から彼女のマン
コへと指を移動させると、彼女は手をふって拒絶するので、それはやらなかった。拝んでキス
をせがむと、彼女も拝んで断る。そこで、拝んで自分の股間と彼女の股間を指さすと、はいと
うなずく。
35、
かれは、できる限りの愛情をこめて微笑みかけた。彼女に好きになってほしかった。
上にのっかる娼婦に気に入ってもらうほうが、何かとことがうまく運ぶのだ。――実を言うと、
かれは本気で彼女が気に入っていた。彼女の胸に指先でハートを描いてやり、微笑んだが、彼
女のほうは、真剣な顔でこちらを見返すのだった。そしていきなり、彼女は爪を軽くかれの手
首のまわりに走らせ、そして自分を指さした。――何が言いたかったのだろう。数多くの娼婦
が、ブレスレットがわりに宗教的な意味を持つ糸を手首に巻いていた。そのことだろうか?
な
ぜだか、そうとは思えなかった……
36、
ベナドリルをもっと。なあ、ベナドリルをもっとだってば。写真家の女がその晩四回
目か五回目に、くすくす笑いながら明かりをつけると、ジャーナリストは泣き言を言った。正
確に何時かはわからなかった。時計がタイで盗まれていたからで、たぶん犯人はオイだろう…
…写真家の女は、ジャーナリストがセックスするのを見るのが大好きだった。写真家につっこ
まれているときでも、彼女はいつも熱心にもう一方のベッドをながめ、ジャーナリストの尻が
シーツの下でひょこひょこしているのが見えないかと期待するのだった。機会があれば、必ず
忍び寄ってシーツをはぎ取り、はだかのジャーナリストと裸の娘を見ようとした。そして大喜
びで悲鳴を上げる。すごくおかしかったけれど、でも毎回おかしさは薄れていった。――あり
がたいことに、二人ともジャーナリストの与えた錠剤はなんでもおとなしく飲んだ。写真家は、
ジャーナリストが医者だと告げ、そしてジャーナリスト自身はそれを肯定も否定もしなかった
けれど、したところでどのみち二人とも理解できなかったにちがいない。だからベナドリルを
飲ませた。自分の子に一粒、はしゃぎすぎのもう一人には三粒。それでも二人とも明かりを何
度もつけて、今の時間を調べようとし続けた。外出禁止令の終わりまでに帰りたがっていたの
だ。――ジャーナリストの女はかれにもたれ、そのひんやりした重さのない指がかれの胸に乗
っていた。顔は整髪料のような甘酸っぱい匂い。朝になると、からだにタオルを巻いて金と紫
のドレスにすべりこんだ。そして、ベッドから遠く離れた椅子にすわり、口紅を整え、アイラ
イナーを使って、時々もう一人の女の子のおしゃべりに短い返答をつぶやいた。もう一人のほ
うは、サ行の音がきつい子供みたいな声をしていた。椅子にすわった女は、下唇の外縁部に、
Page 43
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
口紅をとてもゆっくりと走らせた。ジャーナリストが自分を見ているのに気がついて、警戒す
るように微笑み、またポケットミラーを掲げた。頬から髪の毛を払って整えると、あの病的に
甘酸っぱいクリームをもっと塗り始めた。
37、
ひとたび娘たちが帰ってしまうと、写真家はあいつらとは二度と顔をあわせたくない、
と言った。だって、あの女、何にもやりたがんねーんだぜ!――それにあんまり悲しそうな顔
をするものだから、まるで強姦魔みたいな気分になってしまったのだ。あいつ、何考えてやが
ったんだ?
――でもこうした非常に理にかなった感情を伝え終えると同時に、かれの胸は痛
みだした。もちろん写真家には言わなかった。二人は滅多にそういう話はしなかった。でも、
彼女が自分のズボンをきちんと椅子にかけ、自分の金をきれいな山にして重ねて一枚も盗まな
かったのが思い起こされた。立ち去る前に、かれの指を一本ずつ引っ張って鳴らし、それから
それを後ろにそらせたことも。彼女なりに、ジャーナリストを喜ばせ、面倒を見ようとしてい
たのだ。
38、
その夜、ディスコでは彼女に会わなかった。群衆が耳障りな音をあげる中、かれは座
って待っていた。やっと彼女の友達の、写真家の女がテーブルにやってきた。汗で光っている。
踊っていたのだろう。かれは英語のしゃべれない英語教師に、自分の相手の子がどこにいるか
きいてくれと頼んだ。教師は言った。その子、今日はここ来ない。――すでにかれらは別の子
をあてがおうとしていた。ありがとう、でも今は結構。もっと聞き出そうとしたら、気がつく
と隣に別の子がすわっていて、どうやらこの子にもドリンクを買ってやらないと、傷つくだろ
うなと思って、すると写真家の女が唇をかみしめて地団駄を踏んで、そして昨日の子がやって
きて、ジャーナリストと別の子を、じっと立ったまま見つめるのだった。
39、
かれは自分の子を指さすと、自分の手首のまわりの空想上のブレスレットをたどって
見せた。(その子の名前すら知らなかった。写真家の女には名前をたずねて、するとパラとか
何とか答えた。彼女にパラと呼びかけてみたけれど、向こうはきょとんとした顔でこちらを見
るだけだった。)ついに新しい子は、自分のドリンクを持って立ち上がり、とぼとぼと立ち去
っていった。申し訳ないと伝えたくて、彼女の肩を叩いたのだけれど、それもどうやらその場
にふさわしくない行いのようだった。昨日の子が彼女のかわりに座って、怒っているのが感じ
られ、その怒りが暗がりの中でじっと炎のように白く燃え上がり、ほとんど人間から離れた別
Page 44
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
個の存在のようだった。
40、
でもその夜、彼女の閉じた唇に、自分の閉じた唇をそっとあてがい、タイやカンボジ
アの女性がどんなにキスを嫌っているか知っていたのでそれ以上何もしないようにしていたら、
相手の口がゆっくり開いて、舌の先が出てきた。
41、
なに、フレンチキスさせたって?
狂信者ども二人がごろりと横たわり、戦果を語り
合っている時に、写真家が笑った。――そりゃ最高。彼女、ホントに気色悪がってたんだろう
なあ。
42、
魚の山が崩れてドックを臭気で満たし、頭のあったところに血を流す口、白いギョロ
目の円弧状のエラがついた頭が、月経中のキノコの下側みたいな、その新たな切り口を見せて
いる。頭は巨大なアルミのボウルに入れられた。そして手を血塗れにした女の子たちがしゃが
んで、臓物の山を選り分け始め、内側の黄色いヘビ状組織を取り出していった。ドックは血で
赤かった。――別の山(すべすべした銀色の魚)はまだピチピチはねていた。蝿が、まだ死ん
でもいない魚たちの上を這い回っている。
踏むとたわむ渡し板が、湿って頭の丸くなった、皮のない棒の枠の上に渡されていた。大き
な魚、小さな魚が水空間の中できらめく。シェアムレップからの魚だ。漁民たちは、4カ月に
わたって魚にトウモロコシを食わせてきた。うまくいけば、一億リアル以上の収益をあげるこ
とになる。大かごいっぱいの生きた魚が、天使のように優しくあえぎ、エラを翼のように広げ、
唇は最後の水の呼吸を含み、やがて目がどんよりとなる。輝きを止める。ハエは黒いブドウの
塊のように、それに分厚く群がる。
男がエラに紐を通して魚二匹をゆわえた。そしてそれをかつぎ去った。
汚い白シャツとズボン姿の若者たちが、渡し板に駆け出してきた。そして水に飛びこむ。網
を引きこみ始める。豪華なヒョウ紋蝶が、その頭上に舞い降りる。なぜ蝶は血を好むのだろう、
とジャーナリストは思った。蝶の美しさは一種の復讐のようで、かれはわけもわからず勘ぐっ
てしまうのだった。
輝く茶色の少年たちが川からあがってきて、木の枠にすわっている。網の中で魚がはねる。
少年たちは網をもう少したぐりこむ。魚の跳ねかたは、騒々しく激しくなった。魚たちは命が
けで戦っている。少年たちは仕事を始めた。魚を一匹づつ尻尾のところでつかまえる。まだ小
Page 45
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
さすぎたら川に投げ返した。もっとも、ごくたまにしか起きないことだったが。普通は、太い
棒で頭のてっぺんのところを殴りつけた。そして動かなくなり、口から血が流れだすまで梁に
頭をたたきつけた。
蝶は血だまりに舞い降りて、血をすすっていた。
ノートを持った男が数字を書き留めた。シャツのポケットに、札束を持っている。別の男が
立っていて、電卓を叩いている。証券取引所のようだ。
死んだ魚が大きなかごに集められた。男二人はそれに棒を差しこみ、棒を過多にかつぐと、
長くぶよぶよとたわむ渡り板二枚の上を通って陸へと運び去る。それが通る横にいる写真家は
悪夢のように顔をしかめ、ジャーナリストは汗を流し、土を幅の広いモッコにかきこんでいる
人々はその土を堤防にぶちまけて、土方たちがそれを突き固めていた。(みんな洪水を心配し
ていたのだ)。男二人は歩き続け、やがてかごをトラックの荷台に下ろした。
水中の、木の壁でできた牢獄の中、少年たちは網をあげ、ヒレが水を離れた。しゃがんた娘
が大きな肉切り包丁で、さっそく他の魚の頭を切り落としていた。爪先が血で真紅に染まって
いる。
43、
ディスコはうだるように暑く、みんなホステスの持ってきたウェットタオルで顔を拭
いた。間抜けな光の波が壁を横切って走る。
ゆー、はっぴー?
ぐっど!
と英語のしゃべれない英語教師がたずねた。
あいむ・べりー・えきさいと、ともう一人……
そこはまばらに電球のともった、長く低い場所だった。女の子たちがアー!とかウー!とか
アイー!とか叫ぶ一方、群衆がゆっくりと汗だくで波打つ。ザーメン色の光が。男たちの青と
白のシャツや女たちのだぶっとしたシルクのパジャマ・パンツやドレスにちらつく。それにつ
きものの、安っぽい床屋の匂いが、うっとうしいクリスマスの電飾のようにのどをつまらせた。
バーメイドがタイガー・ビールの大缶を持ってきた。まわりに手をしっかりと巻き付けて、ま
るで酔っぱらいの夢の中にでもいるようだ……
44、
彼女はほとんど微笑まなかった。またもやその晩、彼女は自分の手首のまわりの見え
ないブレスレットをたどり、そしてかれの手首のをたどった。彼女が眠るのを眺めた。夜中、
もっと強く抱きしめるためだけに、彼女を自分の上に引き寄せたけれど、毛布と同じくらいの
重さしかないように感じられた。
Page 46
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
45、
横たわる彼女はほとんど呼吸もしていない。鼓動もほとんど聞こえない。手は胸の間に折り
畳まれている。乳首はとても長く、茶色で細かった。
46、
朝になると、彼女はかれの手足の指関節を鳴らしてくれた。腕と脚をのばしてくれた。
全身をパタパタ叩いてくれた。それから鏡とランデブーを果たし、ゆっくりと押し黙って眉を
塗り続けた。彼女がそれを終えると、ジャーナリストはガイドブックを持って彼女とすわった。
現地語の辞書がついているのだ。食べ物をさす言葉をすべて指さして、彼女を指さし、それか
ら自分を指さす。彼女はすわっているだけだった。二人でどこかへ出かけることを示す身ぶり
をしてみせた。彼女はだまってついてきた。ドアに鍵をかけた。いっしょに下りたロビーは視
線の世界で、かれの顔の弱々しいほくそ笑みは一撃でぬぐい去られてしまったのだけれど、視
線はだまってこちらを見つめていた。彼女は背後の階段にいて、ゆっくりこっそり降りてきて
いた。フロントに鍵を戻したときは、ずっと遅れていた。ちょっと追いつく余裕を与えたけれ
ど、あまり待ちすぎるのも嫌がるだろうと思ってほどほどにして、スパイや見物人や冷やかし
やねたみのさらに多い通りへと出て、彼女はさっきよりもっと遅れてついてくるのだった。か
れと並んで歩くところを見られるのはつらいのだろう。一番いいのは、彼女の方を見ずに歩く
ことだろうと考えて、半街区ほどそうしてから屋外レストランにすわると、お茶とパンを持っ
てきてくれた。彼女はきていなかった。お茶を少しすすると、金を払い、げんなりして戻った。
タバコ売りの娘にたずねた。ぼくの友達を見た?
市場。あっち。と彼女。
伝えてくれ。ホテルきたら、入れって。
ノー、ノー。あなた、市場いく。彼女あっち。
行っては見たけれど、もちろん見つかるはずもなかった。
47、
一日中惨めな気分だった。もうセックスしたくはなかった。物事をはっきりさせたか
っただけ。だれか英語のしゃべれる人間を見つけよう……
何度も何度も、かれは市場の黄色い段つきセメントドームをぐるぐるまわった。車の流れは
遅くて、横断者たちが道の真ん中につっ立っていられるほどだった。日傘や縞模様の日除けの
下をぶらぶら散歩した。そのそれぞれの下に、物売りの屋台かテーブルがある。そして時々、
かれらは何かを売りつけようとした。両替屋が、タバコのカートンのぎざぎざした壁の向こう
から、こちらの様子をうかがっている。でもかれが求める女店員は一人だけで、彼女の持ち物
は、どうやらかれには決して売ってもらえないらしい。
Page 47
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
一方、写真家の女は残った。写真家は、彼女にうんざりし出していた。自分とジャーナリス
トはそろそろ仕事を始めなくてはならない、と告げた。そして彼女を指さしてから、ドアを指
さしたけれど、女は必死でわからないふりをした。昼近くなってきたのに、まだ女は部屋にい
る。金のブレスレットを買ってほしいのだという。みんな、三人とも外に出て、写真家はジャ
ーナリストにこう言った。よーし、おれたちそれぞれシクロをつかまえて逃げるぞ。
どこへ?
どこへ、だと!
写真家は驚嘆して叫んだ。どこだっていい!
とにかくあのスベタを厄介
払いして……ああくそっ、向こうもシクロをつかまえやがった!
とうとう彼女の家につれていかれた。とても暗く狭い未舗装の道をぬけて、右に曲がって小
道へ、さらに幅五センチの急なはしごを登り、採光と換気用に小さな四角い窓が列をなしてい
る木の煙のような匂いの雑居部屋にたどりついた。床の水たまりが、天井のぼろぼろのしっく
いを暗く反映している。蚊や蚤がジャーナリストの脚を噛んだ。部屋はベッドだらけで、それ
ぞれが洗濯物のように紐でつるされた、模様つきの布で囲まれている。堅牢なベッドで、きち
んとメークされている。ベッド一つあたり一人か二人が寝ていて、とても静かで、ある者は眠
っていてある者は起きている。写真家の女は、ここに暮らすのに年一万リアル払っているとい
う。叔母と一緒に、壁際のベッドに住んでいるのだ。
彼女は写真家を自分の上に引き倒し、自分と結婚させようとした――ゴールドのチェーンで
――
この子、何回結婚してるんです?
とジャーナリストがたずねた。
叔母は笑って、かれを扇いでくれた。――五回。
うちおろされるマレットの音が聞こえ、むきだしの女の脚の影が、きたない灰色のセメント
上にある最寄りの水たまりを暗くしているのが見えた。写真家は、大儀そうにうんざりしてベ
ッドに横たわり、その上では娘がめそめそと、自分のマシンの車輪を洗うシクロ運転手のよう
に、ゆっくりとだが決然と相手を説得しようと努めていた。ジャーナリストは彼女がかわいそ
うになった。
こんどはみんな、薄暗がりの中、ジャーナリストのための結婚相手をつれてきた。この女、
ゴールドチェーンの様子から見ると、少なくとも三、四回は結婚を経験済みらしい。扇ぎ係を
交代すると、えらく目を大きく見開いて微笑んだので、ジャーナリストは彼女もかわいそうに
なってしまった。だって、自分にはもう女がいるんだもの。――パラ、パラ!とかれは言った。
写真家の女は、かれが何を言いたいか理解して、歯ぎしりした。この破棄された婚姻候補者は
背を向けて、六〇センチ向こうの自分の区画にひざまずき、新しいブラジャーをつけた。彼女
のゴールドのネックレスについた円盤は、彼女が頭をめぐらせるたびに連続してきらめき、ま
るでネオン管のようだった。彼女が去ると、叔母さんが扇ぎ係に復職した。その歯は、金歯一
本を除けば真っ白だった。パイリンからのルビーの指輪をしている(編集者には、パイリンに
行くと約束してあったのだけれど、まだクメール・ルージュの勢力下にある町なので、ジャー
ナリスト自身は行く気はまったくなかった)。
Page 48
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
もう我慢できねえ。出よう、と写真家。
この人たち、たぶんぼくらに昼飯おごらせようとするぜ。
じゃあおごってやる。それでおさらばだ。
叔母はこなかった。だから最寄りの歩道レストランに行ったのは、写真家とその女とジャー
ナリストと、期待して懇願する新手の女性二人であった。ジャーナリストは、新手の女性の一
人がちょっと恐かった。すごく色白の子で、磁器のような顔をしている(白子なのか、病気な
のか、それとも化粧が濃いだけか?
見つめれば見つめるほど、死体じみて思えてくる……)。
彼女は、自分がしょっちゅう観察されているのに気がついて、ライバルに気取った調子で何か
を告げると、相手はその時点でこちらへのアタックを止めた。磁器娘は絶えず顔を伏せて微笑
み続け、ゴールドのひもを指でもてあそび、一方その相方はまだ希望を捨てたわけではなく、
うっとりした目でジャーナリストの目をのぞきこむのだった。かれらの椅子の後ろには群衆が
行列をなし、不幸な様子で見つめていた。大なり小なり、かれらは娼婦や、娼婦買いをする外
人をあまり感心しないようだった。でももちろん、連中にできることなどクソほどもないんだ、
とジャーナリストは、磁器娘がこの近郊のブドウに相当するものをむいてくれているのを見な
がら考えた。その果物は緑の皮を持っていて、内側には甘く灰色の物質があって、肌理と形は
目玉のようで、種は丸かった――味はブドウというかカンタロープというか。ジャーナリスト
であるからには、この場で即座にどっちか判断を下すべきなんだが――お、すばらしい、もう
一回チャンスがありそうだ(彼女はスープにほとんど手をつけなかった。とてもとても重い病
気のように見えた。まったく突然、かれはこの娘がいつ死んでもおかしくないと確信した)…
…彼女はその果物をマイェンと呼んだ。
48、
そこで昼食後、二人は女の子たちを振り払い、彼女たちはとても不満そうだった。
49、
写真家は、片腕から始まって両腕に広がり、疥癬や毛ジラミ並(ちなみに旅慣れた写
真家はどちらも経験済み。ただし***淋病***はまだで、だからこの点ではジャーナリ
ストが一枚上手だったのだけれど)にかゆみがひどかった。ジャーナリストがすわって待って
いる草っ原は、幅の広い通路と四角い水たまりが交錯していて、その間を子供たちが走り回っ
ていた。向こうのほうでは(この公園はかなり大きかった)、先を切ったピラミッドが屋根に
なっている二階建ての家の群れが、しみのついたバルコニーを支えていた。木の根の間を、少
年が棒で掘っている。
ジャーナリストは、娼婦がはだかの腰に巻いていたゴールドのチェーンのことを考えた。だ
れにもらったんだろう。その男は、心の中で彼女を愛しただろうか、それとも単に金を払った
Page 49
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
だけだろうか。今でも彼女と会っているだろうか。
彼女の肩から胸にかけて、赤い筋が傾きつつ平行に肌を走っていた。左側には三本、右側に
も三本、二つの三幅対が左右対称に内側を目指している。アボリジニーの入れ墨を思わせた。
コインのふちでつけた可能性が一番高い。だれかに聞いた話では、カンボジア人たちは病気の
時に、血をゆるめるためにそうするのだという。突然、あの白磁娘の悪夢のような蒼白さを思
い出して、かれは身震いが出そうだった。
50、
無駄な一日をついに夜が包みこんでくれたので、親愛なる友人の写真家がネズミ群が
るごみ置き場の影にまぎれ、経験五回の花嫁(写真家にきっぱり捨てられ、それに応じた苦悶
を味わっている)に見つからぬことを祈っているのを後目に、かれはあのディスコにでかけた。
ディスコに戻れば彼女の気持ちをかき乱し、ひいては写真家の気持ちもかき乱すことになるの
は承知のうえだったが、でも今は自分自身の再生産戦略を実現化する時だった。だから、暑い
外の群衆を一人で通過した。かれがここにくる度に、群衆はますます悪意を深めているように
思えた。かれの勝手な思いこみなのだが、でもそれがかれの問題なのだ。よく言うように、か
れはくよくよしすぎる。汗っぽい内部の闇に吸いこまれた途端、写真家の女が駆け寄ってきて
手を握りしめ、涙ながらに外国の恋歌をあふれさせて懇願するのだった。かれは首をふって彼
女の肩を叩き(これがジャーナリスト十八番の、自分の手を汚さぬ意思表明の仕草となりつつ
あった)、彼女は地団駄を踏んだ。アメリカの森でベラドンナが高く有毒に育つように、そし
てクモの脚のような葉脈が赤い玉や黒い玉や乳色の白い腐敗をぶらさげるように、彼女の怒り
も壁が欲情吐息に滴るその細長い洞窟で育っていった。彼女は混雑したテーブルの間のタバコ
の煙のなかへと駆けこみ、目は彼女を見失ったものの、そのひどい叫びは耳に痛かった。そし
てまた戻ってくると、歯をむきだしては、化け物のように卑屈に媚びてみせる(こんな飲みこ
みが悪い必要があるんだろうか?
何がわからないというんだよ!)。そしてかれは、この女
が単に己を買って欲しがってて、そうすればホテルに直行して写真家に迫り続けられると思っ
ているのか、それとも今度は彼女がこの自分に目をつけていて、自分がすべりどめに使われて
いるのか、どっちなんだろうと思った。とにかく彼女がパラの友達じゃないというのは明らか
だった(その晩、彼女はやっと、かれが恋に落ちかけている女の名前はパラじゃなくてヴァン
ナだと教えるだけの手間をかけてくれたのだ)。なぜなら今日の午後、彼女はあの磁器娘をあ
てがおうとしたし、それにも失敗するともう一人のほうをけしかけたではないか(コミッショ
ンでも取っていたのだろうか?)。この女はヴァンナに対して誠実ではない!
――これを考
えると、心は不動になった。(それにはっきり言って、かれに何ができただろう。かれの誠意
はヴァンナと写真家に対してのものであり、この女に対するものではない)。――ヴァンナに
会いたい、とジャーナリスト。――失礼します、と低級なポン引きかウェイターか取り立て屋
が、別の女の子を二人紹介した。どちらも祈るような手を、かれの股間にすべりこませる。―
Page 50
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
―ヴァンナに会いたい、とジャーナリスト。――写真家の女がなにか言って、ほかのみんなは
とげのある笑い声をたてた。そしてみんな去った。(後で写真家が言うには、あの女が走り出
てくるのが見えて、見つからないようにごみの山の陰に隠れたのだそうだ。すると彼女はバイ
クに乗ってホテルに向かい、かれをかぎ出しに言ったという。見つけられなくて、泣きながら
戻ってきたらしい)――ヴァンナは踊っているにちがいない。彼女が見つかりたいと思ってい
ないなら、見つけられる可能性はゼロだ。彼女はタクシーガールなのだ。かれを見つけるのが
彼女の専門だ。もしかれを求めているなら、自分からくるだろう……かれはまた元通りすわり、
ウェイターが何か、とても流暢そうに聞こえるクメール語をしゃべった。明らかに質問のよう
だ。背が高く、白人で目立つジャーナリストは、外の暗闇からの視線に向かい合ってすわった。
――セブンアップ、と告げる。ウェイターは出かけて、戻ってくると浮かない顔をしてみせた。
――スプライト,とジャーナリスト。ウェイターはアイスクリーム・ソーダの缶を三つ持って
きた。――完璧、とかれはげんなりして言った。写真家の女がまたとなりにすわっていた。缶
の一つを彼女のほうにすべらせてやる。ジャーナリスト自身の女が、やっとダンスフロアから
やってきて、かれの見立てではよそよそしい卑屈な目つきでこちらを見ている。男がかれに、
イエス、マイフレンド!
と言う……そして何かを長々と説明しだした。甲状腺亢進症の原因
と治療法についてだろうか。一方のジャーナリストは厳粛な面もちでうなずき、ヴァンナはま
っすぐすべてを見通していた。ジャーナリストは演説の賞品として、アイスクリームソーダを
一缶あげた。ウェイターはかれのひじのところで、心配そうに立っている。見つめる女の子二
人は、どうしても買い出してほしくてたまらなかった……――とうとう男はヴァンナと自分を
指さし、その両指をくっつけた……それから数多くの母音を含む何かを言い、その末尾をつう
ぇんてぃ・どらぁで締めくくった。女の子を連れ出すには十ドルしかかからない。ジャーナリ
ストは腰に巻いた札入れに手をつっこみ、男に二十ドル札を手渡した。男は形式張って立ち上
がり、バーの向こうに行って他の口のうまい手配師と相談していて、ジャーナリストはヴァン
ナの手を取って立ち上がらせようとしたけれど、彼女は身ぶりで待てと告げた。男が戻ってき
て宣言:つうぇんてぃ・ふぁいぶ・どらぁ。ジャーナリストは首をふると、びっくり箱のよう
に勢いよく席から飛びあがった。男がついに消え失せるまで、かれは立ったりすわったりをも
う何度か繰り返さなければならなかった。その後、ジャーナリストはヴァンナの手を取った。
彼女は何の感銘も示さずに、あとからついてきた。目という目がかれらを見ていた。写真家の
女はもう一度すすりないてみせて、最後にもう一度だけアタックをかけてきた。でもかれは、
何を感じるにももう疲れすぎていた。外で、ヴァンナは握られていた手を振り払った。すでに
テーブルの下で、リアル札の束を渡してあった。彼女はバイクを選び出して、かれはその後ろ
にまたがった。ホテルはたった3ブロック先だったけれど、彼女は歩くのが嫌いだったようだ。
ホテルにつくと、彼女は新しい札束から運転手に二百リアル払い、中に入った。ロビーの群衆
は、上の階に向かう二人を黙って見つめた……
Page 51
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
51、
待って、とかれは優しく彼女の肩に手をおいた。そして彼女を部屋に残して下に降り
た。
きみたちどっちか英語話せる?
とフロントの男に尋ねる。
イエス、と二人とも低い声で答えた。
どっちかきて、ちょっと助けてくれないか。話をしたい相手がいるんだけれど、ぼくはクメ
ール語をしゃべれないから。
なにか問題でも?
いや、別に問題はない。ただ彼女と話がしたいだけなんだ。
わたしは行けません、とフロント係の一人。もう一人は何も言わなかった。わたしの友達き
たら、わたしがいくか、友達をやりましょう。ルームナンバーは?
一〇二号。
OK、わたしが行きます、ともう一人の男。
すばらしい、とジャーナリストは、アメリカ人の熱意すべてをこめて言った。本当に感謝し
ますよ……
彼女は部屋の真ん中に立って、鏡を見つめていた。
ジャーナリストは言った。話がしたい、と言ってください。彼女が怒っているのかどうか知
りたいんだ。
黄色のシャツの男が何か言い、彼女は口を開いて返答を始めた。彼女がしゃべるのを聞くの
は、実質的にこれが初めてだった(でもつきあっている間は、彼女が口を開く度にそのように
思えたのだった。そのくらい滅多に口を開かなかった)。サ行の音のきつい摩擦音に感嘆し、
その明瞭で落ちついた、子供っぽい理解不能の声に感嘆した。
ああ、ただの誤解です、と男は笑った。あなたが彼女の前を早足で歩くので、彼女のことを
恥ずかしく思っているのだと考えているのです。
彼女のほうがぼくといっしょなのを恥ずかしがってるんだと思いました。すごくゆっくり歩
くから。そう伝えてください。
あなたは早足、彼女は遅い、なんでもありませんよ。あなたはいい人らしい、と伝えておき
ました。彼女はあなたが大好きだそうです。
彼女が何をぼくに期待しているのか聞いてください。
そうですねえ、あなたに頼み事をするのは好きじゃないのはご存じでしょう。何も求めはし
ません。でも、あなたのおみやげとして小さなゴールドチェーンなどが、すごく喜ばれるはず
です。あなたの……まあとにかく、すごく喜ばれるでしょう。
好きなチェーンを買う金をあげるべきかどうか聞いてください。
いっしょに行って、いっしょに選んでほしいと言っています。
なにか聞きたいことがあるかきいてください。
あなたの望み通りのことをして、あなたを幸せにしたいそうです。
Page 52
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
明日の朝、いっしょにいられるか聞いてください。
いつまでいて欲しいんですか。
彼女次第。
十一時か十二時まではいられると言っています。朝には仕事があるそうです。安い賃金で、
時間単位で働いているそうです。それを逃しても大したことはありません。払いが受けられな
いだけですから。でもその時間を過ぎたら、叔父さんが探しにくるかもしれないそうです。こ
ういうタクシーガールは、ご存じのように、家族に金を送るためにこの仕事をやっています。
実際に何をやっているか、家族には絶対に話さないのです。
52、
それからまた二人きりになった。またもや彼女はかれをまともには見ていなかった。
それからちょっと微笑んで、タオルをとるとシャワーを浴びにいった……
53、
すでに申し上げたとおり、かれはもう彼女とセックスしないつもりだった。単に彼女
といっしょにいたかった。その晩、いっしょにベッドに横たわると、彼女に腕をまわし続け、
彼女もかれを抱きしめ、いたずらっぽく腹を叩き、かれの乳首をつねった。でもそれから横に
仰向けに横たわってじっとして、いつものことをされるのを待っているのがわかった(その一
方で通りでは、写真家が前の女に出くわしていた。彼女といっしょに、まだ背中でジャーナリ
ズムを専攻しようという希望を捨てていないあの磁器顔娘もいた。写真家の女は通りで泣いて
叫んでいた……)。ジャーナリストは彼女にキスもしなかったし、胸にも触れなかった。単に
彼女をしっかり引き寄せ、二人で眠りに落ちた。一晩中、二人は抱き合っていた。彼女に敬意
を表したかった。朝になると、彼女がまだアレを待っているのがわかったので、起きてシャワ
ーを浴びて服を着出した。驚いているかどうかはわからなかった。彼女も起きあがって、ブラ
ジャーを引っ張ってつけた。向こうのベッドでは写真家がにやにやして横になっていた。
おまえがシャワーを浴びてる間に、この女をコマしていい?
それは彼女が嫌がると思う、とジャーナリストは冷静に答えた。
いまのはいい冗談だな、と写真家はあざけった。
54、
かれが食べる仕草をすると、女はかすかにうなずいた。
彼女をつれて下に降り、こんどは彼女の手を取って、みんなに自分のガールフレンドだと言
って紹介したけれど、彼女のほうは誰もまともに見ようとしなかった。
Page 53
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
レストランでは、みんな彼女がそこにいないようなふりをして、何がほしいか彼女に尋ね
た。
彼女に聞いて、とかれ。
みんなは胡散臭げにかれを見た。
かれは繰り返し、彼女が何か言った。
えー、とみんな。こちらの女性は、えー、スープだけしかいらないそうですが。
スープ二つ、とかれ。
スープがくると、彼女はかれの分にコショウをかけて、ちょっと微笑んだ。そして自分のか
ら肉と麺を選り出して、スープだけ残すと(カンボジアではみんなそうするようだった)、そ
のままそこにじっとすわり続けた。かれは突然、泣きたくなった。
かれが想像上の黄金の輪を手首に描いてみせると、彼女は微笑んだ。
二人はそこを出て、金製品のセールをやっているのを見かけた市場に行こうとしてかれがま
さに彼女の手をとろうとした瞬間、彼女のほうから手をとってきて、バイクに案内して、二人
でそれに乗った。街をずっと横切ってココヤシの影が落ちる並木道をぬけ、熱よけにすでに鎧
戸をおろしたきれいな白い二階建ての家を過ぎ、いきなり現れた人だらけの市場を過ぎ、タバ
コ売り娘たちの市松模様の布をかけたテーブルが並ぶ歩道に出て、その先にはヤシの木がもっ
と無限に後退している……かれは女の肩をつかんだ。みんな、いつも通りにかれに注目してい
た。いつか慣れるだろうと思い続けた。かわりに、日毎に耐え難くなるのだった。真新しいピ
カピカの緑の制服を着た若い兵士が、サンダル履きで油を売っていて、ホンダのバイクにすわ
った友人とタバコを吸いつつしゃべっていた。いきなりそれが顔をあげて、視線がジャーナリ
ストの顔に釘付けになった。ジャーナリストが見返しても、兵士はまだ見続けていた。互いに
寄せあった老いた茶色の顔が二つ、自転車にのって解放タバコを吸っていた。それがふりむい
てかれの姿をとらえた。二人とも、目をそらさぬままゆっくり立ち上がった。血管の浮いた、
パイプクリーナーのような細い脚のシクロ運転手がかれを見ると、ほとんど事故を起こしかけ
た。ジャーナリストは、ヴァンナの肩をつかむ手に力を加えたりはしなかった。彼女の恥を増
すようなことはしたくなかった。ブルブルと二人が、通りに向かって開いた格子模様の床の小
区画を通り過ぎると、その波打ちトタンの戸やグリルが内側に開け放たれて、朝の最後の冷気
を取りこもうとしていて、ガラス戸の棚が薄暗がりの中でまだ輝いてはおらず、人々は中では
だしの脚を椅子に投げ出して休んでいる。子魚の群れがテレビを見ている。そしてジャーナリ
ストは、それをほとんど悪意をこめて吸収した、なぜならあまりにいろんなものがかれの方を
吸収してしまっていたから。いたるところで、兵士や派手な緑の警官が、ゆっくりとバイクで
走り回り、左右を検分していた。とうとう二人はゲームセンターにやってきた。そこはまた、
宝石は一つもないけれど宝石店でもあった。宝石のみならず、ガラスケースの中には何もなく
て、タバコの箱のてっぺんに小さな天秤のセットがあるだけだった。麦わら帽子の支那人らし
き男はタバコの箱を開けて、金のブレスレットを三つ取り出した。ヴァンナはジャーナリスト
に選ぶよう身ぶりした。かれは微笑んで、彼女に任せると合図した。彼女はちょっとかれに微
Page 54
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
笑んだ。すでに新たな群衆が密やかに形成されつつあった。ちょうど、市場の屋外に出してあ
る砂糖や小麦粉のボウルにたかって食べる、黒い蜂の群のように……――ブレスレットのうち
二つは、細くてレース状だった。三つ目はかなり重くて、ABC と書かれたブロックが三つつい
ていた。それがどうやら一番高いものらしい。彼女はそれを選んだ。かれはポケットから百ド
ル札を出して、彼女に渡した。彼女は、初めて見るもののようにそれを見つめた。たぶん本当
に初めてだったのだろう。麦わら帽子の男は何か彼女に言った。バイクの運転手が加わり、み
んなでアルファベットのブレスレットとその波及効果のすべてについて議論を始めた。椅子が
一つあって、彼女はすわれと身ぶりで示した。かれは彼女にすわるよう示したが、かぶりをふ
られた。麦わら帽子の男が、すわるよう身ぶりで示した。かれは折れた。麦わら帽子の男は電
卓をどこからか取り出して、30という数字を叩いてみせ、どらぁ、とつけ加えた。ジャーナ
リストはうなずいた。ヴァンナにおつりをいっぱいやれるようだな、と思った。みんな、もっ
と議論した。麦わら帽子の男は、電卓で137とたたき出した。みんな、かれがどうするかと
見守っていた。かれが二十ドル札二枚取り出すと、ヴァンナ以外の全員が笑い出した。嬉しい
のか、礼儀正しいのか、陰険なのか、それともこちらを哀れに思っているのだろうか。それが
どうしたというのだ?
麦わら帽子の男はミニ天秤を持ち出して、アルファベットのブレスレ
ットを重りと釣り合わせた。それから左右の皿を入れ替えて同じことをした。ジャーナリスト
はうなずいた。ヴァンナはブレスレットを取って、それを自分の左手首にかけた。みんな、か
れがそれを留めてやるのを待っているのに気がついた。かれは身をかがめて留めてやったが、
ちょっと手こずった。留め金はとてもデリケートで、かれの指は太くて汗だらけで、しかも不
器用で気が高ぶっていたからだ。麦わら帽子の男がやってきて手伝おうとしたが、かれは手を
ふって下がらせた。終えると、かれは顔をあげた。群衆の一番端に、老婆が立っていた。ちょ
っとその老婆に微笑んで見せると、彼女は石のような顔で見返した。
それからかれはヴァンナを見た。彼女が与えてくれたほほえみは、すべて報われたような気
持ちにしてくれた。そして彼女は、みんなの前でかれの手を握った。
二人はバイクの後ろに乗って、バザールに行った。彼女は昨夜かれが与えた百リアル札二枚
で運転手への支払いをすませると、かれをつれて日除けのトンネルの中へと導いた。人々は二
人を見つめてせせら笑った。幼い子供三人をつれた女性が、歩道のベッドフレームにすわって
ご飯を食べていた。ヴァンナとジャーナリストをちらっと見た途端、ご飯はそっちのけになっ
た。だれかが叫んだ。あんた好き彼女?
――彼女は誇らしげに前を見続けた。みんなの残酷
さが彼女を傷つけないといいが、とジャーナリストは思った。
55、
彼女はジーンズショップに行って、黒のジーンズを自分にあててみると、それを戻し
た。(なにか買ってほしいのだろうか?)白のブラウスと黄色のブラウスを見た。それも戻し
た。
Page 55
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
時計を何度も見ていた。かれはすでに、百三十七ドル相当の彼女の時間を使いきってしまっ
たのだろうか?
彼女は別のバイクをつかまえると、かれをつれてなにやら刑務所のようなと
ころにやってきた。兵士が格子の向こうのテーブルにすわっていて、そこにピストルが外を向
いて並んでいる。格子には、ギザギザの穴が開いていた。彼女が金を入れると、手がのびて手
書きの数字が書かれたちり紙二枚をよこした。
その時、これから映画を観るのだと気がついた。
かれの手をとって、ヴァンナは溶けてくっつきあった群衆をかきわけて二階に導き、果物を
買った。それから講堂に入った。耐え難いほど暑くて金切り声の絶叫音割れ反響映画は果てし
なく続くように思えた。でも、かれはとても幸せだった。彼女が手を握ってくれて、身を寄せ
てくれたからで、彼女が暗闇の中で微笑んでいるのを観ていられるからだった。
最近の洪水に関するニュースフィルムがあった。彼女はそれを指さし、手を自分ののどにあ
てて、上昇する水位を示した。
それからホテルにつれて帰った。人々は歩道に列をつくって二人が通るのを眺めた。地雷の
埋まったこの先の道のつゆ払いのために、あの支那の爆竹がほしいところだった……
で、なんかあった?
と写真家は、ベッドの上で自分の肌の湿疹を看病しつつ言った。
結婚した。
おやおや。じゃあ、つまりおれは席をはずしたほうがいいってことか。一時間あればいい?
かれはまだ彼女とセックスしたくなかった。はだかで彼女のとなりにいて、彼女が出勤する
までの残り十分だか二時間だかの間、彼女を抱きしめていたかった。かれは服を脱いでシャワ
ーを浴びた。彼女が同じことをする間、かれは淋病の薬を探した。彼女が戻ってくると、いっ
しょにベッドに入った。彼女は時計を指さした。じきに行かなくてはならないのだ。しばらく
かれにすがりついてから、KY ゼリーのチューブを指さした。これ以上、彼女を混乱させたりが
っかりさせたくはなかった。もし彼女がそういうことを期待しているなら、その通りにしよう。
彼女はこちらのペニスに触れてきて、かれは KY ゼリーを彼女の中に絞り出すと、ゴムをくるく
るつけて、挿入の準備を整え、すると彼女の顔の何かがかれを泣きたい気分にさせて、彼女の
中で萎えてしまったので彼女の上からおりた。――彼女は不服そうであり、これは疑問の余地
がなかった。なんといっても、これは新婚初夜なのだから。彼女はペニスをしごきだした。も
う一度やって欲しいらしい。かれはもっと KY ゼリーを中に入れて、ゴムをはずして床に投げ捨
てた。医者は、もう感染はしないと言っていた。セックスはかれにとって苦痛なだけで、他人
には影響がない。彼女に入れた途端、また萎えた。かれは泣きだし、彼女は微笑んでかれの顔
をのぞきこみ、元気づけようとした。かれは赤ん坊のような振る舞いをしている。かれは自分
の胸にハートを描き、自分から彼女へと指を移して、彼女の乳房の間にハートを描いた。彼女
は真剣な面もちでうなずいた。かれが両手をあわせる仕草をすると、彼女はうなずいた。かれ
は言った。きみ、ぼく、いっしょにアメリカ行く……すると彼女は首を振った。彼女はこちら
の胸に、ハートではなく四角を描き、それからハート型の金のチェーンを指さした。だれか他
の男がやったものにちがいない……
Page 56
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
彼女は起きあがってシャワーを浴びた。かれも服を着だしたけれど、でも彼女が、ベッドに
戻るようにと優しく身ぶりで示した。彼女はとてもすばやく服を着た。やってきて、かれとい
っしょに一瞬だけベッドにすわった。かれは時計の八の字を指さして、この時間にホテルに来
るよう身ぶりすると、彼女はうなずいたので、かれは言った。アー・クン 2 。――そして彼女は
立ち上がって去ろうとした。合掌してさよならを言い、かれは泣き、彼女は手をふり、投げキ
スを送って、そして二度と戻ってこなかった。
THE END
2
ありがとう。
Page 57
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
56、
でもお話の終わりは物語の終わりではない。それは本当の THE END で、連中がこちら
を真っ暗な墓場に下ろす時までやってこない。完結したエピソードのオチは、経験が継続する
につれて薄れてゆく。何かを学ぶのがかくも難しいのも、そのためにちがいない。
57、
彼女、ぼくをディスコで待ってるかなあ、とジャーナリスト。誤解したのかも――
そうだろう、そうだろうとも、と写真家がもったいぶって言った。そうとも、白馬の王子さ
まをすぐそこで待ってるんだろうよ。
58、
その晩、結婚してみんなが祝福してくれる夢を見た。通りの孤児たちがいて、太鼓を
叩いて踊っていた。転向したスターリニストたちが魚のスープをつくってくれた。シクロの運
転手たちが乗り物をゆずってくれて、椅子代わりに使わせてくれた……
59、
写真家にもう少しその話をすると、写真家曰く:いやあ、お前ホントに嫌がられてた
んじゃねーの。
60、
二人は戦場への道中だったけれど、そこで別に何か怒っているわけではなかった。正
直言って、かれらとしてはそのほうがありがたかった。かれらの公式運転手(通訳は、かれが
秘密警察の一員でないと保証してくれた)は、秘密警察を意味する紋章をつけた公用車で、重々
しく道を走り抜けていった。十五秒ごとにクラクションを鳴らす。女がスクーターのタンデム
シートに横すわりになって、膝に緑のくだもののかごを乗せている。運転手がクラクションを
鳴らすと、スクーターは横滑りした。女はほとんど放り出されそうになった。運転手はアクセ
ルを踏みつけて先に進み、彼女に土ぼこりを浴びせかけた。自転車乗りが茂みっぽい草の山を
満載した暑く白い道を、白っぽい車はゆれてガタガタと進んだ。運転手はクラクションを鳴ら
し、歩行者は黄土の盛り土を駆け上がって命からがら逃げ出した。高床式の、丘屋根のブリキ
壁の家を通り過ぎた。はだかの茶色い子供が、紅茶色の水面で釣りをしていた。水牛が母牛の
乳を吸っている。――地雷には二種類あります、と通訳が言っていた。一つは、どこでもさわ
ると爆発します。もう一種類は、踏まないと爆発しません。――ジャーナリストはほとんど聞
Page 58
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
いていなかった。自分が泣きだしたときの、彼女のこちらを見る目つきを考えずにはいられな
かった。彼女はこちらを元気づけようとして、笑いかけたり指でいたずらしたりしていたのだ
けれど、その目はいつもながら悲しく遠くを見ていて、だから目からは涙が流れていたにもか
かわらず、そしてかくも探るように彼女が自分を見ているのを見逃すわけにはいかなかったに
も関わらず、かれはいい人らしく笑い返そうとして、すると彼女は立ち上がって合掌してアー・
クンとさよならを言い、そっとドアを出ていったのだった。
つまりですね、と英語の学生(無数の親切な通訳のまた一人)がかれに言った。ときどきは
タクシーガールと遊ぶのは好きです。けどですね、でもガールフレンドがいます。
61、
で、すでにカンボジア女の味は試したんでしょう?
と通訳がいきなり言った。
うん、とジャーナリストは言いながら考えた。ロビーのスパイやでしゃばりどもの中でぼく
らのことを報告しなかったやつがいるのかね。
片手に金槌、片手に銃の労働者のポスター。左(ずっと左)にジャングル、それがクメール・
ルージュのいるところ。枯れたオレンジ色の川がもっと。赤十字のワゴン車から嘔吐するガキ
……ジャーナリストは金玉をさすった。
62、
外交庁長官は、高いポーチでかれらを迎えた。ジャーナリストのフランス語がいたく
お気に召したようだ。二人に関するファイルを読んで、歓喜のあまり口をおさえた。
ああ、美しい娘ですな――あの娘を目にとめられましたか、と車の中でかれは言った。
いいえ、ムッシュー、とジャーナリスト。
しかしお気づきにはなったでしょう。
ええ、気づきはしました、とジャーナリストは、つぶやける最もバカていねいなフランス語
で返答した。わたしにとって、カンボジア女性は一人残らず美しいのです。
外交庁長官は、笑いすぎて発作的にせきこんでしまったほどだ。
外交庁長官をもてなすのは、明らかにかれの役目だった。――プノンペンでは、あらゆる娘
がおいしい晩餐なのです。
外交庁長官は、大喜びでかれを抱きしめた。
何て言ったんですか、と通訳がたずねた。
暑い日ですね、と言ったんだ、とジャーナリスト。
外交庁長官が何かを通訳に言うと、通訳は笑った。
はいはい、と通訳。バタンバングは、道ばたの花の美しさで有名です。
どうやら今夜はマンコにありつけそうな、と写真家。
Page 59
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
そうねえ、それは連中次第だけれどね、とジャーナリストは慎重に答えた。少なくともファ
イルに含まれてることはわかったわけね。
63、
運転手、通訳、外交庁長官をつれていく羽目になった高いレストランでは、白人二人
にホステス二人がついた。ジャーナリストは自分についた娘を外交庁長官にあてがおうとした
が、長官はいつもかれの右にしわって、耳が痛くなるほどしゃべりまくっていて、ジャーナリ
ストがおべんちゃらをいくら積み重ねても、外交庁長官は言うのだった。わたしは結婚してい
るのです!
わたしもです、とジャーナリストは、タイガービールの新しい缶の穴に口づけしながら言っ
た。つまりですね、ムッシュー、わたしはプノンペンの花と結婚したのです。
プノンペンの――花!
へっへっへ!
ジャーナリストはバタンバングの花は欲しくなかった。ヴァンナが欲しかった。でも、ホス
テスをがっかりさせたり、恥をかかせたりもしたくなかった。そしてカンボジアの高官に見下
されたくはなかった。こんなことが、かれらにとってはきわめて重要らしいのだ……
女は恥ずかしそうに微笑んだ。かれも微笑み返した。何も言うことが思いつかなかった。疲
れ切っていた。
ぼくは KGB の一員だと伝えてください。いっしょにロシアに行こうと言ってください。わた
しの名前は共産主義者ナンバーワンです。
ロシアには行きたくないと言っています。恐いそうです。あなたのお友達といっしょがいい
そうです。
そこで写真家は、女二人をものにした。ジャーナリストはほっとした。あくびをして鼻をか
んだ。外交庁長官は、非常に申し訳ながっていた。万事うまくおさまった。ジャーナリストは、
一晩ぐっすり熟睡。運転手と通訳は非常に楽しみ、写真家は、両手に花でバニラ色の歯むきだ
しでニタニタし、しきりにうなずいき、外交庁長官は背後の暗い戸口で腹をかかえそうなほど
にたついている……
64、
雨の中、揺れるソ連製戦車の指令席に乗ったジャーナリストは、見つめるか笑ってい
るかする女の子たちに敬礼し、投げキスを投げ、道に十リアルの冊をボンボンのようにまいた
(写真家と運転手も同じことをしていた。運転手は今日は黒い制服を着ていた。そして特にこ
の機会のために、ロシア製拳銃も身につけていた)そして通訳と外交庁長官と、自動小銃を掲
げた兵士たちは、にやにやしながらジャーナリストを眺め、ジャーナリストは平穏な戦場から
機関する間、何時間にもわたって敬礼し続けた。とことん完全に幸せだった。カンボジアでは、
Page 60
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
かれは絶対に消え失せることができなかった。でも少なくとも今は、人々がこちらを見てあざ
笑うにしても、目に入るのは滑稽で堂々とした男であり、私兵をしたがえて金をくれる人物な
のだ。神のような気分だった。それも、慈しむ神。敬礼する全員がいとおしかった。全世界を
愛したかった。今にして思えば、娼婦を買う時にかれが願うのはそれだけだった。金玉はまだ
変な感じだった。人々を抱きしめてキスして金をやりたいだけだった。おでこは日焼けとビー
ル3本で熱かった。スペアタイヤにもたれ、ローマ法皇のように万人を祝福し、年長者にうな
ずき、自分の神々しさがいつまでも続くようにと願った。多くの場合、みんな手をふりかえし
てきた。こうした感謝をこめたみぶりは、その同じ連中が自分とヴァンナによこした例の凝視
をほとんど埋め合わせられた・・・彼女を抱きしめたくて胸が痛んだ。のんだくれていて、た
だの飛べない蝶だったかれは、かわりにスペアタイヤを抱きしめた。
65、
ホテル・ヴィクトワールは解放直後にはみんながホテル・ラヴァトワール(便所ホテ
ル)と呼んだところで、非常にいいホテル、下手をすると世界最高のホテルかもしれなかった。
水が出たし、電気も、エアコンも、トイレも網戸もあった。そのどれ一つとしてまともに機能
しなかったことはともかく。そこで寝るのは、うだるようなロッカー室で寝るに等しかった。
写真家とジャーナリストの部屋は一泊二千で、運転手と通訳の部屋は一泊五百だった。写真家
はこれでカンカンになったけれど、ジャーナリストは言った。まあ、いい方に考えろよ。どう
せ全部おれたち持ちなんだ。少なくとも連中の部屋にまで一泊二十ドル払わずに済んでるじゃ
ない。
――部屋にあがると、通訳が、今日はかれが女を買う番だと言った。
ぼくは敬礼したいだけ、とかれ。
え、失礼ですが?
と通訳
わかった。その娘の顔をたててやろう、とかれは溜息。
熱はひどくなる一方だった。唇まで日焼けしたような感じだった。KY ゼリーからマン毛を抜
いて、ゼリーを額にぬりつけた・・・
頭を冷やしに雨の中散歩にでかけた。みんなかれを笑った。しばらくしてびしょぬれで戻っ
てくると、薄汚れた優しい男の子が(まったく無人の)ロビーに入ってきて、かれと手のひら
をはたきあってにっこりした。ジャーナリストはヴァンナからひどい咳をうつされていた。―
―新しい娼婦を買うたびに、新しい病気ももらうんだもんな!
と写真家は、首をふりつつう
めいた。――男の子は立ったまま、だれも使ったことのない白いテーブルクロスをかけた長い
テーブルの上に、等間隔で並べられた板ガラスをとても親身にゆすり、鼻歌をうたって、意味
不明のことばをつぶやき、あくびをしてにっこりして首をのばした。隣の椅子にすわり、ジャ
ーナリストがウィンクすると、ウィンクを返しつつ、歌ってひざをおさえる。大きく派手な窓
の外は灰色で雨が滴り平和だった。やしの木は、冷たい霧の中で身をのばし、飲んでいるかの
ようだった。――かれはまた外に出て、雨の中を走る白牛の列に敬礼した。牛たちは首をたれ、
Page 61
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
端綱をひきずり、耳をぱたぱたさせている。どうも感じがちがっていた・・・
66、
で、やんの、やんないの?と写真家は知りたがった。
やんない。娼婦なら結構。ヴァンナを待つんだ。
やれやれまったく、と写真家は、嫌悪で顔を覆った。
それに、玉が痛いんだ。
わかったわかった。
だから、要するにだな、もしかすると、ってなとこ。だって、ヴァンナには二度と会えない
し・・・とジャーナリスト。
この陽気な知らせを聞いて、写真家は目に見えて元気になった。シーツの下から出てくると
蚊を二匹殺し、フラッシュで遊ぶと、これまで一度もとりあげたことのない対象について、素
晴らしい会話の糸口を切った。その対象とは、娼婦だった。何時間にもわたって男二人は、だ
れのマンコが一番しまりがいいか、カンボジア女とタイ女のちがいは何か、写真家とジャーナ
リストのそれぞれが、ゴムを使うほど低級で臆病で変質で不道徳だったことが何回あるかにつ
いて論じあい、そうやって息づまるような時間をつぶすうちに、外交庁長官を拾ってブルー・
リバー・レストランに向かう時間になった・・・
67、
この十六歳の娘に、おれと結婚したいか聞いてくれ、と写真家は、ジャーナリストに陽気な
視線を投げつつ言った。
彼女は、あなたの子供も生むし、料理もするし、皿洗いもするけれど、でも結婚はできない、
なぜならあなたよりあまりに卑しいからです、と言っています。
写真家は肩をすくめた。――きみは花より美しいと言ってくれ。
彼女は、匂いをかがれすぎた花はしおれだす、と言っています。
68、
できる限り多くの胸を張り裂けさせようと思っている写真家と、できる限り多くを幸
せにしようと思っているジャーナリストが同じ結果に到達したとは、なんと興味深い……!
これは、ジャーナリストが自分にウソをついていたということなのだろうか?
Page 62
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
69、
黄色いシルクのパジャマを着た、可愛いデブの女の子がすでに隣にすわり、食べ物を
切ってくれていた。彼女の肉体は、デブの女の子にときどき見られるあの匂いを持っていた。
かれはいつも、その匂いを快く思っていた。もしこんな気の迷いが、すでに複雑になりすぎて
いる裏切られた関係の物語を一層複雑にすることさえなければ、かれはほとんどデブの女の子
と結婚しかけたほどだと申し上げるところだ……!
ぼくの病気をうつしたくないんだ。そんなのかわいそうだろう、とかれ。
いやあ、そんなことありませんよ!
と通訳が叫んだ。それが彼女の仕事であり、職業なん
です!
ぼくは一晩中鼻をかみ続けると言ってくれ。鼻汁まみれになるから、泳げるといいね、と。
通訳は笑っただけだった。外交庁長官はウィンクした――
彼女次第だと伝えてくれ。いずれにしても金は払うけれど、ぼくといっしょにはこなくてい
い。ぼくは傷ついたりしないから……
彼女は、そんなことはいいそうです。心配しないで、と言ってます。あなたといっしょに行
きたいんです。
70、
今回だけは、かれはヴァンナに対して不実でありたくなかったのだ、とぼくが言って
も信じてもらえるだろうか。女をヴィクトリーホテルに連れていったのは、他の女の子たちに
ドリンクを買ってやるのと同じ理由だった。だれかに何かを頼まれたとき、がっかりさせるの
が大嫌いだった。ほんとに真面目に、ジャーナリストは奥底では善良だったのだと思う。写真
家も奥底では善良だったのだと思う。ポルポトですら、悪気があったのではないと思う。
71、
マリーナが洗面所で、バケツにくんだ水を使って身体を洗い、窓際のダブルベッドで
は熱っぽいジャーナリストが横たわって鼻をかみ、せきこんでいる間、写真家はすでに十六歳
の娘を犯していた。夜はスティルトン・チーズのように濃かった。女は戻ってきて、二人のま
わりに蚊帳をおろし、二人が独自の闇の巣にこもるようにした。空気はますます濃くなり、蚊
はどこからか入ってきたけれど、わかるもんか、マラリアを持った蚊は排除されていたかもし
れない。何事もいいほうに考えようじゃないか、つまりマリーナを闇の中で見てやろうじゃな
いか。はがれ落ちる黄金のような模様の、黄銀のパジャマの輝き。なによりも、暗く優しい顔
を・・・。――かれはせきこみゲップをしてくしゃみをし、おならをして鼻をかんだ。いいや、
彼女は緑の SF 照明に彩られた、超性的に洗練されたタイ女性たちとはまるでちがっていた。雷
が切り裂く頭蓋骨の泡のような、タイの服装倒錯者たちの顔とも・・・
Page 63
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
一晩中、彼女の手はかれの額と喉を確かめていた。一睡もせず、かれのことを心配してくれ
た。かれをきつく抱きしめ、手を握った。その手は大きくて、荒れていて、タコだらけだった。
農家の娘だ。クメール・ルージュは彼女には何をしたのだろう?
通訳に聞くのは耐えられな
かった・・・彼女はからだにさわられるのを嫌い、かれはそれを尊重しようとした。でも、好
きなときにはいつでも脚を開いてくれて中に入れさせてくれて、いつも濡れていた。コンドー
ムはぞっとしたように投げ捨て、一度も使わせてくれなかった・・・真夜中に彼女はかれを起
こして、うめき声をあげてもう一度セックスさせようとした。マンコは燃えるようで、かれの
熱っぽい顔のようにべとべとに濡れていた。彼女は、あん
あん
と言って、かれをきつく抱
きしめた・・・
朝には、彼女ももう一人の女も早めに去った。だれにも見られたくなかったのだ。
72、
たまには目先を変えようということで、ブルーリバーに朝食にでかけた。川はテーブ
ルの横をもっと低く茶色に流れ、みんなチキン・ヌードル・スープを食べていて、砂糖入れに
は蟻(その容れ物は、もともとオバルチンの容れ物として機能したものだった)、グレーヘア
で眼鏡帯びたる外交庁長官は、ジャーナリストの肩をたたいて甲高く笑い続けた。
わが友よ、今日のお加減はいかがですかな?
と外交庁長官。
ずっとよくなりました、ありがとうございます、ムッシュー。マリーナ先生に治していただ
きましたよ。
ヒッヒッヒッ!
女の子たちはテレビの横のテーブルにすわり、ときどきこちらを振り返っていた。つまりマ
リーナはいまやかれの女になったわけだ。でも、かれも心にかなり余裕があるようだった。他
の娼婦たちと同じくらい、かれももてなしがよかったわけだ・・・彼女はまたあの黄色のシュ
ミーズを着ていた。眠たそうに、自分のやわらかな腕に頭をもたせかける。かれの出がけに顔
をあげて、微笑みかけてきた・・・
それで百合の花はお楽しみになりましたか?
と通訳。
いつも、とジャーナリストは平然と言った。
何回?
三回。だって病気でしたからね。いつもは四回です。それじゃあなたは、いつもいかがです?
二回です!
と通訳は不安そうに笑った。あるいは一回!
意外なことだったが、とても暑い一日になりそうだった。ジャーナリストはすでに汗でべと
べとだった。外交庁長官は額に大きな蝿をたからせていた・・・
Page 64
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
73、
記者章を広いテーブル越しに、彼方で巨大なノートに記入をしている少尉にすべらせ
ながら、ジャーナリストは痛む睾丸をこっそりとつかんだ。ダークグリーン姿でねめつける、
いらだたしげな口元の地方軍の副司令官に、へつらうような適切な関心を向けつつ、ジャーナ
リストは自分のさまざまな愛の秘密について考えた。こいつらはぼくが何者かを知らない、と
かれは独善的に考えた。でも、続いて思った。知ってるに決まってるじゃないか。だって、な
んかんでもぼくのファイルにかきこむんだから。ある意味で、ぼくにとってもありがたいこと
だ。だって、ときどき自分だって、自分が何者かわからなくなるんだから。
――役人ごとに
何かやらなくてはならなかった。タバコのカートン、二〇米ドル、ジョニ黒のボトル。全体と
して(言うなれば)かれは娼婦たちのほうが好きだった。この連中は、黒板の戦闘プログラム
を翻訳してくれない。ベトナム製の地形図にさされたピンの意味も説明してくれない。そこへ
いくとマリーナは・・・出がけに幅広で菱形の低い三脚に鎮座した、ソ連製 PPM 小銃を二丁見
かけた。連中は、写真家にその写真を撮らせてくれなかった。――売女を犯してられるっての
に、なんでこんなとこにいなきゃなんねーの?
と写真家は声高に言った。通訳はふりむいて
顔をしかめた。外交庁長官はとても悲しそうだった・・・
腰まで積まれた緑の 0.107 口径銃弾や、中国の赤い星がついた窓が弾痕だらけの、爆破され
て捕らえられたクメール・ルージュのトラック、金色の細い AK47 の銃弾を見に行った。小屋の
間の泥を、一同はビチャビチャと歩いていった。
気をつけて、と通訳。その手榴弾は爆発するかもしれません。
みんなインチキだよ、とジャーナリスト。
ジャーナリストは、唇をかみしめて笑うまいとした。いやあ、幸せだった!
かり考えているのだ!
娼婦のことば
なんでこのでこぼこ道を越えて、この国家の車をなめらかに導き続け
られる運転手のように明晰で慎重でいられないのだろう。大きな肩を軽々と動かし、大きな手
でハンドルを握り、黒い帽子のつばは完全に水平で、黒髪は首の後ろをまっすぐに下り、ダー
クグリーンのタイ軍服で生きた影のごとくとなり、乗客をつれて通り抜ける淡い緑の水田のを
集約したものとなっている。なぜジャーナリストはかれのようなプロフェッショナルになれな
いのだろう?
またもや病院訪問(ちょっとジャングルに近すぎるかも。それで通訳はあんなに心配そうな
のだ)。子供の細長い脚は唐突に包帯で終わっていた。クメール・ルージュの地雷を踏んだの
だ。赤ん坊の女の子が、口を開いたまま横たわっていた。これも地雷に見つかったのだ。――
それで、とジャーナリストは考えた。ぼくはこの子たちを哀れに思うけれど、ほとんど無料同
然で踊ってセックスしてるヴァンナはどうなんだ?
愛そうとしているマリーナは?
期待に満ちて、あんなに一生懸命ぼくを
このぼくはヴァンナだけを愛しているのに?
(ヴァンナと踊るには二百五十リアルかかった。英語のしゃべれない英語教師は、彼女の手取
りは百二十五だと言ったけれど、それがダンスあたりなのか、それともオールナイト、といっ
ても七時から深夜までだけれど、なのかはわからなかった・・・)
Page 65
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
病院の院長がフランス語で話しかけていた。一言もわからなかった。疲れていた。ヴァンナ
の腕の中に横たわって、永遠に眠りたかった。
たぶん写真家とぼくは、アメリカに戻ったら総スカンをくらうだろうな、とかれはつぶやい
た。だってちゃんと仕事してないもの。ぼくより、写真家のほうがかわいそうだ。いつかラン
グーンの娼婦に会いたがってたもんな・・・
今は雨期です、と医師の一人が言っていた。だからマラリアやデング熱のような病気の子が
増えています。カンプチアで非常にファンタスティックなのは、かれらみんなが本当に孤独で
疎外されていることです。だから事態がどんどんひどくなっていると感じます。そして衛生の
なさがもう一つの大いなる問題です――
AIDS はどうです?
AIDS?
と写真家が割りこんだ。
ああ、SIDA ですね。いまのところ、カンプチアでは症例が報告されていません。
そうなの?
へえ、ホントにそうなの?
いやあセンセ、こないだゴムなしで、すっげえ十
六歳の娼婦を犯ったんですよ。ほとんど強姦同然。あのマンコは最高だったな。考えてみると、
もう一人のほうの時もゴムを使わなかったっけ・・・
74、
写真家とジャーナリストは、それ以降、国家保安上のリスクとなった。ジャーナリス
トが地方軍司令官をインタビューすべく待っているとき、そのバタンバングの総司令部の椅子
で身じろぎすると、動いた拍子にいきなり、運転手が背後わずか一センチのところに立ってい
て、片手を拳銃のホルスターにかけ、凶暴な関心をもってこちらを見ているのに気がついた・・・
75、
夕食のときにはまたマリーナがついた。彼女はとても喜んでいて優しかった。かれは
女を受け入れた。ちょうど、あの運転手が具合のいい直線を疾走し、クラクションを鳴らして
両方向の車を路肩に止まらせ、自分の泥のはねた公用車が前に突き進むときの感じで。そして
たまにジャーナリストは、運転手が狂ったようにクラクションを鳴らしつつ突進する前から子
供や老婆がとびのき、泥の中に転がりこむのを目撃した。かれはマリーナのうえで、うめいて
あえぎ、そのうち写真家は腹をかかえて笑い出した。真夜中に、彼女にまた起こされた。また
犯してほしがっていた。できなかった。金玉が痛んだ。彼女は男の腕に触れて、強いからでき
るわ、と伝えようとした。かれもやりたかったが、ヴァンナとどうなったかを思い出して、彼
女を抱きしめて専科を撫でるにとどめた(本当は髪を撫でたかったけれど、カンボジアではだ
れの頭でも触るのは無礼なのだ)。そしてまた眠りに落ちた・・・
Page 66
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
76、
バタンバング最後の朝、かれらはもちろんブルーリバーで朝飯をとった。水面には、
屋根付きのカヌーが浮いていた。無人のテーブルの横を、男がさおでモーターボートを操り過
ぎた。ブルーリバーは茶色で床板はきしんだ。だれもまだ扇風機をつけていなかった。でも、
音楽はがなっていた。朝の六時半。通訳は、目をぱちぱちさせてすわっていた。女の子たちは
どこにも見あたらなかった。外交庁長官は、すでに金をもらって消えていた。運転手は自分の
コーヒーに目をおとし、重いロシア製拳銃をベルトにつけて、制服はまっさらの緑。平静で、
警戒を怠らない。スチールの腕時計が光る。目があたりを見回す。
マリーナが遠くのテーブルにいた。ふりむいて微笑みかけると、微笑み返す。
何回?
と通訳がたずねた。運転手も大いに興味を示して身を乗り出す。
たった七回、とジャーナリスト。
七回?
冗談でなく?
こういうことでは冗談は言わない。
車に向かう段になると、マリーナがいっしょにきた。他の客の注視の中。かれはいま、仏と
向かい合っていた。その顔は、かれにキスしようとしている娼婦の顔ほども大きく、目は半閉
じで、口は売れた豆のさやのように微笑み、唇は開き、肌は黒と金のまだら・・・かれは女を
抱きしめた。
あなたとジャングルに行きたいと言っています、と通訳。どんなに危険でもかまわない・・・
ジャーナリストはショックを受けた。すると本当に自分を愛しているのはこの女なのか?
つれていこうか、とかれは口ごもった。つれてったほうがいいかも――
わたしたちはバスの運ちゃんじゃない、と通訳はバカにしたように言った。
THE END
Page 67
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
77、
プノンペンに戻ったよる、ジャーナリストと写真家は英語教師の家に寄った。英語教師はま
だ戻っておらず、英語教師の母親とは身ぶりでしか意思疎通ができなかった。英語教師の妹が
いて、彼女も精いっぱい歌ってくれた。ワンはおとこ、ツーはうぉんな、スリーはぶぉいー、
フォーはがぁる、ファイブはもぉたかぁ・・・お返しにかれは天井まで持ち上げてやり、彼女
といられるのが嬉しかった。臭くてシラミ持ちだったけれど。自分のレインコートを着せてや
ると彼女は笑い、英語教師とその友人が帰ってくると、ジャーナリストはその少女もいっしょ
に食事に行こうと誘い、その母親はロウソクの光の届かない暗い隅っこで、あわてて一番いい
服に着替えさせ、そして一同はベトナム料理店へと出かけたのだが、写真家はそこのウェイト
レスに一週間前から目をつけていたのだった。ジャーナリストは女の子を肩車した。とても小
さくて軽かった。最初は肩車されて喜んでいた少女だったが、みんなが見つめるのでやがて不
安になった。ジャーナリストは彼女をおろしてやった。かれは英語教師の横で、女の子と手を
つないで歩いたが、みんなそれでも見つめた・・・ベトナム料理屋のテレビの青い光の中で、
一同は友人たちと笑いながらテーブルを囲み、みんなの飲み物(少女はセブンアップ、ほかの
みんなはタイガービール)に氷を入れ続け、氷ばさみでどんどん氷をつまみあげ、青いプラス
チックのボウルから冷たさという宝を奪い続け、その太った茶色の顔がエキサイティングなテ
レビの影で輝き、テレビの怪物は吠えまわり、ビールはきらめいて、とける氷でどんどん水っ
ぽくなって、やがてみんなの頬をつたい落ちる汗と同化し、そして少女は隙っ歯を輝かせなが
らジャーナリストを見上げ、ゆっくりとグラスを撫でて、ボトルから自分の喜びに、ジャーナ
リストの首筋を這い下りる汗のようにほんのチビチビとだけ注ごうとしている。そして青いボ
ウルの氷は一層ぎらつき続け、ウェイトレスは目を細めて少女に笑いかけ、格子模様の床はテ
レビのノイズのようだった。――ホーチミンが好きがウェイトレスに聞いてよ、と酔いがまわ
ってきたジャーナリストは言った。――イエス、と英語教師は答えた。――写真家はウェイト
レストうまくやりつつあった。――明日十二時にあなたの部屋にいきたいそうです、と英語教
師の友人が言った。ウェイトレスには友だちがいて、彼女はジャーナリストの年齢を尋ね、ジ
ャーナリストは彼女がゴージャスだと思ったけれど、これ以上関係をややこしくしたくはなか
った。彼女は、ジャーナリストが八歳の少女と寝ていると思っているか、あるいはそのふりを
した。――まあ、確かに写真家に、そいつにつっこみたいだろう!
と言われたのは事実だし、
また写真家がこう言ったのも事実。おれたちの違いがどこにあるか知ってる?
何の違いもな
いんだぜ。二人とも下司野郎だ。
78、
ディスコに行った。写真家はこなかった。街に戻ったことを女に知られたくなかったからだ。
ディスコにでかけたりすると、写真家に迷惑をかけることになるのはわかっていたけれど、ヴ
ァンナが恋しすぎた。もしかすると、愛しているのかも。もしかすると、本気で。いつもなか
Page 68
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
らその暑い闇の中で、自分がそこにいるだけでなにか間抜けで危ないことをやっているような
気がした。何も見えなかった。空気はチェン・エクで見せられた木のような茶色っぽい黒で、
その木はクメール・ルージュが赤ん坊の頭蓋骨をたたきつけて割るのに使った樹皮部分に、固
まった血がこびりついているのだった。かれはよろよろと、こぼれたビールでベトベトのテー
ブルにたどりついた。
ヴァンナはいる?
ビールいかが?
ヴァンナ。女の子。ヴァンナはどこだ。背の高い子。
タイガービールいかが?
ちがう――ちがう――ヴァンナだ――いる?
ノーノーあなたまちがいね、マイフレンド。
ヴァンナ――
マイフレンド――
ヴァンナをつれて帰りたい。ヴァンナだけ。ヴァンナとぼくはこうなんだ。
ノーノーノー!
ヴァンナと結婚したい。金の指輪を買う。
ノーノ、マイフレンド、ノー!
ジャーナリストの上腕部をあざになるほどしっかりつかみ、そのポン引きだかウェイターだ
か用心棒だかはジャーナリストを外に連れ出した。かれは闇の中で自分を見つめる顔すべてを
見返した。太った黄色のネコ顔ども――
79
だってさ、と写真家。彼女が働きにくるわけないじゃん。まったくおまえってやつは、あの
女に金のブレスレットを買ってやったんだぜ。たぶんおまえを厄介払いした十分後には売っぱ
らったんだろう。そんだけ金があれば何週間かはもつだろうよ。
80、
昔は娼婦につぎこめるほど金を持ってなかった、と写真家。今じゃ、それ以外の何に金をつ
ぎこめばいいのかわかんなくなっちまった。
81、
写真家は、ホテルのすぐ外の両替屋と恋に落ち、結婚してくれと申しこんだ。一日中彼女は
世界に向かって微笑み続けた。というわけで二人は婚約した。その後、ジャーナリストが外に
Page 69
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
出ると必ずと言っていいほど、写真家が彼女のガラステーブルにもたれ、輪ゴムで束ねた横積
みの札束に囲まれてすわる彼女をにたついて見おろしているのに出会った。客がくると、顔を
あげる時にはすでに電卓片手だった。だれにでも、ルビー・クイーンのピンクのパックや、シ
ルバートップの赤いマルボロの箱、赤いトップの便トレー、金のダンヒル、緑のリグリー・ス
ペアミントガムを売ってあげようとして。それがすむと、フィアンセとのくすくす笑いに戻り、
かれの言ったことをしべて書き取らせて、他の英語生徒たちにそれを翻訳させるのだった。そ
して写真家は:一年以内に迎えにくるから…と言ってから再び尋ねた:愛してる?
そして彼
女は顔を輝かせてうなずき、秘密のガラス棚から客にタバコのカートンを売った。――すると
おれは女房と離婚しなきゃならないわけか、と写真家は憂鬱そうに言った。
そこで男たちは、自分の女たちに花を買ってやるべく市場にでかけた。ジャーナリストの思
いつきだった。ヴァンナになにかあげたかったのだ。ディスコのみんなが観ている前で、彼女
の前にひざまづきたかった。そうすれば本気なのがわかってもらえるかもしれないけれど、そ
れにしても本気で何なんだろう?
かつてはぽっちゃりした子として知られていたベトナム人ウェイトレスは、七時に写真家に
会いにホテルにくることになっていたけれど、タクシーガールではないのでこわがっていて、
だから英語のしゃべれない英語教師に、つれてってくれるよう頼んだ。この会合を考慮しなき
ゃならないんだ、と写真家は市場の中をジャーナリストを案内しながら言い、頭に果物入りの
大きな皿を乗せた女性が横を通った。――花がどこにあるかはだいたいわかってるんだ、と写
真家。櫛とか電球とか、鍵とかひもでゴミゴミした長いカウンターの列が並ぶ廊下を下り、そ
のカウンターの向こうには人が立ち、その横ではすすだらけの灰ざらからオレンジの炎がくね
り出て、野菜や麺が山盛りになった巨大なフライパンの底をなぶっている。テーブルには、そ
れにくべるための薪束が積んである。ジュージューいう音がする。ジャーナリストの氷をつめ
こんだソーダガラスからたちのぼる蒸気とそっくりに、湯気がたちのぼった。自分の飯入りど
んぶりから炎をはらいのけ、たまに小麦粉をいろんなものにひとつまみ振りかけ、濃いソース
をかきまぜて、金を払う者すべてのためにビニール袋に紫の氷水を注ぎ、砕いた氷をトッピン
グでおまけして、スープボウルを下げに行く間、黄色いドライフルーツのトレーに紙幣を一瞬
並べてある女の子たち、その女の子たちがカンボジアのみんなと同様に、かれと写真家を見つ
め、たぶんかれを背の高いケツでかバカ白人と思っているのか、あるいは単に名士と思ってい
るのかも知れない。どっちなのかは、この市場のくらくらするような中央多角形広場に並ぶ時
計や金のブレスレットやレンズのガラスカウンター並に複雑で、そこでかれは確実に迷子にな
りそうで、事実迷子になったのだけれど、でもジャーナリストは花というクメール語を覚えて
それをいい続けたので二人は目指すところにやっと行き着き、それぞれ花束を買ったら、熱の
中ですぐにしおれだしたのだった。
両替屋の屋台に戻ると、彼女は別の男の紙袋に札束を詰めこんでいる最中で、写真家を自分
の椅子にすわらせた。プレイボーイという通り名のストリート・キッドが、写真家の花束を見
にやってきた。いつもなら、写真家はその子にタバコを買ってやるのだった。今回、かれは怒
Page 70
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
鳴った。お前にやる花じゃねえぞ!
ばれ!
そんなこともわかんねーのか!
お前の頭なんか二束三文でふっとばしてやる!
失せろ、消えろ、くた
――写真家のフィアンセは、不安そ
うにくすくす笑った。
82、
次の場面の幕があがり、ベッドの上のぽっちゃりした娘が笑い、英語のしゃべれない英語教
師とその親友がくつろいで笑い、ご主人様たちの照りはえる輝きを浴びて、ぽっちゃりした娘
がその白い歯と黒い目であたりをきらめかせ、身をなでては手招きして、やがて写真家は彼女
のあばらに顔をうずめた。ぽっちゃりした娘がホテルにやってきたとき、写真家はフィアンセ
の両替屋と話していたので、ジャーナリストは写真家のフィアンセにこのささいな裏切りを悟
らせぬため、自らぽっちゃりした娘を部屋に案内しなければならなかった。実の所、写真家は
すでにこのぽっちゃりした娘をコマさないことにしていたので、彼女がここにいること自体が
無意味なのだったけれど、でも彼女はまだそれを知らなかった。ジャーナリストが彼女をつれ
てロビーに入ると、ベルボーイやメイド、コンシェルジュやたまたまそこにいてかれの出入り
をながめていた外務省の手下たちは、特に敵意をこめてジロジロ眺め回すようなこともしなか
ったのに、世界がかれの最新の行為を歓迎していないことは伝えてよこした。かれはぽっちゃ
りした娘を上の階につれていって、落ちつかせたところで停電して、常夜灯をつけたところだ
った。ちょうどそのとき写真家が入ってきて、フィアンセがだまされなかったので不機嫌だっ
た(たぶん両替所に写真家がいるとき、ぽっちゃりした娘がまっすぐかれのところにやってき
て、かれの肩をつかんだからだろう)。そこへ英語教師とその友達がノックして、ぼくがさっ
き描いたパーティーが始まった。ぽっちゃりした女の子は腹がぺこぺこだった。写真家が、彼
女を夕食につれていくと約束した。かれ自身はもう食事をすませていた。――いや、ぼくは約
束守ったほうがいいと思うな、とジャーナリスト。彼女に悪いじゃん。――どこでも好きなレ
ストランにつれてってあげると伝えてくれ、と写真家は英語を話せない英語教師にあくびまじ
りで言った。でも、気分がすごく悪いんだって言ってくれ。だから食事のあとは休むって。―
―ぽっちゃりした娘はくすくす笑っていて、写真家が彼女を無視するのでジャーナリストは彼
女を笑わせようとその足をいじって、写真家はうなった。まったく疲れちまった。なんでこん
なことになっちゃったんだ?
英語教師(必ずしも英語をしゃべるわけではない)は言った。彼女はタクシーガールじゃあ
りません。
ちがうの?
とジャーナリストは驚いた。
ええ。
つまりこの娘はタクシーガールじゃないって?
ええ。
じゃあ何しにここにいるわけ?
Page 71
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ええ。
ぼくの友達と寝にきたの?
はい、彼女ここで、ホテルで、あなたの友達と寝ます。
それであいつに金を要求するわけ?
そうかもしれません、友達に金ほしいです。
だったら、もしお金目当てにあいつと寝るんなら、この娘はタクシーガールなんじゃないの?
ええ、ええ、彼女はタクシーガールです。
この点は明確となって、認識論的に片が付いたので、タクシーガールじゃないタクシーガー
ルはみんなをホテル・パシフィックへと案内した。彼女は自分のいきたいところがちゃんとわ
かっていた。ちかちかするスポットライトのグリッドの中で、ゆっくりアイエーヨウとさけび
つつ踊る女の子たちの前を通り、彼女は一同を奥のプライベートルームにつれこんで、すると
即座にウェイトレスがやってきて、フランス語の値段の表示のないメニューを持ってきた――
絶対に悪い兆候だ。写真家が寝て天井の扇風機と褪せた青いペンキを見上げ、その横でジャー
ナリストはすわって、昼に考えたのとまったく同じことを考え、ヴァンナは昨夜あそこにいて
会いそびれただけなんだろうか、それともどこかでハメまくってたんだろうか、金のブレスレ
ットは売ってしまったろうか、まだぼくに会いたいと思っているだろうか、と思案していた。
彼女はいつも、とても悲しげで遠い感じだった。――その間にぽっちゃりした娘はロブスター
とライスを注文し、ほかのみんあはタイガービールかコーラを頼んで、すでに八時五分過ぎで、
ということはつまりあと五分でジャーナリストの新しい英語の生徒がホテル・アシーに来るは
ずで、いっしょにディスコに行って、ひょっとして二度と会えないかもしれないヴァンナとの
通訳を務めてくれることになっているのだった。この同じ細身の少年は、襟の高い白シャツを
着ていて、ジャーナリストの口述に基づいてかれの最も真摯な気持ちをつづった手紙をクメー
ル語で書いてくれた人物だった。――この新しい約束のためにあわてて戻るのは、なかなか楽
しい気分だった。もっとも、金玉が痛かったけれど。ぽっちゃりした娘は、唇をとがらせつつ、
また明日と言って――
83、
いいえ、お客さま(と少年が通訳した)。申し訳ありません。今日は彼女は来ていま
せん。
そこへ彼女が闇の中の幽霊のようにやってきた。甘ったるいフェイス・パウダーのような匂
いを放ち、しばらくかれにその三角形の顔を与えたので、かれは幸せにひたっている暇もない
ほどすべてに意識を集中せねばならず、でも後になって思い返す時間ができたら幸せになれる
ことはわかっていて、そして彼女が隣にすわって、かれはテーブルの下で1万リアルをこっそ
り渡し、その二つ折りにした札束を彼女はすぐに消え失せさせてしまった。そこへ写真家が英
語教師とその友人とともに現れて、あのぽっちゃりした娘には引導をわたしたけどまた明日く
Page 72
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ると言って、そこはあの写真家の女、バタンバング行きの前に写真家が捨てた女があらわれて、
写真家はこう言っていた。さあ、そろそろおれの婚約者は帰ったかな。あいつが帰るまで、こ
いつをホテルにつれて帰れないだろう…
出る前にビールをおごらせてくれ、とジャーナリストは新しい通訳に言った。
でも、ぼくは夕食も食べてないんですよ!
と少年は哀れっぽく言った。
その時ジャーナリストは、少年に愛想をつかしだした。招かれもしないのに昼食時に顔を出
した。写真家は、失せろ、死ね!と怒鳴った――でもジャーナリストは言った。いいだろう、
昼飯にきたいならくればいい。でも自分の分は自分で払えよ…すると写真家が言った。やれや
れ、そんなの無理だって。このガキ、どうせ文無しだし…――そこでかれらは少年をつれだし、
ウェイターに輪ゴムで止めたカビくさい百リアルの束を渡した。ジャーナリストがかれにラブ
レターを書かせたのは昼食後のことで、その任を少年は美しい書体で果たし、まるで折り紙で
も学んでいるかのように紙を繊細にたたみ、だからジャーナリストは感謝していたのだけれど、
でもこんなぶったくりレストランで夕食をおごらせようというのはあんまりで、特にヴァンナ
がつれて帰ってもらうのを待っているおだからなおさらだった。ビールとダンスはおごってや
るけど、それっきりだと少年に告げた。かれはすでに立ち上がってヴァンナの後を追おうとし
ていた。彼女は公衆の面前では決して手をつなぎたがらなかった。彼女の歩き方は、右肩と上
向けた右手のひらとの間に商品をバランスさせて乗せ、反対の肘にはあの円錐状の帽子を引っ
かけつつ歩く多くの女性たちの歩き方だった。あの女店員たちの歩き方は一見何の苦労もなさ
そうで、それは彼女たちにとってやることは一つしかなく、だからそれをやるしかなかったか
らだった。お盆も円錐の帽子もなしに、ヴァンナは同じ歩き方をした。専門特化して無力で。
いま、かれはバイクで彼女の後ろに乗って、運転手に告げていた。ホテル・アシーへ…そして
かれらは、あのスパイだらけのロビーへ、みんながかれの最新の行動に顔をしかめようと待ち
受ける場所へと疾走中で、ヴァンナはさっき受け取った金から運転手に二〇〇支払った…
部屋のドアを背後で閉めるがはやいか、かれはラブレターを手渡し、彼女はすわって読み出
した。(ずっと後になって、かれの友達の一人がこう言った。確実な法則が一つある。その法
則ってのはこうだ。君の思ってる彼女の考えてることってのは、すべてまちがってるってこと
だ)彼女が手紙を読むのに半時間かかった。単語ごとに、唇が3回以上も動くのが見えた。そ
のときかれは、自分で直接説明して事態を簡単にするかわりに、彼女をまた苦行にあわせてし
まったことに気がついた。でも、どうしても知りたかった。どうしても知りたかった!
紙と
ペンを渡して待った。彼女を食い入るように見つめる。あのムスリム料理屋で子供たちが格子
をつかみ、乞食のように目を大きく見開いてビデオをのぞきこみ、自転車が空っぽの日光の中
で音も立てずに背後を横切る前、もっとよく見ようと首をのばして格子に鼻を押しつけ、格子
をしっかり握りしめるように……彼女は不安そうに微笑む。書くのに苦労しいしい、ささやく
ような甘い熱のこもらぬ声で一文字ずつ口に出す。それから書いたもの――たった一語――を
横線で消してページをめくった。なんどもなんども努力する。やっとかれのために三、四行書
き終えた。二十分かかった。翌日、政府の通訳にそれを翻訳させると、男は笑って言った。で
Page 73
蝶の物語たち
もこれ、意味のないよせ集めですよ、一語残らず!
ウィリアム・T・ヴォルマン
ちょっとこれは……えーと、彼女はあな
たを最初の時にとてもじっと見て、あなたの手紙がとても嬉しくて、幸せは比べようがない。
84、
英語教師の翻訳。ありがとうわたしが手紙を書くあなたに送るときとてもありがたい。のよ
うなものを見つけない。
85、
英語教師の友達の役。ありがとうわたしがあなたに手紙を書くときとても嬉しい。なにも言
うえない。
86、
彼女はとてもやせていて、骨の上に張った肉の細いヒーメンのようだった。手のひらの下で
あばらの一本一本が感じられる。長い茶色の乳首は、かれを興奮させなかったけれど、優しさ
が豊かになった感じ。一晩中こちらの手を握っていてくれた。朝になると渋い顔をして顔をそ
むけた。かれが外まで送るのがいやだったのだ……
87、
その朝、写真家がいぜんと同じことを言った。おれもその娘とやりたいなあ。ちょっ
とこっちに寄こしてもらえない?
それは彼女が嫌がると思う、とジャーナリストは冷静に答えた。
去るとき、彼女はわかれのことばを一音節ずつ区切って発音し、そしていつもながら、まる
で彼女が話すのを聞くのはこれが初めてのように思えるのだった:――バイバイ。
88
彼女の隣に横になり、もう寝ているだろうと思って手に触れたが、するとその指がき
つくかれの手を握りしめた。愛撫しても、身動きしなかった。マンコに触れたが、脚を閉じた
ままだった。そこで彼女をなで、背を向けて寝ようとした。突然彼女は微笑んで、かれの尻を
ピシャピシャたたき出した。間もなくかれは自分のチンポコと彼女のマンコを指さして、彼女
がうなずき、かれは KY ゼリーを取り出した――
Page 74
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
89、
その午後、ベトナム娘がもう一度挑戦しにきた。写真家は彼女に何の興味も示さず、
ジャーナリストは彼女がかわいそうになって、すると彼女はこちらに向かって微笑をはじめ、
何もしてやれないのでジャーナリストの胸は痛んだが、いまやこの気持ちは半ば普遍的なもの
になりつつあった。しばらくして彼女はシクロに乗って去った。英語教師が得意げに言う。わ
たし言ってやりました、ベトナム人だからあなた彼女いらないって。盗んでとって、ベトナム
人よくない!
わたし嫌い!
英語教師は自分が正しいことをやったと確信していて、実に嬉しそうだった。ちょうど血塗
れで叫ぶ鳥をくわえてもってくるペットのネコのように……
90、
写真家と英語教師とつれだって、ディスコに逆戻り。しょせん無駄なことだという沈
む気持ちを抱えつつ。そこに行くと思うといつもぞっとした。――で、今日はいい日だった?
とかれ。――英語教師はこちらを見る。――今日はいろいろなことがうまく行きましたか?―
―イエス、と英語教師。三人は騒々しく暑い暗がりにすわり、彼女がかれを見て探し出してく
れるのを待つ。のんだくれた化け物が、神社で蝕の月を飲みこもうと待ち受ける、緑の太陽蛙
顔のように、こちらに向かってにたつく。月が左側からのぼるか、右側からのぼるか?――そ
れが豊作不作を決める。あの顔どもが闇をのみこむ様が、彼女の来る来ないを決めるのかもし
れない。でも写真家ならそんなの出鱈目だというだろうし、確かにその通りだった。写真家の
いうことはいつも正しい。写真家の女は、嬉しそうな叫びをあげてすぐにやってきた。どうい
うわけか、子供たちが街角で遊ぶ輪ゴムゲームが頭に浮かんだ。遠くからゴムを打って他のゴ
ムにあてると、それがもらえる。おれのこのゲームは何を意味しているのだろう。テーブルの
向かいでは、写真家とその女がなにか缶入りの飲み物を飲んでいた。たぶんサイダーかクリー
ムソーダだろう。ディスコでは必ず何か頼まなくてはならない。ジャーナリストはタイガービ
ールを飲んだ。英語のしゃべれない英語教師にもタイガービールをおごった……
彼女は幽霊のように、こちらを見ながらやってきた。
別のお客と忙しかったと言ってます、と少年。彼女にベッドルームにきてほしいですか?
さあ、どうかなあ、とジャーナリストはがっかりして言った。ちょっと考えさせて。
すわっているとウェイターが戻ってきてこう言った。タイガービールです。
欲しくもない一口を飲んで言った。別にいいよって言ってよ。こなくていいって言ってよ。
さよならだって言ってよ。
目をぎょろつかせながら、英語教師は以上の情報を機関銃命令のような声で繰り返した。あ
るいは、全然別のことを言っていたのかもしれない。そこが味噌。
彼女が何かを英語教師に言うと、英語教師はこう言った。彼女はあなたにお会いしてきわめ
て嬉しいです。
Page 75
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ジャーナリストは考えたか考えようとした。やれやれ、これっきりか。まあ別にいいけど…
…
……と、ヴァンナが寄ってきて、何か四角い紙にきれいに包まれたものを寄こし、そしてま
たもやかれの気持ちは沈んだ。これはあの手紙を返してるんだ、正当で筋にかなってるけど、
でもとても悲しくて、それで彼女がまだそこに立ち続けていたのでその包みを開けてみると、
それはまったく別物で、きわめてていねいに(ひょっとしたらプロの手で)書かれたクメール
語の行が連なり、ループや広い跳ねやらせんやハート型の文様だらけでみんな丸まってややこ
しく、判読しがたく続いてる。
英語教師が言った。彼女は行って客から自由になります。
いいよ、とかれ――
ジャーナリストは嬉しくて驚いてもいた。すわっている横に英語教師もすわっている。
彼女は戻ってきて、なにごとか英語教師に言った。彼女はいまや家にかえって着替えます。
彼女を待っていてください。彼女は二十分で戻ります。彼女はあなたのために戻ります。
ぼくのためにホテルにくるの?
イエス、と英語教師。
かれは英語教師を外につれだして、近くのアパートの外にある街灯の下にすわらせた。翻訳
してくれと頼んだ。英語教師は長いこと手紙を見ていた。そして言った。ハイライトだけを話
しますと……
何もかも話してくれ。全部書いてもらえませんか?
そしたらホテルに行って彼女を待つか
ら。
英語教師は書いた。わたしの親愛なる友だちへ。
彼女はホテルにくるの?
イエス。
英語教師は書いた。あなたがバッドンバングに行くことでわたしを孤独にしてから長い時で
す。あなたを非常に会いたくてあなたを心配です。
彼女はホテルにくるの?
ホテル?
と英語教師は驚いて言った。ノー、彼女は――あなたのためにディスコに到着…
…
すわって翻訳を続ける英語教師を残し、かれはあわてて通りを駆け戻った。ディスコへの入
り口はとても混んでいた。入ろうとすると、男が脚をつきだしたので、蹴つまずいてしまった。
別の男が火のついたタバコをズボンのももに押しつけた。ジャーナリストはその手とタバコを
はらいのけ、火の粉をはたいたが、どうせそれは汗で半分消えかけていた。写真家とその女は
まだディスコにいて、同じ暑いべたつくテーブルでタイガービールを飲んでおり、幽霊と汗と
情欲と恐怖と不幸の臭う、滴るような空気を通して音楽がぼんやりとビートをきざむ。
彼女、戻ってきた?
いいや、と写真家。写真家の女は、写真家の腕の下からきょとんと目をあげてみせた。
Page 76
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
通りの向かいで待ってると伝えといてくれ。
英語教師は翻訳した。わたしはあなたがカンボジアから排除してわたしに話していないのか
とおもいました。
なぜ話すよりずっと上手に書けるの?
イエス、と英語教師。
91、
もうバイクの後ろに乗せてくれなくなった。別々のバイクに乗って、両方の運転手へ
の支払いをさせるようになった。いじめられすぎたせいか、それとも単に彼女が怠惰なだけな
のか。運転手は彼女と併走したので、ホテルまでの間ずっと、彼女がバイクに横座りになって、
脚の間の握りをつかみ、道化じみた青白い顔がほとんどおもちゃのようで、嬉しげな仮面のよ
うに微笑しているのを見ていられた。
手紙になんと書いてあったのか知りたくてたまらなかった。彼女と話ができないのはあまり
につらかった。手紙の代筆に金を払わなくてはならなかったのだろうか、それとも無料でやっ
てもらえたんだろうか。
彼女を抱きしめ、写真家が入ってきて電気をつけたとき、見ると彼女はこちらに微笑んだま
ま寝てしまっているのだった。
92、
手紙にはこう書いてあった。
わたしの親愛なる友だちへ。
あなたがバッドンバングに行くことでわたしを孤独にしてから長い時です。
あなたを非常に会いたくてあなたを心配です。わたしはあなたがカンボジアか
ら排除してわたしに話してないのかとおもいました。
あなたがわたしにホテルで会うと約束でわたしはあなたのことばが聞けな
いので行くできませんでした。だからあなたはわたしを許してください。それ
どころかわたしはまだあなたを愛するで、正直にあなたと永遠です。
わたしがあなたとともに約束した翌の日わたしはつらい病気になって、だか
らあなたがわたしを買ったブレスレット売りました。だからあなたはわたしを
許しください。
Page 77
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
いつあなたはあなたの国に行きますか。ここにまたきますか。そしてあなた
かカンボジアにこなくてはいけませんわたしがまだあなたを永遠に愛してい
る忘れないでください。
最終的にわたしはあなたに幸せが会えるように願ってわたしをずっと愛し
てください。わたしはあなたに最大の幸せと末期的にわたしを愛して願います。
署名
愛をこめてヴァンナXXX
93、
手紙を読み返す雨降りの日除けの下では、シクロ運転手たちがすわって、鳥模様のつ
いた茶色い陶器のティーポットからお茶を飲んでいる。かれらがリアルの薄い札束を数え直す
様子は、かれが彼女のことばを己に語り直すのと同じくらい愛しげだった。血管の浮いたやせ
た茶色の脚をこすりあわせる。そしてかれは思った。愛のことなんか心配して時間をつぶせる
おれは、心も財もこの人たちからそんなにかけ離れているんだろうか、それとも単に舞い上が
ってるだけなのかしら。
十五分ほどで雨はやみ、シクロ運転手たちは自分の車のビニールシートを取って、たまった
大量の雨水をぶちまけた。カフェの支配人がみんなの勘定書を持ってくる。クメール・ルージ
ュはバタンバングの近くでかれの家族を働かせた。働きが遅かったので、かれの妻と子供三人
を鉄棒で殴り殺した。かれは家族の頭蓋骨が砕けるのを見、聞いていた。一人ずつ、恐怖と苦
悶がちょっと長引くように殺された。最初に赤ん坊の頭を叩きつぶした。それから四歳の娘の
蕾を散らした。次は七歳の息子が叫んでカボチャのようにひしゃげ、両親を血と骨まみれにす
る番だった。母親は、子供たちが死ぬところを見られるように、最後にとっておかれた。支配
人はよい労働者だった。クメール・ルージュはかれに対しては何の恨みもなかった。でも、も
しかれが泣けば、裏切り者とみなされるのを知っていた。それ以来、かれは決して泣かなかっ
た。カフェのなかを飛び回ってパンとお茶をお金に換える間、その目は見開かれて狂ったよう
だった。十一月の五月蝿のようだった。そしてジャーナリストは思った。ぼくの体験した苦し
みなんて、かれのに比べれば何一つとしてとるに足らないということは、つまりぼく自身がか
れに比べて取るに足らないということなんだろうか。――そうだ。――では、かれが勝ち取っ
た悲惨な偉大さに対するぼくの認識を示すため、何かできること、あげられるものはあるだろ
うか。
でも、この男を助け、または幸せにするものとして、かれは死しか思いつかなかった。そし
てこの男は、すでにそれを拒絶していた。
Page 78
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
それからかれは男に金をあげようかと考えた。それからこう思った。うん、でもヴァンナも
かれと同じくらい重要だ。そして彼女はぼくを愛しているしぼくも彼女を愛しているから、彼
女のほうがもっと重要なんだ。
悲劇といえば(そんなものはカンボジアでは一山いくらの代物だ)、彼女の茶色い背中の丸
い白い傷跡はどうなんだ。子供の頃、田んぼの畦に土を運ぶのが遅かったのでクメール・ルー
ジュにつけられたのだ。彼女にそんな仕打ちをした連中に会ったら、殺してやる。
94、
英語を習いたくてたまらない別の少年が、ジャーナリストを口説き落として明かりの
ない階段を連れあがり、明かりのないアパートに案内した。そこにはテーブルと椅子二脚、木
の寝台二つしかなかった。月六千リアル。少年はジャーナリストをテラスに案内した。そこか
らは中央市場の黄色いドームが見おろせて、その周辺に屋台が連なり、バイクや自転車が列を
なしている。そしてジャーナリストの考えることといえば。ディスコはこの反対側か。ヴァン
ナはいるかな……
――でもぼくにはよい先生がいないのです、と少年は泣き言。よい先生に
つくお金がないのです……
――そしてジャーナリストは考えた。おまえのこだわりも、おれ
と大差ない代物だなあ。――少年の哀願が鼻につきだしたので、ジャーナリストは次の大雨の
中を外に出た。みんなが優しくかれを笑っている。女性が駆け寄ってきて傘をさしかけてくれ
て、かれは微笑んで礼を言うと、両腕を大きく雨の中に突き出して駆け去り、幸せそうに笑っ
て、女性も笑った。通りの水たまりをびしょぬれになって跳ねちらかし、みんなに最高の様子
で親指をたててみせて叫んだ。ナンバーワン!
95、
もはや二十年も前、ロン・ノル時代にクメールルージュが破壊した橋の橋桁のところ
には床屋が出店を出していて、出店と言っても灰色っぽいトランプ用テーブルと古い椅子で、
そこに兵士や警官やシクロの運転手がすわって髪を切られるのを待つというだけの代物。通り
は髪の毛で真っ黒。床屋の一人が机のところで剃刀を研いだ。テーブルには小さな鏡と、スタ
イルを描いたポスターがあった……床屋の列の両側にはセメントの縦穴があって、その階段は
ウンコだらけだった。踏まずに通るのは不可能。ジャーナリストはその臭い道を上昇して橋の
上に出た。かやぶき屋根のジャンク船が浮かぶ、しわくちゃの茶色い水面からずいぶん高いと
ころにある感じだ。クメールルージュの仕事ぶりは徹底していて、鉄とコンクリートとアスフ
ァルトをきれいに削ぎ落とし、四角い日当たりのいい空気のエッジをこしらえてあった。ずっ
と後でこれを思い出したときにかれは思った。三歩踏み出してれば、永遠にヴァンナといられ
たのに、彼女が生きてたとしても……
――でもその時にはそんな考えはつゆほどももてあそ
ばなかった。ヴァンナは現存していて火急の存在だったからだ。暗くなればすぐにでも会える
Page 79
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
……
96、
彼女の手と顔は、冷凍庫の製氷皿に驚嘆していた。氷を一つ出してやると、嬉しそう
にかみ砕く。笑ってにこにこして、シィィィィッ!
と言って……
――やっと信頼してくれ
たのだ。ええ、彼女はあなたを愛しています、と通訳。彼女はあなたを信頼しています。目を
見ればわかるでしょう……
――ベッドにかれと横たわり、低い声でクメール語の歌を歌った
が、非常に気分の悪かった写真家が起きあがって、できる限りの醜悪なやり方でそれを真似し
だしたので、ヴァンナは黙った。
97、
写真家は事態を収拾着かないほど混乱させていた。みんなに辞書を買ってやったけれ
ど、感謝した人たちが開いてくれた宴会には気分が悪くて出られなかった。ジャーナリストに
熱病をうつされ、ジャーナリストはそれをヴァンナからもらったのだった……それから両替屋
の女が、別の女二人といるかれを見つけて、目玉が流れそうなほど泣いて大嫌いだと叫ぶ……
写真家はディスコの女とよりを戻した。たぶんジャーナリストのためを思ってだろう、なぜな
らジャーナリストは、何があろうとヴァンナを求めてディスコに行くようになっていたから。
そして今度は写真家の女が泣いていて、それはジャーナリストが(英語教師の力を借りて)ヴ
ァンナに何もかもおうかがいをたてているのに、写真家は女がそこにいようといまいと気にも
せず寝ているだけで――実のところいないほうがいいと思っていて、なぜなら間もなくゲロを
はかずにいられなくなるのがわかっていたからだし、それにいずれにしてもカンボジアはタイ
ほどには写真家向けの国ではなかった。ここの女の子はタイほど魅力的じゃなかったし、みん
な従順で怠慢としか思えず、写真家が敬意を抱く人というのはサンフランシスコで隣に住んで
いた男のような人間で、そいつは廊下で小便しているところを見つかって、写真家が怒鳴りつ
けるとそいつは疲れはてたようなひどい顔をふりまわすようにして、こんどは貴様の頭の上に
クソしてやる!
と叫び、すると写真家はそいつを許して尊敬するしかなかったのだけれど、
でもカンボジアの女はそんなことしなかった、少なくとも十分には。そして翌朝早くにタイに
発つからというのでこれを最後に彼女を追い返さなければならなくなると、女はまた泣いてじ
たばたしだして、かれのひざを涙で濡らし、しがみついた。見ているだけでぞっとした。でき
る限りの愛情をこめて、ジャーナリストは彼女の手におわかれのキスをして……
THE END
Page 80
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
98、
でもこれもまた終わりではなくて、なぜなら朝、ごく早朝にドアをノックする音がし
て、ジャーナリストは病気でデブでげんなりした気分で下着のまま起きあがって、だれだか見
に行った時にはまだ知らなかった。ドアを開けて叫んでしまった。ヴァンナ!
興奮と感謝の
念でいっぱいで、彼女はこちらに向かって輝くばかり。かれの旅のためにパンを持ってきてく
れたのだ。彼女と一斤を分け合った。ゲロを吐きつつ床の上に気絶してしまった写真家は、ベ
ッドで熱にうかされていた。そしてジャーナリストは、写真家が捨てるつもりで入れておいた
果物の入っている冷蔵庫の扉を開けて、彼女にあげた。贈り物には贈り物を。そして彼女がに
っこりして受け取ったので、それは特別なものになった。ベッドのとなりに横になって、彼女
はなんだか巨大なグレープフルーツみたいな果物をむき、その内側は小区画ごとに、花弁のよ
うに厚くて苦い角皮で仕切られ、その中身の報償はゴムっぽい淡い黄色の涙滴型繊維のかたま
りに甘酸っぱい果汁だった。そして彼女は一房をかれの口に入れて、そしてこう言った。アイ・
ラブ・ユー――
THE END
99、
バンコクに戻ると、ジャーナリストは写真家に言った。よし、もうあれっきりだ。こ
の先こんりんざい娼婦はなし。――そしてヴァンナと結婚する話を始めて、やがて写真家は言
った。まったく、もうその話はうんざりだよ!
――写真家は出かけて女を買った。ジャーナ
リストにも本気でいっしょに来てほしがっていた。これまでジャーナリストの面倒を見てきた
のだ。ジャーナリストの睾丸の状態が最悪だったときには、写真家がずっとベッドまで食事を
運んでやっていた。でも、いまのジャーナリストは善良になりたいだけ。だから断った。――
だったらせめて、何か買ってきてやろうか?
日差しのせいでハゲタカそっくりなまでに真っ
赤に茹であがり、ぼんやりと陰気に前方を見つめ、バンコクのきつい光に耳の内側を照らし出
されつつ、写真家は日中を過ごすのに非常に苦労していた。しかしいまやかれの美質が戻って
きていた。いつもながら、ジャーナリストはそれがうらやましく、かれのようになりたいと思
った。――いやあ、別にいいよ。ぼくの分も一発やってきてよ。――ジャーナリストは後に残
って流しで下着を洗った。部屋は明るく、涼しく、静かで、ゴキブリはほとんどいなかった―
―というのもこれが世界的に有名なホテル38だったから、といっても二人とも初耳の場所だ
ったけれど。下の階二階分は娼婦ばかり。それにかれらのルームナンバーも特別だった。とい
うのも廊下の奥のパキスタン人たちが言うには、三〇二号室?
すごく不吉。パキスタンで誰
かがホテルで殺される時には、いつも三〇二号室なんだ、とのこと。――にこにこして見回し
つつ、ジャーナリストは写真家にこう言ったものだ。ここ、気に入りそうだよ!
そして写真
家は笑い転げて、壁につかまらなければならなかったほど。――ねえ、とジャーナリストはエ
Page 81
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
アコンに語りかけた。ここがホテル38と呼ばれているのは、階段が三十八段あるからかなあ。
ぼくの本でなら、それだけ階段をつけるんだけど……
――でもエアコンは答えなかった。下
着を茶色から灰色にまで洗うと、それをしぼって洗面所のドアノブにかけて滴るままにしてお
いた。(時に写真家が、かれの洗濯物をきれいに並べ替えてくれた。写真家は、人生のあらゆ
る側面における無能ぶりを哀れんでいたので、できる限りのことをしてくれたのだ。――絶対
に離婚するなよ、というのが写真家のいつもの忠告だった。奥さんがいなきゃ、おまえってホ
ントどうしようもないじゃん!)ジャーナリストは無人の部屋に立った。口の中が乾いていた。
フィルターで水をポンプするには疲れすぎていたので、横町で瓶詰めの水を買ってこようと思
った。中庭ではミニチュアのパゴダがイルミネーションに照らされていた。ネオンサインが柱
をトカゲの列のように上下して、下のコンクリートにこぼれた水が、それに同情するようにリ
ズミックなオレンジをくねらせている……腹がちょっとゆるくなり、同時に睾丸も。赤痢の時
間だ。二階の女たちが腕を組んで廊下をやってくる。ピンクの明かりに結ばれて、甲高く笑っ
ている。その一人はすでに、白シャツの気色悪い男をつかまえていた……女たちはジャーナリ
ストの腹をつつき、かれもつつき返す。かれは二階と三階の間の踊り場に立って、星の間の闇
を通して縫製工場の窓をのぞきこんでいたが、そこでは淡い色の制服姿の女たちがすわって縫
っている。すごく奇妙で荒涼として見えた。恥は受けていても、娼婦たちの方がいい暮らしを
送っているようだ……かれが明かりを消してベッドに入った直後、明かりがついて、目をあけ
ると写真家が、暑くまぶしい戸口でだれか別の人物をつれて立っていた。一瞬後、写真家のか
つてのバンコクでの女ジョイが、ジャーナリストのベッドに飛び乗っていて、まるで兄弟のよ
うに自然に手を握ってだきついてきて、写真家は笑ってそれを見ていた。――あたしボーイフ
レンド一人だけ!
と彼女は写真家を指さした。あの人、愛してる!
――きみは本当に優し
いなあ、とジャーナリストは感心して、心からそう言った。でも、これまで何度、心からそう
言ってきたことだろう……
ジョイは洗面所に行った。それから彼女と写真家はベッドに入った。ジャーナリストは二人
におやすみと言った。間もなく、ジョイの押し殺したリズミカルなうめきが聞こえてきた。本
気かふりかはわからなかったけれど。同時に廊下では、さかりのついたネコがアーウ、アーウ
……
100、
朝の六時半に、メイドが中庭を掃いて、多彩でいろいろな長さのホースをつないで植
物に水をやっている間、ジャーナリストは非常階段に立って、通りの向かいの老婆を見ていた。
彼女のまわりを犬がぐるぐる走るにつれて、老婆もゆっくりとかかとで回転する。制服姿の娘
が二人、横町を行進してゆく。少年が巨大な本を頭に乗せている。メイドは、紙やゴミの詰ま
った籐のかごめがけてコンクリートに水をまく。写真家は、涼しい暗い部屋で娼婦と眠り続け
ている。
Page 82
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ヴァンナにもらったパンの大部分はあげてしまった。古くなる前に食べきれなかったからだ。
昨夜、まさにこの場所に写真家と立っていた時、最後の一斤をわけあった。写真家は一口食べ
て、残りを屋根のひさし部分に放り投げた。それを見て、ジャーナリストは奇妙な心痛を感じ
た。自分の分を、何も言わずに食べた。今朝、パンはまだそこにあった。土で焦げ茶色になり、
貪欲なアリたちの満干とともに揺れている。
101、
その女、あんたの何なのさ!
あの最後の朝、優しく慎重に指先を彼女の背中にあて、
通りの向かいまで送る時に二人をとりまいた群衆の中から、シクロの運転手がそう叫んだ。
友だちだよ、とかれ。
102、
そして実際問題として、彼女はジャーナリストの何なのだろう。かれを愛していると
言ったし、そしてたぶん結婚してくれといえば結婚してくれるだろう。いっしょに来てくれる
だろう。子供もつれてくるだろう(もう一人の夫は彼女の顔を蹴飛ばして捨てた)。だから彼
女は彼女なりの愛でジャーナリストを愛していて、ジャーナリストはジャーナリストなりの愛
で彼女を愛していて、それでじゅうぶんではないか?
ホテル38のメイドたちのスケッチを
描いたら、彼女たちは唇にキスしてくれて踊りに連れてってくれと言う。その日遅く、一人が
ほんとうにためらいがちにこう言った。愛してる……?
103
翌晩、写真家はそれぞれようにマンコを買って帰ってきた。一種の夜中のおやつとで
もいおうか。その日、でかける前に写真家はまた同じ質問をしたので、こんどはジャーナリス
トはこう言った。わかった、無理にでも勧めてくれよ。――写真家のマンコはまたジョイだっ
た。ジャーナリストのは強欲な盗人で股間をきれいに剃ってあり、キスしたけど息が最悪で、
しゃぶろうとしたけれど、舌を彼女につっこんだ瞬間、しまったと思った。起きあがって口を
ゆすぐ。そしてゴムをつけた。翌日、舌は白いカビでおおわれ、のどははれあがって息もでき
ないほどだった。何度も何度も、高熱がかれの首筋をつかまえ、夢から引きずりあげてぐった
りさせてから眠りに再度落ちこませる。その後、シーツの上のなにかのクズに針のようにつき
さされつつ、ヴァンナの顔を思い浮かべた。まあ、ヴァンナが禁欲生活を送っていないのもま
ちがいない。ちょっとでも気を引いた娘をパッポンの群れから選び出し、ホテルに連れ帰って
もいいのだという無制限の自信と気安さが生じたのはその時だったろうか。だからその後、夜
中に目を覚まして隣に女が寝ているのに気がついた時も、それがだれか気にもせず、即座に女
Page 83
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
のパンティを足首までひきずりおろし、陰毛をまさぐって広げると、彼女は身じろぎしてつぶ
やいた。何よ……?
そしていきなり、それが自分の妻であることに気がついたのだ。翌日、
かれは足早に部屋の中を行ったり来たりして、妻は言った。なにをウロウロしてるの?
――
まあちょっと運動したくて。――妻は言った。あなたがいま浮かべた表情って、なにか後ろめ
たいことがあるみたいだったわよ。――そう?
とかれは驚いた。暗い窓に映った自分の姿を
見てみたが、何もわからなかった。そこに映った姿は、空きっ腹に巨大なシンハ・ビールを飲
んだ時に、美容院のテレビの前をうろつく白犬と回転する市松模様の看板が、同じもやの一部
になるのと同じ感じで崩れていった。妻にききたかった。ぼくってだれ?
――もちろん、そ
れを聞いたときの相手の表情が見てみたいだけのことだったのだが。――妻とわかれて、こと
ばが一言も通じないカンボジアからの文盲売春婦と結婚しようと思うんだ、と友人に話した。
――そりゃおもしろい、と友人。まあ、まずよく考えて見ろよ。おれならあんまりせっかちに
行動したりはしないな。――彼女と子供を養うのにいくらかかると思う?――いっしょに計算
してみようか。と友人。2ベッドルームのアパート代で月千ドル。そのくらいの広さはいるだ
ろうな。仕事部屋と、子供部屋がいるから。これで年一万二千。それから食費に保険料。交通
費。最初の一年は彼女に英語の勉強もさせないと。その授業料もある。託児所も。そんなこん
なで二万五千。これは税引き後。だから課税前で三万五千か、四万くらい要るな。――そんな
に?
とジャーナリストはがっかりしてつぶやいた……左に曲がると、ヘビ農場の横に出た。
アイスクリーム・パーラーに入って注文した。――OK、お客さん、というウェイトレスには見
覚えがあった。うぉん・みぅくしぇっく・わにっわ(ミルクシェイク一つ、ただいま)――愛
してる、というと、彼女はくすくす笑った。わたしあなた心から……いまやかれは正真正銘の
いかれた貪欲なチョウになったのであり、自分がだれか、何を求めているのかをわかったふり
すらせず、挿入せねばならないあの陰気な一瞬を恐れつつ、女が去らねばならない瞬間を恐れ
つつ、でもモノにしモノにされるのに情熱をかけ、金がなくなるにつれてチップも減っていき、
女たちはかれに風邪や咳やいがらっぽいのどや、睾丸への奇妙な新しい痛みなどをうつしてい
った……かれが行っていたのは自分自身の現実を着実に解体することであり、顔や名前をあい
まいにして(ときには自分のまたがっている女の名前すら思い出せなかった。もちろん相手も
かれの名を思い出せなかったのだが)、相容れぬ愛着をつくりあげてかれをだれにも属さぬ嘘
つきにしてインチキ野郎にしていき、自分の顔や名前すら意識からすべり落ちさせてゆく。娼
婦をしゃぶりたくなると、かれは言うのだった。あんたをキン・カオしたい。これは、あんた
をご飯食べるしたい、という意味で、こう言ってから相手のマンコを指さす――
104、
このチョウチョ男!
やりまくれ!
とジョイが飲んだくれて鼻をならした。働け、踊れ、店いけ、
こんちわ元気、どっからきたのどの街から?
一杯おごってよ。六時三十分に
仕事行く。ショーやんない。あんたお金たくさんくれすぎるしたら OK ショーする。
Page 84
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
トタン屋根を雨の銃撃のような音が轟かせると、ジョイは飛び上がって洗濯物を取り入れ、
緑のビニールシートの上にあぐらをかいて、自分のジーンズをきれいな船形にたたんだ。そこ
へシャワーを浴びたばかりのプキが、肩をむき出しにしたパッポン・ドレスで戻ってきた(プ
キをご記憶だろうか?
ジャーナリストは覚えていなかった。でもプキはかれを覚えていた。
かれがオイを愛していると言ったあの晩、ジョイのバーで自分を買わせようとした。タイに戻
ってきてからオイには会っていなかった。かれはオイに操をたてていた。だからもしまたオイ
に会ったら、ヴァンナへの義理立てができなくなってしまう……)ジョイの下着は四角い白の
bales になった。ブラジャーと白のストライプ入り黒スカート姿ですわり、ジョイはたたんで
はのばし続けた。それからベッドを整えて写真家の横に寝ると身をのばす……
ジャーナリストは彼女の長くなめらかな脚をみつめていた。ヴァンナを愛しているようには
彼女を愛していなかったけれど、でももちろん好きではあった。
ドアの割れ目から顔がのぞく。
ジョイは写真家の耳に、あくびとともにささやいた。――シャワー浴びたい、それからえー
と――
プキがまたシャワーから出てきた。濡れてタオルにくるまり、タンポンを借りた。――マン
コ事故、わかる?
とジョイ。
彼女は写真家にまたがり、いとおしげにその肩を指で叩いた。――あなた、チョウチョしな
い、ね?
と心配げにささやく。
105、
ホテル38をチェックアウトして、一日だけジョイのところに泊まることにした。そ
のほうが安上がりかもしれないから。出がけに、メイドの一人がジャーナリストをまた部屋に
呼びこんだ。戻ってくる?
――わからない。――彼女はもう一人のメイドの見ている前で、
唇に正面からキスした。それからこう言った。十バーツ。――かれはポケットに手をつっこみ、
もう一人のメイドと分け合うように百バーツ渡した。彼女の目はクリスマスの電飾のように輝
いた。部屋を出るとき、二人がかれを高らかに嘲笑しているのが聞こえた。十バーツ札と百バ
ーツ札をまちがえたと思ったにちがいない……
106、
輝く目の上に黒いクモの巣のメイクをし、頭蓋骨まがいの笑みを浮かべる女装者ども
は、かれを魅了しなかった。闇の中から真摯に甘く媚びる、黒い手綱を持った者も、汗で輝く
顔に鼻スリットを入れた連中も、二重の眉スリットを入れた連中も。でも、この頃にはかれは、
セックスの対象がもはや問題にならない段階というサドの監獄における手記が理解できるよう
になっていた。爺さんも若い娘も同じこと。いつでもどこかしらに穴は存在するのだ。でも、
Page 85
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
サドとちがってかれはだれも傷つけたくなかった。本当にそう思った。特にだれかとセックス
したいとすら思わなかった。かれは宇宙を漂う宇宙飛行士のように、とことん迷子になってい
たのだ。点滅する闇の中に浮かぶ、あばたとソバカスと金ラメとピンクの唇で笑う頭たちの中
で、鹿のような目の開いた顔たちのなかで、闇に縁取られた日本傘を持った顔たちの中で。そ
の中でかれはあまりにひとりぼっちだったので、その顔のどれでも一つ残らず愛したいと思っ
た。でも、そのどれでも愛すれば、もっとひとりぼっちになるだけなのはわかっていたけれど。
だって、この子たちを愛するのは本当に愛することではなかったから――
107、
また気分が悪くなっていた。睾丸がまた痛みだした。今度ばかりは、身におぼえのな
いことだった。ピンクパンサーでは、ドリンク越しに照明が反射していた。バーに囲まれたお
立ち台の上で、ハイヒールがこつこつ鳴る。黒い水着の女性たちがゆっくり着実に踊り、頭上
では風船が赤い交通信号をあざわらっている。最初にかれのところにきた女は、太って焦って
いた。口に舌をさしこもうとばかりする。――ぼくは病気だよ、と言ったが、女は膝の上で悶
えだした。――マンコ事故だよ、というと、女は笑った。――性病持ちだよ、というと、女は
笑った。今夜あたしを買って、今夜よ、と頼み続けて、かれは明日ならいいかも、と答え、女
はノーノーノーと絶叫して舌をつっこもうとしだし、一秒ごとに醜悪になっていって、かれの
ほうも、舌の白いカビをうつしてやろうかと思ったほどだった。
ついにあきらめてくれた。――あんた病気わかった、いいわ、あしたバーきてあたし買って
ねダーリン。
OK、とかれ。
約束?
約束ね?
いまあたし約束する?
うん。約束する、とかれはウソをついた。
カクテル・ナプキンに彼女は NAME と書いてから自分の姓と名前を書いた。それから No.と書
き、バーの番号を書いた。それからこう書いた。
For get me not (忘れないで)
そしてこれを見て、女がいかに自分を必要としているか、たった一晩分のかれの金をどんなに
深く求めているのか、できれば二度とこないであろうこのバーに明日かれがくることを、どん
なに期待しているのかを見て、女がかわいそうになってうつむいた。女はこれを誤解して、あ
るいは十分にこちらの気持ちを知りつつもだめ押しをしておこうと思ってか、股を広げてかれ
の視界のなかで股間をゆすってみせた。かれが女の汗まみれの顔を見つめると、彼女はささや
いた。病気おっけー!
あなたほかのタイ女といるの見たら……
――そして身を乗り出し、
必死の湿った吐息をかれの鼻腔に送りこみつつ、手のナイフエッジをかれののどに走らせるの
Page 86
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
だった――
108、
おまえ、どこにもつれてけないよ!
と写真家はあきれて叫んだ。女がドリンク買え
と言うだけで、あっさり買ってやっちゃうんだもんな!
おれならバーに何時間でもいて、女
どもみんなに失せろと言えるのに、おまえってまるっきりの言いなり。見てらんないよ。奥さ
んとわかれたりすんなよ。だれかに面倒みてもらわないと、おまえダメだもん!
完全に同意するよ、とジャーナリスト。かれは写真家と同じく、あらゆる人にあらゆる点で
同意するのだった。そのほうがずっと簡単だ。
それから悔悟の念が芽生えて、かれは言った。次のバーではもっとうまくやるよ。もっと金
を大事にする。
だからピンクパンサーから目と鼻の先の次のバーで、女が言った。おごってよ。するとかれ
はノーと答えた。そして彼女がおごってよ、というとかれは答えた。いいとも、きみさえよけ
れば二杯どう?
109、
そのバーでかれがおごり続けている女がノイという名だったので、かれはそこをノイ
のバーだと考えるようになっていたのだけれど、そのバーでかれは湯水のようにカンボジアの
金を撒いたので、みんなかれのまわりに群がった。この金はタイでは無価値だよと言い続けた
にも関わらず、ひざにすわったノイはもう一枚くれと懇願し続けた。左側の性転換男は悪夢の
ように長い舌をこちらにひらひらさせ続け、それは未だに甘酸っぱい不潔さの味が残っている
あのピンクパンサー娼婦の舌の、新鮮すぎる記憶に食いこむ栓抜き状の寄生虫のように思えた。
そしてかれは突然考えた。女の子たちは、いま自分が舌のことを考えているようにペニスのこ
とを考えたりするのだろうか。こちらが望むと望むまいと関わらず、自分に侵入して来ようと
するくねくねしたヘビのような存在として。むっつりと、痛む睾丸を抱えて、かれはバーにす
わり(通路の真ん中の変てこなオープンエアの場所で、両脇を熱い群衆が通りすがる)、オト
コ女のバーテンがジャーナリストの鼻をふいてやってグラスを洗う。
願するノイは、すでに泥酔している(こんな小さな子なのに!
――おごってよ、と懇
こんな大量の酒を!
女の子
たちが色つき水を飲めないのは残酷なことだ。万が一タイ国王になったら、最初の改革はそれ
になるだろう)。左手のオトコ女は、こちらの片手をつかまえて自分のはずむオッパイの虜に
していた。ノイ(四十五キロ)は、いっそうしっかりとこちらのひざにすわり、残ったほうの
手をしっかりと自分にまわさせている。その手でかれは不器用に彼女のチャックを下ろし、指
をつっこんで、彼女が毛を剃っているかはやしているかを調べた――タイでは学ぶべき事が実
に多い!――そして彼女は毛を生やしていた。その後、彼女はもう一杯おごらせて、そしてか
Page 87
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
れの体勢からだと乾杯してグラスをかちあわせるわけにはいかなかったので、ノイが自分のグ
ラスをかれのにあて、そしてグラスをかれの口元にまで運んでくれる一方で、月のような顔の
バーテンがまた鼻をふいてくれた。しりぬぐい係に囲まれた王様のような気分……おごってく
れる?
と左手のオトコ女。――あと一杯。でもこれっきりだぞ、とかれ。――ぼくにはない
んですか、とバーテンがすすり泣いた。
110、
とうとう大きなチークのコップから伝票を全部集めて足しあげてみると、五百バーツ弱足り
ないのがわかった。だから写真家を呼んで金を借りなければならなかった。
まったく信じられんよ、と写真家は、ジャーナリストが長いこと見たこともないほど心底か
らの驚きの表情で言った。
111、
二人はジョイとプキの部屋に寝に戻った。特別な機会以外には、もうホテル38に泊まる金
がなくなっていたのだ。一泊三百バーツだった。(二人はそれぞれジョイに二十ドル渡してい
た。相手もそうしているのを知らずに。でも、ジョイはどちらにも、大家が一晩二百バーツ要
求するのだと話していた……)彼女の部屋は、夜は蒸し風呂だった。明るく荒涼として殺虫剤
の匂いがたちこめる。女たちが交替で洗濯する廊下から、水のはねる音がする。天井から四、
五十センチのところの隅の割れ目から、毛の生えた曲がった針金が伸びていた。その針金がふ
るえだす。しばらくして写真家は立ち上がり、それを引っ張った。何かがキイキイ鳴いた。ネ
ズミの尻尾だったのだ……
112、
ジョイと、ひょっとしてプキが仕事から帰ってくるのを待つ間、二人の性差別主義的
搾取者が眠る間(休んでいる時の写真家の顔は、それでも睫毛がカールしたり下唇がふくれた
りしている様子が会いらしかった。頬は曲げた指にあてがわれている)、ジョイの住処のこと
を説明しておこう。そこに行くにはまず便所臭い水だらけの暗い回廊を下る。そして肩の虫さ
されをかいている女の子が立つ階段の舌で、右折して廊下を下るのだけれど、その左手の壁は
鉄格子つきの仕切りになっていて、ある一家が巨大な(子豚ほどもある)のろいネズミと同居
している。右手には、ロッカーの戸のような、小さな南京錠つきのドアが並んでいた。部屋の
壁は一部コンクリートで一部はベニヤで、大きさは間口三メートル奥行き三メートル半といっ
たところ。床の灰色のセメントは、風呂場のタイルのような模様の着いた緑のビニールで一部
覆われている。壁にはほうきがかかっている。ジョイとプキは部屋をとてもきれいにしていた。
Page 88
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
隅には開架式の針金製一体型の棚、そして女性二人がハンドバッグやローション、イギリス人
ボーイフレンドと一緒のプキの写真を置いておくボロボロのトランプ・テーブル。それから洗
濯物を入れておくゴミかご、そして服が全部入っている細いビニール製の「ワードローブ」。
これらのアイテムはすべて一つの壁に沿って、むきだしのコンクリートの上に並べられていた。
部屋の床の大半を覆う緑のビニール上にあるのは、扇風機と灰皿、マッチ箱と、隅の方に布団
と呼ぶにはつぶれすぎている綿入れが畳まれているだけ。ジョイはそこにぬいぐるみを置いて
いた。――このベビーはあたしの、とやわらかいピンクのクマを抱きしめて鳴らす。あたし大
好き。――それがすべて。壁に絵はない。(天井には貝殻のモービルがあった、ホント、裸電
球がぶら下がっているのと同じ梁からぶら下がっている。こいつのことは忘れてた)家賃は月
に九百バーツだった。
あたしの場所ダメね、とジョイが柔らかく言う。あなた怒るない?
113、
彼女は朝の四時に戻ってきた。よろよろと、倒れつつ、笑って、長い脚を枕に投げ出し、茶色
の爪先に光を吸いこませつつこう言う。あたし飲まれすぎ!
ごめんなさい、飲んだのビール
二つ」、ウィスキー三つ、シャンペン一つ、ウォッカ二つ――
いいんだよ、とジャーナリスト。きみはいい子だ――
ありがとう、と彼女はささやいた。
114、
朝早く、上の階でネズミが鳴き、モンスーンがひたすら降り注いですべての明かりを
喰いつくし、残ったのは陰気な茶色やカーキの輝きが窓の格子の外にかかっているのを照らす
だけで、その向こうの階段の下には高床式のトイレがあった。プキは一向に帰ってこなかった。
オーストラリア男の休暇のためにパタヤに行かなくてはならなかったのだ。(女の子たちは、
この「休暇」を何よりも嫌っているようだった。たぶん自分の担当相手から決して離れられず、
毎回同じもの、つまり砂浜かホテルの天井を見させられるからなのだろう……)ジョイと写真
家はまったく身動きせずに横たわっていた。ジャーナリストは精いっぱい待ち、からだからは
一分の隙もなく汗が噴き出してきたが、それでも二人は眠り続けた。かれは立ち上がってサン
ダルをはいた。外の小道は、今では足首が浸かるほどの茶色い水が流れるドブと化し、その中
をサンダル履きの人々がゆっくりと水をはねつつ動く。縁台で歯を磨き、口をゆすいではその
流れの中に吐く。新聞の切れ端が流れてゆく。いつもながら、パッポンの少年たち(および娘
たち)のように熱心にハエがたかってくる。桟橋と化した木製ポーチには男たちがすわってい
る。女性たちはゆるやかに水をはねつつ、屋台から屋台へとめぐって食物を買っている。狭い
空を横切って両側から日除けがのび、ほとんど真ん中でつながりそうだ。そしてその下では非
Page 89
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
現実的な運河都市が走っている。朝十時にはもう暑い晴天となっていて、通りもからからに乾
いていた。
かれは中に戻り、廊下を下って便所の横を過ぎ、かんぬきのかかった小部屋へと直行した。
ドアを引き開けると、ピストン運動中の尻が目に入り、かれは言った:ごめん。するとジョイ
はかれの名を呼んで
かまわないわ
と言った。
115、
国立美術館へと一人で戻り、愛ぬきで美とともに一時間を楽しもうとしたが、かれも写真家
と同じだった。写真家はバスの中でこう叫んだ:
ぜ!
一キロ先からでもマンコをかぎつけられる
ジャーナリストがそれと同じだというのは、鳥頭剣の展示に寄り道した時、自分がクメ
ール美術を嗅ぎ出そうとしているのに気がついたからだ(プノンペンよりこっちのほうがクメ
ール美術は充実していた!
――クメール・ルージュは実に徹底していたわけだ);熱からく
る汗を中庭の芝生に滴らせながら、かれは十三世紀の、バイヨン様式のドヴァラパラたちに欲
情しつつ立っていたのだった。
石像の頭はちょっと前傾して下を向いていた。完全に微笑しているわけではなく、完全にし
かめっ面でもなく、目玉は涙のように飛び出している。その顔はあまりに見慣れたものすぎた。
写真家がここにいて、写真をとっておいてくれたらよかったのに、とかれは願った。――マリ
ーナ?――そうかも。うん、マリーナだ。ぽっちゃりして、輪郭がぼやけていて丸い。その口
はどう見てもしかめっ面だ。一歩下がり、ちょっと左に寄って、彼女の目が自分を向くように
した。悲しそうに、興味も悪意もなくかれを見ている。このマリーナはずっと昔に死んでいた。
鼻はまるで梅毒にかかったみたいに欠け、乳房はほとんど判別しがたい岩のふくらみ、へそは
丸くて深く、陰部はちっちゃな裂け目にすぎなくて、それも彼女の左右の腕を切り落とした斧
かなにかによる蛮行なのかもしれない……熱気のなかで身をかたくしてけだるそうに立ってい
る。
彼女の隣には、同じ様式の別のドヴァラバラが立っていた。衝撃的なほど美しく、からだの
線は人間ばなれした柔らかさだ。顔は仏の顔でもエジプトのデスマスクの顔でもなく、不思議
なやりかたで髪の束とバストにつながっていた。ほとんどこちらを見ていない。その熱い唇が
微笑んだ。自分に向かって微笑ませようと、かれはちょっと右に立ってその視線を受けた。彼
女の微笑は、支払いが少なかったときに娼婦が見せるあの微笑だった。
116、
彼女はとても真剣な面もちで写真家の顔をのぞきこんだ。――あなたわたしボーイフレン
ド?
それとも遊びのチョウチョ?
チョウチョならわたしたち、おしまいね。
写真家はにやにやした。愛してるのおまえだけ。チョウチョないね。しゃぶるのおまえの花
Page 90
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
だけね。おまえ、おれの可愛い米娘ね。
117、
その夜、写真家がジョイがくるはずの時間まで、その残酷な鷹の目を他のバー女たちに向け
に出かけている間、ジャーナリストは飲みながら自分の記事の最終稿を準備していた。まちが
いなくニューヨークタイムズの一面に載るだろう。タイの外貨獲得商品3つ:米と魚と女……
そのとき何か狂おしいものが内部からじわじわわき上がってくるのが感じられた。ちょうどプ
ノンペンでヴァンナがいない時、シクロ運転手の後ろに飛び乗ってドライバーの背後から通り
を狂ったように漕ぎ続け、運転手は目を覆ってあきれたように微笑し、ほかのみんなはそれを
笑って指さして見つめ、ジャーナリストはその偽の歓喜に満ちあふれて必死でこいだあげくに
シクロを衝突させてしまった。いま、似たようなことが起ころうとしているのを感じて、かれ
は友人を後にして、ソフトドリンクの看板のように小道を照らし出す、パッポンの四角い白赤
黄色の明かりから逃げ出した。ノイは早めに帰ってしまっていたので、つれていかなかった。
バーテンの話だと、男にビールをおごられすぎて、酔っぱらって吐いてしまったのだとか。そ
の男がビール一杯について払う五十五バーツのうち、ノイは二十バーツ受け取る。そして男を
喜ばせるため、それを飲み干さなくてはならなかったのだ。そうでなければ、次の一杯を男か
ら搾り取ることができないではないか。――ジャーナリストはかわいそうになった。一日中か
れが考えていたのは、彼女のマンコはすごくしまりがいいにちがいない、ということだけだっ
たから(でももちろん、愛しているのはヴァンナだけだった……)トゥクトゥクの中にすわっ
て、かれは渋滞で停まった車の青い排煙の匂いを嗅いだ。靴のボタンみたいな目の女性が、バ
イクのタンデムシートにミニスカートで横座りになり、何も見ないように注意している様子を
ながめた。そのとき、かれのとくとく運転手がエンジンをかけた。運転手の背後を守る、むき
だしで緑の「ハイウェイ婦人」のデカルコマニアの、窓の血しぶきデカルコマニアが、黄金の
電球に照らし出された。もうかれらはかなりの高速で動き出していて、そよ風が寒いくらいだ
った。また停止。青い排煙がもっと。かれの横にはまたもや横座りの娘で、今度のはヘルメッ
トごしに目を大きく見開いてこちらを見ている。タクシーの後部シートに釘付けになった他の
みんなの顔が見えた。そこでトゥクトゥクがまたうなりをあげて発進した。国際貿易センター
のライトアップされた庭園の横で曲がり、再びホテル38に向かった。
118、
ショートタイムは二発やるね、一時間。オールナイト十二時までね。そしたらうちの
パパさんへ帰るね。
かれは自分がジャーナリストだと伝えようとした。彼女になんでもいいから伝えようと、と
にかく彼女に意志が伝わるようにと思って。そしてわかったかどうか尋ねると、彼女はイエス
Page 91
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
と答えて、そしてかれは何人の男が彼女にわかったかどうか尋ね、幾たび彼女がイエスと答え
てきたのだろうと思った。
かれはコンドームを見せた。――これ使う?
きみ次第だけど。
イエス。あなたにもいい、わたしにもいいね。
やれやれ、とかれは思った(ちょっとがっかり)。これで完璧記録が破れちゃったか。女の
一人と、最初からゴムを使うことになっちゃった。
こうやってクッキーが粉々になってくんだ、とかれはつぶやいた。
しかしあの白カビをうつされた子がいたっけ、でも彼女の場合、クンニから始めたから数に
入らない。
この娘は三百バーツした。夜の部のマネージャーに、いっしょに来る子をだれでもいいから
一人選んでくれ、と頼んだのだ。――この子にはよくしてやってくださいよ!
とマネージャ
ー。かれはチップを二百あげた。彼女の顔に浮かんだ表情を見て、ジャーナリストは思った。
うん、一生で少なくとも一度、他人を心底幸福にしてあげることができたな。
彼女にもう少し長居させようとしたけれど、残ってくれなかった。でも後で戻ってきた。か
れが清潔なタオルを持っていないんじゃないかと思って……
119、
あなたチョウチョしすぎね、とジョイは、その夜、写真家と戻ってきたときに言った。
タイ娘たくさんすぎ!
いよ!
あなたによくない、彼女によくない。彼女よくない、ハートがよくな
ボーイフレンドいるね!
わたしいない。わたしボーイフレンドない。わたしあなた
愛してる、あなたといっしょ。わたしあなた愛してない、いっしょいかない。昔ボーイフレン
ドいたよ。そいつ、チョウチョしすぎ。セックスしすぎ!(ジョイは叫んでいた)ある日、そ
いつセックス一、二、三、四。わたし言った。OK、あなたもう、ここにくるない、わたしたち
おしまい。わたし言った。あなたわたしと結婚したい、わたしのママ会う、パパ会う――なぜ?
そいつ泣いた。そいつ言った。わからない。わたし言った。わからない?あなたおしまい!
わ
たしおしまい!
いやあ、おまえ、今のどう思った?
と写真家は笑った。まったくおまえ、今一瞬本気でこ
わがってたみたいだったぜ!
かれは荘厳にジャーナリストを指さしてジョイに言った。こいつ、チョウチョしすぎ!
120、
朝の四時半過ぎにその馬鹿げた丸いベッドに横たわり、かれは鼻をかみ、咳払いして、
せきこみ、床に唾を吐き、聞こえるのは外の雨と、エアコンの低いうなりで、青いカーテンが
病んだ陰唇のように汚く、重たく、物憂げに垂れ下がっている。あまり暗くはなくて、丸いベ
Page 92
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ッドの部屋はドアのてっぺんに窓があって廊下の光が差しこむようになっていたからで、たぶ
んそれは娼婦たちが眠りこんで、ホテルの収入を減らすことがないようにするためなのだろう。
かれはせきこんだ。とうとう起きあがり、明かりをつけ、丸ベッドの真ん中に一人でぐったり
と落ちついてすわった。娼婦たちの甲高い悲鳴は止んだ。聞こえるのは雨とエアコンだけ。大
きなムシが床をカサカサと横切った。(パッポンでは、娼婦たちが串焼きのムシを食べている
のを見かけた)深夜の気分がいつまでも続き、そしてかれは咳払いをして白カビを床に吐いた。
121、
ホテルには他に空室がなくて、ジャーナリストは写真家とジョイに丸いベッドを使う
よう勧めたけれど(自分は床に寝てもかまわなかった)、二人はジョイの家に寝に帰った。
ジョイの小部屋に入ると、そこには狭さと暑さと闇が寝息の湿気にまみれているだけだった。
写真家と女二人は、寝ながら物音一つたてなかった。
122、
パタヤ行くの?
とジャーナリストはプキに言った。
彼女が後ろめたそうな顔をしたので、ジャーナリストは発言を後悔した。――なぜ知ってる
の?
ぼくは何でもお見通しだよ、とジャーナリストはウィンクした。我が名はパッポンの王様。
きみのボーイフレンド、優しい?
そこそこ。よくない、悪くない。
写真家が用を足しに外に出ると、ジョイがプキの目の前でジャーナリストにこう尋ねた。あ
たしを愛してる?
ジャーナリストは彼女の気持ちを傷つけたくなかった。もはや自分がだれを愛しているのか
もわからなかった。彼女が好きではあったし……――うん、愛してるよ、と軽く答えた。
彼女は何も言わなかった。
しばらくしてかれは言った。きみはぼくを愛してる?
ノー。好きだけど、愛してない。愛してるのはかれだけ。
するとかれはちょっと恥ずかしくなった。いつものことだ。なぜ他人を傷つけるか、ウソを
つくか、そのどちらかしかできないのだろう。
でも、事実彼女を愛しているのかもしれない。もちろん、兄弟のようにだが……
ジョイは実に優しくて我慢強くて何もかも見通しているようで、タオルを巻き付け、片手にタ
バコ、片手を股間にたらして黒い影を陽光に投げかけ、目と口と鼻腔は完璧なスリットとなり、
タオルのひだが左の乳房から砂の柱のような扇状に垂れ下がり、右の乳房と腕の間には暗い指
先のような影があって、彼女の表情はよく見ると、じつはそんなに優しくなくて、単に無表情
Page 93
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
なだけかもしれないのだった。
123、
そうだなあ、ジョイのところでうだるような眠れぬ夜が二百バーツに対して、ホテル
38のエアコンつき一泊三百バーツ。こりゃたぶん(と脱力しきった白人男たちは思った)、
ジョイのところのほうがかえって高くついてないか?
――38に逆戻り。
ジャーナリストが水のたまった洗面所に悠然としゃがみこみ、下痢をしつつ器用に股間に吐
いている間に、写真家はパッポンまでトゥクトゥクに乗って、ジョイとプキ(写真家はもう彼
女を嫌ってはいなかったけれど、それでも彼女をブヒブヒちゃんと呼んでおもしろがってい
た)を買いにいった。ジャーナリストは別にプキに興味はなかったけれど、でもジョイには親
切にしたかったし、彼女にとって、ジャーナリストとプキをカップルに仕立てるのが大事なこ
とのようだった。結構、だったらつっこんでやろう。(彼女をキン・カオしたい、と、彼女の
面前でかれはジョイに言った。――ノー・プロブレム、と彼女は抑揚のない声で言った)。も
う幾度となく、プキがバーの上でジョイと並んで踊っているのを見てきた。彼女がつかむ、冷
たく光るポールに反射した光は、ちょっと傾けた彼女の太股を誘うように駆け上がり、ジョイ
は遠くを見て膝を上下に動かす一方で銀ラメの水着姿のプキはにっこりしてくちを開け、ハー
イ!
と、コメディアンのようにOKサインを出してそれが穴すべての総括となり、かわいそう
なプキは踊り続けるけれど、決してジョイほどの注目を集めることはない……だから、いいだ
ろう、「いい人」になってやろうじゃないか。まったく、もてると女がらみの悩みがつきない
……一同はすでにかなり酔ってやってきて、ジョイは各人に巨大なシンハビールのボトルを買
ってきていた。プキはジャーナリストのベッドにすわったが、ほとんどかれに関心を示さなか
った。彼女の顔はジョイ一筋で、そのジョイは横たわって写真家を抱き、十分かそこらごとに
肩越しにプキのほうをうかがうと、彼女はまたくすくす笑うのだった。写真家は、二人がレズ
ビアンだと思ったと言い、ジャーナリストはそれを真に受けなかったけれど、でもいまは疑問
に思って、静かにプキに言った。きみ、ときどきは女性とも行くの?
言った。ときどき
そしてかれは言った。
するとプキは赤面して
ジョイともときどきいくの?
そして彼女はうな
ずいた。――かれはプキに言った。きみ、ぼくといたくないのね。かまわないよ。きみがいて
も、いなくても、同じだけ払うよ。きみしだい……――するとプキは、一瞬でかれにとびつい
てきた。おびえていたのだ。そしてかれにしがみつきだして、かれはとても悲しくなった。―
―あたし、いるいる!
彼女はささやいた。あなたショートタイムほしい、あたしショートタ
イムいる。オールナイトほしい、あたしオールナイト!
そしてこれでかれはちょっと希望が
もてるようになった。よし、ついにぼくとオールナイトしてくれるタイ女性が見つかったかも
しれない(写真家の女はみんなオールナイトだった)。そこでかれは言った。
イトいてくれよ、プキ
OK、オールナ
そして彼女はにっこりした。――ジョイが何かプキに鋭い口調で言う
と、彼女は手を開いてコンドームを見せて言った。これ使ってください。――そりゃもっとも
Page 94
蝶の物語たち
だ
とかれ。
ウィリアム・T・ヴォルマン
前にも言ったけれど、ぼくはチョウチョだぜ。
――チョウチョあたしノープ
ロブレム、と彼女。――カープ・クム・カップ 3 、プキ。ちょっとシャワーを浴びてこいよ。 ―
―そこで、しばらくしてから、彼女はコンドームを不器用にかれにはめ、そして目先を変えて
KYゼリーを彼女の中に入れるのではなくコンドームに塗り、いい加減な愛撫を二三回加えて
から、バナナの葉のように半立ちのモノを、しっかり深く挿入し、実は眠りたいだけで、そし
て引き抜いては差しこんで、引き抜いては差しこんで、ヴァンナの時と同じように自分自身が
柔らかくなっていくのが感じられ、そのヴァンナはちゅう送ごとに、どんどん深く沈み、そし
てどんどん萎えてきて、それでプキが自己嫌悪に陥ると思うと非常に気まずく(もちろん今だ
って彼女は完全に楽しんでいるわけじゃないけれど、でも娼婦と妻の共通点は、犯る時に相手
の歓びを考える必要がないということで、そこがヴァンナのような恋人とのちがいだけれど、
でもそのヴァンナも別に歓んでいたわけではなかったのだろう)、そこでかれはできるだけ気
分を盛り上げようとして、ベッドは嬉しそうにきしみ、かれは隣のベッドの二人のことが気に
ならなくなり、彼女の顔は優しく親切だった。彼女はかれを喜ばせようとしていた。そしてし
ばらくしてかれは、ついに自分もゴムをつけて楽しむコツを習得したように思い始めた。いつ
になくよかった。ゴムごしに彼女のマンコの熱さが感じられた。そしてきつく速くやるにつれ
て、彼女も熱く濡れてなめらかになり、かれはどんどん勢いづいて
こいつは最高だ!
と思
い、彼女のマンコは素晴らしく、素晴らしすぎるくらいで、そして達した瞬間、かれがプキの
顔に見たのは、にわか雨が振り出した時にラッシュ時の人々が見せる表情で、ショッピングバ
ッグを持って走る女性やびしょ濡れの白シャツの男、引っ越しトラックの男がビニールシート
を段ボールの荷物にかけ、雨粒がトゥクトゥクの日除けから滴り、空気は相変わらず涼しくな
らず、いきなり熱風が吹き、歩道はいまや川となり、そして彼女はあわてた様子で言った。 コ
ンドーム、見せてください!
そしてかれはシュポンと彼女から抜くと、コンドームは消えていた。
これで赤ちゃんできちゃった!
彼女は嘆いた。
124、
ジャーナリストは彼女が身体を洗うのを手伝った。――あたしもう行く。友だちと話
す、赤ちゃんとめる、家で寝て、男と寝ない、OK?
きみの好きにしていいよ、プキ。
怒ってない?
きみがチョウチョならぼくもチョウチョ、ノー・プロブレム、怒ってないよ、プキ……
3
ありがとう。
Page 95
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
125、
その午前中も午後もずっと、写真家はベッドに横たわり、マンコの一服が得られない
ので呆然としていた。ジャーナリストは、心でヴァンナを追い求めつつ部屋を出たり入ったり
していた。公園の入り口では、男二人が段ボールを盤にビンの王冠を使ってチェッカーをして
おり、ジャーナリストは公園に入って泥茶色の湖のほとりにすわると、空には雨雲がぎとぎと
したロウソクのようにたまってきていた・
かれは彼女の手紙を読み返した。毎日そうしてきたように……
126、
ジョイは写真家に、その晩くる前に会わなきゃならない人がいるから遅れる、と告げ
た。――たぶん金を稼ぎにいくんだろう、と写真家。おれは最近、あんまりあげてないし……
彼女は朝の四時か五時にやってきて、にこにこして足下をふらつかせていた。――あたし飲
み過ぎ!
と彼女は笑った。
嬉しそうだね、とジャーナリストは静かに言った。
うん、あたしすごく嬉しい、飲み過ぎてるから!
おみやげ。あなたの服。洗ってあげたよ。
あなたのシャツまだ。アイロンない――
写真家は目を閉じてベッドに横たわっていた。
怒ってるの?
いいや、怒ってないよ、ジョイ。疲れてるだけ。
見て!
おもちゃサル!
見て!
女の人から!
あたしのことすごく好き!
にアメリカ行く、あたし土曜にその人と休み行く。セックスなし!
あなた金曜
セックスなし!
いっし
ょに行くだけ……怒ってない?
いいや、と写真家はあくびをした。
かれはしばらくベッドの上のサルを見ていた。そしてそれを、彼女の方に投げた、あるいは
彼女に向かって投げつけた。写真家がどういうつもりなのかは、いつも完全にはわからなかっ
た。でももちろん、単なる冗談だったのだろう……
彼女は凍り付いた。ちょうど公園でジョギング中のタイ人が、ラウドスピーカーからの国歌
演奏とともに凍り付いて全身で聞き入るように。それから、写真家に飛びかかった。――なん
でそんなことしたの?
怒ってる?
いいや。疲れてるだけ。
あたしが嫌い?
好きだとも。
なぜ怒ってる?
それを聞いて、写真家の顔がこわばった。まずいことになる、とジャーナリストは悟った。
ジョイは鏡の横に立っていた。服をぬごうとするところだった。パッポンの制服の一番上の
Page 96
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ボタンをいじり、それをはずしては、またはめた。それから単調な早口でしゃべりだした。
あたしが嫌い?
嫌いなら OK、あたし家帰る寝る。あたしが嫌い?
あたしが嫌い?
写真家は何も言わなかった。目も開けなかった。
OK、あたし嫌いならあたし行く。あたしが嫌いね。OK。
彼女は手早く荷造りをした。サンダルをはきなおす。そこに立って、写真家が何か言うのを
待っていて、ジャーナリストは彼女に呼びかけて抱きしめ、せめて彼女の痛みを取り除いてや
りたかった――かれの抱擁など何の効き目ももたないのに。抱くだけで金を払わなくてはなら
ないだろう……そして写真家に、彼女のことを愛しているともう一度言って欲しかった(たぶ
んウソだろうけれど)けれど、でも写真家が何も言う気がないのはわかっていたし、もし何か
言ったとしても、それは彼女の役にはたたず、そしてもしジャーナリストでも写真家でもだれ
でもいいから彼女の首を絞めている不安のくびきを破壊してやれたとしても、明日の晩にまた
同じものに絞められるだけだ。だからジャーナリストは横たわり、だまって彼女を見つめ、自
分にできることもすべきことも何もないとわかり、心底悲しくなって、何もできず、彼女が戸
口に立ったまま長い長い時間が過ぎて、そして彼女は言った。OK。あたし行く。――そしても
うしばらく待った。それから明かりを消し、ドアを開け、背後で絞めた。今頃は階段に向かっ
ているところだろう。今なら写真家が飛び上がって追いかければ捕まる。今頃は一階についた
ろう。今頃は雨の中をとても足早に歩いてトゥクトゥクを拾おうとしているだろう。闇の中に
横たわりつつ、写真家がうめくのが聞こえた。
127、
朝になると、ジョイのところに出かけて、心配していることを伝え、できれば花か金
をあげようと決めた。写真家が彼女の住所を持っていた。トゥクトゥク用にタイ語で書いてあ
る。写真家には行き先を告げたくはなかった。写真家はたぶん(きわめて正当に)、ジャーナ
リストの出る幕ではない、と感じるだろうから。かれは歩くことにした。どこなのか正確には
知らなかったけれど、でもトゥクトゥクの走る道は知っていると思っていた。大きな公園のそ
ばで、その公園なら確実に見つかるはずだった。じきにかれは、みたこともない場所に迷いこ
んでいた。
水虫がかゆかった。プレスして汗じみすらないシャツを着た、非のうちどころのないタイ陣
たちが、汗を滴らせてとぼとぼ歩くかれを見つめた。――チョウチョさん、どこへ行くんです
か?
と男が呼びかけた。――かれは翻訳サービスにやってきており、ヴァンナ宛の手紙を持
っていることを思いだした。――英語からクメール語に訳せますか?
は笑った。
――いいえ、とかれら
――みんな、いつも笑う。これで十軒目だった。国際電話サービスにやってきた
ので、カンボジアにかけられるか尋ねた。かけられますが、つながるまで一、二時間かかりま
す。――どのみち、だれにかければいいかも、どうやって彼女を見つければいいのかもわから
なかった……デパートにやってきて、それから噴水や遊び場のある広大な公園にやってきた。
Page 97
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
遠くには壮大な白い建物がそびえている。ワットのような多層式の屋根だ。たぶん女子校だろ
う。いたるところ、白いブラウスと紺のスカートをはいた女の子たちがいた。茶色のプールの
ふちに、一人か二人ずつですわり、ひざに宿題を乗せている。いや、どうやら男の子もいるよ
うだ。白シャツ、紺のズボンを履いた少年たちが、プールの外周部をまわり、列をつくってや
ってくる。――男の子がいるとは、なんとも残念、これで場所が汚されてしまった。――かれ
は長いことそこにすわり、水面を見つめた。
128、
胸がのどにつかえるような思いで、かれはジョイのところにたどりつき、ノックした。
ドアの下から明かりが漏れている。まだ寝ていないのは確かだ。
ジョイ?
サワディーカップ 4 。
イエスと彼女は、ようやく落ちつかなそうに言った。
かれは中に入って言った。ぼくの友だち、怒ってないよ。ぼく、きみが心配。きみ、飲み過
ぎ。ノープロブレム。OK?
かれが入ってきたとき、プキの顔がパッと明るくなったが、今はまた暗くなった。――あた
し迎えにきたんじゃないの?
きみにわたすものがある、プキとかれは、最後の二十ドルを彼女にわたした。
あたしに?
なぜ?
きみに赤ちゃんできたら悪いから。
OK。ノープロブレム。
二人はバーに居るときの彼女たちではなかった。汗をかきつつすわり、ビールの飲み過ぎに
よる頭痛を揉み出そうとしていた。タイ人少年が二人(もちろん、二人とも、それが自分たち
のボーイフレンドではないとものすごい勢いで保証してくれて、そしてかれは思った。それが
ぼくに何の関係があるんだろう。ボーイフレンドだっていいじゃないか。ぼくらは君たちに何
の権利も持っていない。だって、ただの病気のチョウチョ男どもなんだから)、布団に横にな
っていた。やがてプキが、ジャーナリストにしかるべき関心を払いだした。少年の一人を使い
に出して、昼飯を買ってこさせる。少年が戻ってくると、ジャーナリストのために、ちょうど
よく食べ物を盛りつけてくれた。ニワトリの皮までむいてくれる。水を注いでくれ、後ろでは
少年たちが、ジャーナリストのシャツとジーンズにアイロンをかけている。かれを横にならせ、
うちわであおいでくれた。――仕事しなきゃ。かれはこう書いた。性行為の前に、必ず(故?)
ボーイフレンドの写真入りペンダントにキスする娼婦についての記事。――きみはいい奥さん、
とジャーナリストがからかうと、彼女はうれしそうに笑った。
結婚してくれる?
4
タイのあいさつ。
Page 98
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
まあ、こんどね。
いつ戻ってくる?
わかんないよ、プキ。ウソはつかない。二度と戻らないかも。ぼくはよくない。ぼくはチョ
ウチョ。ずっときみをチョウチョしてばっかり。
でも後で、彼女に寄り添われ、少年たちにパパさんと呼ばれつつ脚をマッサージして十バー
ツねだられながら(二十くれてやった)、かれは思った。まあ、プキと結婚するのも悪くない
かも。プキはホントにいい子なんだし……
129、
写真家がやってきてジョイと仲直りした。ジャーナリストはずっとそこに居続けた。
――ホントに新聞社に何か送らなきゃ。でも、送らないほうがいいかな。連絡先がわかったら、
たぶんクビを言い渡されるだろうし。クソッ。何か書こうか。何かアイデアはないものか……
アイデア――そういやあるじゃないか!
ってことは、明かりだ!
タイ娼婦の選び方で決まる結婚の成否
著者はもちろん親愛なるジャーナリスト
ニューヨークタイムズ
バンコク発――信用していいのか、それとも遊ばれているだけ?
結婚願望を持つ
ものにとって、これは根本的な判断であり、悩み所でもある。でも、パッポンの女
の子たちは、運さえよければ結婚したいと本気で思っている。だからこそ、彼女た
ちは甲斐甲斐しく愛情深いのだ。だからこそ、「チョウチョ男」は嫌われる。勝手
知ったる者から、いくつか有益な示唆を提供しよう。
1. ショートタイムだけでオールナイトはダメなら、その子はダメ。浮気される。
2. もしトゥクトゥク代を自分で払うか、運転手と交渉して値切ってくれたら、こ
れはいいサイン。
3. もし……
ついにプキが言った。OK、あなたもうホテル行って。
いっしょにくるの?
ノー、友だち会う。バーに九時きて。さよなら言って。くれたお金でビールおごる。
Page 99
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
OK。
でも九時に、写真家とパッポンにトゥクトゥクで乗りつけてみると、そこにいたのは他ならぬ
ノイだった。あれだけおごっておいて、それ以来会っていなかったちびの子だ。ノイは駆け寄
ってきて手をつかみ、叫んだ。待ってた、待ってた――毎日待ってた!
130、
ノイ、ぼくはもう金がないんだ。
あたしかまわない。マーリーが、あなたお金ためてあたし探しにきたって。あなた心いい人
――
きみをバーから買い出す金もないんだ。いくらだっけ?
三百バーツ?
いくらあるの?
ジャーナリストはポケットをひっくり返した。手持ちをすべて渡した。百五十。
OK。ノープロブレム。アイ・ラブ・ユー。
131、
おごってやったドリンクに、彼女は五十バーツ払った。トゥクトゥクにもう五十。
また雨が降っていた。彼女はとても小さくて華奢だった。かろうじてジャーナリストのウェ
ストに届く背丈しかない。レインコートを脱いで彼女に着せてやった。彼女は手を握りしめて
きた。そしてレインコートを、外套のようにはおった。かれはフードをかぶせてやった。
家にレインコートはあるの?
とかれ。
ノー。貧乏だから。
あげるよ。
ありがとう。バンコク毎日雨ふる。ときどきあたし病気……
二人がホテル38に着くと、ジョイがバルコニーに立って見おろしていた。そしてかれの名
を呼んだ。
プキあなたちょっと怒ってる。あなた見たよ。あなた愛してるって言った。ちょっと泣いて
たよ。
プキは本気でぼくを愛してないと思うな、ジョイ。だってぼくのことほとんど知らないんだ
もの。
あらそう?
OK。
そうとも、と写真家は、ジョイの尻に手をあてた。ブヒブヒちゃんはがっかりするのに慣れ
てるような気がするね。
Page 100
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
132、
ジョイはジャーナリストに肌を見せつけ続け、写真家の肩越しにこちらをのぞいては、
新しい女をつれていてもかれを魅了できるのだということを確認していた。彼女はまだ二十一
歳(自称)だったが、もっと老けて見えた。それでも素晴らしかったけれど。タバコと酒が彼
女を蝕んでいた。――ジョイ、ぼくの彼女が気に入った?
――彼女は方をすくめた。――あ
なた好きならあたしも好き OK ノープロブレム。(あとで彼女は写真家に、ノイはよくないと語
った)。ノイとベッドに横たわり、明かりをつけたまま、チョウチョは興奮して羽ばたき、ノ
イの陰唇が、あのアユタヤ様式の金箔を散らした塗り物の本棚のように、自分のために開かれ
るのだと確信した。その本棚には金の葉と鳥と燃えるような葉が黒地に描かれていた。線はど
れも黒。ほとんど墓なみの高さと幅。そして墓のように、だれでも戸を開けるというものでは
なかった。それだからこそ、それはジョイの顔と同じくニュートラルできれいなのだった。そ
の鳥は明るくくちばしを開き、触角をこわばらせたチョウがその下を探るように舞い、さらに
燃えるような葉が、渦巻く黄金のケルプバスのように、ライオンを包みこみ、ゾウを、龍を、
踊る馬を包み、そのたてがみは葉やチョウの羽根のように鱗状。サルが枝からぶら下がり、鳥
がイチゴをむさぼり、鳥がヒナにエサをやる。すべて黒地に金、黒地に金……でも片側では金
は半ばはげ落ちて、まるで黒い夜霧が毒々しく垂れこめつつあるかのようだった。ほかの場所
ではあんなに美しかった黒と同じ黒なのに。それが彼女の老獪な顔であり、しわの寄った腹な
のだった。しかしかれが見た自分自身は、金箔入りの塗り物の戸口や窓を持ったどこかの古い
白い宮殿で、中庭は静謐で緑、竹製の心は共通の小山からカーブを描いて生え、石壁のプール
は波紋をたてつつ緑。かれの内部には、確実にノイのための居場所があった。ノイの内部には
自分の居場所があった。
それまでで最高だった。ノイは心ゆくまでしゃぶらせてくれたし、ゴムも使わせたりしなか
った。彼女の中はすごくよくて、気が狂いそうなほどだった。彼女が帰る時はとても残念だっ
た。――ジョイは、もう二度と会うことのない最後のさよならを告げる時、唇にキスしてくれ
た。(プキにあやまっといてくれ、と彼女には言い含めた)。ジャーナリストは写真家に言っ
た。ジョイには本当に風格があるよな。本気で結婚すればいいのに。――うーん、と写真家は
あくびをした。たぶん二度と会うまいよ。どうせあの子のことなんか、どうでもよかったんだ
から。
THE END
Page 101
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
133、
写真家はジョイと、彼女の欲しくてたまらなかった鈴のついた靴を買いにでかけた。
マダムが、写真家に特価で売ってくれるそうだ。たぶんジョイのやつ、今頃はバーのスツール
の上で、写真家の腹にもたれているんだろう(とジャーナリストは推察した)、写真家の手が
置かれた彼女の尻は水着に包まれて、したがってヒヒのケツのように多彩。ショットグラスや
液状の天井がきらめき、銀のブレスレットや金のイヤリングが輝く。わかっているのだ。もう
バーの一つや二つは見てきたんだから……雷雨寸前にホテル38にたどりついた。一階の踊り
場の係員は、妬ましげな憎悪まみれの顔でこちらを見た。事務所から鍵を受け取ったとき、コ
ープクム・カップと言うと、男の一人がせせら笑いつつ裏声でコープクム・カップと返した。
――ありがとう、とジャーナリストは、げんなりしてそいつに言った。どうもありがとうござ
います。そして二階分の階段を登った。こんなに涼しくて湿っていても、汗はまだ首筋の後ろ
を滴り落ちた。唯一のちがいは、それが熱い汗ではないので気にならないという点だけ。とき
どき、きわめて微かな風が吹いて、空気が動くのはまったく感じられないのに、汗のあるとこ
ろがわずかにひんやりするのだった。ホテル38の廊下では、もちろんそよ風など決して吹か
なかった。部屋に入り、明かりをつけ、ドアを閉めて椅子にすわった。巨大な赤アリが群がっ
てきた。かれは立ち上がった。雨足はいっそう強くなっていた。エアコンを止めると、ベッド
の上の網戸をはずして、雨戸を押し開けた。そして降りしきる雨がブリキの屋根をうち鳴らし、
通りにはね、雷の下で砂利音を響きとどろかせ、窓の格子の間にもっと不安定な垂直の格子を
新たに加え、雨の硬い棒がコンクリートの張り出しや低い屋根に突き刺さり、即座にはじき飛
んで、それから軟弾のように水たまりとなって、いまではどんどんその落ち方がはやくなり、
空気が翳ったほど。稲妻、そして真上で雷……
雨は、暗くなってからもずっと続いた。かれはやっと雨戸を閉めて、乱れたベッドにすわっ
た。写真家の使用済みコンドームが一つ床に落ちている。未使用のやつが、充電を待つ新鮮な
バッテリーパックのように大机の上で待っていた。外では雨が流れ続ける。
洗面所のドアはちょっと開いていて、湿った闇につかまれていた。汚れた壁は、叩きつぶさ
れたムシの血があちこちこびりつき、まるで自分自身の壁、自分自身の魂の皮膚にして監獄の
ようだった。どうやって己のチョウを解き放てばよいのだろう。
そのときベナドリルのことを思い出して顔がほころんだ。
金玉が痛んだ。
プキがまたシンハビールの六三〇ミリリットルびんを買ってきてくれていた。茶色いびんの
底にはまだ三センチばかり残っていた。ぬるくて気が抜けて、唾液で濁っているだろうけれど、
錠剤を流しこむくらいの役にはたつ。びんを気怠く持ち上げると、ゴキブリがカサコソ逃げ去
った。
立ち上がり、気ぜわしく救急医療セットの中を探しはじめた。嬉しくも悲しくもない。ずい
ぶんかかってもベナドリルを見つけられなかったけれど、でもついに、そのびんを自分で手に
持っていたことに気がついた。
Page 102
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
しばらくしてふたをはずし、カプセルをそのまま飲みこんだ。比較的簡単に飲みこめて、二
錠目もそうだったけれど、三錠目はそうはいかず、そこで初めてビールをあおると、予想通り
ひどい代物だったが、そこは娼婦のマンコさえしゃぶれるジャーナリストだから何の苦もなか
った。錠剤はびんの中程ではくっついてしまっていたけれど、やがて薬のびんはかれの心と同
じくらい空っぽになった。隣の部屋で、だれかが咳をした。ジャーナリストはベッドに横たわ
り、ちょっと気分が悪く、しばらく天井をながめていた。それから起きあがって明かりを消し
た。とても暗かった。下着だけ残して服を脱ぎ、毛布にもぐりこんだ。
後で、暗い人影が自分の上にかがみこみ、自分が天国にいるのか、それとも単にへまをやら
かしたのかわからないジャーナリストは、全力をあげて苦闘して、あの魔法のことばをつぶや
こうとした。ベナドリルをもっと、とジャーナリストはつぶやいた。
THE END
Page 103
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
134、
えへん!
――ベナドリルというのはですな、ただの抗ヒスタミン剤なのです――き
れいな娼婦にも増して男の鼓動を止めてしまえる、あの深淵にして万能のベンゾジアザピンの
一種ではないのでして――
うん、かれは本当は薬のことなどわかっていなかった。なぜカンボジア人娼婦がみんなロシ
アの源氏名を持っているのか知らないのと同じくらい。でも、アメリカに戻ってからのある霧
だらけの午後にハイト・ストリートを歩いていると、いたるところで
いる?
インディカのバッドだぜ?
何が欲しいの?
バッド 5 いる?
バッド
ギョロ目の顔が、ハイになる手伝いを
してくれようとする。一度にこれだけ何度もドラッグの誘いを受けたのは、生まれて初めてだ
った!
――そして思った。あっちに行って、ぼくの顔の何かが変わったんだろうか。あんな
にたくさんの女にイエスと言ったから、顔つきが何かオープンかポジティブか特別か弱そうに
なったんだろうか?
黒っぽい鳥が、電線や路電のケーブルの上空で、群れをなして輪を描いている。森では酔っ
ぱらいがふらふらしている。乞食だと思った人たちが実は売人で、ノーと言ってもこちらの肩
をつかんで振り向かせようとする。こっちが間違いを犯すと確信しきっているのだ!――それ
までだれもそんなことはしなかった(写真家ならそいつらをぶん殴っていただろう)。――タ
バコ!
とスカルキャップをかぶった男が叫んでいた。なにもかもあまりにちがっていたけれ
ど、本当はちがっていなかった。せいぜいが、マクドナルドの上空にはためく星条旗程度のち
がいなのだった。
135、
金玉がまだ痛んだので、シティ・クリニックに逆戻り。性病ウィルスやバクテリアの
犠牲者たちが、己の悲劇を解説するのに聞き耳をたてた。――退屈するとそうなるんですよ―
―だからオレ、そのくそアマに言ってやったんすよ、おれは自分で流行そのものになりたいん
だって。――……それでおれ、頼むから口にさわってくれよ、おれは競技ボディビルダーなん
だって言ったら、女は抱きしめてって言って、それでオレ、他に何が欲しいんだって言って、
こんな具合につっこんでやった!
それでその女に、もし男がおれのカワイコちゃんをこんな
具合にさわりやがってら、そいつをぶっ殺すって言ってやった!――そいつ、あたしに五ドル
くれてつっこんできて、今じゃ夜に汗が出るようになってて。おいねえちゃん、もしマジだっ
たらびびるだろ、だからマジになれないんだって。
本気でエイズの検査を受けたらどうです、と医師。この一月で、性交渉の相手が何人とおっ
しゃいましたっけ?
七人、とジャーナリスト。いや、八。いや九。
5
大麻で有効成分の一番多く含まれている、つぼみの部分。
Page 104
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
おやおや。するとあなたは、最もリスクの高いグループに入りますね。こっちのエイズ危険
度のてっぺんの、真っ赤な部分ですわ。相手の方たちの性交渉歴はご存じなんですか?
性交渉歴なら、よーくわかってますとも。
それは結構、ドウさん。というのもですね、もし相手の方たちの性交渉の状況を知らなけれ
ば、相手がコンドームなしのセックスや肛門性行や血管注射型ドラッグなどといった、リスク
の高い行動をとったかどうかわからないおそれがあるからです……相手の方たちは、こういっ
た行動はとってらっしゃいませんでしょうね。
たぶん、血管注射型のドラッグは使ってなかったと思いますけど。
うーん、うーむ。さてドウさん、あなたは必ずコンドームを使いますか?
必ず、とまでは言えませんね。
だったら(医師はまだポジティブな態度をとろうと苦労していた)、少なくとも五割以上の
時にはコンドームを使ってらっしゃいますか?
一人と一回はゴムを使いました、とジャーナリストはにんまりした。でも、それも事故みた
いなもので。
ドウさん、本気でエイズ検査を受けたほうがいいと思いますね。
ぼくは知りたくないな。それより黙ってベナドリルの処方箋を書いてくれるってのはどうで
す?
完全に切らしてるんですよ。
THE END
Page 105
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
136、
こんなこと言いたくないけど、と妻が言いかけていた。ひょっとしてあなたがそんな
にお利口だってせいもあるのかもしれないれど――何とかは紙一重って言うし――あなた本気
でおかしいわよ。(ジャーナリストはちょうど、もしかして、ホントにあくまで可能性だけど、
自分たちは離婚を考えたほうがいいかもしれない、と切り出したばかりだった)。精神分析受
けたら。直しといたほうがいいんじゃない。あなた、いつもあたしの家族がどうしようもない
って言うけど――なによ、あたしに言わせりゃ、どうしようもないのはあなたの家族のほうよ。
それもとことん。でも、よく考えると他の人たちはそんな悪くないわ。あなたよ。みんな、あ
なたのこと気狂いだと思ってる。ご近所もみんな、あなたのこと気狂いだと思ってるのよ、直
接あたしにそう言うほど無神経じゃないけど。あたしは普通なのよ。気狂いと結婚してるのは
飽きたわ。
わかるよ、とジャーナリスト。
あなたの友だちだってみんな気狂いよ。社会に拒絶されたか、それとも自分で社会を拒絶し
たような人ばっか。最低もいいとこの連中じゃない。あなたって、長年かけて、気狂いの群れ
をつくってきたのよ。
気狂いってのは、ちょっと言い過ぎかも、とかれ。
涙が、例の見慣れたやりかたで、妻の頬の溝をゆっくりとつたい下りていた。過去の涙すべ
てが刻んだ溝、無数の涙が刻んだ溝、それもほとんどかれ故に流された涙――いっそ良心的に、
あの涙の河床となっているしわのすべては、かれのせいだと言えばいいのに。その溝がいまは、
かれの罪に気がついて光っていた。あふれて、やがて涙と鼻水でふやけた彼女の顔全体がどこ
かの砂浜を思わせるようになった。その砂浜では波がひくたびに、濡れた砂のあぶくの中に何
かが哀れなほどに生気をもって輝くのだ。
それとあなたがつるんでるあの写真家。あんな不遜な人間といっしょにいて、いいことなん
かないわよ――
これを聞いて、彼女に心底すまないと思っていたにも関わらず、ジャーナリストは残酷で幸
せな微笑が唇にのぼって顔全体をゆがめるのをおさえきれなかった。今の妻のせりふを写真家
に話して、かれが笑うのを聞きたくて待ちきれなかった……
137、
夜中に目が何度もさめて、そのたびに隣のこの人物がだれかわからなかった。彼女が
別の寝室で寝るようになってから、二人はずっとうまく折り合えるようになった。ときどき裏
庭で庭いじりをしている彼女を見かけた。子犬が彼女の脚にじゃれついていて、窓ガラスの向
こうの彼女は本当に愛らしくて痛いほどだったけれど、でも家の中に入ってくると、かれにか
みついてくる時でも、かれを喜ばそうと悲痛な努力を重ねている時でも、かれは何も感じられ
ないのだった。何も感じないのだ!
何年も、かれと妻とはエアコンのことで口論してきた。
Page 106
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
かれがつけると、彼女がそれを消して、息苦しくて目をさましたかれがそれをまたつけると、
彼女がわめき出すのだ。でも最近は、彼女がエアコンを消してもかれは何もしなかった。向こ
うの寝室で、彼女のはだしがフローリングを歩いているのが聞こえる。そしてドアが開いて、
彼女が廊下に出たのがわかる。そしてエアコンが停まる。ときどき、ジャーナリストは眠れな
かった。それ以外の時には、かびだらけのビロードのような密度の青緑のジャングルでもがく
夢を見た。ジャングルはどんどん暑く深くなっていって、そして気がつくとあのディスコにい
るのだった。もうそこにはヴァンナはいなくて、キリング・フィールズからの粘土の目をした
頭蓋骨だけが、白と茶色に、一本二本の歯を残しつつそこにいる。クリスマス照明からは電気
コードが二重のループになって下がっている(クメール・ルージュは、いつもながらの倹約精
神を発揮して、そのコードで犠牲者の手を縛ったのだ)。女の子もいない、ビールもない。運
ばれてくるのは頭蓋骨ばかり……
Page 107
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
新妻
かれは機械的な法則性や形而上学的な思考に縛られていなかった……規則
に従っていれば、大惨事は免れなかっただろう。
セイロン共産党書記長N・サンムガタサン
『エンヴェル・ホクサへの反論』(一九八一)
1、
ある晩、妻が本当にこちらのベッドに入ってきて、それが真夜中で、夢の関心も、パ
ッポン美女のマニキュア指のような、広がったシダの先っぽのピンクの花に集中していた時だ
った。目を覚まし、さます途中ですでに彼女から身を離しつつ、かれは自分の目が落下中の人
物のように急速にカッと見開かれたのを感じ、そして胸ははやくも、自分の前女房として考え
るようになっていたこの女に対する嫌悪であふれた。まだ彼女を捨てるつもりだと言い出す勇
気がなくて(いや、そういうとフェアじゃないかも。ここはとりあえず、かれとしてもあまり
事を急く気はなかったのだと言っておこう)、その一方で自分がいずれ彼女を捨てるのはわか
っていたから、親密さの信号はなんであれ送るのがためらわれたのだ。それ以前に、そもそも
送れなかった!――でも残酷な真似をするのは耐え難かったので、結局敬して遠ざけるような
形を採用することとなった。翌晩、彼女がベッドにもぐりこんできたときは、だまって枕をあ
げた。眠れずに彼女がわめきたてると、かれは言った。もしもう一度ぼくを起こすような真似
をしたら、出ていってもらうからね。――まったく、あたりに鏡がなかったのは幸いだった。
自分のきつい仮面で我ながら震え上がってしまっただろうから。――長いこと彼女の隣に横た
わり、怒りのこもった呼吸と判断したものに聞き入っていた。呼吸は速くて浅く、激しい怒り
を抑えようとしているかのようだった。自分自身の教義を確立しようとして焦っていなければ、
それがあるいは怯えによるものだということも十分認めることができたかもしれない。かれは
身を硬くして横たわり、憎悪を刻む己の心臓に聞き入っていた。口の中で不快な味がした。目
を閉じ、あの新鮮な濡れた空気の中に戻ろうとした。説教しない、葉の多いくきが、短命なも
のの貪欲さむき出しで争うように水分を吸い上げているところへ。バタンバングにもそういう
ジャングルはあったけれど、ほんの小さな塊でしかなかった。たぶん、あの穏やかな戦場を越
えて生い茂っているだろうな。洗面所に行こうと起き上がると、彼女も立ち上がった。自分が
失敗して、かれが別の寝室に移動するのだと思って。口がうがい薬でいっぱいだったので、す
ぐには説明してやれなかった。そこで彼女の肩に手をまわし、うがい薬を吐き出すまで抱きし
めていた。この女に触れるのはとても奇妙な感じだった。それは嫌悪ともちがう、もっとよく
わからない感情だった。――いいんだよ。いたきゃいていいよ、とついにかれは言った。――
彼女をつれて寝室に戻り、そのすばやい従順な足どりから、追い出されずにすんで彼女はとて
Page 108
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
も喜んでいて感謝していると判断し、そしてもっと優しくしてやれない自分が嫌になった。そ
してこの議論がなければ、彼女が絶対に感謝なんかしなかっただろうと思って、悲しかったけ
れど、でも陰気ながらも勝ち誇った気分だった。妻はかれを必要としていて、それをこれだけ
の年月が経ってからようやく認識したのだった。これまでこんなに優しくしてくれたことは一
度もなかった!
言うまでもなく、もしかれが屈服して残ることにしたら、妻はもとの彼女に
戻るだろう。そうなるしかないのだ!
夜中、彼女が身を起こして言った。悪夢を見たわ。
かれは妻の顔をなで、うんざりしたように言った。――どんな夢?
運転してたら、だれかが――車で追いかけてきて……
わかった。寝ろよ。
寝ながら彼女はすすり泣きをはじめ、かれは自殺したい気分だった。
2、
知り合いの雑誌や新聞社に片端から電話をかけた。――すぐにでもカンボジアに戻ら
なきゃなんないですよ!
かれはもうヤケだった。あそこはすごく変わりつつあります。今い
かないと、全部見逃すことになりますよ……
ある編集者は言った。この二年で、カンボジア関係の記事は三本やりました。海外デスクは
もう満杯状態だし。絶対通りません。やるだけ無駄です。どこかよそでお願いするしかないで
すね。
どう考えてもモノになりそうじゃないなあ、とある編集者。ポルポトの弟にインタビューし
た最初のアメリカ人ジャーナリストだって?
それがどうしたって感じ。それを言うなら金を
ションベンみたいに垂れ流したアメリカ人ジャーナリストはおれが最初だよ、とかね。
3、
夢を見た。妻が、大規模な超高層ビル飛び降りコンテストを仕切っている。なにやら
処女懐胎の聖人のように格幅良い彼女は、にこにこして飛び回っていた。ほかの夢とちがって、
この夢は人物描写の点できわめて正確だった。妻は、人に指図をするのが大好きだった。この
夢でも、彼女自身はビルから飛び降りずに、出場者たちを怒鳴ったり押したりして飛び降りさ
せていた。彼女は MC だった。コンテストは広いタワーの屋上で行われ、まわりのビルも同じ高
さだった。各テレビ局の代表もいた。他の高層ビルから群衆が見物している。最初の出場者二
人が妻に連れられてビルの端に向かった。そしてビルの谷間の暗いたて穴に飛びこんだ。明る
い原色のジャンピング・ウェアを着たプロであったことは申し添えておこう。かれらは無理強
いされる必要などなかった!
ジャーナリストは妻の横で、かれらが速度を増しつつ小さくな
って暗闇の中に永遠に消え失せるのをながめていた。勝つのは彼らだろう。今度は妻は、かれ
Page 109
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
の腕につめをたて、怒鳴りつけていた。かれはビルの縁に立ち、するとオフィスの間のカーペ
ット敷きの廊下に、指先づたいでゆっくりおりていける道が目に入った。その道を使ってから、
こんどは飛ばなかったことで後ろめたさをおぼえた。彼女にはこちらが見えなかった。見えて
いたら、たぶん金切り声をあげていただろう。――もう一つ下の階から飛び降りようかな、と
かれは思った。――エレベータで一階おりた。その階でも、まだダメだったので、階段を使っ
てもう一階下りた。そうやってかれは、ゆっくり安全に下までおりたのだった。妻が息を切ら
して追いついてきたことは申し上げておこう。いまや彼女はかれを認めるようになっていた。
飛び降りた者たちは、二度と姿を見せなかったのだ。だから結局のところ勝ったのはかれで、
後続の者たちはみなかれの安全な降下をまねていたのだった……
4、
新妻への渇望がウィルス血症のように全身に広がってしまった以上、ぼくらとしては
もはやかれをジャーナリストと呼ぶわけにもいかないので、これからは夫と呼ぼう。金さえ工
面できたら、窓のまわり一面に緑の葉がおいしげる喜ばしげなある朝、自分の娼婦花嫁をもら
い請けにカンボジアに飛んで帰るつもりだったけれど、でも英語のしゃべれない英語教師が、
明らかに何時間も辞書と首っぴきの時間を費やした結果の、唐突なびっくりするほどの勢いで
語ったように:あなた結婚したい?
それともまだずっと独身いたいですか?
い歳おもいます。それとも浮気男したい?
注意深くして、ください!
あなた結婚い
AID 知ってる?
と
ても悪い病気の種類です。死ぬできます。わたし、恐怖です。だからわたし、女とはまったく
寝ません。だからわたしはきれいな女と結婚したいだけです。でもわたしは貧乏で彼女は裕福
……
――残念だな、と夫は思った。受けたすべての仕事越しに、カンボジアは潜み、待ち受
け、記憶のなかでキノコのように湿り、絵筆のようにとがった落ち葉の堆積の間で腐る卑わい
なオレンジ色の蘭の花のように湿っているのだった。そしてヴァンナのことを考えると(彼女
の顔は、もはやまぶたの裏に入れ墨してあるみたいにははっきり思い浮かべられなくなってい
た)、心はスタジオで出番を待つときのように浮かれたち、左の時計の長針と右の時計がシン
クロしたまつげのようにカチカチと刻み、木製の乳房の緑の乳首がまだ光っていないので夫は
人生の試練をまた少し無視して、青いフェルト上の発泡スチロールのコップのようにフワフワ
と無関係でいられる。――己が何をしてよいかではなく、それをなすことで己に何がもたらさ
れるかを考え、その栄誉の感覚に心を浸すがよい(曰くクラウディウス・クラウディアヌス)。
――しかし己固有の義務や推奨行為の規則は、もはや自分の理解をこえていた。答えに窮し、
かれは自分自身に同じ質問を繰り返した。自分が右の時計に依って生きているのか、左の時計
に依って生きているのかは知る必要もない。いずれの場合にも長針であるかれは、無益にカチ
カチとめぐるだけ。人生の鬱陶しい継続や些事は、月のたつごとにヴァンナを忘れさせつつあ
った。ときどきなど、暗闇に頭をうずめて、丸い蛆虫のように淡い頬を夢見るようにグラスに
当てていた、あの支那人の陶器顔の娘のほうをずっと鮮明に覚えていた。それはまるでグラス
Page 110
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
に聞き入るようで、その横では別の青白い女が氷青色の蝶ネクタイをして、その銀のブレスレ
ットをはめた腕を支那人陶顔娘に向かってのばしている。氷ピンクの造花を髪にさした女が先
に夫にたどりつき、上の歯から唇を浮かせて用心深そうに笑みを浮かべている。――ヴァンナ、
ヴァンナ!
とかれは叫んだ。
5、
ノコギリで妻を切り刻んでいる夢を見た。妻は一度も叫ばなかった。足首を切り落と
したときも、膝を切断したときも。でも、心臓をえぐり出しはじめたら、彼女はそれはそれは
静かに泣き出した。
6、
なんできみをカンボジアにやんなきゃならないんだね、と編集者はあくびをした。も
う行って来たんだろ。それで目当てのものが手に入らなかったわけ?
いやその、いまあそこは本当に面白い時期なんです、と夫はまくしたてた。やっと電力が安
定供給されるようになって、じきに輸出入も動きだします。歴史が作られようとしている時で、
是非ともその場に立ち会いたいから……
なあ、正直言って、興味がわかないよ、と編集者。
7、
ネッドという有名な物書きが、何も起きないが故に「イベント」と呼ばれる代物で朗
読をするよう招かれた。そして夫に前座をつとめるのを認めてくれた。出演中ずっと、客席最
後尾からシアヌーク殿下がほほえんでいるのが見えたと思った。ほかのみんなはあくびをして
いた。夫は文の途中で止まった。二、三人が礼儀正しく拍手をした。ネッドがステージに飛び
上がり、わめき、鼻をならし、屁をひりだして、みんな笑いを求めて叫び、ネッドが終えると
観客は立ち上がって狂ったように:ネッド!
ネッド!
ネッド!
と叫ぶとネッドは戻って
きて、もうひとしきり芸を見せるのだった。
うーん、どう考えてもカンボジアに行ってもらうのはつらいですねえ、と非常にもってまわ
ったすばらしい女性編集者は言った。――もしあなたが売れっ子で金のなる木なら話は別です
けど、でもほとんどだれもあなたの作品は読みませんしねえ。それに予算削減というのもある
んです。ここのオフィスはいま地雷原のような状態なんです。あなたを話題にするのは危険き
わまりない。下手をすると、あなたはすべてを失いかねない……
ええ、でもぼくはどうすりゃいいんですか?
と夫はあまりに悲哀をこめてたずねたので、
その女性編集者すら、明るさでそれをごまかすわけにはいかなかった。
Page 111
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ネッドがいるじゃないですか。ネッドから書くコツを少し教わったらどうですか。ネッドは
自分より下の作家にはとても親切ですし。
その次にネッドとステージに立ったとき、夫はかれの演技を注意深く見つめた。その次が夫
だった。夫の注意はプール上の蝶のようにひらひらと舞った。ネッドがやったことをするのは、
公衆の面前でパンツを脱ぐに等しい。フェラチオしてみせるに歩と私意。ヴァンナのしたこと
をするに等しい。
かれの番だった。ためらいがちに、観客の深まりゆく落ちつかない沈黙の角の中へと、夫は
わめきだした。
8、
もしもし、シエン?
はい。
ジャーナリストだけど。何かニュースは?
ありません。まだ。
それは残念。なにかあったんだろうか。
たぶんあと一二週間舞って、それからまた手紙送ります。来月はやく。写しをとってありま
す。
ビジネスってものがわかってるじゃないか、と夫はかれをヨイショした。
ベストをつくしております。
彼女、大丈夫だと思う?
たぶんもっとすぐ手紙を送ります。
9、
何かというと、ほんの気まぐれで政府が粛正をかけ、娼婦たちが食料も十分でないと
ころに入れられたという噂が聞こえてきた。
彼女を案ずる気持ちは苦悶以下の代物ではなかった。彼女を愛していた。あの縛られたばか
りの稲の苗束のように細いウェストの、愛しい新妻……
二週間たってシエンに電話をかけると、こう言われた:なにも返事ありませんなんのニュー
スなしです来週またためしてみます。
10、
(シエンはネッドと同じく自分の仕事をこなしているだけだった。夫は改めて自分に
そう言い聞かせた。シエンは、宝石や化石や山岳民族の銀細工が売られていた、あのバンコク
Page 112
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
の通りにあった郵便局の職員と同じく、仕事をこなしているだけなのだ。あの幾列もの小さな
紙にスタンプを押している郵便職員たちと同じく。その壁には何者だかわからない威厳ある紳
士の白いレリーフがあって、切手のようなギザギザの枠がついている。この人たちも自分の仕
事をこなしたのだ。)
11、
やっとどこぞのポスト・ハンガリー雑誌に、二週間ほど北極海に行く仕事をもらった
――重労働に陰気な鼻かみの挙げ句、結果は八〇〇ドルかそこら。まあ、彼女がカンボジアか
ら出るためのパスポートだけでも二千ドルはするから、少しずつでも始めるに越したことはな
い。――不況ですから、と編集者。広告が入らないんですよ。最近はどの雑誌も薄くなってい
るでしょう。
氷のでこぼこした雪は、カミクの靴底越しにちくちくと足をマッサージし、オレンジの太陽
が太陽一つ分だけ青い太陽の上にかかっている。犬たちが古いシロクマの足跡の上で尻尾を振
る。シグナル・ヒルの低い崖の湾曲が、闇の一層深まるのを待ち受け、丘の縁は空よりも夜に
近く、すべてが嵐青か死青に向かう。そして村の明かりは陰鬱さを増すだけ。新妻のことを考
えつつ、いつもながらの不安にまみれた絶望におそわれた。一時間ごとに、二人の絆は薄れて
いく。彼女は AIDS にかかっている。彼女は別のディスコに移った。彼女は矯正収容キャンプに
送られた。彼女は売春をやめた。彼女は売春をやめることはない。彼女はかれを忘れた。本来
かれは勝ち誇るべきなのだろう。この八百ドルは彼女のもとに戻るための第一歩なのだから。
かわりに、どこへいっても自分がますます迷っているように思えるのだった。
子供のハロウィーン・パーティーがあった。たぶんポスト・ハンガリー雑誌の連中は記事に
したがるだろう。でも、連中の求めるものなどわかりゃしない。子供はいつも、一段落くらい
はネタになる。ラッパをブコブコ鳴らし、淡いペイントで顔は死顔化し、頭蓋骨頭に金紙帽子
をかぶり、駆け回って、そのまわりで両親が黙ってうろつく。天井からは紙とプラスチックの
カボチャが、ばかげたオレンジ色にぶら下がっている。北極でカボチャが何をしてるんだろう。
カサカサした白い紙の骨と頭蓋骨が子供たちの髪にキスする。子供は踊り、発泡スチロールの
皿に山盛りされたお菓子を食べる。ピンクと緑と白に顔を塗りたくった女性が、北極ブーツや
スニーカーやカミクをはいてふわふわと行き交う。校長は黒い魔女のマントを着て、オレンジ
の星におおわれたとんがり帽子をかぶっていた。ベビーサークルの中でカップケーキを食べて
る赤ん坊の母親が、よろけ出る。夫は思った。もう何もどこにも属さないんだ。ネコはみんな
あらゆる袋から出されて、ごっちゃになっちゃった。
12、
夫は他の精神なら投げかけたであろう厳しい検問の光で己自身を照らし出したりは
Page 113
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
しなかった。ああ、確かに自分を貶めはしたけれど、その理由はきわめて気高いものばかりだ
った。かれなら、国立微笑大学からは卒業できなかっただろう。その陰気さは時に誤解された。
かれが実際より自分につらくあたっているのだと思われたのだ。かれの考えでは、罪(それは
いまやありがたいことに、こだまほどの存在感も持ってはいなかったが)は二人の妻の間のよ
ろめきだった。それは自己認識に対して悪影響を及ぼし、有能さを破壊し、そして最悪なのは、
対立する女性二人を遊び道具にしてしまった(プノンペンの美容室の看板が思い出された。映
画のようなカールだらけのパーマをかけた女性二人の絵)――それも自分の遊び道具ですらな
い。だってかれは、自分自身の面倒すら見切れないくらいだったんだから。自分の衝動の遊び
道具、ということはつまり、いい加減なできごとに左右される遊び道具にしてしまったのだ。
古い妻と決定的な別れを行った時、かれは罪の意識を覚え続けた。いま、彼女をこれまでにな
く傷つけてしまった。それもたぶん一生にわたって。(もし親切をほどこしたと思ったら、実
は傷つけたのだ。もし傷つけたと思ったら、たぶん本当に傷つけたのだ。)そう、夫はそれを
非常に遺憾に思っていた。その一方で、もし昔の妻といっしょにいたなら、今の彼女に負けな
いくらい不幸であり続けただろう(とかれは理屈をつけた)、それにヴァンナは待ち続けて不
思議に思うだろう。確かに、この結婚は十一年続いていて、ヴァンナとのつきあいは二週間以
下。それでも黄金の獅子つきの金塗り門のように目前に輝く疑い得ぬ真実とは、その十一年間
にわたってずっと自分が惨めだったということなのだった。ヴァンナと惨めだったのはたった
二週間――ずっと有望だ。ヴァンナと会う以前以後の娼婦漁りについては、もしだれかがそれ
をかれの人格的な欠陥として挙げたら、かれはあまり驚かなかっただろう。なぜなら売春はあ
まりに広範に糾弾されていたため、それを問う者がおそらくは通常の偏見に感染しているのは
ほぼまちがいなく、それでもう十分!
でも、もし糾弾者が夫の防御をかわすだけの技量があ
って、問題はむしろかれの忠誠心なのだと説得できたとしたら、かれは一瞬うろたえただろう
が、その場合にも答は用意されていた。忠誠心というのはとても相対的で、したがって誤解の
多い用語だった。(かれはオイ、ノイ、ナン、マリーナ、プキのことなど、もうほとんど考え
なかった)全員を愛しているのなら、寝てまわって何もいけないことはない。妻百人に操をた
てることだってできる。――でも、もしみんな似たようなものであるなら、彼女たちをどれだ
け真に愛せるのだろう(とわれらが糾弾者なら言っただろう)。もっと本質的には、あなたは
幸せだろうか。彼女たちは幸せだろうか。――実は、それに対しても答があった。夫はヴァン
ナを一番愛していた。手あたり次第なのは、彼女を永遠に手に入れるまでのこと。それがかな
えば、彼女以外のだれもいらない。そしてもしその後もかれが結局は浮気であったとしても、
娼婦ならそんなことは慣れっこにちがいない。
13、
このような戦略に顔をしかめる諸君は、その結果を知って残酷な満足を覚えることだ
ろう。かれの貞節を脅かす初の出来事(もちろんここでもオイ、ノイ、ナン、マリーナ、プキ
Page 114
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
を無視すればではあるが)は、カンボジアからの帰途に、十一年来の連れ合いと対面したとき
に起きた。この試練をかれは、われわれも承知の通り、離婚を切り出すことで威厳をもって切
り抜けた。第二の試練は、もっとずっと侮り難いもので、北極海でかれの肩につめを食いこま
せたのだった。新妻が食細胞と化して、夫の心理の中で自分に先立つ異存在を食いつくし、自
分一人が輝いて残るようにするのは当然のことだった。哀れなヴァンナの問題は、彼女が最新
の妻ではないということだった。なぜなら夫のカッコウのような気まぐれ心理の中では、別の
存在が己を挿入してきたのだった。それは夫がおそれていた通りのできごとで、だからかれは
北極海に戻るのが気が進まなかったのである。そこにかかつてかれが結婚しかけたもう一人の
人物がいたのだった。今でも彼女と結婚したいというわけではない。その点、パンくずを食べ
る時にはすごい勢いで首を縦に振るハトとはちがっていた。かれはいまやヴァンナの夫なのだ。
でもトゥーレの廃墟(鯨のあばらの骨が雪でつまった穴の上にわたされ、風が吹いている……)
が目に入るところに戻ってくると同時に、イヌイットたちがいつも言っていたことが思い出さ
れた。他人よりも智恵を得るには、おかしなことをしなくてはならないのだ。イヌイットたち
はそれを、氷の中に一人でこもり、動物の霊が訪れるのを待つことで行った、夫は浮気でそれ
を行ったのだ。
14、
どういうわけか、かれが求める知識とは、ヴァンナと一つになることと同じだった。
夫にはそれがわかっていた。どうしてわかっているのかはわからなかったけれど。そして、バ
ンコクの娼婦たちと寝ることでヴァンナから遠ざかった一方、今後のセックスは彼女を引き寄
せることになるのだ。何が変わったのか?
――唯一、夫が彼女を心底求めるようになったと
いうこと。いまや、ペニスの抽送の一つ一つがオリンピック水泳選手のストロークのように、
このうなる憂鬱の終わりへとかれを引き寄せる。――これって本当に本当なのだろうか?――
そうでないのはわかっていた。でも、ここでかれはヴァンナから離れすぎていて、彼女の絵姿
はまぶたの内側からこれまで以上に急速に薄れつつあった!
ダンテはどう書いていたっけ?
われらが人生の森林の途上でわたしは道を失った。なんかそんな感じだ。それに思い当たるた
びに、かれはバタンバングの静かな戦場の向こうのジャングルを思い出すのだった。そしてそ
の時には、通訳とコミューン指導者と外交庁長官が、爆撃の痕を見せようと夢中だったので特
にジャングルに気がつかなかったけれど、記憶の中でそれはいつになく生い茂り威圧的になっ
てきたのだった。植物男根がそびえ、その葉は実に立派にしげっているので、下の起源となる
構造はまるで見えなかった。淡い青い花が散っている。ここはかれの人生のジャングルであり、
迷子になった場所なのだ。そしてまたここはヴァンナのジャングルでもあったので、かれとし
てはここを愛すべきなのだが、でもこわくてならないのだった。ときどき、もう一人の妻を離
婚したことで自分のコンパスを投げ捨ててしまったように感じられ、そして結婚しかけたイヌ
ーク女が、迷子にならずに済むための最後の(だがあり得そうにない)チャンスだったように
Page 115
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
思えた――
15、
ベイの店で、もう何年も会っていない知り合いにプレゼントを渡しにいくと、鄭重に
迎えてくれたものの、レジのレシートの照合からまばたき十回分くらいの時間しか手をとめて
くれず、じきにかれは、用済みになった気がした。いつでも夕食を食べにいらっしゃいと招待
はしてくれたのだけれど、「いつでも」というのは一見最大級の親切に聞こえてその実、それ
以下の尊大な循環話法なのであり、その完全な形は「わたしたちが招いたときはいつでもいら
っしゃい」なのである――もちろんそれはひどい言い方で、北のほうではみんな、本当に予告
なしにぶらりと立ち寄ってもまるで気にしたりしない。でもかれは、自分がぶらりと立ち寄っ
たりしないのは知っていた。パーカのジッパーをあげ、手首まで大きなミトンをはめ、首から
フェイスマスクをあげてはめなおしつつ、すでにそれがわかっていた。それから振り返ってさ
よならを言い、その時見た二人は実に若くて、いっしょで幸せそうだった。男はインディアン
の国で生まれ育った白人で、それなりに頑固で、ボートや銃や重荷の扱いに慣れていて、明る
くがっしりしていて、女の方は純粋イヌークで衝撃的に美しく、初めて彼女に会う男は目をそ
らせないのだった。伝統的にてっぺんで結った青黒の髪が、その優雅な額を冷やしにこぼれ落
ちる雪の影を集めているように見えるのだ。睫毛の長い目は、いつもは半開きだったけれど、
でもだれかをまっすぐ見つめるときには液状の黒い純粋さの閃きが現れた。鼻はスフィンクス
のようにエジプト風。唇はといえば、見ただけでキスしたくてたまらなくなる……そして二人
で一番美しいのが、お互いに求めているのが相手だけだということで、かれは自分の強さで彼
女を慈しみ守り、彼女のほうはかれを愛して喜ばせていた。そこでかれらは帳簿作業を続け、
自己充足的なカップルとして、ほとんどかれの挨拶を気にもとめなかった。なにせ仕事がある
のだ。――かれは思った。新妻とぼくも、いっしょになったらこんな風になるのかしら、シー
ツの下に幸せに隠れたりなんかして?
――かれにしてみればそれで結構だった。もうほかの
みんなにヴァンナの話はしないことにした。彼女以外のすべての世界を切り捨てるべく……
16、
もちろん、そのヴァンナにも話をすることはできないのだけれど。
17、
ナーワルの中では、男が銀色の物質の細い塊を廊下に並べて、どこかのティーンエー
ジャーが吸いたがりそうなシンナーを塗っており、ビリヤード台の横に男がすわり本を読んで
葉巻を吸い、天井からぶら下がった植物が育っていて、でも風は吹き続け、天井はバタバタキ
イキイ鳴り続けた。外では雪が薄い霧や気流となって、雪まみれの道や駐車場を横切っていた
Page 116
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
けれど、日の出から間もない時間で空のオレンジ色はまだ細長い三角形の侵入物にすぎなかっ
たので、道も駐車場も雪影と同じ青なのだった。(その空に巣くっているのが、空港のビルの
一つのてっぺんの旗で、のどの乾いた馬の頭のようにのびあがり、旗竿は見事なほどにしなり
つつも、またまっすぐに戻る)、そして今では空は落ちついた冷たい青にまで明るくなったけ
れどでも月がまだかかっていて、半分消えかかっていたけれど、縁のあたりが濃い黄白で、あ
との部分は実にくっきり斑模様になっていて個々の山やクレーターを見分けることさえできそ
うで、月はきれいで遠い場所だったからレゾリュートより過酷な場所だとは信じられないのだ
った。一方で粉雪がその空疎な突撃を続け、それもさっきのように筋を描くだけでなく、電線
の高さにまでたちのぼる確固とした霧の塊となって、スポットライトの光線のような無摩擦の
貪欲さで青い雪の上を走るのだった。雪の上で交錯する軌跡や航跡は、ポンド・インレットに
ある公民館のダンスフロアを思わせた。ぬるい闇の中、鈍いきらめきにまみれた傷だらけのコ
ンクリート・スラブで、傷だらけのレコードの大音響で耳が痛い。ブーツやパーカ姿のガキた
ちがフロアを駆け回り、ダンスの主役であろうと思われる高校生たちは、壁際のベンチにもじ
もじと、女の子は女の子同士、男の子は男の子同士ですわり、真夜中とか、あるいはもっと印
象的な時間になって何かが起こるのを舞っていた。前に一度、女の子と踊ったら、もう二度と
踊ってもらえなかった。一時になったら何かが起こるかも。その何かのためにみんな、クライ
ド・リバーの家で強いけれど薄い自家醸造ビールを飲み、あいも変わらぬシロクマ話を語りあ
い、金儲けの算段をして、女や犬や距離の話をし、バーベキューしたカリブーの肉の黒い塊を
食べて、炭火の薫製とローストのそれぞれをタマネギにつけて、だんだん自分のすごさについ
て声高かつ頑固になっていって、やがて静かに微笑んでいるイヌーク女性の一人が、グラスを
一杯空けたために卑わいなことばを叫んでは物を壊しだして、するとみんな店を出なくてはな
らなくなった。夫は彼女と結婚して酒を飲ませてみようかと思った。自分のしたことを思い出
せないだろう。かれを刺し、殴るだろう。酔いがさめれば自分のやったことが信じられず、驚
いてしおらしく心配してみせるだろう。そこでもう一杯すすめてやって、それを嬉しそうに飲
み干す彼女の目の共犯意識をながめ、彼女が変身するのを待つ……ダンスフロアでは、女性が
一人すでに帰ろうとしていて、白いパーカを着た美しい若い母親で、赤ん坊をアルマウティに
くるみ、白い静かな通りを白く静かに歩き、街灯の規則性に従って明るくなっては暗くなり、
そして少女がオレンジ色の四角い光を開いて身を乗り出し:ハロー、ハローと叫び、するとつ
むじ風が吹き抜けて母親は最後の街灯を通り過ぎ、雪青色に変わって消えた。ひとたび彼女が
消えてしまうと、夫は痛いほどの切望をおぼえた。も彼女に自分を愛するよう説得できたら、
その時初めて過去の過ちから一歩前進できるかもしれない、という気がした。さて、他の女を
愛するかもしれないし、まもなくヴァンナと一緒になれると固く信じていたにもかかわらず、
あの白いパーカの女が教えてくれたかもしれないことを、かれは決して学ぶことはないのだっ
た。
Page 117
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
18、
ほとんど結婚しかけた女のことを考えてみた。青いダッフルのパーカを着ていた……
元気で幸せに暮らしているだろうか?
もし彼女と結婚していたら、ヴァンナの夫として到達
したかったところにもっと近づけていただろうか。もし今彼女と結婚したら、同時にヴァンナ
とも結婚できるだろうか。みんな、夫と妻たちみんな(そうなれば暇をやった妻も戻ってくれ
ばいい)、修道院の修行僧たちのように慈しみあい、だれ一人として去らずにすむのでみんな
悲しみから遮蔽されて暮らせるだろうか……。この妻たちの理想都市こそが答かもしれない、
少なくとも答の一部ではあるかも。もちろんかれの究極の融合への近道にはならないけれど、
でもそこから花開くものだってあるだろう。なんと簡単!
もしみんな自分の手元においてお
けたら、みんなを幸せにしてやれる!
19、
離婚調停の期間中、flying court で働いているペルー人女性がいて(flying court
と聞くと、夫はいつも尻の赤い背中の曲がった判事たちが火の輪くぐりをして、法律的綱渡り
の綱の上に危なっかしく着地し、毛深い足指で綱をつかんで空中三六〇度回転をして嵐のよう
な喝采を受ける、といった光景を想像してしまうのだった。この着想から、法廷速記者たちと
の性的ブランコの想像まではほんの一歩だったが、ペルー人女性はその速記者なのだった)、
夫はおもしろ半分に彼女を自分の妻と呼ぶことにした。彼女は温かくぽっちゃりしていた。外
で風が吹きすさぶ中、彼女を抱き寄せたらどんなに気持ちいいだろう。
でもあたしは結婚してるのよ!
と彼女は憤って叫んだ。
その通り。ぼくとね。
ほかのみんなは笑い、彼女は口をとがらせるふりをした。――あら、もしあなたの妻になっ
たら、何をいただけるのかしら?
かれはまだカンボジアの金をうなるほど持っていて、いつもそれを持ち歩いていた。かれは
そのほとんど無価値な紙幣を鷲掴みにして彼女のまわりにまき散らし、みんな大いに楽しんだ
……
出発の日に、かれはお別れを言いに彼女の部屋に入ると、彼女は行った。待って!
裸なの
よ。シャワーを浴びるところだったの!
それは好都合、とかれ。
彼女は笑ったが、服を着るまでドアを開けなかった。
お別れのキスをしてもいい?
どこに?
唇に。
彼女のルームメートがちょうど入ってきて、ペルー人女性は言った。この人、あたしの口に
キスしたいんだって!
Page 118
蝶の物語たち
ブタ!
ウィリアム・T・ヴォルマン
ともう一人の女性は笑った。
わかったわよ、口に一回だけね、ヘルペスとかにかかってないでしょうね?
大丈夫。
二人は何度かキスした。夫は心底楽しんでいた。
でもまじめな話、あたしは結婚してるの。まだ離婚が成立してないのよ。あなたは?
ご同様。
なぜ自分の奥さんとじゃよくないの?
あなたはとても知性的だと思うわ。そうでしょう?
そうだろうね。
じゃあ奥さんは?
やっぱり知性的?
とても知性的。
ああ、ならそれが原因よ。あなたは知性的なんだから、馬鹿な女の子がむいてるのよ。
そうかもしれない、と夫は考え深げに言った。ぼくが必要なのは、それかもしれない。
あたしはそう思うわ――夫さん、と彼女は笑った。
うん、妻よ、きみはいつもながら正しい。
さて、あたしはまた服を脱がないと。だめよ、そこにいちゃ。でも、これがジュネ・ロレッ
トでのあたしの電話番号。そのうち電話してよ……夫があたりにいない時に。
20、
グリセ・フィヨルドで、ほとんどはげ上がった白人に会った。わずかに残った髪は、
外の雪のように青白かった。夕食の時は少ししかしゃべらなかったけれど、それでも男が賢く
善良なのは夫にもわかりはじめた。夫は賢い人々を信じていた。そうせざるを得なかったのだ。
自分がどうすべきかを説明してくれる誰かを切望していた。有料の鏡にすぎない精神分析医に
対する、どんな些末な希望も越えた段階に進んでしまった夫は、何年にもわたってちょっとで
も賢さの片鱗を見せた友人たちを、さまざまな質問で苦しめてきた。(これはまだヴァンナに
ついて直接他人に口にするのを自分に許していた頃のこと。今はせいぜいがイヌーク娘の話を
持ち出せるくらいだった)一、二年前、かれは敢えて神父のもとに赴いた。もし信じさせても
らえるのであれば、喜んで進むなり退くなりしようと思っていた。当時は別の妻といっしょで、
二人はいっしょにいて実に不幸で、それはかれができる限りのことをし、彼女も同様で、二人
とも与えすぎてくたくたで、これ以上与えることができず、怒鳴りあって憎みあっていたから
なのだった。こうした口論はいつも突然起きて、だからまずかれはそれに戸惑い、やがて絶え
ずそれを待ち望むようになった――ああ、本当に賢者が必要だったのだ!――神父なら助けて
くれるかも……でも教会に入った途端、神父の子分どもが中絶クリニックのまわりにバリケー
ドを作っている写真が載ったニュースレターを見て、正気にかえった。その後しばらくは、賢
者はあきらめていた。でもこの老人とことばを交わすにつれ、これは運命的な出会いであり、
この人物は、こちらに正しい質問をするだけの勇気と知性があれば、自分を助けるべく遣わさ
Page 119
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
れたのだというゾクゾクする感覚がわいてきた。かつてかれは、フランス系カナダ人の友人に、
雪の中で迷って幻覚を見て、天使たちを見た話をすると、彼女は Mon Dieu! と言い、かれは言
った。でも、それはみんな一人の天使で、ぼくを助けにきてくれたんだと思う、だってどうす
ればいいか教えてくれて、その通りにしたら生き延びたんだから!
――すると彼女は完全に
信じ切ったような低い声で、ええ、わたしもそう思う、と言った。――だったらこの賢者も、
かれの守護天使なのだ。夫には確信があった。そして今回こそは、自分の信念を越えた残酷な
試練にあわされることもないと確信できた。得られる答は、それ自体でちゃんと筋の通ったも
のとなるだろう。
賢者は、二〇歳年下のイヌークの妻がいると言った。いっしょにいて二人とも心底幸せだっ
た。彼女はバフィン島最後のシャーマンたちの孫娘だった。そのシャーマンは自分の敵を決し
て悪く言わず、かれらに害を及ぼすようなことは何一つしないように見えたが、しかしその敵
たちはみんな、たまたま偶然にひどい最期を迎えるのだった。賢者の妻も、その力の一部を受
け継いでいた。賢者が、そろそろタバコとかコーヒーが欲しいな、と思うと、何も言わず、身
動きもしないうちに、愛しい妻がそれを手渡してくれるのだ。ある晩、妻の横で夢を見ていて、
彼女がとても近しく感じられ、目を開けるとまったく知らないイヌクティト語で彼女に話しか
けていた。別の時には、帆船で航海する夢を見ていると、妻がとても怒ってかれをゆり起こし、
あたしの夢から出てって!と言い、わたしが何の夢を見ていた?
と尋ねると彼女は:帆船で
航海、と答えた……そして賢者は、妻がとても特別で不思議なので身震いした。賢者がどこか
旅行にいけば、ホテルに入ると必ず電話が鳴っている。なぜか彼女は、こちらがちょうど着い
たのを知って、愛しているわと電話をかけてくるのだった。
ぼくもイヌーク娘と結婚しかけたんですよ、と夫。でもその娘はガソリンばっかり嗅いでま
してね。うまくいきっこなかった。
賢者は優しく笑って、真実の響きをもってこう言った。それがきみの間違いだよ、と。
21、
その後、かれはホール・ビーチ取材の仕事を受けていた――つまり賢者から、凍った
茂み八〇〇万個分離れていたということだ――そこはプノンペンが暑かったのとまったく同じ
くらい寒くて、友だちのジェレミーはパイロットランプが消えてしまったので悪態をつきだし
た。三重の厚い壁越しにでも、冬は即座に感じられた。二人はすわってスコッチを飲んでいた。
ジェレミーが言うには、初めてイヌーク人の妻を裏切ったのは、ダンスに行ってグリーンラン
ド人の女の子を引っかけた時だそうで、それは友人の妻だったという。一発やって、そうした
ら向こうから連絡をよこしてもう一回やった。すると二度目に連絡してきて、かれは興味ない
よと答えた。ジェレミーは誇らしげに、自分はそれをまったく楽しんだりせず、単に妻への復
讐としてやったのであり、したがって自分は非常に道徳的に振る舞ったのである、と夫に語っ
た。夫はうなずき、スコッチを飲んだ。
Page 120
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
で、ジェレミー、どうしてそんなことを?
うん、妻は――まだあんまりこの話はしたくないんだけどさ。つまり彼女といっしょに暮ら
すようになったわけ、ね?
で、結婚しようと。すべて順調って感じ。その時、妻の隠してた
手紙を見つけたんだよ。で、なんだか知らないけど、ページの上で鈎や文字が踊ってる様子が、
どうも気に入らなかったんだ。だから翻訳してもらったの。そしたらラブレターだったんだ。
そいつが彼女とやったあんなことやこんなことが書いてあってさ。しかも同じ晩に、おれはそ
いつと飲んでたんだぜ!
そいつん家にでかけてったら寝てやがってさ、ぶっ殺してやるって
言って、そこらの物をぶち壊して何度か殴ってやったら、すみませんだってさ、え?
でも女
房とは仲直りしきれなかった。あいつ、ときどきすっごくコスいんだ。ちょうどその頃、あい
つはおれに冷たくするようになってね、わかる?
毎晩、子供を一人ベッドにつれてきて間に
寝かせて、何もしなくてすむようにしやがる。おれが浮気してまわるようになったのはその頃。
もう十人だか二十人だかとやってまわったよ――ほんとに若い子もいたな――そして自慢じゃ
ないけど、一度たりとも楽しんだりしなかったぜ!
おれは信念の人だからな!
でも目下の
AIDS 騒ぎはどうしたもんだかわかんなくて……
それで奥さんとは最近はどうなの?
もう一杯いる?
うん。
うん、最近また女房が迫ってくるようになったんだけれど、もう歳とってきて、あんまし魅
力が感じられないわけよ。それと最近、なんか女房は人生半ばの危機を迎えてるの。いつにな
くイヌークらしくしたがるんだ。セイウチの肉をどうしても喰いたがる。前はずっと大嫌いだ
ったし、おれも臭いゼリーみたいだから大嫌いだったのに。家中が臭くなっちまう。でもそん
なのおかまいなし。どうしても喰うってんだ。それと、子供を殴る一件。これには頭にきてる。
ガキに多少しつけをするのはいいことだと思うんだ。だって、世界中どこでもやってんじゃん。
イヌークどもも、他のみんながやってるんだから、それなりの理由ってもんがあることに気が
ついて欲しいよな。ちったぁ智恵つけて欲しいよな。ここらの子供の悪ガキぶりを見ろや!
で
も女房は絶対聞き入れない。前に、晩飯の煮物用に冷凍庫からカリブーの肉が要ったの。で、
長女に、セシリー、ちょっとおかあさんにカリブー肉を持ってきてあげて、と言った。そした
らクソ生意気に嫌だってぬかす。そこで、お母さんを手伝わないと、今夜は夕ごはん抜きだよ、
と言ったんだ。――女房の肩を持ってやったんだぜ!――すると女房は、このオレのほうに喰
いかかってくんの。子供を脅さないでちょうだい!
って。
じゃあ、彼女と結婚したのは間違いだと思うわけ?
大間違いだったよ!
ちょうど昨日も、ヘアブラシで殴られたし。あざを見なかったなんて
言うなよ!
じゃあスチュアートと女房は?
あの夫婦は問題なしだろ?
大ありだよ。問題だらけ。
じゃあロジャーとアニーは?
と夫は勝ち誇った。ロジャーとアニーは、ベイの店の二人だ
Page 121
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
った。夕食にいらっしゃいと言ってくれた完璧なカップル。
うん、でもあいつらは若いから。だろ?
――陰気で警告するような笑い。――まだ二十台
だ。あの女房とは一発してえよ。でもあと十年もすりゃ、おれの女房そっくりになるって。
じゃあぼくは?
おまえがどうしたの?
ぼくが一目惚れしたあのイヌーク娘――
一目惚れするのは簡単じゃん。
じゃあぼくが彼女と結婚するのは間違いだと本気で思うわけ?
ああ、そりゃもう絶対、とジェレミーはもう一杯ドリンクを注いだ。間違い確実。
22、
自分の中に、炎のような霊がいる感じ、とある時友人のベンが言った。おれはその霊
を抱えて寝なきゃならない。だれかがおれにはもったいないようなものをくれたら、勇気を出
して霊にそれを受け取らせるようにする。だって、おれの霊には最高の物がふさわしいんだか
ら。でも、おれの中にいるのはその霊だけじゃない。いろいろちがった魂がいるんだ。
夫は自分の中でざわめくさまざまな魂に耳を傾けた。恐怖が鋭くほこりっぽい背骨
で空を突き刺す……
23、
娼婦二人は駐車場ビルの中で立ち、にっこりして夫のフォーチュンクッキーを食べて
いた。光が二人の歯をきつく見せ、からだをギラつくシーツでくるんでいた。夫の娼婦は金を
靴にしまった。写真家の娼婦はパンツに金をしまった。夫の娼婦は両腕をさすってばかりいた。
ちょっと寒かったのだ。駐車場の係員はしょっちゅうオフィスから出てきてはこう言った。あ
とどんくらいかかります?
うっせーんだよ、このくそアラブ、と夫の娼婦。おまえも金もらってんだろ。
あとどんくらい?
もうじき、と夫。ここはぼくらにとってすごくセンチメンタルな場所でね。女房と昔を思い
出してるんだ。最初に会ったのがこの場所で、ダブルデートだったんだぜ。
わかったわかった、と係員。で、あとどんくらいかかります?
うっせーんだよ、このくそアラブ、と娼婦。
彼女は両手を背後にまわして、太ってあたりをにらみまわしていた。もう一人の娼婦は手を
前に出し、身を傾けつつ、せっかちで疲れたような微笑を浮かべていた……
こうしてると、ホント変な気分よね、と娼婦。上腕部はカボチャほどもある。体重百三十キ
ロはあるはずだ。すごく臭くて、夫は口から息をしなくてはならなかったほど。
Page 122
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
あんたも変な気分になったりするんでしょう、と娼婦は、タラのような白身魚の肉を思わせ
る、ふくれたソバカスだらけの手でタバコを包むようににして、マッチに火がついてそのソバ
カスに光を注いだ。その手は、自分の血で輝くように見えた。あくびしつつ、彼女は汚れた黒
い爪を黒レースのブラジャーのひもの下にもぐらせて、しみだらけの肩を掻いたが、その肩は
柔らかくて深くてべとつくくぼみだらけで、マンコなしですみそうなほどだった。タバコの先
を空に向けつつ娼婦は言った。つまりさ、今変な気分になったりしてない?
ぼくはいつだって変な気分だよ、と夫。
へえ、あんたの探してるのって何?
愛、かな。新しい女房。
でもそれって変な気分なの?
きみとここにいるのは変な気分だよ、ぼくはきみを愛してないし、きみはぼくを愛してない
し、ぼくはただちょっとしたヒントを求めてここにいるだけなんだから。
あんたが何のためにここにいんのか、あたしが教えたげるわよ、とデブの娼婦がつぶやき、
突然重肉弾となって突進してきた。小便の匂いをさせつつ、服を脱ぎだした。首のないしみだ
らけのアザラシ頭が、こちらのチャックめがけて突き出され、そして歯でジッパーを見事に引
き下げた――おっと、これもサービスの一部か!――そして今やジッパーをくわえて夫を前に
引っ張っている。はだしで壁にもたれ、頭だけ上げて尺八し、赤毛の鳥みたいにせきこんでは
前後に動く。あたし、せっかちなの、とつぶやく女の腹は、一連の動きでさざ波立っていた。
あんたをちょっと変な気分にしたいだけってこと。
しばらくして女は立ち上がってつばを吐いた。――ジニー、この髪型って好き?
ともう一
人の娼婦に言う。今日初めてこうしてみたんだけど。
あんた、子供いないの?
ともう一人の娼婦は、長い沈黙の後で言った。
十分後、タクシーに乗って煉瓦壁を通り過ぎ、リアシートから小便の匂いが漂ってくる中、
夫は考えた。ヴァンナはこの赤髪症の娼婦じゃない、それだけはわかってる……でもぼくは、
この娼婦も愛さなくてはならない、だってぼくのためにそこにいてくれたんだから……いや、
この女は愛せない。愛したいけど、愛せない。こいつはぼくを途方に暮れさせる。ヴァンナは
そこにいてくれるだろうか。あんな遠くにいて……――そして夫の思考は壁の四角の繰り返し
や橋脚のXをすぎつつ、うかされたようにさまよい続けた。日のあたる吐き気を伴いつつ、暑
いヤシの木や、低層倉庫を過ぎて飛んだ。角では、大きな黒ブーツとむきだしのももを見せた、
娼婦たちのすてきな会合が進行中。赤い服を着た一人が、唇をキス状に突き出す――
24、
もしもし、シエン?
はい。
ぼくがわかる?
Page 123
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
はい。
カンボジアから何か知らせは?
まだです。
大丈夫だと思う?
そうは思いません。
25、
バタンバングから戻る途中、壊れかけた橋で便所休憩をとった時に、夫は萼の黄色い
白い花をつんだ。葉は半ば虫に喰われていた。花の下は、銃弾のようなとがったつぼみが取り
巻いていた。車に戻る時も持って帰り、握りしめつつこれがヴァンナかも、と思った。蟻が二
匹出てきて、それからハエが二匹出てきた。十分もしないうちに、しおれた。
26、
CAMPUS の看板を光がグルグル回る。薄汚れたぼろ着の男たちが闇の中で壁にもたれて
いる。ターク通りに面した出入口に、キャップをかぶった小鬼がしゃがんでいる。
えっと、あ、ハイド通りに出ないとダメ、と女装男が淡い化粧済みの顔で言った。右に曲が
る時は言うから。この右じゃなくて、次の右。
この妻じゃなくて、次の妻、と夫。
女装男は聞いていなかった。結構。夫も気にしていなかった。――先週、ふくろ叩きにあっ
たんだけど、落ちこんじゃって話す気になんないわ。
ハイヒールがもじもじする。その声は、死んだ祖母の声のように憂いに満ちて囁くようだ。
恐くて、一週間も外に出られなかったわ。
釣り用タンクには絶えず水が滴り続けた。青いまぶた、チークライン。唇を寝たハート型に
して、彼女はうんざりしたように鏡の中でまばたきした。
無理にしなくていいよ、と夫は急いで言った。
無理にさせられてるんだったら、いけないことだわ。でも無理にさせてるんじゃないもん。
あたしが好きでしょう、ね?
愛してくれなくてもいいのよ。いい?
OK。
突然の闇の中でジッパーの音。そして夫は思った。この生物は膜翅類の昆虫並に、不思議か
つ恐ろしげに特化してるなあ。
闇の中で、子猫が二人に飛び乗った……
ネコ、やめなさい!
と彼女は叫んだ。ネコがすまなかったわね。まだほんの子猫だから。
いずれにしても車で送ってくよ。行こうか?
あら、いいわよ、歩くから。
ぼくが信用できない?
Page 124
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
そうじゃないって。
明かりをつけると、彼女が震えているのがわかった。ヤクがきれかけているのだろう。
テレビがひたすら流れ続けた。夫は手作りの仏像をいろいろ思い浮かべた。あらゆる性別の
仏、最大のものは悟りの和を持ち、六色で、大きな仏は立ち、低い仏は横になって穏やかに死
を迎え、仏二体はお告げを生みだそうと立っている。
もうすんだんでしょ?
ねえ、お願い。
きみは本当に上手だったよ。初めてじゃないんだね。
ええ、初めてじゃないわ。初めてじゃ。すんだのね。お願いよ。
27、
角を曲がると、きらめく四角い明かり。細い脚の細い娘がキラキラと消える。バイク
のおまわりが懐中電灯で車内を照らす。プノンペンほどはおもしろくない。脚を組んだブロン
ドが、何かのサインのように白いハンドバッグを持って髪をなおしている。ゆっくり爪先だっ
て通りを行き来しつつ、頭を垂れ、虹色に輝くケツの後ろで手を握りしめている。長く締まっ
たストッキングの脚がこすれあう。タバコをふりまわしたので、ひょっとして性感体かもしれ
ない明るいピンクの先端が、夜の幅広い弧の中を飛び回った。彼女はその行動においてあまり
に完璧で、いつの日か彼女も懺滅されてしまうなど、考えがたく思えた。でも、世界が彼女を
どう思っているかを考えれば、ピッケルやブルドーザ、毒物注射やワニではないにせよ、同じ
くらいおぞましい方法で消されるのだろう。通りの向かいで彼女を眺めつつ、夫は一瞬、ヴァ
ンナでなくても彼女と結婚しようか、と思った。少なくとも短期的には安上がりだし、ずっと
手間もかからない。でも、自分の演繹が一列縦隊となって超越論的結論という墓場にほとんど
行進しかけたという事実を認識し、夫は嬉しかった。ぼくは全然迷ってなんかいない。まだ新
妻を愛しており、愛しているのは新妻だけだということを、自分に証明してみせたのだ。古い
妻とは離婚した。前に結婚を考えたイヌーク娘には連絡していない。キスしたにもかかわらず、
ペルー人女性にも連絡していない。賢者とジェレミーの宣告を、あらゆる面で無関係として遮
断。デブの娼婦にも誘惑されなかった。女装男とも仲良くなろうとしなかった。そこで物陰か
らブロンドを見つめ、微笑んだ。彼女は車が通るごとにヒップを揺すり、イアリングをひらめ
かせ、首をまわし、ちょっと股を開いてみせ、歩き、車や街灯にもたれ、髪を撫でて車が止ま
るのを待つ。その車はダッシュボードのすぐ上に小さな携帯電話をつけていて、急停車したも
のだから携帯はまだ揺れていた。ブロンドは助手席の窓によりかかり、交渉を始めた。ついに
後ろのドアを開ける。他の車がスピードを落として通過。車はウィンカーを出して角を曲がっ
た。一周してから、男は彼女を下ろした。男の払いが不十分だったのだ。彼女は悲しそうにふ
らふらと戻り、髪をなでつけ、あたりを見回す。白いスカート、タイトスカートを引き下ろす。
それから突出する可能性のようにそれを引き上げた。賢そうに頭をめぐらし、髪をゆすりたて
て、またなでつけられるようにした。タップダンスして股を掻く。白いハンドバッグを楽器の
Page 125
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ように揺すり、美しいケツで車を誘う。パトカーが通り過ぎると、彼女は非常に真剣に髪をな
でつける。
そうやって時間が己を飲みこみ、やっとついに彼女のピンクの虹がきらめいた。そうして幸
せな娼婦の背後で車のドアが感動的に閉まる。幸せなカップルはスピードを増しつつ角を曲が
り……
まだ微笑みながら、夫は彼女の繁栄を祈った。彼女には魅力を感じたが、新妻に忠実であり
続けた。蘭にちょっと近づき、荒れた白樺の樹皮のようなバラバラの壁から垂れ下がる、枯れ
た灰色のシダからはもう少し遠ざかる――
28、
前妻が、引っ越しを宣言した夢を見た。夫は引っ越したくなかったけれど、選択の余
地はなかった。二人は高速に出た。ショッピングモールにやってきて、夫を車で待たせて前妻
は中に入った。一向に戻ってこない。一回呼んで見たら、手が離せないと答える。とうとう、
モールを車でぐるっと回って彼女を捜すことにした。エンジンをかけて最初の角を曲がると、
速い車の流れにつかまって、そのまま反対方向の高速に乗ってしまい、どんどん離れていき、
妻が行ったのと似たショッピングモールは他にいくらでもあって、もう二度と彼女は見つけら
れそうになかった。
29、
移民弁護士に電話をかけると、彼女はこう言った。はい、どんなご用件でしょう。
カンボジア娘と結婚して、アメリカにつれてきたいんです。
うーん、難しいですね。他に条件は?
婚約者の方は、何か特別な技能をお持ちだとか?
彼女、読み書きできないんです。
それじゃまるで役にたちませんね。その方のお仕事は?
売春婦です。
もと売春婦ってことですよね。十年以上前のことなら、ビザ免除では問題ありませんし……
いや、今売春婦をしてるんですよ。
うーん、本当にその方と結婚なさりたいんですか?
手続きとかやってもらうと、いくらかかります?
と夫。今はちょっと、できるかどうか知
りたいだけなんすよ。カンボジアを出るパスポートだけで二千ドル、赤ん坊で二千ドル……と
にかく全部でいくら?
一万以下で何とかなりますかね?
どのくらい待たされるかわかりませんよ。最近、フィリピンの方と結婚した紳士のお手伝い
をさせていただきましたけれど、彼女はビサ免除に該当しましたから。それでかなり安くあが
りました。ずっと安くね。今度の場合、移民局がうるさいですよ。申請を出してから、最低で
Page 126
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
も九ヶ月、おそらくは二年かそれ以上――
メキシコに連れ出したほうがいいのかもしれませんね、と夫。あそこで何年か彼女と暮らせ
ばいい……
30、
イギリス鳥(シギやウズラクイナやオリーブ色のバンや、クイナやツバメチドリやハ
マシギやトウネン)並に群れつどったイギリス娘たちといっしょにイギリスに着いて、夫がボ
ブを待っていた場所は、二階にある待合い室の、照明の明るい、本が歯のように並ぶ棚の多彩
な笑みや、すりきれたじゅうたんの上の本のピラミッド、小さなテーブルとその周辺にはボブ
のフォルダーや原稿、エジプトのスライドのリスト、年鑑、ファイルカードのケース:教会済
み、教会未決、教会不使用、それから小石やはさみやペンの乗った丸テーブルの中で、かれは
自分の無意味なさまよいに、もう本当にうんざりしていたのだった。もうヴァンナのために三
千九百ドル貯めていた。目を半ば閉じてボブを待った。エスターは下の階で、イラクのバーテ
ィーに関する原稿の校正をしていた。手動タプライターの勢いあるカチカチ音が聞こえた。ボ
ブはこの瞬間、地下鉄でガタゴトと家に向かっているのだが、その地下鉄は無数のイギリス書
店の下を通り、それはアメリカの本屋とほとんど同じだけれど『金閣寺』の表紙にはカラーの
絵の替わりに白黒写真が使われていて、パウンドの『カントース』ペーパーバック版には夫が
これまで見たことのない、とてもすてきなスケッチが入っている。ボブはイギリスに済んでも
う何年にもなるが、そんなことはまるで気にしなかった。夫はボブの美術書を見ていた。新聞
を読むよりましだった。もっとも、浮気してまわった若いフィリピン人の妻を殺し、切り刻ん
で、妻の脂で揚げてネコに喰わせた老人に関する記事には没頭させられたが(その記事を半分
も読み終えないうちに、シャーロック・夫はつぶやいた:彼女は娼婦だったにちがいない。こ
の結婚、そこら中が娼婦臭い。そしてまさにその通り、小さな脚注を読んで、夫は己の演繹力
に対する自己満足の根拠を見いだしたのだった)。玄関が開いて閉じると同時にエスターのタ
イプライターが止まり、ボブが階段を上がってきて、気がつくとボブと夫は、楽しげにボブの
ウィスキーを飲み干しているのだった。――いやいや、北フランス最悪のホテルはそこじゃな
いよ、とボブ。もっとひどいやつを見つけた。すごく危険な日没の絵のあるところだよ、爆発
しそうな日没の……――なにかボブに本の話をすれば、かれは大体においてそれを読んだこと
があるだけでなく、持っていて即座に貸してくれるのだった。かれの本棚はサクソンのおとぎ
話に出てくる、食べ物の魔法の財布のようなものだった。その時夫は『ニルスの不思議な冒険』
を読んでいて、蝶少年時代には、それを貸してくれた女の子たちが引っ越してしまったので一
度も読み通せなかった本で、ボブにラゲレフが書いたもう一冊の大人向けの本、なんだっけ、
ゲスタ・ベーリング物語か、それについて尋ねると、たまたまかれはその本を持っていて、で
もノーベル賞をとったとはいえ、その本にさほど感銘を受けたわけではなかったんだが、でも
ウィスキー、ビール、ワイン、もっとウィスキーと杯を重ねた後、夫は客用閨房に一人でこも
Page 127
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
り、その本の表紙をなだめすかすように広げて、視線で愛撫を開始し、一方ボブは溜息をつい
て、ちょっと犬をうろうろ出入りさせてから、上の階に戻ってケンジントンの下水における意
味と隠喩に関する学位論文の採点を始め、生徒のおだてに首をふりつつボブは:やれやれ、ま
ったく驚くねえ、と言いながら、自分と夫にもっとウィスキーを注ぐ。この聖なる飲料をかぎ
つけて、夫は本との蜜月から小休止をとり、ボブの本の観測室、ボブの本妻たちのディスコに
再度表敬訪問を行うのだった。夫はボブが好きだったし、賢者だと思っていた。でも、ボブは
賢いと思われるのを嫌っていた。かれが助言を行うのは、きわめて気乗りのしない様子でいや
いや行うときだけだった。だから夫は、写真家がおみやげにくれたヴァンナのカラー写真を見
せるにとどめた。いまでは肌身離さず持ち歩くようになっていた。もう彼女の姿を思い描くの
が非常に困難になっていたせいだ。そしてボブは、夢見るように写真をめくりつつ、ふーむ、
と言った。これまた賢いエスターは、この晩のためにキャベツと子羊の首肉のシチューの素晴
らしいディナーをつくり、その間、夫とボブはとてつもないドローンのように杯を重ねたのだ
が、そのエスターも求めればたまに助言をくれたのだけれど、でもあのゲスタ・ベーリングが
雪崩に身を投げて自殺するところを救われる頃にはとっくに寝てしまっていて、かわいそうな
ボブの電球が次の十七世紀の庭園における公共空間と私的空間に関する学位論文の上でいつま
で輝いていたのかは知るよしもないが、でもその頃にはゲスタ・ベーリングは舞踏会にでかけ
て、友だちの恋人が意地悪な金持ちと婚約したのを解消させようとして、人生の奇妙な星のめ
ぐりによって、吠える狼に取り囲まれた馬車の中で自分が彼女に求愛する結果となり、夫は自
分の婚約キットを組み立てようと必死のあまり、もはや偶然を信じられなくなってしまって、
この本が自分の手元に来たのも天の意図あってのことだろうと確信し、したがって赤い花弁の
内側に群がる花粉の白い玉のようにことばを愛撫し続けるのをやめられなかった。そしてゲス
タ・ベーリングはその女の子をものにしてから捨てて狂ったほうき売りに言い寄り、結婚しよ
うといった。それから憂鬱な伯爵夫人に気を移して彼女のことをすっかり忘れ、するとほうき
売りはマンコにひまわりの花を生けて、森の中で自殺した。伯爵夫人はそんなことをまるで知
らない。彼女はディスコの中をさまよって黄金を探していたのだけれど、夫が彼女を捜し求め、
ほうき売り妻を残して他のみんなに狩られるに任せると(みんなどうせ彼女のことなど狂って
いるという以上に考えたことはなくて、谷底で発見したとしても気にも留めなかっただろうけ
れど)、行く手はカンボジア軍人に遮られ、かれは目の高さで指を広げて踊っていて、まるで
冷静に暗闇の目をかきむしっているかのようだった。軍人の目は催眠術にかかっていた。口は
熱望と困惑で、ほんとうに微かな微笑に広がっていた。踊っている相手は髪に赤い花をさして
いた。手は、警戒するように相手を見つめつつ、腰のまわりの濃い空気をかきわけている。腿
はカタツムリのように柔らかい。股間には、巨大なしおれたオレンジ色の花が、派手にじとつ
いている。夫が彼女をよけようとすると、夫の肩を押さえつけて死んだほうき売りがかれを捕
まえ、その絶望した白磁の顔でかれを飲みこめるようにした。夫はもう眠れなかった。エスタ
ーがきれいにしつらえてくれたベッドに横たわり、夜中の静けさの中でページをめくり、あく
まが教会に行くと何が起きたかを読み、その間にネコは夫のセーターのうえで眠り、美しく、
Page 128
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ボブと夫が彼女について語った、おせじにはほど遠い会話ににはまったく無関心で、その会話
はレゾリュートのイヌーク老女が語ってくれた話を夫がボブに聞かせた後に出てきたのだけれ
ど、その話はむかしむかし子供ができなかったカップルの話で、そこで二人は北極グマの子供
を見つけて連れてかえり、可愛い子供のように扱ったのだった。雪渓の間の広くてくねった川
沿いに、何年もの時が過ぎた。その平らで泥んこの川岸には普段は雪が積もっている。ジュ間
は育ち、そしてカップルに子供が産まれた。二人が狩りにでかける時は、いつもクマが子守を
して赤ん坊と遊んだという。――老女が言うには、これは老女自身の家族に百年もしない昔に
起きたことだそうだ。――夫は何を信じていいのかわからなかった。ボブには信じられなかっ
た。その証拠としてかれは、ネコが子猫時代はとても人なつっこかったことを挙げた。そして
ネコが車にひかれて腰骨を折ると、ボブはできるだけ優しく看病してやった。獣医が、これは
ダメかもしれないと言ったからだ。そしてその優しさが、夜中の王宮のようにネコには思えた
(ほとんど無人。優しさの白い柱が美味しげに彫られ、その白さから未知の姿が飛び出し、そ
の顔が暗い影で豊かさを増す)。ボブの思ったところでは、ネコは巨大な目をした顔が花壇の
に半ば隠されているのを見て取ったのだ。白いウェディングケーキの一番上のレイヤーが暑く
黒い空にくっきりと映え、それだからボブがネコに会いにやってくるとネコは頭を上げてのど
を鳴らし、大きな緑の目を見開いてうれしそうで、でも元気になったとたんにネコは疎外され
てしまったのだという。したがってボブは、その北極グマも疎外されたはずだと思った。ひじ
をついて上体を起こしつつ、夫は寝てヒゲをひくつかせているネコを見つめ、愛情への鍵とは
何なんだろうと思った。疲れたまぶたの裏では、未だ等式へと固まらない数式の項が延びてい
る。ボブにとってのネコはイヌークの子供にとっての北極グマであり伯爵夫人にとってのゲス
タ・ベーリングであり――だれにとっての夫なのかしら?――バンコクまでの機内で、グレー
のスカートとバーガンディーのベストを着た韓国人スチュワーデス同士が、すれちがいざまに
お互いの尻を叩きあっていたのを思い出した。彼女たちは愛を与えることができる。北極グマ
も愛を与えられる(突然夫は、あの話を信用する気になった)。――朝の三時頃、ちょうど聖
者たちが、伯爵夫人の夫に教会から追放されるのを拒んで、水浸しで雑草まみれで古いドミノ
の駒のような暗褐色で川から行進して出てきた部分にたどりついた時、微かな音がしてネコが
目をさまし、不眠症のエスターが下りてくるのが聞こえた。睡眠薬をのみながら、オーブンの
戸を開けてガスの炎でからだを暖めていて、夫は服を着て彼女を訪ねていった。
エスター曰く、でもあなた、手当たり次第セックスするのはやめないと!
そして夫は頭をたれた。どうしようもないんだ。
そして彼女曰く:それってあなた、エイズにかかったってこと?
そして夫曰く:そうは思わないけど、でもかかるまで続けるだろうね。
31、
冷たい白人娘のからだは、かれのホテルのベッドで夫から離れ、肩が壊れそうな骨っ
Page 129
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ぽい翼のように引き上げられて、その美味な塩味の腋窩に吐息のふくらみ(彼女の首と顔はせ
っけんの香り)――バージンも、首に革サンダルを巻いて眠り(白人娘が言うには、彼女がセ
ックスする度にバージンは背を向け、そのメダルに悲しげに背を丸めて逃げ戻るそうだ)、枕
に黒髪、股間に濃い黒い毛、アジア娘のものより豊かで縮れていて臭気が強い。その目の閉じ
肩が、何かしら視野のクレバスを広く巨大に仕立て、その目玉のような輝きの内の闇にしてい
た。彼女は一度しかやらせてくれない。でも、一晩中やさしく愛撫してくれた。かれは彼女を
抱きしめ、血管の注射針の痕にキスした。朝には、しごいてオスペしてくれた。夫は、過去や
未来を蹴倒す、ことばにならない動物的な歓びをもって、ほっとして勝ち誇って彼女に寄り添
って横たわっていた。おのれの貯金に愛人もう一人。彼女のもとを立ち去ってから一時間後、
彼女に電話すると、彼女は言った。ダーリン、と。
一瞬にして、愛の病がまた勃発し、その忌まわしい紫斑のできものを全開にした。
彼女に関するすべてを思いだそうとした。彼女がしたり言ったりしたすべてを。
ぼくのホテルで会おうか?
いいじゃん。
部屋にあがってくる。
いいけど。
泊まってく?
いいけど。
そうする?
いいけど。
やり終えると、彼女は誇らしげに笑った。あたし、締まりがいいでしょ。
手でしごくながら、彼女は言った。この子、元気いいじゃん。
スタジオで、仕事をすべき時、夫は手の半分で覆ってしまえる、彼女の奇妙に小さい胸のこ
とを考えてすわっていた。ずっと男になりたかった、と言っていたっけ。
すると突然、新妻のことを思い出して、何かが内部で爆発して彼女のことを考えても彼女の
姿を思い浮かべられなくなった。非常な努力をはらって夫は、彼女のガーゼっぽいドレスの虹
色のすそを闇からひきずりだした。その彼女はふわっとして、胸のすぐ下で赤いベルトをして
片手をひざに起き、指をくるっと頬にあて、頬骨はとがって髪の黒さを椅子の背にこぼれさせ
てすわるはプノンペン、眉は逆V字にひそめられている。
32、
寒くて、震えていた。どこかに向かいつつあって、己の存在の必然性に押しやられて
何かをしつつあるような気がした(根っこのひざの間からぶら下がり、カールしているツタの
毛をくぐりぬけなければならないにしても)ので、それはまあ正しくていいことなんだけれど、
でも一体何を?
それは何か秘密の霊的なことで、自分でもまだほとんど理解していなかった。
Page 130
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ただ、それが良いことにちがいないと知っていただけ。それが自分の進むべき道なのだ。
ドイツのパイロット、ハンナ・ライチュの回想記で読んだくだりを思い出した。目的は、そ
れを想像の中で繰り返し実行することで、完全に自動的に、考えることなしに、ほとんど反射
的に飛行機を操縦するための正しい動きを習得することだった。これによって、パイロットに
確信がなかったり、おびえていたり、その他何らかの理由で迅速かつ明晰な思考ができないよ
うな危険な状態を乗り切ることができるのである。
これぞまちがいなく求めている手法だった。この手法の確固たる適用手段が見つかれば、想
像力が自分の先を進んでくれて、安全に愛か、はたまた死へと導いてくれる……
ボブとエスターの家で夕食を食べに、夫は24番のバスに乗っていた。ヒール&サンの二階
では、クリスマスツリーにすでに灯がともり、だれにもわからぬ不安で赤ん坊が泣き叫び、ア
ラームのような金切り声をあげている――これにはいらいらした。実は、何もかも夫を緊張さ
せた。――はしかのように輝く赤信号、タイヤとサスペンションとシート越しにでも感じられ
ると夫には思えた肌触りの舗装上で発進と停止を繰り返すバス(赤ん坊は泣き続けた)。例に
よっての輪廻転生のように、またロータリーをめぐるのを、夫は吐き気とともに我慢した。ち
ょうどその時、パンク式ヘアのブロンドが乗ってきて、彼女のサイドバッグのオプ・アートに
よる魚の骨状の模様を見ると反吐がこみあげてきた。ゆっくりとバスは、霧雨空の下で醜悪ぶ
りをさらけだした、くすんだオレンジ色の窓をした高層住宅棟に接近して赤ん坊は
やだ!
やだ!と泣き、事務弁護士やじゅうたんランドを通り過ぎ通りは店で混みあいだして、それで
夫はホッとした。何か買うものがあるかもしれないし……――静かにしなさい!
と赤ん坊の
母親は言い続けていた。夫は外に目をやり、地下鉄駅の明るいタイルの上を無音でスケートす
る人々を眺めた……
33、
邪悪になる以外のことはやろうとしなさんな!――多くの人はそういう行動をした
し、それはたぶん正しいのだ。ごく一般的な咎の自分への分担以上のものを引き受けることも
なく、そのぽっこりした生を死ぬ多くの人々は。でも夫は、お座敷がかかれば何でもするつも
りでいた……
34、
ボブとエスターのところで、ウィスキーを飲み足りなかった。のどがまだ痛い。通り
の並びのパブはオニオンフライをきらしていた。そして BBC が夫を火照るの部屋から追い出す
ことにした(このダイヤ柄のじゅうたんを敷いた小さな四角い墓場と、毎度のようにすべって
脳味噌をぶちまけそうになった黒い床の隣接する大理石の洗面所。大半をダブルベッドが占め
ていた。夫はそこにこもって熱の小康を楽しみつつ、白人娘がベッドカバーにつくったタバコ
Page 131
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
の焼けこげをいじるのだった)。そもそもそこに夫を入れたのが間違いだったからだ。夫には
もったいないんだか、それとも夫には安過ぎるのかどっちか――たぶんもったいないほうだろ
う。もしここを追い出されたら、白人娘はかれを見つけられなくなってしまう。そこで、たぶ
ん出かけてるとは言われていたけれど、彼女に電話してみたら、母親が出て、あなたはだれ、
電話番号は、どうやって娘と知り合ったの、二人で何をしたのと聞かれた。夫は娘宛に、朝に
電話してくれと伝言した。朝の十一時、仕事に行かなくてはならなかったのに彼女からの電話
がまだなくて、だから一時に昼食で外に出してもらえた時に、そうじしかけの部屋に戻ったけ
れどメッセージは入っていなくて、ひょっとしたらフロントのメッセンジャーがまだ部屋にも
ってきてないのかと思ったが、確認する気にもならなかった。電話したくないのかも。こちら
から電話しようとしたけれど、ホテルがすでに回線を切っていて、再開させるのも手間だった
ので、通り向かいのパブに飛びこんでサム・スミス半パイント頼んだ。スタウトではなくて、
リンゴ風味のやつだ。デブのバーテンは一分おきに身を乗り出して、ピーナッツを頬張る。BGM
が偉そうに流れている。暴飲男が手すりにもたれている。夫はスタジオに遅刻していたが、白
人娘からの電話がなくてとても悲しく、つれなくされた気分だったので、どうでもよかった。
チーズ味ポテトチップ(伝統の風味)を頬張りながら、夫はプロデューサと会うはずの売店
に入ったが、プロデューサはいなくて、そこで夫は長く暑い防火扉つきの廊下をぬけてスタジ
オに行くと、そこでプロデューサが台本を見て顔をしかめていて、夫は声をかけた。売店で会
うはずだったんじゃないの。
いたよ。でも、仕事があったんだ。仕事をしなきゃならない人もいるんだぜ。
プロデューサの友だちが自己紹介を始めたが、プロデューサはそれを遮って言った。ポテト
チップは食べちゃだめだよ。いや、まじめな話。声が枯れるから。
どうせもう、粉がちょっと残ってるくらいだよ、と夫。それを食べ終えて、となりのすてき
な防音室に入った。プロデューサや技師たちは水槽の中に安置されて、窓の背後の幸福な沈黙
の中で顔をしかめたり身ぶりをしたり顔をこわばらせたりして、夫が秒針のめぐる音に耳を傾
けられるようにしてくれる。
青ランプがついた。――OK、とプロデューサ。アザラシ狩り III、スタンバイ!
35、
翌朝、熱があってのどが枯れており、白人娘が何度かせきこんでいたのを思い出した。
ひとりぼっちの夫が目を覚ましたのは五時で、起きあがって水を飲もうとしたが、ほとんど飲
みこめなかった。そうやって七時半まで横になっていた。その病の長い夜の間、ふわふわした
夜具が夫に向かって歯をむきだしにしていた。明るくなりだすと、アイマスクをしたけれど、
それがまぶたを圧すみたいで、黒を背景に激しい白点が見え続けてしまうので、アイマスクを
取ると、白子蟻も落ちついて消えていった。まつげのちらつきが、いらだつほど増幅されて、
果てしない腐敗のかご細工へと編まれた、湿って茶色になったシダのように、かれの頭痛と融
Page 132
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
合するのだった。八時に、白人娘に電話しようかと思ったが、まず朝食を食べることにした。
熱い紅茶で気分がよくなるかもしれない。
ブラッセリー(なぜわざわざこんなご大層な名前をつけるのか、見当もつかなかった)で、
かれは検尿びんサイズの朝食用マーマレード(合成着色料無添加)の栓をあけ、トーストをか
じり、寄せ木細工の床でキュッキュッ音をたてるウェイトレスの靴に耳を傾けていた。マーマ
レードはおいしかった。長いことしてようやく別の客が入ってきた。赤いネクタイとコーデュ
ロイのスーツを着た男だ。夫が目に入ったそぶりを見せぬまま、男は夫を見て取って、部屋の
反対側にすわった。
八時二〇分だった。フロントに、外線電話をつなげさせるのに成功した。そして、母親が出
るのではないかと心底恐れつつ、白人娘を呼びだした。電話は四回鳴った。もしもし?
人娘の母親が、とても心配そうに答えた。――サマンサはいますか?
と白
――いいえ、と母親は、
怒った様子もなく、うんざりした様子すらなく、ひたすら悲しく、あまりに平穏で最終的で、
ほとんど無慈悲と化した悲しみをこめて答えた。母親は、娘とかれが、自分には明かされない
何かをしたか、しつつあるのだということを理解したのだ。母親は決して伝言を伝えてくれな
いだろうし、彼女に会わせてもくれないだろう。
36、
ジョルジェッテ・ヘイエルがお揃いの緑のカバーで、コルタサル(灰色)が何部も、
セリーヌ(黒)、だれか未知の遠くの作家はカバーがあの馬の絵のついたベルギー・チョコの
包み紙のようなメタル・ホワイト。これらが夫を包摂しかけたが、でも自分の追求しているに
もかかわらず思い出せないジャンルの本があるにちがいないと信じ続けた。何か特別なまった
く知らない種類の本で、しかもすごくいい本が……――うん、こっちが小説だわ、と女性。エ
スカレータの音で気が狂いそうだった。悪寒に襲われた。ふらついて、マイヤースバーグを開
かなかった。
マレー語を話そう! と緑の本が叫んでいた。販売員の女性が、英-エスキモー エスキモー
-英辞典のところに案内してくれた。自分でクメール語に関する本を探してみたが、一番近くて
インドネシア語を話そう! だった。夫はどんよりした目で、口をぽかんと開けてタイ語会話、
ギルバート/英辞典、Da Kine Talk を見つめた……
殺虫剤の香る階段を昇りつつ、窓越しに、すすまみれのレンガに開いた別の窓をのぞきこむ
と、他にもその向こうに本を抱えた窓が見えた。本は、クジラの骨を柵に使ったアラスカの墓
地のように、夫からおのれを壁で遮断しているのだった。それが本なのか、それとも何か別の
ものなのかは、もはやどうでもよかった。オマハで見たポーランド市場と、そこのソーセージ
でいっぱいのガラスの棺桶を思い出した。乾燥薫製ソーセージがてっぺん、一面に酢漬けソー
セージで、ビーフジャーキーの袋が堤防となっている。そのソーセージの中の一つ、たった一
つが正しい選択なのだが、夫はそれを選んでいなかった。英-エスキモー
エスキモー-英辞典
Page 133
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
が正しい選択なのかも。そうではないと考えはじめていたけれど、でもそれを買わないのは絶
対にまちがっているだろう。白人娘ともそうだった。もし彼女と寝なかったら、彼女がその白
い仮面を脱いで自分の妻になってくれる気がないことも、決して知り得なかっただろう。夫は
登山家のように汗を流していた。思った:AIDS にかかったらこうなるんだろうな。それから思
った:もう AIDS にかかってるのかも。
37、
ネオンで、キャメロン・レッドの催眠術ショーとあって、夫は思った。うーん、催眠
術が答だとは思わないけれど、でもわかるもんか。ひょっとして問題が全部解決するかも。
ポスターでは、催眠術師は白黒写真で人畜無害に笑っていて、古いレコードジャケットの写
真みたいだった。でもその白い指がのびてつかんでいる。その瞳孔には、恐ろしいほどヒステ
リックで集中した聡明さがうかがえた。
38、
催眠術師は水しみ跡のついた天井の下、カマキリのような形の真紅の蘭模様の壁紙の
部屋でタバコを吸っていた。明らかにかれの楽屋で、奥のドアは直接舞台の袖に続いていて、
そこでコーラスの女のたちがリハーサルをしていて、だれも見ていないし気にもしていないの
に、足をそびえるソテツの木のように上に延ばしている。催眠術師のベッドの下には溶接工具
のセットがあって、それから廊下が洗面所に続いていたが、そのドアはだれかが蹴飛ばすか殴
るかして穴が開いていて、そこに紙がつめてあった(流すハンドルも折れていて、便所を流す
のに三回は引かなくてはならず、それでもうまくいくとは限らなかった)。夫はふと思った。
なぜぼくはあのトイレのことを知ってるんだろう。なぜベッドの下に溶接セットがあるのを知
ってるんだろう。なぜこの場所が見慣れているように思えるんだろう――そしてその時、催眠
術師の目がこちらにもっと飛び出してきて、夫はめまいがして、熱の波でふらふらしてひたす
ら前後に揺すられる感じだった。でも一瞬、ほんの一瞬だけ、この部屋と廊下と洗面所が北極
海にあったのを思い出すことができた。ということは、これがここに存在するはずはないとい
うことで、ということは……――でもその時、催眠術師の目玉が夫の目玉の上にぶら下がって
いた。ちょうど、あと十五分で睡眠薬の効果が出始める時のように、目玉の裏に麻痺感があっ
て、続いて指が重たく、無感覚なゾーンが急速に広がり、今では催眠術師の突き出す光が枯れ
たのどに染み通り、もう感じられなくなった。そして光は頭蓋骨の中でぐるぐると、便器から
はみ出たウンコのようにとぐろを巻き、脳を押さえつけ、血管を戒厳令下の街の灯のように消
し去り、そして夫はすべてを忘れた。
思い出すにはまず忘れなくては、と催眠術師。
夫曰く:ぼくは何かを探しているのに、未だにそれがなんだかわからない。
Page 134
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
忘れるんです、と催眠術師。
夫曰く:結婚したのに、相手がだれだかわからない。
忘れるんです、と催眠術師。
夫曰く:だれかを裏切って、自分がどこにいるのかわからない。
催眠術師曰く:いかにして、なぜ、というのは?
忘れましたね。いいジャーナリストは必
ずその五つの質問をするはずです。どこで、だれが、なにを、いかにして、なぜ。
あんたが忘れろと言った。
それは言い逃れだ。彼女の名前は?
ヴァンナ。
彼女の名前は?
ヴァンナ。
彼女の名前は?
お――思い出せない――
忘れるんです、と催眠術師。彼女の名前は?
だれの?
ぼくの名前は?
自分の名前が思い出せない。
忘れるんです、忘れるんです、忘れるんです、忘れるんです……
夫曰く:自分の胸が閉じた鉄の扉で、そこに胸で接していて、そいつを自分の胸か頭でぶち
開けなきゃならない感じなんだ。その中にぼくの心かぼくの恋人の心が入っているから。
なにかが触れた。なんだかわからなかった。魚っぽくて銀灰色で、毛足が短く柔らかくてア
ザラシ革のカミックみたい。
催眠術師は、夫を自分から連れ出してくれた。ちょうど小川がささくれた木々の間で岩をう
がち、己の割れ目を一層深くすべりこんで、太陽と空間、白い光という欲望へと流れこめるよ
うに、そして眼下の緑の木々の群れの中へと消え、そこはそびえ傾き曲がる岩壁にはさまれ、
赤みがかったトカゲ状の崖で切断され、そこはあの砂漠の滝という自殺的奇跡を宿している。
そして自分が幅の広い階段を下りて湖に入っていくようだった。今やなまぬるい水が足首を洗
っている。もうひざまで来て、ぬるぬるした雑草が冷ややかにこすれてきた。腰まで入り、睾
丸が冷たさで縮んだ。胸が沈む頃には水はどんどん冷たく暗くなってきていて、階段もすでに
白くなかった。黒かった。催眠術師の血の気のない手が夫の手を引いて、もう三段下らせたの
で、水がのどまできて、獣臭かった。離婚した妻がそこで溺れて腐っていた。催眠術師はもっ
と深みへと引っ張り、夫の顔が水に入った。過ぎ去った呼吸の世界に残っているのは水面に浮
いた髪だけ。そのままどうしようもなく浮いていそうなところを、黒い鉄の階段がヒルのよう
に足の裏に吸い付いて、浮力を夫から吸い出し、さらに催眠術師がかれを引き下ろす。なにも
かも濁って波立ち泡立っていたけれど、何かがヘビ使いのところにいる鎖につながれたマング
ースのように邪悪な輪を夫のまわりで描き、催眠術師の勃起が口につっこまれた。それはピン
クのメーサで、その上に青い腹の嵐雲が、ちらつく細い稲妻の筋とともにぶら下がり、そして
遠くの暑い高原から、夫は地面と雨の枝で結ばれた他の雲を見ることができた。すると夫は、
Page 135
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
暖かくて風の強いロンドン地下鉄の洗面所タイル張りトンネルの中を高速で移動していて、黒
レオタードの細い脚がたくさん見え、そして催眠術師が耳元でこうささやいていた:目が覚め
るとこのすべてをあなたは忘れます。忘れるんです。――夫は息が詰まりそうで、催眠術師が
夫の首を絞めていて笑いながらこう言った:よろしい。さ、ミルクをおのみ……
一度代償を支払ってしまえば、一度ヴァンナが金をもらってやっていることをやれば、夫も
向こう側に行けて、彼女を今までとは段違いに、もっとよく、もっと完璧に見ることができる。
ヴァンナは闇散る中で必ずしも微笑んではおらず、朱唇色の爪が、リンゴ赤の唇をバックにギ
ラつき、夫を見つめる大きな目の瞳孔は黒目の中で純粋な光の真円。そう、彼女はこちらに微
笑みかけていた。闇から出た、けだるい悲しいおずおずとした微笑。口の端、指のちょっと先
のところに湿り気が光る。それをなめて AIDS になりたかった。きらめく肌のヴァンナが、優し
く笑いながらこちらを見て、何をしようとも夫を受け入れてくれている。あごがほとんど拳骨
にのっかっているようだが、でも両者の間には闇があった。日差しのようなまつげの闇が、不
思議な呪われた新妻から――かつて結婚し、もうたぶん二度と会うことのない新妻――妻、妻、
妻!――自分の手紙への返事がくることはないものとわかっていたけれど、でももしカンボジ
アに戻って、ディスコや、足の指の間で死体まじりの泥や骨の破片がにちゃつく、どこかの名
もない水田で彼女を見つけたら、彼女は同じように優しく、疑いを知らず、悲しげに笑いかけ
てくれる。そしてもし夫が去っても、あるいはそもそも行かなくても、二度と夫のことなど考
えないだろう。ホテルの部屋を紫外足音をたてつつ歩み去るヴァンナが見えた……
39、
気分は上々?
と催眠術師は、平静でやせて褐色の肌で青い歯医者の看板の下にすわ
っていたが、その看板は巨大な輝く三つに分かれた歯根つきの滅菌歯の隣にピンクのふたつき
の顎が並んで、両方が空色の輪で囲まれているという、いやまったく大した看板だった。――
ええ、ありがとう、と夫。かれは礼儀正しくそつなく褐色の肌で笑い顔すべてを通り過ぎて出
ていった。婦人が小さな男の子と女の子にカスタードをスプーンで食べさせていた。自転車に
乗った二人が、濃い緑の包みでいっぱいの荷車を引いて通り過ぎた。別の自転車乗りは、生き
たニワトリを六羽腕の下に抱えていた。歩道では、子供たちの前で婦人が薪をなたで割ってい
る。支那の磁器のような顔をしている。その向こうには竹を相互にたてかけた黄土色のトンネ
ルが茶色の小川の上を続いていて、その闇の向こうの端にはホテルの部屋を後にしたヴァンナ
が夫を待っているのだった。
40、
気分は上々?
と催眠術師。雪に縁取られた窓は、クオンセットの小屋の壁に己を複
製せんと貪欲に努めていたが、その外では日の出があの最も淡いラベンダー青空の、黒ずんだ
Page 136
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
黄色の壊死に反射し、そして雪はそれよりもう一段淡くて、朝はあのはしごつきでてっぺんに
雪の乗ったの低い黄色のトンネルのように黄色かった。滑走路のビーコンは落ちついていた。
紫の蒸気が東に動いていた。暗い色のカバーオールの男立ちがターミナルのまわりを囲み、コ
ーヒーを飲んで、この日曜の朝にもっと貨物が到着するのを待っていた。もう一つの窓のすぐ
外では、主ビーコンが慎ましやかに光っていた。金属の取っ手と緑のドアを照らして光り、取
っ手を白く、ドアを明るい緑がかった黄色にする。あのケネディ上院議員暗殺犯のサーハン・
サーハンは、精神異常で無罪を主張する中で、まさにこの無意味な点滅こそが自分の魂の邪悪
なトランス状態を引き起こしたのだ、と頑固に主張した。したがってかれは、己の欲望を達成
するのに催眠術師を雇う必用はなかったわけだ。夫は汚れた雪山のてっぺんでサーハン・サー
ハンと会った。サーハン・サーハンは智恵遅れの少年で、その赤紫っぽい顔は黄色い歯で武装
されていた。そしてそのこぶのある頭を、まばたきもせずに何度か痙攣させると、鳥のような
金切り声を挙げた。――もうおまえなんか恐くないぞ、と夫。命を捨てても惜しくない人がで
きたんだ。――消火器と公衆電話二台が、未だにホメオスタシスを保つべく控え、寒さと寂し
さなど存在しないかのごとく、人々を生き続けさせようとしていた。オレンジ色の日光のきら
めきが、外の暗い建物をさらに高くよじ登った。雪まみれの雪屋根が、音楽のメジャーのよう
にごちゃまぜのパイプや電線を芽吹かせていた。労働キャンプの向こうには氷があって、さら
にもっと氷で、そしてその氷の涯てには、結婚しそうになったイヌーク娘が待っていて、今や
夫にはそれがヴァンナなのがわかった。
41、
気分は上々?
と催眠術師は、パーキング娼婦のもとへ、性転換娼婦のもとへ、街角
娼婦のもとへ、母親が泣き続けたイギリス娘のもとへと聖なる婚姻でかれと連れだって歩き、
それがみんな柱の上の枯れた茶色のシダみたいにヴァンナと似ていて、一度に塩されて乾燥さ
れたサーディンの一群みたいで、長く茶色い気根を髪の毛のようにだらんと垂らした木の群生
みたいで、濃くかび臭くチョコレート色。やっとたどりついたトンネルの出口では、巨大な竹
製のうちわが霧の中で錆びた緑色にそびえている。枝が何本か小川をまたいで向こう岸を突き
刺し、高く細い橋を作っている。ツタは巨大なギター弦のようだった。彼女は初学者用に彫り
こまれたような、目立つ葉脈を持った「教科書」葉の茂みに立っていた。彼女は一枚手にとっ
て唇にあててこちらに寄こし、すると葉脈はくねって変化して、まず昔の妻の名前を描き、続
いて頭蓋骨のようなもの、そして目玉、銃弾、ワニ(クメール・ルージュは彼女の叔父をワニ
に喰わせたのだった)。
42、
全体として夫は(これらのどれも覚えていなかったので)、マーフィーズ一杯と野菜
Page 137
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
スープのほうを信じたい気分だったから、最寄りのパブに行った。――乾杯。――(ビールの
タップの前に控えたポニーテールの老人バーテンは、自分ではびんビール以外は飲まないと言
った)。一息飲むごとに、すわっていた赤いビロードのソファはますます居心地よくなった。
珍妙な海のエッチングを見て、気に入った。――よぉ!
スの音っていいよな!
と常連が一人で叫んだ。割れたガラ
――白いタップの取っ手は、未知の風味を約束してくれていて、それ
は未知の本や女よりももっともらしかった。というのも夫にとって本や女は、実際にはすでに
知られていたからだ。それに引き替えイギリスの飲料については無知蒙昧。スモッグ色の泡の
最後の一群が、おいしくのどを旅して消えた。
43、
AIDS になると、最初にまず流感で倒れる、と賢い友人の一人が言った。それから流感
が治って、元気になったと思うんだ。しばらくは確かにその通りなんだけれど、でも AIDS にな
ってる。
だから何日かして熱がさめると、その清々しさはレモンアイスのように心地よく爽快だった。
この歓びに慣れてしまって、これが平常になってしまうとはなんと残念。まるでドラッグに中
毒するみたいだ……
気分最高、と夫はつぶやいた。もちろん AIDS なんかじゃないとも。
44、
夫はホテルの窓辺に立ち、灰色の縁石とタイルの間から角のパブの、ゴムのような光
で半ばなめらかになった、囲まれて霜だらけの窓を眺めていたが、人々の踵が舗石をハンマー
のようにたたきつけて、耳から血が出るかと思った。冷たい空気にせきこむ。でも、二度とこ
の光景を見ることがないかのように、立って見続けた。白人娘を見ることは二度とないのは確
か。パブの前で、男二人と女一人が一瞬足を止めた。すると男の一人がさっと腕をあげて、一
同は歩き続けた。車のヘッドライトがかれらの肩越しにあふれる。地下鉄から、母親がこう言
うのが聞こえた:じっとしててよ。じっとなさいったら!
ひっぱたかれたい?
――男と女
が、夫の視界を横切って消えた。二度と見ることはないだろう。BBC は、今日にでも金を払っ
てくれそうだった。イギリスを発つ前に小切手を渡すと言っていたけれど、それはあまりあて
になりそうになかった。夫はしょせん小物だった。でも、じきに払ってくれるだろうし、払い
さえもらえれば、妻を連れにカンボジアに行くだけの金ができる。きちんと興奮するには疲れ
すぎていた。頭の右側が、はじけそうだった。耳から液体がじくじく流れ出ている。のども異
様に腫れていて、飲みこむこともできないくらいだった。無意味な些事がことごとく感覚を突
き刺しながらも、何の記憶も残さない。催眠術師にそうされたのだ。夫はアシアナ航空のター
ミナルにあるオレンジと青の照明つきロゴを、長いこと見つめていた。六角形と楕円の中間く
Page 138
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
らいの形で、さまざまな輝度の菱形タイルでできている。その形を頭の中で解析しきれず、精
神は見た物を理解するためにはそれを描き直さなくてはならないのだろうか、と思った。目を
閉じると、精神が疲れて破棄していない、無数のイメージが見えた。その鮮明さが、子供時代
を思わせた。だんだん歳をとるにつれて、視覚化する能力を失ってきたのだ。訪れたとき、韓
国は夜明けの頃で、その真の名前、ハングク、朝の平穏さの国という意味にふさわしかったの
だけれど、でもトランジット・ラウンジにすわって、うなるジェリービーンを主人公にしたマ
ンガを無視しようとしていると暗くなってきて、そしてアシアナタイルの一部の白さがわかる
ようになってきた。異境の山々が闇に消える――といっても、山ならそれまでにも見たことが
あったからさほど異境でもなかったのだけれど、でも旅すればするほど、何もかもが異質にな
ってくるのだ。――そしてバンコクに戻る。またまた小さなテーブルに皿が山積み。牛の頭だ
かなんだかを食べた。男がシチュー鍋からそれを引っぱり出して、厚さ五十センチのブロック
の上でそれを刻む。夫はいくらとかなぜとか尋ねなかった。その人たちは飯を持ってきてくれ
た。かれはヘリコプターの単調な二重心拍越しに、スプライト、とつぶやいた……そして再び
カンボジア、雨降りのジャングルの丘を奇襲しつつ登る時に腹に感じる冷たい濡れた感じのよ
うに、頭上ではねちらかしている。夫はディスコに行って、テーブルがいつになくくっつきあ
っていたので、女シダのじゅうたんに膝まで沈み、細い縁の鋭い小道に捕まってそこでは他の
娼婦たちが夫を狩り、手をつかみ、隣のべたつく椅子に引っ張りおろし、そこで夫は彼女たち
にタイガービールを買ってやらねばならず、闇は一層暑く騒々しく、音楽は轟きわたって聞き
取ることもできず、他の男たちの吸う、サルノコシカケみたいに突き出す葉を左右につけた、
巨大な柱状の幹となってたち上るタバコの煙と同様に、全部吸いこむしかなかった。そして写
真家の女が夫を捕まえて、自分を買って写真家にプレゼントしろと言う。それから支那磁器顔
の娘が夫の寵愛を求めてひっそりと騒ぎ立て、夫の目にとどく前に光を貪って、ダンサーの中
にヴァンナがいるかどうかを確認できなくしていた。でも、夫の貧相な視力を知っていた写真
家が、彼女の写真を配れるように百枚も焼き増ししてくれて、そこで一枚を写真家の女に顕彰
すると、彼女は子供が拷問にあっている母親のように嗚咽しだして、支那磁器顔の娘に一枚わ
たすと彼女はそれをびりびりに引き破き、微笑みながら、悪夢の歓びの女王のように、どんど
ん近くへと漂ってきた。用心深く、かれはスプライトを買ってやり、五百リアル握らせたけれ
ど、でも彼女は去らなかった。その腕が、地衣類がポツポツ散った痩せた木のように、夫に固
く巻き付いた。ヴァンナはいない!
ヴァンナはそこにはいなかった!
かれはダンサーたち
の間をさまよい、彼女の気持ち悪いほど甘いフェイスパウダーをかぎ取り、彼女の三角形の顔
の光沢を探し求めたが、彼女はいなかった。寺院にいって、子供たちが回りに群がってこちら
を見つめ、一人がプラスチックの刀を持っていて、一人はにっこりしていて、一人は目をぱち
くりさせ、一人はよりかかり、一人はほとんどはだかで、みんなもじもじしている。みんな、
金をせびりながらも自分のサンダル履きの足を見おろしている。かれはワット・コルグにいた
――そうだな、クメール・ルージュによる被害が少々だけれど、仏壇は、その石製の花の乳首
や、幾重にもなったカエルの舌のような、同心円状のカーブを描いた多角形が何列も繰り返さ
Page 139
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
れているのは残っていた。上薬のかかった像が二つ、一つは脚を座禅に組んだ女性で、唇と目
玉だけに色が塗られている。ヴァンナじゃない。もう一つは入念な彩色がほどこされた男の像
だった。夫はヴァンナの写真を取り出して子供たちに見せたが、みんな無表情で見つめるだけ
だった。かれは続いてワット・スヴェイ・ポプターに行った……カンボジア中の寺院に行って
から、続いて全水田へと乗り出して、暗い天井の下すべてをのぞきこみ、ハンモックとと自転
車の車輪すべてをチェックし、顔が様子をうかがう中、土間に並んだサンダルすべてを調べて
彼女のがないか確かめたけれど、彼女はいなかった。そんな家だらけの村を丸ごと調べてまわ
った。流民たちが、ニワトリの上にすわっていた(プラットホーム上には二つ割りのココナツ
とサロンガ)。頭を青っぽく剃られた男の子がいた。その子はサルを鎖でおさえてヴァンナの
写真を傷めないようにしてから言った。彼女はポルポトが重火器で集中爆撃した場所から逃げ
た。第一回目、ポルポトきて彼女の村を攻撃した。それから三日か四日、重火器で爆撃した。
彼女はマラリアでここ死んだ。ご愁傷様です。――夫は思った。もしヴァンナが死んだのなら、
帆船山で暮らしているかも。帆船山について夫が知っていることといえば、クメール・ルージ
ュがそこで数千人を殺したということだけだったが、それで十分だった。あり得なくもない話
だが、彼女は実は残虐行為のまわりをさまよう地霊で,あの巨大な緑の岩(連中が犠牲者を投
げ落としたところ)の根もとに生えた、ヤシの木の湿り気のように居座っているのかもしれな
い。そこでかれはぬかるんだジャングル道を運転して、ほとんど修理されていない橋を渡り(運
転手はミラーで金歯を光らせた)、うち捨てられた家を過ぎ、湿気を吸いすぎて握るとスポン
ジのような木の幹を過ぎ、マントヒヒのアヌス的な赤みのかかったナッツのカートリッジベル
トが掛かった、縁取りつき緑の葉の日除けを過ぎる。というわけでやってきた白い階段(一部
は巨大なカタツムリの殻の装飾つき)は、かつて殺された者が、すでに針金で後ろ手に縛られ、
昇るよう説得されたもので、夫はその緑に覆われた、洞窟で冷えた崖を、雨空へと上昇した。
彼女はそこにもいなかった。一瞬、ずっと昔、まだ蝶少年だった頃に見た本を思い出した。殺
されないシナの五人兄弟の本で、その中の一人は絶壁から投げ落とされても、落ちながら空中
で微笑んでいた。――ヴァンナ、ヴァンナ!――と夫はつぶやいた。やれやれ、別の妻と寝て
いた頃の夢とはちがって、この岩の上のジャングルの丘から叫ぶ骸骨はないようだ。ひょっと
して別の妻が、ぼくの夢を歪めて拷問にかけて、ヴァンナを見つけられないようにしていたの
かも。でも彼女だって完全に虚偽ばかりの夢を夢見させることはできないはず。ひょっとして
ヴァンナはマラリアで倒れて入院してるのかも。――あら不思議、黄色いコンクリートの建物
群がもう一組、床は格子縞で、夫の愚かしいどうしようもない人生のようで、白いクロス張り
の内壁(かつては赤いガラスだったのかも)、中庭では焚き火、ジャスミンの香り。女の子が
半裸でベッドに横たわり、寝ていた。彼女じゃない。女性がとてもゆっくりと床を掃いている。
タイルは一部灰色だった。まだ白いタイルもあった。ブラインドの間から、淡い光がにじんで、
それが陰気な暗い木製の寝台と、闇とコンクリートにまぎれる。女の子の茶色の足が毛布の下
からはみだしている。彼女じゃない。色つきシーツにくるまって女の子が三人身を寄せあって
いる。よごれた寝台の上に女性がかがみこんでいる。点滴ヘビにつながれた色の黒い女性が、
Page 140
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
青ざめて微笑む(彼女じゃない)、看護婦が色の黒い女性の顔の前に手を出す。茶色い赤ん坊
が一人、別の赤ん坊が泣き出すのにつられて泣き出す。兵士が自分の赤ん坊の横にすわり、サ
ンダル履きの足をもじもじさせている。ヤシで編んだうちわで、とても優しく赤ん坊をあおい
でいる女性。看護婦は色黒女性の前から手をどけて、するとそれはやっぱりヴァンナだった。
夫は駆け寄り、かがみこむ……彼女はちょっとうなずいて目を閉じた。熱で燃えるようだった。
妻が、死にかけているのだ!――ポケットからガラス瓶を取り出して、純粋北極氷のつぶを食
べさせてやった。握っている手は、ほとんど重さがない。顔から熱の紅潮が消えるにつれて、
手が冷えるのが感じられた。――あいしてるわ、と彼女――看護婦は、点滴ヘビを取り外した。
夫は妻の心臓に手を当て、彼女の胸の間の汗だまりが蒸発するまでそうしていた。彼女は静か
に、だが必死で口から呼吸をはじめ、そしてその唇が閉じ、愛しい目が開かれ、彼女は自分の
のどを指さして、ようやく夫は、水をほしがっているのだと理解した。とびあがって水差しに
水を満たす。水は淀んで濁っていた。それをコップに注ぎ、最後の氷粒を振り入れると、一気
に冷たく澄んだ。それを飲み干すと、彼女は夫に微笑みかけ、それは黄金のブレスレットを買
ってやった時と同じ微笑で、世界の嘲笑を嘲笑する微笑だった。それから彼女はゆっくり起き
あがって、狭いベッドの自分の隣に夫のすわる場所を空け、腕をまわし、その摩擦音の多い声
で不思議な悲しい歌を歌いだした。頬を彼女のに当ててみる。熱はない。彼女は笑って夫をつ
ねった。夫を引っ張って立たせると、二人で病院のその場で踊りだし、そして他の患者も全員
癒された。彼女は夫の手を取り、二人で病棟を歩み出て、焚き火が消えてジャスミンの香る中
庭を抜け、他の黄色いコンクリートの間を通り、白十字を過ぎて門を出て、そして二人は悲し
い場所を永遠に後にした。白く渦巻く波頭、それが砕けて泡がこぼれる空色の海。波しぶきが
果てしなく打ち寄せる様は灰色のリボンのようで、堆積した白から微かに黄色が混じり、非常
に淡い空色へと色を変える。いま、彼女はおなかが空いたと身ぶりで示したので、二人は夏の
コケの中を友人たちとカリブー狩りにでかける。赤黒いアザラシ肉の塊が木の枠にかけて干し
てある。愛しい妻は最初寒がったが、でも子供たち(彼女のような銅色の顔)が、氷のような
岩だらけの流れの中で笑い、魚を捕っているのを見ると、彼女も水田の水に映るヤシの木のク
モ状の緑を忘れだした。みんな彼女に親切。老婆たちは彼女にアザラシ革の手袋を作ってくれ
た。生肉の味も覚え、凍ったステーキをノコギリで切り取ることも……長く低い崖の突端が軽
く雪の上に乗り、それが雪のふきだまりをクッションにして、そしてダンプでぶちまけたよう
な雪が、散らばった家に青い湯気立つ荷をぶちまけさせて、それらは出ながらキイキイ言う。
凍った海を指さしつつ、夫は笑い、二人の秘密の万能言語で彼女に言った。プノンペンのあの
木の屋台を覚えてる?
売ってたのは不格好な氷の塊だけで、それを錆びたノコギリで切って
たよね。そして彼女は何も言わず、それはもしかすると、あの氷粒のことを覚えていたかった
からかもしれず、あるいはそもそも彼女が何も言わないからかもしれず、ただ夫にもらったカ
リブーの脂身をかみ続け、夫と並んで源の知れぬ川を縁取る低い崖に沿って歩くのだった。ほ
とんど正午。低い太陽と澄んだ空が、朝と夕暮れの抑えた透明性を、不気味にも兼ね備えてい
た。靴底のすべすべしたアザラシ革のカミクを履いたまま、彼女はスポットライトの光線でき
Page 141
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
れいに掃きならされたような氷の上で、あの変な楕円の雪靴を履いた。彼女が倒れる間もなく、
夫は彼女の腰に手をまわした。かすかな微風が彼女の頬を凍えさせだしているのに気がついた。
彼女の顔を優しく手袋で包み、息を吹きかけると、くすぐったくて彼女はクスクス笑う。血の
気が戻ると、カンボジア式に、唇を寄せながらからかうように小さくクンクンと息を吸いこむ
キスをして、彼女は嬉しそうに息を吐く。かれと彼女は双子のシロクマ……――夫は言った。
さあ、きみをぼくの家に連れていこう。気に入ってくれるといいな、だってきみの家でもある
んだから(夫は写真家にきいた:この家を見たらヴァンナはどうすると思う?
そして写真家
はあたりを見回してにやにやしながら言った。その場で漏らしちゃうだろうよ。もう心底おま
えにべた惚れだね。あの子の感覚からすれば、おまえは億万長者だもん。この家を一目見たら、
もう二度と絶対おまえから離れないって!)――そうやってオッター双発機は雪の中にとどま
った。トマトの赤のクオンセット湖やから蒸気が立ち昇った。大ガラスが羽ばたく。青い雲上
に日の出。針金を過ぎて双発機は地味な角度で離陸し、ベロアの丘を後にする。夫は彼女を窓
側の席にすわらせて、彼女は窓から顔を離せない。本当に美しかった。一つの天国から別の天
国へ、風光明媚なルートで向かっていて、それは夫が、彼女に初めて家の鍵を渡して寝室に案
内し、並んで眠りにつく最初の時をなるべく先送りにしたかったからだ。(ちょっと奇妙なこ
とに、自分が眠るのと同時に彼女も眠るのを想像していた。セックスすること、初めてスーパ
ーマーケットに連れていくこと、初めてエレベーターに乗せてやること、アイスクリームを味
見させること、服や金の指輪やサンフランシスコの急な坂を登るための赤いバイク(股間のフ
レームには彼女の名前が金で彫りこまれている)を買ってあげること、これはいずれも先の見
通しとして楽しみなものだったけれど、でもなぜか、眠りこそが真の木で、その幹は百の根、
そのそれぞれの根が、腕ほども太くて、それぞれ別の幸せに相当して、すべてがパイプのよう
に絡み合い、白い花と青黒いイチゴのなる眠りのツタに覆われているのだった。疲れていた。
気分が悪かった。眠りたかった)そして飛行機は砂漠に着陸。峡谷の谷間はすべて川で、冷た
く、緑で浅くて、一番低いオーバーハングにいつもの意外な代物。灰色のシダが鍾乳石のよう
に垂れ下がっているのだ。その陰には最後の涼しさがあった。その後は、四十五度で立ち上が
る別の崖から巨大な木が生え、常緑樹と淡い緑の処女林が空間によりかかって、手の届かない
川から、せめて蒸気だけでも飲もうとしているかのようだった。男と女が膝を開き、ゆっくり
と流れをかきわけてさかのぼっていた。女はびしょぬれで泥まみれ、透き通った蝶のヘアクリ
ップをなくしたらしい。でも穏やかで幸せそうだった。彼女から影のように波紋が生じていた。
ときどきつまづいて、すると男が腕を貸し、彼女は微笑んだ。彼女の虹色娼婦ドレスは、豪華
で派手なトンボのように輝いた。彼女の膝から躍り上がる川の水滴は、あらゆる色を水晶のよ
うに反射。かつて、彼女が臭くてべとつく漆黒の小道を歩いてきた時には、あんなにドラマチ
ックに見えたピンクっぽい赤、カンボジアにはまだない、街灯の光輝のような黄色の洪水、か
つて闇の中で胸と腹を下り、衝撃を与えた電気の青みがかった緑は、今は夏の川の水の色、日
中に人工光が常にそうであるように、ちょっと悲しげ……彼女は恥ずかしそうに微笑んで、夫
の手を握っていた。彼女のイアリングは、水の中を歩くにつれてリズミカルに輝いた。雲母に
Page 142
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
あたる日光のように輝く。渦を見かけるたびに、夫は彼女の細腕をとって支えてやった。細い
腰に手をすべらせてまわした。(もちろん実際には彼女はこんなことすべて嫌がっただろう。
カンボジアでは、わずか二ブロックでもバイクを使いたがったし、その時も夫のいっしょのバ
イクにさえ乗ろうとしなかった)眉の逆V字が、強い日差しの中で黒がかった金に輝く。日光
が頬で光る。――カラシ畑の黄色い反射、そして蛍光色の白いハコヤナギ、そして灰桃色から
もっと灰色がかった緑の尾根が、小さな青い木のボタンで飾られている。夫は砂丘の深い切れ
目の向こうに隠された、二人の新居に彼女を連れて行くところだった。切れ目は狭くてかろう
じて案内できるほど。彼女が疲れたので、ユタの青い砂漠、ネヴァダの黄色い砂漠、カリフォ
ルニアの灰色の砂漠を越えて運んでやり、彼女を楽にしてやれるのが嬉しかった。何もかも見
せてやった。お互いの影さえ受け入れないほど超然としてよそよそしい摩天楼の間を安全に導
き、ゴールデン・ゲート・ブリッジの赤い橋脚の下へと連れて、いっしょに霧に彩られた湾や
マリン岬に感嘆する。愛しい妻を肩車して、キンポウゲやシダ、草やラズベリーが編みこみセ
ーター状になった急な坂をのぼる。彼女は足を止めて、敏感なヤマアラシのとげやアンテナ林
のように心配そうに震える、風に吹かれた草からバスケットを編んでくれ、頭上を車が走り去
ってはちらちらと見えかくれして、水面に橋が映る……さあ、眠る前にスカルラッティのソナ
タK 95 番、あのわくわくする嬉しそうな女性的急テンポのビートは、穏やかでないので他のだ
れも結婚行進曲に仕立てようとは思わない代物。夫はひたすらすばらしい曲だと思った。短く
て素晴らしい、まるで恋人のもとに走る女の子みたい。彼女は、こんな遥か遠くの地まできて
自分が恥だと思われているなどと思いこまぬよう夫の親戚一同や、これまでの知り合いすべて
を集めた教会で、かれのもとに駆け寄りった。通路をだれにも腕をとられずにやってくる彼女
を、かれは世界中に見て愛してほしかった。クラビコードが百万天使の鼓動のように響き、あ
るのは歓びだけ……夫は窓を閉じた。そしてもう一度開けると、目に入る急傾斜の日除けやて
っぺんが三角の窓は、あのロンドンの街路。気分は上々?
と催眠術師。
45、
どちらから来ました?
とアメリカ税関の女性。
ロンドン。
はあはあ。あ、ちょっと。ほかに荷物はありませんか?
いいえ。
かれの通関申告カードに、女性は CET と書きこんだ。
これですぐ通してもらえますよ。さもないと、荷物がないので怪しまれますから。
どうも。
いえいえ。
出口でカードを集めていた女性は CET の文字を見て凍り付き、そして夫を特別係官のデスク
へと送りこんだ。
Page 143
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
どちらから?
ロンドンです。
滞在期間は?
一週間。
旅行の目的は?
仕事。
どんな仕事?
取材。
バンコクにいたんですね、と税関の男は、かれのパスポートを面倒くさそうにめくった。今
年の初め?
ええ。
どうでした?
よかったでしょう。
まあ、そこそこ。
わたしはバンコクで十年暮らしてましてね。
バンコクのどのあたりです?
言ってもわからんでしょう。たぶんあなたが知ってるのは、パッポンとショッピングモール
くらいでしょうから。
ショッピングモールって?
と夫は傲然と言った。
税関の男はバックパックを開けて、中身をぶちまけていた。夫の汚れた下着をものともせず、
しわの一つ一つを優雅に押さえて、密輸品を探しているかれを、夫はほとんど尊敬した……
そして夫は思った。ぼくがこいつらから見て不審人物になったのは最近だろうか、それとも
ずっと不審人物に見えてたんだろうか。
係官が釈放してくれるまで、かれは夢うつつで立っていた。
46、
もしもしシエン?
電話をくれってことだったけど。
ええ。お知らせあります。われわれはカンボジアにコンタクトしてディスコに行ってあなた
のタクシーガールの写真を見せて、そんな娘はもうだれもそこ働いていない言うそうです。そ
んな娘は一度もそこ働いていない言うそうです。
もう働いてないって?
ええ。いつ働いてたですか?
ずっと前ですか?
九月。
九月はずっと前ないです。わかりません。手紙重すぎたかもしれませんね。あなたの写真四
枚と彼女の写真四枚入れました。プノンペンについたらわたしのコンタクト、彼女の写真一枚
とあなたの写真一枚しかない言いました。手紙重すぎた。
Page 144
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
彼女、死んだと思う?
わからないです。知らせがないのは不十分な知らせかも思います。別の方法試しましょう。
47、
その頃には、その他無数の影響による不気味で逆転した点描画法によって、ヴァンナ
のイメージは夫の心の闇の中に、消えゆく原始星の塵のように、分解して霧散してしまってい
た。その晩、夢の中で、何年も会っていない女性の姿を見た。白人女で美しい顔をしていて、
かれがずっと愛し、かれのことを一度も愛さなかった女性。その幻影で、彼女はかれに何も言
わず、愛情をこめてかれの顔を見つめ、それだけで十分すぎるほどだった。現実の生にあって
は、この女性は死にかけているか、すでに死んでいた。
Page 145
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
回答
われわれの理性が向上するのは、情熱の働きを通じてである……その情熱は
さらに、その起源をわれわれのニーズに持っており、そしてニーズの増大は
科学の進歩に依っているのだ。
ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』 (1755)
採血係は針をさす前に白いゴム手袋をはめた。カルテ用に質問をするとき、目の焦点
を夫にあわせなかった。彼女が終えると医師が入ってきた。体育教師のように背が高くて筋肉
質。ドアを閉めもしなかった。
ズボンぬいで、と医師。
夫はドアを見た。
脱ぎなさいったら。
夫はズボンを脱いだ。
医師は怒っておぞましそうな顔をして、白手袋をはめた。
先生、何かあります?
息を深く吸って。
医師は採取管を夫の尿道に叩きこんだ。突然のすさまじい痛みに、夫はうめいた。医師はほ
とんどにっこりしかけた。
先生、ウィルスがいる確率はどのくらいだと思います?
知りませんよ。あなたがどういう生活をしてきたか知らないんですから。知りたくもないで
すけどね。
半々くらいでしょうか。
いろいろバカな真似をしてきたんでしょう、と医師は、何か表に書きこんでいた。
医師は立ち上がり、軽蔑したように箱を投げてよこした。――コンドームでもどうぞ。奥さ
んにはまだ希望があるかもしれないから。
Page 146
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
わたしならそんなニヤつきませんけどね
かれはすべてが時間通りに進行しているのを知っていたし、それを感じた。
手を出す必用はなかった。彼らはすべてを自ら承知していた。手を出せばみ
んなが不安がるだけ。彼らはいいやつらだった。
ヤロスラフ・ゴロヴァノフ
『セルゲイ・コリョロフ:宇宙パイオニアの修業時代』 (1975)
1、
グレイハウンドのプラットホームの空中に、小さな黒い害鳥が羽ばたき、それから金
網ごとに傷だらけの窓の向こうを飛び回つのを見ながら夫は思った。あと数時間で、ぼくの人
生は一変するんだ。
停車中のバスが左右に並んだコンクリートのトンネルを下り、ベイブリッジを越えると、窓
から見える橋桁の銅輪の繰り返しに吐き気がした。淡く輝く青っぽい白っぽい灰色の水がかれ
を見つめた。疲れ切っていた。
クリニックについて、一時間待たされてから言われた。番号が一致してますね。
そうですね。
するとここにある通りです。HIV 抗体反応陽性。あなたはウィルス保持者です。
やっと宝くじにあたったわけか。すばらしい。最高だ。とかれ。
わたしならそんなニヤつきませんけどね。
でしょうね。あなたならね。でもあなたがぼくなら、ぼくはニヤつきますよ。あなたがどう
いう反応を示すか、是非とも見てみたいですよね。
こちらは AIDS 関連資料ですので、ご覧になるといいかと……
ああ、AIDS になるのに必用な資料は全部そろってますから。
ずいぶん嬉しそうですね。
だったらあなたも喜んでよ、と夫は笑った。そしてニコニコしながら外に出た。
2、
魚のヒレをむしり取り、切り離した体組織をエポキシで固め、ダイヤモンドカッター
で薄片にして、顕微鏡で見る。顕微鏡のしんちゅうのノブをまわすと、きみの目はかつて魚だ
った別世界を無感動に見つめている。焦点が合うと、すぐに魚の年齢がわかる。木の年輪を数
えるのと同じ。淀んだ川の上の足場に建てられた家々、渡し板で結ばれた家々を車窓から眺め
Page 147
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
つつ、通訳の説明するソ連製拳銃の違い(K 54 とK 59 の違いは結局覚えられなかった)をう
わの空で聞くのと大差ない。家の中の人たちが外を見ている。プライバシーなどない。あの無
慈悲に照らし出された魚の細胞にとってもそうなのだろう。六歳か七歳の時、両親はもう大き
いんだから、と言ったけれど、でも病気になるとまだ小さかった。口の体温計を使わせてくれ
なかった。ベッドでズボンをおろして、冷たくぬるぬるした肛門体温計が差しこまれた。世界
中がそれを見た。かれはじっと横たわっていた。体温計が抜かれて、動いていいよと言われた
けれど、枕に顔をうずめたまま起きあがらなかった。自分から抜け出していたのだ。いまや最
悪のことといえば、だれかが自分の戻るところを見ることだった。そうなったら、この事態が
実際にあったことが証明されてしまう。でもやるのだ。眺め、見、注視し、観察し、数え、計
測して分類する。そうするしかないのだ。泥の中にしゃがむ裸の子供たち、泥道のコーヒー色
の水たまり、泥の中のガラス天井の木製小屋を、目玉に吸いこむのだ。数を一致させるのだよ、
わが親愛なる技師諸君。 HIV 抗体反応陽性。そして走り続ける広幅員のほとんど無人の泥
道は、本当に水たまりだらけで、運転手はその間の茶色い尾根づたいにくねくね走らざるを得
ず、青白い物乞いの子供たちが手を差し伸べて叫ぶ。でもやるのだ。むきだしにするのだ。魚
は捕まえられた。背高く生い茂る淡い緑の木の間、それが魚の最後だ。
ヴァンナの夫は、まだそのどれも信じていなかった。これまで間違った警告がたくさんあり
過ぎた。
ある夜、ホテルの外でシクロ運転手が近寄ってきて、夫と写真家が危険にさらされていると
いう。だからそのシクロ運転手にオレンジジュースをおごれ、と。
危険って、どんな危険?
特に気がつかなかったけど。
なおさらやばいですよ、ムッシュー。失礼ですが、はっきり申し上げます。失礼ながら、ム
ッシュー、なおさらやばいですよ。
で、ずばりどうして欲しいわけ?
ぼくはただの哀れでバカなアメリカ人なんだ。アメリカ
人は謎が理解できんのよ。
ええムッシュー、明日おみやげを持ってきましょう。お代は結構ですが、でもわたしはとて
も貧しいです。息子五人。わたしの状況は耐え難いです。
そりゃご愁傷さま。悪いけど、世界を救うわけにもいかなくてね。おみやげって何?
はっ
きり申し上げるんなら、はっきり言ってよ。あと五分あげるから。
状況は重大です。あなたにとって非常に重大です。明日は何をなさいます?
仕事。
外務省と?
うん。
車に乗らないほうがいいですよ、ムッシュー。
どうして?
疲れるなあ、と夫は愚痴った。きみのフランス語はほのめかしばかりなんだも
ん……
わたしはもう打ち切りですか?
Page 148
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
うん。
なおさらやばいですよ。
さっきもそう言ってたよね。
夫はホテルに戻って写真家にこの話をした。写真家も、ただの世迷いごとだと同意したもの
の、フィルムをどこに隠そうかと思案した。翌朝、いっしょにホテルのバルコニーに立ってい
ると、鮮やかな緑の制服の警官が歩道に集結していた。公用車が時間通りに来なかった。車が
時間通りに来なかったのは初めてだった。夫は外務省に電話したが、向こうは何も知らなかっ
た。そこへ車がやってきて、何も起こらず、万事オーケーだった……
3、
のどが痛い。
Page 149
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
苦痛の娼館
これは解放者木星への神酒。若者よ、見るがいい!
なぜならおまえが生ま
れ落ちた(天が呪いを除いてくれますように!)のは、不屈の精神が有用と
なるような時代なのだから。
クラウディウス・ソラシー・パイトス
手首を切るにあたっての言(紀元前 66 年)
1、
夜風の中で静かな無人の家で、かれは缶入りの夕食をフライパンにかき入れ、それが
温まるのを待つ間、両手を重ねて、ガス台からほど近い、オーヴンの白いエナメルの冷ややか
さに乗せていたが、チリがすでに煮立っているのになぜストーブがこんな冷たいのかと不思議
に思った。薬を飲んだが、それはプノンペンの板机のレストランで、聖なる食物だからという
のでフルーツシェイクを飲んだ時と同じ、従順さのあらわれだった。夕食を食べ、後で洗おう
とフライパンを流しに入れた。新聞を手に取るとクメール・ルージュ、カンボジアの混
乱に突破口を見いだすの記事が目に入り、かれは赤ん坊が百人単位で窒息死させられ、ビ
ニール袋に入れて枝からぶら下げられて酸欠になった場所を思い起こした。ヴァンナの背中の
傷を思い出した。
2、
結婚局の壁には何十もの緑のトカゲがいた。明るい緑に銀の脚。かれが彼女と結婚し
たので待っていたのだ。
3、
ひとりぼっちだった!
もう一人の妻といっしょの時は、彼女の望みに従えば悔しか
ったし、従わなければ後ろめたかったし、いずれの失敗の後でも、彼女がわめいて泣きながら
夜の中へと車を出すと、怒りのさなかにかれは、彼女が事故に遭わないかと心配で、それから
二人のダブルベッドに腹這いになって、内臓の震えと苦しくなるような痛みが去るのを待ち、
そして気分が少し良くなると、書斎に行って住所録を見つけようとした――だれか助けてくれ
る人がどうしても必用だった。どうしても!――あの賢人中毒の繰り返し――そしてほとんど
胸を砕きそうな鼓動とともにダブルベッドに横になる。ヤク中のように急いでページをめくる。
サンフランシスコの親友二人は電話に出なかった。ニューヨークにかけるには遅すぎる。アリ
Page 150
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ゾナとネブラスカの番号を貪るように探したが、どこにもだれもいなかった。本当にひとりぼ
っち!――それがこの種のけんかの最悪の部分だった。怒鳴りあっている最中に気がついてぞ
っとするのだ。これが終わったら、何がどうなろうとも、本当にひとりぼっちになるのだとい
うことに……
4、
でも、かれの内部で何かが変わった。いま、かれは自分の求めるものがわかった。他
の女の子たちが助けてくれた。催眠術師が欲望を再生してくれた。病気が、これまでの人生で
一度も手にしたことのないストレートさと迷いのなさを与えてくれた。愛しているのはヴァン
ナだけ。どんな手段ででも、彼女といっしょになるつもりだった。
5、
その気怠い夏の金曜日、CBS の受付待合い室は呪いをかけられるにはあまりに昏迷し
た夢のような状況で、警備員の殉教者顔が蛍光灯のうなりに人間味を与え、黒革製の事務用椅
子が尻を受けとめようと待ち、受付の老人が疲れたような驚きをこめて首を振り、本当だって
ジョージ、と言う横を、フォルダやソーダを抱えた女性たちが金属探知器を通ってさまよい、
メッセンジャーたちが、信じがたい巨大な四角い箱を肩にかついでヨロヨロと出て行く。スポ
ンジっぽいくたびれた生地で構成されたスラックス姿の男が受付に身を乗りだし、その太った
尻の、ほとんど戦慄すべき眺めを提供してくれていた。白髪混じりのカメラマンが、あくびし
ながら出てきて、かれらのすりきれた革バッグがしっくり定位置に納まっている。使い続けた
せいで、両肩胛骨がすりきれてくぼみができているのだ。
本当だってジョージ、と受付の男がまた行った。えーと、じゃあもう上がってっていいそう
です。二階の最初の右手ドア。なんだってジョージ?
悪いけど、今ちょっと邪魔が入ったん
だよ。
やつれてますね、とパジェットが言った。でも克服しなきゃ。わたしも二回離婚しましたし、
二回目が一回目よりマシということもなかったけれど、でも克服しましたよ。こんなこと言い
たくないですけど、でもあなた、仕事が荒れてますよ。
大丈夫です。ちょっと疲れてるだけ。で、使ってもらえますか?
そういう言い方はしてほしくなかったなぁ、とパジェットは机の書類を整えた。あなたなら
わかってくれてると思ってたのに。
なるほど、よーくわかりました。何かアドバイスでももらえませんか?
最近は手あたりし
だいにアドバイスもらってる感じだけど……
気持ちはわかりますよ。また一人になるって、つらいですよね。
一人じゃありませんよ。結婚したばかりですから。
Page 151
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
まあ、それはおめでとうございます。で、運のいいお相手はどなた?
カンボジアで会った人です。
それは素晴らしいですね。招待状を送ってくださいよ。ああ、ちょっとこれから会議がある
ので。でも来てくれてありがとうございました――
6、
新聞を見るとクメール・ルージュ高官プノンペンに復帰とあって、ピンぼけ
した場所の写真が載っていた。その場所に見覚えあるような気がした。同じく父をなくした英
語教師の友だちが、頭痛で一九八九年に死んだガールフレンドが火葬されたと言った場所だ。
かれはつぶやいた。これを乗り越えるには、新聞を読むのをやめなきゃ。
かれはつぶやいた。そうしたらすごいよな。新聞を読まないジャーナリストか。
7、
新聞を見るとプノンペンで暴動拡大。
8、
新聞を見るとカンボジアで流血衝突。
9、
タイム・ライフ・プラザでは昼飯時で、かれはアルミホイルの玉を握りしめた人々が、
噴水口の列がアスパラガスの頭を思わせる噴水のほとりにすわっている間をうろつきいた。ア
ジア・トゥデイ誌の編集者が出てくるのを待っていたのだ。ひょっとして仕事をくれるかもし
れない。びっくりするような靴を履いたビジネスマンたちが、タバコの吸殻の横を通り過ぎ、
金のモノグラムがその踵に輝く。「バーガンディ」ドレス・スーツ――標準色――を着たビジ
ネス女性がハイヒールをひきずる。そこへアジア・トゥデイ誌の編集者が出てきて、かれは編
集者の顔を見つめると編集者もかれの顔を見つめ、そして聞くだけ無駄なのは明らかだった。
10、
奇妙なのは、まだ肉体的に全然変わったところが感じられなかったこと。自分ではと
ても健康そうに見えた。医者に言わせると、今のかれはまだ HIV 陽性というだけだった。ARC、
つまり AIDS 関連症が発症する、つまりは病気で倒れるまでにはまだ二年から六年かかって、そ
Page 152
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
れで十分に病気になれば、医療記録に AIDS と記入できる。ウィルスが体内で何もしていないと
思うのは容易だったが、でももちろん、それは一瞬ごとに、河岸を刻む川のようにかれを蝕ん
でいるのだった。プノンペンにいたとき、トンレサップの水位があがってきて、それでみんな
はシャベルで真新しい土の堤防を築き、その上を歩いてならしていた。男の子がポーチの横で
泳いでいる。モンスーンのたびにこうなるんだ、とみんな言った。空気は魚臭かった。群衆。
女性が隣の家まで水をかきわけて向かう。手鋤を持った真剣な群衆が堤防を踏み固める。
11、
写真家が電話してきた。おまえの友だちのシエンから電話があったよ。あのディスコ
はおしまいだって。閉鎖された。
じゃあ女の子たちは?
女の子?
たぶんどこぞのクソ収容所だろうよ。ヴァンナを見つける希望は、もう一切合切
捨てるこったな。シエンは手を引くって。もう関わりになりたくないってさ。タイに行って漁
ってこいよ。あの子程度のなら何千人といるから。でも残念だよな。あのディスコ、最高だっ
たもんな。それと女の子たちもかわいそうに……
もしヴァンナを連れて帰れてたら、彼女はどうしたと思う?
玄関を初めてくぐったらどう
しただろう?
それ、前にもきいたじゃん。言ったろ?
その場で漏らしちゃうだろうよ。もう金目当てで
心底おまえにべた惚れだね。もう二度と絶対おまえから離れないよ……
そう言ってくれてどうも。
気にすんなって、と写真家。
12、
目が覚めると、のどが痛い。
13、
新聞を見るとカンボジアとあってそれ以上読むのをやめた。夜に浸った家で眠りにつ
き、ヴァンナが恐怖で叫び、こちらに腕を伸ばして、殺されないうち 6 に助け出してと言って待
6
目撃者の証言:「ポルポト・イング・サリ党の築いた社会にあっては売春は存在しなかった(かれらの
誉められるべき業績である)。そこでは男は妻を二人持つことはできなかった。既婚男性や既婚女性が愛
人をつくったら、それは二人の死を意味する」
Page 153
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
っている夢を見た……
14、
バークレーはシアトルのようだった。同じ白い霧、丘の森、怒ったような男の子や女
の子たちがレコード店に飛びこみ、虹色のバックパックを背負った人々が落ちつかない様子で
カセットのケースをかたかたいわせ、スケートボーダー、ぶらぶら歩いてたむろする学生、ア
イスクリームで夢うつつの女の子たち、レコード店から出てきて共犯めいた視線を交わす男女
(まるでお互いしゃぶりっこしたみたいな表情、だって二人とも何か買って しまったんだか
ら)、ショーツとディパック、ルナグリーンのバイクヘルメット姿で、すね毛の濃い針金みた
いな若者、土色の靴とポニーテール姿でガードレールに尻をこすりつける男、手を背後にまわ
して散歩し、一番かわいい生徒に語りかけつつ、フーマンチューのようにニタつく教授、帽子
を後ろ前にかぶってピザを食べながら歩く黒人少年、そしてもちろん、赤ん坊を背負った長髪
の父親たち。
うーん、どうかなあ、と編集者。あなたの政治的立場ってものが、まだよくわかんないんで
すよね。たぶん何か出てくるとは思うんですけどね。グループの審議にかけないと。あなたが
白人男性だってのが、なんだかひっかかるんですよね、あたし。
グループに言ってください、ぼくの祖母はセネカ族のインディアンだって、と夫は狡猾にウ
ソをついた。
へえ、そりゃすごいじゃないですか。うん、そう言えばそういう面影がありますよね。
結局かれらは AIDS 病棟の記事の仕事をくれた。グループは題名さえ決めていた。「苦痛の娼
館」――なぜならこうした犠牲者たちを見て我々が感じる怒りは、無差別的な売春によって肉
体を搾取される女性たちを見て我々が感じる怒りと同じだからなのです!
と女性の一人が説
明してくれた。
夫はどうでもよかった。五百ドル。娼婦と同じく、かれも暮らしがかかっているのだ。
15、
無数のプレス証で武装した夫は苦痛の娼館に入った。午後の雷雨の中の交通渋滞のよ
うに、ギラつく車が地平線までずっと続くように、まだ死んでいない骸骨の群れがかれを取り
巻いた。長くよじれた稲妻の垂直性、そしてすぐ近くで雷がして車が飛び上がる……五百ドル。
かれは一人一人に、どんな薬をのんでいるのか、どうやって病気にかかったのか、世界に対し
て言いたいことはあるかと尋ねた。五百ドル。平静な人もいれば、一人は嬉しそうで、残り全
員は怒って怯えた人々で、自分たちが死にかけているのを他人のせいにしたい人たちだった。
嬉しそうな一人は笑ってかれを招き寄せ、囁いた。あなたの目にも同じ死が見える、と。――
目の前ではやせた手足が一秒ごとに細りゆく。女性がせきこんだ。もう何も食べられないとい
Page 154
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
う。なんと痩せていること!ベッドの下で骸骨がカサコソ動いて叫ぶ。女性曰く、あの人、あ
そこでいつも泣くのよ。――女性がかれに微笑んでささやいた。来てくれてありがとう。あな
たはわたし相手にとても辛抱強くて静かで、ほとんどわたしたちの一人のような気がしますよ
……――女性が言った。世界に言いたいことですか。自分が死ぬのがわかると、迷いが消えて
くんです。もうやることは一つしかない。一番大事なこと、それしかできない。それしか時間
がないんです……
ヴァンナの夫は彼女にすり寄った。そしてとても低い声で尋ねた。――じゃああなたにとっ
て、一番大事なことって何でしょう。
彼女はにっこりしてかれの手をとった。――愛、です。
Page 155
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
結婚地雷
死は悲しくありません、死は存在そのものなのです。死は意識を創造し、し
たがって政治的意識を創造するのです。
ポール・ヴィリリオとシルヴェール・ロトランジェ
『純粋戦争』 (1983)
1、
広がる木の下の、霧がかった草のない月を浸す淀みの中で、かれは自分に仕掛けられ
た、妻と人生の禁輸措置を出し抜こうと意志を固めた。洪水の爪によって深く刻まれた、灰色
のなめらかに固められた土へと這い下りつつ、最後の木の下をくぐってやってきた、丘の隆起
した海岸は、草とウルシと雑草の実と季節最後の青い花が派手に生い茂っている。霧笛が肌寒
いそよ風に対し、耳障りで奇妙に響きわたる。踵を地面に食いこませつつ、浸食された土の壁
を頭から下り、かれの急ぎぶりが地面に傷つけた、熊手で掻いたような傷跡をたどり、自分の
足跡から転がり落ちる粉状の土の塊のように下り急ぐ。砂は濡れていた。波の間を、数分おき
に島となる岩によじのぼる。海しぶきが、チョークのように灰色で冷たく、他の鳥の糞まみれ
の岩を覆いにくるのを、立って眺めていた。岸近くの泡のかたまりが、暗い岩の歯を際だたせ
ていた。さらに沖には、ひたすら灰色の海と灰色の空しか見えない。かれは腐った魚の匂いを
吸いこむ……彼女を見つけると己に誓うと、あらゆる疑念は一掃された。いまでは毎晩ジャン
グルを夢に見る。彼女のもとに行こう。自分にそう約束したのだ。そして自分が自分の証人に
なると同時に― ― いまやもう誓いを取り消すことはできない― ― 安堵と開放感を感じた。その
ムール貝だらけの黒い岩に立ち、まわりでは海がビールのようにあわ立ち、しぶきを挙げては
かれを水びたしにする……白と灰色のカモメが横にとまり、一見すると一本足に見えた。渚で
は、岩が飽きもせずに打ち上げられ続けていた。
2、
ぼろ靴をはいて、岩クズと割れガラスの急斜面に立ち、セージとエニシダ(鮮やかな
赤い葉のウルシはその中にあっての警告役)の低いさざ波の中を霧がゆらぎ下りる。突然、霧
が青くなった。薄れつつあるんだろう、と思った。霧の青っぽい、灰色っぽい、白い純粋さが、
丘の丸みを帯びた隆起を愛撫。草の端がやさしく揺れる。花の茎は、糸に引かれるように前後
に鋭く揺れる。茂みが揺れる……
Page 156
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
3、
ホテル38に戻ってきた。ドアのふちに垂れ下がる、ギザギザの光の鎖は、だれかが
通るたびにちらつく。時にはすばやく、時にはゆっくり。時にはその光が闇に変わり、だれか
が外に立って聞き耳をたてているのがわかった。
4、
服を洗うと、翌朝まだ乾いていない。出発しなければならなかった。ビニール袋に詰
めると、暑く蒸れた。その晩、干して乾かそうとした。翌朝、まだ湿っていた。ビニール袋に
詰めた。晩になるとカビていた。かれは思った。死ぬと人はこういう匂いがするのかな。
5、
髪を額でカールさせ、HONEY と書いた緑のTシャツを着た娘が、立ってナイフを洗
っていた。店主は肉を切り、娘はナイフを外に持ち出して、首にゴールドのチェーンをした娘
としゃべりだし、そして男が小道で荷車をゆっくりと押し、通りすがりのバイク三台から青い
煙が漂い、幅の広い白い車がゆっくり通り過ぎる。鼻先の分厚いメガネをのぞきこみつつ、店
主は胸をうんと張り、腰に手を当ててて穏やかな様子で世界を眺めた。娘が戻ってきて、手の
甲で鼻をふくとテーブルを片づけた。別のテーブルにカップルがすわった。女のほうはあっさ
りとサンダルを脱ぎ、鳥のようにかがんでストローでコカコーラを飲んだ。男は料理に手を伸
ばし、自分の皿にもっと取った。店主は背中で腕を交差させて、ラジオの曲にあわせて尻を揺
すった。ヴァンナの夫は豚肉を食べた。娘は可愛かったけれど、でも思い出の中の妻は万物の
赤茶色い光輝に包まれていて、ホテルの部屋の古いチーク材の細工なにやらカナブンの背中の
ような光沢ある赤茶色、別種の木かそれとも光の加減か、そこへ彼女がちょっと肩をあげてた
んすにもたれ、長い金のストライプが入った真紅のドレスとブラウス姿で、必ずしもかれに微
笑みかけてはいない。腕と手と優しい細い指は、バタンバングの道の水たまりのようにもっと
チョコレート色がかっていて、茶色が濃すぎてほとんどオレンジ色だったけれど、でも顔は、
一部茶色がかってあいたけれど、ずっと色白で、月っぽいレモンっぽい繊細さで、特に日光に
照らされた頬骨やあごや甘く柔らかいのどや、かつて笑わせるのにノーズキスした目の間がそ
うだった。そして黒髪と目は、すぐ背後の黒茶色のたんすの闇よりずっと濃く、その髪と目は
完全黒体の肯定的負性なのだった!
指を半ば開き、顔はほとんどこちらに向けているけれど、
でも完全荷ではなく、そして今もこの先永遠に、これが自分の妻で、その腹はもっと若い子た
ちほど完全に平らではなく、頬骨は手軽な美しさを得るには鋭すぎる。片方のイアリングが狂
おしい水晶のように光を捕らえる。だれかの魂を耳に飾っているかのようだ。でもそれ以外の
魂はつけない。もう片方の耳は軟膏で甘くした髪に隠されている……そしてかれは思った。じ
きに彼女はシャワーを浴びてぼくもシャワーを浴びて二人で祝福の闇の中に並んで横たわりぼ
Page 157
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
くは彼女に腕をまわして彼女の心臓に頭を乗せて彼女がぼくの頭をあやしてぼくが聞く彼女の
心音は次第にゆっくり、ゆっくち、ゆっくりと……
6、
暑い夜が明け、ジョイとオイとノイが最後のオルガズムのふりをしてみせている頃、
かれは二等席にのって、列車で国境に向かいつつあった。線路のずっと向こうでは、波打ちト
タンの仕切でできた小部屋の上にサロンガが干され、長い黒髪の女性が顔の前で祈りの手を合
わせている。その隣では老女が立ち上がり、はだしでよたよたと、水を背負ってよろけている。
その二者の中間くらいの年齢の第三の女が、飯を炊きだした。飯から湯気がたちだすと、若い
女性は鉄の壁の向こうで何かわからないものを刻むかマッサージするかして、そして黒い夜空
が一挙に朝の灰色となり、列車が渋々と汽笛を鳴らし、そして一同は新しい一日へと乗りだし、
そこでは列車も建物もまだ冷たく、謎めいていて、純粋とすら呼べ、それぞれ独自の孤独なル
ーチンに乗り出すのをすぐにしくじったりはしない。車窓は湿った灰色の壁を通り過ぎ、そこ
に洗濯物がクモの巣のように張り付いている。焚き火用ドラム缶が茶色の運河の横でオレンジ
の炎を吐く。優雅な木の下に板張り屋根の家が密集し、煙の匂いを発汗。明かりのついた列車
が向こう側の窓の外を疾走し、朝雲だらけの空を遮る。葉で屋根をふいた暗い小道から、少年
たちが自転車で出てきて、ハンドルに氷の入った袋を乗せてバランスを取っている。
7、
ほとんど無人の列車は窓を開けて魚臭いヤシ畑をガタゴトと通り過ぎ、太った女性販
売員がコークと干し魚とサテイとご飯を持って通路を歌いつつ行き来……かれは二つ割りの竹
にはさんで針金で固定した、チキンの手羽焼きを買った。新鮮でショウガ味でおいしかった。
8、
金属張りの家の銀青の裏側は平原を構成し、それを中断するのは影のクレバス、運河、
たまにヤシの木……そしてそれらがいきなり、窓までもある草で終わる。銀の霞がかかった川
が、熱のぶりかえしのようにかれめがけてきらめく。銀の霞は草のてっぺんに、オーラのよう
に生きている。金の指輪を四つはめた女性を見た。鼻に手をあて、窓からかれをのぞきこみ、
すると列車は通り過ぎた。銀の水帯で足下を切られた茂みっぽい島々が、灰色の壁で、開け放
たれたりシャッターがおりたりしているサイコロ状の家にとってかわられる。列車は壁にはさ
まれた草の川を走りゆく……
Page 158
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
9、
またもや別の列車を追い越し、その窓を通して別の頭や窓や、切り抜きのようなヤシ
の植栽が見えた。かれにとって列車は運命のように思えた。もし向こうの列車に乗っていたら、
自分はどんな人間になりつつあったことだろうと思った。
10、
車掌がオリーブグリーンの制服でやってきて、腕の下にはオギノ式避妊カレンダーの
ような謎めいた書類のパッドを抱えていた。四枚パンチするとヴァンナの夫にくれた。パンチ
するときはペンを口にくわえた。肩章の金の星と二重矢印、金の襟章、帽子の精悍で黒いひさ
しのすぐ上にある、堂々たる黄金の菱形エンブレム、これらの記章はかれの権力の反駁しがた
い証明であった。かれはほとんど直立状態でシートにもたれ、書きこみ、優しい微笑を浮かべ
て何か言い、長い腱が腕の下で震えている。あばたのある顔がこちらに近づけられ、ズボンは
真新しいナイフエッジのように筋が通っている。かれが去ってから、乗客みんなはかれがそれ
ぞれに割り当てた書類について、説明しあわなくてはならなかった。突然、ヴァンナの夫はか
つて耳にした格言を思い出した。カンボジアでは、会う役人すべてにおみやげをあげていい。
というか、そうすべきである。タイでは、知った相手でないかぎり、おみやげはあげないほう
がいい。
11、
日中のさなかに列車は一時間ほど停まった。かれは外に出てプラットホームの天蓋の
下にすわり、巨大な黄色い仏像を眺めていたが、その頭頂部は一番高い木よりちょっと上に出
ていた。やせた老僧が二人、かつてオレンジのに茶色く変色したローブを着て、ベンチの上で
辛抱強く叩頭していた。三段になったガラス張りの棚が細い足で立っているスタンドがあって、
何か赤い物が中に隠れた、白いふくれた玉でいっぱいだった。― ― かれは思った。ぼくの金玉
も今はあんななのかな、AIDS が中に入って……
12、
一行はタイの中心をガタゴトと横切っていった。黄色と緑の水田がマンコのように湯
気をたて、別の緑の木の下、狭い川に白い鳥、灰緑の木でできた地平線。橋はみんな堂々たる
ものだった(カンボジアでは、すべての橋がクメール・ルージュによって入念に爆破されたの
で、フン・セン政府は唯一可能なやりかたでそれを再建し、それは錆びた構脚の上に鉄の線路
を二本乗せただけのもので、軍用車両にはそれで十分で、線路の間には川が待ちかまえている
ので左右に揺れてはならず、そしてどの橋も兵隊に守られている)。みんなペンキが塗られ、
Page 159
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
窓まで高さがあった。水中の緑の稲刈り跡を見おろす兵隊もいない……でも水田の真ん中に、
棒橋が見え、棒がいかれた針のように突き出していた。
ヨタカ。信号手は暗緑色の旗を出して列車を先に進ませた。赤い布は眠そうに残りの手から
ぶら下がっていた。
ヴァンナの夫はあんずクッキーを子供にやり、子供は手をあわせて礼を言った。その母親は、
金を乳房の間にしまっていた。車掌に金を払うのに、そこに手をつっこまなくてはならなかっ
た。
プラチナリ。水田が終わり、行く手に山とジャングルが現れ、そしてあのカンボジアのビャ
クダンの香りも。時にはまた水田湖に出てきたが、でもそれも今では木や山に囲まれている。
家々は巨大なソテツに混じって支柱の上に建っている。そして高床の柱の間には、かごに入っ
た鳥の群が住んでいた。
アラニヤプラテット。終点。一日中、扇風機は頭上でゆっくりと傾きながら回転していた。
それが今はとまり、ヴァンナの夫ははらわたがひきつるのを感じた……
13、
コーヒーショップ・レストランと書かれた場所を通りかかり、中は煙る仏像の前にひ
ざまずく女の子だらけだった。椅子はすべて仏像の方を向いている。そして仏像の向こうには、
バーがあるだけ。オーナーが死んだのだ。九日間閉店となる。
14、
思った。これ以外に、自分にはなしとげるべきことがあるだろうか?― ― 実は何も。
二度と娼婦を犯らなくたっていいや。
思った。国境越えなんて割にあわない。
思った。現実には、こういう旅行はぼくにとって、肉体的にも感情的にも、道徳的にも、そ
してひょっとして精神的にもつらくなってきてる。こんなところに、ぼくが本当に求めるもの
なんかありはしない。
15、
思った。神はぼくの汗まみれの夜明けをいくつご覧になったのだろう。
16、
ある晩ベッドの中、彼女の横で身を起こしたことがあるのを思い出した。パラシュー
Page 160
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
トのひも(何年もの熱の汗と寝垢と歓びの蒸気がこびりついて灰色っぽい緑になっている)で
つくった手製の首かけにつけた、キャサリン・テカクウィダのお守りにキスして、ヴァンナの
ために祈った。彼女は見ていた。初めてそのお守りをはずした。そして彼女の首にかけた。そ
れ以降、かれは毎晩お守りを彼女に渡し、そして朝に彼女はそれを返してくれた。最後の晩に、
かれはそれにキスして彼女に本当にあげてしまい、そして彼女は自分の一番貴重な秘密を見せ
てくれた。自分の赤ん坊の写真だ……
17、
遠く歩道の角で、少年がボールをはずませた。街灯いくつ分も離れている。その歩道
が空っぽの世界すべてであってもよかった。光の溜まりの中に服がぶらさがっている。黄色い
交通信号が、口のように開閉。人々は何も売っていない屋台の横の、歩道のテーブルにすわっ
ている。食べながら曲がった背中が、水族館色を放つ。
18、
クメール・ルージュと国境を越えたいですって?
でもそれは違法です。とても危険
です!
かれは通訳に告げた、うん、みんな『エスクワイア』が悪いんだ。『エスクワイア』が絶対
やれって言うんだよ。さもないと失業しちゃうんでね。
通訳は言った。脚をなくした人たちを知っています、国境を越えようとしたせいです。なぜ
そんなことがしたいんですか?
ああ、クメール・ルージュに会いたいんだ― ―
通訳は、ご冗談をと言うように笑った。
町の中心の四角い黒い淀んだ水たまりを見つめ(ゆらめく白い四角の反射が、その一角を押
さえつけていた)、かれはシクロに国境まで連れていってくれと頼むだけの勇気を奮い起こそ
うとした。通訳の話だと、夜には道に検問があるそうだ。なんとも無意味で、手間ばかりかか
って、万が一どこかにたどりついても、その涯てに待っているのは悪夢だけ。この薄汚れた水
たまりで溺れてしまえばいいのに。― ― すごくひとりぼっちだった。柵の外では、シクロ運転
手たちが、自分のシクロにすわって並んでいる。赤や黄色の果物の山を並べた、照明つきマー
ケットが、何やら夜のウロコだらけの下腹のようにかれの上にかかる葉と、バランスを取るか
のようだった。はだしの男の子が、道路にあふれる緑の光の管を通り抜けた。バスケットを持
っている。ヴァンナの夫は悲しくなった。
男は大喜びで五十バーツ受け取った。この種のシクロでは運転手が前にすわり、車のついた
屋根つき荷台の脚を引っ張る。ヤシの木の闇の中へとこぎ進む、力強い茶色の脚を見て、ヴァ
ンナの夫は表現しようもないほど寂しく、悲しくなった。男は裏道をこぎ進み、道々タバコを
Page 161
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
吸っていた。道はかれら以外無人だった。家の中で食事をしている人々は見かけた。一人がや
ったか言ったことに大笑いしている。歩道で、子供三人を追い越した、男の子一人と女の子二
人。男の子は、片方の女の子のひざを握っていた。
表通りでは、ヴァンナの夫は車やバイクが通過するたびに伏せた。コオロギの声と大麻の匂
いがむせるようだった。男は遠泳選手のように、とてもゆっくりかつ生真面目にこぎ続けた。
間もなく最初の橋にやってきた。
前方に、白と赤の明かりが見えた(じっとしていて明るい)。
明かりはどんどん近づき、これがトラブルの始まりかしら、とかれは思った。じっと動かず
穏やかだった。
こうして最初の検問にやってきて、白熱管による三角が道に出され、ムシが山ほどたかって
いる。巨大なカナブンが電球の一つをゆっくりと這いあがり、決して見つからず理解もできぬ
ものを探し求めていた。そして地面にすべり落ちた。
タイの警官が三人いた。かれらはヴァンナの夫を追い返し、夫はバカみたいに飛び上がると
去った。でも車やバイクなら、その最初の検問では自分から停まらない限り停まらずにすむこ
とは見てとっていた。次にやる時には、車の後ろで伏せていよう。
草の中でホタルが低く点滅した。バイクが走り去る。別の淀んだ水たまりに、光が反射して
輝く。
車に乗って、第二の検問までたどりついたが、そこで停められた。兵士たちは夫を最初の検
問に送り返し、今回は警官三人は夫をどなりつけて揺すった。またもや夫は、できるだけ間抜
けな顔でニタついた。驚いたことに、逮捕もされなかったし、パスポートも取り上げられなか
った。町に車で送り返されてから、かれはすわってどうしようかと思案した。歩いてもいい(た
った六キロ)けど、でもその先は?
もし検問の照明の光をかわし、もし最後の幾重もの鉄条
網を乗り越えるのに成功したら、地雷だらけのジャングルにたどりつく。かれの身に起きうる
最良のことといえば、脚をなくすこと― ―
19、
彼女はその薄暗いホテルの部屋で、ベッドに横座りになり、片腕を夫の背に預けて、
残りの腕で大きく微笑んだ自分の口に人差し指で触れている(でも目は変わらなかったから、
正確には微笑とは言えない。とにかく可愛くて理解不能なのだった)― ― 大胆か写真向けだと
思ったポーズなのだろう、だって写真家のためにしょっちゅうそのポーズをとったから。夫に
そのポーズをしてくれた記憶はあまりなかった。どこぞの女優からならった技なのかもしれな
い。とにかく彼女は、スズメバチのような黒と黄金ストライプのドレスをまとい、ひじは羽根
状に曲げられ、顔は「微笑」のためちょっと長くなっている。あたりはホテルの闇の、謎めい
た青いエアコンの静けさで、二人のどちらかがシャッターを閉じたのでだれも二人が見えない。
彼女の手が、夫のウェストを取り巻いて包むタオル越しに、優しくかれを叩く。夫が身につけ
Page 162
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
ているのはそのタオルだけだった。かれはかくも美しく休息しながら横たわり、自分の上の彼
女の重みを感じて嬉しく、彼女の尻が自分の脇腹に当たるのが嬉しかった。その尻を軽く叩い
た。彼女にもシャワーを浴びて、隣に横たわって欲しかった。そうすれば彼女をしっかり抱き
しめて眠ることができる(夫が眠るとき、彼女も眠ったのだろうか、それとも単に辛抱強く目
を閉じて横になっただけだったのか?
それまでそんなことを考えたことはなかった)。かれ
は横になって一時間ほど寝た。それから外に出て、また挑戦。
20、
今回は歩いて行った。乗り物を見聴きするたびに不潔なドブに身を伏せた。白熱灯の
検問までくると左に道をはずれた。検問と並ぶと、一センチでも遠く、見られぬようにしよう
とするかれを、白い明かりが捕まえて目をくらませた。見られなかった。暗闇に戻るまで、肩
胛骨の間に詰めたいかゆみが感じられた。視力が戻るのを待つ。それから長いこと匍匐前進。
視界をツタがたくさん横切る。コケは濡れた犬の脇腹のようだった。はやくもムシが全身にた
かっていた。検問を振り返って、そのとんでもない明るさと近さに驚いた。突然、兵士たちが
せっぱ詰まった声で話し出した。かれはとっさに伏せた。水しぶき。心臓の鼓動がはやくて、
吐きそうな気分だった。なにか柔らかく冷たいものが、急速なけいれんを伴って首を横切った。
兵士たちが話し止むまでじっと横たわり、さらに少し待っていると、トラックが町のほうから
大音響をあげてこちらにやってきた。この騒音で、葉っぱのマスク並に身が隠せるだろう。か
れはカンボジアへと這いずった。トラックが並ぶと、また伏せた。無音の蚊が顔と首を刺した。
胸は鼓動で痛い。第二の検問を通過。その警報の到達範囲の中で、多くの巨大な茶色い革状の
葉のくぼみが、レーダーの耳のように、滴る影の中で死んだようにぶら下がる間から検問をう
かがい、生に耳を傾け、そしてその降伏の選択も後にして、検問はあと一つ。もうすぐ夜明け
だ。蚊は前ほど多くはない。結局、ジャングルに身を隠しおおせるのではないかという希望を
自分に許しだす。闇が東の空で血をにじませる頃、道が左に折れて空き地に出て、青空国境マ
ーケットが早朝と午後早くに行われる場所までやってきて、そこは寒々としていて明るすぎた
けれど、でも兵士たちは娼婦笑いで腹をかかえるのに夢中だった。鉄条網の列には一瞬がっか
りしたが、でも最寄りの壁をつたい、明かりと兵士たちから離れ、一キロ弱で土塁のかわりに
ジャングルとなり、そして夜明けに鉄条網は、茶色の幹やツタに押されてたわみ、そしてかれ
は穴を見つけた。パッポンの女の子たちに教わったことだが、強く望みさえすれば穴は必ず見
つかるのだ……
21、
やせた少年たちがかれに叫んでいた。両手は針金で後ろ手に縛り上げられた。― ― お
まえは裏切り者の帝国主義者の手先か?
と少年が怒鳴った。― ― イエス、と夫は即答。ぼく
Page 163
蝶の物語たち
ウィリアム・T・ヴォルマン
は裏切り者だ。
みんなそれでとても喜んだ。ついに悪いヤツを見つけたのだ。
汚物のような匂いの、明るい茶緑の小川のほとりを連行された。小川のまんなかで、巨大な
カニがハサミをふりまわし、柔らかい小枝をつかんでいる。市場で見るようなカナブン型のカ
ニではなく幅広で平らで茶色のカニだ。いたるところ葉とゴミ。視線は腐るような緑にとけこ
む。木々はことさら高くもなく生い茂ってもおらず、ただ至る所にあった。根っこと、それに
絡みつくツタの気色悪い構造物が、楽器のようにかれの心臓にコードを奏でた。格子細工のよ
うな、ひねショウガのような色合いの根っこの改札を抜けて連行され、次第に暗くなり、小川
の臭気も強くなった。別のカニがいて、さっきの以上に大きくて、赤茶色の淀みの中に沈みか
けた人の顔を食べていた。群がるカニが山ほどいて、そしてさらに鉄条網で、そこにいるべき
みんながいた。彼女はやっと、あの優しく柔らかい、青白くなめらかで繊細な顔立ちで、真っ
正面からかれを見つめ、包み隠さず信頼に満ち、微笑んでいた― ― 本当に微笑んでいたのだ!
― ― キスのようにちょっと唇を突き出した微笑で、あごの影からはあの金の鎖のネックレスが
飛び出し、そのハートは薄い青っぽい白のブラウスの、ちょうど胸の上あたりにきて、逆V字
の眉は、微笑しつつもかれに問いかけるようだった。その悲しい微笑を浮かべつつ、すわって
かれを待ちながらも、夫に対する認識が彼女の顔一面に広がるのだった。かれは彼女のもの。
間もなく彼女の横で永遠の眠りにつく。
Page 164