第1回「人生を変えた街~京都/神戸/東京/ロンドン~」

第1回「人生を変えた街~京都/神戸/東京/ロンドン~」
「イギリスで初ライブするバンドを作る!」
こう思い立ったのは2009年1月。The Ventzというバンドを立ち上げたのは34歳の冬でした。
1974年の7月に京友禅の下絵師と琴/三味線の教授の間に長男として産まれました。着物文化
の衰退の影響からか裕福な家庭ではなく、むしろ節約のためにトイレの水を流さないように弟に言い
つける、そんな毎日でした。今でも親父は「あの頃はすまんかったなぁ」と言う。
そんな生活の中、僕は夜になっては星ばかり見ているような小学生で、夏休みの自由研究では天体望
遠鏡を自作するような子供でした。図書館の大人フロアに入り浸り、天体望遠鏡の造り方を独学で研
究し、レンズだけを買い揃えて組み上げる。完成した時に見た土星の輪っかや木星の衛生、月のク
レーター。「自分は何者なのかなぁ?どこから来て、どこへ行くのかなぁ?」って不思議でした。
小学6年生にして身長180cmに届き、塾には通うこともなく勉強もスポーツも出来た。小学生の頃は、
僕は何だって出来る、絶対金持ちになってやる、そんなふうに過ごした記憶があります。
そんな中、もう一つの出会いが「ザ・ビートルズ」。親父が買ってくれた『HELP!』(邦題:4人はア
イドル)のカセットテープ。スタートボタンを押したら流れた「HELP!」の声、ギターの音。「もう
これはギターを弾くしかない!」従兄弟の兄の持ってたアコースティックギターをもらって、ナイロン
紐をストラップにし、毎日毎日ギターを弾き倒してました。当時、CDは高価なもので、ビートルズを
オンエアーしそうなラジオ番組をチェックし、カセットテープに録音。CD屋さんで見つけたビートル
ズ関連ブックを頼りに、オリジナルレコード通りの曲順に並べ替える毎日。
この記事の権利は南出渉が保有しており、SPACE DOG!が許可を得て転載しています。本データの一切の複製、転用を禁止します。
今思うと一番ロックという音楽を聴き漁っていた時間なのかも知れません。僕が産まれる何年も前の
音楽、しかもどこか知らない国の言葉で歌われるビートの効いた音楽。僕にとって最高に新しく、1曲
1曲知っていくたびに感じる驚き。「こんなふうになりたい」これがすべてでした。
中学生になり、それなりに「ワル」になりたい願望もあり、バンドを組みたかったものの、なかなか
趣味の合う仲間がいない。「ビートルズになるため」にはとびきりの仲間が必要なのに…。それは高
校に進学しても変わらず、一度親父とぶつかったことを思い出します。そう、「もう進学はしない、
ロックをやる。京都を出る!」と。それなりの進学校である国立大学付属高校に在籍しながら、本当
にやりたいことをこのまま我慢していたくはない。母親が日本の伝統楽器の演奏者であったことから
も、「音楽をやること」をどちらかと言うと奨励されていた環境にあったんですが、「反対されな
きゃロックじゃない!」なんて今思えばかわいらしい悩みも持っていました。京都での生活にも窮屈
さを感じた僕は、少し落ち着きを取り戻し大学進学のカタチを持って神戸で一人暮らしを始めました。
そして同じ方向の趣味を持った仲間と出会い、バンドを組みます。「JOE CLOUDS」というのが僕に
とっての初めてのオリジナル曲を作るバンドでした。(当初はボーカリストがいたのですがすぐに辞
めて、僕が歌うトリオバンドになりました。)
ただ、授業料を支払える家庭環境ではなく、すべて免除を受け、その上奨学金をもらう学生生活。仕
送りをたくさん貰って生活する同じ大学の友人たちとの価値観も違ったし、どんどんロックにのめり
込んでいくことになります。風呂無し/共同トイレ、家賃23000円のアパートに住み、ローソン/家庭
教師/スタジオのバイトに加え、優秀な成績を取らないと授業料が免除されない日々。
そして阪神淡路大震災。
家賃23000円のアパートは木っ端微塵、それでも奇跡的に生き残った僕は大学に戻り、教授に見て見ぬ
振りをしてもらってカンニングで単位を取っていく学生の中には存在していたくなくって、今思えば青
臭いアイデンティティーを保つため、大学をドロップアウト。
神戸のライブハウスの代表格チキンジョージで数回ワンマンライブをするに至りますが、大学生のバ
ンドメンバーとは生活の方向も合わなくなってしまい、解散。そして単身東京に移住することにした
1997年。23歳。
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「半年もあればスターになれるはず」
そう信じて東京に向かったものの、そんなに甘くはなく、ちょうど半年後にようやく僕に興味を持っ
てくれる事務所と出会う。が、今思えばおかしな話なんですが、その事務所に「CDデビューのための
資金を預ける」という名目で100万円を毎月コツコツと預けていくのです。そして突然の会社消失。あ
る日代官山の事務所にいくと、無くなってしまっていたのです。
「もう、信じない。音楽業界の人間なんて信じない。やるなら全部自分でやる」
そういう条件で始めた、東京で出会ったメンバーとのバンド「HITMAN STYLE」。弟の白血病発症(現
在は移植を受け、元気に暮らしています。もしかしたら僕のウタはすべて弟のために書いたウタなのか
も知れません。感謝しています。)が原因ではありませんが、メンバーの様々な事情も重なり、メン
バー全員で神戸に移住することになった2003年には、1stアルバムを自らのレーベル『ODOROCK
RECORDS』からリリース。全国のCDショップにて展開され、青春パンクブームの後押しもあってか、
ちょっと売れる。いや、意外と売れました。リリース直後、ある芸能界の方から直接僕に電話があり、
「君たちのCD聞きました。とてもイイけど録り直しませんか?お金は出します」と言われます。が、
東京で苦い経験もある僕はお断りすることにしました。1曲、とてつもないヒット曲を持っている方で
したが、バンドの総意として一緒にお仕事をすることはなかったです。
2007年にはまた自らのレーベルで2ndアルバムをリリース。この辺りから、自分たちで自分たちを運営
することが少し辛くなって来たのかも知れません。同時に僕は神戸のライブハウス神戸VARIT.でブッキ
ングの仕事もするようになり、つまりバンドの顔としての自分と「裏方」の仕事との両立がしんどく
なっていた時期でもあったと思います。
そしてヒットマンスタイル、解散。僕はソロ活動を始めます。2007年の7月に自分自身の念願「アナロ
グレコード」のリリースをもってソロ活動開始。33歳。そして同時にバリットでの仕事も評価され始
めてしまいます。今、チャートを賑わす存在になったピアノトリオバンド『WEAVER』の出現は、僕の
裏方としての仕事が評価されるキッカケになったのは間違いないと思われます。
「誰かがやっているスタイルを、自分がやる必要がどこにある?オリジナルであるために、何故中央
(東京)と闘わない?」
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それが僕のスタイルなのかも知れません。20歳そこそこのバンドマンたちと夜な夜な語り合う毎日。
僕は神戸が好きだし、神戸にいる若いバンドマンに負けたくもなくって、一緒に遊んでケンカしてワ
ガママを通し合って、そうして彼らが中央に打って出れるなら、それは僕の夢なのかも知れない。
「それでも僕は僕自身の音楽の夢を諦めているわけではないよ?」
僕が一緒になって遊んでいる神戸のバンドマンたちは、このことを本当によくわかってくれていると
思います。だからこそこんなに年齢が違うのに信じ合える仲間でいることが出来るし、僕は音楽業界
の悪からこのコらを守ってあげられる、かも知れない。そして僕はもっとずっと遠くの夢を実現する
ことに生き甲斐を感じていれる。
ソロ活動にも少し飽きた頃、「やっぱバンドやりたいなぁ」と当然思い始めた僕は閃いた。
「イギリスで初ライブをやる!って決めたバンド、始めたいなぁ!」
そうして始めたバンドがThe Ventz。「まったく何のツテもコネもないのに、初めてのライブをイギリ
スという、ザ・ビートルズが産まれた憧れの国でやるってエキサイティングやん!」という発想が、よ
り僕を興奮させました。何より「ビートルズみたいに世界中を演奏旅行するようになるんや!それま
で音楽の仕事以外で飛行機には乗らない!」って中学生の頃に決めた呪縛から解き放たれることにワ
クワクしました。そう。まだその頃は飛行機にすら乗ったことのない男だったのです。飛行機に初め
て乗れる!
そうして楽曲を制作し、インターネット上でバンドを宣伝し、海外のミュージシャンと知り合ってい
く毎日。うまくいかなくて行き詰まるバンド。それでもヒョンなことからイギリス人ミュージシャン
と知り合い、初のイギリスでのライブが決まったのは2009年のクリスマスイブ。僕にとってのサンタ
クロースはイギリスにいた!
2010年2月、とうとう僕は何のツテもコネないところから、イギリスへ飛び立ち、イギリスで初めてラ
イブを行ないました。あの光景は忘れません。日本と全然違う。何の関心も持たれていないことを感
じたライブ序盤。そこから1人、また1人と盛り上がるオーディエンス。「ワンモア!」の大合唱!
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帰国後、次のステップに行きたい!またイギリスに行きたい!という想いを募らせるものの、メン
バーのイギリス/バンドに対するそれぞれの温度差が徐々に広がってしまい、2011年8月、メンバーは
僕1人になってしまいました。
2011年7月、僕の誕生日には大阪でTHE ZOMBIESと共演し、8月には神戸でセックス・ピストルズのグ
レン・マトロックと共演するという、本当に奇跡の流れの中、掴みたい自分自身の夢があるからこそ
の別々の道の選択。そして僕は1人でイギリスへ旅することを決めます。「ビートルズの産まれた街、
リバプールで歌を歌ってみたい」と。
そこでまた、奇跡が起こる。なんとグレン・マトロックが「WAXのバンドがなくなったんだって?
じゃあオレが弾こうか?」と言ってくれているってことを聞く。イギリスに来るなら会おうじゃない
か。
2011年11月、リバプールでストリートライブをし、グレンと会い、レコーディングの約束をする、と
いう予測も出来なかった奇跡を手に入れるというお土産を手に帰国し、現在はイギリスでのグレンと
のレコーディングの実現のために、新しい扉を開いている毎日です。
新しい扉をノックすると、必ずそこには新しい世界が待っていて、また次の扉が目の前に現れる。
ライブハウスの経営と音楽をやるというアーティスト活動。「音楽」というキーワード以外は真逆の
行動。与えることと与えられることの共存。それでも僕は、その2つを一度切りの自分の人生の中で成
功させたい!と強く願っています。
「And in the end,the love you take is equal to the love you make」
僕が大好きなザ・ビートルズの「THE END」の歌詞の一節です。
「今はまだ世間に理解されていないけれど、あなたは経営的才能と芸術的才能がある。その2つがピタ
リと合致し、あなた自身が想像も出来ないような成功を産む時が来ます。それはあなたが39歳になる
時です」
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ヒットマンスタイルというバンドがバリバリ活動していた2006年、32歳の時に占い師の方に言われた
言葉。まさかこの言葉を信じ切っていたわけではありませんが、どうやらあと1年半という流れの中で、
自分自身が納得いくような人生の成功ポイントまで持って行けそうな予感があります!
イギリスという国に憧れを持ち、ただそこで良質な音楽をやり続けたい、という想いを持っているか
らこそ出会った仲間がいる。
2012年1月22日はそんな仲間、「神戸と世界を繋げちゃえ!」という志を持った神戸のレーベル
『SPACE DOG!』の1周年パーティー。夢を持ったオトコとして、夢を膨らませたオトコとして、ス
テージに立ちたいと思っています。
キタルベキセカイに向けて。
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