旧約聖書からの50の ショートメッセージ

成功聖書
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旧約聖書からの50の
ショートメッセージ
e-聖書研究会
奥田
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昭
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「初めに、神が天と地を創造した。」
(創世記1:
(創世記1:1)
聖書の第1ページ、冒頭の言葉。聖書は旧約聖書、新約聖書あわせて66巻、
1189章、新改訳聖書だと2071ページと膨大なものだが、その最初、創
世記の第1章第1節に最も重要な結論が書かれている。終わり良ければすべて
良し、だけでなく「初め」良ければすべて良しでもある。
聖書を前にして、この言葉をもって、聖書の扉を開くのか、そこで引き返す
のかの選択がせまられている。同志社大学の創設者新島穣はこの言葉で聖書を
理解、感動して以後キリスト者としての人生を歩んだ、と伝えられている。あ
まりには、多くの意味が一つの言葉の中に込められている。
祝福の言葉と取るか、独善の言葉と取るかは各人の自由、各人の選択にまかさ
れている。扉の向こうには、真理の大海原があるかもしれない。しかし、今自
分の手の中にあるものを真理だと信じ、それを握りしめ、その扉を開けず立ち
去ってしまうこともあるかもしれない。選択は自由である。しかし、「初めに」
聖書が神の存在と行いをなんの説明や証明もなしに悠然と宣言する姿に、ただ
唖然とするのは、どうしてだろうか。初め良ければ、すべて良しである。
「・・」は聖書の言葉(1:1)は1章1節のこと
「・・」は聖書の言葉(1:1)は1章1節のこと
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「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。
それは非常によかった。」
(創世記1:
(創世記1:31)
神が天地を6日で創造した後、最初の聖書の言葉。なんと不思議な響きを持
つ言葉だろう。「非常によい」世界、完全、パーフェクトの世界、古来人間は
理想の世界をもとめ、いろいろなユ-トピア、理想郷を夢み、それを描いてき
た。聖人や思想家、哲学者などが。最近では、共産主義社会などという理想図
を。
しかし、現実の世界はあまりにも、汚れ、乱れ、貧困と差別が満ち満ちてい
る。また、理想に目を向けようにも、毎日の現実は非常に過酷だ。1917年
に成立した、当時の理想卿、共産主義国家ソ連は100年も経ずして崩壊した。
理想と現実、この乖離をどのように埋ればいいのだろうか。理想と現実のどち
らに目をむければいいのだろうか。理想への逃避か、現実への埋没か。
聖書の言葉は、「神が造った」世界としている。そして、神の計画には、極め
て良い世界があり、再びそのような世界、聖書には66巻最後の黙示録という
箇所で「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがも
はや過ぎ去った」世界が来ると約束している。それを、聖書は、天国と言う。
だとすると、天国を得るために、我々はなにをしなければならないのだろうか。
ただ、一言えることは神のマスタ-プランに目を向けることである。神は言
う。人間がつくったユートピア、理想郷のプランは皆、失敗したではないかと。
かつてのローマ帝国が最近のソ連が。
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「それで神は、第7日目になさっていたわざの完成を告げられた。
「それで神は、第7日目になさっていたわざの完成を告げられた。
すなわち、第7日目に,なさったすべてのわざを休まれた。」
(創世記2:2)
(創世記2:2)
聖書の言葉で、「7日目」を安息日という。1週間は7日を1サイクルとす
ることは、聖書を信じない世界の人も等しく受け入れ、99%聖書を信じない
日本人もこれにしたがっている。むかし、ソ連共産国家の独裁者スターリンは
このサイクルが気に入らず変えてしまえと、1週間を10日とする命令を出し
たが、自分をふくめ国民の調子が奇怪しくなり、すぐに命令は撤回された話が
残っている。
聖書は、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。6日間、働いて、あな
たはすべての仕事をしなければならない。しかし、7日は、・・あなたはどん
な仕事もしてはならない」としている。
これをあまりにも厳格、形式的に解釈して、ユダヤ教の教師のように、何も
しないどころか、安息日に一切の労働を禁止することも行き過ぎている。要は
安息日は、体と心の休息日である。反省と感謝の日、補給と次なる計画の日、
6日間のいやなこと、悲しかったこと、辛かったことに目を向けるのではなく、
守られたことに対する神への感謝の日、聖書では7は祝福の数字である。
働くことと同じく休息も重要な日、前進だけで、立ち止まることを知らない
人間は、祝福を得ることはできない。この素晴らしいルールを無視して、働き
ずめで、ワークホリックになった日本人が、休日にも接待ゴルフやサービス出
勤に明け暮れた日本の企業社会が今どうなっているかは、ハッキリしている。
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「神である主は、土のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を
吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」
(創世記2:
(創世記2:7)
人間がなにから生まれたかについては、進化論と聖書のいう創造論の、ふた
つの立場がある。アメーバーから猿にそして人へと進化したことを認めるか、
聖書の言う言葉を認めるかである。
人間の体は約80%は水で、あとは淡白質やカルシュウムで出来ていること
は、中学の理科のテキストにも書いてある。これらは、土から排出できる。ま
た、人は死ねば「土のちり」になるのも、理解できる。あとは、理性や感情の
働きをする心をどう説明するかである。
進化論では、アメ-バから心ができるまでにどれくらいの時間がかかるだろ
うか。以前の50億年から百億年に説を変更したが、実は千億年でもまた、兆
とついても無理であると言われている。聖書では実に簡単に「神」が「いのち
の息を吹き」込んで人間を造ったと、説明しているがどちらの立場をとるかで
ある。
そして、進化論も聖書も行き着くところはどちらを信じるかどうかである。
偶然の成り立ちか、計画的なできごとか、どちらを選択するかである。それを
信仰と言うが、進化論は1859年ダウーインに始まる新興宗教である。まだ、
200年もたっていない。かたや聖書は、3500年前からある。信じること
は選択と同じ意味をもつ。
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「神である主は仰せられた。「人がひとりでいるのは良くない。
「神である主は仰せられた。「人がひとりでいるのは良くない。
わたしが彼のために、かれにふさわしい助け手を造ろう」」
(創世記2:
(創世記2:18)
ユダヤの諺に、「結婚は恋愛の目覚まし時計」というのがある。結婚は男女
が一心同体となり、共同生活をはじめるのである。また聖書によれば、彼(ア
ダム)のあばら骨を取って女(エバ)を造ったとある。そして、男にふさわし
い「助け手」として、できたのである。
男はちりから、女はあばら骨から、したがって材料が違うのだから、当然それ
ぞれは、異なる性質、体質、気質がある。しかし、互いにそれを理解するのに
は、時間が必要である。その時間を与えるのが、結婚である。結婚を人生の墓
場と捉えるか、出発と捉えるかは、結婚前に全部知ってしまったと錯覚するか、
これから全部を知ろうとするのかの違いである。
ちかごろは、結婚前に、性関係、婚前旅行、同棲生活、はては妊娠まで、こ
れでは結婚してから何をするのですか、と問いたくなるのは超保守主義の考え
なのだろうか。結婚前とその後では違うのは当然なのだ。結婚指輪はユダヤ人
が考えたものだが、リンクは結婚が非常に長い時間を必要としていることを意
味するのである。
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「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、
「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、
ふたりは一体となるのである。」
(創世記2:24)
(創世記2:24)
「息子が結婚をするときは、花嫁に契約書を与え、母親に離縁状をださなけ
ればならない」、とユダヤ人の格言がある。子供が結婚をするときは、親は同
じ家に住まないことがルールとなっている。
ここに家族の誕生をみることができる。1番目は「父母を離れ」、即ち独立
のための分離。2番目は、男と「女の結び合い」、最小単位の人間関係の成立。
3番目は夫婦の成立条件。「ふたりは一体」すなわち、二人の一心同体である。
1番目は、近頃では、成人になっても親離れ、子離れ出来ない親子関係が見ら
れるが、家族を形成するための心構えである。
2番目は、家族は、国や社会のなかの最小単位の集団、それは人と人の関係。
神は女を助け手として造られた。
3番目、夫婦の条件は体のみでなく心も一致することがもとめられている。
男はともすれば、物質のみを満足を与えることが、その役割と誤解しているが、
こころ、相手の感情、理性を理解し、受け入れなければならないことを、聖書
は教えている。夫婦が集団の始まり。家族が国家の基本となるのである。
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「神である主は、人に呼びかけて、彼に仰せられた。
「あなたは、どこにいるのか」」
(創世記3:9)
(創世記3:9)
聖書を信じない人でも、エデンの園のことは知っている人は多いだろう。ア
ダムとエバが蛇に欺かれ、神から食べてはいけないと命ぜられた木から実を食
べ、エデンの園から追放されたことを。聖書によれば、これで人は「罪人」と
なったとされる。日本人の多くが、キリスト教に関心や興味をもちながら、聖
書を手にしないのは、この「罪」という言葉に対する反発からである。なぜ、
自分は罪を犯していないのに罪人と呼ばれるのかと。
罪とは、神から離れることの別の表現である。離れたのは、神でなく人であ
る。人の方が神を無視し、適当にあしらい、ある時は冒涜もした。そのことを
一番知っているのは、だれあろう人間、自分自身である。神と結びついている
と誰が言えるのだろうか。人間はみな神から離れている。その点から、人間は
皆、罪人である。
神は叫ぶ。「あなたはどこにいるのか」。その声を今までのように聞き流すの
も自由。無視しても災いも直ちには来ないだろう。神は人間に選択の自由を与
えた。しかし、神はいまも叫ぶ。「あなたはどこにいるのか」と。
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「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」
(創世記9:
(創世記9:1)
ユダヤ人には、「情熱のために結婚しても、情熱は結婚ほど長続きしない」
という結婚感がある。これをさらに、金と銀は、火のなかで精錬されてから、
はじめて輝くと説明している。いつまでも、熱にうかされていては、実生活に
役立たない。結婚すれば、冷えた金や銀の容器のように、冷静になれば、着実
な生活がおくれることの警告としていわれている。
ユダヤ人は神の恵みは妻帯者のみあたえられるとしている。独身者は半人前
なのだ。結婚は聖書では、聖なる義務ととらえている。ユダヤ人の言葉のヘブ
ライ語では、結婚は聖なる事と同じ意味で使われている。
聖書の神は結婚によって、大いなる祝福を約束している。聖書の神は契約の
神だが、神と人間の契約が天と地での基本ならば、男と女の結婚契約も、社会
関係の基本である。
二人が共同生活を営みが、神の祝福、恵みの約束とすれば、そこを出発点と
して、すべての営み、仕事や社会的活動があるのである。したがって、出発は
家庭なのだ。家庭からのみ子供は生まれる、そして増え、「地に満ち」る。
日本が抱える大問題の一つは、少子高齢化である。夫婦でヤットコサ一人の子
供ができるかどうか現状である。子供を増やすことの始まりは、家庭からであ
る。
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「わたしは、あなたと契約を結ぼう。」
(創世記6:
(創世記6:18)
聖書を旧約聖書、新約聖書は呼ぶのは、イエスの誕生の前後に、前に出来た
のを旧約、後を新約、としていることは常識なのだが、とりあえず確認してお
こう。したがって、聖書の神は、「契約」の神と言う場合がある。
そこで、契約だが、法律的には非常に簡単である。申込みと承諾の2つ言葉
が合えば成立する。ちなみに、聖書では、決め事を律法というが、法律はそこ
に語源がある。法律は決め事の集大成である。そして、法律を逆さに読めば律
法である。また、法律の根本は契約である。
契約はある関係を作ることのために行なわれる。聖書の場合、神と人間との関
係である。神とそれを信じた人間との一対一の関係である。したがって、キリ
スト教とは、神との関係をはっきりさせる宗教だと言う人がいる。
聖書の神は言葉の神である。したがって、言葉のはっきりしない、言葉のあ
いまいな日本人には、本質的に聖書が遠ざかるのは無理からぬことかもしれな
い。しかし、グローバルスタンダード、国際化は今や常識、そのなかで契約の
意味を考え直すことも、常識かもしれないがまずは言葉の曖昧さを直すことか
らかもしれぬ。
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「あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻と
一緒に箱船にはいりなさい。」
(創世記6:
(創世記6:18)
「結婚の鎖はとても重い。時には男女二人だけでなく、子供もいっしょにな
って運ばねばならない」、というユダヤの諺がある。聖書の言葉は、有名なノ
アの「箱船」の箇所である。神の怒りで、ノアの家族以外、すべての人はひと
まず水の中へ、すなわち死んでしまった。神に対する忠実と敬虔な心で仕えた
家族を残して。
しかし、男女二人の結びつきが、子供を産み、二人はより多数の人間関係を
生み出すが、出発は二人である。そして、結婚は鎖、それを黄金の鎖とユダヤ
人はいうが、日本人なれば、さしずめ赤い糸で結ばれたというのであろうか。
神は新たな人間の出発を、一組の家族から見本を見せられた。結婚は人間の
共同生活を営む上で、重大なことである。そして、子供は欠かせないし、子供
を育てていくことは、両親の義務と同時に喜びでもある。
近頃は、家族の崩壊が叫ばれているが、家族こそが、社会の出発、国家の基
礎ならば、もう一度、各人にとり家族はなにかの意味をそれぞれが問いなおし
てみる必要があるのではないだろうか。
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「それで人の齢は、百二十年にしょう。」
(創世記6:
(創世記6:3)
日本は世界では名だたる長寿国である。それも超と付くぐらいだそうである。
あと数年すると女性の平均年齢90歳になるとも言われている。高齢化問題は
今後の日本の大問題だ。
明治の初めの50歳前後と比較すると驚くべき、長寿ぶりである。しかし、
聖書は90歳の上を行く「120」歳というのだ。現に日本で過去の最高令者
は120歳を越えた女性の方もおられた。そうすると日本にも平均年齢が12
0歳時代がくるとだれが否定できるだろうか。明治の初め、100年後の日本
の平均年齢が80歳をこえるとはだれも予想できなかったように。
長寿化は喜ばしいことである。しかし、問題も多くある。それは日本人の高齢
者は、病気勝ちの方が多い。病院はお年よりであふれている。長生きは、元気
で長生き、そして加えて長患いなどしたくない。だとすると、聖書は、元気で
長生き、ぽっくりと、が原則かもしれない。
聖書の登場人物の多くは、平安な老年を迎え、長寿を全うして生き絶えて死
んだ、とある。旧約聖書の最初の1巻目、創世記の記者だったモーセも120
歳で死んだと書かれている。人は始めがあり、終わりがあるが、始めは用意で
きない。しかし、終わりは、用意できる。長寿を全うした人生をおくりたいも
のだ。
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12
「ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、
水は地上からかわき始めた。ノアが、箱船のおおいを取り去って、
ながめると、みよ、地の面は、かわいていた。」
ながめると、みよ、地の面は、かわいていた。」
(創世記8:13)
(創世記8:13)
1年の計は元旦にあり。日本人が、元旦、1月1日に、神社仏閣に初詣する
人は、数千万人の人だという。この数字をみて、日本人が宗教心があるのかど
うかは、即断できないが、確実に言えることは、この数千万の人が、聖書の神
を信じていないことである。
その理由の一つにいつもされることは、聖書は外国の宗教だということであ
る。日本人の文化伝統に根ざしていないと。外国の宗教だと。しかし、この聖
句は、聖書のなかの、ノアの箱船の箇所、人類がノアの家族以外皆死に絶え、
新しく出発した、記念すべき日、「年の第1の月の1日」すなわち、1月1日
の記事で、元旦のことである。
聖書は3500年前から1月1日は、特別の意味をもって、新しい出発を説い
ている。1月1日を特別な日として位置づけている。聖書の考えや文化が日本
に入ったのは、1000年以上も前とは、多くの学者に実証されている。日本
の文化伝統に根ざさなかったのだろうか。知らないだけでないか。元旦は日本
人の文化伝統の先祖帰りの出発の日なのかも。だからといって、日本人の祖先
はユダヤ人だとするのは、完全なこじつけであるが。
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「あなたは、あなたの生まれた故郷、あなたの父の家を出て、
わたしが示す地へ行きなさい。」
(創世記12:
(創世記12:1)
人は帰るところと、出て行くところがなければならない。特に働く成人は。
近頃のリストラという首斬りで行くところがなくなった人達の悲劇は、毎日新
聞紙上を賑わしている。加えて、ローンが支払えなくなり、家を手放す悲劇、
加えて離婚という更なる悲劇も、同様に紙面にあふれている。文字どおり、帰
るところが無くなり、行くところがなくなったのである。ホームレスの人達は、
都会の公園等にあふれている。
聖書に登場する、アブラハムも、同じ立場であった。「家を出て、わたし(神)
が示す地」へ、彼は帰るところの故郷を捨て、未だ見ぬ地へ旅立ったのである。
ただ、神の命令に従って。単なる転勤や単身赴任でない、過酷な命令である。
しかし、彼の素晴らしさは、単純にその命令に従ったことである。彼は神を信
じた。神の約束を信じた。その結果として、彼は神から大いなる祝福をえるこ
とになる。そしてユダヤ民族の始祖となる。
われわれ一人一人にこのような、命令が下されればどうするだろうか?それ
を社命や任務と人間社会では言うが、その社命、どこへ行くか分からない、帰
るところも保証されないそんな社命に従えるか。しかし、神からの使命はちが
う。それは祝福のある夢なのだ。
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「彼は主を信じた。主はそれを彼の義とみとめられた。」
(創世記15:
(創世記15:6)
「彼」とはアブラハムを、「主」とは聖書の神のことである。アブラハムは
聖書では信仰の父と称されている。それもキリスト教だけでなく、ユダヤ教、
イスラム教の世界の3大宗教においてだ。
たしかに、アブラハムは信じることにおいては、人並み外れていた。神の約
束により、100歳に自分の子ができることを。普通の人間ならば、生きてい
くこともやっとの歳に、子供が出来るなどどうして信じることができるのだろ
うか。しかし、彼は信じた。そして神はそれを見て、義として良しとされたの
だ。そして、実現し、長男イサクが誕生する。
アブラハムが信仰の父と言われているが、実は特別な働きがあったわけでは
ない。聖書には、彼以上に特別な働きがあった登場人物であふれている。しか
し、アブラハムは、ただただ、「主(神)を信じた」、そして「義」すなわち、
正しいとみとめられた、見えない神を。彼ほど神を信じた人物は聖書にはあま
り見つからない。信仰とは、見えなくとも信じるかどうかである。そして今は
見えなくとも信じる、ここに大いなる力があり、そこに大いなる力の源泉があ
る。神は問う。あなたは見えなくとも信じることが出来るのかどうか。祝福は、
今見えていないものから始まるのだ。
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「わたしはあの子を大いなる国民とするから。」
(創世記21:
(創世記21:19)
現在の世界は、ある意味で宗教戦争の世界版を見るようだ。9・11のアメ
リカのニューヨーク、世界貿易センタービルへのテロ行為は、イスラム教から
の、キリスト教、ユダヤ教への挑戦とも見ることができる。中東での争いもそ
うである。宗教戦争は確信犯同志の争いだから、手がつけられないとある人達
はいう。
聖書はどう言うか。実は、聖書のこの言葉は、イスラム教の始祖である、
イシュマエルに送った神の言葉である。「わたし」とは神であり、「あの子」
とはイシュマエルのことである。イスラム教の開祖マホメットは、イシュマエ
ルの血を引き、また旧約聖書の影響を受け、コーランを書いたとされている。
イシュマエルは、聖書の約束に従って、アラブ民族の父となり、アラブ民族は
自国から湧き出る石油で無尽蔵の富を得て、「大いなる国民」とされているこ
とは今日見るとおりだ。そして、このイシュマエルの父はだれあろう、アブラ
ハムなのである。
しかし、正妻の子イサクに、アブラハムの後継者の地位を譲らねばならなか
ったのである。イサクからユダヤ民族の流れは続く。イシュマエルからはアラ
ブ民族の流れ。イサクとイシュマエルは、義兄弟なのだ。だとすると、我々は
歴史を経て、兄弟喧嘩を見ているのだろうか。兄弟は他人の始まりか。しかし
兄弟はやがて手を結ぶように、兄弟喧嘩はやめなさいと、誰かが言いうだろう。
兄弟の造り主、神が。
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「見ろ。あの夢見る者がやってくる。
」
(創世記 37:18)
37:18)
この聖書の箇所は、アブラハム、イサク、ヤコブ、と続くユダヤ民族の流れ
で、ヤコブ12人の子の一人ヨセフにつけられたあだ名「夢見る者」である。
ヨセフの人生も波瀾万丈だが、最後には、エジプトの宰相にまで上りつくのだ。
ヨセフが他の11人の兄弟から、憎まれ、疎まれ、それどころか、罠にかけ
られ奴隷としてエジプトに売られることになるのだが、何故そうなったのか。
それは、ヨセフは他の兄弟と異なって、常に夢をもっていたこと、目標があっ
たことである。そしてそれは平凡でなく桁はずれに大きいかったからにある。
大きな目標は、それにともなう障害もそれに比して大きいのはある意味当然
である。ヨセフの夢を兄弟と言えども理解できなかった。余り大きいすぎたの
である。しかしヨセフは、神から与えられた目標に向かってあらゆる障害を、
神によって取り除かれ、進んでいったことが、聖書の成功の秘訣でもある。
ヨセフの特徴は、もう一つ、セルフイメ-ジの高さである。神から、それも無
限の力を持つ神から愛されている、それを信じることができるイメ-ジである。
われわれは、どんな夢をみているだろうか。他人から、
「夢見る者」と言われる
ように常に夢をみているだろか。
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17
「主が彼とともにおられ、彼が何をしても、
主がそれを成功させてくださったからである。」
(創世記39:
(創世記39:23)
聖書は人間の「成功」について秘訣を書かかれた書物でもある。そのなかで
「成功」の文字も何箇所かでてくるが、その一つがこの個所である。アブラハ
ムの曾孫にあたる、ヨセフに対して、そして彼が大成功する物語が書かれてい
る。
聖書による成功の秘訣は、神とともになすことと、説かれている。人間はど
うしても、自分の力で、我力で成功をすることに夢中になるが、聖書の道は別
である。
神は無限の力をもっておられる。その力にすべてをまかせることが、秘訣で、
またそれが条件だという。したがって無理がない。また、一見無駄のように見
えても、最後は目標に達するのである。
自分の力にのみ頼らない。したがって自分に対しても過信しない。あくまで、
成功の道は、神とともに歩むことである。聖書の神は、インマニエルとも言わ
れている。それは、共にいる、共に歩むという意味があるが、無限の力をもっ
ている神をともに歩めば、恐れることなどないのである。
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「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
」
(出エジプト記20:13)
(出エジプト記20:13)
10戒の一つ、聖書の神は、他の神の存在を認めない、いや、その存在を許さな
い。「わたしが主(神)である。わたしのほかに神はいない」と唯一の神であると、聖書
は50回以上の箇所で宣言する。日本は特に八百万(やおよろず)の神々と言いうか
ら、際立った相違点。
神々としているのは、神の間で神の仕事(神の業=かみのわざ)の分業をしている、
とか見えない。とげが刺されば、とげ抜き地蔵、目がわるければ薬師如来、結婚は出
雲の神で、受験なら天神さんだ。家のなかでも、火の神、水の神、果ては便所の神だ。
仕事の分業の打合せで、日本の神々は会議、会議の連続で忙しいことだろう。
唯一の神を反対する人々は、神はもともと寛容で、独断的でなく、他の神の存在を
も許容するはずと、言う。それに対しては、聖書の神は「ただ、ひとり」と言い切る。ほ
かの存在と比べられて、認められるような相対的な存在でなく絶対的な存在としての
自信。
自分の父母が、沢山あることに聖書は疑問を抱く。自分を真に愛してくれるのはひと
つの父母。沢山あるのは、信じているのでなく、利用しているとしかみえないと。唯一
の神を認めることは、神に対する忠誠であり、神への人間ができる最低の、いや精一
杯の愛である。
19
19
「殺してはならない。
」
(出エジプト記20:13)
(出エジプト記20:13)
10戒の一つ、聖書の神が定める戒めを律法と言うが、その一つが、モーセ
をとおして言われたこの言葉だ。通常10戒とか、モーセの10戒と言われて
いる。その一つ「殺してはならない」は通常、自分以外の他者に対するものと
とらえられているが、厳密には、自分を含めた人間すべてが入る。自分を「殺」
すこと、自殺(自死)も同じ、神により禁じられている。
日本で、現在殺人の記事が毎日のようにテレビや新聞で伝えられている。特
別は事ではなくむしろなれっこになっているふしもある。恐ろしいことに、何
故、人を殺してはいけないのですか、と問われて答えが即座にでないほど道徳
倫理が乱れている。聖書の立場によれば、神の命令である。単純な結論である。
生命は神が与え、神が奪うとされている。人間の生殺与奪権は神にあり、人間
にはないとされている。単純だが、明快な回答だ。
殺人に対し、新聞、テレビやその原因や動機をあれこれ詮索する。しかし、最
も大切なことは、結果の重大さに対する、反省と再犯防止である。自殺もまた、
一時の安らぎを得たと錯覚したとしても、その代償は大きい。罪のまま、死ぬ
のか、罪許されて新しい世界へ行くのか、と聖書は言う。
殺すなを守ることは、人間が神でないことの証拠にもなる。神により造られ
た人間、造られたものと造ったものの立場を分けることは、神への愛の表現で
ある。
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「姦淫してはならない。
」
(出エジプト記20:13)
(出エジプト記20:13)
10戒の一つ、クリスチャンと言われている人が、聖書をよく読んでいるのか、たと
えば、10 戒を全部言えるかと聞いてみると実態がわかる。ちなみに 10 戒だが、要約
すると、以下のようになる。
1、あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。2、 あなたは
偶像を造ってはならない。3、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはなら
ない。4、安息日を心に留め、これを聖別せよ。 5、あなたの父母を敬え。
6、殺してはならない。7、姦淫してはならない。8、盗んではならない。
9、偽証してはならない。10、隣人ものを欲してはならない。
旧約聖書の登場人物で、英雄的な一人にかならずあげられるのが、ダビデであ
る。イスラエルの王であり、旧約聖書の詩篇の半分は彼の手によるとされてい
る。しかし、かれは、また、聖書の他の箇所で、10 戒の内、6、殺すな、7、
姦淫するな、8、盗むな、10、他人のものをほしがるな、の戒めを破ったこ
とが書かれている。今の刑法でも、重罪犯人である。しかし、神はかれを許し
た。なぜか。彼は詩篇の中で、このように、神に悔い改めた。
「 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私の
そむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪か
ら、私をきよめてください。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前に
あります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行
ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あ
なたはきよくあられます。」
すべての罪が悔い改めにより、神の前では許される一つの証拠である。
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「占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊
媒をする者、口寄せ、死者にお伺いを立てる者があってはならない。
これらを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。」
(申命記18:10、11)
(申命記18:10、11)
当たるも八卦、当たらぬも八卦、占いの好きな人がいる。好きを通り越して、
毎日、新聞、雑誌、テレビで占いを見なければ落ち着かない多くの読者がいる。
その数は相当なものだろう。では、それがたしかな根拠のある情報としてみて
いるかというとそうでもない。その殆どは、なにげなしに、ただ漠然というの
が殆どであろう。
聖書の神は、占いの類を「忌みきらわれる」。いや、それらのものを神のこ
ころに反するものとして厳しく罰する出来事が聖書の記事にあふれている。
占いは将来のことに対する不安、恐れの気持ち、人間の弱点を突いた悪質な未
来予想であると聖書は弾劾する。
なぜか。それは、将来のこと、未来のことはすべて神の計画の領域だからで
ある。未来のことに人間は立ち入ることはできないし、どうすることもできな
いのである。占い師や予言屋と称する者達が、どうなったかは歴史をみればは
っきりする。恐れる対象は、未来ではなく、神である。全権を掌握している神
こそ恐れなければならないのである。占い師は程度の悪い予想屋である。
大きな小豆ほどのダイヤ等の宝石をいくつも手につけて、したり顔で、テレ
ビでいろんなことを予言するタレントきどりの女占い師がいるが、他人の未来
よりも、あなたの未来はどうなっているのですか、と聞いてみたくなるのは酷
な注文なのだろうか。
22
22
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。
恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あ
なたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。
」
なたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。
(ヨシュア記1:9
(ヨシュア記1:9)
マーガレット・パワーズさんというクリスチャンはこんな詩を書いた。
「ある夜に、その人は夢をみた。夢の中で、今まで自分の歩んできた道、自
分の人生を振り返っていた。すると、ちょうど砂浜に足跡が残るように、ずっ
ーと自分の歩んできた道に足跡があった。その足跡が二人分だった。自分の足
跡と、共に歩んでくださる神の足跡。
ところが、よくみて見ると、ところどころに、足跡が一人分しかないところ
があることに気付いた。しかもその時は、自分が一番苦しかったり、悲しかっ
た時、もう自分の力では歩くことが出来ず、うずくまること、うめくことしか
出来なかった時だった。だからその人は、神にこう尋ねた。「神さま。あなた
はいつも一緒にいてくださると約束してくださったではありませんか!私はあ
なたを離れず、あなたを捨てないと約束して下さったではありませんか。それ
なのに、どうしてあなたは、私が一番あなたの助けを必要とした時に、私を見
捨てて、私から去っていかれたのですか!」と。
すると、神はこう答えた。
「わが愛する子よ。私はあなたを愛している。あな
たが自分の力では歩けなかった時には、わたしがあなたを背負って歩いたのだ
から、足跡は一つしかなかったのだ。」「あなたの行く所どこにでも、あなたと
ともにある」のである。
23
23
「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、
私の身にふりかかったからだ。」
(ヨブ記3:25)
(ヨブ記3:25)
聖書の登場人物は、何人いるのか数えたことがないので、分からないが、最
も悲惨な登場人物の一人は、旧約聖書のヨブ記の登場するヨブであることは、
間違いないだろう。
彼はウツというところの、当地きっての大金もちだった。家族にもめぐまれ、
10人の息子娘がいた。ところが、ある時、それらを一瞬にして失ってしまう。
それどころか、自分自身も全身悪性の腫物ができてしまうのです。文字どおり
踏んだり蹴ったり、万事休すの状態になるのです。
しかし、聖書には、ヨブは「潔白で正しく、神をおそれて、悪から遠ざかっ
ていた」と書かれた人だったから、一層なぜ?と、問いたくなるのは当然であ
る。聖書には、その理由が2つ書かれているが、その一つがこの聖句である。
それは、彼自身の口から、言うように、この聖句にはっきりしている。
「私の最も恐れたものが」とあるように、裕福なヨブ、家族に恵まれたヨブ、
信仰深かったヨブ、しかし、内心は、恐れていた。いつかこの祝福が、豊かさ
が消えてしまわないか、取られてしまわないかと。実は内心はビクビク。
潜在意識というのがある。建前でなく、本音の世界。これが実は本心の世界。
建前は氷山の一角、いくら、うわべで、良いことを言い、もっともらしいこと
を口にしても本心がものをいう、その世界。これがヨブに実現したのだ。彼の
本音が実現したのだ。聖書の世界は本音の見る。本心から、願い、思い、考え
ているのかと。
24
24
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
(ヨブ記1:
(ヨブ記1:21)
ヨブ記の登場するヨブが聖書では最も悲惨な人の一人だろう。彼は信仰の人
だった。義人とも言われた。この聖句は、彼に起こった災難、すべての家族、
財産を失ったときに彼が、神に向かって言った言葉である。彼は「神に愚痴を
こぼさなかった」と、続いて聖書に書かれている。みやげた信仰、あっぱれな
信仰者である。
では、何故、彼のような道徳的、倫理的に優れた人がこのような災難に遭遇
するのか。むずかしく、義人の苦難の問題とも言われている。これは、聖書の
いう信仰とはなにか、という問題とも言い換えることができる。我々は何故神
を信ずるのか。いや、神を信ずるということはなんなのか、である。
聖書以外の神の信仰は、御利益(ごりやく)信仰が基礎になっている。御利
益があるから、神を信じる信仰、御利益を信じる信仰である。家族が豊かに守
られているから、神を信じる。金が、富、健康が与えられているから、神を信
じる。
しかし、それらが全部「取られて」しまったのちもなお、神を信じることが
出来るか、何もなくなっても神を信じるか。ヨブは、この過酷な、挑戦を突き
つけられたのだ。そして、彼はこの挑戦に勝利する。彼は、なにも無くなった
後もなお、神を信じた。彼の信仰は御利益信仰でなかった。彼は聖書の神を信
じきったのだ。そして彼は神から多くの祝福を「与え」られた。
25
25
「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。わ
たしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟
ることができるなら、告げてみよ」
(ヨブ記38:2~4)
(ヨブ記38:2~4)
旧約聖書、ヨブ記に出てくる神の直接の言葉である。信仰の人ヨブ、正しい
人で義人と言われたヨブに起こった災難を巡って、ヨブと彼の友人が取り交わ
した、その原因をめぐる論争の後の神の言葉である。 ヨブ記にはさまざま教え
が書かれているが、神とは、と言うことも大きなテ-マの一つである。聖書の
神とはどのようなお方なのか。
神が愛の方ならば、なぜ人間はこのような色々の苦しみにあわねばならな
いのか。愛と苦難は、両立するのか。ヨブと友人のその原因をめぐる論争があ
るが、結局は、人間ではわからない。人間が知る知恵や知識のレベルでは、答
えられないのだ。「摂理」は結局の所、無いのだ。
聖書の神は愛の神である。したがって、神が神を信じる者の不幸や、苦難を
願う事など有りないのは当然だ。しかし、苦難や、不幸はやってくる。この原
因は我々が神から離れ、神から遠のいたことからきている。ヨブのみならず全
ての人間が負う宿命である。
神に帰れ。一時的には、理解できなくても、その時はわからなくてもよい。
その試練の向こうに神の定めた祝福が用意されていると信じる。万事を理解で
きなくても、ただ神を信じよう。聖書の神は、「地の基を定めた」天地万物の
創造主。全ての支配者。王の王。神こそ「摂理」を語れるお方と、聖書は言う
のである
26
26
「あなたには、すべてができることを、あなたは、どんな計画も成
し遂げられることを私は知りました。それで私は自分をさげすみ、
ちりと灰の中で悔い改めます。」
(ヨブ記42:
(ヨブ記42:2・6)
ヨブ記は旧約聖書のなでも、難しい書とされている。なぜなら、信仰とはな
にかを、神が我々に問われている書でもあるからだ。
なぜ、われわれは、神を信じ、あるいは逆に信じないのか。その多くの答え
が、信じる者は、神が何々をしてくれたから、何々を与えてくれたからであり、
逆に信じない者は何々をしてくれなかったから、与えてくれなかったからとい
う理由である。条件と結果である。
これは人間のある部分の本質である。人間の弱さ、人間の我欲の本音でもあ
る。しかし、聖書の神の問いかけは、はたしてどうか。聖書の神は無条件を要
求する。自分にとり良い結果がなければ、神を信じることができないことを拒
否する。信じることは、無条件である。
神が我々に与える喜び、祝福、富、豊かさは、我々がなにかを成したからと
いう、条件付きで得るものなのだろうか。善行、難行苦行、献金、奉仕、一切
不要。聖書の神は一切要求なし。神の愛は無条件の愛である。祝福もそう、豊
かもそう、富もそうである。一番大切な魂の救いもそうである。
だとするなら、与えられる側の者もそうでなければならないのである。なに
もなくともよい。しかし、ただ神を信ぜよ。ヨブはそうすることにより、失っ
た富や豊かさの倍の祝福を神から得るのである。神に対して一時は疑問を持っ
たヨブの「悔い改め」の祈りが、この聖句である
27
27
「私は声をあげて、主に呼ばわる。
「私は声をあげて、主に呼ばわる。
すると、聖なる山から私に答えてくださる。
」
(詩篇3:4)
(詩篇3:4)
わたしは、神を信じていないから祈ったことがない、という人がいる。そも
そも聖書は祈りの書とも言われている。聖書は祈りの言葉で満ちている。では、
祈りとは、何だろうか。簡単に要約できないが、神との対話、会話だと定義す
れば、答えは100%の正解でないが、何%かは当たっている。
この聖句は、ダビデが神に対して行なった祈りである。「主(神)に呼ばわ
った」とあるから、ずいぶん乱暴な会話である。しかし、これも聖書のなかの
祈りの一つである。証拠に神がダビデに「答えて」くれたとあるからである。
祈りをなにか特別な宗教儀式のように捕らえている人が多いが、聖書はそう
ではない。むしろ、神を信じない人も、無意識のうちにしているのでは。ある
人は、心臓発作のとき、おもわず、助けてくれと叫ばないだろうか。大きな地
震に遭遇した人で、おもわず、助けてくれと叫ばなかっただろうか。叫びもま
た、祈りである。
ただ、聖書の祈りは、誰に向かってそれをするのと、質問する。鰯の頭の信
心からではない。「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があって
も聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩
けない。のどがあっても声をたてることもできない。」このような神を聖書で
は、偶像というが、確かに答えてくれる神との語らいが、聖書の祈りである。
28
28
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことはありません。 主は私を緑
の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」
(詩篇23:1~2)
(詩篇23:1~2)
聖書66巻の19巻目の詩篇には多くの祈りがある。この23編も祈りであ
る。詩篇は150あるがその中で人気ベストスリ-にこの23編が入るだろう。
この言葉が人の命や魂を生き返らせるからかもしれない。
作者のダビデはイスラエルの王であり、軍人でもあった。しかし、聖書には、
彼は若くして紅顔の美少年であったこと、竪琴の名手、そして詩人で、この詩
篇の約半数を書いたことが記されている。凡人の目から見れば言うこと無しで
ある。
だが彼ほど苦難に満ちた波瀾万丈の人生を送った者はいないことも記されて
いる。その辺はまず聖書を読まれることだ。又彼は人生で多くの過ちを犯すが
いつも神の元に立ち返ったことが描かれている。神を信じていることおおやけ
に、ハッキリさせることを、信仰告白というが、それが23編でなされている。
祈りの中身の一つが信仰告白である。「主」とは神であり、「羊飼い」の羊
に我々人間が例えられている。羊は家畜の中で最も弱い生き物だ。その羊は「羊
飼い」がいなければ生きていくことができない。そんな存在。
後にイエスは「わたしが来たには、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つた
めです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
とも言われたのです。
29
29
「神よ、わたくしの内に清い心を創造し、
「神よ、わたくしの内に清い心を創造し、
新しく確かな霊を授けてください。」
(詩篇51:12)
(詩篇51:12)
祈りに我々はなにを託するのだろうか。過去におこったことへの感謝、未来
におもいを馳せる願い、それもある。しかし、聖書の祈りの特徴の一つは、日々
変えられることを思う、自己変革である。毎日変えられる自分。キリスト教は
現在進行形の宗教と言った方がいるがその指摘は誤ってはいないだろう。
自己実現、自己完成を願う多くの宗教があるが、聖書は一貫として、変えら
れる自分を基準におく。理由は、我々は神になることはできないという、前提
があるからだ。自己実現の願いは自ら神なる願い、そんな過ちはもう経験済。
人間はあくまで未完成、人間はいつまでたっても、炭団。真っ暗なまま、そん
な汚れた自分、ただし、炭団に火が入り、真っ赤に燃え、そして燃え尽きる。
しかし、その後も灰色の燃えかす、やっぱり白くはなれない。比べるのは他人
との間でなく、昨日の自分との差、これが今日の目標、今新しくなって生まれ
変わる、作り替えられる。
神様、昨日までのことを感謝します。未来の夢や希望も貴方は知っておられ、
その実現に手を貸して下さることも信じます。そしてそのために、昨日のわた
しでなく、「新しい確かな霊を授けてください。」そして今日、作り変えてく
ださい。
30
30
「私はあらゆる時に主をほめたたえる。
私の口には、いつも、主への賛美がある。」
(詩篇34:1)
(詩篇34:1)
祈りとはなんだろう。神への願い、感謝、とりなしと言う他人のための祈り
があろう。聖書が言う祈りには、加えて「主(神)をほめたたえる」賛美があ
る。聖書の祈りで際立っているのが、賛美だという人もいる。ゴスペルソング
での「ハレルヤ」コ-ラスは神への賛美の歌である。近頃は日本でも、意味不
明に、明日の天気は晴れるや、と歌っているCMがあるが、ハレルヤは、聖書
の神への賛美の世界共通語であることを、知ってか知らずか。
ハレルヤ、神を称えます、褒めたたえます。これは相手が誰かが、どんな存
在かがはっきりしないと出来ないことだ。八百万の神々を信じている日本人に
はむずかしいことだと言えるだろう。神の名が余り多き過ぎるから。
聖書の神への祈りはまず神への賛美からはじまる。「天にいます私たちの神よ。
御名があがめられますように」とイエスが来て、イエスの名前で祈るようにな
った。神をほめたたえる。「たましいよ。主をほめたたえよ。」旧約聖書時代、
神の名を唱えることは恐れ多いと、神そのものを口にだすことすらなかったが、
今は「いのちのあるかぎり、わたしの神に、褒め歌を歌おう」と「その大能の
みわざゆえに神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さゆえに、神をほめたたえ
よ。」と賛美する
31
31
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申
し上げよう。
」
(詩篇91:1)
(詩篇91:1)
現在(2010年1月)イラクの戦いは終末を迎えているが、アフガンの戦
いは泥沼状態である。毎日多くの兵士が亡くなっている。少し前(1960年
代)のベトナム戦争もそうだった。共通していることは、戦いの前線の兵士の
危険はいつも同じ。これは時代を越える出来事。兵士はなにを頼り、なにを信
じて戦場に向かえばいいのだろか。どうすれば、命の安全、身の安全を守るこ
とが出来るのだろうか。
アメリカの軍隊には専属の牧師が従軍する。そして、兵士とともに祈る。そ
の時よく読まれるのがこの詩篇91編である。「私は主に申し上げよう。わが
避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。と」人は命の危機の時、恐怖の時、
何に、誰に頼ればいいのだろうか。それも最も危険な位置にいる前線兵士は。
「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を
避ける。主の真実は、大楯であり、とりでである。」人は絶対絶命の危機に誰
にすがれるのか。それは絶対的な力を持つ存在、絶対的な救いの存在、それを
信じることは、人間の弱さなのだろうか。
「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。」
「千人が、あなた
のかたわらに、万人が、あなたの右の手に倒れても、それはあなたには、近づ
かない。」
32
32
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。
私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」
私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」
(詩篇42:1)
(詩篇42:1)
チチンプイプイ、祈りはどのようにすればいいのだろうか。関心のある方の
質問である。聖書からの答えはたくさんあるが、聖書の記事の中で最も祈った
イエスがその秘訣をいくつか教えている。
まず、「同じことばをくり返してはいけません」とされている。日本の新興
宗教のなかに、同じ言葉を繰り返して、それも何時間も叫びつづける人達がい
る。「ことば数が多ければ聞かれると思っている」からだろう。聖書の祈りは
只の繰り返しを勧めない。呪文といって、冒頭のような訳の分からない言葉、
これを特に忌み嫌う。
なぜ?それよりも、回数や時間でなく、「こころをつくした」祈りが求めら
れる。愛する人へのラブレタ-にはまさか同じ言葉を羅列しないだろう。意味
のない言葉は言わないだろう。まず失礼だろうし、心の思いは瀬一杯伝えるだ
ろうから。神への思いも同じ。
次に、祈りはカッコよく人に見られたり見せたりするものでないこと、形式
ではないですよ、と教えている。聖書の言う祈りは祈祷師の類は不要である。
中身がものを言う。やはり、「こころをつくした」祈りである。
33
33
「主を恐れることは知識のはじめである。
愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」
(箴言1:7)
(箴言1:7)
成功のために必要な「知識」や「知恵」を得るためになさねばならないこと
は、学びではない。それは、2の次、または2つ目の条件である。まず、しな
ければならないことは主(聖書の神)の前で、恐れること、神への畏怖のここ
ろである。人間ではなしえない事柄が余りにも多すぎることへの、人間のあま
りにも小さな存在であることへの自覚である。神の偉大さを知ることが先ず始
めなければならないのだ。
「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ」
(2:6)。
ともいう。成功のための知恵を得ることの方法がある。御口とは、聖書のこと
ばである。聖書を読み、味わい、その言葉に瞑想の時間をかけることである。
ちなみに、聖書では知識とは、神を知ることをいう。また神に近づくことだと
いう。
古来、人間は自分を知ることのみに時間をかけ過ぎた。しかし、主(聖書
の神)をどれだけ知っているだろうか。あるキリスト者はこんな祈りをしてい
ると言う。
神よ。もしそれが神のされたことで、私には到底およびつかないことでしたら、
それを静かに受け入れる心を与えてください。しかし、それが私の手で出来る
ことでしたら、それに挑戦する強い勇気をお与えてください。そしてそのいず
れかであるかどうかの識別する知恵をあたえてください。
34
34
「心を尽くして主により頼め。自分の悟りにたよるな。」
(箴言3:
(箴言3:7)
聖書による成功の秘訣は、あくまで自力、我力を排することである。己を
空しくする程度ではない、己が無くなるレベルである。人間主体ではなく、神
主体なのである。「主(神)により頼め。自分の悟りにたよるな。」
人間本位の人間主義ではなく、神の下にある人間主義である。自分の悟りと
は、海を前にして、その海水を自分の手中に入れたような程度のものだからで
ある。
「知恵の初めに、知恵を得よ」(4:7)。人間が知恵をもつには、通常ま
ず経験や先人の知識の学習から始める。聖書は、まず神がなんであるか、神を
知ることが始めであるとする。知恵を得ることは、人間の頭を働かせることで
なく、聖書の神と自分との関係を知ること、正すことにあるとする。神あって
の自分の存在、これを確認すること、なんとも味わいのある聖書の\言葉である。
ヒュ-マニズムというの名の人間の傲慢(ごうまん)と不遜(ふそん)は、た
だ神の前で、謙遜(けんそん)と遜り(へりくだり)に変えねばならない、こ
ころを尽くす、全身全霊で神を知ることである。
35
35
「あなたは若い時の妻と喜び楽しめ。」
(箴言15:18)
(箴言15:18)
聖書は成功の秘訣は家庭を守り、妻を愛する事だと何度も説いている。これ
がいかに難しいことか。この箴言の記者のソロモンが、余りの富を持ったが故
に、多くの妻を持ち(700人、ほかにそばめが300人計1000人)それ
が彼の子の時代に影響を及ぼし、父ダビデが築いた王国、王朝の崩壊を招いた
ことが、聖書に載っている。だとすれば、なんとも意味のある言葉である。成
功の美酒は、「若い時の妻」糟糠の妻とともに味わうものなのだ。
あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない(7:25)。聖書は「姦
淫をしてはならない」と戒めている。モ-セを通して、神から人間へと与えら
れた10戒の1つでもある。父ダビデと、元ウリヤの妻バテシェバは姦淫をし
た。後二人は結婚するが、結果、出来たがソロモンである。
他人の妻を無理やり自分のものにした、ダビデは悔い改め神からの許しを得る
がその災いは、3代目のソロモンの子達(ダビデの孫)に及ぶ。テレビ、週刊
誌で姦淫励賛、賛美の現在の日本。人工中絶大国の日本、が犯している罪は、
日本国家をも巻きこむ悲劇はもう始まっているのかもしれない。
36
36
「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。」
(箴言6:
(箴言6:6)
6:6)
聖書は成功の秘訣は勤勉であると説いている。イソップの童話にも出てくる
蟻の姿は、人間への警鐘でもある。聖書によれば、万物の支配者としての地位
を与えられたにもかかわらず、「蟻」から「そのやり方を見て」教えを請わね
ばならないとは。フリーターならまだしも、ニートという働く意欲のない若者
が激増してきている日本、勤勉と言うこのあたり前の言葉が日本で失いかけて
きて、何年になるだろうか。勤勉が家庭を、企業を、国を守る。勤勉とは、コ
ツコツである。
今日、コツコツする者とそうでない者との差は、わずか0.01ほどの目に
みえないほどのものであろう。成す方はプラス0.01、成さない方はマイナ
ス0.01とする。しかし、それが100日後には、片や1.01×100回
で2.76になり、片や0.09×100回で0.976となる。1日のわず
かな差は、わずか100日後でも、決定的な差になるのだ。
「眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすれば、
(20:13)。人間だけが、自然の流れに反して睡眠でき
パンに飽き足りる。」
る唯一の生き物である。惰眠をする者やダラダラ深夜族に成功者は見当たらな
い。早寝早起きこれは古典的だが、これも聖書が語る成功の秘訣である。
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37
「おこりっぽい者と交わるな。
激しいやすい者といっしょに行くな。」
(箴言22:24)
(箴言22:24)
類は友を呼ぶ。その人を見たければその友を見ればわかる。「おこりっぽい
者」は感情を支配できない者である。感情を支配できない「激しいやすい者」
は感情の激流に流されるだけである。そんな不安定な人との交わりを拒否しよ
う。自分もそうならない為である。そんな交わりより、聖書の神との交わりが
最も大切だから。
愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。
成功の秘訣は、感情のコントロールである。自分の思いのままに感情を外に出
す者は、神は喜ばれない。怒りのあるうちは神の声が聞こえないからだ。
「大酒飲みや、肉をむさぶり食う者と交わるな。大酒飲みと肉をむさぶり
食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぶる者ぼろをまとうようになるからだ」(2
3:20・21)。
酒飲みや大食漢で成功者は探すのが難しいだろう。酒飲みや大食漢は、お金や
時間の浪費しだけでなく、体や心を傷め、蝕む。それより聖書の神との交わり
を第1にしよう。そのためには、お腹と頭をある程度空腹にし、飢えることだ
必要。飲み食いの友ではなく、共に夢をみる友を作ろう。夢は友を呼ぶ。
38
38
「人の心には多くの計画がある。
「人の心には多くの計画がある。
しかし、主のはかりごとだけが成る。」
(箴言19:
(箴言19:21)
9:21)
世界一の成功者ソロモンはこの心構えで、成功した。「計画」すなわち目標
設定は、この世の成功者の必須条件と言われている。しかし、聖書による目標
設定は、人間が自分のために、自分の満足のためにではなく、それが、神の御
こころにかなっているかを唯一の基準だする。神の計画、神のマスタ-プラン
だけが、最終的には実現するという人間の謙遜な思いが、目標設定になくては
ならないのだ。
「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかれ
る」(21:2)。自分の道、プランではない。そのプランを生み出す心、心
の値打ち、が大切なのだ。
世の中の目標設定は、他と比較して、どれほど大きく、どれほど素晴らしいか
が基準である。聖書による目標を、
「あなたのしようとすることを主(聖書の神)
にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(16:3)他人との
比較ではなく、神を基準とするのである。
「主はすべて心おごる者を忌みきらわ
れる」(16:5)他人と比べてはいけない。
39
39
「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」
「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」
(箴言17:22)
(箴言17:22)
「心の楽しみは良い薬、たましいの憂いは骨を腐らせる」との別の聖書の訳
もある。聖書に出てくる成功者は、楽天家である。聖書の楽天は感情や気分の
尺度ではない。こころの底からの安心感である。すべてを神に委ね任せる信頼
感である。心配するな、特に明日のことは。
ある病院は、薬を与えるほかに、1日何回か、笑う時間を決めて、それを指
導しているところがある。笑いは薬なのだ。それも代金なしの。副作用はない。
効果は、健康だ。
人間だけが、笑うことができる生き物である。笑いは神から与えられた特権
である。大いに笑おう。自分を笑い、他人の祝福を大いに笑おう。動物も泣く
ことはできるだろう。しかし、笑えない。心の「陽気」さは、顔に、体に、そ
してこころに現れる。笑いは健康のドリンク剤である。
40
40
「主を恐れることは知恵の初め、
聖なる方を知ることは悟りである。」
(箴言9:
(箴言9:10)
9:10)
聖書による成功の秘訣は、難行苦行をして勝ち取らないことにある。一部
の宗教は、難行苦行による悟りを得ることを目標とするが、聖書は、100%
ナンセンスとする。なぜか。そんなことをすればするほど神から離れるからで
ある。悟りイコ-ル自分が神になる、これを聖書は偶像といって、もっとも忌
み嫌う。なさなければならないのは神を「恐れること」、神を「知る」ことで
ある。
「神のことばは、すべて純粋。神はより頼む者の楯」(30:5)。神の
ことばとは聖書のことばである。ソロモンをはじめ成功したユダヤ人は、朝夕、
聖書(旧約聖書だが)を繙(ひもと)ていた。特に安息日といわれる休日には。
そして、そのことばにしたがった。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのた
めに有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分
に整えられた者となるためです。」と言う。アメリカの大統領アブラハム・リ
ンカーンは、大統領執務室で、いつも聖書を繙いていたとか。
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「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。」
「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。」
(箴言26:
(箴言26:4・5)
26:4・5)
どちらですか?しかし聖書の解答は、前者には、「あなたも彼とおなじよう
にならないためだ」とあり、後者には、「そうすれば彼は、自分を知恵ある者
と思わないだろう」と理由を述べている。
すなわち、愚かな人(決して見下げているのではない、これも肝心)に調子
を合わせてはいけないのだ。調子合わせの上手な日本人への特別な格言である。
聖書は柔軟な心、自制力あるこころが要求する。
「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町
のようだ」(25:28)。自制心が大切。成功者や賢者と言われている人も
同じように説く。しかし、聖書は神の前に謙虚に立つことが、自分を制する秘
訣だとする。自分でがんばって自制しても、すぐ化けの皮が剥がれるから。「自
分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者はすくわれる。」(28:
26)
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「よく聞かないうちに返事をする者は、
愚かであって、侮辱を受ける。」
(箴言 18:13)
18:13)
「事実を知らず、物事を決定するとは、なんと恥かしく愚かなことよ」と別
の訳で言う。成功には、五感の一つの耳の働きが欠かせないのだ。
口は一つだが、「よく聞」くために神は耳は二つ与えたと言うのは本当だろ
う。聞き上手は人に対してなく本当は神の声を聞かねばならない。神の声、そ
れは聖書の言葉である。
「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制
する者は思慮がある。」(10:19)聖書は成功者は、耳だけでなく、口の
はたらきも重要だとする。「正しい者の口はいのちの泉。」(10:11)。
「正しい者の舌はえり抜きの銀」(10:21)。「正しい者の口は知恵を実
らせる。」(10:31)。
正しいとは、聖書を知る者であり、聖書に耳を傾ける者であり、聖書によっ
て、自分の口を制することができる者である。「軽率に話して人を剣で刺すよ
うな者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。」(12:18)とも
言う。
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「正しい人は七たび倒れても、また、起き上がるからだ。 」
(箴言24:16)
(箴言24 16)
七転八起、ななころびやおき、日本人の好きな言葉である。自力再生。何回
失敗しても、それに負けず勇気を振り絞りふるい起きることができる、頑張り
がすきな日本人にピッタリである。
しかし、7回しか転んでいないのに、どうして8回も立ち上がる必要があっ
たのだろうか?7回でいいのではないか?
これは前提が初めから倒れているになる。赤ん坊をみれば分かる。赤ん坊は
最初はハイハイもできぬ、這って進む匍匐前進状態。しかし、最初だれかに手
を貸してもらい立ち上がった。人間は最初は「倒れ」た状態。だから8回「起
き上がる」必要がある。
聖書は別の箇所で「主(神)はかかんでいる者を起こされる」とある。倒れ
ていても、ダウン状態でも、神が手をかしてくれる、助けてくれる、そんな意
味がこめられられている。
七転八起は自力再生、自力救済の意味でなく、むしろ神が助ける、神に任せ
る、他力救済をすすめたのが、聖書である。自分でたちあがれなくとも大丈夫、
無理しなくも頑張らなくてよい、大丈夫なのである。
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「悩む者には毎日が不吉の日であるが、
「悩む者には毎日が不吉の日であるが、
心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」
(箴言15:
(箴言15:15)
「心を楽」に、気を楽にして行こう。これは聖書を信じなくても、ごく当
たり前に言われている、この世の格言である。特別、聖書の言葉を借りなくと
も、充分間に合っていますとのこの世の声が聞こえてきそうである。しかし、
この世の格言と聖書の言葉が違うのは、どこで、又、なぜなんだろう。
それは、「心に楽し」く、誰と毎日「宴会」できるかである。人間どうしの
交わりも、もちろん楽しい、親しい友との交わり、愛し合う家族の交わり、大
いに結構。しかし、その宴会の主役はだれか、聖書がいう宴会の主役は何時も
神である。神を交えた宴会である。
神がいるから、心楽しいのである。心配の原因は神から離れているからである。
聖書に出てくるヨブという人物は、当時地域隋一の大金持ちで毎日、宴会を開
いていたが、神から離れていたので、不安で心配の毎日だった。宴会に主役が
いなかったからだ。しかし、それを理解してからは、文字どおり、楽しい宴会
を毎日開くことができたのある。
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45
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」
(伝道者の書1:
(伝道者の書1:2)
者の書1:2)
このような言葉が聖書のなかにあるなんて、信じられません。伝道者の書の
記者(著者)が、「箴言」の記者とおなじソロモンなんて、信じられません!
そんな声が聞こえそうだ。これもまた聖書の言葉なのだ。
ソロモンは、当時世界一の大成功者、資産家、名望家で、その上、知恵に
優れた人、「伝道者」だった。その人の口から、こんな、言葉がでるなんて。
しかも、聖書の真の著者が神である、だとすると、よけいに分からない。
「空」とは文字どおり、虚しいということである。あきらめである。ご丁寧
にもこの箇所だけでなく、35回も出てくるのだ。伝道者の書は、人生のあき
らめを説いた書なのか? 聖書は虚無の書なのか。
聖書は人間の進む道を示し、人間がたどり着かねばならない道しるべを示
した、神からのプレゼントではなかったのか。神からそれぞれの選んだ人間を
つうじて語った言葉(むずかしくソロモンへの啓示という)でなかったか。
しかし、この伝道者の書を最後まで読むと、この冒頭の言葉の意味が分か
るようになっている。聖書は66巻が、統一性ある書物、調和のある書物であ
る。全巻に流れるのは、やはり、人間の進む道を指し示している。
この書の最後は「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべて
である。」(伝道者の書12:13)と、結んでいる。
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46
「しかし、私がてがけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った
労苦とを振り返ってみると、なんとすべてがむなしいことよ。風を
追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」
(伝道者の書2:11)
(伝道者の書2:11)
これも聖書の言葉である。はてな?聖書が別の箇所で、一貫として教えるこ
とは、勤労の尊さであり、勤勉のすすめでなかったのか。この言葉は、ソロモ
ンからでている。ソロモン自身、聖書の『箴言』の箇所で、「なまけ者よ。蟻
のところへ行き、そのやり方をみて、知恵を得よ」(6:6)と、何度も働く
ことへの尊さを解いている。そうすれば、この言葉をどのように、理解すれば
いいのだろうか。
これは、人間の欲望に対するブレーキである。人間の底知れない欲望に対する
警鐘である。欲望には、限界がない。果てがない。そのことを、一番良く知っ
たのはだれあろう、ソロモンである。
ソロモンは、当時世界一の金持ち、それどころか、世界一の知恵をも持って
いた。鬼に金棒である。しかし、果て知れぬ人間の欲望に目を留めると、そこ
に恐ろしいほどの底無しの「むなしい」世界が見えたのであろう。もっとも良
き物を見た者が、最悪の世界も見たとも言えるのだろうか。
働くことも良し、富を得ることも良し、しかし、どんなことにも限界がある
のだ。限界があることを知れ。そうでなければ、無限の底無しの世界に入るの
だ。欲望を完全に満たすことは出来ない。欲望に制限を設けよ。これが、ソロ
モンの、いや神からのメッセージなのだ。
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「天の下では、何事にも定まった時期があり、
「天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。」
(伝道者の書3:
(伝道者の書3:1)
なにか、詩の一か所を読んでいるような、響きがある。現にこの箇所から、
世界的に皆なに口ずさまれた歌があるとか。
どんなことにも「時期」があり、何かをなそうとする場合にもそれにふさわ
しい時がある。しかし、その時、グットタイミングを得るにはどうすればいい
のだろうか。
それは、祈りである。すべてを支配するのが神である。時間もだ。そうする
と時間の支配者たる神が、グットタイミングを知っているのは当然である。神
に聞くこと。一番良い時を。
祈りで、グットタイミングを求めることである。早すぎず、遅すぎず、もっと
も良い時をでる。神の前で静まること。焦らないこと。
あるクリスチャン実業家が決断を求められたとき、祈る。何時なすべきでし
ょうか。お教えください、と。あるクリスチャンの主婦が何かを決めなければ
ならないとき、祈る。何時すべきでしょうか。
教えてください。最も良き時をお示しください、と。韓国の大統領でクリス
チャンだった金詠三や、金大中も大統領執務室で何時も、祈り求めたそうだ。
グットタイミングをお知らせください、と。「すべての営みには時がある。」
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「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」
(伝道者の書12:1)
(伝道者の書12:1)
優秀な民族を挙げてください、と世界中の人に聞けば、どの国の人もユダヤ
民族を、その一つあげるだろう。好き嫌いは別としてユダヤ人の優秀さは、歴
史的折り紙付きである。だから、嫌われるのだとも言われる。優秀さの秘訣は
なにかと言えば、その一つはこの聖句を実践しているからである。
ユダヤ人は12歳になれば、「バルミツバ」という儀式を行う。いわば成人
式である。それは、旧約聖書の最初の5巻、特にモーセ5書とか、トーラーと
か言われる部分だが、それになにが書かれてあるかを、親、親族の前で披瀝し
なければならないとされている。
書物の分量もさることながら、その内容となると、かなりの学習が必要であ
る。並大抵のことでない。しかし、ユダヤ人の子供たちは、一応にその儀式を
通過する。学びがユダヤ民族の伝統であり受け継がれた文化なのだ。ユダヤ人
は多くの迫害の中から、20 世紀だけでも、アインスタイン、マルクス、フロイ
ド等を生んだ。教育こそ国造りの基本だとの考えが、国民に染み付いているか
らだ。
(1:1)
聖書の第1巻、創世記の巻頭分は「初めに、神が天と地を創造した」
とある。民族の優秀性は、「若い日」幼い時から、「創造者」神を知っているこ
とにある。
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「わたしの目には、あなたは高価で尊い」
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」
(イザヤ書43:4)
(イザヤ書43:4)
セルフイメージが大切。自分のセルフイメージを高めなさい。どんな成功の
解説書にも、書かれている。また、いのちは地球よりも重いという。しかし、
聖書は地球どころか、全宇宙よりも「高価で尊い」ものと、とらえている。「わ
たし」とは神のこと、「あなた」とは人間のことである。聖書によれば、人間
は偶然の産物ではない。
自分を「尊い」とする、プライドはだれもが持っているが、逆に他人から尊
ばれることはほとんどがない人間。ある人は聖書のなかで「ちり、あくた」の
ような自分と告白したが、そんな我々を聖書のいう天地万物を造った神は尊い
と言う。自分は「高価」だと、自分を素晴らしいとセルフイメージできる人は
何人いるだろうか。それも傲慢や高ぶりでなく。
聖書によれば、神はイエスをこの地におくり、十字架をもって、人間の死ん
だ命=罪を買い取り、新しい命を約束された、一人一人に。まさに、神はその
痛みをとおして、それを実現した。神ご自身が「尊い」と言われた存在、全宇
宙よりも「高価」であると言われた存在、どうしてその命を粗末にできるのだ
ろうか。
クリスチャン作家で、氷点等を書いた、三浦綾子さん、死にいたる病のな
かで、それも一生の多く時間を病床にありながら、わたしには、まだ死ぬとい
う仕事が残っている、と最後まで、死に行くこともその使命と、とらえた行き
方もある。
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「神に会う備えをせよ。」
(アモス書4:12節)
(アモス書4:12節)
「備えあれば憂いなし。」雨の日に備えて蓄えよ。ふだんからの準備が大切
だ、は我々の日常には大切な格言だ。
しかし、聖書はすべての準備にまさって、神に会う準備こそが大切と言う。
日本人の貯蓄率の高さは、世界で有名だった。国民の総資産額は1600兆円
という天文額的数字、個人貯蓄も世界で艦たるもの。しかし、その多くは老後
のためと言われている。老後の備えは熱心だ。だが、老後に対する不安や恐れ
から、貯蓄にかりたてているとすれば、反面なさけない。
また、仮にいくら、銀行や郵便局に預貯金があってもそれだけでは、 100%
安心でない。安心、平安はお金で買えないことはみんな知っているから。
聖書はべつに「主(神)の山の上には備えがある」とも言っている。我々人
間があくせくして、わずかなものを蓄えたとしても、いや仮に蓄えることがで
きなかったとしても、神が蓄え、用意してくれると、だから、一番大切な用意
である、神に会う備え、それは明日かも知れないし、10年後20年後かしれ
ないが、その確かな日のために備えをすることである。
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