「薬物依存者の社会的包摂」

平成 22 年 10 月 21 日
「薬物依存者の社会的包摂」
特定非営利活動法人 大阪ダルク・アソシエーション
ピア・ドラッグ・カウンセラー 倉田 めば
(神戸学院大学学際機構客員教授)
司会
ただいまから、NPO ヘルスサポート大阪主催「大阪ホームレス健康問題研究会」を開催いたします。
本日は大阪ダルク・アソシエーション の ピア・ドラッグ・カウンセラー 倉田 めば 先生に「薬物依存者の社会的包摂」
と題してお話を伺います。
なお、本事業は独立行政法人福祉医療機構 平成 22 年度社会福祉振興助成事業の一環として行いま
す。倉田先生どうぞよろしくお願いいたします。
はじめに(自己紹介)
いつも、いろんなところでお話させていただくときに、ダルクの他のスタッフを連れてきたり、あ
るいはダルクでプログラムを受けて、落ち着いている人も一緒に来て体験談をお話してもらったりと
いうことをすることもたまにあるんですけれども、ここ(釜が崎)では出来ないんです。
<注釈:ダルク(DARC)とは、ドラッグ(DRUG=薬物)の D、アディクション(ADDICTION=嗜癖、病
的依存)の A、リハビリテーション(Rehabilitation=回復)の R、センター(CENTER=施設、建物)の
C を組み合わせた造語で、覚醒剤、有機溶剤(シンナー等)、市販薬、その他の薬物から開放されるた
めのプログラムを持つ民間の薬物依存症リハビリ施設です。>(全国ダルクのホームページより引用)
なぜかというと、覚せい剤が簡単に手に入る所に覚せい剤依存症の人を連れてきたらすぐ覚せい剤
使う方にスイッチが入るからです。さっき私、車を止めるときに密売人いましたけどね、私は一発で
分かります。2つの駐車場の間に立っている人は密売人です。入れかわり、立ちかわり誰か違う人が
立っています。思わず何気ないふりして見に来てください。そこに3~4人ぐらい、駐車場の間にだ
いたい立っていますね。私は「いかがですか、覚せい剤は?」と時々声をかけられます。もちろん断
りますが。私を誰だと思っているんでしょう!
私が好きなのはシンナーです。私はシンナーを 27 歳まで、中学生時代から使っていました。シン
ナー・大麻・鎮痛剤・睡眠薬、そこらあたりがよく使った薬物です。覚せい剤はやったことがないん
です。シンナーの成分の中でトルエンというのを、オロナミンCとか赤まむしの瓶に入れて売ったり
していて、私も 20 歳代の頃よく買いに行きました。お世話になりましたけれども、売人にそれ(ト
ルエン)をやめてこっちにしたらどうやと、覚醒剤が入ったパケ、小さい袋を見せて、安くしとくよ
と、6,000 円にしとくよと言われたんですけれども、6,000 円だったらトルエン2本買えるなと思っ
たくらい、トルエンにハマっていたんですね。
だから、覚醒剤にも魅力はあったけれども、トルエンの方が、私にとっては必要なものだったんで
すよ。でも最近は、覚醒剤はアブリといって、煙で吸っている人も増えています。アブリという方法
をもっともっと前から知っていたら、覚醒剤をやっていたかも知れませんね。
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西成に来たのは、26 年前の 1984 年(昭和 59 年)ですね。私は神戸の精神病院に4回目の入院を
していました。そのときに、ちょうど太子交差点をずっと天王寺の方に行くでしょう。天王寺の方に
行ったら、大阪市大の付属病院が右手にありますね。その向かいにライブハウスがありますね。その
横に、今、たこ焼き屋さんになっている長屋があります。そこの1階にアルコール依存症の施設があ
ったんです。
メリノールアルコールセンター(通称MAC)という、アル中の施設がありました。私は 26 年前
そこに通っていました。29 歳の時に神戸の精神病院からそこにつながって、1年間毎日 MAC に通い
続けました。
そこから回復が始まった。だから、私はこの町から薬物が止まり始めた者なんです。動物園前に毎
日通いました。通勤、通学の電車の中で自分が毎日通っている所を考えますと最初は落ち込みました
よ。何で、29 歳でピンピンしているのに、と。でも、私にはもう他に行くところがなかった。20 歳
代のうち、2年間精神病院の中で暮らしてもなお薬物をやめられなかった。そんな私を受け入れてく
れるところは、ここしかなかったですね。
私の親世代のアルコール依存症のおっちゃんやおばちゃんが、何でお前みたいな若いやつが来るね
んと聞かれたこともあります。でもね、私がトルエンの話をしたら、少しずつ分かってくれんです。
アルコールと薬物という違いはあるけれど同じ依存症には変わりがなかったから。
私はそれまで、精神科の先生 14 人にかかり、初診で 30 分、8,000 円もかかった森田療法のところ
に行き、カウンセラーにもかかり、断食道場にも行きましたね。いろんなことをやりましたけど、薬
物をやめることはできなかった。私が薬物を使わないで生きる方法を教えてくれたのは、その施設に
いたアル中のおっちゃんやおばちゃんです。その人たちが全てを、一から百まで、手取り足取り、私
に薬物をやめるためのプログラムを教えてくれたんです。本当に薬物をやめる方法を知っていたのは、
アルコールという薬物の依存症からの回復者たちだったんですね。ですから、私は1年間毎日通いま
した。もしこの町のそういう所がなかったら、私は薬物をやめる続けることはできなかったなと、い
つでも思っているんですね。今日は、社会的包摂というか、最初これをどう読むのか分からなくて、
辞書を引きました。ソーシャルインクルージョンと書いてあって、薬物依存症の人を排除するんじゃ
なくて、人として、社会の一員として、どのようにサポートしていくかと、そういうことなんだとい
うのが分かりました。
大阪ダルクの生まれた経過
私は広島県の尾道市出身です。ダルクをやる前はプロのカメラマンでした。ずっと長年、私はダル
ク以外の仕事はカメラマンしかやったことがないです。ダルクというのは、今、全国 50 ヶ所、70 施
設あるみたいですね。ダルクの 25 周年というのが今年東京でありました。私は行かなかったですね。
あんなにたくさんダルクの責任者が集まるようなところに行くのは嫌いなんですね。男たちの中に行
くのが嫌だというのがあって、行きませんでした。
大阪ダルクというのは、今、
(大阪市東淀川区の)下新庄にありますけれども、1993 年に住吉区の
方でスタートしました。それまではフリーのカメラマンをやっていましたから、ちょっとずつカメラ
の仕事を減らして、とりあえず住吉区で向こう1ヶ月分の運営費しかない状態で見切りで開設しまし
た。無謀でしょう。
「薬中」じゃないとできないですよね。まともな人はダルクなんか絶対にできな
いですよ。前を見ることができない、そういう能力のある人にしか、ダルクはできないでしょうね。
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不動産屋を騙して、不動産屋を騙さないとダルクは家を借りられないです。
「薬中」に施設を借しま
すから、家を貸してくださいといったら、そんなん直ぐにお断りですね。だって覚醒剤とかシンナー
とか、そういう人が泊まるわけですからね。だから、写真事務所として使うという名目で借りたい。
あと、音楽の、パンクロックのサークル活動をやっていますとか。皆、すごく髪の毛を染めたりして
いたから、ピアスの人とか来ますから、サークル活動をやっていますとかね。
そのうち2~3年たったらバレるわけですね。近所の人が、お前何やってんねんと言って来るわけ
ですね。いつも、来た来たって感じですよね。その時は私の携帯の電話番号、ここへでっかくA4の
1枚マジックで書いて近所に配るんですね。いつでも電話かけてください。いつでもお訪ねになって
くださいと。アポイントは不要ですから、いきなりお出いでください、うちを見学してくださいと言
って回りましたが、未だに誰も来ないんですね。誰からも電話がかかってこないんです。
私は、当時、女装をしはじめていて、すごいミニスカートなんですね。超ミニを履いてダルクへ行
ったりしていたわけですね。だから、ダルクのことよりも、何か私のスカートがだんだん短くなって
きたなと、何かそっちの方に近所の人が気を取られていて、それですごく助かりましたね。こういう
ことも役に立つんだなと、そのときは都合の良いように思いました。
ダルクに好意的な近所の人は「今日はステキね」と言ってくれますが、そうじゃない人は私が覚醒
剤をうって、ダルクの中でエロビデオを作って密売していると噂を流したりします。好意的な人と、
非常に妄想的に排除しようとする人をどう見分けていくかですね。だから、排除しようとする人にま
ともに真正面から行くと、
向こうも真正面から来ますか、直球を投げたらダメですね。そんな感じで、
ダルクにいる人たちも、絶対近所の人と仲良くしたらダメですというお触れを出していますね。話し
かけられてもツンツンしていなさいと。仲良くなるとヤバいですね。そういう感じで 1993 年に始ま
ったんですけれども、本当に狭いところでね、6畳か8畳ぐらいのキッチンと 12 畳ぐらいのワンル
ームです。そこに多い時は7人ぐらい入所していました。
夜は寝泊まりする入所施設、昼間はデイケアですね。台所は事務所兼家族相談ルームです。
1993 年から 2001 年までは、公的助成金は0ですから、金集めに苦労しました。全部自分達でお金
を集めて運営しなければなりません。家族相談にのりつつ、寄付金を集めて礼状を書いたりしていま
したね。だから、2年ぐらいで私はバーンアウトしていると思うんですね。あとは、非常にいい加減
で、他人に対して、何をしていようが、あまり関心を払わない。私はすごくナルシストなので、自分
のことにしか興味がないので、いつも鏡とかを見ていていましたが、それが周りの人にすごく良い影
響を与えて、干渉されないから施設にくる人とか他のスタッフはやり易いと思いますよ。
その頃に入所した人は、朝行ったら私以外は全員覚醒剤使っているなんてこともありました。
リハビリテーションセンターとアヘンくつを周期的に繰り返しているようでね。とてもダルクに居る
気がしない。だからちょっと保健所に行ってくるわと言って、近所のパチンコ屋に行ったりとか、そ
れで一日が終わることもありましたね。そうでもしないと、私以外が全員覚醒剤使っている状況で、
そこでリハビリプログラムなんか成り立つわけがないです。そういう状況でした。
そのうち、1人でやっているのは大変なので、最初に回復し始めた人をスタッフにしたんですね。
今日から私の手伝いしてくださいと。3ヶ月ぐらい経ったある日、ダルクの金庫は破られていました。
今まで4回破られていましてね。4回も金庫破りされる施設ってないでしょう。大阪でも新記録だと
思いますよ。自慢になりませんが。
ダルクでは、入所者の生活費とかを預かっているわけですね。一度に渡すとすぐに使うんで、1日
2,000 円という感じで、朝来たら渡すということを、私はやっていたわけです。それが、A君とB君
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の生活費がいつもなくなるのに、C君・D君・E君のはなくならないんですね。おかしいなと。でも、
鍵を持っているのは私ともう1人のスタッフだけなんですね。おかしいなと思っていたら、実はスタ
ッフが覚醒剤を打っていたんです。
「お金どうしたの?」といったら、
「利用者の生活費を持っていき
ました」と。
「A君とB君のを持っていって、何でC君とD君とE君は持っていかへんねんや?」思
わず尋ねました。
「C君とD君とE君は生活保護を受けているから、持っていかない」と。
「A君とB君は親が入所
費を払っているから持っていった」と。A君とB君の入所費だけがなくなるのを見て、たぶんそれを
知っているスタッフしかいないので、私はそうなんだろうなと思ったんですけどね。そんなこともあ
ったりしました。
大阪ダルクの現況
住吉区の方で3年ぐらいやった後、今度は高槻市の方に移転しまして、デイケアだけを3年ぐらい
やりました。次は淀川区に移って、そして現在の東淀川区の下新庄へ移りました。現在はスタッフも
6~7名います。結構いろんなことを皆で分担してやれるようになりました。形態としては、デイケ
アは去年の 2009 年から大阪市の委託で、地域活動支援センターという形で運営補助金をいただいて
運営しています。ケアホーム(入所施設)ですが、男性用と女性用がありますけれども、定員がだい
たい4~5名です。こちらの方は自立支援法に基づくグループホームということで、運営をしていま
す。
女性ホームの方はちょっと離れたところにありますが、シェルター的な機能を持っています。最初
につくった女性の施設ではとんでもないことが起きたんですよ。そこにシンナー依存症の若い女性が
いたんですけれども、その女性がシンナー吸って帰って来るんです。どこで吸って帰って来るんだろ
うと思っていたら、女性のホームの 50 メートルぐらい先のところに、その女性が少女時代から買っ
ていたシンナーの密売人が、たまたまそこへ住んでいたんですよ。だから、女性の施設の前で、密売
人が夜にずっと待っているんですよ。それが発覚したので、夜逃げするように引っ越ししたんです。
なので、今の女性の施設についてはごく限られたスタッフしか場所は知りません。建物は普通の民
家を借りて、女性の施設を運営しています。今、そこに4人ほど入所しています。やはり女性の場合
は邪な人が来ないように、非常に気を遣って運営しています。そういう 24 時間体制の入所施設以外
に、あとはデイケアです。
デイケアは、今 49 平米ぐらいの部屋ですね、狭いですね。そこに今日も 20 何人いました。定員
17 人くらいのところに、もういっぱいなんですよ。刑務所から来る人が多いんですよ。でも、狭い
ところの方が人間関係のトラブルが起きないことに気付いてね、広いところに行くのをやめているん
です。なぜかというと、去年までは(大阪市東淀川区)東三国の方で 99 平米のところで、今の倍の
広さのところでデイケアをやっていましたが、今より少ない人数にも関わらず、人間関係の問題は多
かったような気がします。
広いところだと、ミーティングとかプログラムが終わってもそこに居座るでしょう。そうしたら、
他人の悪いところとか、そういうものばかり見えるというんです。今は、狭いところにギュウギュウ
詰め。皆息苦しいから、ミーティングか終わったら、どこかへ行っちゃうんですね。自分の部屋に帰
って洗濯したりとか、裏が川なんですけれども、ちょっとウォーキングしてきますとか。これは良い
なと思っています。下手に広いところの立派な施設よりもギュウギュウ詰めの方が、人間関係のトラ
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ブルは少ないかも知れないですね。
フリーダムの紹介
大阪ダルクの外郭でフリーダムという市民団体の事務所が大阪ダルクの隣にあります。私はそこの
コーディネーターもしています。ダルクが薬物依存症本人のサポートをする所としたら、フリーダム
というのは薬物依存症のご家族の相談に乗ったりもします。家族のグループワークもやっています。
家族のグループワークだけで、今、数種類のグループワークをうちは提供しています。それは大学の
先生なんかにやってもらうのもあるし、姫路の方でやっているのは、私とフェミニストカウンセラー
と2人でやっているんです。私と、女性ホーム大阪の倉田ちえと2人で、
「花より団子」という、私
たちのようなピアサポーターがご家族の人の話を聞いて行うグループワークもあります。
これはちょっとエキサイティングなグループワークです、そこに人気があるみたいです。専門家の
方というのは上品ですから、紳士的ですから。本当にご家族の方というのは、そういう原則とか理論
からはみ出すことを、薬物依存の当事者との関わりの中でしょっちゅうやっているんですね。そこを
サポートするには、また原則的なところを超えてたプログラムが必要なのかなと、そういう感じでや
っています。
他に、フリーダムの事業として、これもいろいろ書いてありますけれども、今日、皆さんのところ
にお配りした今年作った啓発ポスターですね。「ヤバイ!!覚せい剤・シンナー・大麻・MDMA・
市販薬乱用」です。MDMA(メチレンジオキシメタフエタン)って、わかりますか?でっかいポス
ターもあります。よかったら後ろにありますので、丸めて持って帰って貼ってください。
人が沢山集まるところに貼っていただいたら、できたら「ダメ! ゼッタイ!」ポスターの横に貼
っていただいたら本望ですよね。
「ダメ! ゼッタイ!」ポスターの横に貼ろうとすると、剥がす人
がいるかも知れません。このポスターと連動した形で、リーフレット5万部刷って、関西の各大学・
高校、いろんなところにお配りしようと思っています。
だから、今、うちの大学で、学生全員に渡したいという人があったら連絡をいただいたら、即、送
料無料でお送りします。FAXをいただいたら。もちろん、こちらのポスターも。こちらは全部で
1,000 部しか刷ってないので、今、1つの大学に、良いところ20枚ぐらいですけれども、いろんな
ところに貼るということであれば、すぐお送りします。そんな感じですね。ドラッグ・アディクショ
ン・ポスター・プロジェクト(DAPP)というのを2年前からやっていて、こういう啓発に手を出し
始めたということですね。
本来、ダルクというのは再発予防のプログラムなんです。それがなぜこういう啓発に手を出すこと
になったか。ダルク開設以来、私はいろんな高校・中学・小学校・大学、大学へ出掛けています。去
年は 10 校余りへ行っていますね。客員で行っているところもあるし、非常勤で行っているところも
ありますけれども。少なくとも 10 校は行っています。
特に、一昨年関西大学で、大麻事件がありましたね。それ以降は大学でも大麻のことを取り上げる
ようになって、いろんなところに呼ばれるようになりました。学生に話をしたりしていますね。
間違いだらけの啓発
私が最近、いろんなところで引用しているものとして、スーザン・ソンタグという人が書いた、H
IVについての書物があります。ソンダクは「かつては病気に戦いを挑んだのは医者であったが、今
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では社会全体である」と書いてます。要するに、
「戦争というものが集団のイデオロギー的動員のた
めの機会になってくると、
『敵』の打倒を目標としてかかげる改善キャンペーン全部に使える比喩と
して、戦争という概念が有効になってくるのである。過去には貧困に対する戦いがあったが、それが
今では『ドラッグに対する戦い』とか特定の病気、例えば『癌に対する戦い』に様変りしている」と。
、
昔は結核が、社会全体が戦争を挑むべき病であったとなっていますね。
(スーザン・ソンタグ著「陰
喩としての病・エイズとその隠喩」
)
それが 1980~90 年代になってエイズになってきた感じで、私は、現在は薬物依存症が社会が戦争
して戦うべきものだと宣言されているように感じています。いろんなところに呼ばれるんですよ。府
県がやる薬物乱用撲滅大会とかね。壇上には大きな赤いリボンをつけた人が 20 人ぐらい並んでいま
すよね。私の話の前にも、中学生が表彰されたんですね。
どこかの大会で「薬物やったら人間終わり」という標語が表彰されたわけです。それで、何か金賞
ですとかといって、こんな盾みたいなものをもらってね、自慢そうに、学校の先生がありがとうござ
いましたと。その表彰式が終わって、
「それでは、薬物依存当事者の倉田めば先生です」と、
「薬物や
ったら人間終わり」と言っといて、それで私を紹介するわけです。
「お前らどういう頭してんねん!」
私は傷ついたよ。何で先に中学生を表彰しといて、中学生が帰った後「それでは当事者の」って、よ
くのうのうとそんなことが言えるなと、傷つきました。傷ついたけれども、呼ばれているから喋りま
す。つまり一次予防というのは、まだ薬物に手を染めてない人への呼びかけです。これが一般的に社
会の中では予防教育である。二次予防というのは、ちょっと薬物を使い始めた少年とか、ちょっとや
ってますよというものが対象になりますね。三次予防というのは、私みたいな「薬中」になってしま
った者ですね。薬物依存に罹患した人ですね。ダルクに来たり、刑務所や精神病院にお世話になって
いる人です。再発予防ともいわれておりますけれども、この一次予防が再発予防を阻害しているんで
す。常に阻害しています。鈍感なんですよ。ここで傷ついている人がいることをわかってない。どれ
だけグサっと来ているかということがわかっていない。これが今でも続いています。いろんなところ
に呼ばれて話をして、あっ、あなたの生々しい話をどうもありがとうございました。素晴らしい、生々
しい薬物の話をどうもありがとうございましたとか、最初に言うわけですよね。でも最後に(標語の)
「ダメ!ゼッタイ!」ですよねと、言ってくるんですよ。何人の話を聞いてんねんと思う。そこにし
か言葉が返っていくところがないのかと。それより、その程度の脳みそなのと、正直思うわけですよ。
もっと薬物依存問題を重層的に考える能力はあなたにはないの?と、ついつい言いそうになるんで
すよね。私、年に何十回と講演に行っているわけですよ。しょっちゅう傷ついている自分がいるんで
す。そういうことに気付き始めたので、一次予防が、いかに二次、三次予防を疎外しているかを、あ
らかじ説明して、話をするようになったんですよ。説明しないとなかなかわかってもらえないんです
ね。じゃあなぜ教育現場では一次予防だけが重視されるのか。これは益々強化されています。今、大
学生の薬物乱用についてお上は何を言ってるかというと、当事者の話を聞くとかというのがあるんで
すけれども、例えば、結果的には「ダメ!絶対!」であって、回復者というのはあってはならないん
だというふうなニュアンスでした。回復者というのがいると、私みたいにヘラヘラと、高校とかに行
って、
「薬をやりました」と、そんなの喋っている人がいたら困るわけですよ。「ダメ!ゼッタイ!」
です。薬やっていてもあんなに元気やんと、あんなにニコニコしてるやんと。お洒落しているやん、
爪なんか染めて、みたいな、メールなんかして、みたいな、それでは困ると言っているんですよね。
この間も高校の先生が、高校生を連れて私の話を聞きに来たんです。学園祭で秋に発表するからと
言って来たんです。
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私もよく知っている養護の先生なんだけど、私が高校生にこんな調子でバーっと喋ったんですよ。
そうしたら、
「そんなことを言っても学校では通用しないかもしれないです」とおっしゃるんです。
「あなたのおっしゃっていることは正しいんですけれども、でも、学校は受け入れないかもしれない
です。
」と言うんです。それからその先生からメールがきて、今度高校の養護の先生の研修会で、薬
物乱用についての発表を私がすることになりました。それに際していろんな書類を文科省、教育委員
会に出す。そのときに協力機関、うちに高校生を連れてきて、私にインタビューしたりするわけです
から、協力機関としてダルクと書いたと。そうしたら、それを消せという指示がきた。消して、警察
と薬剤師会と書きなさいと。ダルクというのは消しなさいと上から指示されたと。私はダルクでやっ
ているのに嘘をついて、警察あるいは薬剤師会と協力体制、そういうふうに書き換えねばならない。
それは嫌だけれども、書き換えないと研修会の講師もさせてもらえないし、その先生が排除されるん
ですよ。そういうことですよね。それで、すごく自分は実際に反抗したけれども、反発して言い返し
たけれども、結局言い含められた。とおっしゃるんですね。
でも、こういうポスターや冊子を作ったので、高校に置いてもらえるかとたずねたら、担当の養護
の先生が素晴らしいといってこれを貼ったとそうです。その後どうなるかと。そういうデータを取る
というのが1つの大事なことかもしれないね。だから、社会的排除ということを考えるとき、ソーシ
ャルインクルージョンを考えるときに、こういった教育の段階で、いろんなフィルターをかけられて
いるんですね。
ドラッグ・アディクション・ポスター・プロジェクト
次のマークト・ウェインの言葉が、私はすごく好きでね、
『何かを絶対しない』という約束は、ま
さにそのことをしたくなる最も確実な方法だと。やはり「トムソーヤーの冒険」や「ハックル・ベリ・
フィンの冒険」を書いた小説家は偉いですよね。
本当にそうですよね。ダメだ!ダメだ!と言われるとやりたくなる、実は私もそうでした。今みた
いに、大麻のことでもそうですよね。これだけ騒いだら、吸いたくなります。急カーブ・危険という
看板を出すと事故が多発するようになったと、本で読んだことがあります。それと一緒ですよね。そ
んな看板を出さなきゃ事故も起きないんだけど、その看板を出したために力が入って、ブレーキをか
けて事故が増えたということですね。実は、そういう無意識を操作するということを、今のマスコミ
がやっているんじゃないかと、すごく思いますね。
だから、ドラッグ・アディクション・ポスター・プロジェクトをやっているわけです。別々に「ダ
メ!ゼッタイ!」だって私は否定していないけどね。私は「ダメ!ゼッタイ!」派なんですよ。今日
は絶対シンナーを吸わないようにしようと思いながら、あっ、吸ってしまったと。次の日も「ダメ!
ゼッタイ!」と決心して、ああ、ダメだった。もう「ダメ!ゼッタイ!」がダメだったということを
証明するような、そういう人生を送ってきましたね。
だから、私は「ダメ!ゼッタイ!」派ですといつも言うんですけれども、誰も認めてくれないんで
す。反対にあなたは「ダメ!ゼッタイ!」派ではないと言われるのです。コントロール・ユーザーと
いうのが多いんですね。薬をコントロールしながら、世の中で生きている人もいっぱいいるわけです
ね。特に覚醒剤の乱用者が今、150万人とか200万人とも言われています。
ダルクの創立者 近藤恒夫さんの本に日本の成人の 40 人に1人ぐらい覚醒剤の体験があるんでは
ないかというデータがありますね。ですから、私みたいに、
「薬中」ですとはっきり言っている人は
すごく安全なんです。その何百倍の人が覚醒剤とか使っているわけ。いっぱい居ますよね。そのへん
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を歩いてたり、会社や学校へ来たりする人のなかに、いっぱいいるわけです。私、
「薬中」でんねん
と言っている人の方がすごく安全ですよね。私はそう思いますけどね。
もう1つ、フリーダムのドラッグ・アディクション・ポスター・プロジェクトというのは、いわゆ
る二次予防・三次予防の人たちが助けを求められやすくするように、こういうものを作ったんですね。
ちゃんと Freedom の電話相談の電話番号もここに書いてありますね。
回復支援プロジェクト
更にもう1つは、刑務所を出所した薬物依存者の包括的な回復支援プロジェクトですね。こっちの
方は2005年から2006年にかけて、ずっと長い間変わらなかった日本の監獄法という法律が大
幅に改正されたことが大きいです。
監獄法が改正されて、その中で薬物依存症とか性犯罪に対しては、ちゃんと教育をすべきだとなっ
た。そういう方針が出されたんですね。私は、これは画期的なことだと思います。その中で、2005
~2006 年ぐらいから、ダルクのスタッフが刑務所に呼ばれるようになってきました。刑務所にダル
ク回復者カウンセラーが、外部アドバイザーとして行って、今グループワークを行っています。私も
行っています。受刑中の薬物依存者に対して教育指導をやるというプログラムに、ダルクが協力する
ようになったのです。
そうすると、どんどん刑務所の中でダルクのことが知れ渡っていきますよね。大阪刑務所なんか、
3,000 人の受刑者のうち 1,000 人が薬物事犯絡みです。3人に1人は薬物依存者、薬物乱用者です。
刑務所での薬物依存離脱者指導にダルクスタッフが呼ばれるようになって、ここ数年、どういう現
象が起きてきたかというと、
「今、刑務所を出てきました」といってダルクに電話がかかってくるん
です。泊まるところがないと言うので、
「刑務所で働いた金はどうしたの?」と。
「いや、ドヤに泊ま
って、酒飲んで、シャブ1発打って、今電話しています」と。
「所持金いくら持っているのですか?」
とたずねたら、
「200 円とか 300 円です。
」早い話がホームレスやないかと。
「泊まるところがないん
でしょう」と聞くと。
「そうです」と。
「薬やめたいの?」と聞くと、
「よく分からない」と。そこら
が大変難しいんですよね。
そういう人たちに対して、私としては、この人本当にやめたいんじゃないかなと思ったら、
「とり
あえず来なさい」と言います。来なさいといっても、向こうは覚醒剤がバリバリ入っているわけです
よ。とりあえず、そうしたら覚醒剤を抜かな、あかんわなとなりますね。西成は安いですよ、1 泊 1,500
~2,000 円ですね。でも、このへんで泊まっても、覚醒剤は止められない。だから、新大阪近辺に 4,000
~5,000 円のホテルがあるから、そこで泊まることにする。3泊ぐらい泊められるわけですね。解毒
して、とりあえず、ダルクに来なさいと勧める。来ないです、そのままトンズラする人が圧倒的に多
いですけどね。
来たらこれはやる気があるなと思って、そうしたら体験入所とか、あるいは今度はウイークリーマ
ンションを借りる。ウイークリーだったら1週間で3万5千円ほどですね。借りて、なおかつやる気
があるとなったら、そこで生活保護をかけようと試みる。生活保護をかけて入所させるか、ダルクの
近辺に安い部屋を借りて通所させるか。そういうプログラムを提供することもある。ダルクを訪ねて
きて、スムーズにいけば3週間で生活保護までこぎつけることができます。
では、3週間で、ホテル代・ご飯代・交通費、10何万かかると。誰が持つねんと。全部うちで持
っているわけですよ。そういうことをやり続けてきたわけです。その中で、公的助成も貰っているの
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に、ダルクの方から金が出せるわけないと。だからフリーダムという、任意の団体で、そういう支援
することにした。でも、あまりにもそういうことを頻繁にやれるほどお金はないですよね。わずかな
人数ですよね。で、そういう人が多いことに気付いたので、刑務所を出所した薬物依存者の包括的な
回復支援プロジェクトを作った。
今年、ファイザー製薬というところからお金をもらって、300 万円のうち 100 万円は、実際に来た
人に食費で渡す、宿泊費として渡す。そういう生活保護をかけるまでの支援をするというプロジェク
トをやっています。この1月から7月末ぐらいまでの間に、大阪ダルクと京都ダルクで手分けして面
倒を見たのは、だいたい 10 人ぐらいです。とりあえず面倒みたものの、訴えも多く、スタッフを振
り回す人もいます。
ダルクから、いつそういう人を排除するかと。いつも排除するタイミングを伺っておりますけれど
も、なかなか排除できないんです。ちゃんと、ダルクに来るわけですからね。何か、来てワーワー言
うけれども、とりあえず来て、どうも酒飲んだらしいけれども、来るのです。来続けて、徐々に落ち
着いてきたら何も言わなくなった。こういうタイプの人には、すぐにでも投薬が必要なのですが、病
院にかかるまでには少し時間がかかる。
刑務所を出所してきた薬物依存の人というのは、ほとんど投薬が必要なんですよ。幻聴が聞こえて
きたり、幻覚が見えていたり、刑務所という特殊な檻の中では症状を出せないから、体も心も諦めて
いるんですよ。刑務所を出た途端に、病気の症状が出る。幻覚が見える、幻聴が聴こえる。刑務所を
出た途端に、突然肝硬変のような状態になります。医療が必要だけれども、言ってみればホームレス
でしょう?本当は精神科の薬をすぐ飲ませればきちっとインテークができる。でも、投薬されない、
医療をかけられない、こんな状態で誰が面倒を見てくれるでしょうか?
多様な実態
だから、この2月に来た人なんか、刑務所を出て、その人も悶々としているわけですね。それで裸
の上にジャンパー、アンダーシャツも着ずにシャツも着ずにジャンパー着て、泊っていたホテルから、
裸足で来るんですよ。2月ですよ、真冬ですよ。靴あるよ、サンダルもあるよ、靴下もあるよ、ここ
にあるから、あなたにプレゼントするよ。それを履きなさいといっても、履かない。なぜ履かないの
か、修行しているのに邪魔するなと。俺は修行しているんだと言うわけですよ。それじゃあ仕方がな
い、じゃあ裸足で来てくださいとなるよね。
ホテルのフロントの人も、怪しがって。なぜ裸足なんですか?スリッパをお貸ししましょうか?い
や、修行ですからと断る。精神薬が必要な状態ですよね。でも、医者に問い合わせしたら、2日間の
治療費が実費で3万円かかる。その人に投薬しようと思ったら、生活保護を受けるまでの3週間が大
変です。
累犯刑務所では、
「刑務所 3 回目です。」
「5 回目です。」
「10回目です」とか、そんな人ばかりで
すよね。平均年齢 45 歳か 48 歳ぐらいでしょう。その人たちが教育指導の結果、ダルクにつながるか
といったら、ほとんど来ない。
ダルクに来る人はどういう人かというと、そういう刑務所のグループワークにも出られない人たち
です。刑務官に盾突くから、
「お前はずっと出るまで独房におれ」となるわけですね。そういう人た
ちがダルクに来るわけです。西成に行って酒飲んで、シャブ1発打って電話して来るわけだよね。そ
れが現実ですよね。だから、そういう現実があるというのは、データとして示さないといけない。そ
れでこのプロジェクトをやっている。
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その人たちを全部救うという、そんな大それたことは考えてない。100 万円投資して4~5人、そ
れでつながれば十分かなと思います。でも、その間ダメだった人もいっぱいいるわけで、失敗した人
も、さっき言ったようにいなくなった人もいる。
支援をしようとしても、そこで助かる人もいるし、どうも助からない人はホームレスになってしま
うということです。こういうプロジェクトをやって助かる人がいるということは、反対にそこからも
排除される人がわいてくるという実態があります。本当にこれは辛いことなんですよね。私としても、
何のためにこれをやっているんだと思いながら、現実はやはりそうだということですね。うちみたい
な民間の小さなところがこんなことをやるべきじゃないんですよ。
もう刑務所を出たところで、ダルクの創始者の近藤恒夫さんが言うように、ちゃんと福祉事務所が
看板を立てて、ここへ連絡しなさいと。あるいは、相談事務所を刑務所の前に設置するとかね。それ
をやらないと、結局都合の良いようにダルクが利用されるだけです。私たちが行ってちゃんと教育で
やっている人たちが来るのでやれば良いし、刑務所からこういう人を紹介しますというソーシャルワ
ークを行った上であれば良いでしょう。現実は、そうじゃなくて、出るところで全部切って、放り出
してしまうわけです。
なぜ放り出すのかと刑務所に何回も聞いたんです。それも罰なんだと、罪を犯した人間に対する罰
なんだと。それは考えられなかったですけど、そういうことを言うわけですね。今日はソーシャルイ
ンクルージョンということなので、そういう今の、本当に現在進行形でダルクの近辺に、私の周りで
毎日起こっている話をさせていただきました。
改めて自分史を語る
ここでいろんな薬物への切望感について説明します。コカインというのはだいたい覚醒剤と一緒で
すね。切望感(クレイビング)が強烈なドラッグ。覚醒剤はそれに輪をかけたくらい強い。だから、
止まらないね。渇望感がすごいですからね。
次に薬物依存に至る進行のプロセスについて話します。私は 14 歳の時に初めて薬を使いました。
14 歳というのはダルクの薬物依存開始年齢の平均値ですね。私も 14 歳でした。それまでは超優等生
でした。これ以上いないというような優等生でした。教育大の付属中学校にトップで入っていたんで
すよ。小学校5年生ぐらいから考え始めました。ウルトラ良い子のロボットをやっている自分から、
どういうふうに飛ぶかということばかり思っていました。初めてシンナーを吸ったときに、ああやっ
たという感じでしたね。やっちゃいけないことをやったという気持ち良さでしたね。それで止まった
ら良いんですけれども、やり続けて、高校1年の時は結構吸っていました。親は転勤族でしたので、
いつも私は転校生でした。高校に入っても1年ぐらい友達がいなくて、つらかったです。高校1年の
時に学校もやめるとか言い出しはじめました。でもいじめられはしないですね。私は足が速いから絶
対大丈夫なんです。いじめっ子が来ると、割とそれに対し言葉で対応することはできましたね。それ
は小学校の頃から身に備わっていました。
高校をやめるたいと言いだした頃、学校にワルのグループがあってね、その中の1人に私は呼び出
しを食らったんですよ。物陰に連れていかれましてね、いじめられるのかなと思ったんでね。いじめ
られそうになったら逃げたら良いと思ったんですけど、そうしたらシンナーの吸い方を教えてくれと
言ったんですよ。不良のくせに、そんな不良の格好をしていて突っ張っているくせに、シンナーもや
ったことないんや、こいつらと思いましたね。良いよという感じで、皆が集まっているところへ持っ
ていって、吸い方をコーチしました。
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シンナーの正しい吸い方は、ビニール袋に鼻まで入れたら窒息するから、口だけ入れるわけ。鼻で
息をしながら吸いましょうとか。コーチをしてあげて、皆には、どんな幻覚を見たの?と言って、ア
フターミーティングをしていました。それはすごい幻覚だとか言って、2人で一緒に吸ったら同じ幻
覚を見るのかなとかと言って、でかいビニール袋で一緒に被ってシンナーを吸ったりとか、いろんな
実験もしていました。それで友達できたから、学校に行くのも楽しくなった。楽しくて仕方がないん
です。今でも友達ですよ。もう 50 歳過ぎていますね。西舞鶴という小さな町だったけど、すごく不
良で、やはり警察とか町の人とか親・PTAから見たら非常に問題集団だったんだけど、別に今はね、
あの頃はやんちゃで面白かったなという感じですね。その頃一緒に薬をやっていた人たちとお話する
のって結構楽しいですよ。高校出て、すぐに家出をしました。母親との関係が上手く行かなかったこ
とも原因の一つです。私はどちらかといえば女性が好きなんですが、高3の時に4つ年上の女性と付
き合っていたんです。彼女のお姉さんのところにうちの母親が私に内緒で行って、うちの子どもは高
3で大事な受験のときなんだから、社会人のあんたの妹がちょっかい出すとは何事やと、うちの母親
が言ったみたいです。それを聞いた彼女が、もう別れましょうと言ってきました。
別れ際にその話を聞かされました。
「あんたのお母さんがうちの姉ちゃんところに来たんや」と。
すごいショックですよね。家へ帰って何したかといったら、初めてリストカットしてね。それで、母
親がパッと気付いて、私は何も言わなかったけどね。だから、何も言えないというところが問題なん
ですね。そこで母親を殴りつけるとかそういうことをしていれば、薬を使う必要はないんだけど。
私は、いつも親に対して反抗するということはほとんどできないのです。父親はいつも酒飲んで、
こういう大学には入れとかそういうことしか言わない人でした。私は、いつもじっと黙って聞いてい
て、ちゃんと言葉で自己主張するということが、子どもの頃からできなかったんですね。それでその
ときは初めてリスカしてしまいました。
私は詩を書いていて、ずっと高校生のときから、結構いろんなところに投稿して、選ばれたりして
いていたのです。それが縁で詩の同人誌に「社員募集、インスタントラーメン付き」と書いてあるの
を見つけた。インスタントラーメンがちゃんと付くんだ、これは飢え死にしないやと思って、家出し
て東京へ行ったんです。若いということはいいことです。ラーメンがあるから飢え死にすることはな
いという。実際、本当にラーメンが多くて、毎日ラーメンでした。早速、私はそこでシンナーを皆に
教えて、もうシンナーパーティを開いて、周りの皆も依存症にしていくと、そういう大変な状態にな
っていました。結果的にはどんどんひどくなって、本当に依存症になって行ったんですね。
だから、シンナーとはいえ、最初に精神病院に入院したのは 22 歳の時かな。本当に依存症になっ
ていて、体重も 40 何キロまで痩せ細って、今の半分ぐらいです。本当にガリガリで、このへんも肋
骨が飛び出てひどい状態だったんですよ。1日4缶ぐらいシンナーを吸ったりしていて、鎮痛剤も1
日2箱ぐらい飲んでいました。
何をしてもやめられないから、自分で捨てに行って、泣きながら捨てている状態でした。もう本当
に今日でやめようと思って捨てるんだけれども、30分経ったら欲求を押さえられず買いに行ってい
る始末でした。完全に依存症、中毒状態でした。
友達もいろいろやめさせようとしてダメだったので、ある日私に、やめなさい、シンナーをと。こ
っちのほうが良いからと。大麻をもらったんです。こっちは植物性のアルカロイドやから、そういう
ケミカルなのはやめましょうと。脳に悪いからこちらにしなさいと。持って、吸い方までを教えてく
れましたね。
ところが、大麻はどういうドラッグかというと、いろんな聴覚とか味覚とかを増幅する薬ですよね。
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ミュージシャンが、バンドのドラムの音だけを聞こうと思ったら、大麻というのはパァッとしている
けれども、大麻を吸えば聴覚を1点に集中できます。味覚も鋭敏になるんですね。ちょうどお盆のシ
ーズンになると、私いつも大麻を吸っていたんです、蓮のお菓子とかを舐めるわけですよ。むちゃむ
ちゃ甘いんですよ。こんなもの、仏さんに置いていて良いんかというぐらい甘くて、なんで取りしま
らないんだというぐらい甘いんです。そのように味覚は鋭敏になるわけですですから。それで、食欲
は増進すると。結構ガバガバ食うわけです。
大麻はそういう作用があるわけですけれども、他のドラッグと併用したらどうなるでしょう。大麻
の本当の恐ろしさというのは、依存性も若干あるし後遺症もあるんですけれども、取り上げられてな
いのは、他のドラッグと併用したときのことでしょう。いろんな感覚を増幅するし、頭で妄想的なこ
とを考えたら、もっと妄想が広がっていく。
私の場合は大麻によってシンナーの作用が増幅されたんですね。ですから幻覚・幻聴がひどくなり
ました。いつも雨戸を閉め切って吸っているわけですけれども、ちょっと雨戸を開けて窓の外を見た
ら、皆、お巡りさんの格好に見えるんです。お巡りさんが三輪車に乗ったりとか・・。婦人警官がい
っぱいおしゃべりしていたりとか。これは怖いなと。電気屋のテレビには全部何か自分の顔が映って
いるので、パニック状態になってしまう。
自分史の続き
ある日、東京に母親が迎えに来ました。22 歳の時です。お父さんも、神戸に帰って精神病院に入
院しなさいと、言っているらしい。そこで、神戸に帰って精神科に入院しました。退院してすぐ大阪
で写真の専門学校に行ったんです。それを卒業して東京でカメラマンとして仕事をするようになりま
した。
最初はヌードカメラマンです。エロ本のカメラマンですね。ポルノグラフィを結構撮っていました。
ちょうどビニール本ブームでしたので、ものすごく忙しい時でした。大変な量の仕事をしていました。
昼間は新宿のホテルで撮影して、帰って来たら1週間ぐらい、軽井沢のほうにパンツも着替えずにロ
ケへ行ったりしていましたね。ホテルに閉じこもりっきりで、ずっと写真を撮っているという状況で
した。ある日シティーホテルで撮影をしていたらモデルと2人だったんだけれども、そのポーズを付
けようとして側へ寄ったら、頭部からシンナーの臭いがするわけです。あっ、何かやっている?と聞
いたら、トルエンをやっているということになり、もう今日はしんどいから撮影パスしたいと。それ
で私は撮影をパスしよう、やめようと。それ、どこで手に入れたの?では、一緒に買いに行こうみた
いな感じになって。彼女もうちに来て、一緒にそれを吸って。トルエンってすごいわと思って。
シンナーは不純物30%、酢酸エチルとかが入っているけど、トルエンは 99 ですから、不純物は
ない。あれは美味しいですよね。こんな旨いものがこの世の中にあったかというぐらい。今でも考え
るだけで・・やばいですけどね。それぐらい美味しかったんですね。当然ハマッていったんです。
原宿の方のヌード写真制作会社で、私は、チーフカメラマンで下にカメラマンが何人もいて、スタ
イリストをおいてみたいな会社で働いていました。そういう感じなんですけれども、昼間撮影が終わ
ったら、すぐにシンナーを買いに行って、家に帰って吸う日々でした。そのうちだんだんおかしくな
って、ラブホテルでモデルを撮影していたら、ファインダーを覗いたら魔女なんですよ。魔女がモデ
ルになって私を殺しに来ているという妄想が来たんです。ちょっと待ってねと言って、それで外へ出
て事務所に電話して、魔女がモデルのふりをして私を殺しに来ている、助けてと言ったんです。何バ
カなこと言っているんだと同僚は言っていましたが。
12
ほどなく会社から精神病院に入院させられました。入院中は精神科の開放病棟から原宿の事務所へ
行って、新宿のホテルへ行って撮影をして、精神病院に帰って眠る毎日が、ずっと続いていました。
もうひどかったですよね、最悪ですよね。
同僚からやめろと言われて、退院してからは毎日自宅まで車で送ってくれるわけですね。仕事はい
くらでも来る時代ですから、猫も杓子もエロ本の制作会社ですから、それぐらい儲かっていた時期で
す。でもすぐに私は我慢できなくなって、同僚が帰るのを見とどけてから、タクシーを呼んで新宿に
トルエンを買いに行って、仕事を全部すっぽかして1週間吸い続けていました。最後にすごい幻覚を
見て、シンナー依存症は進行すると幻覚を見なくなるんですけれども。
幻覚を見るのが病気だというんじゃなくて、幻覚を見なくなってくるのがシンナー依存症の病気の
進行の特徴かもしれないです。ところが、最後に見たんですよ。久々に幻覚を見て、部屋の中にでっ
かい壺がパッと現れて、その中を覗いたら、シーラカンスっているでしょう、古代の魚です。あれが
トグロを巻いていて、その口から煙が出ていて、それが空中にバァっと広がって神様か何かになった。
白い人の姿になって私は説教をされてしまうわけ。お前、またやっていると。また精神病院に入院す
るぞとか。お前、何やっているんだと。ごっつい怒られるわけです。私はもうワンワン泣きながら、
ごめんなさい、すいませんとかと言って。それで幻覚は消えました。部屋に電話がなかったので、私
は公衆電話まで走っていって、神戸の母親に「もう助けて、このままじゃ死んでしまう」と、絶叫し
たのです。電話を切って部屋に帰ってきて、
「あっ、しまった」と思った。
「神戸から内の両親が明日
来るわ」と。部屋を見たらトルエンの空き瓶とビニール袋と、あとは女物の下着ばかりです。その頃、
エロ本のカメラマン、ヌードカメラマンだから、日々何万円と女物の下着を買いに行くわけです。部
屋では女の子の格好をしてましたから女物の下着やシンナーのビニール袋を両親に見られたらどう
したらいいのかと。母親のヒステリックな声というか、私を怒る声を想像しただけでもうたまらなく
なって。母親に怒られる前に自分を罰しとけみたいな感じですね。それで、またリスカですね。もう
リスカはそれまでに30回以上やっていて、その時は本当に4針縫うぐらいグサっと切って、部屋中
血だらけにして、これだけ血を流しておけば両親が来ても怒られないだろうと。それだけなんですね、
ものすごいバカみたいなことをやっちゃう。
次の日の昼ぐらいに、ドンドンと両親が来て、大変だ、大変だと言って、外科医院に連れて行かれ
て、ホッチキスで止めて、神戸に連れて帰られました。そして、また精神科に3回目の入院です。8
ヶ月ぐらい入院していましたね、神戸大学付属病院精神科です。ちょうど中井久夫という有名なドク
ターが教授をやっているときでした。なぜ8ヶ月も入れられたかというと、当時、国会で毒物・劇物
取締法でシンナー吸引者を取り締まる法律が審議中でした。その法律ができるまであなたは退院させ
ませんということになって、8ヶ月も病院にいました。
退院してからは、今度は東京でカメラマンをやったらまた薬を使うというのが分かっていたので、
両親が住んでいる明石市の近所にアパートを借りて、毎日海に行って釣りをしていました。薬をかじ
りながら。1年間も薬をかじりながら釣りだけをしていたんです。今度はシンナー吸わなかったけれ
ども、処方薬の乱用ですね、精神科でもらう薬の乱用です。それをやるようになったんですね。結果
的にはまた精神科に入院しました。1回に 30 錠飲んで失禁したりして、大変な状況になって手首を
切ってということも続いて、入院しました。
もう 29 歳になっていてカメラマンにも戻れないと思って、仕事もできないし、宗教に頼ろうかな
と思っていました。大本教に興味があって、精神病院で出口王仁三郎のことを読んですごい超能力者
ですばらしいと思って、大本教に行こうかなと思って外泊を取ったんだけれども、精神病院を出て神
13
戸駅に着くまでに、1週間の処方を全部飲んじゃって。ヘロヘロになってタクシーで病院に帰ってく
るということが2回あった。
出合いと転機
その時にある1人の人が来てくれて、その人が、ここに書いてあるように、解毒というのは体から
薬物を抜く。再発予防というのはやめ続けていくということですね。その時に私に会いに来てくれた
人というのが、かつて同じ精神科の病院に入院していたアルコール依存症の回復者だったんですね。
彼は、ひどいアル中・
「薬中」でどうにもならなくなっていました。その人は精神病院に一緒に入院
していたときには、毎日酒を飲んでいました。病院の中ですよ。また病院の中でシンナーを吸うし、
私よりひどいんですよ。こいつ絶対死ぬなと思っていたのが、薬もお酒も止めて、私に会いに来てく
れたんですよ。
えっ、この人が何でお酒も薬も止まっているんだろうと不思議に思えたんですよ。それで彼の話を
聞いたんですね。そうしたら、彼はアルコール依存症のAA(アルコホーリクス・アノニマス:無名
のアルコール依存者たち)という自助グループ、あと、動物園前にあったMAC(メリノールアルコ
ールセンター)というアル中の施設で、どうもアルコールもクスリも止まっていたらしいんですよ。
それで彼が言ったのは、ニコッと笑って、「思いっきり薬物使ったの?使いたかったらもっとやっ
ていいよ」と言ったんです。私に、使いたかったらもっとやれよと言ったのは、彼が初めてなんです
ね。ええっ?と思って。いや、もうやりたくないと言った。
あと、彼が言ったのは、
「あなたは僕より意志が強い」と。
「僕は意志が弱いから、1年半前に酒を
やめた」と。
「あなたは色々失ってもまだ使っているということは、よほど薬物に対して意志の強い
人間だ」と言ったんですね。それも面白かったですね。今まで意志が弱いとしか自分のことを思った
ことがなかったので、
「意志が強い」と言われると、
「ええっ?」と。何か嬉しくなりましたね。
それで、その次彼が言ったのは、もう 26 年前ですよ。アルコール依存症の自助組織とか施設はあ
ったけれども、薬物依存症のダルクとかNAとか、そういう薬物依存症の社会資源というのはまだな
い時代でしたね。当時私は 29 歳で、
「アル中の施設があなたを受け入れるといっている」と言うんで
す。
「そこで薬物をやめる方法をマスターして、将来精神病院にいったり刑務所に行ったりして、自
分と同じ『薬中』を捕まえて、一緒に自助グループなどをつくっていったら、関西でパイオニアにな
れるだろう」と、まだ外出禁止の私に言ったんですよ。
「あなたはパイオニアになれるんだよ、まだ
誰もやってないんだよ。やったらどう?」と。その言葉を私はすごく嬉しかったというか、
「ええっ、
パイオニアになれるんだ」と。それまでは、私は自分の体験とかをこんなにペラペラ喋れなくて、本
当に消しゴムで消してしまいたいぐらい、恥ずかしい、誰にも言えない、そんなふうにしか思ってい
なかったのです。
ところが、彼はそれを勲章だと言ったんです。精神病院に4回入ったり、リストカットの痕、それ
はあなたの勲章です、大事にしなさいと。どういうことやねん?と思いました。
でも、次の言葉が私を決定的に変えた、革命だった。私にとっては本当にレボリューションです。
彼が最後に言ったのは、その人がお酒とか薬をやめて7ヶ月目に突然、あっ、これが「シラフ」なん
だという感覚が天から降ってきたと言うんですよ。これには負けたんです。7ヶ月経ったら突然「シ
ラフ」という感覚がやってくる。薬をやめたその日からが「シラフ」なんじゃないんだと。7ヶ月や
めた日に「シラフ」だという感覚がわかるって、どういうことやねんと。私は「シラフ」というドラ
ッグをやってみる価値があるというふうに初めて思ったわけです。
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そこで。その「シラフ」というドラッグをまだやったことがないんだと気付き、とりあえず7ヶ月
やめてみようと決めたんです。何も起こらなかったですね。騙されたんですね。でも、7ヶ月間、私
は薬が止まっていたんです。本当に、たぶんそれがとても私にとっては大事な言葉だったんですね。
薬をやめたら何が起こるか分からない。それが希望だったわけです。今まで色んな人に説教は聞かさ
れてきたんですね。あなたはこの薬をやめてこのように真面目に生きていかなければいけない、意志
を強く持って頑張りなさいと。いろんな約束をさせられました。
でも、彼が言ったことは、謎だったんですね。この謎って、ごく魅力的で惹かれることだったんで
すね。だから、私は行ってみようと思ったんです。その謎を解くためにMACという動物園前の施設
に行こうと思ったし、自分にこれから一体何が起こるんだろう?そういう期待感いっぱいで私は行き
始めたんですね。
薬物を使うのは悪いこと、ダメなこと、だからやめなきゃいけない、そういうことではなかったん
ですね。何かそこに面白いことがあるぜ、みたいな。楽しいことがあるんじゃないの?そのことがす
ごく私にとっては大切なことだったし、ウキウキすることだったんです。
あと、私はすごく罪悪感が強いので、自分を責めていたんです。それまで。自分を責めまくってい
たんです。薬を誘ったり、教えたりした人が、不幸な目に遭ったりしています。それで、すごく私は
悪魔のように言われたこともあり、自分でもそう思っていました。だから私みたいな人間は生きてい
る価値がないとしか思っていなかった。
ところが、その彼の言葉はそうじゃなくて、自己尊重感、自己尊厳、そういうものを取り戻す。し
かも何かおかしく言うわけですよ。まじめに言わないんですね。そこがすごく良かったんですね。真
面目くさって、説教をされたら、たぶんダメだったと思うんだけれども、ニヤニヤ笑いながら茶化し
ながら言われた。これが非常に私にとっては良かったと思います。それで、精神病院の中からMAC
へ、動物園前にある施設へ毎日通い始めました。
MACの人たち
そこにはアル中のおっちゃん・おばちゃんたちがいて、最初はすごく緊張していたけれど、だんだ
ん楽になってきて。なぜかというと、あまりお節介じゃない。私に、ああだ、こうだと言わない。私
はああだ・こうだ言われるのが嫌い。何も言わない。まぁ、そこへ座りなさいと。それがすごく楽だ
ったんですね。そのうち、なぜああだ・こうだ言わないかが分かってきたわけです。皆、自分の酒を
やめるだけで精一杯で、他人のことなんか構っていられない人なんです。これが楽だったですね。自
分が生きるか死ぬかですから、その人が私のシンナーどうのこうのって、吸いたかったら勝手に吸え、
みたいな感じですね。それはお前の問題だ、みたいな。ここでは使う自由もあるし、使わない自由も
あるんだよと。好きな自由を選びなさいと。そういうふうに言われたんですね。
ところが、周りにもし余裕がある、自分が生きるか死ぬかになってない人がいたら、大変だねとか
いろんな世話をやかれて、うざくなって逃げていたと思います。でも、そうじゃなかったんですね。
こんなことがありました。ある日、今まで一緒にプログラムを受けていたアル中の仲間が、天王寺
の駅を降りてMACまで行くときに、ちょっと路地裏の方で、昼間から私の名前を呼んでいます。
「ビ
ニール」と呼ぶ声。私は当時、ニックネームがビニールでした。
「ビニール」と私の名前を呼んでい
る。よく知っているおっちゃんです。昨日まで一緒プログラムを受けていたんです。酒を飲んで失禁
してひっくり返って、ワーっとクダを巻いていたわけです。
「こっちへ来い、俺を助けろ」みたいな。
私はその時にどう判断したか、やはり施設の中で教えられていたんですね。仮にここにいる仲間が酒
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を飲んだり薬を使ったりしても、
「まず自分を守りなさい」と。
「放っておきなさい」と。
「その人の
問題である」と。それを私は施設の中で学んだので、
「じゃあまたね」と、放って行きました。そう
いうことができるようになったというのが私にとってすごい成長だったんですね。もちろんその人は、
そのうち精神病院に入院をして、またつながっていきましたから。
「あの時はどうも」みたいな感じ
で、また再会を果たせたわけです。
当事者のプログラム
依存症の施設には依存症専門のプログラムがあります。AA(アルコホークス・アノニマス:無名
のアルコール依存者たち)のプログラムは、アル中がつくったものです。ダルクでやっているのもA
Aの 12 のステップの影響を受けたプログラムです。
最近の話題
大阪ダルクでは、男性と女性、男性の方が3分の2、女性が3分の1ぐらいですかね。
今、一番大阪で低い年齢の人は 19 歳、一番年齢の高い人で 55 歳かな。あと、拘置所に収監中の薬物
依存者へのインタベンション・プログラムというのをやっています。これは拘置所からいろんな手紙
がくるわけですけど、年間 100~200 件くらい拘置所に面会活動を行っています。うちは全国でも結
構、セクシャル・マイノリティの人たちが多いです。今も 20 何名のうち、ゲイの人も2~3人かな。
女性の施設は4人が定員です。
うちはHIVの陽性者も受け入れています。C型肝炎の人もいます。覚醒剤依存症の人は 30%く
らいC型肝炎を持っていますね。こんなこともあります。
「覚醒剤やめたいです」といって電話が入
るわけですよ、そういう仲間からね。また、薬を再使用したりして。その「覚醒剤を放ってください」
というわけですよ、自分ではよう放りません。こんな宝物を。そんな勇気はないです。覚せい剤とか
注射器とかね。だから、
「お願いですから放ってください」と言うわけですよ。いつも、やばいな思
いながら、
「あなたが放るのについていってあげるから、裏の川にいっしょに行こうよ」と。一時、
杉本町でやっていた時は裏が大和川ですから、何か大和川の河原に注射器がいっぱいゴロゴロしてい
ていました。これは一体何だと、そういう時代がありました。注射器を放ってくださいと言われて、
いつも放るんですけども。1回その部屋にいったら、1時間前に覚せい剤を打ったと。注射器を事務
所からトイレに行って、コーラの瓶を入れようとした時、間違って刺したのです。血がバっと出て、
その人はC型肝炎でしたので、「あ~」と思って、急いで知り合いの看護学部の先生に電話して、血
を絞りました。毎月検査して、幸いにして感染がなくて良かったですが。それから放るのをやめまし
て、
「放るんだったら自分でやって」と。こんなん私だけかなと思ったら、全国のダルクのスタッフ
のHIVの研修会の時に私がこの話をしたら、僕も僕もと、3人くらい同じ事故があって。結構そう
いう事故があることがわかりました。
だからそこあたりの教育をちゃんと、今からしなきゃいけないです。ハーム・リダクションという
のは、事前に危険を回避するということです。例えばメタドン療法というのがあって、アメリカなん
かでは、ヘロインと同じ化学構造を持つ、医者がつくった麻薬を使用することによって、ヘロインの
離脱を楽にしたりしていますよね。もう1つは、HIVかの蔓延を防ぐために、麻薬の汚染地域でボ
ランティアが注射針を配るということをやったりしています。日本は必要ないですよ。日本の場合、
常に新らしい注射器を、日本の覚醒剤の密売業者が善意でやるというか、新しい注射器を配ってくれ
ますからね。
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だからそういうボランティアをする必要がないです。もし注射感染で、HIVが蔓延したら、皆ど
ないしようとか、ちゃんと考えなければいけない。それが必要ないくらい、注射器をいっぱい配って
くれていると。そこは感謝です。感謝ですよねという言い方することがおかしいと思うか、本当に感
謝なのかと思うか、非常に別れ目ですよ、皆さんの中には当惑される方もおられるかも。私は本気で
感謝しているわけです。
もしなかったら、国とかNPOとか、そういうところで対策を考えないと、HIVでもC型肝炎で
も、もっと酷い蔓延の仕方をすると思うんですよ。
話が飛びましたけども。最近私もツイッターをやっていて、そこでウイーン宣言というやつですね、
これをコピーしました。かなり権威のある国際会議の宣言のようですね、毎回2万人くらい参加する。
今年7月、この中で、最初に言った薬物戦争というものが役に立たなくなったと言っているわけで
す。ちゃんと薬物依存症を病気として、治療の対象として、そこにお金をかけるべきだと言っている
わけです。これをHIVの国際会議の最後の宣言の中で採択しているわけです。
犯罪として薬物を取り締まることは、国際的に見ても効果をあげられなかったと言っていますね。
まずは、病気としてちゃんと治療しましょうと。それを、こういった国際会議の場で宣言として出し
たことは大変素晴らしいことですね。
皆さん方から何か質問を受けます。お答え致しますので質問してください。
フロア
大阪市保健所感染症対策担当をしています。先ほどの薬物の部分で、ちゃんと注射器を配ってくれ
ているということで。大阪市のHIVの数を見ていたら、男性同性愛での発生数が7割で、薬物って
いうのは本当に少ないというのが、こういうことでHIVの発生が少なかったんだなということを感
じました。質問のほうですけれども、保健師ですので、倉田さんにとって一次予防的な活動とは、そ
うしたらどういうことを一般の方たちに伝えていくことが、今まで学校ではやるな、やるな。それは
本人がすごく傷ついたと。そうしたら、当事者の方を招くということではなくて、何か違うものを一
次予防として情報発信したり、会議を開いたりというのがあるのかなと。どういうことを中心に、一
次予防的なことで持っていこうと思われますか?
倉田
ダメだと否定しているわけじゃないんですよ。ただ、
「ダメ!絶対!」が権力になって、薬物を使
い始めた人、あるいは薬物依存症の人を排除する構図があると。そのことを認めないということを糾
弾しているわけです。つまり、じゃあ学校で薬物の啓発をやる時に、一次予防・二次予防・三次予防
全てを俯瞰する、そういう視点からの教育をやるべきであって。ダメだダメだと言っているわけじゃ
ないんです。
「ダメ!絶対!」のプラスアルファがいるのに回復者がいることを認めないとか。ある
いは学校で、例えば5百人ぐらいの生徒の中で5人ぐらい使っている可能性があるのに、うちではな
いという言い方をする。大学で大麻の問題があったとき、ある大学のスクールカウンセラーは私のと
ころへ慌てて来たんですよ。Freedomに。学生が逮捕されたと、でも大麻の押収量が少なかっ
たから不起訴になったと。犯罪として取り扱えなかったということです。じゃあその学生を退学処分
になかなかしにくいと。親も知ったと。いろいろなことを私に聞きに来ました。ただ、面白かったの
は、そのカウンセラーは名乗らなかった、名刺を渡さなかった。どこの大学かも明確に言わなかった、
そういうことです。例えばこういうポスターをつくりまして大学に持っていく。でもそれを貼れるか
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どうかは分かりませんと、大学は言ったりしますよね。つまり、
「ダメ!絶対!」的な一次予防しか
認めないと。フリーダムで作ったポスターを貼ると、これはやばいから、やっている人がいるという
ことですから。
「うちの大学には1人もおりませんよ」と。
「いない大学になんでこれを貼る必要があ
るのですか」とたてまえを通す。にも関わらず、大学向けの、薬物乱用防止のノウハウのマニュアル、
虎の巻を見せてもらったら、当事者と一緒に予防教育をやると書いてある。それは、なぜ書いたか。
逮捕者が出た時はダルク・・そういうことです。1人も出ないうちは、うちにはいないから二次予防
も三次予防も必要ないですと。だから、これをなくさないと啓発も何もないし、その構図自体が社会
から薬物依存者を排除していると、そういうことです。もう1つ、今おっしゃった薬物依存者にHI
Vの人がいないと、これは大きな間違いです。増えているんです。全国のダルクでも年々増加してい
ます。注射感染じゃないんです、SEX感染なんです。クスリを使うとセーファーセックスへの意識
が低下して、避妊具を付けない、感染しやすいSEXをするということでも、人たちがすごく増えて
いるなという感じがします。
フロア
大阪府立大学ので教授で NPO HESO の理事もしています黒田と申します。精神科の医師であるの
ですが、薬物関連問題としまして、ドラッグコートというのは、刑に服するか、あるいは治療を受け
るかという選択ができるわけですが、先生のお話で「英国のドラッグコートに学ぶ」と言うのは、具
体的にどういうことなのかお聞かせてください。
倉田
英国のドラッグコートに学ぶというところで、ドラッグコートというのを初めて聞いたのは 1996
年です。私は 1997 年に大阪ダルクでツアーを組んで、ドラッグコートを実際に見に行きました。サ
ンフランシスコのドラッグコートでしたけれども、サンフランシスコの判事とか弁護士とか検事、あ
と調査官のレクチャーを受けてきました。その当時ドラッグコートは全米で 250 ヶ所くらいでした。
裁判の傍聴をしました。で、すごく感動的な法廷でしたね。裁判官がいて弁護士がいて検察官がいる
という構図は変わらないんですけれど。20 人ぐらいの被告席から次々に来るんです。1人の被告が
面白かったのは、2年間ドラッグコートてプログラムをやってきた。今日は卒業式です、ドラッグコ
ートの。2年間・・。ドラッグコートは刑務所に収容されるのではなくて、ダルクのようなリハビリ
テーション施設がいっぱいある。その中から彼は選んで、そこへちゃんとやって、リハビリテーショ
ンプログラムを完了したと。裁判官が言うのは、今日であなたの過去の犯歴はすべて抹消する。コン
ピータにもあなたの犯歴は残りません、社会復帰をしてください。NAの地図を渡してミーティング
に行きなさいと。最後にスピーチをしなさい。彼が言う。これは日本から私たちが何人かで行ってい
る。傍聴席に来て、2年前の逮捕されている写真を見て、こんな薬中だったんだよ、僕はと。写真に
写っている彼はヨレヨレの薬中の顔をしているわけ。今はシャキっとしていると。こんなに良くなっ
たんだと。法廷で演説するわけです。囚人服とかを着て。他の被告ですね、まだドラッグコートに一
ヶ月目とか、僕ができたんだからあなたたちができないはずがないから。頑張るように。やりなさい
と。そうしたら裁判官が下りてきて、君はよくやったと。被告席に行って肩を抱いて、ポラロイドで
記念撮影、Tシャツを持って。ハグして、皆で。それはダルクでやっていることを法廷でやっている
と。これは良くなるなとすごく思いました。もちろん、当然法廷ですから、上手くいっていない人も
いる。ドラッグコートというのは刑務所に収容する代わりにリハビリテーションのプログラムをする
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ことを監督する裁判所が。そういうシステムです。一人の人は 6 回ドラッグコートのプログラムを
すっぽかした。それで検察官は、もうこいつは刑務所へ放り込めと。本人は、いや、子どもがまだ小
さいし奥さんも大変だから、家庭サービスとか、仕事も大変だというわけです。そうしたら、裁判官
が、あなたが第一にしなければいけないことは薬をやめることであって、家族の面倒を見ることでは
ないと。仕事をすることじゃないと。リハビリプログラムを疎かにしたのは、あなたはもう刑務所に
収容されなきゃいけないかもしれない。そこへ弁護士が出てきて、ちょっと待ってくれ、もう1回チ
ャンスを与えてくれといって、検察官と判事と弁護士で、3人で 10 分ぐらい協議するんです。検事
も、じゃあもう1回だけチャンスをやると。だから、ちゃんとリハビリプログラムをやりなさい、そ
れで良いですね。はい、やりますと。そういうやりとりがありました。ですから、日本の少年審判だ
と割と有り得るかもしれないけれども。検察官がいて裁くというよりも、協議しながら治療的に関わ
っていくというスタンスだと思うんです。それは非常に私、有効だと思うし。ただ、司法取引という
法の構造がない日本で、そういったことがアメリカと同等にどれだけできるかは分かりませんけれど
も。ただ、私たちがサンフランシスコに行ってしばらく経って、日本の法務省関係者も結構サンフラ
ンシスコへ行って、ドラッグコートが出てきたみたいなんで、どうなのかなと思っています。そのあ
と、うちと大阪府弁護士会で、2005 年だったかな、ドラッグコートの上級法廷判事、ドラッグコー
トの判事を教育する立場にある女性の裁判官を、うちと大阪府弁護士会で講演会をやった講演録があ
ります。ドラッグコートの上級法廷判事で講演録です。
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