僕が育ったのは佐賀県武雄市という焼き物で有名なところです。近くに

2006.2.28
日本のコンテンポラリーダンスシーンの中でも異彩を放っているイデビア
ン・クルーは2005年で結成10年を迎えた。主宰の振付家・井手茂太は、独
自の解釈に基づいた音楽、身振り、空間造形により、バレエから日本のお葬
井手茂太(IDE, Shigehiro)
式まで多彩なモチーフをダンス作品にしてきた。近年では、自身のカンパ
ダンスカンパニー「イデビアン・クルー」
ニー活動のほか、現代美術、演劇、ミュージカルなど異分野とのコラボレー
主宰。イデビアン・クルーは、95年に『イ
ションにおいてもその才能を発揮。井手のオリジナリティ溢れる発想の原点
デビアン』で旗揚げし、以来、国内外で公
演活動を行っている。日常的な身振りや出
演者の個性を活かした動き、オリジナリ
に迫った。
(聞き手:石井達朗)
ティのある群舞などの振り付けで注目され
る。現代美術家・椿昇や音楽家・ASA-
■
CHANGなど、異分野のアーティストとのコ
ラボレーションにも取り組んでいる。 最近
では、『AMERIKA』(松本修演出)、『ル
──井手さんはこれまで数々の作品を手がけていて、なかにはダンス以外の演劇の
ル』(白井晃演出)、『クラウディアから
人たちとのコラボレーションもたくさんやっていますね。井手さんの振付を見てい
の手紙』(鐘下辰男演出)など演劇や
ても、だいたいダンス的でない部分が多いのではないか、という気がしています。
ミュージカルなど多数の舞台作品の振り付
けを担当し、高い評価を得ている。04年に
そういう意味で、ダンスの活動以前の生い立ちについて興味がわいてくるのです
振付家として初めて読売演劇大賞優秀ス
が。
タッフ賞受賞。
僕が育ったのは佐賀県武雄市という焼き物で有名なところです。近くに有田や伊万
http://www.idevian.com/
里があります。父も陶芸をやっていて、その周辺は5∼6人に1人は父親が焼き物か
陶芸をやっている家でした。父はどちらかというと作家として作品をつくる人で、
僕も小学校のころはよく、ろくろなどで遊んでいました。僕が高校を卒業する頃ま
では、家にも大きなガス釜とかあったんですが、その後全部壊してしまいました。
やっぱり田舎なのでそういうのは商売にならなかった。
母は美容師です。同居している叔母が地元でチェーン展開をしている美容会社を経
営していて、そこを手伝っていました。ですから、うちは母親と叔母、二人の姉、
さらに美容院の住み込みお手伝いさんやインターンがいるという、女7∼8人に男2
人という家庭でした。親父は仙人のような人で無口。親父らしい親父ではなかった
し、井手家はうちの叔母が全部仕切っていました。
『井手孤独【idésolo】』(2005年)
──井手さんの振付作品では、女性がたくさん登場するんですが、それは美容院と
©days
関係がありそうですね。小さい頃から、意識なしに女性たちの中に同化していたと
いうか。その時はまだダンスは始めてなかった?
ダンスへのきっかけは不思議なものでした。子どもの頃、一番上の姉が日本舞踊
を、2番目の姉はクラシックバレエを習っていました。僕だけは何も習い事をさせ
てもらえなくて。でも、姉たちに踊りの相手役をよくやらされていました。夜、店
を閉めた後イスを全部取り払うと、美容室が鏡でいっぱいのスタジオになるんで
す。例えば、今度アイドルの振付を学校でやるからと「ピンクレディーのあんた
ミーちゃん、私ケーちゃん」などと言って、姉にいつも相手役をやらされてた。一
番上の姉の時代は、ヴィーナスというバンドの『キッスは目にして』という曲が流
行っていて、みんなポニーテールにして、女の子がシューッとスライディングする
1
踊りとか。そういうときの相手役です。今思えば美容室はいいスタジオでした。
真ん中の姉がバレエのレッスンに行くときは、わざと早めに迎えに行って見学する
こともありました。女の子たちはレオタードを着ていて、男の人も大人もいるの
に、なんで僕だけやってはいけないのかなと思ったりして。日本舞踊やバレエを
やっている姉たちを見て、ダンスに対する憧れみたいなものがなんとなくありまし
た。
そういう姉弟だったんで、小学校の頃から何かのイベントのたびに、井手の姉弟を
踊らせろ、みたいな感じでよく踊っていました。小学校のレクリエーションの時間
などで、姉の発表の相手役をやったり、家の美容室スタジオでやったものをそのま
ま、僕も出て学校で発表したりしました。その頃には人前に立つ楽しさに目覚めて
ましたね。本当は超シャイなんですが(笑)。ああ、こうすれば受けるな、とか、
こうしたらきれいだと思うんだ、みたいなことを考えていました。
うちは貸衣裳屋もやっていたので、着物などの特別な衣裳にも昔から興味がありま
した。今も自分の作品のなかに着物を使おうということになると、実家の貸衣裳を
使ったりすることもあります。この前のソロ公演(『idésolo井手孤独』)の時は女
性の結い髪のかつらを借りてきました。
──別に習っていたわけじゃないけど、子どもの頃から踊る環境はあったんです
ね。
親戚もほとんどみな美容師という美容師一家のなかで、もう自動的に「お前は美容
師だ」という環境だったんです。だから僕は、ちょっと言えば美容師のホープみた
いな感じで育てられました。そういうプレッシャーもあってか、高校を卒業して半
年もしないうちに美容師の見習い修行をやめてしまい、福岡でプータローしていま
した。
そんな時に、もう一度学生をやりたいと思って探していたら、東京にダンスの専門
学校があるのを知りました。こんなのが世の中にあるんだと思って、なんとなく
行ってみたいなと。上京して、渋谷の「日本ヘルス&スポーツ学院」という全日制
のダンス専門学校に入学しました。その学校にはモダンダンスの人、ジャズダンス
の人、バレエの人など、いろいろな学生がいました。先輩に能美健志さんなどもい
ます。ちょっと不思議な学校だったかもしれません。
──そこで初めて本格的にダンスを習った。
そうですね、授業ではあらゆるダンスをオールラウンドにやっていた感じです。グ
ラハムテクニックとかバリバリやらされましたよ。1年目は必修で、2年目からは選
択になるんです。基本的にはジャズダンスとかヒップホップみたいなものに人気が
あって、その他にモダンダンスや、当時のコンテンポラリー、クラシックバレエも
ありました。朝からレオタードを着せられて、泣きながらバレエのレッスンなどを
受けていました。また、ダンスの理論や歴史に関する講義の時間があったり、身体
や骨の勉強をしたり。その後またジャズを踊ってモダンを踊って、英会話の授業が
あって、なぜかボイストレーニングもあって。月から金、朝から夕方まで踊りっぱ
なしでした。バレエ振付家の望月辰夫さんや、評論家の長谷川六さんらが講義に来
たり、ロイヤルバレエ団やローザスの人など海外からの講師も多くいました。
当時面白いと思ったのは、学校では夏休みが1カ月以上しっかりあるのですが、踊
りずくめの毎日だったのが、夏休みになった瞬間にボーンと太るんですよ。僕だけ
じゃなくてクラスの女の子みんな。それが、学校が始まってまた同じようなプログ
ラムを毎日こなすと、1カ月で元の体重に戻る。若かったせいもあると思います
が、それこそ10キロ近く太って3∼4週間で元に戻るほどハードなプログラムでし
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た。だから、座学の講義の時間はみんな居眠りしていましたよ。そこでも、まわり
は女の子ばかりでした。1クラスに女性が25、6人いるうち、男が1∼2人ぐらいし
かいなくて。2年目になってやめていく男もいたから、僕は目立ってた(笑)。
学校では毎月1回、パフォーマンスの発表会のようなものを行っていました。作品
タイトルやユニット名などを決めなければなかったのですが、ある時、モダンダン
スの外国人講師のクラスで、カリビアンダンスの振りを踊っていたら、妙にウケた
んです。そしたら「あなたはカリビアンじゃなくてイデビアンだね」と言われて、
それで僕らのユニットを「イデビアン」にしました。
とにかくダンス学校での2年間は、バリバリ踊っていました。自慢じゃないです
が、僕は成績優秀だったんですよ。2年時には級長をやって、その後卒業公演のま
とめ役になって、ずっとみんなを仕切るリーダーでした。
──そこでの仲間がイデビアンのメンバーになっているのですね。
そうですね。今残っているのは4、5人ですけど。結局そこを卒業してみんな何をし
ているかというと、ほとんどがダンスをやめて結婚してしまいました。今ダンスを
続けている人はあまりいないかもしれません。
──その2年間で振付は? どんな作品をつくりましたか?
月1回パフォーマンスをやっていましたので、とにかくいっぱいつくりました。そ
のカリビアン風の振りのイデビアン作品をやったとき、ちょっと変な振付だったの
で、すごくウケました。僕もあまりにもハマってしまったので、自分なりにもっと
つくりたくなって。ある意味ここから「パクり」みたいなものを始めたんです。
例えば、ちょうどリレハンメル・オリンピックのころだったので『イデハンメル』
というのをつくったり、ピナ・バウシュが流行っていた時だったから『イデ・バウ
シュ』をつくったり。『イデリアム・フォーサイス』とか、『イデ・キリアン』と
か。イデをつけるだけ(笑)。でも、ただおちょくっていたのではなくて、みんな
あまりそういうものを知らなかったので、あえて付けていたんです。ジャズダンス
が好きな人たちばかりだから、ピナの公演とか、授業の一環で団体チケットをも
らっても参加しない人が多くて。もったいないから僕は余分にチケットもらって観
に行っていましたね。
その当時から僕は振付を主にやっていて、自分自身は作品に出ていませんでした。
というか、自分が踊ること自体あまり興味がなかったんです。授業でバリバリ踊っ
ていてバリバリ優秀だったし、体重は今より余裕で10キロは少なかった。だけど仕
切り役でもあったので、いろいろなグループの構成をつくらなければならなかっ
た。まあ正直言うと、自分が出るまでの余裕がなかったということもあります。
──どういうかたちであっても月に1本振付をするというのは、自分自身が踊るの
と違って、空間的なことから音、コンセプトまでを全部決めるわけですから、すご
いですね。
大きなスタジオで簡単な照明はありましたけど、実際は身内だけのスタジオパ
フォーマンスです。月毎に違う先生が教えに来る「パフォーミングアーツ」という
クラスがあったのですが、その先生からメソッドを教えてもらって、じゃあ今度は
あなたが振り付けてみなさい、といった授業や、パブリックではないけれど人を呼
んでもよいというパフォーマンスもありました。
そういう運命だったのか、しまいには先生にも「この辺で井手ちゃんの変な振りが
欲しいんだけど」と言われて、先生の相談役になっていたりしました。僕は学生な
のかアドバイザーなのか、不思議な環境でした。最初からずっとダンサーに振り付
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けていましたから、振付というものには慣れていたと思います。演出というか、
やっぱりそういうのが好きだったんですね。学校はちゃんと修了したわけですし、
好きじゃなきゃ、これだけ毎日通って、いろいろなことはできないでしょう。
──卒業してからは? その時はダンスを続けていこうと?
親には「卒業したらどうするの!」と言われましたが、とりあえず東京にいること
にして、アルバイトをしながらダンスを続けていました。卒業してからも母校に、
ちょっと代行で授業をやってもらえないか、と頼まれることもありました。何を教
えていたか覚えていませんが。
他には、小川麻子さんなど学校の先輩たちがスタジオでダンスレッスンをしている
と聞くと、魅かれてレッスンを受けに行ったり、セッションハウスの企画ものに出
たり。それで、ちょうど卒業の頃に近藤良平に出会いました。彼は早稲田のサーク
『イデビアン』(1995年)
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ルでモダンダンスをやっていて、面白いらしいと聞いて一度遊びに行ったんです。
それで友だちになり、早稲田のモダンダンス部で一緒に踊ろうということになりま
した。良平さんも早稲田の人ではなかったのですが。その頃ちょうど、ドイツで学
生のダンス・フェスティバルみたいなものがあって、それにみんなで行くことにな
りました。良平さんと僕と7人ぐらいで行って、演出はゴルジ工房の林貞之さんが
やりました。
──それが学校の外で踊った作品としては初めて?
『コッペリア』(1999年)
©days
そうです。自分が出た記念碑的なものですが、そういうことを学校を卒業する時に
やったので、なんだかもう、こんな感じで踊りを続けていければいいかなと思って
しまった(笑)。
これまであえて言っていませんが、卒業して3年ぐらいはダンサーとしてもたくさ
ん踊っていました。何かのイベントの時にちょっと出演させてもらったり、そうす
るうちに小作品がたまってきていたんです。
そんな時、東京・神楽坂のセッションハウスで「ダンスシアター21」という、夜9
時から公演すると会場を安く借りられるという良心的な企画があったんです。そこ
『不一致』(2000年)
©days
で、これまでの作品の総集編みたいな感じで公演をしようということになりまし
た。95年1月13日の金曜日、「イデビアン・クルー」と名前を変え、『イデビア
ン』という作品で旗揚げ公演をやりました。
──『イデビアン』はまさに、その後の井手さんのスタイルを集約したような作品
でした。デビュー作なのに、けっこうたくさんの人が出ていましたね。
学生時代のメンバーを中心に25、6人でやりました。実は、この作品をやろうと
思ったのは、それでダンスをやめるつもりもありました。学生時代から続いていた
「イデビアン」(結成91年)自体の卒業公演みたいな意識で、最後の記念に1回、
大きくやらせてもらってやめようかなと。そうしたらすぐにドイツ・エアランゲン
のARENA FES 95でこの作品をやってみないかと言われて、自腹を切って旅行がて
ら公演に行きました。そして帰ってきたら、パークタワーから「ネクストダンス・
フェスティバル」で3年間やってみないか、と誘われて。あら、どんどんやめられ
なくなっちゃったノノみたいな感じです(笑)。
──それ以来、年に2本のペースで新作を発表し、「イデビアン・クルー」の結成4
年後には、世田谷パブリックシアターで『コッペリア』(99年)という大作をやる
ことになった。
『コッペリア』を選んだのは、バレエ作品をそれまでずっとやりたかったというの
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があります。パークタワーは劇場というよりもホールですが、世田谷パブリックシ
アターはプロセニアムの劇場ですから、クラシック公演という感じの、なにかでか
いことをやりたかったんです。僕自身学生時代にバレエを習っていましたし、卒業
後もよくバレエレッスンを受けに行っていて、チャイコフスキーも好きでした。
『コッペリア』自体、物語は単純ですが、曲がいい。僕あまりストーリーをくっつ
けるのは得意ではないので、ただ音に合わせて動きたいと思いました。あのリピー
トしているような曲を聴くと段々怖くなってきますから、「あ、ここに岩下徹さん
が出るとおもしろいな」とか。単純とはいえ、『コッペリア』をやるからには話の
筋を通さなければならない。それで、あらすじだけ通しておけば、あとはダンスに
集中して遊んでもいいかな、といったイメージでした。体育会系ではないのです
が、群舞の振付はきちんとそろっていたと思います。あの時にカンパニーに新人を
3人入れて、それまでとまったく違うところからつくりはじめましたが、振りや構
成自体は、そんなに時間はかかりませんでした。むしろ曲の使い方、曲の並び替え
などの踊り以外の構成には時間をかけました。
──あのダンス的な動きは、井手さん自身が編み出した動きで、ダンサーたちの出
や入りのフォーメーションなど、かなり緻密にやっていましたね。それで、井手さ
んのいいところは、一つの作品の評判が良くても、それを引きずらずに次の作品で
はまったく違うことをやる。2000年にパークタワーでやった『不一致』は、がらり
と変わりました。
ノストラダムスの大予言で99年に地球は滅びるという噂を信じていて、そのとき自
分は絶対死んでしまうんだと思っていました。メモリアルで自分の葬式をしたく
て、『不一致』をつくりました。でも、99年をすぎて「何ともなかったね」という
ことになりますが、やっぱり葬式はやろうと。それと、畳の上で踊りたいという希
望がずっとあって、あの作品では、リノリウムではなく、床全面を畳にしました。
背景には葬式で使う白と黒の横断幕を張り、登場人物は喪服を着て踊りました。あ
れは自分の葬式だったので、僕もダンサーとして出ました。もうこれで終わりにし
よう、と。あと言葉の上で「性格の不一致」という響きが何となくずっと気になっ
ていて、そのタイトルで作品をやりたいなと思い、最初からこのタイトルを決めて
いました。
葬式の風景ではありますが、音楽はラテンミュージックを使うことにこだわりまし
た。そもそもラテンミュージックが好きなんです。やっぱり好きな音楽は全部聞き
たいし、自分が演じるんだったら全編通してやろうかなと。でも、さすがに全部は
キツかったので、2曲ぐらいは現代音楽、その他にアストル・ピアソラのタンゴの
曲を使いました。
──2002年にイギリスのダイバージョンズに振り付けた『Unspoken Agreement』
(2002年1月)はさらにがらりと変わって、物語的なものや意味を排除して、ダン
スに徹底している感じがしました。
ダイバージョンズはウェールズのカンパニーですが、そこが以前から外部から振付
家を呼んでレパートリー作品をつくる取り組みを行っていました。ちょうど彼らが
振付家を探している時に、日本のセゾン文化財団がある見本市でブースを出してい
て、そこでたまたま『不一致』のビデオを見たらしいんです。こいつは面白い、と
いうことになり、最初はウェールズで踊らないかという話がありました。僕は振付
家として活動していると伝えると、向こうのプロデューサーが「振付・演出でも
ウェルカムだ」ということになり、すぐに決まりました。
彼らには『暗黙の了解』を振り付けました。でも、イギリスではタイトルが英語で
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『Unspoken Agreement』となってしまい、なんだかしっくりこなかった。そのと
きは、後でこれを絶対日本でやってやる、と思っていました。なんでしょう、なぜ
かタイトルにはこだわりがあるんです。作品をつくるときは必ず先にタイトルがあ
ります。僕は根っからの日本人ですが、例えば「ちょうちん」という平仮名を見る
と、文字が動いているように見える。うねりが好きだし、語感や文字の形がなんだ
か動きに見えてくるんです。あとは響き。別にラリっているわけではないですよ
(笑)。それで2002年4月に日本版として、『IDEVIAN LIVE five「暗黙の了解∼後
編∼」』(東京・森下スタジオ)をやりました。
──ウェールズでは、全然違う環境の人たちに振り付けたわけですが、ソロやデュ
オの部分と、群舞とのズレやユニゾンがすごく巧かった。時間の流れの中で、空間
をどう構成して、どのような変化をつけていくか、ということに関してはすごく神
経が行き届いていますね。
それはよく言われます。細かい部分で注意しているところもあるんですが、あまり
気にしていません。振付をすること自体早いんですよ。パっとできてしまう。それ
で、まずベースをつくってから、「あ、ここもうちょっと」などと付け足していっ
たり、後にゴチャゴチャと手を入れたりすることはあります。
ダイバージョンズをやっていた頃には、お芝居の振付もやるようになっていて、役
者さんに振り付けることに慣れてきていた時でした。逆に本物のダンサーを振り付
けることに、最初すごく勇気がいりました。彼らは小さい頃からずっとトレーニン
グをしていますから、すごく踊ります。ちょっと休めというくらい動いています。
それで、彼らに振り付けると、どうしても“踊り”にしてしまう。僕の振りに慣れ
ていないのは当然ですが、なんでも踊りっぽくなってしまう。それがすごく嫌で、
僕にとっては毎日が戦いでした。通訳は週に1度ほどしか来ませんでしたから、辞
書を引きながら話をしました。
ウェールズでは最初、2001年の5月に1週間ほどワークショップを行い、それから
12月∼1月にふたたび出向きました。12月に彼らなりのとらえ方で振り付けたもの
『IDEVIAN LIVE five「暗黙の了解∼後編
∼」』
(2002年)
©days
を見せてもらって、それからどんどん壊していくという作業をしました。それこそ
作品のベースは2週間でできました。
最終的にはまあ僕なり綺麗になったとは思います。でも、能ではありませんが、僕
は下に重心がくるのが好きなんです。でも西洋の人は腰が高くて重心が上にある。
それがもう僕にとって落ち着かない感じで。彼らが踊ると良くも悪くもすごくダン
シーな感じになる。あと、小さい動きがヘタだなと思いました。それはまあ環境も
ありますが、彼らはオーバーアクションに近い大きな動きに慣れているようです。
もっとミニマルに動く、ということの意味が伝わりにくい。
僕は、日常的な「仕草」や人の「癖」などがたまに格好よく見える時があって、そ
れが振付だと思っています。例えば、日本でウケるちょっとした仕草は、外国では
『関係者デラックス』(2004年) ©days
通じないけれど、逆にイギリスやドイツでは「こういうシチュエーションではどう
いう動きなの?」と尋ねて、「ああ、それは日本と似ているね」というようなとこ
ろからつくっていきます。
仕草といえば、僕は小さい時から人を見るのが好きでした。女の人が多い家庭だっ
たというせいもありますし、ウチの家にはたくさん人が行き来していたので、なぜ
かいつも人の多いところにいたんです。本当は一人でぽつんとするのが好きだった
りするんですけど。とにかく、人を見ると、なんだかその人の動きが見えてくる。
背後霊のように動いている。そういうのってありません? 人間ウォッチングのよ
『迂回プリーズ』(2005年) ©days
うな。
だから、まったく初対面の人でも、この人はこの動きが絶対面白いと思いながらイ
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メージを全部つくってしまいます。ダンス学校時代に級長をやりましたし、今でい
うコギャル系みたいな人たちを150人ぐらい仕切っていましたから、大人数に対応
することにも慣れていました。
──なんだか、その不満足な部分が実現するようなかたちで出てきたのが『関係者
デラックス』だと思います。すごく演劇的でした。
あれはそもそも、リノリウムを斜めに張りたかったんです。その前に、山口の
YCAMでのワークショップをした際に、同じような舞台構造で一般の人を振り付け
て踊る発表会をやりました。その時から、イデビアンの本公演で同形式のもっと密
度の高いものをやりたいなと思っていました。
『関係者デラックス』という名前もあらかじめ決めていて、音楽はチェンバロなど
のバロック音楽だとすごく強くなるだろうなと思っていたんです。バロック音楽を
あれだけたくさん使ったのは初めてです。チェンバロはある意味陰険な感じがしま
すし。『4台のチェンバロのための協奏曲』が一番好きなんですが、よく調べてみ
たら3台、2台とだんだん少なくなってくる分、(曲の力が)強くなる気がしまし
た。
この作品では、まず三角地帯で小さく動く、そしてそこから拡がっていく構成にし
ました。それと、みんながサザエさんのような家族だったらおかしいかなと。ユニ
フォームもちょっと昔っぽくして、ちょっと言えば港町の一般家庭ふうで、洋風か
ぶれでシャンデリアはあるが、畳の家に住んでいるような人たち。アメリカではな
くて、ヨーロッパのほうにちょっと興味がある会社員の一家、みたいな感じでやり
たかったんです。お父さん像としては、そんなにパーフェクトじゃないほうが面白
いと思ったので、ダンサーじゃなくて役者を使ってみようということで、佐伯新を
使いました。
──日本のわりとどこにでもありそうな家族の頭上にむなしく輝いているシャンデ
リア、みたいなのがなかなか面白かった。それに比べて2005年の『迂回プリーズ』
は、独特のつくりかたでした。おそらく井手さんの中では明瞭なコンセプトがある
んじゃないかと思ったのですが。
コンセプト? どうしよう、なんもないんです(笑)。現実的な話になりますが、
パークタワーがなくなるという話を聞いたので、ただ単純に前からやりたかった横
長の舞台を一度つくりたいと思いました。この作品は、ダンサーたちがボーイスカ
ウト、ガールスカウトのような格好をして横一で行ったり来たりしますが、当初は
全員婦人警官の制服にしようと思っていたんです。そうすると「迂回してくださ
い」みたいに使える。
でもそれだと、わかりやすすぎるかなと思って、家の近所にあったガールスカウト
ハウスから思いついてあのユニフォームにしました。それで、赤のラインなどを入
れて衣装つくったのですが、劇場に入って赤い照明が当ると戦闘服っぽく見えて。
そんなことは考えていなかったんですが、戦争のイメージに見えるという人もいま
したね。こういう風に言ってみると、少しはコンセプトがありますね(笑)。
──ダンス以外の演劇の人たちともコラボレーションもたくさんやっていますね。
演劇の振付は、正直言うと、いつもお話しの設定自体がわからないままやっている
んです。いつも台本読まないんで。読むと逆につくれません。とりあえずどういう
雰囲気で、踊り始めるまでにどういう芝居があって、というところから。芝居の途
中に「はいここでダンスシーンです」というのではなく、あくまで自然な感じにし
たい。そこだけ変なふうに突出しないように日常的な動きを多用してつくります。
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芝居の流れに馴染むようなものを考えます。
──井手さんは2005年でちょうど、「イデビアン・クルー」としてダンス活動を始
めて10年目でした。
はい。近年は自分の振付作品には出ていなかったのですが、10年の記念として、
『迂回プリーズ』には自分から出ると言いました。また、3年ほど前からずっと依
頼を受けていたソロ公演の『井手孤独【idésolo】』を実現させました。もともと踊
るより振付家としてさまざまな作品をつくっていく方法をとってやってきたわけで
すが、2005年はそういう年にしたかった。だからといって、これらかずっと出るわ
けではないですが。
『井手孤独【idésolo】』については、ソロだし、あまり深く考えなくていいかも、
と。素のままの自分がモルモット状態になっているところを観に来て喜んでくれる
お客さんがいればいいじゃん、みたいな感じでやったところがあります。イデビア
ン・クルーでやる作品のようなテーマ性などはあまり深く考えなかったかもしれま
せん。
──これからのプランは?
9月には4年ぶりに、世田谷パプリックシアターでの、イデビアン・クルー新作公演
があるので、それは今から楽しみです。
それと、自分としては、今もの凄く勉強がしたい。変な言い方ですが、学校など何
かに束縛されたいんです。ダンサーではなくて、振付家としてどこか海外に行ける
ところはないかなあと考えています。若いころはワンパッカーでしょっちゅうヨー
ロッパに行っていたのですが、イデビアンや芝居の振付を始めてから行けていませ
ん。例えば、ハワイでフラダンスをやってみたい。フラダンスは、本当は男性の暴
力的な激しいイメージをもつダンスなんですよね。神の舞みたいな、一つ一つ言葉
があるちょっと宗教クサイ踊りをね、勉強したい。というか、日本から離れたいっ
ていう願望があるのかな……。
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