保存食として重宝されています れる粽」が四条通りの菓子舗で ほう そう 疱瘡流し 森 行人 だわら 明 治 時 代になると、種 痘の普 及のた め政府によって法律が制定されていきま す。 明 治四十二(一九〇 九) 年に公 布 された種痘法では、出生後翌年の六月 までの期間と数え十歳の子どもに種痘 を行うことが義務付けられました。 種 痘 後、 接 種 部 分におできができると、 善感といって抗体がつくられ接種が完了 したことになります。 反 応がない場 合 は再接種が必要でした。 新 潟の疱 瘡 流 しの事 例 を 紹 介 す る と、数え二歳の種痘後にホシケル、ホシ ケが出るといって、反応が出た後に流す 場合もあれば、早く行うと体が楽にな るといって反 応が出る前に行ったことも 報告されています。 幣束は赤、白の場 合 が あ り、 男の子は赤、 女の子は 白、 はし か 赤は疱瘡、白は麻疹の場合といったよう に地域によって違いがありますが、その 行為からは、疱瘡を恐れ子どもの無事 を願う親心が感じられます。 一九八〇 年に根 絶 宣 言が出され、種 痘も行われなくなった現 在、疱 瘡を意 識する機会はほとんどありません。 写 真の疱 瘡 流しは実 際に流されたもので はなく、再 現されたものですが、本 資 料は疱 瘡 を 恐れ神としてまつり、病の 治 癒 を 願った当 時の人々の信 仰 心 を 伝 えるものといえます。 (渡邉 久美子 学芸員) た状態を維持できます。このため鍬を 使い続けても土への打ち込みを鈍らせ ずに鍬を使うことができます。それで も、 使 い 続 け て 摩 耗 が 著 し く 進 め ば、 前述のように刃先を打ち延べたり、ハ ガネを付け足したりといった修理を鍛 冶屋が施します。鍬の状態を損なわな いよう維持する鍛冶屋は、農家にとっ て欠かせない存在だったといえます。 ただし、洋鉄・洋鋼が普及する明治 以 前、 鉄 は 貴 重 な 資 材 で し た。 従 っ て、鍬の修理の方法や頻度を、聞き取 りで得られた近代の事例をそのまま当 てはめて考えることはできません。先 の文久二年の事例にあるように、古鉄 を収集し利用した時代の農鍛冶の技術 を、技術史的な視点から検討する必要 があります。貸鍬慣行が見られる上中 越や、他の低湿な稲作地域の事例と比 較を行いながら、市域の鍬を介した農 家 と 鍛 冶 屋 の 歴 史 的 な 関 係 に つ い て、 調査研究を進めたいと考えています。 (もり ゆきひと 学芸員) 袖山一敏さんによるヒラグワ製作 みなとぴあ研究 notes(第二十五回) が、京都の粽は、疫病よけのご 蒸し揚げます 。 そ の 起 源 は 戦 国 販売、などと見えたりしていま 収蔵資料紹介 このようにかつての鍬は、鍛冶屋が にくくなるため、打ち延ばして角の形 一定の頻度で修理することで、長く使 を作り直したそうです。刃全体が摩耗 うことができました。当時の鍬の製作 した場合は新たにハガネを取り付けま 方法について、西蒲区の鍛冶屋袖山一 す。修理を要する頻度は鍬の使い方に 敏さんに見せていただいたヒラグワの もよりますが、一般の農家で二年に一 製作工程を紹介すると、まず板状の鉄 回程度は修理に出したといいます。マ ほ ど タグワ(三本鍬) ・ヒラグワ(平鍬)を ( ジ ガ ネ ) を 火 床 に 入 れ て コ ー ク ス の 各二本所有している家では、毎年各一 火 で 熱 し ま す。 熱 し た ジ ガ ネ を 割 り、 本は鍬を修理に出すことになります。 動力ハンマーと鎚で割り目を二方向に 鍬を介した農家と鍛冶屋の関係を過 打ち延ばします。この二本の細く打ち 去に辿ってみると、農 家の鍬の所 有 数 延ばした部位を「手」と呼び、柄を支 を示す資料として、文政十三(一八三〇) 持する木の台(鍬柄)にはめこむ部分 年、中郷屋村(現西蒲区)百姓孫兵衛 になります。また、このように鍬柄に 方で出火・焼失した農具等の書き上げ 鉄の刃先を取り付けた鍬を風呂鍬と呼 があり、 「鍬五丁、三本鍬三丁、鎌大小 びます。ここまでの、おおよその鍬の 九丁(以下略) 」と記されています。持 形を作ることをジヅクリあるいはジゴ 高一〇石程度の農家では一定数の鍬を所 シラエと呼びます。 有していたことがわかり ます。 ( 『 巻町 こ の 後、 ジ ガ ネ に ハ ガ ネ を 付 け ま 史資料編三』五九、 六〇ページ) す。ハガネをジガネに付ける接着剤と 鍬の修理に関しては、市域以外の例 なるのが「クスリ」です。かつてはや で、文 久二(一八六二)年に上組 大 町 すりの製作工程で生じる鉄くずにホウ 村(現長岡市大町)の庄屋今井家が鍬 酸を混ぜ、水で練って煮たものを砕い の修理を鍛冶屋に依頼した記録があり、 て使用したといいます。クスリにはそ 三 本 鍬一丁 の「 先 掛 け 」 等 の 依 頼 や、 れぞれの鍛冶屋に秘伝があり、また材 使えなくなった平鍬をまだ使用可能な 料の大きさや製品の種類によって成法 中 古の 鍬 と 金二朱( た だ し 五 十 文 引 ) が異なります。 の差額を添えて交換しています( 『長岡 ジガネにクスリを塗り、その上にハ 市史通史編上巻』五九一~五九三ペー ガネを重ねて火床で熱し、鎚で打って ジ) 。この先掛けとは、ハガネの取り付 ハガネとジガネを一体化させます。軟 けのことと推測されます。聞き取りと らかいジガネの表側だけに硬いハガネ 同様に、村の鍛冶屋が農家から鍬の修 を付けることで、ジガネ側を減りやす 理を受注していることがわかります。 くし、少々刃が摩耗しても刃先を立て 鍬 と 鍛 冶 屋 かんばら ちまき といい、粽はその疫病よけの茅 食えない粽 梅雨が明けたばかりの暑い京 されます。お守りとして玄関先 の輪を授けたことに由来すると に掲げたりしますので、中身の じゅんこう 都祇園祭、五 十 年 余 り 前 に 浪 人 を見に京の街 に 出 か け た 。 ない形だけのものや、その形が やまぼこ 受 験 生 だ っ た 私 は、 山 鉾 巡 幸 「エンャラヤー」の掛け声と共 新 潟 の 粽 は、 今 も 暑 い 季 節 の 小さなものもあったりします。 れが粽?」と、三角形の粽しか 利益という目的にしたがい進化 ちまき 「エー!こ 粽なるもの見たとき、 に山鉾から撒かれた細長い形の 知らない当時の私には、一寸し を遂げ、形だけの中身のない粽 り やく たカルチャーショックでした。 新 潟 の 粽 は、 笹 を 曲 げ、 三 角 になってしまったのです。する さんかく 錘の形にしてもち米を入れ、も と今度は先祖がえりでしょう すい う一枚で蓋を し て ス ゲ で 三 角 形 時代にあり、 保 存 食 の 兵 粮 と し に 縛 り 上 げ、 五 個 二 組 に 結 び 、 か 、 イ ン タ ー ネ ッ ト で 「 食 べ ら て重宝された と 伝 え ら れ た り し 化史の面白いテーマとなりま 粽 一 つ で も 立 ち 入 れ ば、 食 文 す。 ています。 はん お 他 方、 祇 園 祭 の 粽 は 、 茎 の つ 米 粉 を 入 れ、 細 長 い 円 錐 形 に こめ こ い た ま ま の 笹 を 半 折 り に 丸 め、 す。 し、スゲで茎 ま で グ ル グ ル に 巻 き上げ、七個 単 位 に 結 ん で 蒸 し そ 揚げ、一つ一 つ に 山 鉾 の 名 札 を 付けています 。 スサノオノミコトが貧しい蘇 みん しょうらい 温かいもてなしに、蘇民将来と 疱瘡(天然痘)は世界中で多くの命 を奪った伝 染 病で、高 熱とともに体 中 のうほう に膿胞を生じ、治癒しても膿胞があば たとなって残り、非常に恐れられていた 病気です。 日本では、疱 瘡は神がもたらすもの と考えられ、これを避けたり、回復を 願 うため様々な民 俗が生 まれました。 護 符 を 戸口に貼って侵 入 を 防ごうとし り かん たり、罹 患した際には、膿 胞が赤いほ ど経過がよい、疱瘡神が赤を好む、な どといった考えから寝具や着物を赤い色 に替えて平癒を願いました。 さん 疱 瘡 流しは、俵のフタである桟 俵に へい そく 幣束を立て、供え物とともに道の辻に 置いたり、川や海へ流したりするもので す。 疱瘡神を外界へ送るという観念か ら行われました。 江戸時代、滝沢馬琴 ちんせつゆみはりづき の読本『 椿説弓張月 』に、赤い幣束を 立てた桟 俵に乗って海 を 漂 う 疱 瘡 神の 描写がみられます。 新潟市域での疱瘡流しは、桟俵をサ ンバイシと呼び、疱 瘡にかかった際のほ か、 種 痘 後にも 行っていた 報 告があ り ます。 種痘は疱瘡を予防する有効な手段と して、牛痘を用いた方法が一七九六年に イギリスの外科医ジェンナーによって発見 されました。日本では嘉永二(一八四九) 年に実施後、広まりはじめます。 06 帆檣成林 vol.31 帆檣成林 vol.31 07 民 将 来に一夜の宿を求め、その 子孫は疫病を免れると約束した 京都市内の民家の玄関先 新潟市域を含めた蒲原の平野部では、 江戸時代に入ると多くの新田村が成立 し、低湿な土地の開発が進められて米 の一大生産地となりました。機械化さ れる以前の農業において、欠かせない 道具の一つが鍬です。鍬を製 作したの は鍛冶屋と呼ばれた人々です。現在で は、鍛冶屋を見かけることはほとんど ありませんが、昭 和五(一九三〇)年 の段階では新潟県内で鍛冶業(職業・ 小分類)を営む者は計五、 九〇五人、こ のうち五、 四一一人(九一%)が新潟市・ 長 岡 市・ 高 田 市 を 除 く 郡 部 に 在 住 し ( 内 閣 統 計 局『 昭 和 五年 国 勢 調 査 報 告 、当 第 四 巻 府 県 編 新 潟 県 』より ) 時の村々に鍛冶屋が広く存在したこと がわかります。 まき わ のう そ ね 巻や和納、曽根などには数軒、それ 以外でもいくつかの集 落ごとに一軒の 鍛冶屋がいて、それぞれが得意先の農 家から鍬の修理を引き受けていました。 にしかん 西蒲区の鍛冶屋からの聞き取りによ れば、昭和三十年代頃までは、冬にな ると農家の田仕事が終わるので、周辺 の農村を回って修理の必要な鍬を引き 取り、翌春の田仕事が始まるまでに修 理を済ませて届けたといいます。とい うのは、鍬を耕作に使うと刃先が摩耗 して使いにくくなるため、修理が必要 になったからです。修理には段階があ るといい、刃の摩耗が軽い場合は研ぎ を行い、角がなくなった鍬は打ち込み 新潟市歴史博物館 館長
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