長征は肉体の限界を超えた行軍であった。 食糧もほとんどなく、野草

長征は肉体の限界を超えた行軍であった。
食糧もほとんどなく、野草、木の根も食べた。ベルト等の革製品を煮てスープにした。
敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。吹雪の大雪山も越えた。無数の川を
渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。
「奮闘すれば活路が生まれる」(注1)――それが周恩来の信条であった。
そして、第一方面軍は、一九三五年(昭和十年)十月、陝西省保安で陝北根拠地の紅軍と合
流。遂に、「長征」に勝利したのだ。しかし、総勢八万六千余人のうち、残ったのは、七、八
千人とも、四千人ともいわれる。
やがて鄧穎超は、瑞金で別れた母の楊振徳が国民党に捕らえられ、「反省院」に入れられた
ことを知る。「反省院」といっても、思想犯が入れられる牢獄にほかならない。
楊振徳が鄧穎超の母であり、周恩来の岳母であることは知れ渡っている。拷問も受けている
にちがいない。鄧穎超は、胸が張り裂けそうになるのを堪えながら、闘争を続けた。
自分も、家族も、いつ命を奪われるかわからない――それが、革命の道であった。
三七年(同十二年)七月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び
国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。
鄧穎超が母の楊振徳と再会したのは、三八年(同十三年)の冬であった。母子は、瑞金で別
れて以来、四年ぶりに、武漢で対面したのである。
「反省院」での過酷な歳月は、彼女をいたく老けさせていた。しかし、気丈な魂が光を失う
ことはなかった。
ある時、「反省院」で彼女は、娘の鄧穎超と娘婿の周恩来に、革命をやめるように手紙を書
けと迫られた。だが、毅然と胸を張り、こう言い放ったという。
「私は革命をやっている娘を誇りに思っている。殺すなら殺しなさい」(注2)
鄧穎超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。
■引用文献
注1
『周恩来選集
1949年~1975年』中共中央ML著作編訳局訳、外文出版社
注2
西園寺一晃著『鄧穎超』潮出版社
■主な参考文献
西園寺一晃著『鄧穎超』潮出版社
『人民の母――鄧穎超』高橋強・水上弘子・周恩来 鄧穎超研究会編著、白帝社
ハン・スーイン著『長兄――周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社