『源氏物語』 における 「人笑へ」 差 「名」 「世語り」 と 「大笑へ 」 との関係を

日
会
学
文
本
日
語
本
学
大
子
女
一
、し
、︶﹂ー
圭目
ム
ダ
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ト
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月
8
﹃源氏物語﹄における﹁人笑へ﹂
との関係を中心に
ヒ
﹂
J久美子
る危機意識が常にある。右に先行する部分にも﹁かかること絶えずは、
藤壷にぼ、源氏との密通が露見するのではないかということを恐れ
ぼさるれば、背きなむことをおぽしとるに一﹁賢木﹂巻、七八頁一
はありぬべき身にこそあめれなど、世のうとましく過ぐしがたうお
戚婦人の見けむ目のやうにはあらずとも、かならず人笑へなる事
場面である。
誉なことが露見する時などである。一例を挙げるならば、次のような
直面している時とか、自分の体面が傷つけられる時とか、自分の不名
ところで、登場人物たちが﹁人笑へ﹂を意識するのは、結婚問題に
は、その人物の行動を規制する傾向にある生言えるだろう。
﹁名﹂﹁世語り﹂と﹁人笑へ﹂
はじめに
﹃源氏物語﹄には、対社会的意識を表す言葉の一つとして、﹁人笑
へ﹂﹁人笑はれ﹂という語がある。﹃源氏物語﹄の使われ方からすると、
﹁人笑へ﹂とは、﹁世問の物笑いになる﹂ことというぐらいの意味であ
る。﹁人笑はれ﹂も﹁人笑へ﹂とほぼ同じ意味を表す語であるので、本
稿では、﹁人笑はれ﹂も﹁人笑へ﹂も一括して﹁人笑へ﹂と表現するこ
ととする。﹁人笑へ﹂になることを揮るということは、恥の意識に関連
あり、﹁うき名﹂つまり、悪い評判が立つことを極度に恐れているので
3
第
一
、︶﹂1
る。以上述べたことからも、﹃源氏物語﹄の﹁人笑へ﹂の用例の多く
らは﹁人笑へ﹂になることを、なんとしても回避しようとするのであ
へ﹂を意識する例が多い。言うならば、﹁人笑へ﹂の意識とは他人が自
人物たちが、身をどう処していくかを決定しようとする時に、﹁人笑
いとどしき世に、うき名さへ漏りいでなむ﹂一﹁賢木﹂巻、七八頁一と
年
01 物語﹄の登場人物たちは、﹁うき名﹂が立つこと、つまり、世問の評判
20
になることを極端に恐れている。なぜ恐れるかというと、それは本人
るために出家を決意する。このように、人生の転機や危機に直面して、
ある。そして、不幸にも露見した場合、﹁人笑へ﹂になることを回避す
している。いわば、﹁名﹂を汚すことを恐れる意識である一注−一。﹃源氏
にとって大層不名誉なことだからであり、彼らが恐れる不名誉な評判
号
とはとりもなおさず本人の恥辱となるからである。それ故、勢い、彼
文
語
、し
圭目
’
.
1
噂されるのも﹁人笑へ﹂であり、その﹁人笑へ﹂を避けて都に止まる
御息所は源氏が薄情な仕打ちをするので、そのために伊勢下向したと
のも、一層の﹁人笑へ﹂であると苦悩するのである。
分をどう見ているかということを強く意識するものであろう。
響き合って存在する﹁名﹂﹁世語り﹂との関係について検証したい。そ
一方、御息所をそのような﹁人笑へ﹂な状況に追い込んだ源氏は、再
そこで、本稿では、﹁人笑へ﹂の類義語とは言えないが、しばしば、
して、そのことを通して、さらに、﹁人笑へ﹂の意識について深く追究
三、御息所の﹁御名﹂︵﹁葵﹂巻、九頁、三三頁一を汚すことを揮りなが
らも、正式な結婚の形をとらない。そればかりか、御息所の物怪に対面
していきたい。
してからは、一層、御息所を避けるようになる。御息所は、﹁かく心より
き名を流す﹂とは、悪い評判を世に広く後の世にまで伝えることである。
と﹂︵﹁葵﹂巻、三四頁︶と﹁うき名﹂を流すことを恐れるのである。﹁う
二 ﹁名﹂と﹁人笑へ﹂
ぐらいの意味である。﹁名﹂の付く語は、一二六例一﹁名﹂九九例、﹁御
﹁名﹂とは、﹃源氏物語﹄の使われ方からすると、﹁噂、評判﹂という
このように見てくると、﹁うき名﹂が立つことは、噂になった当事者
外に、若々しきもの思ひをして、つひにうき名をさへ流しはてつべきこ
名﹂二〇例、﹁あざな﹂一例、﹁あだな﹂二例、﹁なきな﹂二例、﹁のちの
い男性は、その女性の名誉を著しく傷つけていることになるだろう。
また、その﹁名﹂は、六条御息所ほどの高貴な女性であれば、なおさ
である女性にとっては﹁人笑へ﹂であり、﹁人笑へ﹂な女性を返り見な
ら、﹁あるまじき名﹂︵﹁若莱下﹂巻、一五〇頁︶を流したとして、後々
あとの名﹂一例、﹁もののな﹂一例一数えられ、その用例の多さからも、
ろう。そして、その多くの用例の中から、﹁名﹂と﹁人笑へ﹂との関係
登場人物達が﹁うき名﹂が立つことを極度に恐れていることがわかるだ
を考察するにあたり、本稿では、女性では六条御息所と腱月夜と落葉宮
を述懐している場面である。
上に葵上や六条御息所や明石君について語る中で、六条御息所のこと
中宮の御母御息所なむ、さまことに心深くなまめかしき例にはま
まで、源氏の負い目となるのである。次は、その点について源氏が紫
まる六条御息所の伊勢下向の決意はぐらつく。
づ思ひ出でらるれど、人見えにくく、苦しかりしさまになむあり
に、また、男性では主人公である源氏に焦点を当てていくこととする。
いまはとてふり離れ下りたまひなむは、いと心ぼそかりぬべく、
し。恨むべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふしを、やがて長
まず、六条御息所の場合を見てみよう。車争いの後、もの思いが深
るべくおぼしなるには、かくこよなきさまにみな思ひくたすべか
く思ひつめて深く怨ぜられしこそ、いと苦しかりしか。心ゆるび
世の人聞きも人わらへにならんこととおぼす。さりとて立ちとま
めるも安からず、一﹁葵﹂巻、一七頁一
’
−
2
ぞかし。いとあるまじき名を立ちて、身のあはあはしくなりぬる
さるることやなど、あまりっくろひしほどに、やがて隔たりし仲
には、いとっっましきところのありしかば、うちとけては見おと
なく恥づかしくて、我も人もうちたゆみ、朝夕の睦びをかはさむ
ている。腱月夜の場合も、﹁人笑へ﹂な状況はそのまま、﹁名﹂を汚す
けられただけでなく、源氏までも傷つけることになったと深く反省し
源氏との醜聞という﹁人笑へ﹂な状況により自分の名誉を著しく傷つ
出づるに、いとうき御身なり、︵﹁濡標﹂巻、一九七頁一
き名﹂まで立ち、苦悩する女性に、落葉宮がいる。
ことにつながっていると言えるだろう。
落葉宮は、柏木の死により、皇女が臣下に降嫁し、さらに、若くし
六条御息所や腱月夜と同様に﹁人笑へ﹂な状況にあり、さらに、﹁う
さるべき御契りとはいひながら、とりたてて、世の識り、人の恨
て未亡人になり後見を失ったことで、母一条御息所や朱雀帝から、﹁人
を思ひしも、我罪ある心地してやみにし慰めに、中宮を、かく、
みをも知らず心寄せたてまつるを、かの世ながらも見なほされぬ
笑へ﹂になったと、思い嘆かれる。そのうえ、白らも夕霧の懸想によ
嘆きを、いみじく思ひしめたまへりしがいとほしく、げに、人柄
ことも多くなむ一﹁若莱下﹂巻、一四九・一五〇頁一
らん。今も昔も、なほざりなる心のすさびに、いとほしく悔しき
り、さらに、﹁うき名﹂が立つことを嘆くのである。母御息所は、皇女
の君は、人わらへにいみじうおぼしくづほるるを﹂一﹁須磨﹂巻、;一
源氏は、須磨、明石に流離することとなる。その時、騰月夜は、﹁尚侍
次に騰月夜の場合を考えてみたい。源氏と腱月夜の密通露見により、
在する と 言 え る で あ ろ う 。
﹁世の人の聞伝へん後のそしりもやすからざるべきを悼りて、まこ
最後に、源氏の場合を考えてみたい。
と﹁人笑へ﹂は響き合って存在していると言えるだろう。
より一層、﹁人笑へ﹂な状況に追い込まれるのである。ここでも、﹁名﹂
三〇五頁一と恐れている。夕霧との﹁うき名﹂が立てば、落葉宮は、
夕霧の言葉に従っていたら、﹁いかなる名をくたさまし﹂︵﹁夕霧﹂巻、
一﹁夕霧﹂巻、三〇四頁一が立つことを嘆くのである。また、落葉宮も、
としての格式を保てるようにと願うが、﹁世づかはしう軽々しき名﹂
右のように源氏が語る通り、事実六条御息所は源氏との﹁うき名﹂
を世間の人々に取り沙汰され、追いつめられていった女性であった。
七頁︶とあるように、世間の潮笑の的であった。源氏が復活した後、
との神の助けにもあらむを背くものならば、またこれよりまさり
以上のような意味でも、﹁名﹂﹁御名﹂と﹁人笑へ﹂は、響き合って存
その腱月夜を以前と変わらず寵愛する朱雀帝の言葉に、騰月夜は、源
かしき人も言ひおきけれ、今日かく命をきはめ、世にまたなき目
て、人笑はポなる目をや見む。︵略︶退きて答なしとこそ、昔のさ
氏との過去を反省する。
などてわが心の若くいはけなきにまかせて、さる騒ぎをさへひき
出でて、わが名をばさらにもいはず、人の御ためさへなどおぼし
−
’
3
の限りを見尽くしつ。さらに後のあとの名をはぶくとても、たけ
草﹂﹁世問話﹂﹁世間の取り沙汰﹂生言うぐらいの意味である。次は
世がたりに人や傳へんたぐひなくうき身を覚ぬ夢になしてもと
藤壷の返しに、
﹃清巖茶話﹄一注4一の一節である。
右の心内語は、源氏が明石入道の迎えに従ったという世間の非難を
あり。藤壷は源氏の為には継母なり。さるによりてか・ること有
き事もあらじ。﹂︵﹁明石﹂巻、一六三頁一
し、悩む場面である。﹁人笑はれ﹂のあとに、﹁後のあとの名﹂という
気遣って、神意に背くならば、それ以上に世問の物笑いになると判断
りしかば、たとひうき身は夢にてはてたりとも、うき名は止りて
このように、源氏は﹁人笑へ﹂を意識する時に自分の名を汚すことを
夢のうちにやがてまぎるるわが身ともがな﹂︵﹁若紫﹂巻、一六四頁︶
右の藤壷の﹁世語りに﹂の歌は、源氏の﹁見てもまたあふ夜まれなる
後の世がたりにいひ偉ふべしと也。︵﹃清巖茶話﹄、﹁落花﹂︶
体面に関わる語が続き、このままの状態が続くと﹁人笑へ﹂になり、
思いやっているのである。
の歌に対する返歌である。この源氏と藤壷の贈答歌は、﹃源氏物語﹄の
それは、大変不名誉なことであるということが関係づけられている。
﹃重家集﹄一注2一に、﹁人笑へ﹂を詠み込んだ歌がある。
の﹃物語二百番歌合﹄一注5一に二首とも選ばれていることでも明かであ
和歌の中でも後の作品に大きな影響を与えている。それは、藤原定家
こひすてふなをばたてじとおもふかな人わらはれになりぬべければ
る。また、右にあるように、正徹は幽玄について述べるために、この
忍恋
一﹃重家集﹄一五九、藤原重家一
戻すと、福田秀一一注6一は、この場合の﹁世語り﹂を﹁ゴシップ﹂と
﹁世語りに﹂の歌を引いているのである。そこで、話題を﹁世語り﹂に
口語訳している。﹁ゴシップ﹂とは﹁噂話﹂というぐらいの意味であ
右は、﹃拾遺和歌集﹄一注3一の壬生忠見の歌を本歌とする歌であるが、﹁名
﹁うき名﹂が立つことは、すなわち、﹁人笑へ﹂になることなのである。
が立つ﹂ことと、﹁人笑へ﹂との関係を、よく言い当てていると思われる。
り、その噂話は必ず﹁言ひ伝へ﹂られるのである。しかも、それは
からむ、語りて聞かせたまへ︵﹁常夏﹂巻、一五六頁︶
このごろ世にあらむ事の、すこしめづらしく、ねぶたさ醒めぬべ
たちに対して次のように語っている。
ある。また、﹁常夏﹂巻の冒頭、東の釣殿で涼んでいる源氏が親しい者
﹁憂き名﹂であり、そのような悪い評判は後世に残ると言っているので
﹃源氏物語﹄の登場人物たちが、﹁人笑へ﹂を恐れるのは、その先に、
﹁うき名﹂が立つ、﹁名をくたす﹂ことを極度に恐れているからであろう。
﹃源氏物語﹄の使われ方からすると、 ﹁世問の語り
三 ﹁世語り﹂と﹁人笑へ﹂
﹁世語り﹂とは、
■
■
4
ている世問話ではなく、何か珍しい、眠気の覚めるような話を指して
右にあるように、﹁世問話﹂と言っても、現代社会で日常的に交わされ
は、管見に入る限り、確定した用例はない一注8一ことから、石井正巳
七例というのは、決して多い用例数ではないのだが、先行文学の中に
﹃源氏物語﹄には、付録にあげたように、七例の﹁世語り﹂がある。
一注9一は、﹃源氏物語﹄が、﹁﹃世語り﹄を方法として取り込んだ先駆的
いると 思 わ れ る 。
な作品だ﹂としている。﹁人笑へ﹂も、先行文学の用例が極端に少な
いずれにせよ、﹁悪い噂﹂や﹁何か珍しい眠気の覚めるような話﹂で
あれば、それを聞く世間の人々にとっては、この上なく興味深いもの
く、﹃源氏物語﹄に圧倒的な多さを誇っていることから、重要な鍵語だ
氏物語﹄が方法として取り込んでいると言っても過言ではないだろう。
一注10一と指摘する向きもあるが、﹁世語り﹂と同様、﹁人笑へ﹂も、﹃源
であるに違いないだろう。一方、﹁世語り﹂に晒されている側にとって
は、この上もない恥辱であり、それ故﹁世語り﹂になることを極端に
け世語り﹂︵内緒話というくらいの意味︶以外の六例は、﹁めづらしき
﹃源氏物語﹄の七例の用例を、概観してみると、付録⑥の﹁うちと
恐れるであろう。その点について、小峯和明一注7一は、﹁世語り﹂とは
﹁今現在の特定の人物をめぐる話題性が核となり、伝播の範囲はあまり
十帖の中で取り沙汰される﹁世語り﹂である。ここでは、玉竃十帖の
世語り﹂の用例である。そのうち、四例︵②、③、④、⑤一は、玉霞
ひろくないようだ。﹂と述べている。さらに、﹁世語り﹂に囲まれてこ
そ﹁物語の中心人物たりえる﹂とも述べている。以上、﹁世語り﹂とは
何かということについて検証した結果、﹁世語り﹂も﹁人笑へ﹂と同様
①わがみづからのうさぞかし。親などに知られたてまっり、世の
﹁世語り﹂を中心に、﹁人笑へ﹂との関係を考察していきたい。
人めきたるさまにて、かやうなる御心ばへならましかば、などか
に﹃源氏物語﹄の鍵語である生言えよう。さらに言うならば、この場
の人とほぽ同様な内容を表していると思われる。﹁世語り﹂は伝えてい
にやならむ︵﹁蛍﹂巻、一四一頁︶︵付録の②︶
はいと似げなくもあらまし。人に似ぬありさまこそ、つひに世語
合の﹁世﹂とは、上流の貴族社会を指しており、﹁人笑へ﹂﹁人聞き﹂
くものだから、﹁人笑へ﹂な状態が、世間の噂にのぽり、さらに、悪い
②﹁さてかかる古事の中に、まろがやうに実法なる痴者の物語は
意味での﹁世語り﹂になっていくのであろう。そういう意味では、﹁世
語り﹂になることは、貴族社会に生きる人々にとって﹁人笑へ﹂以上
ありや。いみじくけ遠き、ものの姫君も、御心のやうにつれなく、
て、世に伝へさせん﹂とさし寄りて聞えたまへば、顔をひき入れ
そらおぼめきしたるは世にあらじな。いざ、たぐひなき物語にし
に致命的なダメージであったろう。
四 ﹁玉童十帖﹂の﹁世語り﹂と﹁人笑へ﹂
て、﹁さらずとも、かくめづらかなる事は、世語にこそはなりはべ
■
−
5
右の①、②の用例は、玉蔓が懸念する﹁世語り﹂である。①﹁人に似ぬ
りぬ べ か め れ ﹂ − 一 ﹁ 蛍 ﹂ 巻 、 一 四 八 ・ 九 頁 一 一 付 録 の ③ 一
態になってしまうのであろう。その意味では、﹁世語り﹂の方が﹁人笑
になり、狭い貴族社会では生きていくことができないような最悪の事
おけば、ついには、﹁世語り﹂になって後の世まで言い伝えられること
る。﹃細流抄﹄一注u一にも、﹁人に似ぬありさま﹂について次のようにある。
が、自分と玉霞のことを﹁たぐひなき物語にして、世に伝へさせん﹂
また、②で玉嚢が、﹁世語にこそはなりはべりぬ﹂と言うのは、源氏
へ﹂よりも残酷だといえるだろう。
ありさま﹂とは、具体的には、実の父にも知られないまま養父である源
今玉かづらの有さまはたぐひもなきよし也。源の実子のやうに聞
まで伝わることは、石井正巳一注9一も指摘しているように、﹁世語り﹂
生言った言葉に対してのものである。ここで言う物語になって、後世
氏に懸想されるということが、世間一般には珍しいことだというのであ
と思ひ給ふ也。
玉竃にとってはより屈辱的であったのかもしれないだろう。
となって語り草になったとしても、いつかは忘れられる世問話よりも、
えありて、さるむつかしき方の事出で来ぬれば、人聞きもいかが
②﹁かくめづらかなる事﹂もほぽ同様の内容を表している。﹃湖月抄﹄
一注12一にも、﹁実法なる痴者﹂とは﹁玉かづらをわが物ともせぬ事をの
る女の、我なむかこつべきことあると名のり出ではべりけるを、
この春のころほひ、夢語したまひけるを、ほの聞き伝へはべりけ
④ことごとしく、さまで言ひなすべき事にもはべらざりけるを、
と子を犯せる罪にあたるタブー﹂一注讐を倶れているとも考えられるだ
中将の朝臣なむ聞きつけて、まことにさやうに触ればひぬべき証
たまふなるべし﹂とある。さらに、源氏と夕顔の関係を考えると、﹁母
ろう。この場面に先立つ﹁胡蝶﹂巻末で、玉霞は、源氏との﹁うき名﹂
やあると尋ねとぶらひはべるける。くわしきさまはえ知りはべら
一﹁常夏﹂巻、一五七頁︶︵付録の④︶
が世間に漏れた時の﹁人笑へ﹂を思い苦悩している。
⑤かう忍びたまふ御仲らひの事なれど、おのづから人のをかしき
ず、げにこのごろめづらしき世語になむ人々もしはべるなる。
﹁かうやうの気色﹂とは、親がその娘に懸想しているような事情をさし
ことに語り伝へつつ、次々に聞き漏らしつつ、あり難き世語にぞ
もあるべきかな、一﹁胡蝶﹂巻、一三三頁︶
ている。玉蔓は、源氏の懸想をかわしつつ、適度の距離を保つために
ささめきける。内裏にも聞しめしてけり。一﹁真木柱﹂巻、二四七
③かうやうの気色の漏れ出でば、いみじう人笑はれに、うき名に
という﹁人笑へ﹂へのおびえがある。そして、口から口へと噂が広ま
苦心する。そこには、常にその恥ずべき事実が世に漏れ噂になったら
頁一︵付録の⑤︶
④、⑤の用例は、直接、﹁人笑へ﹂という語を導くものではないが、
り、その結果、﹁世語り﹂になることを極度に恐れているのである。
﹁人笑へ﹂になることでさえ、貴族社会では致命的なことだが、放って
■
■
6
もせずに外腹の娘まで捜し出そうとする内大臣の姿こそ、﹁家損なるわ
ざ﹂であったにちがいない。また、﹃細流抄﹄一注u一にも﹁家損なる﹂と
﹁人笑へ﹂との関連を考えてみたい箇所ではある。
④は、近江君登場の場面であるが、三田村雅子一注M一は、﹁﹃世語り﹄
は、﹁落胤腹などのあるは人の家損なると也﹂とある。このことからも、
⑤についても、三田村雅子一注14一は、髪黒との予想外の結婚という衝
﹁世語り﹂に晒されているのは、近江君ではないと言えるだろう。
の被害者﹂として近江君を取り上げ、もの笑いの種になったことが、
一家の恥となり、ひいては﹁世語り﹂となり、源氏の知るところとな
ったと述べている。近江君の﹁人笑へ﹂な状態が﹁世語り﹂になった
い。源氏が、﹁大臣の外腹のむすめ尋ね出でてかしづきたまふ﹂という
﹁近江君のをかしきさまをいふ也﹂と同様の指摘があるのだが肯けな
な結末であっただろう。しかし内大臣に心を寄せる髪黒は、﹁実の親の
源氏にとっては、紫上の異母姉である北方がいる髪黒との結婚は、意外
けない。蛍兵部卿宮との結婚をすすめながらも自ら玉霞に懸想していた
撃的な事実こそが﹁世語り﹂になっているとしているが、そのことも肯
噂を聞いたのは、近江君のパーソナティが何もわかっていない時点で
御心だに違はずは﹂︵﹁藤袴﹂巻、二四二頁一として、強引に結婚してし
との考察だがどうも肯けない。その点にっいて﹃民江入楚﹄一注15一にも、
ある。後に、その実態が明かになっていくに従って、近江君は﹁人笑
まう。実の親である内大臣は、﹁なかなかめやすかめり﹂一﹁真木柱﹂巻、
ほど不自然なこととも思えない。武骨で妻子がある髪黒との結婚という
二四七頁一と安堵している。それらの点からも、髪黒との結婚が、それ
へ﹂となり、さらに、内大臣が、﹁人笑へ﹂となっていくのである。
いったい、④の場面で、﹁世語り﹂となっている事柄は何だろうか。
﹁人のため、おのづから家損なるわざ﹂一﹁常夏﹂巻、一五七頁︶とはど
いたことに、世に漏れていた事実で、源氏は結婚のことを、﹁内裏に聞
しめさむこともかしこし﹂︵﹁真木柱﹂巻、二四六頁︶と公の出仕が危ぶ
事実が﹁世語り﹂になるというよりも、尚侍として出仕させようとして
れなくなったことを、﹁飽かず口惜し﹂︵﹁常夏﹂巻、一六六頁︶と思っ
まれることを恐れ、二人のことを内密にしたのであろう。﹃細流抄﹄一注11一
ういうことかを考えなくてはならない。ここでいう﹁人﹂とは、おそら
ている。冷泉帝の后争いでは、弘徽殿女御が、秋好中宮に敗れている。
こと也。﹂とある。このことからも、源氏は帝に知れることを恐れている
にも、﹁かふ忍び給ふ﹂とは﹁まへに、内にきこしめさん事など忍び給ふ
く内大臣を指しているのであろう。内大臣は、娘雲居雁を入内させら
内大臣は、さらなる后がねの娘を捜し求めていたのである。外腹の娘
と言えよう。公に尚侍として出仕することが予定されていた玉霞の突然
まで捜し出してかしづくことは、当時の社会にあっては、珍しい﹁世
語り﹂であったのかもしれない。源氏もそのことを﹁いと多かめる列に
の結婚こそは、てあり難き世語り﹂になるはずであり、そのことは、当
然、﹁内裏にも聞しめしてけり﹂︵﹁真木柱﹂巻、二四七頁一とあるよう
離れたらむ後るる雁をしひて尋ねたまふがふくつけきぞ﹂︵﹁常夏﹂巻、
一五七頁一と述べている。源氏に対抗意識を燃やすが故に、よく調べ
.
■
7
に帝の知るところとなるのである。頚黒による略奪結婚は、公の役割と
しての尚侍一注16一として出仕することを妨げることであり、人々は﹁あ
④と⑤の用例は、どちらも珍しい世間話の例で、先の玉霞が源氏の
されるほどの屈辱だと考えているからである。それだけ登場人物たち
は、世問から潮笑され、名折れとなることを、存在が根底から揺るが
登場人物たちが、﹁人笑へ﹂な状態になることを忌避しようとするの
五 おわりに
懸想によって﹁人笑へ﹂になることを恐れ、その先に﹁世語り﹂を恐
は、自分の名誉や世評を気にしているという証拠であろう。﹁名﹂は
り難き世語﹂として﹁ささめく﹂のである。
た用例とは、区別しておかなくてはなるまい。ただ、④の用例に関し
れるというように、﹁人笑へ﹂と﹁世語り﹂が、一つながりになってい
﹃源氏物語﹄には、一二六例もの用例を数えることからも、登場人物た
と言えるだろう。一方、﹁世語り﹂とは﹁噂話﹂であり、そして、それ
ちが﹁憂き名﹂が立つこと、﹁憂き名﹂を流すことを極度に恐れている
て、﹁めづらしき世語﹂として、世問の人々が笑っているのは、﹁舌疾﹂
な近江君のことではなく、外腹の娘を捜し出す内大臣の﹁ふくつけ﹂
は必ず言い伝えられるのである。つまり、﹁憂き名を流すこと﹂とそれ
さであろう。﹁人笑へ﹂なのは、内大臣なのである。
に七例と用例数は少ないが、玉竃十帖に集中して現れ、﹁人笑へ﹂の語
はほぼ同義であるξ言えるだろう。﹁世語り﹂は﹃源氏物語﹄中わずか
以上、﹁めづらしき世語り﹂の用例について検証しながら、﹁人笑へ﹂
との関係を考察した。その結果、﹁人笑へ﹂と﹁世語り﹂との間には密
とではなかったか。また、﹁人笑へ﹂な状況は当然、噂になり広まって
﹁人笑へ﹂の延長線上にあって、当時の貴族社会では、最も恥ずべきこ
﹁世語り﹂になってしまうことであったろう。このように﹁世語り﹂は
﹁人笑へ﹂になることよりも恐れていたものは、噂が広まり、やがては
にあって、狭い貴族社会においては、最も恥ずべきこととして、登場
である。このように、﹁名﹂﹁世語り﹂は、﹁人笑へ﹂の意識の延長線上
状態が、世間の噂に上ると、悪い意味での﹁世語り﹂になっていくの
笑へ﹂なことであり、﹁名﹂を汚すことである。さらに、﹁人笑へ﹂な
しては考えられない。﹁うき名﹂が立つことは、女性にとっては、﹁人
以上、考察してみた結果、﹁人笑へ﹂と﹁名﹂﹁世語り﹂とは切り離
と密接な関係が認められた。
接な関係があることがわかった。特に、﹁世語り﹂に晒される玉霞の用
いくであろうから、﹁世語り﹂になってしまった事柄とは、周囲から笑
人物たちは、﹁人笑へ﹂になること、さらに、﹁名﹂を汚すこと、﹁世語
例で明かなように、養父源氏に懸想され、﹁人笑へ﹂を恐れる玉竃が
われている事柄であろう。﹁めづらしき世語﹂として人々が、語ってい
り﹂になることを極度に恐れるのである。
る事柄は、﹁人笑へ﹂な状況なのである。
’
−
8
﹃源氏物語﹄の本文の引用は、阿部秋生著校注古典叢書﹃源氏物語﹄
9 石井正巳﹁世間話・世語り−﹃源氏物語﹄の世界1﹂︵﹃説話の
勉誠社一
講座第二巻﹄説話の言説−口承・書承・媒体1、平成三年九月、
10 原岡文子﹁浮舟物語と﹃人笑へ﹄﹂︵﹃国文学﹄一九九三年十月一
全六巻︵平成十年二月、明治書院︶に拠った。
注− 日向一雅﹁源氏物語の﹃恥﹄をめぐって﹂︵﹃日本文学﹄一九七
u ﹃内閣本細流抄﹄︵﹃源氏物語古注集成7﹄昭和五十五年十一月、
弘文社︶
12 ﹃増注源氏物語湖月抄﹄上・中・下︵昭和二年九月⊥二年十月、
裟楓社一
七年 九 月 ︶
2 ﹃新編国歌大観第三巻、私家集編1﹄︵昭和六十年五月、角川書店︶
3 薪編国歌大観第一巻、勅撰集編﹄︵昭和五十八年二月、角川書店一
天暦御時歌合 壬生忠見
13 藤井貞和﹁タブーと結婚﹂︵﹃源氏物語の始原と現在﹄昭和五十
空問1︵﹃源氏物語講座六﹄平成四年八月、勉誠社一
五年五月、冬樹社一
15 ﹃眠江入楚第三巻﹄︵﹃源氏物語古注集成13﹄昭和五十七年二月、
こひすてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか
風問書房︶
娑楓社一
︵ ﹃ 拾 遺 和 歌 集 ﹄ 巻 十 一 、 恋 一 、 六 二 一 ︶
5 ﹃新編国歌大観第五巻﹄︵昭和六士二年四月、角川書店︶
14 三田村雅子﹁源氏物語の世語り﹂−﹁他者﹂の言葉、﹁他者﹂の
6 福田秀一・島津忠夫・伊藤正義編集﹁正徹物語﹂︵﹃鑑賞日本古
16 後藤祥子﹁尚侍孜﹂1臆月夜と玉霞−︵﹃日本女子大学国語国
4 正徹﹃清巖茶話﹄︵﹃日本歌学大系第五巻﹄昭和三十二年七月、
典文学第二十四巻中世評論集﹄昭和五十一年六月、角川書店︶
のない役割を付与されていたもの﹂﹁最高の地位と権威﹂というよ
文学論究﹄昭和四十二年六月︶に﹁政治の要人としてのかけがえ
うな記述がある。
7 小峯和明﹁世語り﹂︵﹃国文学﹄物語会議−語りと物語り事典、
8 ﹃和泉式部日記﹄の﹁はかなき夢をだに見で明かしてはなにかの
︵きたがわ くみこ/大学院特別研究員一
平 成 二 年 二 月 一
ちの夜がたりにせん﹂︵古典大系本・古典全集本︶﹁夜がたり﹂と
﹁世がたり﹂とをかける一古典全集本一﹁世がたり﹂︵古典集成本一
﹃宇津保物語﹄︵﹁国譲下﹂二七〇頁︶﹁四人ノ翁﹂一古典大系本一
﹁よかたりのをきな﹂という本もある。
−
■
9
付録
世語りの用例
べかめれ﹂とのたまへば
﹁ことごとしく、さまで言ひなすべき事にもはべらざりけるを、こ
④﹁常夏﹂巻、一五七頁七行
の春のころほひ、夢語したまひけるを、ほの聞き伝へはべりける
と尋ねとぶらひはべるける。くわしきさまはえ知りはべらず。げに
①﹁若紫﹂巻、ニハ四頁一四行
見てもまたあふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるるわが身と
このごろめづらしき世語になむ人々もしはべるなる。かやうのこと
の朝臣なむ聞きっけて、まことにさやうに触ればひぬべき証やある
もがな
こそ、人のため、おのづから家損なるわざにはべりけれ﹂と聞ゆ。
女の、我なむかこつべきことあると名のり出ではべりけるを、中将
とむせかへりたまふさ ま も 、 さ す が に い み じ け れ ば 、
げなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり。
世がたりに人やつたへんたぐひなくうき身をさめぬ夢になして
かう忍びたまふ御仲らひの事なれど、おのづから人のをかしきこ
⑤﹁真木柱﹂巻、二四七頁一二行
何ごとをかは聞えつくしたまはむ。くらぶの山に宿もとらまほし
も思し乱れたるさまも、いとことわりにかたじけなし。
めざ1りしことのこそ。宮はいかでか聞きたまはむ。聞えん方なか
﹁僧都の語りしに、いともの恐ろしかりし夜のことにて、耳もとど
とに語り伝へつつ、次々に聞き漏らしつつ、あり難き世語にぞさ
御心ばへならましかば、などかはいと似げなくもあらまし。人に似
りける御心のほどかなと聞けばまして聞きっけたまはんこそ、い
②﹁蛍﹂巻、一四一頁六行
ぬありさまこそ、つひに世語にやならむ﹂と起き臥し思しなやむ。
と苦しかるべけれ。かかる筋につけて、いと軽くうきものにのみ
⑥﹁手習﹂巻、二六〇頁四行
③﹁蛍﹂巻、一四九頁四行
さめきける。
﹁さてかかる古事の中に、まろがやうに実法なる痴者の物語はあり
世に知られたまひぬめれば、心憂くなむ﹂とのたまはす。いと重
姫君は、かくさすがなる御気色を、﹁わがみづからのうさぞかし。
や。いみじくけ遠き、ものの姫君も、御心のやうにつれなく、そ
んことを漏らさせたまはじなど思す。
き御心なれば、必ずしも、うちとけ世語にても人の忍びて啓しけ
親などに知られたてまっり、世の人めきたるさまにて、かやうなる
らおぽめきしたるは世にあらじな。いざ、たぐひなき物語にして、
⑦﹁夢浮橋﹂巻、二六五頁八行
世に伝へさせん﹂とさし寄りて聞えたまへば、顔をひき入れて、
﹁さらずとも、かくめづらかなる事は、世語にこそはなりはべりぬ
■
’
10
﹁︵略︶やうやう生き出でて人となりたまへりけれど、なほこの領
じたりける物の身に離れぬ心地なんする、このあしき物の妨げを
のがれて、後の世を思はんなど、悲しげにのたまふことどものは
べしかば、法師にては、勧めも申しつべきことにこそはとて、ま
ことに出家せしめたてまつりてしにはべり。さらに、しろしめす
べきこととはいかでかそらにさとりはべらむ。めづらしき事のさ
まにもあるを、世語にもしはべりぬべかりしかど、聞えありて、
わづらはしかるべきこともこそと、一略︶﹂
−
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文
本
日
日
語
本
学
大
子
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、し
一
、︶﹂ー
圭目
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8
一
、︶﹂1
西行の﹁こころなき身にも﹂
の歌考
橋本
美 香
たし﹂︵﹃御裳濯河歌合﹄︶と俊成判にみえ、﹁しぎたっ沢﹂の語が﹁幽
玄﹂という最高の評価を得ている一注4一。
様に見られない。しかし、﹁あはれ﹂・﹁しられけり﹂を詠み込んだ歌
はじめに
が、西行の影響として新古今時代以後の歌人に見られるようになる。
そして、﹁しぎたっ沢﹂だけではなく、﹁あはれはしられけり﹂も同
西行の歌は、﹃新古今集﹄第一の入集歌数をほこり、新古今歌人にも
考えていくことにする。
以下、﹁あはれはしられけり﹂を中心に、西行のこの歌の特質について
多大の影響を与えている。本稿では、後世三夕の歌としても知られて
いる次の歌を取り上げる。
こころなき身にもあはれはしられけりしぎたっ沢の秋の夕暮
七二、御裳濯河歌合・三六︶一注−一
︵新古今集・秋上・三六二、山家集・四七〇、西行法師家集.一
る解釈も豊富にみられる一注3一。四句目﹁しぎたっ沢﹂の用例は西行以
撰集﹄から用例がある。また、﹁こころなき身﹂については、先学によ
初句﹁こころなき﹂の語は﹃万葉集﹄から見られ、勅撰集では﹃後
も﹃六百番歌合﹄に影響を与え て い る と さ れ る 一 注 2 一 。
についてもまず考える必要がある。それは次の歌からも明確であるよ
﹁こころなき﹂の歌は秋の歌であるが、西行の秋の歌といえば、月
語に注目していくことにする。
身﹂の表現は他には見られない。ここでは、西行の﹁心﹂と﹁身﹂の
行には﹁心﹂と﹁身﹂を詠み込んだ歌が多く見られるが、﹁こころなき
﹁こころなき﹂の歌は﹁心﹂と﹁身﹂の語が詠み込まれている。西
前に見られない。﹁しぎたっさはといへる心幽玄にしてすがたおよびが
西行のこの歌は﹃新古今集﹄に、定家・家隆・雅経によって撰歌され、
年
01 結句を﹁秋の夕暮﹂とする歌群の中に配置されている。﹁鴫﹂題として
20
号
3
第
文
語
、し
圭目
−
−
12
うに、月を好んで詠んだことによる。
月 歌 あ ま た よ み け る に
一注5一。③④は、﹁月﹂と﹁心﹂に加え、﹁あはれ﹂が詠み込まれている。
このほかに、﹁こころなき﹂の歌のように、﹁心﹂または﹁身﹂と
恋
﹁あはれ﹂の語を詠み込んだ歌もみられる。
⑤浮世にはあはれはあるにまかせつつ囮よいたく物なおもひそ
①身にしみてあはれしらする風よりも月にぞ秋の色はありける
︵山家集・三四二︶
︵西行法師家集・三五八一
⑥ふりにける囮こそなほあはれなれおよばぬ團にもよをおもはする
述懐十首
って秋の中心的な景物が月であると歌っていることを念頭に置いてお
①の歌では、﹁秋の色﹂は月であるとしている。このように、西行にと
かなければならない。﹁秋の夕暮﹂は﹃後拾遺集﹄のころから用いられ
ている。
を詠む時は﹁こころなき身﹂のように﹁身﹂ではなく、﹁心﹂が歌われ
り、﹁あはれ﹂が主題の形で用いられている。このことについては、後
西行の﹁心﹂にあるとは捉えられていない。また、﹁あはれは﹂とあ
は、出家者の西行にとって無関係なものとも考えられる浮世にあり、
⑤の歌ではものを思うことを心にやめさせようとしており、﹁あはれ﹂
︵山家集・一五一二︶
ているが、西行の歌では数量的に﹁秋の夕暮﹂よりも﹁秋の夜の月﹂
次に、﹁月﹂と﹁心﹂が歌われているものを挙げる。
に代表されるように、月の歌の方がかなり上回っている。そして、月
月
が﹁あはパ﹂であるとしている。その﹁心﹂が﹁身﹂に意識的に作用
述する。⑥は﹁心﹂と﹁身﹂を区別して捉えており、年を重ねた﹁心﹂
し、浮世の﹁あはれ﹂を﹁身﹂に感じさせるものとする。
②したはるる同圓やゆくとやまのはにしばしないりそ秋のよの月
あきの月をよみけるに
②−⑤にみられたように、﹁心﹂を﹁あはれ﹂であると捉えたり、
︵山家集・三一四︶
③あはれなる囮のおくをとめゆけば月ぞおもひのねにはなりける
④あはれとも見る人あらばおもはなん月のおもてにやどす困を
恋
⑥の歌において、﹁身﹂は作用を受ける側にある。先に挙げた①におい
はれ﹂は意識的であるとは言い難く、意識を越えたものなのである。
に結び付けられるものであるとする時、﹁こころなき身﹂に感じる﹁あ
び付けられている。西行歌において、﹁こころ﹂と﹁あはれ﹂が意識的
﹁心﹂が﹁身﹂に﹁あはれ﹂を思わせるなど、﹁心﹂と﹁あはれ﹂が緒
︵西行法師家集・三一七︶
︵聞書集・八八︶
③の﹁あはれなる心のおく﹂の用法は西行以前にみられないものである
’
−
13
ても﹁身にしみてあはれしらする風﹂とあり、﹁身﹂は、﹁あはれ﹂を
また、西行には、﹁心﹂と﹁身﹂が分離するような感覚で詠んでいる
受け取 る 側 に な っ て い る 。
二
事を見てきた。この他に、どのようなものに対して西行が﹁あはれし
は、西行が積極的に心を向けていないものであるのではないかという
る﹂と詠むのか、次に見ていくことにする。
﹁あはれはしられけり﹂とよまれている﹁しぎたっ沢の秋の夕暮﹂
⑦さらぬだにうかれてものをおもふ身の心をさそふあきのよのつき
月の歌あまたよみけるに
歌もみられる。
一山家集・四〇四一
①身にしみてあはれしらする風よりも月にぞ秋のいろはありける
寄月述懐
花
隣夕荻風
︵山家集・三四二一
②あたりまであはれしれともいひがほにをぎのおとこすあきの夕風
一西行法師家集・七七︶
月
︵同・二八八︶
⑧吉野山木ずゑの花をみし日より心は身にもそはずなりにき
︵同・一九二︶
⑨世のうさに一かたならずうかれゆく心さだめよ秋のよの月
積極的に向かうものであるということができる。
る歌において、景物は花と月である。これらの景物は西行の﹁心﹂が
④あはれしるなみだの露ぞこぼれけるくさのいほりをむすぶちぎりは
心におもひける事を
︵同・八二九︶
③あはれしる空も心のありければなみだに雨をそふるなりけり
しかし、﹁こころなき﹂の歌にある鴫をはじめ、他の景物について心
一同・九一一一
⑦⑧⑨にみられるように、﹁心﹂が身体から抜け出ていくと表現してい
身が分離するという詠作は見られない。﹁しぎたっ沢の秋の夕暮﹂は、
⑤あはれしりて誰かわけこん山里の雪ふりうづむ庭の夕暮
雪
︵同・一四八五︶
西行が積極的に心を向けていないものである。この歌において西行は
れ﹂を受け取ることを歌うである。
積極的に心を向けていない﹁しぎたっ沢の秋の夕暮﹂によって﹁あは
⑥あはれしる人見たらばとおもふかな旅ねの袖にやどる月影
.
.
14
一同・五四九一
⑧浮世いとふ山のおくにもしたひ来て月ぞ住家の哀をもしる
︵同・二七六︶
⑦初時雨あはれしらせてすぎぬなりおとに心の色をそめっっ
時雨
一西行法師歌集・一八五︶
⑩浮世にはあはれはあるにまかせつつ心よいたく物なおもひそ
︵西行法師家集・六七こ
⑨山ふかくさこそ心はかよふともすまで哀は知らんものかは
れる。
題化しているものは、﹁こころなき﹂の歌の他に次に挙げる二首がみら
実際に西行の歌において﹁あはれは﹂と、修飾語を伴わない形で主
ない形であらわれている。西行が﹁あはれしる﹂というとき、何かに
ではない。﹁こころなき﹂の歌においても、﹁あはれ﹂は修飾語を伴わ
①−⑦の歌においては、修飾語を伴わなず、何かに限定した﹁あはれ﹂
れ﹂は﹁住家﹂に限定したものとして歌われている。これに対して、
はれ﹂を知っていると歌う。この歌では、﹁住家の哀﹂とあり、﹁あは
によって﹁心の色﹂を染めさせることになっている。⑧では月が﹁あ
ことを歌う。⑦では初時雨が﹁あはれ﹂を体験させ、また初時雨の音
行例といえる。
とともに見られるという点において、西行の﹁こころなき﹂の歌の先
⑫の相模の歌に﹁しりぬらん﹂とあり、﹁しる﹂の語が﹁あはれ﹂の語
一相模集・六二一
⑫たなばたもあはれはそらにしりぬらんものおもひまさるあきの心は
てならひに
︵和泉式部集・八八八一
⑪われならぬ人もさぞみん長月の有明の月にしかじあはれは
九月ばかり、あり明けに
︵同・三五八︶
限定されない、より抽象的な形で用いられることが多いといえる。
また、﹃源氏物語﹄に﹁あはれはかけよ﹂の表現を持つ歌が見られる。
これに対して、西行以前に修飾語を伴わない形で﹁あはれは﹂と詠
﹁こころなき﹂の歌には﹁あはれは﹂とあり、﹁あはれ﹂が主題とし
⑬山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよ撫子の露
①②では風、③では空、④では露が﹁あはれ﹂を知っているものであ
て詠まれている。﹁あはれ﹂の主題化は、浅田徹氏によると文治期後
んでいるのは、次に挙げる歌である。
半、建久期の慈円に多く見られるもので、比較的新しく、それ以前に
一源氏物語・帝木・一四一
﹁旅ねの袖にやどる月影﹂の﹁あはれ﹂を誰か他の人に体験して欲しい
多く見られないことが指摘され、﹁こころなき﹂の歌はその数少ない主
⑭おなじ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかごとばかりも
るとする。⑤⑥では﹁山里の雪ふりうづむ庭の夕暮﹂の﹁あはれ﹂、
題化した歌であるとされている一注6一。
−
■
15
以前にほとんどはみられないが、西行と同時代の歌人になると用例が
この他に、﹁あはれ﹂を修飾語の伴わない形であらわれたものは、西行
一同・藤袴・三九九︶
なき﹂の歌が秋であるのに対し、⑰⑱の歌はともに春を詠んでいる。
いて﹁あはれはしられけり﹂と歌うのである。また、西行の﹁こころ
んでいる。これに対し、西行の歌では、﹁しぎたっ沢の秋の夕暮﹂にっ
るとする。⑱では﹁ふかきよの哀﹂も感じ取ることができることを詠
︵久安百首・夏・七二六︶
⑮夏も猶あはれはふかし橘の花散るさとに家居せしより
﹁あはれ﹂を秋について歌うことは、西行だけにみられる特徴では
ないだろうか。
よってなされた、﹁あはれ﹂を主題化した歌の影響を受けているのでは
ものがあることを歌うのは、西行と俊成をはじめとする同時代歌人に
﹁あはれ﹂について助詞﹁も﹂を用い言外に他に﹁あはれ﹂である
増えてくる一注7一。中でも複数の用例が見られるのは西行と俊成である。
神祇
俊成の歌は次に挙げる二首がみられる。
⑯そのかみにいのりし末は忘れじをあはれはかけよかもの川波
なく、先に挙げた﹃源氏物語﹄にも以下の記述が見られる。
て、えこそ花鳥の色をも音をも弁へ侍らね。 一薄雲一一注8一
の哀を取り立て・思へる。何れも時々につけて見給ふるに、目移り
春の花の錦に如くものはなしと言ひ侍るめり。大和言の葉には、秋
頃の実にと心寄るばかり、顕なる定めこそ侍らざなれ。唐土には、
林、秋の野の盛りをなむ、昔よりとりどりに人争ひ侍りける。その
葉、空の気色につけても、心のゆく事もし侍りにしがな。春の花の
はかばかしき方の望はさるものにて、年の内行き変る時々の花紅
︵長秋詠藻・右大臣家百首治承二年五月晦日比給題七月追詠進.五
六七︶
を用いており、俊成の歌はともに﹃源氏物語﹄の影響が認められる。
⑮では﹁花散るさと﹂⑯では⑬⑭にみられる﹁あはれはかけよ﹂の語
慈円による﹁あはれ﹂の主題化は、西行と俊成をはじめとする同時
代歌人の詠作の影響のもとにに成り立っているとはいえないだろうか。
それに何らかの﹁あはれ﹂を加える形となっている。
また、次に挙げる歌のように﹁あはれ﹂を感じられることが他にあり、
﹁秋の哀﹂が中心であるとされている。このように、﹁あはれ﹂を秋に
ついて詠むことは伝統的なものであり、西行の時代に継承されたもの
﹁大和言の葉には、秋の哀を取り立て・思へる﹂とあり、歌において
⑱ふかきよの哀もそらにしられけりおぼろにかすむ春の月影
である。一般に﹁あはれ﹂を歌に詠む場合、季節の上では秋に﹁あは
⑰時くればこれも哀はしられけり霞にもるるはるごまのこゑ
一宝治百首・春月・四四〇・後鳥羽院下野︶
れ﹂を認識するものであると詠まれているが、この他にも人の死.男
︵壬二集・閑居百首・春・九一六︶
⑰は﹁霞にもるるはるごまのこゑ﹂も﹁あはれ﹂を感じ取るものであ
’
’
16
女の仲などの人事にっいても﹁あはれ﹂を知ると詠まれている一注9一。
みて、はなよりほかの、とありける、ひとむかしとあはれに
り﹂という言葉を聞くことが﹁あはれ﹂であるとする。
おぼえてよめる
平等院の名かかれたるそとばに、もみぢのちりかかりけるを
②あはれとてはなみしみねになをとめてもみぢぞけふはとみにふり
﹁こころなき﹂の歌と同様に秋夕を詠んだ歌に﹁あはれ﹂﹁しる﹂の
︵浜松中紬言物語・二六︶
⑲哀知る人こそ更になかりけれ今はと思ふ秋のゆふべを
ける ︵山家集・一一一四︶
語を詠み込んだ歌は西行以前にも見られる。
⑳風のおともいかにやよそのあはれだにわきてしらるる秋の夕暮
山ざくらはなよりほかにしる人もなし﹂のであり、この歌を思い出し
て歌われたものである一注u一。卒塔婆に紅葉の散るのを見て、行尊の古
詞書にある﹁はなよりほかの﹂は行尊の﹁もろともにあはれとおもへ
であることを詠むことは、西行以前にも散見できる。しかし、﹁しぎた
歌を思い感慨に浸っているのである。
一散木奇歌集・八四〇︶
つ沢﹂というように具体的な風景を﹁あはれ﹂と共に詠み込んでいる
次の歌も古人の﹁こころ﹂が分かったと詠んでいる。
⑲⑳のように﹁秋の夕暮﹂が特別なものであり、﹁あはれ﹂を催すもの
のは、西行以前には見られない。このことも西行の﹁こころなき﹂の
春日にまゐりたるに、っねよりも月のあかくてあはれなりければ
これは安宵仲麿の﹁あまの原ふりさけ見ればかすがなるみかさの山に
︵西行法師家集・二六一一
③ふりさけし人の心ぞしられける今夜みかさの月をながめて
歌の特徴といえよう。
三
いでし月かも﹂の歌を想起したものである一注12一。この歌では、西行は
月を見て安倍仲麿の歌に思いを馳せている。西行の歌において、眼前
古典や古人の世界に触れる時に、西行の歌には﹁あはれ﹂や﹁しる﹂
という表現を用いたものがみられる。
また、述懐の歌を詠む時にも﹁あはれ﹂の語が用いられる。
にある景物を見ることによって、古典の世界に思いを馳せ﹁あはれ﹂
わかなによせてふるきをおもふと云う事を
を感じ取っている。
この歌で﹁つみけん人の心﹂とあるのは﹃俊頼髄脳﹄をはじめ、﹃和歌
④わかなつむのべのかすみにあはれなるむかしをとほくへだつおお
︵山家集・一〇三三︶
童蒙抄﹄﹃袖中抄﹄﹃和歌色葉﹄にみられる﹁芹つみしむかしの人も我
①なにとなくせりときくこそあはれなれつみけん人の心しられて
ごとや心に物のかなはざりけり﹂という伝承的な歌である一注10一。﹁せ
−
■
17
もへば . 一山家集.二一一
③きかせばやあはれをしらん人もがなくものはやしのかりの一こゑ
雲林院にすむころ、越後守のりながに
︵和泉式部集・三二九︶
ふ る 木 の さ く ら の 、 と こ ろ ど こ ろ さ き た る を み て
⑤わきてみんおい木は花もあはれなりいまいくたびかはるにあふべき
ふる 一国基集・六四一
かへし
①−④の歌は、鳥と﹁あはれ﹂が歌われているということでは、西行
④ほととぎすよぶかきこゑをあはれともおもひしらするなにかこた
⑥としたかみかしらにゆきをつもらせてふりにけるみぞあはれなり
の先行歌といえる。ただし、これらの歌は鳥を相手に警えた贈答歌と
一同・九四一
ける 一聞書集・九七︶
なっており、西行の﹁こころなき﹂の歌のように眼前の鳥によって
老人述懐
これらの歌で﹁あはれなり﹂としているものは、過去からの時問の経過
﹁あはれ﹂を知るとは言い難い。
である。古典の世界を感じ取る時や述懐といった、﹁昔﹂を思う時に﹁あ
る風景によって﹁あはれ﹂は受け取られるのである。鳥の歌をみると、
西行の﹁こころなき﹂の歌において、﹁しぎたっ沢﹂とあり、鳥のい
るる 一一条摂政御集・四〇一
⑤あふことのほどへにけるもこひしぎのはねのかずにぞおもひしら
おきなのひさしうまゐらざりければ
う表現は、西行の他にも見ることが出来るものである。
はれ﹂の語があらわれるのは、西行の特徴であるといえるのではないか。
西行歌の鳥の歌は、現実性のあるものであるとされている一注13一。﹁こ
﹁こころなき﹂の歌と同様に、鳥と﹁あはれ﹂﹁しる﹂の語が詠み込ま
の鴫を詠んでいる。実際の鳥のいる風景によって何かを感じ取るとい
ころなき﹂の歌においても﹁鴫﹂は、人の警えとしてではなく、実際
れている歌がみられる。
⑥草枕鴫の羽おとに夢さめて空にぞ明くるほどはしらるる
まし 一賀茂保憲女集・一九二一
⑦むら千鳥たちゐの音のちかければみちくる汐のほどぞしらるる
題しらず
︵堀河百首・暁・一二九〇・顕仲︶
ひをのかへし
②山里のあはれ知らるる声声にとりあっめたる朝ぼらけかな
一月詣和歌集・一〇〇五・法眼実快一
①あしたづのこゑさへくもにかくれせばあはれをいかでそらにしら
一源氏物語・総角・六五五︶
・
■
18
人常にくだりてあそぶといひ伝へたる所なり、げに所もいとお
もしろし、今宵のそらも心ぽそうあはれなり、よるのふけゆく
きの国の吹上のはまにとまれる、月いとおもしろし、此浜は天
ままに、かものうはげの霜うちはらふ風も空もさびしうて、鶴
⑤では鴫の羽を掻く数によって、訪れない日の数が感じ取れると歌わ
であり一注些、鴫の羽音によって目覚め、夜が明けたことが感じ取れる
はるかにて友を呼ぶ声も、さらにいふべきかたもなう哀なり、
れている。⑥は、西行が影響を受けたとされている﹁堀河百首﹂の歌
ことを詠んでいる。⑦の歌では千鳥の羽音によって、汐が満ちたこと
それならぬさまざまの鳥ども、あまた州崎にもむらがれてなく
散文においては、﹃枕草子﹄の初段で﹁秋の夕暮﹂に烏が飛んでいく
の語がみられることである。この歌と西行の歌との類似性についても
ここで特に注目すべきことは、西行歌と同様の﹁心なき身にもあはれ﹂
︵増基法師集・五一
⑨をとめごが天の羽衣ひきつれてむべもふけ井の浦におるらん
も、心なき身にもあはれなることかぎりなし
を感じ取っている。これらの歌では、鴫の羽の音が何かを感じ取らせ
って眼前にない情景が感じ取れることを詠んでいる。これに対して、
るという形式になっている。いずれも羽音に眼目が置かれ、羽音によ
西行は鴫のいる眼前の風景から、現象として見えない抽象的な概念で
姿を﹁あはれ﹂であるとしている。
の中で﹁あはれ﹂を眼前にいる鳥に感じることが記されている。詞書
指摘されている一注16一。実際に詞書の内容を検討してみると、この詞書
ある﹁あはれ﹂を感じ取るを詠んでいるのである。
秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすの寝
では﹁きの国の吹上のはま﹂に天女が降りてくるという伝説の場所で
所へ行とて、三四、二みっなど、とびいそぐさへあはれなり。一注15一
あることを述べた上で、現在の﹁きの国の吹上のはま﹂の様子を﹁あ
﹃枕草 子 ﹄ の 三 十 八 段 に は 、 ﹁ 鴫 ﹂ の 語 も 見 え る 。
鳥はこと所の物なれど、鶏鵡いと哀なり。人のいふらんことをま
はれなり﹂と繰り返し記述している。歌では詞書を受けて、この浜で
ことであるとする。
﹁天の羽衣﹂をなびかせて﹁天人常にくだりてあそぶ﹂のはもっともな
ねぶらんよ。時鳥。くゐな。鴫。ひは。火たき。
も窺われる。
また、西行が﹃枕草子﹄冒頭の部分を好んでいたことは、次の歌から
浜に鳥のいる情景︵現在︶に、伝説の中の天女が遊ぶ様︵過去︶を喚
﹁心なき身にもあはれなることかぎりなし﹂と感じるのは、吹上の
起することができるためであると考えられる。なお、﹁吹上の浜﹂は西
三月一日たらでくれにけるによめる
一山家集・一七三︶
行歌にもみられる。実際に﹁吹上の浜﹂に行っており、心を寄せてい
⑧ゆく春をとどめかねぬるゆふぐれはあけぽのよりもあはれなりけり
次の歌には、詞書に﹁あはれ﹂﹁鳥﹂の語が用いられている。
−
.
19
たものと思われる一。注17一。
︵聞書集・四一︶
②しられけりっみを心のっくるにておもひかへさばさとるべしとは
︵西行法師家集・六九二︶
①は、聞一﹂えてくる音︵﹁氷をたたく鶯のたき﹂︶によって、目に見え
先に見たように、西行の歌では、実際に春日山に行って月を見て安
取る時など、現在に過去︵古典の世界︶を重ねる時に﹁あはれ﹂の語
ないもの︵﹁春﹂︶は感じ取れることを詠んでいる。この歌において、
倍仲麿の心を感じ取り、また行尊の跡を訪ねて行尊の歌の世界を感じ
を用いているものがみられる。
は、﹁こころなき﹂の歌において眼前の風景である﹁しぎたっ沢の秋の
眼前のものから目に見えない春を感じ取る形になっている。このこと
夕暮﹂から、目に見えない﹁あはれ﹂を感じ取ったことに通じている。
増基法師の歌の詞書では一つの伝説一天の羽衣︶をもとに、眼前の
西行の﹁こころなき身にもあはれはしられけり﹂は歌の中に詠み込ま
②は、罪を作ることが悟りになるということが分かることを詠んでい
風景にっいて﹁心なき身にもあはれなることかぎりなし﹂としている。
れている。また、増基法師の歌の詞書に見える﹁吹上の浜﹂は、西行
﹁しられけり﹂が連続していない。西行歌において﹁−はしられけり﹂
る。しかし、これらの歌は、﹁こころなき﹂の歌と違い、助詞﹁は﹂と
という表現は、﹁こころなき﹂の歌だけである。
にも歌に詠まれているものであった。﹁こころなき﹂の歌の詞書は﹃山
において、﹁鴫﹂となっており、どのような古歌の世界を追体験したの
して次の二例が見られるだけである。
西行に一首しかみられない﹁−はしられけり﹂の表現は、先行歌と
家集﹄において﹁あき、ものへまかりけるみちにて﹂、﹃西行法師家集﹄
かが詞書に示されていない。したがって、﹁こころなき﹂の歌は何か一
③われながらわりなき事はしられけりこよひばかりはのどけからまし
つの古歌の世界や伝説をもとにして﹁あはれはしられけり﹂としてい
一品資子内親王にあひてむかしのことども申しいだしてよみ
︵元真集・二五八一
五
④そでにさへあきのゆふべはしられけりきえしあさぢがつゆをかけ
るとはいえないと考えられる。
次に﹁しる﹂について見ていく。西行歌において﹁あはれはしられ
つつ ︵新古今集・哀傷・七七八・女御徽子女王一
のどけからまし﹂と上句の状況から逃れたいという願望を下句で述べ
③は上句の﹁わりなき﹂ことは自分自身で分かるが、﹁こよひばかりは
侍りける
けり﹂の表現は、﹁一﹂皿ころなき﹂の歌の他に見られないものであるが、
﹁しら れ け り ﹂ の 表 現 は 見 ら れ る 。
①三笠山春はこゑにて知られけり氷をたたく鶯のたき
−
■
20
ている。したがって④の歌は、眼前にない状況を感じ取ることとは異
で﹁あきのゆふべ﹂が感じ取れると歌い、二つのことが同時に進行し
ている。④は亡き人を思う涙の露を袖にかけながら、一方で袖の上ま
︵後撰集・春・六九・衛門御息所一
⑦匂こきはなのかもてぞしられけるうゑて見るらん人の心は
西行以前にも﹁−ぞしられける﹂の表現が見られる。
氷をよめる
︵宇津保物語・一︶
⑨たかせぶねさをのおとにぞしられけるあしまのこほりひとへしに
⑧俺び人は月日の数ぞしられけるあけくれひとり空をながめて
られける﹂の形でも西行歌に見られる。
一方、眼前の風景から目に見えないものを感じ取ることは、﹁−ぞし
けり ︵金葉集二度本・冬・二七一・藤原隆経一
なる。西行の歌以前に眼前の風景から、何か目に見えないものを感じ
月
前にある梅の匂いによって自ずから感じ取れると歌っている。⑧は、
⑦は、目に見えないもの︵﹁うゑて見るらん人の心﹂︶は、実際に目の
取る形式で﹁−はしられけり﹂が用いられた歌はみられないのである。
一西行法師家集・一八八一
一人で空を眺めることによって、月日の経過が感じ取れるとする。⑨
⑤物おもふ心のたけぞしられける夜な夜な月をながめあかして
春日にまゐりて、っねよりも月あかく哀なりしに、みかさ山
いう状態を感じ取っている。
では実際に高瀬舟の樟をさす音によって、﹁こほりひとへしにけり﹂と
眼前の風景から目に見えないものを感じ取ることを、﹁−ぞしられけ
を見あげて、かく覚え侍りし
︵同・二六一︶
る﹂で表現することは西行以前にみられるものであり、西行にも二首見
⑥ふりさけし人の心ぞしられけるこよひ三笠の月をながめて
⑤では、毎晩月を眺め明かすことによって、﹁心のたけ﹂が自ずから感
から目に見えないものを感じ取ることが、﹁こころなき﹂の歌の登場に
られた。このように、﹁−ぞしられける﹂で表現されていた眼前の風景
よって、﹁−はしられけり﹂になったと考えることができないだろうか。
じ取ったと詠まれ、⑥は、先に本稿の﹁三﹂で見たように、西行が心
いでし月かも﹂の心が月を見ることによって感じ取ったとある。これ
に留めていた古歌﹁あまの原ふりさけ見ればかすがなるみかさの山に
けり﹂は、ともに勅撰集では西行の﹁こころなき﹂の歌が入集してい
これに対して﹁−はしられけり﹂、また助詞﹁は﹂のない形﹁しられ
る﹃新古今集﹄が初出である。﹃新古今集﹄に取られているうちの一首
らの歌においても、眼前の月を眺めること︵契機︶によって、目に見
は、先に④で挙げた徽子女王の﹁そでにさへあきのゆふべはしられけり
えない﹁物おもふ心のたけ﹂や﹁ふりさけし人の心﹂が認識できるこ
してあらわれており、三句目に置かれている。
とを詠んでいるのである。また、助詞﹁ぞ﹂と﹁しられける﹂が連続
■
’
21
きえしあさぢがっゆをかけっっ﹂の歌であり、もう一首は次に挙げる
︵壬二集・閑居百首・春・九一六一
一拾玉集・早率露膳百首・鹿・七四六一
⑭ふかきよの哀もそらにしられけりおぼろにかすむ春の月影
⑬しかのねをおくる嵐にしられけり山のおくなる秋のあはれは
︵宝治百首・春月・四四〇・後鳥羽院下野一
歌である。
一新古今集・離別・八九二・惟明親王︶
⑩なごりおもふたもとにかねてしられけりわかるる旅の行末の露
先に﹁二﹂でみた家隆の歌である⑫は、西行没の三年前である文治三
みやこのほかへまかりける人に、よみておくりける
先に述べたように、眼前の風景から目に見えないものを感じ取ること
た﹁早率露膳百首﹂の歌であるが、西行の﹁こころなき﹂の歌と同様
に、﹁あはれは﹂と﹁しられけり﹂の語がみえる。⑭は、﹁二﹂で見た
年十一月に詠まれている。⑬は慈円によって文治四年十二月に詠まれ
みられる。西行の﹁こころなき﹂の歌は、﹃新古今集﹄では、秋の歌で
歌であり、西行死後約五十年経過しているが、﹁哀も﹂の形で﹁あは
は西行の歌において西行以前からみられる﹁5ぞしられける﹂、西行以
あるが、﹁−はしられけり﹂について先行の用例も﹃新古今集﹄の二首
れ﹂﹁しられけり﹂の形が歌われている。⑫では霞の中から漏れ聞こえ
前にみられない用いられ方である﹁−はしられけり﹂の二つの表現が
においても、四季歌はみられない。
⑫−⑭の歌は、西行の﹁−はしられけり﹂の用法と同様に眼前の風
てくる春駒の声によって﹁あはれ﹂が感じられることを詠んでいる。
景によって目に見えないものを感じ取る形になっている。また、﹁−し
また、﹁あはれ﹂と﹁しらる﹂をともに用いた表現に、西行と交流の
一唯心房集・八八一
られけり﹂が、西行の﹁こころなき﹂の歌によってはじめて四季歌と
⑬では、鹿の声を運んでくる嵐に秋の﹁あはれ﹂を感じさせれらてい
先に挙げた西行歌の⑤と同様、﹁月﹂が詠みこまれており、﹁あはれ﹂
して詠まれるようになっていた。⑫⑭は春、⑬は秋となっており、西
あった寂然の歌がみられる。
を分かることが出来たことを表現している。この時点では、まだ、﹁あ
行歌と同様に四季歌として詠まれている。
ている。
はれはしられけり﹂という表現はみられない。
る。⑭ではおぽろに霞む月によって﹁あはれ﹂という情感を受け取っ
しかし、文治期以降、﹁あはれはしられけり﹂の用例が見られるよう
られるようになる。これらは、西行に先行する用例や西行の﹁こころ
助詞﹁は﹂のついていない形の﹁しられけり﹂も、西行以降多く見
月
になる。
⑪一人のみながむる秋のっもりてぞ月のあはれはしられはてぬる
⑫時くればこれも哀はしられけり霞にもるるはるごまのこゑ
’
’
22
なき﹂の歌同様、三句目に﹁しられけり﹂を用いている。
⑮をちこちのにほひはいろにしられけりまきの戸過ぐるむめのした風
︵文治六年女御入内和歌・梅人家井野辺に梅花さきたる所.四
七・定家、続新古今集・春上・七二︶
守覚法親王家の五十首歌に
︵新後撰集・秋上・二五〇・前中紬言定家︶
⑲しきたへの枕にのみぞしられけるまだしののめの秋の初かぜ
⑲の歌も秋歌で四季歌である。﹁秋の初かぜ﹂は﹁しきたへの枕﹂だけ
一六百番歌合・晩立・二七八・寂蓮法師、続拾遺集.夏.二〇
建久三年の詠、⑰も建久九年十二月から翌年三月にかけて詠まれたも
撰集に見られないものである。また、⑮は文治六年の詠であり、⑯は
けに限定して﹁のみぞしらけれる﹂をしている用法が、それまでの勅
に感じ取れるであると詠んでいる。眼前の景物︵﹁しきたへの枕﹂︶だ
四一
のであり一注18一、⑱の﹃御室五十首﹄は建久八年十二月に下命があり、
⑯谷河のながれを見てもしられけり雲こす峰のゆふだちのそら
︵慈鎮和尚自歌合・﹁春歌中に﹂・一九一、新勅撰集・雑一.
⑰武蔵野の春のけしきもしられけりかきねにめぐむ草のゆかりに
翌々年の正治元年に完成をみたものである。いずれも、西行の没後す
﹁−はしられけり﹂、また助詞﹁は﹂のない形﹁しられけり﹂が、西
一〇二七︶
行以前にあまり用例が見られず、勅撰集において﹃新古今集﹄から見
ぐに詠まれたものである。
一御室五十首・冬・三六・守覚法親王、新勅撰集・雑四.一二
ゆき
西行没後ぴ比較的はやい時期によまれていることから考えると、﹁しら
えること、西行以前に見られなかった四季歌として詠まれていること、
⑱ふじのねはとはでもそらにしられけりくもよりうへに見ゆるしら
九六一
﹁あはれ﹂であるとある。﹁あはれ﹂は、西行以前には修飾語を伴わな
る﹂が増基法師の詞書にみられ、﹃枕草子﹄の初段にも﹁秋の夕暮﹂が
西行の﹁こころなき﹂の歌と類似した表現﹁心なき身にもあはれな
結び
れけり﹂の表現は西行歌の影響が考えられるのではないだろうか。
⑮−⑱のように眼前の状況によって、目に見えない時間的、空問的に
遠方の状況が感じ取れることを詠んでいる。
これらの用例は、﹃新古今集﹄の次の勅撰集である﹃新勅撰集﹄︵⑰
⑱一に続き、﹃続拾遺集﹄︵⑯一、﹃続新古今集﹄︵⑮︶にそれぞれ取られ
ている。これに対して、﹁−ぞしられける﹂は、勅撰集では﹃金葉集﹄
撰集﹄にみられる歌は、﹁こころなき﹂の歌を撰歌した新古今歌人であ
以降十三番目の勅撰集である﹃新麦撰集﹄まで見られなくなる。﹃新後
る定家の歌である。
’
■
23
い形ではあまりあらわれなかったが、西行の時代になると修飾語を伴
錯を図っていると考えられる点において、﹃新古今集﹄の特徴的な歌で
︵﹁今﹂︶によって直接体験することにより、﹁今﹂と﹁古﹂の融化、交
てみると、伝統的な﹁あはれ﹂一﹁古﹂︶を﹁しぎたっ沢の秋の夕暮﹂
あるともいえるであろう。
わない形で、﹁あはれは﹂の表現が急増していた。
また、﹁こころなき﹂身の語も西行と同時代歌人である俊成、俊恵な
﹁こころなき﹂の歌の独自性は、眼前の風景から眼前にないものを
ないだろうか。西行の志向する月や花に伝統的な﹁あはれ﹂を感じる
どの歌に見られるようになる一注19一。﹁こころなき﹂は、﹁あはれ﹂や情
のではなく、志向と異なったものである﹁しぎたっ沢の秋の夕暮﹂に
想起する方法である﹁−はしられけり﹂という表現を用いたことでは
か。特に﹃御裳濯河歌合﹄において﹁しぎたっ沢﹂を評価している俊
よって、﹁あはれ﹂を西行も感じ取ることを詠んでいるということも、
の認識が、西行と西行と交流のあった同時代歌人にあったのではない
成が、﹁こころなき﹂の語だけでなく﹁あはれは﹂と、﹁あはれ﹂を修
西行の歌の中では特異な位置を占めると思われる。さらに西行以降
を知らない人と解されることもあったが一注20一、そのような者であると
﹁こころなき﹂を﹁あはれ﹂や情を知らない者であるとする時、そ
飾語の伴わない形で主題化した語も用いていることは、注目できる。
﹁しられけり﹂の表現が多く見られることを考えると、この歌は、後の
︵昭和六十年九月一←﹃中世和歌史の研究﹄二七九頁︵明治書院、
2 久保田淳氏﹁﹃六百番歌合﹄を読む﹂﹃文芸研究﹄第一一六集
主1 以下﹃新編国歌大観﹄︵角川書店︶による。
歌人に多くの影響を与えているといえるのではないか。
のような者の感じる﹁あはれ﹂は、自然と湧き出る感情ではなく、人
の感じた﹁あはれ﹂を感受する時の感情という側面も持っていると考
一つの典拠をさすのではなく、西行の時代に受け継がれた総体的なも
えられるのではないか。そして古人の感じた﹁あはれ﹂とは、なにか
のであると考える。このような﹁あはれ﹂の認識があったために、﹁あ
平成五年六月︶
ある。
いることができたと考えられないだろうか。こういった共通認識につ
はれは﹂と修飾語を伴わない抽象的な形で、主題として取り立てて用
心なき身とは、世上をのがれて六賊を捨てて無住無心に成り
実際に、注釈書などを見てみると、﹁心なき身﹂は、次のように
3
とを詠むことは、西行以前にはみられないものであった。
侍れば、かなしきともおもしろきともおはず。︵東常縁﹃聞書﹄一
いて、﹁あはれはしられけり﹂の表現を用い、﹁あはれ﹂を感じ取るこ
ることによって、﹁むすぼほる﹂世界を創造することを、﹃新古今集﹄
心なきとはあはれをしらぬなさけなき心なり。山家集のうち
また、稲田利徳氏は﹁今﹂の和歌が﹁古﹂の和歌を融化、交錯させ
の特徴とされている一注21一。この視点から、﹁こころなき﹂の歌を捉え
−
■
24
ひしられけりと也。 ︵北村季吟﹃八代集抄﹄︶
身にも、此の鴫の飛び立つ沢辺の秋の夕景の哀に思白事は、思
代歌人の歌は次に挙げるものが見られる。
7 修飾語を伴わない形で、﹁あはれは﹂の語を用いている西行の同
︵臨川書店、平成十一年七月︶
6 浅田徹氏﹃百首歌−祈りと象徴−﹄国文学資料館編、九八頁
二年十月一
この世の愛着の念を去りて、早最あはれとも悲しとも思ふ心
旅宿時雨の心を、人にかはりて
辺泰明氏編﹃秘儀としての和歌−行為と場−﹄︵有精堂、昭和六十
なき身をいへるなり。 ︵塩井正男﹃新古今集詳解﹄︶
かり庵さすならのかれはの村しぐれ哀は槙のおとばかりかは
に心なきといふことばあり。見合わすべし。一加藤盤斎﹃増抄﹄︶
出家の意でいっている。出家するのは世間の煩悩から離れる、
︵林葉集・五七八︶
師説心なき身とは卑下の詞にて、何の情をもしらぬ修行者の
すなわち心なき身となるのが本旨だからである。
つかなさに人を遣すとて申遣し侍りける
りければひのに籠りて日比に成りぬるよしをききておぽ
あひしりて侍る女わづらふ事ありけるが、久しくやまざ
︵窪田空穂﹃完本新古今集評釈﹄︶
また、桑原博史氏は能因法師の﹁こころあらむ人にみせばやつ
あかねさす日の出づるかたにいもをおきてあはれは山のはを
このように、西行の境涯と重ねられて解釈されていることが多い。
のくにのなにはあたりのはるのけしきを﹂︵後拾遺集・春・四三︶
兵衛、上西門院女房達ともなひて法勝寺の花をなんみた
しを ︵重家集∴一四六一
月ゆゑにあはれはいっもそへしかどいとかく袖はしぼらざり
籠居之問月をみて
ぞながむる ︵頼政集・六六三︶
の歌にみられる﹁こころあらむ﹂と西行の﹁こころなき﹂が対照
的に取り扱われており、直接能因法師の影響を受けているとされ
る。また﹁心ある人﹂﹁心あらむ人﹂﹁心なき人﹂﹁心なき身﹂が新
古今歌人に多用されていることも指摘されている。﹁伝統と創造﹂
﹃国文学−解釈と教材の研究−﹄一学燈社、昭和四十五年十月︶
らぬ我もあはれはしりぬべしかれにしえだをおもひやりつつ
りしと申されたりし返事に申しおくりし又、返事はなな
4 金子金治郎氏によって、西行の﹁しぎたっ沢﹂の表現は、鴫の立
つさま、飛び立った沢辺のさまを一句に凝縮しているものであり、
8 新古典文学大系22﹃源氏物語四﹄
一林下集・三二八︶
連歌の鴫題の中軸をなすものになることが指摘されている。﹁鴫の
5 寺島恒世氏﹁歌語﹃奥﹄考﹂﹃国語国文﹄第五十六巻第十号←渡
歌−歌謡・和歌・連歌1﹂﹃国語と国文学﹄一昭和四十四年四月号︶
■
■
25
9 ■﹁あはれ﹂﹁しる﹂についての西行の先行歌は、次に挙げる歌が
見られる。
和五十九年五月←﹃中世和歌史の研究﹄三四二頁︵明治書院、平
16 久保田淳氏﹁西行と旅﹂﹃日本の美学﹄第一号︵ぺりかん社、昭
深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろげならぬ契りとぞ思ふ
︵紫式部集・一二四︶
まの身をばおもはで人の世のあはれをしるぞかつはかなしき
ものの中なるを見つけて、かがせうなごんのもとにくれぬ
こせうしやうのきみの、かきたまへりしうちとけぶみの、
︵和泉式部集・四四八一
大方のあはれをしるにおっれども涙はきみにかけてこそ思へ
袖のぬるるを、あいなのわざやといふに
をぐらをすみすてて、高野のふもとあまのと申す山にすまれ
実際に雨が上がっていることが示しているものである。
西行は﹁吹上の浜﹂で歌を詠み、雨が止むように神に呼びかけ、
を受けている。能因が歌の功徳によって雨を降らせたのに対し、
くだせあまくだりますかみならばかみ﹂一金葉集・雑下・六二五︶
て、伊予の国で雨を降らせた歌﹁あまのがはなはしろみづにせき
17 西行の﹁吹上の浜﹂を詠んだ歌は、能因法師が歌の功徳によっ
の周辺﹄︵風問書房、平成元年二月︶
﹃源氏物語の探求﹄第九輯所収︵昭和五十九年四月一←﹃西行とそ
桑原博史氏﹁﹃多武峯少将﹄﹃いほぬし﹄そして﹃源氏物語﹄﹂
成五年六月︶
︵源氏物語・一〇二・花宴一
けり、おなじ院の帥のっぽね、みやこのほかのすみかとひ申
よのはかなき事などいひてなくに、ちかくふしたる人の
哀しる人しなければ世と共にわが思ふ事をいはでやみぬる
かへるさにこかはへまゐられけるに、御山よりいであひたり
さでいかでかとて、わけおはしたりける、ありがたくなん、
︵堀河百首・一五七九・顕仲一
u ﹁大峰にておもひがけずさくらのはなを見てよめる﹂︵金葉集
10 出典は、日本文学大系50﹃俊頼髄脳﹄による。
けるを、しるべせよとありければ、ぐし申してこかはへまゐ
見所なきやうにて、やしろにこしかきすゑて、おもふにもに
なりにけり、さりとてはふきあげにゆきっきたりけれども、
きあげへおはしけり、道よりおほあめ風ふきて、きようなく
きあげみんといこと、ぐせられたりける人人申しいでて、ふ
りたりけり、かかるついでは、いまはあるまじき事なり、ふ
二度本・雑上・五二一︶
12 ﹁もろこしにて月を見てよめる﹂︵古今集・轟旅・四〇六一
13 窪田章一郎氏﹃西行の研究﹄四四七頁一東京堂出版、昭和十六
年一月一
14 峯村文人氏﹁西行の作風形成﹂﹃⋮呈㎜と文芸﹄︵昭和三十九年七月︶
15 新 古 典 文 学 大 系 2 ﹃ 枕 草 子 ﹄
■
■
26
つたへられたるものをとおもひてやしろにかきつけける
右大臣家百首忍恋
︵同・恋・八七八・藤原俊成︶
︵はしもとみか/博士後期課程三年在籍一
0
2注3の桑原博史氏の論文による。
1 ﹃新古今集とその時代﹄和歌文学論集8︵風問書房、平成五月一
2
はま ︵住吉社歌合嘉応二年・一一・俊成︶
こころなきこころもなほぞっきはっる月さへすめるみよしの
一林葉集六七九︶
もらさじと思ひっっめど心なき涙のとがは君ゆるさなむ
ざりけり、能因が、なはしろ水にせきくだせ、とよみていひ
あまくだるなをふきあげの神ならば雲はれのきてひかりあらはせ
︵山家集・七四八一
なはしろにせきくだされしあまの川とむるもかみのこころなるべし
一同・七四九一
かくかきつけたりければ、やがてにしのかぜふきかはりて、
たちまちにくもはれてうらうらと日なりにけり、すゑのよ
なれど、こころざしいたりぬる事には、しるしあらたなり
けることを人人申しっっ、しんおこして、ふきあげわかの
うらおもふやうにみてかへられにけり
門院帥局に同行した女房の申し出により、西行が案内役となった
これは、西行が自主的に﹁吹上の浜﹂に行ったのではなく、待賢
時の歌である。積極的に古人や古典の世界に思いを馳せてはいな
いため、﹁あはれ﹂の語が現れないものと思われる。
18 石川一氏﹃慈円和歌論考﹄六五六頁一笠問書院、平成十年二月一
19 次の歌に、﹁こころなき﹂の語がみられる。
心なきわが身なれども津の国の難波の春にたへずも有るかな
一久安百首・春・四一二・藤原季通︶
野分する野べのけしきをみる時は心なき人あらじとぞおもふ
一同・秋・四三二・藤原季通︶
こひしきにうきもつらきも忘られて心なき身に成りにけるかな
−
−
27
会
学
文
本
日
日
語
本
学
大
子
女
一
、し
、︶﹂ー
圭目
ム
ー
ダ
ル
ト
﹃近代秀歌﹄における﹁近き世﹂ の六歌人評
経信・俊頼を中心に
技法として、本歌取について言及している。
島
寸 佳代子
ヰ
後半は秀歌例を挙げている。初撰本と再撰本とがあり、まず、初撰
元三︵二一〇九︶年、当時四十八歳であった定家が、十八歳の実朝に
に定家の歌道意識が反映されているものと考える。これは、秀歌例の
倍以上になった。全体の半分を担うこの秀歌例にも、前半部分と同様
撰されたもので、八代集全体に範囲を広げての抄出となり、歌数も三
る。再撰本は、成立時期は定かではないが、初撰本から数年の後に改
本においては、前半部分で名前の出た﹁近き世﹂の六歌人の作を挙げ
送る目的で書かれた。この年の四年前元久二一一二〇五︶年には﹃新
部分が、初撰本と再撰本とで大きく改撰がなされていることからもそ
﹃近代秀歌﹄は、藤原定家が最初に著した歌論書である。本書は承
承元末と言われることから、﹃近代秀歌﹄は、これとほぼ同時期に記さ
の位置付けが推測できる。
古今集﹄が詠進されている。同集の切り継ぎ作業の最後に当たるのが
れたと言える。
中で初めに名前を挙げられた経信・俊頼にっいて、定家が彼らをどう
ノ
月
8 ﹃近代秀歌﹄は内容を大きく二つに分けることができる。
年
01
前半は、いわゆる歌論部分であり、まず和歌史を振りかえることか
20
ら始めている。この部分は歌本来のあり方が理解されないまま展開し
捉え、評価していたのかということを、後半の秀歌例一初撰本︶の部
成・基俊ら六人の存在を指摘する。和歌史を概観した後、本文は作歌
たかという点を前半の歌論本文を通じて考えたい。また特に六歌人の
今回は、.﹁近き世﹂の六歌人が、定家にとってどのような存在であっ
てきた、今までの和歌史に対する定家の批判意識が反映されたものと
3
号
分を通して考えていきたい。
一
、︶﹂1
て﹁近き世﹂となってあらわれた歌人、経信・俊頼・顕輔・清輔・俊
言える。その和歌史の中で、伝統を受け継いで秀歌を詠じた歌人とし
第
文
語
、し
圭目
■
28
’
二
今集﹄に収められた歌である。この点については島津氏が同論文に
﹁恐らく始めはなかつたのであり、それが、二首ずつ並べて批評してい
解を述べている。また藤平春男氏は、俊頼詠について﹁近代秀歌秀歌
一首加えたのではなかろうか。﹂と、俊成の﹁難波人﹂の歌も含めた見
る形をととのえる為に追加し、更に歌数のバランスから俊成の歌をも
例の出典とみられる﹃定家八尤抄﹄にない上に、この歌を欠く伝本の
初撰本秀歌例は、伝本によって若干の相違がある。考察するに際し、
本の一つである﹁秘々抄﹂にみられる形態と流布本とを比較検討され、
まずこの点について触れておきたい。島津忠夫氏は、﹃近代秀歌﹄の伝
人﹂の二首を欠く二十五首のものが最初の形ということになる。俊成、
の順は、俊成、基俊となり、また俊頼の﹁とへかしな﹂、俊成の﹁難波
えられる﹂としている一注−一。それに従うと六歌人のうち、最後の二人
で勅撰集歌となっていなかったこの歌を、定家がひとりで撰者を務め
は見られない。また仮に評価していたならば、﹃新古今集﹄までの時点
略﹄・﹃秀歌大体﹄・﹃百人秀歌﹄等︶にもこの﹁とへかしな﹂の歌
らも考えている。ちなみに﹃定家八代抄﹄以外の秀歌撰︵﹃秀歌体大
けの術入かと思われる。﹂とし一注2一、定家の他の秀歌撰との関わりか
ほうがすぐれていると認められるので、後人の追加か、あるいは注付
基俊の順序に関しては、島津氏も同論文で述べているが、前半の本文
た﹃新勅撰集﹄に入集させることも可能だったはずである。俊成詠
﹁秘々抄﹂本について﹁﹃近代秀歌﹄の最初の草稿本に発する本とも考
中に﹁然れども、大紬言経信卿・俊頼朝臣・左京大夫顕輔卿.清輔朝
﹁難波人﹂については、島津氏の解釈の可能性も考えられ得るが、本来
臣・近くは亡父卿、即ちこの道を習ひ侍りける基俊と申しける人⋮﹂
としていた六歌人の順序と一致しており、この本文自体には伝本間に
的にこの二首を除いた二十五首を対象として考えることにする。各歌
存したかピうかを断定することはできないように思う。今回は、暫定
人の歌数はそれぞれ、経信三首、俊頼七首、顕輔三首、清輔四首、俊
異同がないことから、この点の裏づけとなる。さらに、秀歌例の後に
の順序も俊成詠にある﹁しぢのはしがき﹂の次に基俊詠の﹁伊勢の浜
ある蹴文に、本歌取した歌について述べられている個所があるが、そ
成六首、基俊二首となる。
載した﹁近き世﹂の六歌人の﹁高き世にも及びてや侍らん﹂と評した
和歌史において実に重要な役割を果たした歌人として、本文中に記
する。
歌に注目し、六歌人に限定した秀歌例をあらわした定家の意図とはど
荻﹂が挙げられており、このことも一っの証左となるだろう。以上の
また、俊頼の﹁とへかしな﹂の歌については、他の歌が全て﹃新古
ういったものなのであろうか。
ことから順序に関しては﹁秘々抄﹂本の記述に基づいて進めることに
今集﹄までの勅撰集からの抄出であるのに対して、これのみが﹃続古
一
−
29
きことを違へ離れたることを続けて、似ぬ歌をまねぶと思へると
もがらあまねくなりにて侍るにや。
来風躰抄﹄での和歌史に際し﹁上、万葉集よりはじめて、中古、古今
はっきりとした区切りを表明していない点である。例えば俊成は﹃古
まず、注意しておきたいのは、和歌史を述べるに当たって、定家は
まず、前半の歌論本文での和歌史に関する記述を、六歌人に対する
集・後撰・拾遺、下、後拾遺よりこなたざまの歌⋮﹂というように、
三
昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろ
勅撰集ごとに時代区分した上で記述しているのである。このことは、
定家の意識という点に注目して見ていくことにする。
きさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず。それよりこのかた、そ
を示していると考えられる。
定家が、歌集ごとというよりも、歌人や歌自体を基準にしていたこと
﹃近代秀歌﹄の和歌史観は、貫之が余情妖艶の体を詠まなかったこ
下り人の心劣りて、たけも及ばず、詞も賎しくなりゆく。いはむ
や近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字に言ひ続けむこと
とについての指摘から始まっている。この﹁余情妖艶﹂とは、﹃古今
の流を承くるともがら、ひとへにこの姿におもむく。ただし、世
をさきとして、さらに姿詞の趣を知らず。これによりて、末の世
後述される﹁花山僧正・在原中将・素性・小町﹂らはこの﹁余情妖艶﹂
集﹄序での業平評と小町評の文言を合わせた表現であるから、本文で
の代表歌人生言える。つまりこの記述からは、貫之の様式と業平・小
ども、大納言経言卿・俊頼朝臣・左京大夫顕輔卿・清輔朝臣、近く
は亡父卿、即ちこの道を習ひ侍りける基俊と申しける人、このと
えよう。.
町らによる様式とを、相対するものとして捉えているということだ言
の歌は、田夫の花の陰を去り、商人の鮮衣を脱げるが如し。然れ
もがら、末の世の賎しき姿を離れて、つねに古き歌をこひねがへ
時代が下り、貫之様式を受け継ぐ歌人が、歌の体裁ばかりにとらわ
り。この人々の思ひ入れて秀れたる歌は高き世にも及びてや侍ら
む。今の世となりて、この賎しき姿を些か変へて、古き詞を慕へ
してしまっていたことを述べる。その後を受けるのが、六歌人につい
ての指摘である。彼らは常に﹁古き歌﹂を庶幾し、﹁高き世﹂にも及ぶ
れて、歌の﹁姿﹂・﹁心﹂を理解しない亜流となり﹁賎しき﹂姿に堕
知らぬ人は、新しき事出で来て歌の道変りにたりと申すも侍るべ
かとも思われる秀歌を詠じたのである。この六歌人は、流派の別を越
る歌あまた出で来たりて、花山僧正・在原中将・素性・小町が後
し。ただし、この頃の後学末牛まことに歌とのみ思ひて、その
えた、親子または師弟という関係にある。また、俊頼、顕輔、俊成が
絶えたる歌のさま、わづかに見え聞ゆる時侍るを、物の心さとり
さま知らぬにや侍らむ。ただ聞きにくきをこととして、易かるべ
.
30
■
の上に立つものであるという主張を、和歌史全体を概観することで如
このことに対しても、自分たちは、﹁近き世﹂の六歌人と同様に、伝統
実にあらわそうとしたのではないだろうか。自分たちを客観的に和歌
それぞれ﹃金葉集﹄、﹃詞花集﹄、﹃千載集﹄の撰者を務めてはいるが、
史の上から見直し、位置付けを行うことは、﹃新古今集﹄撰集直後の定
この点は定家の撰歌意識に影響を与えていたようには思えない。これ
によっていない態度と、共通していると言える。
は、定家が和歌史を概観する際に、勅撰集ごとといった歴史的な区分
家にとっての関心事であったと考えられる。
それは﹁余情妖艶﹂という語が序における業平評と小町評に基づいて
﹃近代秀歌﹄の本文は﹃古今集﹄序を意識して書かれたものであり、
さらに﹁今の世﹂となり、定家を含めた新風歌人によって﹁余情妖
しき事出で来て歌の道変りにたり﹂とする﹁物の心さとり知らぬ人﹂
艶﹂の歌風が少し現れてきたことを述べる。これに対し、それを﹁新
いることからも知られる。﹁近き世﹂の六歌人が、﹃古今集﹄序の六歌
意味の最も大きなものは、前述のような﹁近き世﹂の六歌人の歌に対
がいること、また、わさと聞きにくい歌を詠む﹁後学末生﹂がいるこ
する姿勢であったのではないだろうか。彼ら六人の﹁つねに古き歌を
それ以上にこの六歌人を挙げる意味合いがあるように思われる。その
定家は、﹁近き世﹂の六歌人の評では、彼らの態度を﹁末の世の賎し
こひねがへり﹂という古典志向が、ひいては、定家自身の立場を表す
仙になぞらえて挙げられたと考えるのは妥当であろう。しかしながら、
き姿を離れて、つねに古き歌をこひねがへり﹂としていた。また﹁今
信条となっていたのである。
とに言及している。この部分には、定家の﹁今の世﹂への危機感の高
の世﹂になって現れた﹁余情妖艶﹂の体の背後にある新風の歌人の態
﹃近代秀歌﹄は、実朝の問いに対する返答として書かれている。和
まりが表明されていると考えられる。
来たりて﹂と評し、両者に対し、非常によく似た表現を用いているの
度として﹁この賎しき姿を些か変へて、古き詞を慕へる歌あまた出で
って、この﹁近き世﹂の六歌人の歌を秀歌例としてあげたのだろうか。
歌の初学者である実朝に示す答えとして、定家はどのような意図を持
歌の表現が平俗なものとなっていく中で、常に﹁古き歌﹂を理想とし
である。このような類似した表現で言い表すことによって、定家は自
て持ちつづけていた﹁近き世﹂の六歌人に、定家は、自分たちの歌風
分たちの和歌史上での位置を、﹁近き世﹂の六歌人に重ねようとしたの
﹁古き﹂歌に理想を求め、﹁高き世にも及びてや侍らむ﹂とする秀歌を
るのは当然の流れかもしれない。しかし、その先達に重ね合わせて見
を投影させていた。この意味では六歌人の秀歌を実例として登場させ
ではないだろうか。亜流があまねくなっている歌壇にあって、常に
詠じた彼ら六歌人の態度を、今の自分たちの倣うべき姿勢として捉え
せた自分たちの秀歌を挙げてもよいはずである。
たのではないだろうか。
また、定家ら新風歌人は、他から﹁新しき事﹂と捉えられていた。
’
■
31
継ごうとしたと取るのが自然であろう。また一方では、続く﹁今の世﹂
しているのであるから、﹁近き世﹂の六歌人は、業平・小町様式を受け
ている。この﹁末の世の賎しき姿﹂とは、貫之の亜流を指すことは明
想としたということは記されているが、どのような方法でどう詠んだ
についての部分で次のように言っている。
﹃近代秀歌﹄を受け取った実朝は、﹁今の世﹂の歌には接する機会が
か、というような具体的なことまでは言及されていない。その意味で、
今の世となりて、この賎しき姿を些か変へて、古き詞を慕へる歌
ではこの﹁古き歌﹂とは何を指すのだろうか。貫之様式の亜流を否定
六歌人の秀歌例が必要とされたと考えられる。また、﹁今の世﹂の歌人
あまた出で来たりて、花山僧正・在原中将・素性・小町が後絶え
らかである。それらから離れて﹁古き歌﹂を庶幾したというのであるα
と、﹁近き世﹂の六歌人とが共通に志向した﹁古き﹂歌をまとめるとい
多くあったに違いない。一方、﹁近き世﹂の六歌人の歌にっいては、ど
う秀歌撰も成り立ち得たであろう。事実、再撰本では、八代集全体か
たる歌のさま、わづかに見え聞こゆる時侍るを一後略一
うであろうか。﹃近代秀歌﹄本文中には、彼ら六人が古典的な歌風を理
らの抄出に改められているのである。しかしながら、この初撰本の段
重した歌を詠んだとする。ここでも﹁賎しき姿﹂とは貫之亜流と考え
﹁今の世﹂の歌人たちは、﹁賎しき姿﹂をやや変化させ﹁古き詞﹂を尊
ような流れを受けているか、ということを明確にする方を優先させ、
て問題ないであろう。その結果、歌風は業平・小町らの様式を受け継
階での定家は、﹁古き﹂ものの範囲を示すよりも先に、白分たちがどの
敢えて六歌人の詠による秀歌例にしたのではないだろうか。
花山僧正らの後、彼らの歌風は絶えており、﹁今の世﹂となり﹁わづか
町が後絶えたる歌のさま﹂と表現されている。傍線部に注目すると、
に見え聞∴﹂ゆる﹂までの問には、業平・小町の様式は見られなかった
ぐ詠みぶりとなったのだが、それは﹁花山僧正・在原中将・素性・小
いたのだろうか。﹃近代秀歌﹄本文では貫之様式と業平・小町様式とが
と解釈することもできる。こう取るのであれば、﹁近き世﹂の六歌人の
﹁近き世﹂の六歌人は、いずれも名を後代までとどめる歌人である
対立的に捉えられていることは先に触れた。この二者と﹁近き世﹂の
位置付けは先の理解と矛盾してくることになる。
こと宮言うまでもない。では、この六歌人を、定家はどのように見て
六歌人とはどのような関係にあるのだろうか。福田雄作氏は﹁経信以
従って、本文を読む限りでは、六歌人がどちらの流れを受けている
てはめて考えることが、果たして可能なのであろうか。
う問題は、ここでの定家の主張に沿ったものとは思えないのである。
が貫之様式、業平・小町らの様式のどちらを受け継いでいるのかとい
かということは、はっきりと決めがたいと思われる。つまり、六歌人
こい茅
った。﹂と述べている一注3一。このように、彼らをどちらかの様式に当
下の近代の名家の翼うたのは、貫之の風ではなくて余情妖艶の体であ
賎しき姿を離れて、つねに古き歌をこひねがへり。﹂という言い方をし
歌論本文において、六歌人を挙げた後に﹁このともがら、末の世の
’
■
32
だろうか。六歌人は、ただ形式を整えるばかりの亜流になるのではな
家を含めた﹁今の世﹂の歌人が取るべき態度を彼らに見たのではない
それよりも、﹁古き﹂歌に対する六歌人の姿勢自体を評価しており、定
と一言える。では、俊成は、経信をどのように捉えていたのだろうか。
定家は、俊成の経信に対する見方を踏襲し、同様の立場を取っている
定家はそれをそのまま受け継いで﹃近代秀歌﹄に挙げているのである。
た。俊成は﹃古来風躰抄﹄の秀歌例に経信の歌を三首撰入しているが、
る。まず﹃古来風躰抄﹄の記述にそって﹃後拾遺集﹄における経信の
﹃古来風躰抄﹄の﹃後拾遺集﹄についての評にそれを見ることができ
く、いつも﹁古き﹂歌を理想とし、それを作歌に活かしてきた生言え
る。彼らこそ、倣うべき偉大な先達であるとして、ここに名前を挙げ
風躰なりけん、ことに良き歌どもはさて置きて、挟間の地の歌の、
たのだと考えられる。
立場を確認しておこう。
げにまことにおもしろく、聞き近く、物に心得たる様の歌どもに
少し前々の撰集に見合するには、たけなども立ち下りにけるなる
ふうたい
て、おもしろくは見ゆるを、撰者の好む筋や、ひとへにをかしき
次に、六歌人の初めに名前を挙げている経信・俊頼にっいて、定家
︵金葉集・秋・一七三︶
①夕されば門田の稲葉おとづれて葦のまろ屋に秋風ぞ吹く
拾遺集﹄自体は、秀歌も見られるが新奇な表現の歌をも撰んでおり、
者という大役を通俊に奪われることになった。通俊を撰者とした﹃後
少し先追であるにも関わらず政治的な要因から、経信は、勅撰集の撰
かなきことなり。さればにや、難後拾遺といふ物ありけるとかや。
中檀言通俊卿参議の時、勅撰を承る生言へること、少しはおぼつ
べし。また、その御時、大塑言経信卿今少し先達なるを置きて、
がどのように捉えていたか、後半の秀歌例に抄出された歌を通して検
討していきたい。
まず、筆頭に挙げられた経信の歌から見る。次の三首が撰入されて
②君が世はっきじとぞ思ふ神風やみもすそ川の澄まむ限りは
になってしまっていた。このことを受けて経信は、後々まで影響を与
平凡な地の歌は、前々の撰集と比べ﹁たけなど立ち下りにける﹂もの
いる。
︵後拾遺集・賀・四五〇一
える﹃難後拾遺﹄を著した。これらの状況を踏まえて俊成は、次のよ
③沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづえを洗ふ白波
︵後拾遺集・雑四・一〇六三︶
うに言っている。
すがた
彼の大檀言の歌の風躰は、またことに歌のたけを好み、古き姿を
この三首は、定家が経信の代表作とした歌であるζ言える。しかし、
定家より早くこれらの歌を見出し、高く評価していたのは俊成であっ
.
一
33
見え侍りけんかし。
のみ好める人と見えたれば、後拾遺の風躰を如何ばかり相違して
②の歌は、﹃袋草紙﹄上において取り上げられ、次のように記されて
人﹂とされた経信らしい歌が撰ばれているということが言えよう。
この立場は、そのまま定家にも重ね合わせられるように思われる。こ
多く撰んだ﹃後拾遺集﹄と異なる立場であったことは明らかであろう。
あるということが指摘できよう﹂としている一注4一。新奇な表現の歌を
実例によって示し、経信について﹁やはり伝統的なものの延長線上に
の歌と古今集﹂の中で、経信詠が﹃古今集﹄を規範としていることを
伝統的な﹁たけ﹂を重んじていた。このことは北村杏子氏が﹁源経信
感を抱かせるものだったであろう、と捉えているのである。経信は、
に、先に見たような﹃後拾遺集﹄の歌風はどれほど自分との間に違和
して久保田淳氏は﹁それ一躬恒の歌・引用者注一には見出されなかっ
を踏まえて詠じた経信の自讃歌であったことが知られる。この歌に関
︵古今集・賀・三六〇、拾遺集・雑秋・一一一二・みつね一
住の江の松を秋風吹くからにこゑうちそふるおきつ白浪
また、③の歌は、同じく﹃袋草紙﹄上の記述により、
が名歌として誉れ高いものであったことを窺える逸話である。
この歌により、天皇の宝算が増長した、とするものであり、この一首
御云々。
歌。各感嘆して云、依此歌、帝王御賓算可塘長云々。遂七十七崩
是は承暦二年殿上歌合也。其後或人夢二唐装束女共隻居て詠吟此
いる一注6一。
の立場の相似こそ、経信を﹁近き世﹂の六歌人の筆頭に置いた一因と
経信は、﹁たけを好み、古き姿をのみ好める﹂人であるとし、それ故
なったのではなかろうか。以上のことから、定家が経信に対してどう
た明確な構図と鮮明な色彩感︿中略﹀で一首の世界を構成することに
首において、経信は、祝意をこめながら、晴の場にふさわしいポポの
い﹂ことを指摘している一注5一。但し安田氏は、この二首に関して、﹁両
となる、田園風物に取材した清新な叙景歌は、一首も撰入されていな
入集歌について、安田純生氏は﹁経信の和歌の新しさとして常に問題
となったのだろうか。
で最も高く評価したと見なし得る。どのような点が、他の二首との差
である。定家は後にこの歌を﹃百人秀歌﹄に撰入しており、三首の中
では、①の歌はどうであろうか。この歌のみ﹃金葉集﹄からの抄出
秀歌撰に撰ばれるべき評価を得ていた歌であることは窺える。
7一と評する。首肯すべきであろう。これらのことからも、この二首が
よって、新しい叙景歌の典型を打ち出したものであることは確か﹂一注
いう捉え方をしていたかという一端を見ることができると思う。
では改めて、撰入された歌について見ることにする。経信の三首の
ある力強い詠みぶりを示しているが、それが一般的に高い評価をかち
夕されば門田の稲葉おとづれて葦のまろ屋に秋風ぞ吹く
うち②、③はいずれも﹃後拾遺集﹄入集歌である。経信の﹃後拾遺集﹄
えた一因であろう﹂と述べる。つまり、秀歌例抄出に際して﹁晴の歌
−
’
34
集﹄に入集している源頼家の
秋風といへることをよめる﹂という詞書が付けられている。﹃後拾遺
この歌は﹃金葉集﹄において﹁師賢朝臣の梅津に人人まかりて田家
︵古今集・冬・三一七・読人しらず︶
ゆふされば衣手さむしみよしののよしのの山にみ雪ふるらし
てきた詞である。﹃古今集﹄から用例を挙げると、
集﹄において約六十の用例を数えることができ、古くから歌に詠まれ
次に、歌語という面から見てみたい。初句の﹁夕されば﹂は、﹃万葉
いるように思う。
師賢朝臣梅津の山庄にて田家秋風といふこころをよめる
一金葉集・秋・一八三一
やどちかき山だのひたにてもかけでふく秋風にまかせてぞみる
ゆふされば蛍よりけにもゆれどもひかり見ねばや人のっれなき
︵同・恋二・五六二・紀とものり︶
︵後拾遺集・秋・三六九︶
は、詞書から同じ歌会に詠まれたものといえるが、経信の歌の方は、
の寂しさがより増すように思われる。﹁門田の稲葉﹂・﹁葦のまろ屋﹂
に挙げた例では﹁さむし﹂、﹁っれなき﹂という語と共に用いられ、そ
は、経信のこの歌以前にはあまり歌われておらず、これ以降に、歌語
などのように詠まれ、夕暮れという時問の寂しさを感じさせる。ここ
息子である撰者俊頼であった。
として使われるようになった。また﹁風﹂が﹁おとづれて﹂と詠むも
撰者である通俊に撰ばれなかったのである。その後、﹃金葉集﹄におい
﹁夕されば﹂という詞からは、時間の推移を見ることができる。題
のも、この歌以前の例は少ない。経信詠は、﹁門田﹂、﹁稲葉﹂、﹁秋風﹂
て勅撰集歌となったのであるが、この経信詠を見出して撰入したのは
として与えられた﹁秋風﹂は、稲葉を揺らしながら音を立てて吹き過
など古くからの詞を用いながらも、新しい独自の続け方によって詠ま
ぎ、﹁あしのまろや﹂まで吹いてくる。その様子は、視覚、聴覚によっ
て感じることができ、田舎家にまで吹いてきた風は、触感としても捉
れており、そしてそれは、後の歌人に影響を与えることにもなったの
安田純生氏は、経信の歌の中で﹁さびし﹂または﹁さびしき﹂が詠
である。
えられる。この歌は、秋の一光景を感覚的に詠むことで、その結果、
﹁田家秋風﹂を見事に描きだした歌となったと言えよう。一首の中に
的に志向している﹂として、さらに﹁一方では伝統的発想の範囲にと
まれたものを検討し、それを通して﹁経信が寂蓼の世界をかなり意識
は、心情を表す言葉は詠みこまれていない。石田吉貞氏は、この歌の
秋風を﹁さびしさや悲しさを感じさせるよりは、むしろ爽涼を感じさ
域に取り入れようと腐心している経信の作歌姿勢が看取される﹂と述
どまりながらも、他方ではそれを乗り越えて、寂しさの美を和歌の領
せる秋風である。﹂と評している一注8一。確かに秋風の冷たさ、切なさ
などを言い表しておらず、石田氏のように爽やかさを感じることもで
きよう。しかし、この歌にはしみじみとした秋の物寂しさが表われて
’
■
35
べている雇9一。この﹁夕されば﹂の歌においては、古歌からの直接の
影響を見ることはできないが、古くから云統的に詠じられてきた詞を、
は確認できた。この歌は、主観的な詞を使うことなく、読む側に、秋
経信の息子である俊頼の歌は、七首が撰ばれている。この歌数は、
続いて、二番目に挙げられた俊頼について見ていきたい。
それ以前には見られない組み合わせにして、歌に詠みこんでいたこと
風を感じさせ、安田氏の言う﹁寂蓼の世界﹂を感じさせる一首である
六歌人の中で最も多い。そして大きな特徴として、俊頼詠のみに定家
n これは、幽玄に面影かすかにさびしきさまなり。
と言えよう。
︵千載集・秋上・二五九・皇太后宮大夫俊成︶
皿 これは、面白く見所あり、上手のしごととみゆ。
による次のような評語が織り込まれている。
に受け継がれている。この俊成詠は﹃千載集﹄の新しい歌風を代表す
w これは、心深く、詞心に任せて、まなぶとも言ひ続け難く、ま
1 これは、晴の歌の躰と申すべきにや。
る秀歌として知られるが、経信の歌に描かれた世界と共通するものを
ことに及ぶまじき姿なり。
夕されば野べのあきかぜ身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと
感じることができる。経信が目指した﹁寂しさの美﹂は、俊成、さら
それぞれ、二首ないし一首に対して述べられている一注10一。このように
経信によって歌われたこの寂蓼感は、後に歌われた俊成の
には定家ら中世の歌人へ継 承 さ れ て い く 美 で あ る ζ 言 え よ う 。
があると理解していたことが認められる。まず、この評語のみを見て
評語を加えているところから定家が、俊頼の歌にさまざまな詠みぶり
気づくこ1とは、1は評価すべき歌の姿の指摘にとどまっているが、後
定家は、﹁晴の歌人﹂経信の代表作とされる②、③の二首を秀歌であ
その意味で、貫之の歌風を正統に受け継いだ歌人と言い得る。しかし、
になるに従い、評語は歌人の技量にも及び、Wでは、﹁心﹂・﹁詞﹂に
ると充分認め、注目しているだろう。経信は﹁たけ﹂の高い歌を詠み、
定家は﹁夕されば﹂の歌のような叙景歌にこそ経信の真価が発揮され
いる。定家が、このwに該当する歌を最も高く評価していることは明
らかである。その歌は、
まで言及しており、その歌が﹁及ぶまじき姿﹂であるとして絶賛して
﹁詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め﹂という個所から確かめることが
であり、定家が最終的に﹃百人一首﹄において撰んだ歌であった一注u一。
憂かりける人をはつせの山おろしよ烈しかれとは祈らぬものを
たと見なしたのではないか。そして、経信のその姿勢は、定家自身が
できる。﹁近き世﹂の六歌人の初めに経信を配した理由はこういう点に
目指す方向でもあったと考えられる。それは﹃近代秀歌﹄本文中の
もあるのではないだろうか。
■
一
36
だろうか。
秋の寂箕とした世界を描き、そこに新しさを見出しているのではない
定家がnの評語に用いた﹁幽玄﹂について藤平春男氏は、﹁﹁幽玄﹂
この歌については後で見ていくことにする。
④山桜咲き初めしよりひさかたの雲ゐに見ゆる滝の白糸
は俊成の場合、白然の超俗感や孤独の寂蓼感が繊細な気分としてあら
1の﹁晴の歌の躰と申すべき﹂歌とされたのは次の二首である。
︵金葉集・春・五〇︶
る。定家の場合もそれとほぽ同様とみられる﹂としている一注12一。俊成
われているのを指し、遥かな美しいものへの憧憶が導き出す美感であ
がこのような歌を重んじていたことは、特に⑥の歌について、﹃後鳥羽
一千載集・賀・六一五︶
④は、﹃近代秀歌﹄再撰本・﹃秀歌体大略﹄・﹃百人秀歌﹄にも撰ん
れ程の寄たやすくいできがたしと申しき。﹂一注13一とあることからも窺
院御口伝﹄の記述に、﹁故土御門内府亭にて影供ありし時、釈阿は、こ
⑤落ちたぎっ八十宇治川の早き瀬に岩こす波は千世の数かも
でいることから定家が好んだ歌であることが窺われる。春になり咲き
1の﹁晴の歌の躰と申すべき﹂歌、ーの﹁幽玄に面影かすかにさび
うことができ、それは、定家にも共通する認識と言えよう。
始めた山桜を遠方より眺め、滝の白糸に見たてることで、春の生き生
川で、岩を越してゆく水の幾重もの波を、君の長寿になぞらえており、
きとした美しさを巧みに表現している。また⑤は、流れ落ちる急流の
とされる②﹁君が世は﹂、③﹁沖つ風﹂が、nには秋の物寂しい情景を
と考えられる。つまり具体的には、1には﹁晴の歌人﹂経信の代表歌
しきさま﹂を詠んだ歌という評には、前に見た経信の歌も当てはまる
ぶにふさわしい情景である生言えよう。
一首は躍動感に溢れている。両首に描かれたのは﹁晴の歌の躰﹂と呼
n﹁幽玄に面影かすかにさびしきさま﹂と評されているのは、次の
表現した①﹁夕されば﹂が相当すると言えるのではないか。俊頼の歌
るならば、定家が、俊頼の歌に、父である経信の歌風と共通する点を
を分類した評語の中に、経信詠を当てはめて捉えることができるとす
二首である。
⑥うづら鳴くまのの入江の 浜 風 に 尾 花 波 寄 る 秋 の 夕 暮
見出しているといえる。そこからさらに皿、wの特徴を挙げるという
一金葉集・秋・二三九︶
⑦ふるさとは散るもみじ葉に埋もれて軒のしのぶに秋風ぞ吹く
いたとは考えられないだろうか。
ことは、俊頼の歌風に、経信の歌風の枠におさまらないものを認めて
皿﹁面白く見所あり。上手のしごととみゆ﹂とされたのは、次の二
一新古今集・秋上・五三三︶
首である。
⑥は、鶉が鳴く真野の入江に、風が吹き、薄がなびいている秋の夕
秋風が吹いている寂しげな古里の光景を表現している。二首ともに、
暮を詠んでおり、⑦は散りゆくもみじに埋もれ、家の軒のしのぶ草に
−
■
37
一千載集・秋上・二八一︶
⑧明日も来む野路の玉川萩一﹂えて色なる波に月やどりけり
山おろしよ﹂が続く﹁烈しかれ﹂という詞と一つとなって、冬枯れの
りをささげたのが初瀬観音であったことを思わせる。また、﹁はっせの
のを﹂にかかる。一方では、﹁憂かりける/人をはつせの﹂として、祈
﹁憂かりける人を﹂は、意味としては下の﹁烈しかれとは祈らぬも
山から吹く風の激しさが表わされている。その激しい風の無情さはつ
一金葉集・恋上・四一六一
⑧﹁明日も来む﹂の歌は、玉川の波が花によって色づき、そこに月
れない人の心と重なり心情表現ともなっている。このように、挿入さ
⑨思ひ草葉末に結ぶ白露のたまたまきては手にもたまらず
光が映った美しい光景を描いている。⑨﹁思ひ草﹂の方は、思い草の
い、一首の意味を重層化しているといえる。
﹃後鳥羽院御口伝﹄では、俊頼について次のように評されている。
れた﹁はっせの山おろしよ﹂によって、それぞれの詞が互いに響きあ
がる景色全体というよりも、一節のおもしろさ、めずらしさにあると
俊頼堪能の者なり。寄の姿二様によめり。うるはしくやさしき様
れない恋人を詠んだ恋歌である。歌の眼目は、二首共に、目の前に広
いえる。そういう意味で、定家の﹁面白く見所あ﹂る歌という評にあ
も殊に多く見ゆ。又、もみくと人はえ詠みおほせぬようなる
葉末に白露がふとかかってもすぐにこぼれてしまうことに警えて、つ
てはまるのではないだろうか。
とされたこの歌は、﹁人はえ詠みおほせぬようなる姿﹂であるとされ
姿もあり。この一様、すなはち定家卿が庶幾する姿なり。︵傍線は
る。ただし、定家はただ詞が複雑に機能しあっていて、他の歌人には
では定家が、﹁心深く、詞心に任せて、まなぶとも言ひ続け難く、ま
︵千載集・恋二・七〇八︶
詠じ難いことのみをもって、この歌を評価したわけではないだろう。
引用者による。一
出典は﹃千載集﹄であり、俊頼自身が撰者であった﹃金葉集﹄に入集
錦仁氏がこの歌を﹁新古今期の歌の鑑賞法を適用しても、十分に耐え
ことに及ぶまじき姿なり。﹂と評し、最も秀歌であるとした歌について
していないことから、この歌は自讃歌として捉えられてはいなかった
うるだけの新しさと深さをもった歌﹂一注15一としている。幾つかのイメ
として﹁憂かりける﹂の歌を挙げている一注14一。﹁定家卿が庶幾する姿﹂
ようだ。また同時に、﹃千載集﹄撰者である俊成によって見出された歌
ージが重層化する世界をもつという、定家が好む﹁今の世﹂の歌風に
俊頼が詠む二つの歌風について述べているうちの後者︵傍線部︶の例
と言い得るであろう。﹃千載集﹄には﹁権中植言俊忠家に恋十首歌よみ
通じる面を、この歌に認めて、w﹁心深く、詞心に任せて、まなぶと
見てみたい。
侍りける時、いのれどもあはざる恋といへる心をよめる﹂という詞書
⑪憂かりける人をはつせの山おろしよ烈しかれとは祈らぬものを
が付されており、一首は題意をよくとらえた歌となっている。
−
■
38
このような歌を秀歌例として取り上げることは、定家ら自分たち新
したのだろうと考えられる。
も言ひ続け難く、まことに及ぶまじき姿なり。﹂として評して高く評価
け継ぎっっ、より一層の寂しさを表現し得ていると思われる。
に他の恋人の様子をも重ね合わせているのである。俊頼の歌の世界を受
た重層的なイメージに加えて、定家は﹁よそのゆふぐれ﹂として、さら
るのである。俊頼の歌での、冬の初瀬山のきびしさ、恋の悲しさといっ
では、定家自身は俊頼の歌から何を学んでいたのだろうか。ここで
のによる。但し、歌番号、ならびに秀歌例以外の歌は﹃新編国歌大観﹄
日本古典文学全集50﹃歌論集﹄一昭和五〇年四月・小学館︶所収のも
※なお、﹃近代秀歌﹄・﹃古来風躰抄﹄からの本文、秀歌例の引用は、
については、稿を改めてさらに考えていきたい。
定家が﹁古き﹂を踏まえて、どのような﹁新しき﹂世界を描いたか
風の歌風の立場を確かめる為に効果的だと言える。しかし、それと共
の意をもって捉えていたようだ。それは﹁近き世﹂の六歌人の中で、
に、時代を越えて新しさを感じさせる歌を詠じた俊頼を、定家は尊敬
は、その一例として、俊頼の﹁憂かりける﹂の歌が参考になっている
俊頼詠を最も多く撰んだところに表われているのではなかろうか。
と見られる定家の歌を一首挙げておきたい。
を使用した。
所収︶の頭注による。四八六頁。
藤平春男校注・訳﹃近代秀歌﹄︵日本古典文学全集50﹃歌論集﹄
と国文学﹄昭和三九年二月号一。
注1 島津忠夫﹁定家歌論の一考察−近代秀歌をめぐってー﹂︵﹃国語
としもへぬいのるちぎりははっせ山をのへのかねのよそのゆふぐれ
一新古今集・恋二・一一四二・定家朝臣︶
この歌は﹃六百番歌合﹄において詠じられた。判者俊成は﹁心にこめ
て詞たしかならぬにや﹂一注16一とこの歌を評した。心情が詞に表われて
福田雄作﹃定家歌論とその周辺﹄︵昭和四七年七月・笠問書院︶
3
いないというのであるが、これは一首が持つ内容の複雑さに原因があ
ると思われる。﹁はつせ山﹂に﹁果つ﹂をかけ、幾年を経て祈りつづけ
北村杏子﹁源経信の歌と古今集﹂︵﹃解釈﹄昭和五七年十一月号︶
4
安田純生﹁源経信の和歌﹂一﹃大阪樟蔭女子大学論集﹄第十三号、
5
たけれど、それもむなしく叶わずに終わった恋を嘆いている。その上、
昭和五一年三月︶
第二章皿﹁近代秀歌論考﹂一二六頁。
に描かれており、一首は濃い物語性を有している生言える。
どこかの恋人たちの逢瀬を告げる鐘の音が聞えてくることで、その嘆
俊頼詠も定家詠も、はっきりとした区切れを有しない点で共通してい
﹃袋草紙﹄の引用は﹃日本歌学大系﹄第二巻︵昭和三一年七月
6
きは、なおさら増すのである。嘆く姿と他の男女の姿が、同時進行的
る。つまり両首ともに、各句が断絶しつつも、全体として響きあってい
■
■
39
初版、平成二年六月六版・風問書房一による。以下同じ。
︵平成十年十二月・岩波書店︶による。
16 ﹃六百番歌合﹄の引用は、新日本古典文学大系38﹃六百番歌合﹄
章2俊頼の表現観一三四頁。
15 錦仁﹃中世和歌の研究﹄一平成三年十月・桜風社一第一篇第二
月・明治書院所収︶一四九頁。
︵しまむら かよこ/博士後期課程一年在籍一
7 久保田淳﹁源経信の和歌﹂︵﹃中世和歌史の研究﹄平成五年六
8 石田吉貞﹃百人一首評解﹄一昭和三一年四月初版、昭和五九年十
9 注5に同じ。
月二四刷・有精堂︶一九八頁。
10 それぞれの評語がどの歌を指しているかにっいて、検討が必要
ではあるが、本論文では藤平春男氏一﹃新古今歌風の形成﹄第二章
歌の研究﹄第一篇第二章2俊頼の表現観一二九頁一などの先行研
n二﹁定家八代抄﹂と﹁近代秀歌﹂二〇七頁一、錦仁氏一﹃中世和
究に従い、各々の評語は俊頼詠の二首または一首を指すものとし
て考えることにする。
u 島津忠夫氏が﹃新版百人一首﹄︵平成十一年十一月新版初版発
行・角川書店︶の中で、﹁﹁うかりける﹂の﹁小倉色紙﹂が存在す
ることから﹃百人一首﹄の形が、定家の手に成ることを示すとさ
れる﹂と述べるのに従う。
12 注2に同じ。
13 ﹃後鳥羽院御口伝﹄の引用は、日本古典文学大系65﹃歌論集能
楽論集﹄︵昭和三六年九月初版・岩波書店︶による。
14 二様のうちの前者﹁うるはしくやさしき様﹂の例は、nの﹁幽玄
に面影かすかにさびしきさま﹂としていた﹁うづら鳴くまのの入江
の浜風に尾花波寄る秋の夕暮﹂︵金葉集・秋・二一二九一である。
■
40
■
会
学
文
本
日
日
語
本
学
大
子
女
一
、し
、︶﹂ー
圭目
ム
ダ
ル
ト
ー
ノ
月
8
定家の歌一首
﹁踏迷ふ山なしの花﹂
の歌の解釈をめぐって
赤
司
司
叔
、マ
それは花の美しさのゆえではなく、次にあげるように、﹁隠れる山がな
い﹂﹁山なしの花﹂というように掛けて用いられ、遁世的な傾向の歌に
自身によって九十五番左に﹁内裏詩歌合﹂と題して撰ばれている。右
この歌は﹃拾遺愚草﹄には見えないが、﹁定家卿百番自歌合﹂に定家
創りあげた。
を与えた。否定的な用法を逆転させて、ほのかに明るい夢想の空間を
定家は、この﹁山なしの花﹂にかつて見られなかった美的存在と意味
︵近江御息所歌合・一五、古今和歌六帖・山なし・四二六八︶
よの中をうしといひてもいづくにかみをばかくさむ山なしの花
詠まれた。
の歌は、これも﹁内裏詩歌合﹂の﹁はしたかのとがへる山路越えかね
この歌には、不思議な空問が描かれている。定家のそれまでの歌に
踏迷ふ山なしの花道たえて行さきふかきやへのしら雲一注−一
てっれなき色の限をぞみる﹂という歌であり、判者である順徳院は右
詠まれた空問とも少し趣きを異にしている。今までだれも踏みこんだ
の歌を勝としている。この﹁内裏詩歌合﹂は残存していないが、建暦
この歌の中心的イメージとなっている﹁山なしの花﹂は﹁山桜﹂に
定家自身も気にいっていた歌であったのであろう。
卿百番自歌合﹂を結番した時点で、彼の代表作として撰んでいるので、
もしれない。ともかく建保四年︵二二六年、五十五歳一二月、﹁定家
かつてわたしはこル歌を﹁旅の歌﹂として捉えてみた一注2一。しかしこ
題詠の方法からも逸脱している。一体この歌の主題はなんであろうか。
化の仕方は定家が説いてきた本歌取の方法とも違い、また、伝統的な
来のかたちや用法と変わっている。少しずつそれている。そしてその異
んなふうに詠まれたことはかつてなかったし、ことばの一つ一つが、従
ことのない空問、見知らぬ世界が表現されている。﹁山なしの花﹂がこ
較べて歌に詠まれることが少なく、僅かに取り上げられたとしても、
二年︵一二二一年、五十一歳︶の頃、順徳院が詩歌合に定家の歌を頻
年
01 りに召されたという記事が﹃明月記﹄にみられるので、この頃の作か
20
号
3
第
文
語
、︶﹂1
一
、し
圭目
■
■
41
れでは﹁眺望﹂であろうか。それもすこし違うようである。﹁眺望﹂な
しない。﹁旅の歌﹂の本意では把握しきれない何かが残るのである。そ
こで描かれる旅人は、都を振り返りもしないし、行く先を急ごうとも
から求めてきた詩的空問への志向の延長として捉えてみたらどうであ
とのつながりを示すものはなにもないのである。では、定家が若い頃
という、動機や視座が提示されるが、この﹁踏み迷ふ﹂の歌には現実
はなぜ、どのようにして山に入るのか、どこから、なにを眺望するか
ろうか。
五十になった定家の描く空問は、若い頃に創り出した空問とはその
へのしら雲﹂によって遮られ、深さの方向へ往還する。﹁内裏詩歌合﹂
ら視線が外の世界に向かうのに対して、この歌の視界は、途中で﹁や
としてあるので、詩歌合特有の題はあったに違いない。この時期に行
二十代後半の文治期にかけて見られたのは、次の歌のように、古里の
構想力においてだいぶ隔たりが認められる。二十代前半の壽永期から
庭の片隅に取り残されたように咲いている童や花橘であり、閉ざされ
われた詩歌合の題を見ると、建仁三年八月一日に良経第で行われた詩
秋の日のうすき衣に風たちて行く人またぬをちのしら雲
は内密性への志向が顕著に見られた。
た空問、過去の世界に置き去りにされた空問が描かれている。そこに
歌合は散逸しているが、﹃拾遺愚草下﹄に﹁轟中眺望﹂と題して、
︵摂政殿詩歌合・轟中眺望・二六八四︶
ふるさととあれゆく庭のっぽすみれただこれのみや春をしるらん
という歌がみられ、同じ時の﹃拾遺愚草下﹄に収められた歌一二一五
三一の詞書に、﹁摂政殿にて歌を詩にあはせらるべしとて、同題を二首
︵拾遺愚草員外・堀河題百首・春廿首・六八六、二十一歳︶一注3一
一拾遺愚草上・閑居百首・夏十五首・三二六、二十六歳一一注4一
ふるさとは庭もまがきもこけむして花たちばなの花ぞちりける
よませられし詩歌合とかやの初也、此後連連有此事﹂とあることによ
若い頃の一﹂のような空問への志向には、逆に作者の孤独や寂蓼が表明
って、この頃から﹁詩歌合﹂は流行したらしい。元久二年六月の﹁元
ているが、承暦二年五月十一日の﹁内裏詩歌合﹂の題は、﹁山居春
久詩歌合﹂の題は、﹁水郷春望﹂と﹁山路秋行﹂の二題であり、散逸し
されていた。しかしこの﹁踏み迷ふ﹂の歌にはもはやそのような退嬰
また、三十代後半に制作された有名な一首、
の緊りはない。
曙﹂・﹁水郷秋夕﹂・﹁羅中眺望﹂の三題であり、建保元年二月の
すると、この詩歌合の題もそれに類するものであったろう。
一仁和寺宮五十首・春十二首・一七三八、三十七歳一
春の夜の夢のうきはしとだえして峯にわかるるよこ雲の空
﹁内裏詩歌合﹂の題は、﹁山中花夕﹂と﹁野外秋望﹂の二題である。と
山中に踏み入るという主題と、﹁眺望﹂題は、新古今時代に特に好ま
と、この﹁踏迷ふ山なしの花道たえて行さきふかきやへのしら雲﹂を
れたものであった。しかし、この﹁踏み迷ふ﹂という歌の世界はそう
いう類いの題では処理しきれないものを内包している。これらの歌に
’
−
42
比較してみると、第三句が﹁て止﹂で﹁よこ雲の空﹂・﹁やへのしら
雲﹂で終る表現のかたちはよく似ており、空問構成も似ているようで
あるが、どこかが違うのである。﹁春の夜の﹂の歌において﹁とだえし
て﹂は孤立した時間一注、一に迷い込むのであり、この﹁道たえて﹂は
明してみたい。
二
くは﹁ふみまどふ﹂として用いられており、﹁惑う﹂︵心が混乱する︶
﹁ふみまよふ﹂は、山中などに踏みこんで道に迷うことである。古
﹁踏み迷ふ﹂という冒頭から、一首の世界は日常の世界と距離をも
という意味と、道に迷うという意味を両方かけて用いることが多かっ
隔絶し た 空 問 に 踏 み 迷 う の で あ る 。
つ場所で展開される。つづく﹁山なしの花﹂は山中に白く咲いている
たが、道に迷うという意味だけをもたせるのは定家の頃からである。
しらがしの雪もきえにし葦引の山ぢを誰かふみ迷ふべき
返し
︵後撰・雑三・一二〇五・大輔︶
道しらぬ物ならなくにあしひきの山ふみ迷ふ人もありけり
答が見られる。
るふみをもてたがへたりければ、っかはしける﹂として次のような贈
﹃後撰集﹄に、﹁大輔がざうしに、あっただの朝臣の物へっかはしけ
﹁ふみまどふ﹂の例をっぎにあげてみる。
花の風景なのだろうが、実際の風景というよりは、山なしの花だけが
クローズアップされ、白いイメージとして抽象されている。つづく
﹁遺たえて﹂という表現は、ますますこの空間を隔絶したものにし、山
○
なしの花を孤立させ、際立てる。末句﹁やへのしら雲﹂という表現は
O
﹁やまなしの花﹂と音韻の上からも交響し呼応しながら、同時に山なし
の密度を濃いものにしている。また﹁行さき﹂は﹁とほき﹂でなく、
の白いイメージと八重の白雲を重層させることによって、この空問内
﹁ふかき﹂であるところにも、現実世界の方向に水平に向かうのではな
○ ○
ている。読み終えてわれわれが感ずるのは、山なしの花とそれを幾重
瞼仕立てにした。この﹁迷ふ﹂の読みを﹃日本国語大辞典﹄では、﹁ま
る。﹁ふみ﹂︵文︶を届ける曹司を間違えたことを﹁山ふみ迷ふ﹂と比
﹃新編国歌大観﹄の索引では両首ともに﹁ふみまどふ﹂とよんでい
︵同・一二〇六・敦忠朝臣︶
にも包む白雲のイメージである。そして遥かな世界に心を解放しえた
よふ﹂と﹁まどふ﹂と両様に読んでいる。すなわち敦忠の歌を﹁ふみ
みまよふ﹂と音韻の上でも響き合って、現実との距離をますます隔て
く、深さの方向へと向かうのである。そして﹁ふかき﹂は初句の﹁ふ
かつての定家が描いた空間の息苦しいような閉塞感は認められないの
まよう︵踏迷︶﹂の用例の中に、大輔の歌を﹁ふみまどう︵踏惑一﹂の
自由な気分であり、さらにふかぶかとした安らかさである。そこには
である。それはなぜであろうか。以下表現に即しながらその理由を解
.
’
43
﹁間乱﹂と記して、衣服の﹁ほつれ﹂を意味している。﹃和名類聚抄﹄
︵巻七・二一六五︶
ちなみに手元にある﹃後撰集﹄を見ると、ノートルダム清心女子大学
一二一︶﹁給布類﹂には﹁枇 万与布、一云与流﹂とある。この﹁よる﹂
用例の中に入れており、統一がとれていなくておかしいと思われる。
蔵黒川文庫本一注6一にも、鳥取県立図書館蔵承安三年奥書本一注7一にも
というのは織糸がゆるんで一方に寄るということなのであろうか。も
風の音の 遠き我妹が 着せし衣 手本のくだり まよひ来に
う一首﹁まよふ﹂の例をあげてみよう。
﹁ふみまとふ﹂とある。﹃日本国語大辞典﹄は読みの誤りだけでなく、
みまよう一踏迷︶に同じ﹂とあり、﹁ふみまよう﹂の項にはやや詳しい
語釈にっいても納得のいくものではない。﹁ふみまどう﹂の項には﹁ふ
よふ﹂は語源が違うのである。
けり ︵巻十四・三四五三︶
﹁ふみまどふ﹂は定家以前の用例はほとんど﹁踏み﹂と﹁文﹂を掛
語釈があって﹁踏みまどう﹂と結んでいる。﹁まどう﹂と﹁まよう﹂は
のである。
けて使われている。
いう意で、これも防人などの歌である。このように﹁まとふ﹂と﹁ま
﹁まどふ﹂は、恋の山路に惑うというように、恋の歌に用例が多く
いくたびかふみまどふらんみわの山すぎあるかどはみゆるもの
遥かに遠い妻が着せてくれた衣の手首のあたりがほつれはじめた、と
みられ、また、﹁人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるか
ったので、古歌の用例について﹁同じ﹂というのがそもそもおかしい
な﹂︵後撰・雑一・一一〇二・兼輔一のように、﹁心の闇﹂に惑うとい
から︵宇津保・二 藤はらの君、新千載・恋一・よみ人しらず一
現在では混同して用いられているが、和歌においては元来別の語であ
う用法もみられる。﹃千載集﹄の頃には﹁こひぢにまどふ﹂と﹁こひぢ
返歌がない歎きの歌である。
妹背山ふかき道をばたづねずてをだえの橋にふみまどひける
﹁文﹂と﹁踏み﹂を掛けて求婚者たちの懸想文に対して、あて宮の
一源氏・﹁藤袴﹂巻・柏木︶
にまよふ﹂は両方用いられるようになるが、﹁まとふ﹂と﹁まよふ﹂の
﹃万葉﹄に﹁まとふ﹂の用例として、
法の師とたづぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまどふかな
原義は別の意味を持っていたようである。
現にか 妹が来ませる 夢にかも 我か惑へる 恋の繁きに
﹃源氏物語﹄の二例をあげてみたが、前の歌は、玉葛と姉弟である
︵同・﹁夢浮橋﹂巻・薫︶
︵巻十二・二九一七︶
表している。一方﹁まよふ﹂の用例としては、
ことも突きとめないで、文をおくり、遂げられない恋の道に踏み惑っ
﹁惑流﹂と記し、﹁恋の激しさのために夢を見て惑乱している﹂さまを
今年行く 新島守が 麻衣 肩のまよひは 誰か取り見む
■
’
44
の﹁ふみまどふ﹂も比楡的表現である。
あったが、思わぬ恋の路に踏み惑ってしまった薫の述懐であろう。こ
た柏木の述懐であり、後の歌は僧都を法の師として訪ねてきた山道で
一寂身集・二一二一一
ふみまよふすゑのの原は遠けれどっっみのこさぬ夕立の雲
かな ︵浄照房集・二一
ふみまよふたけのはやまのゆふまぐれいりてはしげきこひのみち
︵同・六〇〇︶
ふみまよふ山もかぎりの有りければなれぬる雲に袖ぞわかるる
﹁ふみまよふ﹂の用例が勅撰集に見えるのは、﹃新千載﹄と﹃新拾
遺﹄だけであり、この二例もっぎに見るように、和歌の道に迷うとい
う比瞼である。
山や野であり、時刻は夕暮れである。仏道や恋の道に迷う意も掛けて
定家の子の世代の歌人たちのこれらの歌において﹁ふみまよふ﹂のは
あるが、それらは背後にかくれ、その風景の中をさまようことにむし
一新千載・雑中・一九九三・藤原雅顕一
しき島の道はたたしき道にしも心づからやふみまよふらん
ろ安んじているようなところがある。後二首は遠い雲が点景として描
和歌の浦にかよふばかりの道はあれど昔の跡にふみまよふかな
︵新拾遺・雑中・一七七六・院一
かれており、はるかな別世界にまぎれこんだ感がある。定家のこの歌
しかし﹁まよひ﹂の項には﹁まとひ﹂も見るようにと指示している。
以前の和歌については、﹁まどふ﹂と読み、﹁まよひ﹂と区別している。
別のことばであった。さすがに﹃新編国歌大観﹄の索引は、﹃千載集﹄
以上のように、平安朝の和歌においては﹁まよふ﹂と﹁まどふ﹂は
の方法を受け継いだものと考えてよいのではなかろうか。
二首とも述懐の歌であり、前の歌の作者雅顕は、飛鳥井雅明の男で
一二七八年に没している。後の歌は弘長元年一一.二六一︶に為家と贈
答したものの返しであり、当時の院は後深草院である。ちなみに為家
の歌は、
である。ここであげた二首は定家の以後である。定家はまったく新し
伝へくる庭のをしへのかたばかり跡あるにだにまよひつつ
八︶・︵一〇二一︶のように﹁まどふ﹂と同じようなものもあるが、
﹁まよふ﹂の勅撰集の初出は﹃千載集﹄である。闇に﹁まよふ﹂︵九九
意味をはっきり区別して用いているものもみられるようになる。
い詞を、新しい用法で使った、ということができる。
勅撰集以外の用例も次に挙げてみるが、定家以後のものである。
︵千載・冬・四五五・二条院︶
雪つもるみねにふぶきやわたるらむこしのみそらにまよふしら雪
あしたづの雲ぢまよひしとしくれて霞をさへやへだてはっべき
︵建保二年九月、月卿雲客妬歌合・廿一番右・深山雨・雅経朝臣︶
ふみまよふやまぢのこけの色ぞこきわがそでほさぬはるさめのころ
ふみまよひたつきもしらぬ山人の袖もしをりの雨のゆふ暮
一光経集二一二一︶
.
■
45
あしたづはかすみをわけてかへるなりまよひし雲ぢけふやはるらん
﹃源氏物語﹄﹁総角﹂巻に大君が部屋に忍び込んだ薫から身を隠す場
前だけが並べられている。
面に、
︵同・雑中・一一五八・俊成︶
一同・同・一一五九・定長一
げに何の障りどころかはあらむ、ほどもなくて、かかる御住まひ
とある。部屋も狭く、問仕切りも頼りなく、女房たちも薫の味方とい
のかひなき、山なしの花ぞのがれむ方なかりける。一注9一
さは
なおテキストの文字を読み誤る例として、平安時代の和歌における
﹁まよふ﹂と﹁まどふ﹂を取り上げて論じた小松英雄氏の精細な考察が
ある一注呈。
う状態では、大君の逃れるすべがないのである。ここでものがれる山
がない︵山なし一と掛詞的に用いられている。
の早い時期の用例として先にあげた、
所一山一がないという意味で詠まれることが多かった。﹁山なしの花﹂
﹁やまなしのはな﹂は、世問から遁れて身を隠そうとしても隠れる
との交錯が見られる。
み迷ったともとれる。ここには視覚的なイメージと心理的なとまどい
道に迷って山なしの花に出遭ったとも、山なしの落花のために道を踏
﹁踏迷ふ山なしの花﹂という詞つづきは、﹁山﹂が掛詞になって、山
定家も若い頃︵建久元年︶に、
うニュアンスがあって、わずかであるが花のイメージが喚起される。
ん﹂と詠んでいるので、咲いていれば身を隠すことも出来たのにとい
とになっている。しかし、実際に花の散るのを見て、﹁などちりぬら
この歌の発想も何処にも身を隠す場所がないという厭世的な観念がも
はな ︵万代集・二八一四︶
しばしだに身をかくすべきかたぞなきなどちりぬらむやまなしの
を見て﹂という題の歌である。
次は平康頼の﹁後白河院法花堂にまかりて、なしのはなのちりける
よの中をうしといひてもいづくにかみをばかくさむ山なしの花
︵拾遺愚草員外・一句百首・春三十首・一二七︶
あしびきの山なしの花ちりしきて身をかくすべき道やたえぬる
三
という歌が見られるが、﹃古今和歌六帖﹄第六・木部において、﹁なし﹂
首、その中、﹁やまざくら﹂も十四首みられる。﹃枕草子﹄には﹁花の
あふち
木ならぬは﹂︵三八段︶の中に、﹁棟の木。山橘。山梨の木。椎の木﹂
に白い花のイメージがある。花が咲いている時には、その木の下にす
付しているが、﹁ちりしきて﹂の表現には、康頼の歌よりももっと豊か
と詠んでおり、山なしの花に﹁身をかくすべき﹂と、伝統的な意味を
は三首、﹁山なし﹂題は一首だけである。ちなみに﹁さくら﹂は六十七
とあって、花が咲かない木、また花が咲いても目立たない木の中に名
−
46
一
っぽりと隠れることが出来たが、今は花が散ってしまって、木の本に、
落花が白い輪を描いている。﹁身をかくすべき道やたえぬる﹂には﹁踏
迷ふ山なしの花道たえて﹂の世界へ一歩を進めている。しかしこの
一夫木和歌抄・梨・弘長四年毎月一首中・二二九四四・為家︶
山なしの花のしら雪ふるさとの庭こそさらに冬ごもりけれ
これらは人に知られずに咲いている花を詠んでいる。次にあげる
足びきの山なしの花さきしよりたなびく雲のおもかげぞたっ
れる。
﹃古今和歌六帖﹄題による﹃新撰和歌六帖﹄の歌にも定家の影響が見ら
に安らぎはない。
︵新撰和歌六帖・やまなし・二四〇六・家良︶
﹁道やたえぬる﹂には消極的な困惑の気持も感じられて、まだこの境地
はなをみて﹂と題する次の歌が見られる。
︵同・二四〇七・為家一
さきわたるおもかげ見えて春雨の枝にかかれるやまなしのはな
実際に山なしの花を詠んだものとして、能因の﹁かひにて山なしの
かひがねにさきにけらしな足曳のやまなしをかの山なしのはな
これら定家の弟子たちの歌を並べてみると、定家の﹁踏み迷ふ﹂の
いとひてもいづくにしばしやどからんうき世のほかの山なしのはな
歌の﹁山なしの花﹂がどのように読まれ、解釈されていたかが窺われ
この歌は、甲斐国で山梨の花を見て詠んだものであるが、﹁櫻花咲き
一能因集・四二︶
花そのものの美しさで山梨の花を詠んでいるものに俊頼の次のよう
る。これらの歌には、定家の歌にはなかった﹁おもかげぞたつ﹂﹁おも
■
な歌がある。﹁なしのはなさかりなりけるを見てよめる﹂という詞書が
かげ見えて﹂などの表現がみられ、この﹁おもかげ﹂は定家の歌がも
︵同・二四〇八・知家︶
あって、
たらした幻想であり、それは﹁山なしの花﹂に新しいイメージを添え
にけらしな足曳の山のかひより見ゆる白雲﹂︵古今・春上・五九・貫之︶
桜あさのをふのうらなみ立ちかへりみれどもあかぬ山なしの花
ている。と同時にかれらは、定家のこの歌に次にあげる俊成の歌に共
47
’
︵散木奇歌集・春部・一八三、新古今・雑上・一四七三、第四句
通するものを感じ取り、それを重ねて理解していたのではなかろうか。
はな ︵同・二四〇九・信実︶
﹁みれどもあかず﹂︶
おもかげに花のすがたをさきだてていくへこえきぬ峰の白雲
しかすがに世をいとひえぬかくれがよなにぞはありてやまなしの
定家以後の歌に﹁山なしの花﹂が詠まれている例をあげておこう。
という歌と、花を遠望しての推定とい・︸一で同じパターンである。また、
咲きぬともたれかはしらん春霞たなびくかたは山なしの花
一新勅撰・春上・五七、崇徳院近衛殿にわたらせ給て、遠尋山花と
﹁山梨岡の山梨の花﹂という繰り返しの技巧も新しいものではない。
一土御門院御集・木名十首・三二一一
いふ題を講ぜられ侍りけるによみ侍りける・俊成︶
と重なるが、同時に無限に憶れる心をも表している。
求める心にうかぶ心象の花である。末句﹁峰の白雲﹂は花のおもかげ
であった。次に貫之の歌三首をあげてみよう。
山野に花を訪ねて道に迷うという発想は、﹃古今﹄以来伝統的なもの
ら定家の歌は漢詩のイメージも加わって更に新たな展開を見せている。
経信の﹁花のおもかげ﹂と俊成の﹁おもかげの花﹂の系譜を受けなが
一新古今・春下・一四八・題しらず・経信︶
故郷の花のさかりはすぎぬれどおもかげさらぬ春の空かな
﹁花のおもかげ﹂を詠んだ先雌として、経信の次の歌が挙げられる。
もしそうだとすると定家の﹁踏み迷ふ﹂の歌は、﹁遠尋山花﹂に近いイ
あづさゆみはるの山辺をこえくれば道もさりあへず花ぞちりける
メージの世界として受けとられていたのであろう。
一古今・春下・一一五・貫之︶
春ののにわかなっまむとこしものをちりかふ花に道はまどひぬ
︵同・一一六・貫之︶
︵同・一一七・貫之︶
似た表現に﹁あとたえて﹂というのがあるが、﹁道たえて﹂と﹁あとた
﹁道たえて﹂も新古今時代以前はあまり用例を見ることが出来ない。
やどりして春の山辺にねたる夜は夢の内にも花ぞちりける
二首目は、落花のために道がわからなくなったというのであるが、
降ったり、住人が不在になったりして訪れる人が絶えるのであって、
って、人の訪れが絶えることを意味している。﹁あとたえて﹂は、雪が
そこには時問的な経緯が含まれるのに対して、﹁道たえて﹂は空問的な
えて﹂はかなり意味が違う。﹁あとたえて﹂の﹁あと﹂は、﹁跡﹂であ
にも花が散るというのも幻想的な風景の中に陶酔している様子が表現
隔絶を意味する。とくに第三句にある場合にそれは強調される。先に
落花の乱れ散るイメージが美しく、困惑よりもその世界の中に浸って
されている。第一首目は志賀の山越をした時に遇った女性たちに贈っ
挙げた定家の歌に、
いるようである。第三首目の春の山辺に寝た夜の、闇の中にも夢の中
た歌であり、第三首目も、山寺に詣でた時によんだものである。第二
の末句に﹁道やたえぬる﹂があるが、この場合と第三句に﹁道たえて﹂
あしびきの山なしの花ちりしきて身をかくすべき道やたえぬる
これらの歌とさきにあげた俊成の歌﹁おもかげに花のすがたをさき
が初句にある場合も第三句ほどは強くない。
がある場合を較べると、断絶感がまったく異なる。また﹁道たえて﹂
実の花である。
だてていくへこえきぬ峰の白雲﹂を比較してみればおのずとその違い
首目には﹁寛平御時きさいの宮の歌合の歌﹂と詞書があり、これも現
が浮き出てくるであろう。﹁おもかげの花﹂は現実の花ではない。花を
■
’
48
が、初句にあるので、第三句にあるほどは断絶感がない。新古今時代
という歌が初句に﹁道たえて﹂があるもっとも古い例としてみられる
︵堀河百首・譲・九三二・師頼︶
道たえてひともたづねぬ松の戸に冬の夜すがら籔おとなふ
﹁堀河百首﹂の、
さみだれのふりにしさとはみちたえてにはのさゆりもなみのした
通路も絶たれたのであろう。
秋の夕闇のなか、墓に詣でて詠んでいる。塚の道が絶え、死者との
ふやみ ︵聞書集・一一〇・はかにまかりて一
おもひいでしをのへのつかのみちたえてまつかぜかなしあきのゆ
変わらない用法である。
一治承二年・廿二番歌合・閑庭秋来・一四・因幡︶
みちたえて野もせとあれし庭の面に秋のあはれは尋ねきにけり
うつのやまうつつかなしきみちたえてゆめにみやこの人はわすれず
ら孤立している。閉ざされた空間である。
古里の庭の小百合は下草に覆われ、五月雨に降り込められて外界か
.
くさ ︵秋篠月清集・治承題百首・五月雨・四二一︶
に入って初句に﹁道たえて﹂がある例はわずかにみられるが、あと二
道絶えてまだ雪きえぬ山ざとは花はさくやととふ人もなし
︵同・一四四一、水無瀬殿恋十五首歌合・轟中恋・四八七一
49
−
例示してみよう。
︵正治初度百首・春・一二一四・隆信︶
思ひとくこころの末もみちたえて猶ゆめふかし雪のあけぼの
︵拾玉集・五四三五・左大将殿一
これらの例は﹁あとたえて﹂とあまり変わらない用法であり、第三
二首ともに良経の歌である。前の歌は、恋人との音信が絶えた旅中の
句の﹁道たえて﹂ほどの断絶は感じられない。第三句に﹁道たえて﹂
現実と、ギれ故に広がる夢の世界を表し、後の歌は、良経の乳母の尼
雪に埋もれたために、かえって夢の世界が深いものになるというので
がある例が定家にもう一首みられる。
あろう。現実の道が絶えたところから展開される別次元の世界である。
が亡くなった年の雪の朝、慈円と交わした哀傷である。東山の墓地が
これは恋の通い路が途絶えたのである。定家より少し古いところでは、
ふみ分くるをざさがすゑも道たえて庭も離も苔生ひにけり
︵拾遺愚草・初学百首・恋・七七︶
重家の歌に、
︵壬二集・正治二年院百首・山家・四八七︶
もろともにゐなのささ原道たえてただふく風の音にきけとや
︵重家集・二二二一
冬をまつをののすみやきみちたえてかへりてゆきをいとふころかな
雪つもるみねの山寺みちたえて軒ばの樒もとつはもなし
︵同・前内大臣家・山寺雪・二六六四︶
とあり、雪のために道が不通になって、炭焼きにとって歓迎すべき冬
の雪が厭わしいものになったというのであり、﹁あとたえて﹂とあまり
ってこの山寺はますます孤立したものになる。
この家隆の二首は、現世から隔てられた山家であり、さらに雪によ
夕暮は雲にしをりの道たえて名をだにしらぬ鳥の一こゑ
詩歌合﹂の一首として作られた。残存していないが、漢詩的な題があ
り、左には漢詩が番えられているはずである。当然のことながら漢詩
文の世界と共通するなにかがあるであろう。たとえば﹃文選﹄上﹁遊
寂蓮の前の歌は見知らぬ世界に迷いこんだ旅の夕暮れの不安であり、
一建仁元年二月老若五十首歌合・冬∴二八九・寂蓮一
的な美の境地を重ね合わせたのであろう。
中国の詩文を愛読していたから、和歌の山路に花を訪ねるという伝統
念を﹁玄空﹂に解放する仙境を求めたものである。定家はこのような
二
す じんけい た
都令人運絶﹂ 都べて人運をして絶えしめ、
二
たうんろ ?つ
唯使雲路通。 唯だ雲路をして通ぜしむ。
二
しは
とある表現などを想起させる。この詩は、外物に累られることなく、
覧﹂にみられる沈休文の﹁遊沈道士館﹂﹂一注10一の末尾に
後の歌は麓の庵は雲に囲まれて道がたえ、峰には白雪が降りはじめて、
ここでおなじような詩歌合で詠まれた歌、
定家と同時代に第三句﹁みちたえて﹂の用例が急に多くなり、それ
而上的な方向へ向かうものとして使用されていることを指摘したこと
た歌語は、和歌的な叙景としてではなく、自然現象から抽出されて形
を想起してみよう。わたしはかつてこの歌を取り上げて、素材となっ
いほりさすふもとは雲に道絶えてなほしもいかにみねの白雪
句﹁行末は﹂一
これからの冬の孤立が思いやられるというのである。次の歌も薄を植
秋の日のうすき衣に風たちて行く人またぬをちのしら雲
一寂蓮法師集・御室五十首・二五六、御室五十首・旅・八五三・初
えた人は故人となって、過去と現在の道が絶たれたのであろう。
︵摂政殿詩歌合・轟中眺望・二六八四一
は中世を通じて見られる傾向である。旅の歌や、山家などの題の歌に
がある一注11一。光・風・雲などは極度に単純化され、エレメントのよう
おもい
一建仁元年八月和歌所影供歌合・故郷虫・一八八・家長一
たがうゑし一むらすすき道たえて虫の音しげきのべと成るらん
夢と現、心と心の通路などがとだえる。﹁みちたえて﹂の様相はさまざ
多く見られる。山家と里との道、都と旅先との交信が絶え、昔と今、
によるとして、漢詩文の典拠を指摘した。﹁踏み迷ふ﹂の歌には具体的
に対応する漢詩文はないが、伝統的な歌語の用法を少しずつ変容し、
なことばになっている。それは漢詩の文脈に即した読み方をしたこと
そしてそれは、中世が辿ることになる無常への道程でもあった。
異化して見知らぬ空間を創り出す構想力は、やはり漢詩から学んだも
まであり、それは、孤高や寂蓼を求める求道者や旅人の道なのである
このように﹁みちたえて﹂の考察をしたあとで、定家の﹁踏迷ふ山
のであろう。また、第三句が﹁て止﹂であることも漢詩からのなんら
が、っきっめてゆけばそれはまちがいなく死に至る道なのでもある。
なしの花道たえて﹂の歌にもう一度もどってみよう。この歌は﹁内裏
−
■
50
かの影響があるに違いない。見尾久美恵氏は筆二句が﹁て﹂の場合の
記﹄に見られる。
る。﹁ゆくさきとほき﹂という表現が為家の妻、阿佛尼の﹃十六夜日
空問は次につづく﹁やへのしら雲﹂によって幾重にも包み込まれてい
は垂直の方向を指すものである。山なしの花の咲いている山中のこの
旅の歌であれば当然水平の方向に視線は向かうであろう。﹁ふかし﹂
︵十六夜日記・三︶
うちしぐれふるさとおもふ袖ぬれて行くさきとほき野路のしの原
表現について、八代集の使用例の推移を調べ、﹃新古今﹄、とくに定家
に多くなることを指摘し、そこに漢詩の対句表現との関わりを論じて
いる一硅一。
定家の表現の構造を考える上で、かなり有効である。定家の場合、上
るのであり、その方向感覚が深さを感じさせるのである。それはこの
第三句が﹁て止﹂の場合、上句と下句が対句的になるという指摘は、
えられるという内部構造をもつ歌がかなりあって、この歌もその例で
深い﹂ともいう。そういう感覚が﹁行さきふかきやへのしら雲﹂では
空問の密度の濃さでもあろう。われわれは﹁霧が深い﹂生言い、﹁闇が
句と下句が同時的な並列文であって、それをさらに統合する視点が構
ある。第三句末の﹁て﹂や﹁して﹂は従来、継起的な連続性において
なかろうか。別世界にまぎれこんだような不思議な感覚である。
解釈がなされてきたが、そのような時間構造では定家の歌は解明され
ないであろう。
﹁やへのしらくも﹂が勅撰集に初めてみえるのは﹃新勅撰﹄の和泉
六
﹁行さきふかき﹂は定家のこの歌以外の用例を﹃新編国歌大観﹄か
式部の次の歌である。
︵新勅撰・轟旅・題しらず・五〇六・和泉式部一
こしかたをやへのしらくもへだてっっいとど山ぢのはるかなるかな
ら検索することはできない。為家の次の歌に﹁行さきふかし﹂の例が
見られるが、河の縁で言っているのであって、﹁やへの白雲﹂というつ
じ集の︵八四九一に﹁権中植言の屏風のうた﹂の八首目に﹁とほき山
この歌は﹃和泉式部集﹄︵一九一︶に﹁遠き山を人こゆ﹂とあり、同
づけ方には定家独自のものが認められる。
五月雨は行さきふかしいはた河わたる瀬ごとに水まさりつつ
山遠雲埋行客跡 山遠うして雲行客の跡を埋む
を一人ゆく﹂と題してみえる。﹃新勅撰和歌集抄﹄は、
一為家集上・夏・康元元年熊野山廿首・三七八︶
とあり、同じ歌が﹃歌枕名寄﹄第三十三に、﹁紀伊国﹂の部に入集して
いる。旅の歌として詠まれ、そのように受け取られていたとおもわれ
・
■
51
定家はこのことばを好んで用いている。次に用例を示しておこう。
かに漢詩の影響をうけた表現である。
このように﹁やへのしらくも﹂も歌語としてはめずらしく、あきら
と、韓愈の、
かずかずにさきそふ花の色なれや嶺のあさけのやへの白雲
︵和漢朗詠集・巻下・雲・作者未詳︶
︵左遷されて藍関に至り姪孫湘に示す︶
︵拾遺愚草・中・院句題五十首・朝見花・一八三二一
雲横秦嶺家何在 雲は秦嶺に横たわって家何くにか在る
を挙げているので、漢詩的なイメージをもっことばであったのであろ
やる 都の春を となりにて一下略︶
︵同・下・雑・二七四〇・大僧上慈円の歌への返し一
︵長歌上略︶いくとしどしを へだっとも やへのしら雲 ながめ
︵嘉言集・一〇二・ゐ中へまかるに、かはじりにて︶
おのづからあはれとかけんひとこともたれかはつてんやへの白雲
みわたすにやへの白雲かかれるはみやこのかたの山にはあらずや
さくらさくならのみやこを見わたせばいづくもおなじやへのしら
首目、玉葉・恋三・一五七六・第三句﹁二言に﹂一
︵同・下・恋・二六四九・﹁とほき所に行きわかれにし人に﹂の七
う。ほかに、
くも 一江帥集∴二〇・ならの京の花一
前二首は、花の雲であるが、三首目は、遠く行き別れた恋人を想い
みよしのの花咲きぬらしこぞもさぞ嶺にはかけし八重の白雲
︵林葉集・一〇八︶
やった歌である。
七
かへり見るやまははるかにかさなりてふもとのはなもやへのしら
くも 一秋篠月清集・九六〇、院句題五十首・深山花・六二︶
あだならぬ花のよそめを人とはばたかまの山のやへの白雲
一拾玉集・三五八二一
う。定家が早くから求めてきた空間の詩学がここまで到達したのであ
れわれはふかぶかとした安らぎと、はてしない解放感を覚えるであろ
る。それは伝統的な美意識と漢詩文のもつ思想性や構想力との結合に
﹁踏迷ふ﹂から﹁やへのしら雲﹂まで読みを進めてきて、最後にわ
メージがある。
ほかならなかった。﹃万葉﹄の昔、赤人の、
これらの歌は桜の花が幾重にも咲いているさまであって、天象とし
しるべせよ山とびこゆる秋の雁跡なき嶺のやへのしら雲
春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける
ての雲ではない。次の歌は詩歌合の歌であるので、やはり漢詩的なイ
幾行遊子心﹂・在高一
一元久詩歌合・山路秋行・廿五番右・家長、左﹁峡猿一叫旅人思雁
.
■
52
︵巻八・一四二四︶
を挙げるまでもなく、自然のなかに風雅を求めるのは、わが国古来の
習わしであった。﹃古今﹄の貫之が山野に花を尋ねて詠んだ歌は既に指
摘した。定家のこの歌の花は、桜ではなく、歌に詠まれることの少な
い﹁山なしの花﹂であるところから、伝統を承けながら、すこし逸れ
てめずらしさを加えた。それは、中国の桃源郷や仙境ほどの超絶的な
別世界ではない。どこかにありそうな場所である。定家は、われわれ
の夢想を満たしてくれる詩的空問を乱世の代に作りあげた。世の中が
こぞって無常を云々している時に、定家は一首の中に独自の世界を構
築したのである。
注1 定家の歌の引用は冷泉家時雨亭叢書﹃拾遺愚草﹄により、それ
﹃万葉集﹄訳文篇による。
以外は、﹃新編国歌大観﹄による。ただし﹃万葉集﹄は塙書房の
﹁定家の旅の歌−題意の追求という点から−﹂一﹃ノートルダム
清心女子大学国文学紀要﹄一巻−号、一九六七年一
筆本の第四句は﹁花たちばなの﹂である。自筆本の表記の方が、
﹃拾遺愚草員外﹄は自筆本にないので、﹃新編国歌大観﹄による。
3
﹃新編国歌大観﹄本の第四句は﹁花橘に﹂となっているが、白
4
表現としてふさわしいと思われる。
﹃定家の歌一首﹄一一九七六年︶二一二九ぺージ
5
雑賀美枝﹃後撰和歌集﹄︵﹃ノートルダム清心女子大学古典叢書﹄
6
一九六九年一
7杉谷寿郎﹃後撰和歌集の研究﹄︵一九八九年︶七八五ぺージ
︵和漢比較文学会口頭発表、一九九九年一〇月︶
8小松英雄﹃やまとうた﹄︵一九九四年︶六〇ぺージ
9日本古典文学全集﹃源氏物語﹄五・二四七ぺージ
0新釈漢文大系﹃文選﹄上・一九五ぺージ
1
1
注5 一九六ぺージ
1
見尾久美恵﹁藤原定家の和歌における対句的発想とその表現﹂
2
1
一あかはね しゅく/本学教授一
.
一
53
日
会
学
文
本
日
語
本
学
大
子
女
一
、し
、︶﹂ー
圭目
ム
ダ
ル
ト
ー
ノ
月
新古今時代の﹁風﹂目
﹁風十動詞の連用形十て﹂
の形態
見 尾
久美恵
集の初見の項目はこの限りではない一。新古今時代の範囲については藤
平春男氏の説一注4一に拠り、建久元︵一一九〇︶年から承久三一一二
な形態の一つとして、初句﹁風十動詞の連体形﹂を指摘した。そして、
本誌創刊号一注−一で、新古今時代の﹁風﹂を承接する動詞の特徴的
表現との厳密な対応はつきかねる部分もあり、今後更に検討が必要な
について、管見に入った限りを対照させている。これらの漢語は歌の
表である。それぞれの表現が生まれる背景にあったと考えられる漢語
集﹄までを見ている。この調査結果をまとめたものが本稿末に掲げた
二一一年前半までとした。私家集は第七巻所収の順徳院の﹃紫禁和歌
歌材としての風の属性や機能と和歌の表現構造とを関連づけることで、
ものであるが、風の表現の成立を考える上で重要な役割を担っている
ものと思われる。
たように、﹁風﹂は極めて新古今的な素材である。一方、第三句末を助
﹁風ふけば﹂は用例も多く、﹃万葉集﹄と八代集、そして新古今歌人
新古今歌人の新風の一面を照らし出すことができた。そこでも指摘し
詞﹁て﹂で切る形が多いのは、﹃玉葉集﹄と﹃風雅集﹄の中核をなす京
に︵十︶で示した数は初句に用いられているもので、﹁風ふけば﹂は第
8
三句目よりも初句に多く見える表現であることがわかるが、慈円や定
3
第
一
、︶﹂1
ず、新古今時代までに成立した作品を管見において対象とした一勅撰
﹁風十動詞﹂を助詞﹁て﹂で受けた形のものである。﹁風ふきて﹂も初
を中心に用例数を記し、第三句以外の総数は初句に限っている。ここ
年
01
流
れは新古今歌人に遡ることができるという指摘もある一注3一。では、
20
﹁風﹂という素材が第三句目において﹁動詞十て﹂と結びついた形態
家では逆転している。﹁風ふかば﹂も初句に多く見えるほか、第四句目
極派歌人の歌の表現の特徴として従来から指摘されており一注2一、その
は、新古今歌人の特徴的な表現の一つではなかろうか。このように考
に﹁秋風ふかば﹂などと用いている例もある。﹁風ふきて﹂からは
号
量的な調査を行った。調査には﹃新編国歌大観﹄を用い、長歌は含め
え、この形態がいかにして成立し展開してきたかという観点から、数
文
語
、し
圭目
.
−
54
句や第二・四句目にも多く使用されている。︵風おとづれて︶はもちろ
ん主として第二・四句目に用いられる表現で、俊頼が早く、︵風たた
で一も第三句目にはなく初句に西行の用例が一首見えた。最後の︹風
あれて︺と︹風みえて︺は玉葉・風雅集時代の表現であるが、参考と
の時代の表現の特徴の一つと見なすことができよう。
二
見えた﹁風寒えて﹂という表記から付記したものである。
以外の﹁風さえて﹂六十七首中、季節が冬と確定できたもの四十八首一
と表記されることもあり、そのほとんどが冬の情景︵第三句及びそれ
ておきたい。﹁風さえて﹂や﹁風さゆる﹂は﹁風寒えて﹂﹁風寒ゆる﹂
まず、千載から新古今時代に格別多く用いられた﹁風さえて﹂を見
この表に示したように、﹃万葉集﹄から三代集までは﹁風ふけば﹂を
として冷たく冴えた風が吹くのを表す。ほかにも風がさえる、さえる
して記した。﹁風さえて﹂の漢語の欄に記した﹁風寒﹂は、数首の歌に
専らとし、中に﹁風ふきて﹂が十首程度見えた。初見の欄には第三句
風という表現は様々に詠まれており、このことは、院政期から中世に
いる。﹁風さえて﹂は大気の変化であるとともに、視点を絞り込んで風
では、猪名の伏原は風が冴えて、昆陽の池水も氷が張ったと気づいて
り一金葉集・冬・二七三・藤原仲実・﹁氷をよめる﹂、堀河百首一
①しながどりゐなのふしはらかぜさえてこやのいけみづこほりしにけ
さえて﹂の初見である﹁堀河百首﹂の、
今集﹄では秋とともに比率が増え、夏を越えて春に迫る数となる。﹁風
れる。勅撰集では﹃金葉集﹄以後、冬の部が質量ともに増大し、﹃新古
おいて、積極的に冬の美を見出そうとした動向と関連するものと思わ
目のみを記している。三代集までの﹁風ふけば﹂﹁風ふきて﹂以外の用
﹁宇多院歌合﹂︵定文︶と大斎院選子内親王に、﹁秋風ふかば﹂が﹃拾遺
例は、第三句以外のものでも、﹁風ふかば﹂が﹃古今集﹄の頃行われた
集﹄一是則一に、﹁とき風ふかば﹂が恵慶に、﹁風ふけど﹂が﹃古今集﹄
一躬恒一と﹃古今和歌六帖﹄一躬恒︶及び恵慶に見えるだけである︵な
お表には入れていないが、第三句﹁風ふけど﹂が能宣に一首ある︶。後
拾遺から金葉集の時代にかけて、﹁しほ風こして﹂一能因一、﹁風おとづ
れて﹂︵俊頼︶、﹁風かけて﹂一俊頼︶、﹁風さえて﹂︵仲実︶が見え、この
て﹂以下のものは、早くても俊恵、重家、西行、俊成が始め、更に用
うち﹁風さえて﹂だけが際立って多く用いられるようになる。﹁風なく
えて﹂がほかに三首一﹁為忠家初度百首﹂一四六三・四九八一と﹁後度
景の変化に気づく契機となっているのである。金葉集時代には﹁風さ
百首﹂︵五三一︶で、すべて冬の歌︶見え、凍るだけでなく霜や雪が降
例数は少ないが定家、慈円、良経といった新古今歌人達が新奇な表現
このように見てくると、第三句﹁風十動詞の連用形十て﹂の形態は、
る景へと変化させているが、①の構成を踏襲し、歌末は﹁けり﹂と
を試みており、﹁風﹂を受ける動詞が多様化する。
新古今歌人によって広げられ、深められていったものと考えられ、こ
−
.
55
的であり、﹁風さえて﹂は上句の場所から下句の場所へと空間を移動す
る契機として用いられている。③の良経は、春になっても冷え冷えと
﹁かな﹂であった。−
詞花から千載集時代の﹁風さえて﹂の総歌数は十八首一うち冬の景
風が吹き霞もかからない空と、その風で雪模様に曇った春の月とが同
一の時空にあり、冬と春とが重層している。このような﹁余寒﹂の二
十三首︶に及ぶ。歌合には三首見え、歌人では覚性法親王、俊恵、西
はなく、上句に都からの距離感や時節の経過を表し、﹁風さえて﹂を契
ていた。新古今時代の冬の歌に詠まれた﹁風さえて﹂を、もう少し見
浅さを感じさせる現象として、秋の景ならば多くが月とともに詠まれ
﹁風さえて﹂は、良経の歌のように春の景であるならば余寒や春の
重の季節感を演出する詞として﹁風さえて﹂が用いられている。同時
機に季節の進行を示す冬の風景を体言止めで呈示しているところに新
ておきたい。
②よなよなのたびねのとこに風さえてはつ雪ふれるさやの中山
行が好んで詠んでいた。﹃千載集﹄にも、
しさがあると言えよう。
⑤はれやらぬ横雲まよひ風さえて山の端しろきゆきのあけぼの
にこの歌における﹁風さえて﹂は、空から月へと、同一の時空の中で
﹁風さえて﹂の残る四十五首一うち冬の景三十二首︶は新古今時代
一守覚法親王集・冬・﹁暁天雪﹂・九九︶
一千載集・轟旅・五〇二・藤原実行・﹁行路初雪といへる心をよみ
の用例である。﹁風さえて﹂という表現に限った数を見るだけでも、冬
⑥をしのゐるこほりのひまに風さえて心のそこぞまづはくだくる
入る感覚と構想力によって﹁余寒﹂の本意を追求した一首と言えよう。
の歌の急増と冬の美の構成における﹁風さえて﹂の意義を窺うことが
︵拾遺愚草員外・一字百首・冬・六〇一
視線をズームインさせる契機ともなっている。﹁風さえて﹂の身に染み
できる。﹃新古今集﹄に入集されたのは次の二首である。
侍りける﹂一
③そらは猶かすみもやらず風さえて雪げにくもる春のよの月
⑤は雪の朝の凄まじい天象の叙景で、﹁風さえて﹂を挟んだ上と下は同
が入集している。これまでの歌と異なり、風景の変化に対する感動で
︵新古今集・春上・二三・良経・﹁家に百首歌合に、余寒の心を﹂、
は雲から山の端へと移動しており、その契機を﹁風さえて﹂が作って
いることには注意する必要があろう。これは、③におけるズームイン
時現象と考えられる。しかし、同一時空での現象でありながら、視点
︵同・冬・六五六・藤原忠通︶
と同様の効果であると考えられる。⑥の定家の歌では、﹁風さえて﹂と
六百番歌合︶
④の忠通は金葉から詞花集時代の歌人で、志賀の唐崎に吹く﹁風さえ
いう冷気が心の奥底を顕在化する契機となっている。したがって、上
④さざなみや志賀のからさき風さえてひらのたかねに譲ふるなり
て﹂を契機に比良の高嶺の景を想像している。この一首の構成は前代
−
−
56
句は自然現象であるが、そこには心象風景も潜在している。これを
﹁風さえて﹂を契機とした外界から心象への視点の移動と捉えれば、③
③人生無幾何、必寄天地問、心有千載憂、身無一日閑
ながむればあまつみ空に風たちてただなに事もゆふ暮の空
︵同・文集百首・述懐・一九九一︶
解放されてはいるが、﹁風たちて﹂が心理を景に投影させる契機となる
は、いずれも﹁夕まぐれ﹂﹁ゆふ暮﹂というほの暗く内省的な時空を背
点は共通している。定家は用例数からしても格別﹁風たちて﹂を好ん
可能であろう。これを外界の中での視点の移動でなく、心象に向かう
⑤の歌と類似の働きを﹁風さえて﹂が持っているものと考えることも
て﹂を 考 察 し た い 。 ﹁ 風 た ち て ﹂ は 、
でおり、二十代後半にあたる文治・建久のいわゆる新風模索期から、
される。②では露の命へと気持ちは集約していき、③では逆に空へと
甘妙之 洪道別手哉 春者来留 風立毎丹 花裳折芸里
建保六年の﹁文集百首﹂に至るまでの長い期問に亘って﹁風たちて﹂
景にして、﹁風たちて﹂という瞬間に内面の心理が目に映る景へと投影
︵新撰万葉集巻下・春・二六五︶
の歌を詠んでいる。
視点の移動としたところが定家の新しさである。
を淵源として、
次に、千載集時代の歌人が始めた﹁風たちて﹂﹁風こえて﹂﹁風すぎ
樹陰風来
︵拾遺愚草上・重奉和早率百首・秋・五三六︶
④けふといへば梢に秋の風たちてしたのなげきも色かはるなり
ソロタヘノ ナミヂワケテ ヤ ハルハ ク ル 刈司一ー ハナモサキケ リ
ひざかりはあそびてゆかん影もよしまののはぎはら風たちにけり
︵同中・後仁和寺宮五十首・秋・﹁早秋﹂・二〇二七︶
⑥天の河わたせの浪に風たちてややほどちかき鵠の橋
︵同上・十題百首・鳥・﹁隼﹂・七五三︶
⑤風たちてさはべにかけるはやぶさのはやくも秋の気色なるかな
︵散木奇歌集・夏・三三九一
と、俊頼が題の﹁風来﹂を﹁風たちにけり﹂と詠嘆で表し、その俊頼
︵林葉集・秋・四〇一・﹁野風﹂︶
①岡のべのならのましばに風君かへるは葛のうらばのみかは
⑦摂政殿詩歌合、轟中眺望
の子俊恵の、
た て ぱ イ
が初見である。しかしながら﹁たてば﹂という異本が見られることも
秋の日のうすき衣に風たちて行く人またぬをちのしら雲
⑧厭風風不定、風起花粛索
︵同下・雑・旅・二六八四、玉葉集・旅︶
あって、やはり新古今時代の、とりわけ慈円と定家の所産と言ってよ
②夕まぐれ玉まく葛に風たちてうらみにかかる露の命か
春のゆく梢の花に風たちていづれの空をとまりともなし
い。慈円の、
︵拾玉集・楚忽第一百首・恋・﹁恨﹂・七八一︶
■
■
57
の姿を視覚的に捉えられるとともに、行く春に対する思いがその花の
その花がいずれの空にも泊まらないという漂揺とした感覚により、風
を挟むことで対をなしている。風が花に吹くことによって空に舞う。
⑨ 団扇先辞手
姿に投影されているのである。
一同員外・文集百首・春・四二一︶
はしたかを手ならす比の風たちて秋の扇ぞ遠ざかり行く
﹁風こえて﹂と﹁風すぎて﹂は、風が上句に描かれた景物を吹き越
え、あるいは吹き過ぎたのち、その景物を取り巻く全景や天上のもの、
初句に置かれている⑤も含めて合計六首が定家の﹁風たちて﹂である。
④は慈円の②の歌が詠まれた﹁楚忽第一百首﹂に和した﹁重奉和早率
せる作用を持っている。定家の、
または心の中にまで吹いて行き、点景と全景、景と心象とを重ね合わ
一同員外・文集百首・秋・四⋮二︶
百首﹂のもの、⑧⑨は慈円の③と同じ﹁文集百首﹂での詠である。結
風起花粛索﹂が示す通り﹁風起﹂という漢語に拠るものであろうζ言
され、﹁風たちて﹂も⑧の題である﹃白氏文集﹄の詩句﹁厭風風不定、
︵拾玉集・百番歌合・夏・二十五番右勝・一七五五、風雅集・夏一
②夏ふかきみねのまっがえ風一﹂えて月影すずしあり明の山
拡がりを持って全体と融合するのである。更に慈円の、
と﹂、﹁しぐれゆく﹂姿と﹁心色づく﹂景とが照応し、部分は全体への
①しぐれゆくはじの立枝に風こえて心色づく秋の山ざと
われている。⑦と照応する漢詩としては漢武帝の﹁秋風辞﹂の第一句
では、﹁夏ふかきみねのまつがえ﹂を越えてくる風が涼しさを運んでき
る。④は俊恵から慈円の歌に流れる境地に共通する。④⑤⑥⑧⑨は、
果的に﹁風たちて﹂は、二人の往還によって洗練されたような感があ
目﹁秋風起号白雲飛﹂を挙げられ、更には﹁悠然たる自然の捉え方や、
て、眼前の有明の山の月光を涼しく感じている。夏深い中にも秋の気
︵拾遺愚草上・十題百首・木・﹁櫨﹂・七四九、玉葉集・秋下一
天と地を対極的に捉える世界観は、日本古来の雲や風のイメージを一
配を感じ始めた感覚の変化を﹁風こえて﹂が担っていると言えよう。
いずれも季節の変わり目に吹く風を鋭く際立たせることにより、季節
変させるに充分であった﹂と漢詩文摂取によって開かれた世界観を説
﹁風すぎて﹂の場合、上句に描かれる景物は眼前のものであること
では、﹁しぐれゆくはじの立枝﹂を風が越えることに気づいたその瞬問
かれている。第三句﹁風たちて﹂は、旅人の漂泊の衣に風が立つさま
の推移に伴う気分の変化をも捉えている。⑦について、赤羽淑氏は
と、その風によって旅人の遥かかなたを過ぎ去っていく白雲との対比
が多い。俊成の、
に、一首の世界の中では、﹁はじの立枝﹂とそれを取り巻く﹁秋の山ざ
を、同時現象として同一の画面の中で鮮やかに行っているのである。
①雨そそく花たちばなに風すぎて山時鳥雲になくなり
﹃定家の歌一首﹄一注5一の中で、漢詩文の発想や表現との類似性を指摘
⑧の歌の場合には、上句の﹁梢の花﹂と下句の﹁空﹂とが﹁風たちて﹂
−
■
58
︵拾玉集・詠百首倭歌・秋・﹁刈萱乱離﹂・八四一︶
②かるかやのしげるまがきにかぜ過ぎて心みだるる秋のゆふぐれ
では地上の景と上空の景とが呼応している。慈円の、
一新古今集・夏・二〇二・俊成・﹁郭公﹂、右大臣家百首一
払われるように花びらが散っている光景である。②は、上空から吹き
泊瀬山に雲がかかるように咲いている桜に風が吹き降ろし、雲が吹き
円の歌の﹁風おちて﹂は、風が吹き降りてという意味であろう。①は、
すという意味と、風の勢いが弱まるという意味があり得る。①②の慈
の三首にとどまる。落ちるという言葉には、風が上から下に吹き降ろ
︵玉葉集・雑二・二一五五・定家、﹁雨中吟﹂では﹁風吹きて﹂︶
’
と、定家の、
岩佐美代子氏が、﹁吹いていた風がぱったりと止んで﹂一注6一と解釈さ
59
’
③かげきよき池の蓮に風過ぎてあはれすずしき夕まぐれかな
れている。吹いていた風が止み揺れていた葉の動きが止まるという、
降りる風が野辺の葛を揺らす地上の景と、上空の月の景とを重ね合わ
としていた二人の歌人が、このように非常に類似した和歌を残したこ
動から静への転換が、視点を地上から天空へと移し、薄雲のかかる空
︵拾遺愚草上・閑居百首・夏・三三三︶
とは興味深い。構造とリズムという点では、慈円の②は、﹁風こえて﹂
に星がひそやかに輝き始めるという、そのひそやかさを強調している
せて、秋を楽しむ心を詠んでいる。一方、③の﹁風おちて﹂は、﹁雨中
の①であげた﹁しぐれゆく﹂とも類似している。なお、﹁風すぎて﹂は
ように思える。ここには﹃白氏文集﹄一注7一の、
吟﹂では﹁風吹きて﹂となっているものの、﹁そよくれぬ﹂という初句
単純な表現でありながら俊成以前に用例は見つからず、漢語の﹁風過﹂
霜降水返墾 風落木帰山 ︵白氏文集巻十一・﹁歳晩﹂︶
は、実に類似した構造とリズムを備えており、ともに﹁風すぎて﹂を
から学んだ可能性も考えられる。
という詩句の影響が考えられるのではあるまいか。
から考えても、風が止んでという意味であろう。これについては既に
﹁風おちて﹂﹁風ちりて﹂﹁風ふけて﹂も、慈円と定家によって造り
﹁風ちりて﹂は、
おり、同じ時代に共通の志向性を持ちながら新たな境地を開拓しよう
出された奇抜な表現である。﹁風おちて﹂の用例は、
契機として景と心象とが重層している。いずれも文治三年に詠まれて
①春ふかき花の木ずゑに風おちて雲吹きはらふをはつせの山
︵拾玉集・一日百首・﹁花﹂・九〇八︶
①はるくればさくらが枝に風ちりて花の浪こすすゑのまっ山
②秋ぞかし露のよすがに風散りて月吹くよひの袖のかた敷
では花の、
一拾玉集・春・﹁泊瀬山﹂・三九七七一
︵同・詠三十首和歌・秋・四九三三︶
②夜もすがら野べのまくずに風落ちて月にぞあそぶ秋のこころは
③そよくれぬならのこの葉に風おちて星いづる空の薄雲のかげ
のであるが、この二首以外に用例を見出すことはできない。いずれの
では露の縁から創り出された風を視覚化した詞である。②は後代のも
歌は﹁月﹂の心を詠んだ題詠であり、したがって下句は﹁風ふけて﹂に
という歌もそうである。これらと共通した夜を詠みながらも、定家の
︵万葉集・巻十・二二九八・﹁寄月﹂一
君に恋ひしなえうらぶれ我が居れば秋風吹きて月傾きぬ
﹃万葉集﹄の、
場合にも、散るものとしての花や露の属性から生まれた表現生言えよ
よって導かれた月光が照らし出す幻想と見ることができる。慈円の﹁風
一未来記・秋・二七一
は言い難いため、その後用 い ら れ な か っ た の か も し れ な い 。
う。しかし、風そのものが﹁ちる﹂という属性や動態を持っていると
としては、ここでも慈円の 一 首 が 検 索 で き た だ け で あ る 。
首﹂の歌で﹃新古今集﹄に入集している。その他の新古今歌人の用例
雲をいとふよひのまくらに夢さめてふけゆく風に山のはの月
︵新古今集・恋三・一二〇〇・西行、御裳濯川歌合一
人はこで風のけしきもふけぬるにあはれにかりのおとづれてゆく
しみの象徴ともなっている。﹁風ふけて﹂に先行する表現として、
の河に千鳥が鳴く下句の情景は、張りつめた思いが崩れ、溢れ出た悲
①さむしろや待っよの秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫
︵拾玉集・詠三十首和歌・秋・四九三二︶
ふけて﹂は、悶々と募る恋情の極点に感じる風である。したがって、涙
︵新古今集・秋上・四二〇・定家、花月百首・﹁月﹂一
現象としての風が感覚や心象、あるいは虚構の世界に交錯している
②思ひかぬるよはのたもとに風ふけて涙の川に千鳥鳴くなり
が挙げられる。﹁風のけしきもふけぬるに﹂、﹁ふけゆく風﹂は時間の経
ものとして﹁風ふけて﹂がある。﹁風ふけて﹂の初見は定家の﹁花月百
︵拾玉集・六百番歌合・恋八・﹁寄鳥恋 勝、有家﹂・一六八三一
過を表すとともに、作中人物に時間の長さを感じさせる。﹃源氏物語﹄
風来秋扇屏 月出夜燈吹
﹁風ふれて﹂は定家の、
句から下句へと一首が展開していく契機となっている。
っていたものと考えられる。第三句目に置かれた﹁風ふけて﹂は、上
という音の類似もあって、﹁風ふけて﹂という表現の成立に密接に関わ
が何度も出ている。このような用法は風が﹁吹く﹂ことと夜の﹁更く﹂
においても、風が吹くことで夜の更けるのを実感する時問経過の描写
ともに人を待つ夜の時問が経過し、恋情は募っていくが、筆二句目の
﹁風ふけて﹂という風の感触の変化が転換点となっている。素材や状況
の上で共通するのが中国六朝時代の閨怨詩で、一例として﹃玉台新詠﹄
一注8一所収、王僧儒の﹁秋閏怨﹂を掲げる。
深心起百際 遥涙非一垂
①桜花ちらぬ梢に風ふれててる日もかをる志賀の山越
斜光隠西壁 暮雀上南枝
徒労妾辛苦 磐言君不知︵玉台新詠・巻六・梁・王僧儒﹁秋閨怨﹂︶
■
一
60
が初見である。志賀の山越え道に陽光が香るのは、桜を散らさない風
︵拾遺愚草上・花月百首・﹁花﹂・六〇五︶
ふかき夜にをとめのすがた風とぢて雲ぢにみてる万代のこゑ
定家以外に用例が検索できなかった﹁風とぢて﹂は、
のような歌もある。
︵拾遺愚草員外・一句百首・冬・一九二一
が吹いているからで、その風を﹁風ふれて﹂と表現している。風の表
竹葉隠低自引杯 相説黎民女宴盛 ︵同巻下・女郎花・五二一︶
秋風触処露不閑 吹過浪花岸前発
て﹂等、多彩な表現が試みられているが、個々の説明は省略する。﹁風
更に、新古今時代には﹁風はれて﹂﹁風くれて﹂﹁風しみて﹂﹁風もり
描くところが定家らしい。
を本歌としているが、天女の姿を風が雲路に閉じ込めるという幻想を
である。良山今宗貞の、
情を様々に実体化する定家ならではの感覚であるが、﹁風触﹂という漢
月沈頻藻銀鉤影 風触松杉玉鞍声
さびて﹂﹁風ふりて﹂﹁風もれて﹂に見られるように、良経によっても
語との 関 連 も 考 え ら れ る 。 す な わ ち 、
一新撰朗詠集上・夏・﹁夏夜﹂・一四二・田忠臣﹁池樹消暑﹂一
新しい風の境地が開拓されていることだけを指摘しておきたい。
一古今集・雑上・八七二・良峯宗貞・﹁五節のまひひめを見てよめる﹂︶
では、秋風が触れるところ、こおろぎの鳴き声が寒い、露がこぽれる、
あまっ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめのすがたしばしとどめむ
あるいは風が松や杉に触れ玉の琴柱の音を奏でると詠んでいる。定家
ここまでは、﹁風十動詞の連用形十て﹂のうちで、動詞に着目して分
秋風触処養鳴寒 木葉零惟衣一単
の一首とは季節感を異にするものの、いずれも風は何かに触れるもの
について触れておきたい。次に挙げるのは、夢のうちにも風を感じて、
類を行っズきたが、最後に、風が独自の作用を一首に喚起している歌
夜夜愁音侵客耳 朝朝余響満庭壇︵新撰万葉集巻上・秋・一四六︶
として捉えられている。定家以外の﹁風ふれて﹂の中に、
われもかなし草木も心いたむらし秋風ふれて露くだる比
むめのはなそでににほひのかぜこえてゆめの枕にきゐる鶯
︵式子内親王集・春・二一六︶
夢のうちもうつろふ花に風吹きてしづこころなき春のうたたね
︵秋篠月清集・二夜百首・﹁梅﹂・一一〇︶
のきちかきむめのこずゑに風すぎてにほひにさむる春のよのゆめ
夢と現実とが甘美に交錯する束の問を詠んだ歌である。
②露もろきをのの篠原風ふれてやどりもあへぬ有明の月
︵民部卿家歌合 建久六年・﹁暁月﹂・廿一番右勝・二二四・見仏︶
という歌が見え、秋風が触れて露がもろく零れ落ちる景が描かれてい
︵玉葉集・秋上・四六三・伏見院・﹁五十番歌合に秋露をよませ給
るし、時代は下るか、
うける﹂一
’
■
61
の中の現象とが交錯する。五感の全てが正常に働いているわけではな
︵千五百番歌合・春二・百十番左負∴二九・公経︶
よるところが大きい生言えよう。このような風の属性に即して、表で
感じることができるのは、それぞれの季節や時問に応じた風の作用に
運んでくる。季節の推移や一日の中の時間の移り変わりを皮膚感覚で
ると、以下のようになろう。
取り上げた﹁風十動詞の連用形十て﹂を大まかではあるが分類してみ
夢とうつつを行き来する意識の膝騰とした状態では、外界の現象と夢
く、瞼を閉じていれば視覚の情報は遮断され、無意識のスクリーンに
一、視覚的に景物に動きを与える風の属性と関わるもの︵雲をはら
映っているのは現実にはない夢の景である。しかし瞼のような遮断装
置を持たない他の感覚は、様々な情報を脳に送る。膝騰とした意識は
﹁風たちて﹂﹁風こえて﹂﹁風すぎて﹂﹁風おちて﹂﹁風ちりて﹂
﹁風ふれて﹂﹁風とぢて﹂﹁風さ一荒・寂一びて﹂﹁風はれて﹂
うなどして明るさを変化させるものも含む一
二、視覚的な変化が時問の推移を想起させるという属性と関わるもの
その情報を捉えて夢の景を描いていく。風が運んできた梅の香りを嗅
識のなせるわざであろう。嗅覚や触覚あるいは温度感覚など、多様な
覚が感知した時、目覚めるのも鶯を夢の景に描くのも、膝腱とした意
感覚に同時に働きかけるからこそ、風は夢と現実の交錯を促す作用を
﹁風くれて﹂
四、風が喚起する皮膚感覚が時問の推移を想起させるという属性と
﹁風さえて﹂﹁風もれて﹂﹁風しみて﹂﹁風もりて﹂
三、温度・湿度などの皮膚感覚を喚起する風の属性と関わるもの
持ち得るのであろう。
三
﹁風ふけて﹂﹁風ふ一古一りて﹂
関わるもの
このように分類してみると、視覚的な風の属性に関わる動詞が多く用
﹁風十動詞の連用形十て﹂の形態を個別に概観したが、新古今時代
の機能については、個々の動詞の持つ意味や他の歌語との相互作用に
いられている。これは、動きを伴った風を表現するにあたって、視覚
には非常に多様な動詞を用いる試みがなされていることがわかる。そ
よる部分が大きいため、統一的な結論は避けるべきであると思われる
的な表現が効果を持つためと考えられよう。皮膚感覚と関わる動詞は、
詞が用いられている。﹁ふけて﹂﹁ふりて﹂は、風が運んでくる温度や
﹁さえて﹂﹁もれて﹂﹁もりて﹂﹁しみて﹂など、温度感覚に直結する動
が、一つ指摘しておく必要があるのは、風の属性との関わりの中から
風は、物理的には空気の流れであり、空気が動くことによって眼前
湿度、あるいは香りが時間経過の中で時々刻々と変化するという、微
新たな動詞の表現が模索されたのではないかと考えられることである。
の景物に視覚的な動きを与えるだけでなく、温度や湿度、香りなどを
.
・
62
妙な感覚を表現する詞として捉えることができよう。
和歌構造上の特徴について、漢詩文における対句構造との関係から既に
の間の対比的な構造をもたらしている歌も多く認められた。このような
学会で報告したが一注11一、﹁風十動詞の連用形十て﹂の形態においても、
風という素材の持つ自在さやダイナミズムを背景として、上句と下句と
﹃玉葉集﹄と﹃風雅集﹄の中核をなす京極派歌人の歌の表現の特徴とし
冒頭に記したように、第三句末を助詞﹁て﹂で切る形が多いのは、
て従来から指摘されている。西下経一氏、安田章生氏、大坪利絹氏は
﹁光厳院﹂一﹃甲南大学文学会論集﹄三九、一九六八年一一月︶、大
西下経一﹃和歌史論﹄一至文堂、一九四四年一一月︶、安田章生
︵﹃清心語文﹄創刊号、一九九九年一二月一
拙稿﹁新古今時代の﹁風﹂Hl﹁風﹂を承接する動詞の表現−﹂
︵塙書房、一九七九年三月第七刷︶に拠る。
の引用は﹃新編国歌大観﹄に拠る。﹃万葉集﹄は﹃萬葉集訳文篇﹄
﹃万葉集﹄以外の和歌、﹃新撰万葉集﹄﹃新撰朗詠集﹄所収の漢詩
の対比が行われていることだけは、ここに指摘しておきたい。
注1
※
﹁て﹂止めの指摘とともに、これが連歌的であると言われた一注9一。その
京極派表現の特色に至る過程として、新古今時代が誕生の時代であると
後、稲田利徳氏、高遠二郎氏、今野鈴代氏によって、第三句末﹁て﹂が
いうことが明らかにされた一注−〇一。今野氏は、従来型の﹁三句て﹂と区別
して、﹁て﹂を軸に上句と下句に独立した景を描き出す展開性に注目し
の連用形十て﹂の形態であるが、これが個々の歌における上句から下句
ておられる。本稿で特に焦点を当てたのは、第三句における﹁風十動詞
への展開の契機となっているものが新古今歌人に多いことを見れば、京
七一年五月一
坪利絹﹁京極歌風の問題点﹂一大阪大学﹃語文﹄第二九輯、一九
また風によって喚起される情景変化のダイナミズムなどを考えてみると、
九八四年一一月︶、高遠二郎﹁京極派歌人の表現−叙景歌第三句末
稲田利徳﹁和歌と連歌﹂︵﹃論集 和歌とは何か﹄笠間書院、一
3
﹁風﹂という素材について見れば、その自在性や種々な感覚への訴求性、
極派の表現における﹁三句て﹂に近いものであることは明らかである。
第三句における展開性を促す素材であったとも言えよう。﹁風﹂という
﹁て﹂表現について−﹂︵﹃古典論叢﹄第一八号、一九八七年八月︶、
表情 ﹂︵﹃国語国文﹄第六六巻第三号−七五一号−、一九九七年
今野鈴代﹁第三句末﹁て﹂にみる展開の様相 水福門院の一つの
における展開性が深められて行ったのが、﹁風十動詞の連用形十て﹂の
素材の属性と﹁三句て﹂という和歌構造との相互作用により、一首の中
形態と見ることができるのではあるまいか。
藤平春男﹃藤平春男著作集 第−巻 新古今歌風の形成﹄︵笠問
4
三月︶
一方、﹁風﹂の表現の多様化に漢語からの影響を指摘できるものが少
なくなかった。また、第三句を契機に上句と下句とで視点を移動させて
描かれる情景を変化させるなど、第三句の持っ展開性が、上句と下句と
−
−
63
書院、一九九七年五月︶所収﹁新古今時代歌壇の範囲﹂
赤羽淑﹃定家の歌一首﹄一娑楓社、一九七七年八月︶一八九−一
5
九九頁
月一
岩佐美代子﹃玉葉和歌集全注釈下巻﹄︵笠問書院、一九九六年九
6
﹃白氏文集﹄の引用は日本那波道円活字本に拠る。
7
︵第十八回和漢比較文学会大会口頭発表、一九九九年一〇月一〇
﹃玉台新詠﹄の引用は新釈漢文大系︵明治書院︶に拠る。
8
注2に同じ。
9
0
注3に同じ。
1
1
見尾久美恵﹁藤原定家の和歌における対句的発想とその表現﹂
1
日、於早稲田大学︶
︹付記︺本稿は、一九九八年八月に行われた﹁ノートルダム清心女子大
学日本語日本文学会第一回研究発表会﹂での口頭発表の前半部分
に基づく。貴重なご意見をいただいた神部宏泰先生にお礼を申し
上げます。
︵みお くみえ/本学助手︶
■
■
64
第 三 句
風ふけば
風ふかば
風ふきて
総 数
78
3
51
主要歌人別用例数
万葉
定頼
万葉
西行1
円1、定家一﹁雨中吟﹂1一、小侍従1
俊頼1
初 見
拾遺
散木
俊恵2、西行3、家隆1、良経2、慈円1、定家4、隆信2、後鳥羽院
9、宮内卿2
勅撰集の初見
詞花 ︵ 贈 左 大 臣 一
山家
西行1
定頼1、贈左大臣1、定家1
万葉3、康資母1、登蓮1、為忠1、堀河百首︵師時一1、式子1、慈
一十11一、俊恵−一十2一、俊成1︵十1︶、西行1︵十2︶、良経−一十4一、慈円3︵十2一、家隆3︵十3︶、定家6︵十4一等多数
玉葉一山口女王、公顕一
山家
→堀川百首
俊恵1、讃岐1、忠良2、慈円2、定家5、俊成卿女1
定家1
俊恵1、重家2、家隆3、良経1、守覚1、後鳥羽院1、慈円2、定家2
俊成2、式子1、良経2、隆信2、後鳥羽院か1、寂蓮1、慈円4、定家2
万2一十3︶、古今一十4一、後撰一十−一、拾遺1︵十−一、後拾遺−一十4一、金葉一十4一、詞花一十3一、千載0、新古今2︵十4︶、俊頼7
ナシ
ナシ
ナシ
林葉
一異本﹁たてば﹂一
拾愚員外﹁一句百首﹂
林葉、 重家
→長秋詠草
慈円2、一定家−一
一風おとづれて一
風かけて
風さえて
風なくて
一風たたで一
風たちて
風たたば
風こえて
風すぎて
風おちて
風さびて
風ちりて
風とぢて
風ふけて
風ふれて
風きえて
95
1
0
1
41
73
71
ナシ
ナシ
ナシ
新古今一定家一
ナシ
ナシ
﹁風ふきて﹂一
玉葉一定家、﹁雨中吟﹂では
ナシ
玉葉 ︵ 定 家 一 、 風 雅 一 慈 円 一
新古今一俊成一
玉葉一含定家﹁秋の日の﹂︶
の総数
第三句以外
1
18
︵初句のみ一
1
11
1
7
2
8
0
1
1
0
1
1
0
O
0
0
O
0
1
O
0
0
O
0
0
一公顕一
慈円1、良経2
慈円1
慈円1
定家1
良経1
良経1
隆信1、惟明親王1
阿闇梨覚延1、通具1
沙弥静空1
権大紬言1
0
風こして
金葉︵仲実一
拾玉
慈円1、定家1
定家1、有家1、通親1、小侍従1、敦房1
月清﹁十題百首﹂
月清﹁花月百首﹂
文治六年女御入内和歌
御室五十
正治初
三百六十番歌合
源家長1
︺一夜百首﹂
ナシ
ナシ
ナシ
ナシ
ナシ
ナシ
正治後
嘉元百首
見院一
永仁五年当座歌合
首﹂
3
1
1
2
6
1
3
1
1
2
2
1
1
ナシ
1
0
1
ナシ
ナシ
拾玉 ﹁一日百首﹂
拾愚 ﹁一句百首﹂
→拾愚﹁花月百首﹂
拾愚 ﹁花月百首﹂
拾玉 ﹁百番歌合﹂
﹁花月百
拾玉、 月清
風ふりて
風もれて
風はれて
風くれて
風しみて
風もりて
1
玉葉一藤原定兼一
一伏
風たえて
[風あれてu
︺は新古今時代を下る用例。
風雅一後伏見院一
は第三句に用例のないもの。
□風みえて]
※
漢
風寒
風起
風起
風起
風過
風散
風落
風触
風暮
風断
風止
風息
語
−
−
65
会
学
文
本
日
日
語
本
学
大
子
女
一
、し
、︶﹂ー
圭目
ム
ダ
ル
ト
ー
ノ
月
8
一
、︶﹂1
啓 子
ノしトルダム清心女子大学付属図書館所蔵﹃後水尾院御集﹄ 紹介
平 井
﹁後水尾院御製﹂ 黒川本 C七六
﹁後水尾院御集﹂ 黒川本 C九八
このほか﹃後水尾院御集﹄と目録では認識されていたものに﹁法皇
はじめに
御集﹂︵黒川本H六八︶があるが、該当一冊は平成十二年夏の調査で
﹁元和帝御詠草聞書﹂ 黒川本 H一四
﹃後水尾院御集﹄は伝本の多い御集である。その上、それら伝本は
各本の書誌
﹃霊元院御集﹄と判明したので、今回の調査対象から外した。
各本相互に大きく異なっているため、有効な分類方法を提示すること
が困難である。こうした理由により、﹃後水尾院御集﹄に関する伝本研
究は、﹃列聖全集﹄解題で和田英松氏が論じて以来目立った進展がな
い。現段階では、資料の個別的な紹介もなお意味があるように思われ
る。そこでノートルダム清心女子大学付属図書館が所蔵する﹃後水尾
書誌を記すにあたり、七本を編集態度別に三種に分類した。以下、
それに従い記載することにする。利用の便宜のため、国文学研究資料
﹁鴎巣集﹂
黒川本
黒川本
正宗本
C九〇
C八九
E一〇三
1四三
①︻E一〇三本︼﹁後水尾院御集﹂ 黒川文庫本
一1︶催事ごとの編集を中心とする本
館のマイクロフィルム番号も付した。①−⑦の番号は、﹁二 内容﹂の
﹁後水尾院御集﹂
黒川本
﹃特殊文庫目録﹄ に拠る。
﹁後水尾院御集﹂
番号と対応する。
﹁後水尾院御集﹂
は本学付属図書館所蔵
院御集﹄七本の書誌と内容を中心に紹介を試みたい。
年
01 調査対象とした七本の名称及び整理番号は左記の通りである。表記
20
号
第
3
文
語
、し
圭目
−
■
66
題は﹁後水尾院御集﹂。料紙は楮紙。遊紙なく墨付き三五丁。一首一行
た箇所がある。奥書なし。蔵書印は﹁黒川真道蔵書﹂︵長方印︶が同型
一面一一行書き。藍墨と墨二種類で校異し、校異のあとを胡粉で消し
け書きで﹁後水尾院御集﹂とある。内題は﹁御百首之和歌﹂、料紙は
の方印一種がある。
で二本、﹁松井蔵書﹂︵小判型印一、﹁倉持氏印﹂︵長方印︶、他に未判読
紙は布目無地、左端題簸に﹁法皇御製﹂とあるほか、右端近くに打付
縦二八・四センチ、横一九・八センチの袋綴一冊、江戸中期写。表
楮、墨付き全五五丁、遊紙なし。一首一行一面一〇行書き。奥書は最
︿資料館﹀マイクロ 三三二−一二四−一
縦二八・○センチ、横一九・ニセンチの袋綴一冊。江戸中期写。表
④︻C七六本︼﹁後水尾院御製﹂ 黒川文庫本
る。墨と朱による合点、校異あり。歌頭の○印は墨、△印は朱で、長
終歌に続けて﹁右後水尾院上皇の御製也/當今明正院様御代也﹂とあ
点は朱墨両様がある。蔵書印は﹁黒川真頼蔵書﹂一長方印一、﹁黒川真
紙が白地に茶の刷毛目模様。﹁後水尾院御製 全﹂と左端に墨書する。
頼﹂一円印︶、﹁黒川真道蔵書﹂︵長方印一がある。
による付菱が大部分の歌に施されている。奥書なし。蔵書印は﹁黒川
製﹂。一首一行一面一〇行書き。傍記はすべて墨書である。また紺色紙
料紙は斐紙。墨付き六二丁。遊紙はない。内題﹁後水尾院 政仁 御
︵2一部類群と定数歌群との組み合わせによる本
真頼蔵書﹂︵長方印︶、﹁黒川真頼﹂︵丸印︶、﹁黒川真道蔵書﹂一長方印一、
︿資料館﹀マイクロ 三三二−一五五−三
縦二八・三センチ、横一九・五センチの袋綴一冊。江戸末期写。題
ほか行書体﹁撫鶴﹂︵五角形︶の印がある。
②︻1四三本︼﹁鴎巣集﹂ 正宗文庫本
簸はなく左端に﹁鴎巣集 全﹂と墨書される。表紙は黄茶無地。内題
︿資料館﹀マイクロ ⋮二二−一二四−二
⑤︻C九八本︼﹁後水尾院御集﹂ 黒川文庫本
はなく﹁春﹂と始まる。墨付き全一二四丁、遊紙なし。一首一行一面
尾に各一丁置かれる。全四一丁。一首一行一面一一行書きである。蔵
水尾院御製集 乾﹂の題簸がある。内題﹁後水尾院御製集﹂。遊紙は首
乾坤二冊︵ラベルは誤って坤冊が先になっている︶。縦二八・五セン
一〇行書き。朱の書入れあり。貼り紙による増補歌がある一本文とは
︿資料館﹀マイクロ 三三三−二四五−一
別筆一。蔵書印は﹁園林文庫﹂一長方印一、﹁青籍書屋﹂一方印︶、﹁正宗敦
③︻C九〇本︼﹁御水尾院 御 集 ﹂ 黒 川 文 庫 本
書印は﹁黒川真道蔵書﹂︵長方印︶一種のみ。乾冊は部類本で、その各
チ、横二〇・ニセンチの袋綴本。江戸中期写。薄茶の表紙中央に﹁後
縦二六・○センチ、横二〇・三センチ、袋綴一冊。江戸中期写。表
部後に﹁補遺﹂があるが、その﹁補遺﹂二字はすべて朱書である。
夫文庫﹂︵方印一がある。
紙は藍色無地で題簸が左肩に貼られ﹁後水尾院御集 全﹂とある。内
■
・
67
坤本は題簸に﹁後水尾院製集 坤﹂。﹁仙洞御着到百首﹂の内題を持
つ。遊紙は首一丁、尾一丁、墨付き三九丁。一首一行一面一一行書き。
校異の傍記、着到百首の日付、東照宮三十三回忌歌一六首の行.列の
︿資料館Vマイクロ 三三二−一二四−三
交点は朱書である。
の印がある。
︿資料館Vマイクロ 三三二−一二三−五
二 各本の内容
は不可能なので、具体的には国文学研究資料館のマイクロフィルムに
次に、各本の内容について略述する。細部にわたって記述すること
就いて見ていただきたい。
きく言えば、百首歌や歌会詠を原資料のまままとめて並べていく傾向
一3︶ 部類編集を中心とした本
の表紙左端に﹁元和帝の御詠﹂と墨書するのに加え、中央やや右より
をもつ場合︵これを本稿では﹁催事ごとの編集を中心とする本﹂と呼
﹃後水尾院御集﹄の形態は極めて多様であるが、その編集態度は大
に﹁後水尾院御集﹂と朱書。内題は︺兀和帝御詠草聞書﹂。遊紙は首一
ぶ︶と、原資料のまとまりをばらして類題的に再編集する傾向をもっ
縦二〇・○センチ横二二・九センチの袋綴一冊。江戸中期写。薄茶
丁で尾にはなく墨付き九五丁。一首一行一面一一行書き。後表紙見返
場合︵﹁部類編集を中心とする本﹂と呼ぶ︶に分かれる。ただし多くの
⑥百一四本︼﹁元和帝御詠草聞書﹂ 黒川文庫本
しに﹁享和三亥歳卯月 飛月楼﹂とある。あるいは本文と別筆か。蔵
本では折衷的に十首程度以上の規模の大きな定数歌はそのままとし、
群と定数歌群との組み合わせによる本﹂と呼ぶ︶。寛永十四年の仙洞着
それ以外の歌は部類してしまう態度をとっている。一本稿では、﹁部類
書印は﹁黒川真道蔵書﹂︵長方印一、﹁黒川真前蔵書﹂一長方印一がある。
⑦︻C八九本︼﹁後水尾院御集﹂ 黒川文庫本
到百首は多くの伝本に採られているし、ほかにも採録率の高い資料は
︿資料館﹀マイクロ 三三二−二四五−二
縦二六・三センチ横二一・○センチ袋綴一冊。江戸中期写。表紙は
ているのはいくらかづつまとまって写本で流布していた御会集の類で
別々のルートで資料を収集しているとしか考えられない。資料となっ
あろうと推定される。なお寛永十四年の仙洞着到百首は、﹃新編国歌大
あるが、全体に出入りが甚だしく、基本的にはそれぞれの編集者は
るものなり﹂と外題と同筆の朱書がある。内題はなく﹁春部﹂と始ま
観﹄本などでは百首であるが、伝本によっては同一の題に複数の歌が
水尾院御集 全﹂、同裏に﹁本書は後水尾院御集のうちの最も大成した
る。墨付き七二丁、一首一行一面一六行書き。蔵書印は﹁黒川真頼蔵
淡青色亀甲模様。左上に金砂子題簸﹁後水尾院御集﹂。見返し表に﹁後
書﹂一長方印︶、﹁黒川真道蔵書﹂︵長方印一のほか象を形どった未判読
−
■
68
①︻E一〇三本︼ 総歌数五〇三首。途中に不完全に部類された歌群
一1︶ 催事ごとの編集を中心とする本
特に末尾近くは御会集の形のまま︵他の歌人の歌もそのまま含んで︶
並ぶことがあり、百首を越えることも多い。増加している歌も後水尾
取り込んでおり、編集過程を窺わせる。
もあるが、原資料のまとまりが保存されているのでここに分類した。
以下の説明では定数歌は最初の歌の歌題を取って﹁﹁処々立春﹂十
・定数歌群
明確でない。
首﹂などと称することがある。﹃新編国歌大観﹄本一底本は内閣文庫
着到百首、﹁処々立春﹂十首一E︶、﹁南枝暖待鶯﹂十首、﹁春暁
院の歌である一﹃新編国歌大観﹄本では部類群にある︶が、その由来は
歌群との組み合わせで構成された本に属する。
本一の構成を試みに示せば次のようになる。見る通り、部類群と定数
月﹂十首、﹁落梅浮水﹂五首
・部類群一二一⋮春5恋、三六首
’
・部類群︵一︶⋮春−釈教、四八首
春一九八首、夏七一首、秋三二二首、冬八二首、恋一四二首、
・以下未整理、中に﹁故郷梅﹂十首、﹁九月士二夜﹂十三首一H︶、
69
’
・部類群
雑一二首、神祇一二首、釈教二七首、賀二四首、雑雑五三首⋮
﹁早春霞﹂十首︵B︶を含み、また他の歌人を含めた御会記録八種
一2︶ 部類群と定数歌群との組み合わせによる本
ほどを含む。
計一〇六七首
・定数歌群
十首一通村評語付き1lA一、﹁早春霞﹂十首一11B︶、﹁不知夜月﹂
基に増補を加えた内容。部類群は﹃新編国歌大観﹄と同じ類題構成の
②︻1四三本︼ 総歌数一五二〇首。﹃新編国歌大観﹄本と類似の本を
着到百首、﹁早春鶯﹂三十首一智仁親王点、各題二首︶、﹁故郷梅﹂
十首一11C一、﹁雲外郭公﹂十首︵1lD︶、﹁処々立春﹂十首一1I
中に新たな歌を挿入している。増補は二段階あり、この本の書写時に
E︶、﹁朝霞﹂十首一1IF一、﹁嶺上霞﹂十首︵HG一、﹁九月十三
夜﹂十三首一通村評語付き1lH一、﹁七夕月﹂七首︵HI一、﹁菊映
すでに増えていたものと、後から別筆で補われたものとがある。春部
挿入されている。注意してみればマイクロフィルムでも筆の違いは判
加しており、さらに別筆で四首︵貼紙三首、余白への書入れ一首︶が
を例にとると、﹃新編国歌大観﹄一九八首に対し、書写時すでに五首増
月﹂九首一1−J︶、﹁春暁月﹂二十首︵11K︶⋮計二七九首
・増補群一﹁雑雑次第不同﹂︶⋮八○首
各定数歌に付したアルファベットは以下の諸本の説明においても用いる。
はかなり入れ替わる。定数歌の歌数順に改めたためである︶が、さら
定数歌群は﹃新編国歌大観﹄にあるものはすべて含む一ただし順序
別可能 で あ ろ う 。
・雑載
首、恋四四首、雑四九首
﹁御当座分﹂として、春五二首、夏一八首、秋四三首、冬二〇
・部類群
他の歌人をも含めた御会記録二種ほか。
に﹁山早春﹂五十首、﹁嶺上霞﹂十首一Gとは別のもの一、﹁海辺霞﹂十
首一﹃新編国歌大観﹄部類群二二四七−;一五九と同題だが歌は別︶を
部類群は﹃新編国歌大観﹄とは全く別の編成であり、歌題の配列を
綴じられている一右の歌数は錯簡を正した形である一。着到百首は百二
持つ。しかし実は最初の着到百首のみが本来の筆跡で、それ以外は別
はいくつかの定数歌をもすでに有していたが、順番を再編するために
十首に達する膨張した形態のものとなっている。
■
っている。なお部類群の恋部末尾の一丁が雑部初めの丁と入れ違って
それは棄てて、改めて書き直したという可能性もある。
④︻C七六本︼ 総歌数五九九首。
70
■
見ても完全に部類整頓されているとはいえない、ゆるやかな態度を採
﹃新編国歌大観﹄本の末尾にある増補群一﹁雑雑次第不同﹂一の部分
・定数歌群
らすぐに奥書﹁此一冊⋮﹂へ直結していたものと想像される。あるい
はこの本にはない。部類群・定数歌群へ挿入された歌も、﹁雑雑次第不
着到百首、﹁処々立春﹂十首一E一
筆︵貼紙と同筆一による補写である一紙質も違う一。もとは着到百首か
同﹂所収の歌とは必ずしも一致しない。従って、︻1四三本︼の基にな
四首、その他の小歌群一﹃新編国歌大観﹄本の部類群末尾に置か
春八七首、夏三八首、秋九四首、冬二八首、恋五〇首、雑一一
れている類︶四二首
・部類群
数歌群も着到百首以外は持っていなかった可能性がある。
・増補群
った本︵増補以前の本︶は、﹃新編国歌大観﹄本と同内容ではなく、そ
﹃後水尾院御集﹄の本文が増補されていく過程を見せるものとして
春六首、秋五首、その他六首
の末尾増補群をまだ持たない形態であったことがほぼ確実で、また定
興味深い本である。
性はない。こちらはかなり丁寧に部類されている。
構成は︻C九〇本︼と似ているようだが全く別内容。部類群も共通
⑤︻C九八本︼ 総歌数七八二首。部類群は乾冊に、定数歌群と催事
少ない本である。
・定数歌群
③︻C九〇本︼ 総歌数三七九首。今回調査の七本のうち最も歌数の
着到百首、﹁故郷梅﹂十首一A一
以下、催事、他の歌人を含めた御会詠、漢詩と和歌の十首詠等の歌
十首一C︶、﹁九月十三夜﹂十三首一H一
一D一、﹁七夕月﹂七首一1︶、﹁菊映月﹂九首︵J︶、﹁不知夜月﹂
﹁嶺上霞﹂十首一C一、﹁故郷梅﹂十首一A︶、﹁雲外郭公﹂十首
着到百首、花三十首、﹁処々立春﹂十首一E︶、﹁朝霞﹂十首一F︶、
・定数歌群
た配列構成をねらったためであろう。
定数歌の順序はかなり入れ替わっているが、それは季節の推移に従っ
坤冊は﹃新編国歌大観﹄本定数歌群の多くを有し持つ。十首以下の
補遺三二首、冬五〇首、補遺一二首
春一四二首、補遺二六首、夏五〇首、補遺五首、秋一一九首、
・部類群
夏秋冬それぞれに増補がある。
の歌等は坤冊に収められている。部類群は四季以外の部類はなく、春
首ある。同じ部類編集でありながら︻H一四本︼とは別個のものであ
書類従﹄に脱落した歌が秋部に一首、後半雑載の哀傷歌群に一首計二
首一一首欠︶を含む種々の大小歌群が雑載されている。なお﹃続続群
後半部分には連歌、発句、﹁早春霞﹂十首︵B一、﹁九月十三夜﹂一二
雑一一一首、神祇一九首、祝二一首、釈教二三首
春二六八首、夏九七首、秋二四七首、冬八三首、恋一四四首、
・部類歌群
⑦︻C八九本︼ 総歌数二六六首。﹃続続群書類従﹄の底本にあたる。
ることが窺われる。部類による全歌集的傾向を持つ。
るいは編集者白身の撰歌本に増補を加えながら編集作業にあたってい
増補部分は他本との照合によるもので、すでに部類されていた本あ
十首
五首、雑一四九首、増補一一首、釈教一八首、増補二首、神祇
三首、増補四首、恋一三三首、増補一〇首、哀傷四八首、増補
補;一首、冬九一首、増補七首、賀四三首、増補三首、轟旅一
加する。末尾には狂歌、俳講発句等が二十首ばかり混載されている。
はこれまでの伝本同様、各本相互に関連性がほとんどみられないもの
﹃後水尾院御集﹄の書誌と内容について紹介を試みたが、対象七本
まとめ
り、相互に関連性は見られない。
群が十種余りある。
一3一部類編集を中心とした本
⑥︻H一四本︼ 総歌数一二一六首。御会詠、催事、定数歌等制作場
・部類歌群
であった。歌集構成を﹃新編国歌大観﹄と比較してみても同じ内容の
所、制作年に関係なく部類分けされた本。各部末尾にさらに増補を付
春二二一首、増補七首、夏八六首、増補三首、秋二二九首、増
■
■
71
別々の目的で編集され伝存されてきたものと思われる。今後さらに多
ものは一つもなく、−総歌数にもばらつきが見られる。各本はそれぞれ
くの資料にあたり詳しく調査しなければ、全体像はつかめないであろ
う。しかし、一私歌集が多くの人々によって生成、成長していく過程
を窺うことができる点で、興味深い資料群であるということはできよ
う。以後の研究を待ちたい。
本稿は平成十二年度国文学研究資料館特別共同利用研究員として、
浅田徹先生の指導を仰ぎ作成したものである。心から御礼申し上げる
と共に、貴重な資料閲覧の便宜を図ってくださった本学図書館の三好
澄子氏 の 御 高 配 に 深 く 感 謝 す る 。
一ひらい けいこ/博士後期課程三年在籍︶
−
−
72
会
学
文
本
日
日
語
本
学
大
子
女
一
、し
、︶﹂ー
圭目
ム
ダ
ル
ト
ー
ノ
一
、︶﹂1
﹃武家義 理 物 語 ﹄ 序 文 考
﹁義理に身を果せる﹂
の暖味さ
進
し﹂といへるやうに、作者の企図は、武士の第一義即ち主君のた
島
山
めに尽すの精神を発揮した説話を集め綴らうとしたものであらう
広
本稿は﹃武家義理物語﹄一貞享五年二月刊、 以下﹃武家義理﹄と略
が、実際はこの宣言に添ふものとはいへない。︵藤村乍﹁武家義理
す︶の序文を対象として、序文と本文の関係、 序文執筆の意図につい
の意見が述べられてきた。
て考察することを目的とする。
物語﹂項目解説、﹃日本文学大辞典﹄新潮社、昭和九年刊、傍点広
嶋、以下同じ︶
﹃武家義理﹄序文後半部分には、周知のように次のようにある。
︵﹃武家義理﹄序文の西鶴の一義理観をみると、彼は素行らと同じ
藤村以後、序文と本文とが﹁添ふものとはいへない﹂とする、同様
その
ように、戦国武士の激情的な倫理と行動を否定し、新しい武士の
其家業、面々一大事をしるべし。弓馬は侍の役目たり。自然のた
倫理観に共鳴しているように思える。︵略︶/しかし彼の作品
︵﹃武家義理﹄︶を注意深く読むと、われわれは予想に反した事実に
論評した最初のものは、藤村作の﹁解説﹂である。
これまでいくつかの見解が提出されてきた。本格的に序文を取り上げ、
右の序文の説くところと﹃武家義理﹄本文の各話の関連について、
官僚化された近世の支配原理にあってもなお、個人としての武家に
﹃武家義理物語﹄においても、武家社会の内的規範としての義理が、
昭和四十四年刊︶
もまがうべき意地であり、︵源了圓氏﹃義理と人情﹄中央公論社、
出会わざるを得ない。彼の描いた義理は、時には﹁喧嘩口論﹂と
序文に﹁弓馬は侍の役目たり。︵引用略、広嶋︶是に集る物なら
集る物ならし。
めに、知行をあたへ置れし主命を忘れ、時の喧嘩・口論、自分の
月
8 事に一命を捨るは、まことある武の道にはあらず。義理に身を果
年
るい こ・
01 せるは、至極の所、古今その物がたりを聞つたへて、其類を是に
20
号
3
第
文
語
、し
圭目
.
一
73
の帝文において、以上のような立場と矛盾するような叙述をなして
生き残っている姿を描いたものである。/ところが西鶴は、この書
と述べ、序文と本文の内容とに齪齢はないとした。
試論﹄和泉書院、平成三年刊、所収︶
﹂﹃近世文芸﹄30、昭和五十四年三月、のち井口洋氏﹃西鶴
二年刊一で私見を述べたことがある。右の﹁解説﹂と重複するところ
﹁解説﹂︵新編日本古典文学全集69﹃井原西鶴集﹄4、小学館、平成十
私は﹃武家義理﹄の序文と本文との関連について﹃武家義理物語﹄
いる。一森山重雄氏﹃西鶴の世界﹄講談社、昭和四十四年刊一
に、その見解一序文中の見解︶に即した、君臣の義理に関わるも
もあるが、序文と本文との関係について改めて論じてみたい。
しかしそこ一﹃武家義理﹄本文一に集められた具体的説話を見る
それでよいとして、中には明らかに序文の趣旨とは相反したもの
二
のは少なく、多くは朋輩同士の義理を写したものである。それは
さえ混っているのである。一重友毅氏﹃西鶴の研究﹄文理書院、昭
和四十九年刊一
戦国時代の武士道と近世の武士道とが異なるものであることを、明
これらを承けて田中邦夫氏は、序文と本文の不一致は、
喧嘩の理解をめぐる一戦国時代以来の一武士道と儒教的十道論の
平和の時代の武士が君臣主従の秩序を絶対的のものとして、偏に
確に指摘した最初の思想史研究者は、津田左右吉である。
それを傷つけないやうに考へるのも、また当然のことであらう。
思想的対立を深く考えようとせず、武士道を絶対化している西鶴
とした。一方、井口洋氏は、序文中の﹁義理﹂とは﹁屋敷の上にての
一﹃文学に現はれたる我が国民思想の研究﹄﹁平民文学の時代上﹂第
れを打ち破るほどに強烈な功名心と我欲とがあったのであるが、
奉公﹂から﹁戦忠の奉公﹂への﹁連続を保証する規範にほかならない﹂
一篇第十三章﹁武士道上﹂、東京洛陽堂、大正七年刊。引用は津田
主従の関係は戦国武士の生活の基礎であつたものの、一方ではそ
とし、
の︵町人的一思想にもとづく一﹁西鶴の武士道観 ﹃武家義理物
主題とする﹁武家義理﹂とは、﹁自然﹂のときの﹁主命﹂に応えて
左右吉全集別巻4、昭和四十一年刊による︶
語﹄の序文について ﹂﹃大阪経大論集﹄昭和五十四年三月一
﹁一命を捨つる﹂ことを究極とし、それに通ずることを規範とする
また和辻哲郎は、儒者によって説かれた徳川時代の武士の倫理を特に
中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行等の学者がつぎくに十道に関す
﹁士道﹂と名付け、次のように述べている一注土。
精神である。 という序文の主旨はしかも、従来は主題の将外
に貫流していた。一﹁恨の数読永楽通宝 ﹃武家義理物語﹄試論
に出るとされてきた各章にも、実はそれらにおいてかえって明瞭
■
−
74
としてその堅固な主従関係に基くのであるが、しかし徳川氏はこ
あつたからである。/江戸幕府を形成せしめた徳川氏の勝利は主
る新しい思想を唱道し、元禄に近づくに従つて一世を風廃しつ・
を捨るは、天理にそむく大悪人、いか程の手柄すればとて、是を
身相応の知行をあたへ置れしに、此恩は外になし、自分の事に身
つと道ならず。子細は、其主人、自然の役に立ぬべしために、其
ふせ、首尾よく立のくを、侍の本意のやうに沙汰せしが、是ひと
ようとはしなかつた。︵﹁武十道﹂岩波講座倫理学12、岩波書店、
序文と比べて注目されることは、右では﹁鞘とがめ﹂﹁無用の喧嘩﹂の
高名とはいひがたし。一巻三の一一
たて ママ
の立場に於ける伝統的な武者の習を新時代の武士道として鼓吹し
昭和十六年刊一
一支配者的為政者的徳性を重んずる思想は一人倫の道を天下に実現
捨る﹂﹁むかし﹂の武士を﹁道ならず﹂として否定し、﹁近代﹂の﹁武士
心のおさめやう﹂と対比していることである。そして﹁自分の事に身を
﹁勇﹂を﹁むかし﹂の﹁侍﹂のありようとし、﹁近代﹂の﹁武士の身持、
することを武士の職分とする思想に結晶していった。この傾向の
の身持、心のおさめやう﹂を肯定していることである。さらに﹁各別に
相良亨氏も和辻説を発展させて左のように記す。
思想が一般に士道と呼ばれ、この士道が公には近世の武士の思想
替れり﹂として、﹁むかし﹂と﹁近代﹂の武士の有様の変化 すなわ
竹島・滝津両人の﹁無用の喧嘩﹂の描き方には、右にみたように、
を主導することになった。これに対して、近世の太平な時代にな
武士道の問題点から目を逸らしている姿勢がある。その姿勢には
ち武士道から士道への変化 を的確に把握していることである。
とになった。︵﹁武士の思想﹂、相良亨氏編﹃東洋倫理思想史﹄北樹
儒教的士道論と武士道との関連を突き詰めて考えることの出来な
田中邦夫氏は本章に関して、
出版、昭和五十二年刊、所収。のち相良亨著作集3、ぺりかん社、
うけ継いだものがあり、これが多くの場合、武士道と呼ばれるこ
平成五年刊、所収。引用は後者による一
い西鶴の町人的思考があらわれていると考えられるのである。一田
っても依然として献身のいさぎよさを重んずる伝統を中核として
これらを踏まえ、序文の内容を、類似した表現のある章と比較して
と述べるが、しかし、﹁近代は⋮⋮各趾に替れり。﹂﹁白分の事に身を捨
中氏前掲論文一
るは、天理にそむく欠蚤ル﹂と記しているのであるから、作者は、武
検討してみよう。周知のように、巻三の一﹁発明は瓢箪より出る﹂の
近代は、武十の身持、心のおさめやう、各別に替れり。むかしは、
士道と士道の異質性とその変化を十分に認識していたと考えるべきで
冒頭には、序文と相似した文章が綴られている。
勇をもっぱらにして、命をかろく、すこしの鞘とがめなどいひっ
あろう。
その あるひ
のり、無用の喧嘩を取むすび、其場にて打はたし、或は相手を切
’
’
75
自然のために、知行をあたへ置れし主命を忘か、時の喧嘩・口論、
とする叙述は、﹁自分の事に身を捨る﹂ことを悪とするが、何が善なの
自分の事に一命を捨るは、まことある武の道にはあらず。義理に
か、﹁恩﹂に報ずるにはどうすればよいのかを、具体的に語ってはいな
﹁されば武士の身は、何国を住家と定めがたし。白分の外、人の事
刊︶巻四の三﹁市にまぎる・武士﹂の一節を取り上げて、序文と比較
にも義理の一命を捨るも習ひぞかし。主人の御役にたち、武家至
身を果せるは、至極の所、
さらに、序文とよく似た記述のある﹃新可笑記﹄一元禄元年十一月
極の事に命の果るは、毛頭くやむにあらず。或は親類の禍、相役
とするが、﹁まことある武の道﹂が何なのか、﹁義理に身を果せる﹂こ
いことが明らかである。同様に﹃武家義理﹄序文においても、
又は傍輩の中にぜひもなき一味、すこしの事に身を捨るなど、さ
ことが分かる。右の序文では﹁主命を忘れ﹂ること、﹁自分の事に一命
とがどういうことを指すのかは暖味であり、明確に語られてはいない
してみる。
分際相応の所領に預り、私の事に命を果すは、木石同事の心底な
を捨る﹂ことを単に否定しているだけなのである。
りとは口惜き仕合、一分の理り立がたく、其家を失ひける。其身
り。其働き勝れ、相手大勢を打て、何の高名には成がたし。誠は
自分の意趣堪忍して、主命の時進むを、侍の本意といへり。是を
多くの西鶴研究者は、序文中の﹁義理に身を果せる﹂という語句を、
三
右の記述で特徴的なことは、﹁義理の一命を捨る﹂ことに﹁自分﹂の事
ととしてきた。しかし、そもそも西鶴の他の作品の用例から類推して、
藤村作以来﹁武士の第一義即ち主君のために尽す﹂と解し、自明のこ
記﹄巻四の三一
考へ身の用心すべしと、かしこき人此道を示されし。﹂︵﹃新可笑
と﹁人の事﹂の二種があるとしていること、﹁親類﹂や﹁相役又は傍輩﹂
其主人、自然の役に立ぬべしために、其身相応の知行をあたへ置
この﹃新可笑記﹄の一隠士の発言と比べると、﹃武家義理﹄巻三の一で、
極の事に命の果る﹂ことであると、明瞭に語っていることである。
六月︶。氏は、西鶴の浮世草子二十五作品に見られる、﹁義理﹂の用例
文がある一﹁西鶴における義理意識﹂﹃愛媛国文と教育﹄昭和五十四年
白方勝氏に、西鶴作品における﹁義理﹂の用例を検証、分類した論
することは可能なのであろうか。
﹁義理に身を果せる﹂を﹁主君のための忠義に身を果せる﹂ことと解釈
のために﹁身を捨る﹂ことは﹁私の事に命を果す﹂ことに等しいこと、
れしに、此駄ぼ外にかレ、自分の事に身を捨るは、天理にそむく
八十八を八つに大きく分ける一﹁一武士の義理﹂﹁二衆道の義理﹂﹁三遊
そして結局、﹁主人の御役にたち﹂﹁︸かか降倉か﹂ことのみが﹁武家至
大悪人
■
−
76
への真節﹂﹁八道理・筋道﹂一。そして﹁一武士の義理﹂に関しては﹁a
女の義理﹂﹁四世問の義理﹂﹁五おつきあい﹂﹁六恩義への返報﹂﹁七夫
武士としての正しいあり方﹂﹁b武士としての責務﹂﹁c武士の体面.
⑫義理に身捨るはほめ草の事一﹃伝来記﹄巻七の二・目録一
⑭義理の道、たてるも立ざるも、一﹃伝来記﹄巻八の三一
⑮義理に身を果せるは、至極の所、一﹃武家義理﹄序一
る。氏の調査・分類を参考にしながら﹃武家義理﹄序文の﹁義理に身
⑭義理につまりて牢人して、︵﹃武家義理﹄巻五の一一
⑪人間の義理程かなしき物はなし。︵﹃武家義理﹄巻一の五︶
家義理﹄巻一の五︶
⑳人間定命の外、義理の死をする事、是弓馬の家のならひ。一﹃武
を果せる﹂の意味について考えてみよう。
⑲武士は義理死に世に惜む事一﹃新可笑記﹄巻一の二・目録一
面目﹂﹁d敵討﹂﹁e武士としての契約・約束の履行﹂の五つに分類す
氏の調査によれば、﹁武士の義理﹂の例文は次の通りである一〇内の
武士の義理
C武士の体面・面目
巻一の二︶
⑯義理づめ、意趣の外は、鞘とがめなかりき。一﹃俗つれづれ﹄
⑫人の事にも義理の一命を捨るも習ひ︵﹃新可笑記﹄巻四の三︶
数字は白方氏の付した用例の通し番号。ただし、氏は一覧表において
a武士としての正しいあり方
⑳二人義理を立、相果べき事︵﹃新可笑記﹄巻一の二︶
例文を記してはいないので、それを補った︶。
⑲むかしの義理・外聞も 入 ら ず 、 ︵ ﹃ 懐 硯 ﹄ 巻 四 の 一 ︶
⑬是非もなき義理にて、御暇申請、︵﹃武家義理﹄巻四の一︶
⑳私ぴ敵とて、討べき義理に非ず。一﹃伝来記﹄巻六の四一
d敵討
⑮大晦日はあはぬ算用 義理一﹃諸国ばなし﹄巻一の三・目録︶
⑱武士の義理をもかへり見ず、一﹃伝来記﹄巻四のこ
⑯段々義理にっまって、一﹃諸国ばなし﹄巻五の四︶
e武士としての契約・約束の履行
b武士としての責務
⑳武士は情と義理とやめぬ事一﹃男色大鑑﹄巻四の三.目録︶
⑳約束の義理が欠るといふて、︵﹃伝来記﹄巻三の三一
⑤恋もすたりて、義理一筋の念比、︵﹃二代男﹄巻七の一︶
⑳御命は、義理の預り物にあらずや。一﹃伝来記﹄巻五の三一
⑳情あまり義理ふかく、一﹃男色大鑑﹄巻四の三一
の五︶
⑳人の身の義理死程、つれなき物はなかりき一﹃男色大鑑﹄巻四
⑯⑳⑱⑲⑫⑱⑳の用例省略
︵右のa−eの区分は便宜的なものであり、用例が二つの区分に重複す
⑳世間の義理ゆへに一﹃男色大鑑﹄巻七の三一
⑳武士の義理程、是非なき物はなし。一﹃伝来記﹄巻五の三一
−
■
77
﹁義理に身を果せる﹂の語義を確定することのみを目的とするので、以
るものもある。また⑪⑬はbに分類すべきであろう。ここでは、⑮
義の死﹂の意味は含まれていない。
を結んだ若者が相手の男の後追いをする話であり、⑳に﹁義理死1−忠
いう語を﹁忠義﹂と同一の意味で使っている用例を見出すことができ
右の一覧表において、さらには西鶴の浮世草子作品中で、﹁義理﹂と
拶の無礼をめぐる争いの話で、⑳﹁武士の義理﹂とは体面を保つ武士
く、世問の思はくばかり恥て﹂とある用例である。右は、馬上での挨
に﹁武士の義理程、是非なき物はなし。両人が最後は、何の遺恨もな
⑳⑫⑭は﹃伝来記﹄の例である。⑳は、巻五の三﹁不断心懸の早馬﹂
るのであろうか。
の例文で、⑫﹁義理に身捨る﹂は、若衆が養い親と推挙してくれた家
の道徳の意である。⑫は同書巻七の二﹁若衆盛は宮城野の花﹂目録中
上の白方氏の類別に従うこととする。一
acdeのそれぞれの用例は、a⑲﹁むかしの義理・外聞﹂、c⑳
老との板挟みとなって自害することを指す。⑭﹁義理の道﹂は同書巻
﹁二人義理を立﹂、d⑳﹁敵とて、討べき義理に非ず。﹂、e⑳﹁約束の
義理﹂という例が示すように、﹁義理11忠義﹂の意で用いられてはいな
かである。
左の四例は短い引用文からも﹁義理11忠義﹂の意ではないことが明ら
取り上げられ分析されているように一注2一、﹁義理11忠義﹂の用例はない。
⑩⑪⑭は﹃武家義理﹄の例文で、﹃武家義理﹄を論ずる論文で、すでに
就をいう。すなわち⑳⑫⑭は、主君への忠義とは無関係の用例である。
八の三﹁幡州の浦浪皆帰り討﹂のなかにあり、具体的には敵討ちの成
ママ
⑯段々義理につまつて、
最後は⑲﹁武士は義理死世に惜む事﹂で、﹃新可笑記﹄巻一の二﹁ひ
い。検証すべき用例は、bの十五例である。そしてbの十五例のうち、
⑳世問の義理ゆへに
とつの巻物両家にあり﹂の目録中の語句である。右の⑲﹁義理死﹂は
めの死の意味ではない。
C⑳﹁義理を立、相果べき事﹂一同巻一の二一の意に等しく、忠義のた
⑫人の事にも義理の一命を捨る
したがってbの残りの十例⑳⑳⑳⑳⑳⑭⑳⑩⑭⑲が問題であり、それ
⑯義理づめ、意趣の外は、鞘とがめなかりき。
また、紙幅の都合で省略するが、︺一衆道の義理﹂﹁三遊女の義理﹂
﹁四世問の義理﹂﹁五おつきあい﹂﹁六恩義への返報﹂﹁七夫への真節﹂
らを検討すればよいことになる。順に見てみよう。
﹁八道理・筋道﹂のなかの用例にも﹁義理11忠義﹂の例はない。
以上を要するに、一﹃武家義理﹄序⑮﹁義理に身を果せる﹂の﹁義理﹂
る。本章は一人の若衆をめぐる二人の武士の三角関係の話であり、こ
のことからも分かるように⑳⑳の﹁義理﹂に﹁忠義﹂の意味はない。
の語義を保留すると︶西鶴の浮世草子中で、﹁義理﹂の語を﹁主君への
⑳⑳は共に﹃男色大鑑﹄巻四の三﹁待兼しは三年目の命﹂の例であ
⑳も同書巻四の五﹁色喋ぎは遊び寺の迷惑﹂の例である。男色の契り
一
.
78
忠誠﹂や﹁忠義﹂の意味で使用している例はまったくない一注3一。した
論理的な文章となるであろう。
せずに次のように記述されているのであれば、現行の序よりも明快で
意趣堪忍して、主命の時進み、主人の御役にたち、忠義のために
自分の事に一命を捨るは、まことある武の道にはあらず。白分の
A自然のために、知行をあたへ置れし主命を忘れ、時の喧嘩・口論、
がって、西鶴作品の語例のみから、序⑮﹁義理﹂の意味を類推し帰納
するならば、﹁義理に身を果せる﹂を﹁忠義に身を果せる﹂の意味とす
ることはできないということになる。
意の語例を見出すことは可能である。
さか
君の前、時めく人の為ばかりに賢しく見えて、心には義理も恩も
このように書かれていれば、﹁自分の事﹂を否定し﹁主命の時﹂を第一
の三による。﹁忠義のために﹂は広嶋の補い︶
命の果るは、至極の所、一傍線部の語句は前出﹃新可笑記﹄巻四
知らぬ濫れ者を一注4一、︵﹃清水物語﹄上、寛永十五年刊一
のとなっていたと思われる。しかし西鶴は﹃武家義理﹄序をそのよう
とする、近世士道論の立場から記された序文として、首尾一貫したも
しかしながら、近世前期の教訓書において﹁義理11主従の忠義﹂の
数尤相云の主君なれは見捨て申さじと、義理の奉公仕たる心ざし
あぷ
は、一注5一一﹃身の鏡﹄下、万治二年刊一
には綴らなかった。彼は﹁義理に身を果す﹂という語句を使って、む
ひとりみ
忠臣の者は、君独身に成事あれども、二心なきもの也。義理をし
しろ、意図的に暖昧な行文をしたのではないかと推定される。西鶴は、
ことは、当時の用法からすれば、必ずしも誤った解釈ではないことに
したがって、﹁義理に身を果せる﹂を﹁忠義に身を果せる﹂と解釈する
序/︵略︶古く中国においては本文の後に付したものであった。
一般に、序文は本文作成の後に書かれるものであるという。
られる。
が包括的で、多義的なものになるように工夫したのではないかと考え
﹁まことある武の道﹂の意味が限定されることを避け、﹁義理﹂の内容
らず身をたてんと思ふものは、君の大事におよぶ時に、一注6一︵﹃本
なる。問題は、序文において﹁義理11忠義﹂とするならば、そのよう
本文を書き上げた後に執筆するのが一般的であったからであると
佐録﹄寛文頃成立か一
の用例としては孤立することである。
な語例は西鶴の言葉の使い方においてはきわめてまれで、西鶴作品中
いう。一高木元氏執筆﹁序﹂の項、﹃日本古典籍書誌学辞典﹄岩波
今日、序文は本文の前にあるとはいえ、本を書くのに、序文から
書店、平成十一年刊一
ところで、序文中の﹁身を果せる﹂﹁至極の所﹂という言葉は、極隈
書き始める人はまずない。シナでは、古くは、序文は本文の末に
の、最上級の形容の語句であり、﹁主人の御役にたち、武十蚕瞥か事に
辞である。それゆえ、もしも、序文の後半が、﹁義理﹂という語を使用
命の某か﹂一﹃新可笑記﹄巻四の三︶といった状況の時に用いられる文
■
’
79
西島孜哉氏と森田雅也氏は、序文は本文が成った後に付されたとし
の項、三省堂、昭和五十四年刊一
例を見れぱわかろう。︵長澤規矩也編著﹃図書学辞典﹄﹁じょぶん﹂
あったものである。史記一太史公自序︶や説文解字や論衡などの
三年﹁武家諸法度﹂の条文を意識して書かれた諸章である可能性が高
右の五章である。そしてこれらは将軍綱吉によって改定された、天和
する一
巻六の四﹁形の花とは前髪の時﹂一若衆をめぐる果たし合いを中止
レ
、 一注9︶o
れたとするならば、西鶴はすでに書き終えた一あるいは書き終えつつ
たとえば、安房勝山藩主・酒井忠胤︵天和三−正徳二年在任一はそ
人よりおもかるべし。一注10一一天和三年七月二十五日﹁武家諸法度﹂一
者、達二奉行所一、可レ受二其旨。。不レ依。﹂何事一令二荷坦一者、其答本
一、吐降圧諭可レ如謹慎一。秋之蔽諭卸一禁之一。若無レ拠子細有レ之
ある一本文二十七章を統括するものとして、前出の序文を執筆したこ
の﹁家訓﹂︵元禄十二年成立︶で、
一注ヱ。﹃武家義理﹄の序文も、右の二作品と同様に本文成立後に執筆さ
て、それぞれ﹃懐硯﹄と﹃西鶴諸国ばなし﹄の作品論を展開している
とになる。
一、喧嘩争闘は、武士の辱を受て、不レ得レ已相果し、身を潔くする
の儀ありといへ共、義を以てする者まれに、非義之死は多し。一略︶
で主張されている﹁時の喧嘩・口論、自分の事に一命を捨るは、まこ
とある武の道にはあらず。﹂に関しては、本文中に対応する章がいくつ
る臣として、忘公事は、私事不忠不覚悟、不レ及一一是非侯。一注11一
士道に無レ害事は令一堪忍一ば、争闘は有レ之問敷也。身を任せ命を委
序文と本文の不一致をこれまで問題にしてきたが、実は序文のなか
かある。それらは喧嘩・口論や敵討ちが回避されたり、中止される話
としている。﹁喧嘩争闘をするな﹂﹁公事を忘れるな﹂という教訓は、
の章である一注8一。すなわち、
﹁武家諸法度﹂に従ったものであるという︵小澤富夫氏一注12一一。右の
かへで
巻二の四﹁我が子をうち替手﹂︵鞘とがめによる喧嘩から発展しか
けた敵討ちを、父親が回避させる︶
一である。これらのことは﹃武家義理﹄の五章が、綱吉の﹁武家諸法
﹁家訓﹂は巻六の三を中心とする、前出の﹃武家義理﹄五章の主旨と同
度﹂を意識しつつ書かれたことの傍証となるであろう。
侍が中止させる一
巻三の一﹁発明は瓢箪より出る﹂○言葉とがめによる喧嘩を、ある
巻三の五﹁家中に隠れなき蛇嫌ひ﹂︵言葉とがめによる喧嘩を、あ
に書き終えた、あるいは書き終えつつあった、
西鶴は﹁義理に身を果せる﹂という唆味を言辞において、それまで
多くの章の、一分や面目を守る武士道の﹁義理︵人として踏み行
る奉行が自ら中止する︶
止する一
巻六の三﹁後にぞしる・恋の闇打﹂一敵討ちを主命の用の時ゆえ中
−
80
■
うべき道及び忠義︶﹂
右五章の、﹁喧嘩口論﹂を回避する士道の﹁義理︵人として踏み行
うべき遺一﹂
出る﹂は﹁喧嘩の中止﹂﹁今﹂のみがあり、﹁主命第一﹂のモチーフが
で、三要素が完備しているわけではない。巻三の一﹁発明は瓢箪より
五章には﹁喧嘩または敵討ちの中止﹂のモチーフが共通してあるのみ.
﹁主命第一﹂をテーマ及びモチーフとする章は、右の五章のうち巻六の
中止﹂﹁主命第一﹂の二要素があるのみである。つまり、最も重要な
三の一章しかないのである。
欠けている。また、巻六の三﹁後にぞしる・恋の闇打﹂は﹁敵討ちの
章群とを、ひとつの序文で代表させようとしたのではないだろうか。
私は序文の説くところと本文中の武士道や士道のあり方との関係と
の両者の意味を重ね合わせ、旧来の武士道の心情と行動を描く多数の
このことはまた、序文末尾に﹁義理に身を果せるは、至極の所、古
をこのように認識するが、井口洋氏は対立する見解をとる一前掲論
章群と、網吉政策に合致した士道に基づく武士の行動を描いた異質な
今その物がたりを聞きつたへて、其類を是に集る物ならし。﹂とあるこ
文︶。氏は、序文に記された﹁武家︵の︶義理﹂を﹁屋敷の上にても奉
−
はあるが、しかし西鶴は﹃武道伝来記﹄︵貞享四年四月刊︶序文で﹁中
公﹂から﹁戦忠の奉公﹂への﹁連続を促証する規範﹂と捉える。そし
とからも裏付けられよう。﹁古今その物がたり﹂とは、類型的な表現で
左武道の忠義、諸国に高名の敵うち、其はたらき聞伝て、﹂と記し、
﹁主命﹂に応えることを究極とする﹁武家義理﹂に基づいて行動してい
三の一﹁発明は瓢箪より出る﹂等の主人公たちは、﹁自然﹂のときの
を回復することを第一とするものであった。こういった、主従関係よ
づくものと評しうるが、彼のとった行動は自分の恥辱を晴らし、面目
−
81
たがって﹁古今その物がたり﹂とは、文字通り﹁古の義理の物がたり﹂
て巻四の三﹁恨の数読永楽通宝﹂、巻三の三﹁具足着て是みたか﹂、巻
よむ
と﹁今の義理の物がたり﹂の意と解される。そして、前者は旧来の武
の主人公が島原の乱にあたってひきおこした事件及び自害を﹁﹃自然﹄
るので、序文との矛盾はない、と読み解く。たとえば氏は、巻三の三
﹁今﹂の﹁敵うち﹂を︵実質はともかくも︶対象から除外している。し
士道の義理の物語、後者は近代の士道の義理の物語ということになる。
のときが至ったのに、﹃主命﹄に応えられない歎きから始まっ﹂たもの
そのように考えるならば、﹃武家義理﹄の序文の全体は、異質な二群を
縫合して一作品として提出しようとした、西鶴の計略のあらわれと読
とする。しかしながら巻三の三において、主人公が堪忍し、仲間を殺
ーマとしている章群と見なすことはできないようである。序文から類
さず、自殺しないのであれば、その行為を主命第一の近世の士道に基
み取ることができる一注13一。
推するならば、近代の士道を巡る章には﹁主命第一﹂﹁喧嘩口論の中
りも名と恥を重んずる主人公の倫理のあり方こそ、戦国時代以来の武
しかし、前述の喧嘩回避が描かれた諸章は、近代の士道を明確にテ
止﹂﹁今﹂という三つの要素が含まれることになるはずだが、これらの
だ﹂﹃江戸の思想﹄七、平成九年十一月一。
2 源了圓氏﹁西鶴における義理 義理の原初的形態について−
士道に基づく態度と言わざるを得ない。氏の挙げていない巻五の四
﹁申合せし事虹箸き刀﹂も同様で、この章は主粉レをした武士が盗人の
1﹂﹃心﹄昭和三十五年四月。谷脇理史氏﹁西鶴の描いた義理﹂
﹃国文学・解釈と鑑賞﹄昭和四十八年三月、のち同氏﹃西鶴研究序
汚名を晴らし自害する話であり、主人公の武士の自敬の念が強く描き
説﹄新典社、昭和五十六年刊、所収。野田壽雄氏﹃日本近世小説
出されている。
3 西鶴の俳諾には、管見の範囲︵﹃定本西鶴全集﹄第十−十三巻︶
このように、西鶴が﹁武家の義理﹂の対象として描き出したかった
では﹁義理﹂の用例はまったくない。
史井原西鶴編﹄﹁武家義理物語﹂勉誠社、平成二年刊、等。
あった。それらの武士を作者は必ずしも一方的に賛美しているわけで
4 新日本古典文学大系74﹃仮名草子集﹄岩波書店、平成三年刊所
ものは、あくまでも、旧来の武士道に生きる武士たちの行動と心情で
にあった。前述した西鶴浮世草子の﹁義理﹂の用例が何よりもそれを
はないが、西鶴の興味と関心は戦国時代以来の古いタイプの武士の姿
6 日本思想史大系23﹃藤原慢窩・林羅山﹄岩波書店、昭和五十年
5 注4﹃仮名草子集﹄所収本︵底本は内閣文庫蔵版本︶による。
収本一底本は慶応義塾大学図書館蔵版本︶による。
西鶴は﹃武家義理﹄前年刊の﹃本朝二十不孝﹄︵貞享四年正月刊一の
刊所収本︵底本は東京都立中央図書館東京誌料所蔵版本一による。
証している。
に則った序文を冠した一注14一。﹃武家義理﹄の序文及び数章も、それと
序文で﹁孝にす・むる一助ならんかし﹂と書き、綱吉の孝道奨励政策
7 西島孜哉氏﹁﹃懐硯﹄論序説 ターニング・ポイントとしての
鶴諸国はなし﹄の余白−ーその序文からの読みをめぐって−−﹂
諸国話 ﹂﹃鳴尾説林﹄平成五年九月、のち同氏﹃西鶴 環境と
﹃日本文芸研究﹄平成十一年三月。
同様に考えられるのである。西鶴は序文及びいくつかの章によって、
私は、本文中の多くの章の内容と合致していない、序文執筆の意図
見られることに関しては、前出田中邦夫氏論考にも指摘がある。
営為に関する試論﹄勉誠社、平成十年刊、所収。森田雅也氏﹁﹃西
と経緯を以上のように推定する。
9 すでに塚本学氏は巻三の五を例に挙げ、﹁﹃生類憐みの志﹄を説
理﹂に則した説話集であるかのように、装ったのではないだろうか。
注− 宇野田尚哉氏は、和辻哲郎の武士道に関する論考が井上哲次郎
いた政策は、私闘の風の根絶を目ざすのと相通ずるのである。﹂と
本作品全体が、あたかも綱吉の推し進める新時代の儒教的士道の﹁義
著﹃武士道﹄一明治三十四年刊一への批判と対抗において著されて
8 以下の五章で喧嘩・口論や敵討ちが回避され、序文との対応が
いることを指摘している一﹁武士道論の成立 西洋と東洋のあい
■
−
82
指摘している一﹁生類憐み政策と西鶴本﹂﹃人文科学論集﹄信州大
学人文学部、昭和五十五年三月︶。
所収。
日本思想史大系27﹃近世武家思想﹄岩波書店、昭和四十九年刊、
10
写かV︶による。
注10﹃近世武家思想﹄所収本︵底本は内閣文庫写本く享保六年
u
小澤富夫氏﹁近世武家家訓 大名家訓研究への試み﹂﹃季刊
日本思想史﹄平成九年九月。
12
13
西島孜哉氏は、﹁序文の﹃古今﹄とあるうちの﹃古﹄は、﹃原武
の時代設定をふまえている﹂として、﹃伝来記﹄と﹃武家義理﹄の
道伝来記﹄の﹃中古﹄をさし、﹃今﹄はもう一方の﹃近代武道鑑﹄
成立論の仮説を提出している一﹁﹃武道伝来記﹄論﹂﹃武庫川女子大
学紀要文学部編﹄昭和五十九年二月、のち同氏﹃西鶴と浮世草子﹄
桜楓社、平成元年刊、所収︶。
﹃二十不孝﹄の序文及び作品全体の創作意図に関しては、およ
そ四つの学説が対立している。︵拙稿﹁西鶴の謎20 8﹃二十不
14
西鶴必携﹄平成五年二月、所収一。
孝﹄は孝道奨励策への反発の書か﹂谷脇理史氏編﹃別冊国文学.
︵ひろしま すすむ/本学助教授︶
■
■
83
日
会
学
文
本
日
語
本
学
大
子
女
一
、し
、︶﹂ー
圭目
ム
ダ
ル
ト
ー
ノ
月
8
一
、︶﹂1
芥川龍之介論
﹃点鬼簿﹄
はじめに
二 父への感情
及を試みていくことにする。
草 薙
聖 子
論に着目して、﹃点鬼簿﹄における父の役割について私なりにさらに論
だが本論では新しく父に焦点を当てて論を展開している三嶋譲一注3一の
たことに重点を置き、母を求めていた彼の内面に視点を当ててきた。
における父母と僕の関係
﹃点鬼簿﹄は、芥川が﹁僕の母は狂人だった﹂として、主人公の
く僕Vに狂人だった実母について告白させる作品である。﹁髪を櫛巻き﹂
にし、﹁長煙管ですぱすぱ煙草を吸っている﹂︿母﹀は、﹃少年﹄・﹃大
﹃点鬼簿﹄は四章で構成され、各章の照応とそこに見られる意図に
道寺信輔の半生﹄で登場していた母と明らかに異なった存在として登
場する。﹃点鬼簿﹄成立以前まで自伝的小説の母は養母トモを指し、そ
ついては早くから荻久保泰幸一注4一の指摘がある。従来の研究では母
と照応する父の章について芥川の父への拒否の感情を読み取る傾向に
してトモが養母であることは作品上で隠されてきた。その芥川が実母
あった一注5一。だがそれだけの意味だと捉えても良いのだろうか。本論
僕は母の発狂したために生まれるが早いか養家に来たから、僕の
では︿僕﹀と︿父﹀の関係について探りながら、︿父﹀の章の創作意図
2一もあるが、それも母からの視点中心で読まれていることと変わりな
父にも冷淡だった。一中略一養家から僕を取り戻そうとした。︵中
を考えていく。
い。つまり、これまでの研究史の流れは、堅く禁じていた実家につい
略一露骨に実家へ逃げて来いと口説かれたことを覚えている。
る芥川の切実な心情が語られている作品だと捉えられてきた。他に、
て書かねばならなかった理由として芥川が狂気の母についてを告白し
虚構を最大限に生かして母について告白したのではないかとする論一注
の存在を明かすには一体どのような理由があったのか。従来の研究で
年
01 は﹃点鬼簿﹄が﹁母を恋うる記﹂とする論一注−一を始め、実母を求め
20
号
3
第
文
語
、し
圭目
一
84
■
に対してだけでなく︿父﹀に対しても冷淡だったという意味と解せよ
︵傍線・引用者、以下同じ︶
ないのである。そして、︿僕﹀が愛していたからという理由のみで養父
がく僕Vの存在を認識しない限りいつまでも距離は埋めることが出来
ったといえる。つまり、一方的に︿僕﹀が︿母﹀を想っていても、︿母﹀
母や伯母を選び、反対に︿僕﹀が血縁である︿父﹀を意識的に拒むの
まず、﹁僕の父にも冷淡だった﹂の﹁父にも﹂とは、︿僕﹀が︿母﹀
う。これは物心ついた時には︿父﹀と別れて養家で暮らしていたこと
る箇所はなく、我が子を懸命に取り戻そうとする︿父﹀の内面に触れ
ている箇所も同様にない。もし︿父﹀が愛情から子を取り戻そうとし
は何故であるかの問題についてだが、本文でその理由に直接触れてい
と理由が示されている。また、養家から子供を取り戻そうとする︿父﹀
ていたと想定すれば、︿僕﹀の態度はいささか冷たすぎるとの解釈も出
や﹁僕が養家の父母を、 殊に伯母を愛していたからだった﹂とあ
の姿が描かれる。ここには﹁露骨に実家へ逃げてこい﹂と口説き﹁頗
予定であるため、ここでは︿父﹀に対する︿僕﹀の様子と子に拒まれ
来よう。しかし、︿僕﹀の意志で︿父﹀を拒む理由については後述する
るように、養家の父母や伯母を愛していたことが原因であったためだ
る巧言令色を弄した﹂︿父﹀に対して、﹁一度も効を奏さなかった﹂と
る父親の関係について見ていくことにする。
いう︿僕﹀の︿父﹀への嫌悪感が見て取れる。三嶋譲は、この場面に
おいて次のように述べる一注6一。
は中学の三年生の時に僕の父と相撲をとり︵中略︶僕の父は起き
僕の父はまた短気だったから、たびたび誰とでも喧嘩をした。僕
上ったと思うと、﹁もう一番﹂ξ言って僕に向かって来た。︵中略︶
発狂という不可抗力なもの、いわば宿命ともいうべきものによっ
ために生じた後天的なものである。したがって、たとえば実家に
血相を変えて飛びかかって来た。︵中略︶ もしあの時に負けなかっ
て隔てられた母と子と異なり、父と子との隔たりは﹁養家に来た﹂
戻るという手段で、空問としてのその距離を縮めることは決して
三嶋はこのように述べ、それにも関わらず父と子の隔たりが縮めら
ましい姿が描かれているともいえる。だがそれにも関わらず﹁誰とでも
この場面は、客観的に見ると父と子が相撲を一緒にする父子の微笑
あろう。
たとすれば、僕の父は必ず僕にも掴みかからずにはいなかったで
れないのだとしたら、そこに介在するのは﹁父と子の精神的な距離の
喧嘩をした﹂り﹁血相を変えて飛びかかって来た﹂と短気な︿父﹀を
不可能ではない。
問題﹂一注7一であると指摘する。確かに父と子の問には精神的な距離が
強調する。これは︿父﹀に対する︿僕﹀の感情の冷たさを表現してい
よう。また﹁必ず僕にも掴みかからずにはいなかったであろう﹂という
あり、︿母﹀とは生まれて問もなく離れたことや発狂によって母子の関
︿僕﹀だけでは︿母﹀との精神的・物理的距離を縮めることが出来なか
係を築くことが出来なかった。そのために、物理的にも精神的にも
’
・
85
︿僕﹀の言葉は、﹁誰とでも喧嘩をした﹂︿父﹀が自分にもそうやって掴
みかからずにはいられないだろうことを暗に示し非難している。ここで
は父子関係が上手くいっていないことを見ることが出来るだろう。よ
ら、僕の知らない昔のことを、 僕の母と結婚した当時のこと
を話し出した。一中略︶しかし僕はその話のうちにいつか胆が熱く
と、︿父﹀の死に直面した時に︿父﹀へのわだかまりが消える︿僕﹀の
この場面では二十八歳になっても消えない︿僕﹀の︿父﹀への拒否感
なっていた。僕の父も肉の落ちた頬にやはり涙を流していた。
一つは、発狂によって︿母﹀とは精神的・物理的な距離の融解を︿僕﹀
心情の変化が書かれている。︿僕﹀は﹁僕はその癖実父の命日や戒名を
って、父と子の相撲をとる場面からは次の二つのことが分かる。まず
一人の努力では行えなかったことである。二つ目は、︿父﹀は白分から
覚えていない﹂、﹁僕は僕の父の葬式がどんなものだったか覚えていない﹂
う方法で精神的距離と物理的距離の解決が出来たことである。つまり、
の歳で行われた︿父﹀の葬儀について一切を覚えていないということは
戒名も覚えていないとしている。だが二十八歳になっている︿僕﹀がこ
という場面からも分かるように、︿僕﹀は︿父﹀の葬儀の様子も命日も
く僕Vに対して実家に帰って来いと誘う行動を起こしていることからも
三章で懸命に子を取り戻そうとする︿父﹀と、その︿父﹀に対して冷
考えにくい。というのも何故なら︿母﹀の死は︿僕﹀が十一歳の時であ
考えて、︿僕﹀にさえその気があればく母Vと違って︿父﹀とは話し合
ややかな眼差しを向ける︿僕﹀が描かれていることは、︿僕﹀がいかに
るのに対し、︿父﹀の場合は二十八歳だからである。つまり、﹁僕は僕の
縁である。︿父﹀を何故拒むのかという疑問と同様であり、後者の理由に
拒んだことが分かる。ならばその理由は何か。それは前述したように血
や戒名を覚えていない﹂とした二十八歳時の︿僕﹀が意識的に︿父﹀を
父の葬式がどんなものだったか覚えていない﹂、﹁僕はその癖実父の命日
父親を忌み嫌っているかを如実に表しているかが分かるのである。
三 父の死
︿母﹀が︿僕﹀の意志に反して狂気に奪われたのに対して、︿父﹀は
者﹂が﹁近く渡米するのを口実にして﹂出かけるく僕Vと、︿父﹀が死
場面は、入院した︿父﹀に退屈し﹁懇意にしていた或愛蘭土の新聞記
ある︿父﹀を意識的に拒む理由について探っていくことにする。左の
かし、右の挿話は例外であって、芥川は実父に冷淡である。
たものと思われる。ここにも母の不在感が影をおとしている。し
が自分だけでなく実父もそうだったという発見が芥川を涙ぐませ
実父の話は家庭の幸福というものの回想であり、それを失った者
のが中心であった。その中心である登尾豊は次のように述べる一注8一。
ついてこれまでの研究ではく母Vに重点を置いて﹃点鬼簿﹄を論じるも
の問際に妻との思い出を涙を浮かべながら子に話す場面である。
︿僕﹀の意志によって拒まれてきた。ここでは前述した︿僕﹀が血縁で
僕は二十八になった時、一中略︶僕の手を握ったり撫でたりしなが
■
−
86
登尾はく僕Vの求めるものがく母Vであって︿父﹀でないのだとい
なくく母Vであることを強調している。
の父に対する拒否を表すものであり、︿父﹀と︿母﹀を対置して描くこ
したがって、従来の研究はく僕Vが︿父﹀に向ける冷淡な感情は︿僕﹀
るく僕Vの感情を確認するものだったとしている。私としても、幸福
が中心であった。確かに三章における︿僕﹀は、入院している病気の
とで、︿僕﹀がいかに︿母﹀だけを求めているかを示しているとする見解
うことを強調し、さらに論中で三章と四章の役割白体が︿母﹀を求め
な家庭を持てなかったのは自分だけでなく、︿父﹀も同じであったこと
終始するのではなく、父への愛情の片鱗をうかがわせる﹂一注10一と指摘す
ける姿が描かれた場面である。このことについて木村一信は、﹁冷淡に
を熱くする。これはく僕Vが初めて︿父﹀に対して拒絶以外の感情を向
︿母﹀との思い出を涙ながらに話すく父Vに、︿僕﹀は知らないうちに胆
あったが、帰ってきた︿僕﹀の手を握ったり撫でたりしながら、︿僕Vの
︿父﹀を残して出かけ、考えるのは病気の︿父﹀ではなく芸者のことで
をく僕Vが発見し、それに対して涙を流すのだという意見には賛成し
に今まで冷淡に接してきた︿父﹀に涙を流す場面は意外であるが、﹁例
たい。そこに︿母﹀の不在が影を落としていることも理解出来、確か
外﹂をわざわざ使うことに意味があったのではないだろうか。次に宮
れば︿母﹀に求心されて行く。一中略一︿僕の知らない昔﹀の幸福
実父への冷淡さ、会うことのなかった姉への羨望は、裏返しにす
い﹂︿母﹀との結婚当時の様子を話し出した︿父﹀に対し︿僕﹀が睡を
る。また三嶋は、﹁僕の手を握ったり撫でたりしながら﹂、﹁僕の知らな
坂費は以下のように述べている一注9一。
を聞かされたこの部分を記しながら、芥川は父を許す気になった
熱くした場面に触れて、次のように述べている一注11一。
かもしれぬ。しかし、それ以上に感じられるものは、︿母Vがもっ
たであろう幸福の時であり、狂える以前の母への想いである。
母との涙による呼応が、そうあってほしかった母、︿懐かしき女
︿幻の母﹀への希求を秘めた人生であったとしたら、同じく父の二
︿父﹀の発見であった。︵中略︶︿僕﹀にとっての二十八年間が、
人﹀との出会いだったとすれば、父とのそれは、白分の中にある
宮坂は︿父﹀を許すことは出来たとしても、︿父﹀の告白を聞いてな
に︿父﹀を許す気持ちになったのは、冷淡に接していた︿父﹀に涙を
十八年間は、︿奪われた妻﹀への思いを秘かに抱き続けた人生であ
おいっそう︿母﹀を求めるく僕Vの想いが存在するのだという。確か
流している︿僕﹀の描写から分かる。確かに許す気になっていること
ったに違いない。そうした父の内面に触れたとき、拒み続けた子
は父を受け入れ、 その血のつながりを確認するのである。
に関しては、︿僕﹀が胆を熱くしていることから推測されるが、では何
あり、狂える以前のく母Vへの想いである﹂とするのか根拠が不明で
故﹁それ以上に感じられるものは、︿母﹀がもったであろう幸福の時で
このように︿僕﹀が
︿母﹀との結婚当時の様子を話す︿父﹀ に胆を
ある。ともあれ、登尾と同じく︿僕﹀が求めているものは︿父﹀では
■
■
87
ては本文に理由が書かれていないために分からないが、結婚当時の様
しかし、︿僕﹀の気持ちが︿父﹀への愛情から生じたものか否かについ
熱くしている姿は、−︿僕﹀の︿父﹀に対する気持ちが表現されている。
日も戒名すらも覚えていないとしたにも関わらず、四章の中で﹁
の姿を感じたのである。だからこそ︿僕﹀が、︿父﹀の葬儀の様子も命
において︿父﹀の内面を垣問見、︿僕﹀の知らない頃の幸せだった︿父﹀
して受け入れたことは、単に血の繋がりという事実だけでなく精神的
確認﹂したのだと指摘するように、まさにく僕Vが︿父﹀を僕の父と
がその時に拒み続けてきた︿父﹀を受け入れて﹁その血のつながりを
父だけは、 僕は僕の父の骨が白じらと細かに砕けた中に金歯
した。これはまた﹁初ちゃん﹂も同じだったであろう。ただ僕の
僕はこの墓の下へ静かに僕の母の枢が下された時のことを思い出
では次に、﹃点鬼簿﹄の四章見ていくことにする。
四 父と僕
父はこル︿父﹀であることを明確にしたかったためだったと思われる。
えている。⋮⋮﹂と、骨の中に残った金歯を強調したことは、自分の
僕は僕の父の骨が白じらと細かに砕けた中に金歯の交っていたのを覚
︿母﹀を失っていた︿父﹀に気付いたのではないか。つまり、﹁僕の知
子を話す︿父﹀に胆を熱くする場面で、︿僕﹀は初めて白分と同じく
らない昔﹂に、︿父﹀にとって妻との思い出の日々が確かに存在してい
た事実を、︿僕﹀は自分に話しかける︿父﹀に胆を熱くした瞬問に知
な意味においても︿僕﹀が︿父﹀と血縁関係である事実を認めたと考
の交っていたのを覚えている。 ︵中略︶一体皮等三人の中で
ったのではないと思われる。また三嶋が、﹁父の内面に触れた﹂︿僕V
り、ようやく︿父﹀を己の父として受け入れることが出来るようにな
えられよう。そして︿僕﹀は﹁冷淡に終始するのではなく﹂一注12一︿父﹀
結びとして書かれている四章は、一章から三章がすでに他界してい
は誰が幸福だったろうと考えたりした。
以上のように、︿僕﹀に意識的に拒まれて始まった三章は、︿母﹀と
る人々のことについて書かれているのと違い、﹁三月半ばに﹂三人の墓
への愛情を見せているので あ る 。
対置し︿僕﹀が冷たく接する︿父﹀を書くことで、いっそう︿僕﹀が
は、﹁石塔を眺めながら﹂枢を静かに墓の中へ下ろされた母、そしてお
そらく母と同じように静かに墓へと入ったであろう姉や、その二人と
を訪れている︿僕﹀の心境から描かれた章である。この場面で︿僕﹀
ために︿母﹀と対時した一注13一ように、︿父﹀にも向かい合った章であ
は異なり﹁骨が白じらと細かに砕けた中に金歯の交っていた﹂のを覚
自分の一生を見守ってくれる︿母﹀を求めていることを示そうとした
ったと考える。そして︿父﹀と対時したく僕Vは、死ぬ間際で︿母﹀
えているとした父の中で、一体誰が﹁幸福だったろうと﹂かと考えて
だけでなく、︿僕﹀が僕の一生を見守って欲しかった存在を見つけ出す
が正気に戻った際に︿母﹀の内面を見たように、︿父Vが涙を流す場面
’
88
■
いる。この問いに対し荻久保泰幸は、﹁娑婆苦にあることのもっとも短
の窺い知れぬところで︿娑婆苦﹀ を背負いっづけたにちがいない
狂人の母の内面は空白であり、夫折した姉はいわゆる︿娑婆苦﹀
︿父﹀は、その︿娑婆﹀の痕跡たる﹁金歯﹂を残したまま葬られて
に身をさらさずにすんだ︵中略︶それに対して、おそらく︿僕﹀
いったのである。﹁実父の命日や戒名を覚えてゐない﹂と言い、さ
かった姉が、一番幸福だったろう、っいで母。︵中略一芥川からすれば
ことになるだろう。﹂一注14一と述べる。荻久保は論中で四章にこの作品
らにその葬式も﹁どんなものだったか覚えてゐない﹂と語る︿僕﹀
俗臭ふんぷんたる父もまた、そのゆえに芥川よりは幸福だったという
の主題があり﹁娑婆苦﹂を知らずに死んでいった︿姉﹀や狂人となっ
このように、発狂した︿母﹀と早くに死んでしまった︿姉﹀が、い
の心の裡では、︿父﹀の物語はいまだ完結していない。
て︿僕﹀が生きている現実世界を認識しなくなった︿母﹀の二人は幸
︿父﹀が一番不幸であったと指摘する。つまり、幸福であったのは︿姉﹀
福で、その二人よりも﹁娑婆苦﹂に生きる苦しみを知っていただろう
わゆる﹁娑婆苦﹂を知らずにいたのだとする三嶋の見解は、荻久保と
んなものだったか覚えていない﹂、﹁実父の命日や戒名を覚えていない﹂
同じである。しかし三嶋は︿母﹀や︿姉﹀と違い、葬儀の様子も﹁ど
に﹁娑婆苦﹂に苦しんでいる︿僕﹀の方がよりいっそう不幸なのだと
とされる︿父﹀は︿僕﹀の中で未だに﹁完結﹂されていないのだと述
であり、反対に不幸だったのは︿父﹀であると述べている。しかし、
の見解を示している。確かに、︿母﹀は発狂し︿姉﹀は幼くして死んで
つかない四十恰好の女人﹂が何処かから﹁僕の一生を見守ってくれて
べる。つまり、︿母﹀と︿姉﹀は、︿僕﹀が二章で﹁僕の母とも姉とも
︿僕﹀と比べれば︿父﹀もまた幸せであり、墓の下に眠る三人より未だ
しまったために、︿僕﹀が隠し通してきた実父母のことについて書かね
いる﹂ように感じているとしたことによって、︿僕﹀の中で答えが出さ
ばならぬほどの苦しみを受ける世界を知らずにいられた人達である。
そして、その二人よりはく僕Vの苦しむ﹁娑婆苦﹂の世界に近かった
れたとする。だが反対に葬儀の様子や戒名、命日も覚えていないとさ
らば、父の葬儀の様子も命日も戒名も覚えていないとする︿僕﹀が、
も、﹁金歯﹂を残したまま葬られた︿父﹀だったのだと三嶋は指摘する。
幸であったのは︿僕﹀の中で解決が成されている︿母﹀や︿姉﹀より
た﹂ために︿僕﹀の心の中に生き続けているのだという。よって、不
れる︿父﹀は、﹁︿娑婆﹀の痕跡たる﹃金歯﹄を残したまま葬られてい
だろう︿父﹀も、四章においての︿僕﹀とは同じ世界にいないために
わざわざ﹁父の骨が白じらと細かに砕けた中に金歯の交っていた﹂の
三嶋のいうように、三人の中で誰が不幸だったかを考える時に、金
︿僕﹀にとって︿父﹀も自分よりは幸せであるといえる。しかしそれな
を覚えているとした理由は何だろうか。荻久保はこの金歯の意味につ
歯を残したまま葬られていった︿父﹀が、一番不幸な人物であったと
いて論じておらず、解釈も暖味である。
一方、三嶋譲氏は次にように述べている一注15一。
’
’
89
は︿僕﹀から切り離され、点鬼簿に入ったのではなかろうか。
では明らかにされていないためにここでは分からない。だが、あえて述
したがって、同じく︿僕﹀が意識的に︿父﹀を拒んだ理由も作品中
いう見解には説得力がある。それは、︿僕﹀が静かに葬られていったと
する︿母﹀や︿姉﹀と︿父﹀を明らかに異なった表現で描いているこ
人物になり得ないまままだおのれの心の中に生き続ける父の確認﹂で
れた︿父﹀に︿僕﹀の拒否の感情を読み取るのではなく、﹁点鬼簿中の
来た。この相撲を見ていた僕の叔母 僕の母の妹であり、僕の
度目には﹁もう一番﹂生言いながら、血相を変えて飛びかかって
僕は中学の三年生の時に僕の父と相撲をとり、︵中略︶僕の父は三
関わっていたと考えられよう。叔母が登場する場面は次のようである。
べるならばく僕Vとく父Vが相撲を取る場面で登場する叔母の存在が
あったとする。さらに、︿僕﹀が﹁︿父Vの物語を引きついだ﹂のだと
︿父Vの物語はいまだ完結していない﹂と述べ、金歯を残したまま葬ら
とからも分かるだろう。そのことから三嶋は、﹁︿僕﹀の心の裡では、
指摘するが、はたしてそうであろうか。確かに、静かに墓の下へと眠
叔母はく僕Vの母の妹である。当時中学生だった︿僕﹀は、︿父﹀の
父の後妻だった叔母は二三度僕に目くばせをした。
後妻である叔母をどう思っていたのだろうか。叔母はく僕Vの心情変
りについたと描かれるく母Vやく姉Vと違って、︿父Vは現世のしがら
通り、点鬼簿に記入されない︿父﹀という意味で解釈してもよいが、
化において重要な人物となったのではないかと思われる存在である。
みとでもいえる金歯を残したまま葬られる。金歯の意味は三嶋の指摘
私は金歯の意味を現世から解放されない体の一部ではないかと考えて
の記述は、本文中に記されていないために想像するしかない。そのた
しかし︿僕﹀が叔母に対してどういった感情を持っていたかについて
め現段階では、︿僕﹀が︿父﹀を意識的に拒んだ理由はおそらく、︿父﹀
いる。つまり決して娑婆苦の世から逃れられない︿父﹀の姿を象徴し
も決して逃れられないことに気付き、そこで︿父﹀と自分の繋りを感
とく母V。の妹であり︿父﹀の後妻である叔母への拒絶の感情によって
ているのではないか。そしてく僕Vは自分を苦しめる世界から︿父﹀
じたのではないだろうか。だからこそ︿父﹀は点鬼簿に記されないの
因の一つがあったのではないかという解釈のみに及んでおく。したが
って、叔母の存在と何故彼女が︿僕﹀にとって重要な人物となったか
彼女を素直に受け入れることが出来ない︿僕﹀の複雑な心理状態に原
よって四章では、三章において︿父﹀に涙した︿僕﹀が︿父﹀にとっ
にっいては、次に作家論に広げて芥川が何故︿僕﹀に︿父﹀を拒ませ
であり、金歯を覚えていることはその時点において︿僕﹀が︿父﹀へ
て︿母﹀との思い出やそして苦しんできたく父Vと、自分も同じ一人
たのかをも含めて論じていくことにする。
の想いを整理できていないことを表しているのではないかと考える。
の人問であることを改めて確認している意味が込められていると思わ
れる。そして︿僕﹀が三人の墓の前に件んだことにより、初めて︿父﹀
■
90
−
ハツの死と、実母がそれを自分の所為だとして責めていた時に重なっ
た芥川の出産、そしてその子を旧来の迷信から一度は捨て子の形にし
フクについての告白一母が狂人であったこと、自分が養子に出されて
以上、登尾や宮坂などのこれまでの研究によって、﹃点鬼簿﹄は実母
によると次のようになる。
次に新原敏三についてだが、これまでの調査をまとめた三嶋譲一注17一
かったことであろう。
五 芥川家と新原家
おり、実母の手で育てられてないこと︶の作品だと捉えられてきたが、
たが、はつは明治二四年、七歳で夫折した。翌年、龍之介誕生の
ふくとの結婚は明治十八年、はつ、ひさ、龍之介の子供をもうけ
なければならなかった事実を考えれば、フクの心は罪意識で限界に近
実は自己の中の母像確認と訣別、そして母と同じように重要視された
上の虚構の中で告白を行うといった作品であったとも述べてきた。し
素直なものではなく、母の章と父の章を類似させたりするなどの構成
実父敏三の人柄は、﹁丈が高く、剛気で﹁滴癩﹂持ちで、 またし
という推定も、森啓祐によってなされている。
という私生児が生まれ、それが発狂に関係しているのではないか
数えられている。しかし、 その年に敏三と他の女性との問に敏二
八ヶ月後にふくは発狂するが、その原因の一っにこのはっの死が
であろう父についても書かれた作品ではないかという私なりの考察を
かし、虚構を利用して告白を行った作家としての意味付けを詳しく取
つこい虜もあつた。が、一面では、やさしい心の持ち主でもあつた﹂
展開してきた。そうして母と父について書かれた方法が芥川にとって
にっいて書かねばならなかったのかを作家芥川の周辺に触れながら探
ていたようである。だが芥川が﹃点鬼簿﹄三章で﹁短気だったから、
であったいう第三者からの延言から考えると、優しい面も持ち合わせ
というヒサ一注18一の延言や、﹁温和な、商人らしい感じの顔だち﹂一注19一
り挙げていなかったため、ここからは何故虚構を利用してまで実父母
ってい く こ と に す る 。
に牛乳販売業耕牧舎を営む新原敏三と、その妻フクの長男として生ま
たびたび誰とでも喧嘩をした﹂と表現したように、﹁滴の強さうな性
芥川は、明治二十五年三月一日、東京の京橋区入船町八丁目一番地
れた。その数ヶ月後実母が発狂し、発狂後は明治十一年に女の子を亡
りの放蕩ぶりで女性関係に問題があり、龍之介の他に新原家の除籍謄
質﹂一注20一の一面が強かったと考えてよいと思われる。また敏三はかな
本を入手した森啓祐一注21一によって﹁龍之介に、ハツ、ヒサ、得二の
くし当時子供がいなかった実母の兄である芥川道章に引き取られるこ
が小さかつた人で、口に出すより自分の胸にたたんで居るといふ性質
姉弟のほか、もう一人、敏二という名の弟が出生している事実﹂が確
とになる。フク突然の発狂の原因については﹁母といふ人はとても気
らしかつた﹂という次姉ヒサの延言が有力となっている一注16一。確かに
’
’
91
と同年の庶子﹂の出生事実が関わっていたことは否定出来ないと述べ
が重なりあって誘発したとみられる﹂が、その原因の一つに﹁龍之介
認されている。森はフクの発狂にっいては﹁さまざまな不幸な出来事
人物であったといわれている。
り、話ぶりなりが芝居に出て来る御殿女中を連想させる﹂一注25一ような
だ顔だちであつたが、少し藪にらみで、中々勝気の人﹂で、﹁物腰な
のフキである。フキは﹁道章氏とおなじく額の広い、やや眼のくぽん
ず、芥川家と実家新原家を行き来する生活を続けることになる。しか
このようにして龍之介は引き取られてからも実家との交際が途絶え
六 龍之介と父
ている。さらに得二という弟は、実父と実母の妹であるフユとの問に
入り、明治三十二年七月に得二を出産している。得二は戸籍では三男
生まれた子供である。フユは実母発狂の後に手伝いの名目で新原家に
ている敏二が次男として入籍されていることが分かっている。得二と
し芥川家に引き取られた後、実父は当時の珍しい食べ物を与えたりし
となっており、一方、生まれて間もなく死亡したのだろうと考えられ
されている。フクはヒサの延言によれば得二のことは知っていたよう
敏二はフクの存命中に生まれ、その二人ともフクの子供として届け出
除・廃嫡の手続きを経てからのことであった。だが当時の民法によれ
て龍之介を実家へ連れ戻そうとしたといわれている。しかし実家に取
ば戸主に予定されている子供は養子に出せないことになっており、養
だが、その時のフクの胸中はどのようなものであり、得二誕生時七歳
う妻がいるのに他の女性との問に子供を設けてしまった父に対して、
子に出すには法律的に認められる理由が必要である。その家督相続人
り戻そうとする実父の努力も実らず、龍之介が戸籍上においても芥川
龍之介はどんな気持ちであったろうか。
家の養子になったのは明治三十七年八月、新原家の推定家督相続人廃
実母の発狂によって龍之介を預かった芥川道章は﹁いかにも江戸の
であり長男であった龍之介が養子に入ることが出来たのは何故なのか。
︿父﹀に対して冷淡に接した意味と通じると考えられまいか。フクとい
通人らしい趣のある﹂一注22一、﹁大柄な、ゆつたりとした人で、額の禿げ
その背景には龍之介の意志が尊重されたのではなく、新原家・芥川家
だった龍之介がこの事実をどう受け止めたのか。このことは︿僕﹀が
上った、ふつくらとした顔つきをもち、いつも頬のあたりに微笑をふ
こと、また芥川道章夫妻には当時子供がいなかったこと、さらにフキ
により新原家に手伝いに来ていた叔母と実父との問に子供が生まれた
それぞれの思惑が存在していたと考えられている。っまり、フク発狂
つこい口調で淀みなく、もの柔かに話す人﹂一注24一だったと伝えられて
が龍之介を手放さなかったなどの理由があったことが考えられよう。
﹁至つて気だてのやさしい、よく物事に気のつく夫人で、いかにも人な
くんで話す癖があつた﹂一注23一人物のようである。その妻であるトモは、
いる。その二人よりも龍之介を溺愛し、熱心に教育を行ったのが伯母
■
■
92
父が、得二を生んだフユを自分の妻として入籍させることを交換条件
れるが、最終的には東京地方裁判所で家督相続廃除の判決をうけた実
他にも前述した実父の女性問題のことがあったのではないかとも思わ
以上、﹃点鬼簿﹄を従来の研究のように実母フクを求める芥川の心情
たことが想像出来よう。
したがって当時、芥川の心中が悲しみや憎悪を抱えていた状態であっ
あえて登場させたのは、断罪する意味をも含めていたのかも知れない。
︿父﹀に冷淡に接しながらそれでも︿父﹀の臨終の問際に涙を流すとい
が書かれていると作品のみ考えるのではなく、他の意味をも探りつつ
った︿僕﹀の矛盾した心理ついて順を追って考察してきた。また芥川
に芥川家との養子縁組を結んだと考えられている一注26一。しかし、実父
いう文字をつけていることにより、実父は長男である龍之介に家督を
の出生問題や父の女性関係、養子に至るまでの出来事をも調べ、客観
が龍之介以外の二人の子供を設けたにもかかわらず、名前に﹁二﹂と
継がせようとしていたことが分かる。だが、家督を継がせたがってい
的な立場からしても彼が実父に冷淡に接してきた意味を考えた。なら
ば芥川にとって父とはどういった存在だったのだろうか。はじめ、母
は龍之介を手放すつもりはなかったが、道章が育てた側の権利を主張
したために交換条件を出して敏三はやむなく龍之介を手放したのだと
とは違う別の女性との交友関係や母の発狂によって、芥川にとって父
た実父と養父との言い争いについて指摘する森一注27一によれば、実父
いう。このような経緯を経て芥川家に養子に入った龍之介が、︿僕Vが
が話した母との思い出に涙した芥川は、父と真正面から対時し、父も
は憎むべき存在となり、嫌悪の対象となった。しかし死に直面した父
く父Vを拒んできたのは仕方のないことだと考えられよう。ヒサによれ
愛していたからという理由のみで養父母や伯母を選び、血縁である
いたことは、彼の中で父は憎み嫌悪することは変わらないまでも、父
章においズ三人の墓前に什ませ父のことにも思いを馳せる︿僕﹀を描
を一人の人間として、そして白分の父親として認め改めて考えていく
自分と同じ苦しんできた一人の人問だと気付いた。そして芥川が最終
なかったことを後悔していたという。しかし、子の側からすると自分
ことが出来たのだと、私は考えている。それは父という自分にとって
ば実父が月一回息子を招いて食事をすることを何よりも楽しみにし、
が母の手で育てられなかったことや養子に出された事実は変わらない。
母と等しく禁忌であった存在を自分なりに受け止めたことにもなろう。
彼は後年に龍之介を実母の病気のために預けて養子としなければなら
よって﹃点鬼簿﹄において実父に冷淡だったのは、母を裏切り自分を
また、芥川がひたすら眼を逸らし逃げていた両親の存在を主人公︿僕﹀
に告白させ、自分なりに解決を行ったことは、芥川にとって人生でも
はなかったろうか。そう考えれば、相撲の場面で見せた叔母との複雑
な人間関係の一面について芥川が実父同様に、彼女へも母を裏切り苦
作品の上においても大きな転機であったろう。したがって、﹃点鬼簿﹄
も裏切った人間として父を許すことが出来なかったことを示す作品で
しめたという気持ちがあったのではないかと考えられる。また叔母を
’
’
93
は芥川が狂人でポ一た母を初めて告白した、一との重大貰自分にと
っての父の存在を考えた重要な作品であったと私は考えている。
14 注2に同じ
15 注3に同じ
16 葛巻義敏﹁築地入船時代の事など︵母の手紙から︶﹂﹃岩波普及
8 登尾豊﹁︿告白﹀への過程 大正十二年−大正十三年﹃点鬼簿﹄
7 注3に同じ
6 注3に同じ
5 注1に同じ
4 注2に同じ
ー﹂一﹃福岡大学日本語日本文学﹄3、平成五年十月一
3 三嶋譲﹁﹃点鬼簿﹄を読むー︿母﹀の物語からく父vの物語へ
芥川龍之介1﹄、国書刊行会、平成六年九月︶
2 荻久保泰幸﹁﹃点鬼簿﹄小考﹂、編者菊池弘﹃日本文学研究大成
︵﹃日本近代文学﹄28、昭和五十六年九月一
23 注に同じ
22 注に同じ
21 森啓祐﹃芥川龍之介の父﹄︵桜楓社、昭和四十九年二月︶
龍之介﹄︵朝日新聞社、昭和二十四年八月︶
20 恒藤恭﹁芥川龍之介のことなど 六芥川家の人々﹂、﹃旧友芥川
十一巻芥川龍之介﹄︵角川書店、昭和三士二年六月一
19 恒藤恭﹁青年芥川の面影﹂、吉田精一編﹃近代文学鑑賞講座第
ら1﹂一﹃世界﹄二四三、昭和四十一年二月一
18 葛巻義敏﹁叔父芥川龍之介のことども−母久子の﹃思い出﹄か
日本文学﹄4、平成六年十二月︶
17 三嶋譲﹁﹃点鬼簿﹄補説−虚構のゆくえー﹂︵﹃福岡大学日本語
版全集月報第二号﹄、岩波書店、昭和九年十二月︶
論﹂﹃国文学﹄︵昭和五十年二月一
24 注に同じ
注− 宮坂篭﹁芥川龍之介小論−その湖行・﹃点鬼簿﹄への軌跡−﹂
10 木村一信﹁﹃少年﹄と﹃点鬼簿﹄と−︿言葉﹀の虚実をめぐっ
9 注 1 に 同 じ
26 注に同じ
25 注に同じ
︵くさなぎ せいこ/平成十二年度卒︶
て﹂一﹃方位﹄4、昭和五十七年五月一
u 注3に同じ
12 注に同じ
13 拙稿二〇〇一年卒業論文﹁芥川龍之介論﹃点鬼簿﹄−父母と僕
の関係﹂で母について言及している。
■
’
94
日
会
学
文
本
日
語
本
学
大
子
女
一
、し
、︶﹂ー
圭目
ム
ー
ダ
ル
ト
ノ
月
8
一
、︶﹂1
﹁どうせ﹂と﹁せっかく﹂ の意義
﹁無駄﹂の回避
星 野
圭
イ
之
一体をなしている﹂﹁どうせ﹂の短絡性の結果、﹁理由・根拠を表す文
のような用法については、大きな関心をはらいつつも、﹁既定性と表裏
九九四︶
森本順子﹃話し手の主観を表す副詞について﹄一くろしお出版、一
森田良行﹃基礎日本語﹄﹁どうせ﹂の項︵角川書店、一九七七︶
﹁どうせ﹂という語については、次の諸論文が発表されている。
のが、本稿で試みる主張である。
1のような用法こそが﹁どうせ﹂の基本的な姿なのではないかという
の用法は二次的なものとして議論されてきたと思われるのだが、寧ろ
つまり、﹁既定性﹂が﹁どうせ﹂の基本的性格であり、﹁理由・根拠﹂
機能を有する。﹂といった位置付けも、同様の扱いと理解される。
本論文の﹁﹃どうせ﹄が結合機能に関わる場合は、︿中略﹀理由を示す
95
■
■
はじめに
杉本知之﹁副詞﹁どうせ﹂の意味と機能﹂一﹃愛媛大学教育学部紀
に多用される﹂といった位置付けを与えるのが、杉本論文である。森
要 人文・社会科学﹄第三士二巻第一号、二〇〇〇︶
そもそも、私は﹁どうせ﹂の既定性ということに疑いを持っ。確かに、
のようを言い方が﹁どうせ﹂には多いと思われるが、
本論文より一
2 ﹁どうせ私は失格なのよ﹂と、すっかり落ち込んでいる。︵杉
3 どうせ外れるかも知れないから宝くじを買うのはやめてお一﹂う。
少なくとも、
のような言い方も、全く許容されないということではないように思う。
されていること﹂︵杉本︶といった側面であった。そしてこの側面を
1 どうせ雨が降るんだから、洗濯はやめよう。
﹁どうせ﹂の﹁基本的性格﹂の一つとして捉え、例えば
避的に起こるという観点﹂︵森本一とか、﹁その結果があらかじめ決定
ちつくのだという発想﹂一森田一とか、﹁その文で述べる出来事が不可
これらの先行論において強調されてきたのは、﹁すでにより基本的な大
年
01 前提が定められていて、いずれにせよ緒局はその大前提通りに事が落
20
号
3
第
文
語
、し
圭目
4 どうせ晴れたから、洗濯しよう。
が全き非適格文となるのとは大きく異なるであろう。森本論文は、
d 練習してもしなくても、どうせジョンは勝っだろう。
C 一生懸命練習し た ら 、 き っ と ジ ョ ン は 勝 っ だ ろ う 。
b *一生懸命練習し た ら 、 ど う せ ジ ョ ン は 勝 つ だ ろ う 。
a 一生懸命練習したら、ジョンは勝っだろう。
5 どうせ贈るなら、いいものにしたい。
活用したものがB、という関係にある事は、
といったものになるであろう。AとBとを簡単に見れば、Aの事態を
どうせA,B
まず、1の例をもとに﹁どうせ﹂の意義モデルをたてると、
こ
の、a cが言えてbな言えないことから、﹁﹃どうせ﹄は起こるかも
6 どうせ合格するんだから、勉強はやめなよ。
の﹁不可避的に起こる﹂ということのチェックとして、
しれないし、起こらないかもしれないという文脈とは相いれない﹂、そ
らないのは、本当にA・Bの二項をモデルに組み込む必要があるのか、
などの類例を見ても理解されるところであろう。
ということであろう。先行論のように1のような例を二次的に扱わず、
ここからAとBの関係を詳しく見ていく前に考えておかなければな
b 一生懸命練習したらどうせジョンは勝つだろうから、僕た
寧ろ基本であると考えるには、﹁どうせA﹂というモデルでは不十分な
しかし、
ちは諦めた方がよい。
のか、ということを考えておく必要がある。
してdが言えることから、先の﹁不可避的に⋮﹂という結論を導く。
とでも手を加えれば、容認可能な文となるのではないだろうか。これ
﹁どうせA。﹂といった文は、作れるであろうか。
も先の3と同じく、﹁どうせ﹂の既定性に疑義を抱かせるものである。
つまり、1のようにいうときの降雨の既定性は、
では、この文にどういう修正を加えたら、自然な文となるであろうか。
るが、1のような完全な適格文に比べて据わりの悪いことは否めない。
という文は、自然な文と感じられるか。微妙なラインにあると思われ
せ﹂の表す事態が既定であるというよりも、事情は逆で、事態が既定
8 どうせ雨が降るんだ。
7 どうせ雨が降る。
であると思う人にとって﹁どうせ﹂が使いやすいということなのでは
としても、依然据わりの悪さは残るであろうが、許容度はいくらか増
というときのそれと、変わらないのではないかと思うのである。﹁どう
ないかと思うのであるが、それは﹁どうせ﹂が﹁結合﹂している二事
雨が降るんだから、洗濯はやめよう。
態の関係を見ることによって明らかにできると思われる一注−一。
−
96
’
とでもすれば、これは立派な適格文であろう。9は形の上では二文並
9 どうせ雨が降るんだ。洗濯はやめよう。
u どうせ雨が降るだろう。
そして一見単独で適格文になり得ると思われる
になる。
﹁どうせA,B﹂という具合に、Bはむしろ不可欠であるといえること
とでもすれば、許容度はほぼ回復するであろう一注2一。ということは、
置であるが、﹁どうせ雨が降るんだ﹂の文が﹁洗濯はやめよう﹂という
すのではないか。更に、
提案の理由説明として働いていることは明らかで、実質的には1と同
についても、同様の理解をした方がよいのではないかと思うのは、この
つぶやくことはできるし、その前後に特に何らかの状況を想定しなけれ
えになっていると思われるからである。空を見て﹁雨が降りそうだ﹂と
文が実際に用いられる状況を考えれば、必ず何らかの問いに対しての答
じ表現価値を持っている。つまり9は、文脈としてはAとBの問に
﹁AなのでB﹂という順接の関係が働いていて、それによって適格文と
ようになるが、意義を考える上では、﹁どうせA,B﹂と把握する方
なっていると考えることができる。構文としては﹁どうせA.B。﹂の
ばならないわけではない。しかし、空を見て﹁どうせ雨が降るだろう﹂
けにはいかない。これは自問自答の例である。また、﹁明日自転車使う?﹂
が、妥当であろう。
と聞かれて、﹁いや、どうせ雨が降るだろう﹂と答えるのは、特に違和
と言ったら、洗濯しようかと思案しているような状況でも想定しないわ
ついても、検討しておこう。これにはやはり、﹁−のだ﹂のいわゆる説
また、7に対して8の方がいくらか許容度が増すと観察したことに
明の機能が、大きく関わっているだろう。8のように言われれば、何
からであろう。今考えたような場合ではなくて、単にuのような文を単
感がない。これも、﹁白転車は使わない﹂というBを容易に想定できる
ということになる。Bの﹁洗濯するのはやめよう﹂の前提となる文で
のだが、このままでは不十分であることは、
を活用したものがB、という関係にある﹂というふうに簡単に触れた
ここで改めて、A・Bの関係について考えてみる。先に、﹁Aの事態
二
独で用いるという状況は、なかなか想定しにくいと思われる。
らかのことに対しての説明の文と受け止めることになる。8だけでは
あるが、しかし何かに対しての説明であるという何かが、﹁洗濯はやめ
何に対して説明しているのか明らかではないから許容度は低いままで
よう﹂といったものにあたるのかもしれない、という具合に、説明の
対象を復元しようと試みることが、許容度を回復させるのではないか。
ありさえすればよいのであ っ て 、 現 に 7 の 後 に 文 を 加 え て 、
この論法でいけば、必ずしも文の形が﹁−のだ﹂である必要はない
10 どうせ雨が降る、洗濯は中止だ1
’
−
97
13 どうせ雨が降ったんだから、洗濯しないで正解だったじゃな
ことを確認しておく必要があるだろう。
に、過去の文であるということは直接的には関係していない、という
のような非適格文を見れば明らかである。そして、この12の非適格性
12 どうせ晴れたから、洗濯した。
のだ、と理解される。
まうから、何らかの︵時としては文の外部に置く形でも︶Bが必要な
てきたわけだが、それは更に、回避されるべき無駄が不明になってし
うには言えないとかいった現象も、Bが不可欠の要素だからだと考え
説明してきた、7←8←9の順に許容度が増すとか、単独ではuのよ
からこの文に﹁どうせ﹂を用いることができないのであろう。今まで
いということになる。一章の最後で考えた、﹁明日自転車使う?﹂﹁い
いか。
や、どうせ雨が降るだろう。﹂は、まさにこの例であろう。﹁白転車使
いうことも了解されているときには、必ずしもBは顕在する必要がな
14 どうせ晴れるなら、休講の日にしてくれればよかったのに。
う?﹂に対して﹁いや﹂と答えていることからも、﹁使わない﹂という
逆にいえば、回避されるべき無駄が白明で、それに対する発言だと
この文は、晴れたときにしな言えない文であるから、その点では12と
Bが明確に問いに対応する。また、
という文は、十分に適格である。では、12の文はなぜ言えないのだろうか。
共通するものがあるが、﹁休講の日に晴れる﹂という事態を仮想してい
15 ええ、ええ、どうせ私はばかですよ。︵森田論文より一
12同様に﹁晴れ﹂が確定している文として、次の14を作ることができる。
る日に晴れた﹂というものである。つまり、ここで仮想されている
のような場合、森田が指摘する通り﹁開き直り﹂となるのは、話題の
る点が注意される。14の文が発せられる実際の状況とは、﹁講義のあ
﹁休講の日云々﹂とは、晴天を有効に活用できたはずの状況である。12
はばかだから、Blーこの話し合いをすることが無駄だ、ということで
内部に言及されている無駄を省こうというのではなく、A11どうせ私
開き直りが成立する。
はその状況が実現し、有効に活用できた場合で、これが非適格文とな
用いることができるという現象は、12の非適格と相まって、示唆的で
16 いえいえ、どうせ私なんかは平どまりですから⋮。
る。14は晴天が無駄になったわけであるが、この場合に﹁どうせ﹂を
ある。即ち、﹁どうせ﹂は、この﹁無駄の回避﹂を大きな要素として持
14では無駄が結局回避されなかった。そのために、回避できたよう
が、その発送が開き直りや謙遜の意図によって明確であるから、Bが
形での謙遜である。どちらもその話題の続行を無駄とする発想である
というのは、BlI私の昇任の話なんかはするだけ無駄ですよ、という
な状況を仮想している。1では無駄を回避することが講じられている。
わざわざ言明されなくとも十分に﹁どうせ﹂の文として成立するのだ
つ語なのではないか、と考えられるのである。
そして、晴れたお陰で洗濯できた12では何も無駄になっておらず、だ
’
98
−
と考えられる。
三
というのは、雪を心待ちにしているスキーヤーが言うことではない。
雪など迷惑であって、せめてスキーぐらいさせて貰わないと不便なだ
けで丸損だ、と考える人の発言である。﹁どうせ﹂を使う場合、Bによ
って無駄を回避したところで明るい状況が待っているわけではなく、
このA白体は不問に付すという姿勢が、先行論の言うところの﹁既定
消極的に受け入れたA以上に事態を悪化させない、ということである。
性﹂﹁不可避的﹂にあたるのであろうが、
っまり、Bとは﹁どうせ﹂によって危倶される無駄を回避する方策
駄の存在を意識させる事態なのである。それではAの方は何かと考え
20 どうせ買うならいいものにしたい。
であったり、回避できないと述べる文であったりすることで、その無
るに、積極的に価値を見出される事態ではないことが注目される。森
が多いと言ったところに留めるのが穏当ではないかと思うし、よりB
かと言われれば、大いに疑問である。そういう状況で用いられること
との関わりから浮かび上がる、﹁さらなる無駄﹂の方を重視すべきだと
などの例が、﹁買わない﹂という選択肢のない状況でしか用いられない
が言えないということが指摘されているが、これについて同論文では、
考えるのは述べ来たった通りである。
本論文に お い て 、
暫定的解釈として、本稿でBとするものはAに対して﹁その出来事が
17 どうせ今日は母の誕生日だ。おもしろい本を買って送りたい。
許容できるという﹂意味を持つのであって、17においては﹁ただ許容
できるのではなく、もっと積極的な意志的な意味を持つという点が問
題﹂と考える。しかし
にすることなのであって、回避したいということであろう。例えば
以上、っまらないものを買うなどという行為は、迷惑なAを完全に無駄
かを贈るという事ば、歓迎されない事態なのであるが、出費を我慢する
ないのは、Aの方であると考えるべきだろう。18の人にとって、AH何
が特に問題がないことを考えれば、むしろ積極的な価値を置かれてなら
の如く、晴れたという現状を踏まえ、その利点を積極的に活かすこと
21 せっかく晴れたのだから洗濯しよう。
せ⋮﹂に対して、﹁せっかく﹂の方は、
雨が降ることによって生じる洗濯の無駄を回避しようという﹁どう
おきたい語がある。それは﹁せっかく﹂である。
さて、以上のように﹁どうせ﹂の意義を把握するとき、同時に見て
18 どうせ贈るなら、おもしろい本を買って送りたい。
19 どうせ降るなら積もってほしい。
’
■
99
をしようというのであり、対照的に見えるが、それだけがこの語を取
25 せっかく晴れたのに、洗濯できなかった。
つまり、Aは十分に活かされることが危機にあることが、前提となっ
のように、Aを活かせなかった場合である。この25と、先の21が共に
ているようなのである。25はまさにAの晴れが無駄になっている。A
成立することを考え合わせると、﹁せっかく﹂の重要な要素に気づく。
まず、﹁せっかく﹂も、
を活かしてしまうと24の例のように非適格になる。そしてこの文を、
り上げる理由ではない。それ以上に意味の構造がよく似ているように
せっかくA,B
26 せっかく晴れたから、忙しかったが、洗濯した。
思われるのである。
の如きモデルで把握すべきだと思われる。21が言える一方で、
されることになったけれども、一度は無駄になりかねない状況があっ
と改めれば、十分な適格分になるであろう。これは晴れが結局は活か
23 せっかく晴れたんだ。洗濯しようじゃないか。
であろう。この克服の文脈が話し手聞き手双方に了解されていれば、
たのを克服したのだ、という状況が浮き彫りになったための、適格化
は不可であろう。そしてこれに﹁どうせ﹂の場合と同様の手を加えて、
と適格化することができる。ただ、﹁1A,B﹂という構造を有すとい
22 せ っ か く 晴 れ た 。
うだけ な ら ば 、 そ の よ う な 語 は
Bをしようと提案している限りにおいて、Aが無駄になる状況は回避
であろう。21とても、Aが無駄になるならないは確定していないが、
それについての言及は特に必要とされないはずで、
分析が可能だからである。
されていない。むしろ無駄になりかねないような状況︵2ーの場合でい
もし晴れならば、洗濯しよう。
﹁せっかく﹂のA・Bの関係を、﹁Aの利点を積極的に活用するB﹂
えば、洗濯しないまま過ごしてしまいそうな状況︶があるから、この
という文は自然であるし、この想定のもとでは、24も十分に成り立つ
という先の簡単な把握で捉えるとして、しかし次の24は成り立つであ
ような判断をわざわざ示す必要があるのだ。
27 それでも、せっかく晴れたから洗濯した。
ろうか。
のように他にもある。その中で﹁せっかく﹂を﹁どうせ﹂と対比して
2 4 せ っ か く 晴 れ た か ら 、 洗 濯 し た 。
語であると同時に、その関係をAが無駄になる可能性の範囲内に規定
こう考えると、﹁せっかく﹂はAを有効活用するBという関係を示す
みようというのは、A・Bの関係においても、﹁どうせ﹂と同じような
非適格と言い切るのはためらわれるが、大きな違和感が残るのではな
するのである。この点で、﹁せっかく﹂のBも、﹁どうせ﹂のBと同様
いかと思われる。この文ではAを十分に活かすBという条件が満たさ
れているのだが、それよりも間題なく成立するのは、
−
■
o0
1
我々の言語能力が、どのくらいの複雑さに堪え得るかということの明
内省から遠ざかる思いを禁じ得ない。﹂と、放棄してしまうのである。
ない。﹁せっかく﹂については次の先行論があるが、
﹁せっかく﹂の語をこのような方向で考えるのは、本稿が最初では
を伴うことによって認められるものなのか、単独で既に価値ある事態
ただ、その転換の原因となったのは、﹁せっかく﹂のAの価値が、B
め、前半一三章まで︶と後半で分裂していると把握せざるを得ない。
Aの有効活用の危機を意識させる事態、ということになる。
森田良行﹃基礎日本語2﹄﹁せっかく﹂の項︵角川書店、一九八〇一
なのか、という疑問に発すると理解される。結局渡辺論文は、﹁Bが随
に、
らかな知見がない場合は、このような方向転換をする必要がないので
渡辺実﹁見越しの評価﹁せっかく﹂をめぐって1国語学から言語
しなかった現実とを前提として、Bを随伴的に成立させる可能性を持
伴的に成立するという期待と、そのBがまだ実現せず或いは遂に実現
はないかと思われるが、渡辺論文の中にそのような論は見られないた
学へー﹂︵﹃月刊言語﹄二月号、一九八○︶
同じものと理解できるが、﹁事態を有効に利用しようとするとき﹂の方
と分析する。﹁残念ながら﹂というのは、本稿の﹁無駄﹂という把握と
用いる。
本稿の立場からいえば、これはAの価値を単独でもあるものなのか
る事実に対応しきれないと思われる。
Aは価値を認められないという把握であり、これでは24が非適格であ
こない。逆に論文前半部の記述では、Bを随伴することによってしか
ぜ﹁未実現﹂性を帯びるのかということについての説明は、遂に出て
ち或いは持っていたはずの事態Aを、価値ありと認める話者の評価を
にはそのような把握を見出そうとしないもののように見える点が、本
否かという二者択一の問いが設定されていることから生じた混乱なの
実現困難な事態、もしくはめったに生じない事態、かけがえのな
森田論文では、
稿の立 場 と 異 な る 。
であって、もともと価値あるAを、更に活用する機会を無駄にするか
に至る。しかし、そのAに、更に随伴することが期待されるBが、な
渡辺論文の把握は複雑にならざるを得ない。というのは、前半で精
しないかが問題となる語なのだと把握すべきだ、と考えるのである。
表す﹂という記述を捨て、Bに関わりなくAを価値ある事態と認める
綴化した記述を、﹁本当にこのような複雑な前提を置いた上で、吾々は
Aそれ白体に価値があることについては、森田論文の
い事態、価値ある事態などが実現して、その事態を有効に利用し
A一﹁せっかく﹂の直接係る部分・星野︶の価値を認めているのであろ
ようとするとき、もしくは、残念ながら利用できないときなどに
うか。前提を精密にすればするほど、ネイティブスピーカーとしての
−
’
01
1
28 せっかく海外に飛ばされたのだから、この機会に語学でも勉
強するか。
が言えず、
せっかく出席させて貰えるのだから、何かを得て帰ろう。
31
最後に、﹁どうせ﹂﹁せっかく﹂が、﹁の﹂や﹁だ﹂を従える場合につ
六
勉強しよう。
29 せっかく海外勤務を命ぜられたのだから、この機会に語学を
合う。この場合は、何かをくれるという相手の厚意を無駄にしなけれ
いて見ておく。まず、
ばならない生言う文である。これと、次の33を比べてみる。
が言える、という指摘から導いた結論に従うべきであろう。そしてそ
あることは、用例から明らかである一注3一。また、﹁Bがなぜ未実現﹂な
33 せっかく彼はくれると言ったが、貰うわけにはいかなかった。
という言い方であるが、この形でもあくまで無駄という文脈がよく似
のかということについては、未実現の場合の方が無駄が危倶されやす
32 せっかくですが、頂けません。
いということであって、その危倶を意識させる状況であるならばBは
この33は、﹁せっかくAだが、B﹂といったモデルで把握されるが、こ
の価値一﹁海外勤務﹂や﹁晴れ﹂︶は既に享受されているものであって、
必ずしも未実現に限られないと考えられることは、24から27について
れを基準に考えると、32においては、このAが﹁せっかく﹂と一体化
無駄になりそうなのは、更なる利益一﹁語学の勉強の機会﹂﹁洗濯﹂一で
検討した通りである。
して﹁せっかくだが﹂を成していることが理解できる一注5一。﹁頂けま
と、相手に厚意を示されたこと白体には謝意を示しつつ、実際に物を
せん﹂が、﹁せっかく﹂の﹁無駄﹂を意識させる事態Bに相当するこ
この点でも、﹁どうせ﹂と﹁せっかく﹂の類似は認められるであろう。
っかく﹂のAはそれ自体で積極的な価値が認められる事態である。そし
受け取るという実利までは得られないと述べていることからも、﹁せっ
﹁どうせ﹂のAは、それ自体で否定的に受けとめられる事態であり、﹁せ
て﹁どうせ﹂の場合はA以上の無駄が危倶されていて、﹁せっかく﹂の
かくA,B﹂の全ての要素がこの32に含まれていることは明らかで、
以上の利益を得たいと考える︵11﹁せっかく﹂一かの違いに過ぎないの
34 せっかくだから、頂きます。
といったものにすべきであろう。同じように
せっかくだが、B
モデルをたてれば、
場合はA以上の利益を得る機会の消失が危倶されている一注4一。単純に
だということは、次の二例を比較しても納得されるのではないかと思う。
いえば、A以上の迷惑は被りたくないと考える→﹁どうせ﹂一か、A
30 どうせ出席させられるのだから、何かを得て帰ろう。
■
’
02
1
という文にっいて考えれば、やはりこれも、24・25・26・27について
らだと理解できる。
せっかくなので、B
という言い方がないことと、やはり対応している。﹁どうせ﹂の場合は、
39 せっかく晴れるなら洗濯しよう。
なら﹂という言い方はない。このことは、
さて、﹁せっかくだから/だが﹂という言い方はあるが、﹁せっかく
といった形で把握すべきである。仮に本心は最初から貰うつもりでいて
40 どうせだから洗濯してしまおうよ。
考えたところを踏まえて、
に謝し、しかし更に物を貰うという利益まで受け取ることは一度危機に
のように両方の形を持つが、これも
4ー どうせなら洗濯してしまおうよ。
も、﹁せっかくですから﹂と言うことによって、まず厚意を示されたこと
瀕したのだ一なぜなら貰わないことも考えたからである一、しかし一あな
どうせだから/なら、B
42 どうせやることになるんだから洗濯してしまおうよ。
たの厚意を無駄にするのは申し訳ないので一そこを克服して頂くことに
のように把握すべきことは、もう繰り返す必要がないであろう。
しました、という過程を全て言ったも同然の、誠に便利な用法である。
35 せっかくの本をなくしてしまった。
﹁せっかく﹂の側が、﹁せっかくの本/人/天気⋮﹂のように、自由
43 どうせやることになるなら洗濯してしまおうよ。
と無駄 に す る か 、
に連体関係を緒ぶのに対して、﹁どうせ﹂の方は、﹁どうせの事に﹂く
﹁せっかくの﹂といった連体用法も、﹁せっかくA,B﹂の影響下に
36 せっかくの本だから、大事にした。
らいしか言いようがなく、実質的に連体法を持たないなど、﹁せっか
の如く、﹁どうせ﹂の側でも両方を持っことに対応する。そして40.41を、
と無駄を回避するかのどちらかで、
く﹂と﹁どうせ﹂は必ずしもパラレルに振る舞うものではないが、﹁ど
あることは問違いない。﹁せっかくの本﹂といえば、
は言えない。また36が言 え る 一 方 で 、
うせ﹂の一統、﹁せっかく﹂の一統の内部では、互いに対応し合ってい
37 これはせっかくの本だ。
38 せっかくの本を大事にした。
るのである。
いても、﹁どうせだ﹂﹁せっかくだ﹂のような終止用法を、基本的に持
そして最も重視したいのは、﹁どうせ﹂においても﹁せっかく﹂にお
は極めて許容しにくくなると思われるが、これは36では大事にする理
を意識させるのに対し、38ではそれがない為に、﹁大事にしては行け
たないということである。かろうじて、
由をわざわざ述べるということが、大事にしない場合もあり得たこと
ないのか﹂と問い返したくなるような不自然なニュアンスを帯びるか
’
−
03
1
46 洗濯できなかったのは/できなくて、せっかくだ。
いる特例なのだと思われるのは、今までの考察に加えて、
同情・惜しみ情緒といった、B相当のものの存在によって許容されて
のような言い方があるが、44は﹁貰っておこう﹂、45は更に主体的な
45 せっかくでしたねえ。
側せっかくだ。貰っておこう。
て問われないことには、成立しないと思われるからである。この﹁や
のような文でも、﹁首都1−東京﹂ということが何かの刺激をもとに改め
52 やっぱり日本の首都は東京だ。
で必要だと思われるのは、
のようになるであろう。﹁Aかと思ったら﹂という項が意味の把握の上
Aかと思ったら、やっぱりA/一Aだった。
のように用いられるから、モデルは
は、許容度が劣りつつも言えるのに対し、
54 来るとは思っていたが、やっぱりだ。
53 やっぱりね。
つぱり﹂については、
のような言い方が、まずあり得ないからである。﹁どうせ﹂に関しては、
4 8 ど う せ だ っ た な 。 / ど う せ で し た ね 。
のようには言えるが、
4 7 ど う せ だ 。 貰 っ て や ろ う 。
は全くの不可であろう。この点でも、﹁どうせ﹂と﹁せっかく﹂は足並
などとは言えず、基本的に終止用法しかない。この点で﹁どうせ﹂﹁せ
55 やっぱりなのに/なら/だから、来ていた。
っかくだ﹂と同様の解釈が可能である。なお、次のような文は﹁どう
みを揃えないが、なぜ47が許容されるのかということについては、﹁せ
49 洗濯するのはどうせだ。
どうせA,B せっかくA,B
Aかと思ったら、やっぱりA/一Aだ。
ば当然のことなのであろう。っまり、
っかく﹂と好対照を為すのだが、これは﹁やっぱり﹂の語性からすれ
この、終止用法を基本的に持たないことと、接続法を持つこと、連
せ﹂においてもあり得ない。
体用法での振る舞いを考え合わせると、これらの用法においてもなお、
ここで比較のために﹁やっぱり﹂を見てみると、この語は
が分かる。
この点からも、第一章で論じた、﹁どうせA,B﹂一そして﹁せっかく
く﹂はBの部分を、捨象することなく保っているということである。
は、﹁やっぱり﹂は﹁Aかと思ったら﹂の部分を、﹁どうせ﹂﹁せっか
のような意味構造を、それぞれに反映しているのであり、構造として
50 寝ているかと見てみたら、やっぱり寝ていた。
A,B﹂も一がこの語の意義の基本的構造なのだという考えを主張す
﹁せっかくA,B﹂﹁どうせA,B﹂という意味の構造が存在すること
51 寝ているかと見てみたら、やっぱり起きていた。
−
■
04
1
ることができるものと思う
と観察することは、支持される。
5 既に、渡辺論文に﹁圧縮表現﹂と位置付ける同様の把握がある。
てないので、本稿の立場からの言及は差し控えたいが、﹁せっか
の﹁せっかく﹂﹁どうせ﹂の項を読む機会を得た。十分な時間を持
︹付記︺ 成稿後に、渡辺実﹃さすが!日本語﹄︵筑摩書房、二〇〇一︶
ド﹂にっいては﹁ほとんど消滅することがある﹂と述べるが、﹁短
く﹂については、﹁それ自身が話手にとって価値のあるPが実現し
ド﹂を﹁どうせ﹂の﹁基本的性格﹂に数える。﹁見くびりのムー
注1 杉本論文では、﹁既定性﹂とともに、﹁短絡性﹂﹁見くびりのムー
絡性﹂にっいても、﹁どうせ﹂の有無にかかわらず、ーの例文での
ことの期待されるQが、まだ実現せず、あるいはついに実現せず
ているのに、それに伴って実現してPの価値を完全なものにする
じまいとなり、Pの価値が不完全に終ることへの、惜しみの気持
とは必ずしも思われない。三者とも、そういう例が多いというこ
とであろう。
ち﹂、﹁どうせ﹂にっいては、﹁Pに立っ事柄に関して、仮に非Pを
雨が降るから洗濯しても乾かないだろう、といった判断が短絡的
て、﹁理由の表現で﹃どうせ﹄をもつ文は、明示的に理由の意味を
頭に思い描いたうえで、さらにそれを否定することで、Pをもは
森本論文では、﹁のだ﹂がつくと許容度が増すという現象につい
示すほかの表現からの支えがないと不完全に聞こえるのであろ
や動かし難い確実な事柄だと評価する﹂、﹁QにはPの範囲におさ
この意味で、渡辺論文が、﹁せっかくパリまで行ったのですから
4
う一つの成果をねらう場合もある。﹂と、部分的記述に留める。
フランスにも寄ってこよう﹂という例を挙げた上で、﹁ついでにも
森田論文では、﹁せっかくイギリスまで行くんだから、ついでに
3
︵ほしの よしゆき/本学講師︶
づく。44は受講学生の作例。
本稿は、本学の二〇〇〇年度﹁日本語学特講1﹂の講義内容に基
の類似、という観点は特にふれられていない。
述を展開させたものと理解した。﹁せっかく﹂と﹁どうせ﹂の構造
という説明がある。﹁せっかく﹂に関しては、前掲論文の前半の記
まる選択肢のうち、話手にとってベターと思われるものが立つ﹂
う。﹂という解釈を提示するが、本稿と同じような把握であると理
ね、ローマまで足をのばしてきましたよ。﹂にっいて
解する。
﹁Aだ﹂の後に、﹁ただ帰りたくないというわけで﹂が言外に
あって、それが﹁Bだ﹂に相当し、その具体として、﹁ローマ
まで云々﹂が言われているような感じがある。
■
−
05
1
日
会
学
文
本
日
語
本
学
大
子
女
一
、し
、︶﹂ー
圭目
ム
ダ
ル
ト
ー
ノ
月
8
一
、︶﹂1
﹁朝の十分問読書﹂がもたらしたもの
ドラマがあちらこちらで生まれている。
塩 山
啓 子
くれ、熱心に読んでいた。﹁朝の十分問読書﹂も四年目を迎え、感動の
たけど、プラスになったり感動できたことが嬉しい。﹂
だ本に出会うこともなかったと思う。最初はスッゲーめんどくさかっ
﹁たくさんの本が読めてよかった。朝読がなかったら、今まで読ん
での図書館活動を振り返りつつ、成果と今後の課題を明らかにしてい
なぜこのような全校をあげての読書推進活動が実現できたのか、今ま
れ、文部大臣より表彰されるという栄誉を受けた。この表彰を機に、
成十二年度生きる力を育む読書実践活動推進事業優秀実践校﹂に選ば
私が勤務する山陽女子中学・高等学校は、平成一二年一二月に、﹁平
私が担任をしている三年B組もあとわずかになったある日、﹁朝の十
きたい。
二。図書館活動の歴史
分間読書﹂についてアンケートをとった。この文章はその中のM子の
ものだ。五月頃掃除をサボったことを注意すると、﹁先生がすればい
目を迎える私立の女子中学・高等学校である。他に幼稚園と短大・大
学を併設する総合的学園である。山陽学園は、日本の先駆的教育者で
山陽学園は、一八八六︵明治一九一年に創立され、今年で一一五年
もう少し長くすればよいと思う。﹂と書いていた。高三で発憤し、日本
ある上代淑先生が五一年問校長として務め、﹁愛と奉仕と感謝﹂をその
ってきてくれた本で、いろんなジャンルの本が読めた。朝読の時間を
文学を極めたいとついに大学進学を果たしたS子とは、本を介して話
教育理念として実践してきた。現在中学校三クラス、高校︵普通科・
かじろよし
すことが多かった。私が時々図書館から運ぶ本にいつも関心を示して
た、と心から思った。高一、二と欠席しがちだったS子も、﹁先生が持
い﹂と吐き捨てるように言っていたM子の書いた文章を見て、私は驚
年
01 き感動した。そして、﹁朝の十分間読書﹂をやっていて本当によかっ
20
号
3
第
文
語
、し
圭目
.
■
06
1
音楽科︶三五クラス、一一七八名が在学している。
昭和五七年
・学年より読書係選出。
・中学校縦割り読書会実施。
山陽学園に初めて図書室が設けられたのは、明治三五年のことであ
った。その後昭和三一年に、学園創立七〇周年を記念して独立した建
戦後の混乱期から高等学校として何よりも図書館を、という先駆者の
昭和六一年
・和綴じ本講習会開始。
・手作り紙芝居製作。
昭和五四年
熱い願いの結集したものであった。特に当時の校長上代淑先生が図書
・模擬読書会開始。
・教員対象読書会実施。
館の重要性を説いて、文部大臣にまで寄付を募ったという話も残され
物の図書館ができたことで、本校の図書館活動は大きく発展していく
ている。その後図書委員会が組織され、昼休みのレコードコンサート
昭和六二年
ことになった。しかし、この図書館もたやすくできたものではなく、
などが図書館で開かれるようになった。昭和四〇年の図書館新聞を読
・関西高校との合同読書会実施。
・﹁読書の時間﹂開始。︵年三日、三〇分ずつ︶
平成二年
むと、四八%の生徒が一日のうち一⊥二時間を家庭で読書をしている
和五四年に年二回のLHR読書会を提案し実現することになる。年に
・トーハン見学開始。
・中学校親子読書会実施。
二回ではあるが、この読書会は全教師と生徒とが本を通してコミュニ
平成七年
平成一年
ケーションを図るという、全校をあげての取り組みになっていった。
れは年々進み、何とか全校生徒を本に親しませる方法はないかと、昭
そして今年で二二年目を迎え、さらに継続している。
・米子﹁本の学校﹂への研修旅行実施。
という記録が残っている。しかし、その後の中学生・高校生の読書離
昭和五四年以降本校で行われた読書活動推進のためのさまざまな取
平成一〇年
昭和五四年
平成一一年
・生徒による漫画版﹁上代淑の生涯﹂刊行。
・﹁朝の十分間読書﹂開始。
り組みは、次の通りである。
・全校一斉LHR読書会開始。
’
■
07
1
・絵とき日めくり作成。
平成一二年
・フルートと読み聞かせの会実施。
・山陽学園大学図書館利用開始。
︵参加者 生徒三七名、教師五名︶
・トーハン見学実施。
五月 ・模擬読書会︵対象:図書委員︶。
四月 ・第一回図書委員会︵役割決定一。
六月 ・LHR読書会実施。
・馬頭琴と読み聞かせの会実施。
・全校読み聞かせの会実施。一終業式前︶
・ビデオ上映︵乙武洋匡の一年問︶
・昔話講演会実施。
これらの活動が二〇年以上に渡って積極的に取り組まれた理由は、
・馬頭琴と読み聞かせの会実施。
一一月・校内読書週間︵﹁星の王子さま﹂とサンテグジュペリ展︶。
・オープンスクールでの図書館紹介。
八月 ・研修旅行実施︵行先:箱根︶
る事ができたからだと考えられる。現在図書委員三八名、図書課の教
・卒業生と﹁星の王子さま﹂について語る会実施。
し合いの中でそれぞれの役割を自覚し、補いつつ組織的な活動を続け
師八名が地道な読書推進活動を実施し、学校全体の教育活動に深く関
一二月・和綴じ本講習会実施。
図書委員と図書課の教師と司書とが毎週一回定例委員会を実施し、話
に至っている。この基盤となっている図書委員会活動の概要を、次に
わり、生徒一人一人を豊かに成長させていく方策について提案をする
一月 ・稲田和子先生による講演会︵﹁今昔話とは﹂一実施。
三月 。・全校読み聞かせの会一﹃花さき山﹄一実施。
二月 ・LHR読書会。
明らかにしたい。
三 図書委員会活動の概要
平成十二年度の図書委員会活動の柱は、一、LHR読書会、二、研
・蔵書点検。
図書委員会は、各クラスから選出された一名の図書委員と各学年か
まず、年二回行われたLHR読書会は、次のような作品で実施された。
修旅行と校内読書週間、三、読み聞かせの会等の催しの三点であった。
六月 高三 ﹃女優志願﹄
って構成されている。﹁学校の中でもとりわけ楽しい場所H図書館﹂を
目指して、さまざまな活動を展開している。平成一二年度に行った主
高二 ﹃だからあなたも生きぬいて﹄
ら互選された一−二名の教師と一名のベテラン司書の総勢四六名によ
な委員 会 活 動 は 、 次 の 通 り で あ る 。
■
’
08
1
中3
高一
﹃ひめゆ り の 少 女 ﹄
﹃翠ふかく﹄
らしやすくなるために、私たちにできることは何でしょう。﹂指名
そして、読書会。初めて三1の教室へ行く。みんな輪になって、
会ではなさそうだ。慌てた私は、すぐに本を読み終えた。
されたものから順に意見を言っていく。控え目だ。模範的な意見
少し落ち着かない様子。司会の言葉で会が始まった。﹁障害者が暮
に対して、﹁でも、実際はどう。﹂の反論的質問。各自が自分の経
﹃五体不満足﹄
﹃こころ﹄
中2
﹃命をくれたキス﹄
験に立ち戻り、そして、再び輪に語りかける。頭を縦に振って聴
﹃ハツピーバースデー﹄
高一
﹃わたしのいもうと﹄
く者もあれば、首をかしげる者もいる。自分では考えもつかなか
中−
中3
﹃きいち ゃ ん ﹄
﹃いじめ14歳のζ窃ω嵩①﹄
真剣に知らせようと会は熱を帯びてくる。一時問ばかり前に初め
二月 高二
中2
その読書会に助言者として初めて参加した教師、司会をした高一の
て知り合ったメンバーに親しみを感じてきた。
った意見にも遭遇する。穏やかな中に、それぞれが自分の考えを
中1
図書委員、参加した中学生の感想を次に掲載したい。
感想① 本音に触れる読書会一教師一
知り、さらには新たな視点が持てることもある。まして、読書会
の逆に、人から与えられた本によって、本を読むことの面白さを
時に、人から与えられた本ほど読みにくいものはない。またそ
五月のある日、三年−組の読書会に助言者として参加していた
その読み物に関する発見と同時に、相手の未知なる部分に触れる
という違う者同士が考えを共有できる機会を与えられることは、
機会も与えてくれる事になる。
だけませんか、と課題図書の﹃女優志願﹄を手渡された。喜んで、
を宿題として与えられた時の気分になった。案の定、その課題図
本当に素晴らしい読書会であった。
と笑顔で返答しながらも、内心わけのわからない本の読書感想文
書は、数日問本立てに飾ったままだった。ところがそれから数日
を受けた箇所は、付嚢が貼られている。そしてみっちりと練った
た読書メモも、きちんと意見がまとめてある。意見の根拠や感銘
とだった。
高校生になってはじめての読書会。予想以上にとても大変なこ
感想② クラスのまとまりを感じて ︵高一図書委員︶
後、訪れた図書委員に驚いた。テーマの﹁福祉﹂について用意し
進行計画表まで用意しているのである。ただの読書感想文の発表
−
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09
1
解すること。﹁車いすの花嫁﹂というビデオも見た。一年生の図書
読書会をするにあたって準備をしたことは、本の内容をよく理
で聞いていました。でも、﹁どこからがいじめだと思いますか。﹂
じめというものに直接関わった事がないから分からないという感じ
からの方がいいなとも思いました。いじめについての話で、私はい
みんなが分かりやすくなるためには、一人一人がちゃんと読んで
作者の内面は幸せだと思う﹂といった意見も出てきた。
見もあったが﹁外面だけでなく、夫に支えられて前向きに生きる
う﹂とか、﹁何をするにも時問がかかるかもしれない﹂といった意
その中で、﹁車椅子の生活になったこと﹂に対して﹁不便だろ
に入って部活で上下関係を学んでからは、﹁相手の気持ちを考えて
けるようを言葉でもはっきりζ言ってしまいました。でも、山陽
のだと気付きました。昔の私は言いたいことを、たとえ人を傷つ
いたからです。よく考えてみれば相手を傷っけることがいじめな
いと思い込んでいたいじめを、自分がやったり、やられたりして
という意見に私はドキッとしました。自分は直接関わっていな
ずに行動したりするところからいじめだ。﹂
﹁相手の気にしている事をその場で言ったり、相手の気持ちを考え
という質問に対して、
委員と司会をする人が集まってやる模擬読書会の司会もやった。
いた。でもだんだんとアドバイスをもらい、コツがつかめてきて、
最初は何をやっていいのかわからず、先生に助けを求めてばかり
会をスムーズに進めることができた。
本番の読書会。私たちのクラスは作者の生き方・結婚・幸せに
読書会を終えて、私たちのクラスはとてもまとまっているクラ
行動したり話したりできるようになったな﹂と自己満足をしてい
ついて話し合った。
スだと思った。また二年生になってもこのような読書会が出来る
たのに、この話し合いをして自分がまだまだだということを思い、
いう感じでした。今回のやり方はとてもいいと思いました。その
みんなが進んで発表したり、白分の思いをそのまま出し切ったと
回収・話し合いのテーマの決定・司会の仕方・資料の作成・助言者の
いかないのだが、司会者になった図書委員は、本の選定・読書メモの
もちろん毎回全クラスで感動的な読書会が実現するというわけには
め直すことが出来て、本当に良かったと思います。
恥ずかしくなりました。今回の話し合いで、もう一度自分を見つ
ように努力したい。
感想③ 白分を見つめ直せた読書会 一中学3年生一
場ですぐに意見が言えるし、紙をなくしたとか、話を忘れてしま
教師との打ち合わせなど大変な準備を重ねながらも、少しずっ成長し
私は読書会をして、とてもいい話し合いが出来たと思いました。
ったとか、そういう問題がなくスムーズにいけるからです。ただ、
■
■
10
1
ていっている。昭和五四年の記録を見ると、一、クラス全員が読む、
問中に行った﹃スーホの白い馬﹄の読み聞かせと、馬頭琴演奏を聞く
平成一二年度図書課では三回の催しを行った。その一回は、読書週
﹃スーホの白い馬﹄を朗読し、モンゴルの方による馬頭琴の演奏を聞い
会である。モンゴルからの留学生二人を招き、図書委員五人が分担し
た後、﹁モンゴルの人と生活﹂をテーマに話をしていただく、という大
二、全員が感想を書く、三、全員が一度は発言をする、という三つの
るが、継続できた要因は、体験を通して成長していく図書委員と、図
変有意義なものであった。参加した教師・生徒六〇名の中から活発な
目標を掲げてスタートし、今日までほぼ同じスタイルを続けてきてい
書課の教師の熱意によるところが大きい。そして課のみの取り組みに
質問も出され、異文化に触れる貴重な体験となった。二回目は、三学
期に﹃かもとりごんべえ ゆかいな昔話五〇選﹄一岩波少年文庫一の著
になっている。
本校で校内読書週間を設定し、図書館で展示などの様々な催しをす
ができた。話の中に昔話を採集した時の録音テープや読み聞かせなど
者稲田和子氏を招き、﹁今、昔話とは﹂のテーマで話していただくこと
終わらず、いまや多くの担任が読書会に協力し、主体的に関わるよう
るようになったのは、昭和五二年以来今年で二四年目である。その
もあり、皆うっとりと子供の頃に帰ったような心に残る会であった。
読み聞かせの会を催した。﹃花さき山﹄︵斉藤隆介 作︶を放送部と演
はサンテグジュペリ生誕一〇〇年を記念し、箱根の﹁星の王子さまミ
年々にテーマを設定し、図書委員が研究展示をするのであるが、昨年
劇部の生徒五名が舞台で朗読し、BGMは琴の生演奏、挿し絵はOH
三回目は初めての試みとして、三学期終業式の前に全校生徒を対象に
年初めての試みとして、読書に関するイラストと一行詩コンクールを
Pで映すという企画であった。初めてのことで最初とまどいの声も聞
ュージアム﹂を見学し、研究した事を図書館で展示した。その中で昨
になった。次にそのいくつかを紹介したい。
実施したところ、予想以上に多くの作品が集まり、とても楽しいもの
山陽の心がなごむ一〇分問さすが朝読実践校
朝読でハリーと旅に出かけよう紅の汽車で夢の世界へ
朝読で読んだ本に感動し目には大きな涙が一粒
しい事である。こういう日常的な活動の中から、﹁朝の一〇分間読書﹂
本を通して様々なメッセージを学校全体に伝えていくことは、大変楽
図書館というひとつの場所を中心に、そこに関わる教師と生徒とが
きるのだ、という確信をもつことのできた試みであった。
が、十分な準備の中で良い作品に出会えば必ず心を震わせることがで
ったのはとても印象的だった。今の高校生はと、とかく言われるのだ
かれたが、次第に作品の世界に皆が引き込まれ、体育館が静まりかえ
本読んでいろんな人に会える朝
さみしいな朝の読書あと少し卒業しても忘れず毎日
朝読の平和な時間守ろうと汗かきはたらく図書委員会
■
■
u
1
は提案され、やがては生徒一人一人を心豊かに成長させていく取り組
・山陽女子中学校で試験的に﹁朝の読書﹂の時間が設けられる。週
・図書課で﹁朝の読書﹂実施に向けて検討に入る。
ではあるが、それが読書体験のチャンスになるにはあまりにも不十分
の生徒に本に親しむ機会を与えたい、という思いから始められたもの
ける光景は、とても素晴らしいものであった。なんとか一人でも多く
あるが、図書館で用意した本を中心に全クラスの生徒が静かに読みふ
・企画会議で時間帯の検討。
・﹁朝の読書﹂を広げる東京交流会に参加一二月一。
・職員会議で検討。
・主任会議で提案、了承。
・学年会議で提案。
・教科主任会議で﹁朝の読書﹂について提案︵一月︶。
平成一〇年
・職員会議で﹁朝の読書﹂実施に向けて提案する︵一二月︶。
・県立鴨方高校妹尾氏を訪問一一一月︶。
四日問︵一〇月︶。
みへと発展させていくことができたのである。
四 ﹁朝の一〇分間読書﹂取り組みの経過
昭和六二年から一〇年間山陽女子中学・高等学校では、校内読書週
なものであった。しかし、この時長年学校全体が毎日六時問の授業で
・林公氏講演︵三月︶。
・職員会議で実施要領確認。
間中に三日間朝の三〇分間読書を実施していた。年にたった三日では
成り立っているシステムを、これ以上変更させていく発想を抱くこと
・全校一斉に﹁朝の一〇分問読書﹂開始︵四月︶。
はできなかった。ところが、平成五年、林公氏の﹃﹁朝の読書﹂が奇跡
を生んだ﹄が刊行され、それを読んだ図書課の教師は、心の底から驚
・﹁朝の読書﹂全国縦断岡山交流会が本校で行われる︵一〇月︶。
・ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会にて実践発表︵八月︶。
・大塚笑子氏講演︵五月︶。
平成一二年
・﹁朝の読書﹂全国縦断高知交流会に参加。
・﹁朝の読書﹂全国縦断京都交流会に参加︵八月︶。
平成一一年
き納得をした。年三回の三〇分の読書でも、信じられないくらい生徒
は静かに夢中になって読むのだ。それが毎日続くとなったら、たった
一〇分でもどんなに素晴らしいことだろう。以後、平成一〇年の実施
に向けて少しずつ準備がなされていった。その後の経緯は次のような
ものである。
平成九年
■
■
12
1
・きちんとやらせるには担任の相当なエネルギーが要る。
・本を持参しない生徒がいるので、その手当てを考えておく。
・学年によって、担任によってやらないクラスが出ないように全校
・﹁平成十二年度生きる力を育む読書活動推進事業﹂優秀実践校表
彰︵十二月︶。
・読まない生徒、遅刻した生徒、喋る生徒、寝る生徒に対して担任
大変に良い。
・活字離れの今、静かにじっと本を読み考える時問がもてることは
一斉でやることが大切だ。
平成二二年
・他県の高校から図書館視察︵長崎県立鳴滝高校、長崎県立南商業
・岡山県図書館協会報から執筆依頼︵三月︶。
高校、愛知県立豊田高校、広島県立音戸高校︶︵二月︶。
ニァレビせとうち﹁ニュース5﹂放映︵五月︶。
は根気強く指導をする必要がある。
・お金もかからず、教師の特別な能力も要らない。これなら教師集
・実践校の報告を読んで、ぜひやってみたい。
全体への提案の後、各学年で教師一人一人が持っている疑問を出し
団が一致して取り組める。
・山陽新聞記事掲載﹃始業前に好きな本を﹄︵五月一
合うことからこの取り組みは始まった。その時の主な意見は、次の通
示し、学年会議で説明していった。とくに教職員向け研修会で講演して
その後、図書課の教師によってその疑問一つ一つを取り上げ、見解を
・小テストはどうするのか。
いただいガ林公氏からの次のようなアドバイスは、大変有効であった。
りであった。
・起立、礼はいつするのか。
・わざと遅刻をしてくる生徒がいるのではないか。
★SHRが五分になることで、連絡や生活指導ができにくいと
・読ませっぱなしではなく、感想文を書かせた方が良いのではないか。
いうことについて
指導そのものであること。
・朝の読書それ自体が生徒一人一人の心に訴える本物の生活
の生活指導と呼ぶにふさわしいものであること。
・生活指導は学校生活全ての場面で全ての教師がしてこそ真
・ずるずると授業中に読む生徒がいるのではないか。
・本は最初、与えた方がいいのではないか。
・SHRが5分間というのは短い。
・準備、討議をする時問が短い。このままでいくと一学期で終わり
そうだ。
.
■
13
1
・これこそが教師の責任、教育そのものだという白覚を教師
★読めない・読もうとしない生徒の指導
る事。
・五分のSHRだけが連絡方法であるという固定観念を変え
八、
七、
六、
五、
四、
その生徒なりの成長があり、誇りが生まれる。
豊かな心と人問関係が育つ。
生活のスタイルが変わる。
集中力がっき、言語能力が伸びる。
四年目を迎えた今、これらの内容がどの程度実現していったかを考
想の中に、その成果が端的に表現されると考えられる。
﹁朝の読書﹂の効果は、数字では表せないものである。生徒の感
白身がもつ必要がある。
・生徒が個々に抱えている問題は違うのだから、その子にあ
・待つことは大事だが、何も助けの手を差し伸べないのは待
えた時、この取り組みの素晴らしさを改めて実感するのである。一か
ったものを共に考えようとすることが重要。
つことにならない。
から十分うかがえるのである。そしてまだ不十分であるとするなら、
しずつ育っていることは、何より白分の言葉で書いた生徒の感想の中
ら八の内容の全てが、程度の差はあれ一人一人の生徒の内にうまれ少
話合いを繰り返していく事で、教師全体の認識が深まっていったと思
それは生徒にではなく教職員全員が全ての生徒に責任をもつ、という
今振り返ってみると、教師個人の小さな不安も無視せず取り上げ、
われる。そして、不十分にしろその時話合ったという事実が、この実
でいる迫力によって一人一人の生徒を変えていくという、教師の認識
教師の確信ではないだろうか。また、全校が心を一つにして取り組ん
五 ﹁朝の一〇分間読書﹂の成果
の不十分さにあるのではないだろうか。
践を続けて行くうえでの共通の基盤として牛き続けていることが、今
つ継続させている。
実感できるのである。その話し合いは、四年目を迎えた今でも少しず
当初図書課から提案した際、他校のあらゆる実践例から﹁朝の読書
一、本が読めなかった牛徒が読めるようになる。
八%なので、本校だけが例外ではなかった。 それが、﹁朝の一〇分間読
なかった生徒は、なんと六一%にもなった。 当時の全国平均は六九・
平成九年度の新入生アンケートによると、
た。その内容は、次の八点であった。
がもたらす効果﹂というテーマでまとめたものをもとに説明していっ
二、朝の一〇分問が有効に使えるようになる。
一ケ月に一冊も本を読ま
三、遅刻が減り、HRに集中し、授業にスムーズに入れるようになる。
−
■
14
1
書﹂を始めて四年目の今、本校での不読者数は三%に激減している。
分では足らないくらい集中してしまい、HRの時も先生の話を聞
かずに読んでいたこともあった。わたしが小論文入試で見事合格
できたのも、﹁朝の読書﹂のおかげだと思っている。
一ちなみに全国の高校生の不読者数は、五八・八%である。︶ほとんど
全員の生徒が本に接し、本から何かを得ている現状である。次の二つ
★心が落ち着き、本を読む量が増えた。友達と作者について話し
もの︵資料2一である。読書好きになった生徒は一〇三人から一九三
の一〇分では物足りなかったので、休み時問も読んだ。
標を見つけるきっかけになったし、知的好奇心も湧いてきた。朝
たり、本を貸し合ったりした。本を読むのが楽しみになった。目
の表は、平成一二年度の生徒アンケートのまとめ︵資料1︶と、平成
人に増えており、また物事に集中できるようになったという生徒も三
り、活字に対しての抵抗が無くなった。ある休みの日に音楽もテ
★朝読が始まってから、本だけでなく新聞にも目を通すようにな
一〇年度に入学した生徒の三年間にわたる意識の変化を数字でおった
八人から六二人に増えている。そして、半数以上の生徒が朝の読書の
レビもなしで本だけで一日を過ごしたところ、とても楽しく感じ
時間が好きだと答えている。このことは、三年間﹁朝の一〇分問読書﹂
を続けてきた次の生徒たちの感想に十分表現されている。
た。これも三年間の﹁朝の読書﹂のおかげだと感謝している。
だと思ってたけど、本を読んでいくうちにどんどんはまっていっ
★今年は今までで一番本を読んだ。読書は何となく真面目なもの
た。だから、朝の読書で得たことは、本のおもしろさが分かった
★朝の読書を三年問してきて、最初は本にひかれるわけでもなく、
でみたいと思うようになった。今ではクラスでこの本がよかった、
ことです。
義務的に読んでいたと思う。でも今ではもっといろんな本を読ん
★高校生活が終わったら﹁朝読の時問﹂がなくなってしまうので、
み続けて行こうと思っています。本を読むことは、知らなかった
とかあの本はどうだ、とか本にっいての会話が多くなり、白分の
ことを知ったり、興味の幅が広がったりと、自分にとってもすご
さみしい。大学へ行っても、働き出しても、一生死ぬまで本を読
んな感情になり、多くの事を一冊の本から学ぶ。どんな小さな本
くプラスにつながります。そして毎日本を読めるようなゆとりの
れば怒りを覚えることもある。たくさんの人の考えを知り、いろ
からでも必ず小さな発見があり、何らかの小さな感情をもつ。本
ある生活を送っていきたいです。
世界も広がったように思う。本を読んでいると共感することもあ
★﹁朝の読書﹂が始まって、生活が変わってきた。前は読書は嫌
★﹁朝の読書﹂をしてきて今思うことは、私は慌ただしく家を出
当に本ってすごい。朝読の時間があってよかったと思う。
いだったのに、それは機会が無かっただけで、読んでみれば一〇
’
■
15
1
により、その時問が止まったように長く感じたこともあった。よく
朝の読書は、そのような感情をすべて忘れることのできる時間でも
★人は、怒ったり、喜んだり、悩んだりと様々な感情を持っている。
りを実感し、けじめができたのではないかということです。
てくるので、読書をすることで落ち着くことができ、一日の始ま
この三年問二、三人をのぞき全員が熱心に朝読に取り組んでい
学した学年です。元来、本を読むことが好きだったこともあり、
・私が受け持っている学年は、ちょうど三年前の朝読開始の時入
なり、お互いに貸し借りするようになった。
読書をすることで、生徒問の会話に本のことが登場することに
・図書委員がクラスの皆に本を読んでもらおうと努力している姿。
ます。本を読むことが楽しくて仕方がない生徒が、次々に本を
あった。たった一〇分の短い時問だったが、本の中に入り込むこと
﹁本を読むことは、昔の偉大な作家と話をすることである﹂などと
本を紹介し合っているのを見ると、本当に三年間続いていて良
探し出し、時には友人とどの作者がおもしろい等と話しながら
私がやってみた工夫
かったなとつくづく感じます。
いわれる。その事を自分自身が体験でき、感動した覚えがある。私
二、
は﹁朝の読書﹂を通して、読書の本当のすばらしさを知った。
次は平成二一年度末、教職員を対象にしたアンケートの中の主な意
・私自身、今まであまり本を読む時問や機会がなくて、読書から
・読書のすばらしさを話す。最近読んでおもしろかった本、課題
させるようにしている。
・音楽がかかっている時にできるだけ早く教室に行き、本を用意
・学級通信を使って本の紹介をしたり、担任が読んだ本も紹介した。
遠ざかっていた。それが朝読のお陰で前よりもっと本が好きに
読書等を紹介する。自分の本、図書館の本を配って読ませる。
・クラス文庫に自分の本や古本屋で買った本を並べている。
なれた。
見である。
・数年前のSHRの忙しさを忘れたように、静かに一時間目の先
・読み聞かせをすると、本当によく聞いてくれた。
一、﹁朝の読書﹂で私が見っけた喜び、感動。
生を待っているクラスが増えている。読めていないクラスには
からも﹁この本おもしろかったよ。先生も読んだら?﹂と会話の
・読んだ本の内容について時々生徒に話すようにしています。生徒
材料にしています。本を手元に持っていない生徒には、クラスの
まだ動きがある。八時五〇分頃全校はシーンとしている。
・自分白身の価値観を変えたり、感情のコントロールができるよ
本を持たせ二回目、三回目でも読んでみようと言っています。
・賑やかな状態から一転して静けさが訪れること自体が感動だ。
うになった。
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16
1
・図書ブックから生徒が読みたいと思う本を選ばせて図書館で借
りてきて学級文庫に置いた。生徒自身が選んだ本なのでよく読
んだ。
運んではいるが、なかなか読める本がない。
教職員アンケートの悩みの中にあるように、全員が読書に集中する
六 今後の課題
・本を読まない子に絵のある詩集などをすすめる。
てはなかなか困難なところもあったようである。しかし、多くの生徒
までに時間がかかったり、本の読めない生徒がいたり、クラスによっ
・遅刻の生徒を後ろのドアのところで迎える。
・最初の二週間が勝負。この間に絶対に読む癖をつけることが全
の前向きな感想をしっかりと受けとめ、今私たち教師がひるまずこの
て。ここで、読まない生徒は何らかの本に対してか、学校に対
してかの問題があるので面談で話をする。
ス担任がSOSを発したときは、担任一人で抱え込まず、周囲の教師
取り組みにさらに確信を深めていくときだと考えている。困難なクラ
で支えて行く態勢を早急に作っていく必要がある。そして、全校の教
・授業で良書の紹介をしました。﹁ダ・ヴィンチ﹂などの雑誌をよ
三、私の悩み
職員が心を一つにして取り組んでいる姿勢を示していくことで、生徒
く活用しました。
・ 最 初 の 数 分 う る さ い の が 悩 み 。
そして、何より﹁朝の一〇分問読書﹂によってもたらされる生徒と
庫の充実や、学級通信など、様々な経験を交流していきたい。
一人一人を動かしていく力にしたいと考えている。さらには、学級文
のようにしたらいいのか。
・本を読もうとしない子、読めるけど学校では読まない生徒をど
・一時問目に小テストがある場合、落ち着いて本が読めない。
ていると思えてならないのである。
教師との心の交流の中にこそ、教師の誇りと喜びを育てる鍵が隠され
︵しおやま けいこ/昭和四十九年度卒一
・いろんな本を勧めるには、自分自身が知識不足なこと。
たり、宿題をする生徒も数名いる。その生徒たちに本の楽しさ
・静かにさせることには成功したが、本を読まずにプリクラを見
がわかってもらえた の だ ろ う か と 反 省 し て い る 。
・朝読よりも遅くに来る生徒に問題があり、その生徒たちに朝読
を利用した指導ができない。
・活字嫌いの生徒に、これでもか、これでもかと読めそうな本を
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図書館
学級文庫
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33 23 82
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何ともない
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34 73 13
8 8 4
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42 72 23
71 21 21
8 6
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好 き
読んでいない
少しはできた
半分以上できた
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91 52 23
7冊以上
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