教師の専門性と教師教育の課題

滋賀大学教育学部紀要 教育科学
113
No.55, pp. 113 - 121, 2005
教師の専門性と教師教育の課題
田 中 裕 喜
The Professionalism of Teacher and the Problems
of Teacher Education
Hiroki TANAKA
1 教職の専門職化が要請される背景
文部科学省は、高度な専門性と実践的な指導力を備えた教師の養成を目的とした「教職大学院(教
員養成の専門職大学院)
」を、早ければ2007年4月に新設することを目指している。中央教育審
議会の初等中等教育分科会教員養成部会におかれた専門職大学院ワーキンググループが 2005 年 7
月に示した審議経過報告によれば、
「教職大学院」は標準修業年限を 2 年とし、修了要件としては研
究指導を要せず一定期間の在学と必要単位数の修得のみで足りるとし、修了者には「M.Ed」に相
当するものとして「教職修士 ( 専門職 )」( 仮称 ) の学位を与えるとしている。免許状については、新
たな免許状の創設に含みを残しながらも、現行の専修免許状を活用する方向を中心に検討していると
いう。開設されるコースとしては、現職教員を対象にしたスクールリーダーを養成するコース、学部
進学者(ストレートマスター)を対象にした実践的指導力を培養するコース、教員免許状を取得せず
に大学を卒業した社会人を対象にした 3 年間の長期在学コースなどを想定している。また、カリキュ
ラムでは、教育実習の充実を特色とし、現在一種免許状を取得するのに必要とされている5単位(4
週間)の倍にあたる 10 単位(10 週間)以上を修了要件とするとしている。
さらに、ワーキンググループは、
「教職大学院」の専任教員に、「実務家」を4割以上起用すること
を求めている(最低必要専任教員数の 11 人を基準とすると、「実務家教員」は 5 人となる。この5
人の 3 分の2に当たる3人については、みなし専任と呼ばれる非常勤教員でも可とされる)。ここに
言う「実務家」とは、校長や教育委員会の指導主事の経験者、都道府県の教育行政官、家庭裁判所・
福祉施設・医療機関の関係者、さらには学校経営に関する指導を行うことのできる民間企業関係者の
ことである。ちなみに、
「専門職大学院(プロフェッショナル・スクール)」の設置基準では、専任教
員全体に占める「実務家教員」の割合は、3割以上とされている。その比率を上回る「実務家教員」
の配置が必要であり、そのために「専門職大学院」の設置基準を近く改正するとしている。
こうして文部科学省によって強力に推進されつつある「教職大学院」の新設は、多くの教員養成学
部にとってみれば、いわば寝耳に水であった。それと言うのも、すべての地方国立大学の教員養成学
部、私立大学の教員養成学部・学科の多くは、すでに大学院修士課程を設置して、現職教育を含めた
教師教育を行い、専修免許状の取得者を輩出してきたからである。たしかに、わが国において、専修
免許状の取得者の数が何年経ってもなかなか増加しないという現状はある 1)。だが、それは、教育委
員会が大学院修士課程に派遣する現職教員の枠をわずかしか準備していないことや、修了者に対して
人事面や待遇面での優遇措置がとられていないことなどによるものであり、その点をこそ改善すべき
114
田 中 裕 喜
である。教員養成学部のなかには、このような考えから、「教職大学院」の設置に消極的な態度を示
しているところも存在する(一方で、教育大学の多くは、早期の段階から「教職大学院」の設置に向
けての検討を重ねてきていると言われている)
。
ここで、われわれは、あらためて問うてみなければならない。今日、なにゆえに、「教職大学院」
の必要性が唱えられているのだろうか? また、なにゆえに、既存の教育学部大学院で対応すること
ができないのだろうか?
第一に、非常に基本的なこととして、教員養成を学部段階から大学院相当段階へと格上げして教師
の専門職性を樹立することが、もはや世界の教育改革のグローバル・スタンダードとなりつつあるこ
とを認識しておく必要がある。アメリカでは教員免許の更新時に修士号の取得を給与増の要件として
いるし、フランスでは通算5年間に及ぶ医学部並みの教師教育を行っている。2000 年と 2003 年の
国際学力調査(PISA)で好成績を示したフィンランドでは、すべての教師を大学院相当レベル(修
業年限は 5 年ないし 6 年)で養成し、修士号の取得を義務づけている。こうした教師教育のアップ・
グレーディングは、大学進学率が 50%を越え、学部教育が一般化し、大学全入時代を迎えた先進諸
国にとって、当然の課題と見るべきなのかもしれない。
第二に、既存の教育学部や教育学部大学院が、学校と教師の今日的課題に対応できていないとい
うことがある。 中山成彬文部科学大臣(当時)が中央教育審議会に諮問を行った際の理由説明には、
次のように述べられている。
「近年、子どもたちの学ぶ意欲の低下や規範意識・自律心の低下、社会
性の不足、いじめや不登校等の深刻な状況など、学校教育が抱える課題は、一層複雑・多様化してき
ております。………現在の教員養成については、
大学等の教職課程が今日の学校現場が抱える複雑化・
多様化する課題に必ずしも十分対応していないなどの課題が指摘されており、教科教育や生徒指導等
に関する高度な専門性と実践的な指導力を確実に身に付けさせることが求められております。………
例えば、教職課程の科目は理論や講義が中心で、演習や実験、実習等の時間が必ずしも十分ではない
こと、教職経験者が指導に当たっている例が少ないことなど、実践面での指導力の強化が課題として
指摘されております」
。ここには文部科学省の教育学部・教育学部大学院に対する不満が述べられて
いるが、文部科学省の批判は、既存の学部・大学院が、今日の学校における教育実践や実践的見識に
無関心であって、それとは無関係な学問の講義や論文の指導に終始していることに向けられている。
このような批判に対して、教師教育者は、いかに答えるべきであろうか。それは一人ひとりが厳しく
自己に問いかけるべきことであろう。だが、このような不満と批判は、文部科学省に限らず、都道府
県と市町村の教育委員会にも、
現場の教師たちにも根強くあるということを認識しておく必要がある。
求められているのは、これまでの教育学部大学院のような個別の学問研究のディシプリンに沿った指
導を行う組織・機構ではなく、学校と教室をフィールドとした教育実践研究を行う組織・機構なので
ある。さらに、それは、教職に就くための最低限の知識を伝達する組織・機構ではなく、教師の生涯
にわたる成長をサポートしうる組織・機構なのである。こうした期待に応えて自己改革を図ることの
できない教育学部・大学院は、もはや相対的な地盤沈下を避けられないであろう。
そして、第三に、教師の実践が高度化し総合化してきていることを挙げなくてはならない。私の見
たところ、これこそが、教職の専門職大学院が要請されていることの決定的な事由である。このよう
に言うと、授業不成立や学級崩壊、社会性や規範性の欠如、不登校や引きこもりといった問題への対
応のことかと思われるかもしれない。文部科学省や中央教育審議会の認識は、おそらくこの域を出て
いない。しかし、ここで言うのは、そうした意味においてではない。教師の仕事が高度化・総合化し
てきている背景には、それよりもはるかに根源的な事況が存在している。このことは、文部科学省と
中央教育審議会においても、十分に認識されているとは言い難い。その根源的な事況とは、いったい
何なのだろうか?
このことを理解するための導きの糸となるのが、青年心理学者の溝上慎一の研究である2)。溝上に
よれば、明治期から 1980 年代までの日本の青年たちは、より高い社会階層に属する大人社会に参入
教師の専門性と教師教育の課題
115
することをプリミティブな拠り所とした上で、そこに至る過程でできるだけ自分に合っているもの、
少しでもやりたいと思えるものを選び、人生を形成してきた(「アウトサイド・イン」の生き方)。と
ころが、1990 年代以降の青年たちは、それまでの青年たちと対照的に、自分のやりたいことや将来
の目標を出発点として、それを実現するための場所を探すというふうにして、人生を形成するように
なってきている(
「インサイド・アウト」の生き方)。これは、単に順序が逆転したという話ではない。
このことの含意は、今や、青年たちが準拠集団とし周辺参加していくべき「大人社会」が空虚化して
しまっているということ、これである。
溝上の論を私なりに補足すると、次のようになる。1980 年代までの日本では、それぞれの地域コ
ミュニティと職業コミュニティに確固としたディシプリンが存在し、青年たちは、それに参入するこ
とをつうじて、物事の見方や考え方、他者とのかかわり方を習得し、「一人前の大人」へと成長して
いくことができた。ところが、高度経済成長期以降、地域コミュニティは、産業構造の転換と都市ヘ
の人口集中によって崩壊へと向かう。さらに、1990 年代以降になると、職業コミュニティもまた、
確固たるディシプリンと「一人前の大人」像を失って、青年たちが物事の捉え方や判断の仕方、振る
舞い方を漸進的に形成していく安定した土壌としての機能を衰弱させてしまったのである。こうした
地域コミュニティと職業コミュニティの空虚化が、グローバリゼーションとそれに伴う知識の流動化・
高度化・複合化によるものであることは言うまでもなかろう。
人間形成の安定した土壌としての地域コミュニティ、職業コミュニティが失われたこと、このこと
が、もう一つの人間形成の土壌である学校を直撃する。学校は、長らくの間、地域コミュニティと職
業コミュニティに補完されて、その人間形成機能を果たしてきた。今日、その地域コミュニティと職
業コミュニティが空虚化するに及んで、
学校が人間形成に対して担う責任の比重は、圧倒的に重くなっ
た。ところが、グローバリゼーションの波は学校をも呑み込んでおり、学校にのみ「一人前の大人」
像が残されているわけではない。学校が、地域コミュニティや職業コミュニティに代わって、「一人
前の大人」となるために必要な知識を子どもに獲得させ蓄積させられるわけではないのだ。しかも、
人々の生活を支える知識は、ますます流動化し高度化し複合化しつつある。今や、教師の公共的な使
命は、教科書に掲載された一定量の知識を子どもに獲得させ蓄積させることから、望ましい自分と社
会のあり方を他者とともに探究しつづける子どもを育てること、大人と子どもとが協同して今日的な
問題を探究していく学びを組織し促進することへと大きく転換してきているのである。教師の実践が
高度化し総合化し複雑化している背景には、このような事況が存在していることを理解しておくこと
が肝要である。
そして、このような教育観の転換こそが、今日の教師に対して、これまでとは性格を異にする新た
な専門性を要請しているのであり、教師教育者に対しては、その新たな教師の専門性に対応した教師
教育への根本的な転換を要請しているのである。
2 教師の専門性の三位一体論
今日の社会にあって、教師の専門性とは、いったい何を意味するのだろうか? 先の専門職大学院
ワーキンググループの審議経過報告には、確かな授業力と豊かな人間力といった言葉が挙げられてい
るが、そこでの授業は、旧来的な知識伝達型の授業が想定されているし、人間力という表現は、全く
具体性を欠いている。
これらの言葉の裏側に、
「教師の仕事は誰にでも務まる非常に単純な仕事である」
という認識が透けて見えるのは、私だけであろうか。とはいえ、これはゆえなきことではない。かつ
て、ダン・ローティが指摘したように、扱う問題の解決の多くが科学的な知見や技術の「確実性」で
基礎づけられている他の専門職と比較して、教師の仕事は、そのほとんどが「不確実性」によって支
配されているからである3)。その「不確実性」に基礎づけられた教師の専門性を規定することは、容
易なことではないのである。けれども、たとえ大づかみにではあっても教師の専門性を規定すること
によって、教職をイージー・ワークとする誤謬を斥けることが、目下のところ喫緊の課題であると思
116
田 中 裕 喜
われる。
このとき、大きな示唆を与えてくれる議論が存在する。佐藤学の「学びの三位一体論」である4)。
佐藤は、従来の知識や技能の獲得と蓄積を目指す「勉強」に「学び」を対置するとともに、「学び」
とは「世界づくり(認知的・文化的実践)
」と「仲間づくり(社会的・政治的実践)」と「自分探し
(倫理的・実存的実践)
」とが三位一体となった対話的実践であると定義している。無論、これ自体は、
教師の専門性を直接に示しているものではない。だが、教育が一人ひとりの学びを援助し成長・発達
を促進する実践であることを考えるならば、この「学びの三位一体論」に対応するかたちで「教師の
専門性の三位一体論」を提起しうると思うのだ。この目論見にしたがって、三つの次元で教師の専門
性を定義してみよう。
( 1) 「探究者性」
すべての教育実践には、それが対象とする世界が存在する。言語の世界、科学の世界、アートの世
界、という具合にである。学校と教室の日常は、教師と子どもが、ともにその世界のなかに入りこん
で、その世界が内包しているさまざまな意味と価値とを探究し合い語り合う営みに他ならない。その
ため、この対象世界に通暁し、よりいっそう豊饒な関係を構築しようと探究しつづけているというこ
とが、教師に求められる第一の専門性となる。われわれは、これを、
「探究者性」と呼ぶことにしよう。
「探究者性」は、無論、多くの対象について幅広く知っているという知識の量的な側面に限られる
ものではない。知識や文化の多様な交流が中心となった今日の社会においては、むしろ、対象世界の
理解の仕方に関する質的な側面が強調されなくてはならない。それは、どういうことであろうか?
アメリカの教育学者であるマグダリン・ランパートは、自らが小学校の教室で数学の授業を行なう
ことをとおして示唆に富んだ省察を行なっている5)。一般に、学校における数学は、確定した公理や
法則を覚えて、それを思い出しあてはめることで問題を解き、正しい答を速やかに得ることであると
いうふうに考えられている。それゆえ、多くの学校の教室において、真理は教師の説明と教科書によっ
て与えられ、答を導いた仮定を説明したり吟味したりすることを子どもとともに遂行する教師はほと
んどいない。けれども、ランパートによれば、これは、数学をわかるということではない。数学をわ
かるということは、他者に対して仮説を提起し、反証や反駁をとおして、仮説の検証へ進むといった
数学者たちが行なっているのと同様のディスコースの仕方を身につけるということであり、数学的な
語り口を学んで数学のディスコース・コミュニティ(論じ合う共同体)に参加していくということで
なのである。
数学する活動を対話的実践として捉え、数学の授業を他者と協同して真理を生成していく創造の場
として捉えるランパートの見方が、数学という学問のなりたちと本質についての深い探究と理解に根
差したものであることは言うまでもない。そして、このことは、数学という対象世界にとどまらず、
他の対象世界についてもあてはまることではなかろうか。教師には、対象世界と不断に対話し探究し
ている者であること、つまり優れた学び手であることが求められている。だが、それだけでなく、対
象世界をわかるとはどういうことなのかを不断に探究している者であること、つまり対象世界の学び
方を熟知しながらそれに磨きをかけている者であることが求められている。したがって、この「探究
者性」には、教育方法と教材の選択に関する見識と判断(どの方法を選ぶのか、どの教材を選ぶのか、
何のためにそれを選ぶのか)も含まれることになろう。
( 2) 「媒介者性」
教育の実践は、教師と子どもたちが、特定の対象世界に入りこみ、教材や素材にふれながら、その
世界が内包している多様な意味と価値とを探究し合い語り合う活動である。このとき、教師は、子ど
もたちを、その対象世界との出会いと対話へといざない、既知の世界から未知の世界へといざなう「媒
介者」の役割を果たしている。
教師の専門性と教師教育の課題
117
それに、授業における教師は、子ども一人ひとりのイメージや思考を丁寧に聴き取って、それを他
の子どもたちのイメージや思考と媒介し、交流させ発展させる役割を果たしている。子どもたちのイ
メージや思考の小さな差異に敏感であり、それらに敬意を払っている教師は、イメージや思考を媒介
することによって、子どもの存在そのものを媒介し、子ども同士の聴き合う関係を築いているのであ
る。
さらに、教師は、子どもたちと社会の多様な人びととを媒介する役割、教室で学んでいることと社
会の問題や出来事とを媒介する役割、かつて子どもたちが学んだことと今現在子どもたちが学んでい
ることとを媒介する役割などをも果たしている。われわれは、これらをまとめて、「媒介者性」と呼
ぶことにしよう。それは、平易な言葉で言い換えるなら、「つなぐ」役割のことである。
「学びの共同体」
としての学校づくりで知られる茅ヶ崎市浜之郷小学校は、開校以来、この「媒介者性」
を核心とする教育実践を積み重ねてきた学校である6)。そこでは、どの教室を訪れてみても、「○○
のところでね、僕 ( 私 ) が思ったのは、……」という具合に、テキストとの「つながり」を意識しな
がら子どもたちが発言している。あるいは、
「○○君(さん)の意見を聴いて思ったんだけど、……」
という具合に、仲間の意見との「つながり」を意識しながら発言している姿が見られるだろう。これ
らを支えているのは、
「どこから、そう思ったの?」「それは、○○君(さん)の△△という意見とつ
ながっているよね?」
「あのときは、○○ということを学んだよね?」という教師の問いかけである。
このような多様な「つながり」の意識こそが、教室のなかに、イメージや思考の差異を擦り合わせ、
探究し合い学び合う関わりを生み出していくのである。
学校とは、本来、他者と交わり、お互いの差異をもとにして学び合い高め合う場であるが、現状と
しては、他者との交流も、イメージや思考の差異の擦り合わせも見られない個人主義的な勉強の場と
なっていることが少なくない。教師の「媒介者性」は、学校らしい学校を創り出す上でもっとも重要
な専門性であると言えるだろう。
( 3) 「省察者性」
教室における教師と子どもは、教材や素材にふれながら、対象の意味を構成し、他者との関係を紡
ぐ活動を遂行しているのであるが、それと並行して、一人ひとりが自分自身との対話を遂行している。
自らの行為や認識や感情を対象化し意識化して、自分は何をすべきなのだろうか、自分の認識はほん
とうに正しいのだろうか、自分が欲しているのはどのようなことか、といったことを自分自身に問い
かけ、反省的に吟味している。教師には、授業をとおして、こうしたよりよい自分のあり方を探索し
かたちづくる自己内対話へと子どもをいざなうことが求められているのである。われわれは、これを、
「省察者性」と呼ぶことにしよう。
アメリカの哲学者ドナルド・ショーンは、このような省察を実践のただなかで遂行すること、す
なわち行為の中の省察(reflection in action)こそ、現代における専門家の特徴であるとしているが、
それが現代の教師において必要とされるというのは、きわめて明白なことではなかろうか。なぜなら、
今日の教師は、
科学的な理論や技術の適用によって授業を直線的一方向的に進行させることができず、
子どもの声や表情や身体のメッセージを受け止め、教室のなかに生起している事実と関係の意味を多
元的重層的に読み解いて子どもの学びを見取りながら、自らの行為や認識を絶え間なく修正し、授業
を展開しなければならないからである。
けれども、教師の場合は、他の専門家たちと決定的に異なる点がある。それは、自分自身が子ども
に対して省察者のモデリングの役割を意図的に果たさなくてはならないという点である。そのために、
教師には、どのような方略が必要とされるだろうか? ショーンは、教師が教室の子どもの発言や行
動に「理 (reason) を与えること」が重要であると指摘している 7)。一見したところ明らかな誤答や困
惑するような行動にも、その子どもに固有の「理」が埋め込まれている。それを教師が子どもとのか
かわりのなかで省察し言語化することによって、子どもは、自分自身の認識や感情や行為を対象化し
118
田 中 裕 喜
て問い直し、よりよい考えやよりよいあり方を探索していくことができるようになるのである。この
とき、教師は、子どもに、
「理」を与えると同時に、自分自身と反省的に対峙するための視座を与え
ていると言えるのではなかろうか。
このような教師の三つの次元の専門性は、教室の授業において、相互に関連し合いながら機能する
ものであることが留意されなくてはならない。たとえどれほど特定の対象世界を熟知していたとして
も、子どものつぶやきや身体に無頓着な教師や、自分自身のあり方や生き方を問い直そうとしない教
師には、子どもをその世界の探究にいざなうことは難しい。また、子ども同士の間に学び合う関係を
築くためには、教師が当該の対象世界の広がりと奥深さを知っていることや、一人ひとりの子どもが
自分の経験に照らし存在をかけて発言していることが必要になる。さらに、認識や態度を反省的に吟
味してアイデンティティを編み直す自己内対話の活性化は、対象世界に関する質の高い探究活動と、
子ども相互の思考やイメージの豊かな擦り合わせがあってこそ可能となる。このように、教師の「探
究者性」
「媒介者性」
「省察者性」は、単独では十全に機能し得ず、相互に媒介し合う三位一体の関係
を構成しているのである。
3 教師の専門性の自律的形成へ ―「事例研究」の二つの様式
以上に述べた教師の新たな専門性を形成していく上で、教師教育者には、どのような具体的課題が
あるのだろうか?
われわれは、1において、今日の社会では、知識の流動化・高度化・複合化に伴って、従来の教育
観からの大きな転換が要請されていることを指摘した。今や、教師の公共的使命は、教科書に掲載さ
れた一定量の知識を獲得させ蓄積させることから、望ましい自分と社会のあり方を他者と協同して探
究しつづける学びを援助し促進することへと根本的な転回を遂げつつある。ところが、現在の教師教
育は、この転回に即応したものとなってはいない。学部の養成教育はもとより、教育委員会や教育セ
ンターが主催する「初任者研修」
「10 年目研修」
「管理者研修」といったさまざまな現職教育におい
ても、依然として、学校の教室から切り離された場所での講義・伝達を中心にして行われているのが
実状ではなかろうか。これは、きわめて根の深い問題である。学部における養成教育が、個別の学問
のディシプリンに基づいた講義・伝達を中心にして行なわれてきた背景には、教師教育者の「学問に
通じてさえいれば、教師は務まる」という見方がある。だが、これは、あまりにも皮相な見方である
と言わなければならない。われわれは、2において、教師の専門性を「探究者性」「媒介者性」「省察
者性」と規定し、この三つが相互に媒介し合って機能することを指摘した。上記の見方は、
「探究者性」
の一部を強調しているに過ぎないのである。また、教育委員会や教育センターの伝達講習の歴史は古
く、1872 年の「学制」の制定にもとづく小学校の発足にあたって、米人教師スコットの伝えた一斉
授業の方式が、教科書・教具・教授法をセットにして、県の師範講習所と師範学校をとおして全国各
地の学校と教師へと伝えられたことに端を発している8)。だが、こうした中央から地方への上意下達
型の伝習が、教育の目的・内容・方法における規定性を強め、授業と授業研究における教師の自律的
な選択と判断を閉ざしてきたのであった。そして、このことが、今日に至るまで教師の専門性を著し
く限定的なものにし、教師を「技術者」に押しとどめてきた事由であることは明らかだろう。
今日、われわれが教師の専門性の形成を考える上でまず何よりも留意しなくてはならないのは、そ
の方法が一人ひとりの教師の自律的な選択と判断を促進しうるものであるということ、これである。
教師一人ひとりの日々の授業における教育の目的・内容・方法に関する自律的な選択と判断を尊重す
ることなしに、教師の専門性の向上をどんなに謳ったとしても、それはまったくの空理空論であって、
今日進捗しつつある教育観の転回に対応していない短見である。
以上のことからして、教師の専門性の形成は、学校を拠点とし、教師の授業における個別的かつ具
体的な選択や判断を協同で検討する「事例研究(case method)」を中心にして展開されなければなら
教師の専門性と教師教育の課題
119
ないだろう。これまでのような、教師の日常の実践から離れた場所での、一般的かつ普遍的な方法論
の講義を中心にした上意下達型の教師教育から訣別することが、今日の教師教育者に求められている
のである。
(1)
「カンファレンス」
そこで、われわれとしては、稲垣忠彦が提唱している「カンファレンス」を、学校を拠点とする教
師の専門性形成の中核に据えることを支持したい9)。カンファレンスとは、通常、医師が病院や研究
会で、臨床の事例にもとづき、その事例に対する参加者各自の診断を突き合わせて検討し、それをと
おしてより適切な診断をもとめるとともに、専門家としての医師の力量を高めていく場のことを指し
ている。これと同じように、教育の場においても、具体的かつ個別的な事例の検討を行なう場をつく
り、それを専門家として教師の成長の基盤として位置づけるというのが、稲垣の提案である。
学校において授業を対象とした「カンファレンス」を行なうための具体的な手順は、以下の通りで
ある。
①同一学年の二人の教師が同じ教材で授業を行なう
②二つの授業をビデオカメラで記録する(同時に参加者が観察できるとなおよい)
③ビデオを見て、それぞれの授業における選択や判断について意見を交換し、その特質や問題を検討
することによって、授業を見る目をきたえる
教育実践の研究にビデオを用いることの意義とは、何だろうか? ビデオは、メモやテープレコー
ダーとは異なって、教室全体の雰囲気と、教師と子どもの声や身体や表情を生き生きと記録し再現す
る。このことは、とりわけ、授業者本人が授業後に自分に見えていなかった部分を発見し、自分の選
択や判断を省察する上で有益である。また、何度でも再生できることから、「カンファレンス」の途
中で疑問が生じたときなどに、特定の場面をあらためて確認することができる。さらに、時間を置い
てからでも、擬似的にではあるが、その授業を臨場感をもって体験し直すことが可能である。ただし、
ビデオカメラによる記録には、記録者の授業観が無意識に反映されるという点を踏まえておく必要が
あるだろう。カメラを据える位置やファインダーを向ける方向によって、記録される内容にも当然違
いが生じてくるのである。
では、
「カンファレンス」に際して、留意すべきことは何だろうか? まず、「カンファレンス」が
授業の良し悪しを裁定する場でもなければ、教育観を戦わせ合う場でもないということを肝に銘じて
おく必要がある。授業は、多様な文化と学問に支えられ、多様な他者との関係に支えられ、教師と子
どもの学びの経験に支えられた、きわめて複雑な営みである。したがって、授業は、だれが行なった
としても不完全さと課題を残さざるを得ない営みであって、だれが見ても完全に捉え切ることの不可
能な営みである。したがって、その良し悪しを一方的に裁断するというようなことは、本来、できる
はずのないことである。必要なことは、
その授業が子どもにとってどのような意味をもっているのか、
授業者の行為や選択や判断が子どもにとってどのような意味をもっているのか、子どもどうしのかか
わり合いが個々の子どもにとってどのような意味をもっているのかを具体的な事実に即して見取るこ
と、それを率直に交流し合って他者の見取りから学ぶこと、自分の授業を見る目をきたえ、子ども・
教材・教育方法についての実践的な見識を高め、自分自身が専門家 (「探究者」「媒介者」「省察者」)
として成長する機会とすることなのである。
なお、稲垣は、同一学年、同一教材の二つの授業を比較することを提唱しているが、管見のかぎり
では、単一の授業について「カンファレンス」を行なう場合にも、同様の成果が期待できると言って
よい。二つの授業を比較するのであれば、二人の授業者が教材の解釈を一緒に行ない、指示と発問の
内容においても一致するように計画を詰めておくといいだろう。こうすることによって、授業の質が、
従来言われてきたような教材の解釈や指示と発問の技術によってではなく、むしろ教師の子どもの言
葉や身体の受容のあり方、教師の子どもへの対応のあり方によって決まるということを理解できるか
120
田 中 裕 喜
らである。このことは、教室の学び合いがすべて教師の事前のプログラムの枠外で起こることからす
れば、けだし当然のことであろう。
では、教師教育者は、
「カンファレンス」に、いかにかかわるべきか? 教師教育者のなかには、さ
まざまな分野の研究者と、さまざまな分野の専門家がいる。授業は、多様な分野の学問と文化を背景
にもつ実践であるから、一人でも多くの教師教育者が学校の教室に身を置き、「カンファレンス」に
参加することによって、授業の多面的な考察が可能になるはずである。ただし、
「カンファレンス」は、
具体的で個別的な事例をとおして授業者の成長を支援する場所であり、その事例をめぐる多様な見方
とその背景にある多様な経験の交流をとおして参加者の成長を促進する場所であることを心得ておく
ことが肝要である。研究者と専門家が自分の見方や考え方を普及させるための場所ではない。教師教
育者もまた、一人の参加者として、その学び合いの場所に身を置き、自分の授業を見る目と教育に関
する知を生成する技法に一層磨きをかければよいのである。
(2)
「実践記録」
教師の専門性の形成を目的とする「事例研究」を推進する上で、「カンファレンス」と並んで、き
わめて重要になるのが、
「実践記録」の作成と交流と共有である。教師の授業のなかでの選択や判断は、
無意識に依存しながら、即興的かつ状況依存的に行われている。「実践記録」の作成は、授業者が授
業後に自らの実践を省察し、
「自分と子どもの学びの軌跡」を言語化することをとおして、その実践
のもつ意味をあらためて把捉し直し、実践を「意味のある経験」へと編み直して、これからの実践へ
の発意や見通しを獲得する作業である。そして、
この「実践記録」を交流し共有する機会を「カンファ
レンス」に併行して設けることによって、
「事例研究」の参加者は、その教室の教師と子どもがもっ
ている歴史や背景、教師と子どもの内面的な過程を認識し、自分の観察した授業をいっそう奥深く理
解することが可能になり、自分の授業を見る目をきたえることができるのである。
わが国の教師は、明治期の近代学校の成立以来、おびただしい数の「実践記録」を記して検討し合
い共有し合う歴史的な伝統を培ってきた。そのなかには、国分一太郎・相沢とき『教室の記録』(1937
年)
、平野婦美子『女教師の記録』
(1940 年)
、土田茂範『村の一年生』(1955 年)、小西健二郎『学
級革命』
(1955 年)のように出版されて、
全国の教師たちに広く親しまれたものもある 10)。ところが、
1960 年代以降、授業過程の一般化や教授技術の法則化をもとめる授業の科学的研究が学校に普及す
るに及んで、教師が実践を語り記述する言語は、抽象化されて具体性を失い、やせ細り衰退してきた。
その端的な例は、
「T ( 教師 )」
「C ( 子ども )」の符合による教室の発言記録に見て取ることができる
だろう。ここでは、教師と子どもが、個人名と個性を剥奪され、どの学校のどの教室にも見られる教
師と子どもへと抽象化されて、内面のうつろな存在に貶められてきた。
どうして、このような事態を招来してしまったのだろうか? 授業の科学的研究は、「客観的である
こと」を至上命題に掲げて遂行されてきた。この客観性への強迫観念が、教師と子どもから固有名と
個性を剥奪し、教師と子どもの声や息遣いを捨象して、教室の出来事をありきたりの風景へと変換
してきたのではなかろうか 11)。授業研究において重要なのは、主観性を排除することなのではない。
科学論文のように追試可能な正答を導き出すことではない。各人が自分の専門性を賭けて、授業を細
やかに見取り、
「実践記録」を丁寧に読み取って、そこから学んだことを率直に語り合い共有し合う
ことこそが重要なのであり、主観性の問題はそうした協同性によって乗り越えられるべき性質のもの
である。
今、われわれには、教師と子どもの声を取り戻して、教育実践を語り合い検討し合うための生き生
きとした言語を蘇生させることが必要である。そのためには、「実践記録」に教師が「私」という一
人称で登場し子どもが固有名で登場すること、
「実践記録」が教室の個別的で具体的な出来事を「物
語的様式」12) で記述したものとなること、この二点が必須の条件であると心得なければならない。
そうなることによって、教室の出来事の多義的で重層的な意味が開示され、教師の身体と意識を既存
教師の専門性と教師教育の課題
121
のシステムとプログラムの呪縛から解放する契機が準備されるだろう。それは、さらに、一人ひとり
の教師を自らの切実な問いに基づく「事例研究」へと駆動して、教師の専門性の自律的な形成を促進
するものとなるにちがいない 13)。そのために、教師教育者は、このような条件の整備に心を砕くと
ともに、学校の教室の内側に身を置くことで、
「身をくぐり抜けた言葉」で教育を語ることを自らに
厳しく課しつづけなければならぬであろう。
註
1) この面で、わが国は他の先進諸国に比して決定的に遅れている。2001 年度の学校教員統計調
査によると、わが国における現職教員の専修免許状の保有率は、幼稚園教員が 0.2%、小学校
教員が 1.4%、中学校教員が 2.7%、高等学校教員が 24.5%である。
2) 溝上慎一著『現代大学生論』日本放送出版協会、2004 年。
3) Lortie, Dan C., A Schoolteacher: A Sociological Study , The University of Chicago Press, 1975.
4) 佐藤学論「学びの対話的実践へ」佐伯胖・藤田英典・佐藤学編『学びへの誘い』東京大学出版
会、1995 年、49 - 91 頁。
5) マグダリン・ランパート論(秋田喜代美訳)「真正の学びを創造する 数学がわかることと数
学を教えること」佐伯胖・藤田英典・佐藤学編『学びへの誘い』東京大学出版会、1995 年、
189 - 240 頁。
6) 浜之郷小学校の実践については、以下の文献を参照のこと。大瀬敏昭ら著『学校を創る―茅ヶ
崎市浜之郷小学校の誕生と実践―』小学館、2000 年。同著『学校を変える―浜之郷小学校の
5年間―』小学館、2003 年。
7) ドナルド・ショーン著(佐藤学・秋田喜代美訳)『専門家の知恵 反省的実践家は行為しながら
考える』ゆみる出版、2001 年、112 - 118 頁。
8) 詳しくは、稲垣忠彦著『明治教授理論史研究―公教育教授定型の形成』評論社、1966 年を参
照されたい。
9) 稲垣忠彦著『授業研究の歩み 1960 - 1995 年』評論社、1995 年、323 - 361 頁。
10) 国分一太郎・相沢とき著『教室の記録』扶桑閣、1937 年。平野婦美子著『女教師の記録』国土社、
1994 年。土田茂範『村の一年生』国土社、
1992 年。小西健二郎著『学級革命』国土社、1992 年。
11) 授業の科学的研究の問題性については、次の文献も参照されたい。佐藤学論「『パンドラの箱』
を開く=『授業研究』批判」森田尚人・藤田英典・黒崎勲・片桐芳雄・佐藤学編『教育学年報
Ⅰ 教育研究の現在』世織書房、1992 年、63 - 88 頁。
12) 教育実践の「物語的様式」による記述については、次の文献を参照されたい。松木健一論「ロ
ングスパンの学習活動を支える物語としての記録」福井大学教育地域科学部附属中学校研究会
著『中学校を創る 探究するコミュニティへ』東洋館出版社、2004 年、187 - 192 頁。あるいは、
Ayers,William, “Small Heroes; In and Out to School with 10 year-old City Kids”,Cambridge
Journal of Education ,20(3),1990,pp.269‐278.
13) 誤解してはならないのは、ここに述べた「事例研究」の二つの様式が、現職教育にのみ必要な
わけではなく、学部と大学院における養成教育においても全く同様に必要であるということ
だ。現在実施されている教育実習は、
「現場体験」の域を出ておらず、ここに示した「事例研究」
の二つの様式を中核にして再編されるべきである。現在の 4 週間の実習期間を延長することは、
必要なことではあるが、この課題に比べれば副次的なことに過ぎないであろう。