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ジオサイト案内書 13
い わ
さ き
岩 崎
かつての独立藩
岩崎地区を見守る武神人形「鹿島様」
湯沢市ジオパーク推進協議会
岩崎の歴史を訪ねて
ち とせこうえん
岩崎城跡 千年公園
横手市
岩崎
●
岩崎城跡
千年公園
皆瀬川
湯沢市
岩崎城跡は、湯沢市の北端の皆瀬川に面し
た丘の上にあります。現在は城跡全体が千年
公園として整備され、石垣や玉子井戸、八幡神
社、水神社、鹿島様、藤棚、桜並木などが点在
しています。
岩崎城は戦国時代、仙北平野を見渡せる要
地に館を構えていましたが、最上軍の侵攻によ
って落城しました。
江戸時代、岩崎には雄勝八郷を束ねる秋田
藩の奉行所が置かれていました。また、皆瀬川
の渡船場となり、湯沢と横手の双方から役人が
配置される交通の要所でした。
岩崎城跡
岩崎城跡から見た仙北平野と横手市(旧十文字町)
岩崎城の歴史
岩崎城主、岩崎氏は、雄勝郡を治めていた小野寺氏の分家すじであると考えられており、湯
沢領の北側を守っていました。
小野寺義道の時代、小野寺氏と山形の最上氏は争っていました。徐々に最上氏優勢となり、
1595年(安土桃山時代)、最上義光(よしあき)は楯岡(たておか)城主、楯岡満茂が率いる最上
軍を雄勝郡に差し向けました。
最上軍により湯沢城が落城した後、前森城に残留していた最上軍は、岩崎城の兵力が少数
であるという情報を得ると、すぐに夜襲(やしゅう)を仕かけました。これにより岩崎城は落城し、
その後、最上氏のものとなりました。
安土桃山時代末期、佐竹義宣(よしのぶ)が秋田に領地を移されてからは、佐竹氏の城とな
り、1615年(江戸時代初め)、一国一城令により廃城となりました。
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岩崎城跡 千年公園(つづき)
ち とせこうえん
-八幡神社-
八幡神社の宝物は鎧
(よろい)絵図で、源義家
が鎧を献上、奉納して戦
勝を祈願したと言い伝え
られています。
-水神社-
旧暦11月の初丑(うし)の日(11
月下旬~12月下旬頃)に、初丑ま
つり(裸まつり)が行われています。
水難よけと豊作を祈願して、町の男
衆がいさましい姿でえびす俵を奉納
します。
-2-
-高辻神社-
高辻神社は妙見(みょう
けん)神社とも呼ばれてい
ます。妙見菩薩、稲荷大
明神、天神(学問の神様
菅原道真公)をまつってい
ます。
玉子石と玉子井戸
1555年4月(室町時代)、第14代岩崎城主、河内守(かわちのかみ)道高に可愛らしい女の子
が生まれ、能恵姫(のえひめ)と名付けられました。乳母はサワという人で、智学法印、栗田五
郎の妻でした。
生後100日余りが過ぎた頃、能恵姫は昼夜を問わず泣き続けるようになり、医者の手当ても祈
願も効果がなく、一向に泣き止みませんでした。
夏のある日、サワが姫を抱いて庭を散歩し松の大木の下に来たところ、姫は急に泣き止んで
笑みを浮かべ、すやすやと寝入りました。不思議に思ったサワが松の根元を見ると、そこには
玉子の形をした石があり、色、形、輝きともに普通の石ではありませんでした。道高公はこれを
大変喜び、その石を姫の「守り石」としました。
玉子井戸は、千年公園内にある深さ約5mの井戸で、この守り石(玉子石)をまつったところと
伝えられてきました。平成4年に井戸を清掃した際、38個の丸い小石に混じって白く光沢のあ
る石が発見されました。これが玉子石だと考えられています。これらは岩崎資料館で展示され
た後、再び井戸に納められました。
玉子石
玉子井戸
井戸から発見された玉子石と小石
千年公園の祭り
藤まつり
(5月初旬~中旬)
初丑まつり(裸まつり)
-3-
井戸の近くにある能恵姫像
~能恵姫物語~
能恵姫が3歳になった頃、庭の松の根元に小さな白い蛇が現れるよ
うになりました。それ以来、姫が庭で遊んでいると必ず現れてはじっと
姫に見とれているので、乳母のサワは不思議に思っておりました。
そんなある日、サワが庭で姫に用を足させていると、その蛇がまた
現れました。サワはたわむれに「お前がその汚物を片付けてくれるな
らば、姫が大きくなった時お前の嫁にやろう」と言いました。それ以後、
姫が用を足すたびに蛇が現れては片付けていくのでした。
姫が16歳になった年、川連城の若殿、小野寺桂之助のところへとつぐこ
ととなりました。そのお嫁入りの日のこと、姫を乗せた渡し舟が皆瀬川の
栄が淵(ふち)にさしかかると、それまで晴天だった空がにわかに曇り始
め、稲妻が光り、大嵐になってしまいました。家来たちは必死で姫の乗る
かごを守ろうとしましたが、あっという間に舟もかごも見えなくなってしまい
ました。両家では手を尽くして探しましたが、姫の行方はわからないままで
した。
その年の冬のことです。栄が淵に面した庭で木の枝を切っていた智学法印(サワの夫)は、
誤って手に持っていたまさかりを淵に落としてしまいました。それを拾うために水中を潜って
いき、川底に着くと、そこには大きな岩屋がありました。その岩屋の中を見てみると、そこには
なんと能恵姫が立っており、かたわらには大蛇(龍神)が眠っていたのです。
狂喜した法印は姫に走り寄り、「お殿様や皆がお待ちでございます。さあ、お城に帰りましょ
う」と言いました。しかし姫はこれにうなずかず、「私は過去の因縁によりこの大蛇と暮らすこ
とになってしまいました。この淵にとどまって人々の水難を除き、国土を守らなければなりま
せん。ですから、どうかこれを私の形見として川連の殿へ届けてください」と言って、くしとかん
ざしを法印に渡しました。法印は姫の袖(そで)をおさえ引き止めましたが、気が付くと淵の岩
の上に立っており、その手にはくしとかんざしと姫の片袖だけが残されていたのでした。
泣く泣く城に戻った法印はそのことを殿様に報告し、形見の品を川連城の
桂之助のもとへ届けました。能恵姫をあわれに思った桂之助は、川連に龍
泉寺というお寺を建て、形見の品々を納めて姫の供養をしました。
能恵姫と大蛇は何年か栄が淵で暮らしていましたが、鉱山からの鉱毒が
流れてくるため、そこには住んでいられなくなってしまいました。そこで皆瀬
川をさかのぼり小安の不動滝にたどり着きましたが、すでに別の龍が住ん
でいたため、さらに成瀬川に移動し、仁郷の赤滝にたどり着きました。能恵
姫と大蛇はそこを永住の地とし、それを聞いた村人たちは赤滝のほとりに
小さな神社を建て、「赤滝神社」として能恵姫をまつりました。
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岩崎は、かつての独立藩?
佐竹氏の分家である壱岐氏は、川辺郡椿川村字椿台の地に2万坪を与えられていました。
江戸時代末期の戊辰(ぼしん)戦争において、壱岐氏は少数の家臣ながら目覚ましい働きを
みせたため、更に領地を与えられることになりました。しかし、椿台は飲料水に乏しく、耕地に
も恵まれていなかったため、領地移転問題が持ち上がりました。そこで岩崎村の肝煎(※注)
であった平兵衛は、必死にかけずりまわり、みごと岩崎に招くことに成功しました。
1870年(明治3年)2月、雄勝郡の内35ヶ町村と2万石が与えられ、岩崎藩が誕生しまし
た。小藩ながらも新藩の藩庁所在地として活気づき、新庁舎の建築が始まると多くの労働者
が雇われました。藩庁を中心に武家町ができ、城下町として町政が行われ、町名がつけられ
ました。
しかし1871年(明治4年)7月、明治政府は廃藩置県を決行します。これにより岩崎藩は岩
崎県となりましたが、同年11月、秋田県に統合されました。藩設置から2年目、1年と10ヶ月
後のことでした。
※ 肝煎(きもいり)…郷村の総責任者、現在の村長職にあたる。
かしま
岩崎の鹿島様
千年公園の鹿島様
国道13号沿いの鹿島様 →
鹿島様は、「武神」を象徴したワラ人形で、東北地方の村落に多くまつられています。
岩崎地区の鹿島様は数百年前から伝えられており、高さ4mほどの巨大なものです。古来よ
り鹿島様は村の入り口にまつられ、他所からの邪悪な霊や人、疫病の侵入を防ぐと信じられて
きました。岩崎では春と秋の2回、衣替えをする「鹿島祭り」を行い、願いを鹿島様にたくしてい
ます。
鹿島様は、2000年の歴史を有する日本の稲作農業がもたらした民族文化の芸術です。
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いしまご
石孫本店
岩崎は、羽州街道の宿駅、大曲へ
抜ける沼館街道の発着場、皆瀬川
の渡船場として栄えた町で交通の
要所でした。
現在の岩崎には、当時の面影が
感じられる黒い板塀(いたべい)や
古い町屋、蔵などが残されていま
す。1855年(江戸時代後期)から続く
石孫本店(醤油、味噌の醸造元)の
蔵などが国の登録有形文化財に指
定されています。
二井田の板碑
二井田の住吉神社の入り口には、古い時代
の板碑があります。
この板碑は、南北朝時代の1376年に建てら
れたもので、「永和2年碑」として、市の文化財
に指定されています。
地形図
住吉神社の板碑
住吉神社の鳥居
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岩崎ジオサイト案内図
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鹿島様
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石孫本店
鹿島様