三 十 五 号

自分史・継続二十五年
三十五号
つめくさ三十五号
鶏と、とり肉 …
……………………………………………………… 後藤 和子
目次
母の手、私の手 …
…………………………………………………… 島 安子
五十音順
うなぎ屋の陽射し………………………………………………… 須﨑 卓滋
–2–
本 文 膝痛になって……………………………………………………… 高梨 久子
三回目……………………………………………………………… 堀田 千鶴子
出征………………………………………………………………… 永澤 良子
感謝の日々/散歩………………………………………………… 三ヶ島 照江
6
7
ちょっと紹介……………………………………………………… 宮下 きみえ
8
16
12
19
14
21
【3・
】
私の三月十一日 後藤
三・一一地震 澤浦
の赤い衣装 須﨑
みちびき地蔵と津波 堀田
災害 永澤
我が家では 高梨
3・
平成二十三年三月十一日 島
37
「地震のサバイバル」より 宮下
【同級生】
Sさんとの六年間 後藤
同級生 澤浦
同級生、K子さん 島
グッドラック 須﨑
友とのわかれ 高梨
同級生 永澤
武井さん 堀田
同級生 宮下
五十音順
【カレンダー】
大きなカレンダー 後藤
カレンダー 澤浦
カレンダー 島
カレンダーの運 須﨑
七月の童画 高梨
元旦のカレンダー 永澤
自分史カレンダー 宮下
命日 堀田
60
課題作文
29
【手紙】
外国からの手紙 後藤
手紙 小林
手紙 澤浦
あの世への手紙 島
三十三年間の便り 須﨑
友への手紙 高梨
慰問文 永澤
十九の春 堀田
手紙 宮下
–3–
61
61
63
48
50
51
53
62
64
66
65
49
54
55
58
39
42
24
28
11
43
48
41
44
46
31
33
11
26
27
32
35
課題作文
【再会】
義母の想い 後藤
再会 澤浦
再会 島
一億年の再会 須﨑
【今】
夏の花 後藤
今の私 澤浦
今、私は 島
残された時間 須﨑
ベランダの整理 高梨
【よもやま話】
いとこ会 後藤
よもやま話 島
縁切り榎 須﨑
短歌を詠む 高梨
よもやま話の思いで 永澤
よるとさわると 堀田
よもやま話 宮下
五十音順
–4–
84
85
86
76
77
今のわたし 永澤
悩む 堀田
90
孫の来訪 高梨
知子さんとの再会 永澤
もし会えるなら 堀田
80
87
91
69
72
73
78
82
67
70
78
83
68
69
89
つめくさ本文
平成二十七年
五十音順
にわとり
鶏 と、とり肉
後藤 和子
日曜の朝テレビを見ていると、山口県の広い鶏舎が写り、
年老いた雄鳥の一番固い肉を分けて貰った。正月になり、
それが食卓に出たが、私は少しも箸が進まなかった。
その後、世の中が安定し、私たち家族は築地に近い月島
に引っ越した。その翌日、母からとり肉を買うよう頼まれ
た。初めての街を見たいので、私と妹は喜んで家を出た。 場所は郵便局の隣と聞き、着いてすぐに店の中を見ると薄
そのあと四、五人で焼きとりをおいしそうに食べていた。
前日のつめくさの題名が「よもやま話」だった。
暗かった。せっかく来たので声をかけると、奥の方から人
た。母にその事を詳しく説明すると、
私と妹は「キャー」と言って家に大急ぎで戻ってしまっ
しまった。
に似ていた。じっとこちらを見た目までそっくりに見えて
が出てきた。首から腰にかけ骨が曲がった様子で、鶏の姿
難 し く て 困 っ た な ぁ ー と 思 い な が ら 見 て い た。 す る と
フッと子供のころに鶏を飼っていたことを思い出した。
戦後の食糧難で困っていた時、父が近くの農家から、卵
を抱いた雌とりを、箱ごと持って帰ってきた。すぐ玄関奥
に置かれ、家族全員でヒヨコが生まれるのを待ちこがれた。
やっと五、六羽のヒナが無事に箱から飛び出てきた。少
それから数日後、とり肉屋の近くに用があり、前を通る
「困った人たちねぇ」と呆れた顔をした。
した。可愛いので、一羽ずつのヒナには名前が付けられた。
と店は明るく、中に人がいた。よく見ると先日のおばさん
し大きくなり小屋に移された。弟が餌係、私は掃除を担当
夏も過ぎ初卵も産まれた。そのとき手にした生み立ての
らしく、腰の曲がりが目立つだけの普通の人だった。私は
あの日は頭がどうかしていたのかしら。確かに凄く驚い
失礼なことをしたと思ったが、謝る勇気は無かった。
柔らかくなま暖かい感触を今でもはっきりと覚えている。
そして年の瀬が近づいた或る日のこと、大人たちの話で
は、この四、五年間、肉らしい物を食べていないので、小
それは多分、私と弟で大切に育てていた鶏が、危なくと
たけれど、目の錯覚だったのだろうか。
か、と言う話を聞いてしまった。そのあと、私と弟は、大
り肉にされそうになり、驚きと悲しい思いをしたことが、
屋に一羽だけいる雄鳥の肉をお正月の料理にどうだろう
声で泣いてしまった。困った父は知り合いの農家に行き、
–6–
鶏と、
とり肉/母の手、
私の手
ずっと頭の中に残り、薄暗い店の中を見た時、異様な恐怖
を感じてしまったのかも知れません。
母の手、私の手
二人か三人くらいしかいませんでした。
けん
うらやましい気持ちを持ちましたが、母の作った色々の
糸で編んだカーデガンも暖かいものでした。
「ただいま」といって小学校から帰ると、玄関の横の一間
ほどの廊下で編み機を使って編み物をしている母は、かけ
母は三十六歳の時に私を産みました。まだ小学生の私だ
ていた眼鏡の上から私を見て「お帰り」と言いました。
八十歳を過ぎた頃から私の手や指は、太くなり、節々が
から、
母は四十代です。母のかけている眼鏡は老眼鏡です。
島 安子
少し曲がってきたように思います。「やっぱり親子は、よ
その時、母はリューマチに罹り指先が曲がり始めていま
した。老眼の母は、眼鏡の上から私を見るのでした。今も
かか
いことにつけ、悪いことにつけ似るものだ」と感心してし
まう自分に、一人苦笑いをしてしまうのです。
忘れられない思い出となっています。
お 陰 様 で 私 は リ ュ ー マ チ に 罹 り ま せ ん で し た。 し か し
たりしたこともありました。
そんな病気になったのではないかと思ったり、自分を責め
辛いものでした。何か私がお転婆だったから、母は悩んで
母の老眼と、リューマチでの手指の曲がりは見るたびに
「でも、かあちゃんよりは私の方が女らしい指をしている
わ」と自らを慰め、誰にも話せることではなし、と勝手に
結論づけております。
母は、私の覚えている限り、いつも働いていました。私
が小学生の頃は隣の魚屋の手伝いをし、魚屋が忙しくない
時には、ハンカチ屋の刺繍の内職や、編み機を使って、セー
八十を過ぎれば「シワ」は寄ります年なりに……。クリーム
を塗っても、マッサージをしても思うように効果は出ませ
ターを編んだりしていました。
何回かの編み直しをすると糸が痩せてきます。すると母
ん。
もう少しすれば母と同じ手指になるのかも知れません。
を感じるのです。
自分の指に「思い出」が映り、胸に何かが動いてくるの
は、痩せて細くなった糸を二本とか、三本を寄り合わせて、
厚手の「カーデガン」を作ってくれました。
その頃、オーバーコートを着て登校する子は、クラスで
–7–
ひ ざ
うなぎ屋の陽射し
須﨑 卓滋
翌年、陽射しが輝く夏の土用の入りとなった。
「あのうなぎ屋さんには、うちの子と歳が一つか二つ下の
お子さんがいるのよ。私はいいから二人で行ってきたら」
ぎも食するまでのプロセスが大切で、生きたうなぎが「う
食べに行くことにした。すりガラスをはめた木枠の玄関扉
家庭的なうなぎ屋らしく、正午前に小学四年生の息子と
と家内が勧める。家内はうなぎが苦手であった。
な重」になるまでの過程と食する時を楽しむものである。
に〝商い中〟の表札があり暖簾をくぐった。
人生はプロセスである。物事の道筋が大事である。うな
一つの生命であるうなぎへの感謝の気持ち、うなぎ屋のお
「いらっしゃいませ」
だった。
営んでいるようで、若旦那は忙しく出前に出かけるところ
と、オヤジさんとおかみさん。どうやら若夫婦と四人で
もてなしに対する心づかい、心と時を共有する人あって積
み重ねられると物語になる。
板橋区の蓮根駅前に『うなぎ若竹』がある。まちの気さ
くなうなぎ屋で、毎年の夏の〝土用丑の日〟に息子と食べ
の日〟も過ぎたころで、付近のこじんまりとした『うなぎ
公団蓮根団地に引っ越して来たのは平成八年の〝土用丑
札の和風調の短冊も掛かっていて昭和を感じさせる。
な重とヱビス瓶ビールのポスターが壁に貼られ、メニュー
るこじんまりとしたお店だ。古いといえば古いお店で、う
カウンターの椅子席に四人と座敷席二つで、十人が入れ
若竹』の看板が目に入った。大きな黒いうなぎの絵が〝う
「うな重の〝松〟と〝竹〟をお願いします」
に行くようになってから十数年が経つ。
の字〟にくねり、上に筆文字で〝うの字〟の〝てん〟をふり、
カウンターに座り、うな重の違いに興味があり二種を注
文する。
左下に〝なぎ〟と書かれ〝うなぎ〟。その下に紅色で〝若竹〟
と表示されている電飾袖看板であった。暖簾の横には〝土
「時間がかかりますよ」
そば
とおかみさん、感じが良い。
用うなぎ丑の日〟と貼り紙があり、出前のスクーターが側
に置かれていた。
「ヱビス瓶ビールをお願いします」
–8–
ビールを注文すると、若おかみがサービスで〝うなぎの
骨焼き〟のつまみとお茶を持ってきてくれた。
時間のかかることは承知していた息子も、カリカリと食
べた。うなぎの骨のカリッとした食感が美味しい。
「うなぎ屋は、何代目になるんですか」
と、おかみに聞いてみる。
「三代目になります。今は主人の二代目が毎朝五時から仕
込みを始めます」
注文が入って目の前で、二代目のオヤジさんが〝活ウナ
格上の〝松〟を選んだ。
「いただきます」
生きものの命を頂く感謝の気持ちを込め箸を取った。
うな重の蓋を取つて見ただけでも、おおよその味を想像
することができる。焼きたてのいい香りがして、うなぎと
肝吸いに山椒をかける。
ふっくら香ばしく肉厚で柔らか、口に入れたとたんにフ
ワーと、
うなぎ特有の本来の味が舌に触れ旨味がとろける。
深い味わいのうなぎの焼きだれとご飯との相性も良く、美
味しさが口の中で醸成する。
若おかみは、お茶がなくなるとすぐに入れにきて気配り
皮面を炭火で焼き上げタレにくぐらせ、焼きとタレを繰
味のこまかいところが口にあった。客扱いも親切でわざと
『うなぎ若竹』は昔ながらの丁寧な仕事をする。そういう
ぎ若竹』でうなぎを食べることが息子との行事となった。
–9–
ギ〟をまな板に載せ仕込みを始めた。目打をして背開きで
手際よく捌く、身質も脂の乗り具合もよい。骨を丁寧に抜
がなされていた。箸を膳に戻し、おもてなしへの礼を言う。
さば
く技からして熟練の鰻職人と知る。串打ちを終えたうなぎ
「ごちそうさまでした」
り返し味を馴染ませる。目の前のうなぎがジューシーな音
らしくもなく、でしゃばるところもない。真面目な仕事を
と、
『うなぎ若竹』を後にした。
は蒸し器で蒸され、蒸し器の音が勢いを増すと焼きに入る。
さ
を響かせ、店内に香りが充満すると食欲の我慢は限界とな
する昔ながらの味と気楽なところが好きだった。
つ葉が入った肝吸い、奈良漬けに胡瓜と大根のぬか漬けの
平成十八年に同じ蓮根地区での家族の転居はあったが、止
それから毎年の夏、
〝土用丑の日〟ごろになると『うな
香の物が付いていた。息子は、ためらいもなく〝竹〟より
四十分ほど待ったか、うな重が運ばれてきた。膳には三
る。
かわづら
〝串打ち三年、割き八年、焼きは一生〟といわれる。
うなぎ屋の陽射し
し ん が し
と八月〝二の丑〟があったが、〝二の丑〟の八月五日の土
行った。この年は夏の丑の日が二日あり、七月〝一の丑〟
息子が成人した平成二十年は、『うなぎ若竹』に勇んで
男は素早く竿を上げてウナギを橋の上に引き上げ、バケツ
ギの夜釣りをする男性を見つけた。一本の先竿のアタリを
があった。灯の中に橋の上から数本の竿を立て、天然ウナ
川に架かる西台橋の欄干には明治期のガス燈を思わせる灯
らんかん
曜日を選んだ。 うなぎを食べ、ヱビスビールで乾杯。つまみは最初は
〝う
に取り込むとタバコの火で釣り糸を切った。三十センチか
か
六月の彩り鮮やかなアジサイを夕闇が覆う時分、新河岸
なぎの骨焼き〟で、二本目の追加では甘辛く煮付けた〝う
ら四十センチほどの小ぶりの細長いウナギであった。
めることもなく平成二十三年まで継続した。
なぎ肝〟がついてきた。成人した息子と『うなぎ若竹』で
「すごいですねー。どんな餌を使っているんですか」
中学生のころは田舎の清流でウナギを仕掛けで捕らえ、
見極めるケミ蛍が激しく揺れ、
「リンリン」と鈴が鳴った。
ホタル
過した時間は感じいり、記念すべき日と心に納めた。定年
の三年前であった。
自ら捌いて食べていたので親近感があった。
「餌は手長エビ、錦糸町から生け捕りにしてきた。毎年来
ているよ」
平成二十四年、息子とうなぎを食す行事は途絶えた。息
子が社会人になったこともあり、『うなぎ若竹』に行くこ
「釣ったウナギはどうするんですか」
男は、釣りたてで気分が良いのか色々と話してくれた。
い
「一週間ほど泥を吐かせ、蒲焼にして食べるよ」
とはなかった。
その年は、稚魚のシラスウナギが不漁で高騰が止まらず
前年の十倍ほどになって、国産のウナギの価格は跳ね上が
「実益を兼ねた良い趣味ですね。楽しんでください」
と言ってその場を離れた。
り、うなぎ屋の閉店が全国的に相次いだ。日本やアメリカ
では、一攫千金を狙うシラスウナギの密猟者も出る社会現
次の日も、西台橋の上から夜釣りをするバンに乗って来
り竿の本数が多い。
た夫婦と出会った。餌はゴカイと言うが二人ゆえ、昨夜よ
象となった。
ウナギを密猟する者があるのだから、正当に天然ウナギ
を釣って食べる者が現れても不思議はない。
– 10 –
西台橋は舟渡水辺公園の側にあり、河口から二十五キロ
のぼ
ほど離れ、ウナギが川越の上流に上る通り道と知る人ぞ知
る。
平成二十六年になって、冬から春にかけて取れるシラス
〝おかみ〟は以前の三代目の〝若おかみ〟であった。
息子が注文をした。
「うな重の〝特上〟を二つ。それとヱビスの瓶ビールを一
うな重は格上の〝特上〟になった。かつてと同じ旨みが
本お願いします」
ウナギの漁獲高が大幅に回復、今夏のウナギ価格の低下が
凝縮された味を堪能し、以前と同じように至福の時を楽し
こんか
予想された。だが、国産ウナギは高騰以前の価格にはおよ
んだ。
と追いかけてきた息子から、おかみの言葉が告げられた。
支払いは息子が済ませた。一足先に店を出て待っている
ばず庶民の口にはほど遠かった。
『うなぎ若竹』に行かなくなってから三年目の夏を迎える。
「お父さんも嬉しかったでしょう!」
『うなぎ若竹』を舞台に長く続いた親子の人生を忘れず、
– 11 –
〝土用丑の日〟が近づく。
「あの子が、お父さんにうなぎをご馳走するって。二人で
まぶ
さりげなく見ていたのであろう。ふりかえった目を射る夏
の陽射しが眩しかった。
い。表面に現れたものよりも、隠れて見えないところにこ
人生はプロセスであり、結果だけを早く求めてはいけな
る照れもあり、
である。
人の縁と道程、長くて難しい経験の積み重ねが大事なの
そ人生の重みがある。
「いらっしゃいませ」
た。暖簾をくぐると、おかみが応じる。
『うなぎ若竹』の暖簾は厳しい時期を乗り越え存在してい
したことであり、嬉しさの方が強かった。
と言ってはみたものの、内心は複雑だったが息子が成長
「息子におごってもらうのもなぁー」
思いがけなかった。定年から三年、息子と立場が逆にな
と家内が勧める。
『うなぎ若竹』に行ってきたら」
うなぎ屋の陽射し
膝痛になって
それからは、朝のテレビ体操のあと、ストレッチを続け
ている。その効果があったのか以後、ギックリ腰は発症し
近年は膝痛体操も加えて、自分なりに頑張ってきたはず
ていない。
二○一四年五月の連休も終わり、木々の緑が色濃くなっ
である。しかし、八十代ともなれば体力は衰える。少しく
高梨 久子
てきた頃である。ある日の明け方、私は左膝に違和感を覚
近くにある整形外科の医師は、患者が質問すると、怒鳴
らいの体操では、膝は守れなかったのかもしれない。
は思いながらも、そのまま日を送っていた。ところが、い
り返すという。そこに通院している友人は「近くが一番、
えた。しかし、起きてしまえば何も感じない。おかしいと
つ の 間 に か 違 和 感 が 痛 み に 変 わ っ て、 日 中 の 立 ち 居 も ス
何も聞かなければいいのよ」と言うけれど、誰しもある程
された。左膝にはすでに水が溜っていて、その水を抜くこ
杖を持っている人が多い。私は「変形性膝関節症」と診断
廊下の長椅子に並ぶ患者の大半は、年配の女性たちで、
離さえ、遠く感じられた。
して左膝はふっくらと腫れてきている。歩いて二十分の距
私は別の開業医を受診することにした。痛みは徐々に増
トといわれる時代である。
度の病状は知りたい。ましてやインフォームド・コンセン
ムーズにできなくなっていた。
つい数ヶ月前、私は友人とふたり、昼下がりの閑散とし
たホームに降り立った。当たり前のように、足早に階段を
下りる私の背後から友人の大きな声がとんできた。
「高梨さん、すごーい、若者みたい……」
そのあと彼女は幼な子のように、両脚を揃えながら一段
一段下りてきたのだった。
あのときは、友が驚くほどだったのに、私も膝痛が始まっ
たのかもしれない。不安感が襲ってくる。
受診しても、痛み止めの薬を処方されるくらいで、これと
ヒアルロン酸を注入した。この薬は週に一回、五回までが
茶色に濁った液体が、注射器に吸われていく。そのあと
とから治療が始まった。
いった治療はないらしかった。そのときに、本やテレビな
健康保険の使用範囲で、この後は一週おきになるのだとい
私は五十代の頃、毎年のようにギックリ腰になっていた。
どで、筋肉を鍛えることを学び、ヨガ教室にも通った。
– 12 –
膝痛になって
左膝の水は五回ほど抜き、右膝は注射だけですんでいる。
覚悟はしていたものの、全身の力が抜けていくような思い
そんなとき姉の訃報があった。二度目の肺炎だったので
評は何を根拠にしているのだろうか。
動けば痛みが走るので、買い物も家事も最小限度にして
である。二つ違いの姉とは、互いに都内に住むようになっ
う。
半年あまりが過ぎた。気がつけば庭木も色づいて、秋を迎
て何かと交流を重ねてきた。現在、私が居住している家も
を息子に託した。
体の状態では無理である。葬式も出席できないまま、全て
私は飛んでいって最後の別れをしたい。しかし、現在の
姉の薦めで購入したのだった。
えていた。
幾分痛みは軽減しても、この病気は軟骨がすり減ってい
るので完治することはないと言われた。
かつ
階段の上がり下りは嘗ての友人がそうしていたように、
一段ずつ足を揃える。和室では足をのばし、正座はできな
丁度そのころNHKの「健康の時間」で、膝痛について
は私たち兄弟六人の母親代わりだった。祖母は七十代頃か
に思い出されてくる。母が三十代で亡くなってから、祖母
膝痛になってからというもの私は、祖母のことがしきり
の放映があった。病気のメカニズムから始まって、後は筋
らよく「足が痛い、痛い」といっていた。時に縁側に腰を
い。立ち上がるときは何かにつかまっている。
肉を鍛える体操の指導だけだった。
と言ってもいた。祖母は病院にいったようすもなく、ひと
下ろしては「明日は雨だ、ワシの足は天気が分かる」など
私はがっかりした。周りの友人知人たちは、水が溜ったら
り痛みに耐えていたのだ。それなのに私は、慰めの言葉を
期待していた、水が溜ったときの処置などは一切なく、
抜いてはいけないという。貴重な栄養液なのだという人も
かけるでもなく、
唯傍観していた。
膝痛になった今頃になっ
そして祖母に謝りたい思いが湧いてくる。
後悔している。
て私は、祖母の辛さに寄り添ってあげられなかったことを
いた。
主治医に聞いてみると「そんなことはありません」と一
言いっただけである。私は確かなことが知りたくて、息子
に調べてくれるよう頼んだ。インターネットによれば、水
が溜っていれば、抜いてから治療するとのこと、素人の風
– 13 –
出征
永澤 良子
なった。
徴兵猶予されていた大学生も、文科系は学業半ばで学徒
出陣命令が下されたのだ。わが家の前の寮の中庭では、出
た。
征する学生を送る壮行会がたびたび行われるようになっ
今日で七十一周年になるという。雨の中、神宮外苑の競技
一九四三年十月二十一日、出陣学徒の壮行会が行われて
場で銃を捧げ持った学生の壮烈な行進と、観客席をぎっし
い。早稲田の学生の出征は人ごととは思えない。
戦局は緊迫してゆくばかり。いつ召集がかかるか分からな
徴兵は猶予されていた。徴兵検査は〝第一乙〟だったが、
わが家にも大学生の兄がいた。工学部の学生だったので
「都の西北早稲田の森に……ワセダ ワセダ ワセダ」と、
校歌を叫ぶように歌う声が聞こえてくる。
り埋めた女子学生の見送りの映像が、毎年この日報道され
る。
そうして私は鶴見市場の生家の前にあった学生寮の思い
出が甦ってくるのである。
わが家の前の空き地に早稲田大学の学生寮が建った。太
なった。或る日の夕暮れのこと、建物に沿った道を行くと、
少女の好奇心から私はその寮をちょっと覗いてみたく
学友たちから胴上げされている。早稲田の校歌を天まで届
長久」と書かれた赤いたすきをかけた学生が、輪になった
ていった。黒い詰め襟の学生服の上から「祝出征」、
「武運
私はじっとしてはいられない気持ちで寮の中庭まで入っ
それぞれの部屋の窓はみんな開け放されていた。どの部屋
けと歌いながら……。軍歌ではなく、ひたすら校歌を歌っ
平洋戦争最中のことで、塀も庭木の植え込みもない。
も、明るい電灯の下で机に向かって一心に勉強している学
ていたのだった。
勉学の志を抱いて上京したはずの息子が「祝出征」のた
れ駅へと向かって行った。
帽をかぶって赤いたすきをかけた姿で、学友たちに見送ら
そうして父母に別れを告げに故郷へ帰るのだろうか、角
生の姿が見えた。中庭からは、学生たちの楽しそうに笑い
さざめく声が聞こえていた。
太平洋戦争はそのうち戦局が次第に厳しくなっていっ
た。町では毎夜のように出征兵士を送る行列が通るように
なり、見送りの軍歌がわが家の窓辺にまで聞こえるように
– 14 –
出征
すきを携えて別れを告げに帰郷することになるとは……。
は何人の方が生還できたのだろうか、という思いに至るの
かった……〟と。その思いは、あの時の早稲田の学生さん
九十二歳で健在の兄。
滅多に会うことができないけれど、
出征は即ち死を覚悟しなければならない。両親の心情は
如何ばかりだったことか。 今にして思う。国の犠牲になって出征することが、どう
この世にいるということで私は今日までどんなに力付けら
である。
して「祝出征」だったのだろうか。当時の私は疑いもして
れてきたことか。
捧げたのであった。
平成二十六年十月 記
私もその碑に思いを馳せ、ひとり静かにご冥福の祈りを
れているそうだ。
記憶を次代に残そうと、毎年この記念日には追悼式が行わ
学徒壮行の地」という碑が建てられているという。戦争の
七十一年前、神宮外苑の壮行会の行われた地には「出陣
いなかった。だが私の瞼の裏には、未だにあの赤いたすき
が鮮やかに映っているのだ。
当時の新聞は戦意高揚の記事ばかり。
「勝たずば生きて帰らじと 今ぞいで立つ父母の国……」
こんな軍歌が、出征を見送る行列に声高らかに歌われてい
た。前線の日本軍の戦況が不利になって、人間魚雷や、特
攻機に乗って、敵艦に体当たりする戦術が行われるように
なった時にも、犠牲になった兵士たちの果敢な行動がほめ
たたえられた。
人命を無視した戦術に、今思い出しても私は身震いして
しまう。
国家総動員の世の中、私たち女学生も軍需工場にかり出
され、兄も出征こそしなかったけれど、軍の技術系の研究
に学徒動員させられたのだった。勉強が大好きで、いつも
明け方近くまで机に向かっていたのだが。
世の中が平和になった今も、〝兄は戦地へ行かなくてよ
– 15 –
三回目
堀田 千鶴子
Mさんから電話があった。八月十八日の朝だった。
「何度もしたけど留守だった」
と言う。栃木県足利へ義父の介護に四日間行っていたの
で通じなかったろう。何か慌てている様子だ。話を聞くと
『肺ガン』だという。
「検診で判り、初期なので手術になると思う」
たじゃない」
「でも……」
「大丈夫、大丈夫。お稽古に出られるようになったらしっ
かり練習して、当日決めればいいじゃない。もうプログラ
ムは出来ているわよ。
変更するのなんてすぐ出来るからね」
「うーん」
ふっと声の調子が変わった。 「何んか一人でいると泣けてきちゃう……」
一人でいると考えたくないことまで考えて落ち込む。逃
ちは皆協力的だと言う。それは救いだ。
げ道がない、と思い込んでしまう。でも彼女のお子さんた
主人が入院中だし、実のお母さんも手がかかる。
〝泣きっ
「あんまり周りのことを考えずに、あなた自身の治療に専
彼女は甲状腺ガンなど二度の手術を受けている。今は御
面に蜂〟とはこのことだ。
念してよ」
「うん、分かった」
八月十九日から検査入院をすると言う。十月の朗読会に
は出られないだろうからと、それを早く連絡したかったの
「大事にね」
ものじゃない。
と言われたそうだけれど、何回目だから慣れるっていう
彼女に三回も? お医者さんに
「三回目だから、大丈夫だね」
電話を切って、どっと椅子に座りこんだ。大変だ、何で
だそうだ。
「出られるか出られないかは、そのときになって決めれば
いいじゃない」
と私。
「だってみんなに迷惑かけるでしょう」
「当日になってダメだったら『都合により出演できなくな
りました』って言えばいいのよ。そういう朗読会だってあっ
– 16 –
三回目
の 朗 読 講 座 が 開 講 に な っ た と き か ら だ。 そ の と き の メ ン
Mさんとの付き合いは二十年になるだろうか。淑徳短大
でもあった。本人は自分がみんなに迷惑をかけたとは夢に
この頃は蔭をひそめているが、彼女はトラブルメーカー
と思うこともあった。自分が率先してやらなければ、が勇
も思わないのだから、やきもきする私たちがバカみたい、
甲状腺ガンが見つかったのは、習い始めて二、
三年目だっ
み足になり周りが振り回される。彼女は、よくも悪くもお
バーで残っているのは彼女と私だけだ。
たろうか。小豆粒大のしこりがあって病院へ行ったら、ガ
節介焼きなのだろう。
る。小柄な彼女のどこにそんなエネルギーがあるのだろう。
に食事を届けたり、病院への付き添いなどの世話もしてい
クル、小学校での読み聞かせ。そして近くに住むお母さん
すると、ゆっくりと歩いてくる。目から涙が溢れそうだ。
番先に彼女の姿を捉えることが出来る。手を挙げて合図を
て彼女の姿が目に入った。呼吸が荒い。私のいる場所が一
十月の末になって、Mさんがお稽古に来た。ドアが開い
を済ませて、一日も早く練習に出てきて欲しい。
そんな彼女のすべてを含めて、大事にしたい人だ。手術
発揮する。
会計や、打ち上げた台本の校正にかけては、抜群の力を
ンだった、と聞かされた。声帯に異常が出たのか治ってか
ら声がかすれることもあったが、だんだん元に戻っていっ
た。
それからも元気で朗読を続けていたが、二度目の手術は
子宮ガンで、今度で三回目だ。
私には到底まねの出来ることではない。友人も多く、今回
朗読していたKさんも台本を置き、Mさんが席に着くのを
彼女は活動家で老人ホームのお弁当作りやカラオケサー
も色々助けてもらっていると言っていた。彼女の人徳なの
待った。
「ハイ、だいじょうぶです」
苦しそうに息をしながら彼女が
「だいじょうぶ?」
先生が先ず口火を切った。
だろう。
だ が、 朗 読 に 関 し て は ち ょ っ と 気 に な る。
「 私 の 読 み、
どう? うまいでしょ」と言う態度が見え見えだ。
〝私な
んて……〟と謙遜しているように見えるのだが。でも感情
の入れ方は確かにうまい。
– 17 –
と言いながら、目は真っ赤。
が我々の結論だった。
いたことだから」とこともなげに彼女は言う。もし私だっ
十一月には近所で朗読をするそうだ。
「前から決まって
そして肺ガンが原発ではなく子宮ガンからの転移だったこ
たら、どうするか……。やっぱり読むな、それが生き甲斐
彼女の口から手術の顛末と、その後の様子が語られた。
とも話した。私はその前に電話で聞いていたが、みんなは
なのだもの。
平成二十六年十一月
たって『朗読大好き』な仲間なのだから。
な が ら 私 た ち と 共 に 朗 読 を 続 け て 行 く だ ろ う。 な ん っ て
Mさんもこれからはガンと真正面から向きあい、治療し
初めて聞くことで驚いていた。来月には埼玉医大で全身の
検査をするとも。
朗読仲間六人の内、三人がガン体験者だ。一人は乳ガン
から肺に転移し、ただいま治療中。もう一人は大腸ポリー
プを切除したら、ガン細胞が見つかった。次に皮膚ガンも
やっている。そしてMさんだ。
お稽古が終わってから、六人でランチを一緒にする。M
さんを励ます会になり、肺ガン治療中の人から病気との向
き合い方などを聞いていた。
Mさんは気丈な人だ。退院して二日目にお母さんの病院
へ行く付き添いをしている。みんなに「それは兄弟に任せ
る」、「あなたがそこまでやることはない」
、
「お母さん、す
こしわがままよ」などなど。
「でもね、私が長女だから親を見るのは当たり前って、
思っ
ているのよ、母は」
と深い溜め息をついた。
「自分を一番大事に考えなければダメよ」
– 18 –
三回目/感謝の日々
感謝の日々 三ヶ島 照江
ベッドで寝ている主人の症状を心配しながら、デイサー
ビスの施設から母が熱を出しているので帰るという連絡。
二人の面倒をどう見たらいいの? 体がいくつあってもた
「私、スーパーマンではない。精神的にも、肉体的にも限
りない。
えている。この場になって「やっと自分らしく生きられる」
界!」
シーソーゲーム中央の役目を終えて、今感謝の日々を迎
と。
いるのに、何事もなく平然を装っている自分が情けないほ
分でも嫌気がさすほどお腹が煮えくりかえる状態になって
と思う。人並みに腹立たしく思うことも沢山あったし、自
の要素が揃えば、潔く道具を全部処分。主人の無言の帰宅
トがないと、なかなか踏ん切りがつかないもの。これだけ
店を閉める決意をした。仕事は理容師。何かのアクシデン
主人の命が月単位と言われ、私は、即、長年やってきた
あんなに心細い思いをしたことはない。
どに辛かったこともあった。根底に嫌な奴と思われたくな
に向けてステージを作る。店の中を見事なくらいすっきり
振り返ってみると、自分を前面に出したことはなかった
か っ た か ら な の か、 偽 善 者 の よ う な 私 は 如 何 な も の か と
片づけた。
や は り! 八 月 二 十 一 日 に 主 人 が 無 言 の 帰 宅。 そ の
二十四日後に母も亡くなった。予想外の展開にバタバタし
いかが
……。
護としては五ヶ月間だった。真っ暗なトンネルの中、明日
た。よく乗り切ることができたと、自分でも驚く。こんな
主人と母の間に立って、三十三年間。その中で闘病、介
の見えない心細さに押しつぶされそうになっている自分が
私に身内はいないので、一人で乗り越えたことになる。
に強い精神力があったなんて……。
そう、昨年の九月で幕は降ろされた。私の目の前で、同
お陰様と言えば、主人の兄弟三人が主人存命の時より付き
いた。
時多発テロ。九十五歳の母の介護と、主人、七十六歳の末
合いの密度が濃くなり、見守ってくれていること。主人の
かたわ
残してくれた宝として大切にして行きたいと強く思ってい
期ガンの看護。傍らにだれもいない。越さなければならな
い峠。
– 19 –
る。
ト自由だ。こんな緩やかな時の流れを今まで感じたことは
その一つは、我が家の屋根は本来S字瓦だったものを雨
私が散歩を始めたのには、二つの理由がある。
三ヶ島 照江
ない。いつも家族に合わせ、快適に過ごせるように自分を
漏りがしたためにトタン屋根に変えたこと。傾斜が強く、
封じ込めていた。このささやかな時間をプレゼントしてく
鳩が遊ぶのに最適らしく、朝の早い時間に滑り台のように
散歩
れた二人に、手を合わす感謝の日々。二人が心配しないよ
今はまったくの一人暮らし。何の制約もなく百パーセン
うに前向きに生きることが最大の課題と思っている。人生
パタパタと足音を立てるので起こされてしまう。そうだ! こうなったらイライラしてストレスを溜めるより、早起き
もう一つは、私が小学生のころに憧れていた吊り橋のよ
の終盤に悔いのないことを願う。そしていくら自由になっ
人生のバランスシート、収支決算ピッタリ。泣いた分だ
うなところを見上げては、渡ってみたかったのだ。ついに
をして散歩をしよう。
け報いはくるのね……と。今まで絶えてきたことに、一つ
渡り切れた。昔は両サイドから雑木林のように木々が生い
たからと言っても自制心だけは保っていきたいと思う。
も無駄がなかったのが嬉しい。
今は車も通れるようにしっかりとした陸橋になっている。
茂っていて、人間が通れるのかと思われるところだった。
に、
しかも渡りきった先に小学校もあり、これまた私のあこが
主人の病気の時にお世話になったソーシャルワーカー
「御主人と結婚してよかったことは何ですか」
れの二宮金次郎さんまで……。ひどく得をした気分を味わ
にわか
と聞かれ、俄に答えが出ず困っていた私。
と言えば歩いている人が手を振るのではと思われるほど、
う。も一つおまけに筑波山まですっきり見える。
「オーイ」
ア ッ そ う だ! 超 内 気 な 私 を 前 向 き に 変 え て く れ た こ
と。今強く生きられるのは主人のお陰。何のこだわりもな
至近距離に見える。
マ、関東平野が見渡すかぎりで、ここでも大感激! 後にこの筑波山にも行ってみた。三百六十度の大パノラ
く、あるがまま、素直に生きる毎日が繰り広げられている。
人生のすばらしさを実感し、年を重ねることもまんざら
ではないのねと、ほくそ笑んでいる私がいる。
– 20 –
感謝の日々/散歩/ちょっと紹介
そして、雨にも負けずと言うところ、台風と雪の日いが
いはひたひたと歩みを続けている。お陰でそれほど無駄な
肉を付けることなく体型維持。歩数を増やすことではなく、
自分と向きあう貴重な時間だ。季節の移ろいを感じながら、
自然のすばらしさに何度と無く感嘆符を打ち、一石二鳥に
も三鳥にも匹敵している。
人間ウオッチングも大好きなのでいろいろな人と出会う
ことができた。「おはよう」は一日のスタートに気分のよ
い挨拶だ。今ではひたすら歩いてミニミニお遍路さんみた
いと大満足、ストレス解消に最高だ。これからも足腰丈夫
であれば続けていこうと思っている。
ちょっと紹介 宮下
朝日新聞 声欄
一九九九年(平成十一年)二月二十八日
才)
きみえ
主婦 宮下 君江(東京都板橋区
「二人展」控え、心弾む夫と私
今、私は三回目を迎える「二人展」の準備に心が弾んで
いる。
夫七十三歳、私六十七歳の「二人展」である。夫は彫金
で、造形作品やジュエリー。私は手づくり絵本や絵画など
を展示する予定だ。
共働き時代を経て退職。お互い、やりたかったことを第
二の人生の中に取り入れて、十三年目になる。
当初は五年間隔の予定で、一九九一年に初展。九六年に
二回展を。二○○一年が三回展の予定だったが……。
昨年暮れに夫の入院というハプニングもあって、急に早
めることになった。
「やれる時に、やっておこう」ということである。画廊を
借りるなど出費の重さもあるが、この展覧会を開くことに、
– 21 –
67
お互い異論はない。
も、そこここで目にするようになった。
年目の我が家の老犬は人間の年齢で
歳以上になる
が、目や耳、嗅覚もかなり衰えてきている。ほとんどは寝
喜んだり悲しんだりの日常生活の中で、そして老いと対
決しながら、何か人生に意味を持ち、楽しく生き続けたい
ているが、時には吠え続け、くるくる回り、尿を洩らす。
高齢用のフードもあまり好まない。
ペットホテルに預けたら夜泣きがひどく、今後は預かれ
ないと断られてしまった。鼻の頭が向けて赤くなり、それ
てきた。いつの間にか愛犬が足元にすり寄ってくる。右手
いる。
老いた犬に老いた私の老老介護は、現実の問題となっ
散歩係の夫が亡くなった。私自身も体に支障が出てきて
と優しさを貰い、
ペットによって家族の絆が保たれてきた。 ぞ迷惑なことだったに違いない。それぞれがペットから愛
れ自分のペットとして付き合ってきた。犬にとっては、さ
入りしたが、躾らしいことは何ひとつせず、家族はそれぞ
しつけ
血統書付のシバイヌだった。生後二ヶ月で我が家に仲間
いとほめられ気分を取り直した。
えない犬もいます」
。認知症の宣告はつらかったが、優し
「お宅は優しいからいいですが、噛みつきがひどく手に負
る。
才)
は痛々しかった。そのあと「痴呆ですね」と宣告を受ける。
多くの教え子や知人、友人との出会いは刺激的で、血が躍
自分たちが主役になれる場は、そうあるものではない。
と願っている。
83
にペン、左手で頭を撫でて、今私は至福の時を過ごしてい
る。
– 22 –
15
「二人展」がお互いの老いを遅らせる妙薬になることを
願って。
朝日新聞 声欄
優秀賞 主婦 宮下 君江(
天声新語 テーマ「ペット」
入選作
aspara 二○○六、四、二六
い主が責任を持って糞を始末して下さい」といった立て札
そういえば、散歩コースで出合う犬の数が増えた。
「飼
回っていることを知り、びっくりさせられた。
日本では十三歳以下の子どもの数よりペットの方が上
74
課題作文
題
」 「手紙」 「今」
「再会」
「カレンダー」
「同級生」
「3・
24
「よもやま話」
60
84
37
48
11
67
76
●
手紙
●
平成二十六年四月
外国からの手紙
後藤 和子
親戚の彼女は生まれつき細身で、弱々しい感じで、偶然
に私の母親と同じ名前の『ふみ』さんだった。
彼女は昭和三五年に学校を卒業すると、すぐ地元の旭川
で幼稚園の先生になった。その頃、日本に留学中の彼と知
り合い、急にアルゼンチンのブエノスアイレスへ、お嫁に
行ってしまった。
その後、初めて手紙がきた。
「なんとか元気に過ごしています」
とあり、私は一安心していた。二度目の手紙には、
「毎日ワラジくらい大きなお肉を食べるのが、
とても辛い」
と書いてあった。その当時の日本では牛肉のステーキは
御馳走なので、とても羨ましいと返事を出した。
その後の手紙には、やはり食事のことが書いてあり、
「今のところ豆腐はなんとか自分で作っているが、納豆を
食べたいので、納豆菌を送って」
と書いてあった。丁度その頃は、粉の納豆菌が簡単に手
に入ったのですぐに送ることができた。
その後、暫くほっとしていると、
– 24 –
〈課題作文〉
手紙
「今度はキノコの菌を都合してほしい」
とあった。たまたま近所の友人の実家でキノコの栽培を
していたので、すぐ取り寄せ送ることができた。その度に
上手にできたとか、何度か失敗したけど、もうなんとかで
きるようになりましたと、お礼の返事がきた。
その後の手紙には「食事のことは、なんとか工夫して過
ごしている」と知らせてきた。
その後、最後にくれた手紙には、
「やっと日本語学校の先生になれ、毎日忙しく充実してい
る」と、嬉しい便りが届いた。
それを機に彼女からあまり手紙もこなくなり、私もすっ
かり安心していたし、特別な用もなくお互い文通が絶えて
いた。
五、
六年たった頃に川崎にいる彼女の兄から、
と連絡を受けた。
「妹が急死した」
「どこを見ても外国語ばかりなので、日本語で書いた本に
あまりのショックに暫くはなにも考えることができな
良かったなあと思っていると、次の手紙には
飢えている」
かったが、
落ち着いて彼女の手紙を出して読もうとすると、
涙で字が見えなくなってしまう。
と書いてきたので家にある読み終わった本とか雑誌をま
とめて自転車に積み、高島平の本局に何度か送りに行った
〈なぜあんな遠くに行ってしまったのか〉と、いまだに悔
やまれてならない思い出の手紙となってしまった。
りした。
その後はもうすっかり外国の生活に慣れたようで、送っ
てくる手紙は一ヶ月もあるバカンス中の、珍しい滝や聞い
たこともないところの絵はがきなどを送ってきた。ある時
はドライブ中に暴漢に襲われ、怖い目に合ったことなど、
毎年のように手紙をくれた。
外国に行って四、五年が過ぎたころ、突然、彼と二人で
里帰りして珍しいお土産をたくさん持ってきてくれた。帰
りには現地にないミシンとかオルガンを自宅に送った。
– 25 –
手紙
〈一〉初めて の 手 紙
小林 福次郎
戦争中の昭和十七年十二月、三ヶ月の繰り上げで早稲田
くのか分かりませんが、安心の報告の内容でした。
時々、会社から寮に帰り、玄関脇の寮母さんから「東京
から手紙が届いていますよ」と。実家からの手紙を受け取
る嬉しさは格別で何度も読み返しました。
毎月続いた手紙は、昭和十九年十一月関東軍に入営のた
〈二〉一枚のハガキ(手紙)
翌、昭和十八年一月(一九四三年)、中国大陸の満州国
め、出すことができず中断しました。さぞ東京で心配のこ
実業を卒業しました。
の首都新京(現・長春)にあった日満商事(株)に就職入
とと思いましたが、仕方ありませんでした。
その上、終戦でシベリア抑留となり、全く所在すら分か
社のため渡満しました。当時は中国大陸へ、南方への移住
が叫ばれ、特に満州は日本の生命線と言われ、開拓団も多
収容所で一カ年ほどして〝一枚のハガキ〟が渡されまし
らず迷惑をかけました。
私も希望をいだいて海外に行くことに決めて、満州を選
た。ハガキにはロシア語で印刷され、日本語は「捕虜」の
く入植した時代でした。
びました。両親始め家族に心配をかけてしまいますが、頑
二文字だけでした。日本人の安否の知らせのみを書き、出
日本からはるばる三千キロも離れた地からシベリア鉄道、
この一枚のハガキは大事な知らせを告げるものでした。
とのみ書きました。
すようにとのことで「元気でいるので、安心して下さい」
張るつもりでした。
安心させるため手紙を毎月出すことを心に決めていまし
た。現地の独身寮の生活、仕事のこと、街の様子などを毎
月、内地から持ってきた便箋に書いて、月に一、二通東京
に出しました。
ですが、早く帰りたい、白い御飯が食べたい、お風呂に入
日本海を渡って届けられたのです。書面は安否のことだけ
実家への手紙のほか、恩師や学友、餞別をいただいた方々
りたい、畳の上に寝たいなど、手紙に書けないことが隠さ
これが、初めての手紙らしい手紙を書いたものでした。
にも手紙を出しました。海外からの手紙が幾日かかって届
– 26 –
〈課題作文〉
手紙
れていたのです。
受け取った両親が見て、ビックリもし、安心もしたこと
と思います。
〝大事な任務〟を持った、たった一枚のハガキ(手紙)で
した。
手紙
しにせ
澤浦 千枝子
長女が小石川高校を卒業して、群馬大学医学部を受ける
ため、祖母の実家、前橋市の老舗旅館「岩六」に宿泊した。
そのとき泊まった九人の中、合格したのは、
「美奈子ちゃん一人だけ」
と電話があったので家中大喜びをした。
入学式には私が付き添って行ったが、アパートを決める
など、いろいろの世話はいとこの女教師に頼んだ。
父のいとこ(前橋市)の新井胃腸科病院に娘は時々行っ
て、高級な顕微鏡で勉強させて貰ったりなど、すべてを手
紙で母の私に知らせてくれた。私は安心してアルバイトが
できた。
四十年あまり前のことだ。 今は携帯電話があるので便利な時代になった。
– 27 –
あの世への手紙
島 安子
貴方が帰らぬ旅に出た四月十五日が近づいてきました。
そんな或る日、Y建築事務所の所長さんよりお誘いを受
け、その会社に勤めることになりました。従業員は五十人
位でしたが業績は良く、お給料は前の会社と同じ位頂くこ
とができました。私はようやくほっと胸を撫で下ろすこと
と単身赴任先で辞表を出し、東京へ帰ってきてしまったこ
すか? 新しいパートナーが見つかりましたか?
四十年昔のことでしたね。貴方は「一人暮らしは淋しい」
から聞き、私は初めて知りました。平常務から取締役に昇
ビルを建て、池袋に移りました。これは同じ会社にいた弟
らの会社はどんどん伸び、四階建てのビルから八階建ての
ができました。
とがありました。その言葉を聞いた私はどんなに驚いたこ
格した頃から貴方の「モヤ、モヤ」がまた始まりました。
あの世の暮らしは如何ですか。楽しいですか? 淋しいで
とか。私にも、誰にも相談しないで会社に辞表を出したな
社長と意見が合わず「いつでも辞める」と口にするように
貴方の成績は良かったようでしたね。貴方が入社してか
んて。
「チャンスを掴むかも知れない」と故郷へ十日ほど行った
なりました。
バコを吸ったりしている貴方に腹が立って怒鳴りそうにも
いっぱいの辛い毎日でした。家の中をぶらぶらしたり、タ
か も 私 に 話 し て く れ ま せ ん で し た。 私 は 心 配 で 頭 も 胸 も
でしたよね。貴方は、次に何をしたいのか、希望は何なの
へ進出して大きくなり、本社も工場も各地に建てられた時
の態度、言葉に私も腹が立っていたのです。貴方の気持ち
とで、喧嘩別れでないことは理解出来ましたけれど、社長
して、椿山荘で役員だけの『お別れ会』を開いてくれたこ
の誕生日の前の日に会社を退職して帰ってきました。暫く
「男は思い切りが大切だ」と貴方は言って本当に六十四歳
と言っただけでなにも言わないことにしました。
私の心はもうすっかり諦めがついていたので「あ、そう」
六十二歳の頃「後二年で会社を辞める」と言いました。
なり、私はまた心が重くなりました。
りしましたね。結局何もなく東京へ戻り、また、ぶら、ぶ
も半分くらい理解出来たと思います。
貴方の勤めていた地方の小さなオートバイの会社が東京
らの毎日でした。
– 28 –
〈課題作文〉
手紙
退職後の貴方を見ていて、私は別れようかと一時思いま
した。パチンコにのめり込み、夕食の時間になっても帰ら
ず、私が探しに行くとパチンコ屋にいました。情けなかっ
たです。涙が出そうでした。私の顔を見て貴方は急いで帰
り支度をしましたね。
「いくら使ったの?」「十万」「今日の分?」
「そう」
涙がこぼれそうになった私は、停めてあった自転車に乗
ると走り出しました。川越まで行こうと思いました。
〝もうダメ!〟と成増の近くまで走りました。
明るい所まで来て気がついたのです。お金を持っていま
せんでした。そのうえ割烹着でした。
三十三年間の便り
須﨑 卓滋
母の手紙が百五十八通ある。生前にもらった手紙だが捨
てないでいる。
手紙には、
母と子の絆の歴史が刻まれている。手紙は「心
のふるさと」であり、我が命を形づくり運命をつくった。
手紙の交換は、高校を卒業して親元を離れた昭和四十四
年 か ら 始 ま っ た。 私 が 十 八 で 母 が 四 十 八 歳、 そ れ か ら
三十三年間に渡り母は農作業を終えた夜中に手紙を書き翌
朝に投函した。
は東京に転居した。その間、欠かさずに何かの出来事の折
私は鳥取から大阪へ、さらに横浜へ移り住み、最終的に
いましたね。
には便りをもらった。結婚の折に帰省した時も母は便りを
重い足でペダルを漕ぎ家に入ると、貴方はご飯を食べて
「お帰り、お腹が空いたからお先に頂きましたよ」だって。
よこした。
こ
ホームの ベルのいとかなし
病みし我子 身を案じつつ 別れゆく
あ
私は頭を抱えたくなりました。
様
安子
本当に波瀾万丈の人生を送らせて頂き、ありがとうござ
いました。
保 高
「新しい年も五日になりました。お正月には遠い所、よく
帰ってきてくれて、一緒に新年を迎えられて嬉しゅうござ
– 29 –
いました。熱を出してしまって、いけなかったですね。
……が、前にも聞いたような? 前述の母の手紙が心に
ない土地にきて、色々と気苦労された事でしょう。始めの、
しょうがよくなりましたか。○子さん(家内)も遠い知ら
無限の慈愛に抱かれる。子の成長と幸せを願いつつ揺れ動
のありよう、人生とは何かを問う。この魂に触れるとき、
三十三年間おりなした母の便りによる慈しみは、人の心
浮かんだ。
一緒にお正月して下さって、本当に嬉しく思います。有難
く心。真の母性とは普遍かつ、これほどにも深いものなの
家 に 帰 っ て 熱 出 し た の 始 め て で す ね。 明 日 か ら 勤 め で
うございました。
か。
「wook(ウック)
」
の
「電書創作工房」
電子書店にて200円
(税込)
で販売。
二人で力を合わせて、よい家庭をつくってくれる事を祈
言葉ではいえないものを感じることができる。
http://denshosousaku-st.wook.jp/detail.html?id=216991
ります。昭和六十一年一月五日 母より」と。
母は、八十一歳の平成十四年に要介護となり手紙を書く
– 30 –
のが困難になった。書くのが辛くなってもペンを持てる限
り書き続けたが、その年に手紙は途絶えた。
その三年後に他界、私が五十四歳の時だった。母の手紙
は、人々の心がかよい合う一助となることを願って『母の
プシュケー 自然歌そして手紙』の遺稿集として発行した。
今月になって、熱を出し風邪をこじらせてしまった。
「風邪で寝込んだのは、久しぶりだね。職場が変わったか
らね」
と家内。大きな節目で、私が体調を崩すことがあるとお
見通しなのだ。
「知恵熱だな」と返答した。
『母のプシュケー 自然歌そして手紙』
の電子書籍は、電子書店モール
〈課題作文〉
手紙
友への手紙
〈一〉
高梨 久子
唯きれい、感動したくらいでは文章になりませんし……。
私たちの『つめくさ』三十四号も発行間近です。また送
りますので感想をお聞かせ下さい。ではまた、お元気で。
お便り嬉しく拝見致しました。寒さもどうやら峠を越し
〈二〉
家代表作選集』を送って頂いてありがとうございました。
たようですがお元気でなによりです。私は年相応に元気と
お寒い毎日ですが如何お過ごしですか。先日は『現代作
いつも頂いている同人誌であなたの連載小説を読んでは感
この度は折角、成田での再会のお誘いなのにお断りしな
は言え、
物忘れがひどい現実に考えてしまうこと度々です。
そして、多くの小説の中で、どの作品が一冊の本になる
ければならないこと恐縮です。実は夫の介護をするように
動していました。
のだろうかと、心待ちしていたのです。ところが新たな書
なって、
長時間家をあけることができなくなっております。
再会、お互いに淡々としている。でもそこに隠されている
べての小説『去年の雪』、長いこと別れていた我が子との
てお会いした時はお互いにオカッパ頭の中学生でした。あ
て七十年近くにもなるのですね。その一年後、成田で初め
振り返ってみると少女雑誌が縁で、ペンフレンドになっ
たのに残念です。
暫くぶりにお会いして色々と成田での思い出に浸りたかっ
き下ろしで、多作にびっくりしました。
いつもながらのすっきりした文体、周りの状況のとらえ
方など、私は大好きです。並みいる作家の方々と、肩を並
心情の表現、素晴らしく思いました。私にも作家の友人が
の後からは急速に親しくなっていった過程を改めて思い出
ぞ
いる……と誇らしく思います。次号の同人誌にはどのよう
しています。
子育ての頃のように池袋あたりで短時間でも、
こ
な作品を発表するのでしょうか、お花を主題にして書く予
お会い出来たらと思っていますがどうかしら……。
ありますね。
お返事、楽しみに待ちながら。
さようなら
お互いに、子どものこと孫のことなどお話しがたくさん
定とおっしゃっていましたけど、今から楽しみにしており
ます。
実は私もお花が大好き、各地のお花見に出かけてきまし
た。それをもとに書いてみたいと思ってはいるのですが、
– 31 –
慰問文
永澤 良子
で慰問文を書かされた。クラスの模範生だった安子さんが
「兵隊さんが戦地で苦労しているので、私は冬も靴下をは
かないでがんばります」という手紙を書いた。私も安子さ
だモンペが普及していなかった。スカートに素足では冬に
んを見習って、同じ約束の手紙文を書いた。だが当時はま
だがそのころはまだ内地と中国を結ぶ輸送船が往来してい
なると寒くてとてもじゃない。私は残念ながらその約束を
私が小学校高学年のころ、日中戦争がたけなわであった。
た。
から時折連絡があった。 わが家では母がホーロクで大豆を丁寧に炒って缶に入れ
返事を頂き、クラスのみんなで喜び合った思い出もある。
のお兄さんの手に渡ったことがあった。そのお兄さんから
守ることができなかった。
る。その他に梅干しや乾パンなど、日持ちのするものをと
妻子を日本に残して戦地にかり出された兵士達。祖国か
戦地の兵隊さんに送るので慰問袋を作るようにと、町会
りまとめて布の慰問袋に入れるのだが、その中に必ず手紙
ら送られてくる少国民の手紙を望郷の念にかられながら、
級友の書いた慰問文が、偶然にも戦地にいる同じクラス
も入れた。兄や姉がいたのに、何故か私が書く役目だった。
て「われわれは、これから前線へ出発します」という手紙
み ん な で 奪 い 合 う よ う に し て 読 ん だ と 聞 い て い る。 そ し
という標語が当時流行していた。世の中は物資不足で窮
が学校に送られてきたこともあった。死を覚悟しての手紙
『欲しがりません。勝つまでは』
乏生活だったが、慰問袋に入れる手紙は戦地の兵隊さんを
だったのか。
平成二十六年三月記
鮮明なその印影が、今も私のまぶたの裏に残っている。
いうスタンプが押されていた。
戦地から送られてくる手紙には必ず軍の『検閲済み』と
偲んで、私は多分けなげな手紙文を書いたに違いない。
国策にそって私たち少国民はみんな従順だった。中国の
戦地で次々に勝利を収めていた日本軍。それが侵略の戦争
だったとは疑いもしていなかった。旗行列や、提灯行列に
参加し、祝賀ムードで町を練り歩いたのである。
学校でも作文の時間に『戦地の兵隊さんへ』という課題
– 32 –
〈課題作文〉
手紙
身になって考え、色々アドバイスして下さった。
『ぶどう
の会』の受験を薦めたのも先生だ。不合格だったが、先生
古い文箱の整理をしようと開けてみると、薄茶に変色し
まから電話をいただいたりもした。そんなとき、お宅に遊
その先生に好きな人ができ、離婚話が出たときは、奥さ
十九の春
た何枚かの葉書や、外国からの手紙などが出てきた。その
びに行った私を、宇人くん(息子さん)と手を繋いで保谷
の落胆ぶりを見ながら私はもう就職先を決めていた。
中に、一枚の懐かしい葉書があった。小学生のとき四年間
の駅まで送って下さった先生の、寂しそうな後ろ姿が忘れ
堀田 千鶴子
担任だった櫻井先生からのものだ。
離婚後はしばらく音信不通になっていが、落ち着かれた
られない。
かろうがあせるでない。夢は山のあなたにあるでなく一夜
ころからクラス会にも出席して下さるようになり、年賀状
ガリ版刷りの年賀葉書に、自筆で「十九の春、悩みも多
一夜の枕辺に」とある。一九六二年(昭和三十七年)のも
も毎年いただいた。
その後のクラス会での先生は自分のことは何も話さず、
のだ。先生が一番幸せなころだ。やはり小学校の先生をし
ている女性と結婚し、男の子に恵まれ、実母と同居してい
いう夢はもう諦めていた。ちゃんとした経済力を持たない
十九の私は何を悩んでいたのだろう。役者になりたいと
た。運動、歌、絵などすべてに秀でていて、それまでは聖
だけれど、
その騒動で先生は人間らしくなった、
と私は思っ
は失われ、寂しそうに見えた。自業自得と言えばそれまで
私たちのことだけを聞いていた。静かな人になり、快活さ
と父と対等にはなれないし、母を守るためにも自分の生き
人君子みたいな、欠点一つないような、常に上から目線で
た。
方を変えねばならいと思っていた。高校を中退しているの
すべてを見ているような人だったから。
人くんに辿り着いた。お母さんの旧姓、石井を名乗って中
た。気になってあちこち調べ、インターネットでやっと宇
それから年賀状の文通は続いていたが、去年は来なかっ
で、大検を受けるために独学で勉強していたし、好きな人
もいた。英文タイピストの資格も取った。着々と仕事を持
つ準備をしていた。でも舞台の魅力は捨てがたかった。
先生に良く手紙を書いた。生真面目な方で私のことを親
– 33 –
学の先生をしていた。
た目で見ていた。みんなからえこひいきと言われるほど、
しみは持っていないらしく、素っ気ないものだった。お母
それまで一度も会ったことがないという。親子としての親
が父親に会うようになったのは亡くなる四、五年前からで
十日に腎不全で亡くなっていた。享年八十五歳。宇人くん
「ちこさん、先生のお嫁さんにならないか?」と聞かれた
るのはいやだった。
に立つのは大好きだが、イライラしながら大声で指導され
劇部にさそわれたが、
「いやだ」とはっきり言った。舞台
学芸会の劇の稽古では「大根役者!」とどなられた。演
可愛がって下さり、
中学受験のときも勉強を見て下さった。
さまはアルツハイマーで施設に入っているとのことだっ
こともあった。私は首を強く横に振った。絶対にいやだ。
櫻井先生はその前の二○一二年(平成二十四年)の九月
た。あのしっかり者で明るい先生が、と思うと胸が痛んだ。
あのとき先生は苦笑いしていたっけ。色々なことがあった
いつの日か私の棺に入れて貰おう。
なった。
大 事 に と っ て お い た こ の 葉 書 は、 私 に と っ て の 宝 物 に
かった。
ぱり寂しい。心を割って、もっともっとおしゃべりがした
寂しい。
生あるものは必ず滅びる、と分かっていてもやっ
演劇に目覚めさせたのも先生だ。
櫻井先生には大いに影響を受けた。
バレエを薦めたのも、
けれど、何かとお世話になった。
一周忌が終わり先生の故郷、柏崎に埋葬したと、宇人く
んから電話が入ったのは去年の九月だった。
暮れには櫻井先生の姪という人から葉書が来た。宇人く
んに代わって、彼女が色々な方面の人たちに先生の死を知
らせているようだった。離婚後のことは分からないが、一
人暮らしだった先生の面倒を見ていたのだろう。
その姪御さんに礼状を書きながら、先生の一生は……と
思いを巡らした。
お姉さんたちに囲まれ、大事に育った男の子一人。我が
儘で自分中心な子だったろう。
私たちが教わったときは、特攻隊帰りで生徒にすぐ手を
あげた。私はそんな先生に批判的だった。みんなのように
先生にまとわりつくことなど、もってのほかで、常にさめ
– 34 –
〈課題作文〉
手紙
手紙
宮下 きみえ
この場をお借りして、母への手紙を読ませていただきま
す。
お母さん、長いこと嫁がずに心配かけました。ようやく
本日を迎えることができました。
お父さん…… 略
私は、お父さんとお母さんと同じ職業を選びましたが、
通わせてくれたこと、学校での職務も増えている中で、私
を育ててくれたこと、私の書いたり描いた絵を題材にした
絵本をつくってくれたこと。今まで一度も言えませんでし
たが、
「ありがとう」
お父さん叔母さん達も亡くなって寂しいかもしれません
が、長生きして下さい。
○○さんのお父様お母様、よろしくお願いいたします。
前出の手紙は、娘の結婚披露宴の壇上で読み上げられた
子
夜中に目が覚めた時、作業をしている姿を見て、子ども
もの。付き添っていた彼。そうだったのか。はじめて知っ
妙
心に「大変そうだな」と、感じたからです。二人とも、今
た娘の職業選択の原点に驚き涙した。
小さい頃は教師にはならないと思っていました。それは、
まで見たことのない表情をしていたので、中途半端な気持
高校、大学卒業、今、中学校の教員として働いている。
「一人っ子なのに、お嫁に?」
ちではできない職業だと思いました。その時の私は、好き
なスポーツや体育の道に進み、アルバイトをしながら模索
「お母さん一人残して?」
幸い彼は、板橋区に転入できた。わが家と割合近い処に
は、若者好みの食材も時々挿入。
車庫があるので、車利用の時は家に立ち寄る。冷蔵庫に
らねば──と覚悟してきた。
の不安は募り、眠れぬ日も続いたが、私の方が少し変わ
していました。それでもこの道を選びました。校種、分野
は違うけど、お父さん、お母さんの影響を受けたのは間違
いありません。
「あなたは生意気な処があるから気をつけなさい」などの
アドバイスはお母さんしか言ってくれません。
「うるさい」
と言ってるけど、本当は全部聞いています。バレエ教室に
– 35 –
●「つめくさ 34 号」
を成増社会教育会館に寄贈しました
寄贈本スタンプが押され、2階のロビー、左側の本棚の1番奥に展示され
ています。
(2014年3月22日)
成増社会教育会館
〒175-0094 東京都板橋区成増一丁目12番4号 TEL.03-3975-9706
●板橋区立成増図書館にも寄贈しました
板橋区立成増図書館には、
「つめくさ32号」
「つめくさ33号」
「つめくさ34
板橋区立成増図書館
〒175-0094 板橋区成増三丁目13番1号 アリエス3F TEL.03-3977-6078
住まいを移し、共稼ぎ生活を始めている。
号」
の三冊を寄贈しました。
(2014年7月26日)
「お母さんの為に……彼が……」との言葉にまた涙した。
五人も姉妹のいた私は、比較的自由な生活ができたわけ
で、親のことは姉たち任せであった。改めて「ひとりっ子」
問題に遭遇し、悲喜こもごもの月日を流したが、今書くこ
とで、少し気持ちが落ち着いてきている。娘からの手紙は、
半永久的に仏壇に納めておきたいと……。苦しかったに違
いない。悩んだに違いない。
– 36 –
初めて文を書き冊子にして出版したのが『娘よ。お母さ
んの青春はね』で、戦災体験のことであった。
次が『あの日、あの時』と題して、娘、教え子、友、退
職後の日々のことを『つめくさ』投稿の中から拾い出して
まとめた。
手紙という形は違うかも知れないが、私にとって、娘や
教え子達に伝えておきたいと、思って書いたことだった。
今の私にとって、つめくさの今回のテーマ
『手紙』
は、
願っ
てもないチャンス到来である。
三十五号発刊の日、娘の家のポストへ、もう一冊は仏壇
へ──と、宅配を楽しみにしている。
「つめくさ三十四号」
を寄贈しました!
●
3・
●
平成二十六年五月
11
私の三月十一日
後藤 和子
それは私がまだ十二歳で、第二次大戦中のことでした。
三 月 十 日 は 東 京 が 大 空 襲 を 受 け た 日 な の で、 丁 度、 平 成
二十三年三月十一日の東日本大震災が日本を襲った時と同
じ三月の出来ごとでした。それは私にとって生涯忘れられ
ない、辛い悲しい出来ごととして、心の奥に焼きついてい
ます。
あの日は三月十日夜のことで、東京の街は一晩中燃え続
け、夜明け近くになってもまだ東の空は真っ赤に燃えてい
ました。そこに太陽の光が重なり不気味で恐ろしい光景が
益々、私の心を不安にしました。
あの火の中を何万人もの人たちが逃げまどっていると思
うと、一晩中眠れませんでした。
一年くらい前、私たち家族は埼玉に疎開していたので難
を逃れることは出来ました。でも子供のころに大好きだっ
た日暮里の家も、第四小学校も何もかもが灰になってしま
いました。
あれから七十年が過ぎても、焼ける前のことが懐かしく
思い出されます。
– 37 –
か、近くの友だちと焼け跡を見に行くことになりました。
東京が焼けてから一週間くらいは過ぎていたでしょう
空いていたのです。
耳と鼻は跡形もなく消え、目と鼻の場所はぽっかりと穴が
呼吸がとまり声が出ませんでした。顔の半分が焼け落ち、
ことが出来ずにいます。
私はいまだにその気の毒な人がどうなったのか、忘れる
間違いではないか、と信用してくれませんでした。
一度だけ子どもにその話をしましたが、それは何かの見
ことを人に話すことが出来なくなっていました。
とが出来ません。大きなショックを受けた私は一言もその
私はその人の様子と顔を、七十年過ぎた今でも忘れるこ
自宅の和光から成増駅に向かいましたが、東上線が止まっ
ていたので、池袋方面に向かって線路伝いに歩くことにし
ました。
常磐台駅に近づくと、線路の両脇の景色が次第に変わっ
て来て、今の大山辺りはもう一軒の家も残っていませんで
した。
焼け崩れた家はすべて灰になり、所々に残った太い柱だ
けが、ここに家が在ったことを物語っていました。
いた友だちの一人が、「もう帰らない?」と言ってくれま
いつまでも心の奥に、私の三月十一日となり、残り続けて
大火傷をした人に出会ったときの、辛く悲しい出来ごとは
私にとってすべてが灰の街と化した東京を見た驚きと、
した。皆も同じことを考えていたのか、全員で元来た道を
います。
私は次第に怖くなり、帰りたいと思っていると四、五人
常盤台の駅へ向かいました。駅に着くと成増方面へ行く電
車があると聞き、暫く駅で待つことにしました。
すぐ折り返しの電車が来てホームの乗客が乗り始めまし
た。後ろの方に並んでいた私は、何気なく二メートルほど
すす
離れたベンチの近くで、柱に寄りかかるようにして立って
いる男性を見ました。最初に目にした横顔は煤だらけで、
何歳くらいの人かも分からないほど汚れていました。その
人が急に顔の正面を私の方に向けました。その瞬間、私は
– 38 –
澤浦 千枝子
あ の 日 の 地 震 の 時、 私 は 地 下 鉄、 大 江 戸 線 に 乗 り 家 に
島 安子
平成二十三年三月十一日
大きな揺れが長く続いた。二階に取り付けている波板が
帰 る 途 中 だ っ た。 友 だ ち と 話 し に 夢 中 に な り、 神 楽 坂 の
三・一一地震
二、三枚剥がれて地面に落ちてきた。強風でも、こんなこ
駅(だったと思う)に電車が停まったのに、社内はガタガ
まだゆれているわ」と私は友に言ってしまった。
タと音を立ててゆれていた。
「今日の運転手はヘタクソね、
とは初めてだ。
さすが、二階建ての日本家屋はびくともしなくて、安心
した。私はベッドが置いてある応接間(十二畳)に腰かけ
ててゆれているのだ。
「地震ではないですか?」と私が車
電車はホームに横付けになり停まっているのに、音を立
成増駅に通じる家の前の道には、ぞくぞくと近所の人が
掌に聞くと「そうですね」と、とても冷静な返事が返って
– 39 –
ていたが、怖くは感じなかった。
集まってきた。駅前にある小林病院には救急車がサイレン
きただけで何の指示もなかった。
「ただいま地震がありました。線路の点検中です」の放送
を鳴らしてきた。
私はもう九十三歳近くでもあるし、どうなっても構わな
はあったが、点検に要する時間などについてはなく、駅員
出ると、歩道はサラリーマンらしい男女の行列が続き、空
ならない返事が返ってきた。兎に角と階段を上がり道路に
りません。バスは動いているようです」
、まったく当てに
よ」と改札まで行ったが、駅員は「あと何時間かかるか解
「もう誰もいないわよ。私たちだけよ。改札を出てみよう
に暮れるばかりだった。
に尋ねても返事はなく、私たち二人は顔を見合わせて途方
いと思ってテレビを見ていたが、東京は大丈夫らしいので、
た。
東日本の方々は、大変だったでしょうと、心が痛みまし
くにも無かったらしいので、安心した。
「ほっと!」した。テレビやラジオの報道では、被害が近
〈課題作文〉3.11
を見ると不気味な程の黒さだった。
暫く歩いてバス停を見つけ三、四人並んでいたのでその
後についた。遠くにバスが見え喜んで待っていたが、乗客
で満杯で運転手は片手を左右に振って行ってしまった。
続いて来たバスも、次のバスも同じだった。東京の地理
を知らない私は頼みの綱は友だけで思案にくれた。彼女は
彼女で「糖尿病の注射をしなくては」と気を揉んでいた。
その時、私はハッと思い出した。バス停に向かって歩い
ていた時、大きな病院のガラス窓に「ご自由にお入り下さ
い」と書いた紙の貼ってあったことを。とにかく行ってみ
ようと二人は元来た道を引き返した。
急いで玄関へ入ると、五、六人の男女が椅子に腰かけ眠っ
ていた。私はちょうど横を通った白衣の人に、友の様子を
話し「注射をしてもらえるか」を尋ねた。幸運にも内科医
だった。即、快諾して下さり彼女は診察室の方へ案内され
た。私はホッと胸を撫で下ろし、コンビニへ夕食を買いに
走った。
店に入った私は「アッ」と驚いた。パンやお弁当は一つ
も無し、菓子の並んでいたらしい棚には三つ、四つ袋が転
がっているだけだった。
店の入り口近くのおでん鍋には串が二本見え、私は走っ
ていってチクワと肉ダンゴみたいなおでんをゲットした。
これが本当のご馳走だと笑えてしまった。
地下鉄が動き出した、と耳にし、私と友だちは後楽園へ
行った。しかし池袋止まりで赤塚へ行く便はない。息子に
電話をすると、
「川越街道は渋滞で身動き取れなくなるよ」
と言われた。
それでも無理矢理に呼び出し、友を家まで送り、私と息
子と嫁は三時間ほどで家へ到着した。
– 40 –
〈課題作文〉3.1
3・ の赤い衣装
須﨑 卓滋
「六十歳の誕生日おめでとう」
と赤いセーターと赤い靴下のプレゼント、自宅では家族
の還暦祝いが待っていた。
元へ還る。還暦祝いの「赤い衣装」は魔除けで、
「還暦=
還暦は、十二支と十支の組み合わせが六十年で一巡して
日であった。
生まれた時に戻る」という意味の習わしという。
還暦は、二○一一年三月十一日である。東日本大震災の
「人間も自然の一部、生死という自然を生きているのは自
「赤い衣装」のご利益か家族に大事はなかった。家族の気
り書棚に飾った。
持への感謝と絆に、赤いプレゼントを身に付けて写真を撮
分」と悟った。
定年退職の手続きを会社で終え、JRの電車に乗った。
神田駅ホームで携帯電話の振動を感知、緊急地震速報だっ
た。その瞬間、車中の電気が消えて強烈に電車は揺れた。
今年の三月十一日で六十三歳となった。東日本大震災三
周年追悼の黙祷もした。大自然のなかでは風の前の塵ごと
体が大きくのけぞり、経験したことがない最大級の揺れが
何度も何度も繰り返し終わりがないように思えた。
き、世界人口七十一億人の一人が六十三歳を数え、それで
「地震・津波・放射能は、逃げるを優先する」
東日本大震災から三年が経ち、得た教訓がある。
える。
も大自然に存在して一生懸命に生きていくことが尊いと考
「な、何なんだろう、ただならぬ事が起きている!」と直
感した。
午後二時四十六分、三陸沖のマグニチュード九・最大震
度七、日本観測史上最大の大地震。港区は震度五弱、板橋
区は震度五強で余震がさらに続いた。
難民が歩道を埋めた。午後八時四十分ごろに銀座線が再開
「何気ない家族とのだんらんや友情の中に幸福がある」
「助け合ってこそ生きられる」
「一切は変化し止まらない」
し三田線に乗り継ぎ、地震発生から七時間かかって、やっ
「切迫した時、人間の対応は限界」
都心の鉄道が全線運行取り止めとなり、車は渋滞し帰宅
との思いで当日に帰宅できた。
– 41 –
11
「人間の制御できぬもの扱うな」
「真実はいつも少数派」
「小欲知足、自然と共存」
書棚の赤い衣装の自分を見て、新たな人生を清らかな心
で生きたいと考える。
我が家では
高梨 久子
そのとき私はお使いに行くつもりだった。手提げ袋を腕
に通して、夫の部屋をのぞいた。夫はテレビを見ながら、
うつらうつらしていたようである。
しがみついた。間をおいてはまた揺れる。
(これは大きい、
第二の人生? 人生の目的は生きること。
「お使いに行ってくるね」私は大きな声をかけた。その直
「一隅の今生記 」
いつもとは違う)
後である、グラッグラッと揺れた。私は夫のベッドの柵に
生きるのに 目的はない
真実は 縁起で現象する
「アッ」ふたりの声が重なった。音もなくテレビが落下し
ま呆然としている。
棚の置き時計が転げ落ちた。起き上がった夫は座ったま
生きることは 苦しい
て、裏返しになった。
生きることが すべて
なりふりは かまえない
にある酸素器から四六時中酸素の供給を受けている。
暫くして揺れはおさまってきて、我に返った。夫は枕許
仲よく 優しく 楽しく
(停電になるかもしれない……)気付いた私は、隣室に急
すべて 初めての経験
心は自由に 今を生きる
いだ。携帯酸素器の点検をしなければ ── 。酸素量はま
だ大分残っている。
スイッチを入れた。器械は順調に作動を始めた。緊急用
の酸素ボンベも二本ある。
これで二十時間くらいは大丈夫。
– 42 –
〈課題作文〉3.11
この地域の停電はいつになるのだろう。私は東電のカス
タマーセンターに何度も電話をしたのだが、いつも話し中
災害
永澤 良子
不時の災害に備えて、防災用品を揃えておかなければと
で通じない。
テレビで放映されている悲惨さを見るにつけ、心もとな
思いつつ、私は心配性のくせについおっくうにしていた。
の東北の地震の時には、突然の大揺れに
のだった。突然にどうすれば良いか頭が働かなかった。
ビックリ仰天。取る物も取りあえず慌てて外に飛び出した
三年前の3・
くなってきた。酸素ボンベをもう一本追加しようと思った。
しかし、震災地へのボンベが不足気味の事態になってい
て、都内には回せないという。
そんなにも酸素療法を受けている人がいるのだろうか、
妹を始め友人たちからの問い合わせが続いた。皆、夫の
うな津波が街を飲み込んでゆく。人が、人が、ぐんぐん飲
北。テレビの画面一杯に津波が押し寄せていた。恐竜のよ
揺れが収まって家に入りテレビをつけると震源地は東
酸素の心配をしてくれている。その後、一ヶ月ほど経った
み込まれてしまう。
現実とは信じられない恐ろしい映像に、
驚いてしまった。
頃だったろうか、東電から非常用電源(外部バッテリー)
私は固唾をのんで一人テレビの前に立ちつくしていた。
を追って甚大なことが判り、未曾有の災害と報道された。
地震に、津波に、その上、原発の放射能漏れと被害は日
かたず
の準備をお願いしたい旨の書類が届いた。
でも地震の後、一度の停電もなく酸素器は小さな音をた
てながら稼働している。
私は現地の方々の上に思いを馳せ、ただ、ただ心を痛め
るだけで、なすすべもなく過ごしている自分に後ろめたさ
を感じるのだった。
あの地震が収まった時には、身内の者が次々に安否確認
の電話をかけてくれた。気づかってくれた人がいるという
有り難さと、電波を通してだが直接声を聞くことができた
– 43 –
11
という嬉しさに気力が湧いてきたのであった。
すべ
近い将来、首都圏にも直下型の大地震がくるという地震
みちびき地蔵と津波
堀田千鶴子
東日本大震災から二年四ヶ月が過ぎた去年七月、夫とバ
学者の予測。そんな時には凡ての通信網は遮断され、勿論
テレビも映らなくなり、頼りになる情報は入らなくなって
スツアーの人となった。行き先は塩竈から宮古まで被災地
しおがま
しまうかも知れない。最近は情報伝達の通信網も、随分技
を巡る旅だ。私の目的は気仙沼大島の『みちびき地蔵』を
りたかった。
益を充てると書いてあった。その木仏がどこにあるのか知
津波で流された三体のみちびき地蔵の再建に、この本の収
絵本『みちびき地蔵』を気仙沼大島観光協会から買った。
見ることだ。
術が進歩しているようだが……。
そんなことを思いつつ、しまいこんで忘れてあった携帯
用 の 小 型 ラ ジ オ を 点 検 し、 予 備 の 電 池 を 添 え て 非 常 用 の
リュックに入れた。
災害時には、交通もマヒし、ガス、電気も止まり、命を
つなぐ物には早速不自由することになる。保存食を買い込
ていたある日、
二十五分。この海を、火が気仙沼から渡ってきたのかと思
も無惨な姿をさらしていた。そこから大島までフェリーで
気仙沼は以前泊まったホテルの跡形もなく、漁協の建物
「災害に備えてカセットコンロを用意しておくとよいです
うと、ゾッとする。テレビで見た惨状が目に浮かぶ。島民
んであっても、熱源が使えなくなるのだ。……などと考え
よ」とアドバイスしてくれた人がいた。扱ったことのない
はどんな思いで消火に当たったのだろうか。水がなくなり
リートが崩れ、復興にはまだまだ時間がかかりそうだ。そ
船着き場も地盤沈下していた。水溜まりが出来、コンク
海水をバケツでくみ上げて運んだと聞く。
私は、ボンベなどこわくて用意する気にはなれない。
まあ、その時はその時だ。何とかなるさ、
と思ってしまう。
でも寒がりやなので、使い捨てカイロは用意しておこう
と、たっぷり買い込んだのである。
こから山の中腹にある宿舎、休暇村気仙沼大島まで宿のバ
スで上った。途中の道路で
「この道で火を食い止めました」
– 44 –
〈課題作文〉3.11
と運転している人が言った。島の全周二十二キロ。二泊し
あったら津波にさらわれるのは当たり前だと思った。案内
本の収益金と寄付金を使ったのか? そ の 場 所 は 浜 か ら 離 れ て 少 し 高 い が、 こ ん な と こ ろ に
この大島の、津波で流された『みちびき地蔵』がどこに
板にはいわれも書いてあった。絵本の内容とは少し違うも
たら隅々まで見られそうだ。
あるか、どうなったか私の一番の気がかりを、フロントの
のだったが、そうかこんなものなのかと思った。
買った民話集にも「昔からの言い伝え通り、罪のない善
若い男性に聞いた。
「宿の横にある階段を下りて浜に沿って……」
たなぁ』くらいで、気にも止めていませんでした。内容も
「いやぁ、あの話が出て、『そう言えば、そんなのがあっ
て聞くと
は民話か」と何か味気なく寂しかった。私は絵本の中で何
トの人が冷めた表情で苦笑いしたのもうなずける。「民話
だ多くの人たちを導いたのだ」と言うことだ。あのフロン
地蔵さま』が導かれると聞いていたが、やはり津波で死ん
男善女があの世に旅立つとき、極楽浄土へあの『みちびき
しょせん民話ですから」
が言いたいのか、思いは……などなど考えすぎるのかも知
と教えられた。ついでに絵本の『みちびき地蔵』につい
「また聞かれ」とでも言いたいような微妙な笑顔だった。
二日目、三日目と被災地を見て回ったが実際現場に来て
れない。
ちに聞いてみたが「さぁ、なかったけど」と言う。それで
みないと、実態が分からない。家の土台だけが残った広い
言われたとおり、下りてみた。途中で、上ってきた人た
も下りきって浜を歩いた。その少し先にある細い上り道を
れらがまだそのままにあることが痛ましい。
生活ができるようにと、願う。
一日も早く被災された人たちが、普通の家に住み普通の
草原、駅舎や線路のなくなった姿、防波堤の崩れた跡、こ
歩いて行くと、あった! 絵本には『三体の木仏』と書い
てあったが、コンクリートの六地蔵がたっていた。赤いよ
だれかけを着け、高い台の上に並んでいる。そして、側の
ほこら
祠に極彩色の二体の小さなお地蔵さまが入っていた。それ
は誰とかさんの寄贈で、またそのみちびき地蔵は地元の個
人の氏神様だと案内板に書かれていた。個人の所有物に絵
– 45 –
「地震のサバイバル」より
宮下 きみえ
地球は、たとえ無生物であっても死んでいるわけではな
トでできており、このプレートは岩流圏と呼ばれる上部マ
ントルの上を移動しています。このプレートは、年に数セ
ンチ単位で動きますが、
プレートの境界でぶつかると上昇、
または下降します。その結果、主にプレートの境界にあた
のような地殻運動、大気と海洋の大環境などは、地球が生
大きいものです。日本の場合、地震が頻繁に起こる環太平
地震は、地球上のどの自然災害よりも規模、破壊力とも
る地域で地震が発生します。
きていることをあらわす確かな証拠です。もし、地球が無
洋地震帯に位置するため、地震の被害が多いのです。しか
く、まるで生物のように活発に動いています。地震や噴火
生物のように動かずじっとしていたら地球にはどの生命体
し一九九五年の阪神、淡路大震災の後、地震対策がより強
ん。最近になって平均四十三回以上、朝鮮半島と周辺の海
化されました。韓国も決して地震の安全地帯ではありませ
も住むことはできないでしょう。
二億年前の地球は、今とはまったく違ったものでした。
域で地震が発生しています。今からでも地震に対する対策
このマンガの主人公、モモとお父さん、ミミは、日本へ
その時はパンゲアと呼ばれる一つの巨大な超大陸(現在の
その後、パンゲア大陸は絶え間なく移動しながら、現在の
温泉旅行に行き、
想像もつかないような地震に遭遇します。
と教育が行われなければなりません。
ユーラシア(アジア、ヨーロッパ)、アフリカ、オースト
果たして、勝ち気なモモは恐ろしい地震の中、どうやって
ように大陸が分裂、移動する前の単一大陸)がありました。
ラリア、南米、北米、南極の六大陸に分かれました。この
生き延びるのか? 一緒に見守ってみましょう。
今からでも対策と教育に──に同感である。
あったが、私にはこうした本との出会いに感謝している。
著 者 は 韓 国 の 人。 マ ン ガ を 挿 入 し て の 児 童 向 け の 本 で
よ う な 大 陸 の 移 動 と 説 明 す る 理 論 が、 ド イ ツ の 気 象 学 者
ウェゲナーが一九一二年のはじめに唱えた「大陸移動説」
です。大陸移動説は、地震発生の原因である地殻プレート
の動きを見る「プレート理論」の先駆となりました。
プレート理論によれば、地球の近くは十個ほどのプレー
– 46 –
国会図書館へ納本しました!
「つめくさ三十四号」
を2014年四月十七日
に国立国会図書館へ納本しました。
納本制度は、国の文化的財産を収集し保
存する目的で、国立国会図書館に出版物を
収める制度です。
同人誌
(個人・サークル会報)も対象で、
日本の文化の一端を伝える資料となり、自
分がこの世から存在しなくなっても、いつ
でも誰でも読むことができます。
なお、自費出版
(個人の本)
も納本が可能
です。
『つめくさ34号』
電子書籍を発行!
●『つめくさ 34 号』
を電子書店モール
「wook(ウック)
」
で、無料発行
2014年8月3日、
『つめくさ34号』
の電子書籍を、
『電書創作工房』
の電子書
店
(つめくさ会員開設)
で無料発行しました。
●パソコンやスマートフォンなどで閲覧できます
iPhone、iPad、Androidからは専用の wook ビューアアプリで閲覧可能。
はじめてご利用の方は、wook 購読会員登録
(無料)
が必要です。
●閲覧方法
1. wook ホームページ https://wook.jp/ の右上
『電子書籍・出店者を検索
する』
の入力欄に
「つめくさ 34 号」
と入力し、
『検索』
ボタンを押す。
2.『つめくさ34号』
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– 47 –
●
同級生
●
平成二十六年六月
Sさんとの六年間
後藤 和子
Sさんと私は中一の時から、高三まで同級でした。七十
年後の今も親友です。
昭和二十年末に、田舎の学校から、二人とも東京の学校
に戻ってきました。
私たちの疎開先の学校では確か国語、書道、音楽の授業
しかありませんでした。東京では全科目の先生がおられ、
学力の遅れがひどく、とても苦労しました。
彼女と私は同じ境遇でしたから、お互いに助け合い、何
とか高校に進むことができました。高校では選択科目なの
で、二人は理系をさけ、社会科を選びました。その頃の社
会科はグループごとにお役所めぐりとか、寺院など社会に
関係のある所を見学していました。彼女と私はこの科目が
気に入り、
中央線の国分寺ある寺にグループで行ったあと、
二度も寺院の瓦を拾いに行きました。また先生が○○大学
には石棺がありますと、お話しをされると早速二人で石棺
を見学したり、とても楽しい学校生活でした。
学校以外では、彼女の家で経営するアパートの学生さん
が、お父さんに学園祭の券をくれ、二人はその券で大学の
– 48 –
〈課題作文〉
同級生
中を見て回り、最後にタンゴの音楽を聞き、最高な一日を
過ごすことができました。
スポーツ面では、当時学校内で卓球が盛んで、彼女と二
人、よく校内の体育館に行きました。台が少なく待つ時間
の方が多かったのですが、それでも満足していました。
いよいよ高校卒業の日が近づくと、私は永久にこんな楽
しい学生生活を続けることができたら、どんなに幸せかし
ら、とあり得ないことを思ったりしました。
彼女は卒業後、日本橋の白木屋に勤め、私は父の商売の
同級生
澤浦
千枝子
小学校から高等女学校まで無二の親友だった。うちは米
屋、隣町の酒店の娘(蕪木聰子さん)とお互いの家へ行っ
たり来たりして遊んだ。その頃、本町の入口に三越デパー
トがあり良く二人で行った。
もう一人は同じクラスでいつも私の上の成績で頭の良い
秀島不二さん。最近まで年賀状を遣り取りしていた。現在
四、五年前の同期会の時、私の長女が群馬大学医学部を
まだ元気だろうか?
大人になり分かったことは、彼女は私にとり学校以外で
卒業して、今、医者を四十年以上も続けているなどの話を
手伝いをすることになりました。
の先生でした。彼女にはお姉さんがいて、姉のいない私に
したら、興味も持って聞いていた。
か? 多分、元気な人は二、
三人でしょう。
今、私は九十五歳半ですが、同級生は何人いるでしょう
かった。
な身体になったが、夫を早く亡くしたので子どもはできな
山羊も一頭いたので、山羊乳が沢山出て私の次女は立派
世間のことを細々と話してくれました。そのことが奥手の
私には大変役に立ちました。
それに彼女は器用で、編み物が得意でした。今でも私は
彼女が編んでくれたショールや、細かい贈り物を大切にし
ています。
この年齢になって思うのですが、私がSさんと同級生と
し て 過 ご し た 日 々 は、 人 生 に 二 度 と な い 青 春 時 代 の 一 頁
だったのです。
– 49 –
同級生、K子さん
島 安子
噂話は千里を走ると言います。
「見合い」で断られたK
さんは、一人で話を戻し結婚まで漕ぎつけたとのことでし
た。行動力もまた抜群だったと感心もしました。
年に一回、クラス会が開かれていました。相変わらず元
気 な 彼 女 は 毎 回 出 席 し て い る よ う で し た。 老 年 期 の 近 く
話し声の大きな人でした。笑い声も遠くまで響き、体も
大きくて遠くにいても見つけやすい人でした。
なった頃からの彼女は変身したように美しくなりました。
ゆれて見えたのです。
「 ア ッ ハ ッ ハ ッ ハ ッ」 と、 男 の よ う に 笑 い、 話 す 言 葉 で
る私たちの顔が赤くなるような男言葉で冗談話をする人で
「私ね、息子が遅く帰ってきた時は、嫁より早く玄関へで
細身になったスカート姿、言葉使い、仕草までが女らしく
もありましたが、運動神経は抜群でした。テニス・スタイ
るのよ。そして帽子やカバンを受け取り、お部屋までつい
「あっ、K子さんがいる」と解るのでした。話を聞いてい
ルは美しかったし、バレーボールでの活躍など、見事なも
て行くの、お母様にそうされたから」と言った。
の強さが解った気になりました。
それを聞いて私は初めて彼女の苦労が解り、彼女の本当
のでした。
彼女の祖父が有名な「書道家」だったとのことで、冬休
みの宿題の一つ「書き初め」は抜群でした。筆が伸び伸び
と運ばれているのが手に取るように伝わってくるものでし
た。
そのK子さんの結婚は、意外と早く聞こえてきました。
同級生は皆が驚いたようでした。
お相手が美男で騒がれた中学の教師だったのです。私も
驚きました。その方は私の弟の担任でしたから。そんなこ
とで、私の心の中に少し動くものがあったように思います。
何しろ青春の真っ只中のときでしたから。
– 50 –
〈課題作文〉
同級生
グッドラック
須﨑 卓滋
三 十 八 年 の 時 を 経 て 同 級 生 と 逢 っ た。 学 生 時 代 の 親 し
かった友人の送別会である。親しいことは楽しい。仲良く
生 き て き た 時 代 の 懐 か し い 空 気 が 流 れ て 風 と な り、 過 ぎ
去った時間が一気にさかのぼっては当時の思い出が蘇る。
二○十二年三月の水道橋に集まった同級生は、十年から
二十年、最長では三十八年ぶりだった。
人は心で生きていて、一人では幸せにはなれないので互
いのことを心配して生きていく。因縁によって現れた仲間
は、因縁によって消えるまで支えあって生き、滅すれば残
された者に想いが残ってお墓参りもする。それが日本人の
心なのだ。
送別会の後、同級生のお墓参りに行くことにした。
「お墓の場所は、確か……家から歩いて行ったよ」
岩 手 県 で 暮 ら す 友 人 の わ ず か な 情 報 を た よ り に、 イ ン
ターネットでおおよその場所を特定して出かけた。大宮駅
三十八年前の光が瞬間に現れて消える。止ったままの写真
「墓は、本堂の裏奥にあります」と住職からの返事、見事
しの一番目の寺を訪れた。
から快速で一時間、埼玉県最北端のどかな駅で降り、めぼ
の時が動き、現在の仲間から反射した光が網膜に触れると、
に予想は当った。
田舎に帰ることになった主役が持参した卒業写真から、
それから進んだ三十八年の歳月をいや応にも痛感させられ
年が経過していた。お母さんも、翌年の平成六年に六十五
墓誌に平成五年二月十八日歿、行年四十才と刻まれ十九
年齢を重ねてそれぞれが還暦前後、いろいろな人生があ
歳で追うように他界され、お父さんは八十二歳の平成十八
る。
るのだ。仕事で現実の厳しさに直面している者、
田舎に戻っ
年歿であった。三人の冥福を祈り、気にかかっていた墓参
他界したもう一人の同級生は、私の結婚祝いの会に出て
た者、夫を亡くし辛くても歯を食いしばり資格を取って暮
て精一杯、今を生きているのだ。すでに他界した二人から
くれた友人である。二○○二年四月十日、享年四十九歳で
りを終えて帰路は胸のつかえが下りていた。
は「生きることは、なりふり構っていられない。前に進め」
亡くなった。生前はデザイン事務所から広告代理店へと勤
らす者もいる。自分も還暦を過ぎた。皆な困難を乗り越え
と、声が聞こえてきそうだ。
– 51 –
実は、帽子は大きなサメが近づいてきた波の動きで戻っ
たもの。人食いザメが背後に姿を表し一言
め、イラスト、立体フォトのみならず、週刊プレイボーイ
誌の似顔絵人形、フジテレビのホームページ『バーチャル
「グッドラック」
風はどこかへと去り、何かが吹かれて動く。
風は、
目に見えないが分子なので辺りのものをゆすぶる。
(彼のアニメーション作品の一つ)
お台場』など、動くキャラクターやムービー制作で活躍し
ていた。
二○○○年十二月に肝臓がん治療のため入院し、二○○
一年三月に肝臓がんから復帰したが、抗癌剤治療と放射線
治療のため何度か入退院を繰り返した。
心は、エネルギーなので空間がなく重さもない。エネル
ギーは素粒子の一つで、
肉体を調べても心は見つからない。
二○○二年三月に、富士市の病院に見舞に行き、彼の癌
に立ち向かう強い意志、仕事に復帰しようとする強い覚悟
生命というのは、心のことで、人は心で生きている。
「ごきげんよう」
「幸運を祈る」といった意味である。
同級生から残された「グッドラック」……
を感じた。しかし、その一ヵ月後に息を引き取り、非常に
悔しく残念だった。
仲間たちにより回顧展が開催され、私は彼の作品集の動
画DVDを制作した。
「バケーション」
陽気なラテン系音楽、南国の真っ青な海。浮き輪に乗り
のんびりと本を読むキャラクター人形の男。
「ああ、いい天気だな〜」
「ピューユ」と風が吹き、帽子が飛んで海に落ちる。
何故か、帽子が波により戻ってくる。
「オオ、ラッキー」
– 52 –
〈課題作文〉
同級生
友とのわかれ
志津子さんとわたしは同じ部落だったとはいえ、家が離
れていたこともあって一緒に遊んだ記憶はない。
しかし彼女も私も背丈が低く、二列に並ぶ朝礼、体育の
時 間 は い つ も 一 番 前 に 並 ん で い た。 従 っ て「 前 へ な ら え
高梨 久子
昭和十九年私たちは国民学校初等科(小学校)六年生に
─」という教師の号令にふたりだけは、腰に手を当てるだ
ていた。兎に角おとなしい人で自分から話をする人ではな
なった。太平洋戦争は日本不利の状況のもと、各地で空襲
そんな或る日、受け持ちの先生が深刻な面持ちで教室に
く、いつもひとりで行動をしていた。長いこと欠席するよ
けだった。そのような共通点もあって、私はよく話しかけ
入ってきた。ざわついていた部屋は、一瞬しずまり返った。
をうけるようになっていた。
先 生 は 生 徒 を 見 渡 し な が ら「 今 日 は 悲 し い お 話 し で す 」
うになっても、誰も気にすることもない日々であった。 その日家に帰った私は母に相談した。当時、母は体調が
と沈痛の面持ちで話しを始めた。
せだった。
「エッ、ほんとに……」そのとき知った母の病気に私は全
悪いといって野良仕事には行かず家でぶらぶらしていた。 母は即座に「じゃわたしと同じ病気だ」と言ったのである。
半年前から欠席が続いていた志津子さんの訃報のお知ら
「 午 後 の お 葬 式 に 出 ら れ る 人 は、 ま た こ こ に 集 ま っ て
身の力が抜けていくような驚きだった。今でもあのときの
母に背中を押された私は、葬儀に参列した同級生八名の
衝撃は忘れられない。
……」
すると、しーんとしていた教室のあちこちから、言葉が
とびかった。
なかのひとりだった。志津子さんのお母さんは、二年前に
志津子さんを看取ったというおばあちゃんが、ひとりひ
「病気がうつっちゃうわよ」「行かない方がいいわよ」
「あ
聞きながら私も出るのは止めようと思った。当時結核は特
とりに頭をさげながら涙を流していた。そして私たちは、
他界していることを、初めて知って、胸がつまった。
効薬もなく、伝染力もあって世間では最も恐れられていた
少ない参列者の後から志津子さんの柩を見送った。
の人、肺病なのよ」「えーっ」という声もある。その声を
病気だった。
– 53 –
同級生
永澤 良子
同じ学級の私たちが学業を中断し、バラバラになって過
ごした時代があった。
昭和十九年、太平洋戦争の戦況が次第に厳しくなって学
安堵感、そして慈母のような優しいまなざしに力づけられ
るのだった。背広姿の端正な男性教師も国民服に替え、戦
闘帽にあごひもをかけ、キリリとした装いで巡回される。
頼もしい姿に勇気づけられるのだった。
夕方退社の時に雑炊をいただく。当番が手桶に運んでき
た雑炊を、昼食をすませて空になった弁当箱に注いでもら
職場で働く社員の中に一人ずつ配属されていった。細かい
一部を担当したのだが、私たちは同級生から引き離され、
だが翌日さっそく会社から注意を受けた。
「あら、今日のお雑炊、ずい分濃いわね」とみんなが言う。
私が当番の時だった。
同級生と運んできた雑炊を配った。
う。汁がタプタプして、底の方に伸びきった米粒が沈み、
手作業に慣れないうちは戸惑うばかりだった。
「昨日の雑炊係の学生さん。間違って社員食堂のを持って
徒勤労動員が発令された。女学生も高学年は真っ先に軍需
「前線の兵隊さんは、電波兵器に使うこの真空管を一本で
ゆきましたね」と。社員は残業をして私たちの何倍も働く
わかめばかりたっぷり入っている。
も多く、一日も早く送って欲しいと待っている」という社
ので、コクのある雑炊を頂くのだった。
工場にかり出された。川崎工場で電波兵器の真空管作りの
内放送が度々流れる。サイパン島の玉砕が報じられ、南方
職場の出入口に集まって、立ったままその雑炊をズルズ
ルとすする。同級生との束の間の集まりだが、点呼をすま
の島々は次々に占領されて戦況は緊迫してゆくばかり。
もんぺ姿に白鉢巻をキリリとしめ、産業戦士となってむ
せ、明日という日のためせわしなく帰途につく。それぞれ
敵機の襲来にあったら、こんな大きな軍需工場はまっ先
せ返るような職場での作業だった。短い休憩時間にも同級
教師が毎日私たちの職場を巡回してくださる。社員に混
に爆弾を落とされるに違いない。不安を抱きながら、でも
手作りの防空頭巾を携えて。
じって働いている私たち生徒を通路から探し当て、お互い
いつかまた学校へ戻れる日の来ることを信じていたのだ。
生が懐かしくて、誰かれとなく探し当てて寄り合った。
に確かめ合って黙礼をする。教師に見守られているという
– 54 –
〈課題作文〉
同級生
「真空管ばかり作っていては勉強が遅れてしまう」と進学
を希望する者同士、引かれるように集まった。朝礼前のひ
武井さん
中学二年、三年と同じクラスだった武井さんが死んで、
堀田 千鶴子
え合っていた。拾ってきた棒切れで、地面が黒板替わりに
九年が経つ。
母の葬儀に最後まで付き合ってくれた彼女が、
と時、工場の隅に集まって教科書やノートを見せ合い、教
もなった。兄弟から借りてきた参考書をみんなで廻し読み
その一年後に逝った。
その年の五月
「また付け人やってくれる?」
と電話が入っ
をしていた。教師のいない学習は成果が上がらないのだが、
みんな意欲だけは盛んだった。
た。いつも軽い咳をしていた。アレルギーだと言っていた
が、その時はいつもと違った。
「チョット変よ。診てもら
私は通勤が精一杯で、学習までは身が入らなかったが、
そんな同級生の姿に大いに励まされ、学習への意欲をかき
いなさいよ」
「うーん、それより腰が痛くて」
。お稽古から
中学二年で同級となり、何がきっかけか話すようになっ
帰ると動けなくなるほど痛いと言う。
立てられたのだった。
同級生の中には、反戦の思想を持っている人がいたかも
た。非国民扱いされてしまう。みんな聖戦を信じる純真な
た。武井さんの夢は日本舞踊家になること。私は舞台俳優
知れない。だが個人の主張など公表できる時代ではなかっ
軍国少女だった。国策にそって一途に「お国のために」と
は体育ダンス部にいたので群舞を、彼女は宮城道雄の「春
だった。そんな私たちは秋の文化祭に出ることにした。私
あの時の同級生が、今は八十代の後半に入っている。
次々
の海」を舞った。素踊りだったが、そのすばらしさに感動
励んできた。そんな努力も徒労に終わってしまった。
にこの世を去ってゆく。あの人にも、この人にも、もう一
した。他の友だちの名取り披露会などにも行ったが、彼女
高校一年の時にお父さんが亡くなり、学校を中退して、
ファンになった。
ほどの踊りをみたことがなかった。いっぺんに武井さんの
度会いたい。
〈短歌〉 一冊の参考書をば廻し読みき
勤労動員の日々惜しみつつ
– 55 –
日舞がやりたくて家出して来たと言う。しばらく我が家に
ある日、彼女が突然我が家へ来た。何の前触れもなく。
弱ってきたのだ。私にとって初めてのことで、何が何だか
つかった。お母さんが今までやっていたのだけれど、体が
しばらくして、再開した。その頃から「付け人」を仰せ
だろう。
いたが、後を追うようにお母さんも上京し、やがて住み込
解らないうちに終わったが、だんだん慣れて行った。
お母さんの実家がある能登に帰った。
みで働ける所を見つけ、移っていった。彼女は一年遅れで
だ。お金がかかるはずだと、つくづく思った。ましてや場
化粧係、床山さん達への祝儀袋を渡し挨拶するのが仕事
卒業して勤めに出たが、彼女の給料はすべて日舞のため
所が国立劇場なのだから。すんなり出してくれる御主人に
高校へ戻ることができた。
に費やされた。お母さんも協力的だった。私は彼女が出る
御主人が家作も持っていたので、
そちらも手伝っていて、
巡り会い、大事にされて今が一番幸せだと、彼女のために
そんな彼女が三十歳を過ぎて結婚した。十歳年上の経営
ワープロを使う必要に迫られた。扱いが分からなくなるた
舞台は必ず見に行った。恋の橋渡しや、悩みの聞き役にも
コンサルタントで、離婚歴のある人。彼女が可愛くてした
びに電話がかかってきて、お互いワープロを膝に乗せなが
喜んだ。
かがない、というお父さんのような人だった。ただ武井さ
ら「そう、そこを押して、違う違うその右」などと長いこ
なった。
んのお母さんとは折り合いが悪かった。一人っ子だから本
としゃべったりした。何度も電話する彼女に、
御主人が
「そ
んなに迷惑かけて」と言うのだそうだが、
「いいのよ、私
当は母親とも一緒に住みたかっただろう。
結婚後、お金の心配が無くなったら、日舞を辞めると言
たちは」と答えたという。そうその通り、どんなとき、ど
そんな彼女の今度の様子は、いつもと違っていた。舞台
い出した。自分で一生懸命お金を工面して出る舞台だから
「出してくれるって言うんだったら思いっきりやったら、
があると必ず痩せるのはいつもの通りだが、疲れ方が違っ
んなことでもオーケーだった。
あなたにとって日舞は命でしょ」と説得した。今まで張り
た。
充実していたと。
詰めていたものが、音を立てて崩れたという感じだったの
– 56 –
〈課題作文〉
同級生
と念を押すと、
く咳をした。
耳は最後まで聞こえると言うのは本当だった。
さん、咳をして、痰が絡んでいるから」というと、弱々し
ヒネで意識は無かったが、肩をそっと叩きながら、
「武井
「うん、わかった」
御主人は昼夜を問わず付き添っているとのこと。気を張っ
「舞台が終わったら、必ずお医者さんへ行ってよ」
と返ってきた。
ているから大丈夫そうだったが、これからを思うと気の毒
たろう。辛かったろう。
病名が分かって五ヶ月後、
武井さんは逝った。
口惜しかっ
だった。
腰が痛いといいながらの舞台は、座った姿勢から立ち上
がる最初の処で「うん? だいじょうぶか?」と思わせた
が、その後はいつもの華やかさとしっとり感が出て、上出
来だった。
だちは多いけれど武井さんほどの濃密な付き合いはない。 そしてその後は、付き合い方に一線を画している。来る者
あのとき、もう親友は要らない、作らないと決めた。友
を着ているわけでもないのにほれぼれする。舞台に立つと
は拒まない私だが、相手の心の中に入り込まないことを信
普段はすっぴんで、色気もなさそうな、子どものような
大変身を遂げる。彼女の姿が一回り大きく見える。素晴ら
条として。
人なのに、着物を着ると気持ちまで変わるのか、いいもの
しい。歌舞伎役者の舞いを見ても「この人より彼女の方が
うまい」と思うこともしばしばだった。
舞台が終わってすぐ医者に行き、大きな病院を紹介され、
東邦医大を受診した。あちこちと廻されてやっと分かった
病 名 は「 縦 隔 に で き た ガ ン 」。 そ れ も レ ベ ル 四、 最 悪 だ。
お母さんを残して彼女は逝くのか、と思ったら胸が張り裂
けそうだった。しかし彼女は母親のことよりも、日舞がで
きなくなることを悲しんでいた。
死の二日前に御主人の許可を得て、病室に行った。モル
– 57 –
同級生
高台の石塀のある家の庭の広いこと。借家の我が家とは
比べ物にならない──家。でも何となく暗い感じがした。
があるが、何故か気が合う。愛子さんはあまりクラスメー
カモシカのような愛子さん──と、私は、似て非なる物
「同級生」の課題に、私は小学校時代の春山愛子さんを思
トと交遊がなさそうだが、私は「ゴエちゃん」と呼ばれて
宮下 きみえ
い出す。
高台の石塀のある古い大きな家である。私の家は巣鴨寄り
駅と巣鴨駅の中間に位置していた。 春山愛子さんは、私の家から学校に通う道の途中にあり、
住まい、豊島区立仰高西小学校に通っていた。山手線大塚
間の我が家は父、母と子ども五人。狭い、開放的な我が家
ん、お母さん、お兄さんと愛子さんだけの家族。借家の三
な高台の家。隙間から見える広い庭。この広い家にお父さ
父に聞いた石川五右衛門は大泥棒だったそうだ。
結構人気があった。ゴエちゃんとは、
石川五右衛門である。
で、こぢんまりした住宅街の中の、父、母と五人の子ども
に比べて、愛子さんの家は部屋数も多いらしいし、庭も広
小学三年生の頃だと思うが、東京都豊島区巣鴨五丁目に
の借家住まいであった。五人姉弟の末弟だけがここで生ま
い……が、お座敷に上がった覚えはない。お父さんは軍人
いらしたこと。お友達には石川さん(私の旧姓)
を選ぶこと。
くれた秘話がある。愛子さんのお母さんはもと教師をして
クラスメートが沢山いる中で、丸山愛子さんが明かして
「そう言えば、石川さん(旧姓)の来宅は初めてなのよ。
小児麻痺で体も、言語も未発達とか、初めて知った事実。
そして、
お兄さんがいらっしゃることを──初めて知った。
だったようだ。お母さんは小学校の先生だったとか──。
春山さんの家は、コンクリートブロックで囲まれた大き
れ、四人の姉、妹と私は、新潟長岡で生まれている。
石川さん以外は、お家に友だちを連れてこないこと。この
この子の兄は小児麻痺で人前に出せる状態でなく、愛子に
今思うと、特殊学級もなく、この時代こうした子供達は、
見守っているのです」お母さんからの告白である。
とっても辛く、悲しいことですから。外へも出せず、私が
秘話を聞いたのは、大分あとのことだった。
門構えの大きな家、広い庭、もと教師だったお母さんは
愛子さんによく似ていて、色白の面長な優しそうな方だっ
た。
– 58 –
〈課題作文〉
同級生
ん、もと教師のお母さん、大きな屋敷─ここにお兄さんは
くれた。正直、私は驚いた。大きなお屋敷、軍人のお父さ
は、そんなお兄さんがいるにも拘わらず私をお家に呼んで
親の隠れた庇護の許、養育していたことになる。愛子さん
て行った。
思議に思うかも知れないが……。その絆はだんだん深まっ
る環境に育った私たちは、他人が見たらその結びつきを不
愛子さんは色白でカモシカのような脚を持つ、全く異な
カモシカのような脚で走る彼女と私は、徒競走で同列に
でスタートした徒競走。
二人は同時に一等旗の下に並んだ。
まるで隔離されているような生活。
それより「家へおいでよ」と誘ってくれた愛子さん。「お
母さんがね。石川さんと仲良く友だちになるといいわ」─
夢中で自己ベストで走った。それぞれの結果、同時入賞。
なった。勿論負けたくない。不思議なことがおきた。同列
─と。唯一、春山家に誘ってくれたのは、クラスメートで
こんなことってあったのだ。
ちょっと粘着型で思慮深い方。たとえ、お母さんの枠組み
私だけだった。
今こそ学校も施設もあるが、昭和 年頃の話を
愛子さんと私は、性格も体格も違うが、知的な優しいお
があったにせよ。私は愛子さんの軽やかな屈託のない線の
性 格 的 に 愛 子 さ ん は 明 る く の び の び し て い る。 私 は、
母さんに母とは違う面も感じて……ずーっと親友でいた。
であっても姉妹五人の我が身を思って、ままならぬ浮き世
前に二人一緒に並ぶ。親も喜んだに違いない。勿論、相手
徒競走で、同列になり二人ともリレーの選手。一等旗の
細さが好きだった。
を子ども心にも何か感じさせられた。「家の兄のことをしゃ
を思ってのことでない。
それぞれががんばった結果である。
教師の母を持つ愛子さんを羨ましく思う反面、無学の母
べ る 石 川 さ ん で は な い わ。 信 用 し て お 友 達 に な り な さ い 」
です。
なりに、全く私にない明るく優しい愛子さんに魅かれたの
今、どうしていられるか。
お兄様は……。
小学校時代の親友、春山愛子さん。
あれから七十四年経つ。
──と、お母さんは、私を推薦して下さった──。私は私
愛子さんの家への出入りを許されたのは、級友で私が
唯一人であること──をあとで知らされた。
– 59 –
●
カレンダー
平成二十六年七月
●
大きなカレンダー 後藤 和子
家の中を見回すと、それぞれの部屋には最低一つくらい
カレンダーがあるものです。
頂き物の細長いのとか、中くらいで普通のとかがあり、
現在では温度計付の電子カレンダーまであります。
その中で私が一番気に入ったカレンダーは、毎年暮れに
近くの文房具屋さんに注文し、取り寄せているものです。
数字は普通のカレンダーの四、
五倍の大きさで余白が広く、
いろいろと書き込みができ、とても重宝しています。
それは茶の間の壁に掛かっています。その場所に下げる
ようになったのは四、五年前からのことで、それには訳が
あり、カレンダーの裏に面する壁に染みがあります。
その場所には湯沸かしポットが置いてあり、そっそっか
しい私は湯を急須に入れるとき、手のはずみでそこを濡ら
して染みができてしまったのです。
それ以来、大きなカレンダーを毎年その場所に掛けるよ
うになりました。
– 60 –
〈課題作文〉
カレンダー
カレンダー 千枝子
十年前のカレンダーに比べると半分以下の書き込みです
が、食堂兼居間に一つ、二階と一階のトイレの扉に一つず
つ、玄関、応接間にそれぞれ一つと、よく目立つ所に貼っ
てあります。書き込みは随分少なくなりましたが、今日は
澤浦
わたしは広い部屋のベッドに寝ているか、長椅子に腰を
る度に復唱しています。
予定無し、明後日は十時に家を出て○○へ行くのだと見
しているので、回りの壁やドアには、お正月いただいた大
時々忘れ、取りに帰らされたこともありました。いつまで
かけて、前にあるテーブルで食事したり、お茶を飲んだり
きなカレンダーが、
正面と左と右に三枚も貼り付けてある。 娘三人と長男の嫁などが予定を書き入れてくれるので、
もカレンダーに頼る、情けない私です。
りました。 は
を歌い、紅白のおまんじゅうが貰える私が大好きな日もあ
元節」などと言われ、宿題も勉強もなく、講堂で「君が代」
差して印刷されている日は、旗日と言って「天長節」「紀
した。日曜日は赤い数字が書かれ、日本の日の丸の旗が交
「日捲り」と言って、毎日一枚ずつ剥いでいくのが主流で
ひめく
今はカレンダーと言われていますが、私が小学生の頃は
小学生の頃からの忘れん坊で、宿題を始め体操着なども
カレンダーを見るとすぐ分かり、大変便利だ。
私 の 手 帳 の カ レ ン ダ ー に も 書 き 込 ん で、 随 分 お 世 話 に
なっている。予定も立てられる。
カレンダー 島 安子
今の私にとって、カレンダーは必要で、欠くことの出来
ない物となっています。
八十の坂を越え、脳の働きの衰えが日を追って進むと感
じられるこの頃は、カレンダーの日付の下の空白に書き込
んだ行事予定は、大事な私の宝物であり、指針です。
– 61 –
カレンダーの運
れきちゅう
須﨑 卓滋
チャンスは準備した者に訪れる。暦注の運は迷信。現象
は、因・縁・果のサイクルによるものである。
一九九七年の新橋駅前のレンガ通り、ビルの窓の下には
会社員や公務員が行き交ってきた。
締切が刻々と迫る。社運もかかるが、カレンダーの注文
書がいまだ出力できない。プリンターに出力をかけても、
追い込まれた時の安堵感と達成感、いまだに記憶が消え
ることはない。
「先見の明」がなければ新事業は成功しない。デジタル化
の初期は、編集ソフトがないのにかかわらず打合せで制作
の約束をしたことはあった。その後にソフトを購入、徹夜
で使い方をマスターしプレゼンに間に合わせた。だが今回
は、複数のソフトや要素が結合したシステムで、準備と検
証すべきことは多かった。運がいいと言えばいいのだが、
準備をしていたこその結果なのである。
このシステムは、業界に先駆けて構築したデーターベー
スシステムで革新的だった。一流製薬メーカーの顧客であ
何度もエラー表示で終わる。検証すべきことを終え、高額
のプリンターメモリーを増設した。
る全国三、
三五九薬店の店名入れ版下データを一括管理し、
味があった。
年毎、
使い勝手が良くなり価格も格段に下がっ
百万円から一千万円超、敷居は高く手は出せなかったが興
以 前 の デ ー タ ー ベ ー ス ソ フ ト は、 複 雑 で あ り 価 格 も 数
組版する。
校正を兼ねたカレンダー注文書に個別データを加えて自動
「もう、これしかない」
確信はあるが、これで出力されなければ対処できない。
「ええい!」
祈る気持で出力ボタンを押した。数分が経過、
「また、エラー表示が出るのか?」
まだ、出力されない。でも、出力処理は継続している。
ていった。数百万円となった時、直感がよぎった。
「おもしろい」
「出してくれ!」
プリンターに手を添え本当に願った。
〝異業種の新しい技術と既存技術をつなげられる〟と気づ
いた。猛勉強して時を待った。
その時、プリンターは響きの良い音を立て、
注文書が次々
と出力された。新事業が成功へ向かった瞬間だった。
– 62 –
やがてソフトはさらに進化、個人レベルでの開発が容易
になり、価格も数十万円となった。
七月の童画
師走が近づき、
寒さが気になってくる頃になると、決まっ
高梨 久子
迷わず購入、すると仕事が訪れた。このデーターベース
て銀行や商店などから、使いきれないほどのカレンダーを
「チャンスが来た」
シ ス テ ム で 囲 い 込 ん だ 販 促 ツ ー ル の 自 社 受 注 額 は、 年 間
貰っていたのは、数年前までのことである。
しかし、今年は一月がすぎても長男が持ってきてくれた
我が家で使う分には困らなかった。
近年、貰うカレンダーは年々減ってきてはいたものの、
は勿論、玄関やお手洗いにまで下げていたものである。
その中から自分好みのものを選んで、それぞれの部屋に
一億円を越えた。
カレンダーは十三枚もの『健康カレンダー』で、
メーカー
が小売店を支援する販促ツールの一つである。カレンダー
の企画・デザイン・制作に六年間たずさわったが、暦注の
ろくよう
は占い好きである。
物忘れが多くなっている私は、朝々今日の日にちの確認
カレンダーが一部しかない。それは夫が使用している。
赤口の六種の曜を占い、勝負事に関する内容が多い。明治
をしたい。例年のようにこれからの予定も書いておきたい
「六耀」は中国から伝来し、先勝・友引・先負・仏滅・大安・
時代は迷信であるとして政府は禁止したのだが、統制が無
と思う。手帳では瞬時に見ることができないもどかしさが
る。
は月々に絵が変わっても、唯可愛いと思っていただけであ
そのカレンダーは月代わりで上段は童画である。今まで
ンダーを貰ってきてくれた。
そうこうしているうちに、友人が取引先の銀行からカレ
ある。
くなると庶民は縁起を担いで用いている。
カレンダーの六曜で一喜一憂してはならない。どうして
ずいちょう
も気になるなら瑞兆だけを見ればよい。人生には、たまた
ま 運 が 良 い と か 悪 い と い う こ と は な い。 た ゆ ま ぬ 努 力 で
日々を良い日にすることだ。
現象は、原因により、方向が変わる。現象の流れる方向
を少し条件を加え、有効になるように変えるのだ。
– 63 –
「 六 耀 」 は 常 に 掲 載 し た。 迷 信 な の だ が、 な に し ろ 日 本 人
〈課題作文〉
カレンダー
そして七月、この月の微笑ましい絵を見た瞬間から、私
をとりこにした。
元旦のカレンダー
あたらしき暦に差せる初日かげ 永澤 良子
麦藁帽子の下にふっくらとした頬が赤い。荷台には浮き輪
未知なる日日を明るく照らせ
横一直線の道路を、男の子が自転車に乗って走っている。
を持った兎がしっかりと、子どもにつかまっている。
リスたちが遊び、こどもを見送っている。そこへ小雀がやっ
屋いっぱいに明るく照らしている。机の上に置かれた今年
平成二十六年元日の朝の祈りのうたである。日の光が部
道ばたに咲くたくさんのひまわり、朝顔の花にのって子
てきた。「一緒に遊ぼう」と手招きしている子リスもいる。
のカレンダー。初日を受けて輝いている。一枚一枚めくっ
かもめ
青空には鷗がとび、白雲が優しく見下ろしている。この
有名画家の名画が印刷されている。十二ヶ月の十二枚。そ
てみた。一ヶ月毎に、モネ、ルノワール、セザンヌなど、
私は日に何度もこの絵を眺めていた。そして、七月の暑
れぞれの季節にふさわしい名画に心がほのぼのとしてく
絵は全体に動きがある。
さもしばし、忘れることができた。この童画につきあいな
る。
そしてその絵の下に一ヶ月毎に並んでいる数字。この一
がら、心おだやかになっていたのである。
ちなみに「イブキノブエ」という方の絵であった。
日一日を今日からスタートだ。一日一日がどんな日になる
のだろう。
「今年も、みんな、みんな、どうか明るく幸せに過ごせま
すように」
と祈った。
昨年は、秘密保護法が制定され、憲法改正も論じられ、
世論が揺れている。3・11の東北の震災の復興もあまり
– 64 –
〈課題作文〉
カレンダー
進んでいない。多くの方が懐かしい故郷に未だに帰れずに
いるのだ。原発再稼働の話も起こっている。廃棄物処理も
難しいというのに……。
命日
堀田 千鶴子
もう七月、早いなあ。門ちゃんの一周忌だ。来月はマツ
コさんの一周忌。親しい人たちが逝ってしまった。
そして朝鮮の拉致問題。家族の悲痛な叫びがたびたび報
道される。こんな難問題が
「二十歳までは生きられない」と医者に言われて、赤ん坊
の 私 を 背 負 い、 体 質 改 善 の 注 射 を 受 け に 川 越 か ら 池 袋 へ
「今年はきっと解決されますように」
とカレンダーに祈った。
通ってくれた母。そのお陰で、
私は今まで生きてこられた。
医者とは縁の切れないひ弱な私をどんな気持ちで育てたの
今年は九月に入れば私も八十代後半に入る。
「このカレンダーの一日一日が、どうか穏やかに過ごせま
だろう。神経の休まる暇は無かったに違いない。
その私が多くの人たちの命日をカレンダーに書き込んで
すように。そしてそのために努力することのできる能力が
与えられますように……」
いる。毎月のように誰かの命日がくる。
暮 れ に な る と 新 し い カ レ ン ダ ー に 家 族 の 誕 生 日、 親 し
かった人の命日を書き込む。その度に亡き人へ思いを馳せ
る。
親しくして頂いた方には、三回忌までお花を送るのが習
慣になっている。たまに受け取った奥さまが、御主人の死
を理解していないときがある。次の年は送らないが、胸が
痛む。 今年はまだ一度も新しく命日を書き込んではいない。こ
れがいつまでも続いてくれるといいのだが。
– 65 –
家にあるカレンダーのうち三つには私の予定が書いてあ
る。一度、書いてあるのに忘れて「どうしたの? 今日は
懇親会よ」と電話をもらった。それからはテーブルの上に
もメモ書きを置くようになった。
出かけるところが何もなくなって、命日と誕生日だけで、
自分史カレンダー 宮下 きみえ
平成元年二月二十九日から成増社会教育会館で開催され
た「自分史三期生」の講師は、早稲田大学の横山先生でし
た。その受講生で平成二年「つめくさ会」が誕生した。
それから今日まで、初代会長さんはじめ何人かの会員の
ほかは真っ白なカレンダーになったらどうしよう。
外出予定がないと、家でパソコンに向かったり、本を読
退会はあったが、
「つめくさ」は、今なお健在で活躍中。
て乾杯。
れにしても、よくもまあ、永く続いている。感謝──そし
とって、つめくさ投稿の題のヒントになることが多い。そ
家 計 簿 上 段 の 5 ㎝ × 6 ㎝ の ス ペ ー ス が、 日 記 欄 の 私 に
『娘よ、お母さんの青春はね』
文芸社
『あの日、あの時』
岩田雅家(教え子)
出版した。
私は、この会誌の中から、娘に残したい部分をまとめて
会誌は今、三十四号発刊済み。
んでいることが多い。運動不足だ。ちょっと散歩にと思っ
ても、なかなか腰が上がらない。呆けてしまうのではない
かとちょっと心配。
今年は、このまま命日を書き込むことがないようにと願
いたい。そんな思いでカレンダーをめくっていたら、あっ
た! 一月十三日に従姉が死んでいる。家族葬だったのと
「寒いからチーちゃん来なくていいよ」と言われ、出席し
なかったのだ。
そ れ 以 後 は な い。 あ と 半 年、 無 事 に 済 み ま す よ う に
……。
– 66 –
●
再会
●
平成二十六年八月
義母の想い
後藤 和子
昭和七年二月、義母は夫を病で失い男の子三人とともに
残されました。そのとき長男は九歳、次男が六歳で、三男
(私の夫)はまだ乳飲み子でした。
そのとき親族で話し合い、上の二人は九州の柳川で呉服
店を営む祖父母の家で引き取り、三番目の子(私の夫)は
義母の里、福岡の宮田町に戻りました。
義母は、
「親子五人で熊本の水前寺公園近くにあった官
舎での暮らしが、わずか十年の間に一生分の楽しさを終え
てしまった所だ」と話していました。
実家の父親は貝島炭坑の棟梁をしており、生活の心配は
なかったのですが、技芸女学校を出た義母は、三男の世話
を自分の母親に託し和裁一筋の道を歩みました。仕事が上
手と言われ、よいお客様が結構いたそうです。
義母は仕事に夢中になりながらも、分かれた二人の子を
思い出さない日はなかったと話しておりました。
当時、
義母の妹二人と四人の弟は東京に住んでいました。
それで板橋の地へ行くことを決めた義母は、二人の息子に
逢ってから上京しました。
– 67 –
それから間もなくして大東亜戦争が始まり、次第に着物
を着る人が少なくなりました。満州でホテルを経営してい
る伯母から、浴衣を縫える人が少ないので、和裁の指導に
きて欲しいと頼まれました。
義母は三男を自分の母親に頼み、外地へ行き伯母を助け
ました。
終戦の一年程前に伯母は急病で亡くなり、義母は東京に
再
会
澤浦 千枝子
蕪木さん、親友。今も元気なら是非会いたい。
私は米穀店の娘(長女)で、幾野(蕪木)さんは、酒店
の娘(長女)で同級生。電車に乗って隣の停留所で近いの
で、何時も一緒に誘い合って出かけた。
城)で、第二高等女学校に在学していた。朝鮮銀行と向か
そのころは、現在の韓国のソウル(その時は日韓併合京
その頃、長男は体を悪くし、戦地に行かず内地の軍需工
い合って三越百貨店があり、一番の繁華街の本町がそこか
戻りました。
場に行っていました。次男は海軍の手旗信号の教官のあと
け、お汁粉を食べて帰ったりした。しょうけい園は動物園
ら始まっていて四丁目迄あり、よく蕪木さんと遊びに出か
そして敗戦となり、世の中が少し落ち着いた頃、突然二
もあり、桜並木が立派だった。反対方面には、立派な大き
特攻隊員となり、出撃の日を待っていました。
人揃って義母を尋ねてきました。成人し、大人になった二
なお寺があった。
へ務め、私は都立高校の売店で働いた。
間もなく東京へ出て、子どもも四人になり、主人は通産省
終戦後は茅ヶ崎の古い別荘を買い、
父母や夫と生活した。
人の息子が目の前に立ったとき、義母は驚きと喜びで胸が
震えたそうです。
私はいつも義母からその話を聞かされると、命さえあれ
ば、いつかきっと逢えるものだと信じました。
女学校時代の親友と再会できたら、お互いに積もる話を
したいと思う。
– 68 –
〈課題作文〉
再会
一億年の再会
須﨑 卓滋
再会 島 安子
一億年を経て再会した植物がある。生き別れた近縁な種
のハナミズキ(花水木)とヤマボウシ(山法師)である。
私は時々思い出す光景があります。それは六十ウン年も
前のお正月のことでした。
が飛び出してきました。後ろの方が空いているのが見え、
駅行きのバスが到着し乗ろうとすると、中から大きな声
正月の挨拶をするために、バスに乗った時のことでした。
(春に施肥と抗菌剤を散布)また(雨が降らなければ三日
に
「白っぽい斑点」
ができ、
徐々に全体を覆うようになった。
ミズキ」にうどん粉病が発生した。カビによる病気で、葉
今年、蒸し暑い梅雨の合間の晴れた日、街路樹の「ハナ
どちらも春を彩る庭木として人気が高い。
そこに黒の学生服の人が五、六人いたのでした。大声はそ
に一回ほどの水やりもした)と思うが調べてみる。
前の年に結婚した私は、大きなお腹を抱えて彼の実家へ
こから出ていたのでした。
「一種類だと免疫ができるので、三種類の抗菌剤を交互に
どちらも「ミズキ科ヤマボウシ属」で、遠い昔は繋がっ
で後者は「ヤマボウシ」と文献で判明した。
るっとした、まだら」なものがあり、前者は「ハナミズキ」
体的にはよく似ているが「細かく割れている」ものと「つ
と感心しつつ、木を調べてみると樹皮に違いがある。全
まる」
「なるほど、隙を与えず徹底し除菌する。人間にもあては
とのことだった。
散布、春から秋までの間で五回程度の消毒が必要」
「よう、彼女!」
私は驚いて後ろを振り向きました。私の後ろは男の人だ
けです。
「お前! 立てっ」
隣に座っていた学生を立たせ、彼は「どうぞ」と私を隣
に座らせてくれたのです。
「アッ、Iさん」
私は驚きました。一緒に勤め、一緒に遊び、大学へ行き
直すと言って退職したIさんだったのです。
大学前でそのにぎやかな客は降りて行きました。
– 69 –
〈課題作文〉
再
ていた北米大陸とアジア大陸に分布していたが、一億年ほ
ど前の大陸分断により海で隔てられて別かれた。ハナミズ
キは北米大陸の原産となり、ヤマボウシは日本に自生して
孫の来訪
高梨 久子
ちは、私の孫、大地の訪問を不思議そうにいう。祖父母の
「エッ、高校生になってもまだ来るの……」周りの友人た
ハナミズキが日本にやって来たのは明治末である。東京
もとに孫が遊びに来るのは精々中学生くらいまでのよう
別の種に分化した。
からアメリカに贈った桜の返礼として、一億年を経てハナ
だ。
つぼみ
半減だったのではないかと私は思っている。
に連れて行った。しかし、
相手が爺婆では大地の楽しさも、
私たちは、区の「熱帯館」
、
「科学館」
「ほたる園」など
彼はどこかに連れて行って貰うことを当然と思っていた。 その後は、夏休みになると決まって我が家にきている。
ていった。
小学校入学を機に、大地は所沢にある父親の実家に帰っ
親しさがあるのかもしれない。
わって私たち夫婦が育ててきた。その経緯に普通にはない
大地が小学生になるまでの四年間を、亡くなった娘に代
ミズキとヤマボウシが再会した。その後、交配したハイブ
リットハナミズキが誕生し、うどんこ病に強く耐寒性もあ
るという。
ハナミズキの花は、先が丸い四つの花びらで四月から五
月中旬に咲き白とピンクが多い。ヤマボウシは、
先がとがっ
そうほう
ている四つの花びらで五月から六月に咲き、ハナミズキよ
り小さめで白色の花を付ける。
四枚の「花びら」は花弁ではなく、総苞と呼ばれる蕾を
包んでいた葉である。いずれの花も満開となると華やかで
見応えがある。
花が美しいと思うのは、霊長類が花に支えられ共存して
一億三千年前、植物が花を付け昆虫たちと共存する戦略
どだ。靴は二十七、小さな私の靴と並んで玄関にでんとし
長は夫と同じ百七十センチくらい、私が見上げてしまうほ
この夏、高校生になった大地が我が家にやってきた。身
が始まる。人類は、八百万から五百万年前に誕生し植物に
ている。何が入っているのか、大きなボストンバッグがよ
繁栄し、人類の誕生につながったからである。
選ばれた。再会は奇遇ではあるが、決して偶然ではない。
– 70 –
〈課題作文〉
再会
く似合っている。
矢つぎばやに声をかける私に、小さな声で言葉少ない返
事が返ってくる。
とにした。
外に出てみると、陽はかげり始めて来たものの、身を覆
う暑さは変わらない。カラオケ店は上板橋駅近く、川越街
道沿いにある古びたビルの三階だった。廊下をはさんで両
側に部屋が並んでいる。閑散に感じるのは、各部屋の音響
おとなしかった母親に似たのだろうか。
学校での大地は、
控えめすぎて活力がないと言われ続けてきた。それが意外
が外にもれないためなのだろう。
が鳴り出した。
んでくる。私が興味深く部屋を見渡していたその時、音楽
指定された部屋に入ると、重い湿った空気が一瞬体を包
にも部活は「登山クラブ」だそうである。そのうちに山男
らしく、心身ともにたくましくなって欲しい、と思った。
趣味は「読書、音楽」とか、主に青春小説を読んでいる。
自分でも書いてみたいともいう。「漱石や太宰は?」
「ウン
そして大地が歌い出したのである。大きな声にまず驚い
た。聞いたこともない横文字の入った歌だ。体でリズムを
そのうちに」などと言っている。
「彼女はいるの?」「ハイ、いますよ」堂々とした返事が返っ
とり、のびやかに楽しそうに歌っている。思っていたより
以来である。長男はしきりに拍手を送っている。
いく。大地の歌声を聞くのは幼いころの「チュウリップ」
も全然うまい。私たちに勧められるままに、次々と歌って
てきたのには驚いた。ああ現代っ子だったのだ。
気がつけばノートを広げ、勉強をやっている。宿題が間
に合わないとか、ひたすらペンを動かしていた。
そうこうしているうちに、私の長男がやってきた。年は
画面に表示される採点は、毎回九十点以上あり、リズム
感は満点に近い。そのあと数曲歌った長男は、声が低く採
離れていても男同士、音楽の話で盛り上がっている。
「母さん、大地とカラオケに行くから、晩飯早めにして─」
点も八十点どまりだ。
ふたりに促された私はレパートリーなど一つもない。家
「お祖母ちゃん、楽しいから歌いなよ」
「母さんも歌ったら」
「母さんも一緒に行こうよ」
誘われた私は、カラオケで歌ったことがない。ふたりの
歌を聞くのも楽しみである。寝ている夫が留守番では、後
ろめたい気もするけれど、少しだけならと私も出かけるこ
– 71 –
歌ってみよう。マイクを持ったものの声がなかなか出てこ
て歌うのは、何年ぶりだろうか。好きな「北国の春」でも
迎えてくれたのは弟さんの奥さんだった。
初対面だったが、
にはあわなかった懐かしい家。だが代替わりしていて、出
十数年も経ったころ、知子さんの家を訪ねてみた。戦災
えてしまった。
ない。伴奏について行くのがやっとである。画面の表示通
私の訪問をとても喜んで下さった。青森にいるという知子
事をしながらたまにハミングすることはあっても声を出し
りに、終わりまで歌ってみたもののその長さに閉口し、楽
さんの住所を教えて頂き帰宅した。
多分、ロングヘアですてきなワンピースで現れるかと予想
いる知子さん。
子どもの時からセンスのよい人だったから、
要職についているというご主人と、幸せな生活を送って
である。
んと、上野の美術展で会う約束をした。何十年ぶりの再会
そして何年かの後、千葉に引っ越してきたという知子さ
喜び合った。
の再会ができたとは……。お互い声を弾ませて語り合い、
さんからだった。懐かしい声にびっくり。こんなに早く声
その日の夕食をすませた時、電話のベルが鳴った。知子
しさまでは感じなかった。採点は七十点、いい経験だった。 大地はこうして、彼女や友人たちと歌って楽しんでいる
のだろう ── 。
今日は母親を知らない大地の、明るい一面を見ることが
できた。そして、あたり前の高校生であることが、何より
もうれしかった。
知子さんとの再会
永澤 良子
幼なじみの同級生の知子さん。お宅へ遊びに行っては、
し、
当日、
心躍らせながら出かけた。私は自前の手作り服で。
アに、グレーの地味な色合いの服装で現れた。一人暮らし
庭のユスラウメの赤く熟れた実を摘んだり、滑り台で遊ん
やがて太平洋戦争が始まった。戦局は次第に激しくなり、
のつましい生活を送っている私に心づかいをしてくれたの
だが、意外なことに知子さんはさっそうとしたショートヘ
本土の空襲にあって、鶴見市場のわが家を失ってしまった。
か。
昔ながらの優しい知子さんの心根を感じたのであった。
だりして楽しい子ども時代を過ごした。
あちらこちらに移り住んだので、知子さんとの交流も途絶
– 72 –
〈課題作文〉
再会
久々の再会に名画鑑賞どころではない。戦中戦後の身の
上話に話が弾んでしまった。
くことができ、時間の経つのも忘れて再会の時を過ごした。
子さん。その時の教師仲間の、思いがけない内輪話など聞
母校の小学校の教職についていたことがあったという知
と手を取り合って再会を喜んだ。
互いによくもまあ生き延びたわね」
抗したのだろう。これが私がこの世に生を受けて最初の記
り意識した訳ではなく、祖母が座棺に入れられることに抵
た叔父の、赤いベストが目に焼きついている。死をはっき
入れられるのを見て、泣きわめく私を抱き上げて廊下に出
祖母が亡くなったのは私が二歳八ヶ月の時だった。棺に
もし会えるなら 子供のころからの付き合いは、長い年月を隔てても心を
憶だ。 その祖母については母からよく聞かされたので、常に身
堀田 千鶴子
割って話し合えるものだと思い、再会できたことがほんと
近に感じていた。
「お米の配給が途絶えて、他に食べるものも乏しくて。お
に嬉しかった。
今私は無性に祖母に会いたい。もし会えたなら、聞きた
い こ と が 一 つ あ る。 仏 壇 の 位 牌 の 白 旗 賢 治 は 一 体 何 者? だが、その知子さんも一年前にあの世へ行ってしまった。
知子さん、知子さん、いくら呼んでももうあの懐かしい声
本当は誰の子? と。
は何も覚えていないし、祖母から聞いたこともないと言っ
私は、母にはふたりの兄がいて、賢治という人は生ま
れてすぐに亡くなったと信じていた。母はその人について
を聞くことはできない。
あの世というものが本当にあるならば、いつの日かまた
会うことができるのだろうか。
今はただ、ご冥福を祈るのみ。
ていた。 母が亡くなったとき、遺産相続のために祖母の戸籍謄本
も必要になり、宮城県田尻から取り寄せた。賢治は昭和六
年五月に生まれ、十月に死んでいた。それも父親の名のな
– 73 –
の戒名の下につける語だ。何日かでも生存していたなら、
子と書いてある。水子はこの世に生を受けられなかった子
けられていた。ところが位牌には明治四十三年十一月、水
い祖母の子として。それもたった一行で生死が同じ日に届
死亡の地は東京世田谷だ。祖母はずっと気仙沼で生活して
のときとして最善の方法を取ったのだろう。
その子の出生、
女丈夫だったと聞くから、
「すべて私にまかせて」と、そ
では祖母が子どもを産める年齢ではない。肝っ玉の太い、
あの世の人と交信することは不可能だが、口寄せをする
いたので、或る日東京へ出て来て、お骨を受け取り、戻っ
気仙沼から東京に住む母たちの所に出てきたとき、祖母
恐山のイタコはよく当たるという。祖母は自分の息子、母
戒名の下は童子となるべきだ。祖母はこのことを胸に秘め
は二つの骨壺を持参していた。戦争が激しくなり、父は出
の兄が死んだとき、
恐山で口寄せをしてもらったと聞いた。
てすぐに村役場に届けたと言うことか。
征し、私たちは父の兄や姉の住む埼玉県坂戸に疎開した。
三十歳で亡くなった彼には好きな人がいて、そのことが心
たまま逝ってしまった。
寺の住職だった叔父がその二つのお骨に戒名をつけ、大き
残りだと言ったという。その話も母から何度も聞いていた
ので、いつかは私も行ってみたいと思っていた。
な木の下に仮埋葬したと言う。
祖母は昭和十九年十二月に亡くなった。父は二十一年五
月に復員して祖母の死を知り、いつかは墓を作ろうと思っ
「嘘は罪よ、おばあちゃん。おばあちゃんはそれでいいか
も知れないけど気になって仕方がない人がいるのよ、ここ
たようだ。
やがて出来上がった墓に、骨壺を移そうと木の下を掘る
に」と仏壇に手を合わせるときに、思い出したように心の
それにしてもこの子は幸の薄い、可愛そうな子だ。叔父
たびに「誰の子だろう?」が、頭をよぎる。
行っても、白旗家、嶹津家と並んでいる墓に手を合わせる
白旗賢治が祖母の子ではないと分かってからは、墓参に
中で言ってみる。
と、大きなそれが小さな骨壺に覆い被さっていたそうだ。
「兄さんが弟を守っていたんだねえ」と言った父の言葉を
私は忘れない。
天国の祖母はどんな気持ちで出来上がった墓を見ていた
のだろう。でもなぜ自分の立場が悪くなっても隠し通さな
ければならなかったのか。誰を庇っているのか。昭和六年
– 74 –
〈課題作文〉
再会
が戒名をつけ、読経してくれたのがせめてもの慰めだ。ホ
ントに細い糸かも知れないが、白旗の家とどこかで繋がっ
ていると思いたい。
あの世に行って祖母と再会しても、私が知ったところで
誰にも教えられないのだから、無駄なことも確かだ。けれ
ど、私はどうしても真相が知りたい。数奇な生涯を送った
祖母を、もっと知りたい。この白旗賢治の謎が解けたら、
こんがらかった糸がすーっとほどけていくような気がす
る。
それはともかくとして、父の二十七回忌と母の十三回忌
が二年後に来る。そのときにこの子の法要も一緒にと住職
にお願いしようと決めている。
当日、私が施主として執り行うことが出来るかどうかが
心配だ。
– 75 –
●
今
●
平成二十六年九月
夏の花
後藤
〈一〉朝顔
和子
夏の朝は忙しい、起きると直ぐお茶を飲む。強力な太陽
の光が差し込む前、大急ぎで朝顔に水をやる。
去年は玄関脇の窓辺に寄せ植えで、何色かの花が咲いて
いた。
今年も花屋さんに買いに行こうと思っていると、去年の
種が地面に落ち、五、六本の芽が出ていた。私はそれを二
つの鉢に分け大事に育てた。成長が早く忽ちつるが登り、
最初に咲いた花は小ぶりの濃い紫色だった。
それからの毎朝、今日は何色で大輪かしらと思いなが窓
を開けるのが楽しみになった。でも、真夏の日差しには逆
らえず、昼近くなると殆どの花は萎れている。
それでも私は朝に夕に水をやり、毎朝のように今、何色
のが咲いているかしらと、眺めながらその日一日の元気を
貰い、今年の暑い夏を無事に過ごすことができた。
〈二〉お盆の花
今年の夏は特に暑い。年のせいかしらと思ったりする。
– 76 –
〈課題作文〉
今
何時もの年はお花を早めに用意するのに、今年は買いそび
れていた。
明朝、涼しいうちに行こう、と思っていると電話が鳴っ
た。
横浜にいる息子からで、千葉の墓参りの帰りで、あと二、
三十分で赤塚の家に着くと連絡があった。
今の私
澤浦 千枝子
大正七年十一月一日生まれで、今九十五歳十ヶ月で元気
に暮らしている。
長女は医師だが、離れた所に住んでいるが、時々泊まり
いた。もう一つないかとみると、二、三日前に咲いた夏水
た。ちょうどよく玄関先にピンクのサルビアの花が咲いて
早く準備しておけば良かったのに、と思いながら庭を見
は二階で寝るが、私は一階のベッドで、朝八時までゆっく
生活している。トイレに行くだけは自分でできる。夜は娘
べて面倒を見てくれている。お陰で何不自由なく、楽しく
次女(税理士)が一緒に暮らしていて三度の食事からす
がけで来てくれる。
仙があった。やっと一本だけ蕾が開いたのに、惜しい気は
り眠る。大きな画面のテレビを、一日中ゆっくり楽しんで
「しまった」
したが、今切らねば間に合わない。
いる今日この頃である。
れるので、血圧も心臓も正常で、よいらしい。
になる。二ヶ月に一回、小豆沢病院の医師が往診に来てく
今、私は九十五歳十ヶ月なので、あと四年二ヶ月で百歳
「ごめんね」
と心に呟きハサミを入れた。
仏壇に花を飾り終えるとちょうど息子一家が玄関に来
た。
薄暗い仏間に夏水仙のピンクとサルビアが一際、部屋を
明るくしてくれた。
– 77 –
今、私は
島 安子
残された時間
須﨑 卓滋
ても早く感じる。時間をゆっくり感じさせるには、印象的
月日が経つのは、早いものである。年を取ると一年がと
その費用として、月、二万円を息子に渡しています。時に
な出来事を増やすことである。
私は今、夕食を長男の家族と一緒にしています。そして、
は娘や孫達と一緒に食事をすることもあるので、私はそれ
「もう、九月ね」
「青年(少年)よ大志を抱け。大志を抱いて就職に当たる
るという仮説があるが未だ完全には解明されていない。
内時計が徐々に減速するため、時間を早く感じるようにな
体を維持する新陳代謝速度が加齢とともに遅くなり、体
ん早く感じる。
と答えたが、年齢を重ねるにつれて一年の経過がどんど
「早いなぁー、今年も残り四カ月か」
と、家内がカレンダーをめくる。
で間に合っているだろうと、独り合点で決めた額です。
夫が逝って三年が過ぎました。
「おばあちゃん、一人でポツンと座って食事したのでは淋
しいでしょう。一緒に食べましょうよ」
と言ってくれた嫁の言葉から始まったことでした。費用
は月初めに渡そうと思っているのですが、時々忘れて月半
ばに渡したり、といい加減な私です。
夕食の時間は決まってはいません。六時半頃から八時頃
ども飛び出します。勉強になったり、笑ったりと賑やかな
様に。当たってくだけろ。少々、難しいと思っても希望を
まで、テレビを見たり世間話をしたり、政治、戦争の話な
時間が過ぎて行きます。
持って事に当たる様に。光明を求めて勇敢に行動して、賢
明に最後まで頑張って」
昭和五十年、二十四歳の時に母から手紙をもらった。
幼少のころに母と北海道で暮らしたことがあり、クラー
– 78 –
〈課題作文〉
今
ク博士の “Boys, be ambitious”
は「 遙 か 彼 方 に あ る 永 遠
の真理へ向かって大志を抱け」との言葉であると早くから
理解していた。
それから、「光陰矢のごとし」で三十九年の歳月を経た
だからいつもその時々を勉め励むべきである。年月は怠け
た歩調に合わせて待ってはくれない」
というのが画讃の要約である。
淵明の晩年の詩文であるが「勧学」を吟詠で聴くと、年
会館『作品展』に、自分史『つめくさ会』が参加する準備
現在は六十三歳となり、十月開催の板橋区成増社会教育
向き合い、いかに生きるべきかを思案して達観した。
合うかを問題とした。いつか死を迎えるという人の運命と
淵明は、老いと死をどう乗り越えるか、死といかに向き
齢を重ねたせいか体になじみ実に味わい深いものがある。
をしている。『つめくさ会』は、文集を毎年発行する活動
「運命に従って自然に生きるがよい。人生の流れに従い、
が「日々是好日」とはゆかず、真理は道なかば「日々是中
が継続二十四年になる。会員の最長寿は大正生まれで、女
喜ぶこともなく恐れることもなく、寿命がきたら潔く受け
今の私と同年齢の六十三歳で、淵明は亡くなっている。
性で九十六歳、男性で九十歳である。澤浦千枝子さんと小
入れるがよい。思い悩むことなかれ」
途半端」となっている。
林福次郎さんだが、九十歳の境地とはいかばかりであろう
今年の四月、九十四歳の父が亡くなった。母もすでに自
と死への恐怖を克服したという。
小林さんは『つめくさ会』の元会長だが、詩吟は四十年
然循環の流れの中に回帰しているので、この世に両親は存
か。澤浦さんは百歳に届きそうだ。
も続けていたという。私も会員の皆さんと昨年、成増社教
在しない。生まれ育った田舎の自然に触れることもなくな
と義母が言うが、そう思ってもらえる当方こそ有り難い
「毎日が、敬老の日みたいで有り難い」
残された唯一の親である。
しかし、我家には十一月で九十歳を迎える義母がいる。
るだろうし、
変わっていくことへの一抹の寂しさを覚える。
で九十歳の詩吟を聴心したことがある。
かんがく
作品展に出展する小林さんの個人本奥付けに、
「私の座
とう えんめい
右の漢詩」として陶 淵明の「勧学」が掲載されている。
詩文は小林さんにおまかせし、文献引用であるが
「年若い旺盛な時代というものは二度とは来ない。今日と
いう一日でも、もう一度朝に引き戻すことはかなわない。
– 79 –
ものだ。一緒に暮らすことで、人間としての必要なことを
気づかせてくれる。
新しい布で雑巾を作ることが趣味で、毎日、針で縫って
いる。たまった雑巾は姉妹にあげるが、東日本大震災で宮
ベランダの整理
高梨 久子
最近「老いた親の家の片づけ」が、マスコミに取りあげ
られ、本にもなっている。
「もったいない、愛着がある」という思いが先行する親と
城県の私の友人に送って喜ばれたこともあった。
義母は朝食後に高血圧症の薬、寝る前に睡眠導入剤を服
「不要品」と思う子どもとの意見の相違に、戸惑っている
長年に渡ってこのベランダに、私は四季折々の花を咲か
しと並んでいる。
我が家のベランダには、プランターや鉢植えがところ狭
がら、怠惰な日々を過ごしている。
私も八十歳を過ぎた今、身辺整理をしなければと思いな
家族が多いという。
用し頭痛にも悩まされているが、出来ることは自分でして
いる。前線や低気圧が接近すると影響を受けやすい。気圧
が低下すると炎症物質が発生し、手足の血行が悪くなり、
脳の血流が増えて頭痛を招くのだろう。十分な睡眠や食べ
物、適度な運動が予防になるという。
人間も天地万物の運行代謝の一つで病気や老い、死さえ
あらが
も誰にでもある自然なこと。抗わないことである。
さやえんどう
せ楽しんだ。近年は小物野菜にも手を出して、採れたての
野菜が食卓に彩りを添えた。
中でも莢豌豆は薄紫の花から、
今年の「敬老の日」、総人口の四人に一人が六十五歳以
上の高齢者、八人に一人が七十五歳以上となった。百歳以
冴えたみどりの莢になっていく過程には感動した。
ベランダに咲く花たちに、私の心はどんなにか癒されて
上の高齢者は五万八千人で最多を更新した。
どんなに年齢を重ねても人生は常に初めての経験であ
きたことだろう。
しかしこの頃は、水やりさえも億劫になって、体力の減
り、年齢を重ねなければ分からないことがある。新しい刺
激を取り入れて今を充実させれば、時間を長く楽しめる。
退を感じるようになった。そこで私は、このベランダから
整理を始めることにした。ベランダには、私の好きなアマ
残された有限な時間、たゆまぬ努力で今を生きる。今日
を良き日にし、充実した日々を送りたいものだ。
– 80 –
〈課題作文〉
今
リリスが十鉢以上ある。これを捨ててしまうのは惜しい。
誰かに上げなければと思った。
私は時々近くの老人センターに出かけている。先ずそこ
の知人たちに声をかけてみた。
すると、
「今さら植物は増やしたくない、上げたいくらいだ」
と異口同音に言う。
ベビーレタスの丈がのびて、黄色の花がさいている。今
までのように種をとり、また育てる予定はないのに、処分
できないでいる。
ピンクの花が咲く「金のなる木」は、大きくなりすぎて
隅に追いやられている。誰か貰ってくれる人はいないだろ
うか。
ベ ラ ン ダ は、 プ ラ ン タ ー や 大 小 の 鉢 が な く な っ て 幾 分
すっきりした。
結局、ベランダの整理は中途半端である。
ゼラニウムは四季を通じて咲いている。その中の赤だけ
を残して、白、ピンク、オレンジなどはマンションの敷地
これを見た息子は「思い切って、
全部捨てたらいいのに」
整理することは、本当に難しい。
などと言うだろうか。
内にある花壇に植えてきた。
この赤いゼラニウムは、私が結婚して初めて買った思い
での鉢植えである。この花と共に過ごしてきた数十年を思
うと、どうしても残しておきたい。
三 つ の プ ラ ン タ ー に は 土 だ け が 入 っ て い る。 こ れ か ら
チューリップの球根や三色スミレを植える予定だった。だ
がこれを一番に処分することにした。
プランターはゴミに出しても土をどうするか。土はゴミ
に出せない。マンションの庭隅に土を捨てる人が多く、自
治会で問題になっている。
とりあえず私は、ビニール袋に入れて隅に重ねておくこ
とにする。
– 81 –
今のわたし
永澤 良子
皆さんが一生懸命に会を盛り上げて下さる。生きるエネル
ギーがわいてきたのだった。
部屋に帰り、フト時計を見上げた。まあるい掛け時計。
秒針がせっせと時を刻んでいる。じっと見つめていると、
その秒針は一分をアッという間に丸い時計に沿って一回り
九月十五日、今日は敬老の日。このアパート自治会の祝
賀会に招かれた。来賓の祝辞の折に一人の方が
する。二回り三廻りと、二分や三分はアッという間だ。
え間なく時を刻んでいる。後戻りすることのできない『今』
わたしが『今』という時間を捉えようとしても秒針は絶
「皆さんの中には、あまり長生きをして肩身が狭いと言わ
れる方もいらっしゃいますがどうか威張って長生きをして
下さい」と言われた。
かった。後期高齢者医療保険や、介護保険のお世話になり、
「日日を無為に過ごしてはならないのだ」と今日の敬老の
く。
残された私のいのちも時間の経過と共に少なくなってゆ
若い方達の負担になっている。申し訳ないと日ごろ思って
わ た し も 八 十 六 歳。 こ ん な に 長 生 き で き る と は 思 わ な
いたことだった。
平成二十六年九月十五日
そんな勇気があればよいのだけれど。
て危ない橋を渡ってみようか──。
日に思ったことだった。 でも、残り少ない日日ならば、思い切って捨て身になっ
今朝の新聞を見ても、祝日らしい記事は見当たらない。
「八人に一人が七十五歳以上の高齢者」と公表された。今
の日本は少子高齢化で老人大国と言われている。厳しい社
会になって、長寿でもあまりおめでたいことではないよう
だ。
でも、ここの自治会は例年のことながら、今年も盛大に
祝賀会を開いて、子ども和太鼓と高校生の箏曲の演奏を聞
かせて下さった。若い人たちの熱演に、萎えたわたしの脳
が甦った心地だった。こんな小規模の自治会なのに役員の
– 82 –
悩む
六十代男性。このところ私は男読みの作品ばかり選んでい
る。
もう一つは、宮部みゆきの『鬼子母火』だ。大晦日に起
きたボヤ騒ぎの顛末。亡霊がいるのか? という宮部独特
の物語だ。こちらは登場人物がほとんど女性なので、久し
堀田 千鶴子 去年、「朗読大好き」の三人で『萌黄の会』を立ち上げた。
振りに女読みをしてみたい気もする。季節的にはこちらの
十二月の朗読会に向けて、作品選びに悩んでいる。
一回目が大成功だったので、今年もいいものにしたいと
方がいいのだが、四十分ちょっとかかるので、どこをカッ
もえぎ
張り切っている。場所も同じ喫茶店だ。定員三十人なので、
トするかで悩む。
童話もいいな、と思うけれど友人が、
招待する人選にも悩む。
一番の課題は作品選びだ。一人三十分前後で読めて、三
「この間『おこんじょうるり』聴いたから、
違うのがいい」
と言うし……。
七回のお稽古で、聴く人に満足して頂ける読みができる
かどうか、と悩む。もうちょっと軽めの作品に、とも思う
が、一年に一度のチャンスだから冒険もしたい。
私の頭の中は、十月の朗読会も含めて「朗読」でいっぱ
いだ。でも、好きなことで悩めるのは幸せだ。
字が読めなくなったら、声が出にくくなったら、と不安
になるときもある。
でもそのときはそのとき、今は今を大事にし、悔いのな
い読みを追求していこうと思う。
– 83 –
人がかち合わないもの。
一人は浅田次郎の「ろくでなしのサンタ」を希望してい
たが、最近開かれた二カ所の朗読会で読まれているので、
黒 田 藩 の 支 藩 を 巻 き こ ん だ 世 継 ぎ 騒 動 の 話 だ。 主 人 公 は
候補は二つ。一つは白石一男の『月と老人』
。季節は秋、
すぐ時代物に目が行ってしまう。
じさせる物にしたほうがいいのか? と悩む。このところ
現代物に縁遠くなっているので、何かないかと思うのだが、
二つともクリスマスを扱った物なので、私も季節感を感
ていたがまだ結論は出ていない。
もう一人は翻訳物で『世界で一番の贈り物』に、と言っ
「どうしよう」と悩んでいる。
〈課題作文〉
今
●
よもやま話
平成二十六年十月
●
いとこ会
後藤
和子
私は年二回のいとこ会で、いろいろなよもやま話を聞い
たり、話したりするのがとても楽しみです。
夫のいとこは十八人中五人は亡くなり、独身者と連れ合
いを含め十人ほどが会に出席します。皆、退職者なので、
気軽に会えそうですが、家庭の事情とか、自分の用もあり、
それなりに全員が集まるのは大変なことです。
行き先はいつも温泉地で、夕食はバイキングを避け、お
座敷のテーブルに向き合います。それはまるで小学校の同
窓会のような賑わいです。
今のところ最年長の夫は「お兄ちゃん」と呼ばれ、他の
人はお互いに「誰々ちゃん」と呼び合っています。すぐよ
もやま話が始まり、楽しいひとときは尽きることなく続き
ます。この世に時間が無ければよいのにと思うほどです。
以前、
静岡の伊東に行った時のことです。一泊した翌朝、
あまり良い天気なので、駅まで歩くことになりました。細
い道の右手に山、左に海を眺めながら、絶好の散歩コース
でした。しばらく行くと山門があり、急な石段が見え、そ
の両側の桜は満開でした。皆は花に誘われるようにして上
– 84 –
〈課題作文〉
よもやま話
に辿り着くと、その両端に大きな鬼瓦が置いてありました。
正面には立派な本堂があり、一同お参りを済ませて寺の名
八十九歳で父が死んだのは、兄が五十五歳、私が五十二
よもやま話
なのに驚きました。丁度その近くで庭掃除をしているおじ
歳の時でした。まがりなりにも父の葬式も済んで、ホッと
島 安子
さんに尋ねると、同名の寺でもお互いに関係はなく、宗派
すると、私たち兄弟姉妹五人とその連れあいの九人ほどが
前を見ると松月院と書いてあり、私は自宅近くの寺と同名
も違うことが解りました。ついでに鬼瓦のことを聞くと、
思い出話や、出席できなかった遠い従兄弟などの噂が話
残り、また「お疲れさん」の慰労会が始まりました。
との説明でした。礼を言って帰ろうとすると、
「途中にあ
題になってきました。
「そう言えば○○治の建具は評判が
新しい本堂を建て替えた時、あまり立派なので飾ってある
る公園の山の上に、昔、李王朝の人がいた別荘地跡があり
よくて、随分儲けが出て大変だって言ってたんだが、どう
けな
知らぬ間に夜は更けて、部屋の片隅で手枕で眠っている
の日常生活を垣間見たような気になりました。
言う人もいれば「怖い人だった」と言う人もいて、昔の父
若い時から頑固な父は性格の故か「面白い人だった」と
かになっていきました。
られた時の話をきめ細かに説明する人など、座は益々賑や
死んだ人の過去をほめる人、酒の瓶を片手に貶す人、叱
座はだんだん盛り上がっていくのでした。
して今日来ないのだろう」
と話の種を出す人がいたりして、
ますよ」と教えてくれました。
すぐ坂を下り、やっと公園に着きましたが、
曲がりくねっ
た急な坂道は、年配者には無理なので残念ながら諦め、駅
を目指しました。
たった一泊のいとこ会でしたが、存分によもやまの話を
したり、聞いたり、少しでもその土地の歴史に思いを馳せ
たりできたことは、とても有意義なことでした。
この先どのくらい、この会が続けられるか不明ですが、
今年八十五歳になる夫と共に、健康に気を付け、一日一日
を大切に過ごすよう心掛けています。
人がいて、慌てて押入の戸を開けたことなど今は懐かしく
思い出します。
– 85 –
えのき
縁切り榎
須﨑 卓滋
夫と浮気相手を別れさせる『縁切り神社』が板橋にある。
引っ越して来て、町会から頼まれボランテアで絵馬を売る
ようになった。以前は午前から販売していたが、NHKな
どのメディアが取材に来るようになってから、訪れる人が
増え商売に影響するので午後二時からにしてもらっている
と言う。
せん
〝縁切榎の樹皮を削いで煎じ、相手にひそかに飲ませると
「絵馬は年間どれくらい出ますか」
そ
悪縁が切れる〟といわれ、江戸時代の縁切榎の一部が石に
「今年に作った三カ所目の絵馬掛所も満杯になり、古い物
と最も聞きたいことを伺う。
板橋本町駅から徒歩五分ほどの位置にあり、毎週この神
から入れ替えているのよ。広島や宇都宮から来る人もいる
埋められ『縁切り地蔵』となっている。
社の前を通る。今では三代目の縁切榎が葉を茂らせて立っ
のよ」
えのき
蝉が鳴く夏の季節の道すがら、榎の削り跡を見て想いを
ようがない。
『身の上』をもの語るが、その願いが成就したかは確かめ
榎の幹には樹皮を削った跡があり、不運を背負ったつらい
の縁切りや良縁を結ぶ神木として奉られている。二本ある
三代目の縁切榎は男女の離別と断酒のみならず、難病と
と伝え、そば屋を後にした。
「そばの風味とコシがあり、
量も多くて美味しかったです」
そば猪口にそば湯と薬味のネギを入れて楽しみ、
ちょこ
も、不運の人がいたのだろう。
三カ所の絵馬掛所にぎっしりと詰まった絵馬の数より
ていて、絵馬掛所には縁切り祈願の大量の絵馬が掛けられ
ている。
隣で絵馬を売る『そばや長寿庵』に入り聞いてみた。
セイロに盛られた細い蕎麦を食しながら、
「稼業は長いんですか」
と質問すると、初老のおかみさんが答える。
「そば屋を始めて四十年ほどになります」
和暦で昭和四十年ごろだろうか。続けて、
ほこら
「横の神社の木は、四本とも榎なんですか」と聞く。
つき
「榎と槻の木が二本づつ抱き合わせで祠の前後に生えてい
て、槻はケヤキなので低い方が榎なんです」
お か み さ ん の 話 で は、 神 社 は 昭 和 四 十 七 年 に 近 所 か ら
– 86 –
〈課題作文〉
よもやま話
馳せる。再会した人いれば縁を切る人もいる。過去を感情
で振り返ると、心が石になる。
結婚して高齢になっても初恋の人を忘れられない人は、
よ
短歌を詠む
高梨 久子
それを年のせいにしてしまう傾向がある。作歌することも
私は最近、何かにつけて怠惰になっていることが多い。
お人になっているのに、再会したとたん若いときの気持ち
稀になった。なにごとにおいても感動がなくなっては、老
往々にして暴走をする。初恋の人は、時を経て年を重ねた
が蘇り奥さんが捨てられることもある。感情が招いた不運
いたる証拠だという人もいる。
先ず目に飛び込んできたのが、
同年代の友人の歌である。
うと思いたった。
そこで歌集ノートをとり出して、好きな歌でも鑑賞しよ
であるが、奥さんはそのままではいられないだろう。そこ
で縁切り祈願と相成った。
人間は感情が欲を作ることになるので、気を付けなけれ
ばならない。
胸熱く 寄り添ひ歩みし日も在りて なにに急ぐと
若いときの気持ちが蘇り奥さんを捨てるなどは〝精神的
に病気〟で、今はない過去を感情で振り返り、頭の中につ
夫の背に問ふ
この歌は板橋地域の短歌講座の代表として、総合誌に掲
かった経緯がある。
なった。同じような思いを抱きながら、私には歌にできな
情が素直にうたわれている。私の夫も平成の始めに定年に
定年になった夫とのこれからの生活に、期待する妻の心
長年の 勤めに速き 足取りを われに併せよ 後の道程
くった幻想に触れ続けて心を破壊する。
処方箋は過去を持ち運ばないことで、記憶の中から感情
の部分と縁切りすればよい。感情で悩み苦しむことがなく
なり「こんな事があった」と事のすじみちだけが残る。
「悲しみ、恐怖感、後悔」などの悪感情、欲となる「楽し
かった」過去の感情も忘れると心が柔軟になる。
記憶に感情が割り込むと心が固まり、理性が遠のいて経
験からも学べまい。
心が柔軟なら智慧となる。
– 87 –
たつえ」珍しい名前に直ぐ、料理サークルで一緒の彼女と
載された。それを私は即座に書き写したのだった。「宮島
世界に入っていける。私の好きな歌人の一人である。
お、このような感動できる歌を詠んでおられることに敬服
この歌の作者は九十八歳現役の歌人である。老境でもな
ている。
その喜びを糧に、これからは作歌もしていきたいと思っ
会って話をするときの充実感は捨て難い。
勉強不足の私があれこれいう資格はないけれど、歌友に
方の作品が好きである。
ないことが多い。従って新聞紙上に発表されている素人の
私には、現在の歌人の先生の歌はむつかしく、理解でき
している。それに素人にも分かりやすく、直ぐその感情の
気付いた。 そして、早速連絡をとった。料理が終わってからのふた
りの話は盛り上がっていった。彼女が受講していた会の合
同歌集を貰ったりして急速に親しさを増していった。
しかし、身近に歌の話のできる幸せは短かった。彼女は
手編み教室の講師でもある。そのために多忙で歌どころで
はないと、作歌からは遠のき、料理サークルにも来なくなっ
てしまった。自然にふたりの仲は遠ざかっていき、歌だけ
が思い出として残っている。
ことほ
意地張りて 生きゆく外に なきものを 人は寿ぐ
お元気ですねと
此のままに 終わりとなるか 吾が一生 苦しみのみの
記憶残りて
いのちのこと 思うとき 心落ちつかず 九十七歳に
なりて今更
– 88 –
〈課題作文〉
よもやま話
よもやま話の思いで
永澤 良子
は至らなかった。
だが食事をしながらのくつろいでするよもやま話はほん
とに楽しかった。嫌なことに出合って落ち込んでいる時に
んのように慕っていた。お互いに一人暮らし。会えばとり
向こうのよし子さんの明るい笑顔に、私はいつも幸せな気
暖かいお鍋をつつきながら、ほかほかと立ち上る湯気の
も……。
とめのないよもやま話に時の経つのも忘れてしまうのだっ
分に浸るのだった。
今は亡き、よし子さん。近所に住んでいて、私はお姉さ
た。
家に帰らなければと腰を上げると、
「夕食を一緒にしましょうよ」
と、言って、よし子さんはさっさと台所に入って食事の
支度にとりかかる
私も手伝いながら、よし子さんの手際のよい食事作りを
見習うのだった。
亡くなった御主人が、家庭料理を好んだので、料理につ
いてはいろいろと心づかいをしているようだった。素材選
びや、その持ち味を生かす下ごしらえなど、丁寧な扱いに
感心してしまう。
私も見よう見真似で手作り料理をしてよし子さんを招く
のだが、なかなかほめてもらえない。お姉さん気取りでこ
まやかにアドバイスしてくれるのだが、私は母親ゆずりの
簡素な調理法や味付けが身に付いている。合格するまでに
– 89 –
よるとさわると 堀田 千鶴子
この年になると、買い物途中で知り合いに会ったときや、
友だちと寄り集まると、必ず出る話題は「介護と自分の老
後」だ。始めは楽しく話しているのだが、いつの間にか、
やはり本の話で盛り上がる。
「あれはいいけど、朗読にはむかないかな」
「あの作家のがいいんじゃない?」
「好みもあるしね」
発表会が決まると、しばらくは作品選びでワイワイガヤ
ガヤと賑やかだ。
稽古帰りのランチでは、聴きに行ってきた朗読会の話や
最近読んだ本の感想などに花が咲く。長年付き合ってきた
「親の介護が終わったら、もうすぐ自分たちが介護される
番よ」
人たちとのおしゃべりは、気が置けなくて時間を忘れる。
た感じだ。
昔の井戸端会議が、
今は「ランチでおしゃべり」に代わっ
りは、その日一日をルンルンに過ごさせてくれる。
人の悪口をいう輪には入りたくないが、楽しいおしゃべ
「見守っている」ことができないのだ。
自分にいいながら、何やかやと相手を気づかってしまう。
にか相手の心の中に踏みこんでいる。
「オセッカイめ」と
付き合い方に一線を引いているつもりの私が、いつの間
話すのでそれぞれの来し方が分かってしまう。
あまり個人的なことには触れないのだが、問わず語りに
「子どもには介護の辛い思いはさせたくないし」
「そう、子どもを頼るのは無理よね」
まだ親を看ている人には、
「親より先には死ねないわよ」
と釘を刺し、
「自分を大事にしないと」
と言う。話はだんだん、だんだん暗くなる。
その輪に加わっている私は、月に一度は義父の介護に夫
と足利へ行くが、さほど苦には思っていない。
私 た ち の 年 代 は、 子 ど も な ら 親 を 看 る の は 当 た り 前 と
思っている。しかし自分たちの子にはそれを望まない。介
護の大変さを知っているからだ。
朗読仲間とのおしゃべりは楽しい。介護の話題はでるが、
– 90 –
〈課題作文〉
よもやま話
よもやま話
宮下 きみえ
人生経験の長さ、広さ、深さ、そこから生まれる「よも
やま話」
。
この「よもやま話」を、ニコニコしながら、そしてお茶
を飲みながら、心おきなく話ができる仲間がいたら……。
これこそ、
『最高の至福』かと。
「よもやま話」をよくなさる方に、詩吟の先生がおられる。
もう一人、千葉のリゾートマンションで、お一人住まいの
何だか、急に、千葉のお婆ちゃんに会いたくなった。お
元気でおられるであろうか。
九十歳近いM婆ちゃん。
最近、千葉の方へ行ってないので、お婆ちゃんにご無沙
汰しているが、夏、正月はご一緒して楽しい時を過ごした。
そこで聴く、婆ちゃんの「歩いてきた道」になぜか私は心
を惹かれ、関心を持つ。
「生きた証」は、表情や、ゆったりした話しぶりにも表れ
ている。そして、大自然の懐に抱かれると、人は人として、
ゆったりと心がひらくようになるのでは。
たて軸が時代、よこ軸が広がりとすると、生を受けて、
そこで死す……と言うことは稀で、一生の生活の場は時代
と共に、いろいろ変動していくことが多いと思う。自分の
場所が変わることで話も増える。人間生き抜いていく時い
くつもの移動や変化が起き、話はたくさん付いてまわる。
幼少年、青年、壮年、老年の一生。そして周囲の人たち
との交流、場所、年月、そこでの「よもやま話」は、汲め
ども尽きない。
– 91 –
10
26
回作品展、盛況の内に終了!
25
■第
10
つめくさ会は、平成 年度の作品展に出展しました。
●日時/ 平成 年 月 日(土)
・ 月 日
(日)
●場所/成増社会教育会館
つめくさ会ブースに立寄り、書籍を手に取
るお客様も多く
「つめくさ三十四号」
も数冊
売れました。2日間の作品展は盛況の内に
終了し、ご協力を賜りましたみなさまに感
謝いたします。
近況報告
26
26
25
●小林さん
前会長の小林さんは、成増社教の作品展に、車椅子でお嬢様とご一
緒にお見えになりました。目も耳もご不自由ですが、呆けないように
北原白秋の
『五十音』の詩を家で暗唱していると仰って、私たちにも聞
か せ て 下さいました。
「アメンボ 赤 いな アイウエオ…… 柿 の 木 栗
の 木 カ キ ク ケ コ ……」が ワ 行 ま で 続 く の で す。
凄い記憶力です。ご自分でいろいろ考えて実行して
いらっしゃるそうです。お目にかかれたのは、後藤
さん、吉田さんと私の3人だけでした。ラッキー!
小林さんには長い間、会長を務めて頂きました。
仲間内のいざこざもなく、楽しくやってこられたの
も小林さんのお人柄でしょう。感謝です。
つめくさ会会長 堀田千鶴子
– 92 –
編集後記
今年も「つめくさ」を発行することができました。
昨年と今年、自分史フェスティバルやテレビ・新聞など
で自分史の話題が多く見受けられます。
つめくさ会も昨年、成増社会教育会館で開催された「第
回作品展」に参加しました。平成二十三年の作品展の出
展が「最後かも?」といわれましたが、皆さんのご協力に
より再び活動の発表ができました。
人生を書くことは地域活動の貢献にもなりますが、加齢
のため思うように体を動かせなくなってきた方が多くなり
ました。そんな中で新たに、三ヶ島 照江さんが入会され
ました。元気のある方で会の継続への希望が持てます。
書くことは、生き甲斐や楽しみとして生活を支えます。
編集委員 須﨑卓滋
書くことが辛くなる年齢になっても、支え合ってペンを持
てる限り書き続けていきましょう。
25
「つめくさ会」
について
1990年発足、継続25年。
誰でもが気軽に書き、文章の稚拙は問いません。読み手を意識した簡潔でわか
りやすい文章上達を目指します。自分の体験をもとに
「自分にしか書けないもの」
を文集にまとめ、
『つめくさ』
の発行により読み手に伝えます。
『あなたの本
(個人本)
』
づくりもサポートします。
定例会/月 1 回開催:第 4 土曜 AM10 時〜 12時、場所/板橋区成増社会教育会館
入会金なし、月会費 600 円
つめくさ35号
2015年3月28 日 発行
つめくさ会 連絡先 〒 175-0083 板橋区徳丸 2-9-5 TEL:03-3933-9144
堀田
千鶴 子
発 行 者
堀田千鶴子
装幀・デザイン・DTP 須 﨑 卓 滋
印刷・製本
東京リスマチック株式会社
©Tumekusakai 2015 Printed in Japan