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ISSN 1881−1981
第2巻
第2号
秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回ディスカッション
「未来をつくる若者たち」 …………………………………………………… 小 泉
論
健
福
岡
政
行
内
館
牧
子
野
口
秀
行
辰
彦
文
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ― ………………………… 平
研究ノート
保守主義の研究
― ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として ― …… 吉
野
篤
母と子の時間
― 若松賤子
忘れ形見
を読む ― ……………………………………………… 橋
元
志
2007年3月
秋田経済法科大学総合研究センター教養・文化研究所
保
目
次
秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
……………小
泉
福
岡
政
行
内
館
牧
子
野
口
秀
行
(1)
辰
彦
(27)
健
論 文
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ― …………………………………………… 平
研究ノート
保守主義の研究
― ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として ― ……………………… 吉
野
篤 (101)
母と子の時間
― 若松賤子
忘れ形見
を読む ― ………………………………………………………………… 橋
元
志
保 (147)
秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション
「未来をつくる若者たち」
日
時
平成18年11月11日 (土) 午後1時∼4時30分
会
場
秋田経済法科大学
―1―
40周年記念館
3階講堂
司
会
小
泉
健 氏
(学校法人秋田経済法科大学理事長・学長)
講
師
福
岡
政
行 氏
(白鴎大学教授・立命館大学客員教授
秋田経済法科大学総合研究センター客員教授)
講
師
内
館
牧
子 氏
(脚本家・秋田経済法科大学総合研究センター
客員教授)
講
師
野
口
秀
行 氏
(東京大学非常勤講師・秋田経済法科大学総合
研究センター客員教授)
―2―
秋田経済法科大学総合研究センター主催
小
泉
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
小泉でございます。 2部に入りまして、 シンポジウムの方の司会をさせていただきたいと思
います。 よろしくお願いいたします。
1部に大変すばらしいご講演がありまして、 実は私もですね、 現在ゼミを2つ、 講義が1コ
マという事でやっています。 先生のお話を聞いて、 ちょっと心が暗くなるという感じで、 思い
当たる事ばかりが起きて、 非常に辛い思いをした訳ですが、 授業を私が持ったのは、 昭和58年
からで、 非常勤講師としてこの大学に講義を持ち始めました。 それから現在まで、 講義を持っ
て来たんですが、 非常にその間ずっと見ていまして、 学生が随分変わって来たんですね。 昔は
講義をやっていると、 私の授業が面白くなかったのでしょうけれども、 私語をしている学生が
いた訳です。 まとまって。 最近はですね、 何かこう無気力と言うか、 大学に来て友達がいない
と言うか、 1人でポツンとしていて。 変な意味で、 授業が静かと言おうか、 そういう感じがす
るんです。 それで、 授業を熱心に聞いているのかな、 というような事も思うのですが、 どうも
そうでは無くて放心しているとでも言おうか。 授業にあまり関心の無い、 そういう学生が増え
ていまして、 こういう点について、 福岡先生、 いかがでしょうか。 この学生の無気力というか
ですね、 随分活気が無い感じがするんですが。
福
岡
はい、 本当に反応が薄いですよね。 ですから、 例えば最近では、 北朝鮮のミサイルの話と地
下核実験の話をした時はね、 若干反応があるんですがね、 経済の話をして、 アメリカの経済が
ちょっと大変なんだ、 という事を言うとですね、 ほとんど関係無いっていう顔をされるので、
それは無反応・無感動という事ですが、 それはしみじみ、 特に2000年を超えた21世紀は、 その
感がしますね。 特に、 携帯電話を今の大学生は中学生時代から使っていますから、 高校ではも
ちろんもう使っていますので、 また高校ではほとんどもうパソコンはできますので、 この辺の
影響かなと思います。 あともう1つ、 来年から 「ゆとりの教育」 の子が大学に入って来ます。
この辺がね、 また変化があるのかな、 と思います。
小
泉
野口先生いかがでしょうかね、 そういう点については。
野
口
それは私も全く同じ感じですね。 昨日も実は、 私は亜細亜大学で教えていまして、 亜細亜大
学で同じような事を、 さっき福岡先生のお話であった事を、 ちょうど私も学生に質問した事が
あるんですけれども、 やっぱり、 何となくと、 何となく大学に来て、 何となく講義を受けてい
る、 というのがどうも実態かな、 という気が致します。
ただ、 1つだけ、 今の若者というのは、 これは心配でもあるんですけれども、 非常に素直な
んです。 真面目です。 ですからこっちが言う事を1から10まで全部信じてしまう。 ですから、
教える側としては非常に教えやすい訳です。 ただ、 疑問を持たない。 私が喋っている事に対し
て、 私が言っている事に対して、 それは間違っているじゃないか、 あるいは、 それは違うんじゃ
ないか、 という風な考えを起こす学生がほとんどいない。 ある意味では非常にマインド・コン
トロールしやすい学生が出てきていますね。 そういう意味では、 非常に素直に育ってきている。
多分、 今、 少子化で子供の数が少ないですから、 今の子供っていうのは、 生まれてきた時に、
6つのポケットを持っているって言うんですね。 自分の両親がいて、 それからお母さんの両親、
みんな若いですから、 まだおじいちゃん・おばあちゃん非常に若い。 ですから両方に2つずつ
のポケットがある。 合計6つのポケットを持っている。 従って欲しい物は何でも手に入る、 と
―3―
いう子供達ですから、 そういう意味では本当に素直だと、 言ってよろしい、 という事ですね。
ただ、 その素直さって言うのが、 今度は海外に出て行った時は大変、 駄目になるな、 という気
がしますね。 日本人っていうのは、 世界中どこへ行っても、 非常に、 良い。 お客さんとしてす
ごく良い。 言えばちゃんとお金を出してくれる。 どれだけ高い値段を吹っかけても払ってくれ
るしね。 素直な良いお客さんですけれども、 要は、 そういう素直さっていうのが、 ある意味で
はひ弱さにこう繋がって来る、 そんな気になって来ますね。 そうなって来ていますね。
小
泉
ありがとうございました。 内館先生、 いかがでしょうか。
内
館
つい最近まで私は東北大学の学生の方をやっておりましたが、 今の小泉先生のお話で、 放心
した様に、 ポツンと1人で私語もせずにいる学生というのは、 学校ではあまり見た事無かった
んですけれども、 基本的にはですね、 もう人とコミュニケーションを、 適当なコミュニケーショ
ンを取るのに疲れ果てちゃって、 授業中くらい1人でいたいって言う状況じゃないでしょうか。
例えば、 今、 若い人達は、 非常に断言するのを嫌う訳ですね。 例えば 「冬は寒い」 っていう事
を言う時でも、 「冬とかってぇ、 寒い?じゃあないですかぁみたいな。 てか、 雪?とか降った
りとかしたりする事だってある様な気がするじゃないですかぁ」 などと言う訳ですね。 これ
「冬は寒いから雪が降る」 って言えばいい事ですけれども、 それさえ断言したがらない訳です
から、 そうなると、 もっと自分に責任が被ってくるような、 例えば、 「北朝鮮の問題について
どう思うか」 とか、 「日本は核を保有するべきか、 否か」 とか 「安倍内閣と小泉内閣を比べて
どう思うか」 とかは断言するわけがない。 「冬は寒い」 とさえ断言したくない若者たちは、 本
心を隠しながら、 周りと付き合って、 適当なコミュニケーションを取って生きているのではな
いか。 だから授業になったらほっとしちゃって、 1人になって脱力して 「ちょっとしばらく放っ
ておいてくれよ」 みたいな事がぁ、 とかってぇ、 あるんじゃないですかぁ、 みたいな気が私は
しますね。 (拍手)
小
泉
内館先生から非常に好意的なお話をお伺い致しまして、 安心したんですけれども、 私個人と
して、 ずっと学生を見ておりまして、 何をやって良いか分からない。
例えば、 ヨーロッパの方とお話をしておりまして、 学生がヨーロッパの大学ですと、 目的が
あって行く訳ですね。 弁護士になる、 医者になる、 あるいは牧師になる、 とかそういう理由が
あって大学に来る。 日本の場合はですね、 どうも何やって良いか分からないけれども、 とにか
く、 大学に行く、 という事で、 この事をそのヨーロッパの人にいくら説明しても、 分かっても
らえないんですね。
ところが実際は2年経って、 3年になっても、 なかなか自分が何やって良いかわからないと
いうのが現状でして、 ひどいのはですね、 4年になって、 私も4年生の講義を持っていた事が
あるんですが、 「君は就職試験受けたか」 という事を聞くと、 「受けてない」 と。 単位は取って
ないかな、 と思うとですね、 単位は取っているんですね。 それで 「どうして受けなかったんだ」
という事を聞きますと、 「いや、 別に」 という回答が来まして 「じゃあ君はどうだ」 という事
を聞きますと、 「いや、 別に」 と。 その 「別に」 と言うのがずっと続きましてですね。 就職試
験を受けて受からなかった、 あるいは目的が達せられなくて、 ちょっとうまくいってない、 と
いう事で無くて、 何かこう新しいものに挑戦して行くという勇気とかですね、 そういうものが
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秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
どうも欠けているという感じが致します。 野口先生、 この点はいかがでしょうか。
野
口
そうですね、 今、 私の所の学生も全く同じような反応ですね。 ところが、 さっき申し上げま
したように、 非常に素直ですから、 きちっと指導さえすれば、 それはそんなに難しい話ではな
いと、 僕は逆に思いますね。 将来の設計がどうだとか、 あるいは、 夢がどうだ、 という事につ
いて、 どうもこういう事じゃないかな、 と思うんですね。
私もちょうど昭和25年生まれですから、 団塊の世代ですね。 私は熊本で生まれまして、 中学
校は、 熊本市内の中学校で、 3年14組だったんですね。 私の前の世代は3年16組だったんです
ね。 そのもう1つ前が、 18組まであって、 そのもっと前は2部制の授業をやっていたんですね。
そういった我々育った時代というのは、 どうだったかと言いますと、 ちょうど 「マインド・セッ
ト」 と言います。 ある国がものすごい勢いで成長していく時というのは一種の、 国民全体がで
すね、 ある目的に向かって邁進していくという、 非常にこう気力が溢れた時代というのが、 必
ずあるんですね。 簡単に言いますと、 「なぜ君はそれをしないのか」 というのと、 それから
「なぜやらなければならないのか」 と、 この大きな違いですね。 ちょうど我々は60年代・70年
代に高度成長でした。 その後に韓国が 「漢江の奇跡」 というのを80年代にやったんですね。 今、
中国がその時代に当たっているんですね。 その時というのは、 国民全体が、 ある1つの目的だ
とか方向に向かってしっかりと団結ができた時代です。 ここにいる、 壇上に上がっている人達
はその時代に育って来た人間なんですね。
ところが今の子供達というのは、 世界で最も富める国の、 豊かな国の子供達なんです。 その
子供達っていうのは、 さっき 「6つのポケット」 と申し上げましたように、 実はこの国で飢え
るという事はありませんよね。
余談なりますけれども、 ホームレスの調査をしていた時に、 日本のホームレスというのは、
世界で最も預金残高が多い、 と言われています。 つい何年か前に東京で、 青島さんの時なんで
すけれども、 歩く歩道を作る為に、 新宿の地下街にたむろしたホームレスを追い出す、 という
のがあった。 その時に反対運動が起こった。 それで日本全国からホームレスが東京にやって来
たんです。 支援のために。 どうやって北海道からやって来たの、 飛行機に乗って来たんですね。
日本のホームレスというのはコンビニに寄生すると言いますか、 コンビニのお弁当というのは
何時間か置いたら捨てなければいけない。 従って、 日本のホームレスはちょっとお金が貯まる
と薬屋にすぐ行きます。 何の薬買うかというと、 肝臓の薬を買うんですね。 毎日脂っこい、 非
常に高カロリーな物を食ってますから、 大体肝臓の病気になりやすい、 という事で、 贅沢病で
す、 ある意味では。
実はこの社会っていうのは、 さっき言いました子供達や今の若者にとって見れば、 別に苦労
しなくても飯が食える時代です。 あくせく働くという事が、 彼らの価値観の中にもはや存在し
ないっていう事を前提に考えなければいけないっていう事です。 ですからゲームばっかりして、
勉強もしない、 だけど飯は食える、 こんな世界ですね。 こんな豊かな社会を我々が作ってきた
訳ですから、 それが悪い、 と言っちゃあ元も子もない。 ですから今の若者達と言うのは、 ある
意味目的が見出せないというのは、 ある意味では、 先進国に共通する課題と言い換えて良いと
思いますね。
ですから、 ここで日本の特有な問題っていうのはいくつかありますけれども、 例えば
「NEET」 ってありますね。 さっき NEET とフリーターと一緒に並べられたんですが、 NEET
―5―
とフリーターと全く違います。 NEET というのはどういう子供達かって言うと、 実は多分こ
れは教育の歪みから生まれてきたものだと思っています。 例えば実業高校の出身者ってあんま
り NEET にならないんです。 商業高校だとか、 農業高校、 ここではきちっと職業教育をきちっ
とやっているんです。 ですから将来どういう職に就くか、 ですとか、 どういうキャリアメイク
をしていくかという事を学校できちっと教えます。 それで1番 NEET になりやすいのは、 普
通高校の子供です。 普通高校の高校を出て、 進学をしない子供達って結構いるんです。 さっき
学歴の問題、 偏差値の輪切りの問題って言いましたけれども、 結局偏差値のあまり高くない高
校に入って、 何となく高校3年間いる。 進路指導はやるんです。 しかし、 どういう職業に就く
かという職業の教育をやっていないんです。 キャリアカウンセリングというのは実は高校の時
からしっかりやっていかないと、 子供達っていうのは目的を作る事が出来ない。 目的は早めに
作らせるのではなくて、 我々が作ってあげなきゃならない。 それは教育としてやっていかなけ
ればならないんですね。 それが我が国に無くなってしまった。 従って、 NEET がたくさん増
えてくるというのは、 そういう事です。 ただ、 ヨーロッパに行きますと、 たくさんそういった
若者達がいます。 若者の失業率っていうのは10%をはるかに越えています。 場合によっては20
%近い若者が、 その失業者なんですね。 そこが日本と違ってかなり熾烈な競争をさせられてい
るんですね。 昨日は確かテレビでやっていたと思うんですけれど、 どんどん社会の格差が開い
ているんですね。 そういった意味でこの国はまだ、 格差もあまり大きくない。 その中で何とな
く生きていける、 という社会的な空間が存在している。 これが今の若者の目的の喪失だとか、
あるいは、 お前将来何やりたいって聞いた時に、 「別に」 って言ってしまう。 そういう世界を
作ってしまう。 さっき申し上げた 「マインド・セット」 という今、 多分韓国は我々にだんだん
近くなってきていますが、 今の中国の若者には NEET も存在しないし、 逆に言えば今伸び盛
りですから、 何でも貪欲にやって行こうとしている。 ここではそういう問題は多分発生しない。
だけど、 豊かになった EU だとかアメリカだとか日本の子供達、 というのは共通してそういう
問題を抱えてしまうんですね。 ただ、 重要な事は子供の数がどんどん減ってきている。 経済学
的に言えば、 子供の効用というのが高まってきています。 それがさっきの 「6つのポケット」
ですね。 豊かになったんです。
従って、 ここで我々はもう少し、 今の若者達が、 そうですね、 1番わかりやすく言えば、 例
えば高校に行くと言った時に、 高校全任というシステムを作っておくと、 高校に行かないって
いう選択権が子供達にあるという事ですね。 これは大事な事なんです。 高校に行きたくない、
あるいは職人になりたい、 鳶になりたい、 と言った時に、 高校を出るよりは、 中学校を出てす
ぐに鳶の職人になった方が良いんです。 こっちの方がよっぽど一流の職人になる可能性がある。
今高校を出て、 すぐ就職できないのは、 「高校に行けなかった子供」 という烙印を押される事、
これをみんな恐れるんです。 だけど私はあえて高校は行かなかった、 私は手に職を付ける事を
選んだ、 という選択が出来るという事が大事だと思います。 それからもう1つは、 いつでも行
き来が出来るという事ですね。 学びたい時に学校に入る、 こういった事の選択増やす、 という
事がこれから重要になって来ると思いますね。 まだ我々はずっと高度成長期の時代のシステム
をそのまま温存したままで、 今の若者をも論じようとしている。
これも余談になりますけれども、 今、 法務省と仕事をしておりまして、 刑務所の話が出まし
て、 刑務所にはたくさんの時間があります。 それで再犯率が非常に高いという事になりまして
ね、 再犯率を減らすにはどうすればいいか、 という事で、 刑務所にいる間に大学の単位を取ら
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ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
せようと、 大学に行かせようではないかと、 それを受け入れてくれる大学を探しておる最中な
んですけれども。 要は、 今の若者もそうなんですが、 たくさんの時間を持っているんです。 こ
れは我々おじさんから見ると、 本当にもったいないと思うんだけれども、 その時間をですね、
ちゃんと我々が設計をしたい、 という事が必要なのであると、 そう思っています。
小
泉
ありがとうございます。 先生のおっしゃりたい事は、 豊かさが生み出した教育の歪みである
という事をおっしゃりたいのかな、 という感じが致します。 また、 私達の世代の親の世代がそ
うでしたけれども、 教育を十分に受けられなかったと、 その世代の人達が、 その教育やあるい
は学歴にですね、 過大な誤った評価をしている、 と。 自分が教育できなかった子供を、 なんと
か高学歴にさせたい、 という思いで、 本当は大学や高等教育受けるべきでない子供達も無理し
て、 学校に行かせている、 とそういう所にどうも問題と言うかですね、 そういうのがあるのか
な、 という様な感じが致しました。
野
口
私はついこの間まで、 日本政策投資銀行と言う銀行に勤めていました。 この銀行はですね、
大変エリートな銀行でありまして、 私の同期は、 23人いるんですが、 そのうちの半分が東京大
学出身ですね。 そして九州大学1人、 東北大学が2人、 それから慶応が1人、 早稲田が1人、
京都大学が4人と、 旧帝大プラス早慶からしか採用しないという極めて閉鎖的な、 だから銀行
が駄目になっていったんですけれども、 要は十何人、 東大から入って来ますけれども、 大体そ
のうち残っていくのが数人。 後は皆ぽしゃっていくんですよ。 何て事は無いです。 東京大学の
出身者で、 出来のええ人は出来が悪いんですね。 世の中で通用しないんですね。 もうスポイル
されていってしまう、 と言うんです。 それで、 ものすごく誤解があるのは、 その偏差値の高い
大学と言うのは、 勿論東京大学が筆頭なんですが、 これが全世界レベルで見ていった時、 何番
目くらいか、 と言うと、 東京大学で初めて17位ぐらい。 これは理工系なんですけれどもね。 1
番目はイギリスです。 2番目はカリフォルニア工科大学、 3番目がインド工科大学と言うんで
すね。 ずっと下に来てやっと東京大学がある。
ちょっと時期が外れましたけれども、 ノーベル賞の候補って言うのがあります。 日本でもこ
の数年、 毎年若い日本の学者が、 ノミネートされてきます。 だけど、 その先生達、 あるいはそ
の技術者達は、 ほとんどが実は東京大学の出身者、 京都大学の出身者ではないなんですね。 1
人は山形大学の先生だったんですけれども、 もう1人は信州大学の若い先生でした。 要は何かっ
て言うともう時代がどんどん変わってきた時に、 我々の頭の中に未だに東大を中心としたヒエ
ラルキーを描いてしまいます。 どうしてかと言うと、 秋田県で1番いい進学校、 旧制中学なの
ですが、 県の教育予算、 高校の教育予算の1番予算が付くのが、 旧制の中学校です。 要するに
東大に進学するのが高い学校に予算をいっぱい使っている。 ところが、 そこの学校を出て、 東
京の大学行って、 大半が秋田に帰って来ないんです。 東京に貢ぐために県民の予算を使ってい
る訳です。 もっと予算を使わなければいけないのは、 地元で活躍してくれる子供達です。 その
子供達はどういう方向に行っている子供達なのか、 という事を考えていただければ、 どういう
所に重点的に予算を付けるのか、 我々はいつまで経っても東京のおめかけさんみたいな生活を
しているんですね。 これはもうそろそろやめた方が良い。 これはどこでもそうなんですけれど
も、 地元の有力な進学校を筆頭にする、 という発想をもうそろそろ辞めた方が良いと、 私はそ
ういう風に常々思っています。
―7―
小
泉
ありがとうございました。 内館先生、 いかがでしょうか。
内
館
私はですね、 大学生が今後何をやって良いかはっきりしない、 わからないって思うのはね、
当然だと思っているんですね。 確かに日本の国は豊かですし、 お相撲さん1人とっても、 外人
力士に負けるたびにすぐに何て言われるかというと、 日本人はハングリーじゃないからって言
われる訳なんですね。 だけど私は 「ハングリーじゃないから」 って事で片付けてしまうのがす
ごく嫌なんです。 確かに、 ご飯が食べられないとか国が戦争をやっているっていう国から来た
力士はハングリーですから、 強いですけれども、 ハングリーには2種類あって、 実際に食べら
れないっていう事と、 精神的なハングリーと2つある訳ですね。 精神的なハングリーって言う
のは、 日本人であろうと誰だって持ちうるべきものだと思っています。
私は、 例えば今いろんなお話の中でも日本の中が豊かになって、 特に訳も分からずに大学に
入ってしまったと、 それで本当は何やりたいのか分からないけれど、 親が法科行けって言うか
ら、 まぁいっか、 法科で、 って言って入って来たとします。 そしたら私はですね、 とりあえず
その4年間という自由な時間をですね、 最大限に頂いたら良いと思うんです。 それでその中で
自分が一体何をやりたいのか、 どうも法律で小泉先生の授業を聞いていても、 「俺、 これ違う
よな」 って思ったならば、 まず、 とりあえず4年間出た方が良いですから、 4年間出た後で
「やっぱり違った、 俺がやりたいのはミュージシャンだった」 とか。 今度、 名古屋大学からプ
ロの力士が出ます。 彼は名古屋大学の工学部の4年生なんですけれども、 あらゆる就職や大学
―8―
秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
院を蹴ってですね、 千賀ノ浦部屋に入るんですね。 これもきっと悩んだだろうとは思うんです
が、 やっぱり4年間相撲をやりながら、 「俺がやりたいのは相撲である」 と。 工学部だけど、
工学系の仕事じゃないという事に気が付いたんだろうと思うんです。 ですから私はそこら辺が
ですね、 今学生の皆さんは、 それから親の方も、 あんまりその、 かーっと1つの方向に行かせ
ないで、 割とこうフレキシブルに対応するという様な生き方をする事も考えていいんじゃない
かと思います。
現実に私の話をしますと、 私は大学は美術大学です。 美術大学に入ったのはですね、 早い話
がさっさと結婚するには1番いいかなと。 東大の法学部出るとちょっと学歴が邪魔になりそう
ですけれども、 美術大学だと良いかなと思って入ったんで、 特にデザイナーやりたい訳でも無
かったですね。 その時点で脚本家になるという事は夢にも考えていなかった訳です。 それで大
学を出た後、 邪魔にならないように、 大きな会社で気楽な腰掛 OL を長閑にやっていました。
それがずっと続くわけですね。 続けながら、 これは何か私の生き方、 ちょっと違うんじゃない
かって気が付き始めたのが、 27、 8ですね。 それから何がやりたいのだろうかという事を考え
てみたらば、 ものを書く事をやりたかった。 1番やりたかったのは相撲記者なんです。 ところ
が相撲記者はどんなに果敢にアタックしても全部断られましたので、 とにかくものを書く仕事
をしようと思って、 そしてテレビドラマの脚本家でデビューしたのが、 40歳だったんです。 普
通40歳でトレンディードラマは書かないんですけれども、 トレンディードラマを40歳で書いて、
それで42歳で相撲をテーマにした
毛利元就
ひらり
を書いて、 それから48歳の時には大河ドラマで
を書いていたんです。 「これだ」 と方向を決めた後は早かったんですね。 それはな
ぜかと言うと自分がすごくやりたい仕事でしたから、 どんな事も苦痛にならなかったし、 やり
たい事が見つかった後はパワーが出る訳です。 ですから、 私は1つの考え方として、 確かに1
つのものを決めて一直線に行くというやり方がありますけれども、 それと同じ様に、 ある目的
意識、 つまり何か自分の行き方を探す、 という目的意識を持ちながら、 4年間なり、 短大だっ
たら2年間学び、 まず覚えてみる。 親が与えてくれたこの良い環境をありがたく頂戴してみる、
という考え方はあって良いような気がしますね。
小
泉
私も今の生活をしていて、 10分単位で動いていまして。 本当にもう自分の時間って言うのは
トイレにいる時間とかですね、 寝ている時間しかないっていう様な状態でして、 学生諸君にも
本当に自由な、 自分がしたい事が出来る時間と言うのは大学の時しか無いだろう、 という事を
言っているんですが、 なかなか過ぎないとその時代の良さっていうのが分からなくてね。 どう
も学生諸君は時間を疎かにしてしまうという所があるようですけれどもね。 その点について、
福岡先生いかがでしょうか。
福
岡
今の内館さんの話を聞きながらね、 私は大体キャリアは存じていたので、 やっぱりそうか、
40歳くらいなのか、 と思いました。 遅咲きの作家とか脚本家というのは、 やっぱりそれからが
物凄いですよね。 それから先程の山頭火の真っ直ぐな道で寂しいという生き様をやってきてで
すね、 逆にそれが彼女のパワーになって。 先程ちょっと控え室で話したら、 来年の正月のテレ
ビ朝日系列で、
白虎隊
をやるって言って 「じゃあ死ぬんだぁ」 という風に言ったら 「死な
ない人やるの」 って言って。 これは後でお話がありますけれども、 そういうのを聞いていてで
すね、 やっぱりあの20代で作家になった誰とは言いませんが、 東京都知事に立った人は、 たい
―9―
した文章じゃあないだろうしね。 どう見たってやっぱりそういうような、 間の部分に大学生も
そうなんですが。
立命館大学ってエクステンションっていうのがすごくてですね、 とにかくもう就職の為の講
座が圧倒的にあるんです。 それはもう本当に就職率はナンバーワンでしょう。 恐らく今日本で。
でもテクニックを教えるわけ。 私も実を言うと政治家養成塾をやっている。 立命館大学で。 政
治家になる養成をやっている。 一方でジャーナリストの養成講座もやっている。 それはある程
度訓練しなければ入れないと思うし、 向こうの大学の要請ですからやっていますけれども、 ど
こかやっぱり虚しさを感じる。 松下政経塾で今国会議員30数人、 宮城県知事や、 あるいは神奈
川県知事も教え子です。 だけどやっぱり今みんなに言われるのは 「テクニックを教えるけれど、
お前、 志は教えたのか」 と言われるとね、 はっきり言って本当に、 穴があれば入りたいという
気持ちなので、 今の内館さんの話しを聞いていてね、 時間があるようだけれども、 やっぱりどっ
かでもって、 いろんな事を思ってね、 それで本当にやりたい事にのめった瞬間、 それが27、 8
歳でぱっとやり出して、 おそらく相当勉強されて。 40歳で書き出した後はもう、 一気呵成です
から。 それは恐らく私達もそうなんでしょうけども、 そういう人生を、 できればね、 彼女が学
生にこう語ってくれれば、 学生の中で気付く奴がいるんですよね。 ところが今はテクニックばっ
かりで、 とりあえず就職を、 というね、 目先の事を考えるんでね、 とってもいい話だなと思っ
て聞いておりました。
小
泉
私の方で学生の事ばかり言ってきましたけれども、 どうも教員の方も私どもの方も、 どうも
先生方の方にも情熱が無いんじゃないかと。 とにかく知識だけ教えていくという事に、 どうも
大学の教員はなりがちだと。 これは高等学校でもそうでしょうけれども、 先生方がぜひこの情
熱を持ってですね、 学生に接してもらえれば、 もう少しこういい教育ができるのかなって感じ
はするんですけれども。 その辺の所、 どうでしょうか。
野
口
そうですね、 大学はちょっと別にしまして、 子供というのは純粋無垢だと思ってしまうんで
すよね。 ところが子供だって卑怯な奴はたくさんいる訳です。 そういう事を前提にして教育を
しなければならないのに、 この間高校の履修不足がありましたけれども、 要するにずるをするっ
ていう事は駄目なんだよ。 小学校の子供の中にも本当に悪い奴がいるんです。 みんなが綺麗な
心を持っている訳ではないんです。 それを何となく教育の世界って言うのは、 そこの所に触れ
ない。 アンタッチャブルな状態にしてあるんですね。 ですから、 例えば教育そのものを実は管
理すべき所はしっかり管理しなければいけないんですね。 そこが多分、 日本の教育の1番の欠
陥だという気がします。 それは多分、 あえて言えばです。 競争教育を受けた人達が今先生をやっ
ていて、 そこから要するに 「大人になりきれないような大人」 が学校の先生をやっているとい
うケースがあります。
私の子供っていうのは1人がハンディキャップを持っています。 そのハンディキャップを持っ
ている子供を何とか普通の教育を受けさせようとした時に、 この先生達を相手にして、 何もで
きないんだ、 という事を実体験として。 要はそういうタブーとか何とかをまず無くして行くと
いうのが必要な気がしますね。
アメリカの小説の中にこういうシーンが出て来るんですが、 子供と、 それから先生と、 親と、
いわゆる三者面談ですね。 親が 「うちの子供はどうも手癖が悪くて、 人のものをすぐ盗む。 ど
― 10 ―
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シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
うしましょう将来」 と言ったら先生は 「その子供は政治家にしなさい」 と言うんですね。 それ
で親が 「いや、 うちの子供はジコチューで、 嘘ばっかり言う。 どうしたらいいでしょうか」 と
聞いたら先生は 「その子供は新聞記者にしなさい。 心配する事ありませんよ」 と。 要は、 子供
の時代からですね、 管理すべき所はしっかり管理していこう、 と。 徹底的な管理教育は駄目で
すけれども、 ある程度の管理をしていく事が、 これから求められるんじゃないかな、 と。 その
中からきちっとした大人として育てる。 社会のルールをきちっと弁えている。
さっき無関心だとか向上心の問題だとか、 いろいろありましたけれども、 そういった事を1
つ1つ潰していく事が大事だと思います。 世の中で原因さえわかれば、 原因を排除していけば
良い訳です。 それをこれからやっていく必要がある。 それが全部今、 大学に押し付けられてい
る。 要するに小中高の間で全くそういう事をやらないで、 大学に入れた段階で、 大学の先生に
やって下さいって言っているんです。 それは小中高でやるべきだという事ですよね。
何年か前に、 大学生が分数の計算ができないという事があったんです。 これは一橋大学の学
生と慶応の学生を対象にしてやったんです。 そうしたら、 分数の計算ができない。 2分の1足
す3分の1は、 5分の2って計算したんです。 で、 今数学ができなくても大学に受かるという
入試制度になっているんです。 もうそういう意味では、 文科省というのはですね、 世の中で1
番いらない省なんですね。 あの省があるお陰で、 日本の教育が歪んでいると私は思っているん
ですが、 もっとですね、 地方に移管すれば良いんです。 教育っていうのは極めて国立制が強く
て。 これからは地方にどんどん移管をしていけば良いのです。 文科省なんかは、 ただただ予算
の快諾をして、 いや、 予算の管理すらやらないほうが良いんですけれども。 最初にリストラを
していただきたい省の1つではあると思いますね。 それで教育は地域が考える。 地域で教育を
して行く。 だからアメリカに行きますと、 スクールタックスがあるんです。 なぜかと言うと、
それは学校、 地域の学校を運営していくのはコミュニティなんです。 そのために負担金として
税金を払いましょう、 と。 だから学校の先生も、 良い先生、 だからお金持ちがたくさん住んで
いる所は、 学校がどんどん良くなっていくんです。 良い先生を雇ってくれるんですから。 ただ、
貧しい所は、 どんどん (下がる手の動き)。 だから黒人達がたくさん住んでいる所の学校は、
いつまで経っても上に上がれない。 そこには補助金を出しましょう、 という事なんです。 です
から、 今日来ていただいている皆さんも、 教育を自分達のものにしてしまう。 自分達のテリト
リーの中に教育を入れていく。 そうする事で新たに子供というものを考え直すことができる。
要するに地域が子供を育てて行くという、 そういう所に持って行きたい。 人に任せるんじゃな
い。 とんでもない先生がたくさんいる世界に子供を本当に子供を預けていいんですか、 と思っ
ています。
内
館
私子供もいなくて子供も育てた事無いのに、 夫もいないんですけど、 教育の話をするのは本
当に格好悪いんですが、 教育ってどういうものかなって考えると、 結局、 社会に出た時に、 そ
の子が自分の足で歩いていける力をつけてやる事だろうと思うんです。 それが幼稚園から大学
までの間に、 親と学校が一緒になってその子に力を、 社会に出た時に歩いていける力をつける
という事でないかなというように思って考えるんですけども、 そうなるとですね、 例えば情熱
的な教師もいるし、 そうじゃない先生もいると思います。 だけれども、 ある情熱的な先生が、
この子達の安全の為に、 何とかしようといって目の前の石ころやなんか全部どけて、 きれいに
ならした道を歩かせるというんであれば、 その子は社会に出た時に、 でこぼこ道を絶対歩けな
― 11 ―
くなるだろうと思うんですね。 親の方も結局全て押し並べて良かれ良かれと思って先回りして、
いろんな事をやってやると、 結局その子が外に出た時に全然歩けなくて傷つきやすくて、 さっ
きも傷つきやすいっていう話が出ていましたけれども、 傷つきやすくて、 すぐ何かあるとめげ
てしまうという事になるんじゃないかと。 そうすると無菌培養というのは1つも良い事じゃな
いなという気が私はしているんですね。
それで、 そう考えますと、 さっき福岡先生が
月に5時間で二夜連続で、 1月6日、 7日に
白虎隊
白虎隊
の話をしていましたけれども、 お正
をやります。 これは完璧に会津目線で
書いていますから、 山口、 長州とか薩摩とかあっちの方は完璧にヒールになる訳ですね。 それ
でその時に誰を主人公にするかという事なんですけれども、 白虎隊って言った時は20人が飯盛
山に登って、 そこまで行った時にお城が燃えていると知る。 自分達の心の糧にしてきた城が燃
えている、 もう会津はだめだ、 いざ死のうと言ってみんな喉を突いて、 華々しく死んでいく。
普通白虎隊といえば、 この死が格好いいんです。 実際には20人のうち、 1人生き残るんですけ
れども、 19人が死んでいったという事がドラマチックなんですが、 実はですね、 その時に、 自
刃した少年を主人公にするんじゃ面白くないなっていう気がしたんですよね。 こんなにいじめ
の問題で自殺が出るとかっていう時期ではなかったんですけれども、 その時にふと考えて、 何
があっても敢然と生きた白虎隊士っていうのを主人公にできないだろうかという事を思いまし
て、 そうしまして、 それを調べていったら生きた白虎隊士いるんですよ、 何人も。 そしてそれ
を調べていったらとても面白いんですけど、 白虎隊がみんな喉を突いて死んだ時というのは、
大嵐だったんです。 一寸先も見えない位ものすごい嵐だったんです。 その嵐の時に、 みんなが
城の方向に向かって頑張って行進していく訳です。 ところがものすごい雨だったために、 その
一団からはぐれてしまった少年がいるんです。 はぐれた少年はわけもわからず、 みんなと逆の
方向に歩き出しちゃったんですね。 逆方向に行ってしまったんですね。 逆方向に行ってしまっ
たので誰とも出会えないし、 どうにもならなくなった。 何も食べてないし、 雨風はすごいし、
もう駄目だって言って、 俺はもうここで立派に1人で死のうと思って、 死のうとした時に、 こ
れ本当の話なんですけれども、 突然、 犬がですね、 その死のうとした子のところに飛びかって
来たんですね。 ワンワンといって犬が来た。 びっくりしてその子が見たら、 なんと自分の家で
飼っていた犬だったというんです。 こんな安っぽい話を内館さんはシナリオライターのくせに
作るのかと思われるのも困るんですが、 事実なんです、 これ。 白虎隊記念館に行くと、 犬に助
けられたところの銅像が建っていますから。 それで、 その犬に助けられた少年が、 ああ、 俺は
やっぱり生きよう、 と思ったんですね、 その犬と会った事で。 多分人生って、 本当ちょっとし
た事でこっちに行くか、 こっち (逆側) に行くかというところがあって、 その少年は、 立派に
死ねという教育を受けて育てられてきたのに、 こっち (逆側) に向かって敢然と自分で生きて
いくんです。 これはジャニーズのヤマピーが、 山下君が主役でやりますけれども、 そっち (逆
側) に行った時に自分の足でちゃんと歩いて行く、 どんなに中傷されようが何しようが格好悪
くても生きていくという事はですね、 情熱的な教師に教わるのか否かという、 そればっかりで
はないと思う。 どうにもならない教師に教えられた時に反面教師にする根性があるかどうかと
いう事も含めて、 何かその中から掴んだ人間が、 どっちの方向に行った時でも、 すごく一生懸
命に生きていけるのではないのだろうかという気もしているんです。 どうでしょうか。
小
泉
ありがとうございます。 私、 実はですね、 立派な教師の下には、 立派な学者は生まれないと
― 12 ―
秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
いうような格言も聞いておりまして、 先生が全て間違いなく講義で教えてもらってくれてです
ね、 その通りだと、 もう、 感動して帰ってきて、 後はやめてしまう。 間違った事を言う、 でた
らめを言う教師がいた場合には、 家へ帰って調べてみて、 あれはやっぱり間違っていた、 とい
う事で、 だんだん、 だんだん研究心が出てきまして面白いという事になって、 でたらめを教え
る学者の下に、 そうそうたる学者が出たという実例を知っております。
内館先生が今、 わらび座で今度公演する小野小町を書いておられまして、 先生から伺ったら、
なよなよとした優しい小野小町ではなく、 非常に芯の強い、 毅然とした小野小町像を先生は今
書いておられるという事を聞いています。 どうして今、 その話をしつこくやっているかと申し
ますと、 どうもうちの大学もそうなんですが、 男の子と比較すると女の子の方が非常に勇気が
ある。 果敢に人生を決している。 例えば、 県外からいろんな求人がきますけれども、 男の子は、
うじうじして行きたくないと、 県内にいたい。 どうしても県内に勤めたい。 親の所にいたいん
だという事で、 親離れができていない。 女性の場合は 「三界に家無し」 と申しますか、 色々あ
るでしょうけども、 県外に果敢に1人でも、 職を求めて行くのも、 どうも女性が多いような感
じがするんですね。 現代の風潮なのか、 ちょっと分かりませんけれども、 その辺の所は、 いか
がなものでしょうか。 福岡先生いかがでしょうか。
福
岡
私のゼミはですね、 最近女性のゼミ長が多いです。 それは色々事情があるけども、 頼りない
男が多すぎる。 今日は関係者がいるので、 それ以上は言いませんが、 仮にゼミ長でも、 ほとん
― 13 ―
ど実権が無いとかですね。 あの立命館の方でもこっちは女の子が少ないんですが、 やっぱり何
人かいる女性の方がしっかりしている 。 結論、 マザコンか1人っ子ですから、 必ず男1人で
すから、 お母さんが今の内館さんのように、 何から何まで全部やっちゃって。
私は筑紫さんとボランティア活動をやっていますが、 あくまでも自立支援で、 その人達が頑
張っていけば、 もうその時は手を離す、 それはもう当然ですよね。 内館さんの前で漢字の話は
したくないけれども、 親と言う字は、 立ち木の脇で見ると書くんだから親ですよね。 だけれど
も、 ちょっとした事で倒れても
お母さんが寄って行って、 この地面が悪いと言って、 地面を
蹴飛ばしているオカアがいるわけ、 馬鹿かお前、 と私は思いますね。 その辺がちょっと過保護
の部分はありますね。 女の子の方が、 もう小学校の6年生か、 5年生ぐらいで、 しっかりしちゃっ
ているでしょう。 逆に男は、 本当に頼りない。 それはもうオカマという言葉を使っちゃいけな
いそうだから言いませんけれども、 何とも言えないものなんです。 そこが、 恐らく秋田県なん
かでも、 私が東京で付き合っている秋田高校から来た連中でもですね、 それは男でも頑張って
いるのもいるけれども、 女性でも相当頑張っている人の方が多いので、 たった1回の人生でね、
内館さんが、 27、 8までちゃんとした企業にいて、 無難に厚生年金ももらえるだろうって思わ
ないで、 そこから方向転換をして行くし、 さっきのいわゆる20人から離れた1人の若者を描く
事によって、 もしかしたら、 いじめの問題についても、 ものすごいサジェスチョンになる。 やっ
ぱり辛くても生きる事がどんなに大事なのか、 それもやっぱり1つの人生なんだというね、 そ
ういうようなものがありますね。
先に野口さんの話を聞いて、 私は60年代に大学を出ていますが、 学長もそうだけれども、 60
年代の、 いわゆる日本って、 オリンピックじゃないですか。 80年代の韓国って、 パルパルの韓
国でしょう。 今、 2000年の、 まあ、 2008年ですが、 北京で、 そういう時代の雰囲気に生まれる
人間はやっぱり目標もあって、 嫌でも社会の中に巻き込まれて、 こうやって来ましたよね。 何
だかんだ言いながら。 そういうのは、 やっぱりそれは知識だけれども、 そこから1つの知恵が
出てくる。 ですから、 内館さんがいろんな形でもって、 知識なんて簡単だから、 検索すればで
きる訳です、 検索する中で、 同じ
白虎隊
は書きたくない、 と。 それはもう、 大河ドラマか
らなんか、 みんなやって、 堀内何とかの歌まであるから、 日本テレビでしたかあれは。 もう、
そこはやっぱり知恵を働かせて、 その1人の死に損なった哀れな男を、 それもジャニーズの格
好良い奴でやるというところで、 それも知恵だと思う、 それが。 だからそういうような事は、
やっぱり見ていくとね、 知識を知恵に転化できるという能力は、 1人の人間がどういう風に自
立するかと言う問題。 それは、 いわゆる女性の方が今見ているとね、 はるかにやっぱりそれは
能力が高い。 男は何だか与えられた物は、 先程の報告にあったように、 得意なんですがね。 マ
ニュアルの無い状態になった時にね、 神戸の地震やあるいは、 その山古志村の中越の地震、 あ
るいはプーケット島に去年10人位行かせましたがね、 任せるしかないんですよね、 こっちは。
見てないんだから。 お前たちに任すから。 お前達を必要としている人達に、 ボランティアしろ
よとしか言えない。 その時に、 やっぱり判断するのは、 リーダーは男性だけれども、 女の子の
何人かが、 「やるしかないんじゃない、 これ」 って言って決める。 そこが、 何とも言えない。
マザコンの男の仲間を見ると、 涙がただひたすら落ちます。
内
館
今の事と重なるんですけれども、 その
小野小町 、 わらび座でやります。 ミュージカルな
んですけれども、 これはですね、 小野小町って言うと、 やはり皆さん誰でも思い出す歌は、
― 14 ―
秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
「花の色は、 うつりにけりな、 いたづらに」という、 結局あの歌が、 絶世の美人であるところの
小野小町が、 年齢と共に、 どんどん、 容色が衰えていって、 ああ、 年を取ったら、 花の色が、
どんどんその容色が衰えて来たわ、 悲しいわ、 寂しいわ、 私はお婆さんになって来たわという、
まあ恐怖感も含めて、 あの歌が有名な訳ですね。 小野小町伝説と言うのは、 全国にあるんです
けれども、 探すとですね、 やはり美人はいじめられるんですね。 徹底的にお婆さんになってか
ら、 どれくらい醜かったかという話がもう全国にある訳です。 その時にですね、 私1つね、 と
てつもない歌を見つけてしまったんですよ。 このたった一首の歌だけで、 私は小野小町を、 敢
然と生きた女にして書こうと思ったんですが、 どんな歌かと言いますとですね、 これきっと、
年取った方の方が、 ものすごく参考になるかなと思います。 これは小町のほとんど晩年の辞世
の句に近いんですけれども、 「我死なば焼くな埋むな野にさらせ、 やせたる犬の腹肥やせ」 っ
ていうんですよ。 強烈でしょう。 結局、 「私が死んだら、 焼く必要もありません。 埋める必要
もありません。 野っ原にさらしてください。 そしてこの身を、 痩せた、 お腹を空かせた野良犬
に食べさせて、 彼らのお腹を一杯にして下さい」 という句なんですね。 「我死なば焼くな埋む
な野にさらせ、 やせたる犬の腹肥やせ」、 これを1行見た時にですね、 勝ったと思ったんです
よ、 私、 小野小町という女は。 つまり今までと全然違う観点から小町が書ける。 私は秋田の女
を書こうと思っていますから、 秋田の女は綺麗です。 綺麗ですが、 私も秋田の女ですが、 (拍
手) 綺麗ですが、 少なくとも 「花の色は」 と嘆くこの情けなさばかりでは絶対ない。 私は土崎
で生れましたけれども、 土崎という港の女には、 絶対この情けなさは有り得ない。 そう考えた
時に、 痩せたる犬の腹肥やせ、 というところまで、 言い切る女は、 どんな風にして生きてきた
んだろうという、 ここからは想像なんですね。 想像しますと、 結局やっぱり彼女は敢然と、 ま
あ92歳で死んだって言われているんですけど、 敢然と92年間生ききったと思うんですよ。 生き
きらなければ、 必ず姑になって、 家の嫁は言うことを聞かないとか、 お宅は、 お譲ちゃんがい
て良いわねぇ、 家は息子が2人だから全然役に立たないとか、 子供と一緒に暮らしたいとか、
もうそういう事、 ぐちゃぐちゃ、 ぐちゃぐちゃ言っているはずですね。 早くこういう老人はお
迎えが来て欲しいなぁと私思うんですけども、 やっぱり老人になったら、 痩せたる犬の腹肥や
せって言うぐらい、 敢然と生きてくれよっていうのが、 私の中にはある訳です。 それで私は、
今までと違う小町像が書けるなって思って、 私自身も勝ったと思ったんです。 こういう事を例
えば、 これが本当に勝てるかどうかは、 実際書いてみないと、 お客様に見てもらわないと分か
らないんですけれども、 ただ結局いろんな事を一面からだけ見るんではなくって、 裏から見て
みると全然違う人間像が見えてきたりする。 そういう事を身に付けるというか、 考えたりするっ
ていうのは、 東大を出れば良いというものではない。 京大を出れば良いっていうものではない、
という気がするんですね。 少なくとも、 お母さんが、 真っ平らな道を、 さあ、 坊や歩きなさいっ
ていう事ではないだろうと、 私はすごく思っています。
小
泉
ありがとうございました。 大変な小町像が、 見られそうですね。 私、 お話を前に聞いてまし
てですね、 もしかしたら内館さんみたいな小町像になるのかなとか、 重ねて見ていまして、 ぜ
ひ期待していますので、 お願いしたいと思います。
また、 元の話に戻りますが、 実はちょっと変わりますけれども、 数日前だったんですが、 テ
レビで携帯電話の話がずっとまた出ていまして。 先程講演の中で、 携帯電話は無くては生きて
いけないという学生の話、 若者の話があったんですが、 ある工場で、 それをご覧になった方、
― 15 ―
たくさん居ると思いますが、 NHK で特集組みましてですね、 漢字が読めない工場の職員、 大
変な事故が起きた、 という事がテレビで放映されていまして。 それはある製品を作っている工
場ですが、 品質に差異が出た場合には、 直ちに上司に報告をしなくてはいけないというような
ことが、 機械に掲示されている。 そこで、 おかしな物をその機械が作り出した、 という状況下
になったんですが、 それを管理していた青年がですね、 その差異という字が見えるんだけども
読めなかった、 意味がわからない、 という事で、 へんてこりんな物をどんどんどんどん機械が
作っていっても全く上司に報告しなかった。 それで百万単位の損失が出たという事が放送され
ていたんですけれども、 どうも漢字が読めない、 その工場では、 他の職員も全部集めましてね、
その注意書きをみんなに読ませてみたら、 ほとんどの青年が読めなかったって言うんです。 信
じられないような話が放送されていまして、 その後ですね、 携帯電話を使っている学生をモデ
ルに実験をしたんですが、 どうも1時間以上携帯電話使っていると、 ほとんど、 携帯電話とい
うかメールですね、 メールでやり取りしている学生は、 言葉というか、 文字、 文章が書けない、
読めないというような事態に陥っていると。 中学生以下だというような統計が出ていまして、
携帯電話のメールはですね、 平仮名と絵文字でずっとやってきている、 もうだんだんその文章
能力が劣化してきてしまっている、 というような事が放送されていたんですが、 現代青年がほ
とんど文章が書けなくなっているというような事が指摘されておりまして、 その点は先生方い
かがでしょうか。
野
口
何年か前ですね、 東京大学の他の先生達と、 失敗学という学問をやろうではないかという事
でスタートさせた事があったんですが。 その時に、 もう1つ、 ものづくり大学というのをやろ
うではないかという事をやったんですが、 その時、 先生達、 工学部の先生達がみんなおっしゃっ
ておられたのは、 あと5年もすると、 日本語で設計図はひけなくなりますよという事だったん
です。 まさにその事が起こり始めているなという感じがします。 我々は当たり前に日本語とい
うもの、 言語学上の日本語という事でずっと学んできた訳ですけれども、 むしろ私の分野、 産
業だとか経済という分野におきますと、 マニュアルを作るという事ですら、 非常に困難になっ
てきていると言うんですね。
例えば、 パソコンで絵を描くマニュアルを作ります。 マニュアルを、 消費者に製品を買った
時マニュアルを渡すんですけれども、 実は、 大変大きな問題があって、 今までマニュアルを作
るエンジニア達はですね、 ほとんど日本語が出来なかった、 要するに、 主語と述語がどこを読
んでも繋がらなかったという風なマニュアルを平気で作っていた訳です。 その批判があった為
に、 今、 各社ともマニュアルにはすごく専門家を入れて、 読みやすい日本語に変えてきたんで
す。 昔のマニュアルと今のマニュアルとは随分違うというのはお気づきだと思うんですが、 と
ころが、 今度は逆に消費者側がマニュアルが読めなくなってきた。 まさにおっしゃられたよう
に、 漢字が読めないんです。 従ってマニュアルで、 これは PL 法の関係もありますので、 消費
者が、 購入者が基本的にきちっと理解できるマニュアルを作ることが義務付けられているんで
す、 そうしたら、 マニュアルで使える漢字というのは、 どこまでが使えるんだろうというよう
な事をですね、 今真剣に悩んでいるんです。 これをもとに、 今さっきお話しましたように、 実
は豊かになっていくという事になると、 この国の若者は、 そんなに苦労をしない、 無理をしな
い、 そして一方で、 与えられたものが携帯であったり、 あるいはパソコンであったり、 バーチャ
ルな世界であったり、 要するに今の子供達はそういう育ち方をしてきていますから、 日本語を、
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秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
正確に、 例えば、 先の発表はすごく立派、 すごく我々感動したんですけれども、 今の子供達は
プレゼンテーションがほとんど出来ません。 話し言葉と書く言葉との区別が全くつきません。
話している間に、 なので、 というわけです。 要は、 もう読み書きそろばんと言いますけれども、
基本的に世界史なんかどうでもいいから、 とにかく国語をちゃんとやれと、 ここで国語をしっ
かりやっていかないと、 さっき言いました、 技術の継承ができなくなります。 この国が唯一メ
シが食えているのは、 世界で、 最も優れた技術を持っているからです。 この国から技術が無く
なったら、 何にも残らないです。 資源も何も無い、 そんな訳で我々は多様な技術をですね、 しっ
かりと継承してきた。 それは SONY だとか、 新日鉄だとか、 あるいは TOYOTA の技術だけ
ではなくて、 中小企業のたくさんの職人達によって継がれて来た、 その技術で我々はメシを食っ
ている訳です。 今の子供達も更にその技術の恩恵を被っている訳です。 しかし、 それがきちっ
と継承されて行かなければ、 それは突然ある日この国は崩壊をしてしまう、 と言っても過言で
はないと思いますね。 そういった意味で、 もう1回ですね、 言葉の教育、 これは偏に家庭にか
かってきていると思います。 お母さん達がしっかりとした言葉の教育ができるかどうか。 家庭
の中ではさっきのコミュニケーションがありましたが、 家庭の中ではしっかりとしたコミュニ
ケーション能力を高めていくという事をやっていかなければ、 本当にこの国はひょっとしたら、
言っちゃあ悪いけれども、 今のスペインだとかポルトガルだとかみたいになってしまう。 確か
に豊かなんだけれども、 しかし誰からも注目されない、 そういう国がありますね。 だけど、 我々
はもっと更にいい国作って、 もっと豊かな国作っていこうとすれば、 そういう足元の言葉とい
うところにもっと力を入れるべきかなって気がします。
小
泉
家庭が非常に大事だという話が出ましたけれども、 先生いかがでしょうか。
福
岡
テレビ局の仕事をしているとですね、 最近テレビの下にテロップという字がずーっと出てき
ますが、 すごく誤字脱字が多いです。 それを見ていて何人かが字が違うと言って。 テレビタッ
クル なんか録画ですから、 本番の時は直るんですが、 生の番組の場合はパーッと間違いが。
それはそこでバイトしている大学生や、 AD の連中のレベルの問題が1つ。 それから2番目は
ですね、 メールのやっぱり量と、 いろんなものをやって絵文字が通じちゃうというね、 こうい
う事です。 そこにはもう作文能力は中学生以下と言われるのは、 つまり小学生ですから、 例え
ば、 10年後の私というタイトルで大学生に論文を書かす。 これは新聞社でも入試問題になるの
があるんです。 10年後の私ってやった時に、 アホな学生は、 10年後の私は32歳である、 そうい
う風に書く。 そんな事は聞いてなくて、 そうではなくてそこに知恵のある人間は、 秋田県で何
とかの事件があったとか、 落盤の事故があって私はそこに今車でもって新聞記者として駆け付
けているとか、 だったら読むけども、 10年後の私、 私は32歳、 アホか、 お前は、 になっちゃう。
そういう小学生的な作文と言うか、 文章。 そして3番目、 私のゼミで論文を書く時は、 絶対に
パソコンで書かせない。 それは全部引用できるわけ。 二大政党制と政権交代について、 とやる
と、 例えばいろんな大学の政治学の先生の二大政党制について、 とプッと引用すると、 ほんと
に人が1週間で240枚というかもうレジュメ20枚ぐらい持って来ても、 先生方のそれが盗作か
どうかわからないけども、 1人1人の学生見たら、 こいつがこんな文章書けないと分かります
から、 それはもう突き返す。 だから手書きで200字詰めで書きなさい、 という風に渡します。
そうしないとやっぱり見抜くことができない。 それで今どきの子供はもしかすると、 子供が悪
― 17 ―
いんじゃなくて、 今の10歳前後のガキの母ちゃん父ちゃんが悪い。 この連中が、 実を言うと今
日おられるかもしれないので、 ちょっと大変ですが、 今日出席以外の方なんですけれども、 こ
の人達がやっぱり甘やかされて育って来た。 今の30代、 何も知らない親達が、 また、 何も知ら
なくて子供達を教えているという問題で、 今の家庭の問題ですが、 やっぱり今日1人報告にあっ
たように、 学校も悪いけど、 家庭が悪い、 一家団欒、 家族団欒も無い、 その中でいろんなコミュ
ニケーションがあって何かする、 さっき野口さんが、 卑怯な事を子供が今平気でする、 昔はし
なかった、 やっぱりそれは1人を3人か5人でいじめなかった。 今もう公務員は卑怯な事をし
ていますけども、 卑怯な事やった時はやっぱり徹底的に、 それはいけないという事を言える教
師、 親というのが今いない。 恐らくそこだと思います。
小
泉
先生、 いかがでしょうか。
内
館
先程、 寺田君だったかしら、 発表の中で、 古き良き時代の教育で戻せる、 良いと思うところ
は戻しても良いというような内容の事をおっしゃって。 私も今、 福岡先生がおっしゃった通り
だと思うんですけれども。 例えばテレビドラマを書いていると、 大変なんですよ、 クレームが。
先程、 先生が 「馬鹿」 って言ったら 「馬鹿って言っちゃいけない」 というクレームが来るって
おっしゃっていたんですが、 私は
私の青空
というドラマの中で、 北山太陽という男の子、
7歳の子に先生が 「おい、 北山」 って呼ぶセリフを書いたら、 NHK に雨嵐のように内館おろ
せコールなんです、 北山と呼び捨てにしやがったって。 子供の人権を無視している、 って来る
んですね。 私は最後まで呼び捨てでやりましたけど、 太陽くんの祖父が 「馬鹿やろう」 って叱
る事と教師の 「北山」 って呼び捨ては最後までやりましたが、 結構大変なんですね。 それで、
そう考えた時に、 やっぱり私すごく思うのは、 もしかしたら私達が切り捨ててきたものの中で、
すごく大事なものがあって、 今それに気がついたならば、 早いところ、 取り戻さないといけな
いのではないか。
現実には私はパソコンを一切やりませんし、 携帯電話も持っていません。 それで、 大河ドラ
マも、 朝のテレビ小説もだいたい1万枚くらい書くんですけれど、 6B の鉛筆で、 消しゴムで
手書きなんですね。 必要なものは、 パソコンはありませんから図書館に行って調べてくるんで
す。 あとスタッフが調べてくれる場合ももちろんあります。 でも、 特にですね、 生活の中に何
にも不便を感じないんですよ、 持ってなくても。 という事は、 それでもやっていけるという事
を考えた時に、 自分の中で少し歯止めをかけて、 ここから先は、 ちょっとパソコンに頼るのを
よそうとか、 携帯に頼るのをよそうとか、 ちょっと不便になっても切り捨てたものを拾うって
いう意識を持つっていう事は結構大事な事じゃないかな、 と思うんですが。 福岡先生、 いかが
でしょう。
福
岡
そこの我慢が今は無くてですね、 ある程度遮断しないで染まりに入ってしまう訳ですよ。 で
すから、 パソコンに自分の人生が詰まっているとか、 音楽は iPod とか何か知らないけれど、
とにかく、 ずっと聞いているという、 ながら的に何も考えないで生きられていると思っている
けれど、 それは無理ですよね。 人間というのは。 1人で生きなきゃいけないけれども、 いわゆ
る1人じゃなくて、 人間の社会が成り立っているというね、 そこの部分を解らせるのに先程言っ
た様に 「含蓄とか行間を読めよ」 と、 言ってもですね、 もう単純で。 そんな発想だからもうね、
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秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
話が繋がらなくなってくるというのが、 今のやっぱり若者です。 だからそうすると、 未来はな
かなか無いかな、 というね、 ちょっとタイトルと違っちゃいますけど。
小
泉
私は、 実は、 消極的な話をずっとやって来ましたけども、 学生の中にもですね、 青年の中に
も、 非常に情熱が溢れて自分がやりたいものが見つかって、 しっかりとして頑張っているとい
う人をたくさん知っています。 大学の中で、 勉強を一生懸命熱心にやる学生の中に、 私は2種
類いるんではないかな、 と思っているんです。 1つは勉強というのは辛くて大変だけれども、
その資格試験を取るんだ、 とか、 要は就職のためという事で、 あるいは単位を取るという事で
一生懸命勉強をする。 片方に学問が好きだ、 と。 勉強が好きだ、 という目の前にあるものから
逃げないで、 目の前にあるものが好きになる事ができる、 まぁ努力して好きになったんでしょ
うけれども、 好きになる。 こういう学生は社会に出ると、 仕事が好きになる。 それで、 仕事が
人生の大部分という事を考えれば、 大変な、 幸せな事だ、 と。 成果は、 結果はともかくとして、
好きな事に自分の人生を費やす事ができた、 という事で、 幸せな人生を歩むことができるんだ
と、 私は思っています。 そういう学生をぜひ1人でも多く育てたいな、 と私としては考えてい
ます。
私は学長として、 教員の先生方に本当は大学というのは勉強の場を与える所なんだ、 と。 本
当の教育は、 もっと、 もっと小さい時にされていて、 能力と言うのはもう大学に来た時に決まっ
ている。 開花する場所を与える所なんだ、 という事は言いますけれども。 子供達にその学問の
情熱、 そういうものに火を付けてあげることができる教員がいるとすれば、 私は、 それはそれ
で十分に給料に見合うものは、 与えてはどうかな、 という風に言っているんです。 勉強という
ものは、 所詮は自分でやるしかない。 仕事だって自分で努力して覚えて行くしかない、 という
気持ちではいるんですが、 そういう事で、 努力して頑張ってみる学生もいるのかな、 という様
な思いでおります。
福 岡
今の小泉先生の話を聞いていてね、 私は大学の先生は、 場だけ与えればいいと思っています。
ですから、 もう大学に来てですね、 基礎講義みたいのは大事ですから、 それはもうこれだけパ
ソコンが出てくればね、 二大政党制だとか選挙制度はどうこうだとかね、 アメリカの大統領制
で何で49と49で50になってあそこで揉めてんの、 と言うとアメリカの上院の議長は副大統領な
んですね。 ですから最後の1議席は同数になったら副大統領だからブッシュの時の人はチェイ
ニーだという事とか、 それは知識ですから。 それは検索すれば出てくる事なんですね。 ですか
ら、 私がやっぱり学生達に現場主義が大事だよ、 と。 つまり学生達が自ら 「先生、 福岡県の筑
前町の三輪中学に行ってみたい」 と。 「行ってもいいが、 今は神経質になっているから余計な
事はするな。 その代わり自分の後輩の新聞記者がいるから、 西日本新聞と RKB 毎日にいるか
ら、 行ってこい」 という風に言えば、 彼はそれで良い取材が出来た。 そういう場を与えるとい
うか、 可能性を与えることが必要です。
例えば、 タイのプーケット島の津波で家を失った人達の所に、 10人の立命館大学と白鴎大学
の学生達が行きました。 1人から5万円を取りました。 他の分は、 旅費もちょっとかかったけ
れども、 それは私達が筑紫さんと一緒に一生懸命集めて。 そこで2週間行ったら、 むこうの軍
隊とむこうの大学生と一緒に、 いわゆる砂利をこねて、 家を作る作業をして。 それは恐らく、
教室や研究室で2週間私が教えるよりも、 はるかに素晴らしい経験を彼らはしていた。 国際交
― 19 ―
流という問題、 例えば俺達が組んで、 百万か2百万のお金を使ったけれども、 それを現金で持っ
て来た方がみんなに役に立つんじゃないかな、 とむこうの学生に通訳を兼ねてですが、 誰かが
聞いたら 「いや、 お金は百万だって消えるけど、 君達と1週間こういう建設作業をした、 とい
う思い出は消えない」 と、 こういう風に言われた時は、 やっぱり行った学生は、 ああ行って良
かったな、 という風に思う気持ちになるんです。 ですから、 それは教師というのは、 今の大学
生にいろんな経験をさせて、 その中から気が付かない奴は、 もうアホだからしょうがない。 気
が付いた奴は、 どんどん伸びるという、 その事の場を、 チャンスを、 小泉先生が言われるよう
に、 それは与えるのが大学の先生であって。 また、 本を読ませる、 それはもう読み書きをする
のは絶対に必要でね、 漢字を知るという事はものすごく大事なんです。 それはもっともっとや
らせなければいけないんで、 伸びる子はやっぱり本をよく読んでいます。 それから、 やっぱり
言葉をよく知っている。 でも、 それは基礎作業。 あとはいろんな経験させる点で、 できるだけ
連れて歩く。 逆に秋田経法大学の学生を今度は京都や東京に連れて行くという作業が私は必要
だな、 という風に思っています。
小
泉
ありがとうございます。 それでは、 折角の機会ですので、 皆様の中で先生方に、 何かお話を
聞きたい、 ご意見を聞きたい、 という方、 おいでなりましたならば、 この機会ですので、 お伺
いしたいと思いますが。
― 20 ―
秋田経済法科大学総合研究センター主催
質問者
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
秋田県立秋田高等学校の3年の加藤と申します。 県の税金をふんだくっている学校と言うの
はうちなので、 大変話辛いのですが。 私は今3年なので、 3年間秋田高等学校に通う事になり
ますが。 私の学校は一応秋田県内では多分偏差値が1番高いと思います。 ですけれども、 1年
生の時から感じているのですが、 昔のように熱意が無いんですね。 学校でそういう全体的な学
年集会というものがあっても、 大半が勉強しているか、 下の方で単語帳を開いているか、 それ
か寝ているか、 喋っているかです。 携帯やっている人もすごく多いです。 私がすごく、 そこで
これはおかしいだろう、 と思ったんですけども、 そこで学校の先生達は、 これは何年も続いて
いる状況なので、 当たり前の様にやっぱり見ているんですね。 先程、 福岡先生が、 授業の時に
生徒に質問した時に、 手を挙げている子供が少なかった、 とおっしゃたんですけれども、 きっ
と私が思うに、 それはそう思って賛成する生徒が少ないんだと思うんですね。 手を挙げる生徒
が少ないんではないか、 と思います。 私も授業に出ていて先生が質問したときにうちのクラス
でも手を挙げる生徒はほとんどいませんし、 それが全くおかしいことではなく、 手を挙げない
ことが普通の事になっています。 やはり今、 学年的に、 学校的に見ても、 その手を挙げるとい
う事自体が、 おかしいと言うか、 すごく目立つ行為になっているんですね。 やはり、 それと言
うのは1人1人の問題では無くて、 全体的な雰囲気とか、 そういうものが問題になると思うん
ですが。 やっぱり1人1人が変わっていく事で、 変わる事だと分かっているんですけども、 学
校全体という大きな規模で見た時に、 子供達を変えていくには、 具体的にはどのような事が必
要なのでしょうか、 よろしくお願い致します。
福
岡
山本七平先生の本の中に、 空気の研究というのがあって。 日本人がそういう空気、 つまり、
挙げないという事がおしゃれなのか、 目立たないようにする事が、 秋田県立秋田高校という名
門高校では当たり前で、 そんな事やっているより単語帳を開いているか、 好きな彼女とメール
の交換をしているか、 そういう風潮は明らかに卑怯である。 授業中に当てられて答えないなん
てのは、 卑怯である。 いるんだったら、 いないんだったらはっきりするのがいい、 そういう風
潮を毅然と先生がやっぱり言わなければいけない。 私は駒沢大学の専任講師になった時から、
もっと言うなら、 明治学院大学の非常勤講師を27でやり始めた時から、 授業中にうるさいんだっ
たら出て行け、 出席は取らない。 試験を取れれば、 単位はもちろんやるから。 私は大学50科目
中48科目優ですから。 単位なんてそんなもんだと思っています。 みんな優あげればいいんだ、
減るもんじゃないんだから。 相対評価じゃない、 絶対評価だと思っていますから。 だからそれ
が、 やっぱり今の空気だね。 風潮なんだよね、 世の中のね。 だけども卑怯な事や、 いけない事
はいけない、 と教師が言ってやんないと、 それは間違いだ、 嘘をつくな、 言うことだけはやっ
ぱり言う、 というのをね。 それが何となくおしゃれでそれが今風なんだし、 という風になって。
今のあなたの話を聞いたら、 なるほど、 今の大学生が指されても手を挙げないでシカトしてい
る。 だけど私は許しません、 それは。 そんな学生だったら、 絶対に世の中に出て伸びないもの。
ね、 野口さん、 駄目ですよね、 そんなの。
野
口
そうですね。 うちの銀行なんかにどんどん新しいのが入って来たん訳なんですよ。 だんだん
だんだん傾向が分かってきますね。 同じ様に銀行でみんなで議論をするんです。 大体、 議論を
する時に8人以上になると大体、 喋らない奴が出るんです。 会議なんてのは8人を限界とする
んですね。 要は、 自分で目立つという事、 スタンドプレーは困るんですけども、 要するに、 人
― 21 ―
と違うという事を、 その価値を認めてあげる事が大事です。 それで、 人を育てていこうとする
時に、 こいつの個性って何だろう、 こいつは何ができるのか、 という事を見極めてやってあげ
るんですね。 その個性が無い奴とは、 これは、 ずっと駄目なまま大人になって行く。 要するに、
年を取っていって。
ちょうど今、 団塊の世代の問題、 2007年問題なんですけれども。 大半が使い物にならないで
す。 高学歴で一流企業に入って来て、 何とか部長やりました、 取締役何とかやった、 それでリ
タイアしました。 明日からどうしよう、 といった時に全く役に立たないです。 それは、 みんな
と同じしか出来ないからです。 自分は何ができる、 私のスペシャリティは何だ、 という事を言
える人がほとんどいないんです。 それで、 NPO に行きます。 NPO からお断りなんですよ。 そ
んな人は要りません、 と。 ボランティアでやりたいんですが、 と。 あなたは必要がありません、
と。 60位で来られたって困るんですよ。 こう固まってしまって。 それは若い時から子供、 学生
の時もそうですが自分の個性は何だ、 自分のスペシャリティはどうやって磨いていくか、 とい
う事をやって来なかったのです。 皆と一緒というのは、 皆と一緒に駄目になるという事ですね。
ですから是非、 勇気を持ってですね、 ハイと言っていただきたいですね。 今日は凄く勇気あっ
た訳です。 そういった意味で折角の名門、 秋田高校ですから、 そういうユニークな奴をどんど
ん増やしていく学校にしていただきたい。 そして、 東京大学でないと、 という事は目安では無
い。 今日おいでになった皆さんに考えて頂きたいんですが、 要するに学校ってどういう評価を
していくのか、 という評価の基準をですね、 もう1回見直して頂きたいんです。 それは、 地域
にとって、 その学校が役に立っているのか、 役に立っていないのか、 これが1つの目安だろう
と思います。 そういう風にもっと自分達の手で、 教育して行くんだ、 という事を考えて行くん
だ、 という事を考えていただきたいと思います。 そうなって初めてね、 空気ではなくて、 個性
のあるおもしろい奴が出て来る、 という事だと思うんですね。
あの 「たまごっち」 を発明したのは女の子なんです。 短大しか出てない女の子なんだけれど
も、 だけど彼女は 「たまごっち」 というおもしろいものを開発した。 そして、 SONY という
会社はすごくユニークな会社で、 若い奴が 「俺はこれをやりたい」 と言って、 稟議書が通れば、
お前にその会社がやらせる、 と言ってくれる会社なんです。 その SONY、 大変人材がいた
SONY であっても、 この間 「iPod」 にやられてしまったんです。 それは 「ウォークマン」 と
いうブランドに彼らは安住してしまった。 結果として 「iPod」 という新しいものが出て来た
時に、 SONY はもう追随ができなくなってしまった。 組織がだんだん大きくなっていくと、
SONY という会社ですら、 大企業病に陥ってしまう。
個性のある人間がたくさんいる企業が、 これから必ず伸びて行きます。 だからうちの学生に
就職をする時にどういう企業がいいですか、 と言うから都心3部に本社のビルがある企業はや
めておけ、 と。 これは霞ヶ関に寄食している、 と。 それから社長が東大の法学部はやめておけ、
と。 あれは素人をたくさん生んでいる大学だ、 と。 3番目は役人の数が10名以上の会社はやめ
て下さい。 そんなのは結局、 何も意志決定をしてない。 だからよく考えてみると、 新宿あたり
にある中堅で、 面白い技術を持っている、 こういった所に就職しろ、 と言っています。
昔ニューヨークで失業者がたくさん増えた時にですね、 州政府が、 あるいは市が、 「100万円
無利子で貸します」 と。 職に就けない訳ですから、 「その100万円使って起業しなさい。 自分で
会社を起こしなさい。 そのために100万円支援しますよ」 と言った時に、 1人もその補助金の
申請に来なかったのが日系人なんです。 日本人は、 人に雇われたがる。 自分でビジネスを起こ
― 22 ―
秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
すという事をものすごく嫌がるんです。 これもさっきと一緒。 「みんなと一緒」 がすごく楽し
いんです。 物凄く安心するんです。 だけど、 自分が独立して何かをやって行く、 とそういう事
がですね、 これから求められてきていると思います。
ちょっと話が長くなりますが、 オランダに行きますと、 全体雇用されている人の20%が
NPO 勤めなんです。 で、 「ワッセナー合意」 というのがあって、 今若い人達は働き方を自分で
選択し始める。 例えば1年間フルタイムで働いて、 次の1年間は NGO に行って、 例えば難民
キャンプで働く。 こういう風だから、 今日この国はすごく豊になった。 豊になったという事は
自分の生活を自分で設計する事が可能になった、 という事なんです。 だから過去の 「いい大学
に入って、 いい企業に勤めて正社員で定年まで勤め上げる」 という価値観がもう無くなって来
つつあるという、 と言うか、 そういう価値観を皆で持とうではないか、 と。 ですから、 今、 私
は大学で NPO とコミュニティビジネスを教えているんですが、 何人かの学生がですね、 わか
りました。 私もそれをやりたい、 と言って、 就職しないで自分で NPO を作り始めた。 今日ずっ
とネガティブな話をしたんですが、 世界中に日本の若者がいっぱい出て行っているんです。 そ
こでいろんな活動をやっています。 そういう子供達がどんどんどんどん増えて行く事、 それは
先程言いましたけれど、 豊かなんだから別にいいんではないか、 と。 息子がある日突然アフリ
カに行きたいと言った時に、 行ってらっしゃい、 と喜んで送り出してやる。 何とか大学に行か
なきゃ駄目だ、 とか、 あるいは、 公務員が1番いいよ、 という、 そういう価値観をですね、 そ
ろそろ改めていただきたい。 だから今日実は、 若者の事を論じていて、 実は親の皆さんの事を
論じている、 と思って頂ければよろしいかと思います。
内
館
今質問してくださった女子高生、 私やっぱりすごいと思ったんですね。 これだけたくさん大
人がいる中で、 真っ先に手を挙げて、 あれだけ理論整然と自分の意見をちゃんと言えたってい
うのは、 すごい事です。 それで、 彼女が危惧している状況は秋田高校だけじゃないと思うんで
すけれども、 そういう部分が、 今の恐らく、 いろんな所の高校、 中学にはびこっている現状だ
と思うんですが。 でも、 それをさあ直そう、 直したいってあなたが思って、 あなたが 「こうい
うのはすごく変だから、 みんな直しましょうよ、 おかしいと思う」 って言った時に、 「あいつ
変な奴だよな」 って、 今度あなたがいじめに遭ったりね、 それから1人浮いちゃったりするこ
ともある。 これまた、 彼女の個性を殺しちゃって勿体無いし、 って私思うんですけれども。 今、
私聞きながらふと思ってたんだけれども、 やっぱりこれ先生が悪いです。 やっぱり今、 野口先
生がおっしゃった様に、 大人が悪いと思う。 だから、 職員室にですね、 押しかけて 「先生おか
しいよ。 あなた、 そんだけ人の上に立ってるんだから、 言えるから」 って先生にはっぱかけて、
意見言っちゃいなさい。 (拍手) それで先生の方から、 まず最初に言ってもらう。 先生が言っ
ても駄目だった時に、 あなたが何人か人を集めて立ち上がる、 っていうのは良いと思う。 あの
何でかと言うとね、 貴乃花が、 一時すごくバッシングされた時がありました。 あの時に、 何が
バッシングの原因だったかって、 いろんな事があるんですけれども、 1つすごく大きな理由は、
「相撲協会の体質が古いから、 それは変えなければいけない」 っていう事を真っ先にテレビで
言っちゃったんですね。 協会内で言わずに、 テレビで言っちゃたんですね。 横綱審議委員会の
中でも、 実はその話が出まして、 その時に 「貴乃花の意見は素晴らしい。 だけれども、 手順と
いうかやり方があるだろう」 という事になった訳です。 まずは協会内の人たちがどう考えてい
るのかっていうのを調べ、 きっちり根回ししなければいけないっていう様な事が、 委員会の中
― 23 ―
で出た訳ですね。 これが日本的で良くないっていう部分もあるかと思うんですけれども。 ただ、
今みたいなすごい女子高生が目立ちすぎちゃって、 「やっぱ、 冬とか寒いじゃないですかぁ」
みたいな人達の中で目立ちすぎて、 あなたの個性を殺すのは勿体無いから。 何かよく方法を考
えて、 ぜひ頑張ってください。 何か言われたら、 内館牧子がこう言っていたって言えばいいか
ら。 (拍手)
小
泉
ありがとうございます。 他に何かございませんでしょうか。 ぜひこういう機会ですから。 は
い、 どうぞ。
質問者
先程ですね、 野口先生のお話の中で、 日本はこのまま行くとですね、 スペイン・ポルトガル
のように豊かだけれども、 注目されない国になる、 という事があったんですけれども、 ちょっ
と私はよく分からないですので、 教えていただきたいと思います。
野
口
この国はこれから人口減少という社会を向かえます。 そうすると、 その国の潜在成長率、 要
するに何もしないでも、 経済が成長できる力っていうのなんですけれども、 そうしますと労働
と医療っていうのは減ってきます。 よっぽど生産性を上げていかない限りは、 構造的に成長が
できないっていう構造をかいてしまうんですね。 今、 問われているのは、 勿論若者も含めてな
んですけれども、 例えば労働と医療っていうのを一定程度維持していこうとします。 当然、 移
民っていう問題が発生してきます。 総人口が減っていく。 要するにベースアップが減っていき
ますから、 それを補っていく、 という事で移民という事を真剣に考えざるを得ないという事で
す。 過去その労働と医療ピークだったのは1995年なんですけれども、 これがもう既になだらか
に減少し始めるんです。 だから平成大不況というのは、 経済が成長できなくなった原因がそこ
にある、 という風に考える。 問題は、 その移民を増やしていくっていう事になりますと、 これ
は試算なんですけれども、 西暦2050年にですね、 日本で働いている労働者の65%が実は外国人
かも、 と。 今、 我々が論議している若者の議論なんですが、 これは今の日本の社会がそのまま
続いて行くという事を前提にしています。 ところが、 これから先、 この日本という社会がある
意味でものすごく、 変革をし始めると思うんです。 同じ日本語を喋って、 同じ文化的な背景を
抱えている。 だから未だにこういう議論をしていても皆で、 同じ、 要するにある種の共感がで
きるというものを、 みんな持っているんです。 「あぁ」 ってみんな頷く。 しかし、 これが多様
な言語があって、 多様な宗教があって、 多様な文化がある、 というと、 これは1つの事を議論
していくのに大変エネルギーを使わなきゃいけないんですね。 実はスペインだとかポルトガル
は昔多くの植民地を抱えていたんです。 しかし、 今どうかって言いますと、 もう活力を無くし
てしまって、 せいぜい話題になるのはサッカーくらいしか無いんです。 この国も、 もし、 そう
いった若者が、 この後を担う若者達の教育を失敗したとしますと、 そうすると、 この国はさっ
き言いました様に、 これと言った試練が無いんです。 だけどこの国はたくさんの特許を持って
いるという国です。 その特許で飯が食えるというレベルにやっと来たんです。 今、 我々は欧米
の技術に依存するのでは無くて、 欧米が我々の技術に依存し始めた、 という日本という社会が
あるいは日本という経済の構造がですね、 ステージが上がったと思っていただいてよろしいで
すね。 要するにウォークマンの時代から、 例えば、 量販店で2万円とか3万円の品物を作る事
が得意だ、 という国から50万、 60万の品物を作るのが得意な国に変わっていく。 そういった意
― 24 ―
秋田経済法科大学総合研究センター主催
シンポジウム第1回
ディスカッション 「未来をつくる若者たち」
味でこれから我々は本当にこの若者、 次の世代を担ってく若者、 あるいは、 次の次の世代を担っ
ていく若者を本当にきちっと育て上げて行かないと、 まさにスペインとポルトガルみたいに、
なんとなく、 覇気の無い国で、 シエスタをむさぼる国になってしまう、 という風にお考えいた
だければと思います。
小
泉
よろしいでしょうか。 じゃあ、 時間の関係ありまして、 もう1人に、 ちょっとさせていただ
きたいと思いますが。 そちらの方。
質問者
秋田経済法科大学法学部の3年の佐々木です。 先生方に質問ですけれども、 最近いじめで亡
くなる方というのが大変増えていまして。 自分は、 マスメディアによる連鎖だと考えているん
ですけれども、 それで、 最近特集で教育現場などの特集をやっているんですけれども、 スポッ
トが教育現場なだけであって、 マスメディアが与える影響って言うのもあると思うので、 その
辺の所を先生方にお願いします。
福
岡
1週間程前に、 筑紫哲也さんと話をした時にですね、 今の報道の、 この過剰な洪水の様なや
り方はですね、 まぁ連鎖と言うかね、 増幅と言うか、 それを生むかもしれない、 と。 文科省の
対応というのも、 あるかもしれませんが、 私は100点満点では無いが、 公開をした方が良かっ
たかもしれない。 これはまだ結論は出ません。 しかし、 今の学生の指摘にもあるように、 今の
様な、 いわゆる情緒的なね、 「可哀相だ。 教育委員がいけない」 と言うだけで止まるんだった
ら、 その報道は必ずどこかでしっぺ返しは、 メディアという送り手に来る、 という事で、 私は
いじめじゃなくて、 いじめの克服という事に、 集中をしてね、 どうするのか。
今日は、 実を言うとそこの一部でしたが、 じゃあその時に目安箱を作ったらどうだ、 と言っ
たら、 うちの学生達では3日でごみ箱になります、 と言われました。 アンケート調査はある程
度意味があるかもしれない。 スクールカウンセラーで成功しているのは滋賀県です。 それから
例えば、 ある長野県でしたかね、 学校では、 いじめ撲滅隊というものを作って、 なんか印を付
けて歩いているけれども、 何かお互いにね、 チクリ合うようなものなので、 まぁ二重丸では無
いが、 無いよりはあった方が良いし、 死なない子を出さない為に必要なのかもしれない。 7つ
も8つも9つも、 でも最後に残ってくるのは、 やっぱりそのおせっかいな先生が、 全力でやっ
ぱりぶつかる。 そして同級生は体を張って1人でなくて何人かで組む。 それからお父さん、 お
母さんがいつも元気に帰ってくる小学生・中学生が、 鞄をぶん投げて遊んでくるよ、 と言う子
が突然、 自分の部屋に入って引きこもった時、 その時にやっぱり、 パソコンは必ず家の中では
居間の真ん中に1台だけ置いて、 ノート型パソコンを自分の部屋には持って行かないようにす
る。 そういう方法を今大学生が自ら考えていますが、 そのぐらいまでする時に、 本物だと思っ
て、 そういう事をね、 実を言うと、 どっかで送り手のメディアの中でやってみたい、 というの
が今日の報告の一部です。
野
口
私もマスメディア、 この、 今の日本のマスメディアの、 レベルの低さっていうのはこれは横
に置いておいて。 しかし、 こういうメディアがあって、 こういう報道をしっかりやっていく、
という事は大変重要な事で、 このメディアを批判する事は、 これは基本的に間違っている、 と
思います。
― 25 ―
皆さんにぜひ考えていただきたいのは、 今パソコンの話がありました。 ネットの中に、 たく
さんの情報があって、 ブログというのもありますけれども、 マスメディアだけでは無く、 情報
の送り手は多様になっています。 もし大学生であれば、 そういった所でチェックをして、 重要
な事は、 与えられた情報をただ受け入れていくだけでは無くて、 今からの学生にとって必要な
事は、 情報を自分で分析して、 仕分けをして、 整理をしていく、 という能力が求められている
という事です。 これも大学で本来ならばきちっと教えるべき事なんですけれども、 情報を単に
あるがままでなくて、 その情報を分析をし、 処理し、 そして加工していくという技術を身に付
けるという事ではないかと思います。 そういった意味で、 マスメディア、 プラスそういった新
しいネットの情報という事をその中に入れていただく、 という事が必要になってきます。 以上
です。
内
館
いじめの問題で例のあの手紙が、 「11月8日までにいじめの状況が直らなければ、 12日に自
殺します」 っていうのが来ましたけれども、 あれに関してですね、 先程福岡先生がおっしゃっ
ていたように、 かわいそう、 などと情緒的なマスメディアの報道がある訳です。 それで私はあ
る時にですね、 大学の教授と、 それから中国・アメリカ・イギリス・フランスに住んでいた事
もあるというビジネスマン4名に、 聞いてみたんです。 もしもこういう手紙が、 生徒から来た
時に、 その国々ではどうしますかと、 聞いたんですよね。 そしたら、 私にはもう想像も、 つか
ない答えが返って来ました。 全部同じ答えでした。 ばらばらに聞いたんですけれども、 全部同
じ答えが返って来たんです。 それが私自身には想像もつかなかったんですが、 中国・アメリカ・
イギリス・フランスにそれぞれいた人達が何て言ったかと言うと、 「そんな手紙は無視です」
と言ったんですね。 無視しますって。 えっ、 と驚いて、 何故ですか、 と聞いたならば、 あの手
紙には名前が書かれてない、 と。 差出人の名前も書いていないものは、 内容がどうあれ恐らく
その国では無視するでしょうっていう事を言った訳です。 私は非常に驚いたんですけれども、
でもその時に、 その少女なり少年なりが本当に死んじゃったら、 その国はどうするんですか。
無視していいんですか、 って聞いたら、 「それでも自殺予告などあれほどの事を書く以上、 名
前を書かなければいけません」 と、 その国では言うでしょうって。 名前を書いていない、 消印
によって豊島区なのか、 豊何とかなのか、 って想像して大騒ぎする状況です。 そんな中で、 一
生懸命に生きる事は素晴らしい事だから生きましょう、 と国を挙げてメッセージを送ったり、
必死に手を打つという事は、 その国々では、 私の知る限りでは考えられないという事を4人共
言っている訳ですね。 それで、 私が面白かったなぁと思ったのは 「その答えは、 無視」 という
答えは、 私の中でもありえない答えだったんで、 びっくりしたんですが。 少なくとも日本のマ
スメディアでは、 「無視」 という意見が例えあったとしても絶対に伝える事はできない。 だけ
れども、 そういう意見というのが、 やはり、 他の国であれ、 あるかもしれないという事は、 ど
こかに覚えていた方が良いと思う。 それに賛成する、 しないでは無くて、 考えていた方がいい。
その為にもマスメディアが流す事だけに、 踊らされてはいけないという気が致します。
小 泉
どうもありがとうございました。 時間になりましたので、 ここで終わりにしたいと思います。
本日は、 大変貴重なご意見をありがとうございました。 (拍手)
― 26 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
文
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
平
目
辰
彦
次
Ⅰ
劇作家としてのふじたあさやの出発
Ⅱ
伝統と近代の交差点―現代劇としての狂言をめぐって―
Ⅲ
説経節の<願望のリアリズム>と前進座の
さんしょう太夫
註
主要参考文献
追
記
Ⅰ 劇作家としてのふじたあさやの出発
ふじたあさや (本名・藤田朝也:1934∼) というきわめて現代的な劇作家が、
さんしょう太夫
を
はじめとする説経節などの語り物の系譜を源泉とする<語り物的演劇>を創造していく契機となったの
は、 能・狂言などの日本の伝統芸能との出合いによる。 特に狂言の様式から多くのドラマトゥルギー
(作劇法) をふじたあさやは摂取し、 その狂言の様式に現代劇のテーマを取り込んだ
面
(おもて) な
どの一連の創作劇を<現代の狂言>と称し、 連作として1960年代に発表した。 これらの作品集は、 昭和
45 (1970) 年9月15日に発行された
日本の教育1960
ふじたあさや作品集
(テアトロ刊) に収録さ
れている。
ふじたあさやは、 昭和9 (1934) 年3月6日、 東京都大田区大森に生まれる。 昭和19 (1944) 年、 10
歳の時に静岡県伊豆の山村に疎開したが、 昭和20 (1945) 年に病気で一度、 東京に戻り、 空襲も体験す
る。 この体験をふじたあさやは、
日本の教育1960
ふじたあさや作品集
の 「あとがき」 で次のよう
(1)
に述べている 。
1944年、 空襲を避けて縁故疎開したひよわな都会の少年だった10歳のぼくは、 疎開先の少年たちに
はげしくうちのめされた。 彼らにしてみれば薪も満足に背負えず、 麦も刈れない役立たずのぼくが、
高価な本や顕微鏡を持っているのは、 許せないことだったのだろう。 ことあるごとにぼくはいじめら
れ、 自尊心を傷つけられた。 ぼくの原体験といっていいかもしれない。
敗戦の年にふじたあさやは、 国民学校の6年生であった。 その後、 麻布中学に進み、 演劇部に入る。
― 27 ―
麻布中学の演劇部には、 のちに俳優として活躍する小沢昭一 (1929∼) や加藤武 (1929∼) らがおり、
2年上級には、 のちに劇作家となった福田善之 (1931∼) がいた。
昭和22 (1947) 年8月、 この学校在学中の2年生の夏、 日本橋三越劇場でふじたあさやは、 文学座の
第33回公演
女の一生
(森本薫作・久保田万太郎演出) を観て、 はじめて新劇体験をする。 以後、 演
劇部の仲間たちとふじたあさやの新劇通いが始まるのである。
ふじたあさやの演劇活動は、 麻布高校へ進学しても続き、 この高校時代に上級生の福田善之と、 それ
ぞれの習作戯曲を読み合い、 批評し合うことを通して演劇の魅力にとりつかれていったという。 そして
麻布高校より昭和27 (1952) 年、 早稲田大学文学部演劇科へ進み、 学内の劇団であった 「自由舞台」 に
参加する。 昭和28 (1953) 年、 大学2年生の時、 ふじたあさやは福田善之と合作した
富士山麓
を発
表した。 この時、 福田善之は東京大学仏文科の3年生であり、 ふじたあさやは早稲田大学演劇科の1年
生だった。
富士山麓
は、 昭和28年の東大五月祭で、 福田善之のいた東大合同演劇研究会によって初演され、
その秋には、 ふじたあさやのいた早大劇団 「自由舞台」 でも上演された。
この 富士山麓
は学生演劇界で当時、 大きな話題となり、 ふじたあさやはこの作品によって劇作家
としてのスタートを切る。 これは、 富士山麓の米軍演習地問題というアクチュアルな素材を扱った 「富
士山麓の射爆場基地反対闘争の芝居」 (野村喬) であった。
ふじたあさやは、 翌 (1954) 年大学を中退し、 テレビやラジオの台本の仕事をしながら、 その後、 戯
曲を書き続けていくのである。
1950年代半ばの演劇界は、 戦前までの演劇の延長線上にあり、 新劇界の主流は、 <社会主義リアリズ
ム>の全盛であった。 この<社会主義リアリズム>は、 昭和7 (1931) 年4月、 ヨシフ・スターリン
(1879―1953) の指導のもとにソビエト共産党中央委員会が文学芸術団体の再組織を決議、 同年10月、
全ソ作家同盟がスタートした時、 提唱されたものであった。
富士山麓
は、 そうした時代の中で生まれた<リアリズム>に貫かれた四幕構成の演劇であった。
それぞれの幕は、 漢詩の<起承転結>にあたる<発端・発展・転回・結末>に対応したものになってい
た。 舞台は、 山梨県南都留郡忍野村梨ヶ原に当時あった開拓部落である。 舞台面には、 ある開拓農家の
断面が示され、 背景には、 富士山の稜線がひろがっている。 舞台装置は、 各幕共通である(2)。 そこでは、
ある農家の生活がこと細かに<近代リアリズム>の手法によって描かれている。
演劇における<近代リアリズム>は、 西洋では、 エミール・ゾラ (1840―1902) によって提唱された。
ゾラは、 小説
テレーズ・ラカン
然主義>を唱え、
(1867) を発表し、 実証的な自然科学の手法を文学に導入し、 <自
テレーズ・ラカンへの序文
で演劇における<自然主義>の確立を提唱した。 ゾラ
は、 演劇が 「人生の実験室」 でなければならないと主張し、 舞台は、 現実の日常生活の断片を忠実に再
現したものでなければならないと考えたのである。 ゾラは、 そのためには、 舞台装置や衣装などをなる
べく本物通りであることを要求した。 そしてそこに登場する人物も真の人生を舞台の上で生きるリアリ
ティをもった人間でなければならないと考えたのである。
このゾラの要求に応えて登場した劇作家が、 ヘンリック・イプセン (1828―1906) である。 イプセン
は、 今日、 「近代劇の父」 といわれ、
人形の家
(1879) をはじめ
幽霊
(1881) や
民衆の敵
(1882)などによって徹底した演劇における<リアリズム>の手法を完成させた。 イプセンは、 舞台に人
生の断片を忠実に再現するために 「三単一の法則」 (three unities) を用いた。 この法則では、 場所と
時間と筋の<単一性>が重視された。 すなわち劇的事件の起こる場所が同一であること、 舞台に設定さ
れた時間経過が一日以内であること、 劇的行為もしくは筋が単一であることを条件とした。 この条件を
― 28 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
満たした戯曲は、 近代劇に限らず、 古代ギリシャのソポクレスの悲劇
オイディプス王
にもみられる
が、 古代ギリシャ悲劇では、 この 「三単一」 が法則にはなっていなかったのである。 それを法則化した
のは、 17世紀の古典主義者たちであった。 彼らは、 古代ギリシャ悲劇を模範とした古典主義的演劇を創
造し、 「三単一」 の守られた戯曲を 「真珠」 のように完成された作品と見做し、 「三単一」 の守られてい
ない作品を 「歪んだ真珠」 に喩え、 「バロック」 と称した。
イプセンに始まる<近代リアリズム>の演劇は、 古代ギリシャにおいて完成された古典主義的な方法
を17世紀を経て19世紀の近代に復活したものとみることができる。
ふじたあさやは、 「私を育てた戯曲・三十選」 の中でイプセンの
人形の家
客をぐいぐいと惹きつける」 「構成力」 に学ぶところがあったと述べている
を取り上げ、 その 「観
(3)
。
イプセンの近代劇を見る観客は、 舞台でおこなわれている出来事が人生の断片を再現したものである
と信じこみ、 舞台を暗い客席から息を凝らしてみるのである。 このように観客が舞台の主人公と<同
化>していく演劇を 「幻想演劇」 (illusion theatre) という。 その舞台には、 額縁というフレームの中
に現実そっくりに作られた劇的な装置が置かれている。 その額縁舞台で俳優は、 観客を意識せず、 登場
人物になりきって演技をおこなうのである。 このタイプの演劇は、 四つの壁で囲まれた一室におこって
いる出来事を、 その第四の壁をそっと取りはずして覗き見するようなものである。 これは、 「第四の壁」
理論と呼ばれる<近代リアリズム>の演劇における代表的な創造理論である。
この 「第四の壁」 理論によって生まれた近代演劇は、 演出家という独立した職能が確立され、 調和統
一のとれた舞台芸術になっていくのである。
西洋で近代演出の先駆をなしたのは、 ドイツのマイニンゲン公ヘルツォーク・ゲオルク二世 (1826―
1914) だといわれている。 彼は、 みずから宮廷劇場を建設し、 その長となり、 女優エレン・フランツを
妻として一座を組織し、 たくさんの人物を有機的に動かす 「アンサンブル」 演出を試みた。 また舞台装
置に厳密な時代考証を導入し、 舞台美術に<歴史的写実主義>を導入した。
このゲオルク二世の率いるマイニンゲン劇団は、 ヨーロッパ36都市を巡演 (1874―1890) し、 各国に
大きな影響を与えた。 特に近代演劇運動の先駆者であるフランスのアンドレ・アントワーヌ (1858―
1943) や近代演出論を大成するロシアのコンスタンチン・スタニスラフスキー (1863―1938) は、 この
マイニンゲン劇団の舞台から絶大な影響を受けたといわれている。
日本におけるこの近代演劇の本格的な受容は、 明治42 (1909) 年、 坪内逍 (1859―1935) の 「文芸
協会」 と小山内薫 (1881―1928) の 「自由劇場」 という二つの劇団によっておこなわれる。 この 「文芸
協会」 は、 シェイクスピア (1564―1616) の悲劇
プセンの
人形の家
ハムレット
などの翻訳劇を舞台で上演した他、 イ
なども上演した。 一方、 「自由劇場」 は、 イプセンの
ジョン・ガブリエル・ボ
ルクマン の翻訳劇を上演した。 このように 「文芸協会」 と 「自由劇場」 は、 近代の西洋演劇を日本の
舞台にそれぞれ紹介したのである。
大正時代には、 こうした翻訳劇に代わって日本の風土や人情に根ざした創作劇が発表された。 特に劇
作派の岸田国士 (1890―1954) の
古い玩具
(1924)、
チロルの歌
(1924)、
紙風船
(1925) など
には、 近代人の繊細な心理の綾が<心理的リアリズム>ともいえる暗示的な手法で描かれた。
ふじたあさやは、 こうした岸田国士の
である
(4)
紙風船
などから 「台詞の美しさ、 台詞の魅力」 を学んだの
。
大正13 (1924) 年6月には、 土方与志 (1898―1959) の発企と出資によって 「築地小劇場」 が開場し
た。 小山内薫は、 この劇場を 「演劇の実験室」 と呼んだ。 この劇場は、 日本唯一の新劇の牙城として終
戦の年の3月9日の大空襲で焼失するまで23年間存続したが、 劇団 「築地小劇場」 は、 創立から昭和4
― 29 ―
(1929) 年4月までの5年弱の存続にすぎない。 が、 その間に劇団 「築地小劇場」 は、 公演回数84回、
演目総数117作品を上演した。 その後、 この劇団は、 小山内薫の<死>を契機に 「新築地劇団」 と 「劇
団築地小劇場」 とに分裂して活動していくことになる。
この1920年代から1930年代の時代は、 <階級的客観的リアリズム>を標榜する<プロレタリア・リア
リズム>の演劇が全盛であった(5)。 その演劇の中心にいたのが、 村山知義 (1901―1977) であった。 彼
は、 「築地小劇場」 の舞台美術家として演劇界にデビューし、 その後、 心座、 前衛座、 左翼劇場を通し
て左翼演劇のプロパガンダとして活躍し、 <社会主義リアリズム>による<プロレタリア演劇運動>を
提唱し、 実践していくのである。
昭和9 (1934) 年7月、 村山知義は、 <新劇大同団結運動>を提唱し、 「新協劇団」 を結成する。 が、
戦時体制下の昭和15 (1940) 年8月、 逮捕され、 「新協劇団」 は解散するのである。
久保栄 (1900―1958) の
火山灰地
は、 昭和13 (1938) 年6月∼7月、 この 「新協劇団」 によって
築地小劇場で初演された。 この作品は、 <社会主義リアリズム>の創作方法に拠った代表的な戯曲であ
る。
ふじたあさやは、 この久保栄の
火山灰地
から、 いわゆる 「散らして書く書き方」 を学ぶ。 そして
昭和9 (1934) 年9月、 「創作座」 によって飛行館で上演された真船豊 (1902―1977) の 鼬 (いたち)
からふじたあさやは、 「方言の魅力」 をはじめて知ったと述べている(6)。 この
鼬
は、 劇作派の<心
理的リアリズム>ともプロレタリア演劇の<社会主義リアリズム>とも異なる<リアリズム>の演劇で
ある。 その登場人物の語る方言は、 作者の出身地である会津弁がベースになっている。 が、 その方言は、
木下順二 (1914―2006) のいう 「普遍的方言」 で書かれていた。 この 「普遍的方言」 とは、 「方言的な
ニュアンスやリズムや味わいを強く保ちながら、 どこの地方の人々にもわかる」 地域語をさす(7)。
戯曲におけるこの 「普遍的方言」 の巧みな使用は、 久保栄の
テル (1929) にも、 伊賀山昌三 (1900―1956) の
火山灰地
結婚の申込み
にも、 岸田国士の
牛山ホ
(1941) にも、 田中千禾夫 (1905―
1995) の マリアの首 (1959) にも、 秋浜悟史 (1934―2005) の ほらんばか (1967) にも見られる。
伊賀山昌三の 結婚の申込み は、 アントン・チェーホフ (1860―1904) のボードヴィル プロポーズ
を秋田弁に<方言化>した喜劇である。 初演は、 昭和16 (1941) 年、 「文学座」 で長岡輝子 (1908∼)
の演出によって上演されたが、 その後も文学座をはじめ各劇団によって 「方言の魅力」 を活かした<ド
ラマ>として上演され続けている。
戦後、 村山知義は、 「新協劇団」 の再建、 中央芸術劇場を経て昭和34 (1959) 年に 「東京芸術座」 を
結成し、 <社会主義リアリズム>による演劇創造と普及に生涯をかけたのである。
ふじたあさやの処女作
富士山麓
は、 そうした<社会主義リアリズム>の強い影響下にあった作品
である。 特にこの作品を書くにあたって 「伏線」 の張り方などを学び、 手本とした戯曲は、 久保栄の
火山灰地 などであったという(8)。
が、 昭和30 (1955) 年ごろからそうした<近代リアリズム>を志向する演劇とは異なる<アンチリア
リズム>を志向する演劇が評価されるようになってくる。
ふじたあさやは、 そうした 「超近代の模索」 時代が到来するのを予感しながら(9)、 「舞台の上に現実
のコピーを現出して、 それがいかに現実そのものと類似しているかを証明するリアリズム」 とは訣別し、
「一過性の感情の高揚のためだけに戯曲を書く」 のをやめるのである(10)。 そして 「傍観者の居心地の良
さから観客を追い立てるにはどうしたらよいか、 プロセニアム (額縁舞台の額縁) を越えて観客に対決
を迫るにはどうしたらよいか」 を真剣に考え(11)、 <近代リアリズム>と対峙し、 木下順二が開拓した
「民話劇」 の 「民話的世界への関心」 から
昔噺分別八十八
― 30 ―
(むかしばなしふんべつやそはち) を昭和
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
31 (1956) 年7月、 自ら演出し、 仮面劇場で初演するのである。 そして翌 (1957) 年5月には、 「民話
による」 と添え書きされた序章と終章のある四幕六場の
さんしょう太夫
を仮面劇場で初演する。 後
年、 ふじたあさやは、 この二作について 「リアリズム (=近代主義) へのこだわりが、 作品の世界を正
しくとらえることのさまたげになっていた」 と回顧し、 「民話的世界などといいながら、 近代主義的な
解釈を観客に押しつけていた」 と述べている(12)。
この 「リアリズム (=近代主義) へのこだわり」 や 「近代主義的な解釈」 を乗り越える方法を模索し
ていたふじたあさやは、 やがて 「民話的世界」 から 「狂言的世界」 へ進み、 一連の 「現代の狂言」 を創
造していくのである。
― 31 ―
伝統と近代の交差点
Ⅱ
河竹登志夫は、
― 現代劇としての狂言をめぐって ―
近代演劇の展開
の中で昭和30 (1955) 年前後を 「超近代の模索」 の時代と名づけ、
この時代を日本の演劇における 「伝統と近代の交流」 の時代と規定する。 この時代は、 日本の能・狂言
や歌舞伎などの伝統演劇の中の 「超近代的要素」 が注目されるようになり、 「伝統と近代の交流」 のう
えに第3の新しい現代演劇の可能性を見出そうと模索していた時代であった(13)。
日本の新劇界に能・狂言などの伝統演劇を新しい角度から再認識させる契機を作ったのは、 昭和27
(1952) 年2月、 文学座アトリエで上演された三島由紀夫 (1925―1970) の
ている 卒都婆小町
(演出:長岡輝子) と飯沢匡 (1909―1994) の
ある。 前者は、 三島由紀夫が古典の能
匡が中世フランスのファルス
特に飯沢匡の 濯ぎ川
卒都婆小町
濯ぎ川
近代能楽集
に収められ
(作・演出:飯沢匡) で
を題材に現代劇にしたものであり、 後者は、 飯沢
洗濯桶 (ル・キュヴィエ)
を題材にした狂言様式の翻案劇であった。
が文学座のアトリエで上演されると、 新劇界は、 日本の伝統芸能である 「喜劇
的対話劇」 の狂言に目を向けた。 そしてこの上演の翌 (1953) 年7月には、 この飯沢匡の 濯ぎ川 は、
武智鉄二 (1912―1988) 演出で茂山千五郎後援会の催しにおいて新作狂言として初演された。 この狂言
には、 姑の<性格描写>や亭主の<抵抗ぶり>などに新味が見られ、 戦後の新作狂言としては、 「初め
てすぐれた成果を得た」 ものといわれている(14)。
昭和29 (1954) 年、 ベニスで催された世界演劇祭では、 日本の能が絶大な反響・評価を受けた。 後年、
黒澤明監督は
蜘蛛巣城
(1957) においてシェイクスピアの悲劇
マクベス
を翻案したが、 そこに
は海外で高い評価を受けた能の様式や能面の表情などが随所に取り入れられていた。
このベニスでの世界演劇祭が開催された年の11月、 東京・新橋演舞場で 「能・狂言の様式による創作
劇の夕」 がおこなわれた。 演目は、 能様式による木下順二作 夕鶴 と狂言様式による岩田豊雄 (1893―
1969) 作 東は東
であった。 この両作品の演出は、 共に武智鉄二であった。
能様式による 夕鶴 では、 シテであるつう (片山博太郎:現・九郎右衛門) が能の装束を身につけ、
能面をかけ、 鶴が人間になった感じを表現した。 そしてつうは、 この舞台では、 全く声を出さず、 その
つうの気持ちは、 関西歌劇団のソプラノ・アルト・テノール・バリトンの四重唱のヴォーカルで表現さ
れた。 こうすることによって武智鉄二は、 つうが 「無声の声でしゃべっている感じ」 を表現しようとし
たのである(15)。 また原作の
夕鶴
では、 子供たちが登場するが、 この能様式の舞台では、 子供たちは
登場しない。 つう以外の役は、 すべて狂言方の茂山千之丞 (与ひよう) ・野村万之丞・野村万作が演じ、
それぞれ狂言の発声で科白を語った。 なお舞台は能舞台を思わせる簡潔なもので、 装置は能ふうの作り
物を一つ置いただけのものであった。 照明は工夫され、 「幻想的気分」 を表現していたといわれてい
る(16)。
一方、 狂言様式による
東は東
は、 狂言
茶子味梅
(ちゃさんばい) を近代劇化した岩田豊雄の
現代劇である。 この題名の 「東は東」 は、 19世紀の英国作家・詩人のジョゼフ・ラドヤード・キップリ
ング (1865―1936) の詩 「東と西のバラード」 (The Ballad of East and West) の一節 「あゝ、 東は
東、 西は西。 両者、 相見 (あいまみ) えることなからん。」 (
Oh, East is East,and West is West, and
never the twain shall meet,1889) という有名な言葉からとられたものである。 この舞台では、 互
いに愛し合っている夫婦が、 愛し合っているにもかかわらず、 「東は東、 西は西」 と理解し得ない人物
たちが登場する。 登場人物は、 唐人 (茂山七五三) とその女房 (万代峰子)、 伯父 (茂山千之丞) の三
人である。 音楽は、 芝祐久の作曲による雅楽が用いられた。 この舞台では、 初めて狂言師と女優が共演
して話題となった。
― 32 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
この武智鉄二演出による 「能・狂言の様式による創作劇の夕」 の上演意義は、 先ず 「能楽関係者以外
の、 一般文化人およびジャーナリストに、 狂言の芸のすばらしさを認識させたこと」 である。
またこの公演を皮切りに能や狂言の役者が他のジャンルの役者と共演するという道を開き、 日本の古
典芸能である能や狂言を現代の演劇として位置づけるきっかけにもなった点で、 その上演の意義は実に
大きなものである。 そしてこの公演で上演された
成」 であり、 「演出だった」 といわれている
夕鶴
も
東は東
も共に 「狂言を際立たせる劇構
(17)
。
昭和30 (1955) 年5月には、 日本橋の白木屋デパート (現・東急百貨店) の白木ホールを開放して狂
言を定期的に見せる 「白木狂言の会」 が発足した。 この 「白木狂言の会」 の演目や役者の決定などの企
画は、 野村万蔵が担当した。 この 「白木狂言の会」 の発足した翌月に
芸術新潮
が、 「狂言ブーム」
という表題で飯沢匡の文を載せ、 <狂言ブーム>という言葉がジャーナリズムで流行するようになる。
こうした狂言界の盛況の中で同年10月に京都の 「狂言を見る会」 において狂言様式による木下順二の
彦市ばなし が、 武智鉄二演出で初演された。
この
彦市ばなし
は、 木下順二が昭和18 (1943) 年ごろ熊本県の民話を素材として書いた初期の
「民話劇」 で科白が熊本方言で書かれている。 この作品は、 戦後、 昭和23 (1948) 年に木下順二が主宰
する 「ぶどうの会」 で試演され、 昭和28 (1953) 年4月、 「ぶどうの会」 の第8回勉強会でも上演され
ている。
武智鉄二の演出による狂言様式の
彦市ばなし
では、 「原作を一字一句削らないこと」 「能舞台での
狂言様式をフルに生かすこと」 「近代劇的な解釈に立って演じること」 を演出の柱として上演された。
彦市を茂山千之丞、 殿様を茂山七五三、 天狗の子を野村万作が、 それぞれ演じた。 この狂言様式による
彦市ばなし
で注目すべき点は、 原作の熊本方言の台詞と狂言師の語る物言う術と狂言のもつ演技様
式が実に見事に能舞台の空間でマッチしていたことである(18)。
武智鉄二は、 この公演のあと同年12月、 東京・産経会館国際会議場で 「円形劇場形式による創作劇の
夕」 (1955) を制作・演出し、 <狂言ブーム>に拍車をかけた。 河竹登志夫は、
近代演劇の展開
のな
かでこの公演が、 能楽師・狂言師・オペラ歌手らとの共演で創造され、 「近代額縁式を破った新形式」
であった点を高く評価し、 これを 「超近代の模索」 の時代の起点となる現象のひとつとしてあげてい
る(19)。
この公演の演目は、 マイム 月に憑かれたピエロ (アーノルド・シェーンベルク作曲:アルベール・
ジロー作詞) と現代能
月に憑かれたピエロ
綾の鼓
(三島由紀夫作) の二作品だった。
では、 主演のピエロを狂言師の野村万作が演じ、 アルルカンを能楽師の観世
寿夫が、 それぞれ無言で抽象的な動きで演じた。 コロンビーネは、 関西のオペラ歌手の浜田洋子が演じ、
このオペラ歌手だけが歌を歌って声を出した。 振り付けは、 武智鉄二。 その基本的な動作は、 能・狂言
の動きだが、 一種のマイムのような動きがその振り付けの特色となっていた。 ピエロは、 半仮面をつけ、
タイツをはき、 スカートのような薄い紗の衣装をまとっていた。 これは、 日本の伝統芸能である能・狂
言の世界で演じる能楽師や狂言師が出演する舞台としては、 きわめて前衛的な 「実験劇」 ともいえるも
のであった(20)。
綾の鼓
では、 古典能の
綾の鼓
を素材にしながらも、 時代を現代にした劇で、 女優以外は皆、
能面か狂言面をつけ、 演じた。 ビルの法律事務所に勤めている老小使の岩吉が向かいの洋装店に来る謎
の貴婦人・華子に懸想し、 憤死し、 怨霊になってあらわれるというものである。 岩吉を能楽師の桜間道
雄 (金春流) がナッパ服に 「三光尉」 (怨霊になってからは悪尉) の面をかけ演じ、 華子を能楽師の観
世静夫 (観世流) がイブニングドレスに 「増」 の面をかけ演じた。 伴奏は、 室内楽が用いられた。 この
― 33 ―
他、 華子の取り巻きも日本舞踊家の藤間を狂言師の茂山七五三 (大蔵流) が和服に 「ウソフキ」 の面を
かけ、 学生の戸山を狂言師の茂山千之丞 (大蔵流) が大きなリボンタイをつけた派手な洋服に 「中将」
の面でそれに眼鏡をかけ、 外交官の金子を野村万之丞 (和泉流) が蝶ネクタイをした洋服で 「武悪」 の
面をつけ、 それぞれ演じた。
この 円形劇場形式による創作劇の夕
の上演の意義は、 能・狂言の 「面が洋服にでもあう」 という
ことと、 「弦楽器の伴奏」 で現代の口語表現の台詞を 「歌うようにしゃべれる」 ということを実証した
ことであった(21)。 また当日の会場には、 小説家の志賀直哉 (1883―1971) をはじめ、 劇作家、 評論家、
歌舞伎役者、 能・狂言の関係者らといった多彩な顔ぶれが揃った。
こうした<狂言ブーム>がおこった昭和30 (1955) 年は、 第1次高度経済成長期で有史以来の好景気
といわれ、 俗に 「神武景気」 と称された。 翌 (1956) 年の経済白書には、 「もはや戦後ではない」 とま
で記された。 この時代の武智鉄二は、 まさに有史以来の 「演劇界の風雲児」 であり、 常に日本の伝統芸
能の世界に刺激を与え、 話題を提供した中心的人物であった。
新劇界の木下順二や飯沢匡らの劇作家たちがこの武智鉄二の制作・演出の舞台公演に協力した結果、
新劇界をはじめ一般の人々が日本の伝統芸能である狂言を現代劇として認識し、 その現代劇としての狂
言に注目し、 世にいう<狂言ブーム>が誕生したのである。
この<狂言ブーム>に大きく貢献したのは、 武智鉄二のこうした舞台公演の他に白木屋の主催でおこ
なわれた 「白木狂言の会」 がその<狂言ブーム>に大きな拍車をかけた。 この 「白木狂言の会」 は、 白
木屋デパートに買い物に来た普段着の主婦や学生たちに安い入場料で気軽に狂言を見てもらおうという
趣旨で昭和30 (1955) 年5月から昭和38 (1963) 年6月までの計96回にわたる公演で三〇二番の狂言を
上演した。 このデパートのおこなった文化事業は、 その後の狂言の普及に大きな功績を残した。
劇作家のふじたあさやが狂言をはじめて観るのも、 昭和32 (1957) 年から昭和33 (1958) 年ごろであっ
た。 当時、 ふじたあさやは、 新劇では考えられない狂言の演技や自在きわまりない舞台の 「面白さ」 の
虜になり、 この 「白木狂言の会」 に通いつめるのである(22)。 そしてふじたあさやは、 狂言を新劇と比較
して 「時間、 空間が飛躍」 しており、 「異質な時間、 異質な空間が、 一人の俳優の肉体を媒介にしてぶ
つかりあうところ」 に<近代リアリズム>の演劇とは異なる 「もうひとつのドラマ」 を発見するのであ
る(23)。
西洋演劇における<ドラマ>には、 アリストテレスが
詩学
の中で述べているように 「発見」 (ア
ナグノーリシス) と 「逆転」 (ぺリぺティア) が必要である。 そしてこの 「発見」 と 「逆転」 が同時に
おこる時が、 最も劇的な瞬間なのである。 そしてその瞬間に観客は、 「恐れ」 や 「あわれみ」 を伴う感
動によって 「カタルシス」 (浄化) を引き起こすのである。
「劇」 という漢字は、 もともと 「虎」 と 「猪」 が牙や爪を立てて激しく闘っている有様を描いた象形
文字だが、 この漢字に示されるように<ドラマ>とは、 二つの力の対立関係から生まれる。 そこに 「劇
的葛藤」 が生まれ、 「価値の転換」 が生じるのである。 古代ギリシャのソポクレスの描いた悲劇
オイ
ディプス王 は、 そうした西洋演劇における<ドラマ>の典型なのである。
この 「劇的葛藤」 を純粋な対話 (ダイアローグ) によって作りあげていくのが、 西洋の写実的な<ド
ラマ>なのである。 その基本構造は、 常に劇作家によって書かれた戯曲がその中心にあり、 その戯曲に
は、 場所と時間と筋の、 いわゆる 「三単一」 の法則を守ったアリストテレス的な<リアリズム>の精神
で貫かれている。 その精神は、 ソポクレスの古代ギリシャ悲劇からイプセンの近代劇に至るまで連綿と
継承されているのである。
一方、 日本の古典芸能における<ドラマ>は、 西洋演劇における<真>を求める写実的な<ドラマ>
― 34 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
と異なり、 さまざまな<語り>の様式によって展開していく叙事的な<美>を求める<ドラマ>なので
ある。 そこでは、 劇作家によって書かれた<ことば>よりも役者の<身体性>によって表現された家の
<芸>に重点が置かれ、 その<芸>によって完成された<型>を代々子孫に伝承していくのである。
この日本の古典芸能にみられる<ドラマ>は、 <非アリストテレス的演劇>であり、 ベルトルト・ブ
レヒト (1898―1956) がいう<叙事的演劇>の性格をもっている。 つまり<アリストテレス的演劇>の
「三単一」 を放棄し、 多場面の 「叙事的構成」 を有し、 「舞台は出来事を語る」 形式になっているのであ
る(24)。
ふじたあさやは、 ブレヒトの<叙事的演劇>に触れる以前に<叙事的演劇>の性格を有する日本の古
典芸能である狂言に先ず触れていくのである。
狂言は、 日本のルネッサンスと呼ばれる 「人間的な、 民衆的な文化が育ってくる」 南北朝時代 (1336―
1392) から室町時代 (1338―1573) の末期にかけて生まれた日本の 「喜劇的対話劇」 だが、 ヨーロッパ
の喜劇 (コメディ) に大きな影響を与えたイタリアの古典仮面喜劇 「コメディア・デラルテ」
(Commedia dell
arte) もルネッサンスの 「人間的な、 民衆的な文化が育ってくる」 時代に誕生した(25)。
両者は、 共に同じような時代におこり、 太郎冠者やアルレッキーノのような類型的な 「ストック・キャ
ラクー」 がおり、 それらの喜劇的人物が類型的な状況 (ストック・シチュエーション) の中で登場し、
即興的な演技をし、 観客を笑わせるのである。 特に狂言の<笑い>には、
な<おおらかな笑い>、
蝸牛
<不気味なナンセンスの笑い>、
のある笑い>、
水掛婿
(かぎゅう) のような<無邪気な笑い>、
神鳴
(かみなり) や
首引
髯櫓
(ひげやぐら) のよう
茸
(くさびら) のような
(くびひき) のような<童話の明るさ
(みずかけむこ) のような<ほろにがい笑い>、
川上
(かわかみ) のような
<悲しい喜劇>などの様々な<笑い>がある。
ふじたあさやは、
太郎冠者ものがたり
でこの<悲しい喜劇>の
どある狂言の中で、 これは一番悲しい話」 と述べ
賛している
(26)
川上
を取りあげ、 「二六〇番ほ
、 「日本の演劇の中でも、 最高傑作のひとつ」 と絶
(27)
。
この狂言では、 盲目の夫が主役であるシテで、 その妻が相手役のアドである。 大和の国吉野の里に住
む盲目の夫は、 山奥の川上というところに何事もかなえてくれるありがたい地蔵菩薩があると聞き、 出
かけていく。 お堂の中で一心に 「南無地蔵菩薩」 と唱え続けていると、 夫は目が見えるようになる。 杖
を捨て夫が家に帰る途中、 迎えに来た妻と出会い、 共に喜び合う。 が、 夫は妻に目が見えるようになっ
たのは地蔵菩薩のお蔭だが、 離婚を条件に地蔵菩薩は目を見えるようにしてくださったと語る。 妻は、
その話を聞き、 地蔵菩薩を罵倒し、 再び夫の目が見えなくなっても別れないといい、 やむなく夫も添い
遂げる覚悟を決める。 すると、 目が次第に痛くなり、 たちまち元の盲目に戻ってしまう。 そして最後に
夫が 「手を引いてたもれ」 と言うと、 妻が 「心得ました」 と言って、 手をとって幕に入り、 終わる。
この 川上 の狂言は、 日本の数少ない悲劇的な<ドラマ>のひとつである。 が、 ヨーロッパと日本
の悲劇的な<ドラマ>では、 主人公の描き方がそれぞれ異なっているとふじたあさやは考える。 すなわ
ち 「ヨーロッパの悲劇の主人公が、 神=運命とたたかって雄々しく敗れて行くのに対して、 日本の主人
公は、 運命を自覚してわが身に引き受けてしまう生きかた」 をするのである(28)。
川上 は、 このような主人公を登場させ、 「狂言のシリアスな面や悲劇性」 を表出させる演劇的要素
をもった 「観客の想像力に訴える面がとても強い」 作品であり(29)、 かつて
川上
を演じた和泉流の狂
言師・野村万作の演技は、 「盲人の悲しさがとても痛切に伝わってくるもの」 であったといわれてい
る(30)。
ふじたあさやも 「演劇というのは観客の想像力を刺激して、 想像力に支えられる芸術」 であり、 その
― 35 ―
意味で 「狂言は、 演劇のそういう特徴を、 もっとも強く持っている演劇」 であると述べている(31)。 この
ようにふじたあさやは、 <非アリストテレス的演劇>である狂言をシェイクスピア (1564―1616) の<ド
ラマ>のように 「観客の想像力を刺激して、 想像力に支えられる」 演劇であると捉えているのである。
シェイクスピアの史劇
リチャード三世
の冒頭では、 主人公リチャードの長い独白があるが、 それ
を語る役者は、 英文学者の喜志哲雄が指摘するように 「リチャードという特定の人物」 を演じながら、
同時に 「観客に必要な情報を提供する」 語り手でもある(32)。
狂言
川上
では、 「大和の国、 吉野の里に、 住いいたす者でござる」 という 「名乗り」 でその人物
を表現し、 観客の想像力を刺激し、 その作品の確固としたイメージを観客に与えるのである。 狂言は、
シェイクスピアの<ドラマ>のように自分の演じる役柄を宣言するところから演技が始まるのである。
大蔵流の狂言師・茂山千作の演ずる狂言
惣八
(そうはち) を喜志哲雄は観て、 先ずその 「名乗り」
に注目し、 「人物が自分のおかれている状況を説明するのは、 狂言では少しも珍しくない」 が、 <近代
リアリズム>の 「散文写実劇」 では絶対にあらわれないと指摘する(33)。 <リアリズム>の束縛から抜け
出す方法を模索していたふじたあさやも同様の指摘をおこない(34)、 狂言に依って立てば、 <リアリズ
ム>の袋小路から抜け出せると考え、 何編かの 「現代の狂言」 を創作するのである。
その第一作目は、 昭和35 (1960) 年12月、 かなもじ文芸誌 「ECRIBIST」 に発表された
と酒と役人と
おばあさん
である。 翌 (1961) 年には、 「現代の狂言」 の第二作目としてふじたあさやは、 同誌に
穴 を発表する。
「現代の狂言」 として創作された第一作目の
おばあさんと酒と役人と
では、 時代が 「現代」 に設
定され、 場所が 「ある山村」 になっている。 登場人物は、 税務署の役人とその下役とおばあさんの三人
である。 舞台は能舞台が想定されている(35)。 先ず税務署の役人、 続いて下役、 おばあさんの順に登場し、
下役とおばあさんは、 舞台後方に坐り、 役人は正先へ出て、 次のように名のる(36)。
役人
「わしは、 このあたりの税務署の役人じゃ。 噂によると、 近頃近在の村々で、 われわれ役人の
目を盗み、 ひそかに酒を作るものがあるということじゃ。 まったくふとどきな奴等じゃ。 そこ
で今日は、 ひそかに近在の村々を調べてまわり、 ふとどき者を見つけ出し、 ひとつ点数をかせ
ごうと思う。 まず、 下役の者を呼びつけて、 一緒に行かせることにしよう。」
この冒頭の役人の 「名乗り」 の後、 下役が呼び出され、 役人のカバンを持ってくるように言いつけら
れる。 この時、 下役は、 カバンを取りに行きながら、 次のような 「傍白」 (アサイド) を述べる。
下役
「これはえらいことになった。 良い思いつきなどといわなければよかった。」
役人
「何じゃ。」
下役
「いえ、 こちらのことで。」
下役は、 役人について歩いて行く。 ここから別の場所へ移動することをあらわす狂言の 「道行」 とな
る。 二人は、 舞台を三角に廻り歩いて、 歩行のありさまを示す。
役人
(歩きながら) 「ところで、 街道をこのまま行けば、 われわれ二人の行くことがたちまち村中に
知れ渡り、 証拠の酒をかくされて、 ふとどき者を見つけることが出来なくなるかも知れんな。」
下役
「仰せの通り、 街道をこのまま行けば、 われわれの行くことが村中に知れ渡り、 ふとどき者を
― 36 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
見つけることが出来なくなるかも知れませんな。」
役人
「それではひとつ山道へ入り、 山越えをして村へ行こう。」
下役
「なるほど、 それがようございましょう。」
役人
「さあさあ、 こいこい。」
下役
「まいります、 まいります。」
下役は、 ついて行く途中で立ち止まって次のような 「傍白」 を語る。
下役
「ああ、 山越えとは難儀なことだ。 こんな難儀な思いをしても、 おらの点数になるわけじゃな
し、 ああ、 おらはもう帰りたいわ。」
観客は、 こうした 「傍白」 を通して下役の<こころの声>を聞くのである。 こうした 「傍白」 は、
「独白」 と共にシェイクスピアの<ドラマ>ではよく用いられるが、 <近代リアリズム>の 「散文写実
劇」 では考えられないことである。
二人は、 歩き続けながら、 一旦、 橋がかりより退場する(37)。 舞台の後方にいたおばあさんは立ちあが
り、 前へ出て次のように名のる。
おばあさん
「わしは、 この村のばばじゃ。 今年は米がようできたので、 酒の出来もきっと格別じゃ
ろう。 さて、 ひとくち試してみよう。 ヤットナ。 (と器のふたをとる仕草) なんと良い
匂いじゃ。 鼻がもげそうじゃ。 (と杓子に酒をくみ、 飲む仕草) なんとうまい酒じゃ。
のどが鳴りそうじゃ。 いやいや、 こんなうまいものを作るなとは税務署の役人も気が利
かんのう。 もうひとくち試してみよう。 (と酒をくんで、 飲む仕草) いや、 まったくう
まい酒じゃ。 あごがはずれそうじゃ。 なんの楽しみもないのじゃけえ、 せめてこれくら
いの楽しみは残しておいてもらわにゃァ。 もうひとくち試そう。 (とまた酒をくんで、
飲む仕草)」
役人と下役人は、 このおばあさんの 「名乗り」 の間にふたたび橋がかりより登場する。 役人は歩きな
がら、 一の松で立ち止まり、 「いや、 そういううちにもう村へ来た。」 と語ると、 下役人も立ち止まり、
「なるほど、 村へまいりました。」 と語る。 この台詞で観客は、 二人が目的地についたことを知るのであ
る。
狂言師の野村万作は、 狂言のこうした 「名乗り」 や 「道行」 を 「とても大事」 にしていると述べてい
るが(38)、 ふじたあさやもこうした 「名乗り」 や 「道行」 の 「説明しながら役を演じる方法」 に注目し、
これは 「近代劇の演技とは別のものだ」 と述べている(39)。
役人が 「もう村へ来た」 と言えば、 狂言の舞台空間では、 ぱっと場面が変わり、 そこは一変して村に
なる。 また役人が 「あれに家が見える。 まず、 あの家から調べよう。」 といい、 下役人が 「トントント
ン、 おいおい。」 とその家の戸を叩く仕草をすると、 ぱっと舞台空間に一軒の家が観客の想像力によっ
て生み出されるのである。
おばあさんは、 戸口で誰やら呼ぶ声がするので、 酒の器を隠す仕草をおこない、 「はい、 今あけます
けえ。」 「ザラザラザラ。」 と戸をあける仕草をし、 「はて、 どなたじゃな。」 と声をかける。 下役が 「税
務署のものだ」 と言うと、 おばあさんは、 「傍白」 で 「そりゃ、 そりゃ、 そりゃ。 来たわ来たわ。 ええ、
― 37 ―
どうしよう。」 とこころのうちを観客にあかす。 そして下役に 「酒を作っておらんか」 と聞かれ、 おば
あさんは、 耳の遠いふりをして 「はい、 作っております。」 と述べる。 役人と下役は、 それを作ってい
る 「山の炭焼きがまの所」 へ案内しろと言うが、 おばあさんは、 大きな釜を持ち出す仕草をし、 「サラ
サラサラ。」 と米をはかる仕草をする。 下役が 「飯を食わせろとはいわんぞやい。」 と言うと、 おばあさ
んは、 「息子が腹をへらしてもどりますけえ。」 と米をとぎにかかる。 役人は、 「これではこの家一軒し
らべるだけで日が暮れてしまう。 こんなばあさまは相手にせずに、 ほかの家に行こう。」 と言う。 が、
下役は、 「もしこのばあさまが思いの他の大物だったとしたら、 なんとなさいます。」 と言い、 おばあさ
んに酒を作っている本数を聞いてみる。 すると、 おばあさんが 「五〇本はあるじゃろうかのう。」 と言
うので、 役人は、 「これは大物じゃ。 もうほかへは行かぬ。」 と述べ、 下役と二人でお互いにタバコを出
して吸う仕草をする。 おばあさんは、 相変わらず、 のんびりと、 へっついの火を 「パタパタパタ。」 と
あおぎ続けている。 しばらく<間>があっておばあさんは、 御飯がたけたので、 「御案内いたしましょ
う。」 と二人の先に立って歩きはじめる。 三人は、 舞台を廻って歩行のありさまをあらわす。 おばあさ
んは、 急に立ち止まって 「隣りへ留守を頼む」 と、 橋がかりへ行って、 観客席に向い、 次のような台詞
を語る。
おばあさん
「やい、 今うちへ役人が来よったぞ。 いそいで近所へこのことを知らせて、 早うみんな
酒の処置をせえ。 わしはこれからあれらを連れて、 二里ほど奥の炭焼がまの所まで行く
けえ、 その間にうちの戸棚の酒もかたづけといてくれ。 頼んだよ。」
おばあさんは、 再び素知らぬ顔で役人のところへ戻り、 案内をする。 が途中で 「ア、 ア、 アイタタタ。」
としゃがみこんでしまうので、 下役がおばあさんをおぶって歩き出す。 が背中の重さに耐えかねた下役
は、 おばあさんの体を役人と二人でになう。 さんざん歩きまわり、 ようやく炭焼がまに着く。 役人と下
役は、 「証拠のもの」 を探し出そうとするが、 見つからない。 下役がおばあさんへ 「酒は一体どこに作っ
てある。」 と問い質すと、 おばあさんは、 耳の聞えないふりをして 「ああ?」 「あの高いところのがうち
の竹でござんす。」 と語る。 下役が 「あれは竹だ。 酒ではない。」 と言うと、 今わかったという素振りを
しておばあさんは、 「すみませんでしたのう。 わしは耳が遠うござんすけえ、 竹と聞いてしもうた。 す
みませんでしたのう。 酒は作っちゃおりません。」 と語る。
役人は、 「さてもさても憎いやつじゃ。」 と腹を立てるが、 下役は、 「酒と竹か。 なるほど、 五〇本、
ハハハハハ。」 と面白がる。 役人は、 「黙れ、 黙れ。 ええ、 もうこんなふとどきな村へは、 またとこんぞ。
頼まれても来るものか。」 と、 下役と共に歩き出すと、 おばあさんが、 役人を呼び止め、 「二人しておぶっ
て行ってつかァさい。」 と頼む。 が役人も下役も二人して 「許してくれい。」 と頼むと、 おばあさんは、
「あの横着者。 誰かつかまえてつかァさい。 逃がすものか、 逃がすものか。 やるまいぞ、 やるまいぞ。
やるまいぞ、 やるまいぞ。」 と、 「追い込み留め」 で終わる。
狂言の舞台空間には、 「散文写実近代劇」 の額縁舞台のように<幕>がないので、 終わりの気分を盛
り上げるためにこのような 「留め」 を用いるのである。 特にこの
れている 「追い込み留め」 は、
ふじたあさやが、 この
の歴史を掘り起こす
附子
女たちの作った話」 である
で用いら
(ぶす) などに見られるように狂言の代表的な 「留め」 である。
おばあさんと酒と役人と
民話を生む人々
おばあさんと酒と役人と
を書くにあたって題材としたのは、 地方の反権力
(1958) を書いた山代巴 (1912―2004) の現代の民話 「比婆の
(40)
。 そこには、 <ウソ>をつくのも民衆の大事な知恵であるという思想が示
されている。
― 38 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
ふじたあさやは、 このシンプルに訴えかける狂言様式による 「現代の狂言」 においてひとりのおばあ
さんを通してしたたかに生きる民衆の姿を描き、 現代の<ドラマ>としての狂言を再創造したのである。
「現代の狂言」 の第二作目として翌 (1961) 年に書かれた
いわれる上野英信 (1923―1987) の
追われゆく坑夫たち
穴
は、 「戦後ルポルタージュの古典」 と
(1960) を題材にしている。
時代は 「現代」 であり、 場所は 「ある炭鉱に近い村」 に設定されているが、 舞台は九州の筑豊炭田
(福岡県) が舞台となっている。 登場人物は、 つぶれ炭鉱の坑夫1・2・3と地主の大旦那の四人である。
先ず地主の大旦那が登場して名のり、 「果報は寝て待て」 と舞台後方へ行って坐り、 寝て待つ。 そこ
へつぶれ炭鉱の坑夫1が登場し、 一の松で次のように名のる(41)。
坑夫1
「このあたりのつぶれ炭鉱の坑夫です。 わしらの知らぬ間に、 山主が山を売り払い、 払い残
した給金も払わんと、 有金持って雲を霞と逃げてしまったばかりに、 このていたらくです。
もう十円の金もなく、 もう三日も米の飯を食べていません。 なんぞよい稼ぎ口はないかしら
んと、 足を棒にして歩き廻ってみましたが、 石炭を掘るより他に能のないわしらのこと、 誰
も使ってくれません。 もう精も魂もほとほと尽き果てました。 そこで今日は、 坑夫仲間に片
棒をかつがせ、 かねて強欲と噂のある、 山ひとつ向こうの地主の大旦那を、 たばかりだまし
てやろうと思います。 まず坑夫仲間を呼ぶとしましょう。」
この坑夫が奥へ向って仲間たちを呼ぶと、 坑夫2・3が 「来たぞ、 来たぞ。」 と橋がかりへ登場する。
三人は、 相談し合って強欲な地主の大旦那をだまして飯にありつこうと企む。 橋がかりから本舞台へ進
み、 三人は舞台を三角にまわり歩いて、 歩行のありさまを示す。 坑夫たちは、 歩きながら、 「あの大旦
那がうまくわしらの話にのれば、 向こうふた月は食いっぱぐれがないというものだ。」 と言ううちに大
旦那の家に着く。
三人は立ち止まり、 示し合わせた通り、 地主の大旦那を呼び出し、 「耳よりのもうけ話」 をもちかけ
る。 地主は、 傍白で 「やっぱり果報は寝て待つものじゃ。」 と言うと、 坑夫たちのその 「もうけ話」 に
聞き入るのである。 坑夫たちは、 「大旦那さまの持ち山の下に」 「良い炭層」 があって 「ひそかに盗み掘
りをすれば、 何百万の大もうけ」 になり、 「掘りはじめてからその炭層に当たるまで」 「ふた月もあれば
充分」 であると語る。
地主の大旦那は、 坑夫たちに日に五百円支払うことを約束し、 承知する。 そして大旦那は、 坑夫たち
と炭層のある自分の持ち山を一緒に見に行くことにする。 その山に着くと、 大旦那は 「さっそく掘り出
してくれ。」 と坑夫たちに頼み、 坑夫たちは掘り始める。
舞台の後見は、 坑夫たちに道具をもたせる。 坑夫たちは、 めいめい 「ヤットナ、 ザク。 ヤットナ、 ザ
ク。」 「ヤットナ、 ザラザラザラ。」 「ヤットナ、 バラバラバラ。」 と、 ツルハシをふるい、 スコップを使っ
て、 坑道を掘る動きをする。
地主は、 「なんと、 何百万じゃ、 何百万。」 と言いながら、 そそくさと橋がかりから退場する。
坑夫たちは、 奥へ奥へと掘り進むうちに次第に真剣になって働き始め、 三人の仕草は、 だんだん熱が
入って力強くなる。
坑夫1
「そら、 もうじきだ、 ザク。」
坑夫2
「もうひと息だ、 ザラザラザラ。」
坑夫3
「もうすぐだ、 バラバラバラ。」
― 39 ―
地主は橋がかりへ登場し、 一の松で 「あれから数えて、 もう今日は五十九日、 あすでいよいよふた月
じゃ。 日に五百円ずつ、 ふた月の間、 あいつらに払い続けるのは、 身を切られるよりもつらかったぞ。
だが、 それも今日まで。 あすからは、 それが何百万の大もうけになって、 ふところへ返ってくるという
もんじゃ。 だが、 本当にあすは炭層に当たるのかしらん。 なにやら心もとなくなってきたぞ。 どんな様
子か、 ひとつのぞいてみることにしよう。」 と語り、 舞台へやってくる。
坑夫たちは、 えらい勢いで掘り進め、 やっとのことで<穴>の中に入ってきた。 その坑夫たちの働く
姿を見て地主は、 「何百万じゃ、 何百万。 ええ、 こうしてはいられない。 祝いの支度じゃ。」 と、 橋がか
りへ駆け込む。
坑夫たちは、 相変わらず、 かけ声をかけながら、 掘り続け、 やがてそのかけ声は、 叫びとも呻きとも
つかぬ声に変わる。 坑夫たちの掘る姿は、 「もはや狂気の姿」 である。
気がつくと、 「炭層に当たる」 と約束した 「今日はふた月め」 である。 坑夫たちは、 「もうすぐ地主の
大旦那が、 イシは出たかと、 目の色かえてやってくるにちがいない。」 から 「どうしよう。」 と思うが、
結局 「かねてしめしあわせた通りに」 やることになった。 三人がそれぞれ柱に寄って、 物かげにかくれ
る様子でいると、 地主が橋がかりから登場し、 「そろそろ宝物にお目にかかるとしよう。」 と舞台に向っ
て歩き出し、 <穴>の奥までやってくる。
地主 「いや、 そういううちに穴の奥じゃ。 (見まわして、 誰もいないのに気づき) やっ、 おらん。 ど
うしたことじゃ、 誰もおらん。 (探しまわる) おい、 おい。 どこへ行った。 誰もおらん。 これはどうし
たことじゃ。 どうしたことじゃ。 (ハッと気づいて、 ひざを打つ) さては、 あの坑夫ども、 わしをたば
かりだましおったな。 ええ、 腹が煮える、 腹が煮える。 九万もの金を、 つぶれ炭鉱の坑夫どもにただも
うけされた。 どうしてくれよう、 どうしてくれよう。 いや、 まだ遠くへは行くまい。 ひっつかまえて有
金残らず吐き出させずにはおくものか。 (大声で) 待て、 坑夫ども。 金を返せ、 金を返せ。 やるまいぞ、
やるまいぞ。 やるまいぞ、 やるまいぞ。」
地主が喚きつつ、 橋がかりへ走り込むと、 三人の坑夫たちは、 そっと物かげから出る。
坑夫1・2・3
「アハハハハハハ。」
坑夫1
「どうだ、 見てやれ、 あのかっこう。」
坑夫2
「なんと、 大あわてで駆けて行くわ。」
坑夫3
「強欲地主め、 まるで犬だ、 犬ころだ。」
坑夫1・2・3
「アハハハハハハ。」
長い間。
坑夫1
「もう、 掘らなくてもいいのだな。」
坑夫2・3
「もう、 掘らなくてもいいのだな。」
間。
坑夫1
「なあ、 掘りたいのう、 本当のイシを。」
坑夫2
「掘りたいのう。」
坑夫1・2・3
「本当の石炭を。」
間。
― 40 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
三人は、 静かに退場する。 坑夫たちの 「本当の石炭を。」 「掘りたいのう。」 という台詞には、 地の底
の炭鉱夫として生きてきた坑夫たちの労働に対する姿勢が示されている。
上野英信の 追われゆく坑夫たち では、 一生を暗黒の地底で働きつめたひとりの老婆の 「地獄極楽、
いってきたもんのおらんけんわからん」 が、 「この世で地獄におるもんが地獄じゃ。」 という呪文のよう
につぶやく言葉が紹介されているが(42) 、 そうした 「この世で地獄」 の炭鉱で 「狂気の姿」 となって
<穴>を掘る労働をしてきた坑夫たちが、 日本の高度経済成長を支えたてきたのである。
ふじたあさやの 「現代の狂言」 の
穴
では、 そうした地底で黙々と働いてきた坑夫たちが、 雇い主
が給金も払わずに逃げてしまったために働く場を失い、 三日も飯を食べていない貧困の中で飯にありつ
くために強欲な地主をだまし、 「ふた月」 の間、 食事と給金を得て<穴>を掘り続ける姿を描いている。
が、 坑夫たちは、 毎日、 <穴>を掘り続けているうちに本気で働く自分たちに気づいて顔を見合わせ、
「ハハハハハ。」 と自己を憐れむ<苦い笑い>を発するのである。 この作品では、 つぶれ炭鉱の坑夫たち
の必死に生きる姿を通して人間と労働の根本的問題が提示され、 <笑い>の裏に秘められた生きること
の辛さや<悲しみ>が、 ふじたあさやの鋭い視点をもって描かれているのである。
この 「現代の狂言」 である
おばあさんと酒と役人と
穴
の両作品は、 昭和40 (1965) 2月、 劇
団 「三十人会」 (ふじたあさや・和泉保之の共同演出) によって銀座ガスホールで初演される。 そして
この年の11月には、 「現代の狂言Ⅱ」 として
陳情
女房
が劇団 「三十人会」 (ふじたあさや・和泉
保之共同演出) によって矢来能楽堂で初演される。 なおこの矢来能楽堂の公演では、
た。 なおこの 穴
穴
も再演され
は、 昭和47 (1972) 年9月、 ヴェネツィア・ビエンナーレに参加し、 劇団 「三十人
会」 (ふじたあさや・和泉保之共同演出) によって上演されている。
この 「現代の狂言Ⅱ」 で上演された
女房
は、 戦地から20年間帰らない夫を待ち続けているひとり
の女房が主人公である。 この作品は、 テレビの NTV ノンフィクション劇場 「北満に消えた夫」 をモチー
フにしている。 時代は 「現代」 で、 場所は 「ある農村」 である。 登場人物は、 主人公の女房の他に県庁
の役人、 村の住職、 村の総代、 村の女房たち (1∼6) である。
舞台では、 村の女房のひとりが登場して名のり、 「今日は盆の15日」 で 「亭主を戦争でとられた女房
たち」 には、 「なにやら胸うちの痛む8月の15日」 と語り、 村の女房たちを誘って 「亭主どもを供養」
するために 「念仏おどり」 をしようと、 橋がかりの一の松で女房たちを呼ぶ。 すると村の女房たちが、
手に手に、 鉦、 びんざさら、 ささらを持って登場してくる。 村の女房たちは、 亭主の供養にと、 さっそ
く 「念仏おどりを
見さいな」 と歌いつつ、 鉦を打ち、 ささらをならしておどり歩き、 舞台をまわって
去る。 その間に切戸から女房がひとり登場し、 次のように名のる(43)。
女房
「この村の女房です。 おらの亭主は、 満蒙開拓団の団長で、 はるばる海を渡ったきり二十年、
まだ戻りませぬ。 ともども海を渡った団員はみんな戻ったに、 おらの亭主だけはまだ戻ります
ぬ。 なんぞ消息はつかめぬものかと、 ひまを作ってはもとの団員をたずねて歩きましたが、 誰
もなんにも知りませなんだ。 だが、 おらの亭主は生きている。 生きているとも。 それなのに村
の衆は、 てっきり死んだにちがいないといい、 県の役人までがそういって、 なにやらハンコを
つけというのです。 おまけにお寺さままでが、 村の名誉がどうのこうのと、 わけのわからぬこ
とを……はは、 生きているものを、 どうして死んだことにできようかい。 ばかなことを……は
はは……。 (間。 空
くう
にむかって呼びかける) なあ、 あんた。 いつ帰ってくるんじゃい。
おらはもう待ちくたびれたよ。 ……。 ああ。 子どもか。 子どもはなあ、 四人とも戦死してしまっ
て、 おらは一人ぼっちよ。 いつ帰ってくるんじゃい。 いやいや、 二十年待ったのじゃ、 この先
― 41 ―
十年待てぬことがあろうかい。 待っているよ。 おらは待っているよ。」
女房は、 そう言って笛座の前に坐り、 待つ。 そこへ県庁の役人が登場し、 「二十年帰らぬ夫を待って
いる女房がいて、 戸籍の始末がつかず、 困り果てて」 いると語り、 「村の住職の助けをかりて女房をた
ずね」 て 「戦時死亡宣告書」 に 「今日こそは同意の印をとってこよう」 と歩き出し、 舞台をまわって、
歩行のありさまを示す。 歩きながら 「そういううちに村の寺だ。」 と舞台口に止まり、 「住職を呼ぶとし
ましょう。」 と<幕>に向って進みながら、 一の松でとまり、 住職を呼び出す。 すると、 <幕>から住
職が登場し、 役人と向い合う。 二人は連れ立って歩き出し、 橋がかりを往復し、 歩行のありさまを示す。
歩きながら、 住職が 「そういううちに女房の家に参りました。」 と一の松に止まると、 役人は、 二の松
で止まる。 住職が女房を呼び出すと、 女房は常座へ出てきて柱ごしに住職と向き合う。
住職と役人は、 舞台へ通って脇座の女房と向い合って座る。 そして役人は、 女房に向って亭主の 「戦
時死亡宣告書」 に 「同意のハンをついてくれ。」 と頼むが、 女房は、 「でも、 おらの亭主は生きています
のじゃ。」 と強情を張る。 が、 住職に 「みんな戦時死亡宣告に同意した。 みんな役所の迷惑を考え、 村
の名誉を考えてのことじゃ。 迷惑を考えぬのは、 おまえばかりじゃ。」 と言われ、 女房は、 「困ったのう、
どうすればいいのじゃろう。」 と思い悩む。
女房
「困ったのう。 (空にむかって) どうしよう、 あんた。 お役人さまやお寺さまが、 頼むからあん
たが死んだことにしてくれ、 といわれるのじゃ。 なんとしよう。 なあ、 あんた。 おらは、 あん
たが生きているのに、 死んだなどとはいえぬのよ。 だが、 人が困っておるというものを、 むげ
にことわるわけにはいかぬしな。 (一人で) これはなんとしたものじゃ。」
役人と住職は、 共に 「頼みます。」 と頭を下げる。
女房 「(一人で) ああ、 おらはこの人らが、 なにやら気の毒になってきた。 これほどまでに頼まれて、
それでいやとは、 おらにはいえぬわ。 (空にむかって) あんた許してくれや。」
女房は、 思い悩んだ末、 ついに役人と住職に 「承知じゃ。 ハンをつきましょう。」 と承諾する。 役人と
住職は、 「めでたいことだ。」 と言い、 顔を見合わせて笑う。 女房はハンを出し、 役人の差し出す紙にハ
ンをつく。 役人は女房がハンを確かにおしたのを見届け、 「さっそく役所へ行って、 手続きをとらねば
ならぬ。」 と笑いながら、 橋がかりへ進み、 住職も 「なむあみだ、 なむあみだ、 なむあみだ。」 と唱えな
がら、 橋がかりへ進み、 二人は急いで去る。 しばらく間があって女房の 「独白」 (ソリロキー) となる。
女房 「(空に向って) ああ、 おらはとうとうハンをついてしまった。 おらはとうとうあんたを殺して
しまった。 許してくれや、 あんた。 堪忍しとくれや、 な、 あんた。」
村の総代が、 橋がかりへ登場し、 一の松で次のように名のる。
総代
「この村の総代じゃ。 お寺さまからの知らせによれば、 例の強情な女房が、 いよいよ亭主は死
んだものとあきらめたそうな。 これはめでたい……いや、 気の毒なことじゃ。 まずは、 村の女
房たちをひきつれて、 くやみに行くとしよう。」
― 42 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
村の総代が<幕>に向って女房たちを呼ぶと、 「まいりました、 まいりました。」 と村の女房たちが大
勢舞台に登場する。 総代が村の女房たちに 「例の強情な女房が、 今日はいよいよ、 亭主は死んだものと
あきらめた」 と伝えると、 村の女房たちは、 「亭主は死んだものとあきらめたときの、 糸の切れた凧の
ような、 ぞっくりとせつない気持」 を思い出す。
村の総代は、 村の女房たちとみんなで、 その女房のところへ 「くやみに行こう」 と歩き出し、 橋がか
りを往復して歩行のありさまを示す。 やがて舞台を見込んで止まると、 総代が声をかける。 女房は、 常
座へ行き、 柱ごしに総代と向き合い、 対話を交わし、 総代、 女房たちは奥へ通り、 ワキ座から笛座前へ
かけて坐る。 女房は、 目付柱に近く坐って、 彼らと向き合う。
総代
「いや、 まことに、 このたびは気の毒な。 心中お察し申しあげる。」
女房
「おそれいります。」
村の女房1
「気を落としなさるな。 またよいこともあるわな。」
村の女房2
「そうじゃ、 気を落としなさるな。」
村の女房たち
「またよいこともあるわな。」
女房
「ありがとうよ。」
住職が、 その間に橋がかりから 「なむあみだ……」 と唱えながら、 登場して 「みなさまお揃いで、 御
苦労に存じます。」 と挨拶する。 そして持参した骨壷を正先へ置いて坐り、 女房に 「さて、 これがおま
えの亭主じゃ。」 と告げる。 女房は、 「これが。」 と言うと、 住職は、 「では、 御供養させていただきます。」
と、 念仏を唱え、 総代、 村の女房たちも 「なむあみだ……」 と念仏を唱える。
女房は、 突然、 「ははははは。」 と笑い出し、 一同びっくりして女房の顔を見る。
総代
「やい、 どうしたのじゃ。」
女房
「ばかなことを。 はは。 おかしい、 おかしい。」
住職
「やい、 なにがおかしい。」
女房
「この骨壷はからじゃ。 馬の耳に念仏ということはあるが、 からの壷に念仏とは……
ははははは。」
住職
「なにをいうのじゃ。 おまえの亭主は二十年前に死んだということに……」
女房
「いや、 おらの亭主は、 やっぱり生きておりますじゃ。」
住職
総代
女房
「こんなことでは死のうにも死ねぬ。 (空にむかい) なあ、 あんた。」
村の女房1
「そうじゃ、 あんなことでは死のうにも死ねぬわな。」
村の女房2
「これは、 おらの亭主もやっぱり生きておるような。」
村の女房3
「おらの亭主も。」
村の女房4・5・6
「おらの亭主も。」
住職
「な、 な、 なんじゃと。」
女房
「生きているわ。 ははははは。」
村の女房たち
「(一人一人その笑いにひきこまれて) ははははは。」
「ああ?」
総代 (あわてるのみ)
― 43 ―
住職
「ああ。」
村の女房たち
「はははははは。」
女房
この 女房 は、 こうした 「笑い留め」 で終わる。 このラスト・シーンでは、 役所の<権力>と<民
衆>の代表である戦地から二十年間帰らない夫を待ち続ける一人の女房との対立関係が、 矢来能楽堂と
いう舞台空間の中でふじたあさやの鋭い視点を通して展開されている。
この狂言の<笑い>は、 飯沢匡のいう 「武器としての笑い」 になっており、 その<笑い>には、 <権
力>をはね返す力がこめられれているのである。
この 女房 が上演された昭和40 (1965) 年、 ふじたあさやは、 劇団 「三十人会」 に誘われ、 この劇
団の文芸演出部員となる。
昭和41 (1966) 年10月には、 「現代の狂言Ⅲ」 として
面
(おもて)
摘発
(後に
あとのまつり
と改題) が、 劇団 「三十人会」 (ふじたあさや・和泉保之共同演出) によって俳優座劇場で初演される。
この
面
は、 「現代の狂言」 シリーズのひとつの到達点を示すと共にふじたあさやの 「演技論とし
てのドラマトゥルギーをふかめる契機になった」 作品である(44)。
面 の時代設定は、 「今」 であり、 場所は 「広島」 である。 登場人物は、 女と男、 それに花を持った
女たちである。
先ず橋がかりから花を持った女たちが登場し、 歌を歌う(45)。
花を持った女たち
「ひろしまの8月は
夾竹桃の季節
夾竹桃は毒花
うす紅の毒花を
あの子の碑にそなえよう」
花を持った女のひとりが、 「ひろしまでわが子をなくした母親」 であると名のり、 「今日は8月の6日……」
「あの子の命日」 なので、 「今日は、 同じようにわが子をなくした母親たちをさそいあわせ、 慰霊碑に詣
ろう」 と語る。
花を持った女たちは、 歌いつつ、 舞台を廻って、 橋がかりに行き、 静止する。 その間に仮面をつけた
女が登場する。 この女は、 「わけあって、 この町に流れてきたものです。」 と名のり、 それを繰り返し、
次のように語る。
女
「さびしいな。 一人ぐらしには疲れはてた。 誰ぞよい男があらわれぬものかと、 思い続け、 探し
続けてきたが、 いつもぬか喜びのむなしさ。 むなしいな。 ……えい、 それもこれもこの肌が、 こ
の体が…… (途切れて、 また) わけあって、 この町に流れてきたものです。」
続いて男が登場し、 次のように名のる。
男
「まかり出でたる者は、 このあたりに住まい致す者でござる。 恥ずかしいことながら、 未 (いま)
だ定まる妻がござらぬ。 それにつき、 隣郷 (りんごう) の観世音な、 殊の外、 霊験 (れいげん)
― 44 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
あらたにござるによって、 ただいまより参詣いたし、 申し妻を致そうと存ずる。 まず、 そろりそ
ろりと参ろう。」
男は歩き出し、 舞台を廻ってとまり、 次のように語る。
男
「行きずりの旅の男です。 8月6日のひろしまをこの目で見ようと、 はるばる東京からやってき
ました。 気楽な一人ぐらし、 まして知る人のない旅の空、 ことあれかしと思わなんだといったら
嘘になる。 なにごとかを期待して、 わたしは夜の町へ出かけました。」
男は、 歩き出し、 「ひろしまの夜」 の 「にぎやかなこと」 を語り、 立ちとまって鈴を鳴らす仕草をし、
手を合わせて神仏に拝む。
男
「さて、 私は未だ定まる妻がござらぬ。 何とぞ、 よい妻を授けて下されい。 南無観世音、 南無観
世音。 さて今宵はこれにこもろうと存ずる。」
男は、 寝ている最中に 「御霊夢」 をこうむり、 神仏のお告げを聞いた。 やがて男は目覚めて神仏を拝
み、 次のように語る。
男
「西門 (さいもん) の一の階 (きざはし) に立ったを、 汝が妻に定めよとのおことじゃ。 さても
さてもかたじけないことじゃ。 急いで西門へ参ろう。」
男は歩き出し、 急いで西門に行き、 あたりを見回すと、 そこに一人の被衣 (かつぎ) をかぶった女が
立っているのを見つける。 男は、 その女が 「御夢想のお妻」 と思い込み、 女に近づき、 話かける。
男
「君はひろしまの人?」
女
「(首をふる) わけがあって、 この町へ流れて来たの。」
男
「どこから?」
女
「遠いとこ。」
男
「そうか。 ひろしまの人ではなかったのか。」
女
「安心した?」
男
「なぜ?」
女 「なぜ。 誰でもいうわ。 君はまさかひろしまの人ではあるまいね。 まさか被爆者ではあるまいね。」
男
「そんなことをいう奴の面がみたい。 ひろしまの人だからどうだというんだ。 被爆者だからどう
だというんだ。」
女
「……いい人ね、 あなた。」
男がこの女に 「酒でも飲もうか。」 と誘うと、 「お酒ならある」 から 「いっそうちへこない?」 と言わ
れ、 男はその女の家を訪ねて行く。 そして二人は、 その家で 「婚礼の盃」 まで交わし合う。 そこで二人
は、 次のような対話を始める。
― 45 ―
男
「不思議な縁でこなたと夫婦 (めおと) になった。 千年も万年も仲よう添いましょうぞ。」
女
「何がさて仲よう致いて、 随分わらわをかわいがって下されい。」
男
「その分ナ如在 (じょさい) することではない。」
この 面 という 「現代の狂言」 では、 音楽が句点を打つごとに二人の姿勢が変わり、 次第に二人の
関係が変化していく演出がなされている。
女
「どうしたのでしょう。 わたし、 あなたが好きになりそう。」
男
「おれもさ。」
女
「わたし、 可愛い?」
男
「ああ、 可愛い。」
女
「わたし、 きれい?」
男
「ああ、 きれいだ。」
女
「わたし、 こう見えてもなんでもする。 洗濯もする。 掃除もする。 御飯炊きもする。 お料理も好
きよ、 わたし。 なにか食べる?作らせて。」
男
「ああ、 君はさぞいい奥さんになれるだろう。」
音楽が句点を打つ。 二人の姿勢が変わるごとに次第に二人の対話は息詰まるものになっていくのであ
る。 女が男に 「東京へ連れて行って」 と頼むと、 男は女に 「なぜそんなに東京へ行きたいんだ」 と問い
質す。 女は無言で答えない。
男
「今朝、 平和公園に行ってきたよ。」
女
「そう。」
男
「慰霊碑の前は花の山だった。」
女
「そう。」
男
「線香をそなえながら、 遺族たちが泣いていた。」
女
「そう。」
やがて女が男に 「なぜそんなことをいい出したの?」 と言うと、 男は、 「ひろしまは色のない町だ。
あるのは夾竹桃のうすい紅だけ。 あの時もあの花は咲いていたのかね。」 と女に尋ねる。 音楽が句点を
打つ。 次第に二人は破局 (キャタストロフィ) へと向っていくのである。
男
「君は作っている。 いつわっている。」
女
「(笑う) 何をいいだすの。 わたしはわたし、 ごらんの通りよ。」
男
「ちがう。 君は、 そうだ、 今はじめて気がついた、 仮面をかぶっている。」
女 「(笑う) 何をいうのよ、 どうしてそんなことばかりいうの。 さぁ、 東京へ連れて行ってくれるの。
どうなの?わたしはあなたのいいなりになるわ。 どこへでも行くわ。 なんでもするわ。 だから……」
男
「……さぁ、 その仮面をとってくれ。 おれに真実を見せてくれ。」
女
「いや。」
― 46 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
男は、 ここで女に 「仮面をとってくれ。」 と語るが、 この 「仮面」 には、 重層的な意味が込められて
いる。 「ペルソナ」 (persona) を意味する 「仮面」 は、 能楽の用語では、 <おもて>と呼ばれる。 坂部
恵の 仮面の解釈学
によれば、 <おもて>は、 <見るもの>と<見られるもの>とが、 あるいは<見
えるもの>と<見えないもの>とが、 「はじめてかたどりをかえて二つながらに立ちあらわれるはざま
(espace) のかたどり (espacement) そのものにほかならない」 という(46)。
この作品が、
面
(おもて) と題されているのは、 「女主人公の現実に背を向けた生きかたを、 仮面
をつける行為で象徴させたこと」 によるが(47)、 そこには、 <おもて>に 「ペルソナ」 の重層的な意味が
込められているのである。
この場面で男は、 女に<おもて>を取る行為を求め、 女の 「素顔」 である<真実>の姿を見極めよう
とする。
男
「さて、 対面のしよう、 その被衣 (かつぎ) を取らしめ。」
女
「わらわは恥ずかしゅうていやでござる。」
男
「初対面のことじゃによって、 恥ずかしいはもっともじゃ。 さりながら宿元へ同道致そうほどに、
ぜひとも被衣をとらしめ。」
女
「何とぞこのまま連れて行って下されい。」
男
「何と、 そのようななりをして連れて行かるるものか。 ひらにとらしめ。」
女
「わらわはどうあってもいやでござる。」
男は、 だんだん女が被爆者ではないかと疑いはじめ、 「仮面」 の下に隠された<真実>を知ろうと女
に再三、 「仮面をとってくれ。」 と頼むが、 女は 「いや。」 と断固として承知しない。
男
「君は、 おれが信じられないのか。」
女
「信じているわ。 でもあなたは、 真実の恐ろしさを知らない。」
男
「どうしてもとらないのか。 そうか。 そうだったのか。」
女
「わらわはどうあってもいやでござる。」
男は、 「ぜひとも取れ」 というに取らない女の被衣を無理やりとり、 女の顔を見て、 びっくりして離
れる。 その瞬間、 花を持った女たちが二人を見る。
男
「これはいかなこと。 御夢想のお妻じゃによって、 さだめて美しいかと存じたれば、 あれはさん
ざんな顔じゃ。 そうか。 そうだったのか。 何とあの様な女と夫婦にならるるものか。」
女
「申し申し、 こなたはどれへござるぞ。 最前もこなたは、 千年も万年も仲ようしようとは仰せら
れぬか。 まずわらわがそばにいて下されい。」
男は、 女の顔を見てすっかり嫌気がさし、 女に 「わごりょのようなものと添うことはいやでおりゃる。」
「許してくれ。 おれは君に同情する。」 と言い捨て、 女を突き倒し、 逃げ去るのである。
女
「ヤイヤイヤイ、 ヤイわ男。 わらわをこのように打ちたおいてどれへ行くぞ。 アノわ男、 誰そ捕
えてくれい。 やるまいぞ、 やるまいぞ。 やるまいぞ、 やるまいぞ。 (いいながら、 しかし追いか
― 47 ―
けずに、 力なく、 ひざをつく) 待って。 わたしを一人にしないで。 ここへ置き去りにしないで。
待って。 (間) こんなことだろうと思った。 (泣く)」
静止していた花を持った女たちが動き出し、 冒頭で述べた 「名乗り」 を繰り返し語り、 「ひろしまの
8月は/夾竹桃の季節/夾竹桃は毒花/うす紅の毒花を/あの子の碑にそなえよう」 と歌う。 そして花
を持った女たちは、 泣いている女のまわりをまわって、 橋がかりへ行く。 女は、 泣きやめてはじめて仮
面をとり、 じっと仮面を見入る。 間。 女が 「パンと仮面を割る」 と音楽が流れる。
女
「(立ちあがって、 名のる) これは、 ひろしまで被爆した女です。」
花を持った女たちは、 再び 「ひろしまの8月は……」 と歌いつつ、 女を包むようにして退場する。
この 面 という 「現代の狂言」 では、 男の<エゴイズム>がむき出しに描き出され、 その<エゴイ
ズム>にふりまわされる女の<あわれさ>がよく出ているが、 この作品のモチーフとなっているのは、
二九十八 (にくじゅうはち) や
二九十八
釣針
(つりばり) という古典の狂言である。
では、 妻のいない男が清水 (きよみず) の観世音に祈願して妻乞いをし、 夢のお告げで
妻を授かる。 その夢のお告げは、 「西門 (さいもん) の一 (いち) の階 (きざはし) に立ったを汝が妻
と定めい」 というものである(48)。 男が急いで行ってみると、 そこに 「御夢想のお妻」 が立っている。 そ
の女に男が呼びかけると、 「つまもなき、 我が身一つのさごろもに、 袖をかたしく独り寝ぞする」 とい
う歌を返し、 住いを問えば、 「我が宿は、 春の日奈良の町の内、 風の當らぬ里と尋ねよ」 という歌が返っ
てきた。 男は、 その歌の返事を 「春日なる、 里とは聞けど室町の、 角よりしてはいくつめの家」 と歌で
何軒目の家か尋ねると、 女は 「二九 (にく)」 とだけ言って姿を消す。 男は、 「九々」 で返事をしたとわ
かり、 「二九じゃによって、 二九十八軒めの家」 とわかり、 女の家を訪ねる。 そこで男は、 女と 「婚礼
の盃 (さかずき)」 をかわし、 夫婦となり、 いよいよ対面となる。 が、 女は、 恥ずかしがってなかなか
被衣をとらない。 男は、 無理にその被衣を取って女の顔を見ると、 とんでもない醜女 (しこめ) であっ
た。 口実をもうけてその場を逃げようとする男を女は逃がすまいとする。 結局、 男は女に 「わごりょう
のような悪女と添うことはいやでおりゃる。」 と袖を振り切り、 女を突き倒し、 逃げ出す。 女は起きあ
がり、 「わらわをこのように打ちたおいて、 どれへ行くぞ。」 とあとを追いかけながら、 「アノわ男、 捕
えてくれい。 やるまいぞ
一方、
(49)
る
釣針
やるまいぞ、 やるまいぞ
については、 ふじたあさやが
。 この狂言は、
二九十八
やるまいぞ。」 と退場する。
太郎冠者ものがたり
の 「狂言の世界」 で紹介してい
と同様に神仏に祈願して妻を与えてもらう 「申妻 (もうしづま) 物」
とか 「妻定め物」 といわれるもので、 醜女が登場する 「女狂言」 である。
まだ妻のいない主人と太郎冠者は、 西の宮の夷 (えびす) さまに参詣をして 「申妻」 をする。 主人は、
夢のうちに西門に置いてある釣針で妻を釣るようにというお告げを聞く。 目を覚まし、 主人は太郎冠者
を起こして西門に行ってみると、 そこにお告げの通り、 釣針が置いてあった。 主人は、 恥ずかしいので、
自分の代わりに太郎冠者に釣ってくれと頼む。
太郎冠者は、 歌い、 踊りながら、 釣針を橋がかりの<幕>の中へ投げ込むと、 頭に被衣をかぶった女
が釣られて出てくる。 それから、 召使いも必要だろうと、 腰元たちも釣りあげる。
太郎冠者は、 主人の許しを得て自分の妻も釣ろうと、 釣針を投げ込むと、 また被衣をかぶった女が釣
られてくる。
主人は、 釣ったばかりの妻と腰元たちを連れて奥へ入る。 あとに残った太郎冠者は、 被衣をかぶった
― 48 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
自分の妻の被衣をとり、 その顔を見ると、 醜女だったのでびくりして、 女を倒して逃げ去る。 それを女
が追いこんで留めとなる。 狂言では、 醜女の顔を乙 (おと) の仮面をつけけることによって表象する。
ふじたあさやの
面
は、 この
二九十八
や
釣針
などの 「申妻物」 の 「女狂言」 の世界と広島の
原爆によって被爆した女性を主人公にした現代劇の世界を融合した 「現代の狂言」 となっているのであ
る。 特にこの作品で注目すべき点は、 一人の役者が、 狂言の様式と現代劇の様式の両面を同時に演じわ
けていくことである。 まず 「名乗り」 や 「道行」 を通して
二九十八
の清水観音における妻乞いまで
の場面が示される。 男の 「まかり出でたる者は、 このあたりに住まい致す者でござる。」 の 「名乗り」
は、
二九十八
の男の 「名乗り」 の台詞をそのまま用い、 その男を演じる役者の所作も狂言の様式で
おこなわれる。 が、 夢のお告げを得て西門へ向かうところで、 突然、 現代劇の様式となり、 台詞も現代
の口語表現となり、 広島の夜の町での男と女の出会いが演じられる。 そして男が女の家へ着いたとこと
で再び狂言様式となり、 台詞も
二九十八
で用いられている 「わごりょうは西門でお目にかかったお
妻ではおりないか。」 がそのまま用いられ、 「婚礼の盃」 ごとが演じられる。 男の 「その分ナ如在するこ
とではない。」 までの台詞が狂言様式で、 その後から再び現代劇の様式となり、 二人の対話が始まる。
そして女の言葉に不審をもった男が女に 「その仮面を取ってくれ。 おれに真実を見せてくれ。」 と詰め
寄るところで、 再び狂言様式となる。 男は、 ここで 二九十八 の 「対面ノしょう。 その被衣 (かつぎ)
を取らしめ。」 の台詞をそのまま用いる。 が、 この場面では、 途中に現代劇にフラッシュバックすると
ころがある。 その場面で男は、 女に 「仮面をとってくれ。」 と言うのである。
女の被衣を取って顔を見て、 びっくりして男が女から逃げ去る場面は、 狂言様式で二人の会話も展開
するが、 その中で男は、 「おれはきみに同情する。」 という現代劇の台詞を語り、 走り去るのである。 ま
た女もその男を追うこともなく、 広島の夜に立ちつくし、 「こんなことだろうと思った。」 という現代劇
の台詞を語り、 泣くのである。
ラストシーンでは、 仮面の使い方においてきわめて印象的な演出法がなされている。 それは、 男に裏
切られた女が、 みずから自分の仮面をはずし、 それを叩き割って、 観客に向って 「これは、 ひろしまで
被爆した女です。」 と名のるところである。
ふじたあさやの 「現代の狂言」 シリーズは、 いずれもアクチュアルな<問題意識>をもって現代のテー
マで狂言を創造しているが、 この
の姿と
二九十八
や
釣針
面
という作品では、 被爆者である女を主人公に、 その被爆した女
に登場する醜女の姿を重層的に描き、 男と女の関係に被爆の<問題意
識>を折り込み、 狂言の様式と現代劇の様式が一人の役者の中でめまぐるしく変わる。 特に狂言の様式
で演じられている場面は、 ふじたあさやが言うように 「現代のヒロシマを照らし出す鏡」 であり、 「批評」
となる部分である(50)。 これは、 ブレヒトの言う 「異化効果」 をふじたあさやが出すために現代劇の様式
に狂言様式を取り入れたものと考えられる。 ふじた自身、 ブレヒトの演劇論にはじめて触れたのは、 「狂
言狂いの日々の中でだった」 と述べているように(51)、 ふじたあさやは、 狂言の独特の様式の中にブレヒ
トの言う 「異化効果」 を発見し、 「伝統と現代の交点」 に立ったドラマトゥルギーを身につけていくので
ある。 そしてそこから<語り>と<ドラマ>の融合した 「現代の狂言」 シリーズが誕生したのである。
このシリーズの共同演出者の和泉保之は、 のちに19代目和泉流宗家となる和泉元秀 (1937―1995) で
ある。 彼は、 昭和27 (1952) 年7月、 9代目三宅藤九郎 (1900―1990) がシェイクスピアの喜劇
じゃ馬ならし
じゃ
(
) を<狂言化>し、 翻案した作品を、 昭和51 (1976) 4
月、 宝生能楽堂で初演している(52)。 これは、 日本ではじめて上演された<シェイクスピア狂言>である。
ふじたあさやは、 この<シェイクスピア狂言>が上演された翌 (1977) 年6月、 和泉流宗家の協力を
得て 太郎冠者ものがたり
を日本放送出版協会から出版するのである。
― 49 ―
説経節の<願望のリアリズム>と前進座の
Ⅲ
さんしょう太夫
ふじたあさやは、 「現代の狂言」 シリーズの頂点を示す 面 でヒロシマを素材とした<語り>と<ド
ラマ>の融合した作品を創造したが、 さらに昭和43 (1968) 年6月、 劇団 「三十人会」 によって初演さ
れた
ヒロシマについての涙について
でふじたあさやは、 構成舞台によって多様な素材を並列してヒ
ロシマを描く創造方法を、 俳優や演出家 (秋浜悟史) との協同作業の中で完成させていったのである。
この作品には、 「プロローグ」 (<1945・8・6>) があり(53)、 その最初のシーンでは、
よる立体的朗読がおこなわれる。 ここでは、 女優1と男優1が
原爆の子
原爆の子
に
から男女一人ずつの作文を
選んで朗読する。 その朗読の途中で時々、 声の人々の台詞が介入する。
女優1
「私が幟町 (のぼりちょう) 国民学校の一年生のときだった。 ……私は母といっしょでなけ
れば逃げないとがんばっていたが、 火はだんだんともえひろがって、 私の着物にも火がつい
て、 もうたえられなくなったので、」
声
「早く早く早く早く」
女優1
「お母ちゃん、 お母ちゃん。」
(中略)
男優1
「あたりは恐怖のざわめきのるつぼとし化した。 ……女学生の半焼けの顔をさすってあげて
いた。 川原では息もたえだえの人が急に立上ったかと思うと、」
声
「どうして、 どうして」
男優1
「天皇陛下ばんざーい!」
第一部 「ヒロシマの涙」 では、 多くの場面を重ねて恋人を原爆症で失った少女の日記を<劇化>する。
ここでは、 女優2が、 20歳の娘を演じ、 男優2が、 24歳のその娘の恋人役の青年を演じる。 女優3は、
娘の姉 (31歳) を演じ、 男優3は、 娘の兄 (29歳) を演じる。 男優4は、 医師を演じる。 女優4は、 看
護婦を演じる。 男優5は、 新聞記者を演じる。 女優5は、 胎内被爆児の母親 (50歳) を演じる。
女優2(日記を語る)
「12月6日―あの人が死んでしまった。 信じられない。 信じたくない。 知らせ
を受けて病院にかけつけたら、 もうあの人は冷たくなってしまっていた。 もうあの人の心を
開くことはできない。 私の気持を話すこともできない。 私はだまされていたのだ。 病気の本
当の原因を教えてくれなかったのがくやしい。」
男優4(別の空間で)
女優2
「白血病でした。」
「……そうと知ってたら……わかってたら、 もっとすることがあったのに……」 (泣く)
恋人の死因が 「白血病」 であったことがわかったところで、 医師と新聞記者の対話となる。
女優4
「回診のお時間です。」
男優4
「憂うつなんです、 これが。 誰か患者が死んだあとの回診。 ……でも、 必ず誰か悪くなる。」
男優5
「人が死ぬのを記事にして、 それで給料をもらっているぼくなんか安全圏にいるんでしょう
かね。 ……だが、 それでも他のことじゃない、 原爆記事を書くことは……」
― 50 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
<小さないのち>の場では、 舞台のスクリーンに原爆小頭児とその生活を描いた記録映画が写し出さ
れ、 男優5が、 そのフイルムを見ながら、 なかば即興的に記録映画の 「原爆小頭症」 を解説する。 さら
に女憂5が、 胎内被爆児を持った母親の長い独白を語る。
女優5
「あの子は、 私のおなかの中でピカに会い、 予定より二カ月も早く生まれました。 ……私の
一番願うのは、 この子は遺伝でこうなったのではなく、 原爆が原因なんだと世間にはっきり
わからしてやってもらいたいということです。 将来は、 この子にできる仕事をみつけてやっ
てもらいたい。 いつか、 この子ら同士、 家庭ももたせてやってもらいたいとは、 思っている
んですがね。 どうなりますか。 こんな子でも生きていく権利はあると思うんです。」
<子どもを生みたい>の場では、 男優6が、 若い夫を演じ、 女優4が、 若い妻を演じ、 夫婦ともに被
爆者であるため、 子どもをつくるかどうかを悩む夫婦の会話が交わされる。
<放射能障害>の場では、 女優1が、 「原爆被害者は
かたわの子を
生む」 という噂を交わし合う
産婆たちを描いた詩の朗読を行う。
<わたしは原爆症だ>の場では、 女優5が医師の前で 「私を原爆症と認めてくれ」 と縋る被爆女性を
演じる。
<被爆者健康手帳>の場では、 俳優たちが舞台に飛び出し、 見えないボールを投げ合って遊ぶ。 そし
て<被爆者健康手帳>をもらえるか、 もらえないかが生命を左右する状況を告発する 「シュプレヒコー
ル」 (Sprechchor) の構成詩を男優1・男声1・女声1・男声2・女声2が語る。
<遠い呼びごえ>の場では、 女優1が、 栗原貞子の詩 「遠い呼びごえ」 を朗読する。
<ドームをこわせ>の場では、 男優7が、 工科の学生を演じ、 男優8が、 作業員を演じ、 女優2が、
恋人を失った20歳の娘を演じる。
第一部は、 繁栄するヒロシマの映像をバックに、 自殺する少女を演じる女優2が、 「兄ちゃん、 姉ちゃ
ん、 ばかなことをしてすみません。 ……長い間のわがままを許してください。 さようなら。」 と遺書を
読んで終わる。
第二部 「ヒロシマの怒り」 の<差別はない>の場では、 男優6が、 高校教師を演じ、 男優9が、 市役
所原爆被害対策課の係員を演じ、 男優10が、 年老いた被爆者を演じ、 男優11が、 大企業の人事課長を演
じる。 この場では、 「就職差別」 や 「行政による差別」 など被爆者を囲む差別状況が次々と提示される。
<私たちはピカじゃない>の場では、 女優6が、 娘の嫁入りのために被爆の事実を認めようとしない
母親を演じ、 女優7が、 被爆の事実を知らされたために、 恋人を失う娘を演じ、 男優7は、 被爆した事
実を認めない母親を尋問する学生を演じる。
<ケロイド>の場では、 場面をとりまく役者たちが、 自分の演じた役の台詞で、 場面に参加して行く
のである。
<あなたの中のヒロシマ>では、 女優1と男優1によるそれぞれの語りかけがおこなわる。
<差別はある>の場では、 男優8が、 家を追い出されても救済の道がない朝鮮人の被爆者を演じ、 男
優12が、 被爆者福祉相談所相談員を演じる。
作品の最後は、 演出者の秋浜悟史が作詩した<友よ>という詩を全員で合唱し、 <エピローグ>では、
すべての俳優がここから即興の討論となる。 この討論は、 観客の参加を拒むものではない。 果てしなく
続く議論のうちに、 数分後ゆっくりと<幕>がおりる。
ふじたあさやは、 この
ヒロシマについての涙について
― 51 ―
の作品において 「絵画におけるコラージュ
の技法」 を演劇に適用し(54)、 「表現者としての俳優自身を、 表現そのものに重ね合わせる」 という方法
を創造したのである(55)。 このふじたあさやのドラマトゥルギーは、 俳優の演技論を通して形成されていっ
たのである。
日本の伝統芸能は、 能・狂言をはじめ、 歌舞伎・文楽に至るまで<俳優本位>の演劇であり、 その核
には、 <語り>があり、 今尾哲也のいう<変身の思想>がある(56)。
ふじたあさやは、 そうした日本の伝統芸能にみられる<俳優本位>の演技論に注目し、 「日本演劇史
を貫く日本的演技の一つの特徴」 を 「語り物的演技」 と名づけるのである(57)。 例えば、
平家物語
那須与一が扇を一矢で射たというエピソードを、 一人で仕形話風に語る狂言
(大蔵流) ある
いは
奈須与市語
那須語
の、
(和泉流) では、 狂言師が一人で語る限界まで動いて一人三役を演じ、 ナレーター
まで兼ねて演じる。 この狂言師の演技こそ、 まさに 「語り物的演技」 と呼ぶにふさわしいものである。
ふじたあさやは、 こうした 「語り物的演技」 を形成してきた集団を想定し、 その集団が、 「歌語りの
<平曲>を語る」 「琵琶法師」 と呼ばれる 「盲僧たちとどこかでつながっていたのではないか」 と推定
する(58)。
<平曲>は、 <義経記>と共にわが国の 「歌語り」 の源泉である。 そこから<説経節>が生まれる。
<説経節>とは、 「中世末期頃の民衆の世界を発生の母胎とする語り物」 である(59)。 それは、 祭りの日
など、 寺社の境内外や辻堂などでささら (簓) を楽器として漂泊民 (賤民) たちによって語られた。 語
られた内容は、 「中世的な神仏の霊験譚」 や 「寺社の縁起譚」 といったものが多く(60)、
小栗判官
苅萱
信徳丸
愛護若
さんせう太夫
の 「五説経」 は、 説経節の代表的なものである。 これらの説経
節は、 近世初頭の江戸時代に三味線や操り人形と結びつき、 「説経浄瑠璃」 と呼ばれ、 人形浄瑠璃や歌
舞伎に発展していくのである。 特に
さんせう太夫
は、 いくつかの異本があって、 そのまま後の 「古
浄瑠璃」 に流れこんでいる。
さらに佐渡や津軽にも安寿と厨子王伝説が伝えられている(61)。 なかでも津軽版
われる お岩木様一代記
さんせう太夫
とい
は、 津軽の口寄せ (ホトケ降ロシ) を業とする盲目あるいは視力の弱い 「イ
タコ」 と称される女性の語る祭文
さんせう太夫
である。 この東北のイタコが語る
さんせう太夫
には、 岩崎武夫が指摘するように 「きわめて古い伝承の型と信仰」 が残っており、 中世の
夫 の世界を継承する一方、 それを津軽という土地にふさわしい
さんせう太夫
さんせう太
につくりかえている
(62)
点が注目される 。 ここでは、 語り手であるイタコの口を通して岩木山の神に転生する安寿が語りの場
に降りてきて、 その安寿の視座からすべてが語られるという一人称的な 「私の発想」 をとっているので
ある(63)。
またこの お岩木様一代記
に登場する 「お岩木様」 の<父>は、 岩崎武夫が指摘するように 「中世
のさんせう太夫の血を分けた分身」 として登場し、 そのイメージは、 「鬼に託されて表現」 されている
のである(64)。 岩木山には、 <鬼>の伝説があり、 その<鬼>には、 内藤正敏が指摘するように 「実にい
ろいろなイメージが何層にも重なりあって塗りこめられている」 のである(65)。 この<鬼>というイメー
ジのひとつには、 岩木山修験の姿も投影されていると考えられる。
御影史学研究会の酒向伸行は、 この岩木山修験が 「イタコ」 に
よって 「岩木山信仰圏の拡大」 を図ったと推測する
(66)
お岩木様一代記
。 そしてこの岩木山修験が、
を語らせることに
お岩木様一代記
(67)
を 「イタコ」 に伝授し、 その語りを管理したと考えるのである 。
「イタコ」 が語る
お岩木様一代記
の語りは、 文字を用いないで口から耳へと伝承され、 語られる
「口語 (くちがた) り」 と称される物語の 「口頭的構成法」 (oral composition) による<語り>の伝
統を継承したもので、 これは、 説経節の語り方と同じである(68)。
― 52 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
説経節の世界は、 「貴種流離譚の性格」 をもっており(69)、 さんせう太夫 の物語もそのひとつである。
の正本は、 次の四種類が知られている(70)。
現在、 説経節 さんせう太夫
1. 天下一説経與七郎正本
さんせう太夫
2. 天下一説経佐渡七太夫正本
3. 寛文七年山本九兵衛板
4. 佐渡七太夫豊孝正本
せつきやうさんせう太夫
さんせう太夫
山庄太輔<外題さんせう太夫>
このうち最も古いとされているのは、 1. 與七郎の正本 さんせう太夫 で、 寛永年間 (1624―1644)
と考えられている。 この正本には、 「攝州東成郡生玉庄大坂」 と記されているが、 これは、 説経座の所
在を示すものといわれている(71)。 室木弥太郎は、 寛永年間に入って従来の木活字の代りに、 整版印刷を
するようになり、 出版の<大衆化>が進み、 この時期に説経の正本が絵入りの読み物として刊行される
ようになったと述べている(72)。 これらの刊行された正本のうち與七郎正本には、 「同一語句や類似語句
や決り文句の頻用」 が顕著に認められるが、 それは、 「口語り」 の特徴である。 その意味でこの與七郎
正本は、 酒向伸行が指摘しているように 「説経節の古い語りをかなり忠実に伝える正本」 である(73)。
ふじたあさやが、 こうした説経節にはじめて接したのは、 昭和32 (1957) 年5月、 「民話による」 と
添え書きのある
さんしょう太夫
を仮面劇場 (風見圭鶏介演出) で初演した頃である(74)。 この仮面劇
場による初演では、 「説経節による」 ではなく、 「民話による」 と添え書きがしてあるが、 これは、 当時、
ふじたあさやが 「説経節が持っていた宗教臭」 を表面に出したくなかったためだと考えられる(75)。 が、
この仮面劇場で初演されたものは、 その説経節
さんせう太夫
当時、 23歳のふじたあさやは、 歴史学者の西山松之助から
白さ」 に與七郎正本
さんせう太夫
のストーリーに依った作品であった。
説経正本集
を借りて読み、 「あまりの面
を全文、 ノートに書き写したほどであった(76)。
は、 森外の小説でよく知らているが、 外がこの小説を書くにあたって主に依拠した
資料として現在、 有力視されているものに東京大学外文庫に所蔵されている 「徳川文芸類聚」 第八
山椒大夫
浄瑠璃 (国書刊行会、 1914年10月) 所収の説経浄瑠璃
さんせう太夫
がある(77)。
岩崎武夫は、 この外の近代小説と江戸の説経浄瑠璃の源流にある中世の説経節
さんせう太夫
を
比較し、 外の近代小説では、 「さんせう太夫に向けての復讐の残酷さが削られていること」 を指摘
し(78)、 説経節の、 いわば 「生命ともいうべき場の構造と論理」 がかえりみられていないところが 「最も
納得できない」 と述べ(79)、 外の近代小説と説経節
ると批評する(80)。
また説経節
さんせう太夫
さんせう太夫
は、 「似ても似つかぬもの」 であ
では、 「支配者の論理と被支配者の論理とが対比の関係として追跡」 さ
(81)
れ 、 その 「対比の関係によって生じる被支配者の閉ざされた情念の表出」 がある(82)。 そしてそこには、
強い 「禁忌の意識」 があるが、 外の近代小説では、 その 「禁忌の問題」 が取り去られ、 「支配するも
の (山椒大夫) と、 されるもの (づし王と安寿) を安易に和解」 させてしまっている(83)。 このように
外の近代小説では、 削除され、 無視された 「禁忌」 の部分が、 説経節
さんせう太夫
の 「本質ともい
(84)
うべき内容」 のところであり 、 それは、 「作品を動かす軸」 であり、 「黙殺したり、 意識的な省略の許
されない重要なファクター」 なのである(85)。
ふじたあさやは、 西山松之助に
さんせう太夫
を<劇化>するなら、 「森外作品ではなく、 説経
節に拠って立つべきだ」 と勧められ、 その<劇化>に取り組み(86)、 説経節をいかに読むかを林屋辰三郎
に学んだのである。
― 53 ―
説経節の さんせう太夫
ているが、 盛田嘉徳が
(87)
夫」 の意味である
の 「さんせう」 は、 「山庄」 をはじめ、 「山升」 や 「山桝」 などと宛てられ
中世賤民と雑芸能の研究
で指摘するように 「さんせう太夫」 は、 「散所の太
。 この 「散所」 を林屋辰三郎は、 「最初から地子物の運上を予定せぬ地域」 であ
(88)
り 、 その住民は、 主として 「賤民的系譜をひく人々」 であったと述べている(89)。 つまり 「散所の太夫」
とは、 その 「散所」 の被差別の民を支配する人物なのである。
説経節 さんせう太夫
においてそうした太夫一門を竹鋸を用いて処刑する場面があるのは、 ふじた
あさやが言うように 「散所民たちの、 解放への熱い思いが生んだ 幻想
」 であると思えば、 「充分に説
得力」 を持つのである(90)。
昭和47 (1972) 年3月、 ふじたあさやは、 オペラ
さんしょう太夫
を創作し、 それは、 日本オペラ
協会によって初演される。 作曲を小山清茂、 演出を武智鉄二が、 それぞれ担当した。 この公演の台本で
ふじたあさやは、 ギリシャ風の 「コロス」 (合唱隊) を設定し、 彼らの歌で<ドラマ>が展開する楽劇
形式を用いた。
昭和49 (1974) 年10月には、 前進座公演
演し、 翌 (1975) 年、 この
さんしょう太夫∼説経節による∼
さんしょう太夫
(香川良成演出) を初
の成果に対してふじたあさやは、 「斎田喬戯曲賞」 を受
賞し、 劇団は、 「芸術祭優秀賞」 を受賞するのである。
ふじたあさやは、 この前進座の台本において 「説経師たちの集団」 というものを設定し、 彼らの<語
り>から劇中劇
さんしょう太夫
の物語を展開したのである(91)。 彼らの語る台詞は、 「現行の説経節、
節談説経、 祭文、 浪花節、 各種の口説などをふまえた、 日本の語り芸の音楽的系譜をひきつごうとする
もの」 である(92)。 「上の巻」 の冒頭では、 場内が暗くなると、 「説経師たちの集団」 が、 ささら、 びんざ
さら、 四つ竹、 鍬金、 証、 太鼓などを鳴らしながら、 客席から登場する。 黒衣に編笠を身につけた彼ら
が舞台に勢揃いすると、 観客と相対して以下の台詞を語り始める。
「帰命頂礼 (きみょうちょうらい)
大慈大悲の
ありがたや
地蔵尊
ただいま語り申す御物語
これは此世のことならず
されど此世のことにして
国を申さば丹後の国
金焼 (かなや) き地蔵の御本地 (ごほんじ) を
あらあら説きたて
弘め申さん」
この冒頭の 「ただいま語り申す御物語」 「国を申さば丹後の国/金焼き地蔵の御本地を/あらあら説
きたて
弘め申さん」 という台詞は、 説経節の
さんせう太夫
の 「上」 の冒頭の 「コトバ」 が踏まえ
(93)
られている 。 彼らは、 黒衣を脱ぐと、 下に衣装を着ている。 彼らの中からあんじゅ、 づし王、 ふたり
の母である玉木、 うば竹の四人が正面へ出る。 玉木は、 狂言風の 「これは、 日本の将軍将門の御孫、 奥
州五十四郡のあるじ、 岩城の判官正氏の妻にて候。」 と名のる。 うば竹は、 「どうか一夜の宿を……」 と
言いながら、 一軒一軒と宿を借りに歩く動きをする。 が、 宿借しするものがいないので、 四人はあきら
めて野宿のていとなる。 そこへ 「直井の浦にその名も高い、 人買いの山岡太夫」 と名のる男が登場し、
「旅路に行き暮れていた上臈二人、 わっぱ二人に宿借し」 「たばかってわなに」 かけようとする。 このよ
うに玉木や山岡太夫は、 狂言風の 「名乗り」 から始めるのである。
― 54 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
場面に出ていない俳優たちは、 「舞台両脇の説経台にすわって、 太鼓をうち、 析をきざみ、 さまざま
な楽器を奏でながら、 歌語りを分担」 し、 「演技の時は、 そこから立ち上って場面に入って」 行くので
ある(94)。 彼らは、 全員で、 いわば 「演技と下座と浄瑠璃」 を交代でわけもつのである。
この さんしよう太夫
の 「大詰」 の場面は、 佐渡が島であり、 づし王は、 母を探し、 ようやく母と
対面する。 母は、 足の筋を切られ、 盲目となって、 いざり出て、 粟の鳥を追っている。 そして玉木は、
かすかに次の歌を歌う(95)。
「あんじゅ恋しや
づし王恋しや
ほうやれほう
ほうやれほう
鳥も生あるものならば
追わずとたてよ
ほうやれほう
あんじゅ恋しや
ほうやれほう」
づし王は、 その歌を耳にし、 母を見つめ、 「母上!」 と走り寄り、 親子の対面となる。 づし王は、 ふ
ところから地蔵菩薩を出し、 「母の両眼、 平癒させ給え!」 と眼に当てて撫でると、 地蔵菩薩の奇跡で
母の両眼が開き、 母の玉木は、 「ああ!……そなたはまっこと、 づし王!」 と語り、 二人は、 涙にくれ
て抱き合う。 いつの間にか二人のまわりを黒衣の 「説経師たちの集団」 が取り巻いて、 全員で次の説経
節を語る(96)。
「うれしきにも
悲しきにも
先立つものは涙なり
さてそれよりもづし王殿
姉の菩提 (ぼだい) を弔 (とむら) わんと
一宇 (いちう) の御堂を建立 (こんりゅう) し
肌の守りを安置して
母御とともに父を尋ねて
つくしをさして下らせ給う
丹後の国
金焼き地蔵菩薩とて
今の世に至るまで
人々崇めたてまつる
帰命頂礼
帰命頂礼」
この 「説経師たちの集団」 は、 「歴史の暗黒の中へ戻って行くように去って行く」 のである。 音楽は、
平井澄子が担当した。 「涙をしぼるような、 感情表現のまさった曲」 だが、 この舞台では、 俳優たちの
「歌ったかと思うと演技し、 演技したかと思うと演奏する」 変幻自在な行動と多様な手法と相俟って観
客の<同化>を拒否し、 舞台は、 <異化>されていくのである(97)。 この手法は、 まさにブレヒト的であ
り、 ふじたあさやは、 この
さんしよう太夫
を<語り物的演劇>と呼ぶ。 そこには、 ふじたあさやの
「俳優論に保証されるドラマトゥルギー」 が明確に表現されている(98)。
この
さんしよう太夫
を演出した香川良成は、
日本現代演劇の諸相
の中でこのふじたあさやの
作品を取り上げ、 そこに 「鮮烈な下層民衆の解放への熱い想い」 があると指摘し、 そこに登場する 「民
― 55 ―
衆的女性像は、 それまでの日本文学には登場したことはなく、 まさに説経節が初めて創造し得た女性像」
であり、 説経節は、 「民衆が育んできた伝統文化」 であると結ぶ(99)。
ふじたあさやは、 この
とり芝居 しのだづま考
さんしよう太夫
山椒大夫考
で創造した<語り物的演劇>を発展させ、 説経節によるひ
をぐり考
の三部作を完結した。 それは、 中西和久という一
人の俳優が 「さまざまな伝承を、 物語の展開に即して演じながら紹介し、 物語の背景について観客とと
もに考えてゆく」 という形式のものである。 ふじたあさやは、 こうして 「俳優論に保証されるドラマトゥ
ルギー」 を確立し、 「ドラマトゥルギーが即俳優論」 であるという独自の体験的脚本創作法を編み出し
たのである。
― 56 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
註
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ふじたあさや 日本の教育 ふじたあさや作品集 (ドラマ・シリーズ4)、 テアトロ、 1970年9月、 3頁。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 1995年4月、 16―25頁参照。
同上、 79頁。
同上、 78頁。
村山知義 日本プロレタリア演劇論 (復刻版)、 ゆまに書房、 1991年5月、 7頁。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 79頁。
木下順二 「民話について」、 日本文学研究資料新集 10 民話の世界・常民のエネルギー 、 有精堂、 1990年9月、 85頁。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 17頁。
河竹登志夫 近代演劇の展開 、 日本放送出版協会、 1982年3月、 219頁。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 22頁。
同上、 22―23頁。
同上、 25頁。
河竹登志夫 近代演劇の展開 、 25頁。
横道萬里雄・小林責 能・狂言 日本古典芸能と現代 (岩波セミナーブックス59)、 岩波書店、 1996年3月、 166頁。
武智鉄二 武智歌舞伎 、 文芸春秋新社、 1955年10月、 207頁。
横道萬里雄・小林責 能・狂言 日本古典芸能と現代 、 167―168頁。
同上、 174頁。
小林責監修 狂言ハンドブック (改訂版)、 三省堂、 2000年11月、 205―206頁参照。
河竹登志夫 近代演劇の展開 、 24頁。 この公演の他に河竹が 「超近代の模索」 の時代の起点としてあげる現象のひとつに
同年、 芥川比呂志主演で福田恒存 (1912―1994) 訳・演出により上演された ハムレット がある。 これは、 河竹によっ
て 「シェークスピア・ブーム」 のきっかけになった公演であると指摘されている。
同上、 26頁。
横道萬里雄・小林責 能・狂言 日本古典芸能と現代 、 185頁。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 28頁。
同上、 30頁。
岩淵達治 ブレヒト 、 紀伊国屋書店、 1994年1月、 8―15頁参照。
ふじたあさや 太郎冠者ものがたり 、 日本放送出版協会、 1977年6月、 26頁。
同上、 62頁。
同上、 64頁。
同上、 63―64頁。
野村萬斎・土屋恵一郎編 野村万作の巻 、 岩波書店、 2003年10月、 27頁。
同上、 17頁。
ふじたあさや 太郎冠者ものがたり 、 97頁。
野村萬斎・土屋恵一郎編 茂山千作の巻 、 岩波書店、 2003年9月、 187頁。
同上。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 28頁。
ふじたあさや 太郎冠者ものがたり 、 5―7頁および102―111頁参照。
ふじたあさや 日本の教育1960 、 118頁。 以下、 引用の台詞は、 この書に拠る。
能舞台は橋がかりが正面に対して右側につけられている。 この橋がかりは、 楽屋から舞台への通路であると共に能舞台の
一部で演技空間でもある。 こうした能舞台の物理的空間で能と狂言が共に演じられるが、 戸井田道三は、 能と狂言ではそ
の演劇空間が全く異なると指摘する。 「シテ一人主義」 (野上豊一郎) の能と 「シテ・アド対立主義」 の狂言とでは、 それ
ぞれの関係が相違しているので、 観客はそれぞれの演劇空間も違っていると感じるのである。 能の舞台空間は、 「胎内復帰
の時間」 をもち、 「意識という時間的なものを空間的なものに投影させて」 表現する。 そこに観客は、 <幽玄>という 「情
緒的な何ものか」 を感じるのである。 それに対して狂言の舞台空間は、 舞台を 「開かれた空間にもどくもの」 であり、 そ
こでは、 「見るものと見られるものとのへだたり」 が感じられる。 つまり観客は、 「舞台と一定の距離」 を置きながら、 「物
真似」 を演じる狂言を鑑賞するのである。 観客は、 その距離のために狂言師の 「物真似」 の演技がうまければ、 うまいほ
ど醒 (さ) めてくる傾向にある。 そしてその距離が、 「時間よりも空間的なものを前面におしだす」 ために 「狂言の進行が
場面としてあらわれる」 のである。 戸井田道三 狂言 落魄した神々の変貌 、 平凡社、 1973年4月、 219―233頁参照。 な
おこうした狂言の舞台空間の効果は、 ブレヒトのいう 「異化効果」 と同じ効果を観客にもたらしていると考えられる。
野村萬斎・土屋恵一郎 野村万作の巻 、 18頁。
ふじたあさや 太郎冠者ものがたり 、 111頁。
山代巴 民話を生む人々―広島の村に働く女たち― (岩波新書)、 岩波書店、 1958年9月、 139―142頁参照。
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ふじたあさや 日本の教育1960 、 175頁。 以下、 引用の台詞は、 この書に拠る。
上野英信 追われゆく坑夫たち (岩波新書)、 岩波書店、 1960年8月、 2頁。
ふじたあさや 日本の教育1960 、 197―198頁。 以下、 引用の台詞は、 この書に拠る。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 32頁。
ふじたあさや 日本の教育1960 、 215頁。 以下、 引用の台詞は、 この書に拠る。 なお引用した歌詞には、 三木稔が曲をつ
けており、 楽譜も合わせて掲載されている。 230頁参照。
坂部恵 仮面の解釈学 、 東京大学出版会、 1976年1月、 23頁。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 72頁。
小山弘志校注 日本古典文学大系43 狂言集 下 、 岩波書店、 1961年10月、 95頁。 以下、 引用の台詞は、 この書に拠る。
なお 釣針 もこの書に収録されている。 100―106頁参照。
ふじたあさや 太郎冠者ものがたり 、 144―146頁参照。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 72頁。
同上、 32頁。
滝静寿編 シェイクスピアと狂言―東西喜劇比較研究 、 新樹社、 1992年4月、 18頁。
ふじたあさや ヒロシマについての涙について 、 日本の原爆文学12戯曲 、 ほるぷ出版、 1983年9月、 362―364頁参照。
以下、 引用の台詞は、 この書に拠る。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 74頁。
同上、 76頁。
今尾哲也 変身の思想 日本演劇における演技の論理 、 法政大学出版局、 1970年6月、 15―60頁参照。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 48頁。
同上、 53頁。
岩崎武夫 さんせう太夫考―中世の説経語り― 、 平凡社、 1973年5月、 8頁。
同上、 9頁。
黒沢賢一 山椒太夫異聞 安寿と厨子王伝説 その物語とゆかりの地を訪ねて 、 歴史春秋出版株式会社、 2002年7月、 12
5―145頁参照。
岩崎武夫 続さんせう太夫考―説経浄瑠璃の世界 、 平凡社、 1978年4月、 150頁。
同上、 151頁。
同上、 157頁。
内藤正敏 「鬼の原風景―津軽岩木山の鬼神―」、 怪異の民俗学④ 鬼 、 河出書房新社、 2000年10月、 446頁。
酒向伸行 山椒太夫伝説の研究―安寿・厨子王伝承から説経節・森外まで― 、 名著出版、 1992年1月、 102頁。
同上、 103頁。
山本吉左右 「説経節の語りと構造」、 説経節 (東洋文庫243)、 平凡社、 1973年11月、 340―361頁参照。
岩崎武夫 「義経記・説経・幸若 貴種流離譚としての視点から」、 日本文学講座5 物語・小説Ⅱ 、 大修館書店、 1987年
6月、 3頁。
横山重校訂 説経正本集 、 第一巻、 角川書店、 1968年2月、 439―448頁参照。
室木弥太郎 中世近世 日本芸能史の研究 、 風間書房、 1992年12月、 279頁。
同上、 272―284頁参照。
酒向伸行 山椒太夫伝説の研究―安寿・厨子王伝承から説経節・森外まで― 、 34頁。
ふじたあさや 説経節<小栗判官>の世界 をぐり考・照手と小栗 、 晩成書房、 2002年12月、 194頁。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 61頁。
ふじたあさや 説経節<小栗判官>の世界 をぐり考・照手と小栗 、 194頁。
森外 外歴史文学集 、 第三巻、 岩波書店、 1999年11月、 365―379頁参照。 この書では、 作者の主たる依拠資料を 「徳
川文芸類聚」 第八 浄瑠璃 所収の さんせう太夫 とし、 参考資料にあげている。 が、 この書の 「解題」 (須田喜代次)
では、 「本作品の依拠資料を一本に絞ることはしにくく、 口承伝承を含めた種々の、 山椒大夫 伝説も、 外の視野に入っ
ていたもの」 としている。 そして外が拠った 「 山椒大夫 伝説」 は、 吉田東伍編 大日本地名辞典 中、 「春日新田」
の条に記載されている 「 山椒大夫 伝説」 であることを紹介している。 「だゆう」 の表記が、 「太夫」 ではなく、 「大夫」
になっている点が注目される。
岩崎武夫 さんせう太夫考―中世の説経語り 、 31頁。
同上、 32頁。
同上、 34頁。
同上、 55頁。
同上、 56頁。
同上、 56―57頁。
同上、 60頁。
― 58 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
(85)
(86)
(87)
(88)
(89)
(90)
(91)
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(93)
(94)
(95)
(96)
(97)
(98)
(99)
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
同上、 57頁。 なおこうした岩崎武夫の批判に応える形で提示された論文に高橋広満の 「語り手の近代―森外 山椒太夫
論―」 (「日本文学」 1994年5月) があり、 その論文を出発点に外の改変によって生成した新しい物語について考察した
橋元志保の 「森外 山椒太夫 を読む―家族の物語の生成―」 (「教養・文化論集」 2006年3月) がある。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 59―60頁。
盛田嘉徳 中世賤民と雑芸能の研究 、 雄山閣出版、 1994年2月、 66頁。
林屋辰三郎 「散所 その発生と展開」、 古代国家の解体 、 東京大学出版会、 1955年10月、 289頁。
同上、 290頁。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 61頁。
同上、 64頁。
ふじたあさや さんしよう太夫―説経節による― 、 悲劇喜劇 、 第291号、 早川書房、 1975年1月、 107頁。 以下、 引用の
台詞は、 この書に拠る。
荒木繁・山本吉左右編注 山椒太夫 、 説経節 (東洋文庫243)、 平凡社、 1973年11月、 3頁参照。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 65頁。
ふじたあさや さんしょう太夫―説経節による― 、 136頁。
同上、 137頁。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 65―66頁。
同上、 66頁。
香川良成 日本現代演劇の諸相 、 菁柿堂、 2006年9月、 179―183頁参照。 なお前進座の さんしょう太夫―説経節より―
は、 改訂稿が1979年1月、 雑誌 「前進座」 (復刊) 第3号に発表されている。 2006年3月24日(金)―28日(火)まで前進座劇
場で上演された公演では、 山岡太夫の女房が登場するなど、 以前よりずっと説経節寄りになっている舞台だった。
― 59 ―
主要参考文献
荒木繁・山本吉左右編注 説経節 (東洋文庫243)、 平凡社、 1973年11月。
飯沢匡 飯沢匡新狂言集 、 平凡社、 1984年9月。
飯沢匡 芝居―見る・作る 、 平凡社、 1972年9月。
飯沢匡 武器としての笑い (岩波新書)、 岩波書店、 1977年1月。
飯島吉晴編 日本文学研究資料新集 10 民話の世界・常民のエネルギー 、 有精堂、 1990年9月。
今尾哲也 変身の思想 日本演劇における演技の論理 、 法政大学出版局、 1970年6月。
岩崎武夫 さんせう太夫考―中世の説経語り 、 平凡社、 1973年5月。
岩崎武夫 続さんせう太夫考―説経浄瑠璃の世界 、 平凡社、 1978年4月。
岩淵達治 ブレヒト 、 紀伊国屋書店、 1994年1月。
上野英信 追われゆく坑夫たち (岩波新書)、 岩波書店、 1960年8月。
香川良成 日本現代演劇の諸相 、 菁柿堂、 2006年9月。
核戦争の危機を訴える文学者の声明署名者企画 日本の原爆文学12戯曲 、 ほるぷ出版、 1983年9月。
河竹登志夫 近代演劇の展開 、 日本放送出版協会、 1982年3月。
木下順二 劇的
とは (岩波新書)、 岩波書店、 1995年8月。
黒沢賢一 山椒太夫異聞 安寿と厨子王伝説 そのゆかりの地を訪ねて 、 歴史春秋出版株式会社、 2002年7月。
郡司正勝 郡司正勝遺稿集 芸能の足跡 、 柏書房、 2001年11月。
小畠元雄 狂言の美学―演劇学的アプローチ― 、 創元社、 1986年4月。
小林責監修 狂言ハンドブック (改訂版)、 三省堂、 2000年11月。
小松和彦編 怪異の民俗④ 鬼 、 河出書房新社、 2000年10月。
小山弘志校注 日本古典文学大系43 狂言集 下 、 1961年10月。
金春國雄 能への誘い 序破急と間のサイエンス 、 淡交社、 1980年5月。
坂部恵 仮面の解釈学 、 東京大学出版会、 1976年1月。
酒向伸行 山椒太夫伝説の研究―安寿・厨子王伝承から説経節・森外まで― 、 名著出版、 1992年1月。
武智鉄二 武智歌舞伎 、 文芸春秋新社、 1955年10月。
滝静寿 シェイクスピアと狂言―東西喜劇比較研究 、 新樹社、 1992年4月。
戸井田道三 狂言 落魄した神々の変貌 、 平凡社、 1973年4月。
日本文学協会編 日本文学講座5 物語・小説Ⅱ 、 大修館書店、 1987年6月。
野村萬斎・土屋恵一郎編 野村万作の巻 、 岩波書店、 2003年10月。
林屋辰三郎 古代国家の解体 、 東京大学出版会、 1955年10月。
ふじたあさや 日本の教育1960 ふじたあさや作品集 、 テアトロ、 1970年9月。
ふじたあさや 流れる水も人も (日本の自然と美〈4〉水・風)、 ぎょうせい、 1977年4月。
ふじたあさや 太郎冠者ものがたり 、 日本放送出版協会、 1977年6月。
ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 晩成書房、 1995年4月。
ふじたあさや しのだづま考・山椒大夫考 、 晩成書房、 1999年2月。
ふじたあさや 説経節 「小栗判官」 の世界 をぐり考・照手と小栗 、 晩成書房、 2002年12月。
増田正造 能の表現 その逆説の美学 (中公新書)、 中央公論社、 1971年8月。
村山知義 日本プロレタリア演劇論 (復刻版)、 ゆまに書房、 1991年5月。
室木弥太郎 中世近世 日本芸能史の研究 、 風間書房、 1992年12月。
森外 外歴史文学集 、 第三巻、 岩波書店、 1999年11月。
盛田嘉徳 中世賤民と雑芸能の研究 、 雄山閣出版、 1994年2月。
山代巴 民話を生む人々―広島の村に働く女たち― (岩波新書)、 岩波書店、 1958年9月。
横道萬里雄・小林責 能・狂言 日本古典芸能と現代 (岩波セミナーブックス59)、 岩波書店、 1996年3月。
横山重校訂 説経正本集 、 第一巻、 角川書店、 1968年2月。
吉越立雄・羽田昶共著 狂言―鑑賞のために― (カラーブックス302)、 1974年9月。
― 60 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
追
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
記
木下順二は、 劇的
とは (岩波新書) の中で<ドラマ>には、 洋の東西を問わず、 「願望を強く持てば持つほどその願望から
遠ざからざるを得ない」 という構造があると指摘していたが、 ふじたあさやの説経節による さんしよう太夫 の<語り物的演
劇>には、 「非現実的な空想として処理することのできない現実味」 のある<願望のリアリズム>ともいえる 「ドラマ」 が存在し
ている。 本稿は、 劇作家ふじたあさやの1950年代から1970年代にかけて発表された<近代>と<伝統>の交差点に立つ<現代の
狂言シリーズ>と<語り物的演劇>の さんしよう太夫 を取りあげ、 そこに秘められた<語り>と<ドラマ>の皮膜論に焦点
をあて考察した。
さらにふじたあさやの<語り物的演劇>の延長線上には、 一連の<児童劇>があり、 中西和久と二人三脚で創造した説経節三
部作の<説経節ひとり芝居>がある。 特に<説経節ひとり芝居>の作品については、 稿を改め、 次号の 教養・文化論集 に掲
載する予定である。 なお本号の 教養・文化論集 には、 昨年10月22日、 大仙市協和の和ピア (大仙市協和市民センター) で上
演された松川真澄のひとり舞台 「 おりん口伝 伝―松田解子の作品と生涯―」 (作・構成・演出ふじたあさや) の上演資料集も
合わせて掲載した。 この松川真澄のひとり舞台についても稿を改めていずれ発表するつもりである。
― 61 ―
ふじたあさやの 「 おりん口伝
上演資料集
― 62 ―
伝」 の
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
― 63 ―
― 64 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
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― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
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― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
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発
行
平成18年12月15日
大仙市生涯学習推進本部
(大仙市大曲上栄町2―16
― 84 ―
大仙市教育委員会内)
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
作
家
松まつ
田だ
解とき
子こ
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生
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(
∼
進
藤
孝
一
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協
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ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
おりん口伝
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
(正・続) の用語解説
(秋田の方言・鉱山用語・その他)
「ア」
アオバン (青盤) ・・・青色をした石の盤脈のことで、 黒色泥岩と緑色凝灰岩の層。 「からめ節」 の歌
詞。
からめ節金山踊り
(28頁)
アカガネ (赤金) ・・・銅のこと。 「アカガネ (銅) あっての/ほづつ (火筒) でござれと/おめだ
(前達) きいたか/からみたてァならぬ」
からめ節
おりん口伝
アガリカマチ (上り框) ・・・床などのはしにわたしてふちにする横木のこと。
おりん口伝
(114頁)
(51頁)
秋田の方言・・・秋田の方言は、 大別すると、 (1) 旧南部藩の鹿角 (鹿角方言) ・大館を含む北秋田・
能代を含む山本の県北 (県北方言) の米代川流域で使用されている北部方言 (2) 秋
田市・男鹿を含む南秋田・河辺の中央 (中央方言) の雄物川流域で使用されている中
部方言 (3) 大曲を含む仙北 (大仙市) ・横手を含む平鹿・湯沢を含む雄勝の県南
(県南方言) および本荘を含む由利 (由利方言) の子吉川流域の南部方言の三つのタ
イプに分類できる。
能代出身の劇作家伊賀山昌三 (1900―1956) は、 こうした秋田の方言を用いてチェー
ホフの初期の笑劇
プロポーズ
を
結婚の申込み
と題して昭和16 (1941) 年に翻
案し、 国民新劇場で初演した。 舞台が秋田に置き換えれたこの翻案劇では、 秋田方言
が標準語では出せない独特のリズムと声調をもった劇言語として用いられている。
協和出身の松田解子の
アギト・・・歯ぐきのこと。
おりん口伝
続・おりん口伝
では、 県南の南部方言が用いられている。
(30頁)
アサマ・・・朝のこと。 「朝間」 が原義で室町以降のことば。
アチグナッタ・・・熱くなったの意味。
アツカッテ・・・養っての意味。
アッテイ
おりん口伝
おりん口伝
・・・有り難いの意味。
(19頁)
(206頁)
(218頁)
おりん口伝
(189頁)
アッテセ・・・拝めの意味。 「アッテァセ」 は、 拝むこと。
アネ (姉) コ・・・若い女性のこと。
おりん口伝
おりん口伝
続・おりん口伝
(187頁)
(20頁)
アバ (阿母) ・・・妻・母のこと。 おりん口伝 (231頁) では、 妻。 子供からは 「母」、 夫からは 「妻」、
第三者からは他家の 「主婦」 をさす。
「アバ」 は、 秋田では、 ところによって 「アフヮ」 となり、 「アッパ」 となる。 おそ
らく 「アフヮ」 が、 最も古い 「母」 をあらわす秋田方言であり、 それが、 やがて
「アバ」 となり、 「アッパ」 となったと考えられる。 したがって 「アバ」 (阿母) は、
「アフヮ」 (吾母) が 「アハ」 (吾母) となり、 それが濁音化した秋田方言だといえる。
現代の日本語の 「ハヒフヘホ」 は、 語頭や単独では、 江戸時代以前には、 「フヮ・
フィ・フ・フェ・フォ」 と発音されたが、 秋田の方言では、 この古い発音が現在も
残っている。
平安時代の 「なぞなぞ」 に 「母には二度会うが、 父には一度も会わない」 という
ものがあるが、 これは、 現在の標準語の発音でいくら考えても答えは得られない。
が、 秋田方言の発音で考えてみると、 すぐに答えを見出すことができる。 それは、
「くちびる」 である。 平安時代には、 「母」 は 「フヮ・ファ」 と発音され、 上唇と下
― 87 ―
唇が二度あうが、 「父」 は唇が一度もあわない。 秋田の方言には、 このように今は
失われた平安時代の日本語の発音が、 現在も生活のなかに息づいているのである。
アベ (歩べ) ・・・歩け、 行こうの意味。
続・おりん口伝
アマシテ (余して) ・・・余計者扱いしての意味。
(95頁)
おりん口伝
(204頁)
アンコ・・・長男のこと。 「アニ」 (兄) に親称の指小辞 「コ」 のついた 「アニコ」 の転化したもの。
おりん口伝
(145頁)
アンダ・・・あなたの意味。
おりん口伝
(213頁)
アンチャ (兄ちゃ) ・・・兄さんの意味。 青年男子の尊称。
アンチャコ・・・兄息子のこと。
続・おりん口伝
おりん口伝
(204頁)
(111頁)
アンビン (餡餅) ・・・餡入りの餅、 大福餅のこと。
おりん口伝
(3頁)
「イ」
イタ (痛) ミオボ (覚) エタ・・・気づいたの意味。
続・おりん口伝
(80頁)
イチネンシガン (一年志願) ・・・旧制中学校以上の学歴をもつ者で、 いわゆる金を積んで上官になる
コースを志願する人。 志願して一年後には、 「少尉」 になれた。 良
造は、 この一年志願をした。
続・おりん口伝
(209頁)
イチバンガタ (一番方) ・・・鉱山では、 操業の面から一日を三つにわけ、 一番方、 二番方、 三番方な
どと呼び、 作業形態により、 方別の指定をおこなった。
伝
イデ・・・痛い。 形容詞。
(250頁)、
おりん口伝
鉱山用語集
続・おりん口
(83頁) 参照。
(227頁)
イワ (岩石) アゲ・・・川っ端でのハッパかけで、 川にころがっり落ちた岩を陸にあげる作業のこと。
おりん口伝
(108頁)
「ウ」
ウガイザワ (嗽沢) ・・・荒川鉱山一の大富鉱脈があったところの地名。
おりん口伝
(38頁)
ウマ (馬) トロ・・・馬がひくトロッコのこと。 鉱山の輸送、 運搬機関であった。 おりん口伝 (4頁)
ウメ・・・おいしいの意味。
おりん口伝
(46頁)
「エ」
エ・・・家のこと。
おりん口伝
(39頁)
エエジェンコ・・・高い給料のこと。
エエナダ・・・いいのだの意味。
おりん口伝
おりん口伝
(213頁)
エジメ (嬰児詰) ・・・赤ん坊を入れる用具。
(218頁)
エットウ・・・一番の意味。 「えっとうひどい」、
おりん口伝
おりん口伝
エッパイ・・・たくさんの意味。 「一杯」 の音変化した語。
エンコ・・・犬のこと。
おりん口伝
河田竹治著
(5頁)
(176頁)
おりん口伝
(29頁)
(36頁)
秋田方言さまざま
(よねしろ書房) では、 この方言は、 外国人が洋犬を
呼ぶ時、 Come inと呼んだのを聞いた秋田県人が、 西洋では、 「犬」 のことを 「カメエ
ンコ」 と言うんだと勘違いし、 それ以来、 「犬」 のことを 「カメ」 を省略して 「エンコ」
と言うようになったと解説している。 この言い方は、 県南の方言に見られる。
― 88 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
外来の犬を 「カメ」 と呼んだという記述は、 明治初期の頃の話であり、 植原路郎著
語録
明治
(明治書院) にも記されている。 明治5 (1872) 年に京都で上演された、 当時、 ベ
ストセラーだった
西国立志編
の歌舞伎化された作品
其粉色陶器交易
でも 「カメ」
と呼ばれるイヌが舞台で紹介されている。
「オ」
オオガラミバ・・・男達の砕鉱場。
続・おりん口伝
オガ・・・母親のこと。
続・おりん口伝
オガ・・・坑外のこと。
おりん口伝
(192頁)
(3頁)
(87頁)
オセヤオセオセ・・・どんどん掘って掘り進めの意味。 「からめ節」 の歌詞。 からめ節金山踊り (28頁)
オド・・・父親のこと。 親爺・夫のこと。
オメ・・・お前の意味。
おりん口伝
おりん口伝
(11頁)
オヤマ・・・鉱山のこと。 「からめ節」 の歌詞。
オラ・・・私の意味。
(13頁)
おりん口伝
からめ節金山踊り
(29頁)
(6頁)
オンジ・・・次男のこと。 「オンジ」 は、 長男以外の男兄弟をさして言うことが多い。
おりん口伝
(145頁)
「カ」
カカァ・・・女房のこと。 「からめ
てァ
からめと/おやじ
ならぬ」 [からめ節]、
おりん口伝
カケバン (欠番) ・・・作業員が欠勤すること。
ガオッテ・・・衰えて気弱になっての意味。
かかァせめる/なんぼからんでも/からみた
(69頁)
おりん口伝
続・おりん口伝
(12頁)
(209―210頁)
型ガラミ・・・ 「カラミ」 を長方形の型に流しこんで固めたもの。
カツエラカシテ・・・飢えての意味。
カタビラ・・・上衣のこと。
おりん口伝
おりん口伝
おりん口伝
(146頁)
(119頁)
(10頁)
片山潜 (1859―1933) ・・・日本の労働組合を発足させた社会運動家。 明治末年の市電ストライキを指
導し、 実刑を受けるが、 出獄後、 アメリカに亡命。 その後、 マルクス主義
に感銘を受け、 日本共産党の指導をおこなう。 昭和8 (1933) 年、 モスク
ワで死去。 その遺骨は、 クレムリンの宮殿に眠っている。
(99頁)、 平辰彦 「松田解子の
おりん口伝
おりん口伝
とそのドラマ化作品の比較研
究」 (70頁) 参照。
ガッコ・・・漬物のこと。
おりん口伝
(210頁)
秋田のことわざに 「ガッコ誉められればカガ誉めれ」 というのがある。 これは、 「ガッ
コ」 の味は、 その家の主婦の腕前を示すからである。
カナバ (金場) ・・・槌で鉱石を砕くところ。 「からめ節」 の歌詞。
カナヘビ・・・マムシ (蝮) のこと。
カネヤマ・・・鉱山のこと。
おりん口伝
カネヤマ衆・・・鉱夫のこと。
カネホリ・・・鉱夫のこと。
おりん口伝
(29頁)
(101頁)
(3頁)
おりん口伝
おりん口伝
からめ節金山踊り
(10頁)
(11頁)
カーバイトカンテラ・・・明治末より用いられたカンテラ。 カンテラは、 二つの部分にわかれ、 上部は
― 89 ―
水タンク、 下部はカーバイトを入れ、 その上に布をかける。 上部タンクのス
ピンドルを廻して水をカーバイトに滴下し、 カーバイトが水と反応して発生
するアセチレンガスを火口に導き、 これを発火させて照明とする。
りん口伝
(216頁)、
ガマ・・・昌洞のこと。
続・おりん口伝
ガラ・・・鉱石のこと。
おりん口伝
鉱山用語集
(233頁)、
続・お
(69頁) 参照。
鉱山用語集
(11頁) 参照。
ガラカラミ・・・鉱石割りのこと。
(30頁)
おりん口伝
(61頁)
カラトロ・・・荷が入っていないカラ (空) の鉱車のこと。
おりん口伝
(3頁)
カラマツジンジャ (唐松神社) ・・・協和町の安産の神さまをまつる神社。 ご神体が、 神功皇后の腹帯
であるといわれている。 江戸時代、 佐竹藩の久姫が、 臨月で苦し
んでいるとき、 その神に祈願したところ無事、 男子を出産したと
いう。
おりん口伝
(47頁)
カラミ・・・熔鉱炉から銅と分かれて出てくるカスのこと。
おりん口伝
(32頁)、 熔錬したとき、 純
度の低い金属を含む鉄分や脈石の熔体は比重が軽くて浮かび、 流動性のよいものが分離す
る。 これを 「カラミ」 という。
カラミオシ・・・製煉所の運搬夫のこと。
鉱山用語集
おりん口伝
(77頁) 参照。
(112頁)
カラミグラ・・・鉱石をとかした時にできるカスを型にはめて固め、 そのできあがったものを積み重ね
て作った倉のこと。
おりん口伝
(102頁)
カラム (絡む) ・・・ぶち割る、 ぶん殴るの意味。 大里武八郎の
鹿角方言考
によれば、 「鉱石を鉄
鎚で叩き砕く」 ことを 「からむ」 という。 鉱山で生まれた作業唄である 「からめ
節」 は、 掘り出された鉱石を砕いてよりわける選鉱作業の際に歌われたもので、
その作業を女子が受けもっていたことから、 仕事の風景が踊りになったと言われ
ている。 この唄の発祥の地は定かではないが、 むかし南部領であった鹿角市尾去
沢鉱山が有力とされる。 その歌詞の 「からみたてァならぬ」 は、 「からんでも、
からんでもきりがない」 の意味。
おりん口伝
(69頁)
ガンキ (雁木) ・・・「ガンキ」 は、 梯 (きざわし) のこと。 丸太に斧で切込みをいれ、 これを足がか
りとし、 登り、 降りする。
おりん口伝
(77頁)、
鉱山用語集
(37頁) 参照。
ガンキバシゴ (雁木梯子) ・・・一本の木へ左右から切込みが刻んであり、 それをたよりに上下するた
めの階段。
続・おりん口伝
(220頁)
「キ」
キッパンジョ (喫飯所) ・・・係員の駐在する事務所のこと。
集
続・おりん口伝
(217頁)、
鉱山用語
(87頁) 参照。
キバカメ (牙噛め) ・・・忍耐強く頑張れ。
続・おりん口伝
(274頁)
キリハ (切り羽) ・・・鉱石・石炭等を掘る工事の先端の現場のこと。
おりん口伝
(72頁)
「ク」
グッグド・・・素早くの意味。 副詞。
おりん口伝
(36頁)
クロパトキン (1842―1921) ・・・ロシアの無政府主義者。
おりん口伝
(116頁) では、 その容貌が
似ていることから坑夫の綽名として用いられている。
― 90 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
「ケ」
ケージ・・・立坑で人員昇降、 鉱車、 材料運搬に使用する容器のこと。
用語集
おりん口伝
(100頁)、
鉱山
(57頁)
ケカチ・・・凶作、 飢饉のこと。 不作で食べ物が足りないこと。
おりん口伝
(11頁)
ゲッパ・・・最下位、 下っ端のこと。 「ゲッパ」 は、 「ゲツ」 (尻) と 「ハ」 (端) の複合語と考えられる。
おりん口伝
(135頁)
ケツワリ・・・やりきれなくなって逃亡すること。
おりん口伝
ケム (煙) コ・・・発破に伴なって発生する煙じんのこと。
(78頁)
おりん口伝
(50頁)、
鉱山用語集
(33
頁) 参照。
ゲホコ・・・額が普通以上に前のほうに出ているオデコのこと。 「ゲホコ張りだしてよ」、
おりん口伝
(151頁)
この 「ゲホコ」 は、 「外法なずき」 の略でこの額の人は、 賢いといわれた。 「なずき」 は、
古く 「脳」 の意味で文献にあらわれ、 やがて 「頭」 全体の意味へと大きく意味が変化し、
東北地方の方言では、 「額」 の意味をあらわす語として用いられるようになった。
ケラギ・・・蓑の一種。 両肩から後ろ全体を包むもので、 雨降りの日にしゃがんで作業するのに便利な雨
具。 おりん口伝
ケル・・・くれること。
(93頁)
おりん口伝
ケンカ・・・秋田市のこと。
(130頁)
おりん口伝
(12頁)
「コ」
「コ」 ・・・小さい、 かわいいの意味。 一般に名詞の末尾につく接尾語。 「穴コ」、
ゴウ (業) ・・・前世からの因縁。
おりん口伝
おりん口伝
(3頁)
(216頁) のヨネの 「業」 とは、 よろけた亭主と子供
を捨てて他の男と駆け落ちしたことを言っている。
コガラミ (小ガラミ) ・・・坑口で男たちの大ガラミを経てトロッコで選鉱場に運ばれた鉱石を、 女た
ちが小さなハンマーで打ち割る作業のこと。
ゴジッテ・・・いじめての意味。
おりん口伝
おりん口伝
(193頁)
(213頁)
コケ・・・白痴の意味。 地域によっては、 「コゲブツ」 とも言う。 馬鹿者、 間抜け。 おりん口伝 (226頁)
ゴシャカレル (ご性焼かれる) ・・・怒られる、 叱られるの意味。
おりん口伝
コマ (小間) ・・・の間の意味。 短い時間。 ちょっとのあいだ。 副詞。
コマザ (小間裂) ク・・・細かく切り裂くこと。
おりん口伝
(7頁)
おりん口伝
(84頁)
(188頁)
「サ」
サ・・・へ、 にの意味。 体言につく助詞。 動作の移動や方向をあらわす。 「鉱山 (かねやま) さと嫁
(い) った」、
おりん口伝
(3頁)
サカサゴト・・・子供が先に死に親が出す葬式のこと。 語源は、 「事の成り行き逆さになったこと」 に基
づく。 おりん口伝
(184頁)
サガ (下) リ・・・勘定日に現金が一円もなく、 赤字のことをいう。
(54頁)、
鉱山用語
サキ (先) ヤマ (山) ・・・炭鉱、 鉱山などで経験が豊富で先頭に立って掘る坑夫のこと。
おりん口
集
おりん口伝
(86頁) 参照。
伝
(72頁)
― 91 ―
サビ・・・寒いの意味。
おりん口伝
(80頁)
サベ (喋) レ・・・しゅべれの意味。 「サベル」 は、 しゃべる、 話す。
サラケ・・・やめておけの意味。
サンプ・・・水溜りのこと。
続・おりん口伝
続・おりん口伝
おりん口伝
(218頁)
(280頁)
(61頁)
「シ」
ジェンコ・・・金銭のこと。 「銭」 の音便化した語。
シガ・・・水面にはった氷を一般に言う語。
シキ・・・坑内のこと。
おりん口伝
シキギ・・・坑内の作業着。
おりん口伝
おりん口伝
(119頁)
(108頁)
(55頁)
続・おりん口伝
(4頁)
シセイカイ (至誠会) ・・・大日本労働至誠会のこと。 明治35 (1902) 年、 夕張炭鉱で永岡鶴蔵らによっ
て友子組織を母胎に作られた労働者組織のこと。
鉱山用語集
おりん口伝
(241頁)、
(102―103頁) 参照。
シタバラ (下腹) ツカッテ・・・おべっか使っての意味。
おりん口伝
(51頁)
シチュウフ (支柱夫) ・・・主要坑道の志保や大立坑の枠組を担っていた。 鉱山では、 開発および採鉱
の救出作業に至る幅広い仕事をもっている。
用語集
(52頁)、
鉱山
(93頁) 参照。
シナイ (撓い) ・・・すじばっているの意味。
続・おりん口伝
シバレル・・・非常に寒くて凍る、 冷えること。
シャレ・・・去れの意味。
おりん口伝
おりん口伝
おりん口伝
(208頁)
(215頁)
(46頁)
ジャランボン・・・葬式のこと。 「ジャンンボ」 とも言う。 昔は、 ドラや鉦をならし、 葬列をしたこと
からおこった。
おりん口伝
ジャンカ・・・痘痕 (あばた) のこと。
(182頁)、
おりん口伝
鉱山用語集
(91頁) 参照。
(21頁)
ジュウゴバンコウ (十五番坑) ・・・荒川鉱山では、 地上・九百尺、 地下・六百尺だった。 坑道は、 堅
坑百尺ごとに横に掘られていて、 頂上側から番号がついていた。
九番坑道は、 ちょうど地平の高さであるが、 頂上の坑口からは九
百尺下ということになる。 十五番坑は、 そこから更に六百尺下に
あり、 最深部である。
続・おりん口伝
(55頁)
ジュンサ (巡査) ・・・明治十 (1877) 年二月二十二日、 鉱山局は、 各官営鉱山に警備巡査を配置し、
内務省の承諾を受ける。
おりん口伝
(138頁)
ジュンシ (巡視) ・・・労務の外勤係員のこと。 戦前は、 大きな力をもち、 鉱山の会社の私製の警察の
ような権限をもち、 トビクチ棒をもって鉱山を巡視した。 おりん口伝 (17頁)、
鉱山用語集
(90頁) 参照。
ジョウショウジ (浄勝寺) ・・・鉱山の檀家寺。
おりん口伝
(48頁)
ショクオヤ (職親) ・・・坑内労働者の間で用いられる用語で、 経験豊富で腕の立つ、 仕事を教えてく
れる坑夫をいう。
おりん口伝
の 「職親」 として語られいる。
シワ (吝) イ・・・けちでしみったれているようす。
シワブ (咳) イタ・・・咳き払いをしたこと。
では、 永岡鶴蔵が、 藤田職工や桜井の以前
おりん口伝
おりん口伝
続・おりん口伝
― 92 ―
(58頁)
(100頁)
(43頁)
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
「ス」
スキズレ (好き連れ) ・・・恋愛結婚のこと。 「スキズレ」 は、 共同社会の規範外の行為として受け取
られ、 決して歓迎されるものではなかった。 したがって 「好き連れは、 泣
き連れ、 道外れ」 とも言われた。 「あれは、 好き連れまでした太一にまで
嫌われるだえ」、
おりん口伝
(29頁)
ズリヤマ (ズリ山) ・・・鉱石以外の掘起された廃石の山のこと。
おりん口伝
(5頁)、
鉱山用語集
(23頁) 参照。
「セ」
セイガンジュンサ (請願巡査) ・・・会社が派出所および給与などを負担して巡査を常住させること。
おりん口伝
(78頁)、
セッチンクミ (雪隠汲み) ・・・肥やし汲みのこと。
鉱山用語集
おりん口伝
セナブン・・・兄貴分の意味。 「セナ」 は、 兄、 年長の男をさす。
セバ・・・そうすればの意味。
続・おりん口伝
セヤ (背病) ミコキ・・・怠け者のこと。
おりん口伝
ゼンゴ・・・在郷のこと。
おりん口伝
続・おりん口伝
(156頁)
おりん口伝
(57頁)
(38頁)
センキヤム (疝気病む) ・・・羨ましがるの意味。
センコロ・・・先ごろの意味。
(101頁) 参照。
(31頁)
おりん口伝
(95頁)
(51頁)
(143頁)
「ソ」
ソリ・・・雪の上をすべらせて人や物を運ぶ乗り物。 橇のこと。
おりん口伝
(94頁)
「タ」
タイギ (大儀) ・・・ご苦労の意味。
おりん口伝
(84頁)
ダイバンジャク (大磐石) ・・・どっしりとしていて揺るぎのないようす。
おりん口伝
(215頁)
タカジョウ・・・地下足袋のこと。 現在、 土建作業に使っているものよりもゴムの底が厚く、 布地も厚
いもので、 コハゼは三枚ものを使用した。 保安靴にかわるまで使用された。
口伝
(19頁)、
鉱山用語集
おりん
(88頁)
タッチタチト・・・小さな水滴が落ちるさま。 副詞。 「タチッ、 タチッと降る水滴」
続・おりん口伝
(68頁)
タテコウ (堅坑) ・・・垂直に掘削した坑道のこと。 続・おりん口伝 (220頁)、 鉱山用語集 (56頁)
参照。
ダバ・・・たらの意味。 活用語の連用形につき、 確定順接の継起法として用いる。 「この鉱山のやつらだ
ば」、 おりん口伝
(118頁)
タマシボロキ・・・びっくり仰天すること。 「魂」 を振り払うような驚きや狼狽ぶりから名づけられた
語。
おりん口伝
ダミコ・・・荼毘のこと。
(190頁)
おりん口伝
(182頁)
タロンぺ・・・垂氷、 軒から下がった氷のこと。 水面にはった氷は、 「シガ」 と言う。 「タロンぺ」 は、
「垂 (た) る氷 (ひ)」 の転訛したもの。
おりん口伝
(206頁)
ダンナサマ・・・鉱山経営者などの役付上役人のこと。 「からめ節」 の歌詞。 からめ節金山踊り (29頁)
― 93 ―
タンバン (胆礬) ・・・硫酸銅からなる鉱物のこと。 腎臓状または鍾乳状。 2次的生成物としての諸鉱
山の坑道の壁などに発見され、 または坑内水から沈殿銅採集の際に形成される。
タンポモチ・・・叩いてすった冷飯を丸めたのとごぼう、 芹、 菜っ葉などを刻んだものをだし汁で煮た
もの。
続・おりん口伝
(114頁)
「チ」
チャッチャド・・・さっさとの意味。 副詞。
チャンチャンポーズ・・・支那人のこと。
おりん口伝
おりん口伝
(84頁)
チラマシイナイ・・・むごたらしいの意味。
(110頁)
おりん口伝
(10頁)
「ツ」
ツぺ・・・栓のこと。
おりん口伝
ツラ (面) コ・・・顔のこと。
(215頁)
続・おりん口伝
(24頁)
「テ」
テゴ (手子) ・・・二人組作業のときにその作業の補助業務をおこなう作業員のこと。 一方、 その作業
を責任をもっておこなう作業員の方を 「サキテ」 (先手) または 「ヤマサキ」 (山先)
ともいう。
おりん口伝
(127頁)、
テッキャ (手欠) ・・・事故などで手に障害をもった者。
鉱山用語集
(92頁) 参照。
おりん口伝
(174頁)
鉄索・・・鉄索軌道のこと。 鉄道およびトラック輸送がはじまる前の主要な鉱山用運搬設備で、 ポスト
を立て鉄索をはってそのロープを移動し、 鉱石、 資材、 食料などを運搬するもの。
口伝
(240頁)、
鉱山用語集
おりん
(59―60頁) 参照。
テラ (寺) ノオ (尾) ッポ・・・寺前通りの下 (しも) はずれの長屋のこと。 そこには、 「岩谷のおっ
かァ」 と呼ばれる選鉱の古参が住んでいる。
デバル・・・出るの意味。 「出張る」 に基づく語。
続・おりん口伝
おりん口伝
(70頁)
(138頁)
「ト」
トコヤ (床屋) ・・・鉱石をフイゴ (手押送風幾) で溶かす作業小屋のこと。 現代の溶鉱炉・製錬場の
こと。 「からめ節」 の歌詞。
からめ節金山踊り
(29頁)
トモコ (友子) ・・・鉱山労働者の自主的集団組織で、 相互扶助の全国組織。
鉱山用語集
おりん口伝
(38頁)、
(92頁) 参照。
「ナ」
ナオリ (直利) ・・・鉱床が肥大し、 豊鉱部を形成すること。 金・銀・銅等の鉱石をたくさん含む鉱脈
のこと。
続・おりん口伝
ナオル (直る) ・・・景気がよくなること。
(301頁)、
おりん口伝
鉱山用語集
(9頁) 参照。
(95頁)
永岡鶴蔵 (1863―1914) ・・・明治11 (1878) 年16歳で坑夫となり、 諸国を渡り歩き、 明治20 (1887)
年に荒川鉱山に移り、 キリスト教に触れ、 「労働余暇会」 を結成。 その
後、 院内銀山で労働組合の指導者となり、 秋田県の 「鉱夫税」 撤廃運動
をおこない、 明治30 (1897) 年には、 北海道の夕張炭鉱にゆき、 労働運
― 94 ―
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
動に参加し、 明治35 (1902) 年に 「大日本労働至誠会」 を結成する。 翌
年、 来道した片山潜の強い影響を受け、 足尾銅山へ飛び、 明治39
(1906) 年12月に 「大日本労働至誠会足尾支部」 を結成する。
伝
おりん口
(57頁)
ナッテモ・・・全然の意味。 副詞。 打ち消しを伴なって否定をあらわす。 「なっても知らねえでいたもの
な。」 おりん口伝
(215頁)
ナモ・・・何も、 ちっとも、 いいやの意味。
続・おりん口伝
(37頁)
ナンコカヤギ (馬肉貝焼ぎ) ・・・帆立の貝の殻で馬肉を煮たり、 焼いたりしたもの。 鉱山では、 のめ
り死んだ役馬の肉までも食ったことから、 百姓たちは鉱山衆を馬鹿
にして 「ナンコカヤギ」 とも言った。
ナンデ・・・雪崩のこと。
おりん口伝
ナンド・・・なんだとの意味。
ナンボ・・・いくらの意味
おりん口伝
(5頁)
(89頁)
おりん口伝
おりん口伝
(217頁)
(218頁)
「ニ」
ニギ・・憎たらしいの意味。 「ええ憎ぎ、 憎ぎ」、
ニワ・・・土間のこと。
おりん口伝
おりん口伝
(80頁)
(21頁)
「ヌ」
ヌシ・・・そのことをした人。 「石打ちの主」、
おりん口伝
(148頁) ここでは、 桜井と宗方をさす。
「ネ」
ネエバ・・・なければの意味。
おりん口伝
(219頁)
ネマッタ・・・座ったの意味。 「ネマル」 は、 楽にすわること。
続・おりん口伝
(206頁)
「ノ」
ノシビト (盗人) ・・・盗 (ぬす) っ人のこと。 「盗人」 の転化した語。
おりん口伝
(163頁)
「ハ」
ハク・・・鉱石のこと。
続・おりん口伝
(79頁)、
鉱山用語集
(10頁) 参照。
ハシゴ (梯子) ・・・親枠は、 二本あり、 二三角に角孔をあけ、 そこに子枠をいれて棧として組み付け、
楔でしめつけた梯子のこと。
鉱山用語集
(37頁) 参照。
バダメク・・・慌てる、 ばたばた騒ぐの意味。 「おらもあんださ会いたくてバタめいていんたんす。」
おりん口伝
ハッパ
(229頁)
(発破) ・・・さく岩機等で穿孔した発破に爆薬をつめて点火爆破し、 坑道、 切上、 採掘の掘
進をおこなうこと。
おりん口伝
バッタ・・・鉱車や台車が脱線することをいう。
(219頁)、
おりん口伝
鉱山用語集
(180・181頁)、
(29頁) 参照。
鉱山用語集
参照。
ハラタガクナッタ・・・妊ったこと。
おりん口伝
(113頁)
バンゲ・・・晩餉 (ばんげ)、 夕食のこと。 「晩景」 の音変化したもの。
― 95 ―
おりん口伝
(25頁)
(47頁)
ハンバ (飯場) オヤカタ (親方) ・・・飯場の頭または世話役をいう。
語集
おりん口伝
(58頁)、
鉱山用
(92頁・102頁) 参照。
バンバ・・・お婆さんの呼称。
おりん口伝
(157頁)
「ヒ」
ビッキ・・・東北地方で 「蛙」 を 「ビッキ」 と言うが、 地域によって赤子を 「ビッキ」 とも言う。
りん口伝
お
(5頁)
ヒダ (肥立) ッテケレ・・・お産のあと、 日がたつにつれて回復してくれの意味。 産後の肥立がよくなっ
てくれ。
おりん口伝
(165頁) 「けれ」 は、 下さい。
ヒデマ (日手間) ・・・一日の賃金のこと。 出来高に関係なく、 支払われる賃金のこと。
おりん口伝
(59頁)
ヒャクイチ (百一) ・・・百にひとつも本当のことを言わない大法螺ふきのろくでなしの綽名。
ん口伝
おり
(37頁) なお 「千三つ」 というと、 千回のうち三回しか本当のこと
を言わない大法螺ふきを言う。 「センミ」 とも言う。
ビリメク・・・ビリビリするさま。 「足ビリめく」 は、 足が痺れてビリビリすること。 おりん口伝 (77頁)
「フ」
フキ・・・吹雪のこと。 地域によっては、 「ふぎ」 と語尾の 「き」 が濁音に変化する。
おりん口伝
(184頁)
ブルック・・・小型ポンプのこと。
フレレ・・・知らせろの意味。
続・おりん口伝
おりん口伝
(60頁)
(306頁)
「へ」
ヘグリ・・・川へ面した崖ぶち道のこと。
続・おりん口伝
(12頁)
ベコ・・・牛のこと。 「金のべコ (牛) さ/錦の手綱つけて/おらも曳きたや、 /曳かれたや」 [からめ
節]
おりん口伝
ヘトロ・・・雪鞋のこと。
(30頁)
おりん口伝
ヘラ・・・年上の女房のこと。
(228頁)
続・おりん口伝
(203頁)
ヘレバ・・・しゃべればの意味。 秋田の早口ことばに次のようなものがある。
「へれば、 へったってへられるし、 へらねばへらねって、 へられるし。 どうせへられる
んだば、 へらねでへらねって、 へられるよりへって、 へったって、 へられるほうが、 ええ。」
標準語の意味は、 次の通り。 「言えば、 言ったって言われるし、 言わなきゃ言わないっ
て言われる。 どうせ言われるんだったら、 言わないで言わないって言われるより、 言って
言ったって言われるほうがましだ。」
「ホ」
ボイコム・・・追いこむの意味。 「ボダス」 は、 追いやる、 追い出す、 追い払うの意味。
おりん口伝
(73頁)
ホイト・・・乞食のこと。 ガツガツして卑しい態度を取るものを蔑んで 「ホイト」 と呼んだ。
口伝
(109頁)
― 96 ―
おりん
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
ボウガシラ (棒頭) ・・・土方の頭で棒をもち、 土方を殴っては、 非人間的な労働を強制した。
ん口伝
(57頁) では、 太一が、 この棒頭役として登場する。
ボールミール・・・鉄製の回転容器に硬質のボールを入れ、 鉱石を粉砕する鉱石粉砕幾のこと。
おりん口伝
(61頁)、
ホジクラレル・・・暴かれること。
鉱山用語集
おりん口伝
ホジナクナル・・・正気がなくなること。
ボタコ・・・塩鮭のこと。
おりん口伝
ボッコガタ・・・子供らの意味。
ボッチ・・・帽子のこと。
続・
(74頁) 参照。
(177頁)
おりん口伝
(125頁)
(18頁)
おりん口伝
おりん口伝
ポット・・・焙焼炉のこと。
おり
(236頁)
(83頁)
続・おりん口伝
(212頁)
ポンプザ・・・ポンプの基礎となるコンクリートのこと。
おりん口伝
(61頁)、
鉱山用語集
(67頁)
「マ」
マキ・・・血統。
おりん口伝
(34頁)
マクラガミ・・・枕もとの意味。
マナグ・・・眼のこと。
おりん口伝
ママ・・・飯のこと。
おりん口伝
(174頁)
おりん口伝
(69頁)
(225頁)
マユ (間結) ッテ・・・元通りにしての意味。 「つぐなう」 の意味の 「まどう (償)」 と同形の 「まよう
(惑)」 があり、 「まよう」 と意味が近似しているところから 「マユウ」 という
語が生まれた。 「マユウ」 は、 弁償するの意味。
マンズ・・・先ずの意味。
おりん口伝
おりん口伝
(47頁)
(19頁)
「ミ」
ミジャ (水屋) ・・・炊事場、 流し場のこと。
おりん口伝
(18頁)
ミミキカンカ・・・耳がよく聞こえない聴力に障害のある人のこと。 聾者。 「ミミカッポ」 とも言う。
続・おりん口伝
(185頁)
「ム」
ムラ・・・部落のこと。
おりん口伝
(3頁)
「メ」
メンケ・・・かわいいの意味。
おりん口伝
(11頁)
メンコ・・・かわいい子の意味。
「モ」
モゾ (妄想) カタル・・・寝言を言うこと。
続・おりん口伝
(49頁)
モッコ (畚) ・・・「モッコ」 は、 なわ網のように編んで四隅につなをつけたもので、 運搬するときに
用いる籠。 二人以上で担いで運ぶ藁なわで編んだ籠のこと。
おりん口伝
(56頁)
モッぺ・・・ももひきのこと。 「もんぺ」 ともいう。 前布二枚と胴回りの布の紐付けから直ちに左右に
分かれ、 下半身にぴったり密着するように作られた農作業着のこと。 おりん口伝 (19頁)
― 97 ―
モンカン (門鑑) ・・・鉱山のたったひとつの出入り門のことで、 「鉱山の関所」 とも呼ばれた。
ん口伝
おり
(17頁)
モンジャナガヤ・・・「亡者長屋」 の訛ったもの。 この長屋は、 鉱山の長屋では一番古く、 その場所に
は、 以前、 墓地があったという。 そこには、 貧しい坑夫の家族が住んでいた。
おりん口伝
(27頁)
「ヤ」
ヤキメシ・・・握り飯のこと。
おりん口伝
(27頁)
ヤクニン (役人) ・・・役員ともいう。 鉱山会社から直接、 辞令を受けて赴任した職能のことで、 のち
に職員ともいう。
おりん口伝
ヤダクナッテル・・・嫌になっているの意味。
ヤチガイ・・・順狂わせのこと。
ヤザ (埓明) ガネ
(62頁)、
おりん口伝
続・おりん口伝
鉱山用語集
(100頁) 参照。
(120頁)
(6頁)
・・・うまくいかない。 無理だ。 「埒 (らち) 明かない」 の音変化したもの。 鉱山
では、 「死」 を意味した。
おりん口伝
(179頁)
ヤセウマ・・・子供たちに与える小銭の小遣い銭のこと。 特にお年だまのこと。 「ウマ」 (馬) は、 穴の
あいた五銭白銅から松の出ている形を馬の形に見立てた名称。 古代、 「引く出物」 に
「馬」 が用いられた習わしの名残と考えられる。
続・おりん口伝
(111頁)
「ユ」
ユギヒラ (雪平) ・・・蓋・取っ手・注口のついた陶製の平鍋のこと。 お産のときに御粥を作った器。
「行平鍋」 の略した語が語源といわれている。
ユズケママ (湯漬飯) ・・・半粥のこと。
おりん口伝
おりん口伝
(165頁)
(225頁)
「ヨ」
ヨウシ (傭使) ・・・職員のこと。 三菱の身分制度のひとつ。 大別して月給の本店辞令と日給の鉱業所
辞令とがあった。
続・おりん口伝
(20頁)、
鉱山用語集
ヨウド (用度) ・・・資材、 その他物品の購入、 受け渡しをする部署のこと。
鉱山用語集
(104頁) 参照。
おりん口伝
(38頁)、
(96頁)
ヨッピテ・・・夜通し、 一晩中の意味。 副詞。
続・おりん口伝
(24頁)
ヨロケ (銅肺) ・・・鉱山では、 さく石、 支柱、 運搬の坑内作業や選鉱、 製錬作業など粉じん作業に従
事することにより発生する職業病。 珪肺 (けいはい) 病の俗称。 鉱山労働者など
に多い呼吸器系の病気で、 「じん肺」 のこと。 その患者は、 歩行がもつれ、 よろ
けることからこの名がついたと言う。
おりん口伝
(39頁)、
鉱山用語集
(99
頁) 参照。
ヨロケタ・・・ 「珪肺」 の症状がでたことをいう。 また疲れやすくなったときにも使われた。
口伝
(45頁)
「ラ」
ラント・・・墓地・墓場のこと。
おりん口伝
(239頁)
「ラント」 は、 座台の上に卵形の石塔婆をのせた墓石の一種の卵塔に基づく語。
― 98 ―
おりん
ふじたあさやの<語り>と<ドラマ>の皮膜論
― 現代劇としての狂言と語り物的演劇をめぐって ―
「リ」
リン・・・プロレタリア作家松田解子 (1905―2004) の代表作
おりん口伝
(正・続) は、 秋田の方
言を用いて荒川鉱山で働く主人公のおりんを取り巻く社会や生活をプロレタリアの精神をもっ
て描いている小説である。 その
おりん口伝
の世界は、 現実にあった永岡鶴蔵の労働運動
や鉱山生活の実態を詳細に描写しながら、 現実には存在しなかった荒川鉱山での労働運動の
世界を作者は、 強い願望を込めてフイクションの小説の形式で描いた。 そこには、 作者の生
まれ故郷であり、 愛する母と20歳まで過ごした荒川鉱山の土地への愛着が深く刻みこまれ
ている。
おりん口伝
の主人公であるりんの名前は、 作者の叔母の名前が借用されており、
作者の母である松田スエ (1874―1951) がモデルになっている。
「ル」
ルズ・・・怠けの意味。 だらしのないさまの 「ルース」 に基づく語。
「レ」
レンネン・・・来年の意味。
おりん口伝
(147頁)
「ロ」
ロスケ・・・ロシア人のこと。
おりん口伝
(110頁)
「ワ」
ワ (吾) ・・・私、 僕の意味。 自称。
おりん口伝
(100頁)
ワカゼ (若勢) ・・・使用人の若い男、 下男のこと。
おりん口伝
(14頁)
ワダ・・・ おりん口伝 の主人公であるおりんは、 上淀川の元地主の和田恵之助の末っ子の設定になっ
ている。 この恵之助は、 女道楽と芸道楽であり、 琵琶師、 祭文語り、 娘義太夫などを愛好し
た。 おりん口伝 (13頁) またおりんが嫁ぐ鉱山の最初の夫は、 苗字も和田で千治郎という。
千治郎の母ヨネは、 おりんの家の苗字を聞いたとき 「なんという縁」 と思い、 この縁組に乗
り気になったという。
ワラシ (童子) ・・・子供。
おりん口伝
おりん口伝
(15頁)
(19頁)
ワラシャド (童子共) ・・・子供たちの意味。
おりん口伝
(190頁)
「ン」
ンダ・・・そうだの意味。
おりん口伝
(162頁) 「ンダカラ」 は、 「そうですよ」 の意味。 元来は、 秋
田市の士族の言葉で婦人用語であった。 現代では、 男女を通じてかなり広く秋田市以外にも
使われている。
※引用の おりん口伝
(1966) と
続・おりん口伝
行された本の初版本の頁をあらわす。
― 99 ―
(1968) の頁数は、 それぞれ新日本出版社から刊
<参考文献>
秋田県教育委員会編
秋田のことば 、 無明社舎出版、 2000年
植原路郎 明治語録 、 明治書院、 1978年
大里武八郎 鹿角方言考 、 鹿角方言考刊行会、 1953年
鹿角市教育委員会編
からめ節金山踊り
(鹿角市文化財調査資料82集)、 鹿角市教育委員会、 2005年
河田竹治 秋田方言さまざま 、 よねしろ書房、 1980年
金属鉱山研究会編
鉱山用語集 、 東甲社、 1976年
東條操編 全国方言辞典 、 東京堂出版、 1951年
松田解子 おりん口伝 、 新日本出版社、 1966年
松田解子 続
北条忠雄 解説
おりん口伝 、 新日本出版社、 1968年
秋田方言 、 解説秋田方言刊行会、 1995年
本荘市教育委員会編
本荘・由利のことばっこ 、 秋田文化出版、 2004年
読売新聞秋田支局編
民謡の里―オラが秋田の唄が聞える― 、 無明舎出版、 1979年
― 100 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
研究ノート
保
守
主
義
の
研
究
― ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として ―
吉
野
篤
1. はじめに
2. S. P. ハンチントン 「イデオロギーとしての保守主義」
3. シェルドン S. ウォーリン 「ヒュームと保守主義」
4. ヘンリー A. キッシンジャー 「保守主義のジレンマ:メッテルニヒの政治思想に関する省察」
5. J. ミューラーによる全体的概論
6. おわりに
1. はじめに
西洋政治思想史の授業を担当して10年以上たつが、 関連するモノグラフを公表したことが一度もない
のはいかにも恥ずかしいことであるとずっと考えてきた。 政治史から出発したので、 思想史の問題は授
業に対応した断片的な勉強が主となった。 思想史の問題に関心が薄いわけではないが、 思想史的な 「想
像力」 に乏しく、 とても専門的に研究する能力はない。
これはモノグラフではないが、 大学院時代から興味を抱いてきたテーマである。 ハンチントンの論文
もウォーリン、 キッシンジャーの論文も、 いまから50年ほど前に書かれたものであり、 その意味では
「古典的」 性格をもっているが、 いま読んでも新鮮で、 随所に凄みを感じさせる分析の切れがある。 ハ
ンチントンとキッシンジャーは同じハーバードの研究者で、 おそらく奉職した時期が重なるはずである。
この両論文はハンチントンとキッシンジャーがともに30歳の時に公表されている。 恐るべき才能という
ほかはない。 ハンチントンの論文は一昨年の夏に訳し、 放置していた。 昨年の夏にキッシンジャーとウォー
リンの論文を訳したのを機に、 まとめて研究ノートとして発表することにした。 とくにキッシンジャー
の論文は難解で大分苦労したが、 秩序や正義、 権威など、 政治思想の重要なタームについて深みのある
見解が示されており、 大変勉強になった。 誤訳が少なからずあるのではないかと大いに恐れている。 な
お、 ハンチントンの論文には邦訳があるが (岩間正敏訳 「イデオロギーとしての保守主義」 アメリカー
ナ
4巻2号
1958年)、 残念ながら参照できなかった。 ウォーリンは現在プリンストン大学名誉教授
であり、 政治理論史の優れた通史である Politics and Vision は2004年に拡大版が出版されている。
ミューラー Jerry Z. Muller はアメリカのカトリック大学の歴史学の教授で、
から現在までの社会・政治思想選集
保守主義:ヒューム
Conservatism : An Anthology of Social and Political
Thought from David Hume to the Present, 1997. の編者である。 ここでは
社会科学・行動科学
国際百科事典 のなかでこの研究者が担当した 「保守主義」 の項目を訳出してある。 保守主義の研究史
― 101 ―
も含めて、 全体を大まかに理解するのに有益である。
2. S. P. ハンチントン 「イデオロギーとしての保守主義」
Samuel P. Huntington, Conservatism as an Ideology,
Vol. 51, 1957, pp. 454-473.
保守主義の政治思想は今日のアメリカにおいてひとつの位置を占めているのであろうか。 この問いに
たいする答えはイデオロギーとしての保守主義の全体的性質にかかっている。 すなわち、 その顕著な特
質、 実体、 およびそれを生じさせる条件にかかっている。 イデオロギーという語でわたしが意味するの
は、 政治的・社会的価値の配分に関連し、 ひとつの重要な社会集団によって黙認される観念体系である。
現代における保守主義思想の役割と有意性の解釈はきわめて多様である。 しかしながら、 この論争を基
礎付けているのは、 一個のイデオロギーとしての保守主義の性質に関する三つの広範な相対立する概念
である。 本稿はこれらの概念の相対的メリットを取り扱うものである。
Ⅰ. 保守主義の理論
第一に、 貴族主義的理論は保守主義を単一の特殊な唯一の歴史運動のイデオロギーとして規定する。
すなわち、 18世紀末および19世紀前半期のフランス革命・自由主義およびブルジョアジーの勃興に対す
る封建的・貴族的・農業的階級の反応である。 マンハイムの言葉では、 近代保守主義は 「ある特定の歴
史的・社会学的状況の機能」 である。 自由主義はブルジョアジーのイデオロギーであり、 社会主義とマ
ルクス主義はプロレタリアートのイデオロギーであり、 したがって保守主義は貴族制のイデオロギーで
ある。 かくして保守主義は、 封建制・身分・旧体制・地主・中世主義および貴族と確固として結び付け
られるにいたる。 すなわちそれは、 中産階級・労働者・商業主義・産業主義・民主主義・自由主義およ
び個人主義に断固として対立するにいたる。 このような保守主義概念は 「新保守主義」 の批判者の間で
一般的である。 というのは、 ハーツ Louis Hartz が見事に示したように、 合衆国は封建的伝統を欠い
ているからである。 したがって、 中産階級の国アメリカに保守主義的観念を広めようとする知識人や評
論家の努力は報われない運命にあるとしなければならない。
第二に、 保守主義の自律的規定によれば、 保守主義は何らかの特定の集団と必然的に関係付けられる
ものではないし、 実際、 その出現は社会的勢力の何らかの特殊な歴史的形状にかかっているものでもな
い。 保守主義は全体的に適切な自律的観念体系のひとつである。 それは正義・秩序・均衡・中庸のよう
な普遍的な価値の観点から規定される。 ある特定の個人がこれらの価値を高く保持するかいなかは、 彼
の社会的帰属にかかっているのではなく、 それらの価値に内在する真理や望ましさを理解する彼の能力
にかかっている。 保守主義はこの意味ではカーク Russell Kirk が言うように 「意志と知性」 の問題で
あるにすぎない。 すなわち、 保守主義の諸原則は 「単一の階級の諸利益に限定されない」。 保守主義者
は 「あらゆる階級と職業から…」 調達されうる。 このような保守主義論は 「新保守主義者」 の間で明ら
かに普及している。 それは、 保守主義は現代のアメリカにおいて有意であり望ましいということを意味
するのみならず、 いかなる歴史的環境のもとでも望ましい政治哲学であるということをも意味する。
第三に、 状況的規定は、 特異ではあるが繰り返される歴史状況のタイプから生ずるイデオロギーとし
て保守主義を見るのであるが、 そこでは既存の諸制度に対して根本的な異議申し立てがなされ、 従って、
― 102 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
それらの諸制度の支持者は制度防衛のために保守主義的イデオロギーを用いる。 かくして保守主義は、
何らかの既存の社会秩序 (それがどこであるいはいつ存在しているかに関わりなく) を、 どんな方位か
らであれその性質と存在への根本的異議申し立てに対して正当化するために用いられる観念体系である。
保守主義の本質は、 既存の諸制度の価値の情熱的是認である。 これは保守主義があらゆる変化に反対す
るということを意味するものではない。 実際、 社会の基礎的諸要素を保守するためには、 二次的争点に
関する変化を黙認せざるを得ないであろう。 しかしながら、 既存の秩序に基本的に満足しておらず、 何
らかの深刻な異議申し立てに対してそれを防衛することに参画していない限り、 保守主義のイデオロギー
を受け入れられる人はいない。
いまや、 問題を正当に提起することができる。 すなわち、 規定をめぐる議論によって得られるものは
何か。 すべての規定が本質的に恣意的ではないのか。 一方が他方に優っていることを示すにはどうすれ
ばいいのか。 このような議論は、 対立する理論の間に共通の前提がない場合には妥当である。 しかしそ
れは保守主義の三つの規定には当てはまらない。 それらの規定は保守主義のイデオロギーと歴史過程と
の関係に関して異なっているに過ぎない。 貴族主義的規定は保守主義をある特定の社会におけるある特
定の社会階級に限定している。 自律的規定は歴史の何らかの段階での保守主義の出現を想定している。
状況的規定によれば、 保守主義は異議を申し立てている社会集団と防衛する側の社会集団が相互に特定
の関係の中で対峙している場合に出現する。 だがこれらのアプローチはおしなべて、 イデオロギーとし
ての保守主義の内実、 すなわち保守主義者が信ずる価値と観念の実体については基本的に合意している。
例えばカークは、 保守主義を封建主義と同一視しているとしてシュレジンガー Arthur Schlesinger Jr
を批判しているが、 しかし彼は保守主義的イデオロギーの本質に関するシュレジンガーの言明には実質
的に同意している。
その上、 保守主義のアナリストはすべて、 バーク Edmund Burke を保守主義の祖型と見なす点で、
また、 彼の思想の基礎的要素が保守主義の基礎的要素であると仮定する点で一致している。 これらの合
意領域が三つの規定の合理的評価を可能とする。 保守主義の歴史的機能はその実体から引き出されねば
ならない。 保守主義理論はバーク的イデオロギーの、 歴史上の表出を最も十全かつ徹底的に説明するも
のはどれかという優先順位を決定すべきである。 本稿のテーゼは、 状況理論こそこれらの基準を最も厳
密に満たすということである。
Ⅱ. 観念化的・制度的イデオロギー:保守主義的理念の欠如
保守主義の三つの規定すべてを支持する著作家の間には、 少なくとも以下の点が保守主義の信条―バー
ク理論の本質的要素であるとの実質的合意が存在する。
人間は基本的に宗教的動物であり、 宗教は市民社会の基盤である。 神罰は正統な既存の社会秩序
を注ぎ込む。
社会は緩やかな歴史的成長の自然な有機的産物である。 既存の諸制度は従前の世代の知恵を体現
している。 権利は時の機能である。 バークの言葉では 「時効はあらゆる権利のうちで最も確かなも
のである」。
人間は理性と同様に本能と感情の創造物である。 深慮・偏見・経験および習慣は、 理性・論理・
抽象および形而上学よりも優れた導き手である。 真理は普遍的命題にあるのではなく、 具体的経験
にある。
共同体は個人に優る。 人間の権利は義務から生ずる。 悪は特定の社会制度に根差すのではなく、
― 103 ―
人間性に根差す。
究極的な道徳感覚を除けば、 人間は不平等である。 社会組織は複雑で、 多様な階級・秩序および
集団を常に含んでいる。 差別化・階層制およびリーダーシップはあらゆる市民社会の不可避的特質
である。
「試みられたことのないあらゆる計画に対する設定済みの統治計画に与する」 推定が存在する。
人間の希望は高いが、 見通しは短い。 既存の悪を矯正する努力は通常より多くの悪に終わる。
これらの命題が代表的な保守主義的観念の公正な要約であると仮定すれば、 それらの命題は貴族主義
的・自律的・状況的理論の相対的メリットに関して何を示唆しているのか。 これらの保守主義原理のう
ち、 封建的・貴族主義的反応に限定されるものはひとつもない。 確かに、 そのイデオロギーは、 社会に
おける階級とリーダーシップの不可避性を強調するが、 しかし社会組織の特殊な形態あるいはリーダー
シップの淵源を特定化するものではない。 そのイデオロギーには、 農業社会・封建的な土地保有制・君
主制あるいは貴族制への偏向を前提とするものは何もない。 同様に、 保守主義のイデオロギーは普遍的・
恒久的有意性をもつイデオロギーの広範な視界と普遍的なアピールを欠いているので、 自律的規定は不
十分である。 実際に、 保守主義それ自体は真理の特定の性質および包括的原則の危険への警告に力点が
ある。 明らかに、 このイデオロギーは現状に不満な誰かに訴える力をほとんどもっていない。 要するに、
貴族主義的規定は挫折する。 というのは、 一方における貴族制あるいは封建主義と、 他方における保守
主義との間に必然的な繋がりが存在しないからである。 つまり、 非貴族主義者が保守主義のイデオロギー
を詳説できるし、 貴族主義者が非保守主義的イデオロギーを詳説できる。
歴史における保守主義の出現は行き当たりばったりの機会の問題ではないから、 自律的規定は行き詰
る。 貴族主義的規定は保守主義を社会過程のあまりにも小さな区画に限定している。 保守主義思想の特
徴的諸要素―歴史における 「神の配剤」、 時効と伝統、 抽象と形而上学の嫌悪、 個々の人間の理性の不
信任、 社会の有機的概念、 人間の悪の強調、 社会的差別化の容認―のすべては、 既存秩序の正統化とい
う支配的目的に奉仕する。 保守主義の本質は、 歴史・神・自然および人間の見地から現存する諸制度を
合理化することである。
現存する秩序を正統化するうえでの保守主義的イデオロギーの有益性はバーク的諸原則の上記のよう
な要約から明白である。 この要約には、 これらの観念が防衛しようとしてきた諸制度の性格に関する何
らかの指摘はどこにもない。 この観点では保守主義は急進主義を除く他のすべてのイデオロギーと異なっ
ている。 すなわち、 それは実質的理念と称されうるものを欠いている。 ほとんどのイデオロギーは、 政
治社会はどのように組織されるべきかに関する一定のビジョンを仮定している。 「自由主義」、 「民主主
義」、 「共産主義」、 「ファシズム」 という語はすべて、 社会における権力その他の価値の配分、 国家その
他の社会制度の相対的重要性、 経済・政治・軍事構造間の関係、 統治と代表の全体的体系、 執行・立法
制度の形態などがいかにあるべきかに関する暗示を伝えている。 しかし保守主義の政治的ビジョンとは
何か。 保守主義的社会を記述することは可能なのか。 対照的に保守主義の本質は、 ミューレンフェルト
Mhlenfeld の言い回しでは、 それが文字通り 「理想像なき政治」 Politik ohne Wnschbilderであ
るということである。
例えば、 ポルトガルの政治システムはイギリス・アメリカのシステムより権威主義的基準に近い、 イ
ギリスのシステムはポルトガルやアメリカのシステムよりも社会主義的基準に近い、 アメリカのシステ
ムはイギリスやポルトガルのシステムより民主主義的基準に近い、 またこれら三つのシステムは共産主
義的基準にはほど遠いと論じることはできよう。 しかし、 三つシステムのうちどれが保守主義的基準に
最も近いのか。 ポルトガルか、 イギリスか、 アメリカか。 それを言うことはできない。 というのは、 判
― 104 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
断基準として機能する保守主義的基準は存在しないからである。 かつて保守主義的ユートピアを叙述し
た政治哲学者はいない。 いかなる社会にも保守されるべき制度はあるであろうが、 決して保守主義的制
度というものはない。 保守主義的理念の欠如は保守主義の自律的規定を無効にする。
非保守主義的イデオロギーの諸理念は思想家ごとに、 また世代ごとに変化するが、 それらの基本的特
質は同じままである。 すなわち、 価値を理論的に規定された系統的記述に位置づけることおよびこのよ
うな記述の観点から既存の現実を評価することがそれである。 非保守主義的イデオロギーはかくして本
来的に観念化的あるいは超越的であり、 一方保守主義は制度的あるいは内在的である。 近代西欧社会に
一般的に見られた観念化的イデオロギーのすべては、 諸制度はイデオロギーの価値を具体化するように
再現されるべきであるとの 「とりあえずの要請」 ought demandによって既存の諸制度にアプロー
チする。 この意味では、 すべての観念化理論はある程度の急進主義、 すなわち既存の諸制度にたいする
批判を含んでいる。 現存する諸制度の現実と非保守主義的イデオロギーとの間の溝が大きければ大きい
ほど、 そのような現実との関係からこのイデオロギーはますます急進的となる。 こうして急進主義は保
守主義と対立し、 しかも保守主義のように、 特定の理念への信念よりもむしろ諸制度にたいするひとつ
の態度を表す。 保守主義と急進主義は変化の目的と方向への指向性よりもむしろ変化の過程への指向性
から生ずる。
保守主義のイデオロギーは激しいイデオロギー的・社会的紛争の産物である。 それは、 確立された諸
制度への挑戦者が、 それらの諸制度が鋳造・創造されてきた過程という観点から観念化理論の基礎的諸
要素を否認する場合にのみ現れる。 その挑戦者が定着している哲学の基本的価値を問題にしない場合に
は、 制度変容を支持する人々とそれに反対する人々との論争は、 共通に受け入れられた観念化的哲学に
関して行われる。 それぞれの集団は、 その政策が他集団の政策よりも共通の理念にもっと合致している
ことを示そうと試みる。 例えば、 アメリカの南北戦争以後、 アメリカのウィッグ派と民主派の紛争は、
ハーツが指摘するように、 ロック的価値の共有された枠組の内部で行われた。 合意が保守主義を阻んだ。
しかしながら、 このような挑戦者が現存する社会のイデオロギーに基礎的に同意せず、 基本的に異な
る価値セットを承認する場合には、 共通の議論枠組は破壊される。 挑戦者によって広く流布している哲
学が拒否されることは、 その擁護者にもまたそのような哲学の放棄を強いることになる。 確立された諸
制度を申し分なく擁護するために用いられうるような観念化理論は、 そのような諸制度がそのイデオロ
ギーの価値をおおむね反映している場合でさえ、 存在しない。 そのイデオロギーの完全な性質と諸制度
の不完全な性質・不可避的な変化はこの二つの間の溝を生み出す。 理念は、 その理念を信奉しているが、
諸制度を擁護しようとする人々にとって特に、 制度批判の基準となる。 事実上、 そのような擁護者は避
けて通れない選択に直面する。 すなわち、 彼らは、 諸制度を擁護し彼らの古い観念化理論の代わりに保
守主義哲学を用いるために、 自らのイデオロギーを捨てざるを得ないか、 あるいは彼らの理念をおおむ
ね体現している諸制度の衰退を一層促す危険性をもつ自らの観念化理論に固執せざるを得ないか、 であ
る。 基本的挑戦に対する諸制度の擁護は結果的に、 それらがこれやあれやの観念化哲学の時効に対応す
る程度を無視した制度としての制度の保守主義的な論理・尊厳および必然性という見地から表現されね
ばならない。
戦いを挑んでいる社会的勢力は諸制度への明白かつ現在の危険を提起しなければならない。 反体制イ
デオロギーの単なる表出は、 そのイデオロギーが重要な社会集団によって受容されるまで保守主義を生
み出さない。 18世紀中葉のフィロゾーフたちは保守主義イデオロギーを生まなかった。 すなわち、 1789
年とそれに続く年月がそれを生み出した。 マンハイムによれば、 保守主義は 「生活と思想の他の様式が、
イデオロギー闘争の武器を取ることを強いるような場面に現れる時に初めて意識的・内省的となる」。
― 105 ―
確立された秩序の擁護者が (擁護に) 成功した場合には、 やがて彼らは保守主義イデオロギーの表出を
徐々に止め、 その代わりに彼らの古い観念化イデオロギーを用いる。 制度防衛が成功しない場合には、
彼らは古い観念化の根拠を捨てるか、 あるいは新しい保守主義イデオロギーを捨てるかのどちらかであ
る。 彼らが先天的な保守主義者でありたいと思う場合には、 彼らは新秩序を運命の不可避的所業として
受け入れるであろう。 バーク、 ボナールおよびメーストルはすべて、 ある部分では、 フランス革命の勝
利は神意によって定められており、 ひとたびこのことが明らかになれば、 それに反対することは 「断固
たる、 また決然としたことではなく、 ひねくれた、 強情なこと」 であると信じていた。
他方、 古い観念化哲学の理念に執着したままの不運な保守主義者は、 反動主義者、 すなわち過去に存
在していたと仮定するある理念を将来において再生しようと望む、 既存社会の批判者となる。 彼は一個
の急進主義者である。 「後ろ向きの変化」 と 「前向きの変化」 の適切な区別は存在しない。 変化は変化
である。 すなわち、 歴史は後退しないし繰り返しもしない。 したがってあらゆる変化は現状から離れる。
時がたつにつれて、 反動主義者の理念は過去の現実社会との関連をますます失うようになる。 過去は理
想化され、 ついに反動主義者は、 決して現実には存在しなかった理想化された 「黄金時代」 への回帰を
支持するにいたる。 彼は他の急進主義者と区別できなくなり、 したがって彼は普通、 急進的心理固有の
特質のすべてを示す。
制度的イデオロギーとしての保守主義の性質は、 それと何らかの特定の観念化イデオロギーとの間の
恒久的な固有の提携あるいは対立を妨げる。 従って、 保守主義と自由主義の必然的な二分法は存在しな
い。 そのような対立が存在するという仮説は、 いうまでもなく保守主義の貴族主義的理論から生じ、 18
世紀末および19世紀初頭という西洋史の単一局面への過剰な関心を反映している。 このつかの間の関係
を政治史の継続的現象へと昇格させようとする努力は、 それ相応の歴史的環境においては、 保守主義は
自由主義的諸制度の防衛にとって不可欠であるという事実を覆い隠す機能を果たすに過ぎない。 保守主
義者の真の敵は自由主義者ではなく、 いかなる観念化理論を信奉するにかかわらず極端な急進主義者で
ある。 さまざまな急進派がさまざまな打開策を提出するが、 彼らはすべて、 保守主義の思想家が素早く
識別してきた同じ心理をもっている。 フッカーの識別した16世紀のピューリタン、 メッテルニヒの識別
した 「横柄な人々」、 バークの識別した 「形而上学的な乱筆家」、 ホーソーン Hawthorne の識別したホ
リングスワース Hollingsworth、 コルテス Cortes の識別した 「自己を崇拝する人間」、 ホッファー
Hoffer の識別した20世紀の 「真の信者」 はすべてまったく同一である。
保守主義と観念化イデオロギーの区別によって、 一定の非保守主義者は保守主義への知的満足を否定
する方向に導かれ、 一定の保守主義者はあらゆるイデオロギーを攻撃する方向に導かれる。 しかしなが
ら、 保守主義の批判者と擁護者はともに、 彼らがその知的重要性を見くびる場合には誤っている。 保守
主義は、 人間存在の恒久的な制度的前提条件の知的理論的根拠である。 それは高度な不可欠な機能をもっ
ている。 それは精神に対する存在の、 混沌に対する秩序の合理的擁護である。 社会の基盤が脅かされる
場合、 保守主義のイデオロギーは人々に、 一定の制度の必然性および既存の制度の望ましさを想起させ
る。 すべてのイデオロギーが観念化イデオロギーである必要はない。 保守主義の理論は他の一般的な政
治理論とは異なる秩序と目的をもつが、 しかしそれは依然として理論である。 保守主義は変化の欠如で
はない。 それは変化への整然とした、 体系的な、 理論的な抵抗である。
― 106 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
Ⅲ. 固有な位取りのイデオロギー:保守主義的伝統の欠如
バークは保守主義者であると正当に位置づけられるということに、 ほとんどの論者が同意し、 またそ
れをここでの前提としている。 したがって問題はこうである。 バークは封建的貴族的秩序の代弁者、 普
遍的に妥当する価値と理念の解釈者として最も良く理解されうるのか、 それとも確立された諸制度の擁
護者として最も良く理解されうるのか。 貴族主義的規定はバークを解明し損ねている。 というのは、
バークが擁護したイギリス社会は主として封建的ではなかったし、 もっぱら貴族主義的でもなかった;
バークは他の既定社会、 とりわけインドとアメリカにおける既定社会の防衛に関心を抱いていた;
望ましい社会組織に関するバークの見解を見る限り、 彼は自由主義者であり、 ウィッグ派であり、 自
由貿易論者であった。 自律的概念も同様にバークの十全な解明を提供するものではない。 というのは、
バークの政治的な著作や演説はすべて、 当面の問題や要請に向けられていた;彼は普遍的適応性を
もつ道徳哲学あるいは政治哲学の望ましさと可能性を否定した;彼の政治思想の主要な要素はたいて
い既定の制度を正当化するという限られた目的にとって有意であった。
19世紀初頭のヨーロッパ大陸では、 バークの観念は、 中産階級の勃興に対して貴族制と封建制を擁護
するために用いられた。 しかしながら、 バークが関心を寄せたイギリスの社会と国家構造は海峡を隔て
て存在するそれらの制度とはまったく異なっていた。 彼の観念が両方の場所で既定秩序を正当化するた
めに用いられうるという事実は、 二つの秩序の同類性を示しているのではなく、 彼の哲学の転移可能性
transferability を示していた。 明敏な警句で、 ルイス・ハーツは 「アメリカではバークはロックに等
しかった」 と宣言した。 これは充分真理であるが、 それはイングランドでも同じように真理であった。
バークは彼の時代のイギリスの国家構造を、 先ず議会に対する国王の影響力を繰り返し主張するジョー
ジ三世の取り組みに対して擁護し、 次に議会に対する国民の統制を拡大するための民主主義者の取り組
みに対して擁護した。 彼が保守主義者であったのは、 ロック以後の100年で、 彼が依然として1689年の
諸制度を維持しようとしていたからである。 彼が断固として言うには、 彼は 「国教会、 既定の君主制、
既定の貴族制および規律された民主主義を、 それが存在している程度に、 またそれ以上でも以下でもな
く保持する」 混合政体の帰依者である。 国民はイギリス的体系において限られているとはいえある重要
な役割を担うということをバークは認識していた。 貴族制をイギリス国家構造の本質的・不可欠な要素
として承認しながらも、 彼はそれにたいする偏愛を示すことはほとんどなかった。 ひとりの庶民として
彼は、 彼を 「アイルランドの策士」 と見なす傾向にあった大貴族たちの貴族主義的な高慢さからたびた
び被害を被った。 ジェファーソンとアダムスと同様に、 バークは自然な貴族制の支持者ではあったが、
作為的な貴族制の支持者ではなかった。
バークが擁護した社会秩序は大部分商業的秩序であり、 それはますます産業として発達しつつあった。
18世紀に見られたのは、 イングランド銀行の昇格であり、 南海泡沫事件であり、 株式会社であり、 航行
と貿易の拡大であり、 商業的繁栄と産業資本の蓄積であり、 工業的な発明ラッシュであり、 製造業の着
実な成長であった。 商業は18世紀イングランドの 「支配的要素」 であった。 イングランドの偉大なる紳
士たちは貿易を恥じていないというボルテールの驚きは、 イギリス社会と大陸社会の相違を示すひとつ
の指標にすぎなかった。 1750年にバークがロンドンに到着する前の30年間、 産業の振興はイギリス政府
の主要な目的のひとつであった。 保守主義の貴族主義的理論に従って、 バークが封建的な共同体秩序を
擁護していた1790年までには、 イギリスの産業革命は既に一世代の歴史をもっていた。 商工業の発展に
よってバークは撃退されたのか。 彼は以前の時代の封建的な農業的秩序への回帰を求めたのか。 そうで
はなく、 ネーミア Namier が明言するように、 バークにとって 「貿易は帝国の魂であった」。 早くも
― 107 ―
1770年には、 バークは確固たる言葉で自らの立場を表明した。 すなわち 「貿易の利益から離れた地主的
利益というようなものはない。 …あなた方の土地を貿易に差し向けよ」。 これが封建的擁護者の進言で
あるのか。 6年後、 「精神の明敏さと洞察力、 見解の広がり、 正確な識別、 各部分の正当・自然な繋が
りによって」、 経済学に関する彼自らの見解を正確に反映していた書物であった
諸国民の富
をバー
クは称賛した。 議会では、 バークは一貫して自由放任の立場に立った。 すなわち、 国家は経済問題に関
与すべきではない。 商業の法律は自然の法律であった。 労働それ自体が一個の 「貿易品目」 であった。
スミス Adam Smith が、 バークと政治経済を議論した後に、 バークは 「何らの意思疎通もなく、 まさ
に彼と同じようにこれらの論題について考えた唯一の人」 と明言せざるをえなかったのに何の不思議が
あるのか。 バークが封建的な共同体秩序の擁護者であるとすれば、 スミスはどうなるのか。 この問題の
明白な事実はこうである。 すなわち、 彼が望ましい社会組織に関する見解をもっていた限り、 政治的に
バークは自由主義者であり、 ウィッグであり、 ロック的国家構造の擁護者であった。 経済学的には、 彼
は自由貿易論者であり、 彼の観念はスミスの観念と一致していた。 彼について共同体的あるいは封建的
あるいは貴族主義的なものはほとんどあるいはまったくなかった。
バークは均衡した国家構造と商業経済を選好したとはいえ、 彼の選好はそれらの特殊な徳性から生じ
たというよりもそれらが実在しているという事実から生じた。 モンテスキューとスミスはバークが受け
入れた諸制度に関する観念化的根拠を発展させた。 バークの貢献は異なっていた。 彼は諸制度の実体に
ではなくそれらの保持に関心を抱いていた。 イギリスにおけるウィッグ的制度、 アメリカにおける民主
的制度、 フランスにおける貴族的制度およびインドにおけるヒンドゥー的制度を彼は公平に擁護した。
例えば、 インドの諸制度は 「われわれの原理にではなく、 彼ら自身の諸原理に」 基づくべきであると彼
は警告し、 「最も根付いた諸権利、 および時代と国民の最も古来の崇拝された諸制度」 を覆した、 イン
ドのイギリス人を非難した。 モーレィ Morley が古典的な言い回しで述べたように 「彼は方向を転換し
たが、 立場は決して変えなかった」。 モーレィ以来、 学者はバークの首尾一貫性のなさを非難すること
では一致していた。 しかしバークが首尾一貫していたとしても、 彼はいかにしてずっと貴族主義者であ
りえたのか。 彼の主要な関心が、 ヨーロッパにおける封建的な共同体秩序の保持であったとすれば、 彼
がアメリカあるいはインドへの関心をもったのは何故なのか。 ほとんどの保守主義者は、 ある特定の既
定秩序を擁護するために、 保守主義的観念を採用する。 この観点では、 彼らの保守主義は本来的なもの
であるよりもむしろ手段的なものである。 しかしながら、 バークは自らの衝動が、 どこに位置するもの
であろうと、 またいかに異議を申し立てられようと、 あらゆる既存の諸制度を防衛することであったゆ
えに、 保守主義の祖形であった。
保守主義の貴族主義的理論の支持者によれば、 近代の保守主義はフランス革命への反動に起源があっ
た。 彼らは誤っている。 西洋政治史における保守主義の少なくとも四つの主要な徴候を識別することが
可能である。 第一の徴候は、 中世の政治制度に対する中央集権化された国家的権威の挑戦、 および既定
の教会・国家関係に対する宗教改革の挑戦への、 16・17世紀における反応であった。 例えばヨーロッパ
大 陸 で は 、 ホ ッ ト マ ン Francis Hotman が の な か で 、 ま た 、 マ リ ア ナ Juan de
Mariana が のなかで、 国家的君主の権力拡大に対する中世的な多元
的秩序の保守主義的な防衛を試みた。 ホットマンがフランス人で新教徒であり、 マリアナがスペイン人
でイエズス会士であったということはほとんど問題ではなかった。 彼らは同様な目的と議論をもってい
た。 しかしながら、 不幸にも両者にとって、 歴史的事実は、 彼らによるその使用法をまったく支持しな
かったし、 王権伸張の趨勢は、 旧秩序の重要な諸制度のほとんどを掘り崩していた。 結果として、 モナ
ルコマキ (暴君放伐論者) の議論は保守主義ベースから観念化ベースへと移行した。 それは先例よりも
― 108 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
むしろ原理の観点から再規定された。 は によって凌駕され、 マリアナはスア
レス Suarez によって凌駕された。
他方イギリスでは、 強大な国家的君主と国教会の存在が、 両者に関する保守主義的防衛を可能にした。
大陸では、 王室の権威に対して諸階級を防衛するために用いられてきた諸観念が、 イギリスでは政治的
反体制派と神学的急進派に対して王室の権威を防衛するために用いられた。 チューダー王朝期のアポロ
ジスト―ティンダル Tyndale、 ガーディナー Gardiner、 フーパー Hooper その他多数―の政治的思考
は、 秩序と服従への保守主義的アピールに満ちていた。 反乱と無秩序は最大の邪悪であると主張された。
すなわち不服従は神意によって確定された存在の鎖を断ち切る企てであった。 チューダー王朝期の文献
のなかで、 再三再四述べられたのはシェークスピアの警句であった。 すなわち 「奪い去れ、 弦の調子を
狂わせよ、 そして聴け、 いかなる不和が続くかを…」。
清教徒の攻撃が勢力を結集し、 より過激になった―監督制度が1570年に継続的な批判にさらされた―
16世紀末に向けて、 国家の市民的・宗教的制度のより徹底的な保守主義的防衛の必要性が生じた。 この
要 求 は 、 フ ッ カ ー Richard Hooker に よ っ て 、 1594 年 に 刊 行 さ れ た
教会統治の法
Laws of
Ecclesiastical Polity のなかで満たされた。 この複数巻の著作は、 保守主義イデオロギーの高くそびえ
る雄弁な言明として屹立している。 バークから200年前のここに、 バーク的思想のあらゆる重要な要素
が述べられていた。 彼らの保守主義の実体は事実上同一である。 だが、 彼らが防衛しつつあった諸制度
と彼らの反応を引き出した挑戦は同一ではなかった。 1590年のチューダー朝の国家構造は、 1790年のウィッ
グ的国家構造とは異なっていた。 フッカー的諸制度への脅威は、 教会と国家の完全な分離、 理性に対す
る信仰の至高性および教会の権威に対する聖書の権威を支持する清教徒諸派から来た。 清教徒たちは人
間を堕落し邪悪なものと見た。 すなわち彼らは唯心論的、 決定論的、 反知性的、 原理主義的および悲観
的であった。 他方、 バーク的諸制度への挑戦は、 理性の有効性を確信し、 人間性および進歩への人間の
能力の無限の自信をもった民主的集団から来た。 彼らは清教徒とはあらゆる意味で対極にあった。 すな
わち、 唯物論的、 合理主義的、 反宗教的、 楽観的、 自由意志論的であった。 だが、 これらの相違にもか
かわらず、 フッカーとバークの置かれた同様な状況によって、 彼らは同様な政治的観念を詳説するにい
たった。
保守主義の第二のきわめて大きな徴候は、 フランス革命への反応であった。 その社会的動乱、 それが
推し進めたイデオロギーおよびそれが権力に駆り立てた階級は、 その時代までの西洋文明史における、
現存する諸制度に対する疑いもなく最大の脅威であった。 結果的に、 それらは西洋史における保守主義
思想の最大の発露をもたらした。 革命への保守主義的反応はもっぱらではないにせよ主に、 勃興しつつ
あった、 都市の、 啓蒙化された中産階級に対する封建的・農業的・貴族主義的秩序の防衛であった。 に
もかかわらず、 革命は封建的・貴族主義的秩序のみならず、 既定秩序すべてを危機に陥れた。 イギリス
では、 バークは商業社会および穏健な自由主義的国家構造の保守主義的擁護に携わった。 アメリカでは、
フェデラリスト―アダムスからハミルトン Hamilton を経てエイムズ Fisher Ames にいたるまで―は、
彼らが民主的革命の脅威であると考えたものに対して自由主義的国家構造を擁護するために保守主義的
観念を披瀝していた。 ヨーロッパ大陸でもまた、 当初の保守主義的反応は封建的貴族主義者からではな
く、 より自由主義的、 商業的および官僚的要素から来た。 例えばドイツでは、 中産階級が最強であった
北ドイツ諸都市の代表であったブランデス Brandes、 レーベルク Rehberg およびメーザーが革命に対
する最初の攻撃を行った。 ゲンツ Gentz のような何人かの大陸の保守主義者は、 経済的には自由主義
的であった。 貴族制の代弁者の間にさえ、 防衛に努めた社会には相違があった。 すなわち、 ボナールと
メーストルのフランス、 マルヴィッツ von der Marwitz とハラー Haller のプロシャ、 ゲンツ・メッ
― 109 ―
テルニヒ Metternich およびミューラーのオーストリアは、 同一の社会構造をもっていなかった。 にも
かかわらず、 保守することを望んだ当の社会秩序とは関わりなく、 これらの反革命思想家の政治的観念
には、 保守主義の共通の脈絡が貫かれていた。
反革命 Reaction の封建的・貴族主義的思想家の保守主義は、 彼らの階級利益の永続的・本質的性質
の産物であるよりもむしろ、 彼らの当座の防衛的立場の産物であった。 これらの利益の基本的性格は
1789年には変化していなかった。 だがその年以前には、 貴族制は重大な保守主義的思考を何ら生み出さ
なかった。 その必要がなかったのである。 他方で、 貴族階級は権力から追いやられた後は、 貴族主義的
理念を放棄することなく、 保守主義的であることを止めた。 特にフランスでは、 かつて保守主義的であっ
た貴族主義思想は、 急激に反動的となり、 事実上急進主義となった。 メーストルは秩序と安定を称揚し
た。 第三共和制のブルジョア民主主義では、 アクション・フランセーズが暴力と 「強権発動」 を説いた。
革命派は右派の側にあった。
保守主義の第三の徴候は、 19世紀中盤において社会の方向性を担う役割を求める大衆下層階級の要求
に対する統治階級の反応であった。 この挑戦の単一の最も重要な象徴は、 選挙権拡大の叫びであった。
しかしながら、 それは、 受容された諸価値からの部分的な逸脱を含むに過ぎず、 結果的に弱い保守主義
的反応を引き起こしたに過ぎない異議申し立てであった。 とりわけ、 中産階級が二つの方向性に直面し
なければならなかったフランスでは、 それらの見解の代表的な支持者―例えばコラール Royer-Collard
とギゾー Guizot―は、 貴族層に対しては自由主義的観念を、 また、 大衆に対しては保守主義的観念を
説いた。 大きな社会変動が社会の構造を破壊しなかったドイツでは、 シュタール Stahl、 ランケ Ranke、
ザヴィニー Savigny およびゲルラッハ Ludwig von Gerlach は、 社会の有機的成長を強調する、 より
広範に認識された保守主義を表明した。 イギリスでは、 コールリッジ Coleridge、 その後のニューマン
Newman、 メイン Maine およびレッキー Lecky は階級支配を大衆支配に置き換える危険について警告
していた。 アメリカでは、 新フェデラリストたち、 ストーリー Story、 チョート、 ケント Kent は、 彼
らがジャクソン主義の高波に翻弄される以前に、 限定された統治階級の、 短命に終わった保守主義的擁
護を行った。
保守主義の第四の徴候は、 19世紀中葉における産業主義、 自由労働および奴隷制廃止の挑戦によって、
南部アメリカで生み出された政治思想の発露であった。 1830年以前は、 南部の政治思想はおおむねジャ
クソン主義的イメージで形成された。 1830年以後、 南部の思考は、 奴隷廃止論のますます明確な表明お
よび北部の産業と人口の増大の帰結として、 ますます保守主義的となった。 ギャリソン William Lloyd
Garrison―急進的改革者の権化―は、 1831年に
解放者
を創刊し、 同年にターナー
Nat Turner は彼の奴隷の暴動を指揮した。 これらの事象が象徴する諸勢力の組み合わせは、 南部を防
衛的にさせ、 ジャクソン主義の遺産を放棄させ、 バークの言葉でいう保守主義的弁証を発展させた。 独
立宣言を奴隷制とつき合わせて考える人がいない限りにおいて、 同時にジャクソン主義者であり奴隷所
有者であることは可能である。 このことが生じた場合、 奴隷所有者は自らの自由主義を捨てるか、 ある
いは自らの生計を捨てるかしなければならなかった。 不可避的に、 観念化哲学は広範な保守主義によっ
て生贄とされ、 それに取って代わられた。 チューダー的制度枠組に対する清教徒の急進主義の上げ潮が
事実上フッカーを生み出したのとまさに同じように、 奴隷制改革の上げ潮が事実上カルフーン
Calhoun とフィッツヒュー Fitzhugh を生み出した。 彼らの著作および 「反動的啓蒙」 に関するその他
の人々―とりわけホルムズ Holmes、 ハモンド Hammond およびハーパー Harper―の著作の中には、
「あらゆる本質的な点でヨーロッパの封建的反動の議論の複製」 があった。 バークの基本的観念のすべ
てが、 具体的で強力な、 しかも有効であった脅威に対する確立された社会秩序の防衛に彼らが使った論
― 110 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
説やパンフレットの中に再生産された。
ハーツの示唆によれば、 南部の保守主義は 「欺まん」 であった。 保守主義の貴族主義的概念から出発
したハーツの議論によれば、 南部の人々が、 一方で奴隷制を擁護するために、 他方で多くの自由主義的
要素を含む政治的伝統を擁護するためにバークを用いる試みには、 本来的な矛盾があった。 しかしなが
ら、 南部のシステムの明確な矛盾にもかかわらず、 そのシステムを擁護するために南部がバークを用い
ることに矛盾はなかった。 保守主義の哲学は、 ジェファーソンの諸制度、 奴隷制という 「特殊な制度」
あるいはこの二つの何らかの組み合わせの防衛に適していた。 カルフーンにとって、 バークと奴隷制を
結びつけることが欺まんでないのは、 バーク自身が自分と自由放任を結びつけることが欺まんでないの
と同じであった。 南部の保守主義的な政治思想が南北戦争で終わったという事実によって、 南部の人々
が 「似非バーク派、 半ばバーク派」 であったことが証明されるわけでもない。 南部の社会・政治システ
ムが破壊されたとき、 その防衛のために練られた理論は必然的にそのシステムとともに死滅しなければ
ならなかった。 ハーツ自身は南部の保守主義を 「アメリカ思想史上の偉大な創造的エピソードのひとつ」
であると述べている。 しかしながら、 それは、 単に 「欺まん」 であるとすれば、 アメリカの状況にルー
ツをもたない人工的な輸入物であるのか。 南部の保守主義に関するより素朴な説明によってこの問題を
回避することはできないのか。 南部の経験は、 社会の実態に対する基礎的異議申し立ての出現の結果と
して、 自由主義的な観念化理論から不屈の保守主義へと移行する社会の明確な例であった。
保守主義の貴族主義的理論の基本的不備は、 それが保守主義を位置取りのイデオロギーよりもむしろ
生得的なイデオロギーであると認識していることである。 生得的なイデオロギーは、 継続する社会集団
の諸利益の理論的表現である。 それは、 当該集団を一個の集団たらしめている基本的な共通の特質から
引き出される。 従って、 生得的イデオロギーは当該集団の利益と要求が変化するにつれて進化し変化す
るが、 しかし同時に、 それは当該集団の継続的な固有のアイデンティティを反映する一定の本質的な特
質を維持する。 ブルジョア中産階級のイデオロギーとしての本質的性質通りに、 ある世代の自由主義は
その前世代の自由主義とは異なっているが、 そこから成長する。 生得的哲学は、 同時に存在する対立す
る下位学派によってさまざまに解釈され表明されうる。 アメリカの自由主義は、 一方のウィッグ的 「財
産権」 バージョンと他方の大衆的 「人権」 バージョンに分裂してきた。 それにもかかわらず、 アメリカ
のウィッグ派と民主派はロックの本質的要素を共有している。 マルクス主義もまた、 多様な形態で存在
し、 数多くの局面を通じて進化してきたが、 しかしながら、 そのすべては、 理論としてのマルクス主義
を区別する同じ重要な基礎的諸要素を保っている。 かくして、 生得的理論の多様な表明を相互に関係づ
け、 発展と影響のパターンを跡付け、 共通の知的伝統内部の分裂と亜変種を識別することが可能である。
要するに、 ある生得的理論の実体は進化し増殖するのであり、 この理論の表明は相互に関連し相互に依
存している。 当該理論とその支持者はすべてひとつの学派を構成する。
位置取りのイデオロギーはまったく異なる。 それらはある特定の社会集団の継続的な利益と要求を反
映していない。 むしろそれらは集団間に存在する諸関係に依存している。 ある集団は、 他集団との諸関
係が一つの形態を前提とする場合には、 ある一つの位置取りイデオロギーに傾倒し、 その関係が別の形
態を前提とする場合には、 それとは別の位置取りイデオロギーに傾倒する。 位置取りのイデオロギーは、
ある集団の永続的な内部の特質よりもむしろ、 当該集団の対外的環境の変化を反映する。 生得的イデオ
ロギーは諸集団―それらの立場がいかなるものであれ―の機能である。 位置取りのイデオロギーは諸状
況―集団がいかなる状況に置かれているかに関わりなく―の機能である。 位置取りイデオロギーにとっ
て問題なのは、 「だれ」 ではなく 「どこで」 である。 かくして、 アメリカにおける 「諸州の権利」 に関
する理論は主として、 さまざまな集団の成功によって支持される位置取りのイデオロギーなのであり、
― 111 ―
それは対立集団に相対する、 中央政府におけるそれらの集団の権力が、 諸州におけるそれらの集団の権
力よりも小さい場合の常である。
保守主義の状況的規定が正しいとすれば、 保守主義は位置取りのイデオロギーである。 保守主義はあ
る特殊な歴史的要請を満たすために発展する。 その要請が消える場合、 保守主義の哲学は沈静化する。
各事例で、 保守主義の表出はある特殊な社会状況への反応である。 ある時と場所での保守主義の徴候は、
他の時と場所での徴候とほとんど関連していない。 このように保守主義は永続的な集団利益を何ら反映
していない。 集団それ自体の存在によりもむしろ、 集団間の特定の関係の存在に依存している保守主義
は、 集団が存続する間存続するのではなく、 その関係が存続する間存続するに過ぎない。 その関係は必
然的に短命であり、 一世代以上継続することは滅多にない。 従って保守主義のイデオロギーは、 ある時
代から次の時代へと改編され、 精緻化され、 再編されながら展開したり伝達されたりしない。 それは、
その信奉者の論争によって注解され、 解釈され、 議論されるような基本的著作のセットをもたない。 保
守主義の徴候は、 同様な社会状況と併行するイデオロギー的反応であるに過ぎない。 保守主義の内容は
本質的に静態的である。 保守主義思想は進化するのではなく反復する。 その徴候は歴史的に孤立し、 分
離している。 このように、 伝統の擁護者である保守主義は、 それ自体には伝統がないという逆説的思想
のように思われる。 歴史に訴える保守主義は、 それ自体の歴史をもたない。
保守主義思想の静態的・反復的性格は、 保守主義がそれ自体を項目ごとに適合させる、 その程度に反
映されている。 他のあらゆる政治的イデオロギーにもまして、 保守主義は、 すべての保守主義思想家に
共通する保守主義の教理問答集を構成する原理や概念の簡潔な見本へと濃縮されうる。 保守主義の支持
者と批判者の双方が、 保守主義の本質は少数の基本観念に要約されうることに合意している。 これらの
観念の数は、 そのさまざまな定式化によって異なるかもしれないが、 それらの内実は普遍的に同じであ
る。 例えばハーンショー Hearnshaw は 「保守主義の12原則」 を挙げ、 カークは 「保守主義思想の6基
準」 を挙げ、 ロシター Rossiter は 「保守主義的伝統の
21ヶ条 」 を挙げている。
部分的には、 保守主義的観念のこれらの簡潔・同様なカタログは、 一個のイデオロギーとしての保守
主義の実体に関する全体的合意を反映しているに過ぎない。 しかし、 さらにそれらはこのイデオロギー
の静態的・限定的性質を反映している。 他のイデオロギーは、 多様な徴候で再現される基本的観念をもっ
ている。 しかしこれらの観念は出発点であって、 当該イデオロギーの要約・実体ではない。 個人主義は
自由主義の基盤であるが、 ロックの個人主義はベンサムのそれとはまったく異なる。 階級闘争はマルク
ス主義の基盤であるが、 カウツキー Kautsky における階級闘争はレーニン Lenin における階級闘争と
は異なる。 しかしながら、 保守主義者は学派に細分されておらず、 自由主義者やマルクス主義者のよう
に自らの信念の意味をめぐる激烈な議論に携わってもいない。 もちろん、 個々の保守主義思想家はいく
らか異なる方法で彼らの観念を述べるかもしれないし、 彼らの特定の観念化的性向に照らしてそれらの
観念を修正するかもしれない。 しかし概して彼らは彼らの教理問答集を繰り返すに過ぎず、 ひとたび教
理問答集を述べると、 彼らは保守主義思想の実体について言われるべきことのすべてを言ったことにな
る。 自由主義あるいはマルクス主義思想の歴史は、 さまざまな時と環境を通じた当該イデオロギーの変
質を明らかにする。 カークの
保守主義の精神
のような保守主義思想家の歴史は、 同じ観念の再三再
四にわたる繰り返しを必然的に含んでいる。
保守主義思想のこの特殊な性格は、 マンハイムによって引用される、 保守主義の局面についてしばし
ば論評される点を明らかにする。 すなわち、 「ほとんどの保守主義者と反動主義者の経歴は、 彼らの青
年期における革命的時期を示している」。 19世紀初頭の保守主義者の多く―ドイツにおけるゲレス・ゲ
ンツ・ミューラー、 イギリスにおけるコールリッジ・ワーズワース・サウジィ―は、 当初はフランス革
― 112 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
命の熱狂的支持者であった。 フェデラリストたちは成功した革命家として出発し、 アメリカの最も重要
な保守主義者カルフーンは、 過激なジェファーソン派のナショナリストとして成功し始めた。 このパター
ンは何故存在するのか。 それは単に、 保守主義が何らかの社会集団の要求の永続的なイデオロギー的表
明であるからではないのではないか。 一人のミルが功利主義に生まれついたように保守主義に生まれつ
いた人はいない。 保守主義への衝撃は、 理論家以前の社会的異議申し立てから来るのであって、 彼の背
後にある知的伝統から来るのではない。 人々は、 事象の衝撃によって、 すなわち彼らが承認しあるいは
当然のこととする、 また彼らを親密に結合させる社会あるいは制度が、 突如として存在することを止め
るかもしれないという恐ろしい感情によって、 保守主義に駆り立てられる。 従って、 ある時代の保守主
義思想家は次の時代の保守主義思想家への影響力をほとんどもっていない。 第二世代の保守主義者はほ
とんどいない。 例えばフッカーは、 保守主義哲学の本質すべてにおいてバークを先取りしていた。 しか
し、 バークの保守主義はフッカーの研究から引き出されたのではなく、 彼を取り巻く諸事象の衝撃から
引き出された。 同様にフランスでは 「メーストルは言ってみれば一つの学派を決してもたなかった」。
アメリカでも、 南部の弁証者フィッツヒューは初期の保守主義思想家からほとんど何らのインスピレー
ションも得なかった。 さらに保守主義的立場のそれぞれの個人的言明は、 それ自体としては、 何らかの
直近の知的異議申し立てによってもたらされる傾向にある。 モリス Christopher Morris は
の法 を 「状況の書物」 であると述べた。 同じ言い回しは
の省察 および
統治論
統治術の諸要素 、
教会統治
フランス革命について
にも充分等しく適用できよう。
Ⅳ. 保守主義の有意性
上記の分析に照らして、 今日のアメリカにおける保守主義イデオロギーはいかなる役割をもつのか。
「新保守主義」 は本当に保守主義的であるのか。 保守主義的観念のより明確・広範な説明の余地はある
のか。
新保守主義の多くは、 保守主義運動としての少なくとも三つの欠陥によって特徴付けられる。 第一に、
新保守主義者は彼らが擁護しようと望んでいるものに関して不確かであるように見える。 ある者は保守
主義と事業自由主義の従来の同一視を続けているに過ぎない。
他の者は今あるようなアメリカ社会に馴染めず愛想をつかした急進的貴族主義者である。 ヨーロッパ
の貴族制をブルジョア的アメリカに輸入することを望む彼らは、 民主主義・平等・産業化の少ない時代、
エリートが支配し、 大衆が自らの立場を知っていた時代を夢想している。 現存するアメリカの政治・社
会システムを拒否することによって、 彼らが真に保守主義的であることは不可能となる。 例えば、 現代
アメリカに関するカークの見解はまったく容赦がない。 すなわち 「自殺に近い」、 「安易」、 「物質主義的」、
「不毛」、 「平準化」。 これは保守主義者の言語なのか。 あるいはそれは既存社会の反抗者の言語なのか。
アメリカの立憲民主主義の精力的な擁護の代わりに、 カークの著作は過ぎ去った社会の切迫した、 感傷
的な、 郷愁的な、 骨董趣味的な憧れに満ちている。 彼と彼の仲間は現代アメリカの状態と足取りからず
れている。
第二に、 多くの新保守主義者は、 彼らが保守しようと望むものへの脅威の性質と源に関して驚くほど
曖昧である。 歴史的には、 保守主義は常に直接的な当座の異議申し立てへの反応であった。 保守主義者
は普通、 敵対者のアイデンティティに関して疑いをもたない。 しかしながら、 新保守主義者の間では、
敵の焦点が明確に合っていることはほとんどない。 ある者にとって、 敵は自由主義であるが、 この用語
の意味に関してほとんど合意がない。 他の者にとって、 それは近代主義・全体主義・大衆主義あるいは
― 113 ―
物質主義である。 ある新保守主義者にとって、 敵は非合理主義であり、 他の新保守主義者にとって、 そ
れは合理主義である。 もちろんこの混乱は、 アメリカ社会の経済的繁栄と政治的合意が、 国内の敵に向
けられたあらゆる保守主義を馬鹿げた余剰にするという事実を反映しているに過ぎない。 フッカー・バー
クおよびカルフーンは、 現実の政治的敵に対する現実の政治闘争を行った。 しかしながら、 現実の社会・
政治的異議申し立てを欠く新保守主義者は、 抽象的な 「諸イズム」 からの想像上の脅威を創り上げてい
る。
新保守主義の第三の欠陥は、 アメリカにおける保守主義的な知的伝統を発掘しようとする取り組みで
ある。 知的運動と見なされることを確保しようと明らかに望む新保守主義者は、 忘れ去られて久しい政
治的・知的人物を復活させようと、 アメリカの過去を駆けずり回る。 それ以上に見込みがなく、 不適切
な企てはほとんどない。 例えば、
保守主義の精神
のなかでラッセル・カークは、 保守主義者を確立
された諸制度を支持する人と規定する。 だが、 アメリカの保守主義的伝統を見出そうとする取り組みの
なかで、 カークは保守主義者を分類する。 すなわち、 彼が調べたことによって 「驚かされた」 ローウェ
ル James Russell Lowell、 「アメリカ社会に愛想が尽きた」 アダムス Brooks Adams、 やり場のない
疎外の古典的シンボルとなったアダムス Henry Adams、 アメリカから仏教へと逃避したバビット
Irving Babbit、 そしてアメリカからローマの修道院に逃避したサンタヤナ Santayana。 これらの人々
はすべて反抗者であり、 多くの点で彼らは、 おそらくカークが保守主義者として分類することなど夢に
も思わなかったであろうデブス Debs、 ジョージ Henry George、 レオン de Leon およびラフォレット
LaFollete よりもはるかに基本的に反抗者であった。 新保守主義者の先祖探しは、 目的・役割およびア
イデンティティに関する彼ら自身の不確かさを反映しているに過ぎない。 彼らは、 存在する諸制度より
もむしろ、 存在していない知的伝統を保守しようとしている。 彼らが、 真の切迫した脅威に対して、 あ
る制度あるいは社会の防衛に直接的に携わる真の保守主義者であれば、 彼らは保守主義の系譜を確立す
ることにほとんど関心をもたないであろう。
しかしながら、 新保守主義の曖昧な部分が今日のアメリカにおける保守主義の可能性を枯渇させるも
のではない。 一定の新保守主義者は保守主義イデオロギーの本質的に状況的な性格を認識している。 彼
らは、 アメリカのある区画に対する他の区画の保守主義的防衛の不毛性を認識している。 今日、 保守主
義的反応を引き出すのに充分なほど広範な深い唯一の脅威は、 アメリカ社会全体に対する共産主義とソ
ビエト連邦の挑戦である。 この点では、 ベロフ Max Beloff が指摘するように、 1850年代における南部
の立場と1950年代におけるアメリカの立場には著しい類似がある。 すなわち両者とも対外的脅威の拡大
によって異議を申し立てられている。 南部がフィッツヒューとカルフーンの保守主義的防衛を生み出し
たのとまさに同じように、 今日のアメリカもまた保守主義的弁証者をもつであろうと期待することは故
なきことではない。 ニーバー Niebuhl のような、 保守主義的鉱脈におけるより明確な最近の著作は、
多くの点で他国の全体主義の挑戦への直接的反応のひとつである。 制約された世界のなかで、 豊かな自
由の国として、 アメリカは擁護すべき多くのものをもっている。
しかしながら、 アメリカの諸制度は自由主義的・大衆的・民主的である。 それらは、 自由主義、 大衆
による制御および民主的統治を信じている人々によって最も良く擁護されうる。 貴族層が1820年のプロ
シャでは保守主義者であり、 奴隷所有者が1850年の南部では保守主義者であったのとまさに同じように、
自由主義者は今日のアメリカでは保守主義者であらねばならない。 歴史的には、 アメリカの自由主義者
は、 より多くの自由、 社会的平等およびより有意義な民主主義に向かって邁進する理想主義者であった。
自由主義イデオロギーの明確な提示は、 他の観念を自由主義的観念に転換し、 既存の諸制度を自由主義
的方針に沿って継続的に改革するのに不可欠である。 しかしながら、 今日では、 最大の要請は、 より自
― 114 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
由主義的な諸制度の創造よりもむしろ、 既に存在している諸制度の巧みな擁護である。 この擁護は、 ア
メリカの自由主義者が自らの自由主義イデオロギーを脇に置き、 脅威の存続に対する保守主義の価値を
受容することを求めている。 現在のために自らの自由主義的観念を放棄することによってのみ、 自由主
義者は将来のために自らの自由主義的諸制度を巧に防衛することができる。 自由主義者はこの変化を恐
れてはならない。 自由主義者は、 世界の最も自由主義的な諸制度を最も効果的に擁護するように自らの
思考を調整するゆえにまさに自由主義者であるのではないのか。 自由主義の哲学を披瀝し続けることは、
自由主義の社会を攻撃する武器を敵に与えるだけである。 アメリカの諸制度の擁護は、 その保守に深い
関心を抱く自由主義者からのみ芽生えうる意識的な明瞭な保守主義を要請している。 ブーアスティン
Boorstin、 ニーバーその他の人々が指摘するように、 アメリカの政治的天分は、 われわれの観念に示
されるのではなく、 われわれの制度に示される。 保守主義への刺激は、 三流思想家の陳腐な信条から来
るのではなく、 一級の諸制度の巧みな能力から来る。 古来のドグマよりもむしろ、 現在の紛争こそ、 真
に保守主義的な 「新保守主義」 を産出する。
保守主義は、 貴族主義的解釈が論じるように、 歴史上のある特定の階級の独占物ではない。 それは、
自律学派が取り組むように、 あらゆる時代と場所に妥当するものでもない。 むしろそれは、 ある特定の
歴史状況のタイプに有意である。 アメリカの自由主義が今日自らの立場を模索している状況がそれであ
る。 共産主義とソビエト連邦の挑戦が排除され、 あるいは中立化されるまで、 アメリカの自由主義者の
主要な目的は、 彼らが創造したものを保守することでなければならない。 これは限られてはいるが不可
欠な目的である。 保守主義は、 究極の問いかけを行うのではなく、 従って最終的な解答を与えもしない。
しかし、 それは人々に、 社会秩序の制度的前提条件を想起させる。 そしてこれらの前提条件が脅威にさ
らされる場合には、 保守主義は妥当であるのみならず必須となる。 アメリカ自由主義の功績を保守する
うえで、 アメリカの自由主義者は何らの資源ももたないが、 保守主義に転回しなければならない。 彼ら
にとってはとりわけ、 保守主義のイデオロギーは今日のアメリカにおいて一定の役割をもつのである。
3. シェルドン S. ウォーリン 「ヒュームと保守主義」
Sheldon S. Wolin, Hume and Conservatism
Vol. 48. No. 4 1954. pp. 999-1017.
ヒューム David Hume の哲学者としての名声は滅多に問題とはならないが、 政治理論家としての彼
の主張となるとそうはいかない。 ジェファーソン Jefferson はヒュームの考え方に深い敵対を示したが、
アダムズ John Adams もほんのいくつかの点に同意したにすぎない。 後の意見はそれほど激しいもの
ではないが、 それでも依然としてこのような傾向は残っている。 ハックスレー Thomas Huxley の考
えによれば、 ヒュームの政治的著作は示唆的であるが、 全体的には学問的成功へのあからさまな欲望に
よって損をしていた。 スティーヴン卿 Sir Leslie Stephen の判断では、 ヒュームはうわべだけの非歴
史的な 「皮相な保守主義」 の欠点をもっていた。
セイバイン Sabine やアレヴィ Halevy のようなもっと最近の研究はヒュームを政治思想のなかによ
り確実に位置づけたが、 一定の曖昧さを残している。 セイバインは18世紀合理主義の敵対者としてヒュー
ムをバークと結びつけたが、 アレヴィは、 ベンサム Bentham・スミス Adam Smith・ミル James
Mill およびリカード Ricardo の 「哲学的急進主義」 の先駆者として彼を見ていた。 つまらないことで
喧嘩をするこどもの親であることはいつもいくぶん困惑するものであるが、 ヒュームのように一方の親
― 115 ―
が気まぐれにどちらかの側に反対する場合にはとくにそうである。 にもかかわらず、 まことにヒューム
の教義とその影響を一時的に区別するとすれば、 彼の影響は二つのまったく異なる方向で作用したと主
張することが可能である。 因果関係・理性の役割および道徳的判断についての彼の探求は事実上18世紀
自由主義の自然法構造を掘り崩すのに力を貸したが、 その一方で制度の検証としての功利性の強調はベ
ンサム派自由主義に重要な成分を提供した。 他方、 理性への彼の攻撃、 普遍的真理へのクレームはその
敵手である18世紀保守主義者を安心させるのに役立ち、 感覚と感情の権威への道を整えた。 このように
して、 ヒュームの仕事は自由主義と保守主義双方の将来の経路を変更するように機能した。
しかしながら、 ヒュームの影響のこの二つの局面は、 彼自身の政治的教義をあいまいにする役割を果
たした。 個人的な性向でも教義上でも、 彼は特異な種類の保守主義者であったから、 第二の点は注意を
要する。 彼の保守主義の性格は、 フランス革命に先立つより穏やかな時代に定式化されていることによっ
て、 いくぶん色づけされている一方で、 その特異性は啓蒙とヒュームの特殊な関係に起源をもっていた。
後の保守主義者は啓蒙と革命をひと括りにして扱い、 後者との関係を前提にして前者を非難する傾向に
あった。 合理主義と急進的共和主義 sans-culottism は同じコインの両面であると見なされた。 「自らを
何ごとにおいても疑わなかった18世紀は何ごともためらわなかった」 とメーストル De Maistre は宣言
した。
17世紀の合理主義的・科学的思想様式の十全なインパクトが感知されたいわゆる 「18世紀の危機」 は、
近代政治思想の分水嶺をなした。 そして容認された観念からなる権威への攻撃は容認された諸制度の正
統性への攻撃をまもなく引き起こした。 「野蛮な制度は洗練された理性の検証に」 付されねばならない
とベンサムは述べた。 アメリカとヨーロッパで動き出した革命的事象の刻印のもとで、 近代保守主義は
形成された。 その起源においては、 保守主義は、 革命体制の確立によって突破される規定秩序の防衛と
いうよりもむしろ、 ホッブズ Hobbes・デカルト Descartes およびニュートン Newton の時代以来ヨー
ロッパ的思考の多くを支配するにいたった合理主義的潮流への断固とした攻撃であった。 保守主義的反
応についていかように言われようとも、 それは敵のアイデンティティについて異議を唱えているとは見
なされえない。 「理論の人」 に対するバークの非難、 フランス革命の 「抽象的理性」 に対するヘーゲル
の非難および 「横柄な人間」 に対するメッテルニヒのあざけりはすべて、 理性が政治問題の究極的審判
者であるという主張のほとんど一致した拒絶の証言であった。 保守主義の告発に従えば、 破壊的合理主
義によって鼓舞された啓蒙は、 社会を結合させる紐帯を緩めることに成功した。 啓蒙の主張によれば、
人々が無分別かつ当然のように 「受け入れた」 信念や制度のまどろみは、 意識的・合理的な受容の試練
を受けるようにされなければならない。
啓蒙のこのような見解を合理主義の行き過ぎの一種と見なすとすれば、 保守主義者は政治的超自然主
義の何らかの形態に抗しがたく引き寄せられていた。 というのは、 メーストルが言うように、 合理主義
者は 「コテそれ自体が建築家であると信じる」 ような 「神に対する反乱」 に従事していた。 保守主義者
に従えば、 政治的共同体は 「政治的幾何学」 では決して正当に評価できないような歴史という時間的次
元の一部であった。 転じて歴史は 「かつてから開示されつつある神意の偉大なドラマ」 であり、 あるい
はバークの言い回しでは、 人々がほんのわずかしか把握できない 「神の摂理」 divine tactic の表明で
あった。 政治的共同体について人々が知りうるのは、 それが神意のパターンの一部であるということだ
けであった。 人々はその究極の基盤を知ることはできない。 かくして保守主義の最後の手段は神秘のヴェー
ルを引き合いに出すことであり、 人々が社会の起源の真相を懸命に知ることに対して警告を発すること
であった。 社会の 「自然な」 諸力は神の命令に対応して驚くべき方法で機能し、 その傍らではきわめて
賢明な政治的装置でさえ弱々しい模倣として存続する。
― 116 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
Ⅰ
これらが18世紀末近くに発展した保守主義的伝統の主要な要素のいくつかを構成している。 ヒューム
の初期の保守主義が一定の重要性を帯びるのはこのような背景に対してである。 彼の立場が上で概説さ
れた立場と異なる第一の基本的な点は、 彼の保守主義には神秘の恩恵が欠けていたということであった。
「神の摂理」、 世界精神 Weltgeist への訴えは存在しなかった。 聖書を 「政治家の手引き」 として復活さ
せるような、 コールリッジ Coleridge によって示されたようないかなる気質も存在していなかった。 ヒュー
ムの結論は頑ななまでに、 最後の法廷としての経験をともなう厳格に世俗的な分析に根差していた。 第
二に、 ヒュームの保守主義は啓蒙の素材そのものから構成されていた。 すなわち、 客観的分析の探求、
反啓蒙主義の不信任、 経験的データへの信仰、 先験的なものへの軽蔑および功利性規準の強調である。
彼は啓蒙主義的分析方法を、 既定の宗教的敬虔および既定の制度の起源を吟味するために用い、 コール
リッジが後に 「冷徹」 と称したような類の冷静さでそれを行った。 第三に、 彼の保守主義はその霊感を
差し迫ったあるいは過去の大変動に何ら負っていない保守主義であり、 むしろ 「アン女王時代の平和」
peace of the Augustansを反映していた。 結果的にヒュームは、 統一の主要な保証人としての強固
な権威の必要性にたいする、 以後の保守主義者のような高度な感受性を何ら示さなかった。 後にボナー
ルが 「宗教と政治的統一の外側では人は真理を発見できず、 社会は救いを見出せない」 と主張したのに
対して、 ヒュームは、 社会は人間の利害関係の産物であって、 それを満たすことが社会的結合に不可欠
な価値をもたらすという事実に即した判断で満足した。
にもかかわらず、 ヒュームは啓蒙の化身以上の存在であった。 というのは、 彼の重要性は啓蒙それ自
体の兵器を敵に回したという点にあるからである。 そしてここに保守主義思想家としての彼の重要性が
ある。 彼の出発点は、 「推論の実験的方法を道徳問題に導入する試み」 という副題をもつ
人性論
(1739―40) に見出されるべきである。 この書は、 合理的分析を用い
るによって理性の主張を削り落とすというヒュームの戦術を示している。 彼の主張によれば、 理性は確
かにわれわれの知識を進歩させるための手段のひとつであるが、 それは限定された活動領域をもつ手段
であった。
「理性は真理あるいは誤謬の発見である。 真理あるいは誤謬は、 観念の真の関係あるいは真の存在お
よび事実問題のいずれかへの同意あるいは不同意である。 従って、 この同意あるいは不同意を認めない
ものは何であれ、 真あるいは誤謬ではありえず、 決して理性の対象ではありえない。」
この結論の帰結は、 理性を通さない重要な範囲あるいは理性が派生的な役割を演じるにすぎないよう
な重要な範囲を囲い込むことであった。 かくして人々が原因と結果として記述するものは、 理性の推論
による (演繹的) 結論ではなく、 経験の産物であった。 われわれは、 一定の結果をある所与の原因から
生じるものと理解することに慣れるようになっているが、 厳密に言えば、 この二つの間に論理的に不可
欠な結びつきなど存在しない。 事実は観察から引き出されるのであって、 理性から引き出されるのでは
ない。 従って理性はある事実の存在を証明するために、 あるいはその事実が間違いであることを証明す
るために行使されえない。 転じて人間の行動は、 分析の対象外にある経験あるいは習慣によっておおむ
ね支配されている。 「慣習は人間生活の偉大なる指針である」 とヒュームは結論付けた。
ヒュームの議論の重要性は、 それが理性を犠牲にして慣習の支配を大いに拡大したということだけで
はなく、 それがこの上なく基本的な合理的調和、 18世紀の合理主義者がそこから普遍的な道徳的命令の
存在を演繹したような調和という観念全体を弱めたということでもあった。 ヒュームはこの前提を、 正
面攻撃によってではなく、 外的秩序は理性の発見ではなく 「人間性の諸原則」 に根差しているとの論争
― 117 ―
によって破壊した。 われわれが現象の世界にあると考える 「秩序」 は実際にはひとつの確信に依存して
いるのであって、 論理的な確証の過程に依存しているのではない。 その影響力を明らかにするのは 「秩
序」 の観念がわれわれの想像力に及ぼす 「力と活気」 である。
道徳の諸問題において、 ヒュームによって理性にあてがわれた役割も同じように控えめであった。 理
性は計算機として、 分析の手段として機能する。 それは、 人間行為の原動力も、 また道徳的論争の諸問
題への最終的判断ももたらさないという意味で 「完全に緩慢」 であった。 ヒュームの見解では、 人間の
行為は先ず直接的な情緒的経験への反応である情念によって刺激される。 要するに情念は人間行動のア
クティヴな誘発要因であった。 結果的に、 情念は合理主義者が主張するように理性によってくびきをつ
けられてはいないし、 制約されてもいない。 というのは、 これは緩慢な原則がアクティヴな原則を制御
できると論じることになるからである。 このようにして有名な結論が導かれる。 「理性は情念の奴隷で
あり、 ただそうであるべきであって、 情念に奉仕し服従すること以外のいかなる地位につこうとするこ
とも決してできない」。 かくして情念は、 実質のない対象についての誤った仮説に基づく場合、 あるい
はその目的を実現するためには不十分な手段を選択する場合を除き、 合理的批判の範囲外にある。 理性
は一定の行為の傾向と帰結を指示できるが、 われわれが他でもないひとつの選択に従うようにアクティ
ヴに刺激できるのは感覚あるいは感情だけである。 ここでも理性は事実と関係を取り扱うが、 「罪」 あ
るいは 「忘恩」 といった道徳的概念は、 われわれの感覚あるいは感情のなかのそのような概念それ自体
のそもそもの源を無視することによって以外には、 事実あるいは関係として分析することはできない。
例えば、 「罪」 の一定の要素は各構成要素の把握によって分析されうるが、 しかしこれらの諸要素の総
計が 「罪」 に等しいわけではない。 一定の行為が道徳的意味を帯びるのは、 われわれの感情がそのよう
な意味を貼り付ける場合だけである。 「かくして請合って言うが、 承認あるいは非難は判断の作用では
ありえず、 …心の作用である…」。 このようにして、 道徳は情念あるいは感情と連繋しており、 理性は
それらを支配できないので、 真の道徳か偽りの道徳か、 理に適っている道徳か適っていない道徳かを選
定することは決してできないということになる。
もちろんこのような議論の最終結果は、 合理的探求によって発見しうる不変の価値をもつ自然法理論
全体を掘り崩すことであった。 道徳を理性の支配権から引き離したヒュームは、 道徳性は 「判断される
よりももっと適切に感得」 されると主張する準備を整えた。 道徳性は印象を受け止める道徳的感覚から
生じる。 これらの印象は好ましいか好ましくないかのどちらかである。 人々は好ましい印象の原因とな
る行為あるいは状況を良いあるいは廉直であると認識し、 その逆を悪いと認識する。 何が一定の印象を
愉快とし他の印象を苦痛とするのかと問われたとき、 一定の場合には人々が喜びあるいは嫌悪を感じる
ことが 「自然」 であり、 他の場合にはその反応は習慣あるいは条件づけによるというのがヒュームの答
えであった。 このようにして道徳は自然あるいは慣習の産物であるが、 ヒュームが正義に関する議論の
なかで指摘するように、
「人類は創意に富んだ種である。 そしてある創意が明確であり絶対に不可欠であるところでは、 思考
と省察の介入しないもともとの原則から行われることは何ごとであれまさに自然であると言われるであ
ろう。 正義の諸規則は人為的であるが恣意的ではない。」
このように技芸は自然と融合されうるし、 革新が習慣と重ねられるようになった場合には、 人為的なも
のと自然なものとの区別は消滅する。
このような議論の流れからすれば、 ヒュームと以後の保守主義者の間には微妙な違いがあった。 一定
の保守主義者、 例えばブラックストン卿 Sir William Blackstone は、 ある合理的な制度あるいは法は、
その存在の長さがその合理性と自然性を例証しているという根拠に基づいて 「自然」 であると宣言され
― 118 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
うる、 と後に主張することになる。 しかしながらヒュームは、 合理的なものと自然なものとの関係を否
定して、 諸制度を正当化するためのまったく別の基盤を主張していた。 すなわちある配置は慣行を通じ
て習慣的となり、 従って 「自然」 となるが、 これはその合理性とは関係がなく、 合理性はある配置とは
関係がない。
ヒュームの分析の十全な含意は、 アメリカとフランスでの革命的事象が名をはせる以後にいたるまで
認識されることはなかった。 その時代以前には、 政治問題へのアプローチにおいて保守主義理論家と急
進的理論家の間の違いはほとんど存在していなかった。 アメリカにおけるジョン・アダムズとジェファー
ソン、 イングランドにおけるブラックストンとプリーストリ Priestley、 あるいはフランスにおけるダ
ルジャンソン D
Argenson とディドロ Diderot の不一致点は、 ある政治システムあるいは特定の政策
の検証は合理的論証の問題であるという共通の前提を彼らが共有していた程度と較べればそれほど注目
すべきことではなかった。 しかしながら、 ヒュームの偶像破壊の影響は、 究極的真理は合理的方法によっ
ては証明されえないということを示すことによって、 この合意領域を消滅させることになった。 そして
1789年以後、 両方の側とも究極の真理のことばかり考えるようになっていた。 理性を経験と諸情念の間
の狭い区域に限定することによって、 ヒュームは政治的ロマン主義への道を明らかにした。 彼は述べる。
「人間の想像力ほど自由なものはない。 …擬制と信念の相違は何らかの感覚あるいは感情にあり、 感覚
あるいは感情は信念に付随しているのであって、 擬制に付随しているのではない。 そして感覚あるいは
感情は意志に左右されず、 随意に抑制されえない」。
ヒュームに公平を期して、 彼の論評はロマン主義者の後の無節制のいくつかの正当化へと転換されえ
ないことは注記されねばならない。 習慣・情緒および想像力は彼の体系のなかでは政治的価値を構成し
ていたのではなく、 人間行動に関する記述的事実の見本に属していた。 それらは価値ある帰結をもつ可
能性があり、 しばしばそのような帰結をもったが、 それらはそれら自体としては価値ではなかった。 ま
ことに、 折に触れてヒュームは、 音楽や詩におけるのと同様に哲学においては 「われわれは自らの嗜好
と感覚に従わなければならない」 と述べることができたが、 これはきわめて多くのことを証明すること
に彼は気づいていた。 結局、 「詩的熱狂」 と 「反省と一般的規則」 に依存する 「重大な確信」 との間に
は明確な違いがあると彼は警告した。 しかしながら、 ヒュームの仕事は保守主義の将来の道程を変更す
るように作用した。 理性の不信任にともなって、 新たな前提が慣習と感情から形作られた。
Ⅱ
政治の科学の探求は啓蒙期の偉大な知的冒険のひとつであった。 この種の科学は改革と進歩の自然な
盟友であると、 おそらく論理的にではなく信じられていた。 政治的・社会的変化に対する保守主義者の
慎重な気質を考えれば、 政治の科学への深い敵対が18世紀後半の保守主義思想を特色付けるのはほぼ避
けられなかった。 ここでもまたヒュームは違った針路をとった。 改革への保守主義的不信を共有してい
たものの、 政治の研究は科学の地位を獲得できると彼はまだ確信していた。 同時に、 このような科学が
急進的な結論にいたる本来的な必然性はないことを彼は例証した。
ヒュームはある箇所で 「世界は、 直ぐ後に続く世代にとっても真理として残るであろうような、 政治
における多くの一般的真理を固定させるにはまだあまりにも若い」 と述べたが、 彼の仕事は 「永遠不変
の原因と原則」 および 「普遍的原理」 に関して切り分けられていた。 事実の問題を取り扱う社会科学は、
諸概念間の関係を取り扱う数学と同程度の確実性を望むべくもないことを彼は承認したものの、 社会科
学は物理学と同程度の確実性を達成できると主張するところまでヒュームは進んだ。 彼はさらに 「道徳
― 119 ―
的推論」 を行使する 「政治学・自然哲学・物理学・化学などは」 道徳あるいは美学の研究よりも確実な
基盤をもつと主張した。 後者は 「嗜好や感情ほどには把握の対象として適切ではない」。 これは、 政治
学が他の諸科学にもまして経験を超越でき、 あるいは 「究極の原則」 を解明できるということを意味し
てはいなかった。 それは、 「不規則で異常な諸現象」 が、 政治現象を数学的原理に近いものに還元しよ
うとする試みを退ける可能性があることの否定を意味してもいなかった。
こうした限定にもかかわらず、 彼のある小論の題名である 「政治学が科学となる可能性」 politics
may be reduced to a scienceが示唆するように、 それが伝統的論理の方法よりもむしろ 「実験的手
続き」 に忠実であるとすれば、 ヒュームの確信は揺るがないままであった。 悟性に基礎付けられた論証
に依存する論理は、 社会における人間の現実的生活に欠くことのできないさまざまな可能性に取り組む
のには無益であった。 従って政治の科学は、 既存の社会に関する歴史的な探求と観察によって提供され
る経験に基礎付けられねばならない。 本質的にそれは制度と人間性の相互作用の研究であるべきであっ
た。 歴史的観点からすれば、 政治制度の機能は人間行動に道筋をつけ、 それを制御することであった。
要するに制度は人為的装置であるが、 それは独立した力を行使するのであり、 人間的衝動の単なる反映
あるいはそれにたいする単なる反応ではなかった。 「統治の法および特定の形態の力はきわめて大きく、
それらは人間のユーモアと気質にほとんど依存していないので、 その帰結は、 数学的諸科学がわれわれ
に付与するものとほぼ同じように一般的かつ確実に、 それらの法や特定の形態からしばしば推論されう
る」。
既に注記されたように、 政治分析に関するヒュームの方法は、 「分析的解剖」 という典型的な啓蒙の
技術に基づいており、 カッシーラー Cassirer の記述を借用すれば、 それは 「あらゆるものを単なる事
実に分解し、 …啓示・伝統および権威を根拠として信じられたあらゆることを」 「総合的再建」 という
究極の目標を補完するものとして分解する。 ヒュームは、 何らかの社会契約の理論化のなかに見られる
自然状態仮説に対する破壊効果をもつこのアプローチを強調した。 彼は自然状態のような 「単なる哲学
的擬制」 に基づいて権威に対する反乱を正当化しようと求めるごまかしの論理に注意を振り向けた。 社
会は、 前社会的状態に見られる一定の 「不都合」 の排除を目指す自発的合意の産物にすぎないというこ
とを彼は否定した。 社会が求めた配置は人間の要求と衝動、 すなわち 「両性間の自然な欲求」、 利他主
義―自己・家族・友人・他者という同心円を通じて拡大される力を減少させる―と利己心―社会的な要
求が抽象的になり隔たるようになるために増大する―との間での人間の動揺にたいする累積された対応
のセットを表していた。 その上、 人間は物的な希少性のなかに置かれていることを自ら認識しているの
で、 彼の不安は深まり、 同胞の物的所有を侵害する方向に彼を導く。 この 「自然な」 状態は、 人間の
「不注意な衝動的な情念」 を制約し、 自己利益の本能を満たす人為的配置によって克服されうる。 「この
利益がひとたび確立され、 承認された後に、 これらの規則を遵守するなかで道徳性の感覚が自然に、 か
つひとりでに生ずる」。
ヒュームは自らの説明のなかで政府と社会の明確な区別をしなかった。 政府は社会の配置を保護し社
会の目的を遂行する手段と見られていた。 結果的に、 ヒュームが政治的義務の問題を議論するようにな
るとき、 彼の議論は大部分、 彼の社会の説明と併行していた。 両方の場合とも、 彼の目的は、 社会も政
府も突然の合意から成熟しきって生ずるのではないことを例証することであった。 政府の基礎は、 あら
ゆる政府はそれに従う者がその存在に合意することを要するという意味でのみ合意に起因していた。 こ
の自明の理を示すために、 契約上の合意は 「政府を基礎付けるのは…ただ意見だけである」 という、 契
約の観念に含まれる真理の要素を歪めるように機能するにすぎない。 転じて 「意見」 はいくつかの局面
から構成されている。 第一に、 「利益に関する意見」 があり、 これは 「政府から得られる一般的利益の
― 120 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
感覚に関連するとともに、 確立済みの特定の政府は、 容易に据え置かれうる他のいかなる政府よりも有
利であるという確信に関連している」。 第二に、 「権利に関する意見」 があり、 これは 「力への権利」、
すなわち長期にわたって存続する政府は正統な政府であると信ずる人間の広く行き渡った気質、 および
「所有への権利」、 すなわち自らの所有物を確保しようとする人間の一般的欲求を包含する。
そのような意見は政府を支える 「原理」 であった。 このような観点からすれば、 政治的義務における
「あるべき」 要素は自然主義的考察から生じる二次的帰結に還元される。 人間は自らが保護と促進を求
める利益が権威への服従を伴うゆえに服従する。 「さもなければ社会は存続しえない」。
ヒュームの見解に従えば、 社会の規則のすべては、 人間の要求と問題を処理するために設計された意
識的な発明を表すという点で 「人為的」 であった。 便宜の規則としてそれらが道徳性あるいは厳密な論
理を満たすと期待することはできない。 例えば、 正義の規則は、 邪悪な吝嗇家が有徳な農民にたいして
法的判断を勝ち取る結果になるかもしれないが、 一般的規則の必要性と価値は 「特定の人々にたいする
目的の適合性あるいは非適合性」 の考察を排除する。 本質的な点は、 「人為的」 規則と 「自然の」 規則
は鋭い対照をなしていないということである。 時の経過を通じて、 人は社会的便宜に慣れるようになり、
従ってかつて人為的であったものはやがて自然なものとなる。 結局 「自然」 状態は必ずしも原始的なあ
るいは始原的な状態ではない。 その反対も大いにありうるとヒュームは力強く結論付ける。 すなわちま
ことに人工的な状態が自然状態のなかに見出されることもある。
ヒュームの政治的観念のなかに見られる重大な要素は、 展開される特定の議論にそれほどあるのでは
なく、 むしろ現実の諸制度の機能にたいして示される感受性にある。 彼の同時代人と同じように、 彼は
制度を解剖し、 歴史に付着している層を剥ぐための分析的方法を用いたように思われた。 だが、 同時代
人の多くの方法とは異なり、 ヒュームの方法は、 ある特定の制度は他の制度的全体と微妙に相互連結す
るひとつの全体として理解されるべきであるという信念に基づいていた。
このアプローチに暗示されているのは、 イギリスにおける後の保守主義思想のなかで中心的役割を演
じることになる二つの観念であった。 諸制度は人間の要求という観点から理解されるべきであるが、 し
かし諸制度は単なる人間の要求の産物ではなかった。 この二つの要素は歴史的に共通の根のためにより
合わされ、 不可分となった。 結果として、 有益であることと存在することとの間に必然的な対立はない。
望ましいことと事実上のことは合致しないことではない。 このようにしてヒュームは、 後の保守主義者
に、 既定の秩序のための最も強力な議論はその秩序の事実そのもののなかに見出されるべきであること、
経験的アプローチのもとでは、 功利性は、 現実の社会的配置のすき間の内部に留まっている内在的価値
として位置づけられうるのであり、 制度の欠点を示すために考案された厳密な測定の物差しとして位置
づけられるのではないことを示した。
その上、 制度は一定時期にわたって発展してきたものであった。 制度の目的と性質を時間の感覚なし
に正確に理解することはできない。 従って時間の概念は事実と功利性の混合と密接に関連付けて考えら
れている。 歴史的時間は社会的配置に質的要素を与える。 時間は経験を意味し、 転じて経験は漸次的調
整の動機を与える。 逆に、 最大の惨事は暴力的変革であり、 それは歴史がある制度、 その効用、 その存
続の間に形成してきた緊密な統一を奪うように機能する。 時間と経験の性質に対立するすさまじい変化
は効用に従って制度を適用できない。 というのは、 政治的問題のなかでは効用は時間と経験から切り離
すことができないからである。
政治理論の研究者は、 時間の概念に、 また、 この概念が政治理論を形成する上で演じる役割に十分な
注意をまだ払っていない。 18世紀の自由主義的改革者にとって、 時間は一種の量的持続として、 また、
否定的な性格は別として何らの特定の価値をももたない一連の成功点として現れる。 未来の時間だけが
― 121 ―
質的性格を約束する。 しかしながら、 バークに従う保守主義者にとって、 時間は既定の配置に本質的に
質的な要素を与える。 過去の時間は現に打ち消されるのではなく、 制度と価値という形態で現在に併合
される。 急激な変化は、 それが効用を否定したのと同じく、 時間を否定する。 否定的な価値を過去に負
わせ、 肯定的な価値を現在あるいは未来に負わせるために、 過去の時間を現在と未来の時間から切断し
ようと求める点で、 急激な変化は非歴史的で無益であると申し渡される位置にあった。 時間と効用の保
守主義的概念全体をヒュームに帰すのは言い過ぎではあるものの、 彼自身の方法と気質による限界内で、
彼が保守主義の真相のいくばくかを垣間見たことを認めることは重要である。
Ⅲ
ヒュームの保守主義は、 彼が哲学的著述から社会・政治および経済に関する形式ばらない小論に転ず
る場合に、 より具体的な表現を与えられる。 彼の超然さは、 彼がいかなる政治問題にもあると明言した
複雑性によって、 いずれにせよさらに強化された。 彼の気質は彼を当時の政党闘争に不本意ながら加わ
らせたが、 それは彼が両方の側―ホイッグ主義の尊大な教義と同様に神権説と国王大権についてのトー
リー的感覚―に攻撃の矛先を向けることを妨げはしなかった。 しかし当時の保守主義者と同様に、 毎朝
世界は未決の問題をかかえると考えるような類の過激な改革者をヒュームは心から軽蔑していた。
「ひと世代の人々が直ぐに舞台から退場し、 カイコや蝶ではあることだが、 次の世代の人々が新たな
競争を引き継ぐが、 それはそれらの人々が祖先の間に行き渡っていた法や先例に配慮することなく、 独
自の形態の市民的政治体 civil polity を自発的に、 全体的合意によって確立するような政府―確かに決
してそれらの人々には当てはまらないことであるが―を選択するのに十分な感覚をもつ場合である。 し
かし人間社会は永遠の流動のなかにあるので、 ある人は毎時間世界から出て行き、 他の人はそこにやっ
て来るから、 政治の安定性を保持するためには、 新たな血は既定の国家構造に従い、 それらの人々の父
祖が自らの足で踏み固め、 人々にたいして区画した道にほぼ従うべきである。 いくつかの革新は必然的
にあらゆる人間的制度のなかに位置を占めざるをえないが、 …いかなる個人も暴力的革新を行う資格を
与えられていない」
「新奇さ」 noveltiesに関するヒュームの軽蔑はまた、 確立された形態や制度は邪悪な人々の努力を
しばしば無効とし、 それ以外の人々の乏しい才能を運よく補うような慣性を携えているという確信に依
存していた。
「最小の法廷あるいは役所において、 事業を指揮すべき明示された形態と方法は、 人類の自然な腐敗
にたいする相当な監視であることが見出される。 …そしてこの問題は特定の人々の気質や教育にほとん
ど依存していないので、 同じひとつの共和国のある部分は賢明に指揮され、 他の部分は同じ人々によっ
て弱々しく指揮される可能性があるが、 これはこれらの部分を規制している形態や制度の違いによって
いる。 …善い法は、 慣行・慣習が人々の気質に人間性あるいは正義をほとんど吹き込まないような政府
に秩序と穏健さを生み出す可能性がある。」
しかしバークがこれらの現象を説明するために神のなんらかの狡智 cunning を求めたところで、 ヒュー
ムは制度の功利主義的基盤および人間の習慣のなかに見出される、 制度の強力な支持を指摘することで
満足した。 彼は、 広範囲でもあり有益でもある改革をもたらす人間の能力について懐疑的であるという
点でバークと一致していたが、 フランス革命の時代にバークが 「幾何学的例証」 による政治的解決を求
めた 「理性の人」 を痛烈に非難したところで、 平穏なアン女王の時代に著作活動を行ったヒュームは
「熱狂」 と呼ばれた時代への軽蔑を持ち越していた。 彼の目からすれば、 宗教的熱狂あるいは狂信は17
― 122 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
世紀のイギリスを闘争しあうセクトに分裂し、 ヒュームが専制にもまして憎んだ状態である内乱への道
を準備した。
暴力的な対立にたいするこのような恐れと不信が、 政党政治についてのヒュームの分析の基礎にあっ
た。 というのはこの分析は実践的な目的―トーリー党とホイッグ党、 あるいは彼がもっと正確に 「宮廷」
court と 「地方」 country と呼んだ党派間の多くの合意点を示すことによって、 彼の時代に17世紀の争
乱が再燃するのを阻止すること―に動機づけられていたからである。 賞賛と非難を両方の側に公平に割
り当てるという彼がとった方法は、 緩やかな合理性こそが両党が相互に排他的な立場をとることを防ぐ
という期待に基づいていたが、 このことは彼の結論に先立つ、 政党の性質に関する現実主義的分析ほど
重要ではなかった。 確かに、 ハリファックス Halifax、 ボーリングブルック Bolingbroke、 スウィフト
Swift およびデフォー Defoe といったもっと初期の政治的著作家はすべて、 立憲制度における 「党派」
あるいは政党によって演じられるますます重要な役割に気付いていた。 だが、 これらの著作家の間には、
「政党」 を必要ではあるが不愉快な存在として、 いつまでも受け入れたがらない傾向が残っていた。 「最
善の政党といえども国民の大部分に対する一種の陰謀であるにすぎない」 とハリファックスは述べた。
政党あるいは党派―これらの語は互換的に用いられている―に関する議論のなかで、 ヒュームはこれ
と同類の立場から
フェデラリスト
第10篇のマディソン James Madison の立場に移行し始める。 自
由な政府のもとで政党を排除することは不可能であるから、 政党の分裂的・略奪的傾向を制限する一定
の手段が見出されねばならない。 従って、 ある政治体制の存在そのものへの脅威を引き起こす政党と、
必ずしも有益ではないとはいえ、 その活動が理に適った範囲内に限定される政党とを区別することが不
可欠であった。 前者のカテゴリーにヒュームは前世紀の激しい宗教論争期に大量に出現したタイプであ
る、 非妥協的信条をもつ狂信的集団を位置づけた。 過激派集団は、 成員の教条的気質を反映して、 自ら
の目的―正義の命令 、 ―を達成するために平和と秩序を完全に犠牲にしよう
としていた。 その上、 確固たる絶対者に訴えようとする原理を誇張する傾向は近代に特殊な現象であっ
た。 「原理、 とりわけ抽象的・思弁的原理からの政党は、 近代に初めて知られたものであり、 おそらく
人間行動に現れた最も異常な説明できない現象である」。 そのような政党は例外をなしていたとはいえ、
すべての政党が影響を被るような病理的な状況を表していた。 これらの徴候の痕跡はホイッグ党、 トー
リー党両派のなかに見出されうる。 ハノーバー王朝の継承をめぐる騒動が完全には収まっておらず、 ジャ
コバイトの記憶と希望がまだ強かったときに著作活動をしていたヒュームは、 政党の区別が強まるのを
許容すれば生ずるであろうさまざまな帰結について繰り返し警告した。 このような偶発事態は起こって
はならないということがヒュームの政党分析の全体的教訓であった。
政党を解剖調査するなかで、 ヒュームは利益・原理および一定の指導者への愛着の混合を見出した。
二つの広範なタイプの政党が存在していた。 すなわち特定の指導者あるいは指導者集団の個人的魅力に
基づいて設立された政党と、 意見あるいは利益の 「真の」 相違に基づいて設立された政党である。 ほと
んどの政党はこの二つの混合であり、 これは幸運であった。 というのは、 原理・利益および個人的野望
は相互に補完する傾向にあることをそれは意味していたからである。 とりわけ、 個人的競争と経済的利
益の競争は政治的あるいは宗教的原理の諸問題をめぐる紛争の可能性を減少させる。 ヒュームのような
懐疑論者、 穏健派にとって、 原理をめぐる論争はおおむね無意味であった。 というのは、 対立し合う観
念を生み出した歴史上の反目はずっと前に解消されていたからである。 ヒュームによれば、 ホイッグ派
は自らを1688年の革命の伝統の唯一の継承者と見なしており、 彼らの議論では、 革命の合意は覆される
危険に常にさらされていた。 他方トーリー派はそれとは反対の性向に対応していた。 彼らはホイッグ派
の先駆者によって一時的に廃止された君主政の唯一の擁護者をもって任じていた。 臣民に義務付けられ
― 123 ―
る主権への忠誠の重要性を主張することがトーリー派の任務であった。 ヒュームの注釈によれば、 これ
らの振る舞いは、 両党間の基本的類似性のために、 おおかた矛盾していた。 両党とも1688年の結果を受
け入れていた。 両党とも君主政の廃止を望んでいなかった。 両党の境界線は力点の問題にかかっていた。
それは両方の側が、 承認された一定の基礎的条件に付与した意味の微妙な差異にあった。 「従って、 革
命以来トーリーは…自由を放棄しないまでも君主政の愛護者[であり]、 スチュアート家の支持者[であ
る]。 ホイッグは君主政を放棄しないまでも自由の愛護者であると規定されており、 プロテスタントの
方針にそった合意の友であると規定されている」。 両党への彼の進言が求めたのは、 穏健さであり、 現
在の状態の承認であり、 公共の善の追求であった。 「両方の側に狂信者が十分いる」 と彼はすげなく述
べた。
二つの政党間に実質的な合意領域が存在していることを強調して、 ヒュームは近代イギリス政党制の
きわめて優れた局面を密告した。 そこから、 不和を最小限にしてイギリスを統治する 「政党の連合」 を
創造することは望ましいし可能でもあるという結論を彼は引き出した。 「確立されたものに対する穏健
な対立からそれへのまったくの黙従への移行は容易で気がつかない」。 かくして 「連合」 は体制の基礎
的条件を論争の範囲から除外するための政党間の合意を意味した。 ヒュームが鋭く注記したように 「統
治の本質的要素に関して対立する見解を抱くような政党こそ危険な政党である」。 政党間の摩擦の領域
が減少すればただちにそれらは基礎的条件についての合意を認識するというのが彼の期待であった。 一
世紀半後に、 このことがイギリスで現に問題となったとき、 国民は 「きわめて一致協力しているので、
われわれは安心して口論する余裕がある」 というバルフォア Balfour の論評をヒュームは歓迎したこ
とであろう。
Ⅳ
1714年におけるアン女王の死からアメリカ革命の勃発にいたるまで、 イギリスは何らかの深い対立あ
るいは鋭い論争にさらされることのない比較的順調な時期を享受した。 唯一の主要な例外はジャコバイ
トの反乱であった。 イギリスの安定はヨーロッパの驚異のひとつとなった。 というのも、 革命的事象の
混乱がイギリスの名を政治的不安定の代名詞とした前世紀にはそのような安定はイギリスの評価にはな
かったからである。 この時期に行き渡った好意の時代は、 その知的表現を均衡と調和の賞賛のなかに見
出した。 ニュートンが、 それを用いて調和のとれた宇宙に関する彼の構図を素描したような、 そのよう
な古典的方針は、 ポープ Pope の整序された2行連句のなかに再現された。 自らの制度へのほとんど普
遍的な称賛に関して無頓着ではないイギリスの政治的著作家の説明によれば、 安定のなぞを解くカギは
体制の均衡した性質にあった。 均衡の観念は、 1776年のベンサムの
統治論断章
の出現にいたるまで、 イギリス立憲思想の中心的出発点であり、 重要な概念であった。 そ
の古典的な定式化はブラックストンの
注釈
に見出される。
「実際、 イギリス政治の真の卓越性は、 そのすべての部分が相互に抑制機能を果たすということにあ
る。 立法部にあっては、 一方の側が決定したことを他方が拒否するという特権によって、 庶民は貴族を
抑制し、 貴族は庶民を抑制する。 国王は両者を抑制するものの、 執行権を侵害から守る。 …かくしてわ
れわれの市民的政治体のあらゆる部門は、 相互に支持し、 支持され、 規制し、 規制される。 二つの議院
は二つの対立する利益の方向に自然と分かれ、 一方の特権はそれぞれ他方の特権とは異なるために、 こ
れらの議院は固有の限界を超えないように相互に分を守っている。 全体が各部に分離されないようになっ
ており、 国王の混合的性質によってともに人為的に連結されている一方で、 国王は立法部の一部であり、
― 124 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
唯一の行政長官である。 機構上の三つの異なる権力と同様に、 それらは、 個々に行為する場合に果たす
こととは異なる方向で、 統治機関を合同で動かす。 しかしそれらは同時に、 それぞれがあずかり、 すべ
てから形成される方向で、 統治機関を合同で動かす。 すなわち、 共同体の自由と幸福の真の流れを構成
する方向である。」
立憲理論の分野にとって、 均衡の概念の重要性が認められるとはいえ、 疑問が生まれる。 この観念は
どれほどまで哲学者個々人の精神のなかだけにある創造物であったのか。 また、 それは当時の国家構造
の現実的作動にどれほど密接に対応していたのか。 議会主権という有力な論題は一定の時期に突出した
とはいえ、 多様な統治部門の間には概して暗黙の協働があった。 従って、 大まかに1720年から1760年ま
でのホイッグ優位の時代を通じて、 立憲体制は、 同じ見地からではないが、 国王・貴族・庶民の協働に
近かったというホールズワース卿 Sir William Holdsworth による言明に矛盾はない。
いかなる手段によってこのような均衡の外観が維持されたのかが問われる場合、 その答えは主に全体
の立憲的構造に織り込まれていた慣例に見出されるべきである。 ネーミア卿 Sir Lewis Namier の霊
感のもとで、 現代イギリスの歴史家が例証するように、 周囲に群れをなす慣例の核心にあるのは 「影響
力」 の体制、 すなわち、 家族・官職叙任権・契約・賄賂および腐敗の紐帯であり、 それらを通じて国王
と彼の大臣は議会機構を操縦した。 ウォルポール Walpole とニューカスル Newcastle によって開発さ
れ、 ジョージ3世によって完成されたこの体制は、 当時の政治にとって付随的なものではなく、 きわめ
て重要な要素であった。 それがなければ、 イギリスの国家構造は、 モンテスキュー Montesquieu が
法の精神 で想定した見事に区画された権力分立にあまりにも似かよったであろう。 「影響力」 の体制
を含むこの時期の慣例は、 統治機構が組織化された方法で、 また、 王位によってもたらされるある程度
の中央指向をともなって機能することを確保するのに不可欠な潤滑剤を提供した。
多くの著述家や政治家が、 王室の主導権を保持する上で 「影響力」 の果たす役割に気付いていたもの
の、 おそらくヒュームだけが立憲上の均衡を保持する上でのこの体制の戦術的役割を把握していた。 彼
は手始めに、 政治的安定は財産と政治権力の一致にかかっているというハリントン Harrington の広く
承認されたテーゼの妥当性について疑義を唱えた。 イギリス的体制の矛盾は、 財産と権力が国王から庶
民院へ引き寄せられたといっても、 国王を無用な存在として放置するような、 統治権力すべてを簒奪す
る庶民院側の確たる傾向は存在していないということであるとヒュームは強調した。 庶民院は、 財産を
所有している側 the propertied interests に圧倒的な支配権を行使させるような一種の受動的じょうご
とは見なされえないのは明らかであった。 従って問題はこうなる。 国家構造の有力な参与者を適切な限
界内に閉じ込める手段とは何か。 彼の答えは次のようなものであった。
「団体の利益はここでは個々人の利益によって制約され、 従って庶民院の利益はその権力を伸長させ
るものではない。 というのは、 そのような簒奪は成員の多数の利益に反するであろうからである。 国王
は自分の一存で自由にできるきわめて多くの公職をもっているので、 庶民院の誠実な私心のない部分の
助力を受ける場合には、 少なくとも古来の国家構造を危険から守るようにするために、 常に全体の解決
を図ろうとするであろう。」
人々は、 政党闘争の最中にそうしがちであるように、 「腐敗と依存という不快な呼称」 を非難するで
あろうが、 「ある程度の、 またある種の腐敗と依存は、 国家構造の性質そのものから切り離すことがで
きず、 われわれの混合政体の保持に不可欠である」 ことを忘れてはならない。 自由および議会の独立の
狂信者にとって適切な進路は、 官職叙任権およびそれに付随する悪の徹底的な根絶を求める進路ではな
く、 「自由にとって危険とはならないような適当な程度の依存」 にたいして賢明な警戒を怠らないよう
な進路であった。
― 125 ―
国家構造には、 いかなるものであるにせよ、 流布している形式的・法律学的分析から構成要素が隠さ
れているような不安定な均衡ほどではないにしろ、 ニュートン的な力の機械的均衡に似た均衡があるこ
とを、 他の観察者にもましてヒュームは理解していた。 結果的に、 立憲体制の三つの主要な参画者間の
権力の境界を厳密に規定することは非現実的であった。 慣習と便宜は、 思弁的な理由からではなく、 国
家構造を枠付けていた。 従って、 これらの非常に人為的な政治配置は、 抽象的理論の厳格さによっては
測定されえない。 その上、 この体制は自由と秩序の双方を組み合わせる能力を示し、 その背後にある、
国民に定着した習慣の慣性を示したので、 「仮定の議論や哲学…を信頼して不当な干渉をしたり、 …実
験を試みたりすること」 は愚かであった。 「賢明な行政の長は、 …公共の善のために一定の改良をしよ
うとする可能性があるとはいえ、 それでも彼の革新を古来の構造にできる限り多く適合させようとする
であろうし、 国家構造の主要な支柱・土台の全体を保持しようとするであろう。」
Ⅴ
ヒュームの 「分析的保守主義」 は多くの点でバークへの道を準備した。 バークはヒュームには欠けて
いた確信や情念をもっていたといっても、 それと同じ素材の多くがヒュームの著作のなかで説かれてい
た。 伝統主義の強調、 習慣や感覚の重要性、 「政治的企画者」 (ヒュームがそう呼んだような) にたいす
る侮蔑および統治の複雑性にたいする鋭い感性はすべてヒュームのなかに見出されるべきものである。
だが、 ヒュームの本当のユニークさは政党および国家構造の隠された慣例に関する彼の分析に基づいて
いた。 ましてやそれは18世紀の最も鋭敏な議論であり、 洞察においてボーリングブルックやバークの党
派的小論をはるかに凌いでいた。 同時に、 彼の批判は、 ある重要な点でロックの影響を減少させるよう
に働いた現実主義の響きを感じさせた。 ヒュームは、 後の哲学的急進派が理解しなかったこと、 すなわ
ち、 現実政治の世界は自己利益の光栄ある孤立のなかで自らの目的を追求する諸個人が棲息する場では
ないということを明確に理解していた。 むしろ基本的要素は個人的指導者によって、 また共通の利益と
明白な原則の結合によって繋ぎ合わされる政治集団であった。 モンテスキューの社会学的方法を想起さ
せるこのアプローチはまた、 当時のイギリス政治思想に浸透していた法的議論 legalism とも大きく異
なっていた。 その支配的傾向は選挙改革・代表および植民地問題のような争点を法と先例に基づいて議
論することであった。 ハードウィック Hardwicke、 マンスフィールド Mansfield およびブラックスト
ンの影響は、 法と政治の間に出現した同盟関係を象徴していた。
既存の制度に関するヒュームの理解および社会を枠付ける長い、 苦難に満ちた、 しかも無意識的な過
程に関する彼の認識が、 法律家と同じような全体的方向に彼を位置づけるとはいっても、 その旅は彼が
結果的にもたらした政治思想上のマイナーな変革によって遂行された。 政治はいまや法律学的カテゴリー
よりもむしろ心理学的カテゴリーで認識されるべきであった。 ロックとホッブズは、 政治を理解するた
めに人間性の重要性を強調したものの、 彼らのアプローチはそれにもかかわらずこの要素を契約の重要
な法律学的概念にとって副次的なものと見ていた。 この点で、 忠誠・義務および正義の政治的カテゴリー
は、 契約によって確立される主権という基礎概念 (あるいはロックがそれを 「至上の権力」 と呼ぶこと
を選んだような概念) からの論理的派生の地位を帯びていた。 他方ヒュームはこの手続きを逆転させた。
すなわち正義・義務・権威は人間の態度と期待の帰結であった。 これらの概念は法律学的根拠ではなく、
心理学的根拠に基づいて解明されるべきであった。
ヒュームの心理学重視は後の保守主義への彼の全体的遺産の一部、 すなわち有益なものと事実上のも
のを微妙な方法で結合するようにさせる経験主義の遺産であった。 だがそれはまた後の事象が破棄した
― 126 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
遺産でもあった。 ヒュームはその役割に相応しく1776年に亡くなったが、 この時点から革命的事象はヒュー
ムの平穏な結論をあざけるように作用した。 事実の世界は保守主義者に冷たい居場所を与えた。 それは
いまや革命家によって制御された。 革命という重要な事実は、 バークならそれを知的なつむじ曲がりの
せいにし、 メーストル De Maistre ならそれを復讐する神のせいにしたであろうとはいえ、 いずれにせ
よ解明されえなかった。 しかしそれを無視することはできないとしても、 超越することはできる。 保守
主義者が革命の理性への訴えと闘うために、 非合理主義・ロマン主義・宗教および歴史の多様な要素か
ら、 より旧い秩序に関する新たなビジョンを組み立てるために、 分析的保守主義を形而上学的な保守主
義にとって代えるために、 超越的規範に転じ始めたのがそれであった。 そのようにすることで、 保守主
義者はヒュームの自然主義的アプローチの多くを否認し、 それに代えて、 ひとつの歴史哲学、 すなわち
歴史は人間的時間の範囲の外側から機能する神の手によってそれ自体の主要な輪郭が決定されるような
「経路」 をもつという観念を用いた。
ヒュームの最終的評価は一定の難点を惹起する。 ある点では彼は保守主義の特徴を表し、 他の点では
自由主義の特徴を表し、 また他の点では彼は彼自らの学派以外のいずれの学派にも属していなかった。
政治問題における彼の結論は保守主義の強い色彩を帯びているが、 当時のほとんどの保守主義者は、 ヒュー
ムを彼らと同じ性向をもつ人間として歓迎するには、 ヒュームの懐疑主義をあまりにも不快に感じてい
た。 にもかかわらず、 ヒュームは決して過去をある一定の時点で精査することはなかったし、 彼の懐疑
主義を究極の結論にまで及ぼしもしなかったという理由から、 彼の結論は保守主義的であった。 彼は慣
行や伝統にたいして、 またそれらの社会的接合剤としての重要性にたいしてきわめて大きな敬意を払っ
ていたので、 ヴォルテール Voltaire とその同胞がフランスで行いつつあった類の破壊的批判にそれら
をさらすことはなかった。 彼は、 改革への不信・抽象的概念への敵対および理性の要求への懐疑主義を
後の保守主義者と共有していた。
他方ヒュームは、 自由と財産にたいして払った敬意、 宗教への、 また反啓蒙主義に境を接するものへ
の明白な冷淡さという点で、 この世紀の自由主義者に近い場所に立っていた。 とりわけ、 彼の政治思想
は、 以後の保守主義思想においてある重要な役割を演じることになる特定主義的傾向の痕跡を何ら含ん
でいなかった。 国民の歴史、 国民の特殊性と価値は、 17世紀および18世紀合理主義の普遍主義的あるい
はヨーロッパ的前提にまだとって代わってはいなかった。
これらの観察から、 「自由主義的」、 「保守主義的」 というカテゴリーはヒュームに適用する場合には
有意ではないと結論付けるのは容易であろう。 しかしながらこれは誤解であろう。 重要な点は、 ヒュー
ムの立場はほぼ18世紀中葉のイギリス自由主義に生じつつあった変化を示していたということである。
自由主義は保守化するようになりつつあった。 内乱期の批評と抵抗から構成され、 その後の名誉革命に
よってより穏健な形で再形成された17世紀の自由主義は変容していた。 それは既定秩序への異議申し立
てとしての地位を失い、 秩序そのものとなった。 18世紀の初めまでには、 イギリスは法のもとの統治の
観念、 議会の優位およびイギリス人の権利に深く拘束されていた。 政治構造への自由主義的要素の編入
は、 その思想の中心テーマのひとつ、 すなわち有機的共同体に対する反乱というテーマを取り除く働き
をした。 意図的に構成される社会 a corporate society の観念―空間と特権によって格付けされ、 深く
位置づけられる契約―は、 17世紀の王党派の教義においてと同様に、 チューダー朝の思想においてもあ
りふれた観念であった。 ある緊密な共同体におけるこの信念への反応は、 それが社会的・政治的政策の
なかに当然伴うことであるにしても、 内乱の急進的教義のなかのみならず、 ホッブズやロックのような
多様な思想家のなかにも、 その痕跡をたどることができた。 ホッブズとロックの体系は、 階級・地位お
よび位階の社会的絆を横断する抽象的概念で始まり、 従って結合されておらず、 分化されていない諸個
― 127 ―
人だけを措定していた。 どちらの体系にも 「共同体の感覚」 はなかった。
ひとたびイギリス社会が17世紀の革命的変動によって改変されたとき、 反乱のテーマは、 「社会の感
覚」、 すなわち、 抵抗と反乱によって確立された諸価値が不文のインフォーマルな性質の社会的配置に
深く依存するようになる、 その程度の素早い理解によって徐々に取って代わられた。 ヒュームは、 前世
紀の激動によって可能となった利得を高く評価し、 制度的成就とそれらの社会的支持の双方を保持する
ことを求めるこのような気質の変化を代表していた。 この点では、 17世紀中に退けられた有機的共同体
の前提は再現されつつあった。
これらの展開が、 イギリス保守主義と同様に、 ヒュームの背景を成している。 というのも、 このよう
な形態の保守主義のユニークさは、 それが17世紀の革命の経験の帰結を併合した、 その併合の程度にあ
るからである。 ここでの最上の例はバークのパンフレット 「新ホイッグ派から旧ホイッグ派への訴え」
であった。 そこで彼は1688年の革命を保守主義化し、 同時に保守主義を自由主義化したのである。
4. ヘンリー A. キッシンジャー 「保守主義のジレンマ:メッテルニヒの政治思想に関する省察」
Henry A. Kissinger, The Conservative Dilemma : Reflections on the Political Thought of
Metternich
Vol. 48. No. 4. 1954 pp. 1017-1030.
Ⅰ
ある革命期の保守主義者は変則的ななにかを表しているのが常である。 社会がまだ結合的であれば、
誰かが保守主義者となるような事態は生じないであろう。 既存の構造への重大な代替案など想像もでき
ないであろうからである。 しかし革命期は、 社会的努力の自明の目標が分解し、 社会の重要な区画が、
同化されえないか同化されないであろうような諸価値を主張するという事実の徴候そのものである。 当
然視されてきたことが今や防衛されねばならず、 しかも防衛という行為は厳格さを引き入れる。 亀裂が
深ければ深いほど、 競い合う立場はより頑なとなり、 教条主義への誘惑はより大きくなる。 「正統な」
構造がまだ普遍的に受け入れられていれば、 その妥当性を証明する必要はないであろう。 しかし防衛と
いう行為は何らかの代替案の可能性を提示する。
ひとたび既存の正統性に異議が申し立てられれば、 対立する人々の間に真の対話はない。 というのは、
それらの人々は同じ言葉を話すことを止めるからである。 それは、 現在争点となっているひとつの政治
システムの内部にある相違の調整ではなく、 政治システムそれ自体の相違から来る。 それ以後は、 安定
と改革、 自由と権威は反断定的なものとして現れるようになり、 政治的競合は経験的なものから教義的
なものに転ずる。 「正統的」 と見なされることに関する合意がない場合、 同意の基盤は存在しない。 調
整の生じる可能性はあるが、 しかしそれらの調整は、 避けられない決着をにらんでそれぞれの立場を強
化するための戦術として、 あるいは敵対者の正統性のパターンを掘り崩すという第一義的な責務を果た
すための道具として認識されるであろう。
これは政党のラベルとは関係がない。 19世紀のアメリカあるいはイギリスのような、 基本的に保守的
である社会が存在し、 そのため既存の政党が直ちに保守と革新に区別されうる。 フランスのような社会
は一世紀以上にわたって、 根本的な社会的分裂が存在するために、 政党自体が自らをいかに規定しよう
とも、 すべての争点が基本的に革命的であった。 安定した社会秩序の動機は義務の概念―自明な社会的
公準の表明―であり、 そこでは既存秩序にたいする選択肢は拒否されるのではなく、 認識することがで
― 128 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
きない。 革命期の動機は忠誠の概念であり、 そこでは意志を具申するという行為は、 象徴的な儀式的で
さえある重要性を獲得するが、 それは選択肢が今そこにあるように見えるからである。 義務の倫理は意
志の志向によって行為を判断する責任の観念を含んでいる。 このような理由により、 それは、 いかに厳
格であろうとも、 それを意義あるものにするために個々に受け入れられるようにならなければならない
道徳水準と個人の道徳律との一体化に努める動機の倫理である。 忠誠の倫理は正統性の観念を含むが、
それはこの倫理が集団のアイデンティテイを達成するための手段であるからである。 従ってそれは合理
性・伝統・カリスマなどあらゆる方法で正当化されうる集団規準との関係の倫理である。 それは社会の
道徳律と個人の道徳律との一体化を排除するものではないが、 そのような一体化を要求しない。 「わが
国は正か悪か」 ―これは忠誠の言葉である。 「あなた方の行為があなた方の意志によって普遍的な自然
法となりうるように行為せよ」 ―これは義務の言葉である。 義務は普遍性の局面を表明し、 忠誠は偶発
性の局面を表明する。
しかし革命状況で保守主義者がなすべきことは何か。 安定した社会秩序は永続性の直観と同棲し、 そ
のような秩序に対する敵対は無視されるか、 同化されるように試みられるかのどちらかである。 従って
保守主義者の基本的立場は権威の正当性に関する革命家の問いの妥当性を否定することを含んでいる。
かくして保守主義は、 ひとつの生き方であることを止め、 ひとつの政治運動として現れる場合にはいつ
でも、 革命期のシンボルとなる危険を冒す。 どのようなことのために、 亀裂を深め革命の進展を促すに
過ぎないような意志の闘争で勝利を収めることが保守主義者を利するのか。 革命闘争で保守主義の立場
が、 反動的―すなわち反革命的―陣営、 意志という観点から忠誠の倫理をもって闘う集団によって支配
されるにいたることは偶然ではない。 真の保守主義者は社会闘争に精通していないからである。 彼は対
立の溝を埋めることができないような分裂を回避しようと試みるであろう。 安定した社会構造は勝利を
糧にするのではなく、 調停を糧にすることを彼は知っているからである。
それならば、 保守主義者は対立する主張の偶然性から自らの立場をどのようにして救援しうるのか。
自明性が崩壊している場合にどちらの立場が説得的であるのかをどのようにして達成しうるのか。 でき
る限り匿名的に闘うことによってであると古典的な保守主義者は答えてきたが、 そうであればそのよう
な答えは意志を超越し、 闘いは少なくとも個人を超えた地平で生じ、 義務は道徳的義務 duty となるの
であって、 忠誠となるのではない。 歴史の名において保守主義のために闘うこと、 社会の一時的局面・
社会契約の否定のために革命の異議申し立ての妥当性を否認すること―これがバークの答えであった。
理性の名において保守主義のために闘うこと、 世界の構造とは対照的な認識論的根拠に基づいて革命問
題の妥当性を否定すること―これがメッテルニヒの答えであった。
この二つの保守主義的立場の相違は、 多くの点で力点の問題であるにせよ、 適用上は根本的な相違で
あることが証明された。 バークにとって社会的義務の究極の規準は歴史であった。 メッテルニヒにとっ
てそれは理性であった。 バークにとって歴史はある国民の 「エートス」 の表出であった。 メッテルニヒ
にとってそれは処理されるべきひとつの力であり、 ほとんどの社会的力よりも重要であるが、 より大き
な道徳的妥当性はもたない。 バークは、 理性は社会的義務の十分な基礎を提供するという革命家の前提
を否定し、 従って彼の異議申し立ては直接的効果を何らもたないように運命付けられていた。 メッテル
ニヒは彼の反対者を生み出した啓蒙思潮そのものの名において闘いを展開し、 従って彼の異議申し立て
は致命的異議申し立てであった。 バークにとって、 革命は社会的道義性に対する攻撃であり、 ある国民
の歴史的国家構造の聖化された契約の侵犯であった。 メッテルニヒにとって革命は、 不道徳であるから
ではなく破壊的であるために反対されねばならない、 理性の命令の侵犯であった。 歴史的保守主義は、
ある国民の伝統の個別的表明を阻害するものとして革命を憎悪する。 合理主義的保守主義は普遍的な社
― 129 ―
会的公準の遂行を妨害するものとして革命と闘う。
メッテルニヒの政策に、 また、 すべての政治思想を枠付ける自由の性質・権威の意味という相補的な
争点に関する彼の解釈に厳密性を与えたのはこのような合理主義的な保守主義の概念であった。 西洋は
二つの基本的な解答を生み出す。 すなわち、 制約の欠如としての自由であり、 権威の自発的受容として
の自由である。 前者の立場は自由を権威の領域の外に存在するものと見なす。 後者の立場は自由を権威
の質として認識する。 消極的な自由は政治構造を超越する社会、 すなわちロックにおけるように、 国家
以前に存在し、 その政治組織は一定の目標達成のために組織される一種の有限会社のようになる社会の
表れである。 そのような社会では、 改革に対する保守主義の争点は力点の問題、 多かれ少なかれ一定の
形態と内容の問題に関する変化の問題として現れる傾向にある。 活動の重要な分野は統治領域の外で生
じるから、 政治は功利的機能をもつが、 倫理的機能をもたない。 それは有益ではあるが道徳的ではない。
自由のロック的概念を遂行する社会は、 その政治的競合がいかなる形態を取ろうとも、 常に保守的であ
る。 そうでないとすれば、 社会はその力が社会としての凝集性にあり、 「当然視される」 ことにあるよ
うなシステムを作動させることはできない。 このような理由からバークの保守主義的防衛はイギリスの
国内的場面への適用能力をもっていなかったが、 誤解を背景として外国人に向けられていた。
しかし、 ヨーロッパ大陸はアングロサクソン型の自由を決して受容することはできない。 フランス革
命以前に、 ロック的自由が既成の革命の哲学、 行為への使命の論理的厳密さを欠く調停の教義となった
のはこのためであった。 その後、 イギリス革命とは異なり、 フランス革命が根本的な社会的亀裂を生み
出したのはこのためであった。 凝集的な社会は、 論争は周辺的なものであることを示す慣行を通じてそ
れ自らを規制できる。 根本的亀裂を封じ込める社会は法、 すなわち強制的関係の規定に依存しなければ
ならない。 かくしてロックではなくカントとルソーは大陸型の自由の代弁者であったが、 ここでは一般
的利益と意志との一体化のなかで自由が追求され、 最小限の統治ではなく正義に基づく統治が最も自由
なものと見なされた。 イギリスの保守主義者にとって、 社会的問題は時宜に適った政治的譲歩によって
社会的領域を保護するための調整の問題であった。 しかし大陸の保守主義者にとって、 その問題は文字
通り保守の問題であったが、 それは彼にとって政治的譲歩は社会的降伏に等しかったからである。 とい
うのは人が譲歩できるのは何ごとかにたいしてだけだからである。 国家と社会が二つの異なる実体であ
る場合には、 このことは問題にはならない。 しかしこの二つがぴったり一致する場合、 譲歩は失敗の告
白であり、 保守的構造が終わったことの承認であり、 架橋できない社会的亀裂を認めることである。 こ
のようにして自らの時代が終焉した後の、 生涯の末期でさえ、 メッテルニヒは、 政治家の英知は譲歩を
する適当な瞬間を認識することから成り立つとするイギリスのピール派の一人、 グラハム郷 Sir James
Graham の演説に異議を唱えた。 「政治家のあり方に関するわたしの理解はまったく異なる。 政治家の
真のメリットは…譲歩が不可欠となるような状況を回避するように統治することにある」。 従ってまた、
メッテルニヒの特質は、 個人的感情が支配したり、 静まったり、 和らげられたり、 優ったりするような
地平の上に立つ哲人王の様相を呈する。
メッテルニヒが50年早く生まれていたとしても、 彼はやはり保守主義者であったであろうが、 しかし
彼の保守主義の性質について衒学的な論文を書く必要はなかったであろう。 彼は否定しえない魅力と高
貴さで社交界のサロンを渡り歩き、 万人が同じ作法で無形のものを理解するような世界の確実性のシン
ボルそのものである見事な間接的手段で外交をたくみに指揮したであろう。 彼はやはり18世紀の流行で
あった哲学に長けていたであろうが、 しかし彼はそれを政策の手段とは見なさなかったであろう。 しか
し永続的な革命期には、 哲学は偶発的な主張から普遍性を救済する唯一の手段であった。 メッテルニヒ
が一貫して自らの名前と彼の時期の一体化に反対し、 彼の虚栄心とはまったく両立しないように見える
― 130 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
態度を取ったのはこのためであった。 「メッテルニヒ体制」 があったとしても、 彼の達成したことは個
人的なものであり、 彼の闘争は無意味であったであろう。 彼の主張によれば、 「わたしの 体制は正し
い理性の命令以外の何ものでもない」。 そして最晩年でも彼は依然として次のように書くことができた。
「39年の間、 わたしは波を跳ね返す岩の役割を演じた。 …最後には波は岩を覆いつくすのに成功した。
しかしながらそれらの波が動揺する原因となったのは岩ではなくてそれらに固有の不安であったために、
その後もこれらの波は凪の状態にはならなかった。 障害の除去は事態を改変しなかったし、 することも
できなかった。 …わたしは社会的動乱の代理人に訴えたいと思う。 夢のなかにだけ存在している世界
の市民よ、 改変されるものは何もない。 3月14日に、 たったひとりの人間の排除を救うような何ごとも
生じなかったと」
かくして啓蒙思潮は、 深く19世紀にいたるまで、 行為をその成功によってではなく、 その 「真理」 に
よって判断する啓蒙の最後の擁護者、 すなわち道義性は認識できるし徳は教えられることができるとい
う信念を決して放棄しなかった、 哲学的唯物論の時代における理性の支持者を保持した。 「政策を基礎
付けるのは小説ではなく歴史であり、 信仰ではなく知識である、 という格言は真理であることが証明さ
れた」 と彼は1822年に主張した。 彼は1817年にロシア皇帝に次のように書いた。 「世界はきわめて特別
な病に罹っていますが、 それはすべての流行病と同様にやがてなくなり、 神秘主義の類となるでしょ
う。 …今日、 神は血を流すこととは別の奉仕を要求しており、 同胞の良心を判断できる人間は誰もいな
いと悩む人に事態を明らかにすることよりも、 隠者ペテロの説教を繰り返すことのほうが容易いようで
す」。 偉大なる先行者の敗北から35年たって、 もう一人のナポレオンが登場したとき、 メッテルニヒは
これを個人的な失敗ではなく哲学的洞察の実例と見なした。 「ルイ・ナポレオンへの幾百万の投票は、
秩序を欠けば社会生活はありえず、 権威を欠けば秩序はありえないという本能的な感情の表れにすぎな
い。 今日、 この真理そのものがナポレオンを求めている。 世界はきわめて古くなってきているので、 真
理はある個人の名を身につけなければならない。 というのはそれ以外のすべての道は真理を閉ざしてい
るからである」。 これは、 個人の名をともなう歴史が歴史的保守主義者の悲劇であるのとまさに同じよ
うに、 合理主義的保守主義者の悲劇である。 そして真理の匿名性は啓蒙思潮の逆説でもあった。 真理が
強力であるとき、 認識論上にすぎないにせよその基盤は信仰である。 真理に異議が申し立てられるとき、
それは一個の教条 dogma となる。
結局このようにして、 反革命の果てしなき闘争のなかでメッテルニヒは彼が育てられた時代の教義に
帰るが、 しかし彼はそれらの教義を、 それらが当然視されていたときにはまったく必要ではなかったよ
うな硬直性によって解釈したのであり、 そのことがそれらの教義を適用する際に教義の本質を歪めたの
である。 彼はまだ、 根も葉もない夢よりも 「大いなる時計仕掛け」 あるいは 「黄金の時代」 がいわれる
世代に属していた。 そのような世界には、 人間のきわめて高貴な野望に対応する適性があったし、 よく
秩序付けられたメカニズムがあったが、 それを把握することが成功を保証し、 その法の侵犯は刑罰を免
れなかった。 「諸国家はまさに人類と同様にしばしば法に背く。 唯一の違いは刑罰の苛酷さである」。
「社会にはまさに自然と人間と同じようにその法がある。 人間が老いるのと同じで制度も老いる。 それ
らの制度は決して再び若返ることはできない。 …これこそ社会秩序の歩む道であって、 それは自然の法
であるからその道に違いはありえない。 …道徳界にはまさに自然界と同じように動乱がある」。 メッテ
ルニヒは18世紀哲学のこれらの自明の理を、 革命と自由主義に反対するために用いたが、 それは革命と
自由主義が不法であるからではなく、 邪悪であるからであり、 敵対者が創造しようと試みていた世界に
彼が生きたいと思っていなかったからだけではなく、 この世界が挫折を運命付けられていたからでもあっ
た。 革命は意志と力の主張であったが、 存在の本質は均衡であり、 それを表す法であり、 均衡のメカニ
― 131 ―
ズムであった。
このような理由により、 この保守主義的政治家は至高のリアリストであり、 彼の敵対者は 「夢想家」
であった。 「わたしは散文型の人間であって、 韻文型の人間ではない」 とメッテルニヒは自らの政治的
信条を断言した。 「わたしの出発点は、 わたしが何も知らないような、 信仰の対象であるような、 知識
に厳密に対立するような他の世界の問題ではなく、 この世界の諸問題に関する静かな瞑想である。 …社
会的世界では…人は注意深い観察に基づき、 憎悪あるいは偏見なく冷徹に行為しなければならない。 …
わたしは小説を書くために生まれてきたのではなく、 歴史を創るために生まれてきたのであって、 わた
しが正しく推測するとすれば、 それはわたしが知っているからである。 発明は歴史の敵であり、 歴史が
認識するのは発見だけである。 従って発見されうるのは存在しているものだけである」。 政治家として
の手腕 Statesmanship は自然界の法則とまったく似た法則に従う国家利益の科学である。 政治家はこ
れらの公準を理解し、 自らの任務を、 それが真理の本当の享受・瞑想の源から彼を違った方向に導くた
めに、 不本意ながらも遂行し、 自らの良心および歴史にのみ従う―良心は真理のビジョンを含むからで
あり、 歴史はそのようなビジョンを検証する唯一の場を提供するからである―哲学者であった。
Ⅱ
それではメッテルニヒの公準が明るみに出した洞察とは何であったのか。 それは、 諸事象のひとつの解
釈という近代的な意味ではなく諸事象の特質としての、 法によって統治される世界を提示した。 法および
調和と均衡の命令を軽視することは、 物理的災害と同様に道徳的にはそれほど大きな悪ではなかった。
「孤立した国家というのはいわゆる哲学者の抽象的概念としてのみ存在する。 国際社会では各国家が
それぞれの利益をもっており、 …それらの利益は相互に関連している。 政治科学の公理はすべての国家
の真の利益の承認から生ずる。 存在の保証が見出されるのは全体的利益の中においてであり、 それに対
して特定の利益―落ち着きのない近視眼的な人々によって政治的知恵と見なされるものの開墾 the cul
tivations―は二次的な重要性しかもたない。 近代の歴史は団結と均衡という原則の適用…およびコモ
ンローへの回帰を強制するような…諸国家の統一した努力の適用を例示している。」
そしてまさに政治的世界におけるのと同じように、 そのような均衡は侵略の勢力と抵抗の勢力との均
衡を反映していたのであって、 だからこそ社会秩序はあらゆる社会体に内在する保守的傾向と破壊的傾
向の容易ならざる緊張関係を明るみに出した。 このような競合の形態と実態を区別し、 時間だけが自発
的行為を授けるようなひとつの秩序の道徳的基盤を創造することが政治家たるものの責務であった。 こ
のことが、 合理主義者によって問題の規定ではなく解決であるとしばしば見なされるような別の区別に
導く。 人は一定の計画に沿った告知の価値をもつような海図を創造しうるにすぎない。 国家構造を作る
のは時間である。
従ってメッテルニヒは二つの理由から理想的な国家構造 (憲法) を構築しようとする彼の同時代人の
努力に異を唱えた。 彼らは、 ほとんど神聖化された実体というバーク的意味においてではなく、 きわめ
て強力な社会的力のひとつとしての時間という要素を見過ごしていた。 また彼らは国民性から来る異な
る要求を考慮していなかったために非現実主義的であった。
「国民性から来る物質的・道徳的要求にほぼ完全に対応するような国家構造が最善である。 …健康の
増進に優るような、 国家構造のための普遍的な処方箋は存在しない。 …国民性に影響を及ぼすような国
家構造は否定しえない真理であるが、 その反面、 永続的な国家構造はこうした性格の産物でなければな
らず、 興奮したそれゆえにはかない世論の産物であってはならないというのも少なからず真理である」
― 132 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
国家構造についての全体的議論はいずれにせよ問題からはずれていた。 存在するあらゆるものは法則
に服し、 政治的世界における法則の表明が国家構造 (憲法) である。 「憲法を欠いた国家は、 それに相
当する霊魂 (精神) を欠いた個人とまったく同じように、 抽象的概念である」。
この理由から、 憲法上の保障という手段によって自由を達成しようとする試みは矛盾していた。 メッ
テルニヒに従えば、 「権利」 は創造されえず、 既に存在していた。 権利が確認されるか否かは付随的な、
本質からすれば技術的な問題であって、 自由とは関係がなかった。 誰も、 王でさえ法に背くことはでき
ない―これは神でさえ2+2=5とすることはできないというグロティウスの古典的警句を想起させる。
従って権利を保障することはひとつの逆説であった。 それは事実の言明でありうるにすぎないものを権
力の言葉において賦与することであり、 永遠の妥当性をもつものを任意の存在によって賦与することで
あった。
「当然視されるべきことも、 任意の宣言という形態で現れる場合にはその力を失う。 …法作成の熱狂
は62年にわたって世界を荒廃させてきた悪弊のしるしである。 …自然・道徳あるいは物理の力は人間の
規制という問題には合わない。 人権と並んで引力の法則を提示する憲章について人はいかなることが言
えるのか。 …神が存在しないとすれば、 神は宣言によって創造されはしないであろう。 存在するとすれ
ば、 神は神性を獲得するために人間の認知を必要としないであろう。 …立法に従って誤って創られる目
標は結局のところ、 保障されるように試みられる当のものの完全な廃棄ではないにせよ、 その制約に終
わる。」
かくしてここにあるのは、 世界の属性としての諸権利に関する合理主義者の信念であり、 権力と責任
の不可分性に関する貴族のビジョンであり、 秩序と自由の結合への啓蒙思潮の信仰であった。 それは人
間のあらゆる解釈を超越する 「権利」 の存在を主張するが、 実際には人間の解釈だけが権利の価値を減
少させうるにすぎない。 その一方でそれは民主主義理論の根本的矛盾を強調していた。 人間の自治能力
に基づく人間性の見解は、 それと同じ理論のなかでこの自治の範囲を限定する人間性の別の見解と結び
付けられていた。 人が恣意的な圧政を自覚しているとすれば、 なぜ彼は他者の抑圧に駆られるのか。 普
遍的な権利が保障されるべきであるのはなぜか。 もちろんこのことは、 国家と社会の関係が倫理的基盤
ではなく法律的基盤をもってきたアングロ−サクソン国家では決して問題とはなってこなかった。 その
ような場合、 憲法上の保証は統治への制約と理解されるあらゆる事例で、 統治への明示的な制約と暗示
的な制約との相違の評価基準をもってきた。 しかし 「倫理的国家」 では統治への明示的な制約は無意味
である。 国家がその効用ではなく道義性によって自らを正当化するとすれば、 その道義性の規準を訴え
る法廷は存在しない。 制裁が法的ではなく倫理的であるとすれば、 制約は憲法上の保証によってではな
く、 自制的保証によって生じうるにすぎない。
これが自由主義的敵対者に対する保守主義的政治家の異議申し立てであった。 保守主義者が権威の性
質規定を強いられることによって不本意ながら革命期のシンボルとなったとすれば、 自由主義者の自己
矛盾は自由を憲法上の保証と同一視したことであった。 確かに、 メッテルニヒは自由の性質に関する問
いへの彼自らの解答をもってはいなかった。 というのも、 彼は権威の観念と自由は不可分であると考え
ていたからである。 しかし同じように彼の敵対者も、 自由の規定のなかで議論し尽くされたと考えてい
た権威の問題を真に処理してはいなかった。 彼らは彼らが認識していたお互いの距離よりももっと接近
していた。 というのは、 人が権威の限界に関してメッテルニヒに問うたこと、 また、 自由の限界に関し
て彼の敵対者に問うたことにたいして、 両者とも自らにとってその問題は本質的に無意味であることを
示すひとつの言葉で答えたであろう。 すなわち概念そのもののなかに適用可能性を含む理性・自明およ
び主権は、 必然性の境界と同様に自由の境界を突き止めるであろう。 定言命法 the categorical
― 133 ―
imperative が偶然的解釈を受け入れるということはカントにとってはありえなかった。 主権者は法の
代わりに実力を行使すべきであるということはメッテルニヒにとってはありえないことではなかったが、
彼はそれを自殺行為、 従ってありそうにないことと見なした。 メッテルニヒと自由主義者の論争に、 少
なくとも 「民主主義」 側からすれば内乱の苦々しさを与えたのはこのためである。 というのは、 メッテ
ルニヒは普遍性―それはそれ自体のために主張された―そのものの名において自由主義と闘う相手であっ
て、 彼の議論様式は、 敵対者の存在が彼への異議申し立ての様式を代表していたのとちょうど同じよう
に、 彼の敵対者への異議申し立ての様式を代表していた。 事実、 合理主義の哲学が、 同じ前提から二つ
のまったく対立する結論に至りうるという例証に耐えて生き残ることは困難である。
Ⅲ
メッテルニヒが形式的な国家構造の探求を現実離れしていると見なしたとすれば、 彼は革命のなかに
物理的災厄を見た。 保守の勢力と破壊の勢力との均衡によって特徴付けられる世界では、 革命の原因は
後者を利する均衡のかく乱であった。 しかし均衡は 「自然」 状態であったから、 革命が達成しうるのは
ただ、 新たな統合へ向けた強引な配置転換にすぎなかった。 従って革命に付随する無秩序はひとつの移
行期のしるしであり、 革命の暴力はその支持者の無知の反映であった。 「革命は国家生活の一時的かく
乱である。 …秩序は常にそれ自らを再生することで完結する。 国家は個人と同じように死ぬのではなく、
自らを変容させる。 政治家たるものの責務は…この変容を指導し、 その方向を指揮することである」。
保守的秩序と革命的秩序の相違は変化の事実ではなく変化の様式であった。
「自由主義の精神が通常無視しているひとつの考察…は、 個人の生活でも国家の生活でも、 規則正し
い段階を踏む進歩と跳躍による進歩との相違である。 前者では状況は自然法の結果をともないながら進
展する。 それに対して後者はこの結合を妨げる。 自然は発展であり、 状況の秩序だった継承である。 そ
のような経路だけが悪を排除し、 善を促進することができる。 しかし跳躍による移行は最後にはまった
く新たな創造物の要求で終わる―無からの創造は人間に課せられたことではない」。
かくして文明は変化が 「自然に」 生じうる程度であり、 破壊の勢力と保守の勢力との緊張関係が自発
的な義務のパターンに埋め込まれる程度であった。 従って真の文明は、 権威を不可侵とし、 服従を神聖
なものとし、 自己犠牲を神授としたキリスト教の出現によってのみ生じた―これが合理主義者の機能的
宗教解釈である。
権威の性質についてのメッテルニヒの宣告が自明の理であり―保守主義者はそれを当然視しているか
ら―、 また、 自由の意味についてのそれが貧弱である―彼はその問題を無益であると見なしたから―こ
とは、 保守主義のジレンマの表明である。 しかし革命の性質に関する彼の分析は明晰で強力である。 ド
イツとイタリアの革命を敗北させるために計画された一連の会議の手はずを整えていた最中の1820年、
メッテルニヒは 「信仰の告白」 を書いたが、 これは革命の性質に関する分析を歴史哲学と組み合わせた
ものであった。 メッテルニヒの主張によれば、 16世紀まで保守の勢力と破壊の勢力はますます自然な均
衡のなかにあった。 しかしその後、 次第に文明が暴力に取って代わられ、 秩序が混乱に取って代わられ
る原因となった三つの事象が生じた。 それは印刷術の発明・火薬の発展およびアメリカの発見である。
印刷術の発明は観念の交換を促したが、 そのことによって観念は通俗化されることになった。 火薬の発
明は攻撃兵器と防御兵器の均衡を変化させた。 そしてアメリカの発見は状況を物的にも心理的にも変容
させた。 貴重な金属の流入によって、 それは保守的秩序の基盤である土地所有権 landed property の
価値を急激に変化させた。 急速な運命の期待によって、 それは冒険の精神と既存の状態への不満をもた
― 134 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
らした。 そしてその後の宗教改革は道徳の世界を覆すことによって、 また歴史の諸勢力の及ばない高み
に人間を昇格させることによって、 この過程を完成した。
こうした過程すべてが革命の時代を象徴するようなタイプの個人を生み出した。 それは外見上の完成
に向けた人間精神のあまりにも急速な行進の当然の産物である横柄な人間である。
「宗教・道徳・立法・経済・政治・行政と、 すべてが共通の善となり、 万人に身近となったように見
える。 科学は直観のように見え、 経験は横柄な人間にとっては何の価値もない。 信仰は彼にとっては何
ものも意味せず、 彼はそれに代えて見せかけだけの個人的確信を用いるが、 しかしながら彼はそこに到
達するための分析あるいは研究を省略してしまう。 これらのことは、 争点の総体を一挙に悟ることがで
きると信じている精神にとっては、 あまりに副次的に見えるからである。 法は彼にとって何の価値もも
たない。 彼は法の準備作業に貢献しなかったからである。 無知で野蛮な世代によって跡付けられた境界
を承認することは高貴な人間の尊厳にもとる。 力は彼自身に属している。 洞察力に…恵まれない人々だ
けが使用権をもちうるようなものになぜ服するのか。 知力に劣る時代に相応しいことは、 理性の時代に
はもはや十分ではない。 …[これらのことすべては]社会を構成する要素すべてを個人化するような物事
の秩序に向かう…」
革命の性質に関するもっと悲劇的なあるいは象徴的な言明を見出すことは難しいであろう。 その重要
性は内容にではなく、 それが問題外であるという事実にあるからである。 あざけりとして意図されたも
の―見せかけと現実は同一尺度で比較できないということの開示―は、 もはや彼の敵対者の目標の記述
と同じではなくなる。 メッテルニヒが不条理に還元することを示す必要があったと信じていたとすれば、
彼の敵対者は正当性が確認されるようにするためにひとつの確言を要求しているにすぎないと考えてい
た。 「真理」 は自明ではないかもしれないということは革命の不可避的な誤解であって、 認めがたかっ
た。 メッテルニヒが敵に対して 「現実」 を必死に擁護しようと試みた一方で、 争点はますます現実の性
質および 「真理」 の性質についての討論となった。 「現実」 は依然として明確であることは証明済みで
あるとすれば、 彼はそれを確言する必要はなかったであろう。 現実について断言すればするほど、 彼は
現実の理解の分裂を立証していた。
次にメッテルニヒは横柄な人間をタイプと起源によって区別した。 彼らは水平派と理論派から構成さ
れていた。 前者は強固な意志と強い決意の人々であり、 後者は独自の世界に生きる理論派である。 しか
し表向きの横柄さの装いがいかなるものであれ、 その出所は中産階級であった。 革命的貴族は革命の犠
牲となるように運命付けられているか、 あるいは劣った者へのへつらいの役割を演じるよう強いられる
ことによって品格を落とすように運命付けられている世捨て人であった。 そして人口の大半は常に変化
を信じず、 自らの厳然たる天職を追究するために法の平等な保護を要求したにすぎなかった。 しかし中
産階級―法律家・著述家・官僚・生半可な教育を受けた者・コミュニケーションの諸手段をもっていて
野心的であるが目標を欠き、 不満をもっているが選択肢を提示できない者―、 これこそ革命の真の器官
であった。 革命が最貧国ではなくヨーロッパで最も豊かな国で生じ、 最も遅れた国ではなく最も進んだ
国で生じたのは偶然ではないとメッテルニヒは結論を下し、 「革命は、 人民大衆のなかでそれ自体が準
備され始める以前に、 王宮で、 街の化粧室で既に勝利を収めていた」 というほど風紀を乱した。
革命は、 政府の弱さがなかったら、 また、 その文字通りの適用は破滅にいたると証明された神話―イ
ギリス的諸制度を大陸に移植する試み―を処理する時間がなかったら成功しなかったであろう。
信仰
の告白 と併行して、 晩年にメッテルニヒは 「現今のヨーロッパを特徴付けている凄まじい混乱の原因
のひとつはヨーロッパ大陸へのイギリス的諸制度の移植であるが、 それらの適用は不毛となるか歪めら
れるかのどちらかであるために、 大陸ではそれらの制度は既存の状況と完全に矛盾する。 いわゆる イ
― 135 ―
ギリス学派はフランス革命の原因であり、 この革命の帰結であり、 だからこそ反イギリス的傾向が今
日ヨーロッパを席巻している。 自由と秩序の概念はイギリス的精神のなかではまったく不可分であるの
で、 最後の厩務員は彼の自由を説くことによって出現するような改革者に直面して笑うであろう。 …こ
れはイギリス人が実体に関心を抱いているのみで、 決して形態に関心を抱かないからである」 と述べて
いる。 フランスの革命戦争はこれらの原則をヨーロッパ中に拡大し、 ボナパルトの憎しみだけが、 主に
誤解を通じてそれらの原則の破滅的インパクトを束の間遅らせた。 というのは、 ナポレオンに対して諸
国王によって遂行された戦争は、 フランス革命の約束の実現を勝ち取るという希望を抱いてある部分自
らの主人に対して人民によって行われた戦争であったからである。 1814年に取り決められた賢明な和平
は、 平穏の時期の幕開けとなったが、 エルバ島からのナポレオンの帰還は14年間の彼の覇権を100日間
だけ元に戻した。 フランス革命を解き放すことによって、 彼はヨーロッパを果てしなき社会的紛争にさ
らした。
Ⅳ
これはヨーロッパ中に荒れ狂う不安の原因に関する強力な分析であった。 しかしこの分析の力は同時
に毒でもあった。 というのは、 もし革命の精神がそれほど拡散したとすれば、 それはどのように展開さ
れえたのか。 革命の原因が、 深く歴史を遡るほど根源的なものであったとすれば、 何か可能な救済策が
存在しえたのか。 中産階級がそれほど有力であったとすれば、 それはどのように処理されえたのか。 漸
次的な統合によって、 寛容および適応の必要性を学習することによって、 とバークならば答えたかもし
れない。 カッスルレーでさえルイ18世にたいして、 革命家は 「公職に就いて畏敬の念を抱かれることが
ほとんどなく惨敗し、 他の素材を組み合わせました。 専制君主は鼻持ちならない性格を抱かせるかもし
れませんが、 立憲君主が自らを制約するためにもつ唯一の手段は自らを雇用することであります」 と進
言することができた。 しかし合理主義的保守主義者であるメッテルニヒにとって、 この解決策は危険な
ごまかしであった。 啓蒙思潮の産物にたいしては、 政治問題は論理的二律背反の正確さを前提としなけ
ればならず、 従って彼はそれらの問題をまるく収める代わりにその相違を際立たせた。 破壊の諸勢力が
猛威を振るうとすれば、 秩序の諸勢力を強化することが保守主義者の責務であった。 革命の叫びが普遍
的であるならば、 権威の名においてそれに抵抗することがなおさら必要であった。
このようにして、 自由=秩序への自発的服従という等式は、 実際には不毛性の規定・例外なき公準・
無作為の正当化となった。 結果的に、 メッテルニヒは飽くことなく民衆の叫びにたいする譲歩を資本の
浪費になぞらえた。 従って基本的公準は 「撹拌した熱情の只中では人は改革を考えられない。 そのよう
な状況のもとでは知恵は自らを維持することに限定する」。 変化は圧力にさらされる可能性を象徴して
いるので、 それはあらゆる変化への厳格な反対である。 「あらゆるものが動揺しつつあるところでは、
何であれ何かが確固としたまま残ることがとりわけ必要であるが、 それは迷い人が縁故者を見出すこと
ができ、 正道を踏み外した人が避難所を発見できるようにするためである」。 このことが、 ブルボン王
朝―その正統性にもかかわらず―にたいするナポレオンの選択を説明する。 メッテルニヒにとって正統
性は目的ではなく道具であり、 従って正統性は、 安定の要求と争ったとき、 敗れざるをえなかった。 ゆ
えに逆説的にメッテルニヒは、 既存の諸制度―いかに彼がそれらの制度を嘆かわしく思っていたとして
も―の擁護者となった。 それらの制度の破壊はより危険でさえある象徴でありうるからである。 1820年
のパニックのなかで、 バーデンの大公が彼の憲法を廃止すると申し出たとき、 メッテルニヒは次のよう
に応えた。 「合法的に確立されたあらゆる秩序はそれ自らの内部により良いシステムを保持しています。
― 136 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
…憲章はいずれにせよ憲法ではありません。 善と悪を区別し、 公的権威を強化し、 敵の攻撃に対して国
民の安全と幸福を擁護することは政府の責任です」。
革命期の只中で秩序を通じて変化をもたらし、 秩序を平穏と同一視するためのこのような努力は見込
みのない戦いであり、 自滅へと導く離れ業であった。 逆に言えばその主張にもかかわらず、 それはまさ
に、 失われた潔白を取り戻すための努力であり、 法的義務が自発的に果たされるような時期への要求で
あり、 道徳的義務の互恵的遂行という貴族主義的な統治概念であった。 「メッテルニヒ体制」 は革命の
原因の問題に答えたが、 ひとたび革命が勃発したときの解決策を決して示さなかった。 それは抽象的に
改革への備えについて語ったが、 適切と見なされる特殊な規準を決して議論しなかった。 1851年になっ
ても、 メッテルニヒは当時の宰相であったシュヴァルツェンベルク Schwarzenberg にたいして、 まる
で中産階級を粉砕しうるかのように、 地主貴族政を強化すること以上の進言を与えることはできなかっ
た。 革命は常に統治の誤りであり、 行動だけが保守しうるという主張は例外を認めなかった。 しかし実
際には、 それは悪循環に陥った。 というのは、 メッテルニヒは原則として改革に反対ではなかったもの
の、 彼が望んだのは秩序の放射としての改革であったのに対して、 彼の敵対者はそれと同じことを変化
の名のもとに望んでいたからである。 その結果は手詰まりであり、 実質に対する形態の勝利であった。
かくしてメッテルニヒの探求は一瞬の静穏への、 ひと時とはいえ生の流れの瞬間的停止への果てしな
き探求となった。 おそらく不可避的に生じたものは、 意志と不確定性の主張に代えて、 ある普遍的な原
則としてたち現れうる。 それはあたかも電子の位置と速度をともに正確に測定できない物理学者が、 一
秒だけでも電子を静止させることに自らの精力のすべてを傾けるかのようであった。 これは彼に永遠へ
の道程を導くことができるかもしれないからである。 あるいは、 方向転換するにはあまりにも狭い急峻
な山道を知らない方向に下っていく制御できない車のドライバーのようであった。 彼はハンドルを捕ら
れない限り、 その山を下らなければならないが、 しかしそれは意志を表しているのであって機会を表し
ているのではない。 結局メッテルニヒの洞察は、 いかに強力であろうとも、 ますます教条的となった。
過去を決してもってこなかった人々は将来をもちえないと主張する点では彼は正しかったかもしれない
が、 過去をもってきた人々はそれを将来に捜し求めることによって自分自身を運命付けるかもしれない
と付け加えなければならない。
そしてこれらすべての不明瞭さのなかでもなお崇高の要素があった。 メッテルニヒは可能な展開につ
いて何ら幻想を抱いてはいなかった。 彼はもろもろの展開の不可避的帰結を改善するという点に自らの
責務を見ていた。
「既存の社会は衰退の途上にある。 これまでと同じ位置にあるものは何もない。 …社会はその天頂に
到達した。 そのような状況では進展は下降を意味する。 …そのような時期は同時代の人々に際限なく現
れるが、 しかし歴史の年代記のなかで200年、 300年とは何なのか。 …わたしの生涯は恐るべき時期には
まった。 わたしはあまりにも早く生まれたか、 あまりにも遅く生まれたかのいずれかである。 …早く生
まれたのなら、 わたしは人生を楽しく過ごしたであろう。 遅く生まれたのなら、 わたしは再建に助力し
たであろう。 いまわたしは朽ちつつある建物の補強に時間をつぎ込んでいる」。
彼が革命と闘ったのは、 それが不可能であるためではなく、 「不自然」 であるためであった。 そして
彼が民主主義と闘ったのは 「権威は永久という力の表明である。 [議会政治]では力は束の間の局面で現
れる。 …わたしは小心者が自らを力の表明として考えがちであることを理解しているが、 疑いなくそれ
と同様に、 すべての権威への敵は権威を個人的観点に還元して理解しがちである。 権威はそれを排除す
る敵の努力を促進するであろうからである…」 との考えからであった。 彼は秩序を均衡の表明と見なし、
均衡を世界の構造の反映と見なしたので、 諸国家の 「基本的利益」 は最後に再び現れることを確信して
― 137 ―
いた。 しかし彼の予言によれば、 革命家は自らがもたらしつつある世界そのものによって脅威にさらさ
れることになる。 混乱が大きければ大きいほど、 それだけ混沌という政治的空白期間はより暴力的とな
る。 専制政治はメッテルニヒにとっては保証された権利の欠如ではなく、 普遍的公準を欠いた統治であっ
た。 暴政は革命の原因ではなくそのありそうな帰結であった。 そして破壊の諸勢力が社会秩序の掘り崩
しに成功すればするほど、 権威―社会の不可避的な表現―はそれだけ任意性に関する保守主義者のビジョ
ンである個人のあるべき姿を前提とせざるをえないであろう。 メッテルニヒは彼の政治的遺言のなかで
書いている。 「自由という語はわたしにとっては決して出発地点の性格をもつものではなく、 目標地点
の性格をもっていた。 出発地点は秩序であり、 それだけが自由を生み出すことができる。 秩序がなけれ
ば、 自由への訴えは特別な目的のためのある特殊な集団の要求に他ならず、 現実には常に専制にいたる
であろう。 わたしは秩序側の人間であるので、 私の努力は偽りではない真の自由の達成に向けられてい
た。 …わたしは常にある種の専制政治を脆弱さのしるしと見なしてきた。 それが出現するところでは、
それは自らを非とする。 最も耐え難くは、 専制は自由の大義の促進という仮面の背後で出現する」。
こうしてメッテルニヒは意志の排他的妥当性の主張を超越する必要から、 また力の主張を制限する要
請から保守主義的異議申し立てを行った。 それは神の位置に理性を置いた 「なんじをしてなさしめよ」
Thy will be doneという、 謙譲に関する古典的な神学の再規定であった。 それは政治の最も根本的
な問題―邪悪さの制御ではなく正しさの制限―に取り組む努力であった。 邪悪なものを 「罰する」 こと
は、 公共の道徳性の単なる表現であるから、 比較的容易なことである。 正しい力の行使を制約すること
はもっと難しい。 その主張によれば正しさは時空間に存在するからであり、 意志の働きはいかに高尚で
あれ、 その意志を超越する諸勢力によって制限されるからであり、 克己の達成は社会秩序の究極的な挑
戦であるからである。 メッテルニヒは、 いかなる方向での過多も社会を分裂させると主張することによっ
てこの問題に取り組んだ。 個人の意志は偶発的であった。 人間は、 社会とその歴史的表現である国家と
いう自身を超越する諸勢力のひとつの局面であったからである。 そして社会と国家は正義と秩序への人
間の基礎的要請を反映しているために、 人間自身と同様に確かに自然の産物であった。 それらは 「自然」
であったから、 諸国家は人類とまさに同じように生活環 life cycle をもっているが、 ただ諸国家は人間
に究極的慰めを与える能力がないだけである。 すなわちそれらは死ぬことができず、 それらすべての罪
の代価を支払わなければならなかった。
従って、 この保守主義政治家の最後の行為は象徴的な性質をもつ行為、 すなわち彼の公準をそれだけ
が正当化しうる匿名への祈りであった。 1848年、 勝ち誇った革命のある代表者が 「寛大にも」 彼の辞任
を要求した際、 老メッテルニヒは答えた。 「わたしはこの申し出に対して厳粛に抵抗する。 寛大であり
うるのは主権者だけである。 わたしの行為は正しさに関するわたしの感覚と義務に関するわたしの概念
の帰結である」。 かくして 「諸革命の博士」 の最後の意思表示は、 秩序に関する、 また、 半世紀におよ
ぶ闘争後の敗北においてもなお意志に対する正しさの優位に関する最後の絶望的な主張であった。 そし
て代表者のひとりが 「寛大」 という語の使用を主張したとき、 メッテルニヒは答えた。 「辞任するにあ
たり、 わたしはもうひとつの要求の機先を制しておく。 わたしはわたしとともに君主政を持ち去る。 し
かしこれが問題なのではない。 いかなる個人も一個の帝国を運ぶに十分なほど強靭な肩をもっていない。
諸国家が消滅するとすれば、 それは自らの信仰を失うからである」。 これはメッテルニヒの個人的悲劇
であった。 歴史は論理を説明することはできるが、 それを証明することはできず、 歴史は確かにその教
訓を与えるが、 単一の生涯でそうするのではない。 そしてそれはまた保守主義者のジレンマ―革命を敗
北させることではなく、 その機先を制することが保守主義者の責務であるということ、 社会は革命を予
防することはできず、 革命という事実によって例証されてきた社会の価値の分裂は保守主義的手段によっ
― 138 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
て克服することはできないということ、 ひとたび閉ざされた秩序は混沌の経験によってのみ回復されう
るということ―の最後の象徴化でもあった。
5. J. ミューラーによる全体的概論
J. Z. Muller, Conservatism : Historical Aspects.in International Encyclopedia of the Social
and Behavioral Sciences, Vol. 4, 2001, pp. 2624-28.
J・Z・ミューラー 「保守主義:歴史的局面」
1. 問題へのアプローチ
保守主義を規定するための直観的手続きは、 保守主義者が保守することを求めてきた諸制度を列挙す
ることから始まる。 それはわれわれにとって縁遠いものではない。 というのは、 保守主義者はさまざま
な時と場所で、 広範な社会的・政治的・経済的諸制度を擁護してきたからである。
保守主義の研究は現代の社会科学にとっては困難であると証明されている。 自由主義・社会主義・共
産主義あるいはファシズムといった過去二世紀の偉大なイデオロギー現象と比較すると、 保守主義とい
う主題は学問的に解明されていない。 ひとつの理由は、 保守主義についての有意義な一般化に到達しに
くいためであるが、 保守主義は、 社会主義あるいは自由主義がその範囲において普遍的であろうと欲す
るのにたいして、 国境を横断するような明らかな統一性に欠けており、 国家ごとに特定されている傾向
にある。 さらに、 保守主義は特定の過去との制度的・象徴的継続性を強調するので、 その象徴および制
度的理念は特殊な、 通常国家的な文脈により多く結び付けられる傾向にある。 これらの理由すべてのた
めに、 ある特定の国家的文脈を超えるような保守主義研究は稀である。 結果として、 保守主義の諸概念
は偏狭である傾向にあった。
この争点にたいする最初期の社会科学的アプローチのひとつは、 「保守主義的思考」 (1927年) のなか
で、 ハンガリー系ドイツ人の社会学者カール・マンハイム Karl Mannheim によって定式化された。
彼は、 伝統主義と保守主義との重要な区別を導入したが、 前者は、 物事をそれらが伝統的になされてき
たように行う普遍的に近い心理学的性質であり、 後者は相互に関連する政治的観念の連結したセットで
あり、 一個のイデオロギーである。 マンハイムは、 啓蒙・資本主義の近代化およびブルジョア階級と結
び付けられる新しいダイナミックな歴史過程に反応して思考していた。 知識社会学の開拓者のひとりで
あるマンハイムの主張によれば、 保守主義的思考は階級的立場、 おおまかに中世の貴族階級と相互連関
するひとつの世界観と連携していた。 彼の主張によれば、 各イデオロギーの基礎的カテゴリーは、 世界
の経験およびそれを発展させた階級の自己利益によって無意識的に決定された。 保守主義の場合、 自由
主義と啓蒙の普遍主義的・合理主義的理論に対立するものとしての経験と具体的なものに焦点が当てら
れた。 保守主義者は、 社会を再編するための、 ラディカルな改革の支持者によって提起される合理主義
的構想の批判を展開し、 また、 現に存在している社会の歴史的特殊性および社会の諸制度の相互連結性
を解明することに焦点を絞った。
保守主義に関する以後の社会科学的分析は、 マンハイムの階級的視点に従わない場合でさえ、 保守主
義の反応的性質、 すなわち、 それは既存の諸制度―その利益を擁護するために保守主義的議論が展開す
る―に対する (知的・政治的あるいは文化的) 挑戦に反応して生ずるという事実を強調してきた。 この
― 139 ―
問 題 に 関 す る 最 も 鋭 敏 な 学 問 的 分 析 の ひ と つ の な か で 、 サ ミ ュ エ ル ・ ハ ン チ ン ト ン Samuel
Huntington (1957) は、 保守主義か最も良く理解されるのは、 特定の階級・制度を擁護する固有の理
論としてではなく、 立場を示すひとつのイデオロギーとしてであると論じた。 「社会の基礎が脅かされ
る場合、 保守主義のイデオロギーは人々に一定の制度の必然性および既存の諸制度の望ましさを想起さ
せる」 と彼は示唆した。 彼の主張によれば、 「保守主義の表出はある特殊な社会状況への反応である」
から 「…一定の時と場所での保守主義の表明は他の時と場所での保守主義の表明とはほとんど関連性を
もっていない」。
保守主義の反応的性質は、 この主題に関するきわめて優れた歴史的研究のひとつであるエプシュタイ
ン Klaus Epstein の
ドイツ保守主義の起源
(1966年) の前提であり、 この研究は政治的・知的文脈
に綿密な注意を払い、 保守主義が、 啓蒙・産業資本主義およびブルジョア自由主義への反応として、 ド
イツ語圏のヨーロッパにおいてどのように生じたかを例証している。 反応的アプローチを一歩進めて、
グライフェンハーゲン Martin Greiffenhagen (1971年) が示唆するには、 自覚的な保守主義は、 それ
によって価値付けられる諸制度がいったん影響力を失った場合に生ずるに過ぎないから、 保守主義思想
は現状の維持を求めているのではなく、 現在を批判する基準となる過去に関する想像力によって美化
(理想化) された概念を用いる。 グライフェンハーゲンに従えば、 過去の美化は保守主義固有の繰り返
し現れる要素のひとつである。
二人の思想家によって第二次大戦直後の時期に保守主義の非反応的概念が提示された。
精神
保守主義的
(1953年) のなかで、 アメリカの保守主義学者カーク Russell Kirk は、 超越的秩序における宗
教と 「信仰」 に基づく、 また、 良心と同様に社会を規律する一連の自然法に基づく保守主義の概念―保
守主義を宗教的正統に同化し、 分析上のツールとしてはあまり使われなかった概念―を提起した。 カー
ク の 概 念 は 、 同 時 代 の 最 も 重 要 な イ ギ リ ス の 保 守 主 義 哲 学 者 で あ る オ ー ク シ ョ ッ ト Michael
Oakeshott の 「保守主義的であることについて」 (1956年に書かれ、 1962年の
政治における合理主義
その他の小論 に収められた) によって否定されたが、 このオークショットの論稿は、 保守主義を 「過
去に存在したものあるいは存在する可能性があるものよりもむしろ現に存在しているものに喜びを感じ
る…性向に」 集中した気質として描いた見事な現象学的記述であった。 オークショットは、 社会の自由
主義的・多元主義的概念を擁護しようとし、 したがって 「政治において保守主義的であろうとする気質」
がカークによって唱道された宗教的・形而上学的前提に依存していることに疑義を唱えた。
2. 定義と特性記述
保守主義をひとつの特異な社会・政治思想の様式として理解するためには、 それを、 少なくとも理念
形的に反動および正統主義と区別することが有益である。 正統主義の理論家は既存の制度と実践を擁護
するのであるが、 それはそれらの制度や実践が形而上学的に真正であるからである。 すなわち、 証明さ
れる真理は特定の啓示に、 あるいは生来宗教的であれ世俗的であれ、 すべての合理的人間にとって表向
きは近づくことが可能な自然法に基礎付けられよう。 保守主義者は既存の諸制度を擁護するが、 それは
それらの諸制度の存在そのものが一定の有益な機能を果たしているとの前提を生み出すからであり、 そ
れらの諸制度を排除することは有害な、 予期せざる結果に導く可能性があるからであり、 あるいは長年
にわたって存在してきた諸制度に付着している尊敬の念はそれらの諸制度を新たな目的にとって潜在的
に有用なものとするからである。
保守主義はまた反動と区別されうる。 保守主義者は、 保守の過程が進化させるための改革の必要性を
― 140 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
含むことを通常認識しながら、 既存の諸制度を擁護しようとする。 対照的に反動主義は既存の諸制度と
反目し、 しばしば記憶とイデオロギーによって理想化された形態で、 一定の制度的旧状 status quo
ante へ帰ることを求める。
保守主義と正統主義の混同と同様に誤解であるのは保守主義と啓蒙主義の誤った二分法である。 保守
主義を啓蒙主義の敵としてしばしば特徴付けることとは対照的に、 啓蒙主義の内部にはいくつかの流れ
があり、 それらのうちのいくつかは保守主義的であると述べることは歴史的にもっと正確である。 実際
のところ、 特異な思想様式のひとつとしての保守主義は、 啓蒙主義の産物である。 社会的・政治的議論
を正統主義と対立するものとしての保守主義的なものとするのは、 自由主義的あるいは革新主義的議論
の批判が、 理性の行使に基づく、 人間の幸福追求に関する啓蒙化された根拠に基づいて生ずるというこ
とである。
3. 保守主義思想の特質
保守主義の理論家は、 過剰に抽象的、 合理主義的で、 しかも経験から切り離されていると彼らが特徴
付けるような思想様式を、 社会と政治に適用することを繰り返し非難する。 「理性の濫用」 (バーク
1790年)、 「政治における合理主義」 (オークショット
1962年)、 あるいは 「構成主義」 (ハイエク) な
ど、 用語がいかなるものであれ、 自由主義的・急進的思想に対して繰り返される保守主義的非難は、 そ
れらの思想が、 転換を求められている現実の諸制度の複雑性と特殊性を説明できないような、 体系的・
演繹的・普遍主義的な推論形態に依存しているということである。
保守主義者にとって、 ある制度あるいは実践の歴史的存続―それが結婚であれ、 君主制であれ、 ある
いは市場であれ―は、 それが何らかの人間の要求に応えてきたという自明な事例を生み出す。 保守主義
者が 「経験」 を強調することは、 ある制度あるいは実践は人間の要求に応えることに適合した証拠であ
るという前提と結びついている。 慣行と習慣は人間行為の重要な特徴であるので、 ある実践の何らかの
有用性は、 その実践に従事した人々は既にそれに 「慣れている」 のであり、 したがって変化によって取
り乱される傾向にあるということである。
保守主義思想は概して、 個人の不完全さ、 同時に生物学的・情緒的・認知的不完全さを強調してきた。
保守主義者の典型的な主張によれば、 人間の道徳的不完全さによって、 人間は制御されない衝動に基づ
いて行為する場合には不正に行為するのであり、 主観的衝動への歯止めとしての諸制度によって課され
る制約を必要としている。 このように、 保守主義者は 「平等化 (解放)」 の試みに懐疑的である。 保守
主義者はまた、 人間の不完全さの認知的要素を強調し、 人間の認識の限界、 とりわけ社会的・政治的世
界に関する認識の限界を強調する。 社会はそれ自体を理論的に単純化するにはあまりにも複雑であり、
この事実は制度革新のあらゆる計画を抑制せざるをえないと彼らは警告する。
これらの前提によって、 保守主義的な社会・政治思想が諸制度、 すなわち、 自らの規則・規範・報酬
および制裁をともなうパターン化された社会的編制を重視することが説明される。 自由主義者が概して
諸制度によって個人に課される制約と罰則を懐疑的に見るのに対して、 保守主義者は既存の諸制度の権
威と正統性を保護する傾向にある。 というのは、 後者はそのような諸制度なしには人間社会は繁栄しえ
ないと信じているからである。 自由主義者が自発的・契約的社会関係に好意を示すのに対して、 保守主
義者は非自発的な義務と忠誠の現に継続している重要性を強調する。
保守主義と宗教的信念との間に必然的な連繋はないとはいうものの、 保守主義者は宗教の社会的効用
を承認する傾向にある。 彼らは宗教の効用を支持するいくつかの議論を展開する。 すなわちそれは国家
― 141 ―
を正当化する、 将来の報酬の希望は人間にこの世に存在していることの努力への慰めを与える、 また、
究極的な報酬と刑罰の信念によって人間は、 それらが人間に行為の誘因を与えることによって、 道徳的
に行為するように導かれる。
保守主義者は概して、 慎重な社会的行為の思いがけない有害な結果を強調する。 彼らの議論によれば、
そのような有害な結果は、 改革者が既存の実践と制度に潜む機能に気付いていないために生ずる。 改革
者は、 実践がそのなかに含まれているより大規模な社会体系の保持あるいは適用にたいして当該実践が
果たす貢献を十分認識していない。 そのような貢献は、 ひとたび当該実践の改革が予期せざる有害な結
果をもたらすと、 その機能が認識されない、 あるいは回顧的に認識されるにすぎないために、 その実践
に携わっている人々には予期されていない。
予期せざる有害な結果・潜在的な機能および機能的相互依存の概念はともに、 改革そのものに対する
反対ではないにせよ、 ラディカルなあるいは大規模な改革に反対して繰り返される議論を補強するもの
として役立つ。
保守主義的な社会・政治思想の回帰的な実質的テーマは以下のものを含んでいる。
社会のインフォーマルな、 政治を下支えする、 また受け継がれた規範と習俗に対立するものとし
ての成文憲法の効用に関する懐疑論。 保守主義者にとって、 社会の真の 「憲法」 は社会の歴史的諸
制度と実践にあり、 それらは主に慣行と習慣を通じて社会に刻み込まれている。
性格を形成し、 その熱情を制約する上での文化的生活様式と習俗の中心的役割およびそのような
生活様式を伝達する社会的諸制度の政治的重要性。
社会化の最も重要な制度としての家族の強調、 また、 保守主義者の間には家族内の男性と女性の
適切な役割をめぐって相当な多様性があるにもかかわらず、 ある程度の性別による分業は不可避で
あり望ましいという主張。
不平等の正統性および文化的・政治的・経済的エリートの必要性、 政治秩序の主要な機能として
の財産所有の安全保障。
財産の究極的保護者としての国家の重要性、 法の支配の重要性および政治的権威を維持する必要性。
4. 歴史的概観
「保守主義者」 に関連する用語は、 ボナール Louis de Bonald の助力を得てシャトーブリアン F. R.
de Chateaubriand によって1818年に創刊されたフランスの週刊誌 Le Conservateur というタイトル
の政治的主張に最初に見出される。 この雑誌はその最初の特集で 「保守主義者は宗教・国王・自由・憲
章および尊敬に値する人々を擁護する」 と宣言した。 イギリスでは、 「保守党」 という名称は、 1830年
に政治記者のクロッカー John Wilson Crocker によって、 トーリー党に初めて適用された。 ドイツで
は、 「保守主義的」 という用語は1830年代後半に使われるようになった。 すなわちそれは最初、 保守主
義者と呼ばれた人々に対する形容詞句として使われたが、 これらの人々はどんな代価を払っても既存の
諸制度を保持しようとすることを非難されたのである。 しかしこの用語は当の非難された人々によって
事実上受け入れられた。 しかし、 他の多くの歴史的展開と同じように、 保守主義の現象は政治生活にお
けるこの用語の使用に長く先立っていた。
保守主義の先駆は、 聖書の個人的解釈によって導かれた救いに予定された人すなわち霊感を受けた会
衆は政治的権威を行使する資格を与えられているという清教徒の主張への国教会の批判のなかに見出さ
れる。 ヒューム David Hume の思想は、 保守主義的な社会・政治思想の、 一貫した世俗的教義への展
― 142 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
開における分水嶺をなしている。 ヒュームは、 宗教的 「狂信」 の政治に関するこの批判を借用し拡張す
ることから始める。 それから彼は、 自然権、 および政治的義務の唯一の正統な基礎としての自発的契約
という哲学的に受け入れがたい、 また政治的に破壊的な教義の世俗的部分であると彼が理解したものに
たいする批判へと進んだ。 1757年に、 バーク Edmund Burke は同様な用語を使って、 一定の啓蒙思想
家の間に見られる 「理性の濫用」 と彼が呼んだものを攻撃した。 ヨーロッパ大陸では、 保守主義的な社
会・政治思想は啓蒙専制主義の諸政策の批判として生じた。 この批判の主要な論客のなかでも、 メーザー
Justus Mser は彼自身がドイツ啓蒙主義の一部であり、 保守主義的・コーポラティズム的色合いをも
つ改革者であった。 オランダでは、 啓蒙主義者ルツァック Jean de Luzac が、 より民主的な憲法 (国
家構造) を求める 「愛国者」 の主張に反対する政治的に保守的な議論を表明していた。 保守主義は啓蒙
主義とフランス革命への対立のなかで生じたという主張は、 バークのフランス革命批判のなかに見られ
る啓蒙主義の論争的な性格付けを反映している。 しばしば繰り返されるとはいえ、 この主張は歴史的に
見て擁護できない。 保守主義は啓蒙主義に対立して生じたのではなく、 その内部で生じた。 1789年以後
の知的保守主義の多くは、 革命以前の保守主義的分析の論調とは連続していないにせよ、 その分析戦略
とは連続している。
保守主義思想史のなかで最も影響力のある著作となったバークの
フランス革命についての省察
(1790年) を喚起したのは、 フランス革命の民主的急進主義であった。 メーストル Joseph Maistre
(1753―1821) とボナール Louis Gabriel de Bonald (1754―1840) の二人は、 フランス反革命思想の
伝統を代表する人物であった。 彼ら自らが対決すると位置づけた課題は、 バークの
省察
を動機付け
た課題とは異なっており、 したがって彼らの保守主義の性質も異なっていた。 バークの主要な課題は、
イギリス的秩序を保守することであって、 それは知的な攻撃にさらされているとはいえ、 実質的には不
変であった。 かくして彼は、 ある制度の存在は、 それが一定の人間の要求に奉仕してきた、 したがって
歴史的継続性は成員にたいするある制度の情緒的影響力を増大させるので本来的に価値がある、 という
一見自明な状況を作り出すとの歴史的・功利主義的な議論を強調することができた。 同様にバークは習
慣と慣行の重要性を強調することができた。 ボナールとメーストルが主要な著作を書くにいたる時期ま
でには、 フランス革命の諸勢力は既に、 旧体制の重要な諸制度の多くを打倒し、 あるいは変容させてい
た。 したがって、 反革命の保守主義者は、 歴史的継続性以外の理論的根拠をもたらす環境によって勢い
づいていた。 というのは、 旧体制の諸制度は革命によって崩壊していたからである。 ボナールは、 認識
論的中庸・歴史的特定説および慎重な行為の予期せぬ結果という新たな射程をもつ従前の保守主義的議
論に訴えることによって革命に対応した。
君主制・貴族制および国教会のバークによる擁護は、 18世紀末および19世紀前半のヨーロッパ保守主
義思想に刻印された。 だが、 民主的急進主義に関する同様な批判はアメリカで、 より共和制的であるが、
しかしそれにもかかわらず保守主義的であると見分けがつくような趣旨で、 初めは連邦主義者
Federalists の著作の中に、 後にはチョート Rufus Choate のようなジャクソン主義に関する保守的な
ホイッグの批判者の著作の中に現れる。 ヒュームによる政治的保守主義と商業の擁護との組み合わせは、
以後のイギリスとアメリカの保守主義の特質として残った。 対照的に、 ボナールとメーストルによるフ
ランスのカトリック系保守主義は、 理想主義的なドイツ系保守主義と同様に、 イギリス・アメリカ系ほ
ど資本主義の経済的発展を受容していない。
保守主義的な社会・政治思想の19世紀中葉以降の展開は、 実体から機能への移行を示している。 すな
わち、 特定の制度の擁護から制度全般の擁護への移行、 土地貴族の擁護からエリート全般の擁護への移
行、 国定教会の役割の強調から個人を共同体の目的に連結するうえでの文化の機能への移行、 君主の権
― 143 ―
威から国家全般の権威への移行である。 19世紀後半において、 保守主義は敵対者と制度的実態の変化を
反映した重要な転換を経験した。 産業資本主義の優位の拡大・選挙権の拡大・社会主義運動の勃興およ
び経済的により再配分的な、 また文化的により寛容な新種の自由主義はおしなべて保守主義の実質的変
容への道を開いた。 かつてヨーロッパ自由主義と結びついていた経済制度・政策の多くはいまや保守主
義者が保守しようとするものとなった。 この新種の保守主義は19世紀後半のイギリスで切り開かれ、 ス
ティーヴン John Fitzjames Stephen、 マロック W. H. Mallock およびアメリカの理論家サムナー
William Graham Sumner の著作のなかに反映されている。
どのような制度が擁護されるかについてのレトリックもまた変化した。 伝統の崇拝にはそれほど力点
が置かれなくなり、 その一方で、 現存する諸制度が歴史的発展のニーズに見合っていることを示すこと
によって、 そうした諸制度の情緒的支持を増大させることを求めるようになる。 イギリスとアメリカで
は、 コモンローと受け継がれた伝統という語は科学という語の優位の前でますます使われなくなった。
土地所有エリートの社会的効用の正当化は、 経済・政治体制におけるエリートの必要性というより全体
的な擁護に取って代わられた一方で、 国定教会の擁護は文化的エリートの擁護へと転換した。 ドイツで
もまた、 保守主義の実体は、 貴族制の擁護・固定した身分に基づく社会秩序および父権主義的君主主義
から、 国家の諸機能へと変化したが、 それは20世紀ドイツの理論家シュミット Carl Schmitt の研究に
例示されている。
保守主義と関連してはいるが、 政治的・分析的にそれとは異なる回帰的な思想的脈絡のひとつは急進
的保守主義であり、 それはその支持者が往々にしてファシズム体制に与するにいたった戦間期ヨーロッ
パでとりわけ強力な思想要素である。 急進的保守主義者は、 制度的権威および過去との継続の必要性と
いったより慣例的な保守主義の関心事項のいくつかを共有している。 しかし彼らの主張によれば、 近代
性に特徴的な過程は、 過去の徳と称されるものの復活が急進的あるいは革命的行為を要請するために、
現在のために過去の価値ある遺産を破壊したということである。 このために、 急進的保守主義者であっ
たブルック Moeller van den Bruck の信条は 「保守主義は保守するに値するものの創造を意味する」
であった。 急進的保守主義は、 個人を制約し、 それに方向性をもたらす制度の役割の強調を保守主義と
共有しているが、 しかし既存の制度がもたらすものよりもより強力な影響力を個人にたいして行使する
であろうような新たな制度の創造を求める。 既存の制度はその比較的な寛容さのために、 急進的保守主
義者によって 「衰退したもの」 と認識される。
ファシズムの敗北と不信任の後、 20世紀後半の保守主義は、 共産主義への敵対によってのみならず、
福祉国家の拡大への反感、 経済的再配分をもたらす試みおよび大規模な統治行為を通じて社会問題を解
決することに関する懐疑論によっても規定された。
保守主義の運動とイデオロギーに関する研究は社会科学者に現在も続く挑戦を提起している。 という
のは、 彼らは、 国ごとに異なり、 またしばしば国家内の宗教ごとに異なり、 さらに多様な他の趨勢 (宗
教的・ナショナリズム的) との組み合わせのなかで、 また多様なノーメンクラツーラのもとで現れる、
ダイナミックな時とともに変化する現象の分析を準備しなければならないからである。 これらの難点は―
保守主義に反感を抱く傾向にある社会科学者の多数派の政治的偏向と相まって―、 保守主義の歴史的重
要性と研究者によるその解明の程度との間に溝を作っている。 多少なりとも保守主義的な諸政党が過去
二世紀の相当期間にわたって西ヨーロッパとアメリカ政治を支配してきたということだけではなく、 保
守主義の思想家が近代思想の展開においてある指導的な役割を演じてきたということを考えると、 この
ことは遺憾である。
― 144 ―
保守主義の研究
―ハンチントン・ウォーリン・キッシンジャーの議論を中心として―
6. おわりに
キリスト教民主主義の構造的分析をここ何年か行っているが、 保守主義についての研究はこのキリス
ト教民主主義の研究を思想的に補完するものと自分では考えている。 とくに政党レベル、 現実の政治運
動レベルではこの両者はきちんと識別されていないように思われるので、 保守主義の現象形態を把握す
ることによって、 両者を識別する手掛かりとしたい。
以下、 研究室にある関連文献をいくつか挙げる。
エドマンド・バーク (中野好之訳)
エドマンド・バーク (中野好之編訳)
フランス革命についての省察
バーク政治経済論集
アンソニー・クイントン (岩重正敏訳)
信社
上下
岩波文庫
法政大学出版局
2000年
2000年
不完全性の政治学―イギリス保守主義思想の二つの伝統
東
2003年
中川八広 保守主義の哲学
PHP 研究所
2004年
Conor Cruise O
Brien, Edmund Burke, 2002.
C. C. O
Brien, The Great Melody : A Thematic Biography of Edmund Burke, 1993.
Russell Kirk, Edmund Burke : A Genius Reconsidered, 1997.
Russell Kirk, The Conservative Mind : From Burke to Eliot, 1985.
Ian Crowe ed. The Enduring Edmund Burke, 1997.
William R. Harbour, The Foundations of Conservative Thought : An Anglo-American Tradition
in Perspective, 1982.
Peter Viereck, Conservatism Revisited : The Revolt Against Ideology, 2005.
Klaus Epstein, The Genesis of German Conservatism, 1975.
― 145 ―
母と子の時間
若松賤子
忘れ形見
を読む
研究ノート
母
と
子
若松賤子
橋
の
時
忘れ形見
元
志
間
を読む
保
Ⅰ.
バーネットの著作
小公子
の翻訳者として名高い若松賤子は、 元治元年 (1864年) に会津郡若松阿
弥陀町で生まれた。 後年賤子が述べている通り、 その父は 「戊辰戦争の英雄と言われた有名な会津公の
家臣」 であり、 彼女はその幼年期を戊辰戦争の動乱の中で過ごすことになる。(1)
慶応4年 (明治元年・1868年)、 賤子僅か4歳の時、 会津城包囲の市街戦に巻き込まれ、 祖母と身重
の母と共に砲火の中を山間部へと逃げのびた。 父と祖父は藩主容保公に従って出陣していたのである。
母は戦火の中で妹宮を生み、 その後病がちとなり2年後に亡くなった。 母の死、 それに伴う一家離散が
会津藩士の追放の地、 極北の下北半島斗南への道中であったか、 それとも斗南に着いてからであったの
かは不明である。
明治3年 (1870年)、 賤子は生糸の交易商人大川甚兵衛の幼女となり、 横浜へ移住することとなった。
養父母には馴染めなかったが、 翌年入学した 「ミス・キダーの学校」 (フェリス女学院の前身) で彼女
は英文学を学び、 やがてキリスト教に入信し、 生涯変わらぬ強い信仰を持つことになる。
そして明治22年 (1889年) 7月18日に横浜海岸教会で、 賤子は厳本善治と結婚する。 厳本善治は当時
明治女学校の教頭であり、
女学雑誌
の主宰者として女権や女子教育、 女性の自立等に関して活発な
評論活動を行っていた。
本稿で取り上げる
後に 文芸倶楽部
忘れ形見
は、 翌年1月1日発行の
収録された。
に掲載されたのが初出である。
第1巻第12編臨時増刊 「閨秀小説」 号 (明治28年12月10日) に
て再録され、 また桜井村編纂の賤子の遺稿集
(2)
女学雑誌
これらのことからも当時
忘れかたみ
忘れ形見
忘れかたみ
とし
(明治36年3月1日) にも表題作として
が賤子の代表作の一つとして目されていたことが
窺える。
忘れ形見
はアデレード・アン・プロクター (Adelaide Anne Procter) の長詩 The Sailor Boy
を翻訳し、 舞台や人物を日本に移して小説化した翻案小説である。 主人公の14歳の少年が生き生きとし
た口調で、 孤児である自分の 「履歴」 を語り、 幼い 「僕」 に優しく慈愛を注いでくれた美しい子爵夫人
が、 「真の道」 に生きるようにとの遺言を残して亡くなってしまったことが、 今も昨日のことのように
思い出されるという。 実はその子爵夫人は 「僕」 の母であることが、 読者には次第に解っていく構造を
この翻案小説は持っており、 何も知らない主人公の少年のけなげさが読者の胸に迫ってくる仕掛けとなっ
ている。
小説の冒頭には端書が付いており、 賤子自身もこの小説の原詩を読んで、 一読者としてそのような感
慨を持ったことを記している。
― 147 ―
ミス、 プロクトルの The Sailor Boyと云ふ詩を読みまして、 一形ならず感じました、 どうか
其心持をと思ふて物語り振りに書綴つて見ましたが、 固より小説など云ふべきものではありません。
自らも6歳の時に母を失い、 孤児として養父母や 「ミス・キダーの学校」 (フェリス女学院の前身)
で養育された賤子が、 「ミス、 プロクトル」 の詩を読んで、 「一形ならず感じ」、 「どうか其心持を」 と思っ
たことが、 この
忘れ形見
の生まれた契機となった。
賤子が翻訳の対象として選ぶ作品の多くが、
セイラ、 クルーの話
忘れ形見
や
小公子 、
イナック、 アーデン物語
のように、 どれも 「親子の別れ」 というプロットを有していることは、 島田太
郎氏の指摘される通りであろう。
おそらくそれは、 6歳の時に死別した母への思慕、 維新後長い間生別を余儀なくされていた父へ
の思い、 更に26歳の時に長女清子をもうけてからは、 病弱な自分がいつまで子どもとともに過ごす
ことができようかという不安の気持ちを反映するものであったろう。 <中略>彼女は 「振り分けが
みの頃に母を失ひ、 養母は俗にいふ腹痛めたることなき婦人といひ、 遂に慈母が恩愛の味はひを知
らず生立候ものから、 身は人生教育の最大要素を缺きたる不幸ものに有之候」 (376号) と書いてい
るし、 344号―357号に発表された 「子供に付いて」 を始め数多くの文章において、 親子の心の通い
あうことの大切さを論じている。(3) (本文中の巻数は
女学雑誌
筆者注)
つまり The Sailor Boyを始めとする 「親と子の別れ」 をそのプロットに有する作品群の翻訳を
試みた賤子の趣意は、 自らの不幸な幼児体験や病弱な母としての感傷に留まらず、 子供の幸福な成長へ
の願い、 そのための教育の必要性へと向っている。 それは賤子の小説観にも反映されている。
忘れ形
見 において描かれているのは、 現世では短い儚い時しか共有できなかった母と子が、 子供の行く末を
案じた真摯な母の言葉によって別ち難く結ばれており、 子供はその母の言葉を胸に 「ぜひ清い勇ましい
人物にならなくつてはならない」 と固く決意している姿である。 賤子は小説に矯風上、 教育上の効用が
あると信じ、
女学雑誌
の読者である若い女性達に向けて 「多少己の学び得たる処と悟り得たる処を
理想的に小説に編んで」 送ろうとしていたのである。(4)
ゆえに本稿では、
忘れ形見
に記述された母と子の関係を読み解き、 単なる英米文学の翻訳者とし
て留まらない、 彼女の子供観・教育観について考察していこうと思う。
Ⅱ.
忘れ形見
は14歳になり、 船乗りとして最初の航海へ乗り出そうとしている 「僕」 が、 聞き手の
「あなた」 の要請によって、 自分の過去を語りだすという一人称回想体を取っている。 原詩との相違は、
舞台を当時の日本へと移し、 船乗りになろうとする 「僕」 の年齢を12歳から14歳に引き上げ、 また旧い
血統を持つ伯爵 (Earl) を旧藩主出身の子爵 (従四位様・殿様) に変え、 「僕」 を養育する森番のウォ
ルター (Walter) を徳蔵おぢと改名するなど、 当時の読者にとって受け入れやすい設定に改変してい
ることが挙げられる。 プロット上の大きな変更はないが、 たとえば地の文を意訳して会話文に改めるな
ど、 細かい相違点のどれもが読者にとってわかりやすく、 生き生きした臨場感のある文章になるよう心
掛けている。
若松賤子の翻訳が、 当時はまだめずらしかった言文一致体であり、 「一貫して日常の話し言葉に近い
― 148 ―
母と子の時間
若松賤子
忘れ形見
を読む
文体で書かれた作品」 であって、 その平明で流暢な翻訳文は坪内逍遥や森田思軒等からも賞賛されてい
る。(5) そのような賤子の翻訳は、 「あなた」 という聞き手を設定することによって自然に読者を物語の
中へと誘導し、 また 「僕」 の視点で語られる一人称体の物語であるゆえに生じる 「僕」 の死角を、 挿入
されるエピソードによって読者は理解していくという英詩の構造を正確に表現している。
つまり語られる 「僕」 は7歳という幼さに加えて、 自分の出自を知らされていないため、 「奥さま」
が行う様々な愛情表現を 「不思議な様」 に思ってしまう。 たとえば 「僕」 は 「小さい内からまぢめで静
か」 であったので、 近所の人達は 「あたりまいの子供のあどけなく可愛い処がない」 といったが、 「奥
さま」 は 「僕」 を非常に可愛がり、 「しっかり抱〆て下すつた」 り、 子爵との間に生まれた非常に可愛
らしい子供よりも 「僕」 の容貌を褒めて 「坊の其嬉しそうな目つき、 其まじめな口元、 ひとつも変へた
いところはありませんよ」 と述べる。 また 「僕」 が病気をした時 「奥さま」 は雨の中を見舞いに来てく
れたが、 熱に浮かされて母を恋しがる 「僕」 に自分がついていれば同じではないかという。 しかし 「僕」
は 「あなたも大変好きだけれども、 おんなじじやないわ、 だつておつかさんは、 そんな立派な光る物な
んぞ着てる人じやなかつたんだものを」 と答えて、 「奥さま」 をひどく泣かせてしまう。 「僕」 は驚くが、
結局 「奥さま」 は一晩中 「僕」 を 「勿躰ないほど大事に」 看病してくれたのである。
また 「奥さま」 と子爵との結婚の経緯も語られ、 まだ 「奥さま」 が 「新嫁で居らしつたころ、 一人の
緑子を形みに残して、 契合た夫が世をお去りなすった」 ので、 その美しさに心を奪われた子爵が奥方に
所望されたというのである。 そして子爵夫人の格式を授ける際に前夫の赤子との 「親子の縁」 を切らせ
てしまったのだという。 そしてその後 「奥さま」 は鬱々として楽しまぬ顔で日々を送り、 その後生まれ
た見事に可愛い若殿もろくに愛さない様子なのである。
このエピソードは二つの事柄を示している。 一つは、 「奥さま」 の最初の結婚はおそらく愛情によっ
て結ばれた結婚であり、 子爵との結婚はそうではないこと、 また 「僕」 がおそらく最初の結婚で生まれ、
二度目の結婚によって遺棄された赤子であることである。 このような解釈を裏付けるエピソードが物語
の随所に見られる。 たとえば、 徳蔵ぢいは 「僕」 を子爵の前に出したがらず、 「こはいから隠れていろ」
と何度も 「僕」 に言い聞かせる。 また 「奥さま」 自身が 「僕」 のことを、 既に亡くなって 「遠方の墓」
に埋葬された人物に似ていると語り、 彼の次のような言葉を伝えるのである。
「坊もどふぞあの通りな立派な生涯を送つて、 命を終わる時もあの様にいさぎよくなければなり
ません。 真の名誉と云ふものは、 神を信じて、 世の中に働くことにあるので、 真の安全も満足も此
外に得られるものではないと、 つねづね仰つたことを、 ご遺言として、 記臆ておいで」
ここで語られているのは、 最初の夫への強い愛情と尊敬、 そしてキリスト教的な道徳観である。 「奥
さま」 は子爵のような地位も財産も持たなかった、 最初の夫の短い生涯を立派であると賞賛し、 彼の考
えを 「僕」 に 「心を一杯籠めて」 伝えようとする。 そして彼女自身の遺言も、 この最初の夫の言葉を補
完するような形でなされるのである。
「ぼうはどふぞ無事に成人して、 此後どこへ行って、 どの様な生涯を送つても、 立派に真の道を
守つておくれ、 わたしの霊はこゝを離れて、 天の喜びに趣ても、 坊の行末によつては満足が出来な
いかも知れません、 よつくこゝを弁へるのだよ.....」
語られる 「僕」 は赤子の時に父親と死に別れ、 母とは生別を余儀なくされ、 再びめぐりあった母とも
― 149 ―
今死に別れようとしている。 まだ7歳である 「僕」 は死というものを完全には理解していないが、 「奥
さま」 のただならない様子に 「子供ながら其場の厳かな気込に感じ入て」 いる。 幼い 「僕」 に伝えられ
た二つの言葉は、 今語る 「僕」 によって再び想起され、 読者へと伝えられる。 またそのことによって、
昨日のことのように思いだされるという二つの言葉の意味づけが再び行われ、 14歳の 「僕」 の生き方を
規定していくのである。
物語の終焉に提示された 「僕」 の言葉は、 そのことを良く示している。
ですが僕はこんなに気楽に見えても、 あの様に終りまで心にかけて僕の様なものゝ行末を案じて
下すつた奥さまに対して、 是非清い勇ましい人物にならなくつてはならないと、 始終考へて居るん
です。
死に際の母の言葉は、 14歳の 「僕」 の生き方に対してもいまだに影響を与えているのである。 それは
無論 「僕」 の語る言葉を何でも楽しげに聞き、 しっかりと抱きしめ、 愛する夫、 「僕」 の父である人物
の言葉を懸命に伝えようとしていた母の姿とあいまって 「僕」 を導き、 何度でも 「真の道」 へと向わせ
ようとするのだろう。 つまり現世での母と子の時間は限られていたが、 母の死によってそれは変容した。
永遠に変わらない、 何度でも想起され、 そのたびに意味づけられて子供の生き方を支えていく永遠の時
間となったのである。
Ⅲ.
忘れ形見
に描かれている母と子の関係は、 二通りある。 一つは主人公の 「僕」 と 「奥さま」 の関
係、 もう一つは 「従四位様」 の子供と 「奥さま」 の関係である。 しかし語る 「僕」 によれば、 「奥さま」
は 「僕」 ばかりを可愛がり、 「見事に可愛い坊様」 である子爵の子供には冷淡であったという。 これは
明らかに 「僕」 が愛情によって結ばれた結婚によって生まれた子供であり、 「卑屈に流れ行く母の心に
高潔の徳を思ひ起こさせるのは、 神聖なるミッションを担ひたる可愛の幼子」、 「家庭の天使」(6) として
造形されているためであろう。 つまり母の愛や言葉が子供の生き方に影響を与えたように、 子供の存在
が不幸な再婚をした母に癒しと喜びを与えていたことが、 その臨終の際に明らかになる。
「神よ、 オヽ神よ、 日々年々の此下女の苦痛を、 哀れとみそなわし、 小児を側らに、 臨終を遂げ
させ玉ふを謝し奉つる、 いと浅からぬ御恵もて、 下女の罪と苦痛を除き、 此期におよび、 慈悲の御
使として童を、 遣し玉ひし事と、 深く信じて疑わず、 いといとかしこみ謝し奉る」
最期の時を共有するのは、 「僕」 のみであり、 そこには 「従四位様」 やその若殿の姿は見られない。
そして母の目には 「僕」 は神の 「慈悲の御使の童」 (原詩では angel) として映り、 どれほどこの子の
行く末を案じているのかを切々と訴えさせるのである。
ここで強調されているのは 「奥さま」 と 「僕」 の繋がりの深さであり、 また 「従四位様」 の子供を顧
みないということで、 それぞれの父との関係も顕になっている。 つまり前夫の子供を遺棄させることで、
自分の血統を守ろうとした子爵は逆に夫人の真の愛情を得ることができず、 その子供も同様であった。
何故なら子爵との間に生まれた子供は正に父系イデオロギーを表象し、 母の腹を 「借り物」 と見做す封
建社会における跡継ぎとしての子供であるからである。 そして対照的に 「僕」 は近代家族の象徴である
― 150 ―
母と子の時間
若松賤子
忘れ形見
を読む
「家庭の天使」 として造形され、 母に癒しと喜びをもたらす、 その愛情の対象として存在し、 二人の親
密な触れ合い、 深い心の繋がりが繰り返し記述されるのである。
このような母と子供の関係及び子供を教育する母の役割の重要性は、 明治期になって欧米の女子教育
思想の影響を受けて説かれるようになった。
女学雑誌
をその文学作品の主たる発表の場とし、 若い
女性達への啓蒙にも熱心であった賤子が二つの対照的な結婚とその子供たちを描いている
忘れ形見
をどのような気持ちで世に送り出したのかは想像に難くない。
明治期の翻訳文化について亀井俊介氏は次のように述べている。
幕末維新から文明開化期にかけて、 西洋文明の力に対応し、 またそれを学び吸収して日本に力を
獲得するためになされた翻訳の仕事は、 いわば国家の存亡を賭けた事業だった。 純粋な文学の領域
の翻訳活動はそれ以後に盛んになったというべきだが、 大衆文学的なものまでひっくるめて、 翻訳
への反応にはほとんど国民的な熱気があった。 さらに、 翻訳には必ずしも言葉を通さないで行われ
るものがあるかもしれない。 西洋のさまざまな制度、 施設、 建築や美術や音楽、 あるいは風俗習慣
といったものまでを、 理解し、 取り入れ、 日本に生かそうとする試みのことをいうのであるが、 そ
の種のことも広範に、 かなり徹底して行われた。 <後略>(7)
賤子が翻訳の対象として選んだ作品群は、 確かに 「親と子の別れ」 をそのプロットに有しているもの
が多いが、
忘れ形見
にも良く表されているように、 母と子の深い繋がり、 愛情のある結婚によって
生まれる家庭の素晴らしさ、 母の教育的役割の重要性などをそのモティーフとしている作品が多いのも
また事実である。 そして、 それは亀井氏が述べているように西欧文明の旺盛な吸収のために盛んになっ
た、 明治期の翻訳熱と不可分の関係にあるだろう。 賤子は
小公子
の翻訳・発行にあたって次のよう
な序言を付している。
母と共に野外に逍遥する幼子が、 幹の屈曲が尋常ならぬ一本の立木を指さして、
の木は小い時、 誰かに踏まれたのですねい。
かあさん、 あ
と申したとか。 考えてみますと、 見事に発育すべき
ものを遮り、 素直に生ひ立つ筈のものを屈曲する程、 無常なことは実に稀で御座います。 心なき人
こそ、 幼子を目し、 生ひ立ちて人となるまでは真に数に足らぬ無益の邪魔者の様に申しましせうが、
幼子は世に生れたる其日とは言はず、 其前父母がいついつにはと、 待設ける時分から、 はや自から
天職を備へて居りまして、 決して不完全な端た物では御座りません。(8)
このような賤子の子供観は、 明らかにキリスト教的道徳観に裏付けされたものだが、 子供の健全な成
長を心から願う気持ちに溢れている。 だがおそらく彼女が語る子供観、 また家庭像は、 現実の社会とは
かけ離れたものだったと思われる。 しかし情愛や安らぎに満ちた家庭、 そこで健全に育まれていく子供
という近代家族のありようを提示するという先進的な意義が、 彼女の思想や作品にはあったといえよう。
― 151 ―
[注]
(1) 山口玲子 とくと我を見たまえ―若松賤子の生涯― (新潮社1980年5月) 以下、 賤子の生涯についての記述は同書を参考
にしている。
The Sailor Boy
(2) 新日本古典文学大系 明治編第23巻 女性作家集 (岩波書店 2002年3月) なお 忘れ形見 本文及び の引用もすべて同書に拠る。 引用に際し、 ルビは適宜省略している。
(3) 島田太郎 「若松賤子訳 小公子 の成立」 (亀井俊介 近代日本の翻訳文化 中央公論社 1994年1月)
(4) 若松賤子 「閨秀小説家答」 ( 女学雑誌 第207号 1890年4月)
(5) 秋山勇造 明治翻訳異聞 (新読書社 2000年5月)
(6) 若松賤子 小公子 前編自序 (博文館 1897年1月)
(7) 亀井俊介 「日本の近代と翻訳」 ( 近代日本の翻訳文化 中央公論社 1994年1月)
(8) 注 (6) に同じ
― 152 ―
教養・文化研究所所員名簿
教養部
福
山
裕 (所長・運営・編集委員)
伊
藤
護
朗
稲
本
俊
輝
遠
藤
純
男
小山内
幸
治
瀬田川
昌
裕
堀
川
静
夫 (運営・編集委員)
和
田
寛
伸
庄
司
松
村
湯
川
信 (編集委員)
岳
志
崇
ランディ・ケイ・チェケッツ
渡
部
勇
佐々木
久
吾
橋
志
保 (編集委員)
元
法学部
吉
野
篤
総合研究センター
西
山
上
村
亨 (編集委員)
康
之
2007年 (平成19年) 3月1日現在
執 筆 者 紹 介
小
泉
福
岡
内
野
健
秋田経済法科大学理事長・学長
政
行
秋田経済法科大学総合研究センター客員教授
館
牧
子
秋田経済法科大学総合研究センター客員教授
口
秀
行
秋田経済法科大学総合研究センター客員教授
辰
彦
秋田栄養短期大学助教授
篤
秋田経済法科大学法学部教授
保
秋田経済法科大学教養部講師
平
吉
野
橋
元
志
(掲載順)
教養・文化論集
第2巻
第2号
2007年 (平成19年) 3月31日印刷・発行
編集・発行
秋田経済法科大学 総合研究センター 教養・文化研究所
秋田市下北手桜字守沢46 1
電 話 018 836 6592
FAX 018 836 6530
URL http://www.akeihou-u.ac.jp/~center/
印
刷
秋田活版印刷株式会社
秋田市寺内字三千刈110
電 話 018 888 3500㈹
ISSN 1881−1981
THE BULLETIN
OF
CULTURAL SCIENCES
Vol.2, No.2
March, 2007
CONTENTS
Proceedings of the First Symposium
at Akita Keizaihoka University General Research Center
Young People who will Create the Future ………………KOIZUMI Ken
FUKUOKA Masayuki
UCHIDATE Makiko
NOGUCHI Hideyuki
Article
A Study of the Acting Theory Between Katariand Drama
on Asaya Fujita
s Theatres : With Special Reference to the Kyogen
as the Modern Plays and Some Narrative Theatres ………TAIRA Tatsuhiko
Notes
An Anthology of Political Conservatism ………………………YOSHINO Atsushi
A Reading of Shizuko Wakamatsu
s Wasure-gatami
……………………HASHIMOTO Shiho
The Institute of Cultural Sciences
Akita Keizaihoka University, Akita, Japan