右近マニラ追放と死 レジメ 1.はじめに 2.禁教令に対する右近とその家族の対応 (1)全体の流れ (2)一次資料に基づく右近の最終章 はじめに (3)各資料の詳細 ①金沢を追放され、長崎に送られる 【右近加賀を追放される】 [禁教令の通達と右近とその家族等の追放の命令] [金沢を出立] 【坂本へ】金沢から10日かけて坂本に到着(2/25頃 坂本到着し約一カ月滞在) 【坂本から長崎へ】 坂本に30日留まり、その後20日かけて長崎に到着した ②長崎での祈りと徳操の約200日の日々 ③マニラ追放と右近の臨終 ○右近達はマニラに行く事になった経緯、出航前の状況など ○右近とその家族のマニラ追放 【長崎を出航】 【航海中の様子】 【マニラに到着、右近大歓迎される】 ○右近の臨終 3.右近最終章の霊性 4.右近の殉教の原因となった禁教令とは何か (1)全国的禁教令が出されるまでの経過 はじめに ①禁教令前後の主な出来事 ②禁教令が出されるまでの時代的背景 (国外状況の変化、国内状況の変化) ③加賀前田家の状況 ④有馬の迫害 ⑤宣教師の追放 (2)右近国外追放の理由 -その政治的背景- (3)宣教師1などの対応 1.はじめに [右近の死は殉教であった] ・右近の最終章は殉教です 江戸幕府の禁教令に基づく国外追放という刑の執行によってもたらされたものです 既にかなり弱っていた状態にあったなかでの過酷な追放の旅が、右近の命を奪ったのです この最期の出来事は、彼がこれまで徹底的にキリストの福音に生きた事によってもたらされたもので、彼が真の キリシタンであった事を示す証しであり、彼が希求してきたものでもあり、神が右近にこれまでの英雄的行為に報 いるために神の最高の証しをする機会を与えられたのだと思います 以前26聖人が捕縛された時、右近は自分 も捕縛され殉教の道が歩めると思い大喜びしました 殉教という形で人生の最後を迎えられたことは、右近に とって本望であったであったと思います 金沢での26年間の長い生活の中で、1587年の試練で示された殉教 の覚悟はなにも変わっておらず、むしろ全てをごく自然に、ありのままに受け入れ、神に委ねることができる心に なっていました このため、神の計らいにより、彼がこれまで希求してやまなかった永遠の命が神よって与えられ、 彼の霊魂は真っ直ぐにパライゾに招かれることになったのだと思います ・右近の霊性は、この世的な自分の欲望を棄て、神を心から信頼し、全てを委ね、キリストが示された生き方に 殉じたところにあると思います 神はこれに応え、右近に人生最後の場面で殉教という神への究極の愛を示す 機会を与えられたのです この事について、右近と共にマニラに行った霊的指導司祭モレホン神父の右近に 対する弔辞と言っていい日本殉教録の次の記述に、右近の人生最終章の霊性が凝縮されていると思います ので、それを最初に紹介します 「神はドン・ジュスト(右近)についてはただ、その信仰の熱意と常に抱いていたキリストのために死のうという 堅い決意を試練しようと希望し給うたもののごとく思われる そしてアブラハムの信仰と聖ヨブの忍耐心の如く ドン・ジュストの徳を全ての人に知らせ、現世においてはキリストの愛のために数多の侮辱・汚名・ 貧困・苦労に遭遇したけれど、栄光の死によって彼に名誉を与え給うたように思われる」 戦国時代という武力的強者の意志が貫徹する大変過酷な時代に、キリシタン武将として生きる定めを背負った 右近は、真のキリシタンであるが故に多くの試練に遭遇した 聖ヨブのように数えきれない程の嘆きを、信じられ ない程の忍耐心で耐え抜き、最後に神は右近のアブラハムのような神への全幅の信頼に応え、殉教という 機会を右近の人生の最終局面で与えられたのだと思います そのあらましは次のようなものです (禁教令) ・右近の人生の最終章で、江戸幕府は右近の「殉教」の原因となった「国外追放処分」の根拠となる、次のような 「キリシタンの信仰そのものを禁止する命令」を全国に出しました 「彼の伴天連の徒党、皆件の政令に反し、神道を嫌疑し正法を誹謗し、義を残し善を損す 刑人あるを 見れば載ち(すなわち)欣び(よろこび)、載ち奔り(はしり)、自ら拝し自ら礼し、これを以て宗の本懐となす 邪法に非ずして何ぞや 実に仏敵神敵なり 急で禁ぜずば、後世必ず国家の患あらん・・(異国日記原漢文) この禁令は、慶長18年12月22日禅僧崇伝が、家康の命を受けて起草し、23日(1614年2月1日)、将軍 秀忠に献上され、秀忠の朱印を捺して、日本全国に公布されたもので、1873年(明治6年)禁令がとかれる まで約260年もの長きにわたってその効力を維持されたのです この禁令により、キリスト教の信仰自身が禁じ られ、宣教師等の国外追放、教会等の破壊が行われ、キリシタに対する苛烈な迫害が長きにわたって行われ た結果、数多くの殉教者(名前わかる人:約5500人 わからない人を含めると約2万人と言われる)を出しました (右近の追放) ・この禁令は1614年2月のはじめに、右近がいた加賀の前田家にも届きます 金沢にいた宣教師が先に追放 され、その後前田家領内に棄教命令が下され、右近達も表面だけの棄教を勧められるがきっぱりと断ります これまで右近と家族は様々の試練を神に全てを委ね受け入れて来たように、今回も当然の如く受け入れた のです 右近と妻は年老いており、身体も弱っていたし、国外追放は死をもたらすことは十分予想されたし、 また亡き長男夫婦が残した幼い孫達もいたし、娘の嫁ぎ先きの家庭の状況を考えれば、できうれば、残された 日々を穏やかに過ごしたかったかもしれない しかし、右近はそのような穏やかな道を選択しなかった 右近は永遠の命の世界を信じ、家族とともに、最期の最後まで神の僕として忠実に生きる道を当然の事として ごく普通に選択したのです これはこれまでの信仰生活自体からごく自然に導き出されたものです ・右近と家族は、1614年、厳寒の2月15日、僅か一日の猶予しか与えられないなか、慌ただしく金沢を出立しま す 都では迫害が行われ右近達には最悪の刑の執行もされるかもしれないという緊迫した状況の中、近江坂本 に約一カ月留め置かれます その後大坂から海路長崎に連行されます 右近は「私は金沢を出発してから長崎 を出るまで、生命の危機を感じなかった日は2日となかった」という程の過酷な追放の旅でした (長崎での心霊修行) ・長崎では多くの国外追放者が集合し、何時刑が執行されてもおかしくないという緊迫感が漂い、祈りと苦行の内 にこの試練を受け入れようと、街中が騒然とするなか、右近は1614年11月8日長崎を出航するまで、諸聖人教会 に引きこもり、約200日間を祈りと徳操で過ごし(1615年年報、コリン右近伝)、人生の最終章に備えたのです 心霊修行と総告解を行った右近の姿は修道士のようであったと当時の宣教師は記しています これまで右近は人生の重要な岐路に立たされた時に深い祈りを行い、試練を受入れ、乗り越えてきた 今回も神 は右近にこの機会を与えられた この長崎の祈りは、これからの危険な航海や経験したことのない異国での困難 な生活で家族と共に命を落とすかもしれないという精神的に極めて厳しい状況下で行われたもので、死を覚悟 した心霊修行であった 恐らく、右近は主のゲッセマネの祈りの姿を思い起こし、覚悟を新たにし、祈りの中で、 彼の心は深山の清流のごとく清明となり、神と完全に一致し、全てを神委ねる心境に達したであろう (フィリッピンのマニラで帰天) その後右近達を乗せた船は1615年11月8日長崎を出港し、約一カ月の命を削る過酷な航海を経てスペインの 支配下にあったマニラに到着する 右近はマニラ到着後大歓迎を受け、数日間は元気であったが、まもなく、 過酷な追放の旅が原因で死に至る熱病に罹り、マニラ到着後40日程経った1615年2月3日から4日にかけての 真夜中、家族に見守られながら、最期まで主を讃美し、次の世代に信仰を託し、祈りのうちに帰天した 多くの人 が彼の死を悼み、マニラでの葬儀は、右近を国賓並みの待遇で歓迎したマニラの総督が右近の霊性を讃え 、君候並みの盛大な葬儀を主催した それはこれまでの福音に生きた右近の霊性を称賛するもので、“聖人に 値する”[1614年年報]、“キリストの殉教者”[コリン]としての葬儀であった 金沢を出立してから帰天するまでの 353日は、まさに国外追放という刑の執行を祈りと徳操で耐えた殉教の日々であり、このような彼の死は、彼が 真の祈りの人であり、深い祈りのなかで、心の浄化・照明のうちに神と一致した結果、神よって祝福され、もたら されたものであった (何時も家族とともにあった信仰) ・そしてこの右近の死-殉教をもたらした国外追放の旅は、これまで彼の信仰が何時も家族とともにあったよう に、彼の家族と共になされたことです 彼の妻と娘、そしてなんと既に両親を失くしていた孫5人(長男の子)まで もが、右近と共にマニラに流されたのです 日本に残る選択もあったが、右近と共にマニラに追放される道を 選択したのです 父ダリオの受洗によって始まり、右近に受け継がれたキリストの本質に生きようとする真の 信仰は、次の世代へと受け継がれ、家族は最期の最期まで共に試練を共有し、次の世代に確実に信仰を 伝えていくという使命感溢れる臨終の場面となったのです 家族や身近な人への福音宣教することの義務感 が薄れてきている今日、身近な人への福音宣教が出来なくて、他の隣人への福音宣教が果たしてできるで あろうかか、聖家族としての歩む道を示す臨終となったのです (右近の霊性の実践) ・右近は人生の最終章で、国外追放という刑を受け、これを祈りと徳操で耐え、最期まで隣人愛を実践し、 最終的には、殉教という形で追放先の異国で亡くなった この右近の生き方の現代的意味を考えることが 右近の霊性、列福の意味を理解したことになると思います 現代社会でキリストの本質を生きるとは具体的に どういうことなのか 戦争、貧困、差別等旧約に書かれている、人の強欲からくる事象は何も変わっていない 教皇フランシスコが素晴らしい指針を与えて下さっている それぞれの立場でこれをどう実践していくのか 日々これが問われている 迫害を耐え抜いた戦国時代の宣教師、キリシタンのあの熱情を持って福音 に生きているか、信仰心を磨いているかが問われているのだと思います 右近の霊性の核心に在るものは、 右近と同時代を生き 、列福された殉教者のそれと全く同じで、26聖人や188人の福者の延長線で、右近の 霊性を考えねばならない 右近の最終章を理解することは、数えきれないほどの名も亡き殉教者への深い、 哀悼念を表すことでもあり、日本におけるキリシタンが日本の教会の礎とならんとの決意をもって流された血と 汗の結晶に対する心からの尊崇の念を示すものであり、彼等の生き方に対する賛歌でもあるのです ・高山右近が蒔いた信仰の種は、九州・加賀等各地に離散した結果多くの所で花を咲かせますが、その後、 この花も禁教令により様々の運命に遭遇します 都地区のキリシタン武士の最期は、この世的には決して人生 の成功者とは言えないかもしれません しかし、それぞれが留まった地で、永遠の命の世界を信じ、現実の世の 移り変わりのなかで、自分の心と格闘しながら、一人一人が自分自身の信仰を持ち続け、逆境のなかで、 最期の信仰の花を咲かせようと必死で努力しました 右近のように国外追放になった者、国内の辺境の地に 追放になった者、大坂城の戦いに希望を燃やした者、有馬の地に殉教した者、島原・天草の戦いに希望を託 した者、各地に潜伏した者、そして信仰に絶望した者もいるかもしれない、まさに様々であったであろう この人達全員の思いを等しく受け止めるべきです 信仰の在りようは一つではありません あの厳しい時代を キリシタンとして、よくぞ生き抜かれたことに敬意を表したい 結果はどうであれ、それぞれが真剣に自分の 信仰と向き合い、悩み、苦しみ、生き抜いたことは間違いない 神は一人一人をありのままを愛してくださるの だから、神は彼等の眒吟・苦悶・苦闘に応え、あの時代に信仰と向き合った全ての人の霊魂を、彼等が 求めてやまなかった永遠の命の世界に招かれたと思いたい 様々の人々の信仰の在り方が、混然とした総体 として、次の世代に受け継がれ、今日の我々の信仰になっていると受け止めるべきであろう ・彼等の肉体は滅んでもその信仰は生き続け、1865年の信徒発見に繋がり、その信仰は日本の地で受け継が れてきてる 現在の信徒の精神と右近の時代の信徒の精神は、永遠の命の世界で繋がっている 右近が最初に信仰の種をまいた高槻の地にもその花は生き続けていた 現在の行政区域は茨木市であるが、 右近の時代は高槻領であった「千提寺・下音羽地区」、すなわち宣教師の記録で登場する高槻の山間部で、 かの有名な「フランシスコ・ザビエルの画像」等の数々の素晴らしいキリシタン遺物が大正時代に発見され、 肉はその冷徹な法則により消滅するが、肉の我欲から解放され、神を信じる人の精神世界は様々の命の総体 として受け継がれ、永遠の命の世界へと招かれていく その流れの中に生かされていることに深く感謝したい このような問題意識を持って、日々の平凡な生活の中で、自分を変えていく努力を積み重ねていけば、神は かならず導いて下さる 予期しない時期に予期しない方法で それが全体として福音宣教に繋がっていく 人々の、小さき者としての、日々の回心と神のみ旨の実行、その積み重ねが、きっと平和な社会を目指す 大きな力となっていくことは間違いない 恐らくこの世の最期、最期の審判の日まで、この繰り返しの歴史を人 は歩んでいくのであろう これを書き始めたのは昨年の11月初旬頃からで、今まさに、2015年1月、右近帰天 400年を迎えようとする時期にこの最後の章を書いているお恵みに感謝したい 神は必要な時に、必要なもの を与えて下さる このような問題意識から右近の最終章の霊性を、当時の宣教師が書いた一次資料を基に、 味わいたい この方法が最も正確に、しかも感動的に味わうことができるからです (殉教とは) ・殉教とは「新しい信者の種である」と昔から言われています なぜなら、殉教とはキリストに倣って、キリストと ともに十字架にかかることだからです それによって本当に自分の身の中にキリストが現存し、それを人々に 表すことができるからです そして、それを見る人々は、その愛に感動し引き付けられ、・・キリストに従って いくものになっていくことです ・・キリスト者はキリストに倣って、自分も体全体で日常生活の小さな十字架を 担って行く時、はじめて自分の中にキリストがともにおられ、自分の苦しみや困難を支えておられる現実に 目覚めるのです この苦難を乗り越えるその瞬間に、キリストは私を支え、その活きが私に満ちていることを 自覚できるのです そこではじめて、キリストの活きはすごいものだとわかるのです こんなつまらない私に これだけの力を与えてくれるのだから、その活きは全ての人にも及んでいることがだんだん見えてきます そして、ますます確信を持って歩んでいくことができます (日本の宗教とキリストの道 門脇佳吉著) 2.禁教令に対する右近とその家族の対応 -国外追放処分とマニラで殉教するまでの出来事- 1614年2月のはじめ、江戸幕府は全国的なキリシタン追放令を布告する 加賀前田家にも命令が通知され、 右近は棄教を迫られるがこれに応ぜず、右近とその家族は1614年2月15日金沢を出立し、長崎に送致され た後、長崎に約200日滞留し、マニラに追放され、右近は約一カ月の航海の後マニラ到着し、約40日後、 過酷な追放の旅が原因で病に倒れ、1615年、2月3日(晩)から2月4日(朝)にかけて亡くなった (1)全体の流れ ・金沢出立(1614年2月15日)~マニラで亡くなる(1615年2月3日) 353日 ・金沢~長崎 60日 (金沢-坂本:10日+坂本滞留30日+坂本-長崎:20日) ・長崎滞在 205日 (4月中旬~11月7日) ・長崎~マニラ 33日(1614年11月8日長崎出航~12月11日マニラ沖到着) (12月11日マニラ沖到着 ~ 12月21日マニラ港到着「コリン」) ・マニラ滞在 43日 (12月22日~1615年2月3日帰天) (時系列に関する一次資料の記載事項) 1614年2月1日(慶長18年12月23日) 全国的な禁教令公布 *日本殉教録(1616年メキシコ版) 1614年2月15日に加賀を出立した *1615年年報 ごく必要な旅装だけで1614年2月15日急遽出発した *1614年年報 右近は、11月の初めに我等(イエズス会)同僚達と乗船し、・・・ *1615年年報 右近は、最初の出発の日から乗船するまでの150日を超える間に、殺される思いをしなかった [150日という日数は理解できない 250日ではないか?] *1615年年報 かくて11月7日または8日に長崎港を船出した 11月8日行われたのではないかといわれている *1614年年報 33日の航海中着替え出来た者は稀か全くなく・・ (逆風でなかなか港に着けなかった事、亡くなった司祭を埋葬した事等で遅れた可能性がある) *1614年年報 右近はひどい重病に陥った時、到着後40日にして、主はその御許に召した給た 数日間は元気であったが、間もなく病気となり、それは彼を死に導いた *コリン右近伝(注) 一行がマニラに着いたのは12月21日であったと、コリンは・・・言っている (マニラ到着日に関する私見) 到着日を記しているのはコリンで、それは12月21日であるので、私はこれを基本に記す しかし、 コリンが採録した年報やモレホン神父の記述を基本にすると次のようにも考えることができる 一次資料に記載されている11月8日長崎出航、実質航海日数33日、マニラ港到着後40日の 2月3日に右近帰天という月日が正しいという事を前提に置いて考えた場合、 マニラ沖到着は12月11日、逆風のためマニラ港入港は14日遅れの12月25日と解釈するしか 整合性が保てないのではないだろうか 海老沢氏も10日程計算が合わないと指摘されているが、 逆風でマニラ港にはなかなか近づく事が出来ず、また、亡くなった神父の島での埋葬等で、 相当手間取った事は確かであるので、ここにその理由を求めざるを得ないのでないだろうか そうだとすれば主の降誕の日に右近はマニラに迎えられたことになる しかし一次資料ではこの事 の記載は何処にも無いので、断言はできないし、コリンはマニラ到着日は12月21日としているので、 一応12月21日は固定しなければならないのであろう これを固定すれば、「到着後40日にして」 40日というのは、40日程してという意味で捉えればさして問題は無いと思われる (逝去350年祭記念誌シュワーデ神父の記述について) 逝去350年祭記念誌でシュワーデ神父はマニラ沖到着を11月28日とし、マニラ港到着を12月11日 と14日の差をここで設けた意味がよくわからない そして、350年誌では、右近はマニラ到着後 40に余りたって病に倒れ・・死の準備にとりかかり・・十分な準備をなし・・1615年2月4日から5日 にかけて真夜中息を引き取ったと記されている つまり、14日の差をマニラ到着後に求めている しかし、一次資料を素直に読めば、右近はマニラ到着後、数日後には体調を崩し病気となり、 死の準備をし、マニラ到着40日後に亡くなったと解釈せざるをえない *日本殉教録(1617年サラゴサ版) 自分の魂を創造主に返した 時は1615年2月5日にかかる真夜中であった (2月5日ではなく、2月3日であるというのが現在の通説 チースリク高山右近史話26付記) (2)一次資料に基づく右近の最終章 -はじめに- ・右近の言葉「私は金沢を出発してから長崎をでるまで、生命の危機を感じなかった日は2日となかった」 まさに、金沢からマニラまでの日々は、右近と家族にとって本物の信仰を試される一家の命をかけた殉教の 日々であった事が宣教師が書いた一時資料に記されている ・金沢から長崎までと長崎からマニラまでと大きく二つに分けて、宣教師が書いた一次資料(モレホン著日本 殉教録[1616年メキシコ版]、イエズス会年報、コリンの右近伝等)に基づいて、その殉教の日々を味わって みたい 注目しなければならないことは、これらの宣教師が書いた一時資料において、右近は、禁教令に よって殉教した多くの殉教者の一人として、その中でも日本のキリシタンの柱石として海外でも高名であった 右近の殉教が特筆されていることです ・一時資料としては、イエズス会年報、実際に右近に同行した聴罪司祭で霊的指導者であるモレホン神父が書いた 日本殉教録が中心となります 後に書かれたコリンの右近伝は、信憑性が問われる部分があるが、参考になる箇所も あります (右近の霊性) 資料の詳細を読む大切な観点は、右近の霊性という観点です その主な事柄は、次の箇所です まず第一は右近とその家族は禁教令に対し、毅然として信仰の道を歩む事を決断したこと、第二は金沢から 坂本までの真冬の徒歩による雪中山越えをし、家康の命を受けた幕府の筆頭年寄大久保が都の内藤ジュリ アン等のキリシタンに対する過酷な迫害が行われている間、右近等は坂本で幕府の処分が下されるのを待た され、死罪を含めどういうような処分が下されるか判らないという緊迫した約一か月の滞在を強いられたが、 その間、右近と家族は結束して、毅然と対応した事です 第三は長崎ではマニラへの船が出航するまでの滞留期間中、長崎の町では、高揚した苦行の行列など行わ れ騒然とする中、右近は祈りと徳操の日々を過ごし、心霊修行に勤しみ、2度の総告解をし、国外追放処分 という試練を、真のキリスト者として、殉教という覚悟を持って受け止めるための霊的準備をしっかりと行ったこと です これはまさにこれまで行ってきた右近の信仰生活が真性であった事を示すためのもので、人生の最後を キリストへの信仰の最高の証しである「殉教」によって締めくくるにふさわしい準備を行ったことがわかります これは、秀吉の伴天連追放令後の小豆島での死を覚悟した潜伏生活の中で、オルガンティーノ神父と共に 心霊修行に励み、殉教の覚悟を固めた生活に匹敵するもので、より緊迫した状況下での霊的準備であった と思われます このような霊的行動は長年の観想という修養によって自然と導き出されたもので、右近は真の深い 祈りの人であった事を示している 恐らく右近は小豆島で身に付けた心霊修行を加賀前田家での生活の中で 更に自分のものとするため深めて行った結果、それが人生の最終章で示されたと思います 第四は、すし詰めのジャンク船という劣悪な環境の下、約一カ月もの過酷な航海を祈りと霊的読書で耐え忍ん だことは、右近が修行によって真の祈りの形を身に付けた人であったことを示し、彼の平和を愛する権威ある 霊性は航海中の騒ぎを静め、嵐によって生じた災難に対し、真の謙遜・寛容とは何かを示したことです 第五はマニラ到着後日本の聖人として大歓迎を受け、処遇された事は、彼の霊性の素晴らしさが異国まで知 らされていた事を示す 第六はマニラ到着後、長い過酷な追放の旅が原因で病に倒れ、多くの人々に惜し まれて、まさに殉教者として最期を異国の地でむかえ、聖人に値する人として、素晴らしい葬儀・埋葬が行わ れた事です 第六は右近の死後、彼は聖人に値する人として、彼の事蹟をまとめる事が要望され、列聖の 運動が行われた事です そして最後に最も讃えるべきは、最後まで右近はその家族とともに何時も信仰の道を歩み、その思いを孫達に 托した事です 受洗からのキリシタンであるが故の数々の試練、和田惟長との争い、荒木村重の謀叛、 秀吉の伴天連追放令、その中での身を挺した福音宣教、何れも家族とともに手を取り合って乗り越えて来た のです 右近の死は徳川幕府の全国的禁教令に基づく国外追放処分により生じた事は明らかであり、まさに 殉教で、家族はそれを見届けたのです 神は聖ヨブの忍耐で数々の試練を耐えて来た右近に、最後に右近 が望んだ最大のお恵みを与えられ、それにより永遠の命が授けられたのです キリストの本質に生きる事を 最後まで家族とともに貫き通す事が出来、彼が希求してやまなかった人生の最終目標である、永遠の命が 与えられたのです 右近は異国の地フィリッピンマニラで、ヨブ記の最終章を高らかに歌い上げ、彼が愛してやまなかった神の国 にへ召されたのです (3)各資料の詳細 各項目ごとの詳細を当時の資料に基づて紹介します 全てをそのまま書くことは出来ないので要約しました これを手掛かりにされて、面倒でも、当時の宣教師の記録をそのまま読むほうが、より正確に現実味を帯びて 伝わってくると思います 原文をよまれることをお勧めします ①金沢を追放され、長崎に送られる (あらまし) この箇所は、1614年年報、モレホン神父著の日本殉教録(メキシコ版)が詳しいので、この資料を中心に味わい たい 右近の霊性という点で注目すべきは、次の箇所です まず第一は右近とその家族は禁教令に対し、毅然として信仰の道を歩む事を決断したこと、第二は金沢から 坂本までの真冬の徒歩による雪中山越えをし、家康の命を受けた幕府の筆頭年寄大久保が都の内藤ジュリ アン等のキリシタンに対する過酷な迫害が行われている間、右近等は坂本で幕府の処分が下されるのを待た され、死罪を含めどいう処分が下されるか緊迫した約一か月の滞在を強いられたこと、第三は長崎ではマニラ への船が出航するまでの滞留期間中、長崎の町では、高揚した苦行の行列など行われ騒然とする中、右近 は祈りと徳操の日々を過ごし、心霊修行に勤しみ、2度の総告解をし、国外追放処分という試練を、真のキリスト 者として、殉教という覚悟を持って受け止めるための霊的準備をしっかりと行ったことです これはまさに右近が これまで行ってきた信仰生活が真性であった事を示すもので、人生の最後をキリストへの信仰の最高の証し である「殉教」によって締めくくるにふさわしい準備を行ったことがわかります (あらあまし) (金沢) (金沢-坂本 10日) ・1614年2月のはじめ、江戸幕府は全国的なキリシタン追放令を布告する 加賀前田家にも命令が通知 され、宣教師たちが加賀を追放され、長崎に向かった その三日後、右近等は前田利長より、棄教しなけ れば追放すると宣告される 時勢に順応せよとの勧めが激しくなされたが右近はこれに応ぜず、1日の猶予 が与えられた後、2月15日、別れを惜しむ間もなく、慌ただしく右近と内藤如安の家族等は金沢を出立した ・利長は右近の暴動を恐れた 右近は本物の信仰心を示し、逆に深い感銘を与えた。 ・坂本へ出発したのは、右近・内藤の家族 総勢18名であった 高山右近等8人:夫人ジュスタ、娘ルチア、孫5人、内藤如安等10人:内藤夫人、4人の子供、4人の孫 ・途中で殺害するための追手の噂が入ったこともあった。 ・真冬の山越えを強いられ10日後坂本に到着した (坂本) (30日待機) ・坂本で、京都所司代板倉に引き渡され、将軍の指示がくるまで、待機させられた ・右近は、将軍から下される処分は、坂本或は江戸・駿府での処刑か若しくは分散追放・棄教の強制など ではないかと右近は想定し、家族に信仰を守る事を説く 30日後に長崎に行くようにとの命令が下る ・男子は長崎に送るが、婦女子は京都に留まることができると言われたが、誰もそうしなかった ・従者無しの20日間の道中は多くの不自由と苦しみに遭遇した (坂本出立の20日後、大坂から長崎に到着) 【右近加賀を追放される】 (1612年幕府直轄領禁教令時の前田家と右近) -1612年の段階で右近は非常に弱っていた- ・岡本大八事件後、家康はキリシタン家臣に棄教を強制し、信仰を棄教しない14名の武士を追放し、全大名に彼らへ の援助・迎え入れを厳禁した その影響は各大名にも及び、大名は配下の家臣にキリシタン信仰の棄教を強制し 始め、維持する者は追放された 右近がいた前田家でも前田利長は右近や内藤ジョアンに 棄教を勧めた 利長は右近の娘婿の父横山長知を通じ、形だけの棄教を勧めることを書いた手紙を右近に 渡そうとするも、横山は 棄教は全く見込みがなく、「右近は老い、非常に弱っており、全然昇進の見込みは もっておらぬ」ので止めるよう 進言したので、利長は思い止まったそうです (ラウレス 高右近の生涯) [日本殉教録第8章](要旨) (あらまし) 1614年2月1日幕府禁教令の通達は、2月のはじめ加賀藩にも伝えられ、領内の主だったキリシタンは信仰を 棄てなければ追放せよと命じられた まず司祭達が2月11日金沢を出立し、その三日後棄教を拒否した右近 等(妻・孫5人・娘、内藤ジョアンの家族達)には2月14日に出立を命じられ、準備のため1日の猶予が与えられ 、2月15日別れを惜しむ間もなく、慌ただしく金沢を出立し、真冬の山越えを強いられ10日後坂本に到着し、 そこで処分が下るまで約一カ月滞在し、その後20日かけて大坂から長崎に到着する様子が記されている (禁教令の通達と右近とその家族等の追放の命令) ・加賀・能登・越中の領主前田利長(肥前殿)は我等の教えに好意を持ち・・著名な武将を抱えていた その中に、東インド・日本イエズス会史において極めてよく知られたドン・ジュスト高山南坊、・・内藤如安、 その息子・・、備前の宇喜多休閑がいる ドンジュスト(右近)はイエズス会のパードレとイルマン1人及び 学院(セミナリオ)の者何人かを伴っていて、彼は金沢市に住んでいた *パードレの名前は年報では明らかでないが、バルトリーはパエザとし、姉崎・片岡氏はパルタザル・トルレスとするが、 前者の方が正しいようである(海老沢 高山右近) ・今回の迫害(全国的禁教令)の知らせが届いた 皆が希望し待っていたように信仰のために死ぬようになった 場合、霊的に彼らを援助してもらうために、右近はパードレを隠そう決心とした しかし、間もなく将軍の命令 が届いて、パードレ及びその伴侶は監視をつけて全員長崎遅れと命じてきた これを実行しなければ ならなかった 教会には告解・聖体拝領・別れの挨拶のため夥しいキリシタンが、夜も昼もやってきた *日本殉教録では、「1614年2月12日に日本の宣教全員の長崎送致と全ての教会修道院の取り壊しの命令が 出され、これを京都の宣教師が知ったのは1614年2月14日で、2月21日に都を出立し夜明け前に大坂に到着 し、そこで大坂や加賀や能登から来た宣教師と一緒になり、25日大坂を出帆した」と記されている ・パードレ達の集発の三日後、前田利長は、将軍の命令で心ならずも右近、如安とその息子を妻子・孫 と共に都に送って板倉殿に引き渡し、その家臣もキリスト教を捨てないならば追放するという事を命じた (宇喜多休閑等の金沢の身分の高い武士達は、津軽に追放されたそうです) ・多数の家族、名誉の家門を滅ぼさないためにも、時勢に順応せよという説得が激しくなされた しかし彼等は 全くこれを問題にせず、「・・冗談にもそのょうな事を口にしてはならない」と言った 準備のため一日だけが 与えられた 禄も領地も家・財産・武器も悉く棄て、辛うじて衣類と道中に必要な品のみを持って2月15日に 出発した 右近は、(アブラハムの再来のように)妻ジュスタと上は16歳、下は8才の孫5人及び娘 1人を 伴って出発した この娘は・・家老の息子(横山康玄)と結婚していたが、正当な理由により、この機会に 父親(右近)と死ぬ事を希望し、それが夫の幸せになると考えて父親に同行した この夫もキリシタンであり、 義父について行く事を希望していたが、義父は正当な理由によって彼を留めた 彼は総告解をし事態の 成行を見守り、若し彼等が生きていたならば妻を呼び、キリストのために死ぬ覚悟でいた ・帰天350記念誌の「高山右近の追放と死」シュワーデ著では右近の言葉を次のように紹介している 右近や内藤の友人は、家族のために表面だけ信仰を捨てることを勧めたが、右近は「もし私達がこのよ うなめにあったのが最初なら何をしたらよいかとまどうでしょう 私達は既に何度かこの度のようなことを経験 していますから慣れています 過去において財産や名誉を失ったことがあり、その時の損失は今度の場合 よりも大きいものでした 皆さんの心配や忠告を心から感謝します 立派なキリシタンであるとということが 何を意味するか知っている私にかりそめにも皆さんの忠告を受け入れることはできません 若し受け入れる なら信仰を汚すことになります キリシタンの信仰は私達にとって生命よりも価値あるものなのです 【金沢を出立】 ・右近等が金沢を出る時、右近は多数の部下や友人を持っているので、異教徒は騒ぎや危害が起こるのを恐 れていたが、右近は使いを出して人々を鎮め、「武器を持っては戦わない、神の教えが示すように忍耐と 謙虚の徳をもって戦うのである」と言った 大勢の人々が彼等について行った ある者は心から涙を流し、 堅固な心と勇気に感嘆した あるものは、「これほど理解力があり身分も高く勇敢な人々が信仰のためには 財産も名誉も生命も顧みないのであるから、キリシタンの教えは偉大なものであると」と言った ・この箇所を、片岡弥吉氏は、日本側資料「今枝直方悦草」から次のように紹介している 利常は右近らが武力で事を起こしはしないかと恐れ、武備を固めていた 右近はそれを聞き人をやって利常に言った 「神のために追放されるのに、反抗したり、復讐したりするのは、キリシタンの法ではありません キリシタンは 他人を打ちひしぐ鉄火の武器よりも己にう打ち勝つべき心の武器を用いるように仕込まれているのです 殿 がもし右近の親友たる肥前殿(利長)にお聞きくださればこの間事情は直ちにご了解なさいましょう」 右近のこの釈明は人々を安心させた 皆武装を説いて自分達が警戒していた人々を見送るため城から出てきた ・・藩命は丸腰で唐丸籠で送ることだったが、護送責任者篠原出羽守一孝は「右近ほどの人物をそうしては侍たる 者の筋目が立たぬ 不慮の事あれば拙者一人腹を切れば済む事」と言って大小を帯び籠を用いさせようとしたが、 右近は「それでは殿に申し訳ないこと」と言って大小を帯びず、籠だけ好意を受けた また、この箇所について、チースリク右近史話では、「見聞雑録」などの古記録によれば、右近に付き添った前田家 家臣は、篠原出羽守(金沢~相坂)と安原隼人(金沢~長崎)であったこと、そして、篠原は家老役の一人で右近とは 対立関係であったが右近の最期の場面では立派な態度であったこと、「今枝直方夜話」の逸話(内容は片岡氏と同じ) を紹介している (金沢の出立日について) 「駿府記」に慶長19年正月26日(1614年3月6日)京都所司代板倉が金沢にいた右近達の引き渡しを命じたとの記述 あるので、金沢出立日は1614年2月15日ではないのではとの考えも一部にはあるようである この日については、 宣教師の資料は1614年2月15日で、この日の方が、前後の関係の記述を考えると妥当であると判断します 【坂本へ】金沢から10日かけて坂本に到着(2/25頃 坂本到着し約一カ月滞在) ・1日目の道中が終わった時に、彼等の首を斬りに来るという噂が入った ・・反抗の様子を示さず喜びに満ち て祈りはじめたが、・・偽りである事を知り悲しんだ 港を幾つも過ぎ徒歩でなければ通れない雪の峠を越え、 苦労を重ねて10日後に坂本に到着した 峠を越す時、右近は病気であったにもかかわらず、徒歩で、先頭 に立って登りながら他の人々を励ましたので、足の弱い子どもや若い女まで・・喜びを見せて雪の中を進んだ 坂本到着を知った板倉は、都での騒ぎを恐れ、将軍の新しい命令を待つため、彼等を連れてきた責任者2人 に坂本に留まるように書き送った [他の資料に記載されている加賀出立から坂本までの様子] (1614年年報) 要旨 ・この土地(加賀)では、キリシタン宗門がおおいに花開いている 今から12年前に右近の他に重なる要請によって開かれた司祭館には、司祭1人・修道士1人・幾人かの 同宿・使用人たちが、右近の保護のもとに暮らしていた また、南坊の親族や非常に多くの使用人の影響 下にあった信徒以外にも、少なからぬ身分の高い人達が信徒の群れに身を寄せていた 前田家から禄を 得て、別々の場所に暮らしていた最も古参の多くのものも、司祭館に来て学んでいた (都の迫害の噂) ・このような状態にあった土地にも、都でキリシタンの名簿作成が進められているという噂が伝わって来た 南坊はこの地でも同様の事が行われ、信仰を堅持することは死罪に繋がっていくであろうことは想像できた が、神に造反することもなく、司祭を匿うことを決めた 布令(追放令)が公布されない静寂の間、告白と 聖体拝領という聖なる秘跡によって勇気を得て、耐えなければならない殉教に備えていた (司祭の追放) ・彼らがこのことについて話をしていたまさにそのときに、幕府から前田家に司祭を長崎に強制的に退去さ せよとの書状が届いた このことは司祭は南坊のもとにあることを知っていた前田家から南坊にすぐに知ら された 司祭と離れることはとても辛いことであったが、ことは急がねばならなかった 南坊は二人を付けて 司祭を大坂に送りだし、旅費を負担した 前田家も司祭を長崎の役人に引き渡すために別の二人を送り 出した (南坊の追放) ・司祭が金沢を出発した三日後に、前田家は南坊と身分の高い人々に追放に赴くように命じた この噂が広まると、南坊が過去に多くの信仰の試練を耐えて来たキリストの兵士であることを知らぬ、 主だった人々の幾人かは、幼い5人の孫達の名誉と財産に対しては、命令に従うように説得しようとしたが、 南坊は信仰を守るこ決意を固めていた 南坊が金沢を追放されたこと耳にした細川忠興は「いまや南坊 はこの最期の偉業によって自らの過去の輝かしい偉業に封印を施した」と言った (内藤徳庵の追放) ・丹波の奉行の出で、14年前に肥後の加藤清正から追放されて前田家に来ていた内藤徳庵とその二人の 息子にも命令が下された 彼らにはこの旅立ちのために一昼夜さえ与えられず、寒さに対する衣服しか 手にすることを許されず、残りのものは全て置いていかざるをえなかった (南坊の前田家への贈り物) ・南坊も前田利常に、この年の俸禄を受け取っているが、恩返しする機会を得なかったので、これまでの 奉公の埋め合わせとして受け取って欲しい旨の便りを添えて、三千スク―ド余りの価値を持つ60個の 金塊を送り、利常は受け取った また、南坊は前田利長にも或る壺(30個の金塊の価値のある茶を保存 するもの)を送ったが、利長は受け取らなかった (娘ルチアとその夫) ・南坊の家族は8人で構成されるもう一つのノアのようであった すなわち、彼と妻のジュスタ、彼らの娘が 1人と5人の孫達である その娘は三ヵ国の主要な奉行の若い息子に嫁いでいた この婿は父親の任務を 引き継ぐものであって、ほどなく・・俸禄の全てを相続することにもなっていた 娘は父に付き従い、婿を 置いていかねばならなかった この婿は秘密裏にキリシタンになっていて、南坊の追放を知ったとき、同じ 運命になるかもしれないと思って南坊に会いにいった しかし自分には信仰のために命をちらす機会は 無いことをとても残念に思った 司祭が加賀を離れる時、この婿は大きな感情をこめて総告白をした (宇喜多休閑等の追放) ・以前に宇喜多秀家に仕えていた、3人の子どもを持つ宇喜多休閑という最も身分が高い人が追放された 主君秀家が戦いに打ち負かされた後、彼は、前田家から信頼され、三ヵ国の騒乱を鎮める4役の一つを 任されていた程の人物で、彼の主だった家臣達が激しく彼を思い留まらせようとしたが、彼は3人の子供 たちとともに追放の地に向かった さらにもう一人の身分の高い人物も彼の後を追った (武装する前田家と右近の対応) ・出立をまじかに控え南坊は、自分たちが武装して打って出るのではと前田家家臣らが心配し、砦に籠り、 武装していると聞いたので、使者を送って我々は剣ではなく、忍耐と服従をもちいて戦うので、心配ないと 言わせた (おびただしい人が集まった) ・2月14日に南坊が自分の一族を引き連れて金沢から立ち去ろうといる間に、彼に会おうとして夥しい数の 人々が集まった 彼らは、家も家族も祖国も顧みないで、財産を投げ出してしまってまでして自分たちの 信仰を守るからには、この教えには大きな宝があるに違いないと思い、心から同情し涙ている者がいれば、 新奇な出来事に驚いている者たちもいた (殺害の噂) 旅の一日目を終えた夜に、右近たち一行を殺すため武装した多くの兵士たちが金沢を出て、向かって 来ているという噂たち、一行はこれを信じ殉教の覚悟をしたが、これは、幾人かの友人たちの棄教させ ようとの思いから発せられた虚構であった (辛い冬の山道の旅路) この旅路は、馬で越すことが出来ない山が幾つかあり、険しく厄介で困難であった 冬の最も厳しく寒い 時期、雪の頃にはとりわけそうであり、そのような時節に当たっていた そこで、最初に登ろうと試みる者 は、年老いているにもかかわらず、常に南坊であった 彼の一番そばには、最年長のものでも18歳にも なっていなかった孫達が付き添っていた これらの山の箇所を登る時には、少なからぬ生命の危険が あった なぜなら、誰かが足を踏み外したとすれば、幾つかの切り立った崖や非常に深い奈落へと落ちて しまい、結果として膨大な量の雪によって覆われて埋められてしまうことになるからであった これまで、 家で大切に育てられてきた若者にとって、耐えなければならない生まれて初めての不自由であった *この山道は、恐らく北国街道の今庄(福井県南越前町)から栃ノ木峠(近江と越前の国境)を超えて 木之本(滋賀県長浜市)に至る山間部の道のことであろう この時代加賀から近江に抜けるルートとし ては、柴田勝家によって整備された、この「栃ノ木峠ルート」が一般的であったそうです その後、 木之本辺りから陸路で坂本へと行ったのか、それとも琵琶湖を船で坂本まで渡ったのか定かではない が、目的地が大津ではなく、坂本ということなので、恐らく船で湖上交通の要衝である坂本まで行った 可能性が高いのではないだろうか (冬の琵琶湖は大変厳しい状況にあると思われるが) しかし、今庄~木ノ芽峠~敦賀経由で塩津若しくは海津~坂本という陸上ルートも捨てがたい という のはこのルートは、前田家が上洛する時に、都への最短ルートとして利用したこともあるそうで、途中の 海津、近江今津には前田家の領地があり、大きな役割を担っていたといわれているからです いずれにしても、冬の栃ノ木峠、木の芽峠は、現在付近にスキー場があるぐらい、とても雪深い所だ そうです 険しい山中の深い積雪の道中は、右近一行にとって、大変な苦労を強いたであろう (現在の冬期の栃ノ木峠は福井県側が除雪をしないので、冬期の旧道での今庄・木之本往復は 困難な状態にあるそうです) (1614年イエズス会年報) 最も雪が多い地方の最も厳しい冬の最中金沢を追放され、家臣を伴う事を許されず、所持していたものを全て 失ったので、全く貧しく悪しき装いで出発し、甚だ高く深くうずもれた山を越えねばならなかった (1615年イエズス会年報) 右近は加賀の国でドン・内藤と内藤の弟ドン・トメらと共にいた 内藤ジョアンはドン・ジュストと同年に丹波領主として 信仰をえ、その信仰を示すため、・・真の模範として各地で幾多の事に堪えた 1601年肥後国で領地と俸禄を失い、 ドン・ジュストにより招かれ、その地で富み、且つ領主から大いに敬愛された パーデレ追放の知らせが加賀の国にも 広まるやいなや、右近と内藤ジョアンは死ぬか、国外に去るか覚悟を定めた 彼等の見当は違わず、公方様から 信仰を捨てるか、さもなくば領地・俸禄を棄てて都に赴き、都の奉行に妻子とも身柄を委ねるべしとの命令が届けら れた ・・・彼等は友人・家臣に別れを告げ、領地・俸禄・邸・富を打ち捨て、肌身に付けた着物とごく必要な旅装だけ で1614年2月15日急遽出発した ・・共に旅路についた(右近の)娘は・・結婚したばかりであったが、夫の同意を 得て父と共に死ぬことを望んだ 夫はキリシタンである事を公にしたいと望んだが、右近は根拠ある理由から同意せず、 彼が生命保ち得るなら必ず彼の生存中に妻を送り返そうと約束することで承知させた 同様のことを内藤ジョアン と弟が行った (コリン著の高山右近伝) ・この26年・・間に、・・仏僧たちは将軍に働きかけ、ドン・ジュストに鉾先を向けて来た それは彼が追放の身でありな がらキリシタンに対する大きな力となっていたからである それだから、彼はキリストの兵士として常に覚悟を決め、 自分や子供・家族の生命及び一切の財産は神よりの預かりものとして、これをことごとく神に捧げ毎日宣告を待って いた 1611年から迫害の噂が起った ・・将軍は貿易商品を利用しようという欲心を抱いていたが、・・将軍の新しい 命令が出され、教会の取り壊し・説教者の追放・キリシタン信仰の棄教が命じられ、加賀には正月の盛大な祝いの 最中にこの知らせが届いた ・一時的に棄教したふりをしろなどと説得されたが、右近は今回の命令は、死あるいは遠国への追放されるであろうと 考え、内藤ジョアン等身分の高いキリシタンを集めて相談し、キリストのために死ぬことを決め、そのための準備をし、 宣告を待った ・・江戸から、右近と内藤ジョアンを、妻子のみを引き連れて都に護送するようにとの命令が伝えられ、 これを聞いた右近は、前田利常に・・60個の金板(その年の年貢相当分)贈り、前田利長には、長年の優遇の恩義 に感謝し、右近が珍重し使用していた茶碗を送った(茶碗は金30枚の価値、利長は右近殿別れを悲しみ選別を 送って返した 右近は友人達にそれぞれ記念品を贈り、友人達は見送った 片岡弥吉著 日本キリシタン殉教史) ・右近とその妻ジュスタ、5人の孫、娘と内藤ジョアンの妻、4人の子供、ドン・トメは金沢の城下を出た 真冬であった ので、馬にも輿にも乗れないほど険しく雪に覆われた高い山を幾つも越えなければならないので、苦難を忍びながら 10日間道中を続けた 道中右近が作った美しい詩の示すように強い勇気と喜びを抱いて、その山を越えた ・・・(基本的には日本殉教録と同じ事が記されている) 【坂本から長崎へ】 坂本に30日留まり、その後20日かけて長崎に到着した (3/26頃坂本を出立 4/15頃長崎到着) ・右近は、将軍の命令について、都で殺すか、江戸や駿河に連行され拷問されて殺すか、或いは別々に諸国 に追放し、棄教を迫るかであろうと考えた 右近は別々に追放された時の事を憂慮して、どのような事を 言われても信仰を堅持せよ これが唯一の救いの道であると言った 30日後、将軍の宣告が届いて、男は長崎へ、女は都に留まる事が許される、従者は伴ってはならないと 命じてきたが、彼女等は男子に同行する事を希望した 従者無しの20日間の道中は多くの不自由と苦しみ に遭遇した 長崎へ到着すると暖かく迎えられた (坂本での逗留場所について 私見) 右近一行が逗留した坂本は恐らく坂本城の築城に伴いできた集落である下坂本と言われる場所で、昔は三津浜 と呼ばれ、湖上交通の要衝であったそうです 1614年の年報では「城中に留め置かれ」とあるが、明智光秀が築城した 坂本城は、本能寺の変後、大津等に解体移築されているので、城の敷地であった所に残っていた建物に逗留したと するのが常識的な考え方であろう そして坂本到着後、直ぐに大坂に移送される予定であったが、都の状況等 から幕府の指示があるまで留め置かれたのであろう もともとの坂本は比叡山の門前町で、光秀が坂本城築城後、 住民は城下に移住させられたそうで、そこが下坂本と呼ばれるところで、宿場町ではなかったそうです しかし、可能性が低いが、まとまった人数の者が一カ月もの間留め置かれたのだから、比叡山の里の門前町の寺で、 坂本城の建物が解体移築された西教寺などに逗留した可能性もあるのかもしれない 坂本の逗留後、大津・山科を 経由して伏見に下り、陸路大坂に向かったのであろう (金沢から坂本まで護送してきたのは、篠原出羽守以下の加賀藩士で、彼等はここで返され、坂本から長崎へは 幕府使番間宮権左衛門伊治が護送した 陸路大坂に出て、海路長崎に送られた 片岡弥吉著日本キリシタン 殉教史 ) (チースリク右近史話では、長崎送致の幕府命令の発信者は禅僧崇伝で、「徳川実記」の2/26(西歴3/26)の項に 記述されている文言を紹介している 右近達が坂本に着いたのは2月25日頃であり、それから約一カ月後に長崎 送致の通知があったということと符合する また、この事から金沢出立日は2/15が妥当なことがわかる) (コリン著の高山右近伝) ・坂本に着くと所司代に留められ、その間彼等の処置について将軍に問い合わせがなされ、長崎に護送されること になった 女は都に置いてもよいと命じられたが彼女達は夫に劣らず堅固な精神と勇気を持っていて、夫を見放す ことはしなかったので、全員大坂に連れて行かれ、大坂から長崎へ大きな苦しみと不自由を味わいながら行った 何故なら一人の料理番も付けられていなかったので、婦人達は今まで学んだことのない仕事をしなければならな かったからである (1614年年報) ・右近一行が坂本に到着すると、右近の影響力をよく知っている奉行は、都のキリシタンが反乱を起こす危険性を 心配し、幕府から指示があるまで一行を坂本に留め置くように引き連れて来た加賀藩士に指示した 一行は30日 その城中に留め置かれ、その終りに長崎に送るようにとの指示があった 旅の同行者のなかには、孫だけでも救うためうわべだけでも幕府に従うようにとの働きかけをするものもあった ・・・・ しかし、かえって彼らが決して棄教しないという決意を固めさせることとなった 坂本で右近一行のなかで、南坊から収入を与えられていた幾人かの従者や、旅の同行者はキリシタンで、その信仰 は固く、降伏(棄教)したのは 4~5人であった ・一行から奉公人や女中を全て取り上げた 食事の支度をするための者さえ一人も残さないようにした それにもかかわらず、坂本から大坂までの行程中ずっと、彼らが宿泊した家々では、奉仕を申し出る者がいたが、 衛兵たちはそれを許さなかった 大坂で乗船して出発した 大いに不便に耐えながら航海して、長崎に到着した (1614年イエズス会年報、コリン右近伝) 長崎への船旅は召使がいなかったので、右近は自らと孫の手で食事の調理さえせねばならなかった (ラウレス高山右近の生涯 -都における迫害 大久保による内藤ジュリアの迫害-) ・右近が金沢を出立し坂本に留まり、長崎に向かうとき、都では右近とマニラへの航海を共にするようになる内藤ジュリア (内藤ジョアンの姉妹)に対する過酷な迫害が行われていた この事と照らし合わせて、右近の坂本の滞留期間を 味わうと、右近とその家族の、処分が下される坂本での滞留期間中の緊迫感が伝わって来る [右近が坂本に滞留中に行われた都の迫害] ・右近が坂本に到着するのは恐らく2月25日で3月25日頃までそこで滞留したと思われるが、その間、家康より都の キリシタンの処分について委託を受けた将軍秀忠の筆頭年寄大久保(小田原城主)が300名の武士と共に、 2月26日都に到着し、都の教会等を破壊し、キリシタンは棄教しなければ火刑に処すと脅迫したが、何の効果も なかった 当時、大久保は大御所政治を行う家康の側近本多父子(岡本大八事件の関係者)との対立関係が 表面化し、失脚の危機にあったので、大久保はその危機を回復すべく都でのキリシタンの処分を徹底的に行う 必要性に迫られた都では京都所司代板倉によって既にキリシタンの名簿(約七千人のうち四千人が作成され、 千六百人を家康に報告)が作成されていた このような状況を宣教師は次にように記しています 幕府の策謀と動きが実によく分かります 【日本殉教録】 ・有馬の迫害行われていたが都等では平穏であったが、嵐の予兆が起きた ・1613年12月27日、都の所司代板倉が、キリシタン全員の名簿を作成するように命じた 伏見、大阪においても 同じことが命じられた その原因・目的がわからなかったから驚きをもって受け止めた (長崎奉行長谷川左兵衛の言葉:有馬・都の処刑されたキリシタンを信徒が敬った事を非難、宣教師追放を主張) ・長崎奉行長谷川左兵衛と将軍の重臣後藤庄三郎からそれぞれ書状が届いた それには、「キリシタンは主君を 敬わない、有馬では悪人として処刑された者を崇拝し、彼等の遺物を身に付け、都でも磔になった者を多数の 者が拝んだ かかる事を教える宗教は悪魔のものであるので、日本では受け入れることができない」といった内容 のことが書いてあった 左兵衛は次のように言った 「もう「救済手段はない、将軍は宣教師を一人も日本に残して はならないと命じた これを実行するため、江戸に戻らなければならない」 ・左兵衛は、将軍に次のようなことを言った 「彼等(キリシタン)は不従順・頑迷で謀叛を起こしやすく死を恐れず、 悪人の名称を受けても死ぬことを誇りとし、そのような人々を尊敬し、崇拝する」 左兵衛の兄弟は次のように 行った 「キリストは悪人の名称を受けて十字架で死んだ、それでキリシタンは同じ名称で同じ死を遂げることを 誇りにしている」 また、左兵衛は都のキリシタンについて次の事を言った 「有馬領のみでも、このように頑迷で あって、領主にも将軍にも従わせることができないのであるから、都の人々が既にキリシタンになっているように、 もし、日本の大部分がキリシタンになったならば如何なる結果になるであろうか 日本にパードレがいる限り、 これに対抗する手段はない」 将軍は誇張された話を信じ、宣教師の追放と残酷な迫害を行うことを決心した 「宣教師には教会・修道院などを没収するがそれ以外の罰は科さず追放する 日本人の信徒には命令に従わ 無い場合処罰する」と将軍は言った これに基づき、江戸で用いれらた手法であるキリシタンの名簿作成が命じら れたのである ・これに対し取った手段は悉く無効に終わった 1614年2月12日、「日本いるパードレは全員長崎に送られ、教会 と修院は全て取り壊す」という明らかな命令が下された 14日に都のイエズス会のパードレにこの命令が伝えられ 、パードレから下僕に至るまでの修道院の全ての関係者の名簿提出を求められた しかし8人のパードレのうち3 人、イルマン7人のうち3人、同宿20人のうち6人の名前を提出した 追放されたパードレは2月21日に出発した 伏見につくとフランシスコ会のパードレが既に船に乗っていた そこで、長崎まで連行する役人に引き渡された 夜明け前に大阪に到着し、そこで、大阪や加賀・能登から 連行されたパードレたちと合流した 25日大阪を出帆した 同様に広島・安芸・備後・豊後・肥前の諸国、 大村・志岐・上津浦の島々のイエズス会のパードレも追放された 結局日本の教会で取り壊されなかった 教会は一つもなく、各地に隠れて残った少数の者を除いて宣教師は悉く長崎に集められた その当時、長崎にはイエズス会の四つの駐在所、一か所ある神学校と学院、慈悲の家、病院、諸聖人修院、 及びその近くの修院ニ軒があった ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスティヌス会の修道院が三つ、日本人 在俗司祭の教区が四つ、以上は小さい礼拝堂を含んでいない イエズス会だけでも、87の駐在所・教会・礼拝堂 を失った (都・大坂の迫害) 次に紹介するイエズス会の1614年の年報とほぼ同じ内容であるので省略する 但し内藤ジュリアについて、特筆 すべきことだけを紹介します ・ジュリアは丹波の国の身分の高い領主に嫁いで寡婦となり、比丘尼として14年間苦行の生活をした 日本人 イルマンからキリシタンの信仰を知り、1596年オルガンティーノ神父から洗礼を受けた 福音を伝えることを 熱心に行った 彼女の思慮や優れた模範によって、彼女の家はキリシタンの女性の隠れ家になっていった ・所司代の甥などが五日間、棄教を勧め、あるいは賞を約束し、あるいは処罰で威嚇した 表面だけ信仰を 捨てたことにして名簿から名前を抹消すれば救える そうしなければ、裸にして市中を引き回すと脅した 彼女らは「名前を抹消しても大声でキリシタンであることをふれ歩く」と答えた 群れをなしてやってきた警吏らは 彼女らを俵に詰め身動きができないように縛り上げ、肩に担いだ棒に吊りさげ、多数の武装した兵士がつき、 街路を歩きまわった かのじょらは市外の悪人を処する場所に運ばれ、その日と翌日の寒気と雪の中にその まま置かれた 憐れみをかけて来た仏僧や連れ戻され戻った者もいたが堅固に信仰を示し続けた 終に 一キリシタンの家に預けられた ・・ ・同じ圧迫・戦いが大阪にもあったキリシタンの堅固さは都に劣らなかった 俵詰も行われた (捉えられた人の追放) ・都と大坂のキリシタンは一ヵ月間捉えられていた 将軍の宣告が来て、捉えられているもの全員妻子と共に、 津軽に追放すること、内藤ジュリア達は日本から追放するため長崎に送ること、名簿から消されたものは 日本の宗派の何れかに入ることが命令された 都と大坂の73人が4月13日追放地に向かって出発した ・・内藤ジュリア達は長崎の信心会、特に慈悲屋の暖かい愛情に接した ・都においては矯正や欺瞞によって多数の人々の名を名簿から抹消した ・・ (とにかく、将軍に良い結果を報告できるようにとの、役人のなりふり構わない、必死の努力が行われたことが 伝わってくる キリシタン達は信仰を表に出すことをためらわなかった この確信的な信仰に感嘆せざるをえない) 【1614年の年報】 (都に着任した大久保の迫害 キリシタンの名簿作成など) ・1613年の都の教会には8人の司祭と7人の修道士がおり、イエズス会の霊操・修業によって蘇がえり、教団の教会 と建物は完成したばかりで、繁栄していた 都の所司代はやってきた当日にキリシタンの登録を命じた この迫害に対し、信徒を守るため、司祭修道者は総動員して様々な地域の教会に派遣された 教会ではミサ・ 行列・断食・鞭打ちその他の勤行を行った ミゼリコルジヤの組や彼等の私宅で大祈祷が行われた 30日かけて作成された名簿の数は、四千人を超えてはいなかった 報告する数を少なめにすべきと考えた 所司代は、実際は七千人以上いるにもかかわらず、千六百人と将軍に報告した 追放を知らされていない 所司代(大久保)は教会の破壊を命じた 伏見にあったフランシス会の修道院・教会も破壊された また、都にキリシタンはいなくなったと報告できるように、名簿から名前を取り消すなどあらゆることをするように 都の地区の管理者・指導者に命令した かれはすぐにキリシタンの家家に行き、聖像などの聖なるものを破壊した (日本初の女子修道会をつくった内藤ジュリア達の模範的な対応と迫害 俵詰にした市中引き回し) ・一部名前の取り消しに応じた者もいたが大部分は志操堅固にふるまい、輝かしい模範を示した 第一の模範は 数名の女性たちである 彼女等は貞潔の誓いをたて、ジュリアという高貴な婦人に服従し清貧まもっていた 彼女たちは修道女であり、尊敬に値する 彼女たちの意志の堅固さは何日も渡って試みられた あらゆる説得が試みられたが、きちんと信仰教育を受けていた彼女等にはなんの効果もなかった そこで、彼女らのうち9人を俵詰という屈辱的な拷問にかけた 市中を引き回まわされ、川の岸辺に置き去られた ・一軒を除いてすべての家がキリシタンであった「松原」という地区でも、この俵詰は行われ、27人全員これに耐えた (内藤ジュリア達への迫害の要旨) ・都のイエズス会の教会の近くに内藤ジュリアの指導の下18名の日本人キリシタン婦人がが修道院的生活をして いる質素な家があった 大久保はこれに着目し、棄教しなければ裸で市中を引き回すと脅し、若い9人は救われた が、年長の9人は祈祷によって戦いの準備をした 処分の日、9人は米俵につき込まれ、手足はくくられ、首だけが 自由にされ、一本の棒に二つづつ吊り下げられ状態で肩に荷われ、刑場まで市中を引き回された 刑場では深い 雪の中に 彼女等は一昼夜さらされた 棄教を勧められたが雪中の厳しい寒さにひるまず堅固に踏みとどまった 大久保は同様の方法で京都・大坂のキリシタンに対し暴行をはたらいたが棄教させることはできず、捕縛し家康 からの指示をまった 4月なって棄教しないキリシタンは最北端の津軽に拘引され、一方内藤ジュリアとその仲間は 長崎に拘引され、国外追放とされた 全国的な禁教令は将軍秀忠と大御所家康という二重権力構造の中、本多・ 大久保の権力闘争の中で行われ、大久保は都にいる間、小田原の城を占領され、その後改易された ・都と大坂のキリシタンたちが、日本の果てや長崎に強制的に追放されることとなった 都の47人と大坂の24人は 大津・敦賀を 経て長崎に送られた 残された信徒は厳しい迫害にさらされた (マニラ追放後の内藤ジュリア達) 片岡弥吉著の日本キリシタン殉教史(P225) それによれば、修道院跡は日本人村サン・ミゲルにあったそうです ・1614年の禁教令で都の市中を俵詰にされて引き回された日本初の女子修道会ベアタス会のジュリア他14人は、 長崎に送られ、ミゼリコルディアの家などで過ごした後、ジュリアの兄内藤ジョアン、右近達ともにマニラ に追放 された マニラでの彼女らはイエズス会の小教区であった日本人村サン・ミゲルに修道院を建て、修道生活を 送り、マニラの土となった 生活費はマニラの高官夫妻が贈り、ジュリア達は修院での祈りと原住民や日本人の 悩みの相談に乗っていたそうです ジュリアはマニラ到着から13年後62歳で亡くなった ルシア・デ・ラ・クルスがその後の院長となり、更にその後にテクラが院長「となり、二人はコレジヨ・デ・マニラ に埋葬され、他のベアタス達はサン・ミゲル教会に埋葬された 1684年同じ場所に、フィリッピン最初の女子 修道会が誕生した それまで、ヨーロッパ人以外の修道会の創立は認められなかった 日本人修道会の存在が 半世紀後にその創立を促す機縁となった ・片岡弥吉氏は昭和12年2月ジュリア達の修道院跡を訪ねた その場所はパシグ河の左岸でサン・マルセリーノ街 (この一帯がかつてのサン・ミゲル村)で、高山右近研究家でマニラ在住のマニラ大学教授リべッティ神父が考証 されていた場所であった そこには女子修道会経営のサンタ・テレジア女子学院があり、その中庭には一本の 記念木標が建っている これは昭和12年2月7日マニラで開催された第33回万国聖体大会の日本人参加団 (団長田口芳五郎枢機卿・当時大阪教区司祭)の手で建てられたものである ・昭和12年2月に撮影された、ベアタス修道院跡(サンタ・テレジア女子学院)写真が掲載されている 内藤ジュリアについては、片岡弥吉著の日本キリシタン殉教史223~227 342~343に詳しくまとめてあります 「日本最初の女子修道会」というタイトルで紹介されています 実に感動的な物語です 宣教師の記録に書かれていない所を少しだけ紹介します ジュリアは、1566年頃生まれた 22歳で比丘尼になり、 京都の近くの小さな庵に住み勤行と仏道弘布に専念した 知性豊かで心清く美しい女性であった 毛並みのよさから 京都の上流婦人に人気があり、北の政所も信頼していた 31歳のとき受洗し、大奥の婦人達等に教えをひろめたの で、仏僧たちの反発を招いた 1601年名門夫人をキリシタンに導いた事から、家康に訴えられ、探索命令がでた オルガンティーノ神父は九州に逃れさせた 有馬晴信とジュスタ夫人はジュリアを匿った 1602年か1603年頃、 家康の命令で丹波に戻り、京都に行き、殉教の覚悟で持って、伝道を再開した ジュリアに共鳴した人達が集まって 修道会をつくったのは1596年頃であったベアタスと呼ばれ、下京四条町にあったイエズス会の教会に隣接して修道 院があったと考えられる 追放された頃には20人が修道院で共同生活をしていた ベアタスとはベアタの複数形で、 ベアタは生涯を神と人への愛の奉仕に捧げ、独身で修行する女性をいう オルガンティーノ神父、モレホン神父の 指導によって会則を作り、清貧・貞潔・従順を宣立した 教皇からの認可を受けていないが、その他の点では、 公認された修道会と何等かわることろはないとコリンは言っている 彼女の修道会のは、二人の従妹、高級武士の 未亡人、朝鮮上流社会両班の出でのもの、大友宗麟の娘と思われるものなどがいた 前田利長の妹で秀吉の養女 となり、宇喜多秀家の夫人となった女性をキリシタンの信仰に導いたのはジュリアであった云われている マニラに追放されたベアタス会員はジュリア他14人である ②長崎での祈りと徳操の約200日の日々 (あらまし) 右近とその家族は、長崎には205日(4月中旬~11月7日)という長期間滞在した 右近の霊性という点では、 先にも記したが、毎日刑が執行されるかもしれないという死の恐怖に耐えながら、祈りと徳操の日々を過ごし、諸聖 人教会に引きこもり、心霊修行に勤しみ、2度の総告解をし、ミゼリコルジアの活動に従事し、眼前に迫る国外追放 処分という過酷な試練に備えたことです これまでの信仰生活の最終目的、すなわちパライゾに迎えられる真の キリスト者としてふさわしい霊魂の持ち主となるための十分なる霊的準備をしたこと、それは、この人生の最後の 局面でこれまで様々の人生の局面で示してきた信仰宣言を見事に成就させるためのものであったと考えます 長崎の町には、追放される多くの人々が集まり、信仰を鼓舞し殉教の覚悟を示す様々の苦行の行列が行われ、 ある種の高揚感が漂い、騒然とするなか、右近は、ただひたすら自己の霊性を完成させるための心霊修行と 慈善活動に勤しんだのであろう その姿は修道士のようであったと記されている (あらまし) 1614年5月頃、聖体の祝日の頃、長崎の人々や長崎に参集した追放される多くの人々が励まし合い殉教への 覚悟を固めた 祈り・ミサ・断食・苦行、苦行の聖なる行列、聖体の祝日の行列等互いに信仰を鼓舞しあい、 励ましあった このキリシタンの行動は禁教令の無視、反乱の始まりと報告され、幕府は長崎に兵を派遣した ポルトガルの貿易船が長崎に来航し、貿易の継続を期待する幕府が追放令を緩和するかもしれないと期待され、 江戸へ船長が使者を派遣したが、命令通り追放されることになった 10月の始めに将軍の命令が届き、10月27日には宣教師は修院を追い出され、教会は破壊された 追放命令 を確実に執行するため長崎とその周辺に兵が配置され、将軍側近の一武将も来たが、これはその後の有馬の 迫害のためであった 修院等を追い出された司祭達は、監視され漁夫の藁小屋の中で過ごした 追放の苦労から 1人の司祭が小屋で亡くなった 大勢の司祭達のうち選ばれた者を日本に残留させる事にした 11月7日、8日に 乗船が始まったが、選ばれた司祭達は、計画通り上手くいかなかった事もあったが、乗船後下船するなどして、 何名かの者は日本に残留した 右近とその家族はマカオではなくフィリッピンに行くことになった [日本殉教録 第14章 日本の司教の死及びパードレの追放] ・1614年2月16日司教セルケイラが長崎で帰天した (追放の宣告と殉教の準備) ・宣教師は、各所に隠れ留まった何名かを除いてみな長崎に集まり、宣告とその執行を待った ・長崎とその周辺の信徒は、教えを守るため、幾つもの信心会や10人の組に分けられた ・嵐が襲い掛かってくるという知らせが届くと、神の怒りを鎮めるため、ミサ・祈り・断食・苦行などに集まり、まず イエズス会内の礼拝所に御聖体を置いて40時間の祈りから始めた ・キリシタンの信仰の真実性を説明し、中傷を反駁するため、司祭が江戸に行こうと長崎奉行に働きかけたが 全く効果が無かった その間、公になって騒ぎを起こさないように用心深く数軒の主要な家に集まり、そこで 祈ったり、霊的話しをしたり、信仰の表明や殉教とその準備の話をよく聞いた そのため毎日イエズス会の 修院から6人あるいはそれ以上の説教者が出っていった ・5月に、長崎奉行からイエズス会管区長及び長崎の乙名に書状が来て、追放するための船を捜せという家康 の命令と、それを実行するため長崎奉行が間もなく長崎に到着すると知らせてきた 人々の信仰の熱意は 増加し、みな殉教のみ話し合っている ある人々は司祭達が追放された後、何をなすべきかを覚書に書いた 霊魂の救済に関しては意志強固でも、その他の事については従順である事を異教徒に解らせるため、信仰の 過度の熱意が謀叛の罪と看做されないようにとの忠告がなされた (聖なる苦行の行列) -(私見:有馬の殉教の際大勢の群衆が押し寄せた事を想起させる)- ・この熱烈な信仰は、信徒自身の手で、700人の贖罪者からなる聖行列が始められ、諸教会を訪れながら市中 を歩いた 米俵に入れられて縛られた者、十字架のように組んだ木に手足や全身を縛った者、脚の筋肉を 二つの銃身で締め付けそれが肉に食い込んだ者、8~10人の組をなして肩の上に乗せた太い材木で枷の ように首をはさんでいる人々がいた 他の組は腰に材木を縛り付けてあって、誰かが歩を乱すと他の者に迷 を与えた 多数の者が腰まで裸になり棘のある枝で体を巻きつけている者があり、毒は無いが時々体をかま れていた 石で胸を傷つける者、枷と鎖を体に付けて苦行しながら行く者もいた ある者は十字架に強く縛り 付けられ、他の者がこれを肩に担いで行って教会の庭に十字架の旗のように高く立てた この聖行列は、神の怒りを鎮め、信仰の表明のため様々な苦しみに耐えようとする希望示す意図を持って 行われたもので、一週間午後1時か2時から夜まで続いた 時には一つの教会に、様々の形の聖行列が三つ も四つも重なりあう程盛んに行われた これを見る人々は涙を流し、神の啓示と呼びかけほど、熱意を持って 応える者は神が決して見捨てないという信心・信頼を心に呼び起こした (聖体の祝日の荘厳な聖行列) ・結局長崎奉行が既に近くまできたのでその到着とともに教会やキリシタンについての最後の決断をしなければ ならなかった イエズス会管区長であり日本司教区管理の責任者であるカルヴァ-リョは荘厳な40時間の祈り を捧げる事に決めた ・聖体の祝日は、荘厳な聖行列によって始められた 丸三日間説教が行われ、それはキリシタン及び説教者の 深い信心と多くの涙を伴ったので、それ以上行事を進行させる事が出来なかった 大群衆が集まり幾つかの 信心会の人々が御聖体を拝みに来た 多数の人が聖体拝領し、終には聖霊の熱と火が彼等の心の中で燃え 、殉教への希望が信仰の表明のためには強い精神を保持できるという期待を与えた (他の地域への励まし) ・長崎の人々を援けるための努力だけでなく、司祭達は上の地方に匿れたためいなくなったので、他の人々が 秘かに筑後・筑前・豊前の諸国や広島及び五島・志岐・天草の諸島、有馬・大村領を歩き回って、心の堅固 な人々を励まし棄教者を立ち上がらせた (幕府兵を派遣する) この数日間の群衆のキリシタンの信仰心を堅固にした特別な熱意と贖罪の行為は、長崎奉行の家来には、 キリシタン禁教令の無視や反乱の始まりであると看做され、長崎奉行、将軍に知らされ、駿河殿(山口直友) が兵と共に派遣され、周辺の領主とくに薩摩の大名がこれを支援するよう命じられた 長崎奉行が到着した (宣教師追放のため長崎に出兵していた大村純頼、松浦隆信、鍋島勝茂、寺沢広高、有馬直純、細川忠興等 近隣諸藩や薩摩の島津等の兵も加わり総数は一万人にも達した 日本キリシタン殉教史・片岡著) (ポルトガルの貿易船の長崎入港と追放処分緩和の要望、将軍の拒否) 将軍・長崎奉行はポルトガルの貿易船の到着を歓迎し、貿易保護の態度を強く示し、将軍はパードレを追放 しても貿易は続いているかと何回か訪ねたそうである このポルトガル船の船長は、イエズス会管区長の依頼 によって、司祭達の日本滞在を認めさせるための、長崎奉行を仲介とする交渉を引き受けた 船長は少なくとも 長崎に1~2の教会を存続させるため江戸に行く事を申し出た 長崎奉行は書状を書くので使節を派遣するように と言ったので、そうせざるを得なかった 使節(メスキ―タ神父)が江戸に派遣され、悪くは扱われなかったが、教会 と宣教師の件は何等配慮される事はなく、将軍は次のように語った 「如何なる事があっても、宣告どおり実行しなければならない なぜなら太閤様の時代に二度彼等の追放を 命じたのに、ただ長崎に教会が残っていたため、後にそれが諸国にあれほど広まったからであり、今、これを 全員日本から追放する力があるかどうか見ようとするのである」 (将軍の命令と追放処分の執行) ・10月初めに将軍の命令が届き、その月の内に実行される事になっていた キリシタンの悲しみと涙は改めて 激しくなり、聖秘跡や適切な訓示を受けて戦いの準備やお別れをするため、長崎とその周辺、遠隔の人々が 多数集まってきた ・長崎奉行は「1日たりとも引き延ばしてはならない 宣教師達は1人も残してはならない 手を縛ってでも、 毀れた支那の船にでも乗せなければならない 航海中に沈没しようが、支那人に殺されようがかまわない」 と言った これを確実に執行するために、多数の兵が薩摩・肥前・平戸・大村その他の諸市に入った この 執行状況をみるという名目で将軍の側近の一武将が江戸から到着した(これは有馬の残忍な執行のため であった) 終に10月27日、宣教師全員が修院から追い出され、教会は破棄されて、日本に残っている 教会は全くなくなった (日本に残留することになった司祭達) ・この時、イエズス会会士の司祭修道士は117名、その他布教援助のため学院で教育されている同宿及び 既に現在仕事をしている同宿が大勢いた 又、フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスティン会の司祭22名、 イルマンが4~5名いた 日本に残留する事を希望しない者はいなかったが、多数の者が残る事は困難で あり、お互いが妨害となる恐れがあったので、司祭修道者併せて30人近くのイエズズ会士が残るように、 秘かに指示された 良く知られている者は乗船のための検査には姿を現す必要があった 管区長及び管区の 重要な人々が残ることとなった 一旦乗った船から降りるために海上に数隻の船を準備したがそのつもりでいた 者が集まる事が出来なかったので、陸に25人が残った 沖まで監視人がついて行ったので、管区長とその他 の2~3人の者は下船できなかった 他の修道会及び在俗聖職者の何名かの者も下船した これは11月7日 か8日であった 教会や修院から追い出された後、船の準備される間、司祭達は漁夫の藁小屋の中で、監視 されながら苦しい生活をしていた 出帆の少し前に、療養が必要であった、日本に39年いた司祭メスキ―タ (遣欧少年使節に随行)が、追放苦労が原因となって、小屋の中で亡くなった (右近や内藤ジョアンとその家族、ジュリアとその伴侶はフィリッピンに追放) ・ドン・ジュスト右近殿も妻・娘・孫5人及びその他の一族と共に追放され、ドン・ファン内藤も子供や孫と共に、 ジュリアは伴侶と共に追放された 甚だ非人道的に扱われ、下僕は1人も乗船が許されず、役人は彼等が 平戸にいる2隻のオランダ人の手中に捕らえられればよいと望んでいるように思われた 実際オランダ人は 彼らを捜しに行ったができなかった ・全員がマカオに行く事が出来ないので、ドン・ジュストとドン・ファン、その一行及びイエズス会のパードレ8名、 イルマン15名、神学生15名はフィリッピンへ行った その他のパードレ及びイルマン及び50名近い神学生は マカオに行った 港には貿易船の多くのポルトガル人・スペイン人がいたが、長崎奉行は、聖秘跡を授ける事 を許さなかった 以上が1614年11月の日本キリシタンの状況である [長崎での右近の居住場所や生活の様子などを記す他の資料] (1614年の年報) ・右近は長崎はキリシタンの街であったので幾つかの慰安があったが、他方右近は毎日、自分に対して何が 計られているかわからず死の恐怖に堪えた (1614年の年報) 【右近が霊操に励んだ諸聖人修道院の状況について】 ・およそ2年間神学校があった 追放されることになったが、神学生を見捨てることはとても辛いことであった ので、身分の高い豊かな人達に引き取ってもらうことを考えた しかし、追放が延期されることになったし、 更にはポルトガル船の来航で事態が好転するのではとの期待もあって、管区長は、神学生の何人かを 連れ戻して、この神学校に入れておいた 彼らは留まって勉強している このようにして、有馬の地区長駐在修道院は、おそよ2年間この諸聖人教会のなかで保護されてきた ・諸聖人修道院には、キリシタンを指導教育するために、二人の司祭と二人の修道士がいる そこには ポルトガル船の貿易から何らかの生計に役立つものを受け取っていた者がおり、彼らのうち77名は、殉教 を覚悟したキリシタンを目の当たりにして、受洗を望むようになった ・諸聖人教会にはこの都市のキリシタンがいつも大勢集まってきている それは郊外にあるという快適 さのためだけではなく、それ以上の理由がある それは、上長たたちが諸地域から運ばれてきた者たち 全てをそこに埋葬してきたこと、そして10年か12年前から、ここが殉教者たちの墓地になってきたから である (私見)右近の父ダリオは長崎に埋葬されたと言われているが、その場所は諸聖人教会の付属墓地でほぼ間違い ないと思う また右近は父の墓参りを皆でしたであろう 右近達が何故諸聖人教会を訪れ、滞在し、右近はそこに 籠って霊操に励み、ミゼリコルディアの活動にかかわったのか、当時の諸聖人教会の役割を考えるとその意味が 実によく理解できる) 【右近がミゼリコルディアの活動をしたと思われるサンティアゴ病院・ミゼリコルディア修道院について】 ・サンティアゴ病院には、2~3人の司祭と修道士が居住している 本年は200人以上の大人とそれ以上の 子供が洗礼を受けた (場所に恵まれているので)常に多くの人々がミサや説教や告白に集まって来し、 病人も常に数多くいるキリシタン達の施しによる少なからぬ援助がなされている さらに一年のうちにしばしば 何人かの立派な身分の高い人々が病人たちの食事の世話をしたり、その後の皿洗いまでのことを している ・ミゼリコルジア修道院には2人の司祭と1人の修道士が住んでいる 司祭達は昼夜を問わず、病人たちの 告白を聞くために出かけていく さらに死刑囚の告白を聞いたり、処刑台まで付き添ったりしている 彼らは、このような聖務をかなりの回数行って、皆を教化した およそ200人の大人が受洗した 貧しい人々 を援助するため、諸地域から集められた1700スク―ドの施しが行われた ・都から長崎に追放された婦人達(内藤ジュリア等)は、長崎のミゼリコルディアやその他の信心会の修道会 たちによって手厚く迎えられ、必要なものが全て備わった部屋が思いやりを持って与えられた ・以上が年報の記述であるが、ミゼリコルディア修道院とは、ミゼリコルディア本部のことで、サンティアゴ病院 とは、本部の附属病院であり、この病院の付属教会がサンティアゴ教会のことなのであろう *ミゼリコルディア本部跡とサンティアゴ病院・教会について ・長崎の元々の形は湾に突き出た細長い岬の台地を中心に埋め立てれて形成されたもので、1570年 の開港以降、各地で迫害され、宣教師と共にやって来たキリシタンによって最初の町(6町)が形成さ れた 岬の先端には「岬の教会(その後日本で最も美しい教会である「被昇天のサンタ・マリア教会」に建て 替えられた)が建てられた 1580年大村氏は長崎をイエズス会に寄進し、イエズス会はここに本部を 置いた 長崎のミゼリコルディアは、1583年創立され、本部は長崎地方法務局(長崎市万才町) 当たりに置かれたと言われている 創立二年目には会員が100人近くなり、1591年にはハンセン病 (2)、養老院(男女各1)、育児院(1)、墓地(1)を経営した 禁教令が出された1614年には7つの 病院を経営しており、サン・ラザロ病院、サン・チャゴ病院、浦上のハンセン病院が知られている その後もその役割の大きさから破壊を免れたが、1620年終に壊された ・長崎地方法務局と長崎地方検察庁の間の道路に「ミゼリコルディア本部跡」という説明板が設置して ある この道路の段差部分には階段が設けられている 恐らくこの階段になっている段差部分が埋め 立て前の当時の海岸線であったのであろう この段差部分は「大音寺坂」と言われてそうで、この坂の 上にミゼリコルディアの本部があり、ここから少し離れた所にサン・ チャゴ病院と教会があったので あろう 説明板には、ミゼリコルディア本部について、「1583年、日本人キリシタンのジュスティーノが 建てました ここにはキリスト教思想による孤児・老人施設がありました 1614年のキリシタン弾圧後も この施設だけは残されていましたが1619年姿を消しました 慈悲屋と呼ばれ、後世まで語り継がれ ました・・」と記さています 1612年のミゼリコルディアの手紙には、組長として慈善・福祉事業に活躍 した了悟興善という人名が記されていて、彼は貧困にあえぐ人々などを対象にした「信心の山」という 低利子の融資事業を管理していたそうです なんと津軽までお金を届けたこともあるそうです サン・チャゴ病院の教会の鐘は1612年の制作で、大分県竹田市の中川神社に現存しているそうです (完訳フロイス日本史12 第90章 1589年頃の長崎のミゼリコルディアの記述) ・長崎では、ポルトガルの聖ミゼリコルディアの会にならって、数年前にミゼリコルディアの会が設立 し、マカオの会の規約と会則を採用し、この会則により統率され、120人の会員がおり、聖母訪問の 祝日に管理者などの役員を決め、彼らはポルトガルのように黒衣をまとい毎週集まり、会の家屋の 管理、三つの病院(男子老人用、女子老人用、癩病患者用)を経営しや貧者への施しをしている 長年長崎に住みこの事業の発起人の一人は堺出身の老夫婦、とりわけ妻の働きは献身的であった 【幕府と追放処分について掛けあうために司祭が派遣された】 この掛け合いが上手くいくようにとの願いで、兄弟会や信心会による大祈祷会を催し、司祭の派遣費用を 賄った 【司教セルケイラの死去】 【家康への讒言と兵の派遣】 -長崎のキリシタンは暴徒化している-家康の怒り- 長崎奉行長谷川左兵衛が駿府に行っている間に、同奉行の配下の者が、このままいけばやがて長崎の キリシタンの暴動に繋がるであろうと思った、様々の不服従の兆候を箇条書した書状を、同奉行に送った しかし、既に長崎に戻る道中にあった奉行とは行き違いになり、直接駿河(家康)に届いてしまった 書状 を見た(家康)は怒り狂い、同奉行が戦に慣れていないことを心配して、暴動鎮圧のための50人の兵士を 率いる武将(山口駿河)を長崎に派遣した 長崎に戻った同奉行は、キリシタン達が暴徒化する状態では ないことを判ったが、駿河の(家康)は既に暴徒化し蜂起していると思っており、派遣された兵士たちも 長崎に来ているので、諸聖人教会の土地に兵士たちを宿営させた 派遣された武将山口駿河は、 キリシタン達への攻撃の必要が生じた場合には、薩摩等周辺の諸候を救援に呼ぶようにとの指令を駿河 の家康より受けており、長崎到着後すぐに、長崎奉行に準備ができていることを知らせた 山口駿河は、何日か掛けて実情をみたところ、長崎のキリシタンたちの暴動・反逆・戦闘的な示威行動は ないと判ったのでその旨を駿河の家康に報告した しかし長崎奉行は、未だ先の箇条書の兆候に固執 するキリシタンがいることなどを駿河の家康に知らせたところ、家康は以前によりもはるかに増して怒った (様々の不服従の兆候とは、恐らく長崎とその周辺、遠隔の多数の信徒が長崎に集まり、ますますその信仰を固め、 ミサ・祈り・断食・苦行などのために各教会に集まり、長崎市内の教会を巡りながら、「聖なる苦行の行列」を行った りし、街中がある種の興奮状態にあったことを指しているのであろう) 【ポルガル船が来航し、家康に司祭の一部残留を嘆願する】 ポルトガル船の長崎への来航は、家康を大いに喜ばせた、宣教師を追放しても貿易は継続されるかと 尋ねたそうだ ポルトガル船の船長は宣教師らの状況を見て、気の毒に思い家康との掛け合いを行う ため、家康のもとに行こうと考えたが、長崎奉行の反対にあい、断念した しかし、船長は配下のものを 家康がいる駿府に派遣したが、無駄に終わった 秀吉の伴天連追放令の頃、長崎に教会を認めたせいで 、日本全体にキリシタンの教えが残ったことを指摘し、一人の司祭も残すことはできないと、家康が言った いう噂がたった 【追放令が長崎に届き、遠方からも、多くの人が長崎に集り、最期の告白・聖体拝領をする】 駿府の家康から最期の追放の布令が、長崎に届いたということを、10月初旬、宣教師達は耳にした このため、これが最後かと、入りきれない程の多くのキリシタン達が告白をするために諸聖人教会に集まっ て来た 六千人もの人が、聖体に最期の暇乞いをするかのように、聖体拝領したが、これらの人は、近くの 人達だけではなく、遠く離れた国々、なんと上の教会からや、東日本のずっと果ての教会からも集まって きた人達であった 来れなかった人達は書状を書き送って来た まだ告白できない幼児や少年は、愛の 証しとして、聖像やメダイやロザリオを求めた 【イエズス会司祭18人の残留計画を建てる 追放後の行き先がマカオとフィリッピンに分かれる】 イエズス会員116人のうち、一人の司祭(ガスパル・カルヴァリョ)が亡くなり、115人となり、そのうち、18名の 司祭が、ずっとキリシタンが多い地域に、彼らを鼓舞するため残留する決めた また、全ての会員がマカオ には行けないので、20人強をフィリッピン諸島、幾人かを交址シナに送ることにした イエズス会員の追放後もポルトガル船は残るので、幾人かの司祭の残留を認めるように要請したが、実現 できなかった 長崎奉行たちは、一刻も早く長崎を出ていくことを望んでおり、毎年恒例のように何隻が 海の藻屑となるような危険な船への乗船を望んでいる 【南坊と内藤徳庵達の追放】 南坊、内藤徳庵、都の女性達(内藤ジュリアン達)は、フィリッピン諸島へ航海するようになっている また、 別の女性はマカオに渡る 南坊を例外として、全員が全ての財産を剥奪され、長崎では施しを受けて 暮らしていたので、イエズス会は彼らの航海に必要な物を賄い準備するための金子を彼らにあげた 【最期に】 日本にキリスト教が布教されて以来、実に酷いを迫害され、教会が破壊されてきたが、今回の迫害は キリシタンの息の根をとめ、根こそぎにしようとするものであり、かつてこれほど厳しく命令が実行されたことは なかった 残されたキリシタン達を援けることができない悲しみと慙愧の念や、多くの宗教書をのこしたこと、 聖職者らのほか、数多くの同宿や相当数の修道士を残していくことやいずれ日本に戻ってきたいという 強い願望が感動的な言葉で記されている (1615年の年報) -右近の長崎滞在はまさに祈りと徳操の日々であった事が記されている- ・彼等(右近達)は、ただ一人の僕を持つ事を許されず、さらに20日不自由、かつ苦労多き旅を重ねた後、 長崎に到着し、そこで、キリスト教修道士達から、心なるもてなしを受けた 11月8日行われたと言われて いる出発まで、彼等は全ての時間を祈りと徳操に過ごした 右近は大いなる信心を以て、心霊修行 並びに二度目の総告白をし、大いに感動し、いたく涙を流したので、あたかも修道士のように見えた そして更に、感嘆すべきは、右近は乗船前に殺されるかもしれないとの知らせがあったにもかかわらず 、安んじて満足気に過ごしていた ・右近は、最初の出発に日から乗船するまでの150日を超える間に、殺される思いをしなかったのは2日に すぎなかったと司祭に語った 幾人かの親しい武将達は、右近を訪ねてきて、右近の救罪について 討議することを申し出た 秀頼は、右近を総大将に迎えたいと切望した しかし、右近はこれらに微笑し、追放を世の何物とも変えたくないと述べた (コリン著の高山右近伝) -右近が「諸聖人教会」で心霊就業・総告解した事が記されている- ・長崎に滞在している間、ドン・ジュストは祈りと聖なる秘跡をたびたび受ける事で時間を過ごし、これらを武器とし、 また、その他霊的武器によってこれから起こるべき事態に対する準備をした イエズス会がこの市にもっている 諸聖人教会に引きこもっていて、彼が最後に行った心霊修行と総告解以来、今再びそれを繰り返したが、深い 痛悔の心で罪をきわめて率直に告解したので、聴罪司祭も困惑したと述べているほどであり、最も忠実な4修道士 にもこれ以上の完全な事を求められないほどであった (日本キリシタン殉教史 片岡弥吉著) ・右近は、ミゼリコルディアの組という社会事業団体に加わって、隣人愛の仕事を手伝った ・トードス・オス・サントスは、追放された神父達の宿となった 右近は「鳥の羽屋敷」にいたと「六本長崎記」は伝える が、上町にあったと記されるだけでどんな場所であったかは分からない (チースリク 高山右近史話) ・長崎での右近の居住場所の解釈について、チースリク神父は次のように記されている 右近達はトードス・オス・サントスに身を寄せたと宣教師の一次資料では記されているが、この教会を訪れたか、 その付近に住んでいたと解釈すべきであろう とうのは、長崎に集合して来た全国の宣教師の数は多く、イエズス会の4つの教会、コレジヨ、ミゼルコルジア、 サンチャゴ病院、そして当時郊外にあったトードス・オス・サントス修院に分散され、満員であったこと、また、 右近・内藤は家族であったので、右近達は、教会関係の施設とは別の、長崎奉行が指定した屋敷で過ごした に違いないとし、「六本長崎記」の記事(・・出船まで、東上町鳥の羽屋敷に置きて、数多の番人を付けらる・・) を紹介している トードス・オス・サントスは数日間の黙想の間いたのであろう [右近の長崎での生活に関する私見] ・わたしは、1615年の年報で、右近は11月8日の出発まで全ての時間を祈りと徳操に過ごしたと明確に記さ れており、コリンは諸聖人教会に引きこもりと記している 「右近史話」の解釈は居住場所に拘りすぎて、右近の 霊性に視点を当てた解釈としては如何なものかと思わざるを得ない 右近と内藤の家族全員がトードス・オス ・サントスにずっと住んだとは思えないが、右近はトードス・オス・サントスで心霊修行に毎日励んだと素直に 読めば何ら問題は無いはずです 私は、右近は約200日もの間、心霊修行とその祈りの実存的実践で あるミゼルコルジアの活動に勤しんだと解釈します (海老沢氏も同じ考えを記されている) 心をつくし力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛するという最も大切な神の掟を人生最後の場面で 完墜させるためのもので、それは死を覚悟した、自らの永遠の命が確実にパライゾに招かれるための 完璧な準備であったと解釈します その方が一次資料に忠実な解釈と考えます 居住場所がトードス・オス・ サントスではなかったという解釈から、右近の心霊修行は数日間であったと解釈するのは如何なものかと 私は感じます *諸聖人教会とは ・トードス・オス・サントス教会ともいわれる ・トードス・オス・サントスとはポルトガル語で諸聖人の意味 1570年頃長崎を治めていた長崎甚左衛門純景(大村純忠の家臣で受洗し宣教師を保護した)が菩提寺にして いた寺をイエズス会に寄進して建てられた長崎初のイエズス会の教会と言われている ルイス・アルメイダ修道士 やヴィレラ神父が住んでいた時期もあったようです 「1500人のキリシタンを教え、・・仏寺を改造して、小さい 教会ながらも美しい教会として“トードス・オス・サントスと命名した」(1571年10月20日付ヴィレラ神父の手紙) ・先に紹介したように、1614年の年報に当時の教会の様子が記されているので参照されたい その中で特に興味 深いのは、この教会の墓地は、上長達の埋葬場所であり、ここ10年か12年前から殉教者の墓地となっており、 そのため何時も多くの人が集まって来ているという箇所です 右近達家族に洗礼を授けたロレンソ修道士は ここで、生涯を終えたと言われています また、右近の父ダリオは長崎に埋葬されたと言われているが、その 場所は恐らく、諸聖人教会の付属墓地でほぼ間違いないとわたしは思います 現在の寺の墓地は急な斜面に 張り付くように密集して設けられている 恐らくこの墓地がつくられる前にあったキリシタンの墓は、一か所に 集められ祀られたのではないかと想像します とても見晴らしの良い場所です ・現在は春徳寺(臨済宗建仁寺派)が建っている 寺院の山門の前に、県史跡指定トードス・オス・サントス教会 跡、コレジョ・セミナリオ跡と記した石碑と説明板で設置してある 見晴らしいの良い高台にあり、右近の時代は 長崎湾が見渡せたであろう 付近にはアルメイダ渡来記念碑やたばこ栽培発祥の地を記したものもあった ・寺の境内には、キリシタン井戸があり、その傍らに教会の祭壇に使われたのではないかと言われている大理石 が置かれている 見学は事前の予約をされる事が必要です 死を覚悟した右近が最後の心霊修行に励み、 殉教の覚悟を固めた地で、思いを馳せ、祈りたいものです ・春徳寺は長崎市夫婦川町11-1 路面電車で新中川町で下車し、少し戻り、山手に上ると春徳寺通りに出る そこに道案内があるので、迷わず行く事が出来る (モレホン神父とはどんな人) [日本殉教史片岡弥吉著] ・1562年スペインに生まれ、1577年イエズス会に入り、日本伝道を志して、遣欧少年使節と共にリスボンを 出帆し、1587年インドゴアで神父となり、1590年7月長崎に上陸した 天草のコレジオの教師をした後、 大坂に移る 1614年宣教師追放令によってマニラに行き、翌年マニラからメキシコ経由でスペイン、ローマ に向かった 追放後も日本の情報を収集し、日本の殉教史を書き続けた 殉教覚悟で日本への潜入を計っ が果たさずマカオで1639年死去した [高山右近の研究と資料 ラウレス神父著] ・ペドロ・モレホン神父は、ルイス・フロイスやジョアン・ロドリゲスに次いで日本布教編纂史者の代表的な人物で ある ・・1586年インドに赴き、その後日本に派遣された 彼は主として京都やその周辺で活動し、1614年、日本 管区の代表としてマニラ、メキシコと経てローマに赴いた 1620年再びローマに派遣され、余生をマカオで過ご した 1633年マカオの学院長となり、同年逝去した モレホン神父が書いた26聖殉教者の報告、殉教者報告 (日本殉教録)、日本教会史に関する報告が現存している 【日本殉教録】 モレホンは、右近の死後、1615年6月マニアを発ち、翌年アカプルコに着き、約1年間メキシコで過ごし、 その後1617年1月にマドリードに着いた メキシコ滞在中、1614年の年報と1613年の有馬の殉教記録を 一冊に本にして出版した メキシコで再版され、1617年スペインのサラゴサで第三版が出た 第三版には 一層詳しい右近伝を入れた 右近のマニラ追放に関する記述は極めて重要な一次資料であるが、しかし、 右近のそれ以前の前歴に関する記述は、カルタスに依拠しており、二次的価値しかないそうです (内藤ジョアン(如安)について) (内藤飛騨守忠俊 ドン・ファン徳庵) ・内藤如安等10人(内藤ジョアン、内藤夫人、4人の子供、4人の孫)が、右近一行と共にマニラに流された ・いわゆるキリシタン大名ではないが、最期まで信仰を守った、丹波八木城の有力武将という位置付でであろう 八木城主かどうかは人によって判断が異なるようです 八木城主であった父が戦で亡くなった後、その跡目を巡る 争いが内藤家のなかで起り、ジョアンは城主の地位に固執しなかったことが、原因なのであろう ・内藤ジョアンの受洗のいきさつ 家系:父は松永久秀の実弟で八木城主、 母は丹波守護代内藤家の娘、 松永久秀の甥にあたる ジョアンは松永家の息子として内藤家に入った立場であったので、身分は不安定であった 内藤家の 息子と家督を争いに巻き込まれる その後、内藤家は明智光秀に滅ぼされる(日本史松田(注)) 受洗:山口出身でトルレス神父より受洗した貴婦人が丹波に来て、内藤家の屋敷を管理していた人物と 結婚した 彼女は信仰熱心で、家で集まった人に布教し、夫のみならず同家の全員を改宗させた ジョアンも説教を聞くため都の教会まで来るようになった ここにおいて、フロイスは内藤殿、及び 彼と共にその250人を超える同家の家臣などに洗礼を授けた(完訳日本史②第40章 P233) (キリシタンになった大名) ・1573年の織田信長と将軍足利義昭の戦いにおいて、義昭側についた 戦い敗れ、義昭とともに逃れる この戦に際し、ジョアンはキリシタンの旗を旗印として、2000人近くの兵を率いて都に出陣したそうです この時、 都にいたフロイスは、信長と義昭の戦の混乱の中で、高槻の和田家ではなく、ジョアンを頼ろうとしていた (ラウレス高山右近の生涯) ・1581年の年報では、内藤ジョアンは義昭とともに備後の鞆にいたとされている ・1587年頃に秀吉と義昭は会い、義昭は将軍職を辞した このときに、小西に仕えることになったと思われる ・その後、秀吉の朝鮮出兵では、小西行長の配下の武将として参戦し、支那との和平交渉にも参画し、北京に 派遣された (完訳日本史⑤P242) (完訳日本史⑤P273) ・小西行長が関ヶ原の戦に敗れた後、加藤清正に仕えるも追放され、1602年、右近の働きによって前田家に仕え ることとなった(コリン著の右近伝) 1614年右近と共にマニラに流されることになる ・追放後のマニラでは、当時あった日本人街(サンミゲル)に住み、敬虔な信仰生活送った その様子をコリン神父 が記しているそうです 1626年マニラで亡くなり、一年後、日本最初の女子修道会創立者、妹の内藤ジュリアが 帰天した ・マニラの旧日本人街があったとされる地区に、現在アダムソン教会があって、この教会の横に内藤如庵記念碑 があり、日本語で内藤ジョアンの足跡が記されている ③マニラ追放と右近の臨終 右近がマニラに追放される様子を詳述した当時の資料があります 右近の霊性という観点から右近を知る ためには、宣教師の一次資料を深い信仰心をもって熟読することが不可欠となります それは右近の霊的指導 司祭モレホン神父が書いた日本殉教録と1614年と1615年のイエズス会年報、(コリンの高山右近伝)です イエズス会の年報を中心に、以下その資料の概要を記します 右近は、モレホン神父等とマカオではなくマニラに行く事になり、過酷な航海を経てマニラ到着後数週間にして 病を発し、1615年2月4日から5日にかけての夜半逝去した(正しくは2月3日から4日にかけて逝去)わけです が、その様子を、1614年イエズス会年報[右近逝去当時フィリッピンにいた管区長レデスマによるもの]等の一次 資料では次のように記しています ○右近達はマニラに行く事になった経緯、出航前の状況など (あらまし) ・追放処分は実施されないかもしれないという期待感もあったが、長崎奉行は結局10月中に日本を退去するよう命じた ・追放処分を受けたイエズス会関係者は司祭約150人・神学生100人(1615年年報)、同宿・神学生・修道士の他100人 を超える会員の部下(1614年年報)、右近が乗船した船には350人もの人が乗船した等と記されているように、相当の 数の人々がいた 追放された人々の受け入れ先は、基本的にはマカオであったが、そこで全部を収容しきれない ので、フィリッピンも受け入れざるをえなくなった ・マカオ、フィリッピンに行く船は、明らかに命の危険がある数隻の支那のジャンクしかなかった 海が甚だしく荒れる 季節を迎えていたが、退去の期限が迫るなか、追い立てられるようにして、11月7、8日、支那のジャンク船で(マカオ へ3隻、フィリッピンへ2隻)が長崎を出航した 右近は、マニラに行く事をきめた聴罪師モレホン神父と同行する事を 望んだので、マニラに行く事となった 同船には、ヨーロッパの司祭8人、15人のイルマン、同数の同宿(1615年年報 では、約40人の修道士数人の神学生、数人のキリシタンの家族)が乗船した *高山右近の指導司祭であったモレホン神父は、1614年10月14日から25日まで長崎で行われた管区会議で、 マトス神父と一緒に日本管区の代表としてローマに行く事が決められていた マトス神父はマカオ・インド経由で 行き、モレホン神父はフィリッピン・メキシコ経由で行く事になっていた 【マニラに行く事になった経緯など】 [1614年年報] ・この頃マニラには、毎年4、5月頃日本から来航する船によって日本における迫害の様子が報ぜられれていた ・迫害により大勢のイエズス会員が日本から退去する事をよぎなくされたため、マニラの学院としても、日本にいた 会員、すなわちマカオの学院に収容しきれない人や日本に留まる事が出来ない人を、受入れる事になった ・追放処分は、マカオ船の長崎来航によって実施されないかもしれないという期待感が生じたが、結局、実施され る事になった 長崎奉行は宣教師達にその旨を告げ、10月中に日本を去るように勧告した 街では修道士たちが 何等船の支度をしないから、明らかに命の危険がある港にある数隻の支那ジャンクに乗せて行くであろうととの噂 であった 日本管区には多数の同宿・神学生・修道士の外、百人を超える会員の部下を有していた ・当時、ポルトガルとスペインは、植民地の「すみ分け」を行っており、日本のイエズス会員はポルトガルの植民地 マカオに行く事が原則であった しかし、マカオに行く船の調達は僅かしか出来ず、追放された日本の会員の 大多数は、シャムに向かうジャンク乗らざるをなかった しかしこの船はマカオには寄港しなかったので、支那の島 に上陸させられる危険性があった この問題のため、マカオ行きの船の集発は出来なかった ・このような状況の中で、タイムリミットが迫ってきたので、ヨーロッパの司祭8人はマニラに向かう事を決めた その中 に、マニラ経由の行程を取るべきと考えられ、ヨーロッパ向けの管区の代弁者として選ばれていたモレホン神父が いた(第二の代弁者は東インド経由で行く事になっていた) 司祭の他、15人の日本人イルマン、同数の同宿が 定められた (以上が1614年年報) (右近がマニラに行く事になった事について、ラウレス神父は高山右近の研究で次の事を紹介している) ・右近が、マニラとメキシコを経てローマに行く事になった聴罪師モレホン神父と一緒にいる事を望んだため、マカオ に代り、マニラに決めた・・ (また、逝去350年祭記念誌で、シュワーデ神父は、次のようにまとめている) ・11月7日、62人のイエズス会の宣教師・50人の神学生・その他多数のキリシタンを乗せた三艘の船が。、マカオに 向けて長崎を出航した この時マカオに向かうポルトガル人は右近の乗船を望んでいたが、右近は次の理由を 述べて断った 「日本人である私のマカオ滞在はポルトガル人と支那人、ポルトガル人と日本人の関係を面倒な ものにします 私はこれまで私の霊的指導をなさって下さったモレホン神父に従ってマニラに行くことにします」 ・マニラに向かうジャンクはニ艘であった 一つは長崎代官村山等安のもので、これには村山の子フランシスコを 含んだ幾人かの教区司祭とフランシスコ会、ドミニコ会の宣教師、それに多数のキリシタンが乗った もう一つは ポルトガル人エステバン・ダコスタのもので、イエズス会の宣教師23人、他の修道会の宣教師15人、神学生15人、 それに高山右近と内藤ジョアン及び彼等の家族、その他の多数のキリシタンを含めて350人が乗り込み、11月8日 長崎を出帆した ・長崎を出て最初の晩、村山のジャンクに小船が近づきジャンクに乗っていた村山の子フランシスコを含む日本人 司祭2人とフランシスコ会・ドミニコ会の神父2人を小船に乗せ換え長崎に連れ戻した 日本のキリシタンのため 日本人司祭5人、ドミニコ会司祭7人、フランシスコ会司祭6人、イエズス会司祭20人ぐらいが国内に残った [日本殉教録] ・宣教師の国外追放の決定の知らせがフィリッピンに届いた時、フィリッピンのイエズス会管区長は、マカオ収用しき れないのを知って、自分の管区や学院の提供を申し出た 日本の管区長はこの申し出を受けて、司祭・修道士等 の一部をフィリッピンに振り向けた(この中に、モレホン神父がおり、右近はモレホン神父と一緒であることを望んだ) 【出航前の状況など】 [1615年年報] (翌年の1615年の年報では長崎からの出航の経緯について、次のように記している) ・異教徒達は、司祭達が出発時の乗船に際し、波止場から海に落ち込む程のひどい無慈悲な、早急さで取り扱った それは、司祭達が日本に居なくなれば、自然とキリシタンはその信仰を捨て、全ては良くなり、秩序立つであろうと 考えたからであった 日本の統治者は、マカオとの貿易を配慮して、司祭達に暴力や拷問を行わず追放するに 留めよと命令していた ・当時イエズス会の者は117名、他の修道会の司祭は22名、在俗司祭団4~5名、7人の日本人司祭(司教は昨年 逝去)がいた 神学校では100名の寄宿生が教育され、学院でほとんどの者が司祭達を援助していた これら多数 の人々を扶養し、隠す事は、厳しい監視中では極めて困難なことであった ・更に困難な事は船の問題で、船は一艘もなく、ひどい状態の3~4隻のジャンク(支那の小型船)があるにすぎ なかった 既に甚だしく荒れる冬が近づいていたが、統治者は命令を強制したので、乗船せざるを得なかった かくて11月7日または8日に長崎港を船出した 2隻のジャンクのうち、1隻はマカオに向かい、他はシャムに 向かったが(*この記述は間違いとラウレス神父は指摘している-下記の(注)を参照)、その乗客は支那の 島々で下船させるようにとの指示であった 前に乗ったのは50~60人の神学生と数人の追放された平信徒 であり、他の船には、約40人の修道士数人の神学生、数人のキリシタンの家族がおり、その主たる者は、 ドン・ジュスト(右近)である (注)マカオ、マニラに向かった船の数について 1615年年報について、ラウレス神父は船の数と目的地が、極めて不正確で、矛盾していると指摘し、結論的 には「11月7,8日両日に、3隻はマカオへ、2隻はマニラに向かったとまとめている その理由を次のように記している -ラウレス高山右近の研究- ・マニラへ向かった船が長崎を出帆したのは、11月8日である (マカオに向かった船の数について -3隻ではないか) ・1615年の年報ではマカオに向かった船は1隻とされ、もう一隻はシャムに向かったとされているが、他の 報告では、少なくとも2隻がマカオに向かい、一隻はフイリッピンへ向かったとされている また、マカオに 自ら航海した目撃者カルヴァリオは、3隻が、33人の司祭、29人の修道士、幾人かの神学生、他の援助者 達を乗せてマカオへ向かったと述べている 他の史料は通常、ただ2隻の船のことを述べているだけである カルヴァリオのこの船は恐らくマカオ行きの第三船を意味するのであろう (マニラ向かった船について -2隻ではないか) ・イエズス会士の報告ではマニラには一隻だけ向かったとあるが、オルファネルは2隻としている イエズス 会士が1隻としたのは、この同じ船に全部のイエズス会士と右近が乗船していたので、第二の船について 詳しい記事を書く必要が無かったので書かなかったのではないだろうか 1615年の年報ではマニラ船の ことについて明に述べていなくて、右近はシャムに行ったのかということになるのであるが、これは後述の 記事から明らかに間違いとわかる マカオに向かった両船は数日後に目的地に到着し、一方マニラ船は たとえようがない困難と戦わねばならなかったと述べられている 以上の理由は、ラウレス神父著高山右近の生涯の(注)にも同様のことが書かれている ・司祭達の集発にあたり、キリシタンと司祭達はその悲しみは大いなるものがあったが、唯一の慰めとなったのは、 間もなく帰ることが許されるようとの希望であり、喜びとなったのは多数の司祭達が各地に隠れて留まったこと である 隠れている事は非常に難しく、極めて骨の折れることであった ・マカオに向かった両船は、幾分マニラ行きの船よりも大きく、短路をとればよかったので、数日で目的地に到着し、 歓迎を受けたが、フィリッピンに向かった船は古く、ひどい状態にあり、満員で、彼らを収容しきれぬ程で、沈没が 案じられた この不安は2隻のオランダ船が追跡しようとしていたため一層高められた (日本キリシタン殉教史 片岡弥吉著) ・家康の大坂城攻撃の計画は進みつつあった(大坂冬の陣) 右近や神父達を一日も早く追放せよという命令を 以て山口駿河守直友が長崎に来たのは8月であった 9月その子、間宮権左衛門が重ねて督促に下向した しかし、まだ北西風は吹かず、出帆の季節ではない 左兵衛は10月27日とりあえず神父達を木鉢に、右近らは 福田に、25日その他の人々を十善寺に去らせて、長崎から追い出した (山口駿河守が陰暦9月26日付島津 陸奥守に送った書簡:「昨25日切支丹大方相渡出船仕候」) ・追放者達は5隻のジャンクに乗せられた 3隻は1614年11月7日出帆してマカオに向かい、2隻は11月8日マニラ に向かって出帆した マカオ行きの船に乗ったのは62人のイエズス会員(内36人は神父、ただし、3人は長崎港外 で下船したので実数は33人、ローマイエズス会文書)や同宿、3人のベアタス会員などが乗っていた マニラ行きの 2隻は村山等安とエステバン・デ・アコスタのジャンクであった 後者に右近と娘・孫、内藤徳庵と家族、内藤ジュリア とその修道女たち15人、右近の指導司祭だったモレホン神父をはじめ8人の神父を含む23人のイエズス会、 フランシスコ会、アウグスチノ会や教区司祭らをあわせて350人以上を乗せてマニラに向かったのである ・追放者達は最後まで日本の山河に目を注ぎながら去って行った 彼等が永久に忘れ得ないと思われる程、彼等 の魂はこの国に引き付けられていた」とトリゴ-神父は記している ・・・千利休の七高足の一人であった右近は、 利休から送られた羽箒を肌身離さず持っていた (チースリク 高山右近史話) ・街全体にわたるこのような興奮と不安の異常な心理状態を見て、長崎奉行長谷川左兵衛はなるべく早く追放を 実行させようと思った 最初は8月に出発するように命じたが、それは9月に延び、また10月になった それで10月 25日に最終命令を出し、次の27日に全員が乗船するように決めた ところが船の準備ができていなかったので それもまた、延びそうになった だが奉行はこれ以上待とうとはしなかった 決めたとおり、27日月曜日に高山右近 などのキリシタンを福田に、そこに行けなかった残りの人々を翌日に十善寺へ、神父達を木鉢へ送り、出発するまで は大村や平戸の警備兵を監視に当てた こうして追放される宣教師及びキリシタンは10月27日(陰暦9月24日)に 長崎を去ったことになる それで、長崎奉行は幕府に次のように報告した 「10月13日、長崎より飛脚参着 長谷川左兵衛申言、その趣は去月24日伴天連徒党百余輩、並びに大旦那 高山右近(南の坊なり)内藤飛騨守そのほか長崎中伴天連乗船 天川(マカオ)に遣之由上」 (駿府政事録 巻之五) 幕府はマカオに全員送るつもりであった事が分かる しかし、全員をマカオに収容する 事は難しく右近達はマニラを選択した ・・・日本よさらば・・・1614年11月7日8日の両日に、福田からマカオあるいはマニラへ向かって出航する5隻の船・・・ ○右近とその家族のマニラ追放 【長崎を出航】 (あらまし) マニラに行く事になった人々は、イエズズ会司祭・修道者等38人以外に、多数の日本人キリシタンがいた その中に右近とその家族、内藤ジョアンとその家族、都の修道女内藤ジュリア他14人がいた またイエズス会 以外の修道士40人も乗り込んだ 細川忠興は右近に書状・賜物・使者を送った 世間では(大阪の戦を控え) 右近が日本に留まるのを恐れて追放されるのであろうとか(出航後秀頼の使者が来た)、また、右近の殺害命令が 届いたとかという噂が広まった [1614年年報] ・その他多数の日本人キリシタンもいたがその中に、老練且名望あるキリシタンである善良なジュスト右近殿もいた 彼は妻ジュスタ、1人の娘、5人の孫を伴っていた ノアの大洪水で救われた8人のようであった また、内藤殿がその全家族と同行してきた ジュストの家族より多かった その他、都に修道会をつくり、俗世から 隠遁し、主に奉仕していた15人の崇高な婦人達がいた 彼女達の長はジュリアで内藤殿の姉妹にあたる老い且 熱心なキリシタンであった 他にも異なった修道会の約40名の修道士達も同行した ・右近と親交のあった幾人かの武将は、右近に注目したが、その中の一人細川忠興は、右近に書状・賜物・使者 を送り、右近に仕えていた家臣を寵遇し、最も信頼していると語った 司祭達も各地方に散在しているこれらの キリシタンの兵は、右近から学んだ事によって、一同に傑出していると述べている 現在日本の君主である人さえ 、常に、高山右近の掌中に在る千名は、他の如何なる武将の掌中の一万人にも優っていると述べた 右近が長崎に滞在している間、右近に対する処分は判然としなかったが、大抵の人々は右近が日本に留まるの を恐れて、追放するのであろうと信じている ・日本からの船により、将軍は、秀頼を大坂城から放逐する考えである事がわかった 秀頼は右近を大坂に招く ため長崎に使者を送ったが、その2~3日前に右近は既に出帆していた かりに間にあったとしても、殉教の栄冠 を既に手にした右近はそのような企画に投ずる事はなかったであろう ・右近が乗船する数日前に、乗船した瞬間に右近とその家族全員を殺すという秘密命令が届いているという噂が ひろまり、この時右近は「そうであればよいが、でも自分は、天主への愛と信仰を捧げるという大いなる天主の 好意と恩寵に値せぬものであると懼れている」と答えた (コリン著の高山右近伝) ・彼の旧知の領主の中には使者を派遣して愛と同情を示した者もいる その中には・・豊前・豊後の一部を領有する 越中(細川忠興)もいて、・・「ドン・ジュストは今回の事で些かの弱さも見せなかったから、今までの功を完全に維持 することになった というのは少しでも弱さを見せたら、今まで行ってきたことの価値を消してしまうからである」と言っ たということである ・・忠興は右近に「我が手中に委されよ」と、・・江戸の将軍に交渉し・・将軍の味方にさせるため であった 右近はその好意に感謝したが申し出を受けなかった なぜなら・・(信仰が認められる可能性はなく)、 教え導いてくれたパードレ達と伴侶になれる事を確実にし、残っている僅かな人生をことごとく神に捧げるための これほど良い機会を失うことは愚かだかである ・ドン・ジュストの乗った船が長崎を出航した三日後、秀頼からの使者が来た それは家康との戦(大坂冬の陣)の 指揮をするよう求めて来たものであった ・長崎で乗船する前に、右近を斬首せよという秘密命令が出されているとの噂が流れた これを聞いた右近は、 「それは望むところであるが、しかし、私も私の子供も神の愛のため、聖なる信仰の証明のために生命を捧げる ほどの大きなお恵みにふさわしくない」と言った (片岡弥吉氏は、日本キリシタン殉教録)忠興や秀頼からの使者に関すること等について、次のように紹介している (細川忠興) ・・・忠興は右近追放の事を聞き「これで右近もこれまでの数々の行跡に花押を押した(証しを示す)わけだ」 と感歎したという」・・そして自分が将軍に頼んで赦免を乞おうと使者をもって言ったが、右近は「家族と一緒に キリストのために短い余生を神に捧げる機会を失いたくない」と言って断った (秀頼からの使者) 「もし右近が大坂に入城していたら、恐らく大坂城は陥落しなかったであろう」と時の人々は話しあった それは そうであったかもしれない しかし、右近が秀頼の使者に会ったとしても、決して大坂城には入らなかったであろう ・・家康はある時「右近の手兵千人は他の武将の一万人よりも恐ろしい」と言ったという しかし、右近は愛のため 追放される方を選んだ ・・・家康は右近の乗船を出帆前に撃沈せよと命じたが、使者が着いた時は船が出帆した 後であった(ジョアン・ウルマン神父1616年12月13日付の年報) 【航海中の様子】 (あらまし) 海が最も厳しく荒れる11月の初め、ただでさえ小さな船に350人もの人が乗り込んだ 信じられぬ程の窮屈さのなか、 右近は上機嫌で祈りと霊的読書に勤しんだ 船内で日本人とヨーロッパ人との大きな喧嘩が起きそうになったが右近は これを見事に鎮めた 嵐で水浸しになった信心書を、誰を責める事もなく、静かに孫とともに乾かした 狭隘・超満員と いう船内の劣悪な環境は一人の司祭(1615年年報では更に、入港後司祭1人、修道士2人が亡くなる)の命を奪った この航海は右近とその家族の心身にも大きな負担を強いたであろう (記録には無いが一般乗客の中にも犠牲となった 人々が相当数おられたのではないだろうか) (・・老朽船で船足は遅く、船底からは水が漏り、水夫は絶えず穴埋めや水汲みに忙しいという有様 その上海賊の難が あり、すでに季節はずれの時のこととて暴風・逆風に悩まされ、普通の船で順風ならば10日ほどの航程を実に月余も 費やした・・4人の死者が出たことをもっても、如何にこの航海が苦しいものであったかを察する 海老沢著 高山右近) [1614年年報] (祈りと霊的読書) ・右近は、11月の初めに我等(イエズス会)同僚達と乗船し、このような旅をするのは初めてであったから、旅行の間、 常に上機嫌であった 彼の用務は、天主に御執成しを願う事、日々行われた連祷に列席し、又は先唱することで あった 彼は絶えず、多量持参したその信心書を読み、修道士達と語らったが、彼等は右近の言葉を理解する 限り、右近と交わることに少なからず喜んだ (船中で起きた日本人とヨーロッパ人との喧嘩を収める) ・船中の一同は右近に大いなる敬意を示した その事は次のような出来事によって示された 一人のポルトガル人 の若い奴隷(黒人)が一人の日本人と喧嘩し、傷つけた これを聞いた日本人は激昂し、彼等は同胞は負けると 思われたので武器を持って立ち上がった ヨーロッパ人は、黒人に味方する事になったので、災禍が案じられる までに発展した 右近は事態を穏便に調停するため、船室から出て、一言で直ちにその争いを解決した (嵐による大量の海水の流入で濡れた信心書を孫と共に乾かす) ・ある時、急潮と大波が船を呑み込まんばかりのひどい嵐に遭遇した時に、舟は十分に密にされていなかったので、 大量の海水が浸入して、右近とその家族の衣類や高価な着物等は全て水浸しになり、もはや人前では着れない 程傷んだが、責任がある船長船員達を責めずに、右近はただ非常に大切にしていた信心書が水浸しなった事に、 心を痛め、孫達とともに、静かに注意して幾度も1頁1頁、繰り広げて乾かしていた 非常に痛々しい事であった (船内は信じられない程の狭隘・超満員、一人の司祭が亡くなる) ・今回の追放は、突然不意に行われ、予想よりはるかに多数の人々が乗船したので、船には足の置き所もない 有様であった 幾つかの船室を予約していたがそれらは五分の一に足りない程不十分で、乗船した38名のうち 30名は天候の不順にさらされて甲板で眠る事を余儀なくされた その上ただでさえ小さな船に350人もの人が 乗り込んだので、信じられるぬ程の窮屈さであった 水夫・船員・乗客に既に前から占領されており、船室に入れ たのは8~10名であった それらは酷く狭苦しく、苦痛であったので数人は船室を断念した その結果33日の 航海中、着替えが出来たの者は稀か、全くなかった 3~4人の司祭の年齢は70歳程で、一人は73歳になって いた 数人は病気になり、一人の67歳のイエズス会士(30年間日本で布教)は船室の狭隘・超満員のなか、 酷い発作に苦しみ、甲板で倒れ、終油の秘跡を受け、亡くなった 追放行の過労により亡くなったのであり、 彼を殉教者と呼び、尊敬した ポルトガル人の船長は棺を作り、マニラまで30レグアのところまで接近していたので 、漕艇で上陸し埋葬することにしたが、逆風のため上陸できず、キリシタン土民の小邑(村)に埋葬し、後日、当地 の学院に移す事を余儀なくされた [1615年の年報] ・イエズス会の司祭達は、7~8名の席を予約し、食料を準備しているだけであったが、後に強制的に多数の人が船に 追い立てられたので、酷く狭く、不便不快であり、そのため、2人の司祭と2人の修道士は、入港前と入港直後に亡く なった 亡くなった司祭クリタ-ナは30年間日本で過ごし、長崎の副学院長を務め、出発の際働きすぎ酷く疲労 困憊した 彼の死は実に信仰のための追放によるもであったから、栄光あるキリストの証聖者として尊敬され、最後は マニラの学院に運んだ ・場所は酷く狭かったので、非常な困苦を耐え忍んだ はじめて航海をする妻子達を伴っていたので、如何に幾多の 困難を耐え忍ばねばならなかったは容易に想像できる 右近はごく満足げに、絶えず聖書の朗読、読書、修道士達 との談話に過ごした [コリン著高山右近伝] ・11月初旬出航した 右近は終日船室に引きこもり信心の業を行い霊的読書を行い、会いに来た修道士との聖なる 会話をして過ごした 人々が聖母賛歌を歌うとき、中部甲板で連祷を合唱するとき等信心の業を行うときには船室 から出てそれに加わった 船中の人々は彼に会い敬意を表することを喜んでいたから彼が甲板に出てくることは人々 の大きな慰めとなった ・ポルトガル人の下男と一人の日本人の争いがヨーロッパ人と日本人との争いになりかけた時、右近が僅かの口を きいただけで騒ぎは鎮まり、人々は感嘆し、修道士の大きな慰めとなった ・嵐に遭遇し大きな波浪に襲われた時、船員の過失が原因で乾舷から海水が浸入し、右近の船室の浸水は特にひどく 彼の使用する貴重な品々や彼の娘・孫の美麗な絹の日本の衣装がことごとく濡れたが、霊的書籍が濡れたことのみ 嘆き、孫に取り囲まれて主檣の下に身を寄せ、書籍の紙を一枚一枚と開いて乾かし、他の貴重な品々ことは考えず、 船員への非難や嘆く事は無かった これは右近の心の平和・冷静さを人々によくわからせる出来事となった 【マニラに到着、右近大歓迎される】 (あらまし) ガリオット船に乗った右近達がマニラに到着すると、総督達から国賓並みの大歓迎を受け、マニラ市内を行進し、イエズス 会学院に向かった イエズス会学院近くに住居が与えられた 右近マニラ総督が差し向けたガリオット船に乗船してマニラに到着→礼砲による歓迎→総督と挨拶・抱擁→ イエズス会の学院までの行進・大歓迎→アウグスティノ教会で一時下車→イエズス会学院食事(昼食)→学院の近くの 建物の私室へ→右近の住居に多くの人が訪問、総督と懇談 [1614年年報] (総督ドン・ファン・デ・シルバのガリオット船による出迎え) ・神の計らいにより風は止んで、(漕艇に乗った)司祭達は当地に着いた 大司教で国会議員である総督 (ファン・デ・シルヴァ)に追放者達、特に右近の到着を知らせたので、右近はその功績によって、歓迎され、 尊敬される事になった 特に総督と20年以上の知己で、親しく交わっていたモレホン神父が右近について報じ たので、総督の右近への敬慕・尊敬はさらに増し、この知らせが街に広まると、一同は感動し、天主と陛下 (フェリペ3世)は、右近に大いなる名誉を示す事を要求したと述べた その間、船はこと極く近づき、他の船で出た他の修道士もきて、船はさらに街から12レグアのところまで来ていた ので、総督は右近を迎えるため、一艘のガリオット船[小型のガレー船]を差し向けた 逆風により、船は入港出 来なかった (総督と多数の民衆の歓迎、総督との挨拶、学院までの行進) ・右近を乗せたガリオット船が総督官邸前の岸に現れるやいなや、あらゆる人が港の方に駆け走った 総督は 衛兵全員と、多数の他の高貴の人々右近を宮殿に伴うため差し遣わした ガリオット船が砲轟かせるや、要塞 塔の大砲は、能ふる限り一斉に、鋭く返砲した 右近が市の入口に進んだ時、その処には、歩兵の全團が右近 を待ち受け、総て活発に発砲して、素晴らしい礼砲を鋭く轟かせた 右近は生涯武術に習熟した者として、 大いなる満足を示し、その武器の操作を賞賛し感嘆した 総督は、右近が国会に諸侯と市庁の最高幹部達が待ち受ける場所に着くと、そこで右近を抱擁した この抱擁 と挨拶は、双方とも熱い感激と祈祷の涙の中に行われた 幾多の談話がなされ、挨拶が交わされた後、既に 遅くなっていたので、右近は上品且つ思慮深い別れを告げ、歓迎に対し心からなる言葉をもって総督に感謝 した 総督は直ちに右近と孫達を馳走されることになっていたイエズス会の学院に連れるため、車を来させた 総督の代理が右近に伴い、衛兵が先行し、多数の将官と貴人は、馬上で彼に伴った 多数の民衆が押寄せた 学院への行進の途中、アウグスチノ会の教会と通過した際に鐘が鳴り響き、教会入り口には歓迎の人々が集 まっていた 右近はここで下車し、吹奏楽とオルガン、その他の楽器に迎えられ、短時間であったが盛大な歓迎 を受けた 学院でも鐘と吹奏楽で盛大に迎えられ、テ・デウムやオルガンの伴奏で合唱が歌われた そこから 食堂に向かい、食事をした 右近は休むため、学院の近くの立派な建物からなる私室へ赴いた ・多くの人が右近を尊敬し、愛したが、中でも総督は傑出していた 総督は右近の住居を訪問し、そこで幾時間 も過ごし、日本の状態・政治・戦に関する事等について質問し、右近は適切な返答をした 総督は右近の存在 は、フィリッピンの実情が正確に日本に伝わる事やフィリッピンでの日本人の暴動にとって、有意義と考えた 総督は右近に俸禄を給する事を考えた 右近はその申し出に感謝し、今はその必要はないと答え、 「ただ 霊魂の救いのために来た、義務なしの俸禄は受取れない」という思いを、モレホン神父に語った *テ・デウム:グレゴリオ聖歌 「讃美の賛歌」 (新しい聖務日課 教会の祈りの旋律 讃美の賛歌) 中世以来、主日祝日の聖務日課などので歌われ、17世紀から18世紀に懸けて特別な機会に 神に感謝を捧げるための国家的な慶祝行事の音楽として演奏されたそうです [日本殉教録] 多数の宣教師や日本の貴人を乗せるには船が小さいので窮屈で苦しい航海が続けられた マニラの手前20レーグア の学院に運んだ所で司祭クリタ-ナが天に召された 同行した司祭は遺体を海中に葬ることを同意しなかったので、 一隻の船が遺体を陸まで運ぶため先行した これによってマニラでは追放された宣教師達や日本の貴人達が大勢 やってくることがわかった 島の総督は歓迎するため直ちに一隻のガレーラ船を派遣し、新鮮な食品と数名の文武官 及びドミニコ会、イエズス会の司祭を送った 要塞の前まで来ると多数の砲から礼砲が発射され、全貴人、将兵、 修道士、市民が迎えに出て、多数の人々が同行して彼らを王宮に伴った そこでは総督や王室顧問の人々が、 彼等の信仰と苦労に対し深い尊敬と愛情を示して迎え出ていた 特に右近とその他の貴人に対してはこれを抱いて 愛情を示し、信仰のため録や領地を度々棄てた勇気に祝福の言葉を述べた 彼等のため準備された宿舎に行くため の馬車が用意され、この地の武官、貴人の全員が厳粛に同行した 途中大教会やアグスティン会・イエズス会の教会 で祈りが捧げられた 鐘を鳴らして音楽を奏して聖職者全員が教会の入り口へ出迎えに出た それから総督や王室 顧問の人々が彼らを訪ねて行って多大の好意ある申し出をした また、大司教も同じ敬意と好意を示した その少し後、イエズス会士司祭アルバレスが天に召された 彼はマニラに住んでいる短い間そこのいる日本人に信仰 を目覚めさせ、その数は千人を超える程であった イエズス会のイルマン2名も天に召された [1615年年報] ・・ガリオット船に多くの食物と町の第一級の貴人達を乗せて迎えにやらせた ・・ガリオット船は3,4日してそこから彼等 を乗せて帰って来た 全市民並びに修道士達は・・迎えに走り出で、到着の際しては祝砲を一斉に発して挨拶した・・ [コリン著の高山右近伝] ・マニラから15~20レーグアの地点に到着したときに、パードレ・アントニオ・フランシスコ・クリタ-ナの遺体を埋葬する ためモレホン神父とヴィエラ神父が上陸したので、マニラ市に入って、この船でドン・ジュストとその伴侶のきたことを 総督・大司教・裁判官及び諸修道会の長老・・等その他重要な人々に報告した 総督はグスマンの書籍で右近の事 知っていたので相応しい栄誉を持って迎えることにした しかし、船はまだマニラから遠い所にたし、逆風だったので 容易に湾内に入ることが出来なかった そこで総督は上陸できるようにガレーラ船を派遣し、歓迎の意を表すため、 その船で新鮮な飲食物を贈った ドン・ジュストとその他の武士及び追放された修道士はその船に乗り移った ・船首が宮殿の窓の前にあたる岸に向けられ、ガレーラ船が砲を発射して合図をすると近くの要塞が一斉に礼砲を もって応えた 海岸には総督の護衛兵や他の貴人達がドン・ジュストとジョアンを宮殿に案内するために待っていた ・町に入ると通りの各所に歩兵隊が並んでいて、右近達が通過するとき恒例に従って迅速に整然と小銃を発射して 挨拶とし、右近達はこの礼砲の挨拶を喜んだ ・右近達が総督達が待っている宮殿の広間に入ると、総督はドン・ジュストを迎えるため腕を広げて数歩進み、眼にも 愛情をこめ、公の席における総督の威厳を損なわぬ限度でできうる限りの儀礼と歓迎の心を表した 日本人の貴人 も彼等の風習に従って儀礼と感謝を以て答えた 正午に近かったので総督は軍司令官に命じ、総督の代理として 護衛兵をつけた総督の馬車で、昼食をとる私達の学院へ彼らを案内させた ・・追放者の到来に感激した多数の 人々が街路に溢れていた 宮殿から学院に行く途上、大聖堂とサン・アグスティン修院の前を通るようになっていた ので、その両者に置いては鐘の連打挨拶し、教会参事会員や修道士が彼らを迎えに戸口に出ていた それで、 彼等は歩みを止めて中に入り吹奏楽器、オルガンやその他の楽器の音楽と共に短い祈りを捧げた ・私達の学院においても同じように迎えられ、同じく荘厳な儀式が行われ、オルガンと盛大な合唱を伴ったテ・デウム が感謝のためにうたわれた 聖堂から食堂に案内されて、二人の武士とその子供や孫は諸パードレと共に食事を した そこの近くの立派な家に彼等の宿所が準備された ・大司教や市の重要人物や修道会の長老達がドン・ジュストを訪問した 総督も度々学院に来てドン・ジュストに会い 長い時間日本の事を話し合った 質問する総督を右近は、卓越した判断力で的確に満足させた 総督は「・・ かほどの人物がきたことは、この島の世俗的な問題にとっても有益である 当地の気性の激しい日本人の危険な 騒動を防ぐ上において彼の権威は非常に重要なものであろう また、時がたって栄誉を与えられ日本に帰るならば、 フィリピンやマニラについて今まで理解されていなかったこと 解らなかった真実を信じさせるであろう」と言った 総督は彼等が如何に貧しい状態で来たかを知ると、自分の財産から多額の寄進をパードレの手を通じて贈り、彼等 の生活のため王室公庫から正式の援助を与えようとした ・・しかしドン・ジュストは結局それを受けなかった (コリンとコリン著の高山右近伝について -解説より-) [コリン] ・コリン神父はスペイン人で、1592年カタロニヤ州生まれ、学識のある貴族の家庭で宗教教育を受け、1607年 イエズス会に入り修練を済ませコレジョで哲学課程を続け、その間に列聖された修道士(晩年彼の伝記を 書いた)と親交を結び、更にバルセロナ神学を学び哲学・神学の学位を受けサラゴサのコレジオで哲学の 教鞭をとり人気をあつめた その後自ら布教地への派遣を志願し、1625年7月年メキシコからフィリッピンに 向かう船に乗船し、航海中、乗船していた新任の総督とその家族と懇意になり、一家の指導司祭となり、 水夫や船客に熱心な使徒的活動を行い、1626年6月マニラに着く 従軍司祭、マニラで神学教授、説教師 として活躍し、1627年終生請願、イエズス会のプロフェススになり、何時頃か解らないがサン・ホセ学院の院長 を務めはじめ1633年までその職に在った その後現地人の伝道に3年間従事し、1635年マニラのイエズス会 神学校の院長、1639年にフィリッピンの管区長になった 管区長に任期を終えてからコレジョの院長をし、 晩年修練院で過ごし、フィリッピン管区のイエズス会史、聖書注訳等を書きあげ、1660年帰天した [コリン著の高山右近伝について] ・1615年2月3日の夜、高山右近が追放先のマニラで波瀾の多い生涯を終えた時、町中に「聖人が死んだ」と いう声が高まった 一週間にわたる葬儀の典礼は、マニラ史上最大の盛大さで行われ、くだって1630年に彼 を聖人の列に加えるために、正式の調査が開始された また、右近が死んでからまもなく、彼の生涯を知ろう とした市民ぼ中から、その伝記を書くようにイエズス会の管区長に依頼したところ、たまたまローマに行く途中 、まだマニラにいたモレホン神父がこの仕事に着手したが、あいにく彼の草稿は行方不明になって現存して いない しかし、種々の資料に基づく、右近についての総括的な伝記として最も古いのは、恐らくコリンがその 「フィリッピン布教史」に入れた第28章であろう ・・二次的資料とはいえ見逃してはならない重要な文献である ・二次資料ではあるが、著者自身がその土地を知り、当時マニラにあった一時資料を自由に利用できる立場に あったので、信憑性は高い しかし、日本に関する資料は注意が必要である コリンがマニラに来た1626年以降のことについてのこと、すなわち、内藤ジョアンの死、またまだ生存していた 修道女達については極めて信憑性の高い第一次資料である しかし、1614年以前は、ポルトガルとスペイン の棲み分け(日本はポルトガルのイエズス会に布教圏)により、直接の関係は無く、右近等が追放されて来た 事からフィリッピンのイエズス会は日本の教会と関係するようになったのであるから、 コリンは右近等の追放 されてきた様子やその事蹟について書いているが、これらの記事の信憑性になると区別しなければならない 1626年以前の事は、マニラにあったイエズス会の年報等の記録の一部や、モレホン神父の右近の伝記の 草稿、 モレホン神父の日本殉教録[1616年4のメキシコ版]、グスマンの東方伝道史に依拠して書かれて いるそうです コリンの右近伝に関して特筆される事は、右近の紋章と山伏の話ぐらいと思われる (片岡弥吉著、日本キリシタン殉教録) ・右近らは・・コレジオに隣り合わせた特に準備された一軒の家を与えられ住む事になった 常に日本の着物 を着ていたという (また、逝去350年祭記念誌で、シュワーデ神父は、次のようにまとめている) ・長く苦しい航海であったで人々は衰弱し中には倒れ亡くなった人もあった クリタナ神父もその一人で11月 28日マニラまであと30マイルというところでこの世を去った しかし、船は逆風を受け容易に進むことが出来 なかった それでモレホン、ヴィレラ両神父は彼の遺骸を小船に移して海岸近くの村に葬り、それからマニラ に向かい右近等が到着することを知らせた フィリッピン総督ファン・デ・シルバをはじめフィリッピンの人々は グスマンの「東方伝道史」によって右近の素晴らしい業績を知っていたし、・・信仰のためにマニラに流されて 来たという事を聞いていたので右近等一行を盛大に歓迎する準備をした 12月11日総督はマニラから12 マイル離れた右近の乗ったジャンクにガリオン船を向かわせ、右近等一行をマニラ港に導かせた・・・ ○右近の臨終 (あらまし) ・事実関係については、年報が詳しい 日本殉教録は右近の「霊の師」であるモレホン神父が書いたものである だけに、右近の霊性に重点を置いた格調高い追悼の辞と言える内容のものである コリンは日本殉教録とほぼ 同じ ・右近は到着後数日間は元気であったが間もなく病気となり、到着後40日にして、1615年、2月3日(晩)から 2月4日(朝)にかけて亡くなった この病気は金沢からマニラまでの幾多の困難の結果であった まさにマニラ到着の数日後、国外追放という過酷な処分が原因となった病気を発症し、死に至った これを殉教 言わずしてなんというのか ・臨終を覚悟した右近は孫達に遺言を残し、神を信頼し強く生きるよう励ました 死の準備をし、度々告解し、聖体拝領、終油の秘跡を受け、最後の瞬間、度々イエズスとマリアの聖名を心と 口で唱え、その霊魂を主に委ねた ・右近の臨終と葬儀はイエズス会年報が詳しい [1614年イエズス会年報が記す葬儀の様子] ・葬儀の前に遺骸は広間に安置され日本風に飾られた 右近には通常身に付けていた中で最良の、最も美しい 着物が着せられ、美しい黒塗りの棺の中に入れられた 顔は覆われず、頭には、日本で俗世を隠遁し、髪を 剃った時に被る頭巾が被せられた 右近が安置されている間、彼を見、聖なる殉教者のように、その足もとに 接吻しようとする群衆がおしかけてきた 同様の事を修道士さえもし、多数の修道士が遺骸のため日課祈祷か ら祈った ・葬儀には身分の高い人も低い人も、凌駕することがあり得ない程、夥しい群衆が傍らになだれ寄せた 葬儀を一層盛大に催すため、この地方で非常に栄え、右近も都と長崎で属していたミゼリコルディアの 会員が徽章をつけて葬儀に列する事が提議され、一同極めて整然とそれに従った 遺骸を取りだすため 大勢の人が集まった時、ミゼリコルディアの人達とそれを運ぶことになっていた市の(側との)間に争いが 起り、・・理由を述べあう事となった 特にミゼリコルディアは、死者は彼等の団体に属していたのであるとて、 力を込めてその特典を強調した 総督は殿下は・・適切な方法で規定し・・・ (右近がミゼリコルディアの会員であったことが記されている) ・遺骸は、総督と国会の諸候達が棺臺のある広間から建物の玄関まで運び、そこから教会までは、運ぶ事を要求 したミゼリコルディアの人達3~4人とあらかじめ運ぶ事になっていた市の人達同数が運んだ 行列が教会に 入り口に到着した時、修道院長と聖職の委員が遺骸を教会の聖歌隊席まで運んだ ・最も盛大に葬儀のミサが行われ、右近は通常当管区で亡くなった管区長達が埋葬される主祭壇の近くに葬られ た 死者のための墓が掘られることとなったとき、一同は右近のためこの最後の奉仕を行う事に務め、尽力した 右近が埋葬され始めるや一同は争ってその足に接吻し、最も尊敬すべき修道士達さえ行った ・翌日葬儀ミサが行われたが、それは前日と同じく盛大に行われた それから9日間、我等の学院の死者の荘厳 ミサの日まで荘厳ミサが行われ、これらの日々の中、1日はアウグスティノ会の司祭達が担当した (コリンの右近伝 -右近の埋葬場所の補足-) ・主祭壇近くの、この管区の上長たちの墓の間に埋葬され、・・それから20年後、学院の古い教会の墓を新しく建設 された今の大きい教会へ移すときに、・・キリストの殉教者の遺骨を他の人々から切り離し、立派に飾れた柩に 入れ、彼の肖像画を上に掲げて、学院内部の礼拝所に安置する事に決めた ・右近への追悼の辞 [日本殉教録 -右近の霊性が凝縮されている-] ・神はドン・ジュストについてはただ、その信仰の熱意と常に抱いていたキリストのために死のうという堅い 決意を試練しようと希望し給うたもののごとく思われる そしてアブラハムの信仰と聖ヨブの忍耐心の如く ドン・ジュストの徳を全ての人に知らせ、現世においてはキリストの愛のために数多の侮辱・汚名・ 貧困・苦労に遭遇したけれど、栄光の死によって彼に名誉を与え給うたように思われる ・信仰のために彼の上に降りかかって来る逆境に対し常に覚悟していた 今回の追放の前に遭遇したニ度の 追放に際して示した心の堅固さの中にこれを見ることが出来る 今の国王の前任者である全日本の主・太閤 様は、信仰を棄てるか領地や禄を失って追放されるかの何れかであると通告した 彼は「殿下の命令に喜んで 従うが、この問題については絶対に不可能である」と回答した 命令を持って行った人々は、このような大胆な 回答を持って帰ることは不可能であることを説明し、もっと穏やかな返事を求めた そのときドン・ジュストは 立ち上がって、「私の申し述べた今の回答以外にはない 何故なら私の心の中には何等の変化もないし、 これからもないからである これを敢えて伝える者がいないなら、我自ら行って生命を奪われようともこの回答 をしよう」と言った 太閤様はこの決意に激怒し、ドン・ジュスト及び家族に対して直ちに刑を執行せよとと命じ た 友人全般の悲しみのうちに彼自身は喜んでこの処分を受け、追放された印に頭髪を剃り、家来・武将を 集めて起ったことを報告し、「私自身に関しては何等悲しんでいない このことや生命を捧げることさえも、神の 御手から受けた恩恵に感謝しようと思う私の希望から見れば、取るに足りない些細なことである ただお前達が 保護者を失って貧困に陥ることは悲しい」と言った 彼は涙を流して主君のお供することを望んだが、ドン・ ジュストはキリストのためにただ一人でこの苦しみを受けることをを希望して、家臣の同行を許さなかった ・僅か数日前に数多くの供者を従えて堂々と入って来た場所から追放されて一人去って行くドン・ジュストを見て 人々は感嘆し悲しんだ 一年以上俗世の風を避けて匿れ、何処にいるのか解らなかった(小豆島等の潜伏生活) これは彼にとっては神に一身を捧げる良い機会であると思われた 全ての時間を祈りやその他の聖修練に費 やし、神のために棄てた物や栄燿・栄華の絆を断ち切ったことを思い出さなかった その後今回の追放に至る 16年(26年の間違い、加賀滞在期間1588~1614)の間、預け人として筑前殿(前田利家)の領内に いた その地において彼の模範は大きな働きをなし、それによって数多の領主・貴人が信仰に入り洗礼を受け 、キリシタンや宣教師を保護するようになった この最後の追放において示した精神の強固さは第8章(右近が 加賀を追放される場面を記す)において述べたものに決して劣ることはなかった この偉大な僕の示した英雄的徳や謙虚・貞潔・忍耐、聴罪司祭や霊的父に対する従順、神への畏れ、霊の 救いへの熱意、良心への忠実、殉教への希望、信仰の高揚の詳細及びかの諸国における信仰の確固たる 柱であったことを、この短い報告に書き尽くすことはできない (各資料の記述の概要) [1614年年報] (数日間は元気であったが、追放という困難の結果、間もなく病気となり、それは彼を死に導いた) ・右近はひどい重病に陥った時、到着後40日にして、主はその御許に召した給た この病気がは、彼が追放 当初以来忍んできた幾多の困難の結果であったことは疑いを入れない 金沢での厳寒の中の追放、長崎での 死の恐怖、11月から12月にかけての最も厳しく、荒れる季節での長い不自由な航海を耐え忍んできた また マニラの天候・気候は日本とは全く異なり、食事やその他全ての事が全く異なったので、数日間は元気であった が、間もなく病気となり、それは彼を死に導いた (僅か40日生きており、・・ひたすら己が救霊のことに専念しうる一軒の家を得ることより他を望まなかった・・ 一日中聖なる事柄だけ従事していた 神は我等のドン・ユストをいにしえのヨブのように試し、それによって 生存中、また死において彼を嘉し、ついに天国において彼を待っている輝かしい栄冠の前表を示すようで あった いまや、食物と気候の変化のため、更にかほどの過酷な追放と彼の身体に極めて有害な航海の ため、彼はしばらくして出血を伴う熱病にかかり、それは間もなく彼の生命を奪った (チースリク 右近史話 モレホン日本殉教録サラゴサ版) (臨終を覚悟) ・右近の病気が知れ渡ると皆心配し最良の医薬が十分であるように、特に総督は心配して訪問し、十分な看護に 気を配った しかし右近は臨終が近い事を自覚し、モレホン神父に、「主によって天に召されようとしている事、 キリストのために追放され、キリストの国で御ミサと祈りで助けて下さる人々のもとで臨終を迎えるとが出来ること を喜んでいる事、妻子は主が力強く守って下さるので少しも心配していない事」と述べた 泣いている妻子等を見て右近は次のように述べた 「何故泣いているのか 恐らくそれはお前達の誤りであり、主は汝らを保護し、汝等の父となることを引き受け給 うであろう 考えて御覧、我等は追放されて異国に来たと思っているが大小全ての人々が、我等にあたかもその 親戚かそれ以上幾多の愛を示されたのであるから、我等はここに新しいより良い祖国を見出したのである 我等 は当市に入る際、総督殿下武将達及びその他全ての人々が、あたかも予が偉大な人物であるかのように我らを 見ようと務めていた事を見受けなかったか それは天主がその御名の名誉のためになされた御業 であり 、自分の死後、彼等は全てこれらを天主とキリスト教のために行うのであるから、これらの全てはさらに遥か になされることを味わうであろう」 事実、この事は総督が、右近の死後、右近の孫達を引き受けるという事に よって示されたのである 総督は右近の家族のみならず、全ての追放された人々に対して生計費を支給した (孫への遺言) ・病気は日々昂じて行ったので、右近は死の準備をした 彼は度々告解し、聖体拝領、終油の秘跡を受け、用務 片付けた その遺書はむしろ説教であり、第二のトビアスのように、孫への有益な助言からなっていた 右近は その遺書の中で孫達がまだ若かったので心配し、「一同はよきキリシタンであり、イエズス会のパアドレ達に、 確と忠実を守るよう努めねばならない 時が経る中これに違反するなら勘当し、孫とも親戚とも思わない」と記した (「右近は孫に遺書を残した それには・・3年間は日本に帰国してはいけないなどとあった」 海老沢 高山右近) (臨終) ・ついに病気は死へ導いた 右近は明らかな理性を持ち、常に主の執り成しを願い、天主と自らの救霊のことに ついて語る事を考え務めた この間信心を高める幾多の事があった 最後の瞬間実に度々イエズスとマリアの聖名を心と口で唱え、その霊魂を主に委ねた 彼は63才で50年前に キリシタンとなったのであり、一度奉じた信仰のことに、全て些少たりとも動揺する事は無かった また、彼の身 に生じた変転は、常に良き事から、更に良き事へと発展し、日々信仰心は高まり、絶えずその命を天主への愛 とその聖なる教えを明らかにするために、捧げえるよう切に待ち望むところとなった 誰もが熱愛していた人物を失ったと思い、彼の死についての悲嘆は、いとも長く続き全市の悲愁も大きかった 「この聖人が死に、我等は彼がいる事を喜ぶ事が出来ないとは あり得ようか」と言った 多数の民衆が深い憂い と涙して学院と住居に来て、その徳操、神聖、死去、葬儀について語った 一同は追悼の辞の主題について 述べはじめた 「公正(ユスト)は梡櫚のごとく繁茂する」とか「限りなき追憶に公正(ユスト)は生く」とか、「正しき 人(ユスト)に言え、汝は幸いを受けん」というイザヤ書の句を引用し、更に多数の、右近にふさわしく、良く適し ていた句が引用された (総督は、君候に匹敵する、能ふる限りの盛大な葬儀を行った) ・右近を尊敬し、愛情を示した総督は、悲しみの際、率先して行い、それを示し、深い哀悼を述べた 右近が亡く なった今、右近を熟誠によって敬するしかできなかったので、右近の葬儀と埋葬は、能ふる限り盛大に行う事と し、通常の喪服で葬儀に参列するよう命じた 葬儀の前に遺骸は広間に安置され日本風に飾られた 右近には通常身に付けていた中で最良の、最も美しい 着物が着せられ、美しい黒塗りの棺の中に入れられた 顔は覆われず、頭には、日本で俗世を隠遁し、髪を 剃った時に被る頭巾(十徳付頭巾)が被せられた 右近が安置されている間、彼を見、聖なる殉教者のように、 その足もとに接吻しようとする群衆がおしかけてきた 同様の事を修道士さえもし、多数の修道士が遺骸のため 日課祈祷から祈ったので日本人は少なからず信心を喚起され感動させられた ・葬儀には身分の高い人も低い人も、凌駕することがあり得ない程、夥しい群衆が傍らになだれ寄せた 葬儀を一層盛大に催すため、この地方で非常に栄え、右近も都と長崎で属していたミゼリコルディアの 会員が徽章をつけて葬儀に参列した ・遺骸は、総督と国会の諸候達が棺臺のある広間から建物の玄関まで運び、そこから教会までは、運ぶ事を要求 したミゼリコルディアの人達3~4人とあらかじめ運ぶ事になっていた市の人達同数が運んだ 行列が教会に 入り口に到着した時、修道院長と聖職の委員が遺骸を教会の聖歌隊席まで運んだ ・最も盛大に葬儀のミサが行われ、右近は通常当管区で亡くなった管区長達が埋葬される主祭壇の近くに葬られ た 死者のための墓が掘られることとなったとき、一同は右近のためこの最後の奉仕を行う事に務め、尽力した 右近が埋葬され始めるや一同は争ってその足に接吻し、最も尊敬すべき修道士達さえ行った ・翌日葬儀ミサが行われたが、それは前日と同じく盛大に行われた それから9日間、我等の学院の死者の荘厳 ミサの日まで荘厳ミサが行われ、これらの日々の中、1日はアウグスティノ会の司祭達が担当した 彼等は右近 ためいとも華美に、また、金、蝋燭の贅沢を極めて、最も盛んな聖祭を行ったので、君侯のそれに匹敵するもの であった 主葬日に至り、それまで行われた全てのことに栄冠が置かれた 聖歌隊の席には黒い絹布が懸けら れ、それらの上には幾多の表徽、銘、短詩、その他の詩が張り付けられ、聖歌隊席にはそれらの全てを収めき れず、多くの教会廊に懸けることを余儀なくされた程であった それらの中には日本風の詩もあった 全ての 詩は専ら右近について、その勇敢さ、高貴さ、侠勇、高潔な精神、徳操、堅固な信仰に係るものであった 追悼の辞は、当学院の院長が行った 1時間の短さで右近の事を詳しく扱う事は不可能であったので、市民は 右近の伝記を願った 右近の事をよく知るモレホン神父は、この用務を担当した ・右近の死を記したこの年報の最後は右近が聖人に値するという言葉で締めくくられている 『「天主は、その聖人達において栄光満てり」、また、主はこの主の僕にみられた如く、これらの栄光を、天国に おけるものを、既に一部、この世の中に分かち給うたことを認めざるをえぬのである』 [1615年年報] ・・僅か40日間、ドン・ジュストはこの国において、大いに敬われ、総督、大司教、国会議員、修道士、 全市民からしばしば訪問を受けて過ごした・・ [日本殉教録] 右近の霊的指導者である著者モレホン神父は、右近の臨終について、日本殉教録第17章で、右近の霊性の 観点から極めて格調高く記している これはまさにモレホン神父の右近に対する追悼に辞である この箇所に 右近の人生で示された霊性が凝縮されて、全て収めてあると言っていいぐらいの名文であると私は思います その全文を深く味わいたい (日本殉教録第17章 ドン・ジュスト高山の死およびその生涯で最も輝いている若干のこと) (孫への遺言) ・神はドン・ジュストについてはただ、その信仰の熱意と常に抱いていたキリストのために死のうという堅い 決意を試練しようと希望し給うたもののごとく思われる そしてアブラハムの信仰と聖ヨブの忍耐心の如く ドン・ジュストの徳を全ての人に知らせ、現世においてはキリストの愛のために数多の侮辱・汚名・ 貧困・苦労に遭遇したけれど、栄光の死によって彼に名誉を与え給うたように思われる (私は、この箇所は右近の霊性の理解者であるモレホン神父しか書けない名文であると思います ここに 右近の霊性が凝縮されています) ・肉体的にも精神的にも弱っていたから、航海の疲労が最後の病の原因となった 非常に重体になったので、 明らかに最後の来た事を悟り、たびたび告解をしその他の秘跡を受けて思慮深く必要な措置をし、 聖トビーアスが息子に為した如く、彼の遺言は説教であり孫に対する忠告であった 孫が皆若かったから言い遺した事の一つは、立派なキリシタンになるように努力し、教会や イエズス会の パードレに従順であること、もしこれに背く者あれば勘当し孫とも親族とも思わぬ、ということであった 彼等が 泣くのを見て、「何故泣くのか、私が死んだらお前達は困るとでも思っているのか、お前達は間違っている 神はお前たちを保護することを考えてい給うし、神がお前達の父である」と言った その言葉はその通りに実現されたのであって、彼の死後、総督や王室顧問その他の国王の家臣の全員一致 により国王陛下の名において、ドン・ジュスト及びその他の貴人の孫や親族だけでなく、キリストのために追放 された人々全員に、名誉ある生活するに十分な禄が与えられた 苦しみを受ける覚悟で来た土地において 保護を受けたのであるから彼等は神に深く感謝し、スペイン人の寛容と愛情を讃え尊敬し、信仰のために 信徒がこれほどまでにしてくれるのであるから、信仰に関して今までよりも更に深く考えるようになった (聖トビ―アスの遺言:旧約聖書トビト記第14章) (臨終) ・ドン・ジュストは常に神のみ心に叶う言動を示し、それは修道士においてもこれ以上は望めないというほどで あった 死に臨んで聴罪司祭に「パードレ、私はもう死ぬと思いますが、神がそれを希望し給うのですから、 私は喜び慰められています 今より幸せな時が今までにあったでしょうか 私は妻や娘・孫について、何も 心配していません 彼等と私はキリストのため追放されてここにきましたが、彼等が私についてこの土地まで 来てくれた愛情に深く感謝しています 神のためにこのような境遇になったのですから、神は彼等にとって 真実の父となり給うでしょう だから私がいなくてもよいのです」と言った 常に理性を保ち意識がしっかりして いて、主に祈り霊の救いを考えていた そのことの中に、また病気の時に、人々の教化のためになることが 数多くあるが、長くなるからこれを述べない たびたびイエズス・マリーアの聖名を唱えながら霊を神に捧げた 63歳で、洗礼を受けから50年(モレホン神父は右近受洗を1565年と理解)になる (葬儀) ・人々の悲しみは大きく、各人が自分の最愛の者に死なれたように感じ、みな「このような聖人が死んだという のは、本当だろうか 私達はもう彼がいるという喜びを受けられないのか」と言った そのとき人々はただドン ・ジュストの徳や聖い生活、その死・葬儀・埋葬の噂のみをしていた 人々があたかも説教者が彼の名誉を 讃える説教のために題目を選ぶかのようであった たとえば「正しい人は、永久にゆるがず、いつまでも その思い出を残す」(詩編第12章6節)、 「正しい人に言いなさい 彼はにはよいことがある」(イザヤ書 第3章10節)、「正しい者はしゅろのように盛える」(詩編第92章13節)などという言葉であった 最も深い 悲しみを示したのは総督と大司教であって彼らは涙を流し、短い期間にドン・ジュストに対して深い愛情 を抱いていたことをよく表していた しかし一方では、この正義の聖い人物の死は追放によって生じたもの であるから・殉教の栄冠を得るに違いないということが考えられるので喜びと満足を感じていた それは 市中の何れの人々も同じであった その埋葬はこの市で今までに見たことのない最も名誉あるものであり 、総督・大司教・王室顧問・家臣・騎士団員及び市参事会員や聖職者・修道士が参列した ・遺体は彼の着用していた最も立派な衣服と共に柩に収められて、日本風に飾られた一室に置かれた 顔は 覆われず、頭には一種の頭巾をつけていた これは俗世を棄てた印に頭髪を剃った人々が用いる風習に なっているものである ここに置かれている間は殉教者に対してするように、彼の足に接吻をしに集まって来る 人々に通路を与えることができなかった 修道士達も彼の足に接吻するので、これは日本人を感嘆させ大きな 教化となった 遺体を運ぶ時になって、人々がみな競って彼に敬意を表そうと希望したので、だれがこれを 担ぐかということで聖い争いが起った それに対し総督がよい解決方法をとった すなわち彼自身及び王室 顧問官が柩を通りに面した出口まで運び、そこで市参事会員及び市で非常に重んじられている信心会の 人々が交替した 教会の入り口から諸修道会の修道院長と宗教裁判官がこれを運んだ 葬儀は厳粛に行わ れ、この管区で死去したイエズス会管区長と同じように主祭壇の近くに埋葬された 栄誉を讃えるためにスペイン語・ラテン語・日本語・支那語で詩を書いた黒い絹の幕が教会に捧げられた (右近の霊性 -受洗・1587年バテレン追放令・潜伏生活・今回の追放-) ・この学院の院長が説教し、聴衆は深く感動してこの秀れた稀な生涯についてさらに多くを知りたいと希望した ので、それが出版されることを求めた それが世に出るまでの間、その一部を簡単にここに述べよう ドン・ジュストは、日本全国六十六ヵ国の中心たる都のすぐ近く、高槻領主ダリオ高山の息子である その家名 は高い山という意味であって、彼の人物をよく表している それは神がイザイアスために約束し給うた「はげた 丘々の上に小川をわかし、谷々に泉を出す・・・」(イザヤ書第41章18節)ことをよく果たしたからである この父子の高い山に、神が洗礼によって恵みの多い川の源をおき給うたので、そこから水が家臣の間や他の 大領主の砂漠に流れて行き、彼の模範と勧めによって人々がキリシタンになった 1565年14歳の時に父母 ・兄弟及び100名以上の家臣と共に、イエズス会のパードレ・ガスパール・ヴィレーラの手によって洗礼を受けた (間違い 右近は1564年修道士ロレンソによって受洗) その時以来信仰に関しては何等変化を示さず、次第にその熱意を増していったので父と共に偉大な功績を残 し、百を超える教会・礼拝所を造り、また各所に同じく百以上の十字架を建てた 偶像を打ち壊し、領主や 貴人及び一般民衆を信仰に導き、キリシタンの敵たる仏僧・殿・偽政者の手からイエズス会士を守り庇護した 極めて顕著で稀有のことであるが、ドン・ジュストは思慮深く勇敢で気高い武士であったから、霊の師である パードレに対する愛と尊厳及び信仰に対する真剣さにおいて彼の心に背くことがなかったし、彼の人生は 極めて端正・純粋であったから貞潔の徳に反することは全く見出されなかった 太閤様でえ人々の前で彼を 賞賛したことは有名である ・信仰のために彼の上に降りかかって来る逆境に対し常に覚悟していた 今回の追放の前に遭遇したニ度の 追放に際して示した心の堅固さの中にこれを見ることが出来る 今の国王の前任者である全日本の主・太閤 様は、信仰を棄てるか領地や禄を失って追放されるかの何れかであると通告した 彼は「殿下の命令に喜んで 従うが、この問題については絶対に不可能である」と回答した 命令を持って行った人々は、このような大胆な 回答を持って帰ることは不可能であることを説明し、もっと穏やかな返事を求めた そのときドン・ジュストは 立ち上がって、「私の申し述べた今の回答以外にはない 何故なら私の心の中には何等の変化もないし、 これからもないからである これを敢えて伝える者がいないなら、我自ら行って生命を奪われようともこの回答 をしよう」と言った 太閤様はこの決意に激怒し、ドン・ジュスト及び家族に対して直ちに刑を執行せよとと命じ た 友人全般の悲しみのうちに彼自身は喜んでこの処分を受け、追放された印に頭髪を剃り、家来・武将を 集めて起ったことを報告し、「私自身に関しては何等悲しんでいない このことや生命を捧げることさえも、神の 御手から受けた恩恵に感謝しようと思う私の希望から見れば、取るに足りない些細なことである ただお前達が 保護者を失って貧困に陥ることは悲しい」と言った 彼は涙を流して主君のお供することを望んだが、ドン・ ジュストはキリストのためにただ一人でこの苦しみを受けることをを希望して、家臣の同行を許さなかった ・僅か数日前に数多くの供者を従えて堂々と入って来た場所から追放されて一人去って行くドン・ジュストを見て 人々は感嘆し悲しんだ 一年以上俗世の風を避けて匿れ、何処にいるのか解らなかった(小豆島等の潜伏生活) これは彼にとっては神に一身を捧げる良い機会であると思われた 全ての時間を祈りやその他の聖修練に費 やし、神のために棄てた物や栄燿・栄華の絆を断ち切ったことを思い出さなかった その後今回の追放に至る 16年(26年の間違い、加賀滞在期間1588~1614)の間、預け人として筑前殿(前田利家)の領内に いた その地において彼の模範は大きな働きをなし、それによって数多の領主・貴人が信仰に入り洗礼を受け 、キリシタンや宣教師を保護するようになった この最後の追放において示した精神の強固さは第8章(右近が 加賀を追放される場面を記す)において述べたものに決して劣ることはなかった この偉大な僕の示した英雄的徳や謙虚・貞潔・忍耐、聴罪司祭や霊的父に対する従順、神への畏れ、霊の 救いへの熱意、良心への忠実、殉教への希望、信仰の高揚の詳細及びかの諸国における信仰の確固たる 柱であったことを、この短い報告に書き尽くすことはできない [コリン著の高山右近伝] ・もともとコリンはモレホンの著作を基に書かれているので、日本殉教録と基本的には同じであるが、コリンも格調高く、 右近の臨終を記している (神の思し召し -栄光の死-) ・ジュストは持病が悪化し、間もなく天に召されることになった 彼を日本国外に出し給うた神の思し召しは、ただ次の 目的のみにあったものと思われる すなわち、信仰のために死のうと常に考えていた決心と熱情を試練し、アブラハム のようにこれを世間に知らしめ、ヨブのようにその忍耐心を修練させ、最後には預言者の言葉、「義人(ジュスト)は禍の まえに取り去られる」(旧約イザヤ書57章第1節)のように、キリスト教徒の間における栄光の死によって名誉を与え給い 、また神の愛のために受けた数多の侮辱・不名誉・苦労に対して、その死の前にも一部分の報いを与えようと為し給うた のである (病に倒れる) ・彼は健康に恵まれなかった 最後の迫害の時には、日本で最も寒い遠隔の北部にいた そこから都へ出て来るように 命じられたが、それは冬で雪に覆われた険しい山の中の長い道中、何の便宜もなかったし世話も受けることも全くなか った 都からは一部は海路、一部は陸路を連れて行かれたが、常に不自由で欠乏の道中を長崎まで 続けた そこ から既に11月に入っていた時期に、妻と娘と小さい孫5人と共に狭い船の一室に入れられ、長くて苦しい航海に出た ・マニラに入港すると、その気候は日本と全く反対であり、食物も非常に違っていた 常に領主として貴人の間で生活 してきたあまり頑強でない体で、三ヶ月間の旅の混乱・変動・不安・不自由・疲労に遭遇したのであるから、重病に かからないはずがない 彼は病気を認め、最後の近いことを知り、聴罪司祭(モレホン)にそれを話した 総督は医者 を集め治療に全力を尽くすように命じたが効果は全くなかった (臨終) ・来世のための準備をし、何回も告解をし日頃の慣わしどおり慈愛と深い思慮によって必要なことを処理していった その遺言はトビアスのように、孫に与える立派な教訓であった 孫はみな若年であったから、遺した忠告の中の主な ものは、立派なキリシタンになって聖なる教会やパードレの教え、特にイエズス会の人々に従順であり、これに背く ならば勘当し、子や孫あるいは親族として認めないという事であった 泣く孫達に「泣くな、お前達にとって私が必要と 思っているのか 考え違いに気付きなさい お前達の身は神様がお引き受け下さるのだ 今まであった事を考えて みなさい 私達は苦しむために外国に来たと思っていたのに、自分達の祖国より良い所にいて、・・恵まれ愛されて いるではないか これは神の御業であり、・・私の死後かえって増加していくであろう」と言って慰めた 実際そのとおり になり、総督は・・彼等の生活に必要と思われる金額の支給を定めた この後モレホンと全く同じ右近の臨終・葬儀の様子が記されている そして、コリンの右近伝は、1616年出版されたモレホン神父の出版書とグスマンの「歴史」等から採録したことが記され ている 右近の埋葬場所について次のように記している ・主祭壇近くの、この管区の上長たちの墓の間に埋葬され、・・それから20年後、学院の古い教会の墓を新しく建設 された今の大きい教会へ移すときに、・・キリストの殉教者の遺骨を他の人々から切り離し、立派に飾れた柩に 入れ、彼の肖像画を上に掲げて、学院内部の礼拝所に安置する事に決めた 日本国民に安心と教化を与えるため、 将来信心深い人々が・・今よりさらに権威ある公けの墓の建設を求めるであろう それは旧約智恵の書(第4章16節) の「死んだ義人は、生きている悪人を責める」という言葉がそのまま実現されるためである そして最後に右近が現世の命を捧げ、永遠の命を得たと讃えている 右近の霊性の核心を記している ・「義人はその信仰によって生きる」(旧約ハバクク第二章第4節 新約ローマ書第1章第17節)をもって終える ジュストは日本におけるキリスト教の信用・栄光・伝道のために生まれ、そのために生き抜いた 神への堅固な 信仰と信頼は彼をその戦いにおける勝利者とし、日常の起居を慈愛に満ちたものとし、その行いを正し、隣人 の教化に熱意を示させ、神の奥義の説教者、数多の教会の創設者、十万人以上ものキリシタンの保護者となし、 しばしば名誉や領地を軽視させ、終には再三度の追放をも耐え忍ばせ、今まで生き抜いて来た信仰及び永遠 の賞を守るために、最後の追放に際しては現世の生命を捧げるに至らせた こうして彼は永遠の命を受けに行った のであり、永久にこれを享受するであろう アーメン (右近の埋葬場所について) 埋葬場所について書かれた次のような資料があります 【右近の埋葬場所】(チースリク高山右近史話) ・イエズス会の聖堂であったサンタ・アンナ教会本祭壇の近くに安置された ・それから同教会の数年後屋根が腐食して落ちたので、1620年から22年にかけて、すぐ近くに新しい聖イグナチオ教会 が建立された 聖アンナ教会に埋葬されていた管区長達の遺骸は新しい聖堂に移したが、右近の遺骸はそこではなく、 別の場所サン・ホセ学院の聖堂に安置させた その目的は、列聖調査が始まったので、特に大切にする必要があった ためで、そのために豪華な石棺を造り、その上に肖像画を飾っておいたそうです ・1767年マニラのイエズス会は全て閉鎖され、その所有物件はすべて大司教区に移された ・その後不明になってしまった ・サン・ホセ学院はたびたびの戦争、地震、火災等にあって今日まで存続しているが、現在はマニラの郊外の別の場所 にあってその聖堂には右近の遺骸は見当たらない 【右近の埋葬場所】(片岡弥吉著日本切支丹殉教史) ・右近が葬られたサンタ・アンナの教会は1596年イントラムロス(旧城内)の東南隅に再建された 1635年の地震でこの 聖堂は破壊し、1639年第三次の聖堂が建ち、サン・イグナチオに捧げられた 右近の遺骨はその時、壺に納めて サン・ホセのコレジオの聖堂に移され、右近の画像がその上に掲げられていた 1767年、イエズス会は解散して、 フィリッピンを去り、土地と建物はマニラ大司教の所有となった そして右近の遺骨と画像は行方がわからなくなった ・昭和12年私はマニラに右近の遺跡を訪ねた 同地の右近研究家リべッティ教授の知遇を得、・・・右近の遺骨があった サン・ホセ教会跡は米軍兵営になっていたが、彼の斡旋で中に入り、ホセ教会の祭壇跡にたたずみ感慨を深くした 【右近の埋葬場所】(海老沢有道著 高山右近) ・「・・イエズス会学院はアメリカ領有後兵舎に変えられてしまった 私は太平洋戦争に際しマニラに進駐した友人の日本 軍属に聖アンナ聖堂の遺跡調査を依頼した あの激しい戦いで、その上、私も出征したため連絡も十分とれぬ中を、 彼は懸命に調査してくれ、遂にその地を見出し、仮に「高山右近終焉の地」(実際は埋葬地)と墨書した木柱を建てて くれた しかし、彼は間もなく戦死し、そして日本の敗戦に伴い、心ないアメリカ軍により木柱は撤去されて、再び兵営と な り、今日に至っていることは遺憾に堪えぬところである 【右近の埋葬場所】(ラウレス神父著 高山右近の生涯) ・遺骸は、イエズス会管区長たちが葬られることとなっている学院の聖アンナ教会の主祭壇の近くに埋葬され、9日間 引き続いて歌ミサが捧げられた その間、アウグスティノ会のパアデレ達は、高価な銀の器と蝋燭をもっていとも華麗 に 聖祭に従ったので、現職の王侯の葬儀のようであった 葬儀の最後として、また、最高頂として盛大なミサが捧げ られた ・右近の遺骸を埋葬した聖アンナ教会の屋根が崩壊した ・1620~1632年の間に、聖イグナチヨのために新教会が設けられ、右近以外の遺骸はそこに移された しかし殉教者 右近はそこから切り離され、イエズス会のサンホセ学院の聖堂に移された キリシタン武士右近の絵が描かれた美しい 石棺の中に安置された 1767年マニラのイエズス会解散 イエズス会のものはマニラ大司教下に置かれた ・サン・ホセ学院は、今も市の郊外にあるが、しかし、右近の遺骸はない ・イグナティウス教会は、その後の地震で損傷し、米国の領有後取り壊された ・地所と旧学院の建築の残りは、米国の植民省所有となり、植民省はそれを兵舎に変えた ・旧イグナチオ教会の場所には、今日兵営の体操場がある 【私見】 右近の埋葬場所などについて書かれた時期から相当経過しているので、現在のマニラの状況とは 相当違っている 私も2011年2月マニラへの公式巡礼に参加させて頂き、右近縁の地を見学し、亡き溝部司教様にも問いただしたり、 マニラの右近研究者ペドロ氏の話を聞いたこともあるが、本当のところはよく分かっていないのが実情ではないだろうか サン・ホセ学院の聖堂の石棺が、何時の日か、発見されることを信じて、そうなるように心からお祈りしたい (ノバリチェスの墓地について) マニラの右近研究家で、右近列福の証言者でもあるプロフェッサー・ペドロ氏は、ノバリチェスの墓地の一画に 右近の遺骨が納められているとする立場を取っておられる この墓地はケソン市の「セイクレッドハート・ビレッジ (聖心修道会)」というイエズス会の修道院の敷地の中にある聖職者墓地のことです イントラムロスの聖イグナ チオ教会墓地に埋葬されていた聖職者の遺骨を第二次大戦後ここにもってきて、納骨したとのことです(大戦 により教会自体が相当な被害を被ったため) 2012年に京都の大塚司教一行がマニラを訪問した際、この ノバリチェスの墓地のクリプトから、納められている遺骨を取りだし調査したが、アジア人らしい骨は見つから なかったと言われているようですが、私は知りません(ペドロ氏の説明については、2011年2月公式巡礼記を参照) 私も2011年の公式巡礼に参加した際に、このノバリチェスの墓地はとても印象深い思い出の地となっています プロフェッサー・ペドロ氏の話を溝部司教樣が同時通訳され、興味深くお聞きしたこと、また、溝部司教様が、 熱い中、渾身の力をこめて、長時間、右近の霊性について力説され、信徒は彼の霊性にみならって、回心し、 信仰を見直さねばならないと説かれたことが思い出される このとき、他方では、私の脳裏には、右近が最終 的に埋葬されたとされるサン・ホセ学院のことがこびりついていて、プロフェッサー・ペドロ氏はそのことを全く 触れられず、釈然としなかったことも事実である このことを溝部司教様にもお聞きしたが、明快な説明は なかった 恐らく、右近のマニラの権威ある証言者の見解であるので、これを尊重せざるを得ないというのが、 本当のところなのであろう また恐らくペドロ氏は右近はサン・ホセには埋葬されていないとの立場なのであろうか わたしは、専門家でないので確かなことはわからないが、このことに、あまりこだわる必要もないのではと思う 右近の墓に確信は持てなかったが、右近がマニラで過ごした場所が現在のマニラ市のイントラムロスという所で 確認出来ることだけで十分満足です 右近がパレードしたメイン通りやその通りに面した教会の場所や、右近 の住居があった場所も推定する事が出来ます 私は、聖アウグスティン教会とそこでのミサで右近の霊性を大い に感じ取ることが出来ました 右近の霊性を偲ぶマニラの場所としては、それで十分だと思います 右近がいたイントラムロスは、16世紀に完成したスペインの要塞都市で、第二次大戦中には、日本軍が立て 籠もり、米軍と激烈な戦闘が行われた場所で、その戦闘で多くのものが破壊されたそうです また、フィリッピン 独立の父であるホセ・リサールが投獄・処刑された所でもあります 大戦で破壊されたマニラ大聖堂は、日本が 戦後の反日感情を考慮して、聖堂再建に経済的な協力をしたことが、聖堂の壁に記されています イントラムロスは、先の大戦の意味を深く考えさせられる所でもあります 2011年の公式巡礼を報じた2月4日 の現地の日刊マニラ新聞では、2月3日に行われたマニラ市街戦66周年記念式典の記事を掲載し、「大戦 末期の2月3日から約1ヵ月間行われたマニラ奪還を目指す米軍とマニラを守備する日本軍のマニラ市街戦で、 10万人以上のマニラ市民が犠牲になった マニラ市長、連合国側の米国他5カ国の大使、関係者800人近く が参列し冥福を祈った このマニラ市街戦を忘れてはならない・・」と報じています 2月3日は右近が亡くなっ た日です 右近は平和を愛する人であった イントラムロスを世界平和を祈念する場所と捉え祈ることによって、 右近の霊性は普遍的価値を持ち、マニラの市民に尊敬されるものとなるのではないでしょうか て与えられ、 してから長崎 、諸聖人教会 きた 今回も神 異国での困難 てスペインの した 多くの人 月11日 がこのよ 起こるのを恐 との記述 ようとしたが、 3人の子供 危険が 往復は 身でありな においても ドレのうち3 信仰を を過ごし、諸聖 迫る国外追放 ちにしばしば 人たちの 貧しい人々 才町) 、この坂の 聖母訪問の 員がマカオ されたことは 命令を り、俗世から なっています なのであろうか ラ市街戦で、
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