サンクト・ペテルブルク紀行④ 冬宮前広場での血の日曜日事件

冬宮前広場での血の日曜日事件
サンクト・ペテルブルク紀行 ④
長谷川 了一
祖国戦争勝利記念の円柱と凱旋アーチ
皇帝の居所であった冬宮(現在のエルミター
ジュ美術館)の前にサンクト・ペテルブルクの
中心となるとても広い広場、宮殿広場がある。
広場の中央にはアレクサンドルの円柱が建っ
ている。1812 年の祖国戦争勝利を記念してア
レクサンドル 1 世が建てさせたものである。柱
の中心は直径 4m、高さ 47.5mの一枚岩の赤
花崗岩で造られている。広場の南側には 1829
年に建てられた旧参謀本部の建物が半円形に
広場を囲んでいる。その真ん中に凱旋アーチが
造られ、アーチの上には軍馬車に乗った勝利の
女神の像が建っている。これも祖国戦争の勝利
を記念したものだ。
宮殿広場 正面は冬宮とアレクサンドルの円柱
4000人以上の労働者が殺された
4000 人はくだらないだろうといわれている。
1905 年 1 月 22 日、日曜日。ペテルブルクの
これが「血の日曜日事件」である。
街は一面雪に埋めつくされていたが、この日は
もうツァーリはいない
珍しく雲一つない好天気で、陽光が雪の上にま
この日、ニコライ 2 世はツァールスコエ・セ
ぶしく輝いていた。神父ガポンに率いられた労
ロー(皇帝村)の離宮におり、冬宮広場に血が
働者の請願のデモ行進は、皇帝ニコライ 2 世の
肖像、教会旗、十字架、イコン(聖像画)をも
ち、「主よ、なんじの僕を救いたまえ」の讃美
歌を歌いながら、5 方面から冬宮に向かった。
当時のロシアの民衆の間には、ほんとうのツァ
ーリはわれわれに自由と幸福を与えてくださ
るのだという古くからの思いがあったので、ツ
ァーリの居所・冬宮に向かったのである。これ
流れている時間に、お茶を飲んでいた。請願書
はもちろん読んでいない。かろうじて逃れたガ
ポンは、マクシム・ゴーリキーの家にかくまわ
れた。ガポンは労働者に対してつぎの訴えを書
いた。「同志諸君! ロシアの労働者諸君!
われわれにもうツァーリはいない。今日、ツァ
ーリとロシア人民との間に、鮮血の川が流れ
た。ロシアの労働者が、ツァーリぬきで人民の
自由のための闘争をはじめるべき時がきた。」
に対して騎兵隊が銃と剣で凶暴に襲いかかっ
ロシア第 1 革命が始まる
た。それでもなお多くの労働者は冬宮前の宮殿
この後約 10 カ月の間、労働者のストライキ、
広場に向かった。
農民の暴動、そして黒海艦隊の戦艦ポチョムキ
広場には近衛連隊が配置され、大砲も持ちこ
ン号も革命の側に立つなど、ロシアはかつてな
まれ、銃撃が加えられた。この日の行進に参加
い激動をみせた。いわゆる「1905 年の革命」
した労働者の総数は 6∼7 万人。死傷者数は
あるいは「ロシア第 1 革命」である。(つづく)