H O P E ブルゴーニュの 巨石とキリスト磔刑像 た っ け い Jean Collardot / ジャン・コラルド ジャン・コラルド 1925年、フランスのニュイ=サン=ジョルジュ市 生まれ。 69年から95年まで同市の文化・都市計画 担当助役を務め、現在「ブルゴーニュワインの騎士 団」長老。 外国語、歴史、宗教哲学、デッサン、絵画 について造詣が深く、7カ国語を解する。 遠く新石器時代から、私たちの大地のいたるところで、人々は地面 てっぺんがキリストの十 字 架 像の形に切り取られたメンヒルもい から石を掘り出し、それを天に向けて立てようとしてきました。できるだ くつかあります。こうしてメンヒルを改 宗し新たに使 用することには、 け手ごろな石を積み上げることから始まり、紀元前2 0 0 0 年代からは 新カトリック改宗者(*2)を、彼らが習慣として信仰を実践していた礼拝 巨大な岩石の塊を用いるようになりました。これらの岩石は、学術的 の場に引き留めるという利点がありました。それらの場所は、地球放 には“ Mé g alithes ” (メガリット) と呼ばれ、巨石記念物を意味します。 射がよい影 響をもたらすため気 象 環 境がよいと見なされていました。 フランスでこういった遺 跡が一 番 多く見 受けられる場 所は、ブル こういった 信 仰ならび に、地 方 の 慣 習 や 伝 統を継 承しようとする ターニュ地方です。特に、有名な景勝地カルナックには、1,169個の 気持ちから、礼拝堂、教会、大聖堂の建設者は自分たちの建造物を “ MENHIRS ” (メンヒル) が11列に並んでそびえ立っています。今日、 古代の神殿があった場所に建立するようになったのです。その結果、 次 のような記 念 物を意 味する名 称はブルトン (ブルターニュ)語を 初期の礼拝堂は巨石と共存することができました。また、5 世紀まで 起源としています。メンヒルは直立に置かれた石を指し、 “ DOLMENS” は教 会 の 身 廊とは分 離された建 造 物であった鐘 楼も、これと同じ (ドルメン) はテーブルの形に水平に置かれた石を指します。ブルトン 建築上のビジョンに基づいて建造されるようになったようです。 語で“ M e n ” (メン)は石、 “Hir ” (ヒル)は長い、 “Dol ” (ドル )は 村で最 初 の 石 の 建 造 物はおそらく教 会でした。一 般に家という テーブルを意味します。私たちの地方ブルゴーニュは、ブルターニュ のは木の骨 組みでできていて、それにわらを混ぜた粘 土の壁を加え、 ほどこの種の記 念 物が豊 富ではありませんが、過 酷な気 候や後の 麦わらで屋 根を葺いたものです。平 野ではこういった建 築 方 法が 世代の破壊行為を免れた記念物がいくつか残っています。ソーヌ= 一 般 的でしたが、私たちの 丘 陵 地 帯 のブドウ栽 培 者たちは石に恵 エ=ロワール県のクーシュ近郊を訪れれば、エポワニーの5つの巨石 まれていました。丘の斜面には地表に頭をのぞかせた建築用の石や、 を目にすることができます。また、オート=コート・ド・ニュイを見おろす 屋根を葺くのに用いられる“ laves ( ” 板石) と呼ばれる大きな平たい 森に囲まれたテルナン村にもドルメンがあります。 石がふんだんにあったのです。 (*1 )の ところで、メガリット消失の主な原因は、パガニズム ( 異教 ) 教 会とその 鐘 楼は村 の 中 心に、そして神 のご加 護を受ける拠り 痕跡をすべて消し去るという使命にとりつかれた、初期のキリスト教 所となりました。キリスト教信者たちの願いはただ一つ、自分の魂が 伝道者たちの盲信にあります。6 5 8 年にナント公会議は、人民が崇 確 実に天に直 行できるように、教 会の地 中に埋められることでした。 拝していた記 念 石を汚す決 定を下しました。7 8 9 年には、シャルル 彼らの 魂は天 に 昇ったとしても、それが 離 脱したばかりの 哀れな マーニュ皇 帝が 記 念 石 の 破 壊を命じました。とはいうものの、彼は なきがらは、その安息を祈るためにきてくれた信者たちを不快にさせ 私たちにコルトン・シャルルマーニュという銘酒を残してくれましたの るにおいを発 散しながら分 解します。その結 果、人々は故 人を教 会 で、この偶像破壊行為は許してやることにいたしましょう。 のまわりの空き地に埋 葬することに同 意せざるを得なかったのです。 私たちの祖 先の石に対する信 仰は、聖 書のお話を通して私たち そして 彼らの 魂 に 神 のご加 護を保 証し家 族を安 心させるために、 に伝えられている信仰に近いものでした。聖書には、 「アブラハムは キリストが人々を救うために耐え抜いた受 難を思い起こさせる磔 刑 石を立て、祭 壇とした。ヤコブは石を立て、祭 壇とした……モーゼは 像を、墓地のまん中に建てることにしたのです。 石を立て、祭 壇とした」とあります。しかし、伝 道 者である農 村の修 このキリスト磔刑像は古代のメンヒルのそばで見つかるときもあり 道 士たちは、こういった原 始 的な建 造 物を悪 魔の仕 業としか見なし ます。そのような場合はきまって、双方が同じ役目をもっていたことを ませんでした。ただ、最も巨大な石は破壊者のハンマーをものともし うかがわせます。たとえば、道 の 境 界 線を示したり、古 代 の 神 殿 の ませんでしたので、彼らはそういった巨 石をキリスト教に改 宗させる 跡を示したりすることです。侵 略や宗 教 戦 争のために消 失してしま ことを企てました。その方 法は、十 字 架から始まり、聖 者の像、聖 母 った教 会や礼 拝 堂の跡 地には、よくこれらの目印が見 受けられます。 マリアの像と、キリスト教徒の印を石に刻むことだったのです。 カトリックの磔 刑 像は、プロテスタントから奪 回された領 地の目印と 13 なることもよくあるのです。 いうことになっています。水 曜日に雨が降ったときは、ブドウ栽 培 者 敵を国 境ではばみ、平 和を取り戻したキリスト磔 刑 像は、1 7 8 9 年 たちは賛美歌を歌うことはせず、真剣になって守護聖人の連祷(*6 ) のフランス革 命で新たな試 練を迎えました。この革 命により、旧 体 を唱えました。こういった信仰の実践も、ローマ人が以前行っていた 制を思い起こさせるすべての宗 教 的シンボルの破 壊 命 令が下され 信 仰に端を発しています。彼ら自身も母なる大 地を崇 拝するさらに たのです。農民は当局の命令を履行するのにそれほど熱心ではあり 古い伝統からそれを受け継いできたのでした。 ませんでしたので、都 市から愛 国 派の集 団が送り込まれ、あの略 奪、 今日では、私たちには技 術という素 晴らしい力がありますので、祈 れんとう 破 壊 行 為が行われたのです。それはまるで、古 代のメンヒルに対し 願したり、感 謝したりする必 要はなくなりました。とはいえ、私たちの て初 期のキリスト教 徒がやっていたのと同じような破 壊 行 為でした。 ブドウ畑 のはずれにそびえ立つあの 十 字 架は、天と地( 土 )の 結び しかし農村の人々は自分たちの新しい信仰のシンボルに愛着をもって つきを象 徴しているのです。“ t e r r e ” ( 土地 ) という語は、日本語の いましたので、キリスト磔 刑 像を分 解して地 中に埋め、革 命の熱 狂 漢 字で「土」と書きますが、これは私たちの十 字 架 像を連 想させる が鎮まった後に組み立て直すということがよくありました。 表 意 文 字といえます。この 十 字 架 像は天に向かって伸びる腕でも 革命の動乱の後、キリスト磔刑像は自らの居場所を再び見いだす 『瞑想詩集』 あります。詩人のアルフォンス・ド・ラマルチーヌ(*7)が、 ことができました。キリスト磔 刑 像もまた領 地の境目を示していまし の中で次のように描 写しているとおり、私たちはその天に郷 愁の念 たが、市 町 村の境にある最も古いものなどは旅 行 者の目印の役目 をもっています。 を果たしました。たとえば、テンプル 騎 士 団(*3 )の 十 字 章やサンチ アゴ = デ =コンポステラ(*4 )への巡 礼 者の貝殻(*5 )がかたどられた 人の資質に限りあるも人の願いに限りなし いくつかの記念物がこのことを証明しています。ごく最近の1 9 世紀 人間なるもの記憶にある天から落ちし神なり から20世紀初頭にさかのぼるものは、台座に彫られた碑文が示して いるように、概して祈願成就や家族の記念日を期して信心深い人が 建てた奉 納 用 の 十 字 架です。ヴォーヌ・ロマネにあるキリスト磔 刑 像の場合は、そこの名高いドメーヌ、ロマネ・コンティのブドウ畑を見 (*1 )特に古代ギリシア・ローマの多神教を指す。 (*2 )ナントの王令廃止時( 1685年 )に強制的にカトリックに改宗させられたプロテスタント (*3 )第一回十字軍(1099年)以降現れたキリスト教武装修道会の一つで、聖地の守護と、 守っています。この碑 文が彫られた四角形または円 形の板 石の上 に載っている台 座は、花や供 物を載せることができ、ときとしていけ にえの祭壇を思い起こさせるようなさらに幅が広い板状の石が載っ 領地を通る巡礼者たちの警護に当たった。 (*4 )スペイン北西部の町。使徒ヤコブ殉教の地といわれ、エルサレム、 ローマと並ぶキリスト 教三大巡礼地の一つ。 (*5 )杖やそれにつるすひょうたんとともに、巡礼に必要なアイテムの一つ。 ていることがあります。昔は、十 字 架が建てられるときには、主 任 司 (*6 )司祭が先唱し、信者が答えるカトリックの祈りの形式 祭がそれを祝 福するために行 列を組 織し、ひざまずいて祈りを捧げ 『瞑想詩集』によりロマン主義の旗頭となる。 (*7 )1 7 9 0∼1869年 。詩人、政治家 。 ました。現在の教区民はみなこれにならっているのです。 20世紀の初頭まで、キリスト磔刑像は、 “ Rogations ” ( 豊作祈願 のために行われた行 列 行 進のゴールの役目を果たしていました。 祭) ブ ゴーニュへ ブルゴ ニュ 、よ ようこそ 中世がいまだに息づいているブルゴーニュヘいらっしゃいませんか。 この 祭りは、主 の 昇 天 の 木 曜日に先 立って3日間 行われる宗 教 上 極上の銘酒を生み出すぶどう畑、グルメレストランの数々、 の祭 典です。この機 会に人々は集まり、行 列をなして賛 美 歌を歌い 豊かな生命力と「はだのぬくもり」を感じる地方、 中世そのままの街なみ、美しく広がる大地や、小さな村々、 それがブルゴーニュです。 ながら、五 穀 豊 穣を神に祈り、動 物や作 物を脅かす病 気や悪 天 候 を追い払います。庶民の知 恵によれば、月曜日は干し草、火 曜日が (株) 岩沢 Te 0 3 3 5 8 2 5 0 8 7 Tel. 穀物、水曜日はブドウについて収穫期の天候を予測するための日と 14
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