比較史の方法と意味 −体験からの試論− 望 田 幸 男 はじめに Ⅰ.比較の目的・効用・対象 Ⅱ.比較の方法と作業形態―若干の具体例― Ⅲ.「比較と関係の歴史学」への道 おわりに は じ め に 今日、比較史を含めて比較論はきわめて盛んである。比較文化論とか比較社会論など、「比 較」という文字を冠した著作や論文が多産されている。こうした動向は、一国的ないし一地域 的な視点を越えて、多国的ないし多地域的な、あるいは国際関係的な関心が強まっていること と密接に関連していると思われる。こうした学問的ないし論壇的なレベルだけでなく、日常生 活レベルにおいても、比較の意識が強いことは、あえて指摘するまでもなかろう。ある意味で 人間は、他者と自己を比較するなかで生きているといえよう。比較的思考は人間の不可欠な思 考形式である。ともあれ、比較論は流行気味である。だが、それにもかかわらず、比較の方法 を自覚的に論じることは意外にすくない。それで、たとえば、どんな比較が有効であり、有意 味であるか、どんな比較はやってはならないか、また比較は共同作業を必須とするが、そのた めにはどのような配慮を払ったらよいのだろうか、こうした問題をあらめて考えてみる必要性 を感じる。 こうした問題の検討の必要は、私自身がいささか比較史なるもの―具体的には主として近 代ドイツと近代日本の比較であるが 1) ―を手がけているなかでも感じているところである。 それで本稿では、先行研究―よく知られたところでは、マルク・ブロック『比較史の方法』2) など―にも依拠しつつ、私自身の体験にも照らしながら、比較史の方法と意味を検討してみ たい。 なお、比較史なるものは日本における戦後史学においても、けっして片隅におかれた存在で はない。戦後、「大塚史学」の名のもとに盛行した歴史学の流れは、まさに一個の比較史であ −309− 政策科学 11−3,Mar.2004 り、「比較経済史学」とも別称されていた。ただし、今日、流布している比較史とは異なった 手法が用いられていた。そこでは主として資本主義と近代化の先頭に立っていたイギリスの近 代化をモデルとして、他国・他地域の近代化の程度を測定する、その限りで比較の手法が用い られていたのである。従って、後進的な国・地域には 近代化のおくれやゆがみが指弾される 結果となり、いわゆる先進国との差異性のみでなく、共通性についても論証していくバランス 性は欠けていたといわざるをえない。同様な意味で、戦後一時期、広がりを見せた「世界史の 基本法則」なるものも、先進国・先進地域における歴史的発展を基準にして、それの貫徹の度 合いを測定するという限りでは、比較史の方法という点では「比較経済史学」と軌を一にして いるといえよう。 また、広く比較史一般を考えるならば、複数の社会や時代の間の比較である限り、すでに古 代においても、ギリシア人と非ギリシア人=バーバリアンという対比が行われていたし、異な る時代・文化の比較は18世紀の史書にも見ることができる。しかし比較史的方法の自覚的行使 は、19世紀中頃まで待たねばならなかったし、厳密に比較の方法を明確化するようになるのは 20世紀になってからである。こうした比較史一般の発展に関する概観については、拙稿「比較 史」『歴史学事典』第六巻、弘文堂、1997年を参照されたい。 Ⅰ.比較の目的・効用・対象 比較には目的がある。なんのための比較なのかが問われなければならない。いかなるもので も比較しようと思えば比較することはできよう。しかし、その比較が学問的に有意味かどうか は吟味されなければならない。つまり比較は自己目的ではなく、手段として位置付けられる必 要がある。比較が手段であるかぎり、目的がはっきりされていなければならない。たとえば歴 史学上の往年の論争点に関連していえば、「明治維新はブルジョア革命かどうか」という具体 的な問いがあって、この問いを解くために、明治維新とフランス革命やイギリス革命との比 較・検討が行われるのである。目的は「明治維新の歴史的性格の解明」であり、比較はそのた めの手段である。 「比較革命論」をやっています、といったような発言をしばしば耳にする。これの含意する ところは、ある国・ある地域の革命の性格を明らかにするという目的のために、その他の国・ 地域の革命との比較という方法・手段を用いている、ということであって、比較革命論という 専門分野が存在するわけではない。ただし、この場合に、いくつかの国・地域の革命を比較し て、それら諸革命の共通の因子を抽出し、「革命一般」の枠組み概念を構築することもある。 その際に、「比較革命論」をやっていると称することもある。しかし、この場合にも、「革命一 般」の枠組み概念を構築したのは、それを一般的基準として、ある一国・一地域の革命の独自 な性質を究明するという目的を達成するためである。比較は、あくまで手段・方法であること を自覚することによって、その効用も発揮できるのである3)。 このような意味で比較の目的・効用を考えていくと、以下のようなことに思い当たる。比較 −310− 比較史の方法と意味(望田) とは複数の対象の比較であるが、それによって、単数の対象を視つめているだけでは見えてこ ないものを浮かび上がらせることが期待される。別言すれば、それは、ある単数の対象に関す る「通念」を、他者と比較することによって再検討ないし相対化することをもたらす。たとえ ば、日本の場合、一言語・一国民・一国家が対応関係をなしていると通念され、そして、その ような対応関係が言語・国民・国家のノーマルな関係だと想念されがちである。だが、スイス を比較の対象に選んだ場合、周知のようにここではドイツ語やフランス語などの複数言語と一 国民・一国家が対応している。またドイツを引き合いに出せば、ここではドイツ語という一言 語がドイツ連邦共和国とオーストリア共和国という二つの国家に、そして二つの国民に対応し ている。さらに1990年のドイツ統一までは、ドイツ民主共和国が存在しており、したがって一 言語に三つの国家が、そして三つの国民が対応していた。なお19世紀のプロイセンによるドイ ツ国家統一(1871年)までは、ドイツ語を共通語とする地域には39の独立主権国家群が並び立 っていた。これらの諸事実を比較しただけで、一言語=一国民=一国家という等式を想念する 日本的通念は、もろくも崩れさる。あるいはすくなくとも相対化される。このように比較は、 通念の再検討ないし相対化の手段として役立っている4)。 この点に関して社会学者加藤秀俊氏の次のような指摘はうなずけるものである。すなわち 「比較研究法は、しばしば、それまで閉ざされていた地域内で『普遍』と錯覚されていたもの が、外国研究によって修正される過程での産物であったかもしれない」5)と。 ともあれ、以上に説明したように、比較はあくまで究明すべき目的(研究の対象とテーマ) に奉仕するものであって、それ自体が自己目的であってはならない。そこに比較の方法を用い る場合の「節度」があり、そのような「節度」を保ってこそ、比較の効用も期待されよう。 さて、以上のような「比較の目的・効用」という議論は、きわめて自明のように思われる。 ところが比較の実際を見ると、ことはさほど単純ではない。たとえば1986年、当時の西ドイツ で「歴史家論争」なるものがおこった。これは、それ自体の政治的社会的背景もあるが、直接 的には歴史家エルンスト・ノルテの発言をきっかけとしている。その主張のポイントはこうだ。 ナチスによるユダヤ人の「人種殺戮」は、スターリンやポルポトによる「階級殺戮」と類似し ており、史上、特異なものではなく、比較可能性をもつものである、と。これをめぐる大論争 の跡6)をたどることは別として、本稿との関連でいえば、ノルテの提唱における「比較可能性」 の問題性である。歴史上の事柄は、ある一定の意味で、すべて比較可能性をもっている。問題 は、その比較を通じてなにを明らかにしようとするのか、つまり「比較の目的」が問われるの である。ノルテの場合には、ナチズムという歴史的存在が「歴史的に比較可能性をもっている かどうか」という一般的学術的な意味だけが問題とされているのではなく、明らかにナチズム が他と比較可能なものとすることによって、ナチズムの相対化、つまりドイツにおける「過去 の罪」への重荷を軽減することが企図されており、そこに「比較の目的」があったのである。 おそらくノルテのこのような「比較の目的」に同調するかどうかは、見解のわかれるところで あろう。しかしいずれにせよ、ここに見るように、「比較の目的」という問題は、論者の拠っ て立っている基本的見地からのすぐれて「選択的性格」の問題をはらんでいる。このことが自 −311− 政策科学 11−3,Mar.2004 覚化されていなければならない。 さて以上のように「比較の目的・効用」を考えたとすると、それに関連して、「比較の対象」 が問われてくる。比較が複数の対象の比較であり、したがって、対象にはいかなるものが選択 されるべきが問われる。選択の基準はあるのだろうか。それは結論的にいえば、「同質なるも の」「類似したもの」が比較の対象とされねばならない。たとえば石炭の硬度を問題にする際 に、石油を比較対象にすることはない。なぜなら石炭と石油とは、固体と液体という「異質な るもの」であり、硬度を比較しても無意味であるからである。しかし石炭と石油はいかなるレ ベルでも比較の対象にならないのではない。燃料エネルギーという比較の次元を設定するなら ば、石炭と石油の比較は可能であり、有意味である。この比較を可能にし、有意味たらしめる のは、石炭と石油が燃料エネルギーというレベルでは「同質なるもの」であるからである。こ のような意味で、比較の対象として設定されるべき事象は、「同質なるもの」「類似なるもの」 であるべきだし、また、そのようになるように比較レベルを特定する配慮が必要である。 このことも一般論としては、自明のように思われるが、しかし実際の比較に際しては、かな らずしも自覚されているとは思えない。さきに「比較の目的」に関して、実際には論者の基本 的見地(政治的ないしイデオロギー的立場)と連関する「選択的性格」を帯びる場合があると 指摘したが、このことは、「比較の対象」に関しても同様である。 たとえば「ドイツ特有の道」論争7)における「比較の対象」問題がそうである。この論争の ポイントはこうである。ドイツ社会史派は、ナチスを生み出した歴史的原因としてドイツ近代 の権威主義的性格を重視する。そして、そのようなドイツ近代に対して、イギリス近代は工業 化の進展と民主化がともに手に手を取って展開したとし、後者がそうした「正常な道」を歩ん だのに対し、前者は工業化の進展にもかかわらず、民主化がおくれ、その結果ナチスの政権掌 握を許した「異常な道」、つまり「ドイツ特有の道」を歩んだとする。 こうしたドイツ社会史派の主張に対して、イギリス社会史派は以下のように主張する。イギ リス近代では、工業化とともに民主化が一義的に進展したわけではなく、そのような民主化さ れたイギリスは、労働者階級をはじめとする民衆の闘争と運動を通じて実現した、20世紀イギ リスの姿であって、近代イギリスのそれではない。したがってイギリス近代とドイツ近代との 間に質的な相違はなく、「ドイツ特有の道」なるものは存在しない、と。ドイツ近代とイギリ ス近代という比較において、独英二つの学派の立場は逆になっている。 これは、比較史の見地からは、たんに事実認識の問題ではなく、比較対象の設定の仕方に問 題がある。ドイツ社会史派は、正常なものと異常なものとを比較している。つまり「同質なら ざるもの」を比較対象に設定しているのである。そこから生まれるものは、異常なるものへの 批判・断罪である。彼らにとっては、イギリス近代は、ナチスに帰結したドイツ近代を裁く規 範であり、比較の方法はそのための手段であった。別言すれば、彼らにとって、英独の近代に おける共通性と差異性を探究するという比較本来の目的は、意図されていなかったのである。 このように比較対象の設定という問題は、自明と断じ切れるほど単純ではない。この点で、比 較史に関する先人たちの以下の発言に、あらためて傾聴しなければならない。まずテオドー −312− 比較史の方法と意味(望田) ル・シーダーは、論文「歴史学における比較の方法の可能性と限界」8)において、比較史の適 用限界として「(比較史の方法は)なんらの共通性もないような歴史現象には適用しえない」 と述べている。またウィリアム・H.シューエルは、『歴史と理論』誌において、「(比較史の 方法は)、地理的に近く、同時代の社会の間の比較に最適」9 ) である、とさえ指摘している。 さらに先述の加藤秀俊氏は、次のように述べている。「いっさい共通点をもたないもの、たと えば石油とリンゴは『比較』の対象にならないだろう。石油は燃料という共通点をわかちあう 石炭となら比較できるし、リンゴは、おなじ果物という共通点によってミカンとなら比較でき る。基本的におなじだからこそ、『比較』が可能なので、まったく共通点のないものをふたつ ならべてみても、それは比較の対象にはなり得ないのだ。」10)と。 Ⅱ.比較の方法と作業形態―若干の具体例― 比較の目的が設定され、比較対象が選定されれば、次は具体的に比較の作業に入ることにな る。ここでは、まず私が主宰した、かなり大掛かりな比較史の作業体験を紹介しながら、比較 の方法と作業形態について考えてみたい。1980年代の中頃、三年間ほどかけて、10名ぐらいで 「国際比較・近代中等教育研究会」なる研究会を組織し、その成果は、『国際比較・近代中等教 育の構造と機能』1 1 )として刊行することができた。ここで紹介するのは、このときの体験であ る。 中等教育史の比較を思い立った背景には、実は近代日本を文化・思想の面からとらえようと したら、旧制高校の独自なキャラクターをつかむことがポイントになると考え、それに先立っ て近代中等教育の国際比較を試みる、という構想があった。そうした構想のもとにイギリス、 ドイツ、フランス、ロシア、アメリカ、日本の六か国を比較対象国に選び、主要な研究対象と してそれぞれパブリック・スクール、ギムナジウム、リセ、ギムナジア、旧制の中学・高校を 定めた。これら六か国それぞれのエリート中等学校を選んだのは、いわゆる主要国であること と、たまたま関西でその分野の研究者を揃えることができたからである。比較史を効果的に行 なおうとしたら、共同研究を必須とする。なぜなら比較は複数の国・地域にわたるものである からである。だが、研究者はたいてい一国・一地域を専攻しており、加えて、日本で、また関 西でどのぐらいの研究者を集め得るかは限界がある。したがって、どのような比較テーマであ るなら、多くの国・地域に関する専門家を現実に集め得るか吟味してかからねばならない。比 較史の共同作業を立ち上げるにあたって、こうした配慮がまず不可欠である。 ともあれ、こうしてスタートした共同研究会であったが、実際にやり始めてみると、比較史 の難しさをあらためて痛感した。それは、自分の専攻していない国・地域についての歴史的理 解の難しさである。たとえば私はドイツ近代史を専攻しているが、イギリス教育史の報告― たとえばパブリック・スクールについて―を聞いて、それに対して比較の視点から意味ある 質問をなしうる程度まで、イギリス教育史に通暁するのに、一年余がかかった。このことは、 おそらくイギリス教育史を専攻をしている者が、私の報告を聞いても同様なことが生じていた −313− 政策科学 11−3,Mar.2004 であろう。このように、比較のための共同研究が、一定の実質味を帯びてくるには、一定の期 間の相互学習を必要とすることである。これは当然のことでもあるが、心得ておくべき点であ ろう。 ところで、こうした困難さを長い時間をかけて自然的に解消するのを待つわけにはいかない。 それでは、その困難さの克服を促進するために、どういう手立てがあるだろうか。それは、比 較のための一般的枠組みを設定することである。つまり、比較のための一般的指標ともいうべ きものを設定することである。それは、私たちの「比較中等教育史」の場合では、どういうこ とであろうか。以下、その主要点を列挙しよう。 (1)複線型教育制度のメカニズムがどうなっているか。ここでいう複線型とはエリート・ コースと非エリート・コースの併存を指す。近代中等教育の基本的特質である。 (2)エリート・コースと非エリート・コースそれぞれのカリキュラムがどうなっているか。 その際、とくにエリート・コースの特質である古典語(ラテン語・ギリシア語)― 日本の場合には英独仏語―の有無と比重はどうか。逆に非エリート・コースにおけ る実学的教育の重みはどうか。 (3)二つのコースそれぞれにおける生徒の社会的出自はどのような分布をしているか。つ まり社会的偏位の内容を追究することである。 (4)生徒の将来選択の分布状況の解明である。 総じて、これら四点を明らかにすることを通じて、エリート・コースに関していえば、古典 語―日本の場合には英独仏語―中心の教育内容とともに、生徒の出自と将来選択の社会的 偏位を浮き彫りすることをめざす。これに対して、非エリート・コースの場合にはどんな特質 が見られるかをあわせて追究する。 概略、以上のような一般的枠組みを設定し、各国の報告をこの枠組みの具体的解明を目標に 展開してもらった。もちろん、このような枠組みの設定は共同研究会自体での討論に負うてい ることはいうまでもないが、同時に国際的研究の成果の吸収によるところが大きい。それは、 この共同研究会と同時進行的に行った国際的成果の共同翻訳12)によって果たされた。 ともあれ、こうした比較のための一般的指標を軸に作業を進行させた。この作業を通じて、 各国を越えて近代教育システムの共通の特質を具体的に明らかにすることができたが、同時に、 各国独自の特質も浮き彫りされてきた。たとえば、自明のこともあるが、主要な認識点を述べ れば、以下の通りである。 エリート中等教育における理想像の相違、すなわちドイツでは古典語を中心にした人文主義 的教養をその内容としていたのに対して、イギリスでは同様な古典的な人文主義的教養ととも に、ラグビーなどのスポーツを通じての身体鍛錬による人格形成を重視した。またフランスで は、19世紀後半になると、ドイツ・イギリスと同様な文系エリートだけでなく、理系のエリー トを輩出するようになる。さらにロシアでは古典語教育、とりわけラテン語教育における伝統 の希薄という、西欧とは異なった特質を有している。 またヨーロッパにおける中等教育が中世以来、存在していた大学への進学コースとして、い −314− 比較史の方法と意味(望田) わば大学の下方延長として登場してきたのに対し、アメリカでは、初等学校の上方延長として 形成されたという特徴が見られ、教育におけるアメリカ的開放性がうかがえる。またヨーロッ パの場合は大学の誕生が中等学校のそれよりも数世紀も先行していたのに対して、日本の場合 には周知のように同時的に出発し、このことに関連した異なった展開事情が発生した。六か国 中等教育の共通性と差異性は、以上で尽きるものではないが、ここでは比較史の方法と作業形 態を具体的に見るうえでのサンプルとしては十分であろう。 次に、もうひとつのサンプルとして、アメリカにおける共同研究を紹介しよう。それは、 C.V.ウッドワード編『アメリカ史の新観点』1 3 )である。この共同研究は、アメリカの特異性・ 例外性という神話に挑戦することをめざし、その研究目標を成就するために、比較史の方法を 用いたものである。たとえば1∼2の事例を挙げればこうである。「アメリカはフロンティアの 国である」といわれ、そこにアメリカの特異性を主張する見解が流布している。これに対して、 この共同研究ではロシア、カナダ、ブラジル、オーストリアなどそれぞれに関する研究者たち が、それぞれの国における「フロンティア」の存在を検証することによって、フロンティア自 体の存在をもって、アメリカの特異性とはなしえないことを立証しているのである。 また、「アメリカは移民の国である」といわれ、ここにアメリカ史の特異性を主張する見解 も流布している。これに対して、この共同研究ではカナダ、アルゼンチン、オーストラリアな ども移民の国であることが検証され、移民の多さだけでアメリカの特異性を主張する一面性が 指摘され、むしろアメリカの特色は、移民の数的多さではなく、移民の人種の多様性にあるこ とが検証されている。 総じて、この共同研究ではアメリカ史の「特有性」「ユニークさ」「独自性」という流布して いる見解を、一つひとつ具体的に比較の方法をもって修正し、アメリカ史を諸外国の歴史との 共通性と差異性の両面から見直しを試みている。このようなウッドワードを中心にした共同研 究の成果を読んだ私は、S.L.スラップの次の言葉を想起した。彼は『社会と歴史における比較 研究』誌の第一巻1 4 )の序で、「自国についてのみ研究している人びとは、自国についてなにが ユニークであるか、どうしていえようか」と述べている。この言葉を、ウッドワードたちの共 同研究における比較の手法と関連づけるならば、まさに至言といえよう。 さて、これまでに自分自身の体験と国際的経験それぞれひとつを引き合いにして、比較史の 方法と作業形態の検討を行ってきた。ここから見えてきたことは、比較(史)を効果的に行う には、結局のところ共同研究をいかに行うか―いかなるテーマを、どのように設定し、いか なる共同研究者を組織するか―にかかっている、といっても過言ではなかろう。今日、多く の大学・研究機関で、国際的、多地域的、多文化的なる形容詞を冠した研究・教育組織を設け ているが、これが実効性をもつためには、以上に述べたような意味においての共同研究体制に よって裏打ちされる必要があろう。 たしかに比較史において共同研究という組織が有効性を発揮することは、ある意味では当然 のことといえようが、ただし、ここで現実的には付言しておきたいことがある。それは、日本 の現状において、いかなるテーマでも実効性ある共同研究が編成できるとはかぎらない、とい −315− 政策科学 11−3,Mar.2004 うことである。実は、私は先述の共同研究「国際比較・近代中等教育」が一段落終えたのちに、 次の計画として「国際比較・専門職―医師と弁護士」なるテーマに関する共同研究を構想し た。これは中等教育、とりわけエリート中等教育を研究してきたあとで、その延長線上にある エリート職業、それも専門職として代表的な存在である医師と弁護士を取り上げるのは、きわ めて至当であると考えたからである。だが、実際にこのテーマに即した共同研究会を組織する ことはできなかった。中等教育の場合には、英独仏露米日六か国における中等教育に関心をも ち、研究会参加を承諾して下さった研究者を、それぞれ複数、確保することができたが、医師 と弁護士という限定されたテーマで、同様な体制はどうしても確立することはできなかった。 日本におけるこの種の問題に関する研究者層の薄さを痛感した。 ともあれ、こうして「医師と弁護士」の共同研究は幻に終わった。比較史にとって共同研究 はきわめて有効な武器であるが、そこには、いかなるテーマを設定するかが成否を決定するこ とを思い知らされた次第である。今日、各地の大学で、国際とか学際、あるいは比較という文 字を冠した教育・研究組織が続々と設置されてきているが、それが実効性を持ち得るためには、 そこにおける教育・研究テーマをどう設定するかがポイントとなろう。つまり教育・研究テー マをどう設定するかによって、その教育・研究組織の構成やあり方が規定されてくるし、逆に 後者によって前者が方向づけられてくる。ときには、どのような教育・研究テーマが「可能」 なのかを問うことを出発点にすることが現実的であろう。 Ⅲ.「比較と関係の歴史学」への道 私が手がけてきた比較史には、以上に述べてきたようなテーマと並んで、近代ドイツと近代 日本の比較というテーマがある。これは、日本における西洋史学が存在理由をもつための一つ のあり方として追究してきたことである。それというのも、西洋史学が日本において存在理由 を高めるためには、その研究が日本史の理解の深化に貢献するのが一方法だと考えたからであ る。もちろん、その他の回答もありうるであろうが、私はこの道を選択したのである。 とりわけ近現代史においてドイツと日本は、一般的にも近代化と工業化の点で後発的であり ながら、急速に発展したという共通した特質をもち、個別的にも、たとえば三月革命と明治維 新、プロイセン憲法と明治憲法、カイザーと天皇、ユンカーと武士、ナチズムと軍部独裁など の類似現象を挙げうるし、戦後史においては敗戦・高度経済成長・大国化などの類似現象を見 ることができる。「比較は類似の、共通性をもったもの同士の比較こそ有効性をもつ」という 私の持論に照らして、近代におけるドイツと日本とは、まさに比較における共通性と差異性を 問う格好な対象である。 こうした個別比較テーマに即して論じることは、他にゆずることにして1 5 )、ここでは、比較 史の特殊ケースではあるが、近代のドイツ・日本の比較作業を通じて痛感したことを述べてお きたい。それは、比較史の重要なあり方としての「比較と関係の歴史学」ともいうべき問題で ある。 −316− 比較史の方法と意味(望田) 比較史においては、直接に接触のない、関係をもたない事柄でも、比較可能であり、有意味 である場合もある。たとえばマルク・ブロックが試みたように、イギリスの囲い込み運動とフ ランスのそれとの比較である。しかし同時に、比較対象が相互関係をもっていた場合の比較は、 いっそう興味深い。たとえば、伊藤博文が、明治憲法の策定のために渡欧し、とくにプロイセ ン・ドイツの憲法をモデルにする意図のもとに、シュタインやグナイストなどドイツ語圏の法 学者たちから詳細な教授を受けたという歴史的事実があるが、この場合には、「伊藤博文と明 治憲法における思想と現実」という問題と「プロイセン・ドイツにおける憲法思想と現実」と いう問題とを、まさに「比較と関係」において扱うことができる。こうした場合には、比較史 はたんに共通性と差異性を論じるだけでなく、関係史としても扱うことができる。 実は、このような観点から私は一書を編み、近く刊行するはずになっているが1 6 )、この書物 の第二部は、「二つの近代―日本とドイツ」と題した個別論文集になっている。このなかに、 たとえば葉照子「鹿子木員信における日本精神とナチズム」が収められているが、これは鹿子 木員信というひとりの思想家の頭脳と体内における日本とドイツの思想交流を扱った論文であ る。ここには「比較と関係」という視点が、ひとつの応用問題に適用されている事例を見るこ とができる。もうひとつ例を挙げれば、植村和秀「平泉澄・マイネッケ・丸山真男」である。 ここでは、マイネッケという日本史学思想に甚大な影響を及ぼしたドイツの歴史家の歴史学的 仕事と思想が、平泉澄と丸山真男といういわば相当に距離のある人物にどう関わっていたかを 論じたものである。このように比較と関係という視点から、さまざまな具体的問題を扱ってい くならば、歴史学的に生産性豊かな成果を期待できるであろう。 おわりに 第一次世界大戦が終わって四年後の1923年4月9日、ブリュッセルで第五回国際歴史学会が 開かれた。このとき、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌが開会講演「歴史学における比較の 方法について」17)を行った。ピレンヌは戦争中に交戦国同士が、とくに二つの学問、歴史学と 化学を徴用したことを指摘し、化学が爆薬と毒ガスを提供したのに対し、歴史学は「大儀名分、 正当化の根拠あるいは弁解を提供」したと指弾した。そして歴史学は、その本質である「批判 と公平さとを失った」としている。こうしたなかで歴史学は人種的・民族的偏見の醸成に役立 った役割を果たしたとしている。ピレンヌは、このような認識に立って、歴史学がそのような 状態から脱するためには、どうしたらよいか提言している。すなわち 「国民の独創性と個性とを理解しようといたしますならば、私たちに残された方法はただ一 つ、それは比較という方法であります。実際、比較という方法によって、それによってのみ、 私たちは学問的認識の高みにのぼることができるのであります。もし私たちが国民史の枠の 中にとどまっていますならば、絶対にこの高みには到達しないでありましょう。」 また同様なことだが、カールトン・J.H.ヘーズは1946年12月27日のアメリカ合衆国歴史学協 会大会の主催者挨拶で、「比較的方法は、人種的・政治的・宗教的・民族的偏見を少なくする −317− 政策科学 11−3,Mar.2004 最も確実な方法である」と述べている1 8 )。ピレンヌは第一次世界大戦直後に、ヘーズは第二次 世界大戦直後に、同質の意味と文脈において、比較史の意義と役割を説いているのは印象的で ある。私はごく最近、イラク戦争をめぐるアメリカ政府要人とそれに呼応した言論界の動向を 想起するとき、戦争と偏見、それと対置された比較史の意義と役割という先人たちの見地をあ らためて深く認識する想いに駆られたのである。 注 1)関連する拙著を挙げておけば、『比較近代史の論理―日本とドイツ』ミネルヴァ書房、1970年、『ふ たつの近代―ドイツと日本はどう違うか』朝日選書、1988年、『国際比較・近代中等教育の構造と機 能』編著、名古屋大学出版会、1990年、『戦争責任・戦後責任―日本はドイツとどう違うか』共著、 朝日選書、1994年、『近代日本とドイツ―比較と関係の歴史学』編著、ミネルヴァ書房、2004年(予 定)。 2)マルク・ブロック『比較史の方法』高橋清徳訳、創文社、1978年。または斉藤修『比較史の遠近法』 NTT出版、1997年。 3)包括的な比較ブルジョア革命の初期の成果としては、桑原武夫編『ブルジョア革命の比較研究』筑摩 書房、1964年がある。 4)この点の立ち入った論述に関しては、拙著『ふたつの近代』、Ⅰ「歴史における国境の条件」を参照。 5)加藤秀俊「比較文化の方法」 ( 『講座・比較文化第8巻、比較文化への展望』研究社、1977年)40ページ。 6)この論争に関しては、とりあえずJ.ハーバーマス他『過ぎ去ろうとしない過去―ナチズムとドイ ツ歴史家論争』徳永恂他訳、人文書院、1995年。後藤俊明「西ドイツにおける歴史意識とナチズムの相 対化論」愛知学院大学論叢『商学研究』33-1号、1988年を参照。 7)この論争に関しては以下を参照。D.ブラックボーン他『現代歴史叙述の神話』望田幸男訳、晃洋書房、 1983年、同『イギリス社会史派のドイツ史論』望田幸男他訳、晃洋書房、1992年、松本彰「『ドイツの特 殊な道』論争と比較史の方法」『歴史学研究』543号 1985年。 8)Schieder, Th., Möglichkeiten und Grenzen vergleichender Methoden in der Geschichtswissenschaft (Historische Zeitschrift,Bd.200,1965 ). 9)Sewell,William H.,Marc Bloch and the Logic of Comparative History (History and Theory,Vol.6,No.2,1967) 10)加藤、前掲論文、38ページ。 11)望田幸男編『国際比較・近代中等教育の構造と機能』名古屋大学出版会、1990年。 12)D.K.ミュラー他編『国際セミナー・現代教育システムの形成』望田幸男監訳、晃洋書房、1989年。こ の翻訳作業を通じて、いくつかの基本的な教育社会学的一般概念を共同研究会の共通認識にしていくこ とができた。その一般概念とは、たとえば「文化資本の優位」「複線型分節化」「一般教養志向」などで ある。 13)C.V.ウッドワード編『アメリカ史の新観点』南雲堂、1976年。 14)Thrupp, SylviaL., “Editorial” Comparativ Studies in Society and History, I, 1958-59. 15)前掲拙著『ふたつの近代』も、このような試論である。 16)望田幸男編『近代日本とドイツ―比較と関係の歴史学』ミネルヴァ書房、2004年(予定)。これは私 の定年退職を記念して「文化史学会」2001年大会シンポジウムで、山口定氏にコーディネーターをお願 いした「比較と関係の歴史学―近代日本とドイツ」を第一部として巻頭に飾り、第二部で「二つの近 −318− 比較史の方法と意味(望田) 代―日本とドイツ」と題して6人の若い友人による個別研究論文を配したものである。 17)アンリ・ピレンヌ「歴史学における比較の方法について」佐々木克巳訳『創文』1978 , 1ー2. 18)Cf.,Schieder,op.cit. −319−
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