も万軍の主である王を、 この目で 汚れた民の間に住んでいる。 しか ちびるの汚れた者で、 くちびるの ﹃ああ。私は、もうだめだ。私はく た。そこで、私は言った。 の基はゆるぎ、 宮は煙で満たされ に与えられたのは、彼が預言者と す。いずれにせよ、この経験が彼 から与えられた時かのどちらかで は、彼が預言者としての召命を神 動が始まって間もなくか、あるい 得たのは、彼の預言者としての活 必要であったからです。この経験 して神に仕えるために、絶対的に すると、私のもとに、セラフィム なしには彼は預言者としての働き 見たのだから。 ﹄ のひとりが飛んで来たが、 その手 ができなかったのです。 は、私の口に触れて言った。 ﹃見よ。 ても神に仕えようとしている者に、 このイザヤの経験は現代におい これがあなたのくちびるに触れた イザヤは、神が﹁聖なる、聖なる、 つで飛んでおり、互いに呼びかわ 言っておられる主の声を聞いたの われわれのために行くだろう﹄ と なる御方でいますことを、まず知 分が仕えようとしている神が、 聖 一に教えられました。私たちも、自 (1) イザヤ書第六章一∼八節より ﹁ウジヤ王が死んだ年に、私は、 に は 、 祭 壇 の 上 か ら 火 ば さ み で 取った燃えさかる炭があった。 彼 れる主を見た。そのすそは神殿に の で あ な た の 不 義 は 取 り 去 ら れ 、 ています。 高くあげられた王座に座しておら 満ち、セラフィムがその上に立っ あなたの罪も贖われた。 ﹄ 非常に大きな教訓と示唆とを与え ていた。彼らはそれぞれ六つの翼 して言っていた。﹃聖なる、聖な で、言った。 ﹃ここに、私がおりま 私は、 ﹃だれを遣わそう。だれが、 聖なる御方﹂であられることを、第 る、聖なる、万軍の主。その栄光 関係のないセラフィムでさえ、 神 らなければなりません。全く罪と 預言者イザヤがこの特殊な経験を す。私を遣わしてください。 ﹄ ﹂ その叫ぶ者の声のために、 敷居 は全地に満つ。 ﹄ おおい、二つで両足をおおい、二 があり、おのおのその二つで顔を Maranatha May た。 までの邪悪さに震えおののきまし 自分の心の中の邪悪さの恐ろしい で、自分自身を見させられた彼は す。この聖なる神の臨在の光の中 ザヤは、自分が死ぬと思ったので た。神のこの聖なる御姿を見たイ の御前で、震えおののいていまし 識が彼には欠けていたことを明ら 奔放さは、神の聖さについての認 しょう。彼の破滅の原因であった さと無軌道さはなかったことで あったならば彼のあのような軽率 方であられるかの、 深い認識が としている神がどのように聖い御 放さも、神の聖さについての認識 ま、自我の強さ、自制心の欠如、奔 軽率さ、自己主張の強さ、わがま このように考えるとき、私たちの からです。 決して神に仕えることができない 認識は不可欠です。それなしには、 る﹂御方であられることの、深い 神に奉仕し、神の御働きに参加す めに神への恐れと敬虔さが欠けて の不足が原因であり、またそのた かにしています。 私たちが士師記第十四から十六 これと同じことが私たちについ て学ぶことができます。そこにサ ることが許されることは、実にす であられることの確信は不可欠で 次に、セラフィムは神を﹁万軍の くることが分かります。 ムソンの人間的弱さと軽率さと自 ても言えます。 制心の欠如と、そしてそれがサム とができます。彼と預言者イザヤ とは、かつてアダムの子孫として す。自分が仕えている神が全能の ソンに与えた悲劇的結果を見るこ ばらしい祝福です。そして神に用 主﹂と呼んでいます。この言葉は、 いられ、その報いを与えられるこ ﹁全能の神﹂と同じ意味です。神の しもべにとって、神が全能の御方 との比較から、私たちは、サムソ 神に敵対していた者にとって考え 神のしもべたちに、あらゆる被造 ンの悲劇の原因の一つが、彼には 物への依頼心を取り去り、聖なる 神であられることの深い自覚は、 しかし、この大きな恵みにあずか 独立心を与えます。そして、神の られないほどの大きな恵みである 方であられことの認識が足りな る者には、自分が許されて仕えて 神が﹁聖なる、聖なる、聖なる﹂御 かったということが分かります。 いる神が﹁聖なる、聖なる、聖な のです。 もしサムソンに、自分が仕えよう (2) 章を読むならば、サムソンについ マラナ・タ 5月号 しもべに、神のしもべとしてふさ ます。神のしもべであった者が、 られ、また御自分の栄光を保たれ ばせるために、贅沢な備品を備え を楽しんでいる姿を見させられる に執着し、贅沢な家の中での生活 神のしもべが物に頼り、世の富み ができません。これには例外があ 失ったものは決して取り返すこと 実に霊的力を失います。 そして いったんそのような家に住むと確 めであることでしょうか。 どれほど大きな励ましであり、慰 このことは、神のしもべにとって 自分の栄光を必ず現される方であ わしい風格を与えます。 ことほど嫌悪感を催すものは他に りません。 ︶ しみを追い求めよとは語ることは みを味わいながら、他人に天的楽 らです。自分が物質から来る楽し らないメッセージは天的であるか リストのしもべが語らなければな ければなりません。なぜならば、キ ことの強い確信です。神のしもべ でいます神が全能の主であられる に必要なことは、私たちの後ろ盾 わせていません。この時、私たち は、悪魔に対して戦う力は持ち合 ません。敵は悪魔です。私たちに う者は、神の兵士でなければなり 神のしもべとして生きようと願 るという確信が必要です。 対に御自分の栄光を保ってくださ ようなとき、私たちには、神が絶 陥らされることもあります。その かと恐れなければならない羽目に 神の御栄えが汚されるのではない には予期せぬ事態に巻き込まれ、 知であり、無力です。それで、時 と願います。しかし、私たちは無 神のしもべは、神の栄光を現そう る御方です。 ありません。キリストに仕える者 できません。 でありたいと願う者は、人間と人 さらに、セラフィムは神を誉め讃 そうとしています。しかし、その の真理を無効にし、神の御名を汚 (3) は、あらゆる点において天的でな ︵これは新しい会堂を建てようと また悪魔は、そのしもべたちを るいは世的な信者であるので、 施 えて、神の栄光が全地に満ちてい ような者たちの試みは決して長続 使って、特に偽信者を使って、神 主が、普通の人間を同じように贅 ると歌っています。実に、神は御 ないのです。 沢を求めていると思い、施主を喜 設計士たちは、不信者ですから、あ している者たちに対する警告です。 間的な手段に決して頼ってはなら Maranatha May 彼は思わされました。 てさばかれてしまったこと、 そし てキリストと共に新しい世界の中 きしません。神は、みこころの時 その時、セラフィムのひとりが飛 私たちのキリストにある立場、あ に、御自分の栄光が保たれる方法 そして、その燃えている炭をイザ るいはキリストにある身分に関し に神に対して生きる者としてよみ ヤの口に付けたのです。そして、彼 ては、私たちはキリストと共に十 んで来て、祭壇の上から火ばさみ そして、真実に神の御栄えを求め は、言いました。 ﹃見よ。これがあ で、その悪魔の手先どもの悪業を て神に仕える者の願いを、神は決 なたのくちびるに触れたのであな で燃えさかる炭を取ってきました。 がえらされたという、神の宣言を して無になさいません。それは、全 字架の上で一度、また一度限り、決 必ず終わらせてくださいます。 地において、どのような時にも、ど たの不義は取り去られ、あなたの 定的に、死んでしまったのです。そ この祭壇は、主イエスの十字架の 共に、永遠の生きる者とされてし して、よみがえられたキリストと 受け入れることであるのです。 のような場合にも、必ず実行され 罪も贖われた。 ﹄ さて、最後に私たちが最も学ばな 型です。そして、その祭壇の燃え 彼の口を汚していたからです。 す ら汚れた言葉が口から出て来て、 分の肉に対して、十字架上の死を られるということは、私たちが自 その﹁燃えさかる炭﹂が口に付け らば、聖霊は私たちをキリストに とを要求しておられます。なぜな たちに、この真理に従って歩むこ ることとは別問題です。聖霊は私 (4) ます。 ければならない、最も重要なこと まっています。 しかし、この真理を知っているこ さかる炭は、主イエスが十字架の 上で、私たちの罪のためにお受け なわち彼は、自分の心の汚れを強 宣告することです。すなわち、ア とと、この真理に従って生きてい く意識させられたのです。このよ ダムの子孫という古い私たちが、 ある身分にふさわしく生かそうと になった神の怒りの象徴です。 うに汚れた心をもっていては、 決 キリストと共に十字架につけられ 働いておられるからです。 して神に仕えることができないと と認めました。それは、彼の心か イザヤは、自分の唇が汚れている を学ばなければなりません。 マラナ・タ 5月号 なってくださいます。そしてその に聖霊は働き、歩むための力と として歩むことを決意した者の心 めて私たちは、 ﹁ここに、私がおり です。この印が付けられたとき、初 十字架の印がなければならないの 神のしもべの口には、キリストの の家の中で忠実でした。他方キリ しをするために、使用人として神 れる︵後に成就される︶ことの証 ﹁そして一方モーセは、後に語ら い人です。 人の唇には、肉眼では見えません ます。私を遣わしてください。 ﹂と この真理を受け入れ、それを原則 が、確かに祭壇からの﹁燃えさか ストは御子として神の家全体の上 言うことが許されるのです。 私たちの口に、祭壇からの燃える る炭﹂によって印されたしるしが にあって︵忠実で︶あられるので 見えるはずです。 炭による焼き印が付けられている 押しの強い言葉、強引な言葉等は しょうか。それとも肉から直接出 言葉は、さばきの火を経たもので とキリストとが対比されています。 のです。 ﹂ ︵ヘブル三 五:、六・私訳︶ ヘブル人への手紙の中でモーセ 神のしもべの口には、横柄な言 す。そして私たちがその神の家な ふさわしくありません。 クリス て来て、聞く者を汚すものでしょ (5) 葉、無礼な言葉、わがままな言葉、 でしょうか。私たちの口から出る チャンの中にも、言いたい放題言 そのわけは、その当時のユダヤ人 クリスチャンたちがモーセを非常 うか。 どうか私たちの風格全体が、キリ に尊敬しすぎていたために、 キリ う人、ずけずけものを言う人、愚 ストと共に十字架につけられて死 ストとその御業の尊さを正しく理 痴をこぼす人、すぐ怒りを口から 出す人、攻撃的な言葉を出す人、饒 んで、キリストと共によみがえら の民に律法をお与えになりました。 神はモーセを通してイスラエル からです。 舌な人、冗談の多い人、下品な言 ているという天的香りを発するも 解することができなくなっていた そのような人は、口に燃えている のでありますように。 人、すなわち口に十字架の印のな 炭を一度も付けられたことがない 葉を口から出す人などがいますが、 された新しいいのちにあって生き Maranatha May それは、 ﹁違反を示すため﹂︵ガラ えない悪の力が存在していること う、神に反抗する、決して神に従 律法は、人間の心の中に罪とい います。ですから、クリスチャン 喜ばせしたいという願望を持って ちは、神を愛し、神に従い、神をお ものであると、そしてクリスチャ テヤ三 一:九︶であったと聖霊は使 徒パウロを通して語っておられま ンは、大いにがんばれば律法を守 には律法は有益であり、役に立つ 命令するのみで、行う力を与える ることができるはずであると、 私 を明らかにしました。 を尽くして律法を守ろうと努力し ことができない律法は、人間には たちは考えてしまいがちであるの す。すなわち、それは、人間が最善 ても﹁だれひとり神の御前に義と 無力であり、役に立たないことが です。 明らかにされました。 ですから聖書は律法について次 認められない﹂︵ローマ三 二:〇︶と いうことを明らかにするためでし た。 作り、それを神として拝み始めた 明しています。彼らは金の子牛を とは、その直後の彼らの行動が証 程知らずの軽率な誓約であったこ と神に誓ったのです。それが身の 語られた時、そのみことばを守る たために、シナイ山の上から神が 律法を守る力があると過信してい られ、新たな誕生によって神の家 た時、神から新しいいのちを与え クリスチャンは、キリストを信じ 係についても考えてみましょう。 です。 ﹂ ︵ヘブル七 一:八、一九︶ では、律法とクリスチャンとの関 │律法は何事も全うしなかったの なために、廃止されましたが、│ ﹁一方で、前の戒めは、弱く無益 捕らえた罪が私を欺き、 戒めに た。それは、戒めによって機会を くものであることが、わかりまし ずのこの戒めが、かえって死に導 ﹁それで私には、いのちに導くは 白しています。 です。その結果はどうだったので はそのために最大の努力をしたの のように考えたのです。そして彼 使徒パウロも救われた直後はそ のです。またその後も、彼らはこ 族の中に生まれたものです。そし よって私を殺したからです。 です のように語っています。 とある毎に神に反抗し、神に逆ら て、神から与えられた新しいいの しょうか。次のようにパウロは告 い通しました。 (6) イスラエルの民は、自分たちには マラナ・タ 5月号 ものなのです。 めも聖であり、正しく、また良い から、律法は聖なるものであり、戒 みついている罪なのです。 もはや私ではなく、私のうちに住 私を、からだの中にある罪の律法 の心の律法に対して戦いをいどみ、 ですから、それを行っているのは、 異なった律法があって、それが私 であることを認めているわけです。 でいるのに、私のからだの中には いもので私に死をもたらすことに むしろ、罪なのです。罪は、この良 そんなことはありません。それは もたらしたのでしょうか。絶対に という願いがいつもあるのに、そ 知っています。私には善をしたい 肉のうちに善が住んでいないのを 私は、私のうち、すなわち、私の らだから、私を救い出してくれる な人間です。だれがこの死の、か のです。私は、ほんとうにみじめ のとりこにしているのを見いだす では、この良いものが、私に死を よって、罪として明らかにされ、戒 私は、自分でしたいと思う善を行 にも命令するだけで、それを守る とを行っているからです。 ているのではなく、自分が憎むこ 私は自分がしたいと思うことをし いだすのです。すなわち、私は、内 に悪が宿っているという原理を見 いと願っているのですが、その私 そういうわけで、私は、善をした す。違った表現を使うと、新しい くださるのは、聖霊であるからで です。新しいいのちに力を与えて ても、それを実行する力はないの い性質には、神に従う願いはあっ (7) れを実行することがないからです。 のでしょうか。 ﹂ ︵七 一:〇∼二四︶ このように律法はクリスチャン めによって、極度に罪深いものと わないで、かえって、したくない では、私たちに与えられている新 なりました。 もし私が自分でしたくないこと しいいのち自体にも律法を守る力 力を与えてくれません。 ることを知っています。しかし、私 をしているのであれば、 それを がないのでしょうか。ないのです。 悪を行っています。 は罪ある人間であり、売られて罪 行っているのは、もはや私ではな 私たちは、律法が霊的なものであ の下にある者です。私には、自分 もし自分のしたくないことをし なる人としては、神の律法を喜ん のしていることがわかりません。 くて、私のうちに住む罪です。 ているとすれば、律法は良いもの 新しいいのちが持っている新し Maranatha May ご自身であられるということにな ちの中に働いてくださるキリスト いのちの力は、聖霊を通して私た 遠のいのちを与えてくださったば ません。キリストは信じる者に永 しかし、キリストはそうではあり 私を愛し私のためにご自身をお捨 ま私が肉にあって生きているのは、 うちに生きておられるのです。 い によっているのです。 ﹂︵ガラテヤ かりか、キリストは聖霊を通して、 てになった神の御子を信じる信仰 私たちの中に働き、私たちの新し ります。 ですから、もし私たちが聖霊に頼 に信仰を促し続けてくださってお 私たちにキリストを信頼するよう うに、あなたがたも、キリストの らずに、自分の意志の力のみで律 法を守ろうとするならば、その努 からだによって、律法に対しては い心に愛をお語り続けてくださり、 二 一:九、二〇︶ ﹁私の兄弟たちよ。それと同じよ 力がかえって、肉の中にある罪を られます。 は私たちの意志を征服し、私たち 挑ませてしまうのです。そして、罪 たちの新しいいのちに力を与えて 信頼する時、その信仰に応え、私 キリストは、私たちがキリストを 中からよみがえった方と結ばれて、 たがたが他の人、すなわち死者の 死んでいるのです。それは、あな は、律法による数々の罪の欲情が り、何も全うしないものであるの さらにクリスチャンにも無益であ いるのではなく、キリストが私の けられました。もはや私が生きて 私はキリストとともに十字架につ い文字にはよらず、新しい御霊に それから解放され、その結果、古 ていた律法に対して死んだので、 (8) 刺激して、私たちの意志に戦いを を罪の奴隷にしてしまうのです。 神のために実を結ぶようになるた このことを聖霊はパウロを通し 私たちのからだの中に働いていて、 めです。私たちが肉にあったとき くださり、私たちをキリストに 私たちを一層罪深い者にしてしま うのです。 ﹁しかし私は、神に生きるために、 死のために実を結びました。 しか です。 にも、また当然異邦人不信者にも、 律法によって律法に死にました。 し、今は、私たちは自分を捕らえ ですから、律法はイスラエルの民 て次のように語っておられます。 ている律法が、その目的に反して、 あって歩ませてくださいます。 ですから、善を行うことを命令し マラナ・タ 5月号 律法は人を殺します︵無能にしま の民がカナンの地へ向かっていた す。 ﹂ ︵Ⅱコリント三 一:七、一八︶ さて、エジプトを出たイスラエル に、御霊なる主の働きによるので 、 栄光から によって歩むことの結果も、雲泥 ︵熱心に見つめながら︶ 原理は、キリストを信じる信仰で す。 ︶ 。 ﹁文字は殺し、 ﹂ ︵Ⅱコリント 人々を祝福に導き得ないことを明 よって仕えているのです。 ﹂︵ロー あるのです。そしてその信仰は、キ 三 六:︶御霊は生かすからです。 ﹁石に刻まれた文字による、死の らかにする決定的事件が起きまし 栄光へと、主と同じかたちに姿を リストの愛に応える愛に基づく信 務め﹂ ︵Ⅱコリント三 七:︶ 律法は人に有罪を宣告すること た。イスラエルの民が水がないこ の差どころか、死といのちの差で することによって引き起こされる しかできません。 ジプトの国から出るべきではな 変えられて行きます。これはまさ ばならなかったイスラエルの民と、 ﹁罪に定める務め﹂︵Ⅱコリント 神の怒りを恐れながら生きなけれ 三 九:︶ それに対して、キリストは信じる かったとさえ言い出したのです。 あるのです。 みの中に導き入れられ、恵みの中 者を生かし、栄光に導いてくださ マ七 四:∼六︶ このようにクリスチャンの生活 に立つことが許され、恵みによっ います。 モーセの律法の下で、律法に違反 とで神とモーセに文句を言い、 エ です。 比較にならぬほどの違いであるの のように︵ガラスを通してみる如 取りのけられて︵取りのけて︶ 、鏡 す。私たちはみな、顔のおおいを ているクリスチャンとの違いは、 霊のあるところには自由がありま に集会を召集して、彼らに言った。 ﹁そしてモーセとアロンは岩の前 て腹を立ててしまったのです。 りました。ところが彼は民に対し 水を出すように命ぜよと仰せにな ︵民数記二〇 三:∼五︶ この時、神はモーセに一つの岩に モーセの律法によって歩むこと くに︶主の栄光を反映させながら キリストの贖いのゆえに、神の恵 途中、モーセが、すなわち律法が て取り扱われ、愛に満ちた神の御 ﹁主は御霊です。そして、主の御 の結果と、キリストを信じる信仰 (9) 仰です。 顔の光の中を歩む特権にあずかっ Maranatha May か。 ﹄ ﹂ ︵民数記二〇 一:〇︶そして モーセは手を上げ、彼の杖で岩を めに水を出さなければならないの の岩から私たちがあなたがたのた ﹃逆らう者たちよ。さあ、聞け。こ らのために、とりなしをしておら キリストはいつも生きていて、彼 座に着座されたキリストは﹁ご自 れることがしばしばあります。 親 全に救うことがおできになります。 愛が冷え切っていることに驚かさ 分によって神に近づく人々を、完 子の間や夫婦の間において、ある ますます邪悪になり、人々の間の 福音伝道をしていると、この世が 二度打ったのです。このことのた われみ深い、忠実な大祭司となる いうわけで、神のことについて、あ それに対してキリストは、﹁ そう トに信頼を置いて信仰の歩みを進 あるのですから、ますますキリス みに満ちた大祭司、また大牧者が あわれみ深く、忍耐深い、また恵 入る資格を失ってしまったのです。 神の御子イエス・キリストという に、目に見えない神様の愛を説い える人間の愛さえも知らない人々 の当たりにさせられると、目に見 す。私たちはこのような状況を目 れているはずの場所に現れていま 切りが、本来なら最も愛情のあふ れるからです。 ﹂ ︵ヘブル七 二:五︶ べき愛がなくなってしまい、その 私たちは、このようにすばらしい 代わりに、対立、憎しみ、不信、裏 ため、主はすべての点で兄弟たち めましょう。 (10) めに、モーセ自身もカナンの地に と同じようにならなければなりま ないかと思えてしまうかもしれま ても、理解してもらえないのでは 身が試みを受けて苦しまれたので、 せん。親の愛を感じることのでき どうやって十字架の愛を伝えるこ できるだろうか、親から愛されず うやって神様の愛を教えることが ない子供たちに、日曜学校で、ど 試みられている者たちを助けるこ 手紙四章二〇節︶ 夫からも愛されていないご婦人に、 天に帰り、御父の右の、全能者の とがおできになるのです。 ﹂︵ヘブ ﹁目に見える兄弟を愛していない ル二 一:七、一八︶ 十字架の上での御死によって完 者に、目に見えない神を愛するこ ﹂︵ヨハネ第一の 全なる贖いを成し遂げられた後、 とはできません。 せんでした。⋮⋮⋮⋮主は、ご自 マラナ・タ 5月号 ほど語っても、それだけでは心に 意味である、不信者に福音をどれ 者に、神の愛をいくら語っても無 います。人の愛さえもわからない わなければならないと考える者も を示し、人間の愛をわかってもら てもらうためには、まず人間の愛 中には、不信者に神の愛をわかっ そのために、クリスチャンたちの で人が救われたが、今は福音だけ 態だったのでしょうか。昔は福音 知全能の神にも、予測不可能な事 しょうか。このような状況は、全 を予期しておられなかったので て神はこのような時代になること 立っています。けれども、果たし 加速させ、ばらまくのに最も役 と携帯電話の普及は、悪をさらに 行われています。インターネット す。以前ならば、不信者でさえも 届かない、というのです。親から では救われないのでしょうか。 心 とができるだろうかと、考え込ん 愛されていない子供たちには、 ま を病んだ現代には、カウンセリン 恥じたような罪が、今では堂々と ず日曜学校のスタッフが愛とは何 グ的手法を取り入れた伝道が不可 て神を知ることがないのは、 神の 知恵によるのです。それゆえ、神 はみこころによって、宣教のこと ばの愚かさを通して、信じる者を 救おうと定められたのです。ユダ ヤ人はしるしを要求し、ギリシャ 人は知恵を追求します。しかし、私 たちは十字架につけられたキリス トを宣べ伝えるのです。ユダヤ人 にとってはつまずき、 異邦人に とっては愚かでしょうが。 ﹂︵Ⅰコ リント一章二一∼二三節︶またこ うも語られています。﹁みことばを 宣べ伝えなさい。時が良くても悪 くてもしっかりやりなさい。 ﹂ 百年前と今とでは、どちらの時代 の人々の方が霊的に﹁より死んで いる﹂でしょうか。これは質問自 体がナンセンスです。いつの時代 にも、神なき人間は霊的死人で あって神の愛に反応することがで きず、霊的盲目であって真理の光 (11) でしまうかもしれません。 であるかを教えなければ、そのよ 欠なのでしょうか。 か。私たちは全ての答えを、神の 聖書は何と語っているでしょう うな子供たちは救われることはな ます神から離れ、悪に進んでいま 人々は霊的にも道徳的にも、 ます ﹁事実、この世が自分の知恵によっ 確 か に 今 日 、 恐 ろ し い 速 度 で 、 ことばに求めなければなりません。 は正しい考えでしょうか。 いという考えです。果たしてこれ Maranatha May の福音が、聖霊の力によって語ら を見ることができません。ただ神 確かにそうです。健全な親子の愛 なければ神の愛が分からないと言 いかと反論するかもしれません。 意味であって、人間の愛が分から 教会との関係を語っているではな う意味ではありません。 とを信じて、福音を語り続けなけ 神には死人をも生かす力があるこ これは単なる理屈でなく、実際的 ないと言うのと同じことです。神 のない者に天国の美しさは分から こそが神の力であることを信じ、 ヤや赤めのうや紫水晶を見たこと 問題です。私たちは十字架の福音 は貧しい者にも天国のすばらしさ はずがないと言うのは、サファイ が分からない者に神の愛が分かる に立ち返ることが可能なのです。 助けとなります。しかし、人の愛 語る教会はいくらかありますが、 す。不信者に対して、﹁十字架も﹂ 福音だけを語り続けるべきなので ぜ物も加えることなく、十字架の も同様に、福音に何の添加物も混 なまでに守ろうとします。私たち るなら、その店は商品の味を頑固 何十年、何百年と続いた老舗があ ないなら、救われていないと言う れるときに、人は良心が目覚め、罪 や夫婦の愛は、神の愛を理解する ればならないのです。そのとき、愛 を、みことばと聖霊によって味わ て神の愛を説明しているではない けれども、聖書は親子の愛をもっ 奇跡の働きです。 うことのできるわざであり、 神の われるのです。これは神だけが行 る新生と更新との洗いをもって救 ても、その人に兄弟を愛する愛が クリスチャンであると告白してい ことばの意味は、ある人が口では ヨハネ第一の手紙四章二〇節のみ 御霊によってです。冒頭に挙げた は愛に恵まれない者にも、神の愛 は昔も今も全く同じであり、 ゆえ 方法も変わりません。十字架の力 そのような罪人を救いに導く神の いることは、昔も今も同じであり、 ちが神を﹁アバ、父﹂と呼ぶのは、 変わっても、人間が霊的に死んで を知らせてくださるのです。私た に、私たちの語るメッセージも同 ます。けれども、この世がいかに す。この世の思想、流行は変わり (12) を悔い改め、キリストを信じ、神 を知らないどころか、﹁悪意とねた か、夫婦の愛をもってキリストと 互いに憎み合う者﹂が、聖霊によ みの中に生活し、憎まれ者であり、 わせてくださいます。同様に、神 ﹁十字架だけ﹂を語る教会はまれで マラナ・タ 5月号 じなのです。﹁イエス・キリストは、 ほんの一瞬の舌の働きによって、 れるのです。同様に、舌も小さな ﹁私たちの戦いの武器は、肉の物で きないほどの言葉を、舌は油断し 犠牲を払っても取り消すことがで 福音を大胆に語り続けましょう。 もあります。可能な限りのどんな す。 ﹂どうか、福音の力を確信し、 不和が引き起こされてしまうこと たとい何年かけても修復不可能の 義の世界です。舌は私たちの器官 森を燃やします。舌は火であり、不 うに小さい火があのような大きい 誇るのです。ご覧なさい。あのよ 器官ですが、大きなことを言って 昨日も今日も、いつまでも同じで はなく、神の御前で、要塞をも破 人生の車輪を焼き、そしてゲヘナ ているすきに発してしまうのです。 の一つですが、からだ全体を汚し、 使徒ヤコブが神の霊感によって記 の火によって焼かれます。どのよ るほどに力のあるものです。 ﹂︵Ⅱ した次の言葉を、よく聞きましょ す。しかし、舌を制御することは、 ん。 ﹂しかし、キリストにはできま : (13) コリント一〇 四:︶ 二・さて、次は舌についてです。 人は、からだ全体もりっぱに制御 もじっとしていない悪であり、 死 うな種類の獣も鳥も、はうものも 舌は実に影響力の強い器官で、 良 できる完全な人です。馬を御する くも悪くも実をたくさん結びます。 ために、くつわをその口にかける の毒に満ちています。 ﹂ ︵ヤコブ三 う。 ﹁私たちはみな、多くの点で失 と、馬のからだ全体を引き回すこ 二∼八︶ 海の生き物も、人類によって制せ この器官を使って、穏やかな同情 とができます。また、船を見なさ ではいったい誰が舌を制御でき 敗をするものです。もし、ことば 心ある慰めのことばを語ることも い。あのように大きな物が、強い るでしょうか。﹁誰にもできませ られるし、すでに制せられていま できますし、苦い皮肉や燃える憤 風に押されているときでも、ごく で失敗をしない人がいたら、その りを表すこともできます。このよ す。ですから私たちは、単純な信 だれにもできません。それは少し うな器官に対して、自制の恵みを 小さなかじによって、かじを取る 働かせることは何と重要でしょう。 人の思いどおりの所へ持って行か Maranatha May その決心は朝の霧のように消え えようと決心するのですが、 結局 に負えない器官を何としても押さ て苦しんだ時に、次こそはこの手 いのと同様です。舌で大失敗をし の雪崩を食い止めることができな の潮流や、山の激流や、アルプス することは、全く不可能です。海 る信仰です。私たちには舌を制御 十分であられることを直ちに認め く無力であり、キリストが完全に のみです。それは、自分自身が全 仰を持って、このお方を見上げる くべきは、使徒ヤコブの記した次 して何にもましていつも覚えてお 制に成功することができます。そ うすることによってのみ、舌の抑 ません。こうすることで、ただこ トに寄りすがっていなければなり せんが、それでも私たちはキリス 打ちがあるという意味ではありま に寄りすがることに、何らかの値 いなければなりません。そのよう ように、キリストに寄りすがって ちは、赤子がその母にすがりつく つも失敗する原因なのです。 私た ないで行ったためです。これがい なら、舌は良い事のために活動し、 霊的で、天の水を流れ出している 密な関係にあります。思考の泉が ています。事実、これら三つは緊 は、言葉と思考とに密接に関連し 考察することにしましょう。 それ ように。 の歩みに聖なる影響を及ぼします そして、このみことばが、私たち しっかりと注意を払いましょう。 重です。どうか、このみことばに た時代にあって、何にも勝って貴 とばは、今日のような言葉の乱れ どうしてこうなってしまうので らず、しかも自分の心をだまして 思っても、自分の舌を制御してお らないことがしばしばあります。 れ︶、自分は熱心な信者であると フランクリンやソクラテスのよう れば、すべては全くの無価値です。 す。このお方がいらっしゃらなけ すべてのことを統制して下さいま (14) 三・最後に感情という点について 去ってしまい、自制において嘆か 感情は穏やかで冷静です。キリス しょうか。それは単純に、自分自 いるならば、その人の熱心さは偽 な節制ができても、ペテロ第二の トが信仰によって心の中に住まれ、 身の力で行ったり、あるいは、自 りです。 ﹂︵一章二六節︶このみこ が男であれ、女であれ、子供であ 分自身の弱さを十分に深く自覚し 床についてから悲しまなければな わしくも失敗してしまったことを、 の厳粛な言葉です。 ﹁誰かが︵それ マラナ・タ 5月号 力の源であられるキリストと結び す。それは、信仰が心を、すべての です。信仰が第一に置かれていま なさい﹂という言葉に注目すべき 異なります。 ﹁信仰には、∼を加え 者の土台は信仰です。両者は全く す。前者の土台は哲学ですが、後 の無知であることもあり得るので 手紙一章六節の﹁自制﹂には全く の点においてクリスチャンが失敗 いし、また、あり得ないのです。こ このようなことはあるべきではな ていないクリスチャンも同様です。 とを支配していただきましょう。 います。キリストを持たないただ う。 ︵熱心になりましょう︶﹁これ けれども、もしクリスチャンが単 ﹁こういうわけですから、あなたが の哲学者が、言葉と感情を自制で らがあなたがたに備わり、ますま 純にキリストを見上げているなら、 たは、あらゆる努力を﹂しましょ きないように、キリストに留まっ す豊かになるなら、あなたがたは、 の方に私たちの思考と言葉と感情 ましょう。キリストを見上げ、こ ん。是非ともこのことを覚えてい せん。これらを備えていない者は、 私たちの主イエス・キリストを知 うに思えても、実際は、自分の真 近視眼であり、盲目であって、自 する時、有利な立場に着くのは悪 敬虔、兄弟愛、愛﹂を加えることが の姿が見えないだけのことであっ 分の以前の罪がきよめられたこと つけるものであるからです。 キリ できます。これは、キリストに留 て、永遠の滅びへと真っ逆さまに を忘れてしまったのです。 ﹂これは る点で、役に立たない者とか、実 まることによって結ばれるすばら 投げ込まれます。けれどもサタン 実に厳粛なことです。霊的盲目と 魔です。キリストなき哲学者は、た しい実です。けれども私たちは、自 が、信者をつまずかせ、倒すこと 忘却の状態に陥るのは、本当に容 ストを持ち、キリストに留まって 分の舌や思考を制御できないのと を喜びとするのは、そうすること 易なのです。教理や言語について を結ばない者になることはありま 同様に、自分の感情をも制御する で、キリストの尊い御名を冒涜す いるなら、 ﹁徳、知識、自制、忍耐、 とえ自制において成功しているよ ことができません。もしも制御し の知識がどれほどあっても、 それ らは私たちの魂を、この恐ろしい るためなのです。 クリスチャンである読者の皆さ ようとするなら、たちまち打ち倒 されてしまうことは、目に見えて Maranatha May (15) 答 その姉妹が貴女を誘った動機が分 かりませんので正確には答えられませ ん。 貴女と個人的に交わる場所が他に ないので花見という理由で誘ったのか 状態から保護してはくれません。 れとも断るべきであったのか、と今考 えさせられています。教えてくださ い。 有効なのは、 ﹁私たちの主イエス・ キリストを知る﹂知識だけです。そ してこの知識は、使徒ペテロが実 に実践的な、心を奮い立たせる表 現で書いた様々な恵みを、信仰に 熱心に加えることで、さらに増し 加えられるのです。 ﹁ですから、兄 も知れません。 もしその交わりが良い 目的のものであるとすれば、 その姉妹 どうかのみに限定します。 もし礼拝で 心が天に向けられ、 主イエスの十字架 上の御苦しみを記念して、 今天にいま すキリストへの感謝に満たされていた ならば、その後に、滅び行く世の人々 と同じように桜の花を見て楽しむ気分 にはなれないと、私は思います。それ でもし、 礼拝の後に桜の花を見て楽し むことができたとするならば、 問題は 花見よりも、 礼拝の内容にあると思わ されます。 どうか週の初めの日の一日は、 肉を 楽しませることから離れ、 主を喜ばせ さ い ま すよう る こ と に 専 念 し て くだ に。 - E-mail:[email protected] 00960-0-57854 (16) 弟たちよ。ますます熱心に、あな まずくことなど決してありませ ん。 ﹂ ︵終わり︶ 問 ある日曜日、 礼拝の後に花見に行 こうと姉妹から誘われたのですが、 断 り切れずに行きました。しかし、せっ かく誘ってくれたその姉妹の心を傷付 けないように行くべきだったのか、 そ さて、答の焦点を、その動機ではな く、 礼拝の後に花見に行っても良いか たがたの召されたことと選ばれた は他の場所を探すべきであったと私は こととを確かなものとしなさい。 思います。少なくとも、貴女に、礼拝 これらのことを行っていれば、 つ の後に行くべきであったのか、断るべ きであったのか、 という疑問を残した のですから。 マラナ・タ 5月号
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