第3章 六行合同と戦後の苦難

11
8
-
第 1部
試練の時代
第 3章
第 1節
六行合同 と戦後の苦難
太平洋戦争下 の金融機 関
1 金融統制 と地方銀行
地方銀行 と都市銀行
昭和 10年末466行中の約 6割)の加盟を得て全
昭和11
年 9月,272の普通銀行 (
国地方銀行協会が設立 された。 この全 国地方銀行協会 は,昭和初期 の金融恐慌以
後,預金の伸び悩み と不動産融資の固定化 とい う共通 の問題を抱 え込んでいた中
・小銀行が,互 いに提携 して経営の改善 ・強化を進め よ うとの意図のもとに結成
された ものであ り, この とき初めて地方銀行 とい う用語が一般化 した。
一万, これに対応す る都市銀行 とい う呼び方 は この当時 まだ使われていなか っ
た。 明治 1
0年 に設立 されたわが国最初 の銀行団体 である択善会 の資料で 「都府銀
地方銀行」 とい う呼び方が使われたが, これは 本店所在地が 大都市である
行 」「
か ど うかに よる区別 にす ぎなか った。次いで明治43年公債引受けのため,わが国
最初 のシンジケー ト団が結成 され,当時の大銀行がその メンバー となった。その
後金融界 の変愚
各銀行 の消長に伴 って メンバーの異動 はあったが,大銀行 の別
称 として 「シンジケー ト銀行」がほぼ一般 的 とな った。昭和 8年 当時のシンジケ
ー ト銀行は大部分今 日の都市銀行 となってお り,都市銀行の実質的な概念は この
ころにで きた と考 え られ る。ちなみに当時 シンジケー トに参加 していた普通銀行
は,第一 ・三井 ・三菱 ・安 田 .)
[
=
崎 ・第百 ・住友 ・三和 ・愛知 ・名古屋 の1
0行で
あ った。
昭和 8年三和銀行 の設立に よ り6
また, これ とは別 に昭和初期以降 5大銀行 (
大銀行 となる) とい う呼称が用い られ るよ うにな った。 これは,金融恐慌を契機
第 3章
6行合同 と戦後 の苦難-
119
として起 きた大銀行-の預金集 中現象 によ り, これ ら大銀行の預金シ ェアが普通
0% を超えた ことか ら生 まれた区分であ った。
銀行中3
昭和 1
2
年 に 日中戦争が勃発 し, しだいに本格的な戦争- と拡大す るにつれて,
全 国地方銀行 協会 の活動 も国家 目的にそ うもの- とその態様を変えた。 この時期
か ら一県一行主義 に基づ く地方銀行中心の合 同整理が進展 し,加盟銀行の激動期
7年 に全 国金融統制会が設け られ ると,そ
とな った。 さらに太平洋戦争開戦 の翌 1
の下部機構 の普通銀行統制会 には 「東京,大阪,神戸,名古屋 に本店があ り大規
模な営業をす るもの」 として当時の普通銀行の上位 13行が組入れ られた。そ して
それまでの全 国地方銀行協会 も,その下部機構 のひ とつ として地方銀行統制会 に
3行以外の銀行 はすべて これに属す ることにな った。以後,前
再編成 され,上位 1
者に属す る大銀行 は,軍需会社法 の もとで大企業 との結びつ きを一層強め,行政
指導 の うえでは地方銀行 との区分を明確に してい った。
ちなみに,都市銀行 とい う用語が金融統計史上 に初めて登場 したのは,戦後昭
行であった。
和 25年 の全 国銀行協会資料か らであ り, この ときの都市銀行数は11
金融統制の展開
6
年 7月に 「
財政金融基本方策要綱」が発表 された。 この要綱は国家資金
昭和 1
動員に関す る計画 ・財政政策の改革 ・金融政策の改革 ・行政機構 の改革 の 4部か
ら成 るもので, この うち金融に関 しては戦時金融政策の基本方 向 と金融機構 の再
編成 の方法が示 され ていた。 同年 12月の太平洋戦争開戦後, この要綱 に基づいて
金融機構 の再編成 は急速 に進展 した。 まず 17年 2月の 日本銀行法によって 日本銀
行 は特殊法人 とな り,産業金融-の道が開かれ,国家 目的の達成をその使命 とす
ることになった。次いで 4月には金融統制団体令が制定 され, 日本銀行を頂点 と
す る全 国金融統制会が設立 され,その傘下 には地方銀行統制会な ど1
0種の業態別
統制会 と地域別統制会が設け られた。 これは当初国民貯蓄の増強 と国家 目的にそ
った資金配分を主な業務 とす るものであったが,戦局の緊迫 に伴 い軍需産業への
よ り強力な資金供給が必要 となったため,19年軍需会社法 による軍需融資指定金
融機関制度- と発展 した。 これは,大蔵大臣の指定す る金融機関が 1社 1行 の原
1
20-
第 1郡 試練の時代
軍需会社に対する軍需融資の残高
表 3
-1
月
末
l悪 賢 針
資料出所 「日本金融
注 5大銀行は帝国,三
菱,住友
史資料」
量歪芳 l 5大銀行 墓
篭
腰高
安田,三和の各
(単位 :白万円)
合
計
第 3章
6行合同 と戟後 の苦妊-
1
21
機関への融資 または有価証券等 の運用にあてることを 目的 として,地方銀行77行
の共 同出資 (
1
,000万 円)によって設立 された ものであ った。 しか しその直後に,
日本銀行副総裁を取締役会長 とす る資金統合銀行が設立 されたため,短期間で消
滅を余儀 な くされた。
この よ うな戦時中の金融統制下 に生まれた制度のい くつかほ現在 まで引続 き実
施 されてい る。た とえば内国為替集中決済制度 は,全 国金融統制会設立直後に作
られたが, 日本銀行を決済機関 とし,金融機関の事務合理化,人員の節約 に寄与
す るところが大であ り,現在なお この制度が活用 されているし, また空襲被害等
で公社債 の現物焼失等を考慮 して制定 された社債等登録法 (
昭和 1
7年 5月 1日施
行) による公社債 の登録債制度 もそのひ とつである。
膨張す る戦時財政
6年度の一般会計予算 は8
7億 円の規模であ ったが,
_太平洋戦 争の始 まった昭和 1
戦争が煩烈化 した1
8
年度 は前年度の約 5割増 の 1
3
9億 円 とな り,そ して終戦 の20
年度 は 289億 円 と加速的な膨張を とげた。その うえ臨時軍事費特別会計 も,1
6年
15億 円が20
年度には850億 円までふ くらみ, これ らの膨大な予算は増税 と国
度の1
債の増発 によって賄われた。
国債 の発行 は これを受けて1
6
年 の88
億 円か ら1
8年 には 1
83億 円, さらに1
9
年に
7
年か ら終戦の20
年 8月までのあいだに合計 79
6億 円が
は 270億 円に達 し,結局 1
発行 された。それだけに実質的な市中消化率 は低下 し,一部 は 日本銀行 の貸出を
国債発行額と消化高
日
l 日銀 純
銀
売却 高
謡
預金部
消率
高
受
引
(単位 :百万円,%つ
20
′960ミ
∴
6
′9
00
79
J5
73ミ 2
3′7
501 5
5,8
23
資料出所
「日本金融史資料」
注 2
0
年は 8月末 まで
5
′3
01【1
9
′71
8
、
1
4.
060
246
1
5′3
46 22,
53
′404
1
83 73 4 S
9,81
8i1
2,81
8
-
122-
第 1部
試練 の時代
日銀券発行高
小売物価指数(
東京)
(
昭和 9′
- 11
年 平均 - 1)
3
3
表
末 L発 行 高
暦
3
4
可
昭和 14
15
資料出所 「
経済統計年報」
0 2 7 7 0 8
7 7 7 8 1 (
U
I - I - - I
年
(単位 :億円)
数 W4
る
表
資料出所 「
経済統計年報」
増大 させその資金に よる引受に依存
9
年 の消化率
せ ざるをえなか った。1
3% とな っていたが,
は表面的には9
日銀貸出増を差引いて計算 した純消
化率 は7
3% と悪化 した。国債 の残高
6
年末の 3
7
3億 円が,終戦時には
も1
3倍 とな り 1
,
0
0
0億 円を突破 してい
た。
2 戦 時下 の神奈川県経済
満州事変か ら口中戦争 - 戦火が拡大す るに伴 って国防体制 の充実が叫ばれ,軍
備拡張が本格化 し,重化学工業は政府 の強力な保護の もとに急速に発展 した。
すでにわが国有数の工業地帯 に成長 していた京浜工業地帯 も,製鉄 ・造船 ・電
気機械 ・自動車工業 ・石油精製 ・航空機 ・化学 ・工作機械 ・電線な どの一流企業
の工場が立地 し,重化学工業を中心に年 ごとに充実 してい った。 さらに大船か ら
茅 ヶ崎 ・平塚 。小田原に至 る湘南工業地帯が新たに形成 され,工業化が一層進展
5
年 の県下産業別生産竃調査
す るとともに軍需工業都市が誕生 してい った。昭和 1
4%弱が "
工産"であ り, 当時の県経済が工業を中心 とした ものであ っ
に よれば9
た ことが うかがえるが,その大宗をなす ものは軍需工業であ り,最 も顕著な例 は
平塚 と相模原であった。平塚 には大正時代か ら海軍火薬廠が設 置されていたが,
0年以降その大拡張や, 相模海軍工廠 の拡張, 海軍航空工廠 の設置 もあ っ
昭和 1
1
て,`
湘̀南の工都" と うたわれ る一大軍需工業都市 とな った。相模原 には 昭和 1
年陸軍士官学校 ,1
2年 に相模原兵器製造所 (のちに相模原陸軍造兵廠)が相次い
6
年以降陸軍機 甲整備学
で新設 され, これに付随 して各種 の軍需工場が立地 し,1
校をは じめ兵器 ・通信の各学校,相模原陸軍病院の建設 も行なわれて,陸軍 の一
大軍事都市 とな った。
こ うして神奈川県は,太平洋戦争 を迎 えるころには全 国有数 の軍需工業県 とな
第 3章
6行合同と戦後の苦難-
1
23
っていたが,戦争が激 しさを増す にしたがい この傾 向は一段 と強 ま り,県下 の産
業活動 は軍需品生産 に集中 した。「
昭和1
8
年 には 富士 ガス紡績,相模紡績を 中心
とした本県紡績業界の トップメーカーを中心に大小38に上 る紡績工場 の90%まで
が軍需工場 に転換, また秦野 ・半原 ・津久井方面の3
0余に上 る織物工場 も80%近
くは操業をス トノブして,その労働力はあげて京浜方面の軍需工場 に動員 され,
一方小田原を中心 として箱根方面にその地盤を もつ木製品工場 も19
年 の中 ごろま
でに,その 85%が木製飛行機 の機体 (
ベニヤ材を主体)の部品工場 に転換」(
神
奈川の近代化-その百年) し,平和産業 は急速 に軍需産業- と転換 してい ったの
である。
こ うした急速な軍需工業化 に対応 して,神奈川県 は県営京浜工業地帯造成事業
・相模川河水統制事業 ・相模原都市建設区画整理事業な どの大型 の開発事業を進
めた。第一 の京浜工業地帯造成事業 は鶴見 ・川崎臨港地帯 よ り多摩川河 口に至 る
大師河原地先海面において,運河 な らびに埋立を施工 し,東京都 (
磨)営計画 と
ともに京浜間船舶の航行を安全 にす ると同時に,一大臨港工業地帯を造成 しよ う
0万平方 メー トルの埋立を 5区に分けて
とした ものであ った。当初計画では約 51
38万平方 メー トルの埋立を昭和1
6
年に
行な う予定であ ったが,第 1-第 2区計 1
完成 し,第 3区以下 は中断 して終戦を迎 えた。
第二 の相模川河水統制事業 は軍需産業-の電力供給を含め, さらに飲料水 ・工
業用水 ・農業用水に も供給 し,洪水を防 ご うとい う多 目的 ダムの建設が中心であ
県下の産 業 別 生 産額
(
昭 1
5年)
表3
5
(
単位 :
千円,%)
和
表
3
6
産 額
生 産 額 i構 成比
合 計 2
′382′85
1l
資料出所
「
神奈川県統計書
」
l
O
O
・
0
〔単
工 場
位 :
数
百万円,千人〕
r従業員数
l
資料H
県下の工業
1
24-
第 1部
試練 の時代
った。 この事業は15年 に着工 し,18年 に津久井発電所を完成 したが,20年 に中断
された。
第三 の相模原都市建設区画整理事業は,相模原兵器製造所を中心に約 1,700万
平方 メー トルの区域 にわた り,道路 ・公園 ・下水道な どの新設拡築事業 と宅地割
の新設整理事業を一体 として行な うとい うもので,昭和 15年度か ら20年度 にわた
る継続事業 として施行 された。
これ らの事業 はいずれ も戦時中または終戦時に中断 された り,計画が変更 され
た りしたが,戦後 の神奈川県経済 の発展 の基礎 を築 く貴重な資産 とな った。
この間県勢 の発展を端的に示す人 口は,昭和 1
4
年 に 200万人の大台を超えて以
降急速 に増加 し,18年 の ピー クには250万人を超 えた。
一方横浜港の貿易 についてみ る と,昭和 15年 の20億 円台を ピークに貿易寵 は激
減 してい った。太平洋戦争 の勃発 による国際情勢 の緊迫 と貿易統制 の進展 は,横
浜港 の貿易 に決定的な打撃を与え,外国貿易は衰退 の一途をた どった。一方わが
国全体 の外 国貿易額 も昭和 11-15年 の 5年間には約 87億 円 とピークに達 したが,
1
6年か ら2
0年 にかけては3
2億 円 と半分以下 に落込んだ。 内国貿易額 もほぼ同様 の
傾 向を示 し,太平洋戦争突入 とともに横浜港 の活況は急速に失われてい った。 こ
うして横浜は太平洋戦争下 においてほ商港都市的機能を急激に失 う一方,軍需工
業地帯 としての性格を強めた。
また この時期,東京港 の開港 とい う横浜港 に とってかつての生糸輸 出二港問題
に匹敵す る重大な問題が持上 が った。東京市会ではすでに昭和 7年 に東京開港の
横浜港の貿易
〔単位 ・百万円,%〕
表 3
7
表
3
1
8
(
単位.
千人,%)
暦
1
II
- 2
△ △
資
資料出所
「横浜市統計吉」
料
人
口 数
′
0
3 7
0 1
2 0
4
3 1
b L
J
'1
2
和昭
4 ノ
5
0
ノ
年4
i
1
1
8
7
0
県下人口の推移
増 加率
第 3章
6行合同 と戦後 の苦難一 一1
25
方針を固めていたが,横浜側 の強硬 な反対 によって一時棚上げ となっていた。 し
3
年 ごろか ら再度表面化 し,両市 の対立 も再燃 したが,1
6年 に至 って政
か し昭和 1
府 の決定 によ り東京港が開港 され ることにな った。
一方商業活動 は統制経済 の強化 に伴 ってその 自由が抑制 され,戦争たけなわの
時期 には商業 は不必要な存在 として整備 の対象 とす らな ったのが全 国的な傾 向で
あった。県下で もこれ と同様 の状況であ り,転業 ・廃業が続 出し,経済活動 とし
てはまった くみ るべ きものはなか った。
3 一県一行主義 の推進
一県一行の尭成へ
昭和時代の銀行合 同の流れの第一段階は, 3年 の銀行法に基づ く無資格銀行の
整理を中心 とした ものであ った。法的規制 に加 えて景気の低迷 と恐慌 の痛手に よ
400あま りを数
る経営不振な どが重な り,合併 ・消滅 は急速に進み,昭和初年 1,
えた普通銀行 は,無資格銀行の整理猶予期限の 7年末 には53
8行にまで減少 した。
つづいて昭和 8年,政府 は 「同一地方 に多数の銀行が併存 し金融統制上面白か
らざる時 は,それ らの銀行が共 に内容堅実なる場合 と錐 も合併合 同を勧奨す る」
とい う方針を打出 し,銀行合 同は第二段階を迎えた。 これは預金者保護 の観点か
ら行な ってきた従来 の合同勧奨を一歩進めて,準戦時体制下 におけ る地方的金融
統制 の体制確立を図ろ うとす る ものであ った。そ して1
1
年 5月,馬場鉄-蔵相 は
一県一行主義を主唱 し,金融恐慌 L
y
J
'
T
ヒの観点 と資金を適当な方面に向け させ る指
導統制上か らこれが必要であると力説 した。
6年 には普通銀行 は 1
86行
以後 この方針に従 って年 々20-50行の合 同が進み,1
にまで減少 したが,地方によってはかな りの抵抗 もあ り,一県一行を実現 しえた
のは14府県 に とどまった。
しか し同年末,太平洋戦争 に突入 して金融統制強化の必要性が増大 した ことか
ら,一県一行 の方針ほよ り鮮 明 とな り,金融事業整備令の施行 による法的背景を
も備えて一層強力に推進 され ることにな った。
126-
表
第 1部
3
9
試練 の噂代
全国銀行数の推移
年末 恒殊銀車
工銀行恒通銀行桓蓄銀行
計
,
r
増減 (
A
宿 ,1
7
8
,1
8
年に
47
は1
9
年 に3
1
6行,2
0
には
24行 と続いて,20
年末 には
61
行 とな り,一県一
ば完成をみ るに至
行はは
った。
この よ うに急激に
進んだ背景 には,政合 同が
権発動的な推進 のほ府 の強
戦争下におけ る低利 かに,
で の
強制的保有や,地方公債
資対象の減少 に伴 う地方
の融
行の経営悪化
も見逃せな
資料L
L
i
所
銀
があ った こと
一方貯蓄銀行について
い。
も
少 その結果,普通銀行
の減
「日本の金融統計」
8
年 に至 って普通銀行 による貯蓄業務の
が,1
漸次合 同が進め られていた
行-の吸収が一挙 に進展 し,20年末 には 日本貯
兼営が認め られた ことか ら,普通銀
蓄のわずか 4行を残す のみ と
蓄 ・青森貯蓄 ・鳥取貯蓄 ・青湾貯
国
県内の一県一行実現
神奈川県下 の銀行合
まで
同 も,第一段階では全
な った。
0行
和元年 の4
のペース と軌を一 にして進み,昭
が 7年 にはしていた第二銀行の解
その後,
形式的に存続
1
6行 に減少 していた。
鎌倉銀行 と 瀬谷銀行 との合 同, さ らには渡
散 と七十四銀行 の改称 による消滅,
し
銀行にそれぞれ営業譲渡 し,上信銀行が廃業辺銀行が第一銀行,
大師銀行が 野村
進 んだ。 そ して県 内一行を 目指す大合 同の下準備
て県下 の銀行合 同は第二段階- と
年 に鎌倉銀行 はじめ 6行 の当行- の合 同が営業
が 15年 ごろか ら進め られ, 1
6
第 3章
6行合 同 と戦後 の苦難 -
1
27
明治 以来県 内にお け る最 もス ケール の大
きな, ま さ し く一県 一行 主 義 実 現 の最 後
を飾 る大 合 同で あ り, これ に よって普 通
銀 行 は当行 にす べ て集 中 され, こ こに県
下 の実 質 的 な一県 一 行 が実 現 した ので あ
る。
当行 を含 め残 った 4行 の うち神 奈 川県
農工 銀 行 は 1
9年 に 日本勧 業 銀行 に合 併 さ
れ,都 南 貯 蓄銀 行 も2
0年 に当行 に営業譲
渡 し, 終戦 時 の県 下 銀 行 は当行 と横 浜 正
金銀 行 のみ とな った。
こ うして昭和元年 末 の4
0行
瀬谷 ・鎌倉両行の合併 (
昭和10.9.12付)
接 ・間接 の合 同が半 数 の 1
9行,
は 2行 を残 し姿 を 消 した が, そ の内訳 は当行 - の直
表
3
1
昭和元年
0
5行 で あ った。
他 行 - の合 併 4行, 廃業 な ど1
:
if ・
2
0年
誓
横 左 第横
鯛
県下の銀行
1
0i
f
の変遷
:
5/
,
l
J
■■■■■■■■■■
1
5
'
l
棚
醐
模 苫
足 川金 鎌醐
相 瀬泰勢
伊中江相醐
都
関東興信
戸
元
町
小 川原 壊
l
(
明
和
整
理
受
託
)
l
業
野
谷
l
秦野
倉
実商
村
業
柴
塚
原
陽
金 神奈
横浜止
田
大
渡 川県展辺
松
師
二
L-
(日
ー■■
128-
第 1部 試練の時代
第 2節
倍増す る店舗,拡大す る業容
1 県下 6行 との合 同
6行 との合同実現
5
年末の神奈川県下 の銀行数 は1
0行 とな り, この うち普通銀行は当行のほ
昭和 1
か鎌倉 ・秦野 ・足柄農商 ・相模 ・平塚江陽 ・明和 の 6銀行,合わせて 7行であ っ
5
年秋 ごろか ら大蔵省 ・日本銀行 ・県当局 に よ
た。 この 7行 に対す る合 同勧奨が1
って進め られた。合 同の主体 となる銀行 には,当初か らもちろん当行が予定 され
ていたが,一時 は県西部 と二分す る県内 2行案が出るな ど,難航 して進捗をみな
か った。翌1
6年 の秋 口に至 り,関係各行首脳 の大乗的見地 に立 った大合 同承諾 の
決意が よ うや く得 られ,当行- の 6行合 同がほぼ決定的 となった。 この背景 には
当行が前年末七十四銀行 の整理を完了しこれに伴 って当行 の信用が増大す る とい
う事情 もあ ったか と思われ る。
1
0月に入 ってまず 6行 に対す る大蔵省の検査が実施 され, これによ り引継がれ
1月1
0日当行 と 6行 とのあいだに個別 に引継仮契約が締結
る資産負債が確定 し, 1
された。 これに基づいて翌 12月13日,営業譲渡形式 による引継 ぎが実行 された。
同 日当行の引継実行員数名ずっが各行に派遣 されて,翌 日までに引継作業を終了
5日か ら当行の支店 として営業を開始 した。
し, 6行 の各店舗 は1
て,
6行の営業 譲 渡 に よっ
1
は預金
貸出当行
4,478万円,
,
08
2万 円,有価証
2,658万 円を それ
券
す ることになっ ぞれ増加
一
一万,不動産の引
た。
ついては直接譲渡形式
継 ぎに
当行 と県下 6行が合 同 (
昭和1
6.
1
0.
1
7付
神奈川新聞)
第 3章
6行合同と
戦後の苦難-
1
29
社を当行の子会社,横浜地所株式会社 に合併す る方法を採用 した。 これは, 当時
施行中の 「宅地建物等価格統制令」 によって譲受価格以上 の処分が禁 じられてい
た ことに対処す るための特別措置であ った。
合同の成果
6行合 同の成果 としてほ,次 のよ うな ことがあげ られ る。
(1) 一県一行 の達成
当行 は県下唯一 の本店普通銀行 とな り,政府の一県一行主義 の 目的を具現
す ることにな った。
(2) 倍増 した店舗網
合 同前 の当行店舗数 は29本支 店 2出張所で, しか もその配置は過半数の17
か店 が横浜市 内に集中していた。それが 6行合 同に よ り従来店舗網 の蒔か っ
た郡部を中心に33支店 7出張所を増加 して,横浜中心の店舗配置か ら一応県
内全域を カノミ-す る店舗配置が実現す ることにな った。契約条項 に も引継店
舗を廃止 しない こと,行員は原則 としてそのまま雇用す ることが明記 されて
いたが,井坂頭取 は これについて 「--一層地方金融の円滑を期す るため合
同に参加せ らるる各銀行 の営業所 は原則 として其値存置 し従来 の営業方針を
--」 と,地元
踏襲 しつつ其良を採 り其短を禰ひ以て地方金融の完壁を期 し・
・
利便を考慮 して廃止店舗を出さない ことを委ねて明言 した。
(3) 業容の拡大
6年上期末の当行主要勘定は預金 1億 6,
641万円,貸 出金 7,1
93万
合 同前 1
91
9万 円 (うち国債4,
747万円)であ ったが,引継勘定 の増加
円,有価証券 8,
6
年下期末当行 の預金は 2億 5,
806万 円の残高 とな り大飛躍を と
を含めて,1
表 3
11
6行 か ら引継 し、だ主要勘定 (
昭和1占年 12月 13日現 在)
(単位 ■千r
T
]
)
1
30-
第 1部
試練の時代
店舗の内訳
6行 か ら引継 いだ
表 3-12-1
張
可
出
万円で引継額 4,478万円を大 き く上回 る
計
柑 3 8 - 7 L
J
, 4
倉 野 南 榎 陽 和
農
江
柄
塚
鎌 秦 足 相 平 明
支 可
げた。なお, 期 中の預金増加牡は 9,1
65
ものであった。 この結果,全 国普通銀行
財務分析表の預金高25位 (15年下期)か
ら1
6
年下期には1
6
位へ と躍進を とげた。
一方,取引 口数 は預金で約 5万 口,質
出で約 3,000 口それぞれ増加す るな ど,
飛躍的な増加を示 した。
表 3
-1
2
2
地
店舗の状況 (
昭和 6年末 -
域 l
既
設
店
舗
6行合同による増設店舗
町,千代崎町
本
店,元
長 者 町,伊勢佐木町,長 島 町
野 毛 町,戸
部,神 奈 川
安,鶴
見
斎 藤 分,子
子,保土 ヶ谷
潮
田,磯
中央市場)
戸
塚, (
横浜市内
6行合同後)
官 田 町,中
山
崎,新 川 通,(
御 幸)
東
計
1
京,前
橋,高
崎
町
田
31(
2
)
注l 県央地区- 高座郡 ・愛甲郡,横須賀地区一横須賀市 ・鎌倉市 ・三浦郡
湘南地区- 藤沢市 .平塚市 ・中郡,小田原地区一小田原市 ・足柄上郡 ・足柄下郡
2 ( )は うち出張所
l
計
第 3章
6行合同と戦後 の苦難-
1
31
以上 の よ うに, 6行合 同は当行に多 くの メ リッ トを もた らしたが,その反面当
行は設立以来第二 ・左右 田 ・関東興信な どの各行か ら,そ してさらに 6行か ら行
員を引継いだため,行員の融和 については経営上多 くの配慮が行 なわれた。 もち
ろんその効果 も大 きか ったが,同時に太平洋戦争 開始後の経済情勢 の 激 変 に 伴
い,比較的短期間で行員間に協力の気運が高 まってい った。
高安頭取 と柳沢頭取
年11月)
,七十四銀行 の第 3次整理 (
1
5
年1
2月)
, 6行の当行
本店新築 (
昭和 13
1
6年 12月) とい う難事業を果た した井坂頭取 は,昭和 1
6
年1
2月辞任 し
への合 同 (
て取締役相談役 に就任 し, 日本銀行か ら高安礼三を第 3代の頭取 として迎 えるこ
とにな ったo なお,中村副頭取 はその前年取締役に退 き,副頭取 にはやは り日本
銀行か ら迎 えた馬場勇が就任 していた。 6行合 同は主 に この馬場副頭取を中心 に
推進 された。
その後,高安 ・馬場体制で太平洋戦争 とい う非常時下での経営 に力 を 傾 け た
8年末馬場副頭取が突然死亡 し,高安頭取 も翌19年 7月病気 のため退いた。
が,1
年 8月 日本銀行か ら第 4代頭取 として柳沢鉱一を迎え,その指揮 の
このため19
下で終戦前後 の混乱期を乗切 ってい くことにな った。なお,七十四銀行の整埋 の
8
年 5月退任 し,代わ って上村春馬,後藤務
中心 とな った常務取締役村 田繁太は1
が常務取締役 に就任 した。 また1
9年 3月中岡孫一郎が専務取締役 に就任 した。
2 都南貯蓄銀行 との合同
合同 までの経過
昭和 1
9
年,神奈川県農工銀行が明治31
年以来の歴史を閉 じて他の農工銀行 とと
もに 日本勧業銀行に合併 され,県 内に残 る本店銀行 としてほ当行 ・横浜正金銀行
のはかに都南貯蓄銀行が残 るだけ とな った。
0年公布の 「貯蓄銀行法」の精神 に則 り,県下貯蓄銀行の
都南貯蓄銀行 は大正 1
2月資本金 1
00万円で設立 された ものであ り,その後県下唯
大合 同によって同年 1
1
32-
第 1部
試練の時代
全 国の貯蓄銀行 の状況使命を果た
は,昭和 してきた。
普通銀行ほ どの急 ピッチではな
24行か ら
元年末の 1
1
6年末には69行 とはば半減 していが合 同整理が進み,
上 の合同は現行法 の もとで実現困
いた。 しか し, これ以
5月,普通銀行-の吸収を促進 難 とみた政府は18年
ノ貯蓄預金業務又-信託業務 ノす るため 「普通銀行等
都南貯蓄銀行の引継書
を施行 して,普通銀行
に貯蓄預兼営等 二関スル法律」
-の貯蓄銀行
としてその
の道を開 き, これを機 に
金業務や信託業務兼営
る
そ して20年 には当局の強力な勧奨に よって大都市に残
合同は急速に進んだ。
本貯蓄銀行 (
協和銀行 の前身)が設立 され る運 び となった 9貯蓄銀行が合同 し 日
貯蓄銀行 に対 しで も,当局か らこの合 同に参加す るか, 当行
が,
と合
これに際
同す るかについ
して都南
て
6
年 に当行の 6行合 同が実現 した
打診が行
同行 の帰趨については
なわれた。 1
で接触が持たれたが,最終的合意をみないまま中断 してい直後, 当行 とのあいだ
しか し, 当行はすでに上記の法律 に基づ き貯蓄銀行業務 のたい きさつがあ った。
,
とか ら,両行 の話合いは急速に進展 し, この結果 20年 3月兼営を開始
していた こ
った 日計表を基
礎 に20年 4月21日を実行 日とす る営業譲渡契約が締結 され るに至
年末の
19
空襲下の引継
営業譲渡を受け
ぎ ることが決定 したのち,引継 ぎの手続 き
。
経験済みであ った こともあ り,準備 は十数名の委員によっについて当行 はすでに
しか し 3月末 ごろか ら激 し くな った本土空襲 に よって 4月1
てスムーズに整 った。
土 ヶ谷 ・潮 田両店が全焼 し, 同月21日の実行は困難 とな り,協議の結果
5月 5日
5日都南貯蓄銀行の保
に延期
さらに引継
された。
ぎ直後の 5月29日の横浜大空襲で当行 の数店
舗 とともに引継店舗 3
か店 も焼失 した。従来 の例 にな らって契約上 は原則 として全
の予定であ ったが,重複店舗が多か った ことと店舗 の集約化店舗 (
12か店)存続
第 3章
6行合 同 と戦後 の苦難-
1
33
戦時下 の特殊事情か ら, 当行 の新設店舗 として引継 がれた のは妙蓮寺 (旧港北),
追浜 (旧追浜) の 2か店 だけ とな った。 この結 果 20年 上期末 の当行 の店舗数 は
73か店 (
期 中 3か店増) とな った。 また, 引継 ぎを受 けた資産負債 の うち預金 は
約6,000万 円で,合 同の行 なわれ た20年上期 (9月末) の当行預 金 16億 3,550万
円,貸 出 5億 3
,598万 円,有価 証券 7億 2,
750万 円の規模か らみれ ば, 数字 の う
えで はそれ ほ ど大 きな もので はなか った。
しか し 3月27日付 の 「神奈川新 聞」 の記事 に,「--時局趨勢か ら 今 回の 挙 に
出た もので本合 同に よ り横浜興信銀行 は県 内に本店 を有す る普通銀行業務並 びに
貯 蓄銀行業務 を営む唯一 の銀行 として名実共 に地元 中心銀行 とな る訳で-・
-」 と
あ る よ うに, 当行 の責任 はい よい よ重大 であ った 。
3 戦 時下 の経営 努 力
株主配当の開始
15年 1
2月七 十四銀行 関係 の第 3次整理 を完 了 し, さ らに1
6年下期 には特別借 入
2月,大蔵省 ・日本銀行 の許可 を得,
金 の勘定を消 し, 6行合 同を果 た した 同年 1
定款 の変更を行 な って配 当制 限条項 を削除す る とともに初 めて この期 に年
5月29日横浜大空襲による焼失店舗
3%の
その他戦災による焼失店舗
長 島 町 支 店 (20.6.1
5廃止)
潮
田 支 店 (
2
0.7.3廃止)
野 毛 町 支 店 (
20.6.
1
5廃I
l
二
)
川 崎 支 店
神 奈 川 支 店
新 川 通 支 店 (
2
0.5.
26廃止)
鶴 見 支 店
御
寿 町 支 店 (
2
0.6.
1
5廃止)
下 曽 我 支 店
元 町 支 店
平 塚 支 店
戸 部 支 店
平塚本 宿支店
千代崎町支店 (
2
0.6.
1
5廃止)
また強制疎開により材木座支店 (
2
0.7.
幸
支
店 (
2
0.6.
1
5廃止)
浅 間 町 支 店 (
2
0.6.
1
5廃止)
2
6
) と縁町出張所 (
1
9.4.
3
0
)が廃止 とな
本 牧 支 店 (
2
0.6.
1
5廃止)
った
。
134-
第 1部 試練の時代
株主配 当を実施 した。創立以来 2
0
年 あま り無配のまま協力をねが った 株 主 に 対
し, よ うや くわずか なが ら報 い ることがで きたのである。 ちなみに この期 におけ
62円で配当金寵 は7,
5
00円であ った。 当行 は これを契機 に,1
7年
る純益金 は 7万 3
上 ・下期年 4% ,1
8
年 以降は年 5% の配当を継続す ることにな った。
預金増強施策
戦局が拡大 し戦費 が増大す るに従 って公債発行額 は うな ぎ登 りとな ったが,そ
の消化 の大部分 を支 えたのは金融機関であ った。国債消化 を推進す るため,政府
は金融統制会 を通 じて各金融機関に対 し貯蓄 目標を設定 したが,その領 も年 々加
速度的に増加 した。 このため銀行 としてほ貯蓄増強-
国債消化が最大 の使命 と
な り,各行 ともいろいろの施策を講 じて預金増強 に努めた。
当行 において も事情 は全 く同 じであ った。た とえば昭和1
6年 4月の支店長会議
の協議事項 のなかで も預金増強が第一 に挙げ られ てい る。
1. 預
金
預金生得 二付 テ-別 二素暗 ラシキ新手 -ナカルべキモ行員 協力一致不断 二新
工夫 ヲ凝 ラシ誠意 トサ アヴイス ヲ尽シテ一層努 力セ ラレ度
2. 預金 目標
1
6年上期 - 1億 5千万 円ナ リシガ1
6年下期 - 1億 7,
8千万 円 トシテ各店 ノ実
勢 二応 ジ無理 ナキ 目標 ヲ設定致度 (
預金増加図表 ヲ作成 シ業務謙 二送付 ノコ ト)
6年上 期 末 1億 6,
641万 円, 同 下 期末 2
と指示 してい る。 これ に対 して実績 は1
億5
,
806万 円 と大幅な 目標突破 を達成 した。 これ は 6行 との合 同が大 き く寄与 し
状況
た
の経済金融
ことが主 因であ
の変化がかな
ったが,一方
り予測 Lがたい
この時期
第 3章
6行合 同 と戦後 の苦難-
1
35
遇進致度侯間更 二一層 ノ御協力相煩度依命此段 申進慎
也
猶右運動推進 ノ為 メ本行店舗 ヲ4ブロック二分チ各
担当責任者相定 メ候 二付支店長訪問励行等具体的有効
方法随時御協議 ノ上垣チ ニ御実行相成度侯」 との預金
増強督励通達を各営業店 に出し,轍を飛 ばしている。
この よ うな真筆な取組姿勢 には 古くして新 しい ものが
感 じられ る。
横須賀支店 の業務 日誌
ず 当時の当行預金
しも不振 とはみ られな
(
横浜市 内)の伸びは他行に比 し必
な り高い体質がすでに定着
いが,預金の種
し
目構成をみ る と,流動性預金の比率がか
高い こととも関連がある と思われ
ていた
るが
ことが うかがえる。 この流動性預金の比率が
と言
,当時の支店業務 日誌を操 ると現送記録簿
いた実態が
って よいほ ど毎 日の よ うに本店 とのあいだに小単位 の現送健が仕立て られて
な ら現金圧縮-の意識が高か っ
た ことを物語
認め
ってい
られ,当行では経営効率化
る。一方本部サイ ドも頻繁
の観点か
1
36-
第 1部
試練の時代
従業員数の推移
表 3
-1
3
従業員の構成
(
昭和 19年 1月現在)
衰3
-1
4
年 末 l従業員数
4 L
L
72 9 L
〇 9 0
2 2 2 8 4 3 3
L
L
)ノ
b 7 0 2 2 2
男 子 職 員岳
女 子職 員
庶務職員など
休
職
者
379
る36
1
39
98
うち応召74,応徴17)
計
】 1′252
一方,行務の状況は,空襲時
に備えての "
非常対策"業務や
1
8
年後半か ら開始 した貯蓄 ・信
託 な どの新業務 も加わ って繁忙
を きわめ, 日常事務の遂行に も
支障をきたす よ うになった。 さ
らに,国策 としての貯蓄増強を
図るため金融統制会 によって実
施 された統 一的な貯蓄増強期間中の営業時間延長 (3時- 4時半)は,やがて土
曜 日の半休廃止 (
1
8年 1
0月 1日よ り実施), 日曜 日の営業 (
1
9年 3月 3日よ り実
施)へ と拡大 されて,金融機関の労働環境 も他産業同様厳 しい ものになった。ち
なみルこ当時 の行員-人当た り預金高の推移をみ ると, イソフL
,進行下 とい う事情
もあ ったにせ よ1
6年上期 の24万4,
000円が,20年上期 には 6倍を超える1
50万円に
著増 した。
こ うした事情を反映 して,営業店 に対 してほ,`
窓̀ 口での ミス ・トラブル防止の
ため各店は窓 口にベテ ラン行員を重点配 置す るな ど,弾力的な人員配置を行な っ
て 日常事務 の円滑化 ・効率化に十分配慮 されたい" とい う指導が強力に行なわれ
た。
非常対策
当行 の店舗 は軍需工業を抱えた京浜工業地帯 とその周辺 に多 く分布 し,空襲 な
どに よる被害が予想 されたので,昭和1
6年1
2月の政府 に よる 「戦時非 常 金 融 対
策実施要綱」発表に先ん じて, 同年 8月独 自の 「非常対策」を制定 した。 これは
関東大震災時の貴重な体験を生か して,帳票な ど重要書類の保管,副本作成 のシ
ステム,疎開格納な ど緊急時 の対策を定めた もので,各店 ごとにその準備を進め
させた。結果的には,空襲 に よる当行の曜災は2
0年 5月29日の大空襲による1
0か
店を含め17か店 に達 したが,幸 い どの店舗 も金庫室 は無事であ り,火災保険の支
払な どが重な って一時的な事務 の渋滞はあ ったが, この 「非常対策」に頼 ること
第 3章
6行合同と戦後 の苦難-
1
37
はなか った。 しか し,大震災の体験 に基づ くこの非常対策は戦時下の当行行員に
とって大 きな精神的支え とな った。
戦時下 の当行業績
この よ うな緊迫 した情勢下で も業容拡大の努力は続け られた。 この間の業績 の
5年下期末か ら1
9
年下期末 までの 4年間に 6.0倍 の
推移をみ る と, まず預金では1
年 の 6行 と
伸 びを示 し,都市銀行 ・地方銀行 の平均を大 き く上回 った。 これは16
の合 同がかな り寄与 した こともあ ったが,それ以降の各年 において も相当な伸び
率を示 してお り,貯蓄業務を兼営 しての増強活動が実 った もの とみ られ る。全国
6位 に躍進 し,その後 も徐 々に順
普通銀行中の預金高順位 も, 6行合 同の寄与で1
2位 とな った。上位行の合併による順位の
位 を上げて終戦直後 の20年上期末には1
年 の0.5
2%か ら2
0年 の
操上 りもあ ったが,普通銀行 に占める当行 のシ ェアが,14
1.53% に上昇 した ことによって も当行 の実質的な地位の向上をみ るこ と が で き
る。 この間地方銀行 の預金の伸び率は大 きな変化をみせていた。米穀の配給統制
が厳 し く実施 されて以来,その売上代金は主 に農林系統金融機関を通 じて流れ る
よ うになったため,1
6-1
7年 の地方銀行の預金はまった く伸び悩み とな った。 し
表
資
3
-1
5
主要勘定比戟
(
単位 :百万円,
%)
1
38-
第 1部 試練 の時代
か し1
8-1
9
年 に入 り戦 争 が苛 烈 さを増 す に従 い米 穀 な どに闇値 が 生 じ, 資 金 は農
村 に集 中 して, 都 市 銀 行 を上 回 る伸 び を示 す よ うに な った。 当行 はそ の立 地 上 ,
従 来 か ら農 村 資 金 の ウエ イ トが低 か った た め, 他 の地 方 銀 行 の よ うな変 化 はみ ら
れず , む しろ都 市 銀 行 に近 い推 移 を示 した。
表
3
1
6
普通銀行の預金高順位
〔単位 :百万円〕
昭和 14年下期
行
資
名
l預金高 l行
20
名
i預金高 l行 名
預金高
年 上 期
行 名 l預金高
第 3章
6行合 同 と戦後 の苦難-
1
39
一方資金運用面では,他 の地方銀行 と同様有価証券 の ウエイ トが しだいに高 ま
ってい ったが,預金の好調 な伸びに支え られて貸 出について も積極的に対処す る
とともに,商業金融重点の体質を しだいに産業金融重点に変えてい った。その結
莱,貸 出増加率はかな りの高率を示 したが,預貸率の水準はなお低か った。 この
よ うに都市銀行 と地方銀行の預貸率 に大 きな格差がで きた背景は,軍需融資指定
金融機関制度な どの戦時金融統制 であ った。 当行 も営業地盤内に多 くの指定会社
を抱 えなが らわずか数社 の指定に とどま り,他の地方銀行 と同様,融資 の窓 口は
非常 にせばめ られ, 国債をは じめ政府保証の興業債券 ・戦時金融債券な ど有価証
券 の比率を高めざるをえなか った。 この時期に取得 した興業債券 ・戦時金融債券
は戦後の再建整備 に際 して切捨 て られ大 きな混乱を起 こした。
また収益面では,利鞘 の大 きい貸 出の ウエイ トが高い都市銀行が,地方銀行に
大 き く格差をつけていた。 当行 は貸 出について もかな りの伸びを確保 した ことか
ら大幅な収入増 とな ったが, インフレに よる人件費の高騰 に加え,滞貸金 ・有価
000円に とどま り, 同規
証券 の償却増 も著 し く,1
9年下期 の当期純利益は1
8万 7,
模の他行 と比較 して もまだかな り低水準であ った。
次に店舗 の動 向をみ る と,16年 7月政府 は貯蓄増強を推進す るため銀行店舗の
少ない地域 に預金だけ取扱 う簡易店舗の設置を認め,特別 出張所 の制度を発足 さ
せた。当行 もこの制度に則 り,1
6年 の御幸 出張所 をは じめ1
8年 までに 6特別 出張
所を開設 し,翌1
9年 には これをいずれ も特別支店に改めた。 このほか1
6年か ら終
戦時 までに金沢 ・丸子 な ど
2支店 2出張所の新設 , 3
出張所 の支店昇格, 2支店
の都南貯蓄か らの引継 ぎ,
千葉銀行横須賀支店 の当行
岩松町支店 としての引継 ぎ
な どがあ った。 また この間
6行合 同に よる引継店舗 の
重複を効率的に活用す るた
千
1
40-
第 1部
試 練 の時代
め, 平 塚 新 宿 を 大 磯 に, 平 塚 八 幡前 を溝 口に とい った よ うに 7支 店 の配 置転 換 が
行 なわ れ た。 一 方 廃 止 され た店 舗 もか な り多 く,1
5支 店 4出張 所 が廃 止 とな った
が, そ の うち千 代 崎 町 ・潮 田 な ど1
0支 店 1出張 所 は戦 災 また は強制 疎 開 に よる も
の で あ った。 こ うして戦 争 下 にお け る激 しい店 舗 の変動 が み られ た が, そ の結 果
3
-1
7
表
戦時中の店舗の異動 (
昭和 7年上期-20年上期一 終戦)
注 新設の うち 妙荘寺,追浜は都南貯蓄銀行,若松町は千葉銀行か らの引継店
太平洋
と
"
業報〃わずか 3号で停刊
7
年秋,〃業報ガ
観争 もたけなわの1
舗
す る預金比較 の掲載は 「国勢の実態を公に
B5
題 した社 内報の創刊号が発 行 さ れ た。
で発行
もの」
し として当局 の叱責を受け,次い
が 判 4ペ ージ建ての質素なものであった
ここに こた 2号では紀行文の 「
乃木将軍が
行員
,創刊の趣
の
旨には 「
錬成講壇 として将叉
の感
て・-・精神的融合乃至事務研 修 棟 閑 とし
一節慨 であ らうな どと想像 して見 る」 との
った ・
」 とあ り,かな り意欲的なものであ
れ
要通達
。内容は副頭取の巻頭言には
じま り主
の内容紹
問題を起
るなど筆禍
こで これ以上
こす が相次いだ。そ
ことは得策ではな
異動か ら俳 句 ・介 ・業況 ・店舗異動 ・人事
でいた。
ところが戦時検閲
紀行文
とバ
ラエテ
ィに富ん
の厳
しいお
りとて主要
銀行
られた と云ふか ら-・
・
・
は此湯殿で
が "
不敬 のきわみ" として再度指摘 さ
第 3章
6行合同と戦後の苦難-
1
41
この 5年間に当行の店舗 は戦災な どに よる廃 L
L店舗が多か ったに もかかわ らず,
6行合 同による大量増 もあ って質量 ともに充実をみせ,1
5
年末 の2
9本支店 1出張
所は終戦時には61
本支店 3出張所 とな った。
当時 の当行 の動 きのなかで特筆すべ きもの として本部 の都制確立があ った。 当
0
行 は創立以来 内部体制を整備 し,順次係 ・課 として本部機構を整 えてきたが,2
年 2月本部 の業務分担を一層 明確 にす る趣 旨か ら都制を採用 し,秘書部 ・検査部
・業務部 ・計理部 ・企画部 ・庶務部 ・管理部 ・地所部の 8部が誕生 した。
第 3節
戦後経済の混乱 と当行 の再建整備
1 経済 の混乱 と企業 の再建整備
戦後の混乱
0
年 (
1
9
4
5
年) 8月1
5日,わが国は国力を消耗 しつ くして連合国に無条件
昭和 2
降伏 し, ここに太平洋戦争 の終結を迎えた。昭和 6年 の満州事変以来 の長い苦難
にみちた戦乱の時代に よ うや く終止符を打 ったのであ る。
終戦 とともにわが国は連合国の占領下 に置かれ,戦時経済体制は解体 され, こ
連合軍総司令部) の占領政策 にそ って経済の再建が進め られ るこ
れ以後 GHQ (
とにな った。
終戦後のわが国の経済は 「国家 も,企業 も,家計 もすべてが赤字」 といわれ,
まさに壊滅的な状態 にあ った。 しか もこの年 は米が平年作 の 3分の 2 とい う大凶
作 とな り,激 しいインフレに加えて食糧危機 までが追打ちをかけた。
一方 こ うした混乱 のさなかに連合国は,わが国の非軍事化 と経済の民主化を 目
指 して数 々の重要 な改革を政府 に指令 した。 これ ら相次 ぐ改革 のなかで,わが国
の経済 に直接大 きな影響を及ぼす ことにな ったのは財閥解体 と農地改革,それに
労働 の民主化であった。
1
42-
第 1部 試練の時代
こ うして20
年か ら23
年 にかけて,わが国はインフレの激化
食糧難,諸制度の
変革 とい う激動の嵐に見舞われ ることにな った。
激化す るインフレーシ ョン
終戦後のわが国の経済が直面 した最大の問題 はインフレの激化であ った。すで
に太平洋戦争中か ら巨額の軍事費支 出が続 く一方で,消費財を中心に物不足が深
刻化 していたため潜在的にインフレは進行 していたが,厳 しい戦時経済統制 と強
制貯蓄による購買力の吸収によ り表面化 しなか った。 しか し終戦後にな って統制
とい う歯止めがな くな り, さらに莫大な臨時軍事費が短期間に集中して支払われ
0億 円で
た ことによ り, 日銀券発行高は急増 した。終戦当 日の 口銀券発行高 は 30
あ ったが,1
0月末 には431
億 円,1
2月末55
4億 円,そ して翌21
年 2月には 600億 円
を超え,わずか半年 あま りのあいだに倍増す る とい う異常 な膨張ぶ りを示 した。
まさに通貨の洪水であ り,一方 この間の生産 はきわめて低水準に落込んでいた
ため,当然物 と金 との極端 なアンバ ランスが生 じた。 この結果激 しい挽物運動が
表面化 し,銀行預金は引出され,物資は大量 に買占め られてインフレは一層高進
した。
て,政府は2 破局的なインフレに直而 し
対策」を発 1
年 2月 「インフレ防止総合
あげ ることに
表 し, インフレ阻止 に全力を
な った の が,
な
った。 この対策 の基本
「金融緊急措置令」
と と
本銀行券 預入令」,す なわち 預金封鎖「と
日
新 円切換えであ
これによ り, った。
金をは じめ
21
年 2月1
7日を もって預
べて封鎖 され,生活
その他の金融機関の債務 はす
資金 として毎月世帯
主3
00円,世帯員 1人
預金封鎖 と新 円発行
(
昭和2
什 朝日新聞)
1
.
2
.
1
7
この よ うな
第 3章
日銀券発行高
度 として現金で支払われ ること
にな った。一方従来 の 日銀券 は
3月 2 日以降通用力を失い, 3
(単位 :億 円)
表
3
-1
8
年
末
(
昭和 9′
-11
年 平 均 - 1)
表
!発行高
れが強制 された。 これに代わ っ
て新 日銀券が発行 され, 1世帯
10
0円を限度 とす る 旧券 との引
資料出所 「
経済統計年報」
1
43
小売物価指数(
東京)
3
-1
9
暦
0 7 5 3 9 5 5
・- 1
1 5 9 - 「
〇 5
2 3 3
月 7日までに金融機関へ の預入
換 えが行 なわれた。
6行合 同 と戦後 の苦難 -
年
指
数
1
.9
2.1
31
18.9
51
.0
1
49.8
24
資料出所
243.4
「
経済統計年報」
こ うした緊急措置に よって一
時的に 日銀券 は吸収 されたが,
財政は依然大幅な赤字を出し,生産 も回復せず, 4月以降 インフレは再び高進す
ることにな った。
混乱期の神奈川県
太平洋戦争末期 のたび重なる空襲 に よって,神奈川県は横浜を中心に主要市街
地 の大半が焦土 と化 して終戦を迎 えた。
000
戦争 の記録を県下 についてみ る と,戦闘参加者約20万人,うち戦死者 4万8,
人,空襲 に よる躍災者5
8万7,1
00人, うち負傷者 1万6,1
85人,死者 5,931人 に達
す る戦争犠牲者を出した。 また一般民家については空襲によって1
4万 1,5
0
0戸を
400戸を取壊 し,計 1
7万6,
900戸の家屋を失
失い, さらに強制疎開に よって 3万 5,
年 当時の県下 の世帯数が3
9万 3,
000世帯であ った ことか らみて もその損
った。20
害 の大 きさは明 らかであ った。
京浜工業地帯を擬 して全国有数 の工業県 として経済発展を誇 った神奈川県 も,
戦災によ り生産設備 は破療 しつ くされ,昭和20年 の工場数はそれ以前の最高であ
る昭和 15
年 当時の2,
606か ら1,
493- と半減 し,工業従業者 も戦前 の最高であ った
7
年 当時の25万6,
000人か らわずか 7万3,
000人- と激減 した。
昭和 1
年か ら20年 にかけて県下 の人 口は約60万
このよ うな戦争 による被害 に加え,19
年末 の約240万人 は2
0年11月には1
8
0万人にな っていた。 とくに減少
人減少 し,19
1
44
-
第 1部 試練の時代
が顕著であ ったのは横浜苗 (
約4
0万^,40% の減少),川 崎 市 (
約2
0万人,53%
の減少)
,横須賀市 (
約 9万人,31
% の減少)な どであ り,一方郡部では疎 開 に
3万人 (
25%)増加 してお り,県下 において激 しい人 口の移動が行なわ
よって約 1
れた ことを示 していた。
こ うした壊滅状態 のなかで終戦を迎 えたが,戦後数年間は神奈川県 も混乱の時
期であ った。食糧難 ・住宅難に加え激 しいインフレが県民の生活をゆさぶ った。
神奈川県は米 の消費県であ った ことか ら,食糧難は一段 と厳 し く, このため県の
食糧課では "
毒を もたない植物 "な らば何 で も食べ られ るよ うに と "
食糧 の新規
開発'
'に努め,その結果サ ツマ芋 のツル ・カボチ ャの ツル ・ドング リの実 な ども
食糧 とな った。 さらに21
年 4月には当時の内山県知事 の有名な "
供 出米行脚 " ち
行なわれ食糧確保 に最大限の努力が払われた。 こ うした危機的な食糧難 も2
3
年に
は好転 してよ うや く厳 しい食生活 に終止符を打 った。
この よ うな経済 ・社会 の混乱のなかで神奈川県 の工業 は不振を きわめた。戦時
中軍需生産 によって支え られていた県下 の重機械工業 は,終戦 によ りその存立基
盤を一挙 に失 い,回復の 目処が立たなか った。造船所 は漁船の修理 ・建造を行 な
ってかろ うじて操業を続け,航空機や 自動車の工場では鍋 ・か まをつ くって従業
員を養 うとい うあ りさまであ った。
このよ うに戦後の県経済 の復興は困難を きわめたが,なかで も最大のネ ックと
な ったのが連合軍主力部隊の進駐 による大規模 な接収であ った。
横浜は第 8軍司令部の所在地 とな り,主要 な どル ・学校 な どが接収 されたほか,
市街中心部 の焼跡地 ・港湾施設 ・沿岸施設 ・臨海地帯 も兵鼓基地 として接収 され
た。 また横須賀は旧鎮守府が米国極東海軍司令部 として使用 され, これを中心に
軍港一帯 は米国海軍 に よって接収 された。 さらに武山海兵団 ・辻堂演習場 ・厚木
飛行場 ・座間の陸軍士官学校な どの旧軍施設をは じめ,逗子のな ぎさホテル ・箱
根 の富士屋 ホテル ・強羅 ホテル ・仙石原 ゴル フ場 な ども接収 された。 これ ら県下
年 7月現在で土地約 3,
729- クタール (
1,13
0万坪 )
,逮
の接収合計面積は昭和27
5- クタール (
65万坪) に も達 していた。
物 21
年 当時の市街地面積 の2
7% に相当す る 920- クタ
なかで も横浜市では,昭和21
第 3章
6行合同 と戦後 の苦難-
駐留軍の接収状況
-ル (
279万坪) の土地が 接収 され, しか もその
うちの43%は横浜 の ビジネスセンターであった中
1
45
表
3
2
0
(
昭和 21年 9月)
各区の面積 に対す る
区に集中 し,かつての繁華街か ら軍用機が飛立つ
接
収
割
合
とい う光景 もみ られ た 。 また横浜経済の生命線 と
0%が接収 された。
もい うべ き港 もその施設 の9
こ うした経済 ・社会 の混乱のさなかに,将来 の
発展 に備 えて建
資料出所 「戦後横浜経折十年史」
は戦時中一時中断
設的な大事業
していた相模川河水統制事業
も行 なわれた。それ
ち相模 ダムの 完成 であ った。 この相模 ダムは の第 1次事業 目標 の実覗,すなわ
れ,河川の総合 開発 の先駆けを
戦
わが国 初めての 多 目的 ダムといわ
なす県史に残 る大事業であった。
昭和2
0
年11月2
5日, GHQは政府 に対 し戦時(
時補償の打切
りと企業の再建整備
補償 とは戦時中または終戦 に際 し,政府が企業 軍需)補償の凍結を命 じた。戦時
な債務や損害 の支払 の ことであ り,当初政府 は こ
や国民に対 して保証 したいろいろ
らためて個人お よび企業か ら財産税を徴求 しよ う
の戦時補償を行な った うえで,め
とい う方針であ ったが, GHQ
は戦争 に よる利得はすべ て認めない との強硬な考え
は全面的に打切 りと決定 された。 この打切 り措
方を貫 き,21
年 8月戦時補償
て実質的な価値を失 っていた軍需会社 の擬制資 置に よ り,戦争 による被災によっ
った。戦後 の経済混乱のさなかであった とはい本は一挙に切捨て られ ることにな
持つ金融機関や企業 に とってはその死活を左右 え, この決定は軍需会社に債権を
の民需転換を不可能にす るものであった。そ こす る大問題であ り, また軍需会社
破産や混乱を食い とめ,その再建を可能にす るで政府は これ ら金融機関や企業 の
わゆ る 「
再建整備」措置であ り,その意図は確 ための措置を次 々 と打 出した。い
いてはわが国経済 の再建を 目指 し,一方戦時補 実 な資産を もって事業 の継続,ひ
封鎖預金の一部切捨 てによって補填 しよ
償の打切 りに よる損失は資本金や
っ う画期的な措置であ った。
まず 同年 8月に封鎖預金を一定の限度に従
うとい
る 1封鎖預金 と第 2封鎖預金 と
に区分 し,第 2封鎖預金を補償打切 りか ら生ず て第
146-
第 1部
試練 の時代
凍結 した。 これに引続 いて 「
金融機関経理応急措 置法」と 「
会社経理応急措置法」
0月には区分 された旧勘定 に
が施行 されて,新旧勘定の分離が行 なわれ,次いで1
ついての処理手続 きを定めた 「金融機関再建整備法」 と 「企業再建整備法」が成
立 し, これ に よ り企業 の再建整備 は本格化す ることになった。
金融横関の再建整備
金融機関の再建整備 もこ うした一連 の措置に従 って進め られた。 まず 「
金融機
関経理応急措置法」に基づ き,21
年 8月11日午前零時を もって打切 り決算を行な
い,資産負債を新 ・旧勘定に分離 した。新勘定 には現金 ・国債 ・地方債 ・そのほ
J
9
か確実な資産 と自由預金 ・第 1封鎖預金 ・公租公課 ・金融機関に対す る債務な ど
0日以前
の負債を属 させ,今後発足す る経営の母体 とす る一方, 旧勘定には 8月1
の一般貸出金 ・社債 ・株式な どの不確定資産 と第 2封鎖預金,その他新勘定に属
さない負債を所属 させて,今後の整備の対象 とす ることにな った。
次いで金融機関再建整備法 に基づ く旧勘定の整理 に入 った。資産負債を適正に
年 3月を期限 として再建計画を れ, さ らに23
示が出た ことか ら,整理 は急速推進す るよ う指
融機関は新 旧勘定の評価換 えを に進んだ。各金
理 の制度を設けて旧勘定 の一 行 ない, 中間処
な どの措置を行 な って損失確部を新勘定に移す
り 図 っ た。 な
秦, この間 GHQの指示に よ定を
に姐替 えさせ られ る とい う問題 金融債を旧勘定
興業債券 を大量 に所有 していたが起 き, とくに
な打撃を受け,一時整理 に混乱地方銀行 は大 き
一幕 もあ った。 こ うして確定 しをきたす とい う
は,資本金,第 2封鎖預金な どた損失について
が られた順序
と比率に従 って補填 し,なお損失
定め
第 2封鎖預金
(
昭和 2
の凍結
1.
8.1
1付朝日新聞)
評価す るための評価基準が決め ら
第 3章
6行合 同 と戦後 の苦難-
1
47
とい うことで処理を終 えたが,その結果全 国の銀行では
全硫減資 と第 2封鎖預金7
0-80% の打切 り
政府補償を必要 とす るもの
行 行 行 行
1 50 6 4
9割減資 と第 2封鎖預金69%以下 の打切 り
7
資本金 の 3割減資
行
資本金,第 2封鎖預金 ともまった く打切 りを必要 としない もの
とい う状況であ った。
このよ うに大多数 の銀行が資本金 の90%以上 の切捨 てを行なった ことか ら, G
HQは 自己資本の充実を強 く要請 した。適正資本を不確定資産 (
純資 産 か ら 国
債 ・手許現金 ・日本銀行預け金を控除 した残額)の 1割 とし一
斗これ以上 の資本金
となるよ う増資す ることが指示 されたのである。 このため株主総会を 2回開 き,
第 1回の総会では資本金を不確定資産 の 5%以上相当額 になるよ うに決定 し (
た
だ し募集困難 と認め られ る場合 は 3% にまで下げ ることができる) さらに応募蟹
が多か った時 は引続 き開催す る第 2回総会 において再増資す ること,な どの過渡
的措 置が とられた。 こ うして, 金融機関の 再建整備 は他の 企業 に先立 って 完 了
年 7月21日,封鎖預金お よび封鎖支払制度は解除 された。
し, これに伴 い23
2 当行 の再建整備 と増資
新 旧勘定の分離 と旧勘定の処理
昭和21
年 8月11日の指定時に,当行 も新 旧勘定の分離を行 な った。分 離 の 結
果,新勘定の資産 ・負債 は1
6億 7,900万 円, 旧勘定は11
億8
,3
00万 円 とな った。そ
して旧勘定について整理が始め られたが,その間整理 の細 目を指示す る当局の通
達が再三変更 された ことによる整理作業 の反復や,戦災の影響の残 る営業店での
新 旧勘定間の混乱な どがあ り,多 くの苦労が重ね られた。 しか し資産 の評価 ・不
良資産 の償却 ・債権債務の相殺 ・中間処理制度による新勘定への移管な ど整理 は
着 々 と進め られた。22年末 にな って翌年 3月 までに整備計画を完了 との指示が出
2月,大山取締役以下 1
2名の職員か らなる臨時
され, これに対応 して当行 は22年 1
1
48-
表
第 1部
試練の時代
3
21
新 旧勘定 の分離状況 (
昭和21年 8月 11日現在)
新
資
注1
2
勘
産
旧
定
定
産 l負
債
負
勘
(単位 :百万円)
金融債を旧勘定
替え
貸付金には割引手組
形を
含後
再 建 整 備 部 を設 置 し,
む整 理 を 急 ピ ッ
当行 で は戦 時 中 の い わ ゆ る軍 需 融 資
チ は比
で進較
め的
た。
少 な か った た め, 戦 時 補 償 打 切 り
に よ る貸 出 関係 の損 失 は
2,
2
0
0万 円 に と
び に有 価 証 券 に つ い て も有 利 な処 分 を 行 な
どま
り, さ らに 旧勘 定 所 属 の不 動 産 な ら
った
。 この結 果 ,2
3
年 1月1
0日に認 可
新
金融措 置令 に よる
で番号
円切換 えのとき
預金封鎖は,多 くのいわゆ る新 円切換え と
が, こ札 を渡 して引取 って もらったのです
た らしたが,銀行 の人 々に動揺 と混乱を も
な ってれが翌
日に
また大混乱を起 こす因に
しまい ま
した」
騒 ぎであ った。当時店頭 も連 日たいへんな
る。「何 しろ
の行員 の思い 出話で あ
なければ紙切れ
までに預 けソク リもタ ンス預金
同然 にな
も,期
る 日
うので,店頭 は連 日黒山で した。私 も とい
銀行生活 で取付け騒 ぎも味わ ってい
長い
が, あの時 と変わ りませ んで した」 ま した
「ある 日,夕方になって もまだ受付け き
れ ない預金者が残 って しまったのです 。や
むをえず翌 日優先的に扱 うか らとい うこと
「
第 3章
6行合同と戦後の苦難-
1
49
当行 の旧勘定最終処理 の概要
表 3-22-1 〔
損益内容〕
項
目
(
単位 :千円)
】 金
1
05.78
2
28.
41
2
(
外 国 証 券)
(
会
社
債)
(
金融債く
興銀債)
)
(
株
額
式)
け
金
(
資金統合銀行出資金)
貸
出
金
そ の他評 価 損
当期総損失
1
4.859
預
22.61
6
23.838
64,91
5
表 3-22-2 〔
損失負担内容〕
区
分
9
担 額
部
500万円を超える
預金等で
分 100万
l口
預金等で1
0円を超える法人
万円以下の0万円を超え500
1口1
0
部分
1
0万円を超え
金等で万円を超える法人預
円以下の部
1
0
0万
よびそ
以上を除く預金お
分
合
1
負 単位 :千円)
本 立金
資
旧勘 定積
1ロ 500万円を超える法人
他の整理債務
利 益 金 計
差 引 損 失 観
r義引
諌
※※
言 1
23
4,
′3
7
5
99
4
計の
注 最終処理完了後に第 1,第2封鎖預金の設定 788
着その他が判明したため,この金矧′
通知の未
ま
り修正され
後日下記のとお
(
39
2.3
64
69
1
1
た。
を 受 け た 第 1回 の最 終 処 理 方 法 苦 に お い て※※
※ 1
2
3
.
2
3
9
1
3
9
千円
% しか
と良好
し一
な成 績 を 示 した 。
は, 第 2封 鎖 預 金 の一 般 打 切 り率 は 28
れ る こ とに 旦
な は新
っ 勘 定 の所 属 と決 定 して い た 金 融 債 が 途 中 か ら旧勘 定 に組 替 え ら
たた
め
で 約 これ
体 で の損 失 は 1億
6,10
0万
の損
失定
増 とな り, 有 価 証 券 全
60
0,
万金
円融
に債
のだ
ぼけ
った。
に
よ円
り,
旧勘
こ 当初
うして
率は
よ 当行
り30% も増 え て 58% とな った 。
預 金 の一 般 分 打 切 り
は額
旧勘
調 整 した 差 引 損 失
1定 の損 失 額 2億 3,200 万 円 を 当期 の利 益 と評 価 益 に よ って
金 等 1億 2,890万 円 を充
億3
,200
万こ円と
の補
填,に積
立 金 160万 円, 資 本 金 180万 円, 預
23年
当す
る
とし
建整
同年
備 の最
5 終 処 理 を 完 了 した 。
3 月 31日当局 の許 可 を 受 け て, 再
は, 旧勘 定
月 に発 送 され た 旧勘 定 の債 権 者 に対 す るあ い さつ 状 (資 料 に 収 録 ) に
権 者 に分 配 資 産 につ い て 調 整 勘 定 が 設 け られ , そ の利 益 は確 定 損 失 を 負 担 した 債
って努 力 す る
され るべ き もの で あ り, そ の利 益 が最 大 限 に な る よ う役 職 員 一 丸 とな
1
50-
第 1部 試練の時代
か った当行 の苦渋がに じみ出てい る。
なお, この間預金封鎖 ・新 円切換 えな どに伴 う記帳 ・証紙の貼付 ・旧円の整理
な ど煩雑 な業務 に加えて,新 旧勘定 の分離が行なわれたため,行務 は複雑化 し繁
忙 を きわめた。 さ らに こ うした状況で激務を強い られ る行員一人一人の生活に も
インフレの激化 と食糧難 は容赦 な く押寄せたが,全行一体 とな って この困難 に耐
え,それぞれその職務を完遂 したのであ った。
新資本金 1億円への増資
当初,金融機関再建整備法の規定によ り作成 し,認可を受けていた整備計画書
年 2月1
6日の臨時
では, 当行 の新資本金 は 2,000万 円 と予定 され てお り,昭和23
株主総会で 1,
9
80万 円の増資決議を行な っていた。 ところが 5月に至 って金融機
関の増資に関す る政府の方針が変わ り,前述 した よ うに不確定資産 の最低 3%以
上 (目標 は1
0%) とす るよ うに増資す ることが決め られた。
当行 の場合,新 旧勘定合併後の不確定資産 は1
6億 2,
000万円であった。当時の
0% は一般 に困難祝 されてお り, 当行では新資本金 5,
0
00万
金融情勢では 目標 の1
09%) とす る整備計画書をあ らためて提 出し,募集超過
円 (
不確定資産 に対 し3.
の場合は超過分 の再増資を行 な うことを条件 に認可を得た。 6月25日の定時株主
,9
80万 円の増資を新 た に 決 議
総会 において前回増資の決議を取消す とともに 4
し, 7月 1
3日よ り増資新株 の募集 に入 った。締切 日には募集金額を 5
,000万円 も
980万 円に達 したため, 9月 8日にふたたび臨時株主総会を開催 して募
上回る 9,
集超過 鮫 5,
000万 円の再増資を決議す るに至 った。 こ うして1
0月 6日増資は完 了
し, 当行 の新資本金 は 1億 円 とな った。
行 内諸体制の整備
この よ うな再建整備 と並行 して, 当行 内部 の体制整備 もこの間着 々 と進め られ
た。 まず役員人事 についてみ る と,戦争末期か ら終戦直後 の混乱期 に柳沢頭取を
年 1月辞任 し, 4月,上
補佐 して重責を果た してきた中岡孫一郎専務取締役が21
村春馬常務取締役が専務取締役に,岡崎亮一取締役が常務取締役 にそれぞれ昇格
第 3章
6行合同と戦後の苦難-
151
した。引続 き22年 には取締役お よび監査役 にそれぞれ一部交代がみ られ,戦後経
営を推進す る当行経営陣 は ここにその顔ぶれを一新す ることにな った。
次に機構面で は,20年 11
月 に機構改革を行ない,それまでの 8部制 を 6部 7課
制 に改めた。 さ らに2
2
年1
2月には これを 5部 8課制 に改め,業務 の効率化を図 っ
た。 この ときの機構改革 に よ り初め て人事部が設け られ, さらに業務部に 4課を
設けて当行経営 の中枢部 とした。
店舗 の整備 も積極的 に行 なわれた. 当時 の店舗行政 は GHQの支配下 に
一九
あ り,原則 として支店 ・出張所 の新設 は認め られなか った。 しか し救国貯蓄運動
を推進す る見地 か ら預金吸収を 目的 とす る簡易店舗(
特別支店 ・特別 出張所)・出
張員詰所 な どの設置 については例外 とされていた。 このため当行では,戦災を受
けた店舗の整備 を進 め るかたわ ら,終戦後か ら23
年末 までのあいだに弘明寺 な ど
2支店 のほか上大岡 ・生麦 ・綱 島な ど1
2出張所 , 2出張員詰所を開設 した。 これ
ら出張所 の業務 は当初預金 の受払業務 に限定 されていたが,24年 9月に店舗行政
が GHQか ら大蔵省へ移管 された のに伴 い,簡易店舗 は漸次支店 に切替える方針
が とられ, 当行 の出張所 も24年 1
0月か ら25年 にかけてその大半が支店 に 昇 格 し
た。 こ うして創立30周年 を迎 えた25
年下期末には77本支 店 1出張所 とな り店舗網
の拡充 は戦後 の混乱期 に もかかわ らず大いに進展をみ る結果 とな った0
また戦時 中1
8-20
年 にかけて 1
,
2
0
0名台で横這 いが続いた行員数 も21
年 ごろか
ら徐 々に増加 し,24年 には 1
,500名を超えたO復員者な どを通えたため,男女比
当行の機輯
(
昭和22年 12月)
表
32
3
戦後の店舗の異動 (
昭和20年下期 -25年下期)
3
2
4
区
分
店
(
馨誓書 要塞婁)
文 書 部
(
庶務課 秘書課)
管 理 部
名
野毛町,弘 明 寺
上大岡,生 麦,
与 瀬,藤沢駅前,
湯 本,登 戸,
廃
止
配置転換
須 賀-湯 河 原
(
管理課 地所課)
支店昇格 l蓋 蓋滞
駅蓋
島沼生
支
検 査
業 務 部
店
綱鵠桐
都 部
人 事
表
長島町,大 口,
本 宿,真 鶴,
l計
第 1部 試練の時代
1
5
2
-
表
3
2
5
地
域
店舗 の状 況 (
昭和2
5年下期- 30
周年時)
】
店
名
l 計
本 店,元 町,野 毛 町,長島町,伊勢佐木町,弘明寺,上大岡,保土ヶ谷
磯 子,杉 田,金
沢,戸 塚,鶴
見,生 麦,豊 岡,六 角 橋
子 安,大 口,中央市場,戸 部,神 奈 川 中 山 妙蓮寺,綱
島
県
央 』 相模原,上 鳳 橋 本,中 野,半 原,厚 木,与 瀬
鎌 倉,長 谷,北鎌倉,逗 子,葉
田 酒,安 浦,浦 賀,三 崎
を 7
山,一 色,横須賀,若松町,追浜
藤 沢,藤沢駅前,片 瀬,鵠 沼,辻 堂,長 後,茅 ヶ崎,寒 川
平 塚,大
磯,二 宮,伊勢原,秦 野,本 宿
小田原,足 柄,国府韓,下曽我,松
強 羅, (
真 鶴)
川 崎,丸 子,溝
東 京,町
田,山 北,大雄山,湯本,湯河原
口,登 戸
軌 前 橋,高 崎,桐 生
計
l7
8(
I
)
注1 ( )は うち出張所
2 地域は行政区画に よる
率 は戦時中に比べて
従業員数の推移
表 3
2
6 (単位 :人)
期 末】
従業員数
度 また2
とな った。
1
年 2月, 当行
かな
にも
り好転 し, よ うや く男女半 々程
後
従業員組合が結成
された。戦
民主
GHQは 日本 の民主化政策の柱
のひ とつ として労働
の
成立 化を指示
した ことか
し,
ら,わが国の労働運
これを うけて労働組合法が20
年1
2月に
激変期 の
り, この時期 に 1万を超す組合が結成
動 は一挙
に活発 とな
された。
20年上期か
当行業容
ら24年下期 にかけて当行 の主要勘定は大 きな変化を 示
5.
2倍,貸出は11.
0倍,有価証券 は2.2
倍 の伸び とな った。 一
し,預 金 は
第 3章
3
2
7
表
月
末
主 要 勘 定 〔単位 :百万円,%)
預 金 r貸
出 …有価証券 r
f
B貸率
20年 9月
8月
表
32
8
預 金 r貸
地方銀行
24年 3月
69.8
(
単位 ‥倍)
i
i
i
i
i
i
i
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ii
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ii
i
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i
i
i
i
i
i
i
i
i
i
i
当
行
都市銀行
23年 3月
25年 3月
主要勘定の増加状況
出 匝 価証券
2 7 0
2 2 2
32・8
44.臣
1
53
(
昭和20年上期末 / 24年下期末)
2 4 ∩
)
5 7 7
21
年 3月
6行合 同 と戦後 の苦難 -
資料出所 「全国銀行財務諸表分析」
注 21
-22
年は再建整備のため変則決算
普通銀行の預金高順位
建整備 とい った金融 ・経済の混乱に よる繁 忙 も あ っ
て, 内部体制 の整備が遅れた ことに も原因があった。
2位か ら,2
4
その結果,普通銀行中の順位 も終戦後 の1
年下期末 には1
9位- と大 きく低下 し (
地方銀行中では
4位か ら 9位-低下)総預金 に占め るシ ェアも1.
53%
か ら1
.0
8%- と低下 した。
特筆すべ きは, 当行を含めた地方銀行の貸出の急増
であった。
戦時中,金融統制 の もとで有価証券主体 の運
用を余儀 な くされ ていた地方銀行は,統制 の消滅 によ
って主体性を回復す るとともに, インフレ下 の旺盛な
0
資金需要 もあ って一挙 に貸 出増 に向か った。当行 も2
年上期 の預貸率 32.
8%が24
年下期 には69.
8% とな り,
3%が78.
6% とな って貸 出 と有価
地方銀行全体 では25.
証券 の比率 は完全に逆転 した。 この間預金 のほ うも数
倍 の増加を示 してい ることを考え合わせ る と貸出の急
増
(
昭和 24年下期末)
表
3
2
9
行
(単位 ・億円)
名 l預金高