平成22年度行事予定(総会のご案内)

平成22年5月15日
九州大学経済学部同窓会報
第48号
第 号
九州大学経済学部同窓会
事務局 〒812−8581
福岡市東区箱崎 6−19−1
九州大学経済学部内
TEL&FAX092−642−2442
mail to:[email protected]–u.ac.jp
郵便振替 01750−6−21743
48
目 次
C o n t e n t s 平成22年度行事予定(総会のご案内)/1
同窓生健筆模様
研究院長より挨拶
川波 洋一(昭和51年卒)/ 2
「母への遺書 沖縄特攻 林市造」
事務局長より挨拶
久野 国夫(昭和52年博士入)/ 3
支部だより
多田 茂治(昭和29年旧制卒)/21
「自著
『JAPANESE CAPITALISM since1945
東京支部 事務局長 吉元 利行(昭和53年卒)/ 4
(M.E.SHARPE 1989刊)
』
を振り返って」
関西支部 事務局長 中野 光男(昭和50年卒)/ 4
福岡支部 事務局長 平井 彰(昭和55年卒)/ 5
人物往来〜退官
リレー随想
清山 卓郎(昭和31年卒・昭和33年博士入)/23
「お別れのことば」
「老残漫筆」
本田 精一(昭和25年卒)/ 6
「第二分校の思い出」
大田 孝生(昭和31年卒)/8
「退官のあいさつ」
/24
堀江 康煕(経済学研究院教授)
「もうすぐ70回 九大どげん会」 高田 弘志(昭和40年卒)/ 9
「自己を捨てて邁進する」
甲斐 敏洋(昭和41年卒)/11
同窓会奨学生より
「たいがいたいがい」
清田 康之(昭和52年卒)/13
「私の留学生生活の感想」
張 路平/26
「時がたつのは早いもの」
小林 修(昭和53年卒)/14
「私の留学生生活の感想」
李 継鵬/27
/25
片山 直也(経済学研究院准教授)
「丑山ゼミの思い出」
同窓会会則/28
同窓会役員名簿・歴代会長/30
池上 恭子(昭和56年卒・平成2年博士入)/15
「私は、経済工学科1期生」
米村 健史(昭和56年卒)/17
同窓会費納入のお願い/32
「社会人1年目を終えて」
伊藤 健司(平成19年卒・平成21年修士修了)/19
平成22年度行事予定(総会のご案内)
平成22年度の全国・各支部総会を下記の通り開催いたします。皆様、お誘い合わせの上、多数ご参集下さ
いますようご案内いたします。
平成22年度全国・福岡支部合同総会
平成22年度広島地区九大法・経同窓会総会
日時 平成22年6月4日(金)18時〜
場所 博多都ホテル
(福岡市博多区博多駅東2−1−1
TEL(092)441−3111)
<お問い合せ先> 福岡支部事務局 平井 彰
㈳九州経済連合会内 TEL 092-761-4261
E-mail [email protected]
日時 平成22年11月開催予定
場所 未定
平成22年度東京支部総会
日時 平成22年7月7日(水)18時〜 20時50分
場所 学士会館 210号室
(東京都千代田区神田錦町3−28
TEL(03)3292−5936)
<お問い合せ先> 東京支部事務局 吉元 利行
株式会社オリエント総合研究所
TEL 03−5877−5590(ダイヤルイン)
FAX 03−5877−5859
E-mail [email protected](会社)
E-mail [email protected](自宅)
平成23年度関西支部総会
日時 平成23年2月19日(土)15時〜
場所 大阪弥生会館
(大阪市北区芝田2−4−53
TEL(06)6373−1841)
<お問い合せ先> 関西支部事務局 中野 光男
富士精版印刷株式会社管理本部 気付
TEL (06)6394−1182
E-mail [email protected]
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第1期中期目標・中期計画期間を
終えるにあたって
経済学研究院長
入しており、この視点から、各部局が部局長の就任
川波 洋一
と任期終了時に、大学本部においてヒアリングを受
けることとなっています。経済学研究院等では、こ
のヒアリングを通じて、教育、研究、社会貢献、国
際交流の各項目における目標・計画の達成状況を報
九州大学経済学研究
告してまいりました。
院・経済学府・経済学部
この6年間を振り返ってみますと、荻野前研究院
(以下経済学研究院等と
長の主導のもと、最初の3年間は学部・学府の教育
いう)は、第1期中期目
改革とそれにもとづく実践に力を入れてきた期間で
標・中期計画期間に該当
ありました。私が研究院長を務めました後半の3年
する平成16 ~ 21年の6年間において、教育(学部・
間は、改革にもとづく実績の向上と、一つ取り残し
学府)
、研究、国際交流、社会貢献の各項目において、
ていた国際化の推進に力を入れた期間でした。学部
中期目標を立て、それぞれの項目の達成と質の向上
教育においては、カリキュラムの改革にもとづき、
の観点から、計画を実行してまいりました。本年度
基本科目の設置と全学年にわたるゼミの配置を行う
は、第1期の最終年度にあたり、6年間の総括と新
ほか、きめ細かな修学指導やFD活動によって力の
たに第2期に向けての中期目標・中期計画の策定を
こもった指導を行っております。また大学院におい
行う必要があります。
ては、学部・学府一貫教育プログラムの導入、指
私たちは、教員の組織である研究院、教育課程で
定校推薦制、共同教育プログラム(ダブルディグ
ある学府(大学院修士課程、博士後期課程、専門職
リー・プログラム)、社会人学生の受け入れの強化
学位課程)ならびに学部(学士課程)のそれぞれに
等入試制度を多様化、博士学位審査制度の改革、内
おいて、独自の目標と計画を立て、相互に連携協力
外にわたる広報活動の強化、南信子教育研究基金の
するとともに、それぞれの特色を出しながら、年度
活用、教育の質向上プログラム(EEP)の実行、国
ごとに落とし込んだ計画の実行に取り組んできたと
際化拠点事業への参画等の取組を行ってまいりまし
ころです。平成19年度に九州大学が大学評価学位授
た。大学院においては、学生の定員充足率を着実に
与機構のもとで機関別認証評価を受審したことにと
高めてまいりましたが、引き続き一定の充足率を維
もない、同評価を受審いたしました。続いて、平成
持するとともに、学部・学府一貫教育プログラムの
20年度には、同じく大学評価学位授与機構のもとで、
充実、日本人学生・留学生・社会人の適切なバラン
中期目標期間に係る業務実績評価を受審いたしまし
スの維持、学位授与率の向上、博士学位取得者のポ
した。この評価は、教育並びに研究の両面にわたる
スト確保、等々、多くの課題に取り組んでいかなけ
中期目標期間の5年目において、4年間の業務実績
ればなりません。
を評価するものであり、この目的のために教育の現
研究については、基本的に、各教員がそれぞれの
況調査表(学部、学府、QBS)並びに研究の現況調
積極的な取り組みのなかで主体性を発揮して高度で
査表を作成いたしました。さらに、各年度計画では、
先端的な研究を推進していくことが必要です。これ
年度終了後に実績報告として成果の達成・未達成を
まで、私たちは教育に力を入れると同時に、研究に
確認し、自己点検・評価を行ってまいりました。
も力を入れてまいりましたが、なおいっそう経済学
このほか、九州大学は、計画の策定とその実行、
研究院のピークとなりうるような個性的な研究成果
そして成果の検証と評価を通じて組織の在り方を見
をあげる必要があると考えております。
直す「5年目評価、10年以内組織見直し」制度を導
私たちは、今期の終了にあたり、これらの総括と
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課題の認識を踏まえ、第2期中期目標・中期計画案
限り平仄を合わせながら、高度な教育・研究機関と
をほぼ策定いたしました。そのなかで浮かび上がっ
しての中期目標・中期計画を策定していくこととし
てきた、大学院博士課程の充実、学士課程教育の実
ております。同窓生の皆様には、私たちの教育研究
質化、研究のピーク創出、国際化のさらなる推進等
活動を温かく見守りくださり、今後ともご指導ご鞭
の諸課題に重きを置き、併せて全学の方針と可能な
撻をよろしくお願い申し上げます。
平成22
(2010)年度入学式 新入生327名
平成21
(2009)年度卒業式 卒業生317名
同窓会事務局長
以下が平成21年度の授与者です。
久野 国夫
卒業論文・修士論文
(1) 経済・経営学科 天野 瑠璃子
納富 健一朗
経済工学科 是永 麻希
平成22年4月7日、福
岡国際センターで平成22
(2010)年度入学式、終
(2) 経済工学専攻 藤本 拓伸
経済システム専攻 ダラ プスピアルディニ
上村 恵美
了後箱崎キャンパスで経
産業マネジメント専攻 井上 透
済学部オリエンテーショ
清原 茂森
ンが開催されました。なおビジネススクールの入学
成績優秀者
式は、それに先立って4月3日に箱崎キャンパスの
(1) 経済・経営学科 天野 瑠璃子
国際ホールで開催されました。入学者総数は327名
納富 健一朗
で、内訳は経済学部経済・経営学科が158名、経済
(2) 経済工学科 是永 麻希
工学科90名、大学院経済学府修士学生が経済工学お
(3) ビジネススクール 井上 透
よび経済システム専攻33名、産業マネジメント専
清原 茂森 攻(九大ビジネススクール、略称QBS)が46名です。 リーマンショックによる不況のせいか、今年は就
経済学部オリエンテーションでは、貫正義福岡支部
職活動が少し早まっている感があります。大学院は
長および平井彰事務局長にお越しいただき、同窓会
近年では中国人留学生が多数となっております。留
への入会案内を行っていただきました。
学生の修了後の進路は十分把握できていませんが、
3月25日には福岡リーセントホテルで東京・関西・
いずれは同窓会の中国支部が必要になるかもしれま
福岡の各支部役員や名誉教授の参加のもと、経済学
せん。ビジネススクールは今年で第6期の修了者を
部卒業生・経済学府修了生の卒業祝賀会が開催され
出すことになり修了者は200名を超えることになり
ました。経済学部卒業生は229名で、うち経済・経
ます。ビジネススクールはQANという独自の同窓
営学科146名、経済工学科83名です。経済学府修士
会活動を活発に行っております。経済学部同窓会と
課程修了生は88名で、うち経済工学専攻18名、経済
QANとの連携活動も検討する必要があります。
システム専攻26名、産業マネジメント専攻44名です。 私は今年度は研究休暇に入りますが、同窓会の活
祝賀会では若手研究者への研究支援、学業優秀な学
動は例年通り参加いたします。なお同窓会事務局員
生への顕彰として贈られる「南信子」教育研究基金
は岡林氏が出産により退職され、本年4月より藤原
による「南信子」賞の授与も、川波洋一研究院長に
由美子氏に事務局員として働いていただくことにな
より行われました。
りましたのでご報告いたします。
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支 部 だ より
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経済学部卒業生の参加者48名 (全体260名)
⑥関西支部総会(2月6日)
阪急ターミナルスクエア17
杉副支部長、吉元事務局長が出席。
⑦第5回「北大・九大合同フロンティアセミナー」
東 京 支 部 東京ステーションコンファレンス
経済学部卒業生13名参加
1、理事会の活動状況
東京支部の活動状況は、http://homepage1.nifty.
平成22年2月8日午後7時から8時30分まで学士
com/dousou/ のトップページwhat’s newやその
会館310号室で本年度第1回目の理事会を池田支
下の東京支部通信(ブログ)http://dousou.cocolog-
部長ほか13名の理事の参加にて開催しました。議事
nifty.com/からも見ることができます。今年も、7
内容としては、報告事項として昨年7月総会以降の
月7日午後6時から学士会館にて、総会を開催しま
支部活動状況を報告し、審議事項として7月総会に
す。懇親会は、7時15分頃からになりますので、同
ついて以下の通り協議を実施した。
窓会報に同封しております申込用紙に氏名等をご記
入のうえ、事務局宛にファクシミリでお送りくださ
【決定事項】
い。
①本年度総会&懇親会は、7月7日午後6時から学
士会館にて開催する。
【東京支部事務局長 吉元 利行 1978(昭和53)年卒】
②会費は、一律5000円を維持する。
関 西 支 部 ③記念講演は、箱島信一元朝日新聞社長にお願いす
る。
④懇親会のテーブル配置は、出身地域別を考慮した
今回で35回目を数える経済学部同窓会関西支部総
配置にし、世代間の交流が促進できるように配慮
会が平成22年2月6日(土)午後3時より、阪急梅
した組み合わせを行なう。
田駅に隣接する阪急ターミナルスクエア・17で開催
⑤開催案内など工夫をして多数の参加者を募る。
された。開会に先立ち、昭和51年に発足した関西支
なお、次回理事会は、総会関係議題確定のため6
部の立ち上げからご尽力された故鶴喜久氏(昭和32
月はじめに開催する。
年卒、関西支部元副支部長・監事、平成21年8月ご
逝去)および故渡邉彦士氏(昭和25年卒、元同窓会
2、その他の活動内容
長、平成21年9月ご逝去)のご冥福をお祈りし黙祷
①九大東京同窓会 ビアパーティ(8月21日)
を捧げた。
学士会館
第1部の総会は関西支部長石橋英治氏(昭和36年
経済学部卒業生の参加61名(全体約320名)
卒)の挨拶で始まり、今回の講演をお願いした箱島
②若手理事会 (10月7日)
信一氏(昭和37年卒)は大学同期入学で学生時代は
事務局を中心に理事6名で開催。課題について検
新聞部に所属していたことなど、講師紹介も兼ねた
討。
内容で、出席者へのお礼を述べた。次に、事務局か
③九大法学部東京同窓会(11月19日) 学士会館
ら前年度行事報告と新年度行事計画の説明があり、
渕上顧問、森監事、鍛冶理事、吉元事務局長にて
また会計報告が園田一蔵氏(昭和49年卒)からあり、
出席
④第5回「北海道大学・九州大学 合同活動報告会」
12月10日 都市センターホテル
特に異議なく承認された。併せて、新年度の支部役
員も承認された。なお、大学の近況報告を落合理事
から、また同窓会報告を福留名誉教授からいただい
経済学部卒業生の参加十数名
た。
⑤九大東京同窓会 賀詞交歓会(1月22日) 第2部の講演会は、箱島信一氏(朝日新聞社特別
学士会館
顧問・前社長)から、「記者席から見た日本経済の
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半世紀」と題して、大学卒業後朝日新聞社に入社し
1月例会(1月22日、新年会、九経連会議室、
「九
て、昭和43年に経済記者になり、自分の目で見てき
州大学並びに九州大学大学院経済学研究院の現状に
た半世紀にわたる経済事件や経済事象を、エピソー
ついて」川波洋一院長)
ドも交えてわかりやすくご講話いただいた。(講演
2月例会(2月19日、九経連会議室、「九州の若
内容は、次号同窓会報に掲載予定です。)
者をグローバルに通用する人材に~地域の再生と日
第3部の懇親会は、名古屋から参加した棚倉理事
本の大学教育のチャレンジ」久原正治教授)
の開会挨拶の後、講師の箱島先輩の乾杯で宴が始ま
り、出席のご来賓(深町・児玉・逢坂・福留各名誉
2.第47回交流ゴルフ会
教授、大学から落合理事ほか、福岡支部から貫支部
12月12日(土)、筑紫丘ゴルフクラブにて、4組
長ほか、東京支部から杉副支部長ほか、法学部関西
16名参加。貫新支部長杯をかけて熱いコンペが展開
支部から徳永副支部長ほか)や福岡から参加した檀
されました。
前支部長らとともに、同窓生が旧交を温める場とし
なお、第48回交流ゴルフ会は筑紫丘ゴルフクラブ
て大いに盛り上がり、宴進む中、佐野前副支部長指
にて、6月5日8時17分から5組予約済。また、第
揮で学生歌を斉唱、最後は松浦元支部長の中締めで、
49回交流ゴルフ会は10月頃、湯布院カントリークラ
和やかな内にも名残惜しむ中、次の再会を約し閉会
ブにて開催予定ですが、ゴルフをされない方にも楽
しました。なお、恋塚先輩からエースコックの自社
しんでいただける企画を考えています。改めてご案
製品をお土産としてご寄贈いただき、また故渡邉先
内しますが、皆様方のご参加をよろしくお願いいた
輩のご子息から「太鼓」を同窓会にご寄贈いただき
します。
ましたこと、この紙面をお借りして厚くお礼申し上
げます。
関西支部では、年間行事として、2月の総会のほ
か、3月および9月のゴルフ会、7月の見学会、11
月の勉強会などが予定されている。参加希望者は事
務局までご一報いただきたい。
【関西支部事務局長 中野 光男 1975(昭和50)年卒】
福 岡 支 部 ○平成22年度行事予定(総会のご案内)
全国・福岡支部合同総会
日時 平成22年6月4日(金)18時~
場所 博多都ホテル
3.支部評議員会
(福岡市博多区博多駅東2-1-1
4月7日、貫支部長をはじめ15名の支部評議員が
TEL(092)441-3111)
出席。平成21年度の支部活動を振り返り、6月4日
<お問い合せ先> 福岡支部事務局 平井 彰
の平成22年度全国・福岡支部合同総会議案書につい
(社)九州経済連合会内 TEL(092)761-4261
て審議しました。サロン会の活性化(卓話講師人選
E-mail [email protected]
を含め、そのあり方等)や新しい支部活動の企画等
について意見交換を行いました。
○支部だより
福岡支部
4.支部長交代を巡って
1.サロン会
平成21年6月5日の支部総会で進谷庸助氏(進谷
平成21年度下期では、恒例の忘年会や研究院長卓
公認会計士税理士事務所所長、昭和35年卒)から貫
話による新年会等を開催いたしました。各月のテー
正義氏(九州電力㈱副社長、昭和43年卒)へ、支部
マ等以下の通りです。
長の交代が行われたことは、同窓会報第47号に既報
12月例会(12月11日、忘年会、酒房「やす」)
の通りです。貫支部長は、福岡支部総会に続き、全
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国・東京支部合同総会、関西支部総会で挨拶に立た
ので、九大OBとしても今後はしっかり頑張りたい
れました。ご挨拶の中で、九州大学百周年記念事業
と決意表明をなさいました。
推進会会長として、鎌田迪貞氏、松尾新吾氏と二代
続いて、京大OB、東大OBに頑張って頂いている
リレー随想
【福岡支部事務局長 平井 彰 1980(昭和55)年卒】
籍)となり、隊付勤務三ヶ月を終了し、原隊から東
京の経理学校本科に派遣された。本科教育は約一年、
昭和十九年四月卒業した。当時原隊は朝鮮から出動
してニューギニヤ戦線で戦闘中であり、当然そこに
赴任するつもりでいた。しかし、教官からお前のよ
うな成績劣等生を乗せる飛行機・船はない。中支長
老残漫筆
江流域の第百十六師団歩兵第一〇九聯隊に配属する。
師団司令部は安徽省安慶にある。聯隊の所在は師団
で聞いて赴任しろと引導を渡された。原隊はニュー
本田 精一氏
ギニヤで全滅し、赴任すれば間違いなく密林で悲惨
1950(昭和25)年卒
な最期を遂げていた処であった。
ところが、赴任する部隊は長江流域の警備部隊で
呑気な駐留生活だと聞いていたがこれが全くの大違
「口は禍のもと」。昨年十二
い。太平洋戦争で制空・制海権を喪失し敗戦の苦境
月十一日夜の懇親会で一杯機
に立つ日本は打開策として中国大陸でアメリカ空軍
嫌で『007は二度死ぬ』が、 の飛行機地群を破壊し、本土空襲を防ぎ、南方との
小生は人生三回変えたと駄弁を弄し、
『同窓会報』
海上交通を南方占領地-中国大陸-満州-朝鮮半島
に寄稿を余儀なくする破目になった。
-日本本土のルートに替える所謂「大陸打通作戦」
英国秘密諜報員ジェイムス・ボンドの信条は、「生
を敢行した。聯隊は昭和十八年以来は作戦部隊とな
死が何回かは問題でない。生きている時間を無駄に
り連続作戦し現在は湖南省の敵陣突破の第一線部隊
せずフルに使うことである」である。小生、この考
であり、五月二十七日に作戦開始するとのことで
えに大賛成している。
あった。大急ぎで追求し漸く二十七日当日に聯隊本
閑話休題。
部に着任すると直ぐに大隊付となった。敵陣と僅か
格別ご披露するようなものはないが、ご注文に応
百メートルで対峙中で夜間陣地攻撃の命令を下達し
じて物心ついて以後を極く大まかに要約する。第一
ている大隊長に着任の申告をした処声が大きいと怒
は職業軍人の端くれ時代。第二は九大経済学部時代。 られた。夜間攻撃で地雷原を突破するが、重火器を
第三は日産火災海上(株)勤務時代。第四は歴史研
積んだ馬が地雷を踏んで馭兵諸共爆死する。工兵が
究勉学時代。
第五は現在の至福の日々、
「泰平の逸民」
地雷探査器を持って先行するが精度が悪く当てにな
である雑文作家生活である。
らない。仕方なく水田の畦道を前進するが、水牛の
糞まで地雷にみえ一晩で全く疲労困憊した。それが
(1)職業軍人時代
緒戦の苦労であり、以後中支湖北・湖南を転戦する
中国との戦争は泥沼化していたが、太平洋戦争は
こと約二年経過すると、飛来する銃弾・砲弾が危な
未だ始まってない昭和十六年四月、県立中学校修猷
いかどうか見分けがつく、つまり弾道が分かるよう
館から陸軍経理学校に進学し三年間の教育を受け卒
になった。
業し現役職業軍人の端くれになった。軍の学校は成
昭和二十年四月上旬開始されたB29基地攻略作戦
績による序列が厳しい。一年半の予科教育を終了し、 は、標高二千五百メートルの雪峰山脈越えの侵攻作
士官候補生勤務は故郷福岡の歩兵聯隊を希望したが、 戦であったが、制空権はなく、装備はアメリカ式に
同期生百三十名中の百十番の劣等生で朝鮮京城竜山
近代化し兵力は数倍の中国軍に包囲され、全滅する
の歩兵第七十八聯隊に配属された。そこが原隊(本
状態に陥った。聯隊の人員二千数百名が戦力僅か
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九州大学経済学部同窓会報
第48号
四百弱になり、山中の負傷者を担架で運ぶ兵員も死
イトを兼ねて博多港の石炭荷揚げの「万棒・載取り」
傷続出し、脚部を骨折負傷し動けず担架に横たわる
と称する上屋の前での帳簿付けをした。気性は荒い
負傷者は手榴弾で自決する悲惨な状況であった。今
が男気のある荷揚げ人足とうまがあい楽しい仕事で
まで幸運にも負傷しなかった小生も遂に負傷し出血
あった。給料も良く汽船のバンカー炭を焚いて部屋
した。今日生きているのは場所が平野への出口であ
を暖め、潜水夫を潜らせ採った栄螺・鮑をストーブ
り、軍医・衛生兵の献身的活躍のお陰であった。昭
焼き、濁酒(マッカリ)を飲む呑気な生活をおくっ
和六十年二月、日本経済新聞から「交遊抄」の寄稿
た。二十五年四月経済学部を辛うじて優なしの劣等
を依頼された際『鬼手仏心』と題して一文を掲載した。
な成績で卒業した。
二ヶ月懸かって五百キロメートル後方の武漢に後
送され兵站病院で療養中八月日本は敗戦無条件降伏
(3)日産火災海上勤務時代
をし、更に後送され上海を経由し二十一年二月初旬
就職はドッジライン直後の不況で就職難。成績は
病院船で博多港に上陸した。現在の国立がんセン
悪く左手しか利かないハンディがある。損害保険は
ターになった陸軍病院に入院した。そこで約二年治
何だか分からないが、掲示板にあった日産火災の入
療(手術三回)し、その間英語を復習(陸軍の語学
社試験を受けた。学科試験が終り面接となったが最
はロシヤ語)し、これからは経済の時代と考え九州
終に廻され呼び出してくれない。入社後しばらくし
大学法文学部経済科を受験した。軍学校卒業者は人
て聞いたことだが、試験の責任者である人事部長と
数制限があり、左手の指三本で答案を書けるように
九州支店長の間で身体が不自由では面接するまでも
なるのは苦労したが運よく入学できた。
なく無理との意見と学科試験は悪くないから(たま
たま承知していた賃銀問題が出た)面接してからと
(2)九州大学経済学科時代
意見が分かれ時間がかかったという。そんな事とは
法文学部はよい制度であったと思う。ゼミは別と
知らず控室で空腹を我慢して待っていたが、突然学
して講義は自由に聴け視野を広げるのに都合がよ
生さんお腹が空いたでしょうと女子社員が温かい銀
かった。もっとも東洋史の日野開三郎の講義は人数
メシと芋の煮付けを出してくれた。当時の食料事情
が少なく、場違いの学生と見破られ出て行けと追い
下社員同志で炊事した昼食を分けてくれたらしい。
出された。本来勉強する経済学はマルクス経済学全
社長になってから話が古くて今の若い人には理解
盛時代であり、それがどうも性にあわなかった。唯
されないとの意見があったが、新入社員の入社式で
一高橋正雄教授は屁理屈ぬきで八幡製鉄・三池炭鉱
の挨拶は、入社の動機は銀メシと芋の煮付け、我が
の現場見学等で具体的に納得ゆくまで指導された。
社のスローガンは親切第一であると話すことにして
心から尊敬し師事し後年大阪時代、先生の東北学院
いた。入社後は企画室を振りだしに本社では業務系
時代も機会をえてご指導をうけた。
統、支店は希望して九州支店勤務で夢中で働いた。
研究テーマは労働問題として前近代的な港湾荷役
十四年後取締役、十八年後常務、三十年後五十七歳
を選んだ。何事も実践主義であり学費稼ぎのアルバ
で社長に就任した。会長はなくCEOの社長として
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九州大学経済学部同窓会報
第48号
四期八年全力投球した。昭和六十三年、昭和は終わ
リ レ ー 随 想 り年齢も六十五歳。今後は別な人生として歴史を研
究しようと考えた。
第二分校の思い出
(4)九州大学文学部時代
敗戦当時軍学校に在学中でその後大学に入学した
大田 孝生氏
人達は各方面で成功し、著名な人物が多かった。先
輩である特権で彼らのお陰で東京大学東洋文化研究
1956(昭和31)年卒
所長である宋代経済史の権威斯波義信教授(文化勲
章受章)の指導を受ける事ができることになり、宋
代経済史を専攻することになった。大汗をかいて
宗教史と論理学
勉学し、貨幣史・教育史を主として論文を書いた
私が入学したのは昭和27年、
が、学問の世界は厳しく無国籍者の論文は問題にさ
筑後川沿いの久留米市小森野
れない。そこで国籍取得のため九州大学文学部東
にあった第2分校で、写真の通りの木造校舎、これ
洋史科に学士入学した。自分の歩んだ道を振り返
が旧帝大かと目を疑ったものである。まず、科目の
り、教育問題特に庶民教育に関心があり、一九九三
選択のことが思い出される。「宗教学」と「論理学」
年に五代・宋初の日用辞書の研究として『兎園策』
を採ったことである。宗教学については最後までア
攷、一九九四年には『宋元明代における児童算数教
ニミズムとかトーテミズムとかの原始宗教のことば
育』
、一九九六年「『東京夢華録』の都市銭陌につい
かりで、私の知りたかったキリスト教や仏教、イス
て」東方学第九二輯、と相次いで発表した。東方学
ラム教には一切触れられず大空振りに終わってし
の論文は賛否両論反響が大きかったが、東洋史学の
まった。
権威ある文献である東方学に掲載されたことは研究
一方、論理学の方は逆であった。開講一番、「英
成果として満足した。平成十五年伊原弘編「『清明
雄色を好む、我輩も色を好む、故に我輩は英雄であ
上河図』をよむ」に寄稿を依頼された「『清明上河図』
る。」この論理の間違いを微積分を解くように解き
中のひとびとの識字と計算能力」は月刊『文芸春秋』
明かされたのには、正直驚いた。それに演繹論、帰
二〇〇四年三月号の鼎談書評(福田和也、松原降一
納論の解説、アリストテレスから始まり、ベーコン、
郎、鹿島茂)に「経済史専門家の本田精一氏の論考
カント、ヘーゲル、マルクスなど史上の有名人が続々
を読むと、
当時すでに信用貸し、クレジットが始まっ
登場し、さすが大学だなと思ったものである。
ていたという。そのシステムにどっぷり浸かって生
きる我々にも、興味深いところです。
」と経済史専
門家にまつりあげられ冷汗が出た。
(5)
「泰平の逸民」雑文作家生活
生来、物事一筋とは無縁の生き方である。平成九
年に文学部を退学し、以後専ら世の中の役に立たな
い肩の凝らない雑文の執筆を楽しんでいる。例えば
『日本最初のチャイナタウン』
、
「前近代技術の宣伝
解説書:中国
『天工開物』と欧州『西洋事物起源』」、
『南
宋時代の南海貿易犯科帳』、
『宋・元・明「好色犯科帳:
美人局」
』
、北宋滅亡『徽宗と履師』、襄陽攻防記『李
久留米第二分校 後方が寮
玉蓮・呉三の災難』等々である。
さて、長談義は迷惑千万。同窓会報の紙面を汚し
大水害
心からお詫びを申し上げ終わります。
入学した翌年(昭和28年)6月、大洪水で筑後川
(日産火災海上・元社長、九大経済学部同窓会顧問・
元福岡支部長)
が決壊、川の南側堤防近くにあった私の下宿先は2
階の天井まで水につかるという災害に会った。決壊
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時、堤防まで泳いでたどり着き、夕方やっと救助船
うのがあった。
の救出を受けたが、このとき寮生が1人亡くなって
また「山羊事
いる。幸い筑後川北側の2分校は大きな被害はまぬ
件」が発生した
かれたが、2分校に通じた小森野橋が流され、以後
のもこの頃のこ
2分校の先生、通学生は渡し舟で通学することに
とである。私の
なった。水害で身の回り品をすべて失った私は以後
友 人 N 君( 故
小森野の寮に入ることになったが、寮から久留米の
人)が筑後川の
町に出るときはこの渡し舟に乗って行き来したもの
土手を散歩して
である。その2年後、経済学部卒業の直前に「小森
いたら、コード
野会」という2分校同窓会ができ、会報「わたし舟」
が落ちていたの
を発行、
7号まで続いている。「小森野会」はその後、
で、拾って寮に
昭和36年に東京勤務者が中心になって分校にこだわ
帰ったらその先
らない「筥崎会」に改められ、現在に至っている。
に山羊が付いて
第48号
いたというのが
昭和29年1月発行寮誌表紙
コトの始まりで、
食糧難のこの時代、元気のよい寮生が締めて肉鍋に
して十数人で食べてしまったとう事件であるが、こ
の話が教授会で問題にされ、結局隠し切れず、「山
羊を食った連中」十数人が連署して自白、平謝りし
た。この山羊は大学の動物実験用の山羊で「以後注
意せよ」で幕が引かれるという珍妙な事件であった。
囲碁を無理やり覚えさせられたのも寮だった。こ
れは私の一生の財産になり、いまでも地域の大会に
出るなど楽しみと交友の広がりに大いに役立ってい
昭和28年夏 筑後川大水害 第二分校から数百メートル上流
西鉄「宮の陣」駅近く
る。
今年春、初めて伊都の新キャンパスを見学する機
会を得たが、かつての2分校との違いにただただ驚
くばかりでした。
寮生活
(元・夕刊フクニチ新聞記者、東芝ツーリスト常務、
寮委員になると食費が一部免除されるというので、
現・NPO法人 留学生と語り合う会(RKK)理事長、
早速、寮委員(文化担当)に立候補、ルールに則っ
筥崎会会長)
て食堂での立会演説や個別訪問をやり、僅差でめで
たく当選、寮委員になった。公約である月1回のレ
コードコンサートと寮誌の創刊号発行に取組むこと
リ レ ー 随 想 になった。コンサートは寮のリヤカーで市内のレ
コード店からプレイヤーとレコードを借りるのであ
る。楽しみのない時代だったせいか、思いのほか人
気があった。
また、寮誌の方は原稿集めに苦労したが、2分校
もうすぐ70回
─九大どげん会
(S.40年経済学部卒)
─
を去る直前に創刊号が出来上がった。もちろんガリ
版である。その後、2分校が消滅したので残念なが
高田 弘志氏
ら創刊号で絶版になってしまった。
1965(昭和40)年卒
あのころはまだ旧制高校出身者もいて、まずファ
イヤーストームの蛮勇ぶりには度肝を抜かれたが、
まだある。警官に捕まったところでヤめるという条
1.同期会発足の端緒
件付とはいえ、フンドシひとつで街を練り歩くとい
平成5年10月14日に西鉄グ
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ランドホテルで開催された九州大学経済学部福岡支
数える時には上記の諸君に対し更に青木君、松永君
部同窓会に出席したS.40年卒の3人(帆足、松井、
も加わり、総勢20人のメンバーとなった。
高田)の出合いが同期会発足の端緒となりました。
同窓会が終った後でこの同期の輩3人で二次会ヘ
4.同期会の草創期以降~現状
繰り出し、大いに盛り上がり、今後定期的に集まろ
草創期より各メンバーに同期者の発掘の協力をお
うとの結論となり、翌日から早速動き始めた。
願いしたが、中には今さら同窓会に出るつもりはな
いと拒否された輩も数名おりました。しかしながら、
2.同期会開催の意義と目的
各会員が一致協力して会員拡大を図った結果、発足
今までは殆どが社内付き合いの飲み会であった殻
1年後と比べると約2倍の会員数となりました。
を脱皮して、
(1)同じ釜の飯を喰った仲間の懇親を
福岡より関東地区等ヘ転勤してそのままその地区
深めること(いわば異業種懇談会)。(2)福岡地区
に定住した者も会員としての退会の申し出がない限
への転勤者、退職後に地元ヘ定住する者、福岡地区
り登録しており、例会開催時に当番幹事より案内を
への出張者の歓迎の飲み会としての受皿。(3)出向
出し続けており、野田君や籾井君等が出席したこと
で営業関連職に就く者も出るだろうし、その時のた
がある。
めの更なる人脈の拡大、等を目的として参加者の拡
年初(2月)の例会開催時にその年の開催日(5
大を目指すこととした。
月、8月及び11月の原則として第3金曜日)を決定
し、欠席者へも事務局から連絡している。
3.同期会の草創期
(1)第2回目として翌平成6年2月22日に今村
5.『九大どげん会』名称の決定
君、馬田君の2人を加え、櫛田神社近くの 「たぬき
この同期会に名称を付けようと田中(健)君より
の里」 で開催した。(2)第3回目には有木君、金子
提案があり、博多弁をもじって当初は『どげんしょ
君、白川君、田中(健)君、田中(正)君、浜地君
んしゃっと会』としたが、長くて言い難いため、短
等へ案内を出したところ、田中(健)君より田中
く且つ呼び易く『九大どげん会』に決定して平成6
(智)君及び野田君の紹介があり、この2人にも追加
年11月の忘年会を兼ねた例会から採り入れた。
で案内を出し、再び 「たぬきの里」 にて4月20日に
開催した。
(3)第4回目は7月22日に開催すること
6.会長・当番幹事・事務局の設定
として、上記の他に稲石君、井上(宣)君、大瀬君、
(1)会員番号(あいうえお順)「1番」 の青木君を
河野(康)君、後藤君にも案内を出し、「玄海なべ」
会長に推薦した結果、快諾してくれた。(2)発足か
にて開催した。(4)平成6年11月18日に第5回目を
らほぼ1年で総勢20人となり、まだまだ会員数も増
えることが予想され、同一人が幹事役では物理的に
も、精神的にも負担が大き過ぎるため、また開催場
所も固定化する可能性があることを考慮し、名簿順
に幹事をやって貰う 「当番幹事」 制を敷くことで全
員の賛同を得た。(3)この会の発足時から関わっ
てきた高田に事務局(=永久幹事)役の要請があり、
快く引き受けた。
7.会員名簿の追加・修正
(1)同期会発足時は会員数が少なかったこともあ
り、まだまだパソコン・ワープロも使いこなせる時
代ではなくて 「手書き」 の名簿であった。(2)それ
第68回九大どげん会
平成21年11月20日(金) 18:00〜20:00
吉塚うなぎ屋本店
後列左より:稲石、浜地、井上(門)、福永、山本(駿)、椛島、
後藤、檀の各氏
前列左より:籾井、松永、高田、青木、帆足、佐竹の各氏
でも平成6年11月の忘年会時には20人分の名簿を
ワープロで作成した。(3)携帯電話やパソコンが当
たり前になってきた今では、会員ヘの連絡は旧来の
固定電話やFAXよりも、メールが主体となってき
た。メールアドレスと携帯電話も必須の項目とな
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り、名簿の記載項目も増やしていった。(4)例会出
第二種重要港湾に
席者には毎回会員名簿を手渡ししているが、出席者
選定されなかった。
名には青色(寒色=5月と8月)若しくは薄茶色(暖
明治41年に博多港
第48号
色=2月と11月)でマーキングして判りやすくした。 初めての港湾施設
(5)会員名簿の項目に変更があった場合は、変更項
の博多船溜が完成
目を黄色でマーキングするようにして一目で解るよ
したが、水深2~
うにした。
(6)欠席者の近況報告も一覧表にして配
3mしかなく、こ
布する名簿に綴じ込むことにした。
の施設を視察に訪
れた伊藤博文枢密
8.例会時の会費
院議長が「タライ
飲み放題でも原則として『5,000円/人』で収ま
のようにかわいら
るように当番幹事に場所の設定を依頼しており、同
しいのう」と苦笑
期会の発足時より継続中である。
したという。
こうした中、明
9.九大どげん会の継続
治41年、福岡市の
平成21年11月で第68回を数えた『九大どげん会』
政官民挙げて博多
というこの同期会(4回/年)の火を燃やし続けて
港の国港化を国に
いくことに意義があり、これを支えてくれる強力な
請願したがかなわ
メンバーの楽しみであると確信しています。
ず、明治43年、地
元有志が国家主義
九大どげん会 事務局 高田弘志
的な政治団体玄洋
社の志を継ぐ杉山
リ レ ー 随 想 自己を捨てて邁進する
─明治人の気概への思い─
茂丸を東京に訪ね、
久米秀俊氏の論稿の冒頭より
築港完成を要請し、
大正元年12月に県知事に築港の願書を提出した。し
かし「事業の性格上、県市などの公共団体が実施す
べきこと」、「計画が広大で多額な工事予算の出資方
法が明確でないこと」、「門司港に影響を与える恐れ
があること」の理由で大正3年不許可となり、杉山
(社)福岡貿易会専務理事
は当時海運業で一大財をなした中村精七郎ら市井の
甲斐 敏洋氏
有志に投資を呼びかけた。中村精七郎は「好し私が
1966(昭和41)年卒
投資した物で夫れが完成せぬとしても、夫れが平気
であって、必ず 後人の此業を紹ぐの基礎とはなる
に相違ない」(大正4年中村精七郎談)として私財
昨年12月11日の忘年サロン
300万円(現在の貨幣価値で数百億円に相当)を投
会にて福留先生よりリレー随
じる決心をし、株式会社組織で事業にあたることで
想を書くよう依頼を受けた。
改めて県知事に願書を提出し、大正4年許可命令書
学生時代の思い出、卒業後の事、何を書こうかと考
の交付を受け、大正5年現在の港湾管理者福岡市港
えたが、今回是非下記「みなとの偉人たち、タライ
湾局の前身となった「博多湾築港株式会社」が設立
のような港からの市井の人たちの挑戦 中村精七
された。
郎」をリレー随想に変え、紹介したい。博多は昔か
ここから近代博多港築港の歴史が始まり、現在の
ら「金印」
「倭の奴国」
「那の津」
「遣唐使」
「鴻臚館」
アイランドシテイに繋がっている事は港湾関係者を
「袖の湊」
「日宋貿易」等々中国・韓国・東南アジア
除いて一般市民には知られておらず、かつ福岡市の
等との交易の窓口的役割を果たしてきたことは皆さ
財政に占める博多港等に関わる港湾事業の割合が全
んご存知の通りである。しかし明治に入り船舶も大
体の4分の1以上を占めていることも余り知られて
型化し、水深の浅い博多港は明治40年、国の第一種・
いないのが実情である。新政権下「羽田空港のハブ
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化」
「日本港湾再生に向けた中枢港湾への集中投資」
が謳われる中、アジアとの交流拠点としての博多港
の整備も急がれる。昨冬のNHK放映の「坂の上の
雲」に見られる列強の仲間入りを目指して新しい国
作りに自己を捨てて邁進する秋山兄弟を始めとした
明治人の気概が、博多湾築港株式会社の設立と重な
る。博多港の国港化が国に受け入れられずそれでは
民間の力でと、アジアの国々との連携を目指して日
本の将来を考えた大築港計画を実行した明治人の気
概に驚嘆を覚える。
中村精七郎について少しつけ加えると、精七郎は
平戸藩士中村弥八郎の七男として、明治5年(1872)
長崎県平戸に生まれた。福沢諭吉の「学問のすすめ」
を読み、
「一身独立して一国独立す」「独立の気力な
き者、国を思うこと深切ならず」などに感銘、新天
九大祭 1962年 大学1年生の筆者
地開拓の夢を持ち、実兄が活躍する北海道にわたっ
たのが12歳の時。さらに18歳の頃に南米移住を決意
し、単身南米を目指したが、その途上、サンフラン
お博多湾築港株式会社の社長を務める一方、大正7
シスコにて勉学と資金確保の無理がたたり、病にか
年には官営八幡製鉄所への韓国の鉄鉱石、徳山海軍
かり帰国のやむなきに至っている。帰国後健康を回
燃料廠への無煙炭の輸送納品のため中村組の子会社
復した精七郎は海運業に従事し、日清日露戦争時に
として港運業「山九運輸」(現在の山九(株))を創
は国のため軍需物資の輸送や陸揚げなどに携わり、
設した。
明治38年に個人経営の中村組を創設。大正3年第一
その山九は高度成長時代とバブル崩壊の中、紆余
次世界大戦の勃発により、運賃船価は暴騰し、造船
曲折を経ながら一昨年90周年を迎え、精七郎が興し
業・海運業は活況を呈し、精七郎も当時巨額な富を
た山九は2009年(平成21)3月現在 資本金286億
得た。しかし中村精七郎は、その富を色々な社会的
円強、売上連結4164億円、単独3372億円となり、運
事業に投入している。博多湾築港事業はその柱であ
輸機工建設部門を持った特異な業態で日本産業界の
るが、その他にも①朝鮮植林事業、②博多港~筑豊
底辺を担っている。朝鮮・中国・東南アジア・国内
炭田を結ぶ大分(だいふ)鉄道建設の計画、③筑豊
を活動の舞台とした中村組は現在山九の海外現法の
炭田の石炭を本州に効率良く運ぶための関門海底鉄
基盤となり現在に至っている。
道建設のための研究所の設立などを行っている。な
何かの縁なのか、私は昭和41年九大卒業後、中村
精七郎から数えて3代目の中村健二社長時代に山九
運輸機工(株)(現山九)に入社した。昭和41年は
経済不況で就職戦線が非常に厳しい状態にあったこ
とに加え、大学時代成績不良、出席不良のため大手
企業試験の推薦を貰えず「鶏口となるも牛後となる
なかれ」を自分に言い聞かせて、就職試験に受かっ
た企業の中で当時資本金8億円と一番小さかった
山九運輸機工(株)(現山九(株))を選び入社し
た。入社後若かりし時は中近東、インド、東南アジ
アでの石油プラント輸送据付工事、長崎上五島石油
備蓄基地建設事業等重量物輸送、プラント工事を担
当、その後福岡支店長・九州営業部長を経て東京本
社時は物流・港湾事業担当役員、そして九州沖縄地
九大教養部 1962年 学園祭(九親会)
インドネシア留学生と一緒に 左から2人目が筆者
区担当役員を歴任し、平成17年縁あって、現(社)
福岡貿易会に勤務することとなり、現在に至ってい
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る。福岡貿易会では、福岡・九州の国際化促進と福
では椅子が足りないくらいの学生であふれかえって
岡地域の中小企業の浮上底上げに微力ながら日々力
いた。先生はそれを見るなり、「えらい今日は学生
を注いでいる。
が多いですなあ。しかし、去年の講義で単位を与え
たのは24人しかいませんから。」と一言。講義が終
紹介する「みなとの偉人たち タライのような港
了して、以前から「古文書を読む会」で先生を知っ
からの市井の人たちの挑戦 中村精七郎」は2008(平
ていた私でさえ不安になって先生の所に行き、「教
成20)年3月(株)ウエイツ社から発行された「み
授、あの話は本当ですか」と聞いたところ、ニコニ
なとの偉人たち 時代への挑戦・海からの挑戦」の
コ笑いながら「学生減らしにはあれが一番いいと
中の一文である。
「みなとの偉人たち」は(社)日
ですたい。 あれで去年も聴講生が24人になった。 」
本港湾協会の機関誌「港湾」に平成17年6月号から
「じゃあ、全員に単位を‥?」「私はウソはついとら
平成19年7月号まで掲載された「みなとの偉人たち」
んですからなあ」と涼しい顔。この「悪そう坊主」
(自
を一部修正加筆し一冊に纏められたもので、平清盛
称)の“いい”加減さが先生の持ち味であった。
からはじまり、湊・港に関わった26名の偉人と補遺
ある夜のこと、9時ごろであったろうか、「古文
から構成されている。
「みなとの偉人たち 中村精
書を読む会」が終わり、いつものように秀村先生を
七郎」を執筆したのは四国松山出身で昭和55年九州
囲んで雑談していたところ、先生が用事を思い出
大学工学部、昭和57年工学研究科修士課程修了の久
し、「ちょっと出てきます。また戻ってきますから」
米秀俊氏である。久米氏は卒業後運輸省(現国土交
と言って出ていかれた。我々は玉泉館の司書の手塚
通省)に入省、平成17年~ 18年福岡市港湾局理事
さんや先輩達とだべりながら先生が帰って来られる
として着任、港湾局勤務時博多港の早期整備振興に
のを待っていたが、11時を過ぎても帰って来られな
尽力されると共に、博多港築港の歴史を研究する中、 い。「これはきっと約束を忘れて家に直接帰られた
博多湾築港株式会社設立に私財300万円を投げ打っ
な」ということになって、皆で先生の家まで押し掛
た中村精七郎に興味を持ち、中村精七郎伝・山九社
けることになった。酒の飲めない私でさえ、途中で
史・博多港史等々から「みなとの偉人たち 中村精
ワンカップを飲んだほどの寒い夜の12時頃であった。
七郎」を取り纏めた。久米氏は本省に戻った後2010
城西橋の先生の自宅の前に着くや、大声で「こら~
(平成22)年1月現在北陸信越運輸局に勤務されて
秀村、学生を置いて自宅に戻るとは卑怯なり、出て
こーい」と口々に怒鳴ると、ご近所の窓から「何事
いる。
か」と人が顔を出す始末。今ならすぐ警察が来るに
違いないが、幸い奥様が「どうぞ、どうぞ、お入り
リ レ ー 随 想 下さい」と中に入れていただいた。案の定、先生は
家におられ、結局、朝の4時まで酒肴をごちそうに
なりながら、「教授、こんなに本があると重みで家
たいがいたいがい
が傾きますなあ」などと好き勝手なことを言って引
き揚げたのである。今思えば、大学に戻ってくる約
(財)たばこ研究センター専務理事
束を忘れたというよりはお疲れになっていたのであ
清田 康之氏
ろうが、旧制福高に愛着がある先生だから許してい
1977(昭和52)年卒
ただいた「ストーム事件」であった。
経済学部に進学すると、迷わず秀村ゼミを選んだ。
ゼミの最初のテーマ決めで、先生はご専門の近世経
大学生活では、その後の会
済史をおやりになりたかったようだったが、我々
社生活よりも学んだことが多
は「九大から石炭の火ば消すわけにゃいかんでしょ
い、いやむしろ学生時代の経験がその後の自分の生
う。」と意見を述べ、石炭産業史をやることになった。
き方に大きく影響しているといった方が正しいかも
思えば、生意気だった、顔から火が出るくらい恥ず
しれない。秀村先生に巡り合った自分は本当に幸せ
かしい話だが、一度だけ先生に食ってかかったこと
ものであった。
がある。「教授、石炭史はよかですが、教授の方法
教養部の講義で先生の「日本経済史概論」があっ
論には経済構造というか、階級史観がまるでない。」
た。
「仏の秀村」の噂は皆周知済みで、初回の講義
と。先生は、「清田君、歴史を見るときには、熱く
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見らんといかん側面と、冷静に見らんといかん側面
リ レ ー 随 想 がある。そこの違いばもう一遍考えてごらん。」と
静かに語られた。もう私は何も言えなかった。フィー
ルド調査を大切にされる先生のこと、飯塚の麻生家、
美術評論家の河北倫明家の先祖祭りなど多くの場面
に連れて行っていただき、現地を見ることの大切さ
時がたつのは早いもの
─岩元和秋先生の思い出─
を学んだ。ある日のこと、「清田君、明日フィール
福岡県立久留米高等学校教諭
小林 修氏
ド調査に行かんですか」と誘われた。「いや、教授、
明日はいいですが、あさっては教授の講義の試験で
1978(昭和53)年卒
しょ、ちょっとは勉強しとかんとですね。
」と言っ
たところ、
「そしたら、試験の回答には卒論の進捗
状況でも書いとって下さい。名前は忘れたらいかん
時のたつのは早いもので、
ですばい。
」あー、好きだなあ、このたいがいたい
高校の政治・経済の教師とし
がいさ。もちろん、後顧の憂いなく、調査に同行さ
て今年で30年目を迎えます。
せてもらった。さて、その卒論である。私のテーマ
今、センター試験の勉強に没頭している教え子達を
は、箱崎の浦大庄屋である明石(あかいし)家から
前にすると、ほろ苦い学生時代の思い出が脳裏に
見つかったばかりの古文書の解読を「近世博多湾の
蘇ってきます。
漁業研究」としてまとめた。毎日、当時須崎公園に
私は、1974(昭和49)年に、一年間の浪人生活を
あった県立図書館に通い、マイクロフィルムから古
経て経済学部に入学しました。当時、学生運動はす
文書を読む作業が続いた。学生のズルさで写真はな
でに下火になり、私のようなノンポリ学生も多かっ
るべく大きく、章建ても細かくして改ページし、枚
たように思います。私自身、漠然と「大学は社会勉
数を稼いだのは言うまでもない。いよいよ発表が終
強をするところ」という逃げ口上を持った勉強しな
わってからの先生の講評は「傑作ではないが、大作
い学生の典型でした。後悔先に立たず。「もっと勉
である。
」その時は「アララ」と思ったが、今では「褒
強しておくのだった」と思うことしきりです。
め言葉」に解釈している。その先生が卒業前に、
「あ
大学時代の印象深い思い出といえば、かけがえの
んた、大学院に来んですか。この頃は試験で大学院
ない友人やゼミの恩師である岩元和秋先生のことが
に来るやつばっかりだが、本当に研究者に向くかど
あげられます。共通するのは、「誠実さとは何か」
うかは試験の成績とは別ですからなあ。
」と誘われ
を教えてもらったことです。同じクラスのS君は、
た。とても嬉しかったが、「いや、来年から語学が
ご尊父が宮崎県の高校教師である人でした。彼自身
2科目になりますし…」「だから、語学の1科目は
も将来は高校教師になりたいという希望を持ってい
古文書でもいいようにしとりますたい。
」こちらと
ました。「今の政治についてどう思う?」、「平等な
しては、
「古文書の点数はゲタを履かせてくれるの
社会って何だと思う?」という彼からの問いかけに
ではないか」との甘い期待感もあったが、大学院の
は、何の問題意識も持たずに生きてきた私など比べ
入試でそれはないだろう、結局、
「古文書も自信が
ものにならないくらいの迫力を感じました。しかし、
ありませんし…」ということでお断りした。進学は
「もっと暖かくなったら一緒にマルクスの勉強でも
諦めたものの、その時に言われた先生の言葉は私の
やろうや」と交わした会話が彼との最後の会話でし
勲章であると言ってもいい。
「あんたは学生らしい
た。彼が心臓の病気を抱えていて一日一日を精一杯
最後の学生やったなあ。」
生きていたことを知りませんでした。
思えば、
「経済原論」さえも単位を取らずに、経
勉強しない私が、唯一勉強らしきものをしたのが
済学部を卒業した私である。先生が愛情のこもった
岩元ゼミでした。大牟田、筑豊へのフィールドワー
「たいがいたいがい」なら、私は「どうちゃらこうちゃ
ク、大阪市立大学宮本憲一ゼミとの交換ゼミ合宿、
ら」もいいところである。その私も昨年6月に無事
九経調と共同で行った福岡市の財政分析。どれもが
32年間の会社生活を終えた。思えば、会社生活の随
実践的でした。学生がレジュメを用意して論議(よ
所で「たいがいたいがいさ」があったが、それは一
く間違ったことを言って笑われました)、先生がひ
つとして悪い結果を生んだことはなかったと確信し
と言含蓄のある言葉で方向付けて下さるという流れ
ている。
だったように覚えています。私たちなりに真面目に
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トーに毎日を送っています。とくに高校での政治・
経済という教科では、教える側が、人権問題、平和
問題、労働問題、経済問題などすべてに定見を持つ
べきで、傍観者的であってはならないと思います。
私が、授業で、ついつい傍観者的な説明をしそうに
なった時には、S君や岩元先生が「では、君はどう
考えるんだ」とか、「では、君は何をするんだ」と、
どこかで叱ってくれているような気がします。S君
や岩元先生がそうだったように、私も、教え子達に
とって「自分を偽らない」人の見本になりたいと思
い、日々是勉強(教養+実践)の毎日を送っています。
現在、我が家は、二人の息子が就職、進学で家を
離れ、学生時代に知り合った連れ合いと二人きりの
生活が続いています。こんな時には、余計に学生時
やっていたと思っていますが、当時大学院生として
代の友人が懐かしく思い出されます。六本松教養部
演習に出ておられ、今や教授として活躍されている
も箱崎の幾つかの学部も移転してしまい寂しい思い
中村良広・納富一郎両氏からみると実にチャラチャ
がします。(ただ、経済学部は2017年ごろまで現在
ラした学生だったでしょう。
地に居続けるそうで、少しホッとしています。)み
岩元先生の思い出として、最も印象に残っている
んな私たちの貴重な青春の一コマでした。ここ数年
のは、私が転職した頃のことです。私たちのゼミは
来、気のあった同窓生と1年に1回程度集まってい
全員が民間就職希望でした。二度の石油危機の谷間
ます。酒を持ち寄って飲んだくれたコンパ、4人集
の時期だったにも関わらず、次々に就職が決まって
まればいつの間にか始まった麻雀、アルバイトで稼
いきました。私も民間企業への就職が決まり、先生
いだお金で行った旅行、何もなかったけれど、なぜ
に挨拶にいくと、「よかったね」と言われましたが、
か幸せだった学生時代。気持ちだけは若い頃のまま
どこか複雑な表情をしておられました。後日、私が
ですが、談笑する中で、それぞれがくぐってきた30
民間企業を辞め教職に就くことを報告に行った際、
有余年の年輪を感じます。政治や経済が激動する中、
その理由がわかりました。今でも覚えていますが、
皆それぞれ好不調はあるかと思いますが、つらいこ
別府の居酒屋で岩元先生と都留先生とご一緒した時
とがあっても、心の豊かさだけは失わずに暮らして
のことでした。岩元先生が「小林君、会社に入って
いきたいものです。
べ ふ
からは、大学までの考え方を180度転換しなければ
ならなかったことも多かっただろうね。僕は、自分
友がみな 我より偉く見ゆる日よ
が送り出した学生が立派になっていくのは嬉しいん
花を買い来て 妻と親しむ 啄木
だけど、ただ自分の定見をきちんと持ち続けて欲し
いんだよ。
」という意味のことを言われました。そ
の言葉は、大蔵官僚から大学教授への道を選ばれ、
リ レ ー 随 想 常に弱者の立場に立って学問をされていた先生の生
き方そのものだと実感しました。
その後、先生ご夫妻には私共の結婚式の媒酌の労
丑山ゼミの思い出
までとっていただき、鹿児島に帰られてから後も連
絡をとらせて頂いていました。最後にお会いした時
熊本学園大学商学部教授
も机に向かっておられたのを覚えています。今回の
池上 恭子氏
寄稿の件を奥様にお知らせすると「是非、拝見させ
て下さいね」ということでした。
1981(昭和56)年卒
1990(平成2)年博士入
定年まであと5年です。経済学部の同窓が極端に
少ない高校の教職という世界で、試行錯誤の日々を
入 学 し た の は1977( 昭 和
送ってきました。今はただ「自分を偽らない」をモッ
52)年、経済工学科が設立さ
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れた年である。当時、経済学部300名のうち女子学
論文の代わりとして、就職が内定した企業を含む同
生はわずか15名、教養部のクラスL1-10 には5名
業種数社を対象とした財務分析が課せられていた。
であった。箱崎に進学して、いよいよゼミの選択に。
今はインターネットで有価証券報告書はもちろん、
以前から会計分野のゼミを希望する女子学生は多
会社の情報をいくらでも簡単に入手できる。各社の
く、女性の先輩も多くいらした。L1-10クラスの
ホームページにアクセスすれば、映像や図表を使い、
友人たち3名(上玉利啓子さん、壁村梨恵さん、北
重要な情報が分かりやすく、きれいに示されている。
山恵美子さん)は津守常弘先生のゼミへ。さて、ど
しかし、当時はパソコンもインターネットもない時
うしようかと迷っていると、模擬試験の採点アルバ
代。有価証券報告書の現物だけが頼りであった。字
イトで知り合った1学年先輩が丑山ゼミで、「先生
は小さく、情報量は膨大で、みんな数字と格闘した。
はお若いし、
自由でいいよ。」と薦められた。そこで、
これから長く働く会社がどのような状況なのか、今
L1-10 からの友人末吉恵子さんを誘い、丑山ゼミ
後の成長や発展はどうかなど、真剣にならざるを得
に入ることにした。大学卒業後、法文学部創立60周
ない。たいへんな秀作もあり、丑山先生からそのご
年記念事業事務局のお手伝いをさせていただき、そ
本人の就職内定先の会社に送られたこともあるとお
の後大学院に進学し大学教員となったが、丑山先生
聞きしている。私も、現在自分の大学の4年ゼミに
にこんなにながくお世話になるとは、そのときは知
おいては、同様に、就職内定先あるいは就職を希望
る由もなかった。
する業種の財務分析を中心に卒業論文を執筆するよ
当時、丑山先生は30代半ば、学部で一番の若手で
う指導している。
いらした。我々は3期生にあたる。1期生は3名、
合宿や卒業旅行も数多くの思い出がある。丑山ゼ
2期生は同窓会福岡支部事務局長の平井彰さんをは
ミといえば、山口県萩「民宿いとう」のゼミ合宿。
じめ、個性豊かで豪快な男性ばかり9名。そして、
2泊3日の合宿では、よく学び、よく遊び、よく飲
我々3期生は18名、うち女子学生は4名(大塚豊子
み、よく語った。民宿に到着するやいなや早速大広
さん、法華津真澄さん、末吉さん)であった。片山
間に集まり勉強会、夕食後そして二日目も朝から勉
伍一先生のゼミに次ぐ大所帯で、しかも経営学科の
強会。午後はレンタルサイクルで、城址など一回り。
半数以上の女子学生が集まったということで、当時
そして、夜はいよいよ勉強会と同じ大広間でコンパ。
先生方のあいだで話題になったそうである。女子学
先生は最近はほとんどお酒を召しあがらないが、当
生4名はいずれも長身で、非常に活発であった。教
時はたいへんな酒豪でゼミ生と一緒になって楽しま
えを請うために先生のもとに集まっている姿が、先
れていた。
生を取囲み抗議でもしているように見えたらしいと
ゼミ旅行も思い出深い。先生は好奇心旺盛で、行
も後年お聞きした。
動力もおありなので、率先してゼミ旅行などを計画
ゼミの授業は3、4年生合同で行なわれていた。
された。大山の国立大学研修所を利用したスキー合
4年生がたいへん大人に見え、4年生の先輩方を前
にやや緊張気味であった。そんな緊張を解きほぐす
ように、みんなマイカップを持参し、コーヒーをい
ただきながらのゼミであった。
ゼミで学んだテキストは野田信夫著『経営学』、
岡村正人著『株式会社金融の研究』
、黒沢清著『近
代会計学』
、そしてJ.F.ウェストン、E.F.ブリッ
ガム著、諸井勝之助訳『経営財務』である。財務に
留まらず、経営学や会計学などの基本もしっかり叩
き込まれた。最後の『経営財務』は装丁が箱ではな
く、モスグリーンのカバーで斬新なデザインであっ
た。事例や例解が多く用いられており、当時このよ
うなアメリカの教科書的なものの翻訳は珍しかった
と思う。専門を学んでいるという実感が湧いたもの
である。
当時(その後も継続されていたと思うが)、卒業
昭和54年夏のゼミ合宿、萩駅にて(2列目左端が丑山先生)
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宿。先生は信州のお生まれなので、スキーはできて
リ レ ー 随 想 当たり前。ゲレンデを滑るそのお姿は颯爽として絵
になっていた。一方、私も含めてゼミ生はほとんど
九州出身者であるため、スキーの経験がない。先生
をコーチに、一列に並んでご指導を受けた。振り返
ると、スキーは私の人生でゼミ合宿の一度だけであ
私は、経済工学科1期生
‥‥当時を振り返って
る。
新日鉄エンジニアリング株式会社
米村 健史氏
我々の学年は人数も多く、打越明司さん(現衆議
院議員)などやはり個性豊かなゼミ生が多く、それ
1981(昭和56)年卒
ぞれマイペースで自分の世界をもっているようで
あった。しかし、卒業を迎えるころには次第にまと
まってきた。卒業旅行は全員で四国に行った。まだ、
私が、33年前に経済学部の
瀬戸大橋もない時代である。こんぴらさんに詣で、
入試を受けたときは、経済と
黒潮洗う土佐桂浜に立ち、そして道後の湯へ。今年
経営の2つの学科しかありま
は、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響もあり、高
せんでした。しかし、入学して間もないころガイ
知やその他龍馬ゆかりの地が観光客を集めている。
ダンスがありました。「今年度予算申請が認められ、
卒業旅行の行き先がどのような経緯で決定されたの
新しい学科ができることになったので、皆さんの学
か記憶していないが、今から思うと、
「卒業旅行」
科の希望を取ります。希望が偏ったときは調整しま
としてはなかなか絶妙であったと思う。大志を抱い
す。」という趣旨だったと思います。そこで経済工
て、社会という荒波に漕ぎ出すわが身を、桂浜に立
学科という聞き慣れない名前を知りました。もとも
つ龍馬像に重ねたゼミ生も少なくなかったであろう。 と教育学部の心理系を受験したかったのを、諸般の
1981(昭和56)年卒業後、バブル、「失われた10年」
事情であきらめたことや、最初の経済学の授業で拒
を経て、景気回復もつかの間、今度は「100年に一
絶反応を起こしたこと等から自然とその学科を第一
度の経済危機」
。確かに我々が大学を卒業してから
希望にして書類を提出したことが、経済工学科との
の30年間は激動の時代であった。
最初の出会いです。教養部時代は学科間のカリキュ
卒業後も長年にわたり、丑山先生が後輩たちと関
ラムの差はなく、ただ、留意点として武野教授が「線
わられるお姿に触れる機会がたびたびあった。先生
形代数(当時は数IA)と解析学(数ⅠB)はなる
は、常にゼミ生たちのために役立てることがあれば
べく履修してほしい(強制ではない)、そうでない
と、ゼミ生のことを親身に思われていた。自分自身
と経済学部に進学して必修科目の単位習得に困るか
が大学教員になってから、そのように学生と接し、
ら。」とおっしゃったことぐらいが頭に残っています。
関わることができればと思ってきたが、先生の足元
しかし、文系で入学して理系と同じ数学科目を履
にも及ばない。先生の思いはゼミ生たちにも十分伝
修するのは結構きつく、解析学はクラスの大半が脱
わっていると思う。それを表しているのが、正月二
落し、最後7名しか残りませんでした。それでもレ
日である。ながく、正月二日は丑山先生のお宅がゼ
ポートでなく試験だったのですが何とか受かって
ミ生に解放される日であった。その日は、朝から夜
ほっとしたものです。そのせいかどうかわかりませ
遅くまで、70名近いゼミ生が入れ替わり立ち替わり、 んが、翌年から今に至るまで経済工学科は数Ⅲまで
新年のご挨拶にお伺いしていた。自分も大学教員に
課す理系入試となっています。そういう意味で文系
なった頃は、自宅にゼミ生を迎えることができれば
入試の1期生は、貴重な(?)存在です。
と願っていたが、まだ一度も実現できないでいる。
当時の先輩に「なぜこの学科ができたのですか?」
このような先生のゼミ生に対する思いは、大学、
と聞いてみたところ「よくわからないが、九大はマ
学会、地域、もっと広く社会に対する思いにも通じ
ルクス経済学の先生が殆どなので、近代経済学を教
るものがある。常にご自分に何かできることがあれ
える先生を新しい学科で迎えることで時代に取り残
ばと骨身を惜しまずご尽力される。これからも幅広
されないようにするつもりなのではないか。しかも、
い分野でのご活躍を期待している。
工学という名称にしてコンピュータを駆使した新し
い学問にも挑戦していますよというのを売りにし、
学生を集めるようだ。」と回答してくれたのを覚え
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ています。
2年生の後期より箱崎に通うようになり、希望ど
おりの経済工学科に進学しましたが、経済学部は新
校舎をこれから建設するようで、先生たちもバタバ
タの雰囲気でした。そのような中で改めて、経済工
学科向けのガイダンスと留意点の説明がありました。
授業科目は、
「経済数学、数理経済学、公共経済学、
計量経済学、経済モデル解析、情報管理、数理計
画、数理統計学、国民所得論、経済変動論、管理工
学、企業経済学、産業計画、産業技術、経済学原論、
労働経済学、経済成長論、産業立地、OR、経済計
画、産業政策、労使関係論…」等あるのですが、肝
心の講義するスタッフが揃っていないのです。「今、
懸命の努力をしている。2年の後期に先生の着任が
島原合宿ゼミでの1シーン(昭和55年10月)
左より、立石さん・故 岩尾君・宮原君・市村教授
(米村氏による写真説明)
間に合わず、集中講義や他大学の先生の授業で補う
ことになるが、必修科目が毎年開講される保証がな
大から児玉教授が転任して来られ、少しずつ自前の
いので、単位は落とすな。」と言われました。要す
授業も増えましたが、大半は集中講義でした。有名
るに開講できる必修科目が少なく「3年生で取らな
な先生の講義もあり、それはそれでよかったのです
くても4年生で」という訳にはいかなかったのです。
が、九大の先生の授業を殆ど受けずに卒業してしま
だから、今のように系統立てて段階的に学ぶという
いました。私が受けたのは、自分のゼミの市村教
ようなことは、不可能でした。たとえば2年後期に
授、児玉教授、山﨑教授、武野教授、そして野口教
「計量経済学」をとり、そのあとでマクロ経済学を
授方の授業でしょうか。そのほか経済学科の木下教
受講する等、いきなり応用科目から次に基礎科目履
授、秀村教授方の授業ぐらいです。あとは、他大学
修というようなことはざらでした。
の先生の顔しか浮かびません。また、新校舎の演習
3年の前期に岡部助教授の着任、後期に名古屋工
用のコンピュータも私が卒業してから導入されるな
ど、殆ど予算の恩恵を実感することはありませんで
した。(その代わり、我々の時期だけは、工学部の
九重合宿での久住登山(昭和55年5月)
大型電算機センターを使って授業を受けました。)
今、経済学部のホームページを覗くと、実業界等
多方面からお迎えした先生も居られるなど、当然の
ことながらスタッフが充実しており、現在の学生は
大変恵まれていると感じます。
私がゼミでやっていたことは、今で言う「金融工
学」のはしりです。経営財務論とか投資決定論とい
う名前の講義が多かったと思います。まだ日本語で
書かれた本が少なく、まとまっていた著作として
は、小宮・岩田の『企業金融の理論』(M・M理論=
ミラー ・モジリアーニ理論)の妥当性について様々
故 岩尾君
山下君 宮原君
長藤君
米村
芦原君
上曽山君 河野君 立石さん
池本君
有村君
市村教授
鎌田君
後藤君
黒木君
な観点から触れており適度の実証分析もある一方で、
経営学者の論理の欠陥を指摘している内容)がある
程度でした。それで市村先生は、アメリカの大学の
MBAコースの簡単な(?)テキストを用意してく
ださいました。そこには、シャープ=リントナーモ
デルや企業買収に関するモデルが記載されていまし
(米村氏による写真説明)
た。当然英語で書かれており、さらに数理統計学、
確率、微分積分、行列も適度にちりばめられていて、
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相当手ごたえがありました。辞書と数学のテキスト
とになっています。実のところ、社会人の1年目か
を両脇におきながら悪戦苦闘したものです。数理統
ら同窓会へ参加するのはおこがましいのではないか
計学は、3年後期に単位をとったものの、上記テキ
と内心では思っておりました。しかし、同窓会東京
ストをこなすには不安に思い、4年になって、児玉
事務局の吉元さんよりソーシャル・ネットワーキン
教授のゼミが『回帰分析』を使用しているのを聞い
グ・サービス(SNS)内でお誘いをいただいたとい
て、押しかけていき、新3年生と一緒に受けたのも
うこと、また「自分の卒業した九州大学にはどのよ
懐かしい思い出です。
うな諸先輩方がいらっしゃるのだろうか」という私
「企業価値は株式の時価総額である。」という説も、 の好奇心、そして「社会人1年生ならば参加費はタ
今は当たり前のように日経新聞の中でも指標として
ダ」という言葉が決定打となり、2009年7月に東京
使用されていますが、当時の私にはとても新鮮でし
で開催された同窓会総会に参加いたしました。その
た。また、
「βリスク」「M&A」「ボラティリティ」
席で名誉教授の福留先生より投稿のお誘いをいただ
という言葉も現在は一般化していますが、当時は経
き、二つ返事でそのお話を引き受けたまでは良かっ
済学者と一部銀行員しか使わない専門用語でした。
たのですが、いざ寄稿文の作成に着手すると、思い
書店の棚に「ブラック=ショールーズの方程式」や
のほか難しいものだという事が身にしみて分かりま
「ポートフォリオ」に関する本が、山積みされる光
した。過去の「リレー随想」を読み直せば読み直す
景など想像もつきませんでした。これらは、計量経
ほど、本当に自分のような若輩者が、このような場
済学で著名な佐和隆光氏がいう「経済学の制度化」
所へ寄稿してよいものだろうか、と悩みもしました
の具体例です。
が、若気の至りと思いご笑覧くだされば幸いです。
学生の皆さんは、今学んでいる理論が本当に役に
立つのだろうかという思いが頭を掠めることがある
九州と私
でしょうが、大学4年間は目先のことにとらわれる
私は2006年4月に関東の大学より九州大学経済学
ことなく、自由に学ぶことが許された時期でありま
部に3年次編入で入学し、学部を卒業してから大学
す。学んだいろいろな理論が経済活動または生活の
院へ進学しました。正直に申しますと、編入学前は
中に溶け込んでいくのを確認するところに、経済学
九州に対し「焼酎を1升飲まないと帰れない」「東
を学ぶおもしろさがあると思います。
京人に対して敵意を抱いている」という「大いなる
最後に、経済学に拒絶反応を起こした私も卒業す
勘違い」をしておりました。「東京から行く自分は
る頃には、岩波書店の『現代経済学シリーズ』の10
受け入れてもらえるのだろうか」という不安な気持
巻をなんとか読めるようになったことを申し添えま
ちを胸に九州大学の門をくぐりましたが、幸いにも
す。また、貴重な投稿の機会を与えてくださいまし
その懸念は見事に裏切られました。当初は2年で卒
た福留先生、どうもありがとうございました。
業しようと考えておりましたが、九州の人の温かさ
や先生方の学問に対する姿勢に惹かれ、気がつくと
大学院生活も含め4年間も九州大学経済学府にお世
リ レ ー 随 想 社会人1年目を終えて
話になっていました。経済学部では多く先生にお世
話になりましたが、環境経済学の門戸へと誘ってく
ださった藤田先生、環境学のフレームワークを教え
てくださった八木先生、そして指導教官として指導
してくださった田北先生には感謝の念を禁じえませ
国際環境ソリューションズ株式会社
ん。
伊藤 健司氏
2007(平成19)年卒
2009(平成21)年修士修了
田北先生との出会い
入学当時「経済・経営学基本演習」という2年次
の学生のみが受講できる科目が開講されていました。
3年次編入の自分が受講してよいものかどうか非常
今回、同窓会報へ寄稿する
に悩みましたが、受講したい旨を思い切って田北先
機会をいただき、大変嬉しく
生へメールで伝えたところ、「学びたい者に学問の
感じております。この投稿は多くの方々との縁がも
門戸を開くのは当然です。歓迎いたします。」という、
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非常にありがたいお返事をいただきました。私が田
私が取り組んだことは、天神でのゴミ拾いと街作り
北先生より学んだことは多くありますが、その中で
に取り組んでいるNPOやボランティアに参加する
も「資料(史料)の読み方」と「学問への姿勢」が
ということでした。その体験を通じて「自分が興味
特に印象に残っています。よく田北先生は「その道
関心を持ち、身の回りでできることはなんだろう」
のプロに惚れ込み、その考え方をしっかり学ぶこと」
と改めて考え、また「大学生にしかできないこと」
と仰っていました。私は浮気者(断じて私生活では
を考えた結果、毎年11月に開催される九大祭(現、
そのようなことはありませんが)で、自分の考え方
伊都祭)でのゴミ削減活動に取り組むことにしま
に近い著者や考え方を都合よく解釈してしまうこと
した。そのために大学院修士課程1年の2007年5月
がよくありました。そのため、考え方がぶれること
に環境サークル“Ecoa”を立ち上げました。「九大
もあり、その度に先生からは「論文ひとつひとつを
祭」ですから楽しいイベントが目白押しです。しか
ノートに要約し、地道に解釈していく作業を続け、
し、そのためにたくさんゴミを出していいというわ
自分の考えの拠り所を見つけられるような『地に足
けではありません。「楽しいこと」と「ゴミを出さ
の着いた勉強』をしなさい」と厳しくご指導いただ
ない」、この2つのギャップをどう埋めるかが大き
きました。しかし、そのことを理解し実行できるよ
なポイントとなりました。これは現在のゴミ問題の
うになったのは、実に3年半もの間田北先生にお世
根底にある「大量消費・大量廃棄」と「リデュース・
話になっておきながら、修士論文完成の約2ヶ月半
リユース・リサイクル」とのギャップに近い関係が
前、2008年11月でした。研究職を志す者がそれだけ
あるのではないかと私は考えました。もしかすると、
で食べていくことがいかに大変なことなのか、身を
身近な九大祭でのゴミ削減が出来れば、ゴミ問題の
もって知ることができたと感じております。
解決方法の糸口が見つかるのではないか、という非
常に挑戦的な仮説へと、結果としてたどり着きまし
環境問題とサークルの設立
た。私がゴミ削減のために考えたのが「分別」と「リ
また、大学では研究生活だけでなく、プロジェク
サイクル」でした。サークル設立の次に起こした行
トを自ら立案し興すということも経験しました。私
動は、九州大学のベンチャービジネスラボラトリー
は大学4年の当時、環境問題の本を読みこなし、自
(VBL)が主催する「チャレンジ&クリエイション
分なりに見識を深めていると自負しておりました。
プロジェクト(C&C)」への応募でした。選考の結果、
しかし、環境問題について友人と議論していたある
バイオマスカップ(BMC)というトウモロコシ由
日「じゃあ、伊藤が地域や大学内で具体的にしてい
来のリサイクルカップ導入のための補助金をもらう
ることはある?」と尋ねられたのです。恥ずかしな
事が出来ました。この補助金をもとに、2008年の第
がら、その時はすぐに答えることができませんでし
60回九大祭では5340個のBMCを導入しました。こ
た。そこで初めて自分は机上での勉強しかしていな
のBMC導入に加えて、九大祭実行委員と協力して
いということに気づかされたのです。その後、まず
リサイクル容器の導入や例年使用されていたゴミ箱
を全て使用禁止とし、ゴミを捨てられる場所を3 ヶ
所のブースに限定して回収することにしました。ま
た、これまでは大雑把だったゴミの分別も10種類に
細分化しました。その結果、前年の13トンから10ト
ンへと、排出されるごみを大幅に削減することに成
功したのです。
勿論、私たちの力だけで3トンものゴミを削減で
きたのではありません。九大祭実行委員の方々の協
力、BMCやリサイクル容器といったエコグッズを
格安で提供して下さった企業の方々、私たちの活動
に賛同し支援してくださった方々、大学関係者の
方々、そして九大祭で10種類の分別に協力してくだ
さった来場者の皆さんがいたからこそ、3トンもの
ゴミを減らすことができたのです。
C&C最終報告会
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サークル活動を通じて
ために不動産としての利用が困難となっている「ブ
この活動を通じて「自分は一人ではない。社会と
ラウン・フィールド」の有効活用をコンサルティン
の結びつきがあるんだ」と直接に感じることができ
グする会社に勤務しております。当初は大学院時代
ました。九大祭でのゴミ削減活動は現在も継続され
に研究していた太陽光発電部門に配属を希望してお
ており、後輩達の頑張りにより2009年の伊都祭では
りましたが、会社組織の事情もあり、土壌汚染とい
10種類分別だけではなく、リユース食器を本格的に
う未知のフィールドへ足を踏み入れることになりま
導入し、排出されるごみの量を6トンにまで削減し
した。率直に申しますと、昨年の夏までは「なぜ自
たと聞いています。環境に優しいことが「いいこと」
分の能力が活かせる所へ行けないのか」と悩むこと
であるということは、私たちも企業も十分に理解し
もありました。そんなある日、同窓会で声をかけて
ています。しかし世の中は「エコなこと」だけでは
いただいたOBの方と昼食をご一緒したことで、私
動いていません。例えば、BMCの価格は市場で販
のそのような考えは霧散してしまいました。その先
売されているプラスチックカップや紙コップの約2
輩は「1年間は与えられたことを必死にこなしなさ
倍から約3倍です。小売業の方とお話しした際に「1
い。そうしたらきっと自分の道が開けるから」とい
銭単位でコストカットをしている。環境にいい商品
う言葉を私にかけてくださいました。その後、職場
は使いたいけど、それだけではダメなんだよ」とい
にて段々と仕事を任されるようになるにつれて、自
う、貴重な意見をいただくことができました。そこ
分がいかに自己を過大評価していたのか、というこ
から学んだのは、環境の価値をどのように位置づけ
とに気付かされました。例えば、見積りの作成方法
るかということです。現在の市場原理の中では、環
やセミナーの運営方法、飲み会での段取りなどのよ
境に対する評価は以前よりは高くなってきたとは思
うに、学ぶべきことはまだまだ沢山あります。OB
いますが、まだまだ低い水準にあるということに、
の方々とご縁がなければ、後ろ向きの思考と言動の
現場で活動されている方々の声から気づかされまし
ままで日々を過ごすことになっていたかもしれませ
た。
ん。日々一歩一歩づつ精進していき、いつか自分も
九州大学の後輩が道に迷っているときに、道標にな
OBの方々との出会い
れるように努力していきたいと思います。
私は現在、土壌汚染の調査・対策や、土壌汚染の
同窓生健筆模様
るっぺ』有終の美を飾る!」 のなかに次のことが記
されていた。秀村選三名誉教授のご労作『幕末薩摩
藩の農業と社会』が、07年度の学士院賞・恩賜賞を
受賞されたこと、宮中の慣例で恩賜賞のお二人が賜
茶の席に招かれた際、秀村先生が無二の親友だった
林市造が鹿児島の鹿屋基地から沖縄へ出撃して戦死
『母への遺書 沖縄特攻 林市造』
― 秀村選三名誉教授、沖縄特攻の友を忘れず ―
したと話され、その上で、最近後輩が『母への遺書
沖縄特攻 林市造』という本を出しましたと紹介
されたところ、美智子妃が「お読みしたい」と深い
作家
関心を示されたので、拙著を献上されたこと。
多田 茂治氏
拙著が宮中に入るなど、まったく想定外の出来事
1954(昭和29)年旧制卒
だが、聡明な美智子妃に読んでいただけるのはあり
がたいことだった。
この『母への遺書』の取材で最も助けられたのが、
「 同 窓 会 報 」 前 号(47号 )
林市造の旧制福高同級生(第19回分甲)秀村選三さ
の逢坂充氏の 「わが『ちかぐ
んと伊東一義さんだった。
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私も旧制福高出身(第25回文1)なので、『きけ
き生きしていた。この小柄で運動機能がすぐれてい
わだつみのこえ』
(岩波文庫)に採られた林市造の
たことが、やがて戦闘機パイロットに打ってつけと
母への遺書を読んで、福高先輩の彼の名は頭に残っ
なり、特攻隊に彼を追い込むことになる。
ていた。その段階では彼の生涯をほとんど知らな
林市造を書こうを決意した私が、まずコンタクト
かったが、
06年2月、博多の海鳥社から刊行した『戦
したのは市造の遺稿集を編まれた姉、加賀寛子さん
中文学青春譜―「こをろ」の文学者たち』の取材で、
だった。『戦中文学青春譜』を当時の関西のご住所
23歳で特攻戦死した林市造の生涯の軌跡をほぼ知っ
に送ったが、なんの音沙汰もない。おかしいなと思
た。
いながら数カ月経つうち、ようやく平塚市から礼状
『こをろ』は、旧制福高生、九大生を中心に集っ
が届いた。
た三十数名によって昭和14年10月に創刊された同人
これで加賀さんの所在がわかり、私の日記によれ
誌。言論・表現の自由を束縛されていた戦時中なの
ば、06年8月24日、平塚の加賀家をお訪ねしている。
で、しばしば痛い目に遭いながら14冊刊行。19年4
寛子さんはすでに八十代半ばで、身体が弱られ、目
月の終刊号のときは、同人のほとんどは戦場に送ら
も不自由になっておられたが、私が取材の用向きを
れ、内地に残っていたのは女性2名を含む4名だけ
伝えると大変喜ばれ、しっかりした記憶力で、4時
だった。
間ほども「市造さん」を語り続けられた。農学者だっ
そこで、終章は「軍靴の足音」になり、学徒出陣、
だ父を早く失い、林一家の柱と頼んでいた「市造さ
特攻出撃を描いたが、特攻隊のなかで最も多く筆を
ん」。明るく温かい人柄でみんなに愛されていた「市
割いたのが林市造だった。
造さん」。特攻戦死の報にいっぺんに白髪となった
このときは、林市造の姉、加賀寛子さんが編集さ
母の悲嘆。語り尽くせない「市造さん」への深い思
れた林市造の遺稿集『日なり楯なり』(95年、櫂歌
いに胸を打たれた。
書房刊、表題は聖句で、出撃前の市造の日記のタイ
このとき、市造の一番の親友として秀村選三さん
トル)その他数冊の関係書を参考にしたが、秀村氏
を挙げられたのだった。
や伊東氏など学友の取材はしなかった。林市造は『こ
お二人はキリスト教の同信者であり、京都帝大経
をろ』とは無縁だったし、
『戦中文学青春譜』は戦
済学部も一緒。学徒出陣で共に佐世保海兵団に入隊
時中の文学青年の青春を描くのがテーマだったので、
して海軍航空予備学生第14期生となり、土浦海軍航
市造には深く踏み込まなかった。
空隊で基礎訓練を受けられたが、秀村さんは肺浸潤
しかし、この仕事をしたことで、林市造への関心
(結核初期)とわかって、原隊の佐世保海兵団に帰
は一段と深まり、よし、今度は林市造の伝記をまと
され、航空科から水雷学校、魚雷艇艇長と、お二人
めようとした決意した。
の運命は変わった。
両親ともクリスチャンだった林市造は幼児洗礼を
秀村先生と林市造の親交ぶりは『母への遺書』の
受けていたので、修猷館から一浪で福高に進学する
随所にちりばめられているが、秀村先生の学士院賞・
と聖書研究会
恩賜賞も林市造の魂魄に招き寄せられたようなもの
に 入 会 し た。
だっだ。
そこで出会っ
戦後、秀村先生は林市造の慰霊のため、毎年のよ
たのが福岡中
うに市造が特攻出撃をした鹿屋を訪れられていたが、
学出身の秀村
近くの村の旧家に貴重に古文書が残っていることを
選三さんだっ
探知されて、多年、調査研究された論考が今回の受
た。
賞作になっている。
市造はのん
賜茶の席で、秀村先生がそのいきさつを語られた
びりした男で、
ことから、美智子妃の「お読みしたい」のご発言に
教室では目立
なったという。
たなかったが、
秀村先生のご紹介で、多くの特攻戦死を出した第
小柄で、愛称
14期会の幹事を永くつとめられ、生き残った者の責
「豆造」の彼
務として特攻資料を収集してこられた福高級友の伊
は万能選手で、
運動場では生
飛行服姿の林市造(朝鮮の元山航空隊で)特攻
訓練中。昭和20年4月12日戦死
東一義さん(東京大学卒。久留米市居住)との文通
も始まり、06年10月5日、博多のグランドホテルで
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自著『JAPANESE CAPITALISM since1945 (M.E.SHARPE 1989刊)』を
振り返って
大分大学名誉教授
清山 卓郎氏
1956(昭和31)年卒
1958(昭和33)年博士入
一
1989年末の円ドル相場138
円、 日 経 平 均 株 価38,915円
から2009年末には円ドル相場92円、日経平均株価
母への遺書 沖縄特攻 林市造
2007年5月刊行
10,546円へと大きく変化している。このため、1989
年のバブル崩壊以後現在まで、日本経済・社会の進
路をめぐって『日本経済の失われた10年、さらには
失われた20年』ということが言われてきた。
ところで、自著『JAPANESE CAPITALISM 初めてお二人と顔を合わせたが、秀村先生と親しい
since1945』は、1945 ~ 1989の戦後おおよそ40年間
九大の哲学教授だった猪城博之先生も同席された。
を分析し、新たな内需主導型構造への大転換以外に、
その後、もう一度、平塚の加賀さんを訪ねて取材
安定的な成長軌道はありえないと結論している。
を詰めたり、幾度となく秀村先生や伊東さんに電話
この本は、日本の経済政策、農業・農業政策、企
や手紙で補足取材したりして、10月中旬から執筆に
業経営、労働・社会政策、外国貿易・資本輸出につ
かかった。
いて、5人の専門家がそれぞれの専門分野を分析し、
そのさなかの11月2日、秀村先生から電話あり、
内需主導型成長構造への大転換の必要性を提起した
3日、所用で上京するが、4日、平塚の加賀さんを
ものです。この本が出版されるまでの1945 ~ 1989
お訪ねしたい、ついては案内してもらえないかと言
までの40年あまりの間に、日本経済は、従来の低賃
われたので、すぐ応諾した。
金労働力依拠型の成長構造から新たに科学技術・投
4日正午ごろ小田急町田駅で落ち合って昼食をす
資・資本輸出主導型成長構造へと変貌し、国際競争
ませ、2時半ごろ加賀家に着いた。ほとんど失明状
力優位、貿易黒字、円高ドル安型の経済体質に変化
態の寛子さんが先生のお顔がよく見えるかのように
しています。この成長構造と経済体質は2010年現在
喜ばれ、市造の想い出を語り合われるお二人の歓談
も変わっていません。そうした意味では、この本の
は尽きることがなかった。今に至るも、加賀さんを
現代的意義は失われていないと言えるでしょう。
慰めに来られる秀村先生の友情に感服しながら耳を
傾けていた。
二
帰りの車中で先生、
「ぼくが小説を書ければ、小
戦後憲法・新憲法と経済民主化政策、戦後復興・
説にしたい材料が幾つかあるんだけどねぇ」。そん
重化学工業政策と技術革新、列島改造政策などは、
な意欲にも舌を巻いた。
日本経済の底部から国内市場の安定的な成長構造を
07年5月初旬、博多の弦書房から『母への遺書 つくり出して、構造的な貿易黒字・円高ドル安から
沖縄特攻 林市造』を刊行できたが、その後間もなく、 生じる対外経済摩擦をやわらげる役割をはたしてき
秀村先生の学士院賞・恩賜賞の朗報が舞い込んでき
た。このため、1970年代の石油危機とスタグフレー
た。
ションのもとでも強力な国際競争力優位が確保され、
また1980年代には日本のハイテク戦争一人勝ちとい
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う状況が作り出されています。
この20年間の突出的な経済成長の結果、バブル崩
壊当時には、日本の国民一人当たりのGDPは世界の
先進国のなかで第一位となり、日本は文字通り世界
の最先進国という地位を手中にしました。この点で
注目されるのは、一つには、地主制度の廃止や社会・
労働運動の保障によって、所得分配・再分配が大き
く変化し、国内市場の安定的な成長が経済拡充の推
進軸になっていたことであり、また二つには、日米
摩擦などの対外経済摩擦が世界規模で激化し、円高
ドル安と慢性的な供給過剰-需要関係ギャップが大
問題になっていたことです。新たな内需主導型成長
構造への大転換が必要とされた所以です。
日本経済の失われた20年の結果、様々な問題状況
が山積するようになっています。当然、問題解決が
急がれます。私もいろいろと私なりに問題提起して
きました。その集約的な成果として清山卓郎『日本
JAPANESE CAPITALISM since1945
1989年刊行
経済の復活と再生』学文社 2002年刊をあげておき
ますので、参考にして頂ければ幸甚です。
三
福岡市のような、気ぜわしい東京とは離れ、そし
とが出来たのもこの点と深く関連していると思いま
て情報供給に恵まれた場所では、覚めた眼で物事を
す。日本の経済・社会の問題状況の解決に寄与でき
客観的に把握することが比較的容易だと言えます。
るような研究成果が九州大学から生み出されること
しばしば西南学派といわれるように、九州大学がこ
を強く期待する次第です。
れまでいくつもの素晴らしい研究成果を生み出すこ
人物往来
〜退官
歳の時に九州大学経済学部に赴任しました。銀行時
お別れのことば
代は、その殆どを調査・研究そして金融機関の監督
指導等に従事してきました。福岡には丁度40年前に
2年間、最初の勤務地として過ごし、福岡・佐賀両
経済学研究院教授
県の企業調査等を担当したことが良き思い出となっ
堀江 康熙氏
ております。そして、その後の本店勤務時には、優
れた先生方と面識を得、多くのことを学ばせて戴き
ました。とくに、経済は各要素が複雑に絡み合って
平成13年春の着任以来、13
成立しており、それを大きく切り分ける理論だけで
年間を過ごしました。私の場
はなく、どのように一般化し現実に応用していくの
合、ほかの多くの先生方とは
かが重要であることを痛感しました。その意味では、
異なり、大学卒業後は日本銀行に28年間勤務し、50
銀行時代の経験が私のこれまでの研究スタイル・内
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容等を決定したと言えます。
分なりに対応を考えるといった問題意識を常に持ち
九州大学に着任して驚いたことは、スタンダード
続けることが重要です。
なマクロ・ミクロ経済学をベースとした政策科目が
事実上皆無であり、私が学生であった30数年前に既
に古いと思っていた学問体系が、 依然として主流で
あったことです。現実の経済を解明し対応を提示す
ることが経済学の大きな役割であると考えている私
の眼からみると、社会科学の一環であり、且つ資産
退官のあいさつ
バブルの崩壊やグローバル化の進行などから日本経
済が難しい局面に入っていたにも拘わらず、あまり
経済学研究院准教授
にも「遅れている」のではないかと感じました。教
片山 直也氏
授会でも、例えば学位審査の段階ですら、「裁定」
と「投機」の区別をつけないような議論もありまし
た。また院生・学生が、東京・大阪の主要大学で使用
平成22年3月で3年間の任
されているような著書・論文に触れておらず、社会
期を終えて、経済学部を退官
に出て大変困るのではないかと心配しました。こう
することになりました。振り
した大きく深刻な問題は、新しい先生方が来られる
返ると、3年間はあっという
につれ解消の方向にあるとは言え、道は遠い感じで
間でした。
す。この10年ほどの間に入ってこられた若い先生方
私は高校卒業まで田舎の鹿児島で過ごしました。
を中心に頑張って戴きたい。
そして広島大学理学部を卒業したのち、東京の一橋
九大着任後の主要な研究テーマは金融分野で、と
大学経済学研究科で修士課程・博士課程・日本学術
くに地域経済活動と地域金融機関の行動を中心とし
振興会の特別研究員を過ごしました。そのあとこち
てきました。地域経済活動関係では、地域間所得格
らへ来たわけですから、十余年ぶりの九州再上陸で
差問題や無貯蓄世帯の問題、高齢化問題等を扱うな
した。
かでの金融の役割を分析しました。地域金融機関に
思えば、研究者・教育者として一人前として本格
ついては、金融機関の経営問題を対象としました。
的に仕事をしなければならないスタートで、非常に
特に、金融機関の経営基盤を、組織力と営業地盤と
緊張した3年間でした。また、任期付きの採用のた
定義し、後者が重要であることを研究・主張してき
め、3年(実質2年)の間に業績を上げなければな
ました。こうした分野については、学会の研究水準
らないというノルマもありました。これら二つの課
向上に対して多少なりとも貢献が出来たのではない
題と将来の見通しが立っていないという状況のため、
かと考えています。
ただただ仕事に打ち込む毎日で、仕事場とスポーツ
この4月より新たに関西の大学に勤務しており、
ジムとアパートを規則正しく往復していました。お
こうした分野の研究を更に拡充していくつもりです。 陰で辛かったですがこれまでの人生で最も健康的で
同時に、関西に移ったことで、趣味でもある大和路
勤勉な3年間だったのではないかと思います。
の散策に、これまで以上に時間を割けるようになっ
私の研究室は経済学部棟の2階にあり、研究院長
たことが大きな楽しみです。
室の真向かいにあります。もともとは会議室だった
最後に特に経済学の研究・教育に従事されている
部屋を工事して二つに区切った部屋で、25平方メー
先生方、そして院生・学生諸君に申し上げたいこと
トルほどあるかなり広い新しく感じる部屋です。会
があります。研究・教育のベースは「良識」にあり、
議室の名残だと思いますが、部屋の上には出勤を示
そのために幅広い分野に健全な興味を持つことが肝
すランプがつく電光掲示板がついており、先生方が
要です。ある特定の分野についてはそれなりに考え
出勤されると光る仕組みになっていました。今では
ることが出来ても、それ以外の分野について殆ど識
この掲示板を活用することはなくなったと伺ってお
らないのでは、肝心の得意とする分野を伸ばすにも
りますが、習慣で使われる先生もかなりおり、毎日
早晩限界が生じます。それを避けるには、あまり早
掲示板の点灯を眺めては苦笑いしていました。また、
い段階から狭い専門分野に視野を限定することを避
北側の窓からは着陸する飛行機とテニスコートが見
け、現実に生じている様々な経済問題について、自
え、たまに飛行機やテニスの練習を眺めてはぼんや
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りしていました。
(実はそれに触発されてテニスを
すると少しは成長したのではないかと思います。ま
1年前から始めました。
)文系図書室や事務室にも
た、運よく関西大学経済学部に行き先が決まり、心
近く、講義はできる限り209号室(2階にある講義
穏やかに仕事に打ち込めると思うと、正直ホッとし
室)
、ゼミでは自分の研究室を使っていましたから
ています。これも先生方のみならず、庶務第4係・
非常に快適だったように思います。
学生第4係・経理第2係等の事務スタッフ、きれい
ゼミ生には本を自由に貸し出し、研究に関連して
に掃除をしてくださる用務のおじさんおばさん、お
入手が難しいものであってもなんとか手に入れるか
弁当売りのお姉さんなど、毎日のように顔を合わせ
らと伝えていました。ゼミの前後の出入りは自由で、
る方々のおかげです。あいさつするだけの方もたく
本あさりや雑談も自由にさせ、私は事務仕事などを
さんいましたが、寡黙な職業のためか、ちょっとし
していました。彼らにとっても、研究室はいい場所
たあいさつでも私はかなり救われました。
であったかもしれません。そういえば一度、ゼミ生
の中から研究室で飲み会をしようという話が出たの
短期間であっても、人生を振り返ると学生時代の
ですが、さすがに研究院長室の前では具合が悪かろ
部活動のようについ思い出す場面があります。私に
うといさめたのを思い出しました。
とっての経済学部の生活もそういった思い出の一つ
幸い、数本の論文と教科書を出版することがで
となりました。短い間でしたが、本当にありがとう
き、わずかながら仕事らしい仕事を残すことができ
ございました。今後も経済学部のご発展を祈念いた
ました。3年前の就職当時の研究・教育業績と比較
します。
同窓会奨学生より
に、おじいちゃんと何人かの親戚が冷や水をかけた
私の留学生生活の感想
のです。「日本人は冷たいものだ」、「特に中国人に
はやさしくするわけない」と私の日本留学に反対し
経済学府経済システム専攻
ていました。それにもかかわらず、私は日本の福岡
張 路平
という町にまいりました。中国のマスコミで報道さ
修士2年
れている日本と実際に目で見て空気を吸い肌で感じ
た日本は大きく異なることを、私は日々、身を以て
私は大下ゼミの張路平と申
経験しております。この福岡の人々の心は非常に温
します。経済学部同窓会奨学
かいのです。いつも笑顔で私の質問に答えてくれる
生に採用してくださり、まこ
指導教官の大下先生、何千円かの飲み代を出し合っ
とにありがとうございます。
てくれる九大仏青寮のOBたち、何度もうまい焼肉
私は昨日より今日、今日より明日の自分が輝くた
をおごってくれたバイト先の優しいおばさんたち、
めに旧帝大としてその名が知られている名門の九州
私が会った日本人たちはみんなやさしかったです。
大学で3年間余りの留学生活を送ることにしました。 なので「私の親戚達の考えは全くの誤解だ」、「日本
なぜなら、福岡という住みやすい町に位置する九州
人は中国人にもやさしいんだ」と私は考えておりま
大学において、幅広い勉強や研究が自由にできるだ
す。
けではなく、中国と異なる独特な異質文化を体験す
また、この日本滞在の二年間、私は常に中国社会
ることができるからです。
と日本社会の違いについても考えさせられたのです。
しかし、2007年大学卒業直前のこと、日本への留
たとえば、中国と全く異なるマナーやルールに対す
学のチャンスに恵まれてわくわくしていた私の熱情
る考えです。わが国のマナーの悪さやルールに対す
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る無関心さという特徴はどうも世界的にも有名なよ
大学交換留学指定校」という説明会を拝聴しました。
うです。無論、マナー問題を気にする中国人は少な
その時から、九州大学で勉強することを望んでいま
くないです。しかし、なかなか治らないのも現実で
した。日本は先進国で、先進的な技術や管理方法を
す。都市ごとにゴミ捨て禁止、痰吐き禁止、交差点
持っています。そして先進的な理念と思想もありま
信号無視禁止などのキャンペーンが年何回も行われ、 す。九州大学での学習生活によって、自分の視野を
期間中はかなり改善されるが、いつの間にか元の状
広げ、もっと積極的な人生観を樹立したいです。
態にもどってしまいます。一方で、福岡の市街を一
2009年4月1日、福岡に到着しました。飛行機が
日中ずっとまわっていても、そういったような行為
滑走路に着いてから、この町を観察し始めた。その
はほとんど見かけられないのです。日本人のルール
綺麗さと規範性は第一の印象です。すべてのものが
に対する真剣さを見ていると、日本文化専門のある
秩序性をもつことが私を強く引きつけました。それ
先生から聞いた、あの「納豆」の話を思い出しまし
から、勉強すべきことをいろいろ見つけました。例
た。納豆という物は本当に面白いです。一粒、一粒
えば、日本人の正しい礼儀、真面目な態度など。仕
はばらばらなのに、実は全部くっついていて、箸で
事や学習の時の交流は全部勉強のチャンスです。私
つまむと、いつまでも細い糸でつながっていて、一
にとって、良い勉強になりました。
向に切れません。まるで日本の社会みたいです。私
来日前に、日本の大学のゼミを聞いたことがあり
の目には、日本社会も、この納豆の糸みたいなルー
ます。人民大学で発表や検討もありますが、学生が
ルでうまくつながっているように見えます。ルール
多すぎて、発言のチャンスがあまりありませんでし
あっての日本という世界から尊重されている強国だ
た。九州大学では、一つの授業で発表のチャンスは
といっても過言ではないと思います。中国は、近い
三回もあります。前期に七つの授業を選び、毎週発
将来日本を抜いて世界第二位の経済大国になるかも
表がありました。この多くの発表で、私の言語能力
しれませんが、日本のような世界中から尊敬される
が高まりました。
国になるまではまだ程遠いと思っております。
多忙な学習生活以外、最も心配していたのは日本
帰国後、私はこの自分の目で見て肌で感じたあり
の物価です。日本の商品は非常に高いと思います。
のままの日本、そして日本人の優しさを周りの親戚
実家はごく普通の中国の農家で、私の日本での生活
や友達に伝えたいと考えており、そうすることで中
を補助する事はとても無理です。友達の助けにより,
日両国間の誤解及び対立をなくすることに貢献でき
アルバイトを見つけました。でも、時間をとられる
ればと思っております。
のに対し、給料が少なかったです。あの時は、とて
末筆ながら、改めて経済学部同窓会奨学金を提供
も辛い生活をしました。その「人生の谷」と思われ
してくださった皆様にお礼を申し上げたいと思って
た段階で「九州大学経済学部同窓会奨学金」をいた
おります。
だきました。採用されるという結果が分かった瞬間、
これからの生活に安心感を感じました。
「九州大学経済学部同窓会奨学金」は私の経済負
担を減らし、私は全力で勉強することが出来ました。
「経済学部同窓会」に心より感謝の意を表したいです。
私の留学生生活の感想
「九州大学経済学部同窓会奨学金」は私を激励し
ました。私は自分の人生計画を修正することが出来
経済学府経済システム専攻
ました。:一年目、先生の指導によって、修士論文
李 継鵬
を書きます;二年目、日本語を上手に話せるように
修士2年
なります。三年後、アメリカに留学します。五年後、
いい仕事を見つけます。普通の計画と思われるかも
「光陰矢の如し」とよく言
しれませんが、「九州大学経済学部同窓会奨学金」
われます。日本に来てもうす
の助けをいただいたおかげで、私は自分の目標を目
ぐ一年になりました。この一
指して全力を尽くすことが出来ます。
年間、いろいろな感想があり
ます。
最後に、もう一度「経済学部同窓会」に感謝の
気持ちを申し上げます。
二年前、人民大学で川波先生が主催された「九州
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経済学部同窓会会則
(名称)
第1条 本会は九州大学経済学部同窓会と称する。
(目的)
第2条 本会は会員相互および母校との親睦・交流ならびに九州大学経済学部の充実、発展をはかる
ことを目的とする。
(事業)
第3条 本会は前条の目的を達成するために次の事業を行う。
⑴ 講演会、懇親会の開催
⑵ 卒業生名簿の発行
⑶ 会報の発行
⑷ その他本会の目的を達成するために必要な事業
(本部並びに支部等)
第4条 本会は本部事務所を九州大学経済学部内(福岡市東区箱崎6−19−1)に置く。
本会は東京、関西、福岡にそれぞれ支部を設置し、これ以外の地区には、活動状況に応じて
それぞれ地区同窓会を設置する。支部ならびに地区同窓会に対しては、運営の一助として運
営費を支給することができる。
(構成)
第5条 本会は次の者を以って構成する。
⑴ 九州帝国大学法文学部経済科卒業生
⑵ 九州大学経済学部卒業生
⑶ 九州大学大学院経済学研究科・経済学府修了者および単位取得者
⑷ 九州大学経済学部および大学院経済学研究科・学府在校生
⑸ 九州大学経済学部・大学院経済学研究院教員および旧教官・教員
⑹ 上記に準ずる者で、理事会の承認を得た者
(役員)
第6条 本会は次の役員を置く。
理事25名以内、評議員各卒業年度最低1名、監事2名、顧問若干名
2 理事のうちから会長を1人、副会長を若干名選任する。
3 役員の任期は3年とする。ただし、重任を妨げない。 4 ⑴ 会長は本会を代表し、会務を総理する。
⑵ 副会長は会長を補佐し、会長に事故あるときは、その職務を代行する。
⑶ 理事については別に規定する。
⑷ 評議員は、各地区、各卒業年度の会員に対する本会運営上の窓口となるほか、必要に応
じて理事会に出席し、意見を述べることができる。
⑸ 監事は本会の会計を監査する。
⑹ 顧問は理事会の推薦により会長がこれを委嘱する。なお、会長の要請がある場合は、顧
問は理事会に出席して意見を述べることができる。
(理事ならびに理事会)
第7条 理事は、理事候補者の中から、総会において選任する。そのため、本部ならびに各支部は、
それぞれ支部役員、経済学研究院教員の中から若干名の理事候補者を推薦し、本部に届け出
る。理事候補者の選任は、本部及び理事会で決定する。
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第48号
2 会長、副会長、理事を以って理事会を構成する。
3 理事会は、
本会運営上の重要事項を審議決定し、総会に提案する。理事会の議長は会長とする。
(総会)
第8条 本会は毎年1回通常総会を開催する。通常総会の開催場所は、福岡、東京、福岡、大阪、福
岡の順に、各支部総会の開催に合わせて開催することとする。ただし理事会が必要と認めた
ときは、臨時総会を開くことができる。
2 通常総会では次の事項を承認する。
⑴ 予算および決算に関する事項
⑵ 役員の選任、会則の制定および変更に関する事項
⑶ その他本会の運営に関する事項
3 総会の議事は、出席会員の過半数を以ってこれを決定する。
(運営)
第9条 本会の経費は会員の会費、寄付金、その他の収入をもってこれにあてる。会員の会費は理事
会の定める会費規定ならびに会費規定細則による。
(会計年度)
第10条 本会の会計年度は毎年4月1日に始まり、翌年の3月31日に終わる。
(個人情報の保護)
第11条 本会は、会員の個人情報を取り扱うにあたり、個人情報の保護に関する法律(平成15年法律
第57号)及び個人情報保護指針・ガイドラインを遵守する。
2 本会は、同窓会活動の目的の下、九州大学経済学部同窓会個人情報保護指針に従い、同窓生
の個人情報を適切に取り扱うものとする。
※会費規定
1.会費は1人年額1,500円とする。
2.会費は卒業生名簿発行年度に徴収する。
3.必要に応じて臨時経費を徴収することができる。
4.会費規定は理事会の議により変更することができる。
※会費規定細則
会費は、終身会費(45,000円)と普通会費(3年間分4,500円)に区分する。
終身会費は一括払いまたは3分割または6分割による分割払いのいずれかによって払い込む。普通会
費は3年ごとに4,500円ずつ払い込む。但し、11回の納入を以って終身会費納入とみなす。
なお、第5条の⑷について、入学時に35,000円一括納入した者については、終身会費納入とみなす。
①終身会費 一括 45,000円
② 〃 3分割 15,000円×3回(1.5年間で納入完了)
③ 〃 6分割 7,500円×6回(3年間で納入完了)
④普通会費 3年毎に
4,500円ずつ(11回・49,500円の納入で完了)
附 則
本会則は、平成8年10月11日に改定され、同日より施行する。
本会則は、平成18年2月10日に改定され、同日より施行する。
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九州大学経済学部同窓会役員名簿
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(カッコ内は卒業年次〜昭和、ただしHは平成)2010年4月
役 員 氏 名 山本 兼茂(32) 長友 泰明(33) 鈴木多加史(33)
会 長 池田 弘一(38)
江口 傳(34修士) 真藤 乃輔(34) 副 会 長 石橋 英治(36) 貫 正義(43)
河原畑繁久(34) 小金丸哲夫(34) 森 重厚(34)
事務局長 久野国夫(院・52) 麻生喜久男(35) 進谷 庸助(35) 濱崎 泰行(35)
監 事 貞刈 厚仁(52) 工藤 重之(52)
三輪 晴治(35) 石橋 英治(36) 首藤 晃良(36)
顧 問 本田 精一(25) 大屋 祐雪(26)
種村 茂明(36) 山道 茂樹(36) 田口 廣則(37)
深町 郁彌(29) 淵上 敏晴(29)
佐野 壬彦(38) 渡辺 昌則(38) 黒岩 宏行(39)
福岡 道生(30) 松浦 正純(30)
犬山 俊昭(40) 檀 豊隆(40) 出口 敏明(40)
森山 靖章(30) 逢坂 充(32)
松浦 哲也(40) 沖 弘隆(41) 安陪 義宏(42)
鈴木多加史(33) 有吉 孝一(34)
平本 公雄(42) 右田 喜章(42) 杉 哲男(43)
荒木 千寿(35) 進谷 庸助(35)
寺原 義之(43) 貫 正義(43) 跡部 千春(44)
檀 豊隆(40)
一丸 孝憲(44) 甲斐 琢己(44) 靍川 洋(45)
(理 事)
森 恍次郎(45) 青柳 泰教(46) 太田 光一(46)
本 部 池田弘一会長 久野国夫事務局長
鍛治 康博(46) 小森田憲繁(46) 橋本 純夫(47)
川波洋一研究院長 丑山優名誉教授
吉井 勝敏(48) 岩崎 俊彦(49) 久保 隆二(49)
深川博史教授 大石桂一准教授
園田 一蔵(49) 加藤 孝典(50) 佐藤 敏弘(50)
大 学 関源太郎教授 清水一史教授
中野 光男(50) 石田 光明(51) 古賀 英樹(51)
東京支部 池田弘一支部長 杉哲男副支部長
貞刈 厚仁(52) 工藤 重之(52) 志村 恭子(52)
淵上敏晴顧問 吉元利行事務局長
岡田 裕二(53) 境 正義(53) 長竹 正隆(53)
関西支部 石橋英治支部長 佐野壬彦副支部長
綾部 正博(53) 吉元 利行(53) 小川 重巳(54)
小森田憲繁副支部長 中野光男事務局長
小林 真幸(54) 嶋田 正明(54) 三浦 正(54)
福岡支部 貫正義支部長 靏川洋副支部長
平井 彰(55) 池上 恭子(56) 窪田 秀樹(56)
吉井勝敏副支部長 光富彰副支部長
富山 幸二(56) 米村 健史(56) 楠 雅之(57)
平井彰事務局長
川上 寛(58) 木村 博(58) 柴田 祐二(59)
齊藤久美子(62修士) 友池 精孝(59)
(評議員)
吉留 郁(59) 斉藤 浩志(60) 田中 和教(61)
長束 正之
(13) 西川 宏(21) 秀村 選三(22)
成宮 正和(61) 桜木 良平(62) 下村 優子(62)
井上喜三郎
(23) 福田洋之助(23) 冨田 敏郎(23)
髙本 英一(62) 岩中 雄次(63) 大坪 勇二(63)
大屋 祐雪
(26) 滝口 凡夫(26) 棚倉 亨(27)
(H2) 山崎 正良
(H2)
古川 和哉
(H1) 清丸 泰司
江藤 正憲
(27) 井原 伸允(28) 石松 順禧(29)
(H3) 林 秀信
(H3)
谷村 信彦
(H3) 北村 英照
兼尾 雅人
(29) 深町 郁彌(29) 淵上 敏晴(29)
(H4) 松延 篤
(H4)
尾花 研
(H4) 中村 昌子
山下 正迪
(29) 山本 和良(29) 岩本 桂(30)
(H5) 三浦 芳徳
(H5)
森永 隆史
(H4) 原山 泰之
富澤 義敬
(30) 松尾 和彦(30) 松浦 正純(30)
山崎 浩(H7) 上田 純也(H8修士)
村上 明夫
(30) 森山 靖章(30) 大田 孝生(31)
竹下 将史(H8) 松本 康孝(H9)
濱口 廣海
(31) 吉田 正美(31) 下川 浩一(32)
久保 文一(H11修士) 濱田 貴将(H12)
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九州大学経済学部同窓会報
第48号
今川 紗織
(H14) 甲斐 智子(H15)
山道 茂樹(36) 松浦 哲也(40)
香川 浄美
(H16) 松元 恵美(H16)
跡部 千春(44) 甲斐 琢己(44)
市村 昭三
(元教官) 清水 一史(現教員)
佐藤 敏弘(50) 古賀 英基(53)
冨山 幸三(56) 片山 基之(57)
各支部の役員 齋藤久美子(62修士)
東京支部…………………………………………………
川上 寛(58) 斉藤 浩志(60)
支 部 長 池田 弘一(38)
谷村 信彦(H3) 北村 英照(H3)
副支部長 下川 浩一(32) 杉 哲男(43) 川島 満(H4) 松延 篤(H4)
顧 問 淵上 敏晴(29) 福岡 道生(30)
上田 純也(H8修士)
有吉 孝一(34) 荒木 千寿(35)
監 事 森 重厚(34) 橋本 純夫(47)
福岡支部(平成22年6月4日の支部総会で承認)……………
理 事 髙岩 淡(29) 三輪 晴治(35)
支 部 長 貫 正義(43)
西山 和宏(36) 種村 茂明(36)
副支部長 靏川 洋(45) 吉井 勝敏(48)
箱島 信一(37) 鍛治 康博(46)
光富 彰(51)
富井 順三(50) 小林 真幸(54)
事務局長 平井 彰(55)
下村 優子(62) 岩中 雄次(63)
監 事 森 恍次郎(45) 三浦 正(54)
森永 隆史(H4) 瀧谷 善太(H10)
評 議 員(*は運営委員)
濱田 貴将(H12) 今川 沙織(H14)
秀村 選三(22) 大屋 祐雪(26)
三角 佳奈(H15) 甲斐 智子(H15)
井原 伸允(28) 石松 順禧(29)
香川 浄美(H16) 松元 恵美(H16)
深町 郁彌(29) 山下 正迪(29)
亀井 祐輔(H20) 日下部清香(H20)
山本 和良(29) 松尾 和彦(30)
事務局長 吉元 利行(53)
森山 靖章(30) 江口 傳(34修士)
事務局次長 大坪 勇二(63) 林 秀信(H3)
長友 泰明(33) 真藤 乃輔(34)
原山 泰之(H5)
麻生喜久男(35) 進谷 庸助(35)
沖 弘隆(41) 安陪 義宏(42)
関西支部…………………………………………………
平本 公雄(42) 右田 喜章(42)
支 部 長 石橋 英治(36)
貫 正義(43) 寺原 義之(43)
副支部長 小森田憲繁(46) 久保 隆二(49)
一丸 孝憲(44) 靏川 洋(45)
顧
問 松浦 正純(30) 鈴木多加史(33)
森 恍次郎(45) 青柳 泰教(46)
檀 豊隆(40) 佐野 壬彦(38)
吉井 勝敏(48) 岩崎 俊彦(49)
事務局長 中野 光男(50)
加藤 孝典(50) 石田 光明(51)
事務局長代理 清丸 泰司(H2) 権藤 健太(H4)
古賀 英樹(51) 光富 彰(51)
会 計 園田 一蔵(49)
貞刈 厚仁(52) 工藤 重之(52)
監 事 松浦 正純(30) 太田 光一(46)
志村 恭子(52) 岡田 裕二(53)
*以上の方は、理事を兼任。
境 正義(53) 長竹 正隆(53)
理 事 棚倉 亨(27) 江藤 正憲(27)
綾部 正博(53) 小川 重巳(54)
濱口 廣海(31) 河原畑繁久(34)
* 嶋田 正明(54) * 三浦 正(54)
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九州大学経済学部同窓会報
第48号
* 平井 彰(55) 池上 恭子(56)
* 三浦 芳徳(H5) 山崎 浩(H7)
窪田 秀樹(56) 米村 健史(56)
* 竹下 将史(H8) 手嶋 秀幸(H8)
楠 雅之(57) 柴田 祐二(59)
渡辺 正司(H8)
友池 精孝(59) 吉留 郁(59)
* 久保 文一(H11修士)
* 田中 和教(61) 成宮 正和(61)
名古屋地区連絡先 板山 和弘(54)
桜木 良平(62) * 髙本 英一(62)
広 島 地 区 連 絡 先 佐藤 敬(23) * 山崎 正良(H2)
古川 和哉(H1)
白石 順一(34)
尾花 研(H4) 中村 昌子(H4)
大 分 地 区 連 絡 先 髙山泰四郎(39)
池田 泉(H5) 宇出 研(H5)
九 州 大 学 経 済 学 部 同 窓 会 歴 代 会 長
初 代 田中 定氏(昭和50年10月4日〜)
(3期8年)
第2代 森下 弘氏(昭和58年2月4日〜)
(1期3年)
第3代 岡野 正實氏(昭和61年10月24日〜)
(2期6年)
第4代 谷川 大介氏(平成4年10月9日〜)
(1期1年)
第5代 渡邉 彦士氏(平成5年7月7日〜)
(1期3年)
第6代 福岡 道生氏(平成8年10月11日〜)
(1期3年)
第7代 吉田 清治氏(平成12年2月10日〜)
(1期2年)
第8代 森山 靖章氏(平成14年5月31日〜)
(1期3年)
第9代 平山 良明氏(平成17年7月7日〜)
(1期3年)
第10代 池田 弘一氏(平成20年7月7日〜)
同窓会費納入のお願い
同窓会会費の納入をお願い致します。
会費は、終身会費(45,000円)と普通会費(3年間分4,500円)になっております。
終身会費は一括払いと分割払いとがあります。御都合のつくときにご協力よろしくお願い致します。
①終身会費
一括 45,000円
② 〃 3分割
15,000円×3回(1.5年間で納入完了)
③ 〃 6分割
7,500円×6回(3年間で納入完了)
④普通会費
3年間分
4,500円ずつ(11回・49,500円の納入で完了)
◎平成18年(2006年)3月末日までに旧同窓会規定の終身会費を既に納入頂いております皆様は、そのまま新同
窓会規約の終身会員に移行しております。
◎従来の普通会員として今まで振り込まれた合計金額と、49,500円との差額を、今後何回かの分割(会員様本人
からの2〜5回のお申し出で)、または一括払いで払い込まれた場合にも、終身会員に移行となります。
◎終身会費を分割払いにされます方は、半年毎に3回又は6回続けてお振り込み頂きますようお願い致します。
◎会費納入や住所変更等のデータは、平成22年4月30日現在で集計しました。
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