文書 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

“私にとっての”聖書
新約単篇
第2テモテ書の福音
“私にとっての”聖書
2テモテ3:14-17,新改訳
この度は、皆様の主日礼拝と、午後の第五聖日ラリーにお招きを頂きまし
て、ありがとうございます。
日本青年館で、皆様の温かいおもてなしに与かったのが、つい昨日のよう
に思えるのですが、あれからもう四年半になります。あのとき舞台の上でシ
ムズ先生が、
「サンキュー」と(片仮名で!)おっしゃったのが印象的でした。
あの時が第 39 回の大会だったことは、デート入りの写真のように記憶に残っ
ています。
昨年からは、岸本大樹牧師が皆様の教会に招かれて、私たちの間にまた新
たな絆ができたことを実感して、喜んでいます。「聖書を学ぶ面白さと大切
さを……」というのが、岸本兄弟から頂いた今朝のテーマです。それで演題
を「私にとっての聖書」としました。
「聖書」という書物の名を初めて耳にしたのは、いつの頃だったか、はっ
きりした記憶はありません。“the Bible”という英語の名は知っていました
し、それがキリスト教のいちばん基礎をなす大事な本だということは、多分、
中学生の頃から知っていたと思います。私の中学時代―今の中学と高校を
含む 5 年間を、私は中国の北京で過ごしました。でも実際にあの黒い表紙の
「新約聖書」という金の背文字のある本を手にしたのは、戦後のことで、そ
のころ大阪府の箕面という町で集会を開いておられたハロルド・コールさん
という宣教師と出会った時でした。数日前に、そのコールさんの夫人で東京
の中野にお住まいのレオン・コールさんに、私の新しいマタイ福音書の講解
書をお送りするのに、ひと言感謝の言葉を書き添えました。“Both Suzue
-1-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
and I owe our new life in Christ to you and your husband.”(家内も私も、
こうしてキリストから新しい命を頂いて今日あるのは、御主人とあなた様の
お陰です。)でも、私の場合はテモテとは違い、「幼い頃から御言葉に育て
られた」という程の経験はありません。
パウロはテモテに、「君が幼い頃から聖書に親しんで来たことは私もよく
知っている」と言いました。「幼い頃から」というのは、ユダヤ人の会堂で、
聖書を暗唱することから教えてもらったのです。テレビで御覧になった方も
おありでしょう。少年たちは先生の後をつけて、首を振り振り、一句一句朗
読させられたのです。その聖書がやがて、少年テモテをキリストの救いまで
導き入れたのです。実際、テモテは初めからその聖書で準備された素材だっ
たと言えます。だからこそ、パウロの福音を聞いてすぐナザレのイエスを信
じることができたのですし、パウロの信仰を教えられると、誰よりも早く、
よく理解して、やがて使徒パウロの片腕のような貴重な器にもなりました。
この二人の間で「聖書は」と言うとき、何が聖書だったかと言いますと、も
ちろん、それは私たちの言う「旧約聖書」のことでした。「初めに神が天と
地を創造した」から始まる創世記から、列王記や詩篇、そして預言者マラキ
の書までの 39 巻が、この二人にとっての「聖書」だったのです。
では、私たちにとっての聖書―特に後半の新約聖書についてあの言葉は
そのまま当て嵌まるのか……という疑問が起こってまいります。皆様はそん
なことは、一度もお考えになりませんでしたか……。パウロは創世記や詩篇
や預言書について、「聖書はどこを読んでも、神の息が吹き込まれてある霊
感の書だ」と言ったのですけれど、私たちはこれを使徒行伝やローマ書やヨ
ハネ伝にも当て嵌めて、新約聖書も「霊感の書だ」と言い切って良いのだろ
うか? それに、たとえば、このテモテ書自体もそうだと言ったら、それは少
し拡大解釈になりはしないか……?
今日は聖書学の講義(正典論)ではありませんから、簡単にその結論だけ
-2-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
を掲げておくにとどめましょう。このことは最終的には、あなた自身が聖書
をどんな本として受け止めたか……聖書を通してキリストの命に触れたかど
うかに関わってきます。本当はこのテモテへの書も含めて、ヨハネ伝やロー
マ書その他は、パウロとテモテにとってのあの「聖書」以上に「霊感の書」
で、「神の言葉」なのですけれど、そこへ行くにはもうひとクッション―信
仰的理由が要ります。さてこれは結論でお話しすることにしまして、まずは
パウロとテモテの聖書について、この言葉の意味を確かめてみましょう。今
朝は主として 16 節と 17 節から学びますが、まず 15 節以下を再読いたします。
15.また、幼い頃から聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書
はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさ
せることができるのです。 16.聖書はすべて、神の霊感によるもので、教え
と戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 17.それは、神の人が、すべ
ての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
一言で申しますと、この 16 節と 17 節の四行は、15 節の命題の理由です。
「聖書はあなたに生きた知恵を与えて、救いを受けさせる書物だ」の根拠・
理由を明らかにしているのです。その理由は使徒パウロによれば、というよ
り、パウロとテモテの二人にとっての「聖書」は―
① 神の命の息がこもった書だから……。
② これと取り組む人を変えて行く力を持つ書だから……。
③ 神に使って頂けるような器をこしらえる書だから、と言うのです。
第一: 神の生命力─神の“息”がこれに込められてある。
これは、16 節の 1 行目を読み直したものです。口語訳や新共同訳では「霊
感によって書かれた」という言葉が補ってありまして、何か、昔書かれた時
にどのようにして書かれたかを述べているように聞こえますけれど、実はそ
-3-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
うじゃなくて、この聖書という本は現に今の瞬間、どんな性質の本か……ど
んな力を持つ本かが語られているのです。その意味で、この新改訳の「神の
霊感による」という簡潔な直訳は、口語訳や新共同訳よりは、誤解はいくぶ
ん少ないでしょう。これでもしかし、「による」が由来や起源の匂いがしま
す。欲を言えばここは、「霊感による」とせずに、「霊が込められてある」
と訳す方が、パウロの意味をより正確に伝えると思います。(以下、手製の
パネルにより説明)
元々ここは、「聖書はどこもみなである」と、形容詞を一語
使って表現してあるのです。この「テオプネフストス」という形容詞を分解
して部分に分けてみますと、このパネルでは赤で囲んである部分  が
「神」を表します。緑で囲んだの所が、漢字で言えば「霊」か「息」
を意味する部分。これはまた息を「吹く」という動詞の意味もあるので緑の
所は吹奏の「吹」の字を当てても宜しい。神が……お吹きになる。神が息を
吹き込む意味です。最後のは「れる、られる」の意味の語尾ですから、
私は「神の息吹が込められている」という意味だと思います。英語にすると
“God-breathed”となります。これを今仮に三つの漢字で表してみますと、
聖書は「被神吹」である……あるいは「被神息」である……とでも表現でき
ます。もちろん、こんな熟語は「広辞林」を見ても「漢和字典」を見ても、
出て来ないのですが……。これを無理に一字の漢字をこしらえてみますと、
「神偏に息」(神息)か、「神偏に霊」(神霊)でしょうか……? これでは、ま
るで西夏文字です。
もう少しスッキリさせましょう。“シメス”偏で神を表現すればこう……
(ネ息)(ネ霊)なりますか。「聖書は、読む人にとって、こういう書だ」とい
うことです。パウロがテモテに言いたかったのは、「テモテよ、心せよ。こ
の聖書という本は、神の霊が息吹いている本だ。」「神の息が、読む人に吹
き掛けてくるスゴい本だぞ!」となります。でも、さっきは「れる、られる」
だと言いました語尾の「被」という字の受動のニュアンスと逆じゃないかと
-4-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
お叱りを受けるかもしれませんね。ただ、そこに神の息が吹き込まれてあれ
ば、その吹き込まれた力が言のそこにある訳ですから、今もその力がそこか
ら能動していると考えて良いのではありませんか。“God-breathed" である
書は、当然“God-breathing”でもあります―読む人にとって。
私のスクリーンに移るイメージではここは、創世記 1 章のアダムの創造の
場面(2:7)とつながります。「主は、土地のちりで人を形造り、その鼻に
命の息を吹き込まれた。そこで人は生きた存在になった。」それと同じ命の
息―“人を生かす力”がこの本には満ち満ちているのです。
16 節の前半をもう一度、言葉を補って言い直しますと、「聖書はどこをと
っても神の生命力が吹き込まれてあって、読む人にその命の息をバーッと吹
き掛けて来る書なのだ!」となります。そう言えば、英語の“inspiration”,
“inspire”という字自体、「息を吹き込む」という意味のラテン語(inspiro)
に由来します。
第一段をまとめてみましょう。この本は、一旦取り組んだら、真剣な読者
に「神の息」を吹き掛けてくる大変な本なのです。その神の息は、読む人自
身の罪を知らせ、神の義を受け止めさせて、聖なるものに変えてしまう力を
持つのです(ヨハ 6:63)。パウロがテモテに言おうとするのは、聖書は現
に今、あなたが読むこの瞬間にそんな力を持つということです。「書かれた
ものであって」を補って読むような、二千年も前の感傷に耽っているのでは
ないのです。「そのつもりで本気でこの本の頁をめくれ。そのつもりで一生
この本と取り組め」というのが使徒パウロの伝えたかったことだと私は理解
しています。
第二: 本気で読めば、この書は人を一生訓練してくれる。
神の息吹は、一瞬、発作的に人を感動させるのではありません。それは、
-5-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
読む人に一生吹きかけ続けるものです。……と言いましても、いい加減に、
鼻歌歌って、(そんな、たいした本なものか! と)、この本をバカにしてい
れば何も起こりません。けれども、本当に自分の悲しさを知って、罪と死か
ら逃れたい……と真剣にイエス・キリストにすがる読者には、ここから吹き
掛ける命の息が必ず結果を生むのです。さて、16 節の後半の意味ですが……。
「教えと戒め」というのは、今のあなたに、主の意志が何を語りかけるか
……どこをどう直すべきか、それを誤りようのない位、はっきりさせて下さ
る、ということです。罪を犯している者には戻るべき正しい道がどこにある
かを示す。それがこの「戒」という字の意味です。2 行目の「矯正と義の訓
練」という所ですが……(新共同訳では「誤りを正し、義に導く訓練」)。
この「義の訓練に有益」という所は、私は今から 35 年前に山本泰次郎という
独立伝道者から、とても印象的な講演を伺った経験があります。聖書学者と
しても優れた方で、「聖書講義」という雑誌を長年出していらっしゃいまし
た。山本さんが召されるまで私はその雑誌を購読しましたが、謦咳に接した
のはそのとき一回きりです。今朝の「聖書は神の息がこもった書」という考
え方も、その時にヒントを頂いたものですが、その講演のお言葉の中で、特
に「義の訓練」という一句が、今も脳裏に焼き付いています。
山本氏は確か、新改訳と同じように「義の訓練」と直訳なさったと記憶し
ます。しかも、これは人間の義ではなく、神様のスタンダードによる義です
から、そのトレーニングは、一生がかりの仕事だと言われました。それは決
して、自分で必死でやる仕事ではないが、神を仰いで、謙遜に一生がかりで
「受ける」プロセスである。そうおっしゃったのです。それに、「日本では、
それを最後までやる人が少ない」と、とても残念そうにおっしゃったのが、
忘れられません。
レビ記の言葉に、「あなたは白髪の前では起立せよ」(19:8)とあるが、
これは決して、年の功や亀の甲に敬意を表するのではない。その人が、信仰
-6-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
をもって一生涯「義の訓練」を神から受けたその謙虚な歩みに対して畏れを
抱くからだ。つまり、その人の“life”に対して起立するのであり、引いては
その人を白髪になるまで訓練なさった主なる神への畏れが「起立」させるの
である……と。
そこから先は、果たして山本泰次郎氏自身のお言葉であったかそれとも、
司会をしていらっしゃった飯島先輩のコメントであったのか、何分 35 年も経
ちますと、記憶も定かではありません。どうも、飯島さんのユーモアだった
ように思います。「そういう“白髪”になるまで、そうして頂くまで、この
聖書で神様から“義の訓練”を受けようじゃないですか! 「白髪」と言って
も、別に、白くならなくったって、ハゲでも良いんです。ハゲでも……。」
見ると、講師はそんな頭の方でした。司会者は恩師への最大の敬意と愛をこ
めて語っておられましたし、私も敬愛の気持ちで引用しておりますから、
「差
別用語だ!」と色をなす方もいらっしゃらないでしょう。
私はいつも、この第2テモテ書の 3 章の末尾を読む時に、そのハゲと白髪
の話を思い出すのです。信仰の歩みを、途中で投げ出しちゃいけない。やめ
ちゃいけない。どんなに失敗を繰り返しても、落ち込みの谷に何度落ちても、
また信仰に戻って「義の訓練」を続けなきゃならない。主がせっかくやって
下さるという貴重な訓練です。これを頂く者の方からオリてはいけない。そ
う、いつも自分に言い聞かせています。
第三: 聖書は、神がお使いになる“器”を磨き上げる。
最後の 17 節、「それは……」で始まる 2 行は(新共同訳は「こうして……」
です)英語で言うなら“so that ~ may”のような形の文になっていて、「そ
れは神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者と
なるためです」と、ここも新改訳は直訳体で原文の感じを出しています。「…
…ためです」というのは、「そのために、わざわざ聖書には神の息が込めら
-7-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
れてある」ということです。
私たちは時々自分を見て、今の自分が「十分に整えられていない」ことを
悲しむあまり、神様の意志を軽く見てしまうことはありませんか。近視眼で、
今の自分の姿ばかり見てはいませんか。「目下仕上げ中だ」とおっしゃる神
様の業を軽く見てはなりません。「無理にも整えて、向こうへ持って行く」
とおっしゃるのです。その方を本気で信じて、委ねることが必要です。
1 行目の「神の人」というのは、元々はモーセや預言者を指す言葉でした。
ここでは、キリストの福音を伝える福音の人テモテのような、神に用いられ
る器を指すのでしょう。その器を、御言葉が磨いて、整えて仕上げをしてく
ださるのです。「神の人」の「神の」という形容句は、その人が神のもので
あることを表します。……たとえば、テモテは神に所有されていて、そのテ
モテを神がお使いになるのです。
もし、神に委ねて神に使って頂く器が「神の人」であれば、仮にあなたが
モーセでもテモテでもなくても、あなたも「神の人」であり得るわけです。
もし、自分が自分を所有して、自分の用途のためにしか使わないのであれば、
それは「自分の人」「人間の人」です。しかし、どんなに未完成のお粗末な
素材であっても、整えなさる神の手に委ねて、神様に使って頂く謙虚さがあ
れば、私たちもその「神の人」である、ということができます。「神の人を
十分に整えて、すべての良い働きのためにふさわしくする」という主の目的
は、ですから、あなたや私のためのお約束であると考えて間違いないのです。
《 まとめと勧め 》
「私にとっての聖書」という、あのテーマに戻ってきました。私自身は、
「ここのパウロの言葉を新約聖書に当て嵌めてもいいか?」というあの問い
は、単に当時の「聖書」という呼び名のことであれば、パウロとテモテの会
-8-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
話に横から入り込んで尋ねられるものでしょうが、「聖書とは何か?」を問
う根本問題としては、あれは、裏返しで逆だったと思うのです。使徒たちも
きっと同じ考え方をしたのでしょう。「私にとっての聖書」は、正味の意味
では、まず福音書やローマ書から始まる筈です。私たちが聖霊の息吹に触れ
て、「イエスは私の主だ!」という確信を得るのは、福音書や書簡からでは
ありませんか。その証拠に……
ヨハネが記録した福音書の中で、主はこう言っておられます。「あなたが
たは、聖書の中に永遠の命が見つかると思って、この聖書を調べているが、
本当はその聖書としいうのは、私のことを証言している本として意味を持つ
のだ。」(ヨハ 5:39,試訳)
聖書に、もし「聖書」としての価値と内容があるとすれば、それは、イエ
ス・キリストをはっきり証しして、確信を与えてくれることです。イエス御
自身の定義によれば、十字架の血の贖いを確信させるものだけが聖書です。
キリストが復活したのは、この私を生かすためである!……それを確信させ
てくれるものが、聖書なのです。私にとっての、本当の意味での聖書はです。
私の趣旨が、お解りいただけたでしょうか。あなたが自分の全生涯を投入
して、じっくりと本気で読んでみられて、「これは“My Book”だ」と言え
るようになった分だけが、「あなたにとっての(!)聖書」なのです。私が
そこから福音の慰めを受けて、そこから「イエス・キリストは私の主です」
と告白させて頂いた分だけが、クリスチャンとしての私にとっての生きた聖
書であります。とすると、パウロがテモテに言ったあの言葉は、「あなたの
知っている旧約聖書もそれに加えてよい。あなたが学んだイザヤ書も詩篇も、
そこへ足して聖書に含めて良いのだ」という意味ではありませんか。初めに
考えたことは、あれは丸っきり逆だったのです。私たちは、初めて福音の喜
びを体験した一冊か二冊の書から、恵みを受けるに従って、徐々に範囲も冊
数も増えて、やがて全 27 巻が「聖書」になります。……そしてできれば、テ
-9-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
モテとパウロが大事にした 39 巻も加えて、この書の恵みを全部味わいたいの
です。
学んだ三つのポイントを思い出してみます。“私にとっての”聖書は私を
生かす神の“息”がこめられてあると申しました。神がアダムを造られたと
き、神は「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた」(創
2:6)と記されています。もし、40 年前に私が箕面の地でその「神の命の息」
をこの本から受けなかったら、私は今も、息を吹き入れられる前のアダムの
材料と同じです。形はアダムの姿をして辛うじて動いていても、しばらく地
上をずり回ってやがて崩れて腐るだけの、肉と骨の塊に過ぎなかったでしょ
う。死と墓場を突き抜けてその先へ、神の命につながって生きる者にはなれ
なかったのです。
二つ目のポイント。私が本気で読むかぎり、“私にとっての”聖書は私を
一生訓練してくれる本です。特に「義の訓練」、本当の正しさと清さを私の
中に養ってくださるただ一つの本が“バイブル”です。罪と死の塊だったも
のを、十字架の血で清めて、復活の命を注ぎいれて、ここまで生かしてくだ
さったのです。もしこの「義の訓練」に服さなかったら、私はアッという間
に汚れに染まったし、ズルズルとこの世と同じ考え方と生き方に埋没したと
思います。そんな私を、この命の込められた書物と仲間の兄弟たちの祈りが
守って、そこへ落ちさせませんでした。主にある兄弟たちは、私にとって、
その聖書につながる助けの力、いわば聖書の“生きた付録”だったのです。
三つ目です。私がどんなに失敗多い者でも、“私にとっての”聖書はこの
不完全な素材を磨いて、神がお使いになれる器に仕上げる本です。「そんな
こと、私の場合はあり得ない」と言われますか。それが、そうじゃないので
す。その代わり、失敗しても失望しても、何度でもまた改めてこれを主の手
に委ねることが必要です。「これはモノにならない!」と見限ってはいけま
せん。主の手に委ね直すとき、磨き上げられない器はないのです。必ず仕上
- 10 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
げて、清めて、天に引き上げてくださいます。
最近、何人かの古い友人と出会いました。40 年ぶりにです。今から 40 年
前に、教会の青年会で一緒に活動したり、語り合った仲間です。何かの理由
で教会を離れたり、教会生活に嫌気がさして、福音と教会に御無沙汰して自
分なりに生きた人たち。あの頃の純粋な感動を懐かしむ人たちです。その人
たちの話を聞きながら、私はふと、不気味なショックを受けたのです。あな
たは「眠りの森」という民話をご存じですか。「眠りの森の美女」というバ
レエを御覧になりましたか。英語では確か“The Sleeping Beauty”ですか
ら、正確には「眠れる美女」でしょうか。呪いを掛けられた森と王宮の中で
は、つむ(紡錘)で指を突いたオーロラ姫の周りに、いろいろなポーズを取
った家来たちが、百年前のあの瞬間のまま立って眠っているのです。時間が
止まっているのです。私が見たその、教会を懐かしむ友人たちはみんな 40
年前の、あるいは 35 年前のある瞬間で時計が止まって、あの時のまま、全く
同じ所に同じ姿勢で立っているのです。その人たちの価値観。仲間や家族を
見る目。清さと汚れの基準。神に委ねるよりも自分の執念で安全を確保する
自信。迫って来る死の時を畏れながら……実際には投げやりの姿勢。すべて
は、「100 年前」とは言いませんが、40 年前の「あそこ」で、「眠りの森」
の廷臣たちの体のように凍って、停止しているのです。福音の理解はあの時
のままですし、死についても、いま頼りにできるものについても、あの時の
まま……歴史が空白なのです。私たちはお互い別々の世界で時間を費やして
いた!
やはり、良かった! と思うのは、聖書を学ぶ仲間と一緒にいたことです。
その中でも、一緒に主を仰ぐ一人の人と生活を共にしたことです。そして、
主の日には、「主の食卓」の回りにいる人たちとの触れ合いを絶やさなかっ
たことです。クリスチャンとしても聖書の学徒としても、私は正に平凡な人
間ですけれど、私が“止めずに”受けたこの恵みだけは、どんなに感謝して
も感謝し切れません。
- 11 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
信仰の土台と背景は長い生涯の歴史です。主との歴史……創世記の 5 章式
に言えば、「エノクは、三百六十五年神と共に歩いた」です。エノクと並べ
るのはあまりおこがましいですから、「エノクの八分の一だけ歩かせて頂い
て、八分の一だけは恵みを受けた」と申し上げましょう。これは良かった。
だから、若い方たちにも是非「歩いてごらんなさい!」とお勧めして、今朝
の結びといたします。
(1972/01/13,八王子市めじろ台キリストの教会で)
《研究者のための注》
1.明石キリストの教会での講演(91/3/3)では、《まとめと勧め》の初めの部分でヨハ
ネ 5:39 の試訳を掲げた後に、正典論への予備知識として、次の言葉を「私にとって
の聖書」への導入に使っています。
「聖書とは何と何、どこからどこまでか……についての教会の保証みたいなものは、
無いわけではありません。それにまた、学問の上では正典論という分野の業績もあり
ます(註の次項を参照)。私はやはり、先に生きた先輩方の信仰をも尊重しますから、
マカベア書だとか、クレメンスの手紙だとか、トマス福音書などは「私にとっての聖
書」の中には入れません。私自身が新約聖書の二十七巻を尊重するのは、先輩方の信
仰に畏れと敬意を持つからです。でも、私はその二十七巻でさえ、無条件で丸のまま
「私にとっての聖書」にはしませんでした。私の聖書は、若い頃は、正直に言って、
ルカ伝とパウロの手紙の一部だけでした。まるで昔の異端マルキオンみた
いですが、それでも私は、マルキオンのようには「それ以外の書は聖書ではない」と
は言いませんでした。「私にとっての聖書」は流動的で、常に増えて行きました。今
ではヨハネも、マタイも、いや、ヤコブまで入っています。第二ペテロとユダと第三
ヨハネはまだ「私にとっての聖書」の中に入っていませんが、春までには二十七巻が
全部入るだろうと期待しています。(1991 年 5 月のコメント─その後全 27 巻を読了)
2.「私にとっての聖書は何か」というテーマと切り離せないのはこの二千年近くの間に、
「キリストの教会にとって、聖書は何か」を真剣に考えて、徐々にその範囲を明確に
して下さった先輩方の業績です。これは、人間の作業として見れば、信仰の視点から
既存の文書を冷静に吟味して、間違いなく「イエス・キリストの福音の書」であるも
- 12 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
“私にとっての”聖書
のを後世のために「線引き」した貴重な作業であり、神の御業として見れば、「聖霊
による『本物』の保存作業」であったと言えるでしょう。「教会は正典を作ったので
はなく既に厳然として存在した正典を、教会は承認させられたに過ぎない」とも言わ
れます。
3.この作業の後を歴史的に追って報告するのが、聖書学の一部門である「正典論」Canon
です。正典論の内容は普通、まず、パウロ書簡とルカだけを正しい福音の書と限定し
たマルキオンの問題提起を契機として、また迫害の時代に命をかけても守るべき福音
の書は何と何かという問いに答えるために、ユスチノス、タティアノス、エイレナイ
オス、テルトゥリアヌス等の教父たちの残した業績を紹介した後、西方教会と東方教
会の両方でどのようにして聖文書の受容が行われて行ったかを概観し、最後に「問題
とされた諸書」の篩い分けが教会会議によってどう処理されたかを追跡します。「正
典」の基準は、それが正しい福音を伝えてキリストを証しする書であるか、その内容
は使徒に遡るか(文書の使徒性)ということですが、私たちがこれを受け入れるのは、
先輩たちのこの作業の中に聖霊の導きがあったことを信じて、尊重するというだけの
ことです。
4.しかし、正典の問題は、先輩たちの信仰とこれを導いた聖霊への畏れだけで決まるも
のではなく、信仰者個人が聖霊によってキリストを示され、確信を与えられて行く「個
人史」の中でも再吟味されねばなりません。その意味では「現在の時点ではパウロと
ルカだけ」とか、「ヤコブとユダと黙示録を欠く」正典も、途上の形としては(ある
いは最終的到達点としても??)十分あり得るのではないかと、私は考えます。私自身
は先達らの業績を目標として、「ヤコブの書が正典であるならば、これは福音の書と
してこう読まねばならぬのではないか」という角度から、「ヤコブの福音」を読み取
る努力をして来たつもりですが、また私とは違った結論に達する人がいても当然です。
私に正典論を教えて下さった George Beckman 氏の言葉、「正典は常に open であっ
て良い」が思い出されます。
- 13 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.