WIJC160124神に選ばれて50年

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2016 年 1 月 24 日 聖書:ヨハネ 15 章 16 節
タイトル:「
タイトル:「神様に選ばれて 50 年」(西郷新生 50 周年記念メッセージ)
周年記念メッセージ)
序 論
●ユダヤ人の有名な哲学者であるマルチン・ブーバーは、「人生は出会いで決まる」と言った。
ユダヤ人の有名な哲学者であるマルチン・ブーバーは、「人生は出会いで決まる」と言った。
●昨年信仰をもって日本に帰国された一人の方が、お別れ
昨年信仰をもって日本に帰国された一人の方が、お別れに残してくださった
信仰をもって日本に帰国された一人の方が、お別れに残してくださったカードにこのように書
に残してくださったカードにこのように書か
カードにこのように書か
れた。
れた。「お二方、そしてイエス様との出会いが、2
が、2 年間のアメリカ生活の中で、最も恵み大きな出来
事です。本当にありがとうございました。・・・」と
事です。本当にありがとうございました。・・・」と。
●彼女の人生はイエス様との出会いによって大きく変わった。
●それは、私の人生にも起こったことであった。イエス様との出会いが私の生涯を全く変えた
が私の生涯を全く変えた。それは
私が、高校 2 年生の三学期
年生の三学期、
の三学期、17 才の時のこと
才の時のことであった。
のことであった。
1.私がイエス様と出会い、変えられたとき、
1.私がイエス様と出会い、変えられたとき、私の友人たちは、口々に
私がイエス様と出会い、変えられたとき、私の友人たちは、口々に私に
私の友人たちは、口々に私に言った。「お前が、クリ
私に言った。「お前が、クリ
スチャンになったって
スチャンになったって?!
って?! 信じられない!
信じられない!」と。
2.それから
2.それから間もなく、同級の友人
それから間もなく、同級の友人を
間もなく、同級の友人を信仰に導い
信仰に導いた。その
た。その私たち
その私たち二人
私たち二人のクラス
二人のクラス担任
のクラス担任であった教師
担任であった教師も
であった教師も私
に言った。「松尾(
に言った。「松尾(その友人の名前
その友人の名前)
友人の名前)がクリスチャンになるのは分かる。クリスチャンになる
がクリスチャンになるのは分かる。クリスチャンになる雰囲
クリスチャンになる雰囲
気がする(
気がする(彼は哲学・文学青年タイプであった。私は遊び人タイプであった
彼は哲学・文学青年タイプであった。私は遊び人タイプであった)
遊び人タイプであった)。しかし、お前がク
リスチャンになるとは信じられない。
リスチャンになるとは信じられない。」と。
信じられない。」と。
3.イエス様との出会いは、それほどに
3.イエス様との出会いは、それほどに私を変えたのである。
イエス様との出会いは、それほどに私を変えたのである。
●それは
それは、私が、
、私が、1966 年 1 月 23 日に、イエス様を私の神、私の救い主として受け入れ
日に、イエス様を私の神、私の救い主として受け入れ、神の子と
イエス様を私の神、私の救い主として受け入れ、神の子と
されたときのこと
されたときのことであった。
たときのことであった。
●昨日は、その 1 月 23 日が再び巡って来た記念日であった。しかも
日が再び巡って来た記念日であった。しかも 50 周年、半世紀
周年、半世紀の記念日で
、半世紀の記念日であ
の記念日である。
●以前にもお話ししたことがあるが、私にとってクリスチャン生涯とは何かを振り返るとき、ヨハネの
以前にもお話ししたことがあるが、私にとってクリスチャン生涯とは何かを振り返るとき、ヨハネの
福音書 15 章 16 節が再び思い出
節が再び思い出される。
再び思い出される。
●そこにあるクリスチャン像とは、
そこにあるクリスチャン像とは、「神に選ばれた」人の姿である。
●このお言葉はすでに何度も皆さまと共に味わって来たが、今日、もう一度、新しい期待をもって、こ
のみ言葉から主のメッセージを頂きたい。
本 論
Ⅰ.まず最初に考えたいことは、「神様に選ばれたことの意味」である。 イエス様はここで何を意味されたのか?
A. 人間の世界では、「誰かが、誰かを選んだ」、しかも、「無条件に、ある人を選んだ」などと聞くなら、すぐに
心で思うことは、「不公平」、「えこひいき」である。
1.今日私たちはこの「
今日私たちはこの「神の選び」
神の選び」と言うテーマについて
と言うテーマについて「
テーマについて「神学論争」
神学論争」をするつもりも、時間も
をするつもりも、時間も
ない。
2.しかし、ハッキリしていることは、
(1)ここで言う「選び」とは、私たち人間が使うような、真実や真理が見えていない人間、
(1)ここで言う「選び」とは、私たち人間が使うような、真実や真理が見えていない人間、
しかも、自己中心な人間が「する」「考える」意味での「選び」ではないことである。
(2)現に聖書は明確に言う。「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善
(2)現に聖書は明確に言う。「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善
を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです」(
からです」(ローマ 2
章 10-
10-11 節)と。
3.余談になるかもしれないが、そもそも神学用語と言うものは、特に神様についての用語は、
すべて「比ゆ的表現
すべて「比ゆ的表現」
表現」である。
である。
(1)なぜ
(1)なぜなら
なぜなら私たち
なら私たちも、私たちの生きている世界も
私たちも、私たちの生きている世界も、
も、私たちの生きている世界も、物質の世界であり、有限の世界である。
(2)一方、
(2)一方、神
一方、神様は霊であり、無限な
様は霊であり、無限なお方である。
お方である。
(3)それで、私たちが霊であり、
それで、私たちが霊であり、永遠なる神様のことを
なる神様のことを言い表すとき
神様のことを言い表すとき、
言い表すとき、私たち人間の世界、
私たち人間の世界、
物質的世界で使っていることばをもって表現しなければならない。
物質的世界で使っていることばをもって表現しなければならない。
(4)即ち、例えば、「
えば、「神様は、天の父である」
である」と言う時、それは「神様は、譬えて言うなら、
私たちの知っている父親のようなお方である」と言う意味である。
(5)即ち、「
ち、「完璧には同じではないが、似ている部分がある」
分がある」。と言う意味である。
。と言う意味である。
(6)或いは、出エジプト記
いは、出エジプト記 20 章 5 節には「
節には「私は妬む神」とある。「妬む」ことは、
」ことは、罪の中
心的特色である。それゆえ当
である。それゆえ当然のことながら「神様
のことながら「神様が妬む」ことはあり得ない。
2
●即ち、神様が主語であるとき「
ち、神様が主語であるとき「妬み」は、人間の世界で言う「
み」は、人間の世界で言う「妬み」と、「他者を寄
せ付けない熱烈な愛」と言うような共通の性質はあっても、同じではない。
4.即ち、「神の選び」、「イエス様が私たちを選んだ」というとき、それは、私たち人間の世
界で言う「えこひいき」などとは違うのである。
それではイエス様が「私があなたがたを選んだのです」と言われた時それは何を意味していたのか?
B. それは、第一に、クリスチャン生涯の確かさである。
1.それは、「あなたがたが私を選んだのではない」と言う対照的表現から明らかである。
的表現から明らかである。
2.もし
2.もし私たちがクリスチャンであること、
もし私たちがクリスチャンであること、罪から救われて、神の子とされたと言うクリスチャ
ン体験が、「
が、「私達がイエス様を選んだから」
だから」という事実の上に根拠を置いているなら、どう
であろうか?
うか?
(1)それは、
(1)それは、不確かさ以外の何物でもないことを意味した
の何物でもないことを意味した。
ことを意味した。
(2)私たちクリスチャン
(2)私たちクリスチャンはみな
私たちクリスチャンはみな知っている。自分が如何に当てにならないものであるか。自
分の信仰が如何に不安定
不安定なものであるかを。
●強い、しっかりとした信仰を持っているように見えても、ちょっと何かがあると、神様
を信じて生きるよりも、神様をなおざりにしてでも、平気で人間的安定を確保すること
を優先する。
●私たちは、感情的にも、周囲の事情で一喜一憂する。
●今日は主のために燃えているように見えても、いつの間にか、あの興奮はどこへ行った
のかというクリスチャンを一杯見て来た。
3.世の中でも
3.世の中でも「
世の中でも「継続は力である」とよく言われる。
である」とよく言われる。継続、続くことこそ力であり、それが本物
であることの大きな証拠である。
(1)クリスチャン生涯も同じ
(1)クリスチャン生涯も同じである。私を
クリスチャン生涯も同じである。私を育ててくれた牧師はよく言った。「いつまでも変
わらないこと、それが最大のクリスチャンの証しである」と。
(2)しかし、それは、私たちの
(2)しかし、それは、私たちの力ではできない。即ち、クリスチャン生涯が、私がイエス様
を救い主と選んだという自分の決心、自分の意志の力、自分の信仰の力に立脚している
のなら、私たちがズ~ッとクリスチャンであることは不可能である。
(3)クリスチャン生涯はそ
(3)クリスチャン生涯はそんなに甘いものではない。なぜならそれは悪魔との闘いであるか
らである。
4.しかし、感謝すべきことは、私たちの
すべきことは、私たちのクリスチャン生涯は、「私の選び」に
クリスチャン生涯は、「私の選び」に根拠を置いてい
るのではなく、「イエス様の選び」の上に置いているのである。だから継続できるのである。
(1)本
(1)本田弘慈先生のことば:イエス様があなたを選んだとは、イエス様があなたの手をつか
んでくださったと言う意味である。あなたが私を選んだのではないとは、あなたがイエス
様の手をつかんだのではないということである。それは信仰の確かさを意味している。
だのではないということである。それは信仰の確かさを意味している。丁
度、子どもが
度、子どもが母親の手をつかんだら転んだら離してしまうでしょう。でも、母親が子供の
手をつかんだら、たとい子供が転んでも大丈夫です。それと同じです。
(2)私は、
(2)私は、申し上げたように、昨日で信仰をもって
たように、昨日で信仰をもって満 50 年になった。バイオリンをやって
も 6 年と続かず、ギターも始めたが 3 か月で挫折。何をやっても長続きしない子供とし
て親戚中に知られていた。その私がクリスチャンになって、しかも大変熱心になったとい
う噂が親戚中に広まり、皆に心
まり、皆に心配された。そのとき、私をよく知っている祖母が皆に言っ
た。「純ちゃんなら心配しなくても大丈夫」。「なぜ??」と問う人々に祖母は答えた。
「純ちゃんなら、すぐに飽きるから」と。そ
きるから」と。そんな私が半世紀もの間信仰を続けられたのは、
私がイエス様を選んだのではなく、イエス様がわたしを選んだからである。
C. それは、第二に、神様のイニシアチブとクレジットを意味している。
1.更に、「あなたがたが私を選
に、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選
だのではない。私があなたがたを選んだ」とは、キリスト教
の救いのイ
の救いのイニシアティブを取ったのも、そのために準備と必要な代価・犠牲を払ったのもみ
な私たちではなく、イエス様であったことを意味している。
な私たちではなく、イエス様であったことを意味している。
2.即ち、私たちがまだ
ち、私たちがまだ罪びとであり、神に反逆していたときに、最
していたときに、最初に救いを計画したのは、
私たちでなく、神様ご自身であり、そのために
であり、そのために犠牲を払ったのも、父なる神様と、御子イエ
ス様ご自身である。
3
3.ローマ人
3.ローマ人への手紙 5 章 8 節に、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私
たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を明らかにしておられま
す」。このお言葉は、これら二つのことを明らかにしている。
(1)第一は、救いのイニシアティブが神様であること。私たちがまだ罪人であるとき、神様
が救いの準備を始められのである。参考:エペソ 1 章 4 節
(2)第二は、私たちの救いの
二は、私たちの救いのために、私たちは何もしていない
私たちの救いのために、私たちは何もしていないこと
ために、私たちは何もしていないこと。
こと。神様が、御子の命と言
う代価を払ってその救いを完成されたことである。即ち、救いに関する All Credits go
to God Himself 救いのために神様がすべてをされたのであり、それゆえ、すべての栄光
と功績は神様に行くべきである。
4.故に私たちは、この救いをへりくだって、感謝し、イエス様をほめたたえるべきである。そ
、イエス様をほめたたえるべきである。そ
れが正に黙示録 5 章 12 節に記されていることである、「ほ
節に記されていることである、「ほふられた小羊こそが、栄光と誉
と賛美を受けるべきである」。
Ⅱ.次に考えたいことは、神様に選ばれたことの「目的」についてである。
A. 文法的な構造から単純に解釈すると、ここに二つの目的が記されている。
1.ここに、ギリシャ語の
1.ここに、ギリシャ語の Hina と言う言葉が
と言う言葉が 2 回使われている。
2.文
2.文法的に言うと、通常、この Hina と言う言葉は、Hina Clause と呼ばれる「目的」を表
す節を導く。
3.と言うことでこの
3.と言うことでこの Hina に従って解釈すると、二つの目的がここに記されている。
(1)一つは、実を
(1)一つは、実を結ぶこと
(2)もう一つは、
(2)もう一つは、祈りの答えを経験すること、となる。
B. イエス様が、私たちをクリスチャン、神の子として選ばれた目的の第一は、私たちが「実を結ぶ」ことである。
1.「行って実を結び、その実が残るため」
び、その実が残るため」とイエス様は言われた。
イエス様は言われた。イエス様は、私たちが「実
イエス様は、私たちが「実
を結ぶ」ことに非常に関心をもっておられた。
心をもっておられた。
(1)言い
(1)言い換えると、イエス様は、私たちが、単に、クリスチャンとして、自分だけで、或い
は、現状に留まって終わるのではなく、更に実を結ぶ人になって欲しいのである。
(2)そのことは、
(2)そのことは、ヨハネ
そのことは、ヨハネ 12 章 24 節、15 章 1-5 節(5 回)、8 節にも表されている。
2.それでは、それは
2.それでは、それはど
それでは、それはどんな「実」なのか?
な「実」なのか? 「二つの実」
二つの実」が、聖書から考えられる。
(1)一つは、福音の実である。
(1)一つは、福音の実である。自分を
一つは、福音の実である。自分を通して他にも信仰を持つ人が起こされることである
つ人が起こされることである。
である。
(2)もう一つは、
(2)もう一つは、内面的、人格的な品性の実である。それらの実について
の実である。それらの実について述べているのが、
べているのが、
ガラテヤ 5 章 22-
22-23 節である。即ち「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、
親切、善意、誠実、柔和、自制です」である。(
です」である。(参考:Ⅰコリント 13 章 4-7)
3.しかし、この実がど
3.しかし、この実がどんな実であるかについてもう一つ大
な実であるかについてもう一つ大切なことに注意しなければならない。
意しなければならない。
(1)それは、
(1)それは、この実は、「いつまでも残る」実でなければならない
それは、この実は、「いつまでも残る」実でなければならないことである。
この実は、「いつまでも残る」実でなければならないことである。
(2)即ち、単なる、事業やキャリヤ、
やキャリヤ、研究や業績で結果を残すことではない。様々な団体や
グループの活動や繁栄に貢献することでもない。
(3)この
(3)この地上的な意味で、沢山の子供や孫に囲まれることでもない。彼らが皆
に囲まれることでもない。彼らが皆良い学校に行
って、良い職業について、社会的に相当な地位を得ていわゆる幸せな家庭を築くことで
もない。
(4)聖書は言う。「世と世の
(4)聖書は言う。「世と世の欲は過ぎ去る」と。それらは、いつか皆消えてしまうのである。
(5)だからイエス様は言われる。
(5)だからイエス様は言われる。ヨハネ
だからイエス様は言われる。ヨハネ 6 章 27 節「なくなる食物のためではなく、いつま
でも保ち、永遠の命にいたる食物のために働きなさい」と。参考:ルカ 16 章 9 節
(6)ジ
(6)ジム・エリオットの言葉をご紹介したい。彼は、映画にもなったが、エクアドルで他の
宣教師とともに、宣教中に現地人の人に惨殺されるが、彼らの死後、彼らの
、彼らの妻や、兄弟
たちの働きによってやがてその部族から沢山の回心者が起こり、宣教師たちを惨殺した
男の 1 人が牧師となり、自分が殺した宣教師の息子に洗礼を授けると言う涙なくしては
見ることができない光景が現実になった。そのジムが言った有名な言葉がある。それは、
「He is no fool who gives what he cannot keep to gain that which he cannot
lose. 永遠に決して失われることがないものを得るために、所詮はいつまでも持ってい
られないものを(神に)捧げる人は、賢い人である」と。
4
(7)イエス様が、私たちを選ばれた
(7)イエス様が、私たちを選ばれた目的は、私たちがいつまでもなくならない実を結ぶこと
である。
4.そして、イエス様は、この実を結ぶためには、「行って」、即ち、「出て行く」ことが必
要であると言われた。
(1) 今いるところから、出て行かなければ実を結ぶことはできないと言う意味である。
(2) それは、地理的にでも言えることであるが、必ずしもそうではない。
●なぜなら、私たちの中には、うっかりすると、現状に満足できず、いつも、どこかに
行くことを望んでいる人、
でいる人、常に新しいもの、新しい
に新しいもの、新しい土地を求めるタイプの人がいる
めるタイプの人がいる。
がいる。
●イエスさまは、ここでそのような意味でのことを言っているのではない。
(3)むしろ「出て行って」というのは、地理的な意味よりも、精神的、霊的な意味である。
●私たちには皆、英語で Comfortable Zone と呼ばれる「
ばれる「自分が安心していられる場
所」がある。そこにいると楽であるから、ついつい何も考えないでそこに留まり易い。
●「出て行く」
出て行く」とは、その Comfortable Zone から出ることである。
●だから不安との闘いが出て来る。
いが出て来る。勇気が必要である。危険やチャレンジも待っている。
ンジも待っている。
エクストラな努力も求められる。
められる。
(4)でも、そうしてこそ、私たちは
(4)でも、そうしてこそ、私たちは実を
でも、そうしてこそ、私たちは実を結ぶことができるのである。
●内的にも、成長という品性的、霊的、信仰的結実は、このように出て行くときにしば
しば経験される。
●また、外的にも新しい更なる実を結ぶことができるチャンスとなる
ことができるチャンスとなる。
チャンスとなる。今まで知らなか
った人々に、新しい人々に福音を伝える機会が与えられるのである。
C. イエス様が私たちを選んだ二つ目の目的は、イエス様の御名によって祈り、父なる神がその祈りの一つ一
つに答えてくださることを経験することである。
1.これは、hina clause の文法的用法から、「実を結ぶ」という主目的に従属するものとして
解釈することもできる。
2.言い換えると、「実を結ぶ」と言う主目的は、「主の御名によって祈る」祈りに父なる神様
が答えてくださるというプロセスが必要である。それなしに、結実は実現しないのである。
3.しかし、同時に、十字架にかかられたイエス様の愛と救いの原点に寄りすがりながら、その
御名によって祈る祈りに、父なる神様が答えてくださるという祈りを通しての交わりこそ
が信仰の醍醐味である。
4.この主の御名による祈りを通しての交わりとその答えを通して神様を実体験することこそが、
イエス様が私たちを選ばれた
イエス様が私たちを選ばれた目的である。
5.この 50 年間、神様は正にこのことをしてくださった。今それらを、一つ一つ具体的に、こ
こに述べ、証しする時間がないことを残念に思う。
6.その祈りにおける神様との交わりを通し、私
し、私は慰められ、励まされ、矯正され、導かれて来
た。また、それらの祈りに対する答えによって、精神的、霊的、信仰的に支えられた。ま
た経済的にも、健康的にも。家族も与えられ、守られ、支えられ、祝福されて来た。留学
中も、どこに行くべきかも、学費のことも、学業を全うするための力も、何もかも祈りの
答えとして与えられてきた。
えられてきた。
結 論
●これほど素晴らしい人生はない。
らしい人生はない。その人生を 50 年過ごさせて頂いた。それは選ばれた人生の祝福で
ある。
●もっと素晴らしいことは、これで
らしいことは、これで終わりではないということである。或いは、昔は良かったが、もう
ピークは終わった。後は、思い出に生きるだけというような寂しいものでもない。
●むしろ、その逆である。これからもっと実を結ぶようになるというのである。「彼らは、主の
ようになるというのである。「彼らは、主の家に植
えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂
っていましょう。こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。」(
う。」(詩篇 92 篇 13-
13-15 節)。