戦後 70周年 平和への願い

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戦後 周年
平和への願い
平成 年8月は昭和 年の終戦から 年
Shiki City 2015.8
我が国の戦争犠牲者は
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310万人以上だったといわれる第二次世界大戦
志木小学校校庭における大日本国防
婦人会志木支部の結成式(昭和8年)
のぼり
出征兵士のための幟(昭和12年)
志木駅における出征兵士の見送り(昭和10年代)
※写真は「ふるさと写真集(志木市市制施行20周年記念
事業市民実行委員会文化部会編)
」
、
「新ふるさと写
真集(志木市市制施行40周年記念事業市民実行委員
会編)
」
より引用
戦争の記憶を風化させないためにも、
(昭和19年頃)
その悲惨さを後世に伝えていかなければなりません
<写真キャプション>
戦時色濃厚な服装の志木小
学校卒業式(昭和20年)
秋ヶ瀬飛行場で細田学園生
徒による勤労奉仕(昭和19年)
主婦の強力な助っ人として
来村した都会の娘さんたち
そして、同じ悲劇を二度と繰り返さないよう
この 周年を期に
改めて平和の尊さを考えることが
大切なのではないでしょうか
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戦後 70 周年 平和への願い
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志木駅に押し寄せたこ
ともありました。その
ため、役場の職員や国
防婦人会の有志によっ
て炊き出しが行われた
そうです。
また、昭和 年4月
3 日未明には、東上線
に 沿 っ た 爆 撃 も あ り、
市内でも被害が発生し
ました。現在の幸町1
丁目付近に合計8個の
時 限 爆 弾 が 投 下 さ れ、
その日の未明から翌々
日 に か け て 次 々 に 爆 発 し、 深 さ 4
いも あな
メートルの芋穴︵芋などを貯蔵する
ための穴︶に待避していた5 人が生
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▲昭和19年9月28日撮影
(国土地理院の空中写真)
また、日比谷図書館の 万冊もの蔵
書が志木市と現在のあきる野市に疎
開し、戦火を免れました。この日比
谷図書館の疎開エピソードは映画化
され、志木市でも戦後 周年平和祈
念事業の一環として、
8月1日︵土︶
にいろは遊学館で上映されることに
なりました。
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戦 時 下 の 志 木 市 の 様 子 は、 志 木 市 教 育
委 員 会 編﹁ 志 木 市 郷 土 誌 ﹂ 及 び 志 木 市
編﹁志木市史﹂に掲載されています。
訓練生がグライダーの訓練を行って
いました。今も残されている荒川の
横 堤 を 背 に、 格 納 庫 な ど が 作 ら れ、
その南側に飛行場が広がっていたと
いいます。
せんが、現在の秋ヶ瀬取水堰近くに
秋ヶ瀬飛行場があり、主に入隊前の
しゅすいぜき
後の大規模な河
そのほかにも、戦
しの
川改修でその姿を偲ぶことはできま
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き埋めとなり命を落としました。爆
弾以外にも、富士見橋などへ米軍機
の補助タンクの落下があったり、細
田学園の近くでは、機銃掃射の弾丸
が屋根を打ち抜く被害もありました。
人や本の疎開
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恐れがあるということで、駅まで送
るのは町長を含めても3人程度の寂
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しい門出となってしまい、一般には
ほとんど知らされていなかったと聞
きます。
また、戦地から戦没者の遺骨が到
着した際にも、はじめのうちは小学
校の児童まで整列して迎えました
が、戦争末期の頃は、見送りと同様
に3人ぐらいの少人数が秘密裏に迎
えたといいます。
市内出身の戦没者は、合計224
人で、そのうち昭和 年に 人、昭
和 年に101人と、この2年間に
集中しており、この2年間でいかに
大きな犠牲を払ったかをうかがい知
ることができます。
さらに、戦没された時の年齢を見
ると、最年少は 歳で、最年長は
歳 と 広 範 囲 に わ た り ま す。 な か で
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戦時下の志木市
昭和 年 月の開戦から4か月間
で、旧日本軍は太平洋の広大な地域
を制圧しましたが、昭和 年6月の
ミ ッ ド ウ ェ ー 海 戦 で の 敗 北 を 機 に、
我が国は徐々に敗戦への道をたどり
はじめました。
い おう とう
黄 島 が 陥 落、
昭 和 年3 月 に は 硫
4月には沖縄本島へアメリカ軍が上
陸しました。こうしたなか、日本本
か れつ
土への無差別爆撃はいっそう苛烈に
なり、子どもや女性を含む多くの非
戦闘員がその犠牲となりました。
そ の 後、 8 月 日 に ポ ツ ダ ム 宣
言 を 受 諾 し、 翌 日 正 午 か ら の
しょう ちょく
昭 和 天 皇 の 終 戦 の 詔 勅 に よ っ て、
310 万 人 以 上 が 犠 牲 に な っ た と
いわれる長く苦しい戦争は終わりを
告げました。
市内出身の戦没者は、
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も、 歳代の犠牲者は137人にの
224人
し れつ
ぼり、全体の半数以上を占め、若者
烈になるにつれ、東京か
戦争が熾
の多くが犠牲となったことがわかり
らの疎開者が志木市にもやってきま
開戦間もない頃、当時の志木市で
ます。
した。当時の志木小学校の児童数を
は召集令状を受け取り、入隊の日に
ちんじゅさま
はら
見 て も、 開 戦 前 の 昭 和 年 と 比 べ、
なると、鎮守様で神主のお祓いを受
けた後、町会などからのたくさんの
昭和 年は約 %の増加、宗岡小学
志
木
に
も
爆
弾
が
見送りの人たちに、励まされながら
校でも約 %の増加と、いかに流入
志木駅まで行ったそうです。
昭 和 年 に 入 る と 我 が 国 本 土 は、 人口が多かったかがわかります。
大都市を中心に絶え間なく爆撃され
な く、
しかし、昭和 年頃になり戦局が
ま た、 疎 開 は 人 間 だ け で は
ほうどう じ
厳しくなると、出征軍人を派手に見
るようになり、東京を脱出した一部
本や書籍にも及びました。宝幢寺に
り さい
は、士官学校所有の大量の書籍類が、
送れば、動員数が敵方に把握される
の罹災者や避難者が東上線を使って
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2015.8 Shiki City
薬莢入れと薬莢
アルミ製メガホン
問合せ/郷土資料館
☎︵471︶0573
昭和16年発行の教科書
防空ずきん
防空用鉄かぶと
カバン
砲弾
陶製手榴弾
戦争の記憶を残す
軍服(上着)
郷 土 資 料 館 に は、 戦 争 に ま つ わ る 収 蔵 品 を 展 示 し て い る
ほ か、 小 学 校 の 授 業 で も 活 用 し て い ま す。 当 時 の﹁ モ ノ ﹂
に 触 れ る こ と で、 平 和 の 大 切 さ、 命 の 大 切 さ を 改 め て 実 感
でき る の で は な い で し ょ う か 。
軍靴とゲートル
金属製弁当箱と水筒
飯ごう
大東亜戦争割引国庫債券
し ゅ りゅう だ ん
や っ きょう
つ な
自身の戦争体験を次の世代の小学生や中学生
に 引 き 継 ぎ、 戦 争 の 悲 惨 さ と 平 和 の 尊 さ を 伝
え る﹁ 平 和 の 語 り べ ﹂ と し て 活 動 を し て い る
永井 さ ん に お 話 を 伺 い ま し た 。
りのおかゆになりました。まったく
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永井 幸江さん
戦後
周年平和祈念事業
周年平和を願うつどい
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平和に対する市民の意識の高揚を図る
志木市戦後
市では、戦後 周年の節目を迎えるに
あ た り、 風 化 し つ つ あ る 戦 争 の 体 験 を、
次の世代の小・中学生に引き継ぎ、多く
の市民に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝
えるため、平和祈念事業を実施します。
問合せ/福祉課
内線2416
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しかし、その帰りの列車で、筆舌
問合せ/市民活動推進課 内線2141
が あ っ た の か﹁ す ぐ に 連 れ て 帰 る ﹂
﹁平和の語りべ﹂
ということになったのです。
周年平和を願うつどい﹂で行います。
る と メ ソ メ ソ 泣 く 子、
﹁ お 母 さ ん、 粘りけのない水雑炊で、いつもいつ じて欲しいです。自然災害とは違い、 平和に対する意識を啓発することを目
的に、小学生自らが考え、戦争のない平
戦争は避けられるものであり、避け
お母さん﹂と声がかすれるまで叫ぶ もお腹が空いていました。
和な世界を、さらに次の世代へ語り継い
子、部屋の隅で膝を抱えじっと外を
そんな私の疎開生活は、終戦の一 なければならないものです。それを
でいくために標語を募集します。
見ている子など、みんな寂しかった 月前に突然、終わりが告げられます。 伝えていくことは、あの戦争を経験
テーマ
平和に関する標語
の だ と 思 い ま す。 私 も 母 が 恋 し く、 面会に訪れた母が、疎開地での生活 して生きている人間の務めだと思っ
対象
市内小学6年生︵各小学校で取り
母 や 姉 た ち の 写 真 を 見 て い ま し た を目の当たりにし、何か感じること ています。
まとめのうえ、市に提出︶
※ 表彰は、平和祈念式典﹁志木市戦後
が、私よりも下の学年の子たちも疎
開しており、その子たちを一生懸命
慰めていたことを覚えています。
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また、毎日、ちょっと離れた川ま に尽くしがたい経験をしました。列
と と も に、 平 和 な 社 会 の 発 展 に 寄 与 す る
私 は、 東 京 の 目 白 小 学 校 4 年 生 の とき、長野県へ学童疎開をしました。 で、手をつなぎ、歌を歌って出かけ 車が鉄橋を渡っている時にたくさん
ことを目的に平和祈念式典を実施します。
ホ ー ム に 見 送 り に 来 た 母 親 た ち は 涙 るのですが、その時も、河原でほと の敵機の機銃掃射に襲われ、さっき
とき
月 日︵土︶
午前 時 分∼午後1時 分
を流して悲しんでいましたが、私たち ん ど み ん な が 東 京 の 方 に 向 か っ て、 まで元気に話をしていた人が死んで
ところ
は、まるで遠足にでも行くかのような 声 の 限 り に﹁ お 母 さ ん、 お 母 さ ん ﹂ しまったり、何人もの人が負傷しま
市民会館
内容
楽しい気持ちで、
はしゃいでいました。 と呼び声をあげていました。ひとし した。戦争とは、こんなに恐ろしい
︻第一部 ︼ 式典︵礼拝、黙とう、平和
ものかと、 歳の私は、体の震えが 疎開地に着いたはじめの頃も、大 きりこのような時間が過ぎると、ま
に関する標語表彰式など︶
、平和展
自然の中で、経験したことのない友 た手をつなぎみんなで帰りました。 止まりませんでした。あの列車の光
︵写真の展示など︶
だちとの共同生活、そのうえ、食事
さらに、戦況が厳しくなってくる 景は今でも夢に見ることがあります。
︼ 童謡のコーラス、詩の朗読
︻第二部 今 の 子 ど も た ち は、﹁ 戦 争 ﹂ と い
と、毎日の食事も変わっていきまし
︵﹁小さな祈り﹂︶
、戦時中の食事体験
た。白米から麦飯になり、いつしか、 うものを知りません。私たちが実際
︵芋ごはん、すいとん︶など
ご飯粒が数えるほどしかないフキ入 に経験した戦争によってどれだけ傷
平和に関する標語コンクール
つき、失われるものが大きいかを感
は白いご飯と疎開生活を楽しんでい
ました。
しかし、その様子も日が経つにつ
れ変わっていきました。夕暮れにな
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さち え
なが い
戦争 を 今 に 伝 え
平 和 を 繋 ぐ
戦後 70 周年 平和への願い
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2015.8 Shiki City
戦後 70 周年 平和への願い
昭和 年3月 日
の 東 京 大 空 襲 の 中、
3 歳になったばかり
の私は、母と弟とと
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◀一昨年の遺骨収容作業の様子
ぱい
では、鼻の粘膜が火傷
昨年の派し遣
ゃくねつ
するような灼熱の中、立って歩くこ
とができないほど狭い壕を掘り進み
ました。自衛隊員との共同作業によ
じゅん
をはじめ、海外の慰霊巡
拝や現地の人たちとの友
好親善を深める慰霊友好
親善事業、さらには戦没
戦争は、二度と繰り
返してはいけない
戦没者の遺族に対する特別弔慰金
︵第十回特別弔慰金︶の申請を受け
付けています
Shiki City 2015.8
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しゅ りゅう
第十回特別弔慰金は、先の大戦で公務
者遺骨収容など、戦没者 り、 迫 撃 砲 発、 信 管 発、 手 榴
もに火の海と化した
などのため国に殉じたもとの軍人、軍属
けん しょう
だん
の 顕 彰 や 遺 族 の 福 祉 向 弾 発の発見と、 年間眠っていた
東京から、母親の生
及び準軍属の人たちに思いをいたし、国
上、そして、世界の恒久 ご遺骨を収容し、任務を全うするこ
まれ故郷である志木
と し て、 改 め て 弔 慰 の 意 を 表 す た め に、
平和の実現のため活動し とができました。現在の平和な生活
へなんとか逃れてき
その遺族に対して支給されるものです。
ています。
が、先の大戦の尊い犠牲者の上に成
ました。父は、昭和
対象 基準日︵平成 年4月1日︶にお
い おう
年に出征し、硫黄
いて、﹁恩給法による公務扶助料﹂や
﹁戦
昨年 月には、硫黄島 り立っていることを思うとき、まだ
とう
傷病者戦没者援護法による遺族年金﹂
島で戦死していたた
の 戦 没 者 遺 骨 収 集 帰 還 戦後は終わっていないことをこの活
などを受ける人︵戦没者等の妻や父母
め、母が懸命に働き、育ててくれま 収 容 派 遣 団 の 一 員 と し て、 一 昨 年 動に参加して、
心から実感しました。
等︶がいない場合に、次の順番による
戦後 年を迎え、遺族会の高齢化
した。
に引き続き遺族会として参加しま
先順位者のご遺族1人
も進み、今後どのように伝えていくか
現 在 は、 埼 玉 県 遺 族 連 合 会 副 会 し た。 硫 黄 島 は、 東 京 か ら 南 へ 約
戦没者等の死亡当時のご遺族で、
長、志木市遺族会会長を務めていま 1 千 200 ㎞、 小 笠 原 諸 島 の 島 の が課題となっていますが、埼玉県遺族
1 平成 年4月1日までに戦傷病者戦
すが、もともとは母が遺族会に参加 一つで、面積は約 ㎢と新座市とほ 連合会副会長・志木市遺族会会長とし
没者遺族等援護法による弔慰金の受給
これからも戦争の悲惨さと惨めさ、
していたことがきっかけで、私も遺 ぼ同じくらいです。この島での戦い て、
権を取得した人
族会の青年部へ参加しました。その により、私の父も含め2万1千人の そして平和の尊さを次世代に伝える
2 戦没者等の子
うちに遺児が会の中心となり、現在 犠牲があり、日本国内でありながら、 ために活動をしていきます。
3 戦没者等の︵1︶父母、︵2︶孫、︵3︶
祖父母、︵4︶兄弟姉妹
にいたります。
いまだに1万以上のご遺骨が、荒野 歴史は繰り返されますが、戦争だ
ごう
遺族会では、全国戦没者追悼式や や壕︵洞窟︶に眠ったままになって けは二度と繰り返してはならないの ※戦没者の死亡当時、生計関係を有し
ぼ えん
ていることなどの要件により、順番
です。
千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式への参列 います。
が入れ替わります。
4 右記1から3以外の戦没者の三親等
おい
めい
内親族︵甥、姪等︶
戦没者追悼式への参列や硫黄島で犠牲となっ
※戦没者の死亡まで引き続き1年以上の
た戦 没 者 の 遺 骨 収 集 帰 還 な ど に 尽 力 す る 、
︵一
生計関係を有していた人に限ります。
財 ︶ 埼 玉 県 遺 族 連 合 会 副 会 長・ 志 木 市 遺 族 会
請求期間
4月1日∼平成 年4月2日
会長 の 福 居 さ ん に お 話 し を 伺 い ま し た 。
※請求期間を過ぎると第十回特別弔慰
金の請求ができませんので、ご注意
ください。
その他
特別弔慰金は、1人の戦没者に
対してご遺族1人のみの請求になりま
す。同順位者の遺族が複数人いる場合
は、同順位者全員の同意が必要となり
ます。
(一財)埼玉県遺族連合会副会長
志木市遺族会会長
かず お
ふく い
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福居 一夫さん
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