ルーテル学院大学大学院付属包括的臨床死生学研究所 2011 年 7 月 30 日 ルーテル学院大学大学院付属包括的臨床死生学研究所 研究員 清重哲男 東日本大震災救援活動 石巻市避難所救援活動報告について 石巻市避難所への救援物資支援活動結果を報告します。 先の 4 月 16・17 日の多賀城市への第 1 次救援活動に引き続き、第 2 次救援活動(石巻市)について 報告します。 7 月 23 日(土曜)東京駅発14:08発仙台行き新幹線 で、社会福祉士の栗原さんと2人で出発し ました。 仙台駅で東北本線に乗り換え、松島駅に行きました。 松島の旅館に18時頃到着し、松島市で1泊しました。素泊まり旅館で、6畳の和室に2人分の布団を 敷く、旧来の宿屋でした。約20人位が宿泊できる、小さい簡素で静かな旅館でした。それでも、土曜 日なので満員でした。景観の海辺まで歩いて7分位の距離でした。松島の被災は、1m位の微小な津波 であったため、すでにどこも修復していました。 松島の大きなホテル・旅館は、警視庁の全国からの警察の救援隊と、作業応援部隊で、満員でした。 100台位のパトカーや移送用バス、警察関係の車がホテルの駐車場に満杯状態で駐車していました。 松島を基地として、被災地の石巻方面に出かけて支援活動を行っているようでした。 翌朝、救援物資の台者を引き、7:10発のJR代行バスに乗り、石巻市に向かいました。 中間地点の矢本から、一部復旧したJR仙石線の電車に乗り換え、朝8時15分頃に石巻駅に到着しま した。最初に、8 時 30 分頃、駅前の市役所の2階にある震災救援事務所に行きました。土曜日でも開い ていました。罹災証明書発行の大きい張り紙が壁に掲示してありました。 避難者が最も多い門脇中学校への救援物資の搬入の申し出を相談し、了解の確認をしました。 途中で歩いている住民に、2,3度道を尋ねながら、山の坂道を、台車を引っ張り上げながら、夏の強 い太陽の光の下、休憩しながら、山の頂上部にある門脇中学校に到着しました。手前の別の中学校にも 避難者がいて、朝から女性が数人洗濯物を干していました。9時20分頃避難所である体育館に到着し ました。車が一台、救援物資を積み込んでいました。 体育館の入り口で、避難者の50代の女性2人に事務所を尋ねると、快く応じてくれました。仮事務 所がある体育館のステージの上まで、体育館内の迷路を通って、案内してくれました。体育館のステー ジの上に荷物を持って上がりました。そこには、たくさんの物資が積み上げられていました。避難所で ある体育館は、ステージの下まで、満員状態で、多くの人々が生活していました。 石巻市の職員とボランティアの若い男性5∼6人が働いていました。 東京から持って行った支援物資のタオル、靴下、ウエットティッシュ、子ども用マスク、衣類、その他 等を職員に引き渡しました。僅かな量ではあるが喜んで受取っていただけました。訪問してくれたこと の歓迎の表情が感じられました。避難者も職員もどうにもならない大きな災難に静かに、じっと耐えて いる静かな雰囲気を感じました。 避難している住民の生活の場所は、周囲を1メートル位の高さの段ボールで居場所を仕切り、座れば 隣からは見えませんが、立ち上がれば、体育館全体が見渡せます。固定的な仕切り板はしていませんで した。菓子パンや、カップメンなどが配られていました。震災から4か月も経過しているのに、震災当 初とあまり変わらない同じ生活環境だといえます。体育館での避難生活に慣れてきているためか、人々 には特に緊張感は感じられませんでした。 150人以上の人々が密集した同一空間で生活する体育館では、精神的に長くは住めない雰囲気を肌 で感じましたが、皆さんはそれに耐えて、4ケ月も生活しています。この避難所は、8月末で終了する とのことでした。仮設住宅に移るものと思います。 山の上から海側に下り、歩いて街があった平地に降りました。 そこは、全地域、津浪で壊滅していました。風が吹けばほこりがたち、少し悪臭のする、荒廃した土地 でした。所々白い石灰を撒いて、ハエ等の発生を防いでいました。人はだれも住んでいません。電気も なく、電柱は折れたままであり、水道もなく、下水も止まったままですから、住める環境になっていま せん。 破壊され柱が残っている住居や事業所が放置されていました。どこも、修理や工事の手が入っていま せんでした。復興の工事や建設機械は、どこにもありませんでした。 壊れた家のがれきは、片づけられ、海近くに帯状に5∼6の高さに積み上げられていました。 鉄筋コンクリートの病院の宿舎が、壊れたまま、放置されていました。人気は、ありません。パトカー が巡回チェックをしていました。2∼3キロメートルの広さの平地全体が壊滅し荒廃し、すっと向こう まで、見晴らすことができます。亡くなられた方の家の地面のコンクリートの上に、花束と供え物が2 ∼3そのまま置かれていました。 船が、10隻近くが陸地の駐車場などに打ち上げられ、そのまま、放置されていました。 4か月もたって、そのままの状態でした。工事をしていたのは、旧北上川沿いに、川の突堤の高さを1 メートル位高くする工事位でした。街全体の復興の方法が決まらず、じっと様子見ているようでした。 しかし、復興への手が入らず、長い間放置され、なぜこれほど復興が遅いのか不思議に感じました。 市街地の信号は止まり、4か所で、他県から来た、お巡りさんが手信号で、交通整理をしていました。 昼食時、駅前でソバ屋さんに入りましたが、仮設店舗でした。 石巻駅前13:10発の仙台行きバスで仙台に戻り、仙台発 14:48 の新幹線で東京に戻りました。 物資購入支援金をご提供していただいた方々に、お礼申し上げます。 今後も、支援活動を継続したいと考えています。 (1)石巻市門脇中学校の体育館事務所 (2)石巻市海側の荒廃地域に生き残った松の木 家屋は、壊れた ままです。 (3)石巻市海側壊滅地と津浪から免れた高台 助かった5mの 高台にある家屋 (4)届けた各種救援物資 各種救援物資 の種類別袋 <被災地の福祉上の諸問題について> 1) 介護保険制度として、介護保険料を避難住民から継続して徴収していれば、契約制度から デイサービスやホームヘルプ等のケアープランに組み入れられたサービス が体育館内の住民が利用できない場合の契約に基づく損失被害はどうなるのか。 疑問点:東京や大阪など、震災被害地以外の地域では、震災後もキチンと正常に介護保険サービス が、受けられているが、石巻市の体育館の中の住民は、介護保険サービスが受けられていないとなれ ば、基本的な権利として問題になるのではないか。 (不運な人は、さらに不運となることでよいのだろ うか) 2)障害者の通所サービスなどの施設が流されて、サービスが利用できなくなっている場合の障害者の 日常生活の支援は、どうなっているのだろうか。 3) 体育館の避難所は、一時的緊急避難所であるとはいえ、そこでの生活は、 (ア) 個人生活のプライバシーの尊重(若い女性が化粧をしているのが、周囲から見えるなど) (イ) 食事の栄養素やカロリー計算は、できていなくてよいのだろうか。 (4 か月経過して、菓子パンやカップ麺の食事でよいのだろうか) (ウ) 衛生面から、入浴回数は、確保されているのだろうか。 (本来、特別養護老人ホームでは、最低、週 2 回となっている) 注) :すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有すると規定する憲法第 25 条は、 適用除外となるのだろうか。 4) この文明の進んだ日本の中で、震災地の避難住民の生活と、東京での普通の日常生活が送られてい るこの地域格差は、やむを得ないものと黙認されてよい事実なのだろうか。 <引用> 日本国憲法 第 25 条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなけ ればならない。 これらの諸問題点は、我が国全体が抱えた大きな問題として取り組む重要な現実だと思います。 今後、関東や近畿地方でも地震が発生し、悲惨な生活が生じることも考えられます。 早急に解決すべき問題でありながら、複雑に地権などの問題が絡み合い、なかなか困難な現実だと いえます。 清重哲男 − 完 −
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