石塔婆 としての宝 医 印塔 につ いて 斎 木 勝 目 次 ・465 は じめ に ・……… ……… ………… ……… …… … …… ………… ………… ……… …… ……・ 1.埼 玉 県内 にお け る宝 医 印塔 の様 相 2。 ……・… …………… ……… …… ………… ………… ……465 ・…… ………… … ……… …… ………… …… …… ……467 群 馬 県内 にお け る宝 医 印塔 の様 相 … 3.銘 文 か らみた宝筐 印塔 の様 相 … …… …… …………… …… … ……………… ………… ……468 4。 宝医 印塔 の 各部 分 の 時代 的変遷 ……… …… ……・…… ……… … …………… …… …… ……473 5。 石塔 婆 の 時代 的変遷 ………・…… …… …… …… … …………… …… …… ……………… ……476 ・… ・… ・480 ・… ・… ・¨ ・¨ ・… ・… ・¨ ・¨ ・¨ ・¨ ・… ・… ・… ・… ・¨ ・¨ ・… ・… ・… ・… ・… ・¨ ・¨ ・¨ ・¨ ・¨ ・¨ ・¨ ・¨ ・¨ ・… おわ りに ¨ 斎 木 勝 は じめ に 当文化財 セ ンター『研究紀要』第 10号 に、関東型式宝筐印塔 の研究 を発表 した。当時、石塔 婆 に興味 をもってお り、板碑、五輪塔、宝塔 と各地 にそれ らを訪ねていたが、資料的 にもまと まりつつ あった宝筐印塔 について取 り上 げてみた。 発表後、先学 の 目に止 まり内容 について種 々 訂正 していただ き、また、指摘 もされた (1)。 特 にそれに従 つたわけではないが、多少 とも資料 の 捉 え方に変化 を来た したので、宝筐印塔 を主 に石塔群 につ いて改 めて論 じてみた い と思 う。 年令 を加 えるにつれ、人 々の死 に接す ることが 多 くな り、 その葬祭儀礼 とともに供 養す るこ との本質的な意味やその行為 について考 えるようになった。死 はなかなか理解する ことので き る事象 ではないが、遺体 を納棺 した り、 また、火葬後 の拾骨 を経 て も私 には供養する とい う形 はまだ まだ心のなかに結 ばない。死 とい うものは肉体 を腐 らせ ることか ら、屍体 へ の恐怖感、 あるい は嫌悪 感が強 くお きる一方で、残 された者 の悲 しみ とともに死者 へ の愛惜 の気 持 ちがあ るといった、矛盾 を生ずるのである。葬祭儀礼は こういった思 い をどう整わせ るかで展 開 され てきたのではないだろうか。 また、仏事供 養 の一連 の経過 の 中で供養するとい う気持 ちの現 れ を塔婆 に託す のであろうが 死 を確認する行為の中で まず親族知人の集合、接見、導師 の法会、講説、朗誦、施物 の奉施 な どを行 い、塔婆の設置 を迎 える。塔婆は現在で も形式化 したひ とつの形状 で しか有 り得な い。 あるい は、単 なる標識物 ともとらえられ るが、 そ こには現実 に死があ り、 また、悲 しみがあ り 何 か しかの葬祭 が執行 されてい たのであろう。 そういつた数限 りな い死 の形 の 中で供養的行為 の具現 した形が塔 婆なのである。 埼 玉 県内 にお ける宝筐 印塔 の様相 第 1図 は埼 玉 県内 にお け る宝 筐 印塔 の造 立数 の 変化 を、 武蔵 型板碑 と五 輪塔 の基 数 の推 移 を 掲 げなが ら表 示 した もので あ る。電 板碑 の造 立数 は、他 の石 塔 に比 べ 突 出 して い るので 、右 側 の縦 表 示 で 数百基 の単 位 とした。 宝筐 印塔 と五 輪塔 は左 側 の縦 表 示 の 数十基 の単位 で あ る。 また、数量 的 には10年 単位 の総 数 と した。 前稿 (3)で は、五 つ の 時代 区分 を示 した。1330年 頃 か ら1380年 代 の50年 間 は造 立数 は横 ば い とみ て い たが、 今 回、新 しい資料 を検 討 した結果 として1355年 頃 よ りの延文 、貞 治、応安 、永和 年 間 と急激 に造 立数 を増 や して い くこ とが、 指摘 で きる。 その他 は、前稿 との 内容 と多少異 な る が、 ほぼ同様 の事 項 を指摘 す る こ とが で きる。 ―‑465‑― 石塔婆 としての宝筐印塔 について 薩印塔 一―五 輪塔 ︑ ︲ ︲ ︲ ︲ ︲ ︲ ︲ ︱ 口 ﹈ ︱﹇ ﹇ ︲ ︲ ︲ ︲ llT宝 よ 四〇 醐 基 第 1図 T「 埼玉 県 内にお け る宝 医 印塔 造 立数 の 変化 宝医印塔 fh6e- - - - ――五 輪 塔 20 10 基数 西暦 岳 云 夭 言 二 活 責 夭 じ 世 サ │ たさ ‖ 哭 II I 上 ││ ナ ‑1・ 1・ 第 2図 =3・ ・ ・ ● ● =r[― 群 馬 県内 におけ る宝 医 印塔 造立数 の 変化 ―‑466‑― =、 =r 斎 木 造塔の ピークは、永徳、至徳年間の1380年 代、 その後の応永、永享、文安年間 にかけての急 激な減少、長禄年間 か ら天正 (1573〜 1592)年 間 にかけての数基 に至 るのである。武蔵型板碑 と 比較 してみると、総基数 において板碑の 5%の 造立 とい う ことが指摘 で きる。 板碑 の造立推移 をみると最古の板碑 は埼玉 県大里郡江南村所在 の嘉禄 3(1227)年 銘の阿弥陀 三 尊画像板碑 であ り ヽ その後、 1300年 までゆるやかな増加 を示すが、嘉元 。 徳治・延慶年間頃 より急速 に増加す る。 そして、 1360年 代 にピークを迎 え、 1430年 代 にかけて急速 に減少 し、 ま た増加傾 向を示 してい る。 その後 は若干の増減 を繰 り返 しなが ら1600年 代 には全 く造立 されな くなる0。 ただ、その年代的差 は約60年 、板碑造立 の変遷 が先行 してい る。 宝筐印塔 と板碑 は各 々造立数 が増加す る時点 の年代差 は約60年 で あるが、板碑が ピークを迎 えた康安、貞治年間に、宝筐印塔 は増加 の傾向を示 している。 また、板碑 は1430年 頃 に造立数の少な い期間がある。 1440年 か ら1500年 頃 にかけては造立 が 多 い。 この様相 は宝筐印塔 とは異なる ことで ある。 この点は、板碑の結衆化、 また、墓碑化 し た ことによる造立数 の増加、その背景 には板碑 の商品化 が一段 と進み、規格化 された小型板碑 が流布 した ことに もよるのであろう。 宝筐印塔 と五輪塔 の造立推移 を比較すると、五輪塔 の初現 は宝医印塔 よりわずかに早 い鎌倉 時代後期の単独的五輪塔 は確認 で きるが、総体的 に少ない まま1460年 代 を迎 える。 その後、宝 筐印塔 の造立 よ り五輪塔の造立が上回る ことが確認 で きる。 これは、板碑の増加傾向 と呼応 し ているので あろう。石塔の墓碑化 による事象なのであろう。 2.群 馬 県内 にお ける宝 筐 印塔 の様相 第 2図 は群 馬 県 内 にお け る宝 筐 印塔 の造 立数 の 変化 を、板碑 と五 輪塔 の基 数 の推移 と比 較 し なが ら表 示 した もので あ る。L 板碑 は埼 玉 県 に比 べ 造立 数 は多 くな いが、第 1図 の埼玉 県 の状況 と比 較 す る意味 で宝 筐 印塔 基数 の 1/10表 示 を踏 襲 した。 造 塔 の ピー クは、応 永年 間の 1410年 代 、 その後 、 永享 年 間 か ら永禄 年 間 にか けての急激 な減 少、 1460年 代 か ら1560年 代 の 多少 の 増減傾 向、 1580年 代 に は まった く造 立 され な くな る。 板碑 の造 立推移 をみ て い る と、 初 現 は前橋 市小 島 田町大 門跡 所在 の仁 治元 (1240)年 銘 の 阿弥 陀如来 坐像板碑 で あ る。 その後 、 1290年 代 まで徐 々 に増加 を示 し、 嘉元 、徳 治年 間 よ り増加 す る。 この傾 向 は埼 玉 県下 の状況 と同様 で あ る。 そ して、 1330年 代 には 1回 目の ピー クを迎 え、 1340年 代 に僅 か に減 少傾 向 を示 すが、再 び1350年 代 に 2回 目の ピー クを迎 える。 その後 、 1380 年代 にか けて急速 に減 少 したの ち、 1460年 代 にか けて徐 々 に造 立数 を減 少 させ て い く。 ―‑467‑― 石塔婆 としての宝筐印塔について 宝筐 印塔 と板碑 の造 立数 の推 移 は、板碑 の減少 期 に入 った1370年 に、宝医 印塔 は急激 な増加 期 を迎 えて い る こ とは埼 玉 県下 の状 況 と若干 異 な る様 相 で あ る。 これ は単 に板碑造 立者 が 板碑 か ら宝筐 印塔 に供 養塔 としての機 能 を求 めた とい う指摘 もあ るカメつ、まだ まだ、深 く検 討 を加 え るべ き事 項 の ひ とつ と考 えて い る。 宝筐 印塔 と五 輪塔 の造 立推 移 を比 較 す る と、五 輪塔 の初 現 は、宝筐 印塔 よ り約30年 遅 れ た正 応 6(1293)年 で あ る。 その後 、造立 数 は少 な い ま ま、 1350年 代 に ピー クを迎 える。 1370年 代 に は きわ めて少 な くな り、 その後 、 1390年 代 には10基 と回復 す るが 、若干 の増減 を示 しなが ら、 1450年 代 まで至 る。在 銘 五 輪塔 の みの判 断 は性 急 さが感 じ取 れ るが、 その後 1590年 代 にか けて 増減 を繰 り返 して い る点 は宝 筐 印塔 の様 相 と同様 で あ る。 ゛ 埼 玉 県 と群 馬 県 にお い て、今 回、石塔 婆 の悉皆 調査 の 資料編 が刊行 され たので資料 とした 電 在銘 資料 のみ に よる論 考 は、 あ る面 で は大 変 危険 な推論 に発 展 しや す い が、紀 年銘 をひ とつの 指 針 とした。 それ に よ り、宝筐 印塔 の造 立数 の変番 を比較 して み る と、数基 の単独 的造 立 もあ るが、 ほぼ、初 現 を1320年 か ら1330年 代 にす る こ とが可能 で あ る。 その後 の推移 は埼 玉 県 内 は 1380年 代 に ピー クを迎 えるの に比 べ 、群 馬 県下 で は何 回 かの増 減 を繰 り返 しなが ら1410年 代 に ピー クを迎 える。 その30年 の差 が あ る こ とは、荒 川水 系 の埼 玉 県長瀞 に原産地 を もつ緑 泥 片岩 製 の 武蔵 型板碑 (0の 造 立 が石 塔 婆造 立 に多大 な影響 を与 えて い るか らで あ ろ う。 3.銘 文 か らみ た宝 筐 印塔 の 様 相 (1)宝 医印塔造立の趣旨 石塔婆 を造立する ことは、何 らかの目的が込 め られて い ることは自明の ことで ある。 したが って、 その造立の趣 旨を求めるため には、刻 まれた銘文が手掛か りになることは言 うまで もな い。 今回、前稿 の資料 に加 え基本的な資料 とした埼玉県内の314基 、群馬県内の491基 の宝筐印塔 について、その銘文の初現 また終末の確認 をした上で銘文の変遷図 を表 してみた (第 3図 )。 まず、確認 で きる銘文で 多か ったのは、「・・ 逆修・・ 」 である。 これは、造立者 が生 前 に 自 分の極楽往生 を願 つて、あ らか じめ仏に対 して供 養す ることである。 また、「・七 分全得・ 」 も 生前 に死後の供養 を行 う ことで逆修 を勧 める意味 をもつ言葉 である。 その功徳 は死んでか ら遺 族 が造立 して くれて も功徳のわずか しか死者 に至 らないが、逆修 しておけばその功徳のすべ て が 自分の ものになるということで ある。時代変遷 をみると、1334年 〜 1536年 の約200年 にわたっ て確認で き、 また、「・ 七分全得・ 」 も確認 で きる時代 は短 いが、 その変遷の中に含 まれる。 ―‑468‑― 斎 勝 八 〇 九 〇 六 〇 七〇 四 〇 一五 五 〇 一 二〇 一〇 一一〇 一五 〇 〇 八 〇 九 〇 七 〇 六 〇 四 〇 一四 五 〇 一 二〇 一〇 一一〇 一四 〇 〇 八 〇 九 〇 六 〇 七〇 四 〇 一二 五 〇 一 二〇 一〇 一一〇 銘 暦 一三 〇 〇 西 木 文 ・ ・ 逆 修・・ ・ ・ 七 分全 得・ ・ (光 明真 言 ) ○○ 禅 門 ○○禅定門 〇〇 禅 尼 ○○禅定 尼 ○○ 善 門 ○○聖 門 ○ ○大 師 ○ ○比丘 ○ ○比丘 尼 ○ ○居 士 ○ ○信 女 ○○ 大 姉 〇〇法印 ○ ○禅 師 ○ ○和 尚 大檀那 ○ ○ ○ ○ 大担 那 ○ ○ 大旦 那 ○ ○○ ○ ○ ○庵 主 〇阿 弥陀 仏 阿 閣梨 ○ ○ 沙弥 ○ ○ 律師○○ 卜座 結衆 (願 (偏 文) ) 第 3図 宝魔 印塔 銘 文変遷 図 (2)宝 医印塔 を造立 した人 々 宝筐印塔 に刻 まれた供養者名 は、 そのほ とん どは類型的 な法名 で表 される。 それをまとめた ものが第 1表 である。本来 は、信者が各人の信仰の内容や得度 によって受 けることので きる称 号なので あるが、宗派 によって法名の命名の違 いがあるとい う。 宝筐印塔の銘文上で最 も多 く確認 で きる法名 は、男性 では「○○禅門」で147例 、次 いで「○ ○禅定門」の63例 、「○○善門」、「○○聖 門」 は同系の法名 と思われ る。女性 では「○○禅尼」 の86例 、「○○禅定尼」の12例 があげられ る。以上で310例 を数 え、供養者全体の約40%を 占め ている。「○○禅門」は「○○禅定門」、「○○禅尼」は「○○禅定門」の略であ り修行 を経 て授 けられ、仏様 の弟子 で ある ことを証する戒名 の一種 で ある。 この時代、武 士か在俗出家 した場 合 の法名 とみ られ る。 14世 紀初 めか ら時代 を通 じ、 16世 紀 の後 半 まで用 い られて い る。 「○○大師」は14世 紀 の後半 か ら16世 紀 の前半 にかけて確認 され る。 「○ ○比丘」、「○○比丘尼」は出家 し、具足戒 をうけた修行僧、 また尼僧 をい う。 1320年 代 か ら1410年 代 にかけての宝筐印塔 に確認 され る。 「○○居 士 」 、「○○信女」 、「○○大姉」 は在俗 の仏教信者 の戒名 につけた称号 で、 15世 紀前 半 よ り16世 紀 にかけて認め られ る。 「○○法印」、「○○禅師」、「○○和尚」は、僧位の一つ と判断 される。共 に時代 を通 じ認め ―‑469‑― 石塔婆 としての宝筐印塔について られ る。 「大檀那○○」、「大担那○○」、「大旦那○○」 は同 じ法名であ り、信徒 を指す。初現は徳治 3(1308)年 銘の鎌倉市安養寺塔 で あ り(1の 、 14世 紀 に主に認 め られる。 「○○庵主」 は僧庵 の主人 とい ったような意味 であ り、全体 で17例 を認 め、 14世 紀中頃 より 16世 紀 の 中頃 まで認め られ る。 「○阿弥陀仏」は13例 を数 え、 14世 紀 中頃 よ り15世 紀末 まで認 められ る。 「 阿閣梨○○」 は称号 として用 い られてお り、 14世 紀後半 か ら15世 紀前半 にかけて認め られ る。 「沙弥○○」は出家 してい るが、 まだ一人前の僧侶ではな い者 を指す。 しか し、中世では武 士の在俗 出家者 が名乗 る場合 も多か った。初現 は鎌倉市大町所在 の安養寺塔(11)に 認 め られ る。 「律師○○」 とは、僧尼 を統領する官職であった ものが、称号 として用 い られ るようになっ た。 10例 確認 され、 14世 紀 中頃 よ り16世 紀初 めにかけて用 い られる。 銘 埼 玉 県 (314例 文 初 現 ― 貞和 5 逆修 七 分全得 … (光 明 真 言 6例 ) 群 馬 県 (491例 ) 349)年 ,終 末 ― 天 文 5(1536)年 初 現 ―永 徳 2 382)年 ,終 末 ― 應 永 19(1412)年 初 現 ―延 文 2 357)年 ,終 末 一 文 明 15( 483)年 ) 1334)年 ,終 末 一 人 永 (1522)年 178例 初 現 ―正 慶 3 8例 初 現 ―永 和 5 1379)年 ,終 末 ― 永禄 12(1569)年 初 現 ―嘉 暦 4 1329)年 ,終 末 ― 永禄 5(1562)年 1383)年 ,終 末 ― 元 亀 3(1572)年 初 現 ―貞 治 7(1368)年 ,終 末 ―長 享 3(1489)年 〔〕 ()1単 Fヨ 77例 初 現 ―延 文 2 357)年 ,終 末 ― 永禄 2 559)年 70例 OO禅 35例 初 現 ― 永和 4 378)年 ,終 末 ― 天 正 7 579)年 28例 初 現 ―永 徳 3 16例 初 現 ―貞 治 5 366)年 ,終 末 ―享禄 4 531)年 70例 初現 ―応安 8 1375)年 ,終 末 ― 永 禄 n(1568)年 初 現 一応 安 3 370)年 ,終 末 ― 天 正 1 583)年 5例 初 現 ―應 永 19(1412)年 1例 初 現 ―應 永 4(1397)年 定門 ○ ○禅 尼 〇〇禅定尼 〇〇善門 00聖 門 ,終 末 ― 天 文 15(1546)年 初 現 ―應 永 6(1399)年 ○ ○大 師 ○○比丘 2例 ○○比丘尼 4例 〇〇居士 初 現 ―明 徳 5 394)年 ,終 末 一大永 3(1523)年 6例 初 現 ―延 文 3 358)年 0例 初 現 ― 永 和 3(1377)年 ,終 末 ―長 禄 2(1458)年 初 現 ―元 亨 3 323)年 ,終 末 一応 安 3(1370)年 2例 初 現 ― 應 永 18(1411年 ,終 末 ―應 永 25(1418)年 初 現 ―天 文 8 539)年 ,終 末 ―天 正 元 (1573)年 3例 初現 ―應永25(1418)年 ,終 末 ―永禄11(1568)年 〇〇信女 0例 1例 初 現 ―宝 徳 4 1452)年 〇〇大姉 7例 初 現 ―正 長 2 429)年 ,終 末 ―天正17(1589)年 7例 初 現 ―享 徳 2 1453)年 ,終 末 ― 永禄 5(1562)年 ○○法印 1例 初 現 ―天 正 13 585)年 2例 初 現 ―應 永24 417)年 ,終 末 一 応 仁 元 (1467)年 〇〇禅 師 2例 初 現 ―嘉 暦 3 331)年 ,終 末 ―至徳 3(1386)年 1例 初 現 一文 明 1 485)年 ○○和尚 5例 初 現 ―元 徳 3 331)年 ,終 末 ― 長 禄 5(1461)年 大 檀 那○ 〇 〇 1例 初 現 ―元 亨 3 323)年 5例 初 現 一大 永 2 522)年 初 現 ―暦 応 4 341)年 ,終 末 ―應 永 4(1397)年 大担 那〇 〇 0例 2例 初 現 ―貞 和 3 347)年 ,終 末 ―應 永 17(1410)年 大 旦那 ○○ ○ 0例 1例 初 現 ―貞 治 3 347)年 初現 ―應永 2(1395)年 ,終 末 一大永 4(1524)年 6例 初 現 ―康 安 元 361)年 ,終 末 ― 弘 治 3 年 ,終 末 一 応 仁 2(1468)年 12例 初 現 ―暦 応 2 339)年 ,終 末 一文 亀 3(1503)年 ○○庵主 H例 初 現 ―観 応 2(135 ○阿弥陀仏 557)年 阿閣 梨○ ○ 3例 初 現 一 応 安 8(1375)年 ,終 末 ― 永享 13(1441)年 3例 初 現 ―明 徳 5 394)年 ,終 末 ―應 永 31 沙弥 〇〇 7例 初 現 ―元 亨 3(1323 年 ,終 末 ― 永享 10(1438)年 8例 初 現 ―暦 応 4 341)年 ,終 末 ― 永 享 3(1431)年 律師〇〇 51● 53可 初 現 ―明 徳 3 392)年 ,終 末 ― 永 正 5(1508)年 1例 初 現 ― 永 享 10 1438)年 l 初 現 一文 和 3(1354)年 ,終 末 一文 明 3(1471)年 上座 初 現 ― 天 正 3(1575)年 結衆 初 現 ― 延 文 5(1360)年 ,終 末 ― 永享 (143P)年 第 1表 21例 初 現 ―康 永 3(1344)年 ,終 末 ― 嘉 吉 3(1443)年 宝筐 印塔 銘 文初 現 。終 末 一 覧表 ―‑470‑― 424)年 斎 木 「上座 」 とは、徳 のす ぐれた修 行僧 、 あ る い は教 団 の長 老 を称 した。 2例 に とどま り永享 10 年 と天正 3年 の 2例 が確 認 され る。 「結衆 」 を銘文 に刻 み込 んだ 、宝筐 印塔 は42例 を数 える。初 現 は神奈 川 県足柄 上 郡 大井 町所 在 の余 見塔 の嘉元 2(1304)年 銘 の宝 筐 印塔 で あ る(12)。 15世 紀 の 中頃 まで続 い て確認 され る。 その他 、身分 を示 す 資料 として は、渋 川市金蔵 寺所在 の康 永 2(1343)年 銘塔 (13)の 銘文 中 の「源 義秀 」、 また 、群 馬 県新 田郡 常楽 寺跡 所在 の康 永 3(1344)年 銘塔 (10の 銘文 中 の「大 中臣光重 」、 同 じ く「大 中 臣賞吉 」 な どが あ げ られ る。 これ らは、明 らか に武 士 階級 を示 して い る。宝筐 印 塔 の造 立者 は、 その多 くが武士 階級 で あ った と言 って も過 言 で はな い。 (3)偶 偶 とは経典 等 にあ る詩文 で、仏 の教 えや仏教 の基 本 を述 べ た もので あ る。儡 を刻 まれ て い る の は10基 で全 体 に 占 め る率 は、 1.2%で あ る。そ の種 類 は埼 玉 県 内 の宝 筐 印塔 で は 9種 、群 馬 県内の宝筐 印塔 で は 1種 で あ る。 なお、埼玉 県 内の板碑 で は、 95種 確 認 され てお り、 全体 に 占 め る割 合 は 5 3%と 報 告 され て い る (151。 順 に全 文 と出典 をあ げ る と以下 の よ うにな る。 1「 十 方 佛 土 中 唯有 一乗法 無 二無三 除佛 方便 説 」宝 筐 印塔 資 料 集 (補 遺 )18 延 文 5 我 等与衆生 皆 共成 佛道 」宝筐 印塔 資料集 (補 遺 )52 応安 8 (1360)年 、法 華経 方便 品第 二 2「 願 以此 功徳 普及於 一切 (1375)年 、宝筐 印塔 資料集 (補 遺 )70 永和 5(1379)年 、法華経 化城 諭 品 3「 若 有 聞法者 無 一 不成 仏 」宝筐 印塔 資料 集 (補 遺 )70 永和 元 5(1379)年 、 法華経 寺 方便 品 4「 応 無所在 而生 其心 」宝筐 印塔 資料集 (補 遺 )70 永和 5(1379)年 、金 剛般 若経 5「 若人欲 了知 三 世 一切 佛 応 当如是観 心造諸 如来 」宝筐 印塔 資料 集 (補 遺 )89 至 徳 3 (1386)年 、華厳経 夜 摩 天宮菩 薩説掲 十 六 6「 諸行 無常 是 生滅 法 生滅 々 己 寂滅 為 楽 」宝筐 印塔 資料集 (補 遺 )89 至 徳 3(1386)年 宝筐 印塔 資料 集 (補 遺 )38 文安 4(1447)年 、涅 槃経 7「 光 明遍 照 十 方世界 念仏 衆生 接取不 捨 」宝筐 印塔 資料 集 (補 遺 )116 康 応元 (1389)年 、 宝筐 印塔 資料 集 (補 遺 )169 應 永 12(1405)年 、群 馬 県222 應 永 21(1414)年 、観無量 寿経 8「 十 方 三 世 佛 一 切 諸 菩薩 八 方諸聖教 」宝医 印塔 資料 集 (補 遺 )139 應 永 5(1398)年 、浄 土教 古徳 之掲 9「 於 我滅 度後 応 受 持 斯経 是人於佛道 決 定 無 有疑 」 宝筐 印塔 資料 集 (補 遺 )181 應 永 17(1410)年 、 法華経 如 来寿量 一‑471‑― 石塔婆としての宝筐印塔について この うち、 2の 「願 以此功徳 〜 皆 共成佛道 」 の法 華経 化城 諭 品 か らの偶 文 は、箱根 の箱 根 山塔 (16)ゃ 興福 院塔 (1つ な どに も認 め られ る。 年代 的 な広 が りは、 永仁 4(1296)年 か ら文安 4(1447)年 に造 立 され た宝筐 印塔 に掲 は認 め ら れ、 13世 紀 最 末期 か ら15世紀 の 中頃 とい うよ うな時代 の長 さが あ る。 関東 にお いて は宝 筐 印塔 造 立 とと もに、石塔 の銘文 に偶 を用 い て その信仰 の拠 り所 に して い た こ とが理 解 され る。 (4)願 文 宝筐 印塔 に願 文 を刻 むの は、埼 玉 県内 は17基 (稿 未 の宝 筐 印塔 資料 集 (補 遺 )別 掲 )、 群 馬 県 内 は15基 の 合計 32基 で あ る。埼 玉 県 内の資料 は資料 番号 で 13、 79、 1 2 3 100、 103、 113、 116、 140、 14、 21、 29、 33、 37、 40、 48、 65、 193で あ る。 ここで は群 馬 県 内 の15基 を以下 に示 す(10。 181、 右 為 千部経 供 養」奉造 立 賢医塔 一 」基 」結衆 六人 僧 □十 二 人 暦應 4(1341)年 康 永 2(1343)年 右 志 者為過往 」源 義秀聖 霊 」乃至法界平 等也 右造 立志者 為光 明」真 言別 時結衆 三 十 」 二 人 各 々 逆修善根 」乃 至法 界 平 等利 益也 康永 3 (1344)年 4 5 6 7 右志 者為過 去 慈 父悲母 」之 幽儀 乃至法界 衆生 」平 等利 益也 右志 者為 千部経 」供 養也 大 中臣光 重 」敬 白 康 永 3(1344)年 康 永 3(1344)年 右奉造 立 賓」筐塔 一 基奉 」書 罵妙経 三 」部側 逆修 如件 」願 主大 中臣賓吉 貞和 2(1346)年 右志 者 一 結衆 中」八 一 成得 山合 力」造立 石塔 祈 一 」妙衆 □沼龍 王」 □ □□八 幡 白山 貞和 2(1346)年 8 9 右 為 亡 父」蓮光 片 三 」年也 10 右 □」法益 」法性 」霊」諸 尊重 」頓證 □」乃 至法 界 」衆生 平 等」利 益也 11 右 志者 為」慈 父悲母 」奉造 立 □」塔 一 基 」立聖 霊 □」佛 □道 □ 12 右 為 一 結衆 四十 余人 現営」二 世 祈願 円満成 佛得 道 」乃至法界衆 生平 才利益也 右 意趣 者為 」法界 平等 □ 文和 4(1355)年 延文 2(1357)年 延文 5(1360)年 康 安元 (1361)年 應安 元 (1369) 年 13 右 意趣 」諸 生 14 謹 奉造 立 」石塔 婆為」諸位 檀越 」 一 結諸 衆 」現世安穏 」後 生善 虎」有縁 無縁 」諸有情類 」 諸 檀 」那等 敬白 應安 4(1371)年 見佛 聞法 」 同證 佛 果」及以 法界 」平等利 益 15 右 意趣 者」過 去 □岩 」喜公庵 主 永徳 4(1384)年 應 永 14(1407)年 願 文 に は、石塔 や仏像 な どを造 立 した際 にその願 いの趣 旨 を述 べ た り、 また、故人 の た め に 作善追 福 を営 む施 文 の願 意 を述 べ た銘文 な どが あ る。 群 馬 県 内の 15基 で み る と、宝 筐 印塔 な い しは石塔 を造立 して期待 す る願 い を託 した もの は、 一‑472‑― 斎 番号 で、1、 4、 6、 7、 14の 4基 、追善供養 をあ らわす もの には、 2、 4、 9、 木 勝 11が あ り、2、 11は 慈父悲母の供養の為の造立である。 年代的 には暦応 4(1341)年 か ら應 永22(1415)年 に造立 された宝筐印塔 に願文 は認め られ、宝 筐印塔が最 も数多 く造立 された時期 に並ぶ。 以上の ように銘文か ら造立趣 旨をみる ことによ り、塔 としての位 置 づけも変遷 がある。造立 者 の生前供養 として建立す る逆修塔 は、時代 を通 して造立 されて い る。対象 となる教 典や仏 の 供養 を目的 とした広い意味の供養塔 は、宝筐印塔 とい う塔形が確立 された 当初 よ りみ られ、変 遷上 は15世 紀 中頃 まで確認で きる。 それは、仏の教 えを詩文等 に託 してある「掲」 を刻 む塔の 確認 か ら考 えられ る。 1450年 代 になると宝筐印塔の造立 も急減 し、石塔 としての趣 旨は変化 して くる。銘文か らは 「○○居士」、「○○大姉」、「○○法師」の法名が確認 され るようにな り、墓塔 としての造立 が 明瞭 になる。また、館 山市竹原光堂の弘治 3(1557)年 銘塔及 び永禄銘塔 の ように、仏像 を レ リー フとして刻 む ことによ り勧進 し、その下 に法名 を刻 む形式 もある。 4.宝 筐印塔 の各部分 の時代的変遷 (1)反 花座 宝筐 印塔 の反 花座 の反 花 に着 目 し、形 式 分類 して時代 的変遷 につ い てみ てみた い (第 4図 )。 まず、反 花 は素 弁 と単 弁 と複 弁 に分 け られ る。 素弁 は蓮弁 の輪郭 や 葉脈 の刻線 もし くは稜線 を 配 す るか何 も表 さな い ので あ る。単 弁 は、蓮 弁 の 弁 中 に子葉 1個 を配 す る もので あ り、複 弁 は 子葉 2個 を配 す る もので あ る。複 弁 には、隅部 分 を除 いて正面 に、 二 葉 、 三 葉 、 四葉 、五葉 が あ る。単弁 は、現状 で確 認 され てい る石 塔 として は、神奈 川 県の余見塔 (19と 円光 寺塔 (2の が挙 げ られ る。 年代 的 に嘉元 2(1304)年 頃 で宝 筐 印塔 として も初 発期 の もので あ る。 その後 、規格 的 に も多 くの石塔 が 輩 出す る1330年 代 にか けて、複 弁 の二 葉 、 三 葉、 四葉 、 五 葉 の各形 式 が確 認 され て い る。 上面 に蓮 弁 を刻 む につ い て は、規模 が大 き くなれ ば葉 数 が 増 え る こ とで あ る。 造 立 数 が 爆発 的 にふ えて い く1350〜 1380年 代 に、複 弁 二 葉 あ る い は複 弁 三 葉 が反 花座 の形式 として は確 立 して い る。規 格 的 に も大型 の宝 筐 印塔 を造立 す る こ とが な くな り、 大 きさ も一定 にな る こ とに よ り、基礎 を納 め る台座 としての反花座 は、 その蓮弁 の設 置 数 も規 格化 され て い った とみ るべ きで あ ろ う。 (2)笠 宝筐 印塔 の 部材 の なかで最 も特徴 的 な形状 で あ る笠 につ いて、 時代 的変遷 につ いて みてみた 一‑473‑― 石塔婆としての宝筐印塔について い (第 5図 )。 部 材 か らすれ ば、塔 身 を守 る屋根 (笠 )の 位 置 を占め る。 着 目 した部位 は、 笠 下 の段 数 と軒 上 か ら露盤 に至 る部分 の段 数 で あ る。段 数 に よ り、石塔 の 全体 的 な バ ラ ンスが 保 たれ、 その系統 が垣 間見 られ の で あ る。 な お、露 盤 は、輪郭 を巻 い て い 脚 単 弁 複弁 二 葉 1瘍 複弁 三葉 岬 ︵ 鎌倉 時 代 ︶ 1靱 〇 … │〔 コ 口 〔 ワ 複 弁 五 葉 複 弁 四 葉 │ 囲 ∈つ 回 │ 田 0 5 3 . ︵ 南北朝時代 ︶ 0 一 8 0 4 室 町時 代 ︶ ︵ 152() F囀 第 4図 宝 医 印塔 ・ 反花座 の 時代 的 変遷 (縮 尺 1/40) 一‑474‑― 囲 笠下3段 ・ 軒上 7段 笠下 2段・軒上5段 鎌倉時 代 ︶ ︵ 鯰ヅ隧 ﹁ 自曇 厖鯰≦笏 ︵ 南北 朝時 代 ︶ ︵ 室 町時 代 ︶ 第 5図 宝 医 印塔 ・ 笠 の 時 代 的 変遷 (縮 尺 1/40) 一‑475‑― 石塔婆としての宝筐印塔について た り、石塔 によっては、 その内側 に格狭間を刻出 してひ とつの部位 とさせ る場合 もあるが、塔 形 か らすれば笠 材 の段形 のひ とつ と考 えられ る。 まず、大 きくは笠下の段形 は 3段 の もの と 2 元徳 4(1332) 段の もの とに分 けられる。前者 の場合 は、 比較的古 い様相 として捉 える ことができ、 年以降は見当た らない。 また、後者の場合 は、徳治 3(1308)年 が初現 で あ り、その後、近世の 宝筐印塔 まで続 く。 軒 上の段数 は、 4段 か ら 7段 まである。段数 が 多 い とい う ことは造塔 上 どのような ことで あ ろうか。視覚的 にみれば、相輪 に至 る流れが重厚 さをもち、 また、段形数 が少ない とシンプル さを示 されるのではないだろうか。 第 5図 で示す ように、軒上 7段 は当初 よ り認 め られ、 1320年 代 にはすべ ての段数 が示 され る ようになる。 1340年 代以降 になる と笠下 2段・ 軒 上 5段 の形式が主流 となる。規模的 にも小型 化の傾向を示すが、 この形式が脈 々 と継承 される。 しか し、笠下 2段・ 軒上 4段 、あ るい は軒 上 6段 もわずかなが ら散見する。 ここで指摘 で きるのは、 関東型式 の宝筐印塔 にあっては、初現後、笠下 3段・ 軒上 7段 の段 形 をもつ石塔が 1320年 代 の段階 で各部位 が きわめてバ ライティに富んだ様相 を示 したが、 その 後 の爆発的造立数 の増加時 には、笠 下 2段 。軒上 5段 の宝筐印塔 にまとめられ、塔形 として も 形成 されて いった ことが推察 される。 5。 石 塔 婆 の 時代 的 変 遷 ここでは、宝筐印塔、五輪塔、板碑 と中世を代表する石塔婆を同一縮尺 (1/40)で 掲図 し、 13世 紀 か ら16世紀 の変遷 の 中 で概観 してみた い (第 6、 7図 )。 各 々の 石塔 婆 の初 現 をみ る と、宝 筐 印塔 は鎌倉 市 内や ぐら出上 の宝治 2(1248)年 銘塔 、 それ に関東 で は、茨城 県 の宝 筐 山塔 (弘 長 期 )が 続 く。 五 輪塔 は、岩手 県 中尊寺 の仁 安 4(1169)年 銘塔 が初 現 で あ り、 それ に続 い て掲 図 してあ る大 分 県 中尾 の嘉応 2(1170)年 銘塔 が あ る。 板碑 は、埼 玉 県江南村 須賀 広 の嘉禄 3(1227)年 銘 の 弥 陀 三 尊板碑 が 現在 で は最 も古 い紀 年銘 を もつ。 それ ぞれ の石塔 婆 で あ るが 、初 現 は各 々 か な りの差 を もつ。 しか し、 13世 紀 の後 半 に至 る と 造 立 数 も増 えて い き、 14世 紀初 めにな る と規模 も大 き くな り、塔 形 として も確 立 され る よ うに な る。 板碑 は、 1360年 前後 の ピー クに向 けて爆発 的 に造 立数 が 増 えて い くが、 宝筐 印塔 は1410年 頃 を最 高基 数 として造 立 数 を増 や す。規模 も14世紀 前半 に比 べ 、小型化 して い く。板碑 は追善供 ―‑476‑― 斎 木 勝 養 を主体 としていたが逆修が一般化する。 15世 紀 に至 ると、造立数が急減する。 15世 紀中頃 より後半 にかけて宝筐印塔、五輪塔 は極 めて少ない。 板碑 は、 15世 紀 中頃 より規格化 され、小形の板碑 となってい く。 16世 紀 に至 ると絶対的造立 数 は少ない ままであるが、宝医印塔、五 輪塔 はそれぞれの地方の在地の石材 を用 いた石塔婆 と して発達する。板碑 は1600年 頃 には造立 されな くなる。 宝筐印塔、五輪塔、板碑の造立 について、埼 玉 県下 で実施 された 中世寺院跡 の詳細分布調査 の 中で報告 されてい るので、引用 したい。1ヽ まず、調査成果 として以下のような結果である。 1 中世 に編年 され る石塔婆 が境内 より確認 された 中世寺院 は、総数2,306ヶ 所の うち1,035ヶ 所 (45%)で ある。 2 宝筐印塔 を確認 した寺 院 は、209ヶ 所 で全体の約 9%で あ り、その総基数は481基 で 1寺 院 あた り平均 して 2.3基 で ある。 3 五輪塔 を確認 した寺院 は、 235ヶ 所で全体の約 10%で あ り、 その総基数は396基 で 1寺 院あ た り平均 して 1 4 6基 である。 板碑 を確認 した寺院は、91lヶ 所で全体の約40%で あ り、 その総基数 は7,102基 で 1寺 院あ た り平均 して 8.6基 で ある。 以上 を含んだ上で、造立基数 で捉 える と宝筐印塔 の全体 に占める率 は 6%、 五輪塔 は 5%、 板碑 は89%で ある。 これ を、在銘 資料 で造立基数 を捉 えると以下の第 2表 になる。 必 宝筐 印塔 埼玉県 3141書 (註 22) (3%) 群馬県 491基 (註 23) (194%) 第 2表 五 輪塔 130芝 書 (1.3%) 210芝書 (8.2%) 板 碑 9,757を 書 合計 基数 10,2011書 (95.7%) 1,8362書 2,5372書 (72.4%) 在銘 資料 よ りみ た、石塔 婆造 立基 数 の百分 率 これ らの 資料 に基 づ き、各石塔 婆 の 中世 にお ける在 り方 を推 察 す るな らば、在 銘 資料 として 把握 され て い る形 よ りも、 無作 為 に悉皆 的 に調査 され た、埼 玉 県内 の 中世 寺 院跡 の詳細 分布 調 査 (2つ の成 果 を尊重 した い。 す なわ ち、板碑 は極 めて卓越 した造 立 で あ るが 、宝筐 印塔 と五 輪塔 はほぼ 同様 な造立基 数 で あ った と思 われ る。 変遷 の上 で は、 まず板碑 が 先行 し、 その後 宝筐 印 塔、続 い て五 輪塔 が造 立 され てい った と考 え られ る。 一‑477‑― 石塔婆 としての宝医印塔 について Irzoo I r3.oo 廼 灯 宝 薩 印 塔 lq踪 ¬l ヵFヽ 五 輪 塔 ⌒ 一‑478‑― ●■■ 形態 でみ る石塔 婆 の 時代的推 移 (13・ 14世 紀 ) ^絆 ︱■ ^ 第 6図 一 手⁚ ∴││:熙 由 │:蠅 重 lsifl-#C | 16tftd 量晰画 轟 冒 第 7図 佳 一 藝Ⅷ 轟圏7 i ▲ 響 : 鉦 禽 形態 でみ る石塔 婆 の 時代 的推 移 (15。 16世 紀 ) ―‑479‑― 石塔婆 としての宝筐印塔 について お わ りに 前稿 も含 め、宝筐印塔 とい う石塔婆 か ら中世の葬制 。墓制 を考 えてきた。現在の い ろいろな 論調 の 中で石塔 婆 を石造美術的にみるあまり、建立場所 の調査がおざな りになっているのでは ないか とい う指摘がある125、 それは、考古学 を学び、多 くの発掘調査 を実施 して きた私 に とっ て常 に気 になることで あ った。我 々が遺跡調査 をしてい ると、明確 に機能が確定 で きる遺構 よ り、性格不明の遺構が多 い。埋没状態 や、伴 出遺物、形状、規模、規格 によ り、民俗例 を参考 にしなが ら理化学的な分析手法 も併用 して機能 を推定考察するものである。特 に土坑 について は、 その語彙 の示す とお り全 く性格、機能不明 で総称 して い るわけで、調査手法 も平面形 を確 認 した上で微細 なる埋入物 に も注意 しなが ら調査 を実施する。 機能上 、明確 に墓坑や採掘坑、貯蔵庫 と推定 で きるもの もあるが、単独か群 として構成 され ているか、全域 を精査 した上で、位 置付 けを明確 にで きることもある。 遺跡 に確認 トレンチを設定 し、表土 を除去 したのち極めて浅 い面 で骨蔵器 を確認する ことが ある。その骨蔵器 には どの ような施設が設 けられていたのか、地上 に土盛があ ったのか どうか、 板塔婆 があるい は建 て られて いたのか、墓地であるとい う ことは、地 上 に標識 をどの ような形 態 で設置 していたのか、調査成果 を越 えていろい ろ推察 す ることが常であった。 宝筐印塔 は供 養塔婆なのであるか ら、供養のために造立 された ものである。中世の人 々の 日 常的な信仰生活 の 中 にあ って、供養塔婆 を造立 しようと発願す るには何 らかの動機が必要であ る。無意味 に造立するものではない。 その動機 と思われ るものを推察 するには銘文 しかないで あろう。 しか し、石塔 に刻 まれた銘文 は前述 した ように造立者のすべ ての宗教的行為や心情 が 語 られて い るものではない。 きわめて限定 された一面 を示すに過 ぎないで あろう。後世 に伝 え るため、作善 としての位置 づ けを記録 した いため、刻むべ き事柄 は大 変多 かったに違 いない。 盛 り込 まれる事柄 は限定 せ ざるを得 なかったのであろう。 この宝筐印塔 をもって、歴史叙述の 史料 としようとするとき、それ はあまりに も限定性のある史料である ことを認識 していなけれ ばな らな い。 考 えるに、葬 は単なる墓の調査や成果 では復元で きることではない。 中世 の人々の集落 や居 住形態や信仰の生活 か ら石塔婆 を解明する ことも私 に科せ られた課題であると考 えて い る。 一‑480‑― 斎 木 勝 註 (1)千 々和到 「上行寺 と上行寺周辺の中世 資料」『三 浦古文化」第40号 1986 千 々和到氏 には著書の贈呈 をうけ、大変啓発 され ることが多か った。 また、氏 に紹介の労 を とられた、吉野 弘子氏 (旧 姓紀井 )に は、 当時同 じ職場 で共 に指定文化財 の調査、保護 に奔走 した同僚 として も感謝の気持 ち が絶 えな い。 (21 埼玉県 『新編埼玉県史』資料編 0 9 中世 5 金石文 。奥書 1989 拙稿 「関東型式宝医印塔 の研 究」『研究紀要』 10 に)有 元修 ―「埼玉県」『板碑 の総合研究 2 (51 埼玉県立博物館 『板碑』特別展図録 1982 )群 馬 県 『群馬県史 0 資料篇 8中 世 4』 (財 )千 葉県文化財 セ ンター 1986 地域編』 1983 1988 近藤義雄 「遺物 と中世 の信仰」『群馬県史 資料篇 8中 世 4』 1988 18)註 2及 び註 6に 同 じ (9)坂 話秀一「板碑石材採掘地 の調査」 F立 正大学北埼玉地域研究セ ンター年報』第 15号 1992 00 畑野経夫 「重要文化財安養院宝医印塔保存修理工事報告書』 1980 0〕 註 10に 同 じ 0)川 勝政太郎 「関東形式宝医印塔 の成立」『鎌倉』第 4号 00 群馬県 「群馬 県史 00 註 13に 同 じ158頁 aD註 資料篇 8中 世 4』 1960 1988 157頁 4に 同 じ 00 三浦勝男他 『鎌倉 の宝医印塔 』鎌倉 国宝館図録第22集 1978 0ゆ 川勝政太郎 「大蔵派石大工 と関係遺品」『史述 と美術 』第449号 1974 00 註 8に 同 じ 09 註 12に 同 じ 20 註 12に 同 じ │〕 埼玉県立歴史資料館 『埼玉の中世寺院跡』 1993 旧版 の『埼玉県史』、『新編武蔵風土記稿』に記載 された中世寺院跡 を抜 き出 し、 それ らを参考 に昭和 58年 度 か ら4ヵ 年計画で『埼玉県寺院跡調査」、昭和63年 度 か ら平成 3年 度 まで、「中世寺院跡調査』を実施 した。石 造物 の埼玉県下の悉皆調査 である。石塔婆 については移動 の可能の ものであ り、あるいは寺院 に集め られた可 能性 も高 い と指摘 してい る。 122)註 2に 同 じ、なお、板碑 に関 しては註 5に 同 じ 0)註 8に 同 じ (m 註21に 同 じ 19 坂詰秀一他 「中世 の石塔 と葬制」「仏教考古学講座』第 I巻 付録 1971 ※第 6、 7図 作成 に関 しては、下記の文献 を引用 した。 ・ 宝筐印塔 ・ 五輪塔 拙稿 「関東型式宝筐印塔 の研 究」『研究紀要』 10(財 )千 葉県文化財 セ ンター (財 )大 和文化財保存会 『奈良県史蹟勝地調査會報告書第 H回 』 1914 ―‑481‑― 1986 石塔婆 としての宝筐印塔について 坪井良平 「山城木津惣墓墓標の研究」『考古学』第10巻 第 6号 1939 望月薫弘「千葉市内の五輪塔調査報告」『千葉市文化財調査報告第 1集 』1976 鈴木 武 「摩耶山の一石五輪塔群資料」『歴史考古学』第 9号 1982 ・ 板碑 青梅市教育委員会 『青梅市の板碑』1980 (千 葉県立房総のむ ら普及課 ) ―‑482‑― 斎 木 勝 宝筐 印塔 資料集 (補 遺 ) 番号 1 西 暦 年 銘 所 在 地 所 有 者 1338 建武五年 南埼玉郡白岡町白岡961 興善寺 銘 文 覚 □□ □」 □□ □ □ 2 1345 康永四年」正月十九日 上 尾 市 平 方 領 領 家 785 清真 寺 3 1348 貞和第四成子」十月上旬 入 間 郡 日高 町 高 麗 本 郷 高麗本郷 □□宝塔 」比 丘 □□立 4 1349 貞 和 五 」 年 己丑 五 」 月四 日 比 企 郡 ガ寸│1町 下 里 1857 大 聖寺 日本 国武 州比 」 企 郡 下 里 郷 大 」 聖 庵 為逆 修 貞 」 吉 之 責医 印塔 」 一 基 所 立 如件 観 応 二 年 大 才 辛卵 十 月十 八 日 深 谷 市 大 谷 632 小林 一雄 □ □弥 □仏〜 」比 丘尼 妙 □ 6 1353 文和 二 」 六 月 日 鴨 川 市 平塚 大 山寺 一緒衆 」敬 白 7 文和 三 年 甲午 」 □ 月□ □ 深 谷 市 西 島 203 瑠 璃光 寺 □十 八」律 師 宝 賢 8 文和三年甲午」八月廿三日 行 田市 下 忍 24552 明 光寺 □寺開山」有覚侍者 宝医印陀羅尼〕 9 延文□」八月廿四日 北 埼 玉 郡 騎 西 町 鴻 茎 1952 寿 昌寺 延 文 二 年 八 月二 日 深 谷 市 人 見 1404 浅 間神社 夫以真如海中絶」生佛仮名然則」 殊以貴釈尊金〜大施主大夫四郎家 守」敬白逆修 (光 明真言〕 延 文 二 年 J十 月廿 九 日 南 埼 玉 郡 白 岡町 自岡961 興善寺 □ □□」 □逆修 也 □J覚 実禅門」EE修 」Ξ□」界有 情J同 円種J智 者 延 文 式 年 」 丁 西 」 □ 月十 六 日 1358 1360 1362 21 1365 1366 (笠 部に 延 文 三 年 戊 成 」 二 月廿 八 日 大 里 郡 花 園 町 荒 川 153 金井慶之 右 志者 為」勧 進比 丘」結縁 諸壇 」 施 主 孝 行 」只 芥 子 納 J須 弥 園城 J 樹 木 素 不 J委 毛 端 入 」 大 海 不 痛 」 延 文三 年二 月 日 大 里 郡 寄 居 町 藤 田249 極 楽寺 右 志 者 為 勧 J進 上ヒ丘 丼 結 」 縁 諸 壇 施 主 」 孝 行 只 芥 子 」納 須 弥 園城 」 樹 木 素 不 委 J毛 端 入 大 海 」 延文三年戊戊」卯月廿六 日 大 里 郡 花 園 町 荒 川 153 金 井慶 之 以擬 迷 故 顛倒 善 不 作 堅水 又 延文三年戊成」卯月廿六 日 大里郡岡部町針ケ谷1324 弘光 寺 為 □摩 羅 」 弥 □ □ □」 □ □ □ 内 」 唯 □ 唯 我 」 和 □ 密 □」 邪 見 即 心 」 右 造 立 之 」 旨趣 者 為 」 延 文五庚 子」卯 月 日 鴻 巣 市 箕 田 2034 宝 持寺 為律師弁祐」□修敬白 延 文五 」 十二 月廿 日 入 間 郡 毛 呂山町 大 谷 木 609 村 本 浩一 十 方佛土 中」唯 有 一乗法 」無 二亦 無 三 」除 佛 方便 説 」大 和 守 入 道 崎 J 結衆 十 六人 延文六年辛」丑八月時正 行 田 市 小 見 n25 真観寺 沙弥善性」禅門逆修 法 性 変作 J無 明 □ 諸 」 善 等 如寒」 □□水寛 」 如 眠 来 有 J種 種 EJ (光 明真言〕 国阿 弥 陀 J佛 閉 眼 康 安 二 年 」 二 月六 日 康安二年十月」廿八 日 児玉郡神川町関 口400 幸 春寺 右 造 立 意 趣 J者 為 」 西 念 禅 門 也 康 安 二年 十 一 月 日 大 里 郡 妻 沼 町 日向 607 増 田順 一 覚阿」国阿」往阿」覚恵」来阿」 智阿」宣阿」明頓」妙寿□□□阿」 貞 治二 二 」年 二 月 秩 父郡 皆 野 町 三 沢 神 楽 場 曲木 貞 治 」 乙 巳六 」 月五 日 飯 能 市 中居 100 宝 蔵寺 □□ □照」禅 門 貞治五年丙午」五月十八日 坂戸市塚越567 西光寺 古牛和 尚 貞治五」年」五月二十 朝 霞 市 岡 2556 本仙 寺 歿故 」契 恩 」禅 尼 □□□」□□□」□ 貞 治五 年」 五 月□ 日 貞治五年」丙午九月十日 川 越 市 笠 幡 4451 延命 寺 大興開山元J二 邊公和尚 貞治五年」□月」□月 上尾市畔吉 太子 堂 墓地 敬 白」 右 志 意 」 趣 者 」 沙 弥 徳 阿 」 弥逆修 貞 治 六 年 丁 未 」 二 月十 一 日 児 玉 郡 上 里 町 大 御 堂 1151 吉祥 院 道□ 地 □禅 尼 」I □作 善 也 貞 治 六 年 丁 未 」 二 月」 □ □ 貞治丁未」八月時正 南埼玉郡宮代町東410 ―‑483‑― 西光 院 J逆 修」□ 逆 修 沙 門 聖 幸 J奉 造 立 逆 修 聖 幸 石塔婆 としての宝医印塔 について 1369 1375 1368‑75 1375 1378 妙 喜 」禅 尼 」 衆生 」 平等 」 □□□〜 貞治□□」□□月日 北 埼 玉 郡 川 里 村 屈 巣 2147 応 安 元 戊 申」 六 十 七 日 北 埼 玉 郡 騎 西 町根 小 屋 485 応 安 元 戊 申」 十 月十 二 日 久 喜 市 上 清 久 673 常 徳院 応 安 二年卵 月 北 埼 玉 郡騎 西 町 日出安 1286 保寧寺 応安二」季五月□ 児 玉郡 上 里 町 大 御 堂 1151 吉祥 院 □」十 応安二年己□」七月十三 日 児 玉 郡 児 玉 町秋 山 1123 日輪 寺 光 □法 印 □□ 応 安 二 年 J己 酉 七 月廿 八 日 大 里 都 江南 町塩 420 常安寺 右 志 者 為 J過 去 栄 寿 」 聖 霊 相 当 J 第 四 十 九 日J出 離 生死 」頓 証 菩 提 J 乃 至法界 〜 応 安 三 年 庚 成 二 月時 正 比企郡川島町中山1198 金 剛寺 結 縁 同心 一 衆 敬 白 応 安 三 年 J十 二 月廿 日 児 玉 郡 児 玉 町 金 屋 883 淵龍 寺 明 照大 」禅定 尼 応安 四年 辛亥 二 月四 日 児 玉 郡 上 里 町 大 御 堂 H51 吉祥院 逆 修 比 丘 尼 J妙 仙 円通 寺 万年」大禅定□ 奉謹造立」石塔 一基」光阿禅門逆 修 =人 応安 六 年 癸丑二 月 日 比 企 郡 吉 見 町 大 串 2044 金蔵院 長□」□□」天□」□□」上□」 □□」如□」天□」明□」□□ 〜 応安六年癸寅」卯月十 日 秩 父部 長 瀞 町 本 野 上 401 多宝 寺 逆修 応安 六 □」 癸丑 十 月 日 浦 和 市 大 久保 領 家 薬師堂 墓地 権僧 都 応安 六 年十 月 大里郡寄居町富田 福 王 寺跡 代別当」重円良賢能智」良慶頼有 慈慶」祐弁守東明観」祖源良円清 弁」良安宗弁 応 安 七 年 甲寅 」 八 月十 三 日 大 里 郡 妻 沼 町 妻 沼 17061 妻沼町教育委員会 右志者為往時」一結及出家在」家 現世安穏後生」善所将亦先亡聖」 霊成仏得道□ 応安七年甲寅八月」 日 上 福 岡 市 長 宮 12H 市立資料館 光 阿 禅 門 」逆 修 応 安 七 □ 」 十 月十 日 大 里 郡 寄 居 町桜 沢 深 田家 墓 地 □□」明大」明□」文友」□□」 □」甑□」道□」□」□□」□ 応 安 七 年 」 十 一 月元 日 鴻 巣 市 登 戸 378 勝願寺 祐重J 逆 修 応 安 八 年 乙卯 J八 月廿 二 日 比企郡都幾川村西平386 慈光寺 願以此功徳J普 及妙一切」我等与 J 衆生J皆 共成仏道」阿閣梨金岡」 仏子常円逆修 応安第□ 児 玉 郡 美 里 町駒 衣 330 智徳寺 永和 元 年 乙卯 」 八 月 J時 正 日 比 企 郡 鳩 山町 大 豆 戸 340 真光 寺 永和 元 」 十 二 月十 一 日 志 木 市 上宗 岡 2230 千光 寺 永和 二 年 」 二 月十 五 I 北 埼 玉 郡 騎 西 町 鴻 茎 1952 寿 昌寺 前 □□ □」元 染大和 □ 観 音 寺 墓地 逆 修 奉 J造 立 石 J塔 一 基 」 宝 寿 禅 尼 永和丙辰卵月日 1377 為 界 者法 1368 秩 父 部 長 滞 町 野 上 下郷 2868 塔 乃 工 立也 1362〜 68 造修益 右逆利 貞 治 」 六年」十一月」 日 富士見市東大久保 光明真言〕 〔 奉 三 宝 弟 」 子 道 用妙 」 性 預 修 善 」 因欲 資 □ 」途 造 立 □ 」 医 印塔 一 」 基云 永和二年丙辰」十月」日 北 埼 玉 郡騎 西 町 道 地 1570 成 就院 敬 白」 一 結 衆 廿 八 人 (光 明 真 言 〕 永和 二 年 十 一 月 日 比 企 郡 吉 見 町 大 串2044 金 蔵院 沙弥隆保 永和 三 」 年 丁 巳」 二 月 」 八 日 久 喜 市 江 面 864 善徳 寺 永和 三 年 J丁 巳二 月 大 里 郡 川 本 町 本 田 1831 称名寺 永和 三 年 」 五 月十 八 日 児 玉 郡 上 里 町 大 御 堂 1151 吉祥 院 □松禅尼 永和 三 丁 巳 」 六 月升 日 羽 生 市 南 321 富 田勝 治 徳 代禅 尼 永和 三 年 J七 月 二 日 浦 和 市 関 167 永 和 三 年 丁 巳」 八 月時 正 日 北 埼 玉 郡 騎 西 町 鴻 茎 1952 寿 昌寺 一会結衆」若千有之」右志趣者」 為逆修也J□ 法王等誌也 永和丁巳」十一 月十六 日 坂 戸 市 塚 越 567 西光 寺 □教」禅門」宗教」禅 門 永 和 戊 午 」 正 月二 日 岩 槻 市鹿室 小 島 一也 内佛 房 永和 三 二年二 月」 □ 日 北 埼 玉 郡 騎 西 町 根 小 屋 485 金剛院 逝 去明通 永和 三 二 年 」 二 月 二 十 四 日 北 葛 飾 郡 鷲 宮 町 上 内 1282 寿徳寺 円審 高 山」 雲 公 禅 定 」 門 示寂 日 ―‑484‑― 光明真言〕 〔 歿故中書J畠 山殿善」正大善定」 光明真言〕 門之尊霊 〔 光明真言〕 〔 有久逆修 斎 1375‑79 1382 所 沢 市 山 口408 端岩寺 永和五年」六 月廿九日 熊谷市大麻生 1100 正 光寺 □□笠□」□□大□ 永和 □ 所沢 市所 沢 町 金 昆羅 宮 前住仁 林和 尚 康暦二千 J卯 月十八 日 児 玉 郡 上 里 町 大 御 堂 1151 吉祥 院 妙 円禅 尼 康 暦 三 年 四 月」 廿 二 日 秩 父郡皆 野 町三 沢 神楽場 曲木 徳屋禅 尼 鴻 巣 市 常光 1644 西福 寺 聴聴 大 徳 永 徳 元 J八 月 二 日 熊 谷 市 川原 明 戸 216 明導寺 性音禅門 永徳九月辛酉廿一 日 大里郡寄居町桜沢1297 大 沢 新 太郎 契芳 禅尼位 永 徳 元 年 辛 西 J十 月廿 七 日 児 玉 郡 上 里 町 大 御 堂 1151 吉祥 院 本覚」弘 阿 永徳二年癸壬戌十一 月十九日 秩 父郡 長 瀞 町 中野 上 472 萬福寺 右意趣者為」 伝燈大阿閣J梨 秀 逆 修」七分全得及四」思法界三界六」 道平等利 光明真言〕 〔 永徳三六月十三 日 所 沢 市 山 口408 端 岩寺 帰実禅門 永徳 三年 」 □ □三 日 飯 能 市 白子 260 長念 寺 永徳三 年 」十 月廿 日 入 間 郡 日高 町 横 手 667 大 川戸 永徳 四 年 」 正 月十 日 上 福 岡 市 中福 岡348 薬王 寺 三 界 □作 」 □ 阿 」 一 心 本 □ 至徳改元J五 月廿 日 富 士見 市下 南 畑 蔵 福寺 墓地 雲章 □ □」 書記 大 □ 至徳元年」甲子壬九月十五□ 入 間 郡 越 生 町 黒 岩 五 大尊 妙昌禅J定 尼 至徳甲子十月日 飯能市川寺688 願成寺 預造此塔巳」結良因生前」道智将 来佛身 (光 明真言〕 至徳二年J□ 月十六日 大 里 郡 寄居 町桜 沢 1297 大沢新 太郎 至徳 三 年 」 二 月五 日 飯 能 市 中 山520 智観 寺 藤 氏 禅 」観 禅 尼 入間郡名栗村上名栗2852 円正寺 若 人 欲 了知 」 三 世 一切 仏 」 応 当如 是観 」心造 諸 如来 」諸行 無常 」是 生滅 法 」〜 飯 能 市 白子 260 長念寺 道賢 至徳 三 年 丙 寅 八 月二 十 四 日 洋 〔 光明 真 言 〕 清夢一」公禅師 性善 至徳三年 丙 寅 八 月 二 十 四 日 道願 至 徳 四年 二 月」 廿 八 日 □□□ 至 徳 四年 二 月」 廿 八 日 玄椿 至 徳 四年 二 月廿 九 日 霊 用尼 至徳 四年 二 月」□□ 道円 至徳 四年 八 月七 日 □□□ 至 徳 四 年 丁 卯 十 一 月十 八 日 秩 父郡 東秩 父 村 御 堂 362 浄蓮 寺 □□□□」□□□□」実□□□」 □盛盛□」有□」結衆在人」五十 人」敬白 至徳四□」十一月十□ 児 玉 郡 美里 町 阿 那 志 532 光勝 寺 奉造立□」修塔□□」明□□ 〔 光明真言〕 至徳□□」二月廿九日 飯 能 市 白子 260 長念 寺 宗久禅 □ 嘉慶二年」二月廿三 日 児玉郡上里町大御堂■51 吉祥院 日宜 入間郡 日高町横手791 滝泉 寺 右意趣者」一結諸衆□」心合力逆 修」作禅□滅罪」諸衆」敬白 嘉慶 二年戊辰」四月廿五 日 嘉慶 二 年 成 辰 」 十 月 1389 光明真言〕 〔 道禅 J 逆 修 丙寅八月二十四日 至徳三 年 1384‑87 〔 光 明 真 言〕 永 徳 元 年 J辛 西 」 文 月十 六 日 至徳三年 丙寅八月二十四日 98 勝 若有 聞法者 」願 念禅 門 」無 一不成 仏 」 応 無 所 住 」 □妙 禅 尼 」 而 生 其 心 」一 橋南 無 永和五年己未」二月日□観 至徳三年」六月初生 日 1387 木 南 埼 玉 郡 菖 蒲 町 菖 蒲 655 吉祥 院 嘉慶 二 年 」 十 一 月六 日 比 企 郡 滑 川 町 福 田 H69 真福 寺 願 主幸珍 嘉慶 二 年 」 □ □ 北 足 立 郡 吹 上 町 下 忍 31441 千手院 □ □」 □□」逆 修 嘉慶 三 年 己 巳」 二 月時 正 大 里 郡 岡部 町 針 ケ 谷 515 井 上秀 夫 了徳禅尼 嘉 慶 三 年 」 □ 月廿 九 日 大 里 郡 花 園 町 武 蔵 野 18591 常 光寺 沙弥帝道 」生 年五 十 二 嘉 慶 三 年 己 巳」 三 月 日 児 玉 郡 上 里 町 大 御 堂 1151 吉祥 院 □逆 修 善根 」 □ □ 卒塔 婆 」 の 自他 頓 証 」 菩提 妙 果 耳 日 ―‑485‑一 │ 光明真言〕 〔 石塔婆 としての宝億印塔 について 1389 嘉慶三」年卯月」廿五 日 北 埼 玉 郡 川 里 町 屈 巣 4482 荒井隆吉 右 伏 以 」 右 伏 」 大 日」 周 遍 之 」覚 鉢 」衆 生 成 」佛 之 」直 路 也 」因滋 」 真俗 結 」 衆 奉 」 造 立 供 」 養 者 也 康応元暦」林鐘十三日 大宮市高鼻212 市立博 物館 伏惟為逆修」善根奉造立」塔婆貨 依此」功勲真俗 一」結衆証頓菩」 提速到波羅 嘉慶 三年己巳」七月廿五 日 児 玉 郡 美 里 町 小 茂 田350 勝 輪寺 □□妙□ 康 応 元 年 己 巳 」 八 月廿 六 日 加須市南篠崎 成 就院跡 右 意 趣 者 逆 」修 契約 衆 為 未 」 来 作 仏奉造 」法界 妙体 所也 」依 之七 分 全 得 」 之 花施 康 応 元 年 己 巳」 十 月 日 入 間 市 宮 寺 489 西勝 院 奉 十 二 部 経 」 書 写 読 誦 J石 塔 一 本 康 応 元 己□」十 月 羽 生 市 東 571 天 神社 十二部経之」一結之諸衆 〔 光明真言〕 龍 興寺 光明遍照」十方世界」念佛衆生」 接取不捨」右意趣者為」一結衆逆 修奉」塔婆造 十二部経逆修」善根之諸衆」敬白 (光 明真言〕 日 康応元年己巳」十一 月廿六日 北埼玉郡騎西町上崎 1890 1392 1393 1395 1396 1397 1398 康 応 元 年 己 巳」 □ 廿 六 日 岩 槻 市 浮 谷 2677 西光院 康 応 二年 二 月 羽 生 市 上 川俣 1371 斎藤 二 三男 逆修 妙 春 明徳元庚午十月 児 玉 郡 神 川 町 二 の宮 687 大光 普 照寺 心 逆修 」 法印権 大僧 □」′ 真福寺 一 霊 不 味 」 廻 出 生 死 」 之 昏 衝 」 ノヽ 識 眠照 」契 春禅 尼」踏 八正 菩 」堤 之 鉄 蒼 J〜 明徳二」辛未仲春九日 比 企 郡 滑 川 町 福 田 n69 明徳二年二 月時正 荒 川 区 町屋 4丁 目 15 明徳二□」八月時正 児 玉 郡 美 里 町 下 茂 田350 勝輪寺 明徳三年壬申」二月廿 日 児 玉郡 神 川 町 二 の 宮 687 大 光普 照 寺 逆 修 J権 少 僧 都 心 運 明徳三年」十月廿一日 上尾市大谷本郷 八雲神社 寛巌妙公」禅定尼 明 徳 四 年 癸 酉 」 正 月十 八 日 大 宮 市 大和 田町 11793 細 沼初 次 明 徳 四 年 」 四 月廿 二 日 上 尾 市 大谷本郷 八雲神 社 明 徳 五 年 甲成 」 □ 月七 日 深 谷 市 国済 寺 5211 国済 寺 妙善 」 □ □□ □ 逆 修 J好 嘉 雲岳 龍 」禅 定 門 明徳五」甲戌年二」月六日 北 足 立郡伊 奈 町小 室 小貝戸 共有 墓地 法慶大」師霊成」仏関道 応永元年甲成」十月一 日 入 間 郡 日高 町 高 麗 本 郷 247 長 寿寺 敬 斐 」銀公和 尚 明徳五年甲成」十月 秩 父郡 両 神 村 薄 2391 法 養寺薬師 堂 應永二年」乙亥正月十三 日 入間 郡 毛 呂 山町 小 田谷 695 長 栄寺 慧倫」禅門 應永二年乙亥」二 月日 鴻 巣 市 原馬 室 西光 院 逆 修 阿 □禅 門 應永二年」五月六日 秩 父郡 両 神 村 薄 藤 指 山居 山居 光岩 大 □」元 密庵 主」徳 圭禅尼 應 永 三 年 」 丙 子 七 月十 一 日 北 埼 玉 郡 川 里 村 屈 巣 4482 荒 井隆 吉 夏 中経 結 衆 」 逆 修 應永三年丙子」十一 月二 日 行 田市 下 忍 24552 明光 寺 □□寺殿 □□ □ 應 永三 十 一 月 児 玉 郡 上 里 町 長 浜 362 上松 寺 逆修性訓 應永四年丁丑」七月十一 日 飯 能 市 岩 沢 1092 見光 寺 前 住 当 山」 山一 峰和 尚 應 永 四 」 年 十 月」 十 五 日 富 士 見 市針 ケ 谷 針 ケ谷 墓 地 □□ 應 永 五 年 戊 寅 」 八 月廿 七 日 大 里 郡 川本 町 本 田 2032 教念寺 阿 字 十 方 三 世 佛 J大 一 房 」 弥 字 一 切 諸 菩薩 」 陀字 八万諸 聖教 」三 字 之 中皆 共 通 」 應永五年戊寅」八月□□ 大 里 郡 花 園 町 荒 川 153 金井慶之 奉造立」寿塔 一所」伏以世楽」法 似曇華」其非生前之」預修易兌死」 日 (光 明真言〕 光明真言〕 〔 應 永五戊 寅 」 十 一 月 日 所 沢 市 上 安 松 486 武藤保 之助 契玖」禅尼」逆修 應永六年己卯」□月十二 日 児 玉 郡 神 川 町 新 里 2022 町 田工 玉貞禅 門 應永六」年十二月」□ 日 浦和 市 大間木 弓 削 田家 墓地 □□」阿閣梨 南埼 玉郡 菖蒲 町上 栢 間 正 福 寺跡 是 大 行 郭 J□ □ 道 □ 」 □ □ 見 如 」 □□ □□」希綱 」禅 定 門 羽 生 市 下 新 郷 720 大光 院 逆 修 」 妙 円禅 尼 北 埼 玉 郡 北 川 辺 町 飯 積 13171 大 聖寺 性 智 J禅 尼 J逆 修 應 永七 年」 正 月廿 四 日 永七年」二月廿二日 「 源 應 永 」 七 年 」 二 月」 時 正 ―‑486‑― 斎 應 永七 年 J庚 辰 □ 月廿 五 日 應永七年」庚辰十一 月十五 日 児 玉 郡 児 玉 町 上 真 下 片貝家 墓地 成□」妙覚」心□」頼運」頼乗」 尭慶J心 慶」泉秀」舜円J豪 運J 快賢」〜 児 玉 郡 神 川 町 八 日市 森 下墓地 聖 □阿」源阿 善阿」定阿 宗阿」蓮阿 稽阿」道俊 精阿」 能阿 行阿」 應 永八 年 辛 巳 壬 正 月十 二 日 大 里 郡 寄 居 町 用 ± 272 根 岸 包房 應 永八 年 二 月吉 日 上 尾 市大谷 本郷 八雲神 社 秩父郡皆野町金崎 1461 長興寺 大 里 郡 川 本 町 瀬 山398 八幡神社 沙弥浄徳 館 山市 香 野 中市 郎 □船 □ 」 公 大 □ □ 應 永 八 」 辛 巳八 月 日 北 埼 玉 郡 騎 西 町 日出 安 1286 保寧寺 妙□」□円」尊誉」十海」教円」 □□」□□」□□」□□」記 治 □」良仙〜 應 永 八 十 月十 五 日 大 里 郡 寄 居 町 富 田 2024 不動寺 契 智 清 弁 越 中」 重 □ □ 仁 侍 従 」 契 潤 刑 部 山城 」 成 珍 刑 部 父母 」 應永九」年二 月十 日 児 玉 郡 上 里 町 大 御 堂 H51 吉祥院 □正 應永九□」十月廿三日 蕨 市 中 央 62H 明 治堂 □□□」道 □ 」 禅 門 應永八年 月 應 永八 年 辛巳五月十九日 日 五 月廿六 日 〔 光 明 真言 〕 光明真言〕 〔 應 永 九年壬 午 」十 二 月十五 日 児 玉 郡 神 川 町 八 日市 25 瑞岩 寺 應永十年二 月日 北埼玉郡騎西町 上崎 1890 龍興 寺 為七分全得□□」□逆修善根□□ 應永十年J七 月十□ 北 埼 玉 郡 騎 西 町 鴻 茎 1952 寿昌寺 逆修 一会」四部衆 應永十年」十一月日 児 玉 郡 児 玉 町 小 平 554 根 岸 李太郎 逆修 J 應 永 十 一 年 二 月 日」 朝 幾 北 埼 玉 郡 騎 西 町 上 崎 1890 龍興 寺 □七 分 全 得 □ □ 」 □逆 修 善 根 □ □ 性□ 光明真言〕 〔 應 永 甲 申 」 八 月十 三 日 上 尾市 大谷本郷 八雲 神社 造立塔婆」一基為」禅照奄主 應永十一」甲申八月廿二 羽 生 市 上 村 君 191 避 来矢神 社 逆 修 」叡 所 應 永 十 一 年 」 甲 申□ 月 □ 日 上 尾 市大谷 本郷 八雲 神社 □ □ □ 」 道 □禅 門 應 永 十 二 年 」 八 月七 日 秩 父市 番 場 79 少林 寺 逆 修 □ 」 □ □都 應永」十二年乙酉十二月七 日 川口市中青木22031 市 史編 纂 室 光明遍照」十方世界」念佛衆生」 摂取不捨」逆修」善根」□□ 應 永十 三 年二 月 日 西 養寺 逆修唯道禅門 避来矢神社 道栄 児 玉 町 児 玉 町 吉 田林 211 光明真言〕 〔 [光 明真言〕 應永十四年」四月十二 日 比企郡嵐山町大蔵559 大 沢喜 一 唯EJ禅 門 應 永 十 四年 」 十 月 廿 日 上 尾 市 大谷本郷 八雲 神社 預 修 」 昌春 禅 尼 應 永十二 二 年 」十 月 日 児 玉 郡 上 里 町 嘉 美 610 嘉 美神社 一結衆」敬白 應永十五年」吉辰二月七 日 比 企 郡 鳩 山町 大 豆 戸 340 真光 寺 道 阿禅 門 應永」十五年戊子六月十七 日 川国市中青木22031 市 史編 纂 室 長□」開祖」円慶」和尚 應永十五年」十月十五日 羽 生 市 下 村 君 2278 永明寺 道本□□ 應 永 十 六 」 年 己 丑 五 月八 日 入 間 郡 越 生 町 成 瀬 330 見 正寺 秀 □ J禅 門 (光 明真言〕 光明真言〕 〔 應永十六」年」十月廿□□ 朝 霞 市 岡 2551 本仙寺 □□」逆□ 應永十七年庚寅」六月一 日 児 玉 郡 児 玉 町 小 平 554 根 岸 李太郎 沙弥了広 大 宮 市 高 鼻 1343 高橋 喜種 右 志 者為 」浄 法 禅 門」逆修 右塔 」 一 基 然 者 J此 □ □ 者 」 衆 生 済 度 J □ □ 頓 証 」 仏 果 自然 」 □ □ 應 永十 」 七 年 八 」 月 日 1411 〔 光明真言〕 」 功 徳 主 了本 □□六十二人」井法界衆生 光明真言〕 〔 應永十四年丁亥」二月廿七 日 羽生市上村君191 1409 □律 師 」 永 尊 川の文化資料館 徹奄立」尼」明禅定 應 永八 年 1406 石重 寺 勝 應永七年」庚辰六月」十二 日 岩 槻 市 岩槻 應 永七 年 」 □ 月 □ 日 168 児 玉郡 神 川 町 新 宿 431 木 光明真言〕 〔 應 永 十 八 年 辛 □ 」 四 月□ 児 玉 郡 上 里 町 大 御 堂 1151 吉祥 院 逆 修 」浄 春禅 尼 應永十八年」十二 月十二□ 大 宮 市 今 羽 町 106 真福 寺 □ □□」 幸禅 門 應永十九年壬辰十月廿七 日 坂 戸 市 善能 寺 163 善能 寺 永 真大師 應 永 十 九年 」 □ 月 日 蕨 市 中央 4209 和 楽備 神社 逆 修 J 明 □ 」 禅 尼 」 七分」全 得 應永二十」年四月」廿一 日 上 尾市 大谷 本郷 八雲神社 仙岩医」公蕎主 ―‑487‑― 〔 光明 真 言 〕 石塔婆 としての宝筐印塔 について 應永二十年□巳」十月日 入間 郡 越 生 町 黒 山 黒 山三 滝 山本開山」権大僧都」栄円和尚 庁 永 二 十 年 」 十 一 月」 十 一 日 北 足 立 郡 伊 奈 町 大 針 1071 浜野 妙 秀 J禅 尼 應 永 二 十 一 年 J二 月 一 日 入 間郡 毛 呂 山町 毛 呂本 郷 244 妙玄寺 本 空禅 尼 深谷市国済寺5211 国済 寺 逆修 道 音 應永廿一年J甲 午五月日 入 間郡 越 生 町 黒 山 黒 山三 滝 上 法 勝 禅 F5」 寿 應 永 廿 二 J正 月 J二 十 所沢市三ケ島31167 宝 玉院 永□」□□ 坂 戸 市 青木 十 王堂墓 地 奉 造 立 J石 塔 一 基 」右 志 者 為 J三 界 万 霊 」 無 主 紹 魂 J□ 現 存 結 」 縁 之 衆 現 J世 安 穏 後 」 生 善 処 也 應 永 廿 二 年 」 四 月廿 日 本 庄 市 西 1137 市 埋 文 セ ンタ 光明真言〕 塔婆一基J天 替沙弥 〔 應 永 二 十 二 年 J八 月 大 里 郡 寄 居 町 赤 浜 620 普光 寺 應永廿一年甲午」四月 日 應永廿二季二 月日 児 玉 郡 上 里 町 大 御 堂 1151 吉祥 院 徳 円禅 F5J逆 修 應 永 廿 六 年 己 亥 J卯 月 十 三 日 比企郡嵐山町大蔵635 向徳 寺 一結衆敬白 應 永 J廿 七 □ 上福岡市川崎 阿弥 陀堂 □□□ 應永廿九」八月日 児玉郡神川町二の宮687 大光普照寺 逆 修 J討 運 應 永 廿 コ年 月 児玉郡 神 川町渡瀬 木の宮神社 應 永廿 三年 」二 月 198 1 4‐ 22 院 日 塔 應 永 廿 □年 月 富 士見 市 水 子 1765 大応 寺 安 房 郡 三 芳 村 上 堀 35 勧修 院 逆修 應 永 ‖ 二 年 乙 巳」 十 月 日 比 企 郡 鳩 山町 大 豆 戸 340 真光寺 逆 修 幸 」阿禅 門 應 永 片 二 年 乙 巳十 二 月廿 四 日 比 企 郡 鳩 山町 赤 沼 17 円正 寺 勢存侍者 □永二 十 □ □十 一 日 岩 槻 市 飯 塚 1361 法 華寺 □衆 盛 清 J□ 主 石 塔 應永lH三 年 □ 月二 日 大里郡寄居町西 ノ入649 東光 寺 □□一結衆」□俗三十人 應 永二 十 四 年 丁 未 六 月五 日 浦 和 市 中尾 福 生寺 元亮」和尚 應 永J □ 年 二月日 与 野 市 下 落 合 613 落合 霊 園 應 永 □ 年 J四 月廿 四 日 秩 父郡 長 瀞 町 本 野 上 401 多宝 寺 川越市古谷上4136 善 仲寺 当寺□□」無□E 應 永廿 ヨ 永 片一 」十 一 月 日 「 1394‑28 應 永 E「 」 六 月十 六 Ξ 妙□禅尼 應 永 □」 □ 月□三 日 館 山市 中里 常 温 寺 跡 中里 区 妙 性 J三 回 忌 應 永 □ □ 月十 □ 日 安 房 郡 天 津 小 湊 町 清 澄 322 清澄寺 千光山清澄寺」□□□□」□□□ □」□□□□」□□□□」大□主 明了 正長二年」二月廿 日 岩 槻 市 大 田265 渡 辺 一郎 高奄 立 公 大 姉 正 長 二 年 」 正 月八 日 比 企 郡 川 島 町 中 山 1198 金岡」 寺 明心 妙 公 正 長 庚 成 」 二 月五 日 南 埼 玉 郡 自 岡町 白 岡941 正福院 春岩 慶 心 庵 主 正 長 三 祀 二 □ J廿 八 日 所 沢 市 久米 1342 永源寺 直山中公庵主 為□□翁J□ 禅定門」建之 光 明真 言 〕 〔 正長三」八月 日 鴨 川市 南小 町 路 正 長 四年 」 二 月六 日 上 尾 市 畔 吉 751 徳 星寺 光明 真 言 〕 開 基 応 峯 J感 □都 寺 〔 永 享 六 年 四 月廿 七 日 深 谷 市 西 島 203 瑠璃 光 寺 逆 修 J性 見 禅 尼 永享 七 年 」 卵 月 比企郡鳩山町赤沼17 円正 寺 当寺 開 基 J道 益 首座 比 企 郡 鳩 山町 大 豆 戸 340 真光 寺 逆修光阿禅門 〔 光明真言〕 逆修如永 〔 光明真言〕 日 永享 八年 二 月 日 永享 八 年 」 六 月 1438 □ □ 傍 日 永享八年丙辰」□月十□ 日 比 企 郡 滑 川 町 福 田 1205 成安寺 逆修□□□ 永享十年戊午」四月十四日 秩 父 郡 皆 野 町 金 沢 19811 西光 寺 沙弥行□禅門 国 昌寺 就 仏」速 成 」道 」無上 」得 入 」以 何 令 」衆 」生 」毎 自」作 是 」松 正 J 寿公」禅 定 □ 章 益 □ □庵 主 永享 十 J四 月 日 浦 和 市 大 崎 2378 光明真言〕 〔 永享十二年六月十九日 深 谷 市 国済 寺 5211 国済 寺 永享 十 二 歳 八 月八 日 坂 戸 市 石 井 2331 大智寺 前 任 萬 壽 寺 證 堂 周公 和 尚 永享 J十 二 年 」 □ 申九 月 日 飯 能 市 井 上 112 興 徳寺 逆修 」 □ □」金 公」奄 主 永享十二年間九日 本 庄 市 西 1137 市埋 蔵 セ ンター 逆修宗海阿閣梨 ―‑488‑― 光明真言〕 〔 斎 1429‑41 1448 永享□」年十月」五日 浦 和 市 南 部 領 辻 2944 惣 持 li 逆修 」作 善 」一 結 」衆 □ 嘉 吉 二 年 壬 成 」 十 一 月十 五 日 児玉郡神川町二の宮687 大光普照寺 逆修 □□亮 嘉吉三 年七 月九 児 玉 郡 児 玉 町 秋 山1123 日輪 寺 浄玄禅 定 門 嘉 吉 三 年 癸 亥 」 □ 月十 八 日 秩 父市 浦 山 冠岩 逆修Ξ□ 文安元」年十月」九日 浦 和 市 三室 2458 市立博 物館 □□」永金」禅定」尼 文安二 年 乙丑」 六 月九 日 深 谷 市 国済 寺 5211 国済寺 光 山道 盛 庵 主 J逝 去 文安四年丁□」八月十三 日 大里郡寄居町西ノ入649 東光 寺 □修性香禅尼 文 安 丁卯 八 月 比 企郡 川島町 表 9 養竹 院 文 安 J 五 年 」 二 月十 九 日 飯 能 市 山手 町 517 観音寺 道 中」 □ 」 禅 門 J逆 修 宝徳三年」辛未二月」十一 日 飯 能 市 小 岩 井 1023 無量 寺 □□」禅尼 川越 市 古 谷 上 4136 善仲寺 栄公」□庭」大師 康正」四 月 所 沢 市 三 ケ島 31167 宝 玉院 □ 長 禄 J二 年 戊 寅 二 月 J廿 八 □ 所 沢 市 上 安 松 486 武藤保 之助 逆修 」徳用 J 禅 門 長禄」二年戊寅十一月十九 日 朝 霞 市 岡 2556 本仙寺 逆 修 」 祥 □ 」 禅尼」寿 位 長禄五年辛巳」正月十□ 日 円正 寺 徳 蔵 開 基 J友 峯 益 和 尚 寛正」三年壬午八月」廿六 日 朝 霞 市 岡 2556 本仙寺 □仲 」理安 」大 姉 J 寿 位 寛正」三壬午年」十二 月廿六 所 沢 市 山 口408 瑞岩寺 古鉛 J 泉 公J 禅 師 瑠 璃光 寺 権律 師 □ □ 康 正 三 年 J六 月廿 一 日 1458 1468 1475 慈□」□□」□□ 比 企 郡 鳩 山町 赤 沼 17 応 仁 元 年 正 月二 日 深谷市西島203 應仁二」年戊子」十月六 日 岩槻 市鹿室 小島一也 聞 阿 」 弥 陀 仏 」 為 □」 周 忌 □ 文明 三 年 四 月 深谷市西島203 瑠璃光寺 律師宝賢五十八 文明四年」□月廿四日 深 谷 市 国 済 寺 5211 国済 寺 右精旨物伏J願 前住宝林」□渓□ 和尚」十三□□□□」奉彫□□□」 一基実 文明 七 年 □ □ 」 五 月 九 日 □林尚□□ 文明八年丙甲」八月十五 日 浦 和 市 大 牧 586 清 泰寺 権 少僧 都 」 尊 西 逆 修 」 賢 西 大 」 □ 西 阿 」 道 珍 門 J浄 称 □ 文 明 九 年 丁 西 」 四 月二 日 深 谷 市 西 島 203 瑠璃光寺 願 主 □ □□ 文明 十年 深 谷 市 国済 寺 5211 国済 寺 文 明 十 一 年 己亥 」 九 月五 日 秩 父郡 長 瀞 町 中野 上 472 萬福 寺 268 508 270 □修 妙 □禅 尼 預修功徳主」慶松善女寿位 光明真言〕 〔 文 明 十 五 年 癸卯 」 八 月廿 一 日 1469‑87 勝 諸行無常J是 生滅法」生滅々己」 寂滅為楽J逆 修」妙融大師 宝 徳 」 三年」□ □ 1455^´ 57 木 逆修妙芳」為出離」生死耳 文 明 十 六 年 甲辰 」 二 月廿 日 児玉郡児玉町高柳 138 三 嶋愛宕 神社 文明□年□」八月十六日 児玉郡児玉町児玉1258 法養寺 逆修」供 養 文明□□□」八月廿三日 児 玉郡 神 川 町肥 土 万 日堂 逆 修 了 □禅 門 長享三年己酉」二月十二 日 深 谷 市 国済 寺 5211 国済寺 □ □□公庵 主 明応」四年乙卵」□月十六 日 所 沢 市 上 山 口 2203 金乗 院 祐性 」禅 間 」 施 主 」 敬 白 明応 六年 」 □ 月廿コ 日 児 玉郡 児 玉 町 高 柳 136 観音寺 大□□林□坐 □□ 明 応 」 九年 □ 申」 □ 月 富 士見 市 諏 訪 1丁 目 山室 地 蔵 堂 文亀 元 年 大 里 郡 寄 居 町 桜 沢 628 龍源寺 □□禅門」□□□尼 永正三」年 十月」廿一 日 安房郡丸山町小戸 清水長 夫 逆修」□阿弥 永正五天」十月吉日 比 企 郡 川島町表9 養竹 院 逆 修 妙芳 永 正 」 九年」壬申二月日 新座 市 道 場 11013 法台 寺 逆 修 」道 □ 」 禅 定 門 逆修」妙永」祐禅定□」□□□□ □」□□□□〜 永二 十 二 年」 二 月廿 四 日 1521 永正十八年」二月十三日 1522 大永二」年正月」十六日 比 企郡 川島町表 9 養竹 院 養 竹 J 開 基 J 義 芳 J 永賢」庵 主 大永三 年 」 三 月」 四 日 大 永 四 年 甲 申」 二 月 □ 六 日 行安霊位 天章 J 如祐 J 大 師 秩 父 市 伊 古 田675 ―‑489‑― 大林 寺 宝 □珍 □庵 主 石塔婆 としての宝筐印塔 について 1525 大永五年」二 月七 日 比企郡川島町表 9 養竹 院 享 禄 四 年 辛 卯 J四 月十 三 日 [大 日如来報身真言 ] □ □ □妙 法 」 禅 尼 享禄 四年 大 里 郡 寄 居 町桜 沢 628 龍源 寺 鏡 □禅 定 E 天 文 」 二 年 」 六 月八 日 南 埼 玉 郡 自 岡町 白岡961 興 善寺 文道 善 定 」 門 天文五年丙申」間十月日 秩 父部 長 瀞 町 本 野 上 924 総持 寺 大 日本 国武 蔵 州 J秩 父郡 白鳥郷 J 下 野 村 住 嶋 田」 弾 正 忠 □ 吉 」 逆 修 功 徳 主 」渓 軸 宗 泉 禅 門 天文八亥年」八月十 日 北埼玉郡川里村上会下229 雲祥 寺 当山開基」気窓祥瑞大居士 1542 天文 十 一年 癸寅 飯能市原市場字金山 長 福 寺跡 道全」妙性 天 文 十 二 年 十 月十 二 □ 本 庄市 栗崎 島崎 貞一 道慶 禅 門 1548 天 文十七 年 天文□ 入 間 郡 毛 呂 山町 小 田谷 695 長栄 寺 逆修」継芳善女 天 文 五年 十二 月 284 真竜□用蔵主 1532〜 55 □□□□禅定門 (釈 迦如来坐像陽刻 286 1557 弘 治三 年 □ 月 日 館 山市 竹 原 光 堂 287 1558 永禄 元 年 」 八 月六 日 比 企 郡 鳩 山 町 大 豆 戸 340 真光 寺 慶 大 法師霊位 1559 永禄二年 己未」□□一 日 入 間郡越 生 町黒 岩 五 大尊 道」宥」禅」F5 永禄 四年 」 正 月 岩 槻 市 本 町 51146 浄安 寺 □□ 永禄 □ 年 」 七 月 □ 日 岩 槻 市 黒 谷 1292 普 慶院 念□□□」禅定門 □日 館 山市 竹 原 光 堂 光 堂 墓地 □□□□禅□□ (胎 蔵界大 日如来坐像) 掩 粧 梅 室 元 芳 」 大姉 」 孝 子 」敬 白 1556‑70 永禄 □ 」 1573 1575 ) 元亀四年二 月六日 深 谷 市 田谷 308 高台 院 天 正 元 年 癸 酉 」 十 二 月十 七 日 熊 谷 市 上 之 336 龍淵 寺 自天 宗 湖 居 士 天 正 三 年 二 月廿 八 深 谷 市 人 見 13911 昌福 寺 要 山簡 公 上 坐 天正五年丁丑」十二月十日 南 埼 玉 郡 白 岡町 白 岡961 興 善寺 浄 園善定 門 296 1578 天 正 六 年 成 寅 J八 月 九 □ 熊 谷 市 久 保 島 1664 大光 寺 花 □□ □春」禅 定 門 天 正 七 年 巳卯 四 月廿 六 日 大 里 郡 寄 居 町 立 原 303 298 1583 天正十一癸未」四月ロコ 児 玉 郡 美 里 町 白石 1953 宗清寺 □□□□ 干 時 天 正 十 一 年 J未 八 月 □ 日 児 玉 郡 児 玉 町 金 屋 1421 天 龍寺 花 □ □ □禅 定 尼 1584 天 正十 二 」年 □ □」十 月□ 入 間 郡 日高 町 新 堀 990 聖 天院 1585 天 正 十 二 年 乙酉 十 一 月十 七 日 北 埼 玉郡 川 里 村 屈 巣 桜 本坊 為権小僧都」□□」法印宥□」□ □也 1589 天 正 己 丑 六 月廿 九 深 谷 市 田谷 308 高台院 見性 妙照 大姉 」帰 真見 」性 妙 照大 姉 天正□年」□月十八 日 熊 谷 市 上 之 336 龍淵寺 □□十 □ 299 1573‑92 為 帰 真梅 安 」 浄 香 禅 定 門 引用文献 埼玉県 「新編埼玉県史J資 料編 9 中世 5 金石文 奥書 1989 早川正司「安房大山寺宝医印塔 とその周辺」「野中徹先生還暦記念論集J1993 荒川区教育委員会 『町屋の民俗 J荒 川区民俗調査報告書 (三 )1993 ※ 紀年銘,銘 文で」は,行 替えを示す。 ―‑490‑― 1994,3,30作 成
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