ノーベル賞の選考に不正はないのか? ノーベル賞とは、アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発明し、 スウェーデンの硬い地下の岩盤の掘削に役立ったが、その後、当然なが ら武器としての爆弾や砲弾に使用されるようになり、巨万の富を得た。 1 8 9 0 年 代 、ま だ 生 存 中 に 兄 が 亡 く な り 、間 違 わ れ て「 死 の 商 人 が 死 ん だ 」 と報道された。これに愕然とし、自分では世の中の役に立っていると考 えていたらしい。これを気に病み、遺産の大部分を基金に、物理学、化 学、経済学、文学、平和賞、医学・生理学賞を創設し、莫大な賞金とと もに人類に貢献した人々を表彰するようになった。決定権はスウェーデ ン 王 立 ア カ デ ミ ー で あ り 、そ の 最 大 の 目 的 は 、 「白人の優秀性を誇示する ためのもの」であった。 日 本 人 の 最 初 の ノ ー ベ ル 賞 は 、 ノ ー ベ ル 賞 が で き て か ら 50 年 以 上 経 過 し た 1949 年 湯 川 秀 樹 博 士 の 理 論 物 理 学 ( 中 間 子 理 論 ) で あ っ た 。 2 人 目 は 1 9 6 5 年 の 朝 永 振 一 郎 で あ る 。ノ ー ベ ル 賞 は 1 8 9 6 年 レ ン ト ゲ ン 博 士の発見に対しての受賞から始まるが、このとき北里柴三郎のジフテリ アの血清療法が対象になっているのだが、日本人(東洋人)にはくれな い。北里の同僚兼後輩のベーリング博士に与えられた。 1920 年 の 山 際 勝 三 郎 の 「 が ん 刺 激 説 」 は き わ め て 有 力 だ っ た の だ が 、 白 人 の 寄 生 虫 説 に あ た え ら れ た 。こ の と き の 山 際 の 受 賞 に 関 し て 、 「日本 人にはまだ早いだろう」という根拠のない理由で受賞できなかった。の ちになって、この白人のがんの定義が間違っていて、つまり、がんでは なかったことが判明する。山際の業績は、市川厚一が毎日々々ウサギの 耳にコールタールを擦り込んで、煙突掃除人に多かったがんを再現・実 証したものであり、学術的にも有意義なものであった。 1 9 1 0 年 に は 、鈴 木 梅 太 郎 が オ リ ザ ニ ン を 発 見 し て い る 。現 在 の ビ タ ミ ン B1 で あ る 。 数 年 の ち に カ ジ ミ ー ル ・ フ ン ク が ビ タ ミ ン と し て 報 告 し た。米ぬかに脚気をなおす成分があるとして、オランダのC・エイクマ ン が 受 賞 し て い る 。・ ・ ・ ・ こ の 日 露 戦 争 の 頃 は 、 日 本 で も 脚 気 の 原 因 を 感染症として強力に推進していたのが、陸軍軍医森鴎外で、まあ、恥を かいた。 も っ と 以 前 、1 9 0 0 年 に は 、高 峰 譲 吉 が 副 腎 髄 質 か ら ア ド レ ナ リ ン を 抽 出し、結晶化に成功している。これを米国のジョン・エーベルが、高峰 が 俺 の 仕 事 を 盗 ん だ 、と あ ら ぬ 疑 い を か け 、ぬ け ぬ け と「 1 9 0 0 年 秋 に 自 分の研究所を高峰が訪ねてきた」と書いている。この野郎は知らないだ ろ う が 、高 峰 は 1 9 0 0 年 7 月 2 1 日 に 結 晶 化 に 成 功 し て い る 。し か も エ ピ ネ フ リ ン と い う 名 前 ま で つ け て 、米 国 で は 今 も っ て エ ピ ネ フ リ ン と 呼 ぶ 。 ヨ ー ロ ッ パ で は 、 さ す が に ア ド レ ナ リ ン と 称 し て い る 。・ ・ ・ ・ 現 在 、 ス ズメバチなどに刺されることによるアナフィラキシーショックのために、 エピペンと称するものを携帯するようになっているが、これは当然アド ペンと呼ぶべきものである。さらに、この男は羊の副腎から抽出したと いっていたが、のちに嘘とわかっている。 野口英世の脳梅毒の解明も無視された。 武井武は、 「 フ ェ ラ イ ト の 父 」と 呼 ば れ て い る が 、昭 和 5 年( 1930 年 ) これを開発し、オランダのフィリップ社から送って欲しいと依頼され、 親切に送ったところ、この会社は、これを分解しその製法を剽窃し、特 許を申請した。オランダ人は、性悪の上に泥棒でもある。江戸時代の芸 人 が ヨ ー ロ ッ パ を 巡 回 し た が 、オ ラ ン ダ だ け 、口 を き わ め て 罵 っ て い る 。 日本刀を抜いて喧嘩もしたという。現在では、フェライトはステルス機 に も 不 可 欠 で あ り 、武 井 は 、 ( 株 ) T D K を 創 設 し 、ビ デ オ か ら ス テ ル ス まで幅広い貢献をしている。フランス人ルイ・ネールがフィリップス社 から与えられた理論を盗み、自分の名前で論文を書き、ノーベル賞を受 賞している。 八 木 秀 次 と 西 澤 潤 一 の 業 績 に は 、特 許 庁 の 間 抜 け た 話 が 残 さ れ て い る 。 八 木 秀 次 の 場 合 、1 9 2 5 年 指 向 性 ア ン テ ナ を 発 明 し た も の で あ る 。こ れ に よ っ て 3 0 0 ㎞ 離 れ た 敵 航 空 機 や 艦 船 の 位 置 を 知 る こ と が で き る 。1 9 4 2 年不 落 と 言わ れ た シ ンガ ポ ー ルを 日 本 軍 が 3 か 月 で 陥 落 さ せ た と き 、こ こで電探 2 基を鹵獲した。その操作方法を記した半焼けのメモを焼却場 で発見した。 こ の 分 野 で は 遅 れ て い た 日 本 軍 は 、急 ぎ メ モ の 解 読 を 始 め る が 、YA G I Array が わ か ら な い 。 ヤ ギ と 読 む の か ヤ ジ な の か わ か ら な い 。 品 川 の 収 容 所 に い た ニ ュ ー マ ン 伍 長 が メ モ の 持 ち 主 と わ か り 、さ っ そ く 召 喚 す る 。 「それは、その装置の発明者の名前だが・・」それでもよくわからない の で 、さ ら に 詳 し く 聞 き た だ す 。伍 長 は か ら か わ れ て い る も の と 誤 解 し 、 機 嫌 が 悪 く な る 。「 本 当 に 知 ら な い の か ? 」 と 半 信 半 疑 で 問 い 返 す 。「 貴 国 の 学 者 の 名 前 だ 。」 慌 て て 特 許 庁 に 聞 く と 、「 あ れ は 碌 で も な い の で 削 除 し た 。」 と い う 返 事 。 み な 頭 が く ら く ら し た 。・ ・ ・ ・ 軍 も 悪 い 。 無 線 を発すると、こちらの居場所がわかってしまう、とも考えていた。 西 澤 潤 一 の 場 合 は も っ と ひ ど い 。 光 フ ァ イ バ ー の 特 許 を 1964 年 に 申 請 し た と こ ろ 、特 許 庁 の 役 人 は「 意 味 が わ か ら な い 。 (つまり理解できな い 。)」 と 門 前 払 い を く ら わ せ た 。 米 国 籍 の 中 国 人 チ ャ ー ル ズ ・ カ オ は 苦 笑する西澤教授を慰めた足で米国に渡り、西澤の理論をそっくりいただ いた上で論文にし、米国コーニング社が特許をとり、共犯のカオはノー ベル賞を取った。 の ち の 話 で あ る 。 日 立 ・ 東 芝 の 社 員 が 特 許 庁 審 判 官 10 人 を 供 応 し て い た こ と が バ レ た 。・ ・ ・ 審 判 官 は 、赤 坂 を 飲 み 歩 き 、タ ク シ ー で ご 帰 還 を 繰 り 返 し 、 総 額 で 3 0 0 万 円 も た か っ て い た 。・ ・ ・ ・ そ れ ぞ れ 懲 戒 免 、 贈 賄 で 逮 捕 さ れ た 。・ ・ ・ ・ 馬 鹿 な 特 許 庁 の 役 人 に 何 が 大 事 か を 教 え るためだったという悲痛な企業の叫びは伝わらなかった。 米国は、占領軍としてやって来たのであるが、日本人の発明発見した も の を 強 引 に 接 収 し て い っ た ( 盗 ん で い っ た )。 小 麦 の 農 林 1 0 号 は 稲 塚 権 次 郎 の 発 見 で あ る 。 こ の 苗 は 、「 緑 の 革 命 」 と呼ばれた。これを品種改良して、東北地方でも多収穫の小麦を量産し ていた。腰の強い「日本人のような品種」である。これを持ち去り、ボ ーローグがメキシコ産の種類と交配し、インドやパキスタンに提供し 4 倍の収穫量を得る。これで飢餓を救い、平和賞をもらっているが、稲塚 の話はしなかった。 中村菌は、火傷や創傷に強い治癒効果があり、兵士の背嚢に必ず入っ ていた。なんでも盗む米兵(亡くなった日本兵から戦利品を奪っていく の で あ る 。)が 失 敬 し て そ の 効 果 に 驚 い て 、酒 屋 が つ く っ た 菌 や 元 の 麹 ま で根こそぎ接収してしまった。 胃液は酸が強く、生物がいるとは考えられなかったのであるが、菌を 発見したという報告はいくつかある。しかし、ピロリ菌が胃潰瘍の原因 で あ る と 最 初 に 発 見 し た の は 、小 林 六 造 と 葛 西 克 哉 で あ る 。1 9 1 9 年 の こ とで、彼らは、酸の強い猫の胃から採取した菌をウサギの胃に接種し、 胃潰瘍ができることを発見し、さらに、この菌の除菌・殺菌で症状が改 善 す る こ と も 発 見 し た 。1983 年 、オ ー ス ト ラ リ ア の ロ ビ ン ・ ウ ォ レ ン と バリー・マーシャルが菌の再発見と培養法を確立し胃潰瘍・胃がんの原 因 で あ る 、 と い う こ と で 2005 年 の ノ ー ベ ル 賞 を 受 賞 し た が 、 小 林 の 業 績についてはひとことも話さなかった。 高 柳 健 次 郎 は 、1 9 2 6 年 ブ ラ ウ ン 管 に よ る 電 送 ・ 受 像 を 世 界 で 初 め て 成 功した。 の ち の 阪 大 教 授 吉 川 秀 男 は 、DNA の 構 造 も わ か ら な か っ た 時 代 に 、一 遺伝子一酵素説を提唱したが、戦時中論文を積んだ船が撃沈され、ノー ベ ル 賞 を 逸 し た 。1 ~ 2 年 の ち に 同 じ 結 論 に 達 し た 人 が ノ ー ベ ル 賞 を 受 賞 している。 日 本 人 は 、猿 真 似・物 ま ね ば か り で 、基 礎 的 な 研 究 を 疎 か に し て い る 、 と零戦の堀越二郎さんを否定した馬鹿な学者がいるが、まったく見当違 いの指摘である。 日本人の独創的な業績はいくらでもある。高峰譲吉、鈴木梅太郎、北 里柴三郎、長岡半太郎、化学の真島利行、金属の本多光太郎などなど。 2 0 1 0 年 ノ ー ベ ル 化 学 賞 は 、根 岸 英 一 、鈴 木 章 。ク ロ ス カ ッ プ リ ン グ は 、 米国人には難しすぎたため、盗まれずに済んだから。 このところ、日本人のノーベル賞が続いているが、当然といえば 当然のことで、それまでは日本人だからといって受賞できず、受賞に値 する業績は米国人はじめ白人どもが盗んできた。どの分野においても日 本人の頭脳、アイデア、技術、いずれをとっても欠かすことができなく なっているのである。そういう仕事が急増していて、白人が盗もうにも 盗んでいる暇がなくなってきたのである。 この稿は、ほとんど高山正之氏の「変見自在」からの引用である。こ の人の読書量についてはただ驚くのみである。 「 外 科 の 夜 明 け 」ま で 読 ん でおられたのには驚いた。この本は、われわれが卒業した頃にほぼ全員 が読んだものである。それでいて、テレビも見る。新聞は大事なタネだ から朝日新聞も読む。雑誌も読む。知識が豊富になるのは当然だが、そ の 読 み も 深 い 。・ ・ ・ ・ ・ 2 0 冊 以 上 の ど の 著 書 で も い い か ら 、 ぜ ひ 一 度 読んでおかれたほうがいい。 20016.06.25.
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