ダウンロード

あ
い
さ
つ
奈良市 では、奈良時代 の都 であった平城京跡 を中心 に埋蔵文化財 の発掘調査 を行
ってお ります。調査 では、古代 の人 々の暮 らしを理解す るのに重要な遺構や遺物が
見つか ります。 この埋蔵文化財 を活か し、少 しで も歴史に触れていただ くため平城
京展 を開催 いた します。
今 回 の展示 は、「平城京 に眠る弥生文化」 を主題 に企画 い た しました。 ここ数
年、平城京 の調査 が進 むにつ れて奈良時代 の遺構 とともに、 さらに古 い時代 の遺
構 が見 つかってい ます。特 に近年、弥生時代の遺構、遺物が見 つかってお り、 この
展示 を通 して弥生時代の遺跡 の様子や生活文化 について理解 を深 めていただけれ ば
幸 いです。
平成 15年 2月 1日
奈良市教育委員会
教育長
例
1.本 書 は、平成 15年
冷
水
毅
言
2月 1日 ∼平成15年 3月 31日 まで奈良市埋蔵文化財調査 セ ン
ター展示室 で、 開催 の第20回 平城京展 「平城京 に眠る弥生文化」 に際 して作成
した展示解説パ ンフレッ トです。
2.本 展 の展示物 の出展 にあた り、東京国立博物館、奈良国立博物館、大阪府立弥
生文化博物館 のご協力 をいただきました。記 して感謝 いた します。
3.本 書 の編集 ・ レイアウ トは、奈良市埋蔵文化財調査 セ ンタ ー職員 の協力 を得 て
秋山成人が担当 しました。
表紙.左 方形周溝墓群(柏 木町/柏 木遺跡)右 上 絵画・記号文土器 (大 宮町七丁目/芝 辻遺跡)右 下 河川跡出土土器 (三 条本町/三 条遺跡
)
I奈 良市 の弥生遺跡
鍵遺跡 など盆地南部 に多 く点在 してい ることが知 られてい ましたが、奈良市
奈良盆地 の弥生遺跡 は、唐古 。
を含 む盆地北 部中央 では弥生遺跡(集 落)の 存在があま り明 らかになってい ませんで した。 これまで奈良市内の
弥生遺跡 は平城京域外 の六 条山遺跡、窪之庄遺跡、秋篠町銅鐸 出土地、山町銅鐸出土地な どが知 られてお り、
京域内の弥生遺跡 は多 くは知 られてい ませんで しが、奈良市 が昭和54年 か ら発掘調査 を本格的 に開始 してか ら
平城京域 の地下に眠 っていた弥生遺跡 も除 々に分かるようになって きました。
¨
¨
与
i
一
一
一
W
一
一
一
“
一
中
一
﹂一
4
。
一
=
す
︻
∵
一
一
︼
・
・
﹂一﹂
甘
, ,
● 弥生時代前期
● 弥生時代中期
秋篠町銅鐸出土地
菅原町 菅原東遺跡
佐紀∬1平城宮西南隅
〇 弥生R寺 代後期
日H日 内倒 は平城京域
14柏
本町/柏 木遺跡 (平 城京第338・ 370次 調査
平城京第173次 調査)15大 安寺西―丁 目 (平 成12、 13年 奈良県調荀
〈
(昭 和39年奈支研調査)16杏 町
(平 城京第 134次 調査
)
)
佐紀鶏1平城宮壬生門北方 (平 成 3年 奈文研調査)17杏 町 杏遺跡
三条大路南二丁目
(平 城京第219次 調査)18東 九条町
四条大路四丁 目
四条大路三丁 目
四条大路二丁 目
四条大路二丁 目
(平
(平
(半
(平
10四 条大路二丁目/南 新遺跡
11四 条大路二丁目
12四 条大路―丁目
13尼 辻町
(平 城京第337次 調査
(平 効京第272次 調査
)
城京第197次 調査)19大 宮町七丁 目′
芝辻遺跡(平 城京第375次 調査
城京第328次 調査)20芝 辻町二丁目
城京第 81次調査)21大 宮町二丁 目
成 2年 奈良県調査)22大 森町
(平 城京第 102次 調査
)
)
(平 城京第 190次 調査
)
(平
城京第4592次 調査
)
)23三 条本mT三 条遺跡〈平城京第420次 調査
(平 城京第457次 調査
(平
(平
(平
)
成 10年 試掘調査)
)
24三 条本mJT三 条遺跡 (平 域京第446次 調査
)
城京第346次 調査)25杉 ヶヽ彬 ヶ町遺跡 (平 城京第 144次 調査
)
城京第365次 調査)26山 町銅鐸出土地
弥生時代の遺構検出地点
(1/25,000)
Ⅱ 弥 生文化 と集落 の 立地
弥生文化 は、紀元前300年 頃に大陸か ら伝 わった稲作農耕や鉄 ・青銅器 の道具を使 う新 しい技術
により生まれた文化です。新 しい技術 で、青銅製の武器や銅鐸・鏡、農具 として鋤や鍬、竪杵が作
られ、工具 として磨製石器が使 われました。土器には、甕や鉢以外 に米 を貯蔵す る壷が現れます。
弥生時代 になると縄文時代 の狩猟採取を中心 とした生活か ら、低地に水田を微高地に大 きな集落 と
墓をつ くる定住生活にな ります。稲作農業 により安定 した食糧が得 られるようになると余剰 な生産
物が生まれ集落を治める有力者に富が集まるようにな ります。そうしたことが弥生時代 の建物 の大
きさ 。配置や墓の大 きさ 。副葬品か ら分か ります。弥生時代 の終 わ り頃になると「魏志倭人伝」の
記録か ら、卑弥呼のような権力 をもった王が現れたことが窺 われます。
こうした人 々が生活する集落は、大 きな河川の周辺に立地 していることが多 く、奈良市では発掘
調査 により秋篠川、佐保川、菩提川の旧河川が見つかっています。
河
川
農耕用 の灌漑水源 として利用 され
導水施設や当時 の人 々の物資運搬手段 として
も利用 されていたようです。
三
町
条
本
平城京第420次 調査 では、東 か ら西 へ 流れ
遺
跡
条
る幅6.5m、 深 さ0.6mの 河川跡 を検 出 してい
/二
ます。河川跡 か ら弥生時代後期 の 弥生土器
壷 ・奏・鉢、木製品な どが 出上 しました。
平城京第446次 調査 では、北東か ら南西 に
流れる幅26mの 河川跡 を検出 してい ます。河
川跡か ら弥生時代後期末 の絵 ・記号が描かれ
た弥生土器壺 ・器台 ・奏 ・高杯、竪杵 ・鋤 の
木製品が まとまって出土 しました。
この二つ の河川跡 (P4遺 構位置図参照)は 、
一連 の もので春 日野丘陵をほぼ東か ら西へ流
河川 三条本町/三 条遺跡
れると考 えられます。
卑弥呼の館復元模型 大阪府立弥生文化博物館所蔵
(第 420次 )
Ⅲ 弥 生 時代 の人 々の暮 し
人 々は、稲作 に適 した川の流域沿 い に集 ま り村 を作 り、水 田を耕 し豊穣 を願 い暮 してい ました。
食物調達手段 には、稲作以外 に狩猟 ・採取 ・漁 も行 われてい ます。山では、お もに猪 ・鹿 を狩 り、
IIで は、アユ 。フナ 。タニ シ・ シジミなどを捕 っていました。また、
ドングリ・ クル ミなどを拾 い、ナ
狩猟 のための大、家畜 として豚 を飼 っていたようです。
1日
集
落
弥生時代 の集落 は、主に水 の利便性 の高 い低湿地や湧水す る土地に作 られた水 田 と、その周辺 の
微高地に設け られた居住域、少 し離れた ところに築 かれた墓域か らな ります。集落 には、環濠集落
(濠 を廻 らした集落)の 他、高地性集落 (高 い丘陵上や山頂、山の中腹 に営 まれた集落)な どが あ りま
す。環濠集落 の大 きさは、奈良県田原本町の唐古 ・鍵遺跡 で径約400m、 大阪府和泉市 の池上 曽根遺
跡 で径約300mあ ります。集落内の構成 は、竪穴住居、掘立柱建物、井戸、土坑か らな ります。 高地
性集落 は、防御 を目的 とした集落 と考え られてい ます。墓 には、方形周溝墓、土坑墓などあ ります。
清
利用 目的によりい くつかの用途 に分 け
る ことが出来 ます。集落の周 りを囲む防御 的
に掘 られた濠、建物 を区画す るための溝、建
物 に接 し周 囲に掘 られた排水溝、川 か ら水 田
へ水 を引 き込むための灌漑用 の水路 な どが あ
ります。
二
四
大
路
丁日
条
平城京第457次 調査 では、 北西か ら南東方
向の幅2.9m、 深 さ1.lmの 断面 U字 形 の深 い溝
/赫帥
を検 出 してい ます。溝 内か ら弥生時代 中期 の
弥生土器壷 ・鉢 の小片、石包丁 ・石鏃 (矢 の
先 )・ 石小刀 ・石斧 ・砥石 な どの石器が出土
しました。 この調査地 の東側 では平成 10年 に
双必 院
奈良市が試掘調査 と平城京 346次 調査 で 同様
溝 四条大路二丁目/南 新遺跡
(第 457次 )
の溝 (P6遺 構位置図参照)を 検出 してお リー連
の もの と考 え られます。北側では平成 2年 に
奈良県が調査 を行 い竪穴住居、溝、土坑 を検
出、南側 では猫木町 (相 木遺跡 )の 方形周溝墓
群が広がることか ら、この溝が居住域 を囲み、
=川
酢那
担退
茉何
溶
墓域 とを分ける濠 と考 えることもで きます。
平城京第337次 調査 では、北西か ら南東 に
延 びる幅1.8m、 深 さ0.3mの 溝 を検 出 してい ま
す。溝内か ら弥生時代前期末か ら中期初めの
弥生土器壺が出土 しました。 この溝 は、深 さ
が浅 く、農耕用水路 または、建物 を区画す る
滞 の可能性が考 えられますが、周辺での発掘
調査が進 んで い ないため、 はっ きりした こと
は分か りません。
力銚
溝 杏中町/杏 遺跡
(第 327次 )
3
住
居
弥生 時代 の住居 の形態 は、竪 穴住
居 と掘 立 柱建 物 が あ ります。 竪穴住居 は、 縄
文 時代 か ら続 く住居 の形 で、地 面 を掘 り下 げ
床 面 を作 り、柱 を立 て屋 根 で 覆 った 形 を して
い ます。竪穴住居 の構 造 は、主 柱 で 支 え られ
垂 木 を放射状 に配 した屋 根 の骨組 みの上 に茅
や土 な どで 葺 か れて い た よ うで す。住居 内 は
床 面 中央 に炉 が設 け られ、周 囲 の壁 沿 い に湿
気 を防 ぎ〕,水 用 と考 え られ る溝 が廻 らされ て
い る もの もあ ります。弥 生 時代前期 、 中期 に
平 面 円形 の 住居 が 多 く、弥生 時代 後期 の終 わ
り頃に平面方形 の住居 が現 れ ます。
四条大路四丁目
円形 竪 穴住 居
平城京 第 197次 調 査 で は、
径 6.0∼ 6.3mの 平面 円形 の竪穴住居 を検 出 して
竪穴住居復原図 (ィ メージ
)
い ます。
住居 内は、柱 間2.4m等 間隔 に柱 穴が 4
ヶ所、壁沿 い に幅0.1∼ 2m、 深 さ
0。
0。
lmの 溝 と
中央 には径 1.lm、 深 さ0.4mの 不整 円形 の土 坑
が あ り、弥 生 時代後期 の 弥生土器壼 ・ 奏 ・ 高
杯 ・器台、石鏃 ・石錐 の石器が出土 しま した。
杉ケ
方形 竪 穴住 居
ll
イ
杉ケ 跡
rl遺
径約
平 城 京 第 144次 調 査 で は、
5mの 平面 隅丸方形 の竪穴住居 を 3棟 検
出 して い ます。柱 穴 は、 4ケ 所 あ り壁 沿 い に
溝 が廻 り中央 に土 坑 が あ ります。 この 内 1棟
には、 住居 か ら2.5∼ 3.5m外 側 に幅0.4∼ 9m、
0。
深 さ0.1∼ 0.3mの 溝 が廻 って い ま した。 住 居
内か らは弥生 時代 後期 の 弥生土器壷 ・ 奏 な ど
円形竪穴住居
四条大路 四丁 目 (第 197次 )
の小 片が 出土 しま した。
十
よ
│
■ ■ 河 ,I ‐
清
三条本町/三 条遺跡・杉ケ町/杉 ケ町遺跡 遺構位置図
(1/5,000)
方形竪穴住居 杉ケ町/杉 ケ町遺跡
(第 144次 )
井
戸
農耕文化が伝 わる以前、飲料水 は
河川や泉か ら得 てい ましたが、井戸 を掘削す
る ことで、水の確保が容易 にな りました。井
戸 は、地下の湧水層 まで掘込 まれ、素掘 りの
もの・木 の枠 を設けた ものがあ ります。
上
坑
地面 に穴 を掘 っただ け の遺構 で
す。用途 は、食物 などの貯蔵す るためや廃棄
物 を埋 めるためな どです。 また土坑 には、素
掘 りの井戸 と区別 しに くい ものが あ ります。
平城京第 144次 調査検 出の竪 穴住居 の外側
町
杉ケ
/杉
ケ
町
遺
跡
約
3mに 、径約 1.lm、
深 さ1.2mの 土坑 を検
出 してい ます。土坑内か ら弥生 時代後期末 の
弥生土器壺 ・鉢・ 高杯 。器台、植物 の種子が
土坑内土器出土状況 大森町
(第 459-2次 )
出上 しました。
阿町
木林
■人
平城京第459-2次 調査 では、径0,7∼ 0,8m深
さ0.95mの 平面楕 円形 の土坑 を検 出 してい ま
す。土坑内か ら祭祀 に使用 された と考 えられ
る弥生 時代後期 の弥生土器壷 9個 。ミニチ ュ
ア高杯、鋤の木製品が出土 しました。
二
二
南
条
大
路
丁甘
平城京第219次 調査 では、径 2.4m∼ 1.65m
深 さ0。 92mの 平面楕 円形 の土坑 を検 出 して い
ます。土坑 内か ら弥生 時代 前期 の 弥生土器
壺 ・奏、木製高杯 ・竪杵 ・櫛 の木製品、敲石
の石器が出上 しました。
この 3つ の上坑 は、湧水層 まで掘込 まれて
い ることか ら素掘 りの井戸 とも考えられます。
二
四
条
大
路
丁目
土坑群 杏町
(第 134次 )
平城京第81次 調査 では、径 1∼ 3m、 深 さ0.49
∼ lmの 平面不整形な土坑 を検出 してい ます。
土坑内か ら弥生時代中期 の弥生土器壷 ・高杯、
石包丁・石斧 の石器が出上 しました。調査地南
側 で、平成 2年 に奈良県が竪穴住居 5棟 を検
出してお り同じ集落内の遺構 と考えられます。
席叫
末百
平城京第134次 調査 では、径 1.4∼ 3.4m、 深
さ0。 1∼ 1.Omの 平面不整形 な土坑 を 8基 検 出
してい ます。土坑内か ら弥生 時代前期か ら中
期初 めの弥生土器壷が出土 しました。
央木
∼カ
吉本
平城京第272次 調査 では、東西 3m、
南北
1.8m、 深 さ1.lmの 平面隅丸方形 の土 坑 を検
出 してい ます。土坑内か ら弥生 時代前期 の弥
生土器壺・蓋 ・鉢が出土 しました。
土坑出土土器 二条大路南二丁目 (第 219次 )東 九条町
(第 272次 )
墓
弥生時代 の墓 は、集落 と離れた場所 に
築 かれ、現世 と死後 の世界 とが 区別 されてい
た ことが窺 えます。近畿地方の墓の形 は方形
L
■トギ試昨
●卦
に溝 が掘 られ、内側 に盛土 を築 き棺 を納めた
方形周溝墓、地表 に穴 を掘 っただ けの土坑墓
もっかん
があ ります。棺 には板 を組合せた木棺 と壺 ・
ど き かん
鉢 ・奏 を使 った土 器 棺 が あ ります。
/舶 木
町
遣
舶木
跡
方 形 周溝 墓
平城京第338。 370次 調査 で
は、方形周溝墓 18基 を検出 してい ます。方形
周溝墓 は、北東 か ら南西 方向 に延 びる河川跡
の西側 に分布 し、 さらに東西方向の河川跡 を
挟み、南北 2群 に分かれ ます。規模 は一辺 4
∼14mあ ります。 4基 の墓 には組合せ式箱形
木棺 の小 口板 の痕跡 が残 ってい ました。小 口
板 間の距離 は1.2∼ 1.6mあ ります。周溝か ら弥
■■ 河川
■■ 清
麗蔭 堅穴住居
I I土 坑
■■ 方形周溝墓 上坑墓
柏木町/柏 木遺跡・四条大路二丁目/南 新遺跡 遺構位置図
(1/5,000)
生時代中期 の弥生土器壺・鉢が出土 しました。
菅
原町
/曽
原
東
遺
跡
平城京第173次 調査 では、 方形周溝墓 5基
検 出 してい ます。大 きさによ り大小 2群 に分
かれ ます。 この 内 3基 は、 一辺 5∼
6mで 、
他 の 2基 は 9∼ 12mの 規模があ り、 主軸 は、
やや北で西 に振れてい ます。周溝か ら弥生 時
代 中期 の弥生土器壷が出土 しました。
土坑 墓
平城京第338次 調査 では、胴部径
約70cmの 弥生 時代中期 の弥生土器奏 とほぼ同
じ大 きさの掘形 に甕 を埋 めた土坑墓 を検 出 し
てい ます。上部 は削 られ、土器内に甕 の口縁
部 と棺 の蓋 に利用 した高杯 の杯部が残 ちてい
ました。
方形周溝墓 菅原町/菅 原東遺跡
方形周溝墓 柏木町/柏 木遺跡
(第 173次 )
土静棺
(第 338次 )
柏木町/相 木遺跡
(第 338次 )
2.農
耕
日本 にお け る稲作 開始時期 は、縄文時代晩
期 の北部九州や西 日本各地 の遺跡か ら水 田や
炭化米 が見 つ かってることか ら、縄文時代晩
期 に遡 る こととな りま した。奈良市 において
弥生時代 の水 田は見 つかってい ない ものの水
田に水 を引 くための施設 であ る堰や耕作す る
ための鍬 ・鋤、収穫 す るための石包丁、脱穀
す るための竪杵 が出土 してい ることか ら稲作
が行われていたことが分か ります。
二
二
南
丁!
条
大
路
土
竪
出
杵
竪
杵
平城京第219次 調査 では、 弥生時
代前期 の土坑か ら竪杵がほぼ完全 な形で出土
竪杵出土状況 二条大路南二丁目 (第 219次 )
しました。全長 は1.43mあ ります。握 る部分
は糸巻 きの形 をしてい ます。つ く部分 の先端
は一方が丸 くす りこ ぎ状で、 もう一方があま
り使用 されてい なかったのか平坦です。竪杵
は、脱穀 (籾 殻 をと り玄米 にす る)作 業 に使 わ
れたと考 えられてい ます。
四
大
携二
丁日
条
,芝
二
辻町
丁甘
土
出
包
石
丁
石包丁
稲穂 を摘み取 るための道具 です。
近畿地方 の石包丁 は、長 さ15cm程 で、半月形
に石 を磨 き片側 に刃 を作 り、石 の 中央か ら若
千刃 の反対 よ りに中指が入 る程度 の 間をお い
て 2ケ 所 に子とが 開け られてい ます。
七
大
宮町
T日
堰
平城京第375次 調査 では、北東か ら南
淀趙跡
西方向に延 びる幅3.5∼ 5m、 深 さ 1∼ 1.2m
検出
堰
の弥生 時代中期終 わ りか ら後期初頭の河川跡 石包丁 四条大路二丁目 (第 81次・第457次 )芝 辻町二丁目 (第 102次
と川底 に丸木 と矢板 を打込み、横木 を架け小
枝 ・木皮 を使 い隙間を塞 いで設け られた堰 を
検出 しました。堰 は、水流 を分岐 させ灌漑用
水 を溝 に通 し水 田に引込むための施設 です。
堰 大宮町七丁目/芝 辻遺跡
(第 375次 )
堰と河川跡 大宮町七丁目/芝 辻遺跡
(第 375次 )
)
3日
まつ り
稲作 は、 自然条件 に左右 され ます。不作 の
時 は、食糧確保が困難 とな り苦 しい生活 をせ
ざるをえませんで した。 よって人 々が、一番
恐れてい ることは、 自然 の脅威 です。 この脅
威 を鎮 めるため、 まつ りを行 っていた ようで
す。この様子 は、銅鐸や土器 の表面 に描かれた
当時の人・動物 。道具な どの絵か ら窺へ ます。
銅
鐸
銅鐸は、その内側 に舌 と呼 ばれる
棒 をぶ ら下げ音をだす、まつ りに使 われた用具
だと考え られてい ます。銅鐸の表面 には、鹿・
鳥・昆虫、脱穀・狩猟・漁な どの様子が描かれ、
銅鐸出土地 秋篠町宇西山
豊かな暮 らしを表現 したものと思われます。
秋
町
西山
篠
字
土
錦
出
鐸
平城京外 の奈良市秋篠町の尾根上で弥生時
代 中期前半 の外縁紐式袈裟欅文銅鐸 2点 。中
期 中頃の扁平紐式袈裟欅文銅鐸 2点 が出土 し
てい ます。 この内、外縁紐式袈裟欅文銅鐸
1
点 (秋 篠 4号 銅鐸)に は、水鳥 の絵が描かれ
てい ます。
山
町
字
早日
土
出
銅
鐸
平城京外 の奈 良市 山町 の尾根北側斜面で、
弥生 時代 中期初頭 の外縁紐式流水文銅鐸が出
土 してい ます。銅鐸表面 には流れる水が描か
れ (伝 )徳 島県川内町榎瀬出土銅鐸 と同籠関係
にあ ります。
絵画 土器
日常用具 として使 われた器 では
銅鐸出土地 山町字早田
な く、 まつ りに使 われた と考 えられ ます。土
器 の 表面 には、人 ・巫 女 ・ 鹿 。鳥 ・魚 ・ 昆
虫・建物、漁 などの様子が描かれ豊かな暮 ら
しを表現 したものと思われます。
記 号 文 土器
弥生時代後期 の壼 の表面 に
記 されてい ることが多 く、製作者又 は所有者
の記号 とす る考 え方や絵画が記号化 した とす
る考 え方などがあ ります。
絵画・記号文土器 大宮町七丁目/芝 辻遺跡
(第 375次 )
流水文銅鐸 山町字早日奈良目立博物館所蔵
七
土
出
丁目
大
宮町
平城京第375次 調査 では、河川跡及 び堰 を検
文
画1記 号
絵
出 してい ます。堰付近か らは、弥生時代 中期
土
器
末 か ら後期初頭の弥生土器奏 ・壺 ・高杯 ・器
台が出上 してい ます。奏 には、爪の圧 痕 を三
列 に並べ て、生 きものを表現 した絵 が描かれ
てい ます。 また、壷 には、刺突 による記号文
が二列 に施 されてい ます。
三
土
条
本町出
平城京第446次 調査 では、河川か ら弥生時
文
絵画̀記 号
代後期末 の弥生土器壷・器台 ・奏 ・高杯、竪
土
器
杵 ・鋤 の木製品が出土 して い ます。この 内壷
2点 には、絵画又 は記号文が線刻 され四本の
直線 で方形 を表 した もの と S字 文様 を表 した
絵画・記号文土器 三条本町/三 条遺跡
(第 446次 )
ものが あ ります。
おわ りに
この展示 は、 弥生時代 の集落を構成す る遺構 を種類 ごとに解説 しましたが、遺構の広が りや出土
遺物 の時期 を合 わせ考えると弥生時代 の集落がい くつかあげ られます。弥生時代前期の集落は、二
条大路南 二丁 目 (土 坑)か ら佐紀町 (平 城宮壬生 門北方 にお いて平成 3年 に奈良国立文化財研究所
が調査 を行 った ところ竪穴住居 ・土坑 を検出)に かけての地域があげ られます。弥生時代 中期 の集
落 は、四条大路 二丁 目 (溝 。竪穴住居 。土坑 )か ら猫木町 (方 形周溝墓・土坑墓 。河川)に か けて
の地域があげ られます。弥生時代後期の集落は、杉 ヶ町 (溝 ・竪穴住居 ・井戸)か ら三条本町 (土
坑 ・河川)に か けての地域や佐紀町 (平 城宮 の西南隅にお いて昭和 39年 に奈良国立文化財研究所 が
調査 を行 った ところ溝 ・竪穴住居 ・土坑・方形周溝墓 を検出)周 辺 の地域があげ られます。その他
の地点で も遺構 を検出 してお り、集落が存在す ると思われますが、溝 (濠 )住 居、土坑、墓 などの
集落 を構成する遺構が揃 っていないため、 はっき りした ことは分か りません。今後調査が進み資料
の増加 によ り明 らかになるもの と思われます。
参考文献
奈良国立文化財研 究所
『昭和39年 度平城宮跡発掘調査概要』
奈良市史編集審議会
『奈良市史 考古編』
佐原員 ・金 関恕編
「稲作の始まり」
金 関恕 ・佐原員編
『弥生文化の研究』全10巻
下条信行編
奈良県教育委員会
「弥生農村の誕生」 『弥生農村の誕生4』
講談社
『奈良市埋蔵文化財調査概要報告書昭和62年 度∼平成12年 度』
『奈良県遺跡調査概報 1990年 度 (第 1分 冊)』
大和 弥生文化 の会
『みずほ 第15号 研究集会記念号』
1995
大和弥生文化 の会
『大和の弥生遺跡 基礎資料 I』
1995
奈良市教育委員会
弥 生都市 は語 る展実行委員会
宮本長 二 郎
『古代史発掘 4』
1965
吉川弘文館
1968
講談社
1975
雄 山閣
1986-1989
F弥 生都市 は語 る 環濠か らのメ ッセ ージ』
『日本の美術 5 No.420原 始・古代住居の復元』
大阪府 立 弥 生 文化博物館 『王の居館 を探 る』
1988
1986-2002
1991
2001
至文堂
2001
2002
竪杵
二 条大路南 二 丁 目 (第 219次 )
第20回 平城京展
編集 奈良市埋蔵文イ
凹調査センター
平城 京 に眠 る弥生文化 箭 奈良馘 育無 会
発行日 平成15年 2月 1日 Fl刷 帥平井員美館