5-6 - 賀川記念館

KAGAWA GALAXY 吉⽥田源治郎郎・幸の世界(56) 1929(昭和4年年)正⽉月3⽇日間(この写真は両端20⼈人ほど写っていない) 第 56 回 四貫島セツルメントと吉⽥田源治郎郎(14) さて、1929(昭和4)年年の幕開けは、前年年正⽉月開催の第1回に続き、第2回イエスの友会冬季福⾳音学
校(於・⼤大和⾼高⽥田町;上の写真)であった。賀川・杉⼭山・吉⽥田ら常連の顔が並んでいる。しかも関⻄西と関
東(於・本所基督教産業⻘青年年会)で同時開催となった。 福⾳音学校の詳しい記録と講演内容は、イエスの友会の機関紙「⽕火の柱」と賀川豊彦個⼈人誌『雲の柱』に掲
載されているので、ここには主に、吉⽥田源治郎郎による「四貫島セツルメント」のレポートに絞り、この年年
の動きを⾒見見て置きたい。 『四貫島セツルメント創設五⼗十年年記念念
:五⼗十年年のあゆみ』(昭和50年年)より この記念念誌については前にも取り上げているが、
「五⼗十年年のあ
ゆみ」とはいえ戦争などで記録が失われ、草創期から昭和2
0年年(吉⽥田源治郎郎在任期間)の記録は僅かに20⾴頁ほどに纏
められている。 先ずはじめに「昭和初期より終戦まで」の項⽬目の(1)
「教会
活動と⽇日曜学校」の記述を取り出して置く。右の14⾏行行のみ
である。 吉⽥田源治郎郎による「四貫島セツルメント」報告(昭和4年年分)『雲の柱』(昭和4年年3⽉月号) 『雲の柱』(昭和4年年6⽉月号) 『雲の柱』(昭和4年年8⽉月号) 『雲の柱』(昭和4年年12⽉月号) この頃の写真たち 右は昭和4年年の四貫島セツルメントのクリ
スマス 下は不不詳 右前は吉⽥田源治郎郎 下は昭和3年年頃?四貫島SS教師たちが正⽉月、吉⽥田源治郎郎の⾃自宅宅(今津)に集まりスキヤキ会を開く。 前列列・源治郎郎の隣隣が⻑⾧長⼥女女敬⼦子 乗り物に乗る男の⼦子は次男恵 ⺟母・幸は前列列左2⼈人⽬目のようである。 右は撮影年年不不祥 四貫島セツルメント前に⽴立立つ源治郎郎 源治郎郎は、昭和4年年の1年年間も例例の「シュワイチェルの⽂文明哲学」
(5
回)の翻訳と共に、名著紹介のような論論⽂文「教会博愛事業の歩み」
(3
回)、「キリスト教社会愛史」(2回)など数多くの執筆を続けている。 「神の国運動協議会に臨臨みて」(「⽕火の柱」第 31 号:昭和4年年 11 ⽉月)より 最後に、標記のタイトルの短いメモ書きがあるので、ここに収めて置く。 吉⽥田源治郎郎は、今回冒頭にあげた正⽉月の冬季福⾳音学校を⽪皮切切りに、恒例例の農⺠民福⾳音学校やイエスの友会全
国⼤大会(今回も多武峰)など⼤大活躍であるが、
「⽕火の柱」や『雲の柱』などに詳しく取り上げられているの
で今回は省省略略した。 (2010年年8⽉月30⽇日記す。⿃鳥飼慶陽)(2014 年年 8 ⽉月 4 ⽇日補正) KAGAWA GALAXY 吉⽥田源治郎郎・幸の世界(57) 四貫島セツルメントの夏期キャンプ(武庫川にて)
第 57 回 四貫島セツルメントと吉⽥田源治郎郎(15) 1930(昭和5年年)も正⽉月2⽇日から3⽇日間「第3回冬季福⾳音学校」をもって歩み出している。下の写真
は「⽕火の柱」2⽉月号のものであるが、今回も⻑⾧長⾕谷川夫妻の牧する芦屋組合教会を会場に、吉⽥田源治郎郎ほか
河上丈太郎郎、中島重、⽵竹中勝男、岩崎武夫、村島帰之、富⽥田砕花、升崎外彦といった豪華な講師陣の修養
会である。 先ず『雲の柱』1⽉月号に収まられている吉⽥田源治郎郎のレポート「労働街伝道のニュース」を⾒見見て置く。 『雲の柱』(昭和5年年7⽉月号)
セツルメントの夏期キャンプ事業 武庫川に於けるセツルメントの夏期キャン
プの写真は、この年年のキャンプではなく数
年年後のものであるが、
「武庫川のほとり」で
の「夏期林林間学校」は、既に前年年(昭和4
年年)の夏、
「神⼾戸イエス団」の活動として始
められていたことは、昨年年の「武内資料料・
お宝発⾒見見」の第78回と第79回で写真と
共に紹介したことがあり、四貫島セツルメ
ントに於いても、本格的な企画が整い、こ
のような呼びかけで実施されていったよう
である。 追って取り上げる⻄西宮の「⼀一⻨麦寮寮」が完成
するのは昭和6年年の暮れのようであるが、
この「夏期キャンプ」はその前のことであ
る。 ⼩小川敬⼦子「四貫島セツルメントの思い出」より この四貫島セツルメントの「夏期キャンプ」に参加した経験を持つ⼩小川敬⼦子(源治郎郎の⻑⾧長⼥女女)のメモの中
に「夏のキャンプ」という所があるので、ここに紹介して置く。 吉⽥田源治郎郎の論論⽂文・聞き書きほか(昭和 5 年年分の中から) 『雲の柱』(昭和5年年 12 ⽉月号) 「東京⾵風景・笑へぬナンセンス物語」(「⽕火の柱」第38号) 「三⼀一年年式の聖書読⽅方法」(「⽕火の柱」第39号) 吉⽥田源治郎郎の「聞書:升崎外彦<漁村伝道の
プロフイル>」 前⾴頁の武内勝の聞き書きは、昭和5年年12⽉月11⽇日に四貫島セツルメン
トで書いたものであるが、今回最後に取り出した升崎外彦の聞き書きは、
丁度度1年年前の昭和4年年12⽉月13⽇日に源治郎郎が書いたもので、
『雲の柱』
の昭和5年年2⽉月号に掲載されていた。 なお、上の写真はそれからほぼ40年年後(昭和43年年)のある会合での
升崎(右)と吉⽥田(左)である。 以上今回は、源治郎郎のレポートを並べて⾒見見た。 (2010年年9⽉月1⽇日記す。⿃鳥飼慶陽)(2014 年年 8 ⽉月 5 ⽇日補正)