5E ! r B Ui -uJ' ;; l; lJ *LltE] T]a) Se:f U-11S ! :t')-1 I- i+ .. t,O,' fD ,ga 5 :+,ii.,FF1 I : g:f:a. : ,D, 5 g,D J: 5 S r ub =1 I ?7 *, E I efC JtS a) a) ?,/ I eat I: ;t J -7" ] il 1) t-・*.( ? : LLl ; : ' I /+ I* l -I , . i . ! :i 1,i T F1 1 i Lu tXF. l :a) 171 ': ,+ ^ /7 i ,go, :o ,g 5 .蘭学 ⊥822宇田川榛斎棺庵遠西医方名物考阿利機オレィフ 勧業場植物園入・ 神戸阿利機園 ド 一種の足袋。 浬務顛禁神舞灘..、 -顛,-,1, 沐一務一.一鱗醐擁畷地取設の義 號四神戸阿利機園と改称の件 牒一一塑五阿利襟油及塩蔵品回送の義 .一神.一〇山林局より地所借受の件 ロほエ 乳舅一一一阿利機油並びに塩蔵品 目神[払下げの件 =阿刑Il■r工・庫ヒ」μ一・・1}■ゴヒ引・…II・…」刊 フ ド ヨヨコヤド 抽醐無恥瓢踊訓■■韻,a..d......一.....の コラ オボにトヅが ザおラドはうしし オリーブ園の弓 ^留嘉哲プ{打毒食帰妻・園 艸∴L・一一■】・・・・・・・・・・・・・…■■■・・■■■■■■■■■■■■■■■■“ O一曲 一年回下端朝州恥肖・府異^4ノ片■呪 岬山弥届一一一畑町階樋rJ臣一き自一 一町州旺帥升監曲一曲.■'件・』■■■ 史実1 .阿列布・ ・指の部分は分かれず、 期一曲辰一一一栽培地買収伽件 オリーブ園の史実を吊す農務顛末 オリーブ園の史実を爺す農政文書 olijf オーラーrン・一・ダ 麓雑え,艦噸の酸 促進府県勧業課を場 ,しとうず【下沓・被】「したぐつ」 機 オレーフ オレフ 三田育種場日!1・・一17 S26 オリーブ 殖産興業政策内藤新宿講場蜘海辰 日本薬局方M19・ ■ 1オリーブとい髭真字? ,なぜオリーブ園を作ったのだろう?. ・1772年杉田玄白解体新書阿礼機オレーフ 』一一一'1小鉤にはぜ〕はな(ひもで結ぶ. 1 1. 前田正名 西南地方の暖地に普及させる目的一 ■1し■1し により明治十一一年に設置した。 将来の輸入量を減らし、かつ国産品として の各樹の効用はゴムは諸工場のポンプの他、 カッパの類:オリーブ油は食用として滋養 の効あり、諸油の中でも優れるのみならず、 現に千住の製絨所(毛織物)新町の紡績所 等のように総ての精密機械類に必要であ る。 ユーカリは成長が早く造船の材: 一㌧ 第六款神戸阿利襟園 第一一篇 上巻 継勧農事蹟輯録、 懸 騰、 し お一 ・…一・]西四 明治十四年神戸支園景況 明治十五年神戸支園景況 第一項滑革並二七 明治十六年神戸支園景況 明治十七年神戸阿利機園景況 露草O経管ノ樹胴ノ 明治十八年神戸阿利機園景況 一資・ 阿利協試験地借開方文部省一一掛合〔ヤ=) 暖地適合ノ植物極植地御借用ノ義二付 整局へ御掛合案(ん●且Y■■■■■■■■…■■■・■■の 三大阪府下麗地ノ内御惜別ノ義、、村塾喬答(九.門園 五明治+四舞髪禦況二1■■■■■■■■■■■■■■フ 四神戸地方へ暖地植物栽培賦験地.取設ノ義二付伺(二二“ り 六明治十五年神戸支園景況.........,,.,,.一..【 七明治十六年神戸吏園景況-・ (明治十七年紳戸阿利嬢園景況… 1 利丁買一 六山町 阿二を 、通畝 年本七 十区一 治戸別 明神反 ,..) 丹 轡 一 明治十七年十月神戸区山本通六丁目 官林中三町歩を借入れ・・ 「一」可一一一一' o 噺◎ 栽植のオリーブは明治十二年仏国 より輸入せし・・五百五十株なり 轟■“ 覧. 、暖麟槻繋験地鱒 パリ万博事務官長 農商務省次官 「興業意見」 地方産業の近代化 本園は海外各国の暖地産の 有用植物を栽培増殖し、それらを 仏・留学7年 (明治+入年賀阿羅景況・・・・・・・・・・・…オ フドウ ' ㌍戸区山本通二丁目に・・ ∼別一町七畝を買収し、 '=A.1 ・ユ830-18フ8 工 弓治十六年、阿利襟栽培地として ユーカリの六種を試 植一 このうち、オリーブの みがよく土質に適応 し意外の好結果を得 て、将来普及が期待 されたので一オリー ブの増殖に専念した 1850-1921 文書 史.実 苗木仕立所を設け・・ 』■ .勾 オリーブ、ゴム、オレ ンジ、レモン、ブドウ、 内務卿 大久保利通 書 九 オリーヲ騒はどこにあった?マ翌 竣謬 ,議細「 六 五 オリーブ園の設置 o 一 二 明治十二年神戸三ノ宮に一町歩内外の 一■ ノ 一1□∠引 1■■II■1 I I 、◎ ・主斗十景㎞』 圃¢潔隠町4丁首軍饗里謡. .II マ 手霜 尋帖、一 中コ軍∫rr`1_ 鷺二や・1ず1〆.工 専恭/惣;・奪 堀 ロヒより 撃■」「=一』・ト1居 』'h月一1'“上 智 臼㍉.停車 ・畠?毫堅営 雨-.-吋/團 取塁豆十1旦A甲恥塁¥十量目⊥=聾‡甲一瞬図些韓国毒蚤' リアヰドごぽ -一' ■、」・.` ずびロタぜへよ 圖∩[血古む9ξヲ≦E拍 .' !圃(0製1巨 窮4=r菖 景饗里謡 ・lr、1:字1・・"囁 びうやじヘ ノゴコゴリロ f'tl∫1:』隅一 一畢一』一」,`引r・ご』 "党一r^=乎= 「 ゴ 一一 ・∫∫1噛,,琶 与!」一→r・・ ド ■-,“ 酌!電 『,」. 山←」ド,」 ラロかい ロ『軋'叩ρ=..耽^・、 ㌦,團 擬1#ノ !翠。曹:に∼判■二一n』ヒ :翠。望罰:∼別口二一n3 (星/団0∠Z)響09団ε08'Zτト魏魏 一日4一、 II■「■1■■■「..ヒ ㎏■を.章障罫瞬.箸伝書¥ 州∼■で-聖遵縦誹陪陽■甲』陰巳、 L-卜-団、繍一碑了 ざ下二一層一.」}杯著ヤ■-創不治-一 ■割谷引{累訓協Lr、■ ヒ .ず畢ド国I-下・ ドドコ ■、暗潮繍瞳㎞「■ 7}導卸-ξ幸と馬一・v■ー .鞭隠載陽㍊・ゼ ラ k、憎.鷲罪計麟藩∼ ドしドラ ¶↓裡・^罫恥7雀千、早旦皇ヤ、叫 騰都葬降 -鼻曙叩売τ 『3で'①一5謝唐臼、㍉障■弁7㍗一■- -准顯町郵-陣融誰. 図 :剥一 馴到堰酌首軍票障・F隈h 一⑦世πユつぞ暫㍗.舟』ド■ :要暫⑦ 蠣確牽針・上 ¢士聯L▽:馴甲翻Y堀窄里霜風鍵ψ 石マ晃早型 丁里離¢窮壷ユ廊-γ》、墜 落コ壁講㌍:福堅+■ 叩醗宰y卓科 図華中信9浸ヨ号…≡・田事回田耳9呂珀「1聖画 目⊥9∼ドユ「野壷畢蟹率中主∠z累 llI111劇Il懇111』職,1 {ρ丁蒐取耳=恥畢丁馨`一rl半事∠碍1舶〕 Y豊:」蟹士中中:禮1車中畢蟹走叩=「…躰碍∫目白 (目⊥9∼しY豊華麗一 (o融曇一旦輯・増置中・畑輻qr) 要事中事乙与∫眈.一 「1肩}卑.〉ゑωπ1郵軍用輯聖!・'一一一' 蟹掌中 星1動ユ「マ増藷qh学腺非…捗∠乙与∫目目 Y豊二1璽率r戸主∠累㎞ 箪∫ヨ≦{紹耳∈】司耳拝…km…封:9ξヲ`E伯 畑踊非←僻輻非主9累一曲_. '増蜻非 早、 早き 罰邸鞭園漁豆謬即下∩尉憲9嘱恥曇61旧⊥乙駐車叩醤峯影 ×▽ぐ 屍 回。聾§悟2釘i4-nヌ i考G・鯉21:3判■`一n藷 オリーブ■はどこにあった ぜ 生田・北野 の夏めぐり しララドノ 1_1・ 'ご.' 隔工禰、ト ..・一ア 胃』・r,.監' ● ■'一■一"■■.■ ■鳩胸 .■ ●'一・=Ol ',rl 』'…認丁歯!脚継. 田一日一一,、`物 しを試塩撤明1 以み蔵果治' 一層旧 ,山』“六丁什」山に"噛龍←(字中一町㎡k,7豊 士押▼畦』・一 価十一r.}-¶ホ齢一雌『ツ見『〒亙Y・盧幣=叶] 翼」.(卦一一.叶『Hイ讐幽甲才拮凸「一田荘ま “,■■』胡■■→n・1【 ア鞭・籠迎口 螺台善意 旧■一「←弔§.1し・・■・占日r 十五年には 二升を以て 前-入Y『¶"国名競亡』=コ咽匹7'■q賦輯一 [彌一4▼齢卜'一(創面,岩"翼箆“侍^り上 層岨赴一一〇^.咽.引“■ 閂殉'瘤置・一需』白泥.h冒買●“盤去▼砂中・レ■ I を II I'1 'II 酌■¶電■一引,』.叉冒「1■-・目“H艦,倉鴨 J: II II )○升 II-r占lrI 1憾 )○○升 )○升 II .!1-1・ fII■1.・」 =、・r.叱.先 1ム∼ム∼ム ノロノロノロ 多 ・讐鋸夢塗 明明明 、熟果三升 て製油をな 、■ .II・ 騰。壽「'兜τ粛耀. ㌦スタンプラ リー参加r∫ 晃昂"1一"丁'詳言 .「 置r.i、.』^一,專一慰.、 I'1'.' (270円/反〉 二■一 ラドラララ一一 ■, '一・“ しi'= ドラヘ ヤアつう 惑テ 90mX108m 2,803円50銭 ラハド トララド 、「IL' 1円=2万円 ■!1一 地図 合計八百九十二円 周囲柵50間.60間 ■一一" ・.ξ」誓…'蕩 :'"一:一1'・..'」'、.・、.. ● 駕『一鑑 ・計・缶磐、 ,譲 経費 周囲柵、門250円 農夫小屋井 物置一棟250円 農夫二名140円 妄1-'1で .II、=ゴ 明治24年 よ どのようなオり一ゴロ紀っ禽:のだるう しゴララ † L⊥{' 阿利機樹栽培地買収の件 擾津国神戸区山本通二丁目 百十九番地より百三十五番地 反別]町七畝十二歩 三十三番地 圃.軍一{.,で皇宮 -半-・-「■■ 三十ニノニ 荏響5焼署 “^1二 一.一.一 旦. 三十ニノー り 藷 二十六 」蔵 二十五 一一・チ∼ 一一一・一揮 山本通三丁目 一⇒.』りき二輩 綜一f』互 '{ 5三一二 曾鮭㌧可 一一㍉、一■■ ■一㌧..・' 、i尭. 一=■. 、産藍■1∼ 潮縫 、一、.如 トアロード 一 一 .趣畔芝 {一 しぎ子スターヴ・エミール・市アソ'±「ビ. 唱播州葡萄園及神戸阿梨園払甲 (一〇)幡州葡萄園及碑戸阿利機薗抑下 銅騒稽頚・橿 兵崔藩州霧島稗周嵩金牛一季ノ霊、篠論象 省ノ所轄-一喝セ7灯卜九年う空リ雛費節減ノタメ一箇年金四千凹ノ補 助血ヲ興へ鹿兇凡縣士族前田正名・二一…箇年側委嘱セリ、然ル.一二十一 工県回合リ鵠雫爪璽:ヨ鵡寧魏鑑寵豊 川器械鄭郡テ金五千、.,百」十ヒ囲程競ヲ以テ同年ヨリ五箇年据置十箇 年賦卜ーサ等以テ抑ド爵賓辞一高孟母霧走書+五箇 林山二等官林段別二十一町 字ドウマンノ平コバ 別およそ三町歩阿利機計 林山阿利機栽植地は 一昨年の冬より 開墾に着手し 明治18年春1町5反歩に 480株苗木植付け 松方財政 1デフレ 督ヤγム ト匹守トー慶事ヤンゴ又律血北川■一問偵.hフ埼qン塾園・一店蛆監 去ツ枡ン凱]価{尋,率国'畦埴ユ一七目“山壁間噛二在ーナ茗遭堵 ン才蚊7牌圭ソ辛嚢訊岨'降壇▼翼tンロ'更(一帖,雷画具 地v四}エ‡m・一計丁一箇年冒}電闘昼央]暫,慨ヤq阻隔曲央▼複 桝魂},算猛駐干霜曇汎馬所,密マ血植」壇』捗γ昏棟ユ煙分'位 橘ヤン7且↑吐一一幹槌,侵究ナ(二¶,ナh械括ロレ互F丼皿長り ・一蝿t,.咽ンナ本国・一廻岨'阿判醍{思■臼ロウプルそ'"寓 夏Tn械蜥'畏火吼匹'榊無†由一"ンナ異蜘πセ,,旧作(ギ'崖 ,.副γ学報「開腎噛配▼紬ンタ嘱・一口結"“[匪・一,ア駄吊三 一所玉匣ル'同拙,柱「儲ナ試植ンF出尻騒千円百八十秣}猛ヤ 甘山回鐸目凹一昨年手甲ロ閣山盛-謂シ#(雪一軸ト .緊縮財政 年賦一側利引ノ計算ヲ以テ.時金ト納ノ出願ヲ允貯ヒリ 亭 津国神戸区山本通六丁目 ー 一二箇年間委嘱 貨幣インプレ 十九年に至り経費節減のため 一ヶ年四千円の補助金を与え、 鹿児島県士族前田正名に オリーブ9の払下 オリーブ■の拡大 『叡 ■、 ,.甲慧 “' Il 匹1 凧■⊥』 噺 島上● 訂 ■声ふ 叱= 葛卜 1外国の阿利機油なるもの多くは棉実油等を混合したるもの にして純良なるもの稀なり)何程にても購め得たしなと言ひたりき 神戸阿利機園に於ける結果此の如くにして而も其結果を 見たりしことの意外に早かりしより阿利機栽培は大墜望を 風しょく)せらるることとなり山林局に交渉して右山兀町 園地地続の官林三町歩余を借入れて増殖をなしたりぬ 〔是は明治十五年頃と党ゆ)明治前期勧農事蹟輯録 阿利機油六十堀 非常に賞賛して此の如き良好の製油あらは わが国に於け稠}1』難症来の錘∼田中鯛'池田土豚解さ 論難六+堰 1甥烈1馴丁何.. 号 合計1,030株 神戸の分は明治十四年に結果を見製油をも試みられしか 其結果甚宜しくして司法省雇仏人バアソナード氏杯(など〕は 送付 '「愚雇 明治6年に来日したお雇い外国人(仏) 不平等条約撤廃のため、国内法の整備に 貢献、日本近代法の父と呼ばれる。〔ウ待ヘデー1ア, 農商務省に オリーブオイル オリーブ塩蔵品 ∼ 西南の役 戦費 14200万円 本園550株 林山480株 オリーづ油の欄 碗庫丸にて、オリーブ油を東窟に送付 林山官赫オリーブ■の岨所 ● 林山官林 .一 、一■、-4川蜘 一一■r■闇■ i,.く㍗.糎動錫制 潔.輸肇蓋 ノラコラも三 壱嚢鶴 管僧事、'町r飼・】 舞「≠一、 襲、、 年壷濾・ -■■一,. ・・」■ト{τ 蓉葎・層手弄 閣阿智鑑 再東協刃 皿禮宵玄・下穿 読襲鴨 輩ブ矛迄ヲ一中ノ ー・一.多ひr∼嶋『 .窒毫参一 一軸1 オリーブ■璽の掬尊書 福羽逸人津鱗安政3年、856一大正ユ。年ユg2、没年65 Ir一オリーブ樹の巨木と成りし矧ま・其姿 極めて雅致あり。葉の表面は深緑、裏面は 白色にして、遠く之を望むときは縁日相混じ、 甚だ美観、庭園樹として大に愛玩すべき価値あり。 而して貴重の果実を産す、実に希有の霊樹と 云ふべし。 本邦温暖の地方にして、海岸に於ける植樹用として 類なき果樹とす。 又、其材質殊に愛す可き点あり。 宣又有望の樹木ならずや。一』 出典=福羽逸人回顧録p降53・54国民公也齢新耐晩コ瓢 平野浄杢場 ■口唱■ モとして.神戸阿刊置回のモの幾看以下のように伝えている. .この中て現圧ある司りーづの'虎兄と 一 「真底ξ今一度阿利腰掛の糊 改埴琶試あ5='コ現在本邦の各地に点マあ5阿fl」横田の 現況醐萱信最肝要のことであ・ あるが前号'掲げ一置いた同列襟掛の結実セ5しの・在る ★地万の一な5兵庫県神戸市の 「の阿fl腰樹の現、児1』就て通知を得たかう先つ其の一般を 記すこと正し他の分は得るに薩 i徒で本会報1'掲げた1亡思ふ 、頃!1帽岩絡靴型溜場藤井1」即'一コ'工 ★轟碧i異萄忠語聾落雪竺十一年頃現在あ場所即ち_度筋(再度筋〕に青 星施さゾるは勿論更・二手入れ{せぬ鳥粗草頻りに繁茂し 移植せられてより以来肥料を5 只に阿利凄の結実琶みざ5の1 のみなら丁掛は欠第に衰枯損するもの少なからず 加・ぷ…イこ日朔1台三十七矩蜘院 ]降雨の為面内五カ所'・崩q堕落あし多}"丁・倒†を 〕覧同隼十二月些」,来手入れに着手し枯損不を恥漸次 長譲禦聯翻 rる1晶=虹、:百本内外て幹の直径三寸乃至五六寸太已は 八寸に及び高さは六尺乃至九 九尺のもの多しと云ふことである 神戸市中人憲の庭園に点,古 一在る所の同列襟1亜樹能く堵実すと云ふ 泉輩は此腿に璽ねて鯨.よりi り西南の万て海岸より遠く隔たうざる 穂温暖なる地万の農業先漣の ㎎)土{こ一尉喉倒栽培に適当なる士t也を撰定.て 少し許り阿利疲樹競場を試みi みモ∫ことを無心に耐ヨも』 明治末、神戸市内0 よく結実した の人家の撃に点々と阿利綱が存在し・ 向 [ひh 滅 ■■ 」 島 り」治政府と稲楽の人々が夢見た'`播州葡萄i卓 100年の時を経て、稲美産ワインを1り現 ・明一面碗の国軍フロジーコト ■1に跳んだ先人ヒ5 ぺ 調鶏 `」 耗『辱 ま A-A・亀II■・q,■一一 一■■■爪甲■一一■`一目●」■曙一lh 號 ㍉ 咄■』置一州川明■「"■ -自 醐"陽口儲「■一 一 鴇 」=『■脚■"■"■1嗣 ■鵬""]明"「一『"一"1-杣"■ 水の由みを与えた播州萄鱒口 一■凹 1"■.,門■『一■.射一■.一“■-■・■辱 口題の{ば(フドワを血堀 し.革糟のワイン怜口壷 .鯉茸一 「番士螢駈 む 配員日の近代にと.い¥当肝に 置 晶 " 伸 黒.1.輪.1.顔 盤 .峯蓼『■弛叛心 罫3} I 大日本農会報283号及ひ284号に. 中村彦が.「阿利瓶樹の掛場を勧む』 口』と「再ひ阿刊魔1塑)相倍老幼も」の論説2騙を掲戯している. ←中旬彦は、今後,蟷痛憤缶詰物旨が が盛んになしTフ万需要増え1=.・崖を述べ.I オリーブの裡培を奨励している. この木は明治十年パリ万国博で 日本館長をしていた前田正名が フランスより持ち帰ったものの 一つで日本最初のオリーブ樹と 云われてみる 抹山オリーブ栽培唱∼明冶38-38年L 革頃の状況 趣絃 ㌫ブ'、日露戦争明治3ア38年,( ■ 明治3ワβ年頃の鉢山オリ・ に勘100本r酢のオリーブ劃 ∼オリーブの魅力を神戸から発信∼ 神戸0伽スタイル .捗訴』 豪華.軸幣ir擁 糧鍵簾}騨 r i9 i;t y -/ IJ r:' " 'r!:T; / / Jr- r'J'TJ fJ 'J'jr I =1 l JjI' '' =' _- ' ;t ir/(J L jJ 1,,P ; .I j- I l - ' 1;tl - 'Iv f i 1 :Pds ; : rFI ! 1 ;t IJ - j;t4 J') J4 IJ I E l ;1 ' .¥ ' . l tf p .. ¥ f ' J_;" ': Ii ' iJ lJ_ r F: L ) r J;t IJ - jO) (2012 1 ¥ 'L ¥ /-7/F Lr Lh x ' ・ ='c , . .,;,, 1!!:'¥ ( lr ¥¥ :1 ' F 5 l: )< ;tlJ-j tl: i ;rL' f 0) :i l::ttl ) : qL r;t- /J 1')i7 To); Jl[ ifCf . 4 130 J i' ; : ; )?r ,J - h zl). rB ; 11 i (1878) / ,Jo)75 ]t T-・ )t: EE] ; h 4 :; L < t i;t'J- #1 ( 1) * 7 1)t Ao) ] o);t ,J - ;t4 ,u {{ :[ :; ! l ] Ut:. f 12: t 1)t-・._ r is;t ,J - IJ o) l; ・;t JLI:: d: D V( flf ) . l l LJ 1)lC,1 1)t: o) ・ J f LLl; * o) l= ;t,J 7 l ;f; J LJ . h il t ;rL L+ ). E ; l5 ; :/; 2012 5 o);f ,) 4 t *" LJ . # : o)- ◇目次◇ 第1章「神戸阿利襟園」誕生の史実 ]神戸IiII」'.刹膜園=11)歩み1網1勾 且コ四V眉 神戸PllI剥腱園は.ど'に牽・うたr抜粋、 10 福襲逸∼と瑞戸階乗」海1至1直1=二L} 1i'i 前田.If毫』把一院=伺聾「葦1言FI.} 1'「 彗.戸阿剰博目口.なぜ闘1葦1.た一・r功・鞭蹴 19 舛.riIII1「幸1」纏固ゆかド再調":一'ブ 1',病'.1舌.群雀il焼寿撫・1・・董無碍・ 1:己・rlI'EIIrl'昌'勇.一1'!「rlヤ:王・・'1可171.1・一二〒 '一しII 「ヨ'旨汗τ二・1:1:II1曲「司晶相1ひ「'1迦:晴: ∼i署rII擁:.司"」・一ブ'II三・'♂う漢'事 や打 一= 『』 己71"∫一・一に詩二!.耽+一.rI二・'・・ゴf=・ Ilヨi」'仁r更」Iltl;亨ノ.1'1'1・r・一一',Il:,1:葺I I・li亜!一1'「1蔦Il'暗l I巧1オ".'一71を'峨1音.L..⊥妻聴'略l 第2章 オーリ・一ブを神戸発展のシンボルに {`1認否1.,'=:一1∫一'了 ヤ11 」〕1= ll†1.・一7建・プ,1り..・凝i咄甚I l□判':・一7・1・主1官=ノ'旨1亡 :1ヨ'tr単暑志コ』='テII・一■' .・1飼・一71'白「.・ この冊子は、近くr神戸陶利機園」と題する図書を出版するに当たり、より 南'二:主'1'1府畳」恕罪:島. 一ブ≧・.1出域掻暉 了 IxTI 「` 多くの人が本書を手にし読み進んでいただくことを願って、内容を抜粋し紹 介するために作成したものです。 :1!藍1:i乏霞翼』Irl'1.1"1∫!lI爆i !1!',・著..!1二・〔yl・i'i.∫ 明治維新、殖産興業の意気に燃えた時代の期待を担い、日本で初めてつくら れながら道半ばにして廃園への運命をたどった「神斤オリーブ園」、その史実 の理解を深め、歴史ロマンの息吹を感じる助にしていただければ幸いです。 (・引㌍三・1彊'、∵'寧奮 (lrli爵.・iI研呈;議II."・.lliII地点 (!'き111」1π…'iII'∫'」i=∫卜・1"」一7 ・ξ X なお、目次は出版図書と同じ項目を掲載し、この冊子で割愛したものはr(略)」 としています。 .一'7=尋}詰:匙 (1'でII'刊r'ノ1・・"」1毛質 本冊子につきまして、皆様からのご意見、ご感想をお寄せいただければ幸い です。今後出版する図書に反映できればと考えています。 (2:罫の1濯・F・rで1一ブ綜'甚r 2012年11月 引用文献・参考資料一覧・ :{:⊇ 地に奨励する試植用苗木を増殖、生産者の ました。回顧録は、当時のオリーブ園の状 参考品とするオリーブオイルと塩蔵品を製 況や経緯を記し、栽培の有用性と課題に言 造し、オリーブ普及の役割を担うことが期 及しています。 待されていました。 ブの姿は、感動的です。 を検証してみること、そして、これら現存 今日、都市として大きな発展を遂げた神 オリーブ樹を、未来への「活力」のシンボ 戸で、いま一度、明治の「神戸阿利複園」 ルとしてみるのはいかがでしょうか。 これらオリーブ園と関わりの深かった前 『神戸地方へ暖地植物栽培試験地取設ノ義二付句』 今では市街地の広がる神戸で、公共の緑 化樹や景観樹として家庭園芸で、あるいは rつ目は、オリーブ園に関係した前田 正名と福羽逸人の記録から、園がどのよう ーブの栽培こ取り組み、育つ姿を楽しみな に計画されたのか、栽培に成功しながらな がら、その果実の利用も勧めてみたいと思 ぜ短期間で閉園したのか、などの背景を探 前田正名と福羽逸人の人となり 農業地域で、私たち市民がさまざまにオリ きごる くヨイヒニラミと います。 1,前田正名はフランスで農政を学び、内務卿大久保利通の殖産興業政策を担うべく、農政 官僚として地域産業の近代化に取り組み、明治17年に『興業意見』を上奏したことで 知られる。しかし、明治23年に農商務省の次官を辞し、在野に身を置いて、地域産業 の組織化と「府県郡町村是」運動に邁進した。 りたいと思います。 前田正名はフランスからオリーブの苗木 ここに、この神戸オリーブ園ゆかりの樹 を取り入れた当人であり、明治21年には として保存されているオリーブがあります フドマ '神戸阿利複園」と播州葡萄園の払い下げ ・本は、JR神戸駅のLI.1側の湊月神社で、 を受けました。明治の産業史において地方 1878年(明治11)のパリ万博から前田正 産業の近代化に重要な役割を果たしますが、 名が持ち帰ったものとされています。さら 一般にはあまり知られていないといわれま に加古川の宝蔵寺に二本が保存されていま す。ここでは、そのような前田の生涯を描 すが、ここは肥料メーカー、多木化学宗家 いた祖田修氏の研究書『前田正名』(吉川弘 の菩提寺です。創業者の多木ク、米次郎は、 文館1973年)に、神戸オリーブ園との接 宝蔵寺で前田正名の講演会を開くなど、熱 点を求めてゆきます 心な支援者であったと伝えられ、オリーブ 一方、福羽逸人は近代園芸の先達として 知られた人です。幸いなことに先年、新宿 は前田正名ゆかりの記念樹として保存され ています。 御苑から開園100年を記念し、御苑創設に これらのオリーブは、130年という歳月 関わった『福羽逸人回顧録』が出版されま を経ています町の記憶、人々の記憶から した。福羽逸人は農商務省技師として、オ も消えてしまった神戸オリーブ園ですが、 リーブ園で栽培や搾油などの指導に当たり その歴史の証人として立つかのようなオリー 2.福羽逸人は農商務省の技師として、播州葡萄園とr神戸阿利褄園」を指導し、わが国で 初めてオリーブの栽培、搾油、塩蔵物の製造を成功させた。その後宮内省へ移って、わ が国初の温室設計、庭園及び造園設計を行い、武庫離宮、新宿御苑の庭園造成に尽力し た。ランをはじめ海外産植物の収集や栽培にも卓越し、著名なr福羽いちご」を生み出 すなどして、育種家としても活躍、近代園芸の祖とされる。 一凡例一 1.r神戸阿利複園」が正式名称だが、文中分かりやすくするためr神戸オリーブ園」と表 記し、資料や見出しなど必要に応じて漢字書きとした。 2.文中の単位はメートル法を基本に、資料関係などは尺貫法や、メートル法との併記にした。 3.資料中の送り仮名は、ひらがなに改め、清音は濁音とした.必要に応じ句読点を補った。 但し、文書名の送り仮名はそのままとした。 4.難読の漢字には適宜ふり仮名をつけた。 5,一部の資料には、口語訳をつけた。 6,書名、文書名、資料の引用部分には『』を、また強調したい用語などにも適宜「」 を付した. 7.本文中に記述の数字1)栢12)は、引用文献・参考資料番号(p,33)を示す。 一コー 一.一九六 験地取設ノ義一一付伺 一神戸地方へ暖地植物栽培試 柚凹戸地方へ配阪地杭㎞W腕覧随¶「【肱川埆最新眠ウ乙 一V一 則治卜一年い,.目引一..H一..等属国毅 義二け伺 宵植物栽培試燈之轟〔問治七不以家所宿試推炬,二於テ卸着手祖戚 モ糊口地へ昂障昌円翫、特り偏如何セγ}雨宿ノ地八軒撰ゆニシテ〃ぜ旨漏甲百兜一.油皿フ 『農務顛末』収録文書 仁乍迄ドク五γ年間課外斧邑ノ植物ヲ長音セ■!ノ頗ル翠硝ノ紫牧 培が容易な種類といえるかもしれません。 いと思っています。 ■■壁一エ一且r春蚕ヲ凌力七膜始にニシテ目下憧カニ監本ノ川二倍 性も大きいとされるので、果樹の中では栽 しつつ、神戸オリーブ園の姿を見てゆきた 一州乳一望∴γ・….牛二充テリ之力戦ン暖地融合ノ植物一年昌,陪矩 れています.本書ではこれらの資料を紹介 ス見二止り姻¶軸ノ塊(H一一戸}遣り弥一クナ』μ{帯地庁ノ聴仏刹ヲシテ一幅擬 ことができるでしょう。もちろん、オリー ブは比較的病虫害が少なく、環境への適応 キ皿収用・■荷馬刊畝引町ヘハ騨出力誕お問薄泓回訓判緩中有畑刷創副試引ハ芦{帯柚据だ二 とんどは当時の行政文書で、案件の伺や決 裁、報告などが1日仮名遣いの文語体で記さ 内国二缺課戊セゾ・一ル隔随一サルハ.一高ヲ嬢ク勢ル“北一一犀醒ヘトモ山丁二就 なわち神戸という風ニヒに適していたという モ諦撫上-一於テ碗ト相之候得業何分青木仕立方新宿試鑛ニチハ であったことは、土壌はじめ環境など、す 機会は多くありませんまた収録文書のほ 非ラストそ我…手摩土佐紐伊←寺暖■地ノ場所一一一能ク成{官スヘキ見一込 です。気候の温暖な神戸がオリーブの適地 所蔵場所も限られているため、目に触れる 充分成長七シノ.鑑キニ付神戸一世虐虫暖地ワ見立栽培所卸、取調相成苗 しレう 期勧農事蹟輯録』に収められていますが、 ・木ツ島国寺一端引詰陣ノロ国」へ掴岬植什H畑四一凪臆h一・迄U牢早新入ノ持㌃分マ減『γ見 三つ目は、この明治のオリーブ園をもう 一度、現代に取り上げてみようという提案 [.■・一 です。神戸オリーブ園の資料は、明治の農 政文書を編纂した『農務顛末』と『明治前 γ一・・用筑州舛「ムn胴別ノ』川北り月ノ臣冠中・抽ト.■下スへ山7ス(埠旧帖畔戸人士工私曲賦ノ リーブの栽培を学んでみたいと思います 一つはオリーブ園の歴史を紹介すること 卸,匡赫ノ一品ト一一.椙皮可申告鍾.、用!加'ン∴葬㍗一嵩紫『丁距」占 あります。 先剤同門些油〔・砿用一『イて.■“用ノ甥7■一語油一一.慢!心ノ・『+ラス 田正名、福羽連人の書物から、直接、ある いは間接に、オリーブ園の歴史的意義やオ 現二丁■崔!即談所晶町ノ朝駈所等ノ㎞羊,総テ晶甫ノ嵌励.フ要ス・一 旗,所ニチハ必…」二^有畑列附〔κ育還ニシテ巨大ノ村トナリ着船 本書は明治政府がつくった神戸オリーブ 園を紹介するものですが、その目的は■つ 臨㌔''"一'気・い" 1神戸阿利機園の歩み 第1章 「神戸阿利機園」誕生の史実 明治の勧農政策 さらに後に駒場農学校となる農事修学場を 明治維新は近代国家へのスタート地点と 設けます。また用地の不足から、三田四国 されていますが、その初期は殖産興業が重 町の島津氏邸跡地を買収し、付属試験地を 視され、欧米を手本とする産業社会への第 設けます。明治10年には、これを改称し 一歩が始まります。当時、産業の第一にあ て三田培養地とし、さらに独立させて名称 ったのは農業で、租税収入の7割を占めた を三田育種場として開場します。後に、r神 といわれます.,茶、生糸、織物は代表的な 戸阿利複園」はこの三田育種場の神戸支園 輸出品とされ、獲得した外貨を財源として として開設されます。「はじめに」に述べた 欧米から機械などを購入し、移入による工 ように、この神戸支園は文書では当初「暖地 業化を推進します。一方、農業の近代化も求 植物栽培試験地」、「同苗木仕立所」あるいは められ、勧農政策によって、海外の動植物、 「神戸試験場」という呼称で記されています、 農業機械や農法などが取り入れられました。 『明治前期勧農事蹟輯録』の「神戸阿利 明治中ごろまでは、省庁制度がさまざま 複園」沿革によると、「暖地植物栽培試験 に模索されますが、農政についても目まぐ 地」の設置が企画されたのは、内務省勧業 るしいほどの変遷を経ています。神戸オリー 寮時代の明治7年となっています。すなわ ブ園などの勧農事業を担う組織は、明治2 ち明治5年に開設した内藤新宿試験場は、 年、民部官に物産司や開墾局を置いたのが 唖狐.r罵7 海外産の植物を試作していましたが、暖地 始まりとされ、明治14年7月の農商務省 産の植物はその成長や繁殖が思わしくなか L 開設まで、10回を超える改編が行われてい ったので、関西の暖地に試作地を設けるた ます。これらは所管の変更あるいは組織の め、用地を探していたとあります。文書で ララド '・1;函『.',斗ド'』、引顎!∵'・ '■`、■・一■■ ヘドうけヘララこル '卜・↓.1・・;'∫r11'ヒ呪・:,』r仁・^ 再編による改称などで、民部省から大蔵省、 は明治7年に、文部省所轄の大阪外国語学 内務省を経て農商務省の設置に至っています。 校附属薬園が不用になったとのことから借 明治4年7月に民部省が廃止されると、 用を願い出たものの、同省で必要であるた ■ 所轄は大蔵省に移り、政府は勧農政策の下 め断られたとされています。続いて明治9 で、これら海外からの動植物を試験するた 年に衛生局の管理地で、大阪府下東大組第 め、明治5年10月、本格的な農業試験場 二区内久宝寺町四丁目南北小谷筋薬園地の として新宿試験場を開設します。並行して 内の500坪の借用を願い出た時の文書があ 各府県には勧業場が設けられ、新しい農作 ります.そこには、使用許可の文書も添え 物の展示や種子・苗の頒布などの普及事業 られていますが、実際にはこの薬園地は借 が始まります。この新宿試験場の名称は、 用しなかったとみられます。 高遠藩主、内藤氏の邸宅跡地を購入して設 置したことから、内藤新宿試験場とも呼ば れていました。明治6年11月に大久保利 通の主導で内務省ができると、同7年に勧 農業務は内務省へ移管され、内務省勧業寮 として勧農政策の中心を担います, 内藤新宿試験場は、場内に農業博物館、 『明治前期勧農事蹟輯録』 オリーブ移入の年譜 明治15年11月 千葉県の請求により神斤文園栽培の樹苗2尺から4尺のものを取混ぜ500株と農事図解のオリーブ栽 オリーブの『種苗輸入と試作の概況』(『明治前期勧農事蹟輯録1)は、新政府による海 培法,フランス人アレキシスリヲンデ原著オリーブ栽培略説翻訳写し一冊を配布 外産種苗の導入の経緯を示すもので、明治5∼17年の年譜になっています。1 明治16年8月 種苗輸入試作概況 明治5年8月 神奈川、愛知,静岡、和歌山、 高知、長崎、宮崎、兵庫、鹿児島の各県に試植状況の報告を求める 明治17年9月 しうしウ 吉田大蔵少輔の欧州出張に際し、オリーブの種苗取寄方を依頼、但.しその結末は不明 明治6年末(或は7甲) lS73年ウィーン博覧会(51∼エ0.31)の事務官等が帰国に際しオリーブ苗を輸入 兵庫、長崎、愛知、和歌山、高知、宮崎、 鹿児島の7県に試植状況の報告を求める 明治17年9月 鹿児島県の申請により、 神戸阿利複園より苗200本を配r ・なお、明治8年刊行の同博覧会報告書農業部の中に、ホーイフ'レンク氏の阿利筏説とロッハ氏の阿利 明治梓年11月 罐栽培法の翻訳を掲載) II』林局試植用として神1・」阿利褄園己・ら種子!升を分譲 明治8年初(或は7年末) 足柄(現在の神奈川県σ)一部),静岡、宮崎各県へ3陳ずつ功能書を付けて分譲、毎年の生長状況の報 告を依頼〔但し、本件依頼書は明治7年lO月頃)その他、この年に兵庫、和歌山高知,長崎の各県 へも苗を配布 明治8年2月 在サンフランシスコ領事よりオリーブ苗・ヒ本送付あり 明治9年8月 在サンフランシスコ領事にレモン、オレンジ,シトロン種苗と共にオリーブ苗500本の取寄を依頼した ようであるが,状況は不明(これは和歌山県の依頼による) この年譜から,オリーブは明治中ごろま 『オリーブ樹等の栽培法の試験に適当な園地を設 でに3回入ったことが分かります。1回目 けることをかねてより検討中でしたが,文部・省所 は欧州に駐在する大蔵省掛員を通じて。皿、 轄の大阪外国語学校附属薬園は現在不用になって 3回目はそれぞれ明治6年のウィーン博覧 いる旨.この度、古谷勧業助が堺、こ出張の際に一 会と明治11年のパリ博覧会で、担当者ら 通り見てきたところ、狭いですが各種樹用試験地 が現地であるいはその帰路に調達していま に適当であるので,つ1・・ては別紙図面の地所が同 す。この時代の博覧会は自国の物産を出展 省において差支えがないようでしたら当寮の用地 するだけでなく、他国の物産等を取り入れ に致したく、以下のような文部省への折衝集を検 る重要な機会であったと.慰われます 討願います。 但し柑橘類は送付があったようである (文部省への折衝案)内務省勧業寮は、暖地に適 する植物を栽培する試験地を入手するため.大阪 明治12年 神戸に暖地植物栽培試験地を設け、オリーブ等を栽培し、以来同所において種苗の試験栽培と配布等を 関西にオリーブ試植地を求める 行う 明治7年、勧業寮はウィーン博覧会で人 かりませんでした。そちらの省で所轄の大阪語学 手したオリーブ樹の配布準備を進める・方 学臣附属薬園地はこれまで暖地に適する草木を播 府下で調査しておりましたが、適当な場所が見つ 明治12年3月 パリ博覧会(1S78年5.20∼11.10)の際に買上げた種苗1.000余本のうち,航海中に枯死したものを除 き950本ほど。東京では栽培が不適当なため、育種場,試験場に見本のため各30本を残し、他は一先 ずr神戸試験場」へ送付(これは植え付時期が来ているが、樹が傷んでいるので,一先ずそこで養生し, 翌春適当な地方へ送ることにしたものである) 明治12年10月 和歌山県へ苗木1.000本を配布 で、大阪府下の文部省大阪外国語学1交附属 種していたということですが,現在必要なくなっ 薬園跡地をオリーブ試・植地とする旨の交渉 たとのことなσ)で,・差支えなければ、正院へも上 を行っています。結果的に大阪じオリーブ 『1して、当省の用地にしたいのですが、可能かど 園を設けることはありませんでしたが、こ うか回答をいただきたく、ご検討願います』。U こでは後の神戸オリーブ園設置の経緯を知 るために、その次第を見ておくことにします。 『八文部省に試験地(大阪府下)譲与 の照会の件』(『農務顛末』)の項目で、以 これに対し、文部省からは同11月25日 付文書で、以下のような回答があり.要望 に応じられないと述べています。 明治13年 下の文書『大阪府下に於て植物試験地を設 春に愛知,兵庫、和歌山、高知、長崎,鹿児島の諸県に配布 明治14年9月 前年高知県へ50株を配布したが,更に神戸支園から各種10株ずつ40昧を分譲 置することについて、文部省と折衝(案)』 『当省所轄の大阪語学学校附属薬園地については が、勧業寮内の検討を経て、明治7年11 暖地に適する草木を播種していたという二とで勧 月10目付で出されています。 業寮が入手したいとのことですが、しかしながら とどしちっとし この土地は当省で使用予定があり、そちらのご要 るに止り繁殖の場合には至り難く,尤熱帯地方 『二神戸地方二於テ植物栽培所借上ケノ件』 ブの塩蔵品を作ったり、搾油器を置いてオ あた 望に応じかねるため、お断りします』り リーブオイルを搾ったりしていることから の植物をして一般内国に繁茂せしむる能はざるは ま 言を竣たざる義に候へども、中に就き要用植物類. 余談になりますが、この文部省回答には 例へば弾力護言莫,幾那,阿利漣、有加利樹等は熱 『借上ケノ件』の文書は、園の借地期間 みると、f乍業場や資材置き場を兼ねる規模 についてのもので、当初3年としていたの はあったのだろうと思われます。柵と農夫 を5年に変更することを申し出たものです。 小屋はいずれも250円の同額です(1円= 1年目は植えた植物がわずかに根を下ろす 3万円で換算すると、250円は、今の750万 『学務課長文部省四等出仕九鬼隆一』 帯地方に非らずとも我薩摩,土佐、紀伊等暖地の の名が記されていま・た、1日r田藩出身で、 場所には能く成育すべき見込も経験上に於て確と 神戸の人々にはなじみがある人物です、,九 相立候得共、何分苗木仕立方新宿試験場にては充 程度で、本格的な成長は翌年であろうこと、 円ほどでしょうか)。農具と苗木を植える際 鬼隆一は明治の文部省の官吏ですが、明治 分成長せしめ難きに付、神戸近傍暖地を見立、栽 3年目に取り木による繁殖を始めるにしても、 の支柱やその時に必要な縄、さらに、肥料代 11年のパリ博覧会で西洋美術に関心を持 培所御取設相成.苗木を仕立,前陳の国々へ御殖 その時には明治14年の土地の返還期限が来 ですが、これらは初年度で多くなっています、 ち、以後、フェノロサや岡倉天心を支援し、 付相成候はば将来輸入の幾分を減し、且御国産の 東京美術学校を設呈するなど文化行政に貢 一品とも相成可申、各樹効用の如きは、弾力護謨 献、明治26年のシカゴ博覧会では副総裁 は諸工場ポンプ用、其外合羽の類其用の廣き枚挙 よしか もコずべく かつぜとぐい ギゴう を務めました。哲学者として著名な九鬼周 すべからず。幾那は入生必要の薬剤。阿利篠油は 造は四男になります 食用にして滋用の効ある諸油に優れるのみならず、 ラ ラベ 現に千住の製絨所、新町の紡績所等の如き総て精 ユ カリ 密の機械を要する場所にては必用とす。有加利樹 すうちうか 神戸阿利機園の開設 は長育速にして巨大の材となり、造船用に適し、 神斤近傍の暖地に、暖地植物栽培試験地 且つ其葉は解熱の効あり何れも有益の植物に付 てしまう。そのため、借用期間を明治16年 までの5年に延長したいという内容です。 以上.の経緯をまとめると、暖地植物栽培 翌明治t2年度は総額552円が計上され ていますが、ここで6種類の果樹類苗木を 植え付けています。管理関係の経費は前年 試験地は既に明治7年に開設の要望があり、 とほぼ同額ですが,肥料代が別途計上され その後大阪での借地探しを経て、明治11 ています。 年に神戸への設置が具体化し、明治12年1 月の決裁をもって、正式な開設年次と見な 明治12年度 され、実際明治12年中には園地の植栽が 総額552円 借地料・1年分100円 営繕費70円 行われたということになります。 農具その他の必要品130円 を開設する旨の1'神戸地方へ暖地植物栽培 =在r培養所1卸取設ホ目成度、経費概算取調書添止ヒ耳塞1二目 試験地取設ノ義二付伺』=3頁写真一が出さ 伺候也。 れます、この暖地植物栽培試験地が、後に (経費概算十・一年度分は八百九・1一二円、十二年度 改称されて「神戸阿利褄園」となります。 からは五百五十.円).i(『農務顛末』)1) ハ巴ギ斗60円 農夫給料192円し〕 開園時の経費 設置伺では、同時に、次のように明治11 神戸の地に適したオリーブ 年と同12年の2カ年分の経費が計上され 文書の初めにある、『.,,明治七年以来新 宿試験場で着手し...』との内容は、前述の 開設の年次について、『農務顛末』にある ように明治7年にオリーブ苗木を導入して 「神戸阿利被園」提要部分に、次のような 以降、足柄、静岡はじめ宮崎、兵庫、和歌 記載があります。『本園は海外各国暖地産 山、高知、長崎計7県への苗木配布をしたの の有用植物を栽培繁殖せしめ漸次西南諸道 ですが、新宿試験場での生育が思わしくな (地方)の暖地に頒布培養するの目的を以 試植6種の中で、オリーフ'は旺盛な成長 ています。11 力を示しました。植え付け後、短期間で果 明治11年度総額S92円 培の中心となってゆきます。明治14年か 実がつき、収穫も可能という好結果で、栽 殺生音i也1田f歩f昔1也1斗50円 ら同1S年までの経過が、園長の福羽逸.人 周囲研と門の新築〔50間.60間〉250円 農夫小屋と物置1棟250円 いことから、本格的な暖地植物の試験場を て明治十四年に設置したるものにして...こ 農具,竹・木・縄などの需要品と肥料200円 必要とした状況が理解できます。 と、「暖地植物栽培試験地」の設置年次を明 農夫2名給料142円0 治14年としていますが、開設に関わる文 前期勧農事蹟輯録』に収録されています。 そこで、各年次の景況報告から、オリー ブについての記述を引用しながら、その様 『明治十一年十二月二十三日三等屈岡毅 書の目付は以ト'のように、明治12年3月 明治11年の経費は総額S92円が言・1上さ 神戸地方へ暖地植物栽培試験地取設の義に付伺 までなので、記述時の誤りの・』能性があり れていますが、内訳を見ると、経費は開園 ます。1) 時の施設などに充てられたものでした園 右植物栽培試験之義は明治七年以来新宿試験場に によって景況報告として提出され、『明治 子を見てゆきます。 オリーブに実がつ< 地を50問と60間(90メートル×108 於て御着手円成.本年迄、全く五ケ年間海外各国 の植物を長音せしめ、頗る繁殖の景状も相見へ候 ひごほじロしユう 得共特り如何せん新宿の地は軽鬆にして.冬気 メートル)の柵で囲み、門がf乍られていま 分『f・算書添付 す。園内の建物は、物置が付いた農夫小屋 神戸文園は海外各国暖地産の有益植物を栽培繁殖 が1棟のみです。雇う農夫は2人とあるの せしめて漸次に西南諸道の暖地に頒布培養せしむ で、農夫小屋はそう大きい建物ではないと るの趣意に出たるものにして該園に栽植する所の 『一神戸地方へ暖地植物栽培試験地取設ノ 近寒強く霜柱の深きは五六寸に充てり。之が為め 義二付伺』 暖地応合の植物は年々枯死し、温室を以て冬気を 明言台12年1月{司決裁 うの 凌がせ候始末にして、目下僅かに見本の用に供す 明治12年3月21日借地契約の年限変更申出 十 『(五)明治十四年神戸支園景況[農商務卿第一 明治11年12月23日設置の伺,11年,12年 みられますしかし、後にそこで、オリー 回報告」 ニヨノンジレモン 種類は阿利複、弾力護謨、甜榿、黎檬、葡萄、有 ・1,1一 ノナード(ボアノナード)氏曰く'このよ 加利普多斯の六種とす 量として最高の10石が収穫されました。 このうち栽培が困難とされたのはゴムノ 阿利捜は去年六月霧多の花を開きしか時偶宿雨に うに良質の精油であれば、お金をいくら払 前年の16年の2倍ですから、200リット キで、14年に寒さで多くが枯死したため, 際すると樹の轍幼なるに因り僅かに二十四五顎を っても求めたいものです。外国のオリーブ ルを超える搾油量で、反収は28円46銭(14 一部を盆栽にし,室内に置いていました。 結べり、該樹圧條は半数発i垂を遂くへき景1兄なり』 油なるものは多くが綿実油を・混入させたり 円23銭x2)となり、収益性は米の6倍へ しかし、16年には、増殖は困難と判断され、 (オリーブは昨年6月にたくさんの花が開きまし して、純正なものは稀なのです」などと称 と高まっています。 より温暖な地方の沖縄と鹿児島に移されま まノし 賛したと記されています。 たが、その時期ヒ長雨(霖雨)があったことと, す。ここにゴムノキの盆栽とありますが、 樹がまだ若い(轍幼)ため、わずかに烈,25拉 が結実しただけでした。取り木で増やしている分 収益性の提示 は,半数が発達しそうな状況です。)1) 二つ目の注目点は、わが国におけるオリー 搾油と塩蔵に成功 『(六)明治十五年神戸支園景況[農商務卿第r オリーブの生産量 取り木で発根させ、植木鉢で育てたという オリーブの搾油に成功した明治15年以 意味と思われます。 降、オリーブ果実の収穫量は年々増加し、 ブドウは成長していましたが、工5年に病 ブ栽培の収益性を示したことでしょう。明 翌年の明治16年は500升(5石)、さらに 治16年の収穫量から、オリーブの生産性 17年は1千升(工0石〉となります。明治 ないので病害の種類は不明ですが、その後 を計算した結果、反当たり収益は14円23 16年は、500升のうち、i50升を塩蔵品に の報告がないのは、回復しなかったのかも しれません。醸造用の欧州種はわが国のよ 気が発生しています。症状などに触れてい 回報告1 銭でした。ここではオリーブオイルの時価 し、350升で搾油を行いました、明治・18 オリーブ樹は高さ一丈四五尺(4.2∼4.5メートル、 を一合15銭とし、5反余から5石の果実を 年は198升と収量が激減しますが、62升 うな湿潤な気候では病が問題です。当時は 1丈=エO尺=3.03メートル)ほどになって、六月 得て、5斗の収量があったことから概算し を塩蔵品にし、136升の搾油で13升のオ まだ農薬がなかった時代で、明治18年 中旬にたくさんの実をつけました。植え付けた翌 ただけのものです。従って、生産費などは イルを得ています。収量減の原因は、春先 年、すなわち明治十三年から結実し始めましたが、 引いていません。 に施した強い剪定で花芽が減少してしまっ が開発され、わが国に入ったのは明治30 (L885)にフランスで殺菌剤のボルドー液 開花期に降雨があったので、果実数が少なく、ま これを当時の稲作と比較するため、明治 たことと、開花期の長雨と説明しています。 年代末です。硫酸銅と生石灰の混液で、現 た充分に成熟しませんでした。しかし、十五年の 16年の米価(1円25銭/俵1と反収(230 明治19年には、収量がSOO升〔8石)ま 在は有機認証の栽培にも使用できる薬剤に 場合は開花期に長雨がなく,同年十月、徽果(熟 キロ)から計算してみました。米作りでは、 で回復し、700升の搾油で、70升(7斗)の なっています。 していない若い果実)二升〔t升=1.8リットノレ) 反当たり4円79銭となり、オリーブは米 オリーブオイルを得ています。こうした成 と熟果三升を収穫することができました。そこで、 の3倍近く、反当たり10円も収益が大き 果を得て、オリーブ中心の経営が始まりま ドウ恨アブラムシ)による虫害が発生し、 若い果実を用いて塩蔵を試み、熟果で製油を試み、 いことになります す。明治18年はオリーブオイルと塩蔵品 4千本もの苗を焼却したとの報告がありま そんう 当時、播州葡萄園ではフィロキセラ(ブ 製品を三田育種場に送りました。これはわが国で オリーブオイルの時価は、一合15銭と の払いドげ価格を決め、1千本ほどの瓶容 す。フィロキセラはアメリカ原生で、根の オリーブ果実の製油と塩蔵を試みたことの醜女と なっていますが、当時(1円25銭/60キ 暑号を発注します。さらにこれ,らσ)瓶にイ寸け 組織に寄生してこぶを作るなどして衰弱枯 いうべきものです』Il ロ)と現在(15.000円.60キロ)の米価 るラベルの意匠もできて、各地からの苗木 死させます。1860年代にフィロキセラがア の比(12.OGO倍)を物価換算値としてみる の注文を多く受けるようになったと記され メリカからの苗木に付いてフランスに入り、 神戸阿利機園景況報告の内容 と、一合1,800円となり、現任のかなり高 ています。 ヨ一口シパ全体に蔓延して、抵抗性のない 明治14年から5年間の景況記録には、 級なオリーブオイルの価格帯に相当します 欧州種のワインブドウに壊滅的な被害を与 神戸オリーブ園が短期間に達成した素晴ら オリーブ栽培は米作りと比較して、収益性 オリーブ以外の試植植物 えます。1880年になって、フィロキセラに しい成果を見ることができます。ハイライ が高いことが分かり、今後大いに普及すべ ところで、園内の他の植物はどのような 抵抗性のある米国種の野生ブドウを台本と 状態だったのでしょうか.当初栽植された し、それに欧州種ワイン品種を接ぎ木する 樹種はゴムノキ、オレンジ、レモン、ブド 二とによって被害を克服できることが分か トともいうべきことは、明治15年にわが きという方向になり、.'...今より四五年を経 国初のオリーブオイルと塩蔵品の製造に成 過せばその収量の穎多なる蓋し意想の外に 功したことでしょう。しかもこのオリーブ 出っべし、加之此樹は栽培容易にして用 ロだ しオリナちノエンず ウ、ユーカリで、ブドウを除き、いずれも り、現在もブドウはフィロキセラ抵抗性台 温帯南部から亜熱帯地域に適した種類でし 木を使..て苗木を作ります。移入した植物 りこく オイルの品質の良さが評価されていたのも 費少なく且収量利澤甚だ多きを以て其一大 重要なことです。 有益樹たる已に之を本年の実験に激して明 た。これらの本数は不明ですが、園地の残 の中でも欧州種のブドウは当時の状況では らかなり、..』と、高い収益性と合わせて、 り半分に植えられたので、かなりの本数で 栽培が難i.かったと思います。 すマ 田中芳男(農商務省初代農務局長〉・池田 謙蔵(三田育種場長)の談話記録の一・節に、 栽培が容易かっ経費が掛からないなどの点 あったとみられます。明治14年から18年 次にユーカリですが、明治14年に、寒 この時のオリーブオイルについて、当時来 も強調されています。 のう年間にわたる景況報告には、これらの さに若干弱レ・カく、成長が著しく、高さが2 植物の状況も記載されています。 尺径が4、5寸に達するものもあると報 日していた司法省雇いのフランス人、バア 実際、明治17年には、この間の果実収 11」 シトロンの場合は、実がつくのですが、樹 れらの『農務顛末』中の文書においても、 ために返却を要請したことが契機であった 見られないため、その後も園内で栽培され 勢が脆弱なために霜害を受けやすく、実の 開設時の借り上げ地と買収した土地が同一 こと、当時園は大量の苗木を養成中で急な ていたかどうかは不明です。樹木として大 数も少ないのだろうと推測しています。 の地所であるというよりも、むしろ借り上 返地は難しかったこと、また将来は試験場 げ地は三ノ宮であるが、その後、別途山本 にするような二とが買収の理由になったこ 告されています。しかしこれ以降は記録が きく成長する様子であったので、園内で成 景況に示された樹種の状況は以上ですが、 長させるのは困難とされたか、あるいは当 オレンジとレモンは結実までの期間が長い 時、山林局も諏訪山方面でユーカリの苗木 という課題はあるものの、樹勢が旺盛で、 を養成していたので整理または他所へ移植 された、などのことが考えられます。 柑橘類はオレンジ、レモンが植えられ、 通の土地を買収したと受け取れます とが明らかになりました,オリーブ園は明 しかし通常、果樹のような樹木類は、植 治15年に初めて搾油や塩蔵品の製造に成 栽培の見込みはあると判断されています。一 え付け後6年を経て園地換えをするのは困 功し、普及活動が本格化する時であったの 方、ゴムノキ、ブドウ、シトロンは冬の寒さ 難であろうと推測されます.そうであると、 で、この公文録文書によって、農商務省の や病害が問題で、栽培は困難とされています。 借り上げ用地に開設した園をその後買収し 関係者らがここを本格的なオリーブ試験場 明治14年には、レモンは4、5尺、オレン たと見なされます。すなわち「神戸三ノ宮」 とする計画であったことも分かります。ま ジは3尺ほどの高さになっています。その このような中で、オリーブは成長が速く、 あるいは「神戸近傍暖地」とされた借り上 た、この土地の当時の買収価格が反当たり 後も毎年順調に生育を続けるものの、17年 しかも良好な結実状態であること、オリー げ地の場所は、買収地の山本通2r"目119 270円で、1町3畝25歩の総額が2,803円 番地から135番地となります。 50銭であったことは、他の文書類にはなく、 の時点でもまだ花がつきません。樹勢が旺 ブ製品を試作した結果、収量性と販売価格 盛なので、さらに1、2年経過すればかな から見て利益が大きく、栽培が容易な上に 一方、『新修神戸市史』2)資料には「神戸 この公文録の文書で明らかになったことで り実がつくだろうという予想をしています。 生産コストが少ないことから収益性は極め 阿利複園」付近を示す地図が掲載されてい す。土地所有者の真島裏一郎らが土地売却の 明治16年からは、柑橘類のシトロンが て高いとしています。果樹類の栽培は、植 ます。これは『神戸兵庫名勝絵図』3)にお ために返地を求めてきたのは、当時神戸の居 加わります。その年に多少の結果が見られ え付けから収益が出るまでの待機期間が課 いて、通称「植物園」と呼ばれた県勧業場 留地で活動する外国人たちの住居地として、 ますが、冬の寒さで枝梢に障害を受けてい 題になります。4年の短期間でこのような であるr神戸植物試験場」の場所を「神戸 北野町から二の山本通の市街地への開発が ます。また幹枝が強剛でないものの、暖か 好結果が得られたことから、オリーブ栽培の 阿利褄園」として示唆しているものです。 始まったことを示していると推測されます。 さが戻ると寒さの障害も回復する状況です。 奨励・普及ヘカを入れてゆくことになります。 このため、開設地と買収用地との関係につ いては、土地の買収経緯などの詳細を明ら かにすることが必要と思われました。 H神戸阿利機園はどこにあった そこで国立公文書館の公文録を調査した 結果、『阿利複栽培地買収ノf牛』に関連する 文書として『阿利褄樹栽培地買上之義』1〕 公文録『阿利機樹栽培地買上之義』 利襟園」にも見られます。暖地植物栽培試 =写真(右)=があり、そこに買収経緯が 先に示した『明治前期勧農事蹟輯録』の 験地の設置に関する文書で、その場所を『... 記されていることが分かりました。この公 神戸阿利複園・沿革」部分では、明治12 神戸近傍暖地を見立_』りとし、ここでも 文録というのは、明治初め(明治元年∼18 年に開設した暖地植物栽培試験地について、 神戸近傍という大まかな表現になっていま 年)の政府の公文書のほとんどを省庁ごと に編集した文書集で、国立公文書館に保存 『神戸三ノ宮に一町歩内外の苗木仕立所を す。この用地を3年契約で借り上げ、三田 設け...(此の土地は五ケ年契約にて借入れ 育種場神戸支園として暖地植物栽培所を開 されており、国0)重要文化財にもなってい たるものの如し)』としていますが、神戸三 設したとしています。続く文書の『神戸地 ます。 エ媒試曾 ll太撫轟 礒美雇車灘1蕩 欝欝 繋難 ノ宮のどこなのかは詳細がありません。続 方二於テ植物栽培所借上ケノ件』では、こ いて用地の買収について述べられ、『明治 の借り上げ契約を5年に延長していますが、 神戸区山本通2丁目119番地など16筆、 十六年、阿利複栽培地として神戸区山本通 そこにも町名などは記載されていません。 計1町3畝25歩の土地をオリーブ栽培地 二丁目に反別一町七畝十二歩を買収し、..』1) さらに続く文書は『阿利複栽培地買収ノ件』 として買収ザることを建議したものです。 どの地域に該当するのでしょうか。この地 と、ここに町名が記されています。文とし ですが、明治16年にオリーブ栽培場とし 用地価格は2,803円50銭(反当たり270 域は明治12年から22年まで神戸区に、それ ては続いていますが、開設時の借入地を買 て、山本通2丁目119番地から135番地の 円)でした 以降は市制に移行し、神戸市に入っています. 収したという文脈にはなっていません。 土地1町歩余を買収したことを述べ、これ このよう、こ公文録の文書から、明治16 法務局にて、明治時代の地積図を閲覧し に土地区画を示す図面を付しています。こ 年の借入地買収は、土地の所有者が売却の ました。明治10年ごろの地図は宇限図(あ 類似する記載が『農務顛末』の「神戸阿 一]!一 文書は、真島嚢・郎ほか4名が所有する 神戸阿利機園の現在地 神戸オリーブ園の所在地であった神戸区 山本通2丁目119番地∼135番地は現在の ざきりず)と呼ばれています。この地図は 天満神社があります。平清盛が福原に都を 明治6年の地租改正の際に作られたといわ 移した際にそのご加護のため京都北野天満 れ、検地帳一筆ごとの測量を基に、一筆ごと 宮に勧請して祀ったのが始まりと伝えられ の番号・地目・反別を示しています。『農務 ています。神・社の周辺を北野村と呼んだこ 顛末』に示された買収地の地形と明治10 とが、現在の北野町の由来とするのが一・説 年ごろの字限図を照らした結果、神戸区山 です。「北野」については、これが神戸七野 本通2丁目119番地∼135番地はトアロー (宇治野、平野、夢野など)の・つであり、 ドの東側に面した・画であることが見いだ 海岸近くにある「小野」の北の傾斜地に由 されました。この位置を明治24年の地図 来するという説もあります(仲彦三郎「西 二写真=で追うと、 摂大観」明輝社明治44年)。 さらに区画変更と h,、、フ」■、、`』串.捜ぬ られていました。 婁{.=、一..二い...μレ伽 計5区画にまとめ 、..「㌦ の16筆の区画は 』溜認、【■画二・-!-■ナ 地となり、買収時 一掴 32-1、32-2、33番 ■一. 謎響` 3丁目25、26、 ■「■ この辺りは山本通 オリーブ栽培場「林山官林」の位置 当日寺のオリーブ用地借用に関する文書 (『一〇山林局より地所借受けの件』)は 農務局神戸阿利複園・福羽逸人から農商務 国神戸区山本通六丁目宇林山二等官林段別 地番変更があり、山本通3丁目3-12、13、 二十一町八反歩の内、小宇ドウマンノ平コバ 15、16、17、18、19、21、23、26番士也と の反別三町歩が借上げられた』とあります。 なっています。現在の住居表示は、神戸市 『借地料は七円五十銭で、松の苗場である 中央区山本通3丁目3番12、15、16、20、 が、少量の松の小苗は置いたまま貸し出す 21、22、23号になっています。トアロード こと、林山二等官林には樟やニューカリー とパールストリート(山本通)が交差する (※ユーカリのことか)があるが、貸出地 トアロードに沿った東側一画で、区画内に にはこれらの苗木は植わっておらず、差し は、神戸北野ホテル、近畿財務局山本通合 支えないこと』などが述べられています。 同宿舎1号棟、同2号棟、第三港湾建設局 神戸地方法務局で、摂津国神戸区山本通 山手寮及び同山手独身寮の建物の合計5棟 六丁目字林山二等官林は現在の篤饗砺断 が立ち、モータープール1カ所、個人の住 123-1が該当するのではとのことでした。 宅5棟があります。 この地番は神戸港地方のうち、奥平野浄水 にかた 現在の住民や所有者にとって、ここにか 場の後背地で宇治川に沿った地域ですが、 つてオリーブ園があったことは、想像のつ ロー里山上流の稲荷茶屋近くまでの広範な かないことでしょう。都市として発展した 地域で、宇林山二等官林の段別二十一町八 神戸は100年前の姿は全くといってよいほ 反に該当するともみられます。昭和40年 どとどめてはいないのです。山本通という に保安林として登記されていますが、現地 町名の由来を知ることはできませんでした は急傾斜の山林で、登山道が見当たらず、 が、明治7年になり、北野町から西の中宮 調査を進めることができません。 町にかけて、東西の新道を開設した時に「山 さらに地域を絞るため、rドウマンノ平 本通」の町名ができたといわれます。 コバ」という小字名に手掛かりを求めてみ 「北野町」には、1180年に開かれた北野 ました。その結果、神戸史学会編纂の『神 戸の町名改訂版』(神戸新聞総合出版セ 四八・三五〇円とあり、沿革欄に明治四拾 ンター2007年)で、「再度筋町」の記述 二年八月払下同年八月地価設定と記され 中に「ドウマン」の小字が見いだされ、神 ています,また以Fの欄には登記年月日: 戸港地方の小宇の一部をまとめて再度筋町 明治四十二年十月・ヒ八日、事故:保存、所 とした経緯が次のように述べられていました。 有者氏名1農商務省とあり、さらに次の行 で「同日、移転、東京市麹町区紀尾井町三 『..明治五年、神戸の山手の道路作りが始まり、 番地前田正名.と記されていました。 同六年完成した南北八本のうち西から二本目を再 山林局から3町歩を借りる契約がありま 度筋と名づけ、同七年宇治野町などを廃して県布 したが、明治18年の福羽逸人の景況報告 達で新町名とした。ところが明治末期ごろから背 ではその半分の開墾が終わり、オリーブ苗 山と合わせ.行政上は大宇神戸港地方と総称され 木480本を植え付けたと記しています。18 るようになった。昭和六年、大宇神戸港地方のう 年には前田正名が農商務省を辞めてしまい、 ち林山、山ノ後,ドウマン,楠キ、西谷、河原、 福羽連人も19年3月,こは欧州留学に出発 樫木原の小宇名を改称して再度筋町とする二とを して行きます,、林山官林は、それ以上開墾 告示、翌年から実施されたj3〕 がされていない状態であれば、福羽逸人の ここではドウマンがありますが、「ドウ 開墾したσ)が1町5覗であるため、この登 マンノ平コバ」は見当たらず、また字名の 記簿で前田正名に払い下げられた1町4反 「林山」は小宇名とされていました。そこ 6畝にほぼ一致するとみられます。また払 で法務局の再度筋町の土地台帳(移記閉鎖 い下げの時期についても、神戸市農会での による閉鎖登記簿)で、神戸港地方から編 管理委託が終わるのが明治38年で、その 入した各小宇すべてを閲覧したところ、小 後は前田正名の手に戻ったという記述があ 字r林ロー1」の台帳に、前田正名の所有地所 ることから、前田が払い下げを受けたこと .・.」挙記簿が見つかったのです=写真(下)=。 とは時期的に符合すると考えられます。 繋磯・ !li蘇1麟雛 難1総,ぞ生1 オリーブ畑の売却 意外なことに、この登記簿によると、前 田正名は払い下げを受けた2年後にこのオ リーブ畑を売却したことが記されています. 所有権移転として 鱗齢 ノ藤灘1綴ji 明治四十四年六月十九日武庫郡住吉 村字観音林阿部元太郎 続く欄で阿部元太郎の住所が変更され ています 前田正名の土地登記簿 昭和五年五月六日川辺郡西谷村切畑 室長尾口.1』ノー五五 当時の登記簿の字の記入欄は:林山」の 文字が抹消され、欄外に「神戸市中央区再 この登記簿では、オリーブ畑が阿部元太 度筋町」と記入されています。地番は「壱 郎じ渡った後,二二を宅地化したンとが分 番ノー」,等級欄に七等五六級とあります。 .・トP「」 地目:山林、反別:一四・六〇マ反、地価. M 1.1一・ ■詫 皿福羽逸人と神戸阿利機園 すが、福羽は20代後半に携わった神戸オリー の需要や栽培の見通しに確たる信念を抱く ブ園の経験から、わが国におけるオリーブ ようになっていました。 IV前田正名と神戸阿利機園 明治19年になると、政府は一転して緊縮財政を敷き、官営事業の民間払い下げを進めます 『農務顛末』収録文書も、明治18年10月 須磨離宮のオリーブ 9目付の福羽逸人が提出した『阿利機油井 福羽逸人は留学後に農商務省から 塩蔵品沸下ノ件』で終わりになります..そ 宮内省に籍を移し、国内外の博覧会業 務、庭園・園芸事業を行う内苑寮、宮 の内容はオリーブオイルと塩蔵品の瓶用ラ 中の厨房を預かる大膳頭、内匠寮御用 ベルの見本を作ったこと、これら製品の払 掛などに携わっています。明治44年 の武庫離宮(須磨離宮)の新営工事で は、その庭園にヤマモモの巨木、豪州 産各種アカシア樹、キョウチクトウ、 南米産のアロカリア、レモン、台湾産 の柑橘、インドスギと多種多様な植物 を取り入れる・方、そこにフランスか ら取り寄せた100本ものオリーブ樹 を加えています、 い下げ価格を決めたので、検討してほしい 旨の伺でした。ラベルは別紙見本のように、 とありましたが、その見本は収録されてい ませんでした。 『福羽逸人回顧録』 神戸オリーブ園のその後を伝える資料の 一つは、 『福羽逸人回顧録』の神戸オリーブ園に関する記述にあります。福羽逸人は播州葡 響騒 r神戸阿利複園」と播州葡萄園の払い下げを受けたのは前田正名でした。前田正名が両 園を引き受けた理由は何か、前田正名は両園にどのように関わったかなど、これらを史実 資料からうかがい知ることは困難でした。ここでは、祖田修氏の著作、日本歴史学会編集 の人物叢書『前田正名』によって、神戸オリーブ園との関わりを見てゆきます。 前田正名のオリーブ園 ンスから持ち帰ったものであった。しかしこれら 前田正名の足跡は、神戸オリーブ園とど の支場はその後運営もかんばしくなくあまり顧み のように関係しているのでしょうか。祖田 られなくなっていた。日頃それを残念に思ってい 氏の著書はこの点について、『第五「興業 た前田は自らこれを経営してみたいと考え、その 意見」の編纂と政策構想の挫折』の『五非 ことを申請した。興業銀行問題のいきさつはとも 職中の前田正名』項目で、前田正名の神戸 かく、前田の将来を先輩として秘かに心配してい オリーブ園への思いを描き出しています。 た松方正義は、これを伊藤博文にはかって、三ヵ 萄園とr神戸阿利複園」が前田正名へと管理委託された明治19年の春、留学のためフラ 前田正名と神戸オリーブ園の実際を知る唯 年間年四千円の補助金を農商務省から下付し、両 ンス、ドイツに出発します。2年間の留学を終え、再び神戸オリーブ園を訪れた時の様子 一の資料であるため、その多くを引用させ 支場の経営を前田に委託する措置をとった。 を次のように記しています。 ていただきました。 トヨラ 『...予は十九年の春フランスに留学し、前田君の事業管理者は片寄俊英任に方れり.然るに其後、神戸阿 利褄園に明治十二年以来栽植したるオリーブ樹の成木を恨頸より切断して,悉'く之を予か耕植試験地と して設置したる林山に移植せりと聞く。其後の管理手護如何なりしや.これを詳らかにせざれども、予が ニくエ 帰朝の後林山の阿利褄園は存在し居たれども、樹勢極めて衰況を呈し、結果甚だ寡く、その管理は河合 某に委託しありしが、遂に自然枯滅に至れり。...』7) 福羽逸人のオリーブ園 萄園より出向し,栽培上の注意を怠らず。然るに 回顧録によると、福羽逸人が神戸オリー ・1一五年に至り始めて少量の結果を得たり。これ本 ブ園に関わったのは明治13年の春に播州 邦に於てオリーブの果実を収穫したる口,腐矢なり。』7) 葡萄園の開設で出張した時、オリーブ樹試 験地の管理を兼務すべく命ぜられたもので、 開始当時について次のように述べています。 「日本最大の種苗会社」の夢 祖田修氏の『前田正名』に、『前田は正一の帰国を待って日本最大の種苗会社 を創ろうと考えていた。』6〕という一節があります。 これは当時所有していた北海道、静岡、宮崎の土地にそれぞれ寒帯・温帯・熱 帯植物の育成を行うという構想であったといわれます。このため大正3年には、 東大農科を卒業した長男の正一をアメリカのザットン種苗会社に派遣し、さらに 同9年には前田種苗会社設立のため、正一を支える2人の青年を自宅に住まわせ るなどの準備を進めていました。それは大正10年、宮崎で正一が神経を病んで 九州大学病院に入院し、そこで看病に当たった正名がその8月チフスで急逝する という、悲壮な最期の直前でした。 前田が最後に追っていた計画は、産業振興活動に捧げた生涯という姿とは別 な、前田の生来から発せられた、あるいは生涯抱き続けていた関心によるもので あったとも考えられます。 順調に結実し始めた神戸オリーブ園の栽 『非職となった前田は、二年半後の明治二一年 前田は神戸山本通二丁目のオリーブ園事務所に家 (1888)六月山梨県知事となるまで、役人として 族ごとで住み自由な生活を始めた。ブドー園の方 培技術とその後の搾油、塩蔵品試作さらに オリーブ園の拡大のため、林山官林への栽 『...神戸阿利複園の土地は、従来水田として米作 は片寄という人物に管理させた。 前田はかって三田育種場を創設したが、その後明 神戸での二年間は非職後の憂愁を含んではいたが、 植など、わが国初のオリーブ栽培を成功に を行ひたるを以て、甚だ肥沃の地味成り。故に該 導いたのは、まさに福羽逸人の園芸家とし 樹の発育は殊に佳良にして驚くべき成長を遂ぐ。 ての技量でありました。当人の留学を挟む 予は大いに其前途に嘱望し、毎月一回必ず播州葡 はブランクの時代を迎える。.., 治一一年(※一二年か)に暖地植物用の支場とし これまでの臨戦体制のような多'1亡で緊張した生活 て「神戸阿利褄園」が、明治一『年には「播州葡 を離れ、落着いた健康的な毎日であった。この年 萄園」が設置された。これらの種苗は前田がフラ の正月の長男正一出産に続いて、二〇年四月に次 わずかな歳月の間に園は衰退してしまいま .il一 男正次、二一年四月に三男三分、二三年五月に四 ブ栽培の普及に取り組むとの方向が定まり 神戸オリーブ園が出てくるのは、明治42 伝記では、前田が払い下げを受けた播州 男四郎と、前田夫妻は二の二ろ毎年のように子供 ます。17年には三田育種場が大目本農会に 年、前田が宮崎県での新田開発事業で抱え 葡萄園について久米次郎が支援する様子や 園のその後を次のように伝えています。 をもうけている。長女今子はすでに三∼四歳で、 委託され、それに伴って、神戸支園は農務 た負イ責の整理のため、神戸オリーブ園の土 オリーブ園内を走り回り、一時預けちれた牧野家 局樹藝課の所属となり、「神戸阿利襯園」と 地を他の土地と一緒に処分したという記録 のような大きくきれいな家を建ててくれとせがん 改称されます。この年は、苗木増殖のため になります。 だという。前田の子供たちの名前は松方正義がつ 6丁目に林山官林3町歩を借り受け、明治 けたと言われている(前田華子氏談)。イチと結婚 18年の春に1.5町歩を開いて480本の苗を した際松方は媒酌人であった関係からであろう。 植えています。しかし、この年を限りに、 興業銀行問題をめぐって前田は松方にいどみ敗れ 19年度より政府は、「神戸阿利機園.、と播 たか、とも、こ大久保の後継者であるという意識と、 州葡萄園を前田正名に3年間の管理委託し、 料を製造したことで知られており、肥料メ 立替えた(神戸オリーブ園の経営については、山 年齢が大きく離れていたことが.幸いにして二人 上述のように前田とその家族は神戸に移り ーカー多木化学の創業者として、伝記が編 本亀太郎、堀孝三の二人が同様経費の立替え支弁 を引受けている)。.,,多木は明治二十八年二月、 によると「播州ブドー園」の経営は、その所有地 (畑地五町歩)を水田に開拓し、そこからあがる 前田正名と多木久米次郎 小作米を財源にして賄うことになっていた。この 多木久米次郎は、わが国で初めて化学肥 小作米が収納されるまでの農園経営資金を多木が をk問関係の断絶,こまで追いやらなかったので 住みます。両園の管理に当たった福羽遊人 纂されています(『多木久米次郎』多木久 ある も非職となり、明治19年の春、留学のた 米次郎伝記編纂会1958年)。多木家菩提 前田はオリーブ園で,園内の作業、時論の執筆、 め欧州に発ちます。 寺の宝蔵寺には、多木久米次郎と前田正名 他人の世話などに毎日を過ごした。国会図書館所 蔵の'前田文書第一.へ四分冊」は、このころ書か 前田が園内の作業に従事した、と述べら 『多木はかねがね、前田から資金面のことについ て相談を受ける立場にあった。多木家保存の文書 「ブドー園」に栽培していたロビニヤ(アカシヤ〉 の苗五千本を買いとって経営資金に充当したりし との親交を伝えるオリーブの古木が2本保 て、援助につとめたが、虫害が原因して経営は次 存されています。多木久米次郎は若くして 第に困難となり、明治二十九年には、「播州ブドー れているように、報告された景況によれば、 家業の魚肥商を継ぎ、傍ら自身も水田・畑 園」、「神戸オリーブ圃」ともに、閉鎖同様の状態 つべからざる所以、養給の典設けざるべからず、 19年度のオリーブ園は8石の果実から油7 地を耕作し、藍種、綿種を扱い、副業に醤 におちいってしまった。』6) 目的論、支那朝鮮に対する日本の国是、退官の理 斗を得、1石を種用としたと記されていま 油と酢の醸造も営んでいたといわれます。 由』などを題目とする小論である。前出はたえず す。この年は、最高収量を上げた明治17 国家の動向に目を向け、その対処について考えを 年の10石に次ぐ収量を上げています。明 めぐらすことを怠らなかったのである。,..』6〕 治21年3月には、これら両園の払い下げ 噂 れブーもので、「風俗論,党派論,事業者の政府に立 / V神戸阿利機園はなぜ閉園したのか を許可したとの報告があります、 前田は21年6月に山梨県知事に任命さ 神戸オリーブ園の払い下げを受けてから れ、神戸を後にします。この知事就任で官 の数年間は、前田の前途を決定づける重要 神戸オリーブ園の閉園について、さまざ のオリーブ樹はどうなってしまったのだろ 職復帰を果たしますが、その在任期間はわ な期間でしたあるいは神戸オリーブ園に まな資料を検討してみましたが、これを特 うかということも気になります。特に、オ ずか8カ月というもので、前田は再び、か 取り組むべき時間は見いだし得なかった、 定することには幾つかの問題があると思い リーブ栽培が成功し、オリーブオイルを初 つての農商務省へ戻っています。 というべきかもしれません ます。ひとたび開園されれば、いつまで続 めて搾ったというような活況を呈していた このように産業振興政策に心血を注ぐ前 いたのかということになりますが、神戸オ だけに、その閉園に関心が持たれるのは当 田でしたが、突然病に倒れた岩村通俊農商 神戸オリーブ園への前田の関与は、田中 リーブ園の場合、明治12年という早い時 然でしよう。 務大臣に交代した陸奥宗光によって、行く 芳男・池田謙蔵の対談聞き取りにあるよう 期の、しかもわが国で初めてのオリーブ園 手はまたも阻まれます.陸奥は、藩閥の確 に、宮崎県でのオリーブ事業が中止になっ であっただけに、その後どのような経過を 神戸オリーブ園は明治政府の農業政策に 執と原敬ら省内の前田への不満を背景に、 たことが、決定的だったのではないかと推 たどったか、いつまであったのかなどにも よる設置でしたが、その政策は産業を興そ 前田更送へと働いたといわれます。このよ 測されます。・つまり、その計画が中.Ekされ 関心が持たれます。閉園時期に触れた資料 うという殖産興業政策であり、西欧の進ん うにして前田は明治23年5月、次官の職 たことによって、結果的に前田が、その後 は多くはありませんが、ほぼ明治29年を だ産業を取り入れるという、一種政策主導 を辞すことになりましだ のオリーブ園事業への諸々の側面での余裕 閉園とすることから、「明治29年閉園説」 ともいうべきものでした.しかし一面、国 というものを持ち合わすことが不可能にな と呼ぶことにしました。果樹園のような場 は大幅な輸入超過と西南戦争での戦費によ 振興の運動に邁進し、全コ行脚に発って行 った、あるいは逸してしまったのではない 合には、そこに生きた樹木が植わっている る財政難を抱えたため、明治中期に入ると きます。 かと思われるのです。 ために、一概に閉園といっても分かりにく 増税や地方産業、農業関連産業の切り捨て い点があります。ここでは、あの1千本も などへと政策を急転回させ、その収支を図 その後の前田は、在野における地方産業 のざい 神戸オリーブ園は、明治16年にオリー これ以降、祖田氏の『前田正名』の中で 一ヨ ー るようになります.神戸オリーブ圃もオリー この時期も羊毛などの国内需用が急増しま ブ栽培そのものの成否よりも、事業展開す したが、早急な国内生産で対応することは べき農業や地方産業の逼塞した状況の中で 困難でしたし、また綿花の需用などでは、 の発展は限られていたというべきでしょう。 海外産との競合で国内産地が後退するよう 各県に展開した試植の事業結果の報告にも、 な状況も見られました。 実際、新しい産業として取り組もうという これらの背景から、オリーブの試作事業 姿勢を見ることはありませんでした。唯一、 はこの時期既に、わが国の農業や地方産業 けし 千葉県で銚子港での沿岸漁業による鯛缶 に恨を下ろして発展する余地はほとんどな 詰製造にオリーブオイルが必要であるから かったと,憩われます。またオリーブ産業は、 と、オリーブ樹の試植に取り組みたいと希 神戸オリーブ園の30年後に始まった小豆 望した例があるぐらいです、 島における展開を見ても、わが国でいわゆ また新規の動植物の栽培飼育のようなこ る発展を遂げる樹種としては、食文化との とは、たとえ需'用が切迫しても、生産体制 接点を見いだすことができないまま今日に を整えるには時間が必要になります,実際 至った作物になるのでしょう。 36年に高潮によって塩害を受けて枯死したので、 新見住職の案内で、木の大きさを測定した結果 2∼3年後に切り取った。その後切り残された基部 はつぎのとおりであった。 から再生したサッカー(吸枝、ひこばえ)が伸長 (A樹)基部の周りが1.2m、地上1mの周りが して現在約2.5mの樹高になっており、オリーブ 0.9nlであって、主幹は地上2.6mから分岐し、こ の生命力の強さを示すだけとなっている。 れより上約2mのところで切断(ジェーン台風に 2,項目(略〉 よって倒れたので、その時切断)されていた。側 3,宝蔵寺のオリーブの実態 枝は地上2,6mで2枝に分れた主幹から発生し、3 宝蔵寺は山陽電鉄別府駅を降りて、南へ約しkm ∼4m伸長していた。また、この木は地上O.5mの 下ったところの川沿い(別府漁港と連なっている) ところがら長さ0.5m、深さ0,2mの空洞があるほ に位置し、新1日家屋が立ち並ぶ中にあって一段と か、地上1∼2mの間に幹を貫通した穴が2カ所あっ 古めかしい寺である。 た。この穴は人によって傷つけられたようである。 この寺が建っている土地は、川尻地帯であって、 樹高は途中しか計れなかったが約6.5mで.占 土質は砂土に近く前を流れる川の水面から4∼5m 有面積は126㎡であった。 も高く、排水が良好でオリーブに適した土地条件 〔B揃)A樹より約10m離れた空間の広い場所 を備えていた。 VI神戸阿利機園ゆかりのオリーブ に植えられていたため,木も大きく、基部の周り オリーブが植えられている場所は、寺の門をく が1.6m、地上1mの周りが1,3mであった。この ぐった境内の左側にあった=写真(下)=。日本で 木も地上2.3mで分枝し、これより2,5mのところ 最も古いオリー'i'fゼ・木1τ畠」・.新調の写真が頭の で切断されていた。側枝は地上23mで分れた主 幹から発生f申長していた。なお、この木は、主幹 香川県農業試験場小豆分場 宝蔵寺のオリーブ調査報告書(昭和5丁年7月6日) 川西良雄氏の調査記録 香川県農業試験場小豆分場主任研究員川西良雄 神戸オリーブ園の歴史や残存するオリー 1.調査の動機 ブ樹に関心を持ち、またその管理や保護の の基部から約O.3m離れてサッカー(吸枝、ひこ ばえ)が発生し、これが生育して基音Ilの周り07m の木になっていた。 オリーブ試験地の第工O代主任(分場長)であっ ために尽力されてこられたのは、香川県農 樹高は約7mで、占有面積は19.O㎡であった。 た笠井宣弘氏から昭和57年6月30Hに届いた私 信とともに、神戸新聞(昭和56年4月26目)の リーブ栽培を指導され、試験研究に取り組 連載記事「ひ,仁うご博物誌〈38>オリーブの木. む中で、オリーブ栽培の導入やその歴史に の切り抜きが入れてあった。 ついての著述も多く担当されています神 この記事には,明治11∼膨年に兵庫県加古郡稲 戸オリーブ園ゆかりのオリーブ'樹は、小豆 美町母里に播州ブドウ園が開かれ、神戸オリーブ 島の方々にも見守られてきました。ここで 園と同じくオリーブの栽培が行なわれた。 は、川西良雄氏が、香川県農業試験場小豆 その後同園は閉鎖されたため、数10不のオリー 分場の主任研究員時代の調査報告を紹介し ブが別府海岸に移され、そのうちの2本が宝蔵寺 ます。小豆島にかつてあったオリーブの古 加古1市弓1」府町木町1)の境内で今なお保存し 木は神戸オリーブ園由来のものではないか、 ていることを掲蔵していた. としています。また当時、フランスから入 小豆島で最も古いと言われているオリーブの木 れた苗木は和歌山県でも多数試植されてい は,小豆郡±庄町淵崎の井上文八郎氏〔故人)の たことから、そのゆかりのオリーブ樹につ 邸宅の前に診る.このオリーブの:くの出所は明ら いての調査もされ、現在の和歌山県立田辺 かでないが、神戸のオ辺一フ'園から先々代の井上 …霧.薫 「、■婦黛 業試験場の研究員の方々です。小豆島のオ A,B両樹とも主幹の樹皮は基部から切断部ま で(4.6∼4,8m)がオリーブ独特の荒れ肌となり、 年月の長さを物語っていた。また両樹とも結実し ていたが、幼果であるため品種鑑定はしにくいが、 A樹がミッション、B樹がクイーン(セビラノ) ではないかと思われる。ゆ 兵庫県に導入されたオリーブ樹の現地調査報告 〔昭和58年3月9日) 香川県農業試験場小豆分場川西良雄 中にあったので、かなりの大木であろうと期待し 神戸新聞(昭和56年4月26日)のひょうご博 ていたが、一見レたところでは樹高は7∼8mであ 高校にあるオリーブも当時のものに由来す 文八郎氏が譲り受けて移植したものだろうと言わ ることを確認しています。 れている。残念な二とにこのオリーブの木は昭和 物誌く38〉で紹介された加古川市別府町、宝蔵寺 り、この程度であれば小豆島にもこれに劣らない 大木はある。しかし、近づいて見ると、幾年月の 内のオリーブ樹について、57年7月6日に現地調 風雪をしのいできた古木の感触が伝わってきた。 査を行なった結果については「宝蔵寺のオリーブ ことに、樹皮の表面の緻密な風化状態は.年輪を 調査報告書」で報告したとおりである。 今回は、このオリーブ樹の品種特性などについ 重ねた木であることを証明していた。 一.占 .『一 て調査するため増殖用穂木を採取する目的で再調 「この木は明治10年(※11年か)パリ万国博で 査するとともに、湊川神社境内に保存されている 目本館長をしてみた前田正名がフランスより持ち 同年代のオリーブ樹の調査を行なったので報告 帰ったものの一つで日本最初のオリーブ樹と云は する。 れてるる』と書かれていた。 1.宝蔵寺のオリーブ樹 VII「阿利機」(オリーブ)という漢字 境内には、大楠公に因んでか樟の木がたくさん このオリーブ樹を植付けた故多木久米次郎氏の 植えられておりその中で一本のオリーブが樟の木 「神戸阿利禎i園」の「阿利褄」という漢字には困りました。「神戸オリーブ園」にすると 孫に当る多木燐太郎氏と前宝塚分場長の藤本治夫 と樹高を競合するかのように高く伸長していた。 氏を多木化学本社に訪ね、宝蔵寺のオリーブ樹に また、この樟の木に支えられるように伸長してい の資料に助けられ、およその結論にたどり着きました。意外にも、この漢字調べは、オリーブ 関する資料を入手し、今後の保存栽培ならびに注 るため植付後一度も倒伏した跡が全くみられな 伝来の様子・を知る良い機会でもありました。 意事項等について協議した。 かった。さらに境内がはき清められているため、 つづいて、藤本氏の案内で、宝蔵寺のオリーブ 樹を調査し、写真に収めた。 さらに,繁殖用穂木をAおよびB樹各20本宛 オリーブゾウムシの侵入する余地がなく、無事今 「阿利機」は蘭語「オレーフ」由来 日まで100余年間生き抜いてきたように思えた。 「阿利褄jは語源に従えば「オレーフ」 このオリーブの樹高は約9∼10nl(目測)であ 採取し、帰着後3月9日にさし木した。 り、地上3m以上に枝葉を着生しているため、穂 2.湊川神社のオリーブ樹 を採ることができなかった。樹幹基部は周158cm、 楠木正成公を祭っている湊川神仕の御鎮座は明 分かりやすいと思ったのですが、少し調べることにしました。ほとんどをインターネット 「オレフ」あるいは「オレープ」と読み、 これらはオリーブの蘭語(オランダ語) 「olijf」の音訳です。 地上1mは周126cmで樹高2.5mで分岐している。 治5年5月24日であり、その境内に植付けられ 樹幹基部の根肌の盛り上がりは南北へ1.2m、東西 た(年代は明確でない)オリーブ樹は、門を潜っ へ1.6m露出していた. てすぐ左側〔宝物殿の前)に植栽されていた。 このオリーブ樹は看板通りであi':.樹肌などは、宝 蔵寺のオリーブ樹と同種であるこ・』を確認した。』10〕 このオリーブ樹に針金で結ぴっけられた看板に の文書ではこの「阿利複」が使われています。 明治38年に大目本農会がオリーブの栽 培書を出版しています。繁殖法、土質、栽 植、剪定及び整枝、種類、製油法、塩蔵法、 油漬、害虫及びその駆除予防を解説したも ので、61頁にわたっています。しかしここ 杉田玄白ほかの「解体新書」(1774年) では「阿列布」が使われています(国会図 では、蘭語「ohjf」(オレーフ)に「阿礼篠」 書館近代デジタルライブラリー)。この が当てられているといいます(ヤフー辞 「阿列布」は蘭語でなく、フランス語の 書:日本国語大辞典『延髄〈略〉後面如 「01ive」[オリーヴ]への当て字とされてい 阿礼複子吾邦呼日葉細』)。 ます。ちなみに私たちは「オリーブ」とカ タカナで使いますが、外来語としての語源 一報推認,甲 江戸後期の1822年、蘭学者宇田川榛斎 は英語の「01ive」となっていました。 の訳書『遠西医方名物考』巻の六に『阿利 鰍 論〆 褄(オレイフ)按二阿利複ハ西洋諸地二産 スルー種ノ喬木ノ実ナリ是ヲ搾テ油ヲ取り 薬用及ビ飲膳灯油二供シ又四方二貨ス和蘭 "1. ニテ此油ヲ「オレイフ、オーリー」ト名ク 、鎌 左二挙ル阿利機油ナリ舶来アリ俗間薬舗 團 「ポルトガル」ノ油ト呼ブ』 さらに1835年に、蘭学者宇田川椿庵が 出版した植物学の専門書『理学入門植字啓 瀬 原』で「阿利薇」(オレイプ)が出てきます 』一一 [』皿 灘 (ヤフー辞書,日本国語大辞典『如阿利 褄(オレイプ)、其肉尽油也』)。 群 、、 「神戸阿利襟園」の「阿利纏」はこの時 代の用法と分かります。読み方の「オレイ プ」が蘭語の発音かどうかは確認できない でいます。明治に入ってからも、農業関係 ■甜 ボタニカルアート(浜田桂子) 一21孔一 皿「宝の樹」オリーブ オリーブ栽培の特性 第2章 オリーブを神戸発展のシンボルに じるものです。 オリーブというのは、わが国では、その 日召下025年1こ、 生産の在り方を他の果樹類や油料用の作物 香川県農業試験 と比較することが難しい作物です。むしろ、 場が発行した冊 比較することは意味を持たず、オリーブ栽 子『オリーブの 培をどう捉えるかという点で、ユニークな 作り方』の一節 発想、あるいは発想の転換が必要な作物、 を紹介させてい というべきかもしれません。 ただきます。薦 その考え方を端的に示しているのが、香 田快夫氏(当時 川県のオリーブ栽培の指針で、栽培の得失 の試験場長)の序によると、執筆されたの をはっきりさせ、その上で、どのような生 は尾崎元扶氏で、rオリーブ」の試験研究に 産を行うか、よく考えてみましょうという 専念され、オリーブ栽培を現在のように自 ものです。今から60年ほど前に出されて 信をもってすすめ得るまでにされたとの紹 いながら、内容は今に、さらに将来にも通 介があります。 『作物としての特徴と経営上の注意 オリーブは一般果樹又は油料作物とは稍々趣を異にした特性を有しているので、栽培者は之等の点をよ 一』→一一 」 ラロトロ 一、義 ∼セ,.船 蠹毒 r-奉… りびマ 「一し'T.犀 . 蓬 難 く知って、その特性を最も有効に利用すると共に、意外の失望を招かないよう注意しなければならない。 土竜.・・ 今その主要なるものを列記すると次の如くである。 (イ)優れた特性 1.耐旱性大であるから瀬戸内沿岸の旱魃の激しい畑作地帯に好適する。 2.耐寒性も比較的大であるので、柑橘よりも土地選択が自由であり、冬季防風樹としても適する程である。 3,病害虫少く、袋掛は勿論、薬剤散布も普通にはその必要が殆どない。 4.剪定は整枝を主として行うので簡易である。 5,比較的少肥に耐える。 6,栽培所要労力の年間配分が一般作物のそれと合致せず、農閑期を利用して栽培出来る。 7,収穫可能期間が五ヶ月間あるので労力調整上有利である。 8,樹自体の生産樹としての価値高く、樹は家産として優れたものである。(他の集約果樹は一年でも管 理を怠れば収量はあっても収入は著しく低下し易い) 9.生産した油は品質甚だ優良で、その用途は頗る広く、且価格次第では他の油脂を駆逐出来るから販路 明治20年ごろの神戸。海と緑の風景のなかで、日本初のオリーブ園が息づいていた品} は広く、その意味で当分の間国内過剰生産の虞(おそれ)は殆どない。 10・油としての用途の外に加工果実として食用に供し得ることは、単一な油料作物と異り経営に妙味を附 興する処が大である。 11.生長速かで、且単位面積から良質多量の油が収穫出来るので油料作物としても、油料樹木としても優 鮎 れた性能を有する. 12.製油、ピクルス.共に農村加工の好材である。特にピクルスは個々の農家で加工出来て、加工利潤を 生産者自ら取得し得る。 13.樹姿優美で且栽培簡易であるから.庭園樹、緑陰樹をかねて宅地利用栽培にも適する。 (ロ)欠陥とする諸特性 らの成分の中で、ポリフェノール類やビタ ルの脂肪酸組成は、オレイン酸77.3%のほ ミンEなどの抗酸化成分は、油脂の酸化抑 か、多価不飽和脂肪酸のリノール酸7.0%、 制に働くので、オイル自身の保存性も優れ リノレン酸0.6%、飽和脂肪酸のパルミチ ています。またこれらの抗酸化成分は、食 ン酸10.4%となっています。 他の油脂のオレィン酸比率は、ナタネ油 事として取り込んだ後の体内でも作用を発 i灘難破適翼辱 (以下略)』10),篤 汐- 揮し、機能性成分として大事なものとなり 62、7%、ゴマ油39.8%、コーン油29.8%、 ます。 大豆油23.5%などです。また近年、高オレ 2番目の特徴は、オリーブオイルの脂肪 イン酸組成を目的とした遺伝子組み換えに 酸組成にあり、・価不飽和脂肪酸であるオ よる脂肪酸組成の改変が、ベニバナとヒマ レイン酸の割合が高いことです、その比率 ワリで行われてきました.ベニバナ油では 13.5%から77.1%、ヒマワリでは28,4%か 健康志向とオリーブ に、味や品質に違いが生じるということで は77.3%と油脂の中で最も高いもので、オ わが国のオリーブオイルは、この20年 す。ワインもテロワールと呼ばれる土地柄 レイン酸(01eicacid)という脂肪酸の名も ら60.5%及び83.4%へとオレイン酸組成 間で急速に需要が伸びた特別な食品です。 や品種、気候、製造法によって、個性や品 オリーブから単離されたことにちなんで、 を上げています。これらはオレイン酸比率 1993年に8トンであった輸入量は、数年 質も大きく違ってきますが、オリーブオイ その学名の01θθθ〃畑pヨθ8L.から命名さ としてはオリーブオイルとほぼ同様のレベ 後の1998年には18.000トンを記録し、そ ルも果実から搾り取られただけのエキスト れています。 ルですが、種子オイルですから製造工程で 土 の後は増減があるものの、2009年に ラバージンオイルでは、ワインと同じよう 21,000トンと、2万トンを超えるようにな に、その土地の、その品種の、その年の、 め、多価不飽和脂肪酸のリノール酸に比べ オリーブオイルが持ち合わせているような りました。背景には、にわかに到来した健 オンリーワンオイルということになります。 て酸化されにくく、過酸化脂質による辺ス 風味成分や抗酸化成分は含まれてはいません。 康ブームやエスニック、イタリアン、韓流 オリーブは、果肉の細胞内にたまった油 クを軽減するといわれます。オリーブオイ など、さまざまな食スタイルヘの強い関心 は果汁として搾り出されます果汁から水 があります。飽食といわれる中にも、パス 溶性部分を分離しますが、その油性部分は オレイン酸は一価不飽和脂肪酸であるた 抽出・精製されます。果実オイルとして、 「 螺 タやピザなどのイタリア食は若い世代を中 油だけでなく果汁成分のうちの油に溶解す 心に定着し、食への関心がオリーブオイル る成分も含まれますので、これらの成分が の需要につながっていることは確かなよう オイルの風味となって個性をもたらします。 です。 油に溶ける脂溶性成分にはビタミンA、D、 小豆島のオリーブ を通じ急速に広がって、昭和39年には栽 E、K、果肉色素のクロロフィルやB一カロ 小豆島は2008年にオリーブ栽培100年 培面積が最大の130ヘクタールとなります, 医オリーブと地域振興 近年は食品産業が次々と食スタイノレを提 チンのほか、オリーブの苦み物質で、抗酸 案し、それらは消費者のニーズや嗜好に支 化成分でもあるオリュロペインなど、それ 福羽逸人も『将来我が水産物製造上に於 自由化による輸入オイルとの競争やミカ 持されて、時代の食文化となります。しか ら微量成分の種類は300種類もあるといわ て、殊に使途多きを知る。、..』マ〕としてい ン・ブームに伴う転作などによって、昭和 しかしその後の高度経済成長の時代には、 を記念しました。 し一方では、生活習慣病や心血管疾患のリ れています。ゴマ種子では、5割がオイル るように、わが国沿岸で捕れるイワシなど 55年ごろは、往時の4分の1ほどの36ヘ スクに対するメタボリックシンドローム診 成分ですが、あとはセサミンほか400種類 の魚類のオイル漬け加工にオリーブオイル クタールヘと減少しています。 断の導入から、摂取カロリーや油脂の種類 もの成分を含んでいるとされます。しかし、 が必要とされ、明治41年に農商務省が米 への関心が高まりました。 一般に種子由来の油脂は、抽出・精製とい 国から苗木を取り寄せ、栽培を始めたのです。 オリーブオイルは、他の食用油とは異な う工程を経るために、天然の抗酸化成分や る特徴を幾つか持っています。果実由来で 微量成分は失われます. あることは、ほとんどの食用油が種子由来 オリーブオイルの中でもエキストラバー である中で、際立った特徴といってよいで ジンオイルと呼ばれるオイルは、いわば一 近年になって、国民の健康志向や環境へ の関心などから植栽が進み、現在は最盛期 神戸オリーブ園でも既に、千葉県からオ の半分近い70ヘクタールまでに回復した イル漬け用オリーブオイル生産のために、 とみられます。 わが国でオリーブの試験研究を担ってい 苗木を頒布してほしいとの依頼が来ていま るのは香川県農業試験場の小豆オリーブ研 した。 しょう。つまり果実であることから、リン 番搾りという意味合いで、果実の多様な成 小豆島での栽培は、大正から昭和初期に ゴ、桃やミカンと同じく、品種によって、 分を豊富に含んだオイルとして、個性的な かけての30年間はなかなか普及しなかっ やや様子が異なっており、樹幹害虫である 産地によって、年次によって、というよう 風味を与える調味料となります。またこれ たとのことですが、昭和15年以降、戦後 オリーブアナアキゾウムシの甚大な被害や、 究所です。オリーブ栽培は他の果樹類とは 、■■占 一h・ コT 加工技術への対応など、日本特有の課題も 州地域の果樹では、傾斜地に立地するミカ た樹種を選びながら、瀬戸内沿岸地域の環 どうするか。 抱えています。研究所では、品種選抜、繁 ン産地も多くの課題を抱えています。そこ 境保全活動を行っています。2010年には植 葡萄園池があるじゃないかというだけでは、葡萄園 殖,栽培管理、収穫法さらに加工試験まで に、リタイア世代の貢献と地域振興策を両 樹総数は12万本に達するなど、沿岸府県 池と播州葡萄園とは、どうも結びつきが弱いですね。 オリーブの全てといった試験研究を展開し 輪にした活動を展開し、最近の農業の六次 の市民団体が取り組む自然保護活動や環境 やっぱり、この播州葡萄園で、日本で最初に日本 ていますしかし、わが国でのオリーブ生 産業化事業などともタイアップするユニー 教育への植樹支援を続けています。 産は海外産オイルと競争ができる状況には クな構想です。当初はイタリア産の輸入苗 ありませんそのため,小豆島では品質の 木でスタートし、油用種のフラントイオ、 としても今日、君はオリーブの木を植える」 ブラック・ジンファンデルだということが、歴史 優れたオリーブ果実を生産し、欧米のよう マウリーノ、ベンドリーノ、レシコ・デル・ との声を添えていました。これは作家の故 的な事実として、はっきり記録にあるわけです。 に向くヨーロッパの葡萄を選抜したという事実。 瀬戸内寂聴さんは、「明目、世界が滅びる そしてそれは、ボルドー・ノワールという品種と な発酵タイプでなく、塩蔵を主体に、みそ、 コルノ、食用種のサンタ・カテリーナ、兼用 開高健さんが絶望してはいけない、という これは、実は世界的にも良い品種なんです。世界 麹漬けなどによって、消費者の味覚にマノ 種のタッジャスカ、リッチーノ、コラティー 意味を込めて、好んで色紙に書いた言葉だ の銘酒になる品種なのです。これを、やはりこの そうですが、その言葉の「リンゴ」の木を 土地で、小さな畑でいいから、播州葡萄園以来の チした加工品の開発にもカを入れています ナの8種を導入したとされます。現在、栽 既に100年を経過したオリーブ栽培は、こ 培の適性などが試験されているようですが、 シンボルの「オリーブ」に変え、応援の言 流れをくんで、ここにこういう葡萄があるんだと のような指導機関、地元生産者、関連企業 北九州を中心に、九州全域で2万本を栽植 葉にしたといいます。中坊さんは、豊島の いうのをお持ちになることは、一つ必要ではない の地道な努力によって続いているのです。 し、生産果の協会買い取りを基本として、 人たちの思いは「島を少しでもきれいにし かなあと思います。これは、私の個人的な願いで 既に搾油器も使われています、これらの苗 て子孫に渡すこと」にあるといっています。 はありまずけれど。 九州オリーブアイランド構想 木が結果期に入ると、わが国でのオリーブの 過疎化や高齢化が進行している瀬戸内沿岸 で、どういう事かと言うと、小さな畑であっても、 今、九州のシニアが中心になって活動す 需給は,どのようになるのでしょうか. 地域で、息の長い環境保全活動として期待 ワインにしたらすばらしいものになるという葡萄 る新現役の会が、オリーブ栽培に熱心に取 オリーブは、これまで、わが国では生産 り組んでいます。2009年からは、九州を東 過剰の問題を持たないだろうとされてきま されます。 を、きちんと育てることが、これからも取り組ん でやれれば、その葡萄をワインにするということ 洋一のオリーブアイランドにと呼び推1け、 した,国際間ではコストなどで、すぐには 播州葡萄園の取り組み は、至って簡単なのです。何もそこに、大きな醸 九州オリーブ普及協会を設立しています。 競争的な状況にはならないでしょうしか 播州葡萄園は、「神戸阿利複園.と同時期 造場をつくる必要はないです。今の時代であれば、 協会のHPによると、イタリア・トスカー その葡萄をどこかのワイン会社へ持って行って、 し、国内の産地間での競合の時代は案外早・ に稲美町につくられた国営のワイナリーで ナのオリーブ農園とタイアップし、その食 く来るかもしれませんもちろん従来の農 す。平成8年(1996)の夏、印南地区の圃場 「いいワインをつくってください」と。そのワイ と文化を受け継ぎ、オリーブ栽培の育成事 業生産ベースとは異なった次フ[で事業を繰 整備の中で、当時の醸造場遺構が見つかり、 ンをこちらへ引き取って、これが、その明治の播州 業と栽培企画のコンサルティング事業によ り広げているので、別のユニークな展開も 翌年にはワインボトルなどが発掘されて、 葡萄園以来の由緒あるワインだよというものが、毎 って、地域の仕事の創出と地域貢献型産業 期待できますむしろ、そのような可能性 100年ワインとして新聞紙上などで紹介さ 年出てくれば、これは歴史が生きていると思います。 の振興を目的に,以下のような幅広い活動 を見いだすことが、この事業に求められて れました。稲美町教育委員会は西近畿文 だけれども、今、ご質問をいただいて、ふと思い 内容を掲げています. いる、との見方をするべきなのでしょう。 化財調査研究所の協力を得て播州葡萄園 ついたことですから、もっといい手立てがあるか 遊休地の活用・高齢者のための働き場所の提供・ の遺構の発掘調査を進め、平成12年には もしれません。ただ、一生懸命に郷土資料館、そ 瀬戸内オリーブ基金 その全容と歴史的背景を明らかにしてい の他で過去のものを展示されても、過去のもので ます。 長期的視野での地域再生事業・九州のオリーフ生 2000年、弁護t"の中坊公平氏と建築家の 産者のネシトワークづくワ・オリーブ栽培の技術 安藤忠雄氏が呼び掛け人となった「瀬戸内 平成9年にワイン研究家の故麻井宇介氏 者'養成と指導・オリーブ製品の評価(テイステイ しかない。過去のものに誇りをもちつづけること は、非常にむずかしいと思います。今、何か誇り オリーブ基金.をご存じの方は多いと思い は、この稲美町、播州葡萄園の醸造場跡の が持てるようなものが、歴史を生かして行くので ンク'等によるレビューと評価)・オリーブ苗樹の国 ます。産廃の不法投棄が問題となった豊島 発掘調査特別展で記念講演をされ、その折 はないかと思います。』9) 内外の情報の提供・オリーフ'の商品化や販路拡大 事件をきっかけに、その環境修復のために、 の講演集『幻の葡萄園一その光と影』(稲美 等のアドバイス〔小規模オリーフ'生産者のバック 募金によってオリーブなど樹木を植樹する 町文化財ライブラリーがあります.この講 アップ事業として)・オリーブオイル採油施設の開 活動を展開しています,ユニクロはじめ企 演の後で、今後の播州葡萄園跡地に対する 設・国等の助成事業活用のためのアドバイスとコ 業のCSR(社会的責任)に基づく参画も得 麻井先生の考えはとの問い掛けに、次のよ ンサルティング(h枕P:〃kyushu-01ive.oじ.11)/〉 て、豊島でのオリーブの植樹をはじめ、100 うに話しています。 農業の高齢化で耕作放棄地が増加し,九 万本の植樹目標の下に、地域の環境に適し 『...そうすると、播州葡萄園を今に残すのには、 ・.。、躍》 ヘ…..、 ',〆、、 ゴ磨∫嵐 ー ン一 .卜 神戸オリーブ・貞ット1フ・・一ク 知られてこなかった前田正名を、ぜひ知っ て雅致あり。葉の表面は深緑、裏面は白色にして、 とを話し、実りを楽しみながらネットワー 前田正名は、神戸オリーブ園を引き受け てほしいと述べています。 遠く之を望むときは緑白相混じ、甚だ美観、庭園 クを作りませんか。 たものの、地域産業の近代化に奔走する 『とくに、農商務省の高官として、すでに、百'年 樹として大に愛玩すべき価値あり。而して貴重の 以上前から工業一辺倒の経済に警鐘を鳴らしつづ 果実を産す、実に希有の霊樹と云ふべし。本邦温 おしゃれになります。オリーブに実がつい わが国に広がることを期待して始まった神 け、政界から追放されたあともボロを着て全国行 暖の地方にして、海岸に於ける植樹用として類な たら、「神戸阿利複園」のように、オリーブ 戸オリーブ園ですが、道半ばでの閉園でした. 脚を続けた前田正名の先見性は、今こそもっと見 き果樹とす。又、其材質殊に愛す可き点あり。量 の漬物ができますし、たくさん実ったらオ 直されて然るべきと考えます。』 又有望の樹木ならずや。.,.』7) イルも搾れます。オリーブの健康力を活か 日々のうちにオリーブ園は閉園になります。 祖田修氏によりますと、前田はその後、 オリーブの銀葉で、神戸のまちは一段と 自身の事業として、農村モデルを作るため 『現代でも、地域産業を確立させ、地方が元気に に宮崎県で新田開発を行っています。火山 ならなければ、日本全体の復興は絵に描いた餅に 灰地帯の用水事業は困難を極めたといわれ、 帰すしかありません。頭ではそうわかるのですが、 る植物です。日約聖書の『神がおこした大 その債務のため、製紙事業や果樹園経営に さて現実となると、手をこまねいている人が多い 洪水のあと、陸地を探すためにノアの放っ 準備した土地を売却しています。神戸オリー のです。幕末に比べれば、経済の基盤のうえでは、 たハトがオリーブの枝をくわえて帰ってき ブ園を惜しんで,なかなか手放すことはな 今のほうがはるか,こすぐれているに決まっていま た。これを見たノアは、洪水が引き始めた かったのですが、新田開発の負債整理のため、 す。現在は理論的にも、取りまく環境も、現実の ことを知った。』という一節から、「ハト」 明治42年に、やむなく売却したのでした。 分折も.当時・よりは恵まれた状態にあります。 とともに「オリーブ」は平和を象徴する植 化を担った前田正名と福羽逸人。その歴史 前田は自身の事業に「一歩園」という名 して、どんな味付けでも、どんな料理でも、 きっと神戸は、持ち前のブランドカで美味 オリーブはしなやかな樹姿で生命感のあ しい味を見つけていくことでしょう。 オリーブは、私たちの祖先と共にあり、 生命を支えてきた植物の一つです。 明治維新から現代へ続く目本農業の近代 今こそ.日本全体を地域と見て、地域循環型の農 物となっています。今、「オリーブ」は世界 的遺産ともいえる神戸のオリーブに新たな を付けていました製紙事業のため払い下 業と経済とを打ちたてることにより,全体として 共通の平和のシンボルとされ、国連旗のデ 命を吹き込み、再び発展のシンボルに1 げを受けた北海道の阿寒湖の山林は、一族 ・)日本丸が世界に伍していけるような日本の国づ ザインも、世界地図を平和の象徴であるオ が阿寒の自然保護のために寄付したことで、 くりというのを考えなければならないでしょう。 リーブの枝で囲んでいます。 阿寒国立公園ができたといわれます。また その意味で,前田正名σ)一身を賭した提言は、彼 前田・歩園財団1を設立し、毎年、山林 の時代にはまともに受け入れられなかったにして の保護と自然環境保全活動への助成を行っ も、むしろ現代の白木に強く訴えるものがある「百 ています。財団の沿革には、「一歩園」は正 年の計」だったのではないでしょうか。』61 に由来すると記されています。 前田正名は、明治の初め、日本の発展に 今の農業は、高齢化が進み、耕作放棄地 が徐々に増えて、農業政策だけでは立ち行 もあります。 薄 かぬところに差し掛かっています。町に住 とって農業や地方産業の近代化が重要であ む人たちが食べ物のことや山や森、川と海 るとの考えを持ち,そこに生涯を投じたユ の自然の環境のことを考えていくことも大 ニークな存在でした。三田育種揚の開場式 切だと分かってきました。社会が持統して のあいさつで、農業の同能性と、それ故の ゆくためには、循環の仕組みを働かせる必 チャレンジを勧め、知恵を絞ってやってみ 要があると分かってきたからです、 ようと、その道筋を説いています。確かに、 の歴史を伝え、そう語り掛けているようで 私たちも、戸口で、テラスで、庭で、畑 でオリーブを育て、土のこと、手入れのこ 〃 名の座右の銘「物ごと万事に一・歩が大切」 湊川神社のオリーブ樹は130年の時を経 て、今なお強い生命力で「神戸阿利機園」 …女 消費というものが、・食べて使って、捨て やってみないと分からないものもたくさん るという仕組みでは、廃棄部分の負荷が限 あります。チャレンジは解決ではなくて、 りなく大きくなります。何を食べるのか、 次の課題を知ることでもあるようです 何を使うのか、その後はまた何に生まれ変 雛 わって活かすことができるのか、という循 鹿児島大学の原口泉氏は、著書『世界危 機をチャンスに変えた幕末維新の知恵.' (PHP新書2008年)で、薩藩諸群像の 現代的意義を問いつつ、人々の中であまり 望喩 環にはまだまだ挑戦の余地があります。 「神戸阿利襯園」を指導した福羽逸人, 磁,、, 曰く 『..オリーフ'樹の巨木と成りしものは,真姿極め 孟 『い おわりに 引用文献・参考資料一覧 本書では、『農務顛末』と『明治前期勧農事蹟輯録』について「神戸阿利機園」の項目の 多くを抜粋して掲載しました。 また、2006年、新宿御苑開園100年記念行事が営まれ、記念事業として『福羽逸人回 顧録』が出版されましたが、回顧録は長年福羽家が保存し、初めての公開となったもので 1)神戸阿利褄園に関する公文書類 農務顛末全六巻(1957〉農林省 明治前期勧農事蹟輯録上下(1937)農林省農務局 公文禄農商務省太政官121巻(/8S3)国立公文書館所蔵 す。神戸オリーブ園の経緯、オリーブの資源的評価、閉園後のオリーブ園の様子などを示 す貴重な資料です。そのため、本書では『福羽逸人回顧録』本文から、多くを引用させて 2)明治期の兵庫県勧農関係文献・書籍類 兵庫県勧業報告第一号(1879) いただきました。 兵庫県勧業報告第五十二号(1883) 前田正名と神戸オリーブ園との関わりについて公文書類が示したのは、園の払い下げに 関する1件のみでした。「前田正名」の研究家である祖田修氏の著作に、日本歴史学会編 集の人物叢書『前田正名』がありますが、ここには、前田の生涯と足跡が鮮明に描かれ、 当時の社会的・政治的課題を背景に、その思想と実践が分析されています。前田正名にと って神戸オリーブ園がどのようなものであったのか、『前田正名』本文から多くを引用させ 兵庫県第一回勧業諮問会日誌Q8S6〉 兵庫県立農業試験場6D年史(1953)pp,1・5兵庫県立農業試験場 兵庫県立農業試験場史(1953)pp.14兵庫県立農業試験場 大阪府農業史(19S4)pp.659・660大阪府農業会議 新修神戸市虫産業経済編1(1990)神戸布 津下岡II〔1943)近代日本農史研究pp.293・319 日本農業発達史〔1954〉第三巻p!).491・497農業発達史調査会 農林水産省百年史(1979)農林水産省百年史編纂委員会 ていただきました。 実際これら、『福羽逸人回顧録』と『前田正名』なくしては、神戸オリーブ園のリアルな 姿を知り、背後に動いた時代を理解することは困難だったでしょう。さらに両書の力強い メッセージは、明治のr神戸阿利複園」に立ち戻り、オリーブと地域振興を考える糸口と なりました。この点を含め両書の著者、関係各位に深く感謝する次第です。 また本書の著者の一人、森由香は2002年、神戸大学大学院自然科学研究科でr神戸阿 3)神戸の地図 「明治19年神戸兵庫名勝絵図」日本近代都市変遷地図集成(1987)地図資料編纂会、柏書房、東京 ブルーマップ神戸市中央区住居表示地番対象住宅地図(2001)民事法情報センター 『神戸の町名改訂版』神戸史学会編纂(2007)神戸新聞総合出版センター 4)明治期の果樹・オリーブの導入に関する関連資料 r田育種場(1S87)舶来果樹要覧1)p.130・140大日本喪会 片笥'俊〔1892)阿利捜栽培に就いて大日本農会報第249号18・23 利複園」を修士論文の中心課題として取り組みました。当時、ご指導、ご示唆を賜った香 中村彦〔1904)阿利艘樹の栽培を勧む大日本農会報第283号7・14 川県農業試験場、神戸市立博物館、湊川神社、宝蔵寺、多木化学、神戸地方法務局をはじ 中村彦〔1904)再び阿利褄樹の栽培を勧む大日本襲会報第284方7・S めとする関係各位に、お礼と感謝を申し上げます。 5)神戸阿利機園資料 落合重信(196S)県庁附近にあるというオリーブの樹神戸史学会誌32号pp.48・49 落合重信(196S)神戸オリーフ'園の名残の木神戸史学会誌32号pp.27・33 落合重信(1969)神戸オリーブ園神戸史学会誌34号pp.31-33 神戸学検定公式テキスト神戸学(2008)神木哲男監修神戸学検定公式テキスト編集委員会編 事 神戸新聞総合出版センター 6)前田正名資料 態 祖田修(1973)前田正名1)1),32S吉川弘文館東京 多木久米次郎(工958h)p.37・38.p1).559・560多木久米次郎伝記編纂会 前田正名〔1976)興業愚見・所見明治大正農政経済名著集1農山村漁村文1ヒ協会]、.]±'l/I 撫 原口泉(2009)世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵PHP新番6制 佐々木克(2004)大久保利通薄談仕学術文庫 望月護源流一福沢・大隈は1官.に挑んだ〔2003)まどか出版 7)福羽逸人資料 福羽逸人(1904.1905)果樹栽培全書第一∼四巻博文館,東京 福羽逸人回顧録(200S)新宿御苑開園100周年記念事業 三宅忠一(1968)岡山の果物岡lll文庫20目木文教出版 8)湊川神社・宝蔵寺オリーブ樹資料 湊川神社・オリーブ樹(模型1明石文史郎) 浜田秀雄(1976)湊川神社の森pp18-20社務日誌湊川神社 謝神戸の名木〔⊥97の神戸市公園糠1ヒ協会p135 葺高新聞(1962)神戸市立葺合高等学校新聞委員会 神戸100年写真集(1989)神戸市 崎山昌廣(2006)神戸学神戸新開出版センター 一細 h加 9)播州葡萄園資料 播」・1・1葡萄園園舎遺跡発掘調査報告書(1998)稲美町教育委員会西近畿文化財調査研究所 麻井字介幻の葡萄園一その光と影一(2000)播州葡萄園醸造場遺跡発掘調査 特別展記念講演会記録稲美町文化財ライブラリー稲美町教育委員会 播州葡萄園百二十年(2000)稲美町立郷土資料館稲美町教育委員会 母里村難恢復史略〔1914)北條直正 近代の歴史遺産.をたずねて(2006)神戸新聞社総合出版センター播州葡萄園跡 【著者紹介】 10)小豆島オリーブ栽培資料 野呂葵己次郎(1949)園芸大辞典オリーブ誠文堂新光仕 中西テツ(略 歴) 野呂葵己次郎〔1961)日本のオリーブの過去と将来上巻(未発表)、 オリーブの作り方(]950) !972年・3月 東北大学大学院農学研究科博士課程修f(農学博士〉 i973年媚 神戸大学農学部助手(果樹園芸学研究室) オリーブの作り方(普及版)(1950)香川県農事試験場 19S5年・1月 同助教侵 !1西良雄・壷井洋一(19S3)オリーブの導入に関する文献的研究(S56,57〉地域特産果樹に関す る試験成績'書香川県農業試験場小豆分場 フII西良雄〔19S2)宝蔵寺のオリーブ調査報告書香川県農業試験場小豆分場 川西良雄(1983)兵庫県に導入されたオリーブ樹の現地調査報告香川県農業試験場・ 2008年3月 神戸大学退官 同教授を経て 神戸大学名誉教授 200S年4月 (所属学会・ 専門分野) 小豆分場 小豆島(199S)徳島文理大学文学部コミ二二ケーション学科 高木正人(20001特産果樹情報提供事業報告オリーフ'財団法人中央果実生産出荷安定基金協会 指定試験事業50年・史(197S)農林水産技術会議事務局 第65尠く.76次農本1こ7k産省、統言1'表(1989.2000)農・林刻く産省 柴田英明小豆島におけるオリーブ栽培と試験研究〔2009)特産種苗5号 所属学会…日本育種学会, 専門分野…果樹園芸学、 園芸学会.国際園芸学会、日本花粉学会(評議員15年) 果樹の受粉・結実生理、自家不和合性の研究 果樹のバイオテクノロジー (受賞) 日本育種学会賞(1983(S58).4)、日本生化学会JP論文賞(1997(H9).9〉 11)オリーブ書籍 、Vo1・ldOh、・eE]lcyclopaedia(lg96)hltel・natlonaloliveo]lcouncil ベルナール・ジャコトオリーブの本一地中海からの美と健康の贈り物(1994)河出書房新社、東京 たかぎまさと12008)そだててあそぼう79オリーブの絵本農山漁村文fヒ協会 岡井路子(2006)育てる・食べる・楽しむまるごとわかるオリーブの本主婦の女性 岡井路子〔2011)NHK趣味の園芸オリーブよくわかる栽培12か月NHK出版 森由香(略 歴) 2001年3月 神戸大学農学部卒業 2003年3月 神戸大学大学院自然科学研究科 2003勾三4月 外資系ロ会社勤務(現在に至る) 2012年7月 オリーブオイルソムリエ資格取得 植物資源学専攻修士課程修丁(農学修士) 12)オリーブ関連資料 南方熊楠〔1907)オリーブの漢名東洋学藝雑誌315南方熊楠全集第7巻1)1).76・79、乾元社 西端清順(20n)プランとハンター徳問書店' (日本オリーブオイルソムリエ協会) 人後美保(だいごよしゃす)(1945)目木作物気象の研究朝倉書店 岡田章雄(1970)バテレンの道淡交仕 Gucci&Canしini(2000)PrLulingandTraillingSys[ems「ol・Mo〔1e1・【101]veGrowin琴CSIRO PUBLISHING,Ausじralia 大場秀章〔1997)江戸の植物学東京大学出版会 河合勝幸のおいしくてきれいになる地中海スローフードレシピ(2006)日経ヘルス 河合勝幸(2003)美食をあきらめないで。一一糖尿病新レシピー集英社be文庫 山口浩(2007)フフンス料理軽さのテクニック柴田書店 浅田今日子〔2005)オリーブオイルのおいしい生活ウンブリア田舎便り文春文庫PLUS 奥田佳奈子〔2001)オリーブオイルのすべてがわかる本筑摩書房 有元葉子のオリーフ'オイルと玄米のおいしい暮らし〔2006)大和書房 磯貝由恵(20⊥0)オリーブオイルでフランス菓子文化出版局 再見行夫(1998)イタリアワインの職人たちJTB 松生恒夫(2009)新オリーブオイル健康法講談社+巨新書 柄長葉之輔(2006)子どもを守るオリーブオイルの伝道師ようこそイーカ'一さんたる.!II・lf ・・更追II'卑 ・』美『f引1.一二こ 慎i!1正面立lj】1`IIl耳'・」∫ニτケ∫レ 1t巨多†一Lil・1三[1 掛`年・解r 1:.IL:璃二L二月11乗 肖:1刷 「神戸阿利摘溺」 ・∼・1・1‡最功:・.:II∋、1寓∫1"1'ゾ1素.一一 中森 春 著 西='.' 山'吾 一口 fI F 払. 、㌧・、画嘉一一・申幽・.∼、㌻ドし一 藤.轟鵡韓彰畢』鍵鮨遍成'た智、明一オ・一前人'瀞 臨書・5.、嘉ビ⊥、・⊥:ζ二・-1'慧勿・が1斤溶玉、リ=奄々ぎコ 竃1峯・蚕糞叢暴瓢耀鴬1、、』擁i 靉靆籔難羅罐 懸繋羅霧議.聯繋膿蟄 .贋 1市別κf町本町》 蔓響 ='脂.=■ ■■■」■■【■ 口 =i=f・,.イ' '■■II'、■"」 ■一'[ ララド ラ ・i『1:ll:i・.'・ 叱,「・ '!橿ナ∫' II・1…{ ■、'、一一 」 』!チ' 1一}ン'=“, =''''"一二・甲 卜.・・1.±・・一・・一一一一一 訓i自'÷∋一一一り= ■■■F..・■■ 1負'・..叱1, ■ド.ご を食したこともなく、樹を 静かに見守っている,「日 本最占なんて、おこがまし 、■、て…」と、オリーブ栽培 目 廿糸 写真部冨居雅人 「文献も残っており、日 出す、貴重な"証言者"で 本一古く、太い木...オリー あり続ける、、 のオリーブを調べにやって 大切に守られていってほし 西良雄さん(、ハ乙が、加占川 何千年と育つので、地域で 験場の主席研究員だった川 ブは生命力が強く、何百、 薦潤権鰐議 で有名な香川県の小豆島に などから、明治期の樹木は 栽培や農業史にとどまら ず、文明開化の時代を映し 瓶っていないという。 ぽがちのようだロ 来た。全国で追跡調査をし、 い」と、川西さんは言う.,. あれから百余年聞、毎秋、 現存する最古の木の一つと 分かった。小豆島での栽培 欠かぜ、」ずに実を結び続けて 開始は,九〇八年で、虫害 きた二本の古木。オリーブ 日本最古-一-近代史映して '“'="」_』 .ず 穐 1_ 「→ 宝麟煽リーブ'餌食・孝姥密 iτ /鋳幌劾殴遮励.、.熊葛 奢・1畔寒文言筋賜小鯛暢 1し膨獅晦用御 "1西良雄 主廷尉身、填,・1釘裂滋L 一1 着II際安芸堀澱1亙か場 1・差伽趣 即断こ・豊螢一∫1謝5. 輿丁二脚か【肺別府凹・望蔵寿丙の迦・フ'薙ヰiと≧ス_益益Z堅し LI鍵塑魎笙魏つ、・エ」婁∫蟹盆1∫一丁贈賭' 才1"フ'訊験地の穿!91・嘘イま(斜里湛)・`・あ一弘三后亘弘氏ウ・ら 葺翫〆7弄6月》日`:看rt・fこ私権ヒど毛1こ一神戸新聞(娼≠σ%与4月 、創)磁戦記ギひヰ忙ρ・博物総構>刑一か札の切r纐りぐ入=1し て手⊃一f二.二葉rrそ', 軽重控身=望継し一__ 一週止連記とユ1廼麺豊隆蟄二つ・・て畜夙奄砺r辺一` この驚事ドμ三綱沿ノ!・㌔ノ∼芽に輿扉県伽藍落P稲美昨分里1'冷用'プ ・壁.祖用言纏を遜巫てる目璽二更f週難曲L蛾・・1稗拡, ド姻9欄。淑神方刑・プ1郵と夙1'くて・∫グの教彦四竹プっ廻二. 境匹巳離檀ド姻袖・τ∫樹磁ヒィ狐な《癬_ そ湾.夜回囲IJ,咽釦てれブ:rこめ孜・〃本のオll・ヅゲ別府麟1=移5 i望_鉦』∼ニ1 れ骸鵬の■碗遍義教っ吻・願南町本町勘幽で'冷媒'碍 脅1一て・力一二腫掲載ぼ・喰. 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L t 7 :z/N ?)( . i >1; if ' 1)l J 7 I l/rt '; htl . fl lle;"Ill t _ f t tfl 'l 1 r/ I rL 4'/' z 4Lc " :- 'l di ・ t :f4 ; l L" ; i L ? J L '-'1'rt.jlf iv tL , !; ft'j ]f+E 1L l-rl t l l'c r= h I l, t=. t':41 dtl' l' l ,. i;) 'i v ;; /!: S L 7^/ l JiLIi"fii'?t{; j (4'<' LfL4 .r-,l_1.IL:'gEr/ ,;] lrbt__._.r=tl: e' ' '/ "_'_.?'lJ'L ; tlf=e' tli"I l 4 LIL "r:. l l 1 17"4 t_ "r+ l/ A. i . ,1-7" _; . i '1 r/1lfh ._/ 'i . t Ll i ;f "hT=if) F _ + hi r_ ' - 1 "t- . =t T '*g' 1' #" 1 f' .f "' tt'_.,L .'7 ?[i"} lt ?l i .Is;) &. _(? ', 7"4 la ; ! r l -h t t rLe' ',JL "'/i I lll'i"! ;fi *c^f* l rL1'z'[J , ,i r ff' 'i- 7" r t fl' ( / ¥.. .. ' l t L,¥ c /=(T'I 4LTLf'l-7 ;{ i s' i JL ]) L i _. __ ! _if 'IJ' 0' _/'f ',r' 1 ;-'f ' l '],l ! o . 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L ' r=. , =,e ・e',)0=[ ]+ 1 lj j- it. tL ii l r5.オリーブに関する記事」を見ると、震災一年目の1996年の三月に、神戸日伊協会理事の新谷さんが、神戸市役所を訪れ、イタリアのオリーブの町協会 がこうべの復興を願い市長にオリーブの苗木を贈る計画を説明したという新聞のニュースがありました.オリーブの町協会は、イタリアの五十都市で・オリー ブ畑のある景観の保護や同国の文化を紹介する活動を行っており、rノアの洪水の際に、ハトがオーリーブをくわえて復興の始まりを告げた」という聖書の故事 にちなみ神戸への寄贈を計画したという経緯が話されていました。 神戸日伊協会の会報19号〔1996年4月)に当時の事務局長の古」II潤さんが、オリーブの町協会来神によせて、という次のような記事もありました。 『明治時代、神戸にわが国最初のオリーブ園があったのをご存知で すか」。 イタリア・オリーブの町協会から、阪神・淡路大震災の被災地にオリー ブの苗が贈られるが、その交流に奔走されている本協会理事で彫刻 家の新谷誘紀・神戸女子大教授が、いわれた姫路出身で近齢政局長をしておられる大島子さん に問い合せると、早速、r果樹園……大辞典」のコピーを送ってくださった。r英名011)e,学名O'θae酵oρeθL-1中略〕18ア9年、松方正義らの尽力で、フランス の苗木2000本が勧農局の三田育種場に輸入され、うち600本が神戸市元町の同農場附属温帯植物試験場に植え付1ナられた。同時に、この試験場は、農商 務省直轄の神戸「オリーブ園」と改称された。5年後にオリーフが実り.わが国で初めてオリーブ油とピクルスが製造された。その「オリーブ園」が設1ナられて いたの1よ、諏訪山のふもとあたりとか。イタリアからの代表団の来神は7月10日。オリーブ論議の花が咲きそうだ。」 7月10日には、r復興への願いオリーブに託す・イタリアの協会長ら来進苗木6本、東遊園地に植樹」という見出しで、次の記事が載りました。 『震災復興の願いを込め、イタリア・オリーブの町協会のカルロ・アントニー二会長〔トレビ市長)らが十日、神戸市を訪れ、同国で平和のシンボルとされるオ リーブの苗木六本を神戸・三宮の束遊園地に植え込んだ。オリーブの町協会は、イタリア国内の約七十都市が参加しており、三年前に結成された。オリーブ 畑のある景観の保護や同国の文化を紹介する活動をしている。昨年十一月には、原爆投下五十年を迎えた広島に苗木をプレゼントした。今回は、聖書にあ るノァの淋のr、、トがオリーブをくわえて方舟〔はこる=ね)r二戻り、ノァ1こ世界の復興の始まりを告げた」一との欄こちなみ、アントニー二会 長らが、神戸への寄贈を思い立った。六本の苗木は背丈が約一㍍。東遊園地 南の芝生に植えられた。同会長は「オリーブは、知識、友愛、平和のシンボル。 もし可能なら、協会の七十都市から苗木を持ち寄り、神戸にオリーブ公園をつ くりたい」と話していた。』(1996年7月10日神戸新聞) もう一つは.力強い復興願い植樹という見出しの次のような記事でした。 『神戸の震災復興を願って、イタリアの観光地の自治体でつ(るrオリーブの町協会」のメンバー約十人が十日、神戸市役所を訪れ、オーリーブの苗木六本を 贈った。神戸は明治時代にr神戸オリーブ園」があった地。さっそく市役所南陽の東遊園地に植えられた苗木は.輝く太陽の光を浴びていた。オリーブ協会は、 友好のあかしに世界各地ヘオリーブの木を贈り、戦後五十年の昨年は被爆地・広臨市の平和記念公園に植えた。今回は、阪神大震災の被災地・神戸に贈 ることにした。神戸オリーブ園は明治中期、フランスからオリーブの木を輸入した明治政府が、異人館街の近くに栽培場として開園させた。ここで収穫したオ リーブの実で国内産では初めて製油や塩漬けを試みたとされる。 協会長でトレビ市長のカルロ・アントンー二さんはrオリーブの木のように、神戸が力強い復興を果たしますように」と笑頗で語り、緒方学助役はr神戸とオリー ブの縁は深く、復興のシンボルとして立派に育てます」と誓った。』(1996年7月11日朝日新聞) もう一つは、力強い復興願い植樹という見出しの次のような記事でした。 り一プの木を贈り、也・神戸に贈ることにした。神戸オリーブ園は明治中期、フラ ンスからオリーブのの実で国内産では初めて製油や塩漬けを試みたとされる。 うに」と笑顔で語り、緒方学助役は「神戸とオリーブの縁は深く、復興のシンボルとして立派に育てます」と 誓った。』(1996年7月11日朝日新聞) 経過が前後しますが、少し前に戻り、エピソードが一つ挟まれていました。この植樹の日が近づいた6月25日の新聞に、新谷さんが、イタリアオリーブの町協会のメンバー .元香川県農業試験場長笠井宣弘さんを迎えて の講演会を企画したことの報道があり、rわが国初のオリーブ園痕跡求め多彩な運動」との見出 しでした。 『「被災地の緑の復興の一助に」と、イタリアからオリーブの苗を携えて、オリーブの町協会の代表団が7月 来神する。これに先立ち、元香川県農業試験場長笠井宣弘さんの調べで、明治時代、神戸にわが国初の 「オリーブ園」が設けられていたことが分かり、代表団の受け入れ準備を進めている神戸日伊協会理事で彫 刻家の新谷]秀紀・神戸女子大教授らが、その痕跡を探している。笠井さんの研究によると、神戸にオリーブ 園が設けられたのは一八七九(明治十二)年。松方正義らがフランスからオリーブの苗木二千本を輸入、う ち六百本を神戸にあった勧農局育種場付属温帯植物実験場に植え、同時に名称を農商務省直轄の「神戸 オリーブ園」にしたという。また、そのオリーブは、五年後の一八八四年に結実。オリーブオイルが搾られ、ピ クルスも作られた、という。 新谷教授らは、そのオリーブ園生まれのオリーブの木が神戸に残っているかもしれない、と中央区の諏訪 山周辺を中心にオリーブ探しを続ける一方、オリーブの町協会メンバーと笠井さんを講師にした講演会を計 画、一般の人にも参加を呼び掛けている。』(神戸新聞1996年6月25日) 湊川神社の栃尾さんから拝借してきた資料中のこれらの記事には、オリーブという木に、力強さ、生命力を託す人々の思いを強く感じました。新谷さんは2006年に亡くなら れておりますが、栃尾さんは、先生が湊川神社にモニュメントを作りますとおっしゃっていたことが果たせなくて、残念でもあります、と話されていました。 愛をモチーフにした彫像を手がけられた新谷さんは、ゆかりのオリーブを見出した湊川神社にどのようなモニュメントを描いておられたのでしょうか。 極めて有望なりとす。 れり。斯の如き状況なるを以て、香川県に於ける該樹の栽培事業は、将来 ゆドド る先年の大典に際し、主基地方の献物としてオリーブ塩蔵を進献ずるに到 あ 果により、製油及び塩蔵品は頓に精良なる物を産するに至り、京都に於け 製油及び塩蔵法を講演し、同時に農商務省へ報告意見書を提出せり。此結 試験場員に指導伝授せり。又地方有志者を招集して、オリーブ樹の栽培、 農務局長より懇談により、該地に出張して、製油塩蔵法を実際に就て農事 方に於げる製油塩蔵法を実修せし事あるは世人の周知する所なるを臥て、 お 先年神戸阿利機園に在て実験せしと。フランス留学中、同国南部ニース地 おコドふロラの パ 製油法文は塩蔵法の実験ある者、同省は勿論、世間絶無なるを以て、予が リのヨリうつ ヨ りオリーブ樹の栽子を輸入し、試植せるものあり年を逐ふて結果するも、 ムごしし 是は農商務省よりの嘱託にして、香川県小豆島に放て、先年アメリカよ 同年十一月十六日、香月県に於けるオリーブ栽培状況調査を嘱託せらる、 ★ ドしア 明治時代、神戸に日本初のオリーブ園「神戸呵利搬園」が 開設された.神戸は水はけがよく気候も温暖でオリーブ栽培 に適しているとされたが、20年足らずで閉園となった。この オリーブ園の調査に携わってきた神戸大学名葺教授(果樹園 芸学)の中西テツさん〔67)は「オリーフを神戸のシンボルに し、新しいまちづくりを」と植樹による緑化運動を呼び掛け ている。(仲井雅史) の湊川神社や加古川市の 神大名誉教授・中西さん呼び掛け た。フランスから約55 神戸阿利機園は■87 Q本の苗盗人し良質な 9(明治12)年、西欧の オリーフ油やピクルスを 有用な農産物を試験導入 生産したが、20年足らず する官営の育種場(東京) で閉園となった。 現在では神戸市中央区 の支園として開設され オリ↓ブ植樹■ 神戸に緑を 明治期に日本初の農園開設 一 ■饗 「まちづく りのシンボルに」 「オリーブ植樹は緑化だけでなく、果実が利用できる」と話 す中西テツさん睡神戸市灘区榛原北町4 吟 10 4版 金曜日 ヨ ラ ゆ ぼ タィの 戸 ネ申 宝蔵寺にオリーブの木が 残るが、史料は少なく、 閉園の経緯を含め不明な 点が多い。 中西さんは日本の果樹 導入の歴史を調車亙る中 で、神戸のオリーブ園に 興味をもった。指導する 大学院生と共同で史料を 掘U起こし、それまで兵 庫県庁(現・県公館)の 北側にあったとされてき たオリーブ園の所在地 が、現在の神戸市中央区 山本通の神戸北野ホテル 周辺であったことを特 定、2003年に輪文で 発表した。 調査に携わる中で「オ リーブ園の存在を多くの 人に知ってもらい、導入 した先人の思いを引き継 ぎたい」との思いを強く したといい、都市緑化に 取り組む大阪のNPO法 人と協力し、オリーフの 凸植樹を呼び掛ける。 中西さんは「栽培は容 易で、街路樹や禦観樹だ けでなく住宅のテラス や庭に植える運動を広 げていきたい。地域や家 庭で実を収穫し、油を搾 ったり食べたりするこ とで、自然の循環を感 じてほしい」と話してい る。
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