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中央大学ローンテニス同好会
創立40周年記念号
2005 年 8 月 27 日
ローンテニスクラブに栄光あれ!
初代会長
五十嵐 康男
中央大学のローンテニスクラブ時代は私の青春であった。いまでもその思いは強い。
“質実剛健”の校風は、いまはどれ位残っているか分からないところがあるが、私の育ちと考
えにぴったり合っている。第二次世界大戦(広島や長崎に原爆が落とされたあの戦争ですよ)
で東京の家を焼かれた私は、戦争が終わる1年程前に、一人新潟の親戚に預けられた。小学
校5年生の時だった。
こどもなりにいろいろ苦労があった。中学に入った時は、もう一人前の大人の意識を持っ
ていた。30 代の始めから中央大学で教えるようになったが、学生達はみんな苦労人のよう
に思えた。(もちろんお金持ちや違った行空の人たちもいたのだろうが)
私にはフィーリ
ングがぴったり合った感じだった。いまだにその思いは消えない。
箱根駅伝の成績や野球、はたまた司法試験や公務員試験、会計士試験の成績など目につく
時は気になってしょうがない。ローンテニスクラブが関東地域で優勝したと聞いた時など、
ビックリすると同時に嬉しくてしょうがなかった。専門分野の関係で別の大学に移ったのだ
が、私の心には中大に対する母校意識みたいなものがある。
私はローンテニスクラブの初代会長であるが、クラブ創立に関わった小川君、松島君、金
子君(他にもいるが)などと一緒にクラブの合宿に何度も出かけたのに、テニスの腕はあま
りあがらなかった。心がけが悪かったからだと思う。ただその後、「百万人の英語」という
放送番組の一つを受け持つようになり、テニスウエアにシューズ、そしてローンテニスクラ
ブからもらったラケットでサーブをする姿で雑誌のグラビア写真に載ったのは、
唯一自慢で
きることである。
イギリスやオーストラリアに暮らしていた時、かの有名なウインブルドンやメルボルンの
大会があった。そして両方ともアパートからそんなに遠くなかった。しかしチケットを手に
入れる面倒さから試合を見に行かず、テレビで済ませたのは、今考えると残念なことをした。
これらはすべてローンテニスクラブ時代のおかげである。
これからも中央大学は続く、そしてローンテニスクラブも続く。栄光ある将来を期待して
いる。
1
御
挨
拶
中央大学文学部教授
三・五代目会長 前野 光弘
この度中央大学ローンテニス同好会が創立 40 周年を迎えました。多数のOB・OGの皆
様、現役学生諸君とともにこの大きな慶びを分かち合いたいと思います。40 年前にこのサ
ークルを立ち上げた方々の情熱と心意気に改めて敬意を表します。
私が顧問をお引き受けしたのはすでに 20 年ほど前になります。同じ文学部にいらした故
西海太郎教授からの要請によるものでした。西海先生とは教員テニス同好会で一緒にプレー
したり、おしゃべりしていた仲でした。先生に比べれば私は決して熱心な顧問ではなかった
かも知れませんが、振り返ってみますと楽しかったことが様々に思い出されます。夏合宿だ
けは欠かさず参加して、若い人たちに混じって気持ちのいい汗を流し、夜はオサケを飲みな
がら愉快に談笑したものです。そうした中で、ユニークかつ多才な人たちとの知遇を得るこ
とも出来ました。
1992 年から2年間の間、私はさるドイツの大学から客員教授として招かれ、中大を不在
にしました。それを機に一応会長役を若い同僚の一人に託したのでしたが、諸般の事情で今
年から再び「復帰」することになりました。一昨年・昨年と続けて秋の現役・OB交流会に
参加したのが一つのきっかけになったように思われます(それ以前2〜3度夏合宿にも−犬
を同伴して−お邪魔したことはありました)。久しぶりに学生諸君から暖かく迎えられ、楽
しく打つことが出来て嬉しい思いをしました。私は、これまた 20 年近く体育連盟の漕艇部
長を務めていますが、なんであれスポーツに打ち込む学生たちと接することが非常に好きで
す。ローンの諸君もそうですが、みんなとてもよく礼儀をわきまえ、心配りが厚く、要する
に気持ちのいい学生が多いのです。私は3年後に定年退職を控えていますが、この短い期間
微力ながら会長として少しでもお役に立てればと思っています。
中大ローンの更なる充実と発展を心から念じつつ、今後とも卒業生の皆様の積極的な参画
とご協力をお願い致します。最後に、「絆」特別号の刊行はじめ今回の記念行事のためご尽
力いただいた多くの方々に厚くお礼申し上げます。
2
創立40周年
おめでとうございます。
山中湖東照館
女将 長田 慶子
中央大学ローンテニス同好会がこの度40周年を迎えられましたこと、心よりお喜び申し
上げます。
ローンの皆様とめぐり会い、月日を重ねて34年も経ちました。
「人と人との繋がり」 かねてから私が大切にしている言葉です。共通の思い出を重ねる
事、一緒に過ごす時間を重ねる事、長い年月を重ねる事、そんな中で毎年ローンのコンパに
招かれ、お酒を飲みながらたくさんのご指導をいただきました。
そんなローンとの繋がりの中で、
今年4月にリニューアルした東照館が息子夫婦を中心に
お迎えしております。富士山を眺めながら入れる露天風呂、ジャグジー風呂が完成し、お客
様にもとても喜ばれておりますので、ローンOBの皆様もぜひ足を運んでみて下さい。
これからもローンの皆様と”昔話”に花を咲かせるのを楽しみにしてお待ちしております。
2005 年 8 月
慶子さんと照樹さんご一家
3
中大ローンとともに
〜 創立 40 周年を祝して 〜
1966 年度卒(第1期)
藤井 弘文
「昭和」から「平成」へと年号が変って、すでに 17 年が過ぎようとしています。当時の
小渕官房長官が「平成」と墨で書いた紙を、頭上に掲げたテレビの映像が目に浮かびます。
現役の皆さんは、物心がついた頃には、すでに「平成」の世であったことを思うと時の流れ
を感じます。
今年は中大ローン創立 40 周年の記念すべき年にあたります。私個人としても、この 40
年間、ローンとともにあったような気がしております。「40 周年という節目に、何か思い出
として残せる物はないか?」とOB連中で相談する中で、40 周年版の「絆(きずな)」を発
行しようと言うことになりました。
「絆」とはローン創世期に「会員同士の絆を深めたい」
という願いを込めて発行された、手作りの"同好会誌"の名称です。我々の卒業後も現在まで
脈々と続いていると聞いております。「絆」という名前を聞くと、その言葉自体が我々の"
ローン時代の青春"を昨日の事のように、思い起こさせてくれます。
中大ローン創立のいきさつや、当時の状況について、ある程度ご存じの方もいらっしゃる
と思いますが、創立に至った経緯を中心に少しご紹介して、創立 40 周年記念の私の役目を
果たせられればと思います。
私達、第一期生の入学は昭和 38 年。東京オリンピック開催の前年と言うこともあって、
国立競技場や代々木体育館等の建設が急ピッチで進められ、首都高速道路や、東京モノレー
ルが開業するなど、東京全体が大きく変貌するエネルギッシュな時代でした。また日本の高
度成長期がスタートしたばかりで、池田内閣の「国民所得倍増論」や、「巨人・大鵬・卵焼
き」などに象徴されるように、日本人が自信を取り戻し、"行け行けどんどん"の時代でもあ
りました。
そんな時代、当時の中央大学は神田駿河台にありました。薄汚い学舎で、ロの字型の狭い
中庭にひしめいている、古い大学のイメージそのものでした。
中学時代に軟式テニス(今はソフトテニスと言うそうですが)の経験しかなかった私は、
大学に入ったら硬式テニスをやろうと決めていたこともあって、中庭での各クラブや同好会
の部員募集の看板を見ながら、硬式テニス同好会を探しましたが見つからず、やむなく体育
会の硬式テニス部を訪ね、その場で入部しました。
当時の中大のテニス部はあまり強くなくて、
「NCRの吉祥寺コート」を借りて練習して
いました。入部して数日後にコートへ行って、そこで初めての同期3人(松島、木村、大津)
と顔を合わせることになった訳です。私を含めて全員が硬式テニスの経験が無く、スピード
4
の違いに戸惑いながらも、早く上手に打てるようになりたいと週に4日はコートに出かけま
した。しかし、毎日、毎日ボールボーイばかりで、ほとんど練習させてもらえない状態が1
年以上も続きました。招待選手と言われる高校時代に実績のある選手を中心に練習は行われ、
体育会のクラブとしては当然のことであったとは思いますが、私達にとっては納得できない
毎日でした。ちょうどその頃、四年生の先輩から「君達、このまま居ても、この状態は変ら
ないよ。テニスがやりたいなら同好会でも作った方がいいよ!」と言われ、すぐに4人の意
見はまとまりました。そしてその方法を検討し、準備に取りかかることにしたのです。二年
生になって間もない頃だったと思います。
松島君と私の共通の友人である井上君をはじめ、同じ仲間であった小川君、檜垣君を含め
た計7人で設立準備にとりかかると同時に、昭和 39 年秋に体育会硬式テニス部を4人とも
正式に退部しました。そして同好会として大学に届けを出して、正式な活動をスタートした
のが、昭和 40 年春の新入会員募集からという事になります。
ただし、実は大学に「届け」を出す前から、自由に練習できるテニスコートはないかと探
していたところテニス部の先輩に大久保にある教会のテニスコートを教えてもらい、暇を見
つけては 3〜4 人で練習に出かけました。皆さんには信じられないかもしれませんが、利用
料金は一人 50 円でした。これで一日自由に汗を流して帰れた訳でしたから、今から思えば
夢のような時代だったと思います。これが伝説?の「大久保コート」です。
同好会設立後は「同好会」ということで、難しいことは考えませんでしたが、"テニスを
楽しむこと"と"同好会の存続を確かにする"ために、一日でも早くクラブとしての体制を整
える必要性を、皆が強く感じていたと思います。昭和 40 年の春は、新入会員確保に全力を
注ぎました。お陰で1年後輩の鴫原、神谷、大久保君、2 年後輩の金子、富樫、稲留君や菊
池(笹山)さんなど高校時代に硬式テニスを経験した力のある後輩が入会してくれて、所帯
も 20 人位になったと思います。
今でも練習コートの確保は役員の大きな仕事の一つでしょうが、当時も最優先課題でした。
日比谷公園の中の都営コートを押さえるために 3〜4 人で抽選にでかけたり、大久保コート
で練習したりで、最初の1年は何とかごまかして乗り切りました。
その後、誰の情報か忘れましたが、青山にある農林省のコートが1面、比較的楽に毎日で
も借りられることがわかり、ローンの専用コート状態にすることができるようになって、コ
ート問題は一気に解決しました。
その間には大津君との突然の悲しい別れもありました。
いろいろな事があったと思います
が、大変だった事や苦しかった事は、無かったのか、忘れてしまったのか、今では何も思い
出しません。思い出すのは楽しかった事だけです。
こうして誕生した中大ローンを、今日の立派な姿に育んでくれたのは、多くの後輩の皆様
5
の力です。心から感謝申し上げます。
また私の時代で言えば、ローンの礎を確かなものとしてくれたのは、我々が四年生の時の
一年生 15 人
「郡山、北村、境、田山、皆川、石塚、滝野、香川、板井、笠本、榛村君、
そして女性軍の市場(尾形)、山田(井原)、佐藤(松川)、塚本(守屋)さん」の羨ましい
くらいに良くまとまった活躍に負うところが大きいと思っております。(少し褒めすぎか
な?)
もちろん初代の顧問をお引き受けいただいた五十嵐康男先生、お亡くなりになるまでテニ
スを愛された西海太郎先生、現在の前野光弘先生など、顧問の先生方のお力もあったことは
言うまでもありません。
幸いにも、私は名古屋鉄道に入社したにもかかわらず、昭和 49 年からずうっと東京勤務
で、皆様とお会いできる機会に恵まれて来ました。テニスも年に 4〜5 回もやればいい方で、
決して上手くはありませんが、OB交流会などで毎年ローンの皆様と会えるのを楽しみにし
ております。
今後は今まで以上に、ラケットを握る機会を増やして行きたいと思っています。
今は仕事や家事に追われている後輩の皆様も、少しでも時間の余裕ができたら、OB 総会
やOB現役交流会に顔を出してみて下さい。1時間で昔に戻れるはずです。そして若い現役
の皆さんのエネルギーを明日の糧にして欲しいと思っております。
最後に、現役の頃には、40 周年というお目出度い今日の日を、皆様とこうして祝えると
は思ってもおりませんでした。これもすべて、その後のローンを支え続けてきてくれた全て
の後輩の皆様のお陰です。また仕事の合間に「絆」の編集・発行に御尽力いただいたOBと
現役会員の皆様にも心より感謝申し上げるとともに、今後の中大ローン、OB会に引き続き
ご支援を頂きますようお願い申し上げ、お祝いの言葉に代えたいと思います。
6
中央大学ローンテニス同好会の誕生
1966 年度卒(第1期)
松島
宗
本年中央大学ローンテニス同好会は40周年を迎えます。40周年の今年3年生の委員が
40期生ですから私たちが3年生のとき立ち上がったわけです。40年4月1日から40年
がたった今後輩には機会あるごとに話してまいりましたがここで改めて誕生のいきさつを
お話しておきたいと思います。
私が中央大学体育連盟のテニス部に入部したことからローンテニスが発祥しました。1年
から2年間所属したクラブでのボール拾いの日々
吉祥寺テニスコートに通いました。2年
から3年になるとき、このままクラブに所属してもテニスができないし、連盟役員の仕事を
するか女子大学の指導に行くぐらいが残された道でした。
そのときの一般部員が松島
木村
大津
の四名
池田
テニスをやるためにクラブにはいったのにできないなら自分たちで
クラブを作ろうということになりました。
友だちの縁とは不思議のものです。学科のクラスの友人に小川
井上
桧垣がいましたが
クラスの井上とテニスクラブの池田が九州は佐賀の鹿島高校出身で井上もテニスの経験が
あったこともあり同好会発芽のおおきな要因になりました。クラブの顧問先生にはわが英語
クラスの担任であった五十嵐康男先生にお願い快諾をえて発足の運びとなりました。五十嵐
先生はその当時受験生のラジオ番組
旺文社の「百万人の英会話」という放送を担当されか
なり有名な先生でしたので会長を快諾していただいたときは驚きでもありました。つぎに同
好会組織を作りそれを強力に引っ張ってゆくリーダーを探す必要がありました。
体育連盟の
テニスクラブでなく同好会というテニスが好きで集まる仲間をまとめていける人物がぜひ
とも必要でした。われわれの希望する人材がテニスということを除けば格好の人物がいたの
です。初代主将となった小川克保です。初代の役員:委員のメンバーは名簿でごらんになっ
てください。
テニスクラブの主将は一応テニスのうまい方がいいに決まっていますがこの剣
道はかなりの腕だが少しもテニスのラケットを握ったことのない男に竹刀をラケットに持
ち替えるだけだからと説得して引き受けてもらい大成功でした。彼は往年のフランスの映画
スター「ジャンポールベルモント」に雰囲気が似ており会の運営組織は磐石なものとなりま
した。
昭和40年4月15日に発足した会則と昭和41年4月1日改定会則を見てみますと発
足当時の状況がよくわかります。発足時から1年で会則もすぐに改正されこの41年4月1
日の会則が現在の会則にひきつがれ40年たったのです。
40年4月の会員名簿を見てみる
とわれわれが3年のとき発足した時の構成員は29名そして41年の4月には81 名の大
所帯になっておりました学年別に見ると4年生9名
3年生7名
2年生27名
新入生
38名とこのときの1年生が多数会員になったことで同好会組織はその基盤が出来上がっ
7
たといえるでしょう。今でも毎年このとき新入生だった4期生の OB 会合宿に参加していま
すがもう何十年も続いています。初代会長の五十嵐先生も会合や合宿にはいつも参加してい
ただいて学生との距離は本当に身近でした。五十嵐先生が成城大学へ移られた後会長を引き
受けていただいた西海太郎先生テニス大好きで同好会や運動クラブ活動をこよなく愛され
た先生には本当に感謝、感謝でした。西海先生の退官後に会長をしていただいた前野先生
前野先生が留学されるにあたり会長を託された先生がまったくの冬眠状態でローンの会長
先生のよい伝統が終わりをつげ何年もたってしまいました。40周年を迎えるにあたり役員
不在を変えたいといつも考えておりました。現会長を推薦された前野先生にこの現状をうっ
たえ会長先生をお願いしました。先生はテニスが好きでボート部の顧問もされているのだか
ら先生にもう一度会長になっていただくのが一番だと思いました。40周年ローンにとって
この4月からテニスの好きなできる会長先生が誕生したことは本年度の委員や会員にとっ
ても素晴らしいことだとおもっております。生みの楽しみをしたローンはいつまでも気にな
る存在であり、私にとっていつまでもテニスをプレイしつづけるエネルギーの源です。よう
やくバックのトップスピンがどんなものなのかわかる年頃になりました。
会則項目比較
発足40年4月15日会則
第 1 章総則
名称
第1条
第2条
第1節総則
本同好会はローンテニス同好会と
称する
本会の目的はテニス(硬式)の技術
練磨を通じて、人格の陶冶並びに会
員相互の親睦を図る
第3条
本会会員は中央大学学生とする。
第4条
第2章会員
会員
第5条
第6条
第7条
41年4月1日改定会則
本会は目的達成のため第21条の
各活動を行う。
第1節会員
本会会員は毎年度始めに昼夜間部
学生より募集する但し補欠募集を
妨げない募集要綱はその都度委員
会で決定する。
会員は会費を納入する義務を負う
入会金については毎年 5 月末日ま
でに会費を添えて登録することを
要す但し期日経過後にしても登録
なきものは会員たる資格を失う
本会会員にして止むを得ない事情
により退会せんとするものは委員
会の承認を得る
現在の会則
第1節総則
本同好会は中央大学ローンテニ
ス同好会と称する
本同好会(以下本会)は硬式
テニスの技術練磨を通じて、人格
の陶冶、心身の鍛練を図るととも
に会員相互間の親睦を目的とす
る。
本会の連絡先は下記におく
東京都千代田区神田駿河台 3-9
中央大学学生課内履白門連盟宛
第2章組織
第1節会員
第 4 条本会の会員は中央大学学
生にして本会の趣旨に賛同する
者を以って組織する。
第5条本会の会員は毎年度始め
に昼夜間部学生より募集するも
のとする但し補欠募集を妨げな
い募集要綱はその都度委員会で
決定する。
第6条本会の会員は、入会金及び
会費
を納入する義務をおう
第7条本会の会員で止むを得な
い事情により退会せんとするも
のは退会届を委員会に提出し承
認を得なければならない
8
本同好会はローンテニス同好会と
称する
本同好会(以下本会)は硬式
テニスの技術練磨を通じて、人格の
陶冶、心身の鍛練を図ると共に会員
相互間の親睦を目的とする。
本会の連絡先は下記におく
中央大学多摩校舎4号館サークル
棟 4525 教室
第2章組織
第1節会員
第 4 条本会の会員は毎年度始めに
昼夜間部学生より募集するものと
する但し補欠募集を妨げない募集
要綱はその都度委員会で決定する。
第5条本会の会員は中央大学学生
にして本会の趣旨に賛同する者を
以って組織する。
第 6 条本会の会員は、入会金及び会
費を納入する義務を負う
第7条本会の会員で止むを得ない
事情により退会せんとするものは
退会届を委員会に提出し承認を得
なければならない
第2節役員及び委員
役員:委員
第8条
第10条
第11条
第12条
本会は下記の役員及び委員を置く
役員は本学教職員とする
役員 会長1名
委員 主将 マネージャー 会計
各1名企画 技術指導員各若干名
本会の会長は五十嵐康男氏を推載
し本会を統括する。
主将は総会によって選出されねば
ならない。他の委員もまた同総会に
おいて選出されるものとする
役員の任期は1年とする但し再選
を妨げない委員の任期も同様とす
る
コール要求ある時は会員の三分の
一の連名により主将は総会を開き
総会の議決を得なければならない。
第8条
本会は下記の役員及び委員を置
く役員は本学教職員とする
役員 会長1名
委員 主将 副主将 マネージ
ャー 会計 各1名企画 技術
指導員各若干名
第9条
主将は総会によって選出されね
ばならない他の委員もまた同総
会において選出されるものとす
る。
第10条
役員の任期は1年とする但し再
選を妨げない委員の任期も同様
とする
第3章総会
第1節総会
第13条
総会は本会の最高議決機関である。 11条
総会は本会の最高議決機関であ
総会は毎年度始め及び9月に開か る。
れなければならない但し委員会が 12条
必要と認めた場合及び会員の三分 総会は春秋の定期総会とする。
の一以上の要求ある場合に主将は 臨時総会は委員会が必要と認め
速やかに総会を招集しなければな た場合あるいは会員の3分の1
らない
以上の要求があった場合に主将
総 会 の 議 長 団 は 主 将 マ ネ ー ジ ャ がそれを速やかに召集し開催さ
ー:企画がこれを兼任する
れなければならない。
定期総会は下記の事項を行う
13条定期総会は次に定める事
一般活動報告 会計報告 委員の 項を行う一般活動報告 会計報
改選 その他
告 委員の改選 その他
総会の定足数は会員の三分のニと 第14条
する。決議は出席会員の過半数を必 総会の議長団は委員もしくは委
要とする。賛否同数の場合は議長の 員会において指名されたものが
決するところによる
あたる。
第15条
総会の定足数は全会員の三分の
二以上とする。但し、委員あるい
は議長への委任権数も含まれる。
第16条
総会の決議は出席会員の過半数
の決するところによる。
第 2 節委員会
第14条
第15条
第16条
第17条
第4章委員
会
9
第8条
本会は下記の役員及び委員を置く
役員は学友会規約の定めによる本
学教職員とする
役員 会長1名
委員 主将 副主将 各1名
男女マネージャー各1名 会計
渉外 総務 関東学生庭球同好会
連盟委員 会計補佐 渉外補佐各
1名 中央大学庭球同好会連名委
員2名 企画 技術指導員各若干
名 広報2名
第9条
主将は総会によって選出されねば
ならない他の委員もまた同総会に
おいて選出されるものとする。
第10条
役員の任期は1年とし再任を妨げ
ることはできない。委員の任期も同
様とし再任を妨げない。
11条
総会は本会の最高議決機関である。
12条
総会は春秋の定期総会とする。
臨時総会は委員会が必要と認めた
場合あるいは会員の3分の1以上
の要求があった場合に主将がそれ
を速やかに召集し開催されなけれ
ばならない。
13条定期総会は次に定める事項
を行う一般活動報告 会計報告
委員の改選 その他
第14条
総会の議長団は委員もしくは委員
会において指名されたものが
あたる。
第15条
総会の定足数は全会員の三分の二
以上とする。但し、委員あるいは議
長への委任権数も含まれる。
第16条
総会の決議は出席会員の過半数
の決するところによる。
第18条
委員会は全委員を以って構成する
第19条
委員会は次の場合は主将が招集す
る。主将が必要と認めた場合及び
委員の三分の一以上の要請がある
場合
委員会は会則及び総会の決議の範
囲内において会の活動を円滑にす
るために努力しなければならない
第20条
第1節
第5章活動
第21条
本会は下記の活動を行う
定期練習 合宿 定期対外試合
その他
第6章会計
第1節
第22条
会計委員 H がこれにあたる
第23条
会計は月100円とし毎月末まで
に全額を納入することを原則とす
る。但し新入会員は入会金として
300円を入会時に併せ納入しな
ければならない。
本会の運営は会費:入会金及び随時
徴収金によりまかなう
第24条
第25条
第26条
第7章懲罰
第27条
第8章改正
第17条
委員会は総会において選出され
た委員によって構成される。
第18条
委員会は、主将が必要と認めた場
合、又は委員の三分の一以上の要
請がある場合に開かれる。
第19条
委員会は、会則及び総会の決議
の範囲で本会の活動を円滑に遂
行するために最善をつくさねば
ならない
会費の徴収は会計委員が委員の協
力のもとにこれを行う
会計年度は4月1日始め翌年3月
末日に終わる
第4章活動
第20条
本会は第2条の目的遂行、達成
せんがために次に定める活動を
行う。
定期練習、春夏合宿、対内外試合
その他総会及び委員会において
適当と認められた諸行事
第17条
委員会は総会において選出された
委員によって構成される。
第18条
委員会は、主将が必要と認めた場
合、又は委員の三分の一以上の要請
がある場合に開かれる。
第19条
委員会は、会則及び総会の決議
の範囲で本会の活動を円滑に遂行
するために最善をつくさねば
ならない
第4章活動
第20条
本会は第2条の目的遂行、達成
せんがために次に定める活動を
行う。
定期練習、春夏合宿、対内外試合
その他総会及び委員会において
適当と認められた諸行事
第5章会計
第5章会計
第 21 条
本会の会計年度は4月 1 日より
始まり翌年 3 月 31 日終わる
第 22 条
本会の運営費は入会金、寄付及び
随時徴収金を以ってこれにあて
る。
第 23 条
本会会員は第2章第6条により
入会と同時に入会金壱千円を支
払うものとする。また、会費は
月弐百円として毎月末日まで延
滞なく納入しなければならない
第 21 条
本会の会計年度は4月 1 日より始
まり翌年 3 月 31 日終わる
第 22 条
本会の運営費は入会金、寄付及び随
時徴収金を以ってこれにあてる。
第 23 条
本会会員は第2章第6条により入
会と同時に入会金ニ千円を支払う
ものとする。また、会費は二万五千
ニ百円(月:二千百円)とし四期納
入とし、原則として延滞なく納入し
なければならない
第1節
第 6 章懲罰
第 6 章懲罰
会員にして下記の事項に該当する
ものは勧告及び除名の対象となる
1 定期練習に無届にて3回以上欠
席したもの
2 合宿定期対外試合に正当な理由
なくして参加せざるもの
3 会費を長期滞納したもの
そのた内規に反するもの
第 24 条
本会会員にして次の事項に該当
した場合は勧告もしくは除名の
対象となる。
1 本会の名誉をきずつけたり、あ
るいは本会会員としてふさわし
くない行いをしたもの。
2 定期練習に正当な理由なくか
つ無届にて 3 回以上欠席したも
の
3 合宿及び体内外試合に正当な
理由なくして参加せざるもの
4 入会金会費を長期滞納せるも
の。
5 その他内規に反するもの。
第 25 条
懲罰は委員会において決定され
公告ののち履行されることとす
る
第 24 条
本会会員にして次の事項に該当し
た場合は勧告もしくは除名の対象
となる。
1 本会の名誉をきずつけたり、ある
いは本会会員としてふさわしくな
い行いをしたもの。
2 定期練習に正当な理由なくかつ
無届にて 3 回以上欠席したもの
3 合宿及び体内外試合に正当な
理由なくして参加せざるもの
4 入会金会費を長期滞納せるもの。
5 その他内規に反するもの。
第 25 条
懲罰は委員会において決定され
公告ののち履行されることとする
第1節
改正
第7章
10
改正
第7章
改正
第28条
会員名簿
役員
本会の会則は入会後3ヶ月を経過
した会員の三分の一以上の同意に
よって発議し総会において出席会
員の三分の二以上の同意によって
改正さる
以上
昭和40年4月15日
発足
五十嵐康男
主将
マネージャ
会計
企画
技術指導
技術指導
技術指導
会員
第 26 条
本会会則の改正は入会後3ヶ月
を経過した会員の三分の一以上
の同意によって発議され総会に
おいて出席会員の三分の二以上
の賛成を得なければならない
附則
1 新会則は昭和 40 年 4 月 15 日
に作成された旧会則第 8 章
第 28 条にもとづいて改正作成さ
れたものである
2 新会則は昭和 41 年 4 月 1 日か
ら効力を発する。
五十嵐康男
小川克保
井上 紘一
松島 宗
桧垣善徳
池田 弘文
木村 繁
大津清茂
岩本昭子
瀬戸口 満
伴 紘明
小林 二郎
神谷康秋
岡田 文夫
大久保俊之
富樫清和
中野義宏
神谷晴生
大田浩
金子尚道
石岡凱夫
御子柴能登
3年
主将
副主将
マネージャ
会計
2年
技術指導
技術指導
技術指導
会員
1年
会員
11
西海太郎
大久保敏之3年
鴫原敏美
神谷康秋
大田浩
2年
金子尚道
富樫清和
御柴能登
稲留滋典
小川克保
4年
井上 紘一
松島 宗
桧垣善徳
池田 弘文
木村 繁
大津清茂
岩本昭子
吉田孝子
伊藤圭吾
3年
田島俊彦
中野義宏
神谷晴生
吉行時彦
長沢常憲
鈴木康正
鈴木新策
石岡凱夫
今福萌射
広富 透
飯塚晃弘
小山田勝次
金子伸夫
川村和夫
日比野修三
高橋省ニ
西田勝美
野口住雄
菊池ヒサ子 3年
木村益子
宮下尚子
佐々木洋子
小形マス子 2年
滝野英一
1年
第 26 条
本会会則の改正は入会後3ヶ月を
経過した会員の三分の一以上の同
意によって発議され総会において
出席会員の三分の二以上の賛成を
得なければならない
附則
1 新会則は昭和 40 年 4 月 15 日に作
成された旧会則第 8 章
第 28 条にもとづいて改正作成され
たものである
2 新会則は昭和 41 年 4 月 1 日から
効力を発する。
3 会則改正は昭和 42 年 9 月 1 日か
ら効力を発する
前野光弘
主将
副主将
マネージャ
渉外
会計
総務
白庭外
企画
広報
広報
マネージャ
渉外補佐
会計補佐
関東
白庭内
企画
企画
松浦章広
本橋洋祐
小野木脩
大星良貴
淵野 淳
清水道浩
篠原正之
細田智輝
息栖武士
増井嘉央
池田弥生
佐藤文絵
伊藤有希子
大場伶
福田朱里
白石美帆
堀麻実
会員 200 名
小林秀明
天勝康政
辻徳夫
田山重雄
竹野靖博
高橋忠男
池内義典
桜井克明
隆襖嘉明
安藤洋志
岩崎春男
郡山利行
香川栄宏
皆川仁士
上野進
板井浩之
笠本喜一
吉川伍郎
石畑俊三郎
金井豊明
仲矢博之
梅木昭
中山英鳳
原英夫
下山雅明
境昭彦
大野起史
杉浦一浩
石塚 肇
斉藤建冶
榛村繁之
木村卓司
林慎一
神山孝三
北村肇
鶴見裕康
市場晶子
山田恭子
佐藤泰子
塚本澄子
香田久美子
罇宮子
第1回夏合宿
長野県北竜湖
参加者 黄色蛍光
ペンマーク者
12
1965 年(昭和 40 年)
団体結成登録願(中大ローン出生届!)
13
1965 年(昭和 40 年)
14
設立趣意書
創立40周年
おめでとう
1966 年度卒(第1期・主将)
小川
克保
40年。こんなに続くなんて考えてもみなかった。何人の人がローンを経験しただろうか。
みんなのおかげで今日のローンがある。みんな、ありがとう。
僕は高校まで剣道。大学3年で初めてテニスに接した。青空の下、コーラを飲みながら白
球を追う。楽しい青春だった。
何度か試合にも出た。勝った記憶が一度もない。一度勝ちたかったな・・・・
仲間にも恵まれた。還暦を迎えた今も酒を酌み交わし愉しく語り合える。ローンを創って
良かったとしみじみ思う。
8月27日
大勢の仲間に会える。こんな喜びはない。次に会えるのは10年後。大いに
愉しもう。
学校を卒業して、財テクの失敗の責任をとって25年勤めた会社を辞めたり、6年前に女
房を亡くしたり、61年の人生、いろいろな事がありました。ローンが半世紀を迎える時、
71歳になっているけど、みんなの笑顔に会えるよう健康に気を付けて元気に過ごしたい。
みんなも元気で活躍して下さい。
ありがとう。
以上
15
「テニスにまつわる思い出」
1966 年度卒(第1期)
井 上 紘 一
中央大学ローンテニス同好会(C.L.T.D)の創立40周年を迎えるにあたり、この会
の現役会員数が 200 名を超え、OB・OG の数が 1000 名を超えていると聞き大変驚いている
と同時に、創立時のメンバーの一人として大きな喜びを感じているところです。
1.創立当時の思い出
誰が言い出したか記憶が定かでありませんが、運動部としてのテニス練習ではキツ過
ぎるので、テニスの好きな者が集まって好きな時にやれるようなクラブを創ろうと、当時
商学部に在籍していた者で話をまとめたように思っています。
テニスをプレイしたことのない人でも、軟式テニスしていた人でも、誰でも良いから
テニスを愛する人を募集しました。
4月の新入生目当ての募集でいちばん最初に加入してくれたのが、今 OB 会会長の金
子君だったように思います。その後、同学年の仲間や同郷の者などを誘い込み、会員も
徐々に増えていきました。
2.練習コートのこと
練習するコートがないので、どこか安く借りれる所はないか皆で手分けして当りまし
た。いろいろなコートでプレイしましたが、一番記憶に残っているのは大久保のコート
と日比谷公園テニスコートです。大久保のコートは、山手線の新大久保駅?で降り、ガ
ード下を通って、5~6分ぐらいの住宅街の中にあったように記憶しています。
大久保のコートは、確か2面で小屋みたいところで着替えをして、あまり整備のされ
ていないコートで、ローラーをひきネットを張り、1人黙々と練習をした記憶がありま
す。早くコートにいって、早く自分たちのプレイできるコートを確保するために、当時
管理をされていた教会の神父さんのところに鍵を借りに行ったものでした。
私が良くやった練習メニューは、サービスの練習で正確に一定のポイントにボールを
集められるように、飲み干したコーラのビンをコートのカドに立て、それを目がけて打
ち込むものでした。私としては、なんとか正確なサービスができるようにと思って、早
くコートに着くようにしてその練習ばかりしていました。そして、相手が来ると、スト
ローク、ボレー、スマッシュ、サービスやロビング等の練習を夕方になるまでしていま
した。
もう一つの日比谷公園テニスコートは、予約を取るのに一苦労、毎週コートを借りるた
め手続きに役所に行き、使用料を払い、予約をしました。しかし、雨が降ると使用ができ
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ず、微妙な天気のときは確認の電話を入れていました。
練習も夕方になると手足が疲れ、
手元が狂ってボールがフェンスオーバーして観覧席に
飛んでいってしまい、それをとりに行くのも大変でした。しかし、薄暗くなるまで
練習していたので、いつの間にか観覧席はアベックさんでいっぱい、これを見た何某君は
ワザとボールをフェンスオーバーして「スミマセン」を連発、意識的にやっていることが
皆にわかってしまうプレイではありました。
3.会社に入ってからのテニス
幸いにして、私の希望する分野の会社に就職が決まり、早速テニス部に入りました。
練習コートは、健康保険組合のコートだったので浦和か大宮まで行っていたように思い
ます。部員は多く男女20名ぐらいで女性が多かったように思います。よく合宿をして、
青春の1ページを作り上げたものでした。また、大会も春、秋と開催され毎回出場しま
したが、いい結果は残せなかったように思います。
仕事の関係で、26歳のときアメリカに行くことになりましたが、それまでテニス一
筋で運動してきた私も先輩の勧めるところによりゴルフを習い始め、
だんだんのめり込み、
その魅力に取り付かれていきました。プレイ費が安いアメリカでは(当時 US$5く
らい)、ポピュラーなスポーツとしてゴルフが定着しており、自分達でカートを引いて、
ノータッチのルールで MUNCIPAL(サンフランシスコ市営)のパブリックゴルフ場
「HARDING
GOLF COURSE」で土日は毎週プレイし、腕も上達したので週末になる
とゴルフのことで頭がいっぱいになりました。予約日が木曜日だったので、必ず社員の
誰かが予約の電話を入れ、社員総出で(ただし、日本人のみ)プレイしました。
この頃から、テニスについては全く手を出さなくなりましたが、現地の関係会社の人
に1人だけゴルフをしない人がいました。「あれは、スポーツじゃない。年寄りのするも
のだ」とガンとしてゴルフをしない方でしたが、一方でテニスをするのが好きで、いつの
間にか私もテニスの方もプレイさせられることになってしまいました。そして、朝6時、
出勤前の1時間程度プレイするために、カッキリと私のアパートに迎えにきてくれるよう
になりました。早朝ゴルフなら喜んで出かけるけれども、早朝テニスなんてと思いながら
も、先輩の強引さに負けて平日にプレイすることになりました。出勤前に汗を流し、アパ
ートに戻りシャワーを浴び、8時ごろに出社するというパターンが出来上がってしまいま
した。
シスコの夜は楽しく、若く独身の私にとってアフターファイブは、仲間との一杯が唯一
の楽しみでした。しかし、早くから飲みますと、午前2時頃まで開いている店ではとても
持ちません。
それで、家で食事を済ませてから軽く水割りでも飲みに行こうと方針を変え、
1日おきに午前様になるまで飲んで楽しんでいました。しかも、今の日本では考えられな
いことですが、車を運転して帰る日々でした。それでも、テニスの先輩は、約束した日に
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は必ず朝6時に迎えにくるので、眼をこすりながらテニスの早朝プレイにお付き合いした
ものでした。
しかし、テニスはテニスでだんだん楽しみも増えてきて、外人女性のスタイルに良い
テニスウェアー姿に見とれ、プレイそっちのけでその女性を追い、あまり上手でもない英
語で話しかけ一緒にプレイしてもらったりもしました。今は、その女性の名前は思い出せ
ないけれど、先輩の上手な英語力を羨望のまなざしで見ていたものでした。
アメリカのテニスコートは、クレーコートは少なくアスファルト面?(材質は良くわか
りませんが)でカラーのものがほとんどでした。プレイ料はなしで、早く行けばできます
が長い時間はプレイせず1時間程度で切り上げるのが普通でした。
4.テニスの魅力・・・ゴルフとの比較において
今でこそテニスといえば硬式テニスを意味するものとなっていますが、当時はまだ軟
式テニスが幅を利かせていたときで、硬式テニスラケット(特に、フタバヤ製)を持っ
ていること自体が何かファッショナブルな感覚で、小脇にテニスラケットを持ち、スポ
ーツバッグを提げていれば、当時のファッション(特に女性)の中にはまっていたよう
に感じました。
私にとって、テニスはまさに私の青春のスポーツでありました。テニスをしていたか
らこそ今も元気に動きまわれるのかもしれません。
故あって、30歳で田舎(佐賀)に帰らなければなりませんでしたが、ゴルフなどは
プレイ費が高い日本ではとてもできず、テニスをやろうと当時会員権を売り出していた
全面ローン(芝)のテニスコートの会員権を購入し、会員になりました。その後、少し
余裕が出てきて、テニスからゴルフにシフトし、現在ではテニスプレイは、年に1回す
るかしないかです。
テニスは、年老いてもプレイできる。自分のペースに合わせてプレイでき、お金もあま
りかからない手軽なスポーツです。テニスコートも各自治体で整備され、コート数も
当時と比較すれば格段に増え、コート確保もある面では苦労せずに確保できる時代になっ
てきました。それだけ、一般の人の中に確実に広がってきていると思います。
「動かないボール」を打つゴルフと「動いているボール」を打つテニスとどちらが私に
とって合っているか、ローンテニス同好会の会員になった諸君は迷わずテニスを取るでし
ょうが、激しいスポーツのテニスとゆったりとしたマイペースのゴルフでは、若いときは
テニス、だんだん年をとってきたらゴルフと決め付けず、両方とも自分に合わせてやれる
ものならやってみたい。ゴルフでなくとも良い。卓球でも良いではないですか。
自分の健康のために体を動かす。まず、それが基本でしょう。体を動かし、体力をつ
け、健康につなげるという元々のキッカケを作ってくれたのはテニス、それに感謝しな
がらいつまでも、身体がついていかなくなるまで、否、車椅子に乗るようになってもプ
18
レイを続ける気概をもっていきましょう。
そういう私もほとんどテニスから遠ざかってしまっている現実に眼を向けて、近くの、
自転車で20分ほどの市営コートに出かけていこうと思います。
せっかくテニスができるのに、プレイせず、誘われるのにコートに出かけず、一方でゴ
ルフだと一つ返事で出かけてしまう現実を見直し、この機会に手軽にできるスポーツ「テ
ニス」を再開しようと思います。
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中央大学ローンテニス同好会設立40周年記念によせる
1966 年度卒(第1期)
木村
繁
木村です。長らくご無沙汰失礼しています。私も白門ローンと同じだけ年をとり60歳
を越えました。定年後も仕事をしていますが、もっと自由な時間を持てるようにしたいと
思っているこの頃です。
さて、会長の金子君から原稿を出すように言われ、ローン誕生のいきさつを書こうと思
ってはみたものの、40年の歳月を経て、記憶が薄れているなんてものではないことに気
付いて唖然としたことでした。
入学当初、今から思えば無謀にも、ラケットを握ったこともないのにテニス部に入部し
たこと、1年間コート整備とボールボーイに専念し、ついに辛抱し切れず退部したことま
では思い出せても、学部の違う藤井君や、松島君、大津君とどこでつながりができたのか
根っこのところがすっかり空白で、
松島君に電話したところまずアルツハイマーを心配さ
れました。同君によるとこの4人がテニス部に所属していたとのこと、
納得はできました。
まもなく元気溢れる小川君達が輪に加わってグループは活気づき、3年生の春には他のサ
ークルに混じって中庭で会員募集に至ったという経過だったように思います。
私の近況ですが、家から歩いて20分くらいの太宰府政庁跡近くの緑の中にクレーコー
ト2面だけの太宰府テニスクラブがあり、週末はここに通っています。土曜日は午前中は
テニス、午後は近所に住んでいるヨチヨチ歩きの孫娘と遊ぶのが楽しみで、そして日曜日
も午前中はテニス、午後は NHK の囲碁番組を見て過ごすのが常です。 汗をかいた後は缶
ビール1本で酔いがまわって、ほとんどうつらうつらと昼寝状態で囲碁対局を見ているの
もまた極楽ものです。
つい先日のこと、イチロー選手が、自分の野球には趣味の部分がある、食うために野球
のプロをやるのでは或る程度以上のレベルには行けないという趣旨のことを話していま
した。イチロー選手は、プロに求められる以上の技を追求するのは銭金を超えた趣味の領
域だと言ったんでしょうね。
さあ、私めも自分なりに趣味のテニスを目指すことにいたしましょうか?!
そして、自由な時間が持てるようになったら、昔の仲間と一緒にテニスをしたいという
のが、私の願いです。今は昔、東京弁コンプレックスも忘れ無心に真っ白になって遊んだ
仲間の笑顔を懐かしみつつ・・・
平成17年3月13日
20
記
ローンテニス創立40周年によせて
1967 年度卒(第 2 期) 鴫原 敏美
皆さん大変ごぶさたばかりで申し訳ございません。私は大学入学当時、柄にもなく「中大
グリークラブ」に入会しました。入会の動機は歌が好きだというだけで自分の適正を欠いて
いたため、一学期ももたず、止めてしまいました。
中大ローンテニスクラブは、私が大学2年の時に創立され、やはり中学以来続けていたテ
ニスを継続したいとの希望にマッチし、すぐ入会しました。
私どもより1年先輩の小川さん・池田さん・松島さん達が創立し、同期生は、寂しいかな
私と神谷・大久保の3人のみでした。
誕生間もない我々のローンテニスクラブには専用コートがなく、日比谷や深大寺、そして
上石神井等各地を転戦?し、腕を磨いたものでした??・・・・。
しかし私が4年生の時には会員数が約50名に増加し、
秋田での合宿では約30名の参加
を見、大変和気あいあいとした愉しいサークルになっていました。
私が中大ローンテニスクラブに入会して最も感じたことは、先輩もさることながら、楽し
く気持ちの良い後輩諸君にもめぐまれ、学生時代の一番の思い出を持てたことです。
そして小生が4年生の時だったと思いますが、創立間もない当会の歴史と会員相互の親睦
や交流を記録に残すべく執筆・編集されたのが当会の機関誌『絆』です。
絆の誌上に掲載された会員の思い出や相互交流の歴史は、学生時代の良き思い出や、当会
の大きな財産になったものと思われます。
ちなみに、我々の学生の頃は、狭くて古い校舎で駿河台にありました。中庭で郡山君制作
の等身大のラケットを掲げて新入部員を募ったり、暑苦しい地下ホールで交換日誌を記入し
たり、はたまた面子が揃えば即雀荘へ直行と、学生の本分たる勉学の思い出は殆どなく、テ
ニスと麻雀生活に明け暮れ、卒業後40年近く経った今でも楽しい思い出ばかりです。
また個人的には郡山君が撮影して編集してくれた卒業アルバムは、
今でも大切な宝物です。
小生にとっては大学2年から3年間の集大成であり、当時の学生生活やサークル活動が昨日
のように思い出されます。
中でも小生の高校時代は男子高校であったため、女性と話をする機会が殆どなく、とても
寂しく物足りない学生時代でありました。しかしローンには沢山の明るく爽やかな女性が在
籍し、楽しい会話ができたのもとても素晴らしいことでした。
その上、就職を東京でしたなら、もっと違った人生を送っていたかもしれません?・・・
卒業後は地元福島の銀行に就職しましたが、学生時代の楽しかったローンでの活動や女性と
の語らいが忘れられず、就職後も地元のテニスサークルに所属し、各地を転戦したりしまし
た。
21
それ以上に、女性への思いは募るばかりで、真実一路?就職後3年目で地元の女性と結婚
することとなりました。
その結婚式にはわざわざ東京から駆けつけてくれた後輩諸君がいた
ことを今でも忘れられません。
早いもので、卒業後37が経ち、今年は小生にとって還暦の年です。二人の娘はすでに嫁
ぎ、それぞれ子供が誕生し、今では三人の「ジージ」となってしまいました。
今年から年金生活を余儀なくされる状況となってしまいましたが、
やはり人生一番の思い
出は、学生時代でローンでの気楽で楽しかったサークル活動です。
これからは時間に余裕ができるため、懐かしい思い出の多い学生時代をもう一度再現すべ
く、周年記念事業やOB会には極力参加したいと思っています。
先日は東京・霞ヶ関への出張があり、その行き帰りしばらくぶりで日比谷公園を散策する
機会に恵まれました。学生時代5面あるテニスコートで時々プレーしたことを思い出しなが
ら、懐かしさが走馬燈のように駆けめぐり、早く当時の仲間達と旧交を温めたいと思わずに
はいられませんでした。学生時代はテニスを楽しむことや、仲間達との語らいが殆どで、日
比谷公園の歴史などは調べようともしませんでしたが、日比谷公園の入口は、日比谷見附跡
であり、また石垣は江戸城外郭城門の日比谷御門の一部で、お堀は「心字池」となっている
とのことであり、改めて素晴らしいところでプレーできた当時が懐かしく思い出されました。
本当に40周年記念が楽しみです。周年記念事業を企画し、運営してくれている後輩の皆
さん大変ご苦労様です。心から感謝申し上げます。
当日は心行くまで皆さんと楽しく語り明かしたいものです。
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以上 1969 年 11 月 23 日(昭和 44 年)神田 資生堂 OBコンパ
23
私とテニス
1968 年度文学部/1998 年度法学部卒
(第 3 期)
金
子
尚
道
中央大学ローンテニス同好会が設立40周年を迎えた。
私がローンテニス同好会に入会し
たのは、昭和40年入学した年であり、まさにローンテニス同好会設立の年であった。した
がって、ローンテニス同好会との関わりは40年になる。また、郷里富山から上京して40
周年にもあたり、5月連休中に早々と高校卒業40周年の同窓会があり駆けつけてきた。
今思うに、もし、入学したときにローンテニス同好会がなかったら、そして、ローンテニ
ス同好会に入会していなかったら、テニス好きではあったが、テニス下手の私とテニスとの
縁は切れていたであろう。極論すれば、今日までの私の人生は異なったものになっていたと
思う。
私がテニスを始めたのは、中学入学時で当時は軟式テニス(今は、ソフトテニスと呼ばれ
ている)である。高校に入っても迷わず軟式テニスであったが、3年になったとき、新しく
富山市内の高校から赴任し、テニス部顧問についた先生が「これからは、テニスは硬式の時
代だ。」といって、硬式への転向宣言をされた。当時、先生は権威もあり、生徒も純朴?で
あったから、
「それではそうしましょう。」と従って、見様見真似でラケットの握り方やフォ
ーム等を変えたのである。
そのような経緯で硬式に転向したので、私の技術、知識は未熟そのものであった。
その私が、駿河台校舎の中庭に「ローンテニス同好会設立、新会員募集」のポスターを見
た。「設立、新会員」のフレーズに、未熟な素人プレイヤーの血が騒いだ。そして後先も考
えずに、躊躇なく会員になった。しかし、ローンテニス同好会の設立主要メンバー及び初年
度入会のメンバーの多くは、高校時代もしっかり硬式テニスをされていた方々で技術も知識
も優れており、私はただただ驚いたり感心したりの連続であった。
しかしながら、当時はまだ会員も少なかったこともあり、未熟な素人プレイヤーを仲間と
して温かく見守ってくださった。このことが、今日までローンテニス同好会とその仲間たち
との交流につながっている。
中学、高校、大学と継続してきたテニスだが、
家庭の事情等で続けることを断念するか、
しないか、決断を迫られることがそれぞれの時代に何度かあった。いくつかの軋轢はあった
が、続けてきて良かったと思う。過去も、現在も、これからも未熟な素人プレイヤーであり
続けることに相違ない。しかし、人生行路の灯火の一つになり、利害を超えて多くの仲間と
共有できる心の豊かさがある。誠にありがたいことだと感謝している。
24
学研発行 T.Tennis
1990 年 8 月号 中大ローン 25 周年イベント掲載
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遙かなる青春の日々
1966 年 4 月〜1970 年 3 月
1969 年度卒(第 4 期)
郡山 利行
入学式が終わってしばらくたった頃、神田駿河台中央大学本校の中庭はいろんなクラブや
サークルの新入生勧誘会場でした。 理工学部土木工学科1年同じクラスの皆川君と二人で
テニスのサークルに入るべく物色に訪れました。
『お、【ローンテニス】だってよ。』
『ありゃ、こっちは【わかもの】だ。』
『さて、どっちにすっか。』
『たっぷりテニスやらせてくれる方にしようぜ。』
で、月曜日から金曜日まで一応毎日出来る計画を提示したローンテニス同好会が、その後の
人生のとんでもない出発地となってしまいました。 創立40年、そのうち39年間どっぷ
りと漬かっているのか、あるいは覆いかぶされているのか未だに自分でも認識し得ぬまま、
今日を迎えました。
学生時代に撮した数多くの写真の中から、自分にとって4年間をひとまとめに出来そうな
ものを選んでみました。 以前、総会イベントの時にスライド映写でお見せしたのがほとん
どです。今回もやっぱり映写します。
36〜39年前へのタイムスリップ。
今回40周年イベントには遠方から、私からみての先輩や後輩が参加して下さるとのこと
で、その方達を意識した写真も選びました。 こうして原稿・作品づくりをしながら遙かな
る青春の日々を楽しんでいます。
さあローン・グラフィティの始まり、始まり・・・・・
26
(1)
ローンテニス同好会
1966年8月
第1回合宿
長野県野沢温泉北竜湖
めての合宿でした。
文化服装学院の施設を利用しての記念すべき初
参加人数:27名
(2) 1966年8月
北竜湖合宿にて
1年生から4年生まで皆で朝食前のコート整備。
厳しさよりも和気あいあいさが特徴の合宿でした。
27
(3)
1966年8月
北竜湖合宿にて
主将3年生鴫原さん(2期生)。夕食後のミーティング。
これは第1回目から今日までき
ちんと行われています、人数はだいぶ違いますが。
(4) 歴史に残るフォアハンドストローク
鴫原さんの、このがちがちのイースタングリ
ップ・フォアハンドストローク。この教えを
忠実に守った実に多くの後輩達のその後の
テニス人生に、多大なる影響を及ぼしたショ
ットでありました。
28
(5)
1966年6月
中央大学全学体育祭
ご存じ国立競技場です。男子800m。先頭走者はローンテニス4年生小川さん、2番目は
1年生郡山君。この後第4コーナー 付近で小川さんを抜きましたが、怒られませんでした。
(写真撮影者;皆川君)
(6)
デビスカップ東洋ゾーン決勝観戦
1966年秋。
今は無き田園コロシアム。フィリピン戦、サーバーは石黒 修さん。
29
(7)
1967年3月
浜松合宿
よくもまあというほど雨に降られ、降らない時は猛烈な風に吹かれ、ほとんどテニスをしな
かった合宿でした。
(8)
1967年3月
参加人数:23名
鈴木新策・利昌(3期生)両氏の出身地。
浜松合宿にて
当時の男子学生の【よそ行き標準服装】です。ジャージー姿では人前に出ない時代でした。
30
(9)
1967年4月
新入生勧誘会場
神田駿河台中央大学本校中庭です。画面の真ん中に我らローンの出店あり。
(10)
1967年4月
新入生勧誘会場
体育会系クラブの派手なデモンストレーション。
31
(11)
1967年4月
新入生勧誘場にて
ローンテニスのベースキャンプで留守番
をしている主将3年生富樫さん(3期生)。
看板ラケット製作者;香川(故人)
・皆川・
郡山。
(12)
1967年5月4日
日比谷公園テニスコートでの練習後、日比谷日活ビル屋上ビアガーデンにて。
32
(13)
1967年8月
秋田合宿
秋田市八橋運動公園内の合宿施設でした。毎朝国旗掲揚をやらされました。
主将富樫さんの出身地。参加人数:40名
(14)
1967年8月
秋田合宿にて
練習終了後、夕食前のひととき。グループサウンズ全盛期で、合宿にギターを
持って行った人2,3人、そのために歌集まで作ったやつもいました。
33
(15)
1967年8月
秋田合宿にて
夜、ミーティングの後の懇談会。ご覧あれ、コーラもファンタもビン入り。缶がまだなかっ
た時代です。森山良子『今日の日はさようなら』を皆で歌唱中。画面左端に伴奏ギターの頭。
(16)
1967年
晩夏
渋谷の、あるビルの屋上ビアガーデンでアルバイト中のエレキバンド。3人のギター奏者の
中央が、私と同期の故香川君(4期生)。40 才の時にシングルスの試合中に倒れ他界しました。
34
(17)
ローンテニス
1967年11月2日
ダンスパーティを主催
於:目黒パークレーンズ
仕事開始前、皆の厳かな表情がなんと
もほほえましいですね。 【パー券】をたんまり売ることが出来て利益があがり、その後の
素晴らしい活動資金になりました。
(18)
1967年
この年だけに限らず
皆ほんとに好きで、わずかな賭け金で時間さえあれば囲んでいました。 合図は右手指三本。
白門前の路地を入った左側、【南風荘】みなさん、覚えていますか?
35
(19)
1967年
暮れ
【きずな】
誕生時の4年生鴫原さん
自分の趣味の延長的発言、『文集みたいなの作ろうョ。』で始まった【きずな】の歴史。 創
刊号作成風景。学生会館の1室で、ガリ版切る人、編集する人、刷る人、眺める人。
(20)
1968年3月
日立合宿
主将瀧野君(4期生)。コートの不具合や雨降りにもめげず、個人的には短期間ながら非常
に密度の濃い練習が出来た合宿でした。
役員の代になったからかな。
36
(21)
1968年3月
日立合宿にて
練習終了後、下級生はまだコート整備中なのに・・・。こんなこともまだへっちゃらの頃で
した。田山君と板井君、4期生。
(22)
1968年8月
白馬合宿
人数が多くなっても、きっちり合宿ができるようになりました。 女子会員がどどんと増え
た年でもありました。【ウエアは白】 が当たり前の時代。
37
(23)
1968年8月
白馬合宿にて
朝食前ランニング後の体操は、合宿所(民宿)近くの神社の境内。 豆砂利の音と感覚が懐
かしいです。
(24)
1968年8月
白馬合宿にて
コート整備は、最下級生。いつからこんなならわしになったのでしょうか。
『俺ら、知らねえ。』
38
(25)
1968年8月
白馬合宿にて
いかにも【民宿】での、夜のミーティング。2年後には主将となる佐藤君(6期生)が
居眠りしています。
(26)
1968年10月27日
女子だけの対抗戦
相手は、東京家政学院で、圧勝しました。キャプテンは3年生市場さん(4期生:現・尾形)。
女子のウエアは、ミニのスコートかワンピースという実に実に素敵な時代でした。
39
(27)
1968年秋
伝説のトップスピンサーブ
4年生鈴木利昌さん(3期生)、
日比谷公園コートにて。硬い
コートでは、バックラインで
構えていたらバウンドして頭
の上を越していったことも幾
たびかありました。
(28)
1968年11月23日
OB 現役交流会
これは第2回目の交流会です。 この頃はコンパだけの集まりでした。 先輩たちに学生服
を着せてあげました。左から、小川さん・藤井さん・井上さん・鴫原さん、初代ローンテニ
ス同好会会長の五十嵐先生。
40
(29)
1969年8月
高萩合宿
自分が4年生で現役最後の合宿。4年間で6回の合宿すべてに参加しました。
6回とも違う場所でした。
(30)
1970年1月
多摩校舎敷地
現在の中央大学が建設される前の敷地です。
41
理工学部土木工学科の測量実習中。
(31)
1970年1月
多摩校舎敷地
当時本校は全学封鎖中で、大学側はここにバラック校舎を建てて、4年生を卒業させるべく
授業を強引にやったのでした。
(32)
1970年2月22日
この日、ローンテニス同好会の OB 会が発足。永遠の【栄華と栄光】の始まりの日、だった
はずなのですが・・・。
42
(33)2005年5月
そして40年後の山中湖合宿・・・・・
(34)2005年5月
そして40年後の山中湖合宿・・・・・
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(35)2005年5月
そして40年後の山中湖合宿・・・・・
(36)2005年5月
そして40年後の山中湖合宿・・・・・
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(37)2005年5月
そして40年後の山中湖合宿・・・・・
(38)2005年5月
そして40年後の山中湖合宿・・・・・
45
『絆』
1969 年度卒
北 村
馨
「いくよほほ〜」ペチ!
紺碧の空を背景にまことに緩やかなスピードで真っ白なボールがのんびりとサービスコー
トに落ちてゆく。まさに「落ちる」と言う表現がピッタリである。決して相手コートに「突
き刺さる」のではないのである。
「バシ!」相手のリターンが返ってくると思いきや、
「だ〜めだよ〜
ちゃんと入れなくっちゃ」
ボールはゆるいながらもフォールトぎりぎりのところでバックサイドに失速し落ちたので
ある。ただ彼が追いつくにはあまりにも遠かっただけの話である。
「ナイスサーブ・ゲームセット」
コートの外がわでテーブル・イスを広げのんびりとお茶をすすっていた仲間から声が掛かっ
た。
「取れる・・取れる
そのくらい取れるゾ〜」
他の仲間からレシーバーにも声がかかる。しかしサーバーもレシーバーも今日は3試合目だ
というのに(しかも1試合四ゲーム先取である)肩で息をしている。
「今日はこのぐらいで勘弁してやる」
レシーブサイドの1人がこれもゼイゼイしながら言った。
これを合図に全員がコートに戻り
トンボでならしはじめた。
太陽はやや富士の頂上を割り込みかけている初夏の気持ちよい午後である。
ここは言わずと知れた山中湖畔平野地区のテニス村である。年2回のOB(OB会ではなく
OB有志である)合宿が昨日から2泊3日で始まったのである。きっかけは同好会設立当時
の4年生から1年生が卒業して50歳前後に差し掛かろうと言う頃であった。社会的にも、
私生活でも安定し始めたとき自然発生的に集合が始まった。もちろん仲間の一人が声を掛け
たのが引き金になったが、その後は声を掛ける範囲が自然に広がってきた。その結果合宿に
参加しないまでも、30年間の消息が互いに知るところとなり、情報の糸は細く弱いものが
次第にしっかりしたものに変化してきた。そのうち、テニスはしないまでも夫婦でコートに
顔を見せる仲間もいて、
昔の面影の懐かしさの中で30年前の光景が再現されたのであった。
そのOB合宿もさらに30年が経過し冒頭のシーンになるわけである。
東笑館に帰ると、先ずは風呂である。他学校の学生グループはまだ返ってこないのでゆっく
り湯船につかる。部屋に戻ると早速缶ビールを1階の自販機から買ってきていた。先ずは乾
杯となった。
「フエーうめえ」
46
「たまらんナー」
などと言いながら、全員でスプレーを取り出すと一斉に掛け合うのもお決まりの光景である。
「しかしナー
「そうだよナー
良く今年も揃ったもんだナー」
去年Mさんが倒れた時はサーいよいよ始まったかと思ったよナー」
「もう合宿に来て大丈夫ですか」
「平気〜平気
テニスは今日だけだけどな」
「大丈夫、大丈夫殺したって死なないよアンタは」
「来年も揃って飲みたいよナー
「そうじゃねえダロー
ビール」
揃ってテニスしたいダロ
もうそのへんにしとけよビールは」
「そうそう、また血圧上がるゾ」
「いいじゃない、飲めるうちが花ダヨー死んだら飲めないヨ」
「と言って死んだのが家の近所でいたワヨ先週。ちょうど同年代なのよ」とI女史
「近頃じゃ、町内で1日1人は徘徊ッテるのがいるし、週に1人は救急車に乗ってるヨ」
「まったくネ
うちの方も町じゅう年寄りばっかでネ
恐らく老人比率は5割以上だぜヤ
ダヤダ」
「何言ってるの。さっきは死にそうなサービスしててさ」
「歳には勝てないね。昔は180キロ出てたのにナー」
「うそつけ、変わんねえヨ・・」
「ウハハハ」と和気合い合いである。
「ところでOB会の練習ももうすぐだけど、行くかい」
「もちろん行くゼ。若いOBには負けられねえ」
OB会発足以来練習会も盛んになり、年4回の練習が定例化しており、毎回参加は50人は
下らない状況である。それ以外に現役の練習にOBが参加するOB/現役交流会が年2回あ
る。当初はOB参加は10人もくれば多いほうであったが、いまや2、30人は普通となっ
ている。前回はOBが50人近く押しかけ、マネージャーが泣き出してしまったくらいであ
る。 従って、前出の老人達の活動は年に2回以上の合宿(現役合宿参加もある)と4回の
OB会練習の少なくとも計8回は定例で集合しているのである。その他コートが取れると集
まるので、ほぼ月一である。
「しかしナー
良く今年も揃ったもんだナー」
先ほど誰かが言ったセリフを又繰り返す。しかしみんなの偽らざる気持ちである。中大に入
学して以来テニスを媒介とした付合いは60年になろうとしている。
その間各個の人生には
様々な紆余曲折・幾山河があったと思う。そのことをお互いに全ては知らないけど、テニス
の集まりは適度な頻度で、程よいタイミングで入ってきていた。年を重ねれば重ねるほど付
合いは多岐に広がり、年末年始のコンパや年何回かのゴルフ等様々である。言い換えれば年
がら年中会っているのである。つまり暇なのである。
47
それぞれ子供や孫がいるというのに、こうも集うのは何故であろうか。ましてや、もうかな
りいい歳になって、場合によっては危険も伴うというのに。そう、ここに集まっている老人
達は行き先長いとは言えない人たちである。繰り返すが、なぜであろうか。思うにそれぞれ
の家族では補えない何かがこの集まりにはあるのではないだろうか。
家族に不満があるわけ
ではないのだが。それは多分「あの時」を共有していたと言う事実ではないだろうか。ただ
それだけで、お互いの間にある空気が居心地よくなるのだと思う。少し大げさであるが「思
い出」が「心の充足」を創り「来るべき未来」への準備を醸成するのかもしれない。そんな
ものが混沌として心地よく感じられる世界がこの集まりにあるのではないだろうか。赤の他
人がこれほどまでに長い間交流できるには理屈ではない何かがあるような気がする。
60年を振り返るとき(今年は40周年であるがこの話はさらに20年後である)、何時も
仲間がいた。お互い人生の全てに関わってきたわけではないが、全てを知っているわけでは
ないが、お互いがそれとなく認識している関係なのだ。それが卒業後の絆なのだ。無理に絆
を強めようと努力したわけではなく、自然に細くても切れない絆になっていたのだ。
彼らの絆のきっかけはテニスであった。しかしテニスが全てではないのである。さらに言う
と、近い将来先彼らは間違いなくテニスはできなくなるだろう。その時「絆」は消滅するの
であろうか。いいや断じて無い、続くのである。たぶんこの老人達が全員逝った時消却され
るのだろう。
これまでに何百人というOBが発生してきた。
でもテニス以外或いはテニス以上の何かが無
ければ、こんなにもOB会は隆盛しなかったであろう。
座がややしんみりしたところで。
「とにかく、乾杯しようゼ」
「又来年も来れるようにな」誰も笑わない変に真剣である。
「今年の新入生でえらい美人がいるらしいぜ。待ち遠しいナー交流会」
「しょうがねえなーエロじじいは」
「お前に言われたくないヨ」
「うははははは」
「ほほほほほ」
「ひひひひひ」
ともあれ、山中湖の夜は更けてゆくのである。
さあ、早く寝ろ老人ども
明日もいい天気だ
※この物語はフィクションであり、実在する人物、団体とは一切関係ありません。
48
今も青春?
1969 年度卒
境
昭彦
ローンテニス同好会、創立 40 周年記念おめでとうございます。
思えば、ローン入ってからテニスを始め、途中ブランクがありますが、体力維持の為、
現在もテニススクールに通っています。
昭和 41 年大学入学と同時に神田駿河台校舎中庭でローンに入会しました。練習は青山、
大久保?西川口、当時はクレーコートですので、
ローラーで土をかためてからスタートです。
練習前の準備体操はこれで十二分に汗をかきました。
その影響か現在道路会社勤務です。
一週間に一度位の練習でした。初心者ですので、うまく教えてはもらえませんでした。
自分で、千駄ヶ谷の競技場の壁打ち練習、昼間の私の練習時は誰もほぼいません。使い放
題状態でした。
第 1 回の合宿は野沢温泉近くの北竜湖からスタートしました。早朝マラソンを行ない、
当時は水も制限される時代でした。
午後の振り回しで、沢山の部員が黄色や赤い太陽をみて、倒れました。
夕方になると「ぶよ」にさされて、たくさんの人が夜さされたところが、腫れあがりました。
「ぶよ」の居る所では屋外スホーツ等はやめましょう。
昭和 42 年は秋田合宿。8 月 27 日から 9 月 4 日でした。
当時は旅行も兼ねていました、なぜかここに秋田合宿の歌集があります。りぼんで飾られ、
みんなしてうたうべしとか、スポーツは人間だけのもつ文化の一つである。とかかいてあり
ます。60 数曲のものです。
当時は、ギターもラケットと一緒に持っていきました。重かったな!
多分昭和 43 年に?
ローンテニスでダンスパーティーを主催しました。パーティー券を
売ることが、大切でしたが、売れば、変わりの券を相手から、買うことになります。
ダンスパーティーは目黒パークレーンで開催、バンドは紅白のバックバンドもやった、
小野満とスイング・ビィーバーズと一流でした。成功でした。
収支は黒字でローンテニスの会計に入り、後輩は、何年かは楽な会計をしたのではないで
しょうか。ダンスパーティーの関係で税務署にも行き、わたしも良い経験をしました。
しかし、練習をしていないダンスパーティー直後の対抗試合は体力もなく、大敗で、苦い思
い出です。
今も、ローンの同期や同時代の仲間とテニスをする機会があると、青春時代の懐かしい思い
出がよみがえります。
49
昭和 43 年 4 月から昭和 47 年 3 月までの学生時代
1971 年度卒(第 6 代主将)
佐
藤
達
男
私が在学したのは、戦後約 25 年経過した、まさに高度経済成長の真っ只中の時代でした。
アパートの家賃は 1 ヶ月 3,000 円で、仕送りは 10,000 円でした。
家賃は毎年値上げされましたが、仕送りは変わりませんでしたので、この差額はアルバイト
{中央郵便局での郵便物の仕訳、長崎屋で佐々木ハム−佐々木淑恵さん(同期)の実家−の
店頭販売など}で凌いだということです。正にインフレの渦中に身を置いていました。
兎にも角にも、お金が無くて 3 年の時にあの関口映子さん(同期)とのデートも、大学⇔
有楽町⇔晴海埠頭と歩いて行って、帰ってその間、飲まず食わずで、御茶ノ水から定期で新
宿まで帰った、記憶があります。勿論、関口さんはあの美貌からして、私如きに奢って呉れ
るわけは有りません。中学・高校とほとんど女性の居ない青春期を過ごした私にとって、仕
方ないことですが今考えればもう少しなんとか、ならなかったか残念でなりません。
就職は、企業に行けば内定と日当・交通費が貰える、今では考えられない時代でした。
当時は公害など経済成長の矛盾が出始めた頃で、社会の体制、大学の体制に学生が不満をぶ
つけました。
これが、日大全共闘議長秋田明大を中心とした学生運動の始まりです。ここに社会主義的
なイデオロギーが入り込み、社学同ブンド派、民青、革共同革マル派、中核派、など各セク
トは百花繚乱の呈でありました。
当時の記憶の一つに、
学生と機動隊が衝突するのを御茶ノ水駅前の食堂の 5 階から石井恭
子さん(同期・今の妻)と 2 人で眺めていたような気がします。2 年の秋ころです。それに
してもあの催涙弾は、よく目に沁みるものです。中央大学もこの嵐の中で、S43 年 10 月か
ら S45 年 2 月まで学生運動排除のための、ロックアウトによる大学閉鎖になりました。
従って、この当時在学した学生は、当然ながら授業は無く、又学年試験はレポートで私を含
めて学問的レベルは相当低いことが、想像出来ます。何しろ 4 年間の内 1 年半は何もしてい
なかったのですから。
私は、新宿南口の6畳のアパート(風呂は銭湯・トイレは共同)に住んでおりました。当
時の新宿南口は、草、茫々の東京都の浄水場と甲州街道と文化服装学院があるだけの、夜は
真っ暗で、甲州街道を行き交う車の明かりを頼りに歩いた殺風景な地区でした。このアパー
トは H3年に私が会社の東京支店に勤務した折、訪ねたところ殆んど当時と変わらずに、ま
だ在りました。驚きました。
ローンテニスには、大学中庭で滝野英一さん(4 代主将)達に誘われて入部しました。
中学・高校とテニスを部活でやっていましたので多少腕に覚えがありました。
50
この時期、同好会活動も変革期にあって、他大学との対抗戦の設定(慶応、早稲田、独協
など)、関東大学同好会連盟加入、文学部の西海太郎教授(故人・皆さん合掌)にローンテ
ニス部長就任のお願い、今では当たり前になった夏合宿地「東照館」の永続的使用の決定{藤
田君(同期)が奔走してくれた}、部内紅白戦の企画など色々有りましたが、大学が休校状
態であったので出来たと思います。
当時のスタッフは主将が私、副主将が、興銀に行った理論派の今井廣さん、マネージャー
は、テニスでは目が出なかったが企画力があった藤田總夫さん、会計は、いつも現金と帳簿
が会わなかった静岡八幡屋社長の中村陽史さん、宴会担当は、何でも口を出した成城グリー
ンプラザ副支配人だった澤入博雄さんの 5 人。
又、神田神保町のイロハ寿司(今はビルの地下に在る)には、大変お世話になりました。
「ある時払いの催促なし」を初めて実感しました。お金の工面をしたのが、2 浪 1 留の澤入さ
ん。お世話になりました。
石井さんとは、1 年先輩の山下恒郎さん(現在独身:浜田山居住中)の紹介で 3 年の時に
音楽会(ほとんど、興味は有りませんでしたが)に 3 人で行き、それから何と無く、付き合
い初めて今日に至りました。石井さんは、当時アイドルで、優しい人でありましたが、子供
達もそれぞれ独立し、今の関心事は、孫と金しか眼中に無い、物凄く逞しいおばさんになっ
てしまいました。
会社からそろそろ戦力外通告が来そうなのですが、家の借金が終るまで働かされそうです。
戦力外通告とは、年収が半分になって、子会社に転籍することをいいます。そうすると、家
の借金の返済は侭ならず、従って石井さんに、どこか年収の多い会社で働いてもらうことを、
お願いしなければならない、状況になりそうです。
このような事もあって 51 歳の時からランニングを始めました。走っている時は、頭の中
は真っ白で、何も考えられず、リフレッシュには丁度、良いのです。
静岡国体最終日の H15 年 10 月 30 日に、ハーフマラソンの一般市民ランナーとして出場しま
した。完走者中最下位でした。エコバスタジアムの電光掲示板に名前と所属が乗りました。
感動しました。因みに現在 1km を 4 分 30 秒で 10km 走ることを目標としています。
嘘も、真実も書きました。皆さん真面目に読まないで下さい。
まあ次の写真をご覧頂いて、ご判断下さい。
51
1968 年(昭和 43 年)5 月
4代主将勢揃い
稲留(3代)
定期練習
滝野(4代)
1971 年(昭和 46 年)
紅白戦
当時最強無敗のダブルスペア
52
於日比谷公園
竹山(5代)
於綾瀬?
今井廣 & 佐藤達男
佐藤(6代)
1970 年(昭和 45 年)
紅白戦
上高田?
佐藤談「石井さんは優しい人でした、もちろん今でも!」
佐藤達男(22 歳)
1971 年(昭和 46 年)
石井恭子(21 歳・現佐藤夫人!)
ローン有志で伊豆旅行(堂ヶ島)
佐藤談「関口さんはよく気の付く女性でした。今どうしているのかな?」
関口映子(22 歳)
佐藤達男(23 歳)
53
「ローン・クローバー・わかもの・ポーム」
1973 年度卒(第 8 代主将)
吉
川
隆
明
(はじめに)
私はローンの第8期生ということになりますか。当時の全学連やフォークソングの時代か
ら40年。10年一昔の4倍、「早いものです」がまずは実感です。先日現役とテニスをし
たところ、ご両親と同じ年と聞いて「恐ろしい」とも思いました。
さてまずはOB会を結成され長年続けて来られた初代の先輩方、そしていつもOB会に誘
って下さる諸先輩に敬意と感謝を表したいと思います。
いつも中心的にやってこられた現OB会会長の金子尚道氏、全方位的に面倒見の良い幹事
長の郡山利行氏、ホームページなど広報をしてくれている吉元章雄氏、現役の面倒をひたす
らに見ている坂本千治氏、さらに現役を飲みに連れて行き焼き肉屋と寿司屋を「はしご」す
るヘビー級おごり魔の光明一磨氏に勝手ながら誌面を借りて感謝申し上げます。
さて「昔のこと」折角ですので少し振り返って見たいと思います。
(クローバーのこと)
時代は大阪万博の頃、ローンは総勢80名位。「わかもの」と「ローン」しかなかった時
代です。「創設・分裂の時代」と言えばそれまでですが、実は「クローバー」は「ローン」
から出たのであります。
当時キャプテンを拝命していた私にとっては、大きな「事件」というか「事変」でありま
して、インパクトが強く、今でも結構トラウマになっております。自分がキャプテンの時に
ローンを分裂させてしまった、申し分けない、自分の不徳のいたすところだという心境です。
私が2年生の終わり頃、休学してアメリカとドイツに留学されていた先輩が二人、ローン
に戻ってこられ、同じ学年に編入となりました。「海外組」という感じです。また二浪の同
期が数名、この方々によってクローバーが結成されたのであります。学生時代に年が2歳違
うと私たちが子供に見えたのでしょうか、「吉川の体制は古い」とか何とか言われ、こちら
も先輩から受け継いだ通りにやるとかいろいろありました。
極めつけは「新歓コンパ事件」です。今思えば何の罪もない新入生にとってはたまったも
のではなかったと思います。新歓コンパの終わり頃、海外組の先輩と私が取っ組み合いのケ
ンカになってしまったのです。ついにという感じでした。私はケンカに弱いので、押し倒さ
れた時に徳利が割れて背中に刺さって流血!私も下からパンチを入れたのを覚えています。
恐ろしい新歓コンパでした。新入生にとっては「暴力クラブ」と思ったでしょう。
54
その後「クローバー」ができました。しかし一番嬉しかったのは、ローンからは後輩が2
名移っただけで、後は残ってくれたことです。実際には役員以外の会員にはローンから出て
行った訳がよく分からなかったというのが真相だと思います。裏返せば、役員が会員に対す
る説明責任を果たしていないということです。
そんな訳でその後ローンを発展させてくれた後輩に感謝を込めて、
ここ10年ほど夏合宿
をはじめいろいろなイベントに参加させていただいています。
ところで最近になって、実はクローバーが出来たのは、創立者が私と同期の女性と一緒に
テニスをしたかったので、その受け皿としてクローバーを創ったという噂を聞いてビックリ。
いろいろ悩んだ私はいったい何だったのでしょうか?
噂の真相をご存知のOBがいらっしゃったら教えて下さい(笑)
(ポームのこと)
実は時を同じくして「わかもの」から「ポーム」が生まれました。創立者は逆井(さかさ
い)彰氏です。確か3年の中大カップの時、逆井氏が「おい吉川、今度新しいクラブを創っ
たんで宜しく、名前はポームだ!」と声をかけてきました。私は「逆井、お前はわかものの
キャプテンじゃないか?」とビックリしてしまいました。現役キャプテンが新クラブを創っ
てしまう、不思議な時代だったのであります。
逆井氏とは最近旧交を温めています。逆井は日本プロテニス協会理事長の渡辺功氏にかわ
いがられ、現在は保険会社をやっています。その逆井氏が飲むと「ローンはいいよな」とよ
く言うのであります。「何で?」と私が尋ねると、
「だってローンにはOB会があるじゃない
か」とその理由を言います。さらに「あれ、ポームにはOB会は無いの?」と尋ねると、
「だ
ってクラブを創るのに精一杯でOB会のことまで考えなかったし、後輩も創ってくれなかっ
た。OB名簿も無いし、時々会いたくなっても連絡がとれないんだよな」とのことでした。
逆井氏のポームの話を聞いてOB会の活動はいろいろありますが、
少なくとも懐かしい人
と、気が向いた時に連絡が取れるように「OB名簿」を地道に作成・管理してくれてきたロ
ーンのOB会、これが基本だと思いますが、改めて感謝の気持ちです。
(アフターテニスクラブのこと)
長々書いてしまって申し訳ありませんが、最後にPRを一言。実は昨年ローンのOBと私
の地元テニス仲間で「アフター」(その後という意味を込めて)という名称のクラブを創り、
東京多摩社会人リーグ(1〜15 部・300 チーム)に参戦しています。若手OBも頑張ってく
れて、現在3連続優勝中です。試合の打ち上げの時にでみんなで優勝カップで飲むビールは
また格別です。
また試合会場では1部リーグ優勝チームの徳丸豊氏をはじめ、小川満氏などけっこうロー
55
ンのOBと会うことができます。仕事、家事などで忙しいかと思いますが、一段落したOB・
OG諸氏のみなさん、参加希望の際にはぜひ坂本千治マネージャーにご一報下さい。
最後に中大ローンの益々のご発展をお祈り申し上げます。
2005 年 7 月
アフターTC
前列右側より
多摩社会人リーグ
13 部優勝
吉川、阿川、1人おいて坂本、矢澤、
後列右側より
吉元、2人おいて浜中、澤口
56
祝
中大ローン40周年
1980 年度卒(第 15 期) 松浦 俊夫
中央大学ローンテニス同好会40周年、おめでとうございます。今回のご案内をいただき、
ふと振り返れば私も卒業してすでに25年(拉致被害者の蓮池さんと同い年?)が経とうと
しています。4 年の春、白子において後輩や同期の声援を背に力の限りボールを打ち返した
恒例の2−1ストローク、肩を組み感動に涙しながら唄った【惜別の歌】つい最近の出来事
のように鮮明に思い出され、今、パソコンのキーを打ちながら当時を思い出し感慨に耽って
おります。
☆ 思い出のシーン
●
駿河台の溜まり場【喫茶ソフィア】お勧めはスパゲッティナポリタン
うまい!
●
雀荘【南風】いったい何人の仲間と卓を囲んだろうか!
●
新歓コンパ【池袋
●
【西川口青木公園テニスコート】【川崎テニスコート】【浜離宮テニスコート】【井の
養老の滝】ガラスを割ってご迷惑をおかけしました
頭公園テニスコート】御茶ノ水から随分遠い練習場所であった。
●
【東照館】毎年7泊×4年間=28泊+強化合宿
4泊
計32泊
女将の慶子さん
今でもお元気でしょうか?
●
【むかい荘】毎年7泊×4年間=28泊 【わかもの】が使っていた白子観光ホテル
が羨ましかった?
●
【八王子移転】溜まり場は一階食堂中央壁面右角、私用・公用ノートもそこにありま
した。
●
2年連続準優勝【団トー】決勝は二回とも WTC【早稲田テニスクラブ】二年連続決
勝でポイント落としました。申し訳ない!
●
【百草園テニスクラブ】
【八王子ローンテニスクラブ】【東宝調布テニスクラブ】何回
テニスをしただろうか?
●
ローンのライバル・・・・・女子が多い【わかもの】実力の【ポーム】
●
同期4人で下宿していた【柚木コーポ】ああ、懐かしい。
●
学年合宿【戸狩の民宿】
【掛川いこいの広場】【豊里の民宿】
【清里ペンション】
●
【喫茶モナコ】【インベーダーゲーム】【パチンコ
【食堂まるひろの餃子定食400円】【心に残る
57
ニコニコ
オリンピア
モナコ】
かぐや姫・風の数々の名曲】etc
振り返れば楽しかった思い出ばかり、とにかくテニス三昧、同好会でありながら勝負にこ
だわる練習と試合、初心者・経験者共通の練習量、テニスのあとは酒、馬鹿騒ぎしながらも
同好会運営のための意見交換が激論になることも!メンバー揃えばマージャン、
遊びのため
にはアルバイト、そんな【中大ローン】が私は好きでした。
それぞれの場面に思い浮かぶ同期・先輩・後輩。テニスという共通のスポーツを通して多
くの友人にめぐり合えたことが、自分の将来に大きな影響を与えたことは事実でしょう。
(妻もここで知り合った女性であることも)
更に社会人としての基礎である人間関係の大切や上下関係の大切さ、
そして組織体におけ
る一個人の役割、今考えると、この4年間の経験が今の私の考え方の基礎になっていると感
謝しています。
時代が変われば考え方も変わることは自然の流れです。しかし中大ローンテニス同好会が
40年もの長い間、毎年、世代が変化しながらも存続・反映し続けていることはすばらしい
ことだと思います。これは、各世代のみなさんが発足時のマインドを継承しながら、その時
その時に精一杯の努力(苦労・楽しみ・感動 etc)をしている証しでしょう。
テニスの楽しさを分かち合おう!
テニスを通して良き友人を作ろう!
このマインドが続く限り、
中大ローンは永久に不滅です。目指せ!50周年、100周年
最後に、OB 会幹事の郡山さんはじめ役員のみなさん、そして、現役役員のみなさんには
お骨を折っていただき本当にありがとうございます。この場をお借りして御礼申し上げます。
西海太郎先生と 1980 年度卒一同(春期白子合宿)
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1980 年度卒
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合宿風景
テニスマガジン
1979 年1月号より
サークル紹介
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テニスマガジン
1979 年1月号より
サークル紹介
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テニスマガジン
1979 年1月号より
サークル紹介
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「ナイスショット!」
1982 年度卒
吉 元 章 雄
1978年4月、私は中央大学に入学した。法学部や経済学部などもある中から、私が文
学部を選んだのは、世の中は歴史をもって動いている、だから何にでも役に立ちそうだし、
自分自身が歴史が好きだったからだ。そして、大学に入学した目標はもう一つあった。なる
べくたくさんの友人を作って、いろいろなことを学ぶことだ。いわゆる「社会勉強」という
やつである。いろいろな人間のいろいろな考えに触れ、自分自身を少しでも高められればと
思った。
そんな気持ちで入学した西洋史学科の担任であったのが、西海太郎先生である。この出会
いが、私の現在に大きく影響している。私が幹事であった最初のクラスコンパで西海先生と
話をした。西海先生はローンテニス同好会というサークルの顧問をしており、このサークル
は非常に強く、関東のチャンピオンもいる。また非常にまとまりのある楽しいサークルなの
で、ぜひ君も入らないかと誘われたのである。友達をたくさん作りたいし、スポーツもやり
たいと思ってい私はローンテニス同好会にすぐに入会した。
入会した最初の歓迎コンパで、小川満さんと出会った、この方が西海先生の言っていた関
東のチャンピオンである。その方は同じ文学部であったが、何と5年生であった。この方と
の出会いも私のその後の生き方に大きく影響を与えた。こんな出会いのきっかけとなったの
は西海先生であり、先生にお会いしなければ、ローンテニス同好会にも入らなかった。
さて、まずクラス担任としての西海先生は、どうであったか。正直言って私は勉強しない
学生だったので、いつも居眠りばかりしていた。また西洋史の授業なのにエスペラント語の
試験があったりして、もちろんちんぷんかんぷんであった。このように勉強に関しては、落
第生であった。ただクラスで文集を作った際の、西海先生の寄稿には、共感するものがあっ
た。このことも、私の「社会勉強」を加速する一因となった。
<1979年
中央大学文学部史学科西洋史学専攻
1年15・16組
文集>
数年に一度当番でクラス担任になった。春四月陽光さん然とした日を選び、クラスの諸君
を宅に招きのち、市川の里見公園の桜の花を皆で観賞し、矢切の渡しをわたり、寅さんで有
名な柴又帝釈天に参詣、草だんごを食べて散会というのを慣例的コースにしていた。今は諸
君の多くが東京の西に住んでいるので、このようにはできない。しかしクラスの幹事が新コ
ースを選定してくれるのを期待している。
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今年は後半期に翻訳書・日本名「ヒトラーの前夜」の出版で忙しすぎ、十分に諸君のお世
話ができなかった。お詫びしたい。硬式テニスの練習に忙しかったのも事実である。
私の出身校旧制三高の寮歌「行春哀歌」の一節に「・・・暮るるにはやき若き日の、宴の
庭の花筵(むしろ)、足音もなき時の舞」がある。うっかりすると知らず知らずに速かった
青春の時が過ぎて行く。諸君は諸君の青春のひととき、ひとときを大切にして、互いに友情
を深め、学問に、スポーツに、芸術に充実した生活を送ってくれるよう希望する。
私の学生時代は嵐の始りの小波から戦争とファシズムの時代へと全盛会が移っていく過
渡期であった。これで高校一年生の時に漢文学を専攻しようと考えていたのだが、二年のと
き、キリスト教ヒューマニズムの典型の如き栗原基教授(旧仙台藩槍術指南役の家柄)や、
寮や庭球部の先輩の影響を受けし仏語やエスペラントに親しみ、ついに西洋史を専攻するよ
うになった。われながら人間は変るものなのだなという感じがするが、ともかく、私のはあ
ちらにぶつかり、こちらにぶつかりする青春時代であった。中大でもそうだし、昔は酒の一
升瓶を携えて卒論の相談に来ましたという豪傑もいた。今は萬事合理的になっている。これ
はこれで結構だが、しかしせめて卒業後でも時折年賀葉書くらいは寄こして欲しいなと私は
思う。私はその年か、或は記録していて翌年に必ず返事を出す。それから諸君のような若い
学生と接すると、気も心も楽しいので、できるだけ引っぱり出してほしい。
大学構内では、西海先生の教官室へ行くこともほとんどなく、先生とのコミュニケーショ
ンもなかったのであるが、テニスコート上では別である。西海先生の方から積極的にローン
の合宿などに参加され、精悍なテニスをされ、我々を圧倒していた。奥様と一緒にこられ、
学生と一緒にテニスをされるのだが、当時六十歳も後半なのに、手の届く範囲のボールは確
実に返球され、ラリーが途切れることはなかった。また奥様も四十歳を過ぎてから始められ
たとのことであるが、西海先生と一緒にプレーされているため、これがなかなかの腕前であ
る。そして、お嬢さんの「みさごさん」も早稲田で上位にランクされていると聞き、そんな
テニス一家に私はあこがれた。
私が三年生の春に西海先生は、退官なされた。その時ローンから退官記念にと腕時計を贈
呈した。私も卒業し、二十代後半から三十代前半までテニスから離れた。運動不足や心のリ
フレッシュのため、再度テニスを始め、スクールにも行き始めた。またローンのOB交流会
へも参加するようになった。近年は府中の森というところで行うのだが、その会には西海先
生も参加されていた。最晩年は片肺を切除されたと言うことでテニスはされなかったが、そ
れまでは、お元気にラケットを振られ、相変わらず的確にボールを打ち返していた。その姿
に、「西海先生のように一生テニスをしていたい」と思ったのはたぶん私一人ではないと思
う。テニスを実際にプレーされなくても、コンパでテニス談義をされる西海先生は、私がロ
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ーンに勧誘された時と全く同じ表情であった。そして何よりうれしかったのは、
「退官時に
ローンからもらったんだ」と、あの我々がお贈りした腕時計をOB交流会でいつも自慢げに
見せていたことである。
ここに中大ローンの1982年の卒業文集「きづな」がある。巻頭は西海先生の惜別の文
章で始まっている。
〜
ローンテニス今昔
〜
中大を去る日を前に
西海太郎
皆さん、さようなら。私は早生れですから約20日の差で、1年ほど早い感じで3月末日
に定年退職します。1月23日に最終講義と、西洋史の研究室と、同窓会の共催の送別パー
ティをすませ、目下あれこれの送別会出席や残務整理に忙殺されています。
さて、縁は異なものという言葉通り、私は九州の旧制佐賀高校と新制佐賀大学の教師をし
てから中大へ転勤。その12年後の1967年に中大教員組合執行部で働き、五十嵐康男先
生と知合い、
この初代ローンテニス同好会会長五十嵐先生が、翌年成城大学へ移られる前に、
後任として私を当時のローンの幹部である稲留滋典さんたちに紹介されたのです。ですから
1968年(昭和43年)4月から今年の3月まで、実に14年間、私は会長(数年前顧問
と改称)を務めることになります。その間、まことに星霜移り人は去りましたが、中大ロー
ンテニス同好会そのものは健在を続け、ことに最近では極めてすぐれた戦績を残しているの
で、喜びにたえません。いま中大を去る日を前に、ローンとの思い出の数々が心に浮び、感
慨無量です。その思い出の一部を次に記させていただきます。
会長を引継いだ年の春は、中大の学費値上げ反対の学生運動が激化し、学長、各部長が連
続辞職。値上げ案は白紙撤回されて学園が平静化した直後で、私はほっとした安堵感を持っ
てローンのOB会である如月(きさらぎ)会に出席したように思います。如月と言うからに
は2月のことだったでしょう。しかし、記憶が定かでないので1年位違っていたら、当時の
4年生稲留・金子尚道氏にでも訂正をお願いします。ともかく1968年のローンの会員に
は、郡山利行、滝野英一君たち、下級生には諸橋明子、宇田川幸子さんなど全メンバーは約
30名。その年だったか、翌年か、夏合宿に茨城県高萩に皆が行った時、郡山君達に頼んで
長男の真樹(現中大大学院学生国際法専攻)を連れて行って鍛えてもらったことがあります。
ところで、老人の繰言のようなおのを並べて、紙面を塞ぐのは私の本意ではないので、中
大ローンの草創の頃の話は、今回はこれくらいで打切ります。最近のことは皆さんもご承知
でしょう。ただ、一言いわせてもらえば、どうもローンの役員・幹部の人々とだけ私はよく
知合って、他の諸君とは、私が顔だけ覚えていて、名と顔がどうも一致しにくいのです。こ
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れは私が一緒に練習する機会が少なかったので、当然のことですが、残念です。私がたまに
テニスコートに行ったとき、或はどこかで挨拶を交したとき、できるだけ名前を教えて下さ
い。合宿のときはなおさら。そして知合ったら、年に一度くらいは、電話番号帳を見ると私
の住所(実は江戸川区北小岩6―31―19)はわかるので、
年賀葉書でも送って下さって、
テニスの練習について私を激励して欲しいものです。私は今年で戦後復活第5回目になる旧
制一高対三高の庭球戦(11月3日文化の日挙行)に毎年欠かさず三高側で出席、プレイを
しています。京都と東京で交互に行われ、今秋は東大農学部コートであるので、暇のある人
は来て、いかに私が負けたり、勝ったりしているのを見て下さい。
今度は、日曜から金曜までは毎朝一時間半ほど、自宅付近居住の中大出身の税理士夫妻や
商店経営の青年たちと江戸川区小岩公園のコートで練習するつもり。これは「Pの会」と称
します。Pは仏語ぺー
paix、英語のpeaceのことですが、何よりもPを頭文字と
する日本人は無く、ボールにPと印したら、他とまぎれにくいのです。「Pの会」は時々夕
方とか土曜日も練習するので、皆さんの誰でも来られるのを歓迎します。もう一つは、北小
岩テニスクラブで、これは勤めを持っている青壮年の会で、女性以外はかなり上手ですが、
土曜日午後コートを取れず、たいてい毎日曜日の練習。私が会長でしたが、昨年末引退して
名誉会長です。たまには来て、遊んで下さることを期待します。他に旧制佐賀高校のテニス
界も年に一回有り、私はたいてい出ています。
退職後、しばらく私はもっばら著作研究に従事し、どこへも働きに出ません。年に一回く
らい外遊するつもり。テニスは健康保持のためにも大切ですから、できるだけ続けたく、皆
さんに時折は仲間に入れて下さるようお願いします。テニスはなかなか難しい球技なので楽
しいけれど、非常な忍耐も必要ですね。続けてやるという堅忍不抜の精神を皆さんとともに
持ちたいと思います。それとともに、心の余裕、落着きも必要ですね。それを考えるとき、
私がいつも思うのは、中大文学部の初代学部長・ドイツ文学者吹田先生が、私の長女みさご
の誕生に際し、当時の中大後楽園校舎で色紙の上に墨痕あざやかに私の眼の前で書いて手渡
して下さった次の歌です。
水仙の
花に見入りぬ
かくてありなん
われもまた
けふのひと日を
1960年初夏
吹田順助
時々は先生のような心境になりたいと念じています。現代の忙しさの中で、なかなかこの
心境は味わえません。凡夫の浅ましさでしょうか。しかし、少なくともテニスをしている時
だけは世間的な雑念が無くなり、実にすがすがしい気持です。この、一面では白けた世の中
で、また大学でテニスを一緒にできた諸君とは心から親しみが持てます。虚心坦懐のつきあ
いができるからでしょう。ことに、わが中大ローンテニス同好会は、良い伝統を持ち、よい
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先輩がいるし、礼儀も実に正しく、練習に熱心で、みな親切なので感じ入っています。その
良い伝統を守りつつ、皆さんが中大ローンテニス同好会をいっそう育て発展させて下さるよ
うに願います。対外試合にもまた優勝して下さい。
(1982年2月8日
午前2時30分)
1999年7月、奥様から西海先生が亡くなられたと電話があった。私はローンOB会の
広報担当であったため、可能な限り連絡をとった。またクラスの仲間にも連絡をとった。そ
して、友人達と葬儀場に向かった。葬儀は自由葬ということで、祭壇にたくさんの花が飾ら
れ、私も拝聴した西海先生の最終講義のテープも流された。
最後のお別れに献花が行われた。
私の順番になり、先生の棺をみて思わず叫んでしまった。
「ナイスショット!」 先生の棺にはテニスラケットとボールがちゃんと納められていたの
である。「先生、最高ですよ」とあふれる涙をこらえながらお別れを告げた。こんな西海太
郎先生の生き方を、今後私はローンの各世代に伝えて行きたいと思った。
追伸
10月にジャパンオープンテニス2000の仕事をしました。ローンのネットワー
クを通じて回ってきた仕事なのですが、最近衰退気味のテニスを再活性化させるという目的
の仕事です。何か先生が天国で、「テニスをもっと盛りあげてくれ」と言っているような気
がして、気合い入れて仕事してしまいました。
※2001 年 8 月 15 日発行 「自由な精神の遍歴 西海太郎先生追悼・遺稿録」に掲載された
私の原稿をそのまま再掲させていただきました。私の時代と故西海先生の時代を皆様に少し
でも感じていただければ幸いです。
(吉元)
「自由な精神の遍歴」と「絆・1982 年号」
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1981年のあの日!
1984 年度卒
せんじ
こと坂本千治
40周年おめでとうございます。私も卒業して早20年、いやぁ〜早いものですね。
「何故ローンに入会したのだろう?」 思い起こせば、私の場合は中大に合格が決まった瞬
間に、既に「ローン」に入会するつもりでした。何故かというと、私の兄も中大で、そのク
ラスメートに吉元さんがいたからです。そこから悲劇(?)の始まりでした。(笑)
(そう言
えば初めての練習はルーデンスでしたよ!)
私の場合、既に兄や吉元さんを通してその頃の役員に名前を知られていた為、練習からコ
ンパに至るまで、いじられ放題でした。(その頃、酒も全く飲めませんでした。)当時、「ロ
ーン」は関東のサークルの中ではトップクラスでしたので、他の大学や中大の別のサークル
の学生に「中大ローンです」って言うだけで、
「お〜!」って声が帰ってきたもので、なん
か「東大です」とか「慶応です」って言っているようで、初心者で入会したのに、同期の仲
間と優越感に酔いしれたものです。だって、その頃は関東の個人戦(シングル)の決勝が、
ローン同士なのですから・・・!!
練習中は後ろから先輩達が、グリップがどうの、フォロースルーがどうの、といじられ、
独特なフォームが完成。
私は軟式テニスをかじっていたので、ウエスタングリップでしたが、
あの頃はイースタングリップを強制され、スイング軌道もサーキュラースイングをやらされ、
軟式テニスの上から下に向かって首にラケットを巻きつけるようにスイングしていた軌道
が、脇を開けて平行に押し出すようなスイングになり、今でもその打ち方は変わりません。
昔の打ち方のままなら、フェデラーやヒューイットみたいに、トップスピンバリバリだった
かも?(笑)また、私は当時では珍しく、家の車を結構自由に使えたので、諸先輩に夜のド
ライブに連れ回され(もちろん運転手)、徹夜でドライブしたものでした。そして、次の日
の練習はきつかった・・・!!(1年は玉拾いだからね)
そんなこんなで、妙にかわいがられたおかげで、少しずつ打てるようになり、役員(マネ
ージャー)を経験し、せっせと練習に出たおかげで、4年の時はシングルのレギュラーにな
ることが出来ました。(ボレーが出来ないからシングル・・・!?)
あれから20年、今ではテニスは生活の一部となり、ラケットを握らない週はありません。
プライベート以外に仕事の人脈作りでテニスをしています。最近ではローンOBと一部の有
志の方とクラブを立ち上げ、「多摩社会人庭球連盟」に加盟し、春・秋の団体戦に参加して
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います。(現役時代の団トーを思い出します!)
これからも私はずっとテニスを続けていくでしょう!そして時間がある限り、
現役の皆さ
んとテニスをする機会を作ると思います。もし1981年のあの日にローンに入会しなかっ
たらどうなっていたのかな?
ローンOBの人数は千人を超えました。全国に散らばっているOBの皆さんと、また会え
るイベントを今後も続けて欲しいものです!
1981 年度第9回関東庭球同好会クラブ対抗トーナメント
対早大テニスクラブ
6vs3
優勝
於武蔵野ローン
ちなみにみ女子はポームが優勝で中大アベック優勝!
(テニスマガジン 1982 年 1 月号)
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絆
1999 年度卒
澤口
遵
とうとう、自分が 4 年として絆を書くときがきた。
思えば 4 年間、殆どの大学生活をローンで過ごした気がする。
1、ローンに入ったきっかけ
入学当時、
中大のサークルがこんなに強いことも知らずどうせみんな遊びでやっているん
だろうと思っていた。高校時代に東北大会に出たこともあって結構自信を持っていた(後で
ネタにされていじめられた)俺は、現役で入った友達にローンがいいよといわれ自分から説
明を聞きに言った。当時 2 年の原さんの説明を聞いて大して魅力は感じなかったけど練習に
行くことにして、月曜の午後錬に参加した。そこで、カツオと竹村に会った。1 年生はその
日この 3 人だけで、後はたしか 2 年生の青木さんもいた。練習後に、あまりに変な話をしす
ぎて2人を引かせたことを覚えている。カツオに北野誠に似ていると言われた。
2、テニスのレベルを知る
ローンの練習に出て、うまい人がたくさんいるのに驚いた。柏木さんや農本さん、岩瀬さ
んたちと打った記憶があるが練習のラリーですらポイントを取れる気がしなかった。池田さ
んや吉健さんを見て安心していたくらいだった。このサークルでレギュラーをとることは無
理かな…と思った。ただ、1 年生の頃に対抗戦を殆ど応援に行かなかったので当時のレギュ
ラーのプレーを見ていないということが今思うともったいない。
3、合宿
1 年のときは夏合宿と春合宿に参加した。両方とも途中からの参加だった。夏は途中から
来たくせにあまりの球拾いのつらさに参ってしまった。あの合宿では楽しかった記憶はない。
2 度とここ(東照館)にはくるまいと思った。春合宿は、今だから言うけど勘違いして行っ
た。セレクをやるものだと思いマネージャーの中島さんに元気よく行きますと言ってしまっ
たので、引っ込みがつかなくなってしまったのだ。でも、この合宿は行って良かった。4 年
生がすごくよくしてくれたし、コンパ芸で横綱土俵入りをやり結構受けたことでなんか自分
が認められた気がしたからだ。
4、トム
豊田にあるテニススクールでレッスンをはじめたのが 2 年になってすぐだった。
これをや
ったおかげで球出しが普通にできるようになりスピン以外の球も打てるようになったので
良かった。それから、今はできなくなってしまったけど夜トムや朝トムで練習したおかげで
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テニスが上達したと思う。
5、2 年生になって
新勧は花見係をやり結構大変だった。2 年生中心とはいえしっかりやっているのは 3 年ば
かりで 2 年生はあまりこなかった。2 年生の中心は竹村だったが、本当にがんばっていた。
何であんなにやれるのだろうと思った。当時自分は「何で自分がこんなことをやらなきゃい
けないんだ」と思っていたから(これは、学年会や役員の仕事をやるときにみんな思うでし
ょう)、竹村と自分との間にかなり意識の差があることを感じた。
後輩ができたことで、サークルの練習に出るのがとても楽しくなった。俺が役員をやろうと
思ったのも、彼らがいたからだったのは間違いない。後に、蒲生に「ローン辞めさせてもら
う」と言われたときも、一瞬自分も辞めようと思ったがすぐに 1 年生の顔が浮かんできて自
分は頑張ろうと思った。
6、対抗戦
この頃の対抗戦にいい思い出はない。1 年の時のわかもの新人戦では中村龍司に負け(そ
の上足をつる)、2 年のわかもの戦では同じ相手に 4‑6、5‑2 でバックハンドのロブでポイン
トを取ってサーティラブにし、声を出してガッツポーズをした瞬間右足にブチッという音と
ともに激痛を覚えその場に倒れこんだ。インジュアリーをとったがほとんどポイントを取れ
ずそのまま 5‑7 でセットを落とし、病院に直行した。医者に肉離れだといわれて大ショック。
数日間松葉杖をついて過ごした。不本意ながらこの頃から試合でけがばかりするやつという
レッテルを貼られた。しかし、その 1 ヵ月後に日大ダルク戦でフルセットの末勝ち対抗戦初
勝利。うれしかった。
7、学年会
学年会が、5 月の下旬から始まった。何を話したかあんまり記憶にない。たいした話もし
なかったのだろう。こういうつけは、後からくる。でも、意識が伴わない時期に話し合いを
しても無意味だ。この時期の学年会は、学年内でまず仲良くしてお互いの事を知り、サーク
ルに対する考え方の違いを認識しあい、どういうサークルにしていくべきかを話し合って、
次第に意識を高めていくことが重要だと思う。夏合宿でも強化合宿でも、下にだめな姿は見
せられないと思い個人的にはすごく頑張った。でも、素振り最終日の朝ダウンして気まずか
った。後でカツオと竹村にいじめられた。ただし、学年としてはばらばらでまとまりはなか
った。
この合宿のときに、竹村と2人で渉外は竹村、マネージャーは俺ということで話をした気
がする。このときは竹村が俺に対して頼むって感じだった。どうやら彼はマネージャーをや
りたくなかったらしい。俺は何でもやるつもりになっていたから、少なくとも役員をやる気
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がある人が近くにいて安心した。だから、強化合宿で竹村が大怪我をしたときはすごく不安
になった。3 年生も言っていたけどこのまま消えるんじゃないかと思った。でも、これは本
当に竹村がえらいと思ったのは、やめると言っていた蒲生や安藤に会って説得していたこと
だ。足を引きずりながら会いに行っていたらしい。俺なんかより全然マネージャーらしい動
きをしていると思った。
8、学祭など
学祭のときは、もう忙しすぎたという記憶しかない。徹夜明けの翌日は髪がべたべたにな
ってカツオに顔を見ただけで笑われた。クリパの時には俺は完全に裏方に徹し、カツオやサ
ンチェが目立つ場所で盛り上げて結構面白いものになったと思う。俺の横にいたDJも清水
と村松のコントやアリサの芸見て受けてたし。こう考えると、うちの学年は役割分担が自然
にうまく行っていた気もする。しかし、このときのクリパといえば救急車に乗った事件が忘
れられない。H君がトイレで固まっているのを見たときは、本当に死んでいるのではないか
と思った。病院に運ばれて大分落ち着いたのを見て安心したけど、始発まで病院で待つのは
寒かったのですごくつらかった。ほかにも帰れなくなってファミレスでオールした人もいた
みたいだけど、電話したらみんな楽しそうで自分の立場をうらみもした。
2 月のよみうりランドで稲垣吾郎を見て、その後にもっとすごいものを見たことも忘れら
れない。(見た人、思い出させてすみません)
9、3 年になって
その後もいろいろあったが、結局 6 人で運営をやることになった。ただ、この頃に渡部が
戻ってきたことはうれしかった。電話して誘ったかいがあった。ただ、勧誘がうまくいかな
くて 1 年生をたくさん入れることができなかったのが残念だった。結局、今 2 年生が苦しん
でいるのは自分たちの勧誘の失敗のせいなので本当に申し訳なく思っている。
そのせいもあって、特に水曜日の練習に人が少なく午後錬に俺、近江、千恵の 3 人しかい
なかったこともあった。それから、雨の降った午前など近江と二人で車で待機ということも
あった。そういう時、いつもしゃべりすぎて静かにしていたかった近江の邪魔をしてすみま
せん。でも、あの 1 年間精神的につらかった俺にいろいろと話に付き合ってくれて感謝して
いる。前に本人にも言ったけど、千恵とうまくやっていけなかった中で近江の存在は大きか
った。
10、初レギュラー
3年のカップでついにレギュラーになった。うれしかったけど、シングル5という自分の
立場と、実力で取ったというよりは周りのレベルの低下によるものというのは分かっていた
ので複雑な心境だった。
周りの人に言われなくても自分のレベルがレギュラーに達していな
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いのは明らかだし、2 年の頃からいや 1 年の頃から自分がうまくなっていないのも感じてい
たので、4年生やカツオ、竹村にそういった指摘をされるたびにおちていた。レギュラーと
しての成績は、わかもの戦で石川に勝ったのみの 1 勝 3 敗(アクティ戦含む)だった。
レギュラー落ち候補ナンバーワンということで、それをひっくり返そうと頑張ったけど、強
化合宿のセレクでやっぱり落ちた。ただ、このとき負けた中でも少しはうまくなってきてい
る兆しを感じてはいた。それだけが救いだった。
11、キレる
春合宿は雪、夏合宿は雨であまり合宿らしい合宿ができず運営の時の合宿は不完全燃焼だ
った。その分運営が終わるまでは気を抜かずに最後までやり遂げようと思っていた。その 3
年生のときに2度ばかり本気でキレたことがある。もはや半分ネタにされているが、1 回目
はサンチェが学年会をマージャンでブッチしたときで、素振りについて話し合おうとしてい
た重要な学年会だったので許せなかった。2 回目は団トーの試合の待機中にコンビニに行っ
た 3 人に怒鳴り本気で怒った。運営の人間が常識的に考えてもすることではなく腹が立つと
いうよりむしろ悲しかった。
12、下への引継ぎ
当時の 2 年生は、やる気のある人が多かったのですんなり変われるだろうと期待していた。
でも、何度か学年会に顔を出したけど、話し合いがまとまらずちょっと歯がゆかった。みん
な、自分の言いたいことばっかり言っていた。それは大事なことだけどその時期が長すぎた
し、4 年のプレッシャーもきつかったし見ていて報われない学年だなと思った。まあ、最低
限の顔合わせがぎりぎりにできたのでまだ良かったと思う。
13、食中毒
大事件だった。栗田と一緒に病院で世話をしたけど野戦病院のようというか、目も当てら
れない状況だった。合宿は途中で中止になるし、宿との交渉も大変だったし。詳しい話は、
向こうのこともあるので書けません。この話は、就職活動で自己PRとして使った。効果は
あったかどうかは分からない…。
14、4年になって
前期は就職活動もろくにせず、ブッチして練習に行ったことのほうが数えてみると多かっ
た。楡井とかに何であんたいるのみたいにいわれて笑っていたけど練習でたほうが楽しかっ
たし、カップで就職活動を言い訳にしたくないというのもあった。おかげで、1 年生とも仲
良くなれたけど年の差を知るたびにブルーになった。みさ子にはOBと間違えられるし。
(傷ついた)
1 年生と仲良くできたおかげで最後の 1 年間楽しむことができた。ありがとう。
73
15、レギュラー復活
カップのセレクでレギュラーに復活した。この年の 1 月頃からうまくなってきたのが自分
でもわかっていたし、1 年前とは立場が違うシングル2だったのでうれしかったと同時に、
勝たなきゃいけないというプレッシャーも感じ始めていた。このセレクでは、まず竹村とや
った。2‑5 ダウンから 6 ゲーム連取して勝った。誰もが、竹村が勝つと思っていたようだっ
たので、逆に絶対勝ってやると気合が入った。でも翌日おがけんにあっさり負ける。練習し
ていたわりには、カップで結果を残せず申し訳ない気持ちでいっぱいだった。成績は、わか
もの戦で千田にタイブレークで勝ったのみの 1 勝 2 敗だった。クローバー戦で負けてほかの
人にプレッシャーを与えたのが悔しかった。
団トーのセレクでは、竹村とまたやって今度は負けた。ファーストセット、クピクピ、ハ
ーハーやりながら2時間近くもかかって取ったのに次の日あっさり 2 セット取られて負け
た。結構おちた。そのあと、矢沢とやってファイナル 3‑5 ダウンとなったが、そこからふん
ばって逆転した。苦しいセレクだったがシングル 3 として団トーに臨めるのでうれしかった。
それだけに、あんなことになって本当に悔しかった。泣きたい気分だった。(追記:メンバ
ー登録漏れが発覚し、3回戦でDEF負け・・・当時は本気で留年しようかと思いました)
俺は、レギュラーでいた期間は短かったけど、今のレギュラーの人たちは長くその立場でい
ると思うので、現状に満足しないでもっと上を目指してください。そして、準レギュラーの
人たちはレギュラーに追いつき追い越せるように努力してください。そうすることで、どん
どんサークルは強くなっていくと思います。
※4年の最後に書いた文章を少しだけ直して1箇所だけですが追記したものです。
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中大ローン40周年おめでとうございます
2002 年度卒
2002 年度卒の中庭
祐(なかにわ
中庭
祐
ゆう)と申します。
福岡でたばこの営業をしております。
福岡は、飯はうまいし、女性はきれいだし、とってもいいところです(全国どこでもそうだ
と思いますが)。
こちらでもテニスサークルに入っていますが、年下の新入部員が入ってこないので、いつま
でたってもパシリです。
私は今でも、
「ローンに入ってよかった、自分はツイてるなー。」と思います。
素晴らしい先輩、仲間、後輩に恵まれ、充実した大学生活をおくれましたし、
卒業してからも、私の心の支えとなっているからです。
そんな私の「心の故郷」であるローンが、これからますます楽しいサークルになっていくこ
とを願っております。
2003 年 2 月
4 年最後の白子春合宿にて
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<現役の皆さんからの寄稿>
ローンで良かった
現役 4 年
金澤
匡浩
ローン創立40周年おめでとうございます。僕の大学生活はローンでの思い出でいっぱいで
す。テニスを楽しむだけでなく、このローンでいろいろな人に出会えたことにより本当に楽
しい時間を過ごすことができました。役員をやっていた時はいろいろと問題も起こり、辛い
と思うこともありました。しかし、今となってみればそれも良い思い出で、この貴重な経験
を通して自分を成長させることができました。2 年生の役員を決める時は本当に悩みました
が、役員をやって本当に良かったと思っています。
僕たちが卒業してもローンはすばらしいサークルであり続けてほしいと思います。また、中
大カップ優勝、団トーでもすばらしい成績が残せるよう頑張ってほしいと思います。そして、
50 周年、100 周年とまたこうしてみんなで祝えたらいいと思います。
祝*中大ローン 40 周年
現役4年生
大 橋 咲 子
これだけ大きなサークルが 40 年間にもわたって続いてこられたというのはすごいことだ
と思います。現役の合宿にいつも参加してくださるなど、目に見えるかたちでたくさんの
OB・OG さんたちが支えてくださっていることがローンのこうした発展の大きな力になって
いると思います。OB・OG の皆様、ありがとうございます。
50 周年の時には、私たち現 4 年生はみんな 32、3 歳。どうなっているやら、怖いような、
楽しみなような・・・。みんな元気で、50 周年パーティに集まれるといいですね!
76
☆
40ANNIVERSARY☆
現役4年生
私は2002年に中央大学入学したのと同時にLAWNにも入会しました♪
村澤
梨紗
1年、2年
生の時はなんとな〜く気が向いた時に参加をするっといった形でしたが、そんな私も3年生
の時には女子マネージャーとして運営に参加させてもらい、大学に通うより、立川ルーデン
スに通う回数の方が断然多いという生活を送っていました(^3^) 規模が大きいという
こともあって、キャンパスを歩けば必ずといっていいほどLAWNの会員に会って、つい教
室を横目にそのまま遊びに行ってしまうという毎日が4年になった今でも続いています。
やっぱり、大学で一番得たものは LAWNの仲間かな って思っています(^O^)v
特に、3年次にマネージャーを経験したことでその輪はますます広がったかなって・・・♪
その中でもOBの坂本さんにはほんとーによくしていただいてます☆
繋がりが深いサークルというのもLAWNの良さですよね!?
て本当にすごいですよね(^―^)
こういった上との
40年間続くサークルっ
その基礎を築いて下さったOBさん、OGさんに感
謝するのと同時に、大好きなLAWNが今後もずっと明るく活発なサークルとして代々続く
ことを、下級生に期待して・・・
LAWN40周年を迎えて
現役4年生(第 39 代渉外) 福嶋 正芳
私たちのLAWNが今年40周年というひとつの節目を迎えます。40年という長い期間
サークルが存続しているということは、LAWNに他では味わえない魅力があるからであり、
そこが自分たちの誇りとなってゆくのだろうと最近感じています。自分も今社会人まで後半
年と迫ってきましたが、LAWNのOB・OGの方々が各方面で活躍されている裏には何か
しらLAWNで培ってきたことが生かされているのではないでしょうか?自分も就職活動
を経験し、少し分かったような気がします。(某金融機関から「きみは声がいいね!」と言
われ内定を頂きました・笑)
さて、自分はLAWNで去年まで渉外として関わってきたので対抗戦の話でもしようかと
思います。LAWNの行事の大事な一角を担う「対抗戦」ですが、現在のLAWNは昔に比
べて実力が落ちてきてしまっているかもしれません・・・。中大カップは今年3位でした。
77
しかし、LAWNの対抗戦のよさ自体は失われていないと自負できます!
自分は渉外という立場からカップ・団トーを経験し、LAWNの対抗戦には心の底から熱く
なれるパワーがあると感じました!選手・応援立場は異なっていても、「勝利」という目標
のために会員すべての思いを結集させてパワーに変えてゆくLAWNの姿は、今も昔も変わ
らないのではないでしょうか?
自分も大声援の中プレーする機会を得ることが出来、LAWNの強さを肌で感じることが出
来ました。そんなサークルだからこそ去年の団トーで男子が負けたとき、涙することが出来
たんだと思います。青春ど真ん中でした!!
LAWNのよさは何も対抗戦だけではありません。練習・合宿・企画etc様々な面で爆
発させています。そんなLAWNをこれからも現役がアレンジして、より魅力あるサークル
にしていってもらいたいです。もちろん、あと半年間は自分も現役の1人としてがんばって
いければと思います。そして、10年後にはさらに魅力あるサークルとして成長していって
もらいたいです。最後に・・・
LAWNよ
永遠に!!
78
79
絆
現役4年生(第 40 代主将) 松浦 章広
僕たちがローンに入ってから早くも 3 年がたちました。40 年という長い間、ローンとい
うサークルが活動を続けていることに驚きます。その 40 周年という節目の年に運営として
たずさわることができて嬉しく思います。
現在のローンの会員は約 200 人で中大で1,2を争う規模のテニスサークルです。ローン
の良いところは人数が多く、様々な人とつながりがもてるところにあると思います。特に
OB さん、OG さんとのつながりが他サークルよりも強いと思います。僕がローンに入るきっ
かけとなったのがローンの OB である徳丸さんです。僕がバイトするテニススクールでヘッ
ドコーチをしていた徳丸さんがローンを勧めてくれました。他サークルと迷っていたのです
がローンに入って本当によかったです。徳丸コーチ、ありがとうございました。そんな徳丸
さんのもとへ坂本さんがよく遊び(仕事?)に来ます。2 人は同期ではないようなのですがと
ても仲がいいです(本人達は否定するかもしれませんが
笑)。歳に関係なく何年たっても
仲良くできるのはすばらしいことだと思いました。僕もそうなりたいです。
ローンの近況を報告します。今年も多くの 1 年生が入り、楽しそうに練習・企画に参加し
ています。たくさん 1 年生が来てくれると嬉しいです。やはり 1 年生は華ですね。2 年前が
懐かしいです・・・。今年のカップでは 3 位という悔しい結果に終わってしまいました。ロ
ーンは今まで 1 度も優勝したことがありません。毎年優勝できる力は持っていると思うので
すが後 1 歩およびません。近いうちに必ず優勝したいと思います。正規練・合宿では新しい
メニューを加えたりと、より盛り上がった練習を目指しています。また今年から関東の役員
になったり、現役用のホームページを作ったりと新しいことに挑戦しています。今まで受け
継がれてきた伝統のよいところを残し、それに新しいものを加え、よりよいサークルを作っ
ていきたいです。
ローンはこれまでに、そしてこれからもよりよく進化していくでしょう。OB・OG のみな
さん、これからもローンを見守っていてください。現役のみなさん、これからもローンを盛
り上げていきましょう。以前、OB の吉川さんが飲みの席で「ローンは今 40 年だけどこれか
ら 50 年、60 年、んで 100 年、200 年って俺らがいなくなっても続くんだよ!」と言ってい
ました。本当にそうなってほしいと思います。僕のローン生活は残り少なくなってしまいま
したが、悔いのないよう精一杯楽しみたいと思います。
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絆
現役3年生
平 岡 卓 朗
一年の時に気軽な気持ちで入ったローンがもう 40 周年という節目を迎えるということで
歴史の重みを感じると同時に先輩方の偉大さも感じます。
あいさつが遅れました。三年生の平岡卓朗といいます。せっかく絆に寄稿する機会を頂い
たので少し自分のことを書かせてもらおうと思います。正直なところ大学では資格のために
勉強しようと思っていたので、入学当初は大学生活にはたいした期待を持っていませんでし
た。でも、高校のころから続けていてテニスが好きだったのでどこかサークルには入ろうと
思っていました。そこで、真面目にやっていて楽しそうなローンにすぐ決めました。実は中
大2位のサークルであればそこそこ強いし、その上自分でもレギュラー狙えるかななんでい
う不純な動機もありました。(ちなみに自分は未だにレギュラーにはなれてないです(笑))
そんな流れで入ったローンですが、今は精神的にとても強い支えになっています。3年生
になって資格試験の勉強で忙しくなって週に一度くらいしかローンに参加できないけど、練
習にいったりたまり場に遊びに行ったりするとみんな久しぶりでも暖かく迎えてくれます。
特に5月の試験の前日に自分が真っ白な顔でたまり場に行ったときにみんなが驚くと同時
に応援や励ましの言葉をくれたり、当日の朝にメールをくれたり、試験が終わった当日と次
の日に試験お疲れ会を開いてくれたりしました。これまでも自分がローンにいてよかったと
思うときは何度もありましたが、あの時が一番そう思いました。ローンでできた友達は卒業
後も交流を持ち続けたいと思います。
自分の大学生活にとって重要な一部分であるローンにはほんとにいろんな人がいます。こ
ういう大きな歴史あるサークルはそうそうあるものじゃないし、今後も長く続いていってほ
しいです。100年とか…いくんですかね。今後もみんなにとっての大事な生活空間であり
続けてほしいと思いました。
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絆
現役3年生(第 40 代渉外) 大星 良貴
ローン40周年おめでとうございます。40年というと自分の2倍近く存在しているとい
うことで本当に歴史を感じます。僕は渉外をやっているので対抗戦について少し書きたいと
思います。今年のローンは中大カップ3位という結果に終わってしまいました。準決勝で敗
れ、そのまま優勝したわかものとは実力的には本当に紙一重だったと思いますが、魂のよう
なものでは完敗だったと思います。
僕は個人的には対抗戦というのはサークルとサークルの
魂のぶつかり合いだと思っています。炎天下の中、何十人という人が、声を枯らしてあほみ
たいな大声で自分のサークルの選手を応援し、勝利の喜び・感動と、敗北の悲しみ・悔しさ
を分かち合う光景には本当に各サークルの魂が感じられます。来年こそはローンの魂を強化
して、カップで優勝して、ドローの最初の歴代優勝サークルに「ローン」の名前を刻みたい
ものです。さてもうすぐ団トーが始まります。団トーではローンは過去優勝経験があります、
が近年女子は2年連続シード権を取っているものの、男子は・・・という感じです。今年は
男女共にカップの借りを返すべく、ローンの魂を団トーで存分に発揮したいです。
絆
現役3年生(第 40 代広報) 増井 嘉央
梅雨も上がり、一段と暑さが加わる頃となりました。最初は手書きのほうが味がでるだろ
うと思い、ペンを持ったのですが、あまりにも自分の字の下手さに動揺を隠し切れずパソコ
ンを使っている次第です。
さて、今回40周年の絆を作成するにあたって何を書いていいか正直全く決めていません
でした。ですから今回はあえて僕がローンに入会するきっかけについて少し話したいと思い
ます。
それはまだ僕が初々しい1年生の頃、どんなサークルに入ろうかと新歓時期に大学構内を
あちこち歩き回っていた時でした。そのとき偶然、僕の高校の先輩にあたる大橋さんに出会
ったのが始まりでした。もともとテニスはあまりやる気はなかったのですが、これもいいき
っかけだと思いローンのたまり場に足を踏み込んだのです。その後、ローンには何故か自分
と同じ高校で同じ部活を共にした同期・先輩が4人(穴沢・大橋さん、笠原さん、坂内さん)
も入会していました。偶然呼び止められて、たまり場にやってきた時から僕のローン生活は
82
もうすでに始まっていたのです。
1年生の頃はあまりサークルというものに慣れてなく、人見知りも激しい時期だったので、
ただひたすら練習・行事に参加するのが日課でした。夏合宿では最初から体調を崩してしま
い、その頃の女子マネージャーである池田(瑞)さんや総務の出口さんには、大変お世話に
なりました。今思えば僕がこうしてローンの役員として運営をすることができるのも、あの
思い出があったからこそなのかもしれませんね。全く不思議なものです。僕も残り半期の運
営を思いっきり楽しんでいけたらいいなあと思います。
2年生になってからはある意味、自由気ままにサークルを楽しむことができました。学年
合宿・学祭などでは自分達の学年が中心となって活動することができました。その反面、運
営についてはまだあまりわかっていない部分も多く、先輩や同期に対して反発していた時期
もありました。しかし、それがあったからこそ今の自分があるがあるのだと今は自信を持っ
て言えます(笑)
3年生になって思うこと。それはやはり後輩は可愛いということです。たとえ1年生であ
っても2年生であっても、自分達がいざ運営の立場になると後輩はある意味癒しの存在なの
かもしれませんね。僕が卒業する頃には誰かしら運営に携わっているわけですが、その際は
自分の思うがままに精一杯ローンを引っ張っていってくださいな。(あまりに自分勝手だと
困りますが…)
あと、僕は今年から現役のホームページを作成した管理人なわけであります。みなさんご
存知でしたか?これからもホームページをローンの皆様に楽しんでいただけるよう日々努
力していきたいと思います。何か気付いた点・要望がありましたら遠慮なく管理人まで御連
絡ください。→[email protected] (増井まで)
最後に広報から(何十年後、絆を見て今ローン内で最も流行っていることについて…)
・3男1女カップル(自分は現在取り残され中であります)
・セブンブリッジ(クソが…ふんっ!!)
・Myブログ→題名は「テンセイジンゴ」
大学生活とはいかなるものか
(現3女マネに内容を見てもらったが、ガンびきされて、気まずい中)
以上
83
ローン40周年おめでとうございます!!
現役3年生(第 40 代会計) 淵野 淳
私がローンに入って早くも3年目ですが学年が上がれば上がるほどローンの偉大さとい
ったものを感じる今日この頃です!!ローンを創立してくださった方たちには感謝感謝の
毎日です!!さすがに毎日はウソかな…
自分は役員にもかかわらず、早くも一年生にバカにされているようなのでしっかりと先輩
としての威厳を持たなければとあせっている毎日ですが日々充実しております…ちなみに
最近一年生に声をかけるときの言葉は『俺一応三年だから』…(笑)自分が一年の時の役員
さんはもっと輝いて見えたんだけどな〜たしか…
会計という仕事をやっていて思いますが、ローンの中で会費を集めるのはなかなか大変な
ことですね〜。
さらにローンはギャンブル好きが多いから困る…
ギャンブルをやられる方は事前に良く考えて!!
ご利用は計画的に!!
後期も皆さんのご協力【期限までの支払い】期待してますくん!!
おもひでぽろぽろ@ローン
現役3年生
平 菜々恵
なんだかんだ細々ながらもローンに所属させてもらってます。私がローンに入ったのは、
変な話で、テニス用具を何一つも持っていないのにお買い物会でテニスシューズを買ったこ
とが大きな理由です。
むしろお買い物会に行く時点では入ろうとは考えてなくて、何も買わずに帰ってくるつも
りだったのです。それがいつの間にかシューズ売り場でまったりしていたら、「この靴なん
かいいんじゃない??」
というセンパイの言葉に「あぁ〜そうですね。
・
・うん、いいかも!!」
とかなんとか言っていつのまにか買っていました。なんて調子のいい・・・。
そんな感じであれよあれよという間に入ってました。今にして思えば良かったなあなんて思
ってます。たぶんローンに入ってなかったらテニスをするという発想は一生なかったんじゃ
ないかしらと思います。
みんなと話すのにはたいそう時間がかかり、
ほんとにうまくやっていけるのかなという心
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配はしょっちゅうでしたが、周りの友達に支えられつつ、段々と居心地も良くなってきまし
た。噂話の広まることの早さには毎回驚きますが。ローンでのおもひではたくさん増えまし
た。花火したり、映画みたり、飲んだり、食い倒れたり、泣けることも笑えることもいっぱ
いあります。
そんなふうに過ごしている私ですが、たまり場には今でもめったに行きません(笑)。ロ
ーンへはたまにひょっこりとお邪魔しています。たまに参加するのは、私の中でかなりの勇
気がいることでしたが、ローンの皆がかまってくれるのでまた行こうかななんて思います。
とりあえず楽ちんでとても好きです。普段は経理研行ってるので、NO 運動 NO 筋肉になって
いく自分がなんか嫌でそんなときはローンにくりだしてぜいぜい言いながらテニスするこ
とにしてます。
みんなでワイワイするのが好きなのでボーリングに行ったり、飲んだり、様々な行事があ
るローンはもってこいです。たぶん。
こんなてきとうなノリの私でもローンの一員になれてほんとに良かったです。
皆さまどう
もありがとうです。
これからもローンが末永く続くことを心から願っています。
僕の大学生活=ローン
現役3年生(第 40 代企画) 細田 智輝
中大ローンは今年で40周年という節目の年を迎えたわけですが、
この記念すべき年に企
画としてローンの運営に携われていることを誇りに思います。僕の大学生活=ローンであっ
て、もしローンに入会していなければ全く違った大学生活を送っていたことでしょう。そし
て自分も全く違った人間になっていたと思います。いままでのローンでの体験・思い出はと
てもかけがえのないものであり、まさに priceless です。本当にローンに入会してよかった
と思います。
あの雨の降る入学式の日に僕を勧誘していただいた宮嵜雅也さんには心から感
謝しています。僕はローンでの活動を通して現役会員はもちろん、OB・OG の方々とも多く
の交流ができました。これはローンがひとつの大きな「絆」で結ばれているからだと思いま
す。僕も卒業して社会人になってからも先輩 OB・OG のようにこのローンの「絆」を忘れず、
ローンに関わっていきたいと思います!
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☆LAWN40周年おめでとうございます☆
現役3年生(第 40 代関東) 大場 伶
早いものであっという間に大学での 3 年間が過ぎます。
なりゆきで入ったLAWNですが、その生活で感じたことは、LAWNの人はあたたかい、
ということです。今私は関東をやっているのと同時に、関東連盟の役員も平行してやらせて
いただいています。忙しいですが色々な経験ができ色々な人や考えに出会え、とても充実し
た中身の濃い日々をおくれていると思います。これができるのも今の役員や先輩方が、どん
なときでも親身に話しを聞いて支えてくれているからです。
いつ参加しても必ず誰でも優しく迎え入れてくれる、そんなサークルに所属でき、これか
ら卒業してもずっと仲良くしていきたい人々に出会えて、本当によかったと思っています。
これからも長所を生かし、さらに 10 年、20 年後このLAWNが発展していくことを願っ
ています!
おめでとう!LAWN40周年
現役3年生(第 40 代白庭) 篠原 正之
どうもこんにちは。第 40 代白庭の篠原と申します。LAWN は 40 年前と変わらず、今も中
央大学のテニスサークルを引張っている存在です。白門庭球同好会連盟に所属しており、先
代のOBの方々のおかげで中大オープンも今年で 33 回目を迎えます。毎年様々なドラマが
生まれるこの大会を運営できることを光栄に思っております。
また白庭の先輩であるOB光明一磨さんには普段から大変お世話になっており、この場を
お借りして、深く御礼申し上げます。
これから LAWN の発展、また今までの伝統を守るため、現役とOBの皆様との「絆」を大
事にし、サークル活動を頑張っていこうと思います。
通過点ですが、とりあえず 40 周年おめでとうございます。
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現役2年生年を代表して
現役2年生
藤野 雄二
僕たち第二学年は人数が50名ほどの学年です。うちの学年にはローンのイベントに積極
的に参加している人、練習にたくさん参加している人、サークルに姿は見せないが自分たち
でコートを取りたくさん練習しているテニスに熱い人、たま〜にサークルに現れる人、溜ま
り場だけに現れる人など様々な人がいます。一年生の初めの頃はたくさん練習やイベントに
行く人は多かったのですが、一年生の終わりにはサークルに姿を見せる人がかなり減ってし
まいました。
しかし二年生になり一年生を歓迎する新歓期の活動を経ることで徐々にまた人
数が増え、そして新しい学年として練習もスタートし、三年生のサークルを運営している大
変な姿を見て自分たちにもサークルを運営していく時期が近づいてきたことを自覚し始め
ました。そして少しずつ参加する人数がまた増えてきました。五月になってからは学年会も
始まりサークルについて話し合う機会が増えてきました。
そして三年生と一年生の間でサー
クルとどういう関わり方をしていくべきか等を考えています。三年生のサポートをしたり、
一年生の面倒を見たり、練習を盛り上げていったりといろんなことがあります。
まじめに書くのはこのへんまでにしときましてやっぱりローンはテニスサークルなので
第二学年のテニスについて話していきたいと思います!うちの学年は一年生時にレギュラ
ーが出ない(ゼロは男子で女子は二人いました)という近年では珍しい事態を起こしてしま
いました。ずば抜けてテニスがうまいという人がうちの学年にはいないのです。かといって
強烈な個性を持った人がいるわけでもないわけです。こままではまずいと思っていた皆さん
たくさん練習をしたのだろう、春に何とかリザーブを含め男子5人の女子5人出ました!役
員になったときにレギュラーいませんなんて緊急事態を起こさないために何とかレギュラ
ーの座を死守してもらいたいものです。でも学年自体の平均的なテニスのレベルはそこそ上
だと思っています。ですから勉強もいいですけどテニスもたくさんやってくれるといいと思
います。
テニスの話も終わりにして、僕たち第二学年はもう少しで役員という立場になりますが、今
まで40年間先輩方が築いてきた伝統を崩さぬよう先輩たちをみならい僕たちも頑張って
いきたいと思います!!そして来年こそ中大カップ優勝だー!!!
93
ひとつでも多くの思い出を
現役2年生
今井 千賀
LAWN に入ってあっという間に1年半が過ぎてしまいました。普段の練習に加え、バーベ
キューや夏合宿、クリスマスコンパなどたくさんのイベントを通して、自分も LAWN という
大きなサークルの一員なのだということを実感することができました。
大学に入ったばかりの頃は慣れないことばかりでしたが、LAWN の先輩方はテニスのこと
以外にも、大学生活全般の先輩として参考にさせてもらうことが多かったので、自分自身も
うまく乗り切ることができた気がします。2年目に入り、1年生がいっぱい入ってきて、そ
の元気なパワーに驚かされることが多々ありますが、今の 1 年生の参考に少しでもなれるよ
うにできたらいいなと思っています。
今年はレギュラーとして同学年も試合に参加するようになり、応援する楽しさを改めて知
りました。同じ学年の人が頑張っている姿を見ると、テニスの技術的な面はもちろんのこと
ながら、精神面の強さにも感心してしまいます。普段一緒に冗談を言い合ってふざけている
友達でも、試合での真剣な顔を見ると、応援する気持ちも強まります。これからさらに同学
年の人が活躍してくれることを楽しみにしています。
また、残り少なくなっていく大学生活の中で、ひとつでも多くの思い出を LAWN で作って
いけたらいいなと思っています。
2005 年 8 月
山中湖
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夏合宿
祝 40 周年 中央大学ローンテニス同好会
1968 年度卒
1966 年度卒
中央大学ローンテニス同好会 OB 会会長
社会保険労務士白門会 幹事(広報委員)
社会保険労務士
中大ローン 初代主将
株式会社コトヴェール
金 子 尚 道
小 川 克 保
〒234-0052
神奈川県横浜市港南区笹下 6-32-4
TEL&FAX045−844-6942 携帯 090-5191-4030
〒195-0072
東京都町田市金井 7-5-17
TEL:0427-34-3812
1966 年度卒
1966 年度卒
ニュー東京観光自動車株式会社
藤
株式会社龍保険事務所 東京支店
井 弘 文
松 島
〒116-0003
〒204-0023
東京都清瀬市竹丘 3-5-15
東京都荒川区南千住
6-41-8
TEL:0424-91-8445 FAX:03-3801-7100
TEL:0801-7101(代)
〒221-0861
神奈川県横浜市神奈川区片倉町 751
TEL:045-481-6215
1966 年度卒
井
宗
1969 年度卒
株式会社 竹中土木
上 紘 一
郡 山 利 行
〒849-1315
佐賀県鹿島市三河内甲 1964
TEL:0954-63-3647
〒125-0035
東京都葛飾区南水元 4-13-9
TEL:03-3627-2941
1969 年度卒
皆 川
1969 年度卒
仁 士
北 村
〒196-0001
東京都昭島市美堀町 5-20-2-301
TEL:0425-41-1475
馨
〒184-0013
東京都小金井市前原町 3-24-2
TEL:0423-81-1033
95
祝 40 周年
中央大学ローンテニス同好会
1969 年度卒
滝 野
1969 年度卒
英 一
境
昭彦
〒245-0067
神奈川県横浜市戸塚区深谷町 110-39
TEL:045-852-0353
〒272-0836
千葉県市川市北国分 2-27-14
TEL:0473-74-0577
1969 年度卒
1971 年度卒
壁紙・塗装・施工
株式会社サンセーコー
藤
田 山
田 總 夫
重 雄
〒343-0833
埼玉県越谷市蒲生南町 19-5
TEL:0489-88-5461
〒221-0861
神奈川県横浜市神奈川区片倉町 281
TEL:045-491-8947
1971 年度卒
1973 年度卒
木・草・和紙・ゴム素材
佐 藤
有限会社マテック
達 男
恭 子
代表取締役 吉 川 隆 明
〒186-0004
東京都国立市中 1-11-25
TEL:0425-77-0080
〒424-0052
静岡県静岡市清水区北脇 78
TEL:0543-47-2243
1973 年度卒
1982 年度卒
Goals & Visions
有限会社ゴール・アンド・ビジョン
ヤマハリビングテック株式会社
マーケティングディレクター
谷 治
吉 元
博 史
章
雄
〒166-0012 東京都杉並区和田 3-31-15-201
TEL:090-3810-7928 FAX:03-5306-6649
[email protected]
〒182-0034
東京都調布市下石原 1-33-9
TEL:0424-83-4386
96
祝 40 周年 中央大学ローンテニス同好会
1970 年度卒
東照館
女 将
長
田 慶 子
三枝 やよい
〒401-0502
山梨県南都留郡山中湖村平野 210
TEL:0555-65-8750 FAX:0555-65-7793
〒407-0174
山梨県韮崎市穂坂町三ツ沢 2913
TEL:0551-22-0657
1991 年度卒
1984 年度卒
サッポロビール株式会社
光
明 一
ソニー生命保険株式会社
磨
ライフプランナー
〒272-0133
千葉県市川市行徳駅前 3-8-15
ドエル 35-204 号
TEL:090-1876-7551
坂 本 千 治
〒178-0063
東京都練馬区東大泉 4-24-16-102
TEL:03-5387-2718
97
祝 40 周年 中央大学ローンテニス同好会
T.Tennis は毎月5日発売!!
学研発行
98
祝 40 周年
中央大学ロ ーン テ ニ ス 同好会
国内初 TEMPEST(テンペスト)対策パソコン 「LEP-770T」
株式会社コトヴェール
東京都中央区勝どき三丁目 3 番 19 号 電話:03-5547-0666 FAX:03-5547-0980
ホームページ:http://www.coteau-vert.co.jp/
99
祝 40 周年
中央大学ロ ーン テ ニ ス 同好会
東京都荒川区南千住 6‑41‑18 〒116‑0003
TEL 03‑3801‑7101(代)/FAX 03‑3801‑7100
http://www.newtokyokanko.co.jp/
100
道雄
良隆
中央大学校歌
石川
坂本
作詞
作曲
一.草のみどりに風薫る
丘に目映ゆき白門を
募い集える若人が
真理︵まこと︶の道にはげみつつ
栄ある歴史を承け伝う
ああ中央 われらが中央
中央の名よ光あれ
二.よしや嵐は荒︵すさ︶ぶとも
揺るがぬ意気ぞいや昂︵たか︶く
春の驕奢︵おごり︶の花ならで
みのりの秋やめざすらむ
学びの園こそ豊なれ
ああ中央 われらが中央
中央の名よ誉あれ
三.いざ起て友よ時は今
新しき世のあさぼらけ
胸に血潮の高鳴りや
湧く歌声も晴れやかに
自由の天地ぞ展けゆく
ああ中央 われらが中央
中央の名よ栄あれ
あゝ中央の若き日に
︵中央大学応援歌︶
中央大学学友会 選定
古関 裕而 作曲
一.憧れ高く空ひろく
理想の光あやなせる
ああ中央の若き日に
伝統誇る白門の
闘い挑む旗仰げ
力︑力︑中央 中央
二.情熱︵ねつ︶と力の若人が
精鋭こぞりふるいたつ
あゝ中央の若き日に
雄叫︵おたけ︶ぶ血汐 紅は
闘魂たぎる火と燃える
力︑力︑中央 中央
三.我らが誇り覇者の歌
さんたり栄光我が生命︵いのち︶
ああ中央の若き日に
今ぞ座らん覇者の座に
いざ勝どきを揚げんかな
力︑力︑中央 中央
惜別の歌
島崎 藤村
藤江 英輔
大内福三郎
作詞
作曲
編曲
一.遠き別れにたえかねて
この高楼︵たかどの︶に登るかな
悲しむなかれ吾が友よ
旅の衣をとゝのえよ
二.別れと云えば昔より
この人の世の常なるを
流るゝ水をながむれば
夢はずかしき涙かな
三.君がさやけき目の色も
君紅︵くれない︶の唇も
君が緑の黒髪も
又何時か見んこの別れ
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<編集後記>
中大ローン創立 40 周年にあたり、
何か後生に残るようなものを作りたいと思い、
この「絆」
を提案させていただきました。40 年の歴史で中盤から後半がやや薄かったですが、それは
50 周年、100 周年の時に皆さんと一緒に埋めましょう。ローンの誕生、そしてクローバーや
ポームの誕生秘話が聞けただけでも良かったと思います。
今回寄稿頂きました方々、貴重な写真・資料を提供して頂きました方々、また原稿集めに
奔走していただいた方々、本当にありがとうございました。
なおお詫びもあります。時間が無かったのと段取りが悪かったので、編集は私一人の勝手
で行いました。校正が不十分で読みにくかったり、誤字脱字などが残っていると思いますが、
なにとぞ 40 周年と言うことでご勘弁下さい。
「流れを止めた水は、そのままほおっておけば、いつかにごるか、干上がってしまう」と
いうことわざがあります。40 年の間にいろいろな波風があったと思いますが、これからも
中大ローンというサークルも、私たち個人も流れ続けましょう。そしてテニスも一生続けま
しょう!
(1982 年度卒
吉元章雄)
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『絆』
普通
1807593
中央大学ローンテニス同好会
創立 40 周年記念号
発行日 2005 年 8 月 27 日
発行者 中央大学ローンテニス同好会(1965 年創立)
編
集 1982 年度卒
吉元章雄
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