橡 「玉砕」と言う言葉)

テリブル・タラワ 南海の島タラワで戦った将兵たち
伊
藤
由
紀
子
社
会
と
経
済
[ 概 要]
‘玉砕’ という言葉が国民の前に登場したのは、アリューシャン列島
アッツ島の守備隊が全滅したときであった。「忠義のために全員突撃し
て玉と砕け散る」という賞賛の表現 1) で、「全滅」が「玉砕」の文字に
置き換えられた。その後、マキン、タラワに始まる太平洋の島々で、と
どまる所を知らぬ玉砕戦が続く。マーシャル群島のクワジェリン、マリ
アナ諸島のサイパンやグアム、テニアン、さらにパラオ諸島のペリリュ
ーそして最後の硫黄島、沖縄へと、米軍は前進基地を攻略しつつ、本土
爆撃のための基地を確保していった。
タラワ戦は、米海軍と海兵隊がはじめて実施する珊瑚礁上陸作戦だっ
た。2 )余程精密な地図でないかぎり記載されていないような小さな島で
のたった76時間の戦闘で、米軍は上陸部隊 18600名3 )のうち、3407名の
死傷者をだし、そのうち1115名が戦死した。4) 一方守備側の日本軍4500
名は玉砕した。
アメリカの国民は、これらの島々がこの犠牲に値するとは思えなかっ
た。また通信員のルポルタージュを読んで、この殺戮がきたるべき多く
の上陸作戦の前例となることを恐れた。アメリカの世論をつくるジャー
−1−
ナリスト達でさえ、この戦闘の意義と犠牲の大きさを理解するのに時間
がかかった。米軍にとってタラワ戦の重要な意味は、彼らが学んだ教訓
にあったのだ。ここで得た知識と経験はその後の戦闘での犠牲を軽減さ
せ、タラワでの犠牲は海兵隊の闘志と勇気への名声を高めた。 5)
タイム誌はこうのべた。
「その戦場名は、米国民になじみ深いコンコード橋 *1 、ボンノム・リチ
ャード *2 、アラモ* 3 、リトル・ビッグホーン*4 、ベローウッド*5 、などの仲
間にいれられた。その名は、タラワである」6 )
独立戦争で米農民兵が英軍を撃破したボストン近くの古戦場。
独立戦争の時、仏政府が新生米国に寄贈した軍艦。英軍艦と交戦、
降伏させたが、同艦も沈没。米海戦史の最も有名なものの1つ。
*3
1836年メキシコ軍の包囲を受けて全滅したサンアントニオの要塞。
*4
南部モンタナの川。1876年この川岸でカスター将軍と部下がインディアンのため全滅した。 *
5
第 1次大戦で米海兵隊がドイツ軍のパリへの進撃をくい止めた所。
*1
*2
一方、日本軍守備隊員にとっては、拡大するだけ拡大した戦線への兵
站は連合国側に分断、阻止され、孤立無援のまま陣地を死守して玉砕す
るしか道のない、壮烈な戦いだった。
どんな戦いにも止むに止まれぬ開戦の理由はあるだろう。しかし戦闘
に参加した人々は、時代の倫理で規制され、その社会の流れの中で生き
ねばならなかった。批判を許されぬ世の中の動きに疑問を感じつつも、
戦争が唯一の選択でしかなかった。その後に続く特攻隊の若者たちも、
祖国を守るための最後の切り札となり、覚悟しきった自己犠牲の姿は何
とも痛ましく無益な事に思えるのである。
太平洋戦争のほんの一部であるタラワという島の戦闘のもようを、米
従軍記者の記事や日本の帰還兵の証言などを織り合わせて纏めてみる。
同時に、空と海からの猛攻撃の中で日本軍の将兵たちは何を考え、どの
−2−
ように死んで行ったのか、というより、いかに最後の瞬間を必死に生き
たのかを探ってみたいと思う。これは、米軍の兵士も同じである。自分
の命を最大限に生きられる平和時に比べて、戦時では、死と生は隣合わ
せにあるノーマルな状態なのだから。
作戦計画、攻略方法やその編成、数字などは日米の戦史に詳しいので
追わない。50年余りの平和のなかで、私たちは今の論理でしか対処でき
ないが、あれだけ連続した玉砕戦とは何であったのか、指揮下の部隊を
無駄死させないという努力がなかった日本軍の戦闘とはどんなものであ
ったのかを見つめ直してみようというのが目的だ。
[注]
1)新人物往来社戦史室編『玉砕戦全史』 (新人物往来社、1994)P.162
2)児島襄『太平洋戦争 下』 (中央公論社、1995)P.68
3)防衛庁防衛研究所戦史室著『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦 2
昭和17年 6月以降』 (朝雲新聞社)P.462
4)JOSEPH H.ALEXANDER『
(NAVAL INSTITUTE PRESS,1995)P.231
』
5)ヘンリーI. ショー/ 宇都宮直賢訳『タラワ 米海兵隊と恐怖の島』
(サンケイ新聞社、1971)P.196∼7
6)同上書、P.8
−3−
目次
ガルバニック作戦の目標・タラワ
タラワ戦に臨む米海兵隊員
恐るべき戦闘
*米軍挺身上陸 第 1日
*
*
第 2日目
第 3日目
*日本軍陣地の被害跡
*アパママとマキンの戦い
地図
主要参考文献
−4−
ガルバニック作戦の目標・タラワ
太平洋戦争の緒戦では、日本軍は破竹の勢いで進攻し、1942年 5月ま
でのわずか半年足らずの間に西太平洋と東南アジア全域を支配下におさ
めた。 1) しかし日本が主導権を握ったのはそれまでだった。同年 6月の
ミッドウェー海戦では、聨合艦隊は主力空母 4隻 (赤城、蒼竜、飛竜、
加賀) を失い、一線級航空機 300機と熟練塔乗員 120名を失った。2 )
パ
イロットは 3年間徹底的に教育しなければ一人前の戦士にはなれない3 )
という。ミッドウェー海戦に参加したのは、支那事変以来のベテラン・
パイロットたちで、海軍にとっては大切な虎の子であった。さらにその
2カ月後のソロモン群島海域における 3次の海戦と、ガダルカナル島争
奪の死闘及び、海上護衛と物資兵員の輸送などでは、3000機の航空機を
失い6000人の塔乗員を喪失した。4) 海軍は洋上決戦のほかに、艦艇の大
半をさいて護衛と輸送にあけくれ、その間、敵の潜水攻撃や空爆によっ
て夥しい損耗を強いられたのだ。しかも、国内での軍需生産は頭打ち 5)
になっていた。そして集団による ‘特攻’ という前例をみない作戦や、 ‘
玉砕戦’ を展開しつつ、戦局の悪化に伴い、 ‘一億玉砕 ’の思想へとエス
カレートしていく。
1943年 4月、ブーゲンビル島の上空で壮烈な戦死をとげた山本五十六
長官の後をついだのは、古賀峯一聨合艦隊司令長官だった。彼の作戦命
令は中部太平洋方面の防衛態勢を強化し、決戦主力はトラック島に待機
させ、敵の進攻を迎え撃つ6 )と言うものだった。つまり、空母に代わる
島嶼航空基地を強化して敵の進攻に備え、防戦の構えで時を稼ぎながら
戦力の補充を待とうと考えていたのだ。
ところが米軍の反攻は予想より早かった。タラワでは島の上陸拠点に
沿って南岸と東岸に対艦地雷を敷設していたが、北岸と珊瑚礁の入口に
−5−
は埋めていなかった。まだ3000基も埋め残しの地雷があるうちに侵攻は
始まった。何よりもセメントが届くのを首を長くして待っていたのを、
米海軍はULTRA (暗号情報) 傍受により知っていた。それは11月20
日タラワへ接近する米軍艦の前衛に柴崎司令官が敬礼したという異様な
光景からも察しがつくだろう。7)
他方、アメリカは戦備不十分のまま日本の攻勢に対処してきたが、ガ
ダルカナル戦中期ころから動員、生産は次第に軌道に乗り、攻勢に転じ
てきた。米海軍はこの年の11カ月間に 419隻の戦闘艦を建造し8) その勢
力を倍増していた。すなわち、1943年を日本が防戦の構えで迎えていた
のに対しアメリカは攻勢のための戦略樹立の年として迎えたのである。
この年の初頭から考えられていた中部太平洋進攻計画は 5月、ワシン
トンで米英参謀会議 (暗号名: トライデント ) が開かれ、米海軍作戦部長
アーネスト・キング大将の ‘執念’ により、結局ニミッツの作戦である
ギルバート、マーシャル諸島攻略と決定されるにいたった。9 )ギルバー
ト諸島は日本の重要な防衛線であり、連合国側にとっては、米濠連絡上
の目の上の瘤である。また巨大な基地トラック島の脅威を排除し、日本
への前進基地を設定するための第 1歩でもあった。10 ) 米軍はこの作戦を
“ガルバニック (電撃) 作戦” と呼んだ。11)
ギルバート諸島の要衝の島、日本軍が唯一、大型飛行場をもつタラワ
環礁のペシオ島が決戦場となることは避けられない。
タラワの悲運は、こうして登場する。
ギルバート諸島の防衛を担当していたのは、タラワ環礁のペシオ島に
司令部を置く第三特別根拠地隊司令官柴崎恵次海軍少将であった。1 2)
第六横須賀海軍特別陸戦隊の 902名、第七佐世保海軍特別陸戦隊1669名
−6−
、航空隊の技工兵30名の他、第 111設営隊および第四艦隊設営部隊分遣
隊2000名の労務者からなる非戦闘員がいた。13 ) 労務者の多くは朝鮮人で
戦闘訓練をうけていなかった。柴崎少将は、約3000人の兵を戦闘員と見
ていたが、残りの労働隊もペシオ防衛のために陸戦隊同様、大きな貢献
をしたのである。そして、この4601名中、19名の日本人捕虜と 129名の
朝鮮人捕虜を除いて全員が戦死した。1 4)
タラワは、パール・ハーバーの南西約4000km、トラック島からは南東
2000kmのところにある赤道直下の環礁である。
このタラワ環礁は38の小島からなっていて、小島の間の通路は干潮の
ときは水面上に現れるので、徒歩で渡ることができる。これらの小島群
はLの字を裏返したような形をしていて、南北30km、底辺は東西20km
にわたって散在している。海面下の珊瑚礁脈は、L字型のはなれた両端
を結んで三角形を形成し、その中に大きな珊瑚礁湖を抱いている。その
1ケ所に切れ目があり船が入れるようになっている。
この38の島の中で最も重要なのは南西端にあるペシオである。島の中
央部には、東西に走る長さ1400m 幅60m の滑走路がある。
地図で見ると、ペシオの島はちょうど小鳥が仰向けに横たわり、尻尾
を東にむけてのびているような恰好をしている。小鳥の腹部から500m
ほど突き出た脚は、波止場である。長さ 3.5km、幅は600m、一番広いと
ころで800mしかない海抜 1∼2mの平らな島である。米国防総省の建物
とその駐車場を合わせた面積よりも狭いこの島に、 4日間にわたって30
00
の爆弾が投下され、15 ) 5500名の日米将兵が命を落としたのである。
米軍公刊戦史は「太平洋に於ける最も強固に防衛された環礁」16 ) と言
−7−
っている。ペシオは紛れもなく島全体が要塞と化していた。柴崎司令官
は「百万のアメリカ兵が百年かかってもペシオを落とすことはできない
」 17 ) と言って日本兵を鼓舞していたという。
海兵隊戦史局のヘンリー・ショーが著書『タラワ』の中で、島の防御
施設の状況を記述している。それによると、
島の全海岸に沿って注意深く造成された 1連の陣地、トーチカと銃砲
の掩体壕があった。そしてそれらは鉄筋コンクリート製の司令部と繋が
っていた。各掩体陣地は、弾力のある椰子の丸太と珊瑚の砂をたがいに
重ねた厚い層で覆われていた。この吸収性と弾力性こそが、爆撃に強く
直撃にも耐えたのであった。米軍は、個々の防衛陣地をつぶし、一人ひ
とりの守備兵を殺す以外に方法はなかった。
島をかこんで海中には、コンクリートの三角材が珊瑚礁に植え込まれ
鉄条網の障害物が配置されていて、上陸部隊が自然に掩体の銃砲の射線
にはいるように工夫されていた。南岸は丸太の水中バリケードで防護さ
れていて、弾幕による死の罠が用意されていた 18 ) という。
従来の日本軍の常識からすれば ‘タラワの守り’ はほぼ完璧だった。
問題は米軍の投じた物量の圧倒的巨大さだ。それは、日本軍部の認識を
はるかに超えていたということである。
更にショーの記述によると、
日本軍にとって海岸は防衛計画の焦点だった。日本陸戦隊は上陸用舟
艇を撃破し、全火力を米軍の上陸点に集中して、水ぎわで撃滅するよう
命じられていた。この徹底した水際作戦の結果、内陸には連絡しあえる
防御組織が全くなかった。司令部、通信センター、弾薬集積所などの構
築物は艦砲射撃や爆撃ではビクともしないことを立証したが、所詮、こ
れらは攻撃のためではなく、防御のためのものでしかなかった。ひとた
−8−
び防御帯が破られると攻撃を受けやすかった。また破壊することは難し
かったが、日本軍を封じこめることはできたのだ1 9) という。
日本軍の戦略担当者は、米軍の目標は飛行場を備えた島だろうという
ことは予測していた。これらの島が頑強に死守すれば、敵の艦船はそこ
に釘付けになり、その間にトラック島から飛行機と艦隊が出撃してこれ
を撃破するという計画であった。
しかし米軍は、準備作戦としてまわりの島々を爆撃してタラワを孤立
させてしまった。しかもトラック島の日本の空母は、その 2週間前にラ
バウルとブーゲンビル島が猛攻撃された時、搭載機とパイロットを全部
南方へ繰り出してしまっていた。一連の空中戦で空母機は撃破されてそ
の 3分の2 と塔乗員の半分以上を失ってしまい、この米軍が “ ガルバニッ
ク ” と名付けた作戦に日本軍は有効な航空反撃ができなかった。2 0)
1943年11月13日にエファテ島を出た船団は17日、ハワイからやって来
た艦隊と落ちあい、ギルバート諸島へと進路をとった。
スプルーアンス提督指揮下の部隊は巨大なものであった。攻撃空母6
軽空母5 護送空母7 戦艦12 巡洋艦15 駆逐艦65隻と大型上陸作戦用輸送
船33、戦車揚陸艇29、その他の船舶 6隻に、陸軍爆撃機90機、海軍の爆
撃機および偵察機66機と 200機近い海兵隊の航空機よりなっていた。さ
らに油槽船、曳船ならびに付属船など22隻が兵站支援にあたり、偵察の
ため潜水艦10隻が参加することになっていた。21 ) 参加人員は10万 8千名
、 22 ) 南洋の小さな島を攻撃するのに大げさだと思うくらい、米軍は敵に
数倍する物量、兵員を準備した。
スプルーアンスは奇襲に成功することと、迅速に攻略を完了すること
つまり “電撃的な速度 ” で島を占領したいと考えていた。2 3 )
18日、日本軍の索敵機はこれを発見。 3機の爆撃機が日暮れに現れた
−9−
が、 2機は撃ち落とされ、 1機は行方不明となったため、ギルバートへ
接近する米機動部隊の情報は日本艦隊に届かず、従ってタラワ守備隊も
この時点では敵情については何も知らなかった。2 4)
翌19日より米駆逐艦、巡洋艦、航空母艦群がそれぞれ夜明けより日没ま
でタラワに砲撃を加える。昼頃までに、戦闘爆撃機が 150機、18機、 28
0機、 300機の 4波とB24 8機の来襲を受けた。25 ) 上陸直前の爆撃を加え
ると、3000 もの虱つぶし爆撃というものであった。
日本側がアメリカ軍の大挙来襲を知ったのは19日未明、第 1波艦上攻
撃機のタラワ急襲の通報に接した時点だった。内南洋方面航空部隊司令
官は午前 3時、戦闘機のルオット島への集結を下令し、聨合艦隊長官は
9時20分航空部隊の陸上攻撃機の大部分をトラック島に転進待機と発令
している。2 6) ペシオではこの時間には、米爆撃機の 2波 3波の攻撃もす
でに受けていただろう。
20日、夜明け前より、ナウル、ヤルート、ミリ島を猛烈に爆撃する。
755、 252航空隊などの数次の索敵攻撃があったものの日本軍の機数は
少なく、制空権を奪われた戦域では圧倒的多数をもって迫る米空軍の餌
食となって、ただ犠牲をふやす結果に終わった。2 7)
ペシオにたいしては、航空攻撃と艦砲射撃が 4時間にわたり交互に実
施された。短時間に、こんな小さい地域に大量の高性能爆薬を投入する
のは、かつてなかったことである。 28 ) ペシオの滑走路や地上施設、兵器
、弾薬、糧食の損失は大きく、守備隊の戦闘力に影響を与えた。29 ) 上
陸を前に、米軍は入念な作戦行動をとっていた。日本艦隊に対する牽制
攻撃のほか、ペシオ島の潮流や波浪の調査、さらに救助訓練などである
。日本側も気配は察していたものの、まだ米軍が総力をあげてギルバー
ト攻略作戦を発動したことには気付かず、米攻略部隊の全容にいたって
−10−
はギルバート諸島を失陥するまで把握できなかった。30 )
米軍は 9月19日空母機レキシントンが撮ったタラワの写真を計画策定
の重要な資料とした。「第 2次大戦中に撮影された最上の写真の 1つ」3
1)
といわれたものだ。その写真によるトイレの数から割り出した日本軍
の兵数、配置、 4門の20cm海軍砲を含む 8門の大口径沿岸防備砲のほか
重・中高射砲、対舟艇砲座、重機関銃座の位置と数など、その諜報は日
本軍の要塞陣地のケタはずれに強大な防御力を知らなかった点をのぞい
ては、驚くほど正確であった。32 ) 日本軍守備隊を4500と見た米軍はそれ
に対して 18600が必要と考えたのだ。
[注]
1)児島襄『太平洋戦争 下』 (中央公論社、1995)P.2
2)高橋是人『慟哭の島・タラワ』 (海交会全国連合会、1979)P.20
3)田中喜作『三度目の誕生日』 (非売品、1992)P.151
4)高橋是人 前掲書、P.20
5)同上書、P.28
6)同上書、P.21
7)『
』
(American Historical Publication,Inc.,1996)P.45
8)『ニューズウィークが報道した激動の昭和(1933 ∼1951) 』
(TBSブルタニカ、1989・7・26)P.196
9)児島襄 前掲書、P.38
10)『ニューズウィーク』前掲書、P.196
11)E.B.ポッター/ 南郷洋一郎訳『提督ニミッツ』 (フジ出版社、1979)P.347
12)JOSEPH H.ALEXANDER『
』
(NAVAL INSTITUTE PRESS,1995)P.5
13)同上書、P.95
14)『
』前掲書、P.51
15)同上書、P.51
16)新人物往来社戦史室編『玉砕戦全史』 (新人物往来社、1994)P.53 17)
『
』前掲書、P.44
18)ヘンリーI. ショー/ 宇都宮直賢訳『タラワ 米海兵隊と恐怖の島』
(サンケイ新聞社、1971)P.38
19)同上書、P.39
20)同上書、P.39∼42
21)トーマス.B. ビュエル/ 小城正訳『提督スプルーアンス』 (読売新聞社、1975)P.212 22)防
衛庁防衛研究所戦史室著『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦 2
昭
和17年 6月以降』 (朝雲新聞社)P.463
23)T.B.ビュエル前掲書、P.228
−11−
24)高橋是人 前掲書、P.75
25)防衛庁戦史室著 前掲書、P.467
26)高橋是人 前掲書、P.75∼76
27)同上書、P.77
28)ロバート・シャーロッド/ 中野五郎訳『タラワ 恐るべき戦闘の記録』
(光文社、1950)P.92
29)防衛庁戦史室著 前掲書、P.181
30)高橋是人 前掲書、P.75
31)防衛庁戦史室著 前掲書、P.462
32)ロバート・シャーロッド前掲書、P.93
タラワ戦に臨む米海兵隊員
戦争の初期に建設されたX基地(ニュー・ヘブライズ諸島のエファテ
島)を出発してタラワへ向かった米海軍輸送船は、海兵隊を船縁まで満
載していた。彼らの様子をタイム誌の特派員、ロバート・シャーロッド
の記述からみる。
海兵隊員らは、農夫、トラック運転手、家出した青年、大学生、金持
ちの息子、孤児、弁護士、元陸軍兵士など種々雑多の志願兵であった。
アメリカの若い世代は闘うことを望んでいない者も多かった。彼らは、
選挙権を得るまでの、10代の大事な時期に闘う必要はないと教えられて
きた。あるいは平和が名誉より大事だとも教えられてきた。そこで、彼
らはただ無事帰郷することのみを望んでいるのである。1 )
兵士のすべてが英雄という訳にはいかない。むしろ英雄よりはるかに
遠いものであろう。平和時の安全と戦争の恐怖との大きな隔たりに架け
橋のできていない若者は、最初の戦闘で ‘戦争神経症’ になったりする。
しかし彼らの大半は最初の衝撃を受けた後、心の平衡状態をとり戻し少
しずつ身近なものとして受け入れるようになる。上官は彼らが海の兵隊
であること、その存在理由は敵の砲火に向かって強行上陸することであ
ると教育する。彼らは、たいていのアメリカ人がそうであるように「戦
争」を「殺される」という意味で考えたことはなかった。 2) 航空爆撃だ
−12−
けで片づく楽な戦争以外、予期していなかったということだ。
彼らを闘わせるのは、連帯意識だという。さらに信念と理想だ。それ
を教えるのは、鉄砲の撃ち方を教えるより難しいが、彼らの間には、兄
弟愛ともいえる強い団結心があった。そして、自分たちこそ世界中で最
もすぐれた戦士だと自認していた。事実、輸送船に乗り込んだ海兵隊の
中でも、聨隊直属の偵察狙撃小隊は粒選りの精鋭で編成されていた。射
撃の狙いの鋭い眼と忍耐強さに加えて、恐れを知らぬ大胆さをもってい
た。またガダルカナルの歴戦の勇士である彼らほど日本兵を憎んでいた
者もいなかったろう。最も憎むものこそ最もよく敵を殺すのだ。
どうやってこのような激しい憎悪を部下に教えこんだのかと聞かれた
大佐は、ただ仲間が大勢日本兵に撃ち殺されるのを目のあたりにする、
それを待つだけのことだと答える。 3)
狙撃隊34名の小隊長は、エル・パソ出身のウィリアム・D・ホーキン
ズ海軍中尉であった。
彼の戦死後、ペシオの飛行場は彼の名前にちなんで、ホーキンズ飛行
場と命名された。彼はこの栄誉を獲るにふさわしく最も勇敢に上陸を指
揮した人物であった。ホーキンズは 3才の時、熱湯を浴びて全身の 3分
の1 に大やけどを負った。医師の筋肉切断に同意しなかった母は 1年間
にわたり毎日 2∼3 時間、少年の腕と脚をマッサージし続けた。筋肉は
奇跡的に生き返り、歩行訓練を可能にした。
彼が 8才のとき、父が死んだ。母は働きにでるようになった。
火傷の痕は、つねに彼につきまとい、挫折を繰り返した。
「私は戦争を憎む。なぜアメリカが戦争に介入しなければならないのか
分からない」と言っていた彼が、太平洋戦争突入を余儀なくされた時、
−13−
海兵隊に志願する。 ‘あらゆる部隊の中で一番頑強な部隊’ が彼も火傷
の痕もすべてを受けいれてくれた。上陸 1番乗りを果たした彼はタラワ
で戦死する。
ホーキンズの母親は従軍記者に、息子の戦死についての詳細を問い合
わせて来た。
「彼は私の全世界であり、私の持てるもののすべてでした。素晴らしい
息子でした。いつも快活で自信に満ち、優しく親切で思いやりがありま
した。どうかお願いです。彼の最後の日の完全な姿を描いてください」
シャーロッドはホーキンズについて思い出せることをすべて書き送っ
た 4) という。戦死した日米の兵士たちは 1人残らずみな、ひとの子であ
り、ひとの親であったのだ。
大方の米士官達は、海兵の上陸時にはこの島には何も残っていないだ
ろうと思っていたが、爆弾投下の効果について弱気だった将校もいた。
「攻撃目標が艦船と地上とでは異なる。艦船ならこれに命中すれば沈没
してお終いだ。しかし、地上では個々の軍事施設に直撃弾を与えねばな
らない。それは不可能だ」
「日本軍の 3分の1 以上が殺されているとは考えられない。しかし爆撃
と砲撃は彼らの通信機能を破壊する。日本軍は通信連絡なしには効果的
には闘うことはできないだろう」5 )
しかし、何よりも心配なのは、上陸用舟艇が珊瑚礁のうえを越すこと
ができるかどうかだった。礁内の水深については意見がまちまちで1 0) 確
信がもてなかったが、11月21日の朝は 1∼1.5mの間、おそらく1.2mくら
いだろうとされた。6) ともかく舟艇にはぎりぎりの水深だ。しかも潮の
動きは不規則で 1日に数回変化し、その間隔は予測できない。
−14−
戦いの前日になると、海兵隊の中にはいくぶん緊張の色が増した。味
方の爆撃の正確さを信じることによって、わずかに自らを慰めている者
もいた。「あんなちっぽけな島に3000
もの高性能爆薬が投下されて、
生きている奴がいるとは信じられない。たとえあの黄色いちびどもが穴
堀りの名人だとしてもね」
「もし日本軍がわが軍をだましてこの作戦をさせ、わが大兵力の拘束を
狙ったのなら、日本軍は成功したよ」
こうした考えが浮かぶ原因は、その前日ペシオを爆撃したB24爆撃機
の報告だった。これによれば、タラワ島にはまったく人影は見えず、高
射砲火はきわめて微弱だったという。おそらく日本軍はその 4カ月前の
キスカ島のようにここからも立ち退いているのではないか。
「これが第 2のキスカ島になるかどうか、機会は 5分 5分だね」7 )
これは、突入する者にとっては危険な心構えであった。日本軍は逃げ出
すどころか、戦意を燃やし米軍の海兵隊を待ち構えていたのだから。
船には 3人の従軍牧師が乗っていた。恐怖や差し迫る運命への不安は
海兵隊員らの宗教への関心をふくらませた。礼拝はいつも甲板上で行わ
れた。毎日数回も拡声器はうなった。
その後まもなく、この司祭は、ペシオで変わりはてた海兵隊員の死体
の埋葬を監督していた8 )とシャーロッドは記している。
[注]
1)ロバート・シャーロッド/ 中野五郎訳『タラワ 恐るべき戦闘の記録』
(光文社、1950)P.74 ∼78
2)同上書、P.79∼81
3)同上書、P.104 ∼105
4)同上書、P.106 ∼115
5)同上書、P.95∼96
6)野中郁次郎『アメリカ海兵隊』 (中央公論社、1995)P.79
7)ロバート・シャーロッド前掲書、P.98∼101
8)同上書、P.102 ∼104
−15−
恐るべき戦闘
*米軍艇身上陸 第1日目
11月21日
米軍
が外海から上陸するとの判断のもとに南岸に強固な防備を固めてきた日
本軍は、前日の20日夕刻から急遽北岸へ移動する。1 )
艦砲射撃と空爆のなか、十分な食糧も水も持たずに北岸の掩体に飛び
込んだ将兵は、それからの70時間余り乾パンと水筒の水以外、ほとんど
飲まず食わずで米上陸部隊と戦うことになる。 2)
日本軍の玉砕戦を語りうる数少ない中の 1人は太田兵曹である。かれ
は傷つき、意識を失っているところを米軍に収容された。太田氏の回想
録により日本軍陣地の模様を、米軍の戦闘と織り混ぜて見てみよう。
「午前 2時、起床ラッパが鳴り響く。さあ、敵上陸だ。飛び起きたが薄
暗くて戦友の顔もわからぬ。本部よりの伝令。『敵艦隊は内海域に潜入
をなし、我本島に上陸を企図せんとす。我陸戦隊は直に北海岸の配置に
付き、敵兵を水際撃滅せよ』」
2時59分、機密書類は直ちに焼却せよとの命令が下る。敵の上陸に備
えて降ろされた軍艦旗が燃やされる。軍の機密に関する書類だけではな
く、内地の状況を伝える肉親からの手紙、写真の類も皆炎の中に投げ込
まれる。「あの手紙、あの写真、この品。みんな灰となっていく。魂が
抜けた人形のようにぼんやり燃えるのを眺めていた」
母親の、妻の、子供の姿が炎の中で捻じれ、丸くそり返るのを兵士た
ちはじっと見つめながら、故国に別れを告げたことだろう。
「いよいよこのタラワで骨を埋めるのか。此処で死んでも誰一人、私の
墓に花も線香も捧げてくれる人もあるまい。懐かしい祖国、日本。もう
一度逢いたい、見たい。お母さん、私は死んで行きます。大声を出して
祖国日本に叫びたい」3 )
米軍は慎重に上陸地点を選定した。南岸の守りは堅く、わずかな窪み
は日本軍の砲火を側面から受ける。西海岸は最初の上陸には狭すぎる。
そこで礁湖に面する1400m の海岸が選ばれた。4 )
午前 4時、タラワ環礁の外側に迫った米軍輸送船からいっせいに上陸
用舟艇が発進した。 125両の水陸両用トラクターには、上陸第 1波の海
兵隊が乗り移っていた。 5)
米軍従軍記者シャーロッドの描写を借りると、
「午前 5時 5分、われわれは西南にあたって殷々たる大音響を聞いた。
最初の戦艦が第 1弾を発射したのである。 (中略)
3分以内に、夜空はふたたび巨砲のオレンジ色の赤味がかった閃光でパ
ッと明るくなり、オリムパスの太鼓がまたもやドーンドーンと轟きだし
た。高性能炸薬の赤い火の玉がふたたび水平線の彼方に落下しつつあっ
た。ところが今度はペシオにあたる陸地に物凄い大炸裂が起こった。火
焔の壁が空中に 500フィートも高くたちこめて、砲弾がその目標に命中
した時、また別の恐るべき大爆発が起こった。輸送船ブルー・フォック
ス号の甲板上で畏怖して眺めていた数百名の海兵たちは欣喜雀躍した。
わが軍の艦砲が敵を捉えたのだ。おそらく島の南西隅にある敵軍の巨大
な 8 砲と、敵軍の火薬庫に命中したのだろう」6 )
最初に撃ち込まれたのは戦艦「メリーランド」の大口径砲であった。
それを口火に数隻の戦艦から無数の爆弾がうちこまれ、つづいて重巡洋
艦の 8 砲、軽巡洋艦の 6 砲の速射、駆逐艦の 5 砲までが加わって
地軸も裂けるかと思われるほど一斉に咆哮した。
突然艦砲射撃が止むと雷撃機群が殺到して大型爆弾を投下した。続い
て、艦上爆撃機隊が入れ代わりたちかわり急降下爆撃を開始した。胴体
より多くの爆弾をばらまくと、あざやかに飛びのいて空母へ補充に帰っ
−16−
た。それがすむと、今度は戦闘機群が襲来し、50mm銃弾を 1分間に数
百発の速度で撃ち込み舞い上がった。7 )
上空から発見できる砲陣地、機銃陣地はことごとく爆撃された。この
計画された準備砲爆撃は、これまで太平洋で行われたどれよりも大がか
りなものだった。爆煙は天をおおい、火炎は全島を包んだ。島は噴火山
のように火柱を上げ、爆発の轟音は海面に三角波を立てた。8 )ペシオの
小島は、完全に無防備になったと思われた。
しかし操縦士の一人は攻撃の成果について懐疑的だった。彼は、「爆
弾の大部分は、大きな井戸を掘ったり、珊瑚の大砂塵を巻き上げて他の
航空機の爆撃の邪魔をしただけだ」と言っていた。 9)
5時45分から 6時14分の空爆のため、艦砲射撃は 5時42分に中止された
。ところが、戦艦「メリーランド」の通信機が主砲の斉射で故障したた
め連絡が遅れて、空爆は 6時10分から20分に行われた。この約30分間の
切れ目を利用して、日本軍の海岸砲が海上の輸送船のねらい撃ちを始め
た。上陸部隊を舟艇に移乗させるまでは動きのとれない輸送船団に損害
がでた。第 4次の部隊をおろして船団はいそいで北へ逃れた。11 )
駆逐艦は 2発の命中弾を受けたが不発弾のため損害はなかった。12 ) す
でに海上に勢ぞろいしていた 1次から 3次の各舟艇は、突然の日本軍の
砲撃に衝撃を受けた。陸地から 7∼8 kmに迫っていた輸送船団とともに
、航行してきたばかりの海上へ後退した。
日本軍はその巨砲の所在を暴露してしまったので、米軍はそれまでに
見られない猛烈な攻撃をはじめて、轟々たる砲声は海空を圧した。最後
に残った日本軍の巨砲もついに制圧され、やがて砲撃はやんだ。13 )
6時35分、上陸用舟艇に再び分乗した米軍上陸隊は、母船を離れた。上
陸前の艦砲射撃とともに 100両ほどの上陸用舟艇が珊瑚礁の中へはいっ
ていった。島全体にわたって火災が起こっていた。時々巨大な火炎と轟
音とともに、石油タンクや弾薬集積場が爆発している。1 4)
日本軍陣地から見た物は、海が真っ黒になるほどの米艦船群だ。駆逐
艦の甲板に立っている米兵の姿も見える。断続的な艦砲射撃は鼓膜が破
れる程の炸裂音をたてる。ペシオはその度に大きく揺らいだ。
「敵はめぼしい建物を片っ端から砲撃する。陣地に砲弾が命中すると、
百雷の如くすさまじい音とともに炸裂した。大きな椰子が倒れる。砂を
頭から被り、半身砂の中に埋まる。島の周辺に群生していた椰子はほと
んど敵弾のために倒れてしまった」
駆逐艦の吐いた煙幕が風に流されると、カタカタと不気味な音をたて
て近づいて来る上陸用裝軌艇の群れが日本兵の目に飛び込んで来る。
しかし「上陸部隊の舟艇もなかなか接近して来ぬ。10分、20分。やっ
と 500m 位に到達する。発動機の音が聞こえて来る。全神経が緊張し、
手足が震えだす。血潮が逆流するのか、鼓膜に響く。銃を構えた戦友は
『撃っていいですか』と口々に叫ぶ。『まだだ待て。弾が届かぬ、撃つ
な。本部より命令があるまで、もうすこしの我慢だ』」
「先頭の舟艇はいよいよ 300m に迫る。海岸より沖合 200m のところに
コンクリートの対水陸両用戦車防塞を設置している。それに鉄条網を張
って電流を通すようにしていたが、発電所が爆破されたので送電が止ま
り、準備していた敷設爆雷も使用出来なくなった」 15 )
6時35分、タラワ守備隊司令官柴崎恵次少将が打電する。
「敵は水陸両用戦車視界内 100隻以上、礁内の北岸一帯にわたり接岸し
つつあり。その後に上陸用舟艇 200隻以上見ゆ。敵は礁内に軍艦又は巡
洋艦特型 3隻、駆逐艦又は掃海艇 4隻以上進入、援護射撃をなしつつあ
−17−
り。その他の艦艇は礁外にあり。視界不良のため動静不明。上空、艦上
機水上機を交え数10機を以て制空中。全軍、決死敢闘士気旺盛なり」16 )
柴崎司令官は全部隊に、敵が水際に到達したときに攻撃を開始するよう
命令していた。ところが、最初の艦砲射撃で電話線が切られたため命令
は届かず、統一的な指揮を失った各陣地は独立行動をとらざるを得なか
った。
「分隊長より『目標、敵上陸用舟艇、距離 200m 撃ち方始め』の号令と
共に一斉にポンポン、パンパン撃ち出す。撃ち負けたら命がない。小さ
い銃眼の穴から、一度に 2∼3 人が銃口を突き出すため、2m平方の陣地
に 6人の戦友の肩や鉄兜が銃に障って思うように射撃が出来ない。お互
いに交替して射撃する」
「不意を突かれた米軍舟艇は周章狼狽、右往左往して反復する舟艇、衝
突して沈んでいく舟艇。慌てて海に飛び込んで泳いでいる将兵達、浅瀬
まで歩いて銃を両手で高く差し上げて海岸に着く者。銃を頭に乗せてじ
っと動かぬ者。敵は大混乱を呈した。この機会に撃って撃って撃ちまく
る。勢いに乗じて米軍を撃破する。今までの恐怖心はどこへやら、演習
でもしているつもりで、落ち着いて射撃する。米兵は海中に消える」 17 )
あれほどの猛爆撃を受けてもなお生き残っている日本兵がいた。予想
しなかった反撃に、米上陸部隊は一時恐怖に陥る。 18 ) それでも、海兵隊
は岸へ岸へと進む。日本軍が死守を至上命令としていたように、彼らも
また上陸を達成するしか取る道はなかったのだ。
桟橋は上陸地域一帯の最大防衛拠点なので、これをつぶすことが絶対
に必要だった。この任務はウィリアム・ホーキンズ海兵中尉と第二斥候
狙撃小隊34名に与えられた。ペシオに最初に上陸したのが、この30歳の
小隊長ホーキンズであった。桟橋の先端近くの便所から機関銃の束が降
り注ぎ、桟橋上のドラム缶が炸裂する。うなりをあげる火炎に背中をあ
ぶられ 4方からの弾丸は激しさを増す。19 ) 小隊長以下 6人は桟橋から下
り、防衛拠点となっていそうな建物を手あたり次第に破壊する。火炎放
射器で火をつけられた小屋はまたたくまに燃えた。 20 ) 日本軍は桟橋を使
って突撃隊に射撃を加えることができなくなったが、いぜん強力な部隊
が海岸陣地に頑張っていた。
水深が足りなくて進めない上陸用舟艇は日本軍の銃火の嵐をあびた。
まるで、射的の人形を狙うような日本軍の砲撃に、怯まず死の行進を続
ける米兵は、銃を落とし、次々と海中に消えた。死体や身体の一部が、
血にそまった海面のそこらじゅうに浮いていた。
やっと海岸に辿り着いた兵たちも、猛烈な射撃に一寸きざみの前進を
続けるしかなかった。海岸は弾丸を避けてうずくまる海兵でごった返し
ていた。損害は驚くべき数にのぼったが、命令は「犠牲をかえりみず上
陸せよ」だった。
水際から 6m ほどのところに、椰子丸太で作られた防波堤が 1m 強の高
さに作られていた。そこが米上陸部隊の橋頭堡となる。
その後、上陸第 3波はほとんど全滅に近いこと、第 4波はごく少数の
兵を上陸させただけで後退した報告を受けた副師団長は、「別命あるま
でこれ以上軍隊を上陸せしむべからず」と発信した。21 )
125両のLVT上陸用舟艇の半分以上が破損していた。精密に練られた
はずの上陸計画は、いまやずたずただった。第 2大隊長が第 3大隊を指
揮し、他の中隊の者も紛れ込んでいた。無線機は故障し部隊間の連絡も
途切れがちだった。急降下爆撃機が味方のシャーマン戦車を直撃し、対
戦車砲が防壁を乗り越える海兵を粉砕した。しかし撃っている方も、撃
−18−
たれる方も、お互い味方とは気づかなかった。海兵たちにとっては、四
方八方に、目に見えない日本兵が充満し、飛んで来る弾はすべて日本製
だとしか思えなかったのだ。 22 )
この日の戦闘は米軍にとって、絶望的な様相を呈していた。通信は混
乱を続け命令は届かなかった。沖の上陸用舟艇では、腹が減り、疲れ、
船酔いに悩まされた多数の者が、ずぶぬれになっていつまでも来ない命
令を待っていた。 23 )
「仲間が浜辺で救援を求めている」と告げられた海兵達は、戻って来た
2台の水陸両用車に乗り込もうとした。ところがこの 2台はすでに命中
弾を受けて、中には死者がいた。 次にやってきた水陸両用車が途中ま
で運んでくれた。その先は徒渉するしかなかった。
「おお神様、怖いよ!」通信係の小柄な海兵が叫んだ。全身が恐怖で震
え、各関節は硬直している。目の前で数百人の友軍をなぎ倒すものすご
い銃砲弾を浴びながら、なおも数百m を進まねばならなかった。
5∼6 門の機関銃が集中攻撃を加えてきた。それは 1人あたり数百発の
弾丸を浴びることを意味した。深い海中を徒渉するのは、のろく苦しか
った。肩の高さから胸、腰、膝とだんだん海が浅くなってくると身体は
攻撃目標になっていく。それは、海兵にとって物凄い恐怖であった。
数世紀もたったような気持ちを味わいながら、わずか 200m ほどの浅
瀬を、ますます激しくなる銃火のなかを徒渉する。弾丸は周囲にまるで
雨粒が貯水槽の中に落ちるように、海面をはねていた。やっと桟橋に辿
り着き、直立した椰子の木の根本に安全を確保する。
こんなに死に接近しながら、うまく生き延びて来られたのが怪しくさ
え思える24 と、ロバート・シャーロッドはいう。
浜辺に大波が押し寄せて白く砕けるたびに、数千尾の死んだ魚が桟橋
に打ち上げられた。あちこちに、砲弾の穴に落ち込んでしまった中型戦
車や軽戦車が立ち往生していた。日本軍の陣地は水際より2m位高い。
陣地の下の石垣のかげに米兵はへばりついている。 25 ) 銃砲の死角に潜み
第 2次の上陸軍の戦車や重火器の到着を待っている。上陸用裝軌艇が負
傷者を乗せては引揚げ、また新たな兵士をおろしていく。
ひるまず上陸を続ける米軍を、迎え撃つ日本軍陣地では、すでに発電
所は爆破され、送電も止まっている。攻める者と守る者のそれぞれの使
命をおびた戦いはまさに死闘であった。
13時30分、「敵は、飛行機及び、艦艇の砲爆撃の支援下に輸送船を逐
次入泊せしめ、人員資材を引き続き揚陸。桟橋に通ずる南北線で彼我対
峙中」との戦況を無線交信したのを最後に守備隊からの連絡が途絶えた
2 6)
と戦史は記す。
こうした間にも上陸支援のために沖に集結している米艦船群からの艦
砲射撃は続いていた。近くで爆弾の破裂する音が聞こえ、時をずらして
その砲弾が撃ち出された時に発した音が届いた。戦闘機群は艦砲射撃の
間隙を縫って襲った。両翼の機銃から銃弾が撃ち出されたあと、青味を
帯びた灰色の煙が見え、異様なほど軽快な音が耳の中で跳ねた。次に空
気を切り裂く艦上爆撃機が急降下する不気味な音がして、島全体が揺れ
ていた。戦いは長時間続いていた。掩体壕の中に、椰子の木々の間に、
砂浜に、礁湖に、日米両軍の兵士が死体となって積み重なっていった。
島中に悲鳴や呻き声が満ちていた。 27 )
壕の中では、直撃弾で手足を吹き飛ばされた戦友が、その苦しい息の
下で怒鳴る。「せめて 1発でも撃って死にたいのだろうと、小銃を抱か
せて引き金を引いてやる。銃声とともに安心したのか、息絶える」2 8)
−19−
米軍上陸 3時間後には、壕は死傷者で埋まる。
14時頃、司令官柴崎恵次少将が戦死した。負傷者をそのまま放置する
にしのびず、司令部を負傷兵治療の場所として明け渡すために掩体壕の
1つに移動する途中だった。米駆逐艦からの大口径砲の直撃弾で司令官
以下幕僚の全員が 1瞬にして散ったと音里 1等水兵はいう。29 )
米軍が上陸前に実施した猛攻に対抗するため、聨合艦隊司令長官は、
755航空隊の陸上攻撃機に索敵、攻撃を命令するなどの作戦をとった。
11月21日午前、 755航空隊の陸上攻撃機14機はルオット島を発進してタ
ラワ西方で米機動部隊を発見した。護衛の戦闘機群と交戦し、指揮官機
は大型空母を雷撃した後体当たりを敢行した。第 2中隊長機もまた空母
に突入し自爆をとげた。無事帰還したのは 7機で3 0 ) 日本軍は急速に航空
機を消耗しつつあった。地上で白兵戦を展開する守備隊員の頭上を飛び
回るのはヘルダイバー、ヘルキャットといったアメリカの艦上爆撃機、
戦闘機だけだった。31 )
爆音と炸裂音の下、上陸用裝軌艇の群れが珊瑚礁の岸辺に押し寄せて
くる。午前中までは、日本軍が優勢と言えた。しかし米軍は水、食糧、
弾薬を続々と補給している。タラワ上空の制空権を完全に奪った米軍は
後続部隊を増員しつつ、島を等分に孤立させた。
野砲や対戦車砲などを運び揚げるために桟橋の上に登る米軍は、日本
軍にとっての恰好の標的になった。風を切って飛んでくる銃弾をくぐり
兵器を海中に引きずりながら桟橋の陰を進み次々と揚陸を果たした。 32 )
その頃、真っ裸の人間が水中から現れて、戦車のてっぺんの入口から中
へ飛び込んだ。シャーロッドは、修理の兵だと思ったという。
小鳥の形をしたペシオの、ちょうど脚のように突き出した桟橋の後方
のポケット地帯を 1個大隊が確保した。水際より6m、幅100mのこの地
域こそ米軍の橋頭堡であった。また、他の 2個大隊によって、別の 2カ
所が確保されていた。そして、数百名の海兵隊が防波堤を乗り越えた。
死傷者が50%位になることを承知で突入したのだった。
桟橋の先端近くで海兵隊を満載してきた 1隻の上陸用舟艇が日本軍の
直撃弾を受けた。ものすごい爆発を起こして、上陸用舟艇の各部分は粉
砕されて 4方に散った。3 3)
日本軍守備隊の強力な抵抗のなか、浜辺では、海兵用のポンチョをか
ぶせた担架を運ぶ米衛生兵の行列が続いた。ポンチョを頭までかぶって
いるかどうかが、死者か負傷者かの判別法だった。頭までかぶせられた
米兵は、立ち往生している上陸用裝軌艇の横に並べられ、その数は増え
ていった。挺身上陸隊がやっと浜辺に上陸してからまだ数時間しかたっ
ていなかったが、赤道直下の灼熱の太陽に照らされて、すでに死体の臭
気は耐えられないほどだった。34 )
日本軍陣地でも、手足を吹き飛ばされ、頭を撃ち抜かれた兵士達が流
したおびただしい血は、白い珊瑚の砂を朱に染めていく。「ローソクの
薄暗い光の下に 2∼30人の将兵が呻いている。重傷者ばかりだが治療の
方法もない。無造作に包帯をぐるぐる巻いて止血している程度だ」3 5)
このころ、大本営は聨合艦隊参謀長あてに打電していた。
「ギルバート諸島支援のため、内南洋部隊の兵力を速やかにマーシャル
方面に進出させよ」これに対し、聨合艦隊参謀長は当面のタラワ増援作
戦の実施予定を11月27日、28日をめどとすると返答した。36 ) 結局この決
戦の機会はなく、増援部隊は他方面に進出することになる。
だが、タラワの将兵はそれを知らない。守備隊はできる限り持ちこた
−20−
え聨合艦隊に決戦の機会を与えるべく頑張っていた。
若い海兵が浜辺を歩いて、戦友の一人に笑ってみせた。その瞬間、銃
声がひびいた。海兵はキリキリ舞いをして地上に倒れた。こめかみを射
ぬかれ、一体何がぶつかったのか彼は永遠に知ることはできなかった。
これは、日本軍の狙撃兵の特徴を示したものだ。海兵を撃ったこの日
本兵は、浜辺から10m のトーチカの中で、ただこの 1発を発射するため
に朝からずっと待ち構えていたのである。
海兵の 1人が高性能爆薬を椰子の丸太のトーチカをめがけて投げた。
爆薬がトーチカ内部で炸裂し、もうもうたる黒煙とほこりをはきだすや
横の入口からカーキ服の人物が走り出てきた。火炎放射器は彼を待ち受
けていた。日本兵の身体はセルロイドのようにメラメラと燃えてしまっ
たが、弾帯の中の弾は体が灰になった後も 1分位爆発を続けていた。3 7) 1
つのトーチカを爆破するとそこに死角が生じる。その死角を利用して次
のトーチカを破壊する。これを阻止しようと日本兵は掩体から飛び出し
、椰子の幹のかげから米兵を狙撃した。 38 )
午後 4時までに海軍部隊の砲撃と航空部隊の爆撃は島を修羅場と化し
ていた。ものすごい大音響の中、日本軍の機関銃はあいかわらず絶え間
なく鳴りつづけた。あたかも米軍の砲爆撃が影響を及ぼさないことを示
そうとしているかのようであった。
米側の戦況はやや好転してきた。死傷者数は多かったが海兵隊も多く
の日本狙撃兵を抹殺していた。日没まで上陸を中止していた増援部隊は
夕闇がタラワの全環礁を覆いはじめた頃、上陸を開始した。日本軍は相
変わらず機関銃と小銃を乱射したが 3∼4 時間前よりずっとその激しさ
を減じていた。しかし常に島の端から中心部へと移動集結していたので
米軍にとって、その補給は無尽蔵のようにみえた。 39 )
ペシオへの攻撃は成功とはいえなかった。米軍はこの島の16分の1 に
相当する地域に沿って7mの橋頭堡を維持しているのみであった。上陸
した3000名の部隊の大半は、幅 110∼140mの小地域に混み合って、全員
を収容するタコツボを掘る余地もなかった。夜の闇にまぎれて何が起こ
ろうとしているのか分からぬ米兵には恐怖が忍びよった。 40 )
しかし、この決定的な時に、日本軍は迫撃砲を使わなかったし、夜襲
もかけなかった。それは日本軍が司令官を失っていたことと、大規模な
攻撃を組織する連絡網がなかったことによると思われる。 41 )
海上に突如、赤い閃光がきらめいた。数機の日本軍の飛行機が海上を
低空飛行して、波止場に停泊中の艦船群に攻撃を開始した。これに対し
て、各艦船群の高射砲火が一斉に火蓋をきった。日本機は恐れをなして
退散した。すると間もなく、10数門の日本軍の機関銃が桟橋の米兵にむ
けて射撃を開始した。驚いたことに、銃火の 1部が海中で動けなくなっ
た米軍の上陸用舟艇から飛来していたのだ。しかも日本軍の淡紅色の曳
光弾ではなくて、米軍のオレンジがかった赤い弾だった。それは、日本
兵が米軍の上陸用舟艇や水陸両用車に忍び込み、そこから撃ったもので
あった。日本兵はそれが自殺に等しいことを知っているが、自分が殺さ
れる前に 1人でも敵を殺そうと考えているのだ。4 2 )
11月21日、ペシオに上陸した米兵5000名の 3分の1 以上は死傷したが水
際の地区を確保していた。この夜、海兵隊は小銃を 1発も発射しなかっ
た。彼らの位置を敵に知られるのを恐れたからである。
この頃、ペシオの沖に座礁している貨物船に、機関銃や小銃を手にし
た日本兵が闇を利用して辿り着いていた。43 )
夜明け前、日本軍の飛行艇の発動機の音がきこえた。この爆撃機は上
−21−
空を旋回して、島の戦況を知ろうとしているのであった。そして爆弾を
投下したが、いずれも海に落ちて被害はなかった。 44 )
〔注〕
1)防衛庁防衛研究所戦史室著『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦 2
昭和17年 6月以降』 (朝雲新聞社)P.471
2)読売新聞大阪本社社会部編『タラワ 新聞記者が語りつぐ戦争(2) 』
(新風書房、1991)P.125
3)同上書、P.126 ∼128
4)C.W.ニミッツ/ E.B ポッター実松譲/ 富永謙吾訳
『ニミッツの太平洋海戦史』 (恒文社、1962)P.225
5)佐藤和正『玉砕の島 太平洋戦争・激戦の秘録』 (ワニの本)P.60
6)ロバート・シャーロッド/ 中野五郎訳『タラワ 恐るべき戦闘の記録』
(光文社、1950)P.132∼133
7)高橋是人『慟哭の島・タラワ』 (海交会全国連合会、1979)P.83
8)佐藤和正 前掲書、P.61
9)野中郁次郎『アメリカ海兵隊』 (中央公論社、1995)P.81
10)児島襄『太平洋戦争 下』 (中央公論社、1995)P.72 ∼73
11)ヘンリーI. ショー/ 宇都宮直賢訳『タラワ 米海兵隊と恐怖の島』
(サンケイ新聞社、1971)P.52
12)C.W.ニミッツ/ E.B ポッター 前掲書、P.228
13)ロバート・シャーロッド前掲書、P.137 ∼138
14)ロバート・シャーロッド前掲書、P.140
15)読売新聞社編 前掲書、P.129 ∼132
16)防衛庁戦史室著 前掲書、P.471
17)読売新聞社編 前掲書、P.133
18)同上書、P.133
19)児島襄 前掲書、P.74
20)ヘンリーI. ショー前掲書、P.58∼59
21)同上書、P.67∼72
22)児島襄 前掲書、P.75∼76
23)ヘンリーI. ショー前掲書、P.75∼76
24)ロバート・シャーロッド前掲書、P.142 ∼149
25)同上書、P.151 ∼152P
26)防衛庁戦史室著 前掲書、P.184
27)読売新聞社 前掲書、P.136 ∼138
28)同上書、P.130
29)佐藤和正 前掲書、P.65∼66
30)防衛庁戦史室著 前掲書、P.476
31)読売新聞社 前掲書、P.138
32)同上書、P.138 ∼139
33)ロバート・シャーロッド前掲書、P.152 ∼155
34)同上書、P.156
35)読売新聞社 前掲書、P.139 ∼144
36)防衛庁戦史室著 前掲書、P.477
37)ロバート・シャーロッド前掲書、P.157 ∼158
38)佐藤和正 前掲書、P.66∼67
39)ロバート・シャーロッド前掲書、P.165 ∼168
40)同上書、P.176
41)『
』
−22−
(American Historical Publication,Inc.,1996)P.48
42)ロバート・シャーロッド前掲書、P.178 ∼179
43)児島襄 前掲書、P.79
44)ロバート・シャーロッド前掲書、P.179 ∼180
*第2日目
11月22日
第 1日目に日本軍は通信連絡が不通となり、また多数の兵が艦砲射撃
と空爆により死んでいた。
米軍の挺身上陸隊の 3個大隊は、それぞれ不安定な足場を維持してい
た。夜の間に米軍は大隊とともに野砲、戦車と大量の爆薬や軍需品を揚
陸させていた。1 )海兵隊の第 1日目の死傷者は甚大であった。海中で倒
れた者だけでなく、上陸後、防波堤をよじ登ってから日本軍の強固な要
塞陣地からの射撃によって、いっそう地獄は展開されていった。上陸隊
の35%ないし40%の死傷者をだしたであろう。将校の被害も大きく、か
けがえのない小隊長級も多数戦死したり重傷を負っていた。2 )
5時30分、珊瑚礁の浅瀬には、干潮で海水が退いてしまった後、海兵
の死体が 5∼60体散乱したのが露呈されている。腐っていく人間の肉体
の甘酸っぱいようなムカムカする臭いが、耐えられないくらいに発散し
ている。負傷兵が衛生兵に支えられていく。傷の痛みでゆがんだ顔をし
ている者、血の気のうせた顔、血まみれの顔、また顔の一部をもぎ取ら
れたものもいる。担架の上の海兵は横腹に大きな孔をあけられている。3 )
6時00分、 1晩中沈黙しなかった日本軍の機関銃は火力を増大した。夜
のうちに上陸用舟艇の残骸や、座礁した日本貨物船などに身をひそめた
狙撃兵は、未明、岸をめざす米軍の上陸用舟艇や徒渉する海兵を背後か
ら狙い撃ちした。米兵が次々に珊瑚礁の海に倒れていった。沖の空母か
ら 4機の戦闘機が現れ、貨物船に機銃掃射を加えた。続いてヘルキャッ
ト 3機が急降下爆撃し 1発が命中した。10数m の火柱が上がったが、銃
−23−
弾は米兵を襲うのを止めなかった。ついに、工兵の 1隊が命がけで船に
近づき爆薬をしかけ、殊勲の日本兵を船もろとも吹き飛ばしてしまった
。 4) 環礁をみおろす陣地の砲からの射撃も休むことはなかった。海兵隊
の榴弾砲が、日本軍の砲の 1つを撃破することに成功した。そして午前
中いっぱいかかって、日本軍の射撃の合間を縫っては、少しずつ上陸し
てきた。海兵部隊は日本軍の機関銃陣地への攻撃を開始した。 5)
駆逐艦からは 5
砲弾を轟かせはじめた。その間に10人位が海岸にた
どりつき、荷降ろしを行う。日本軍の狙撃兵は依然彼らをめがけて射撃
を続ける。日本軍の機関銃陣地の 1つが発見される。それは海上に張り
出して建てられた日本軍の便所の 1つからであった。この便所はただち
に吹き飛ばされたが、なほ日本軍の機関銃弾は降り注ぐ。浅瀬には少な
くとも 200名の海兵の死体が動かずに横たわっている。6 )
第 1大隊の前進は、いよいよ困難さを増していった。日本軍の防御拠
点を、 1つづつ肉薄攻撃で潰していく危険な、はてしない戦闘がはじま
った。 ‘溶接バーナーとコルク栓抜き’ と後に言われたが、工兵が火炎
放射器で銃眼を焼き、続いて爆薬で陣地を爆破するという方法である。
しかし、この戦闘の犠牲は大きかった。相互に死角をカバーしあうよ
うに配置された日本軍陣地にとりつくには、十字砲火にさらされた地帯
を強行突破する以外になかったのである。前進の速度はもどかしいくら
い遅々としていたが、日本軍の砲火は前進するごとに増大した。破壊の
作業は、絶え間のない犠牲のつみかさねであり、一つひとつの防御施設
を潰し終わるまでは、どこでも這いずりまわらねばならなかった。
攻撃は火炎放射器の燃料と爆薬の不足のためたえず挫折させられた。
この苦戦を続けながらも海兵たちは岸から300mの地点の壕に達した。7 )
8時00分、昨日椰子の木の中にひそんでいた日本軍の狙撃兵たちは掃討
−24−
されてしまったはずなのに、再びすべての椰子の木から多数の日本兵が
猛烈に射撃を続ける。数m しか離れていない椰子の影にひそんでいな
がら、その所在をつきとめることが難しい。身体を木に縛りつけている
ので撃たれても落ちてこないのだ。 8)
日本軍の機関銃座 6カ所がホーキンズ中尉により叩きつぶされた。9 )機
関銃掃射と数10機の戦闘機による爆撃は今や、日本軍陣地に雨あられと
注ぐ。だが日本軍は依然として米兵を殺傷しつつある。包帯でグルグル
巻きにされた負傷者を運ぶ担架の列が海岸沿いに通り過ぎて行く。
11時00分、浜辺より15m はいった地点に、日本軍の巨大なトーチカが
あり、いまは海兵隊の本部になっている。このトーチカは長さ 12m、幅
2.5m、高さ3mもある。そして、直径20∼25cmもある椰子の丸太で構築
されている。壁は、椰子の丸太を 1m 間隔で 2列に積み重ね、C字型の2
5cmの鋼鉄製の大釘で接合されている。この 2段に積まれた丸太の間に
は砂が1mの層に満たされており、さらにトーチカ全体は 1m 以上の砂の
層で覆われている。これでは 1
爆弾が直撃しても、恐らくその 1部分
しか破壊しなかっただろう。爆弾がこのような頑丈なトーチカの近くに
当たったときは、ただそのてっぺんにさらに大量の砂を吹き上げるばか
りなのだ。また、この本部の隣の大きな未完成の兵舎も、砲爆撃によく
耐えている。建物の周囲に 2m 近くに積まれた椰子の丸太が、弾を防い
でいる。10 )
22日の最大の進展は、グリーンビーチ (西海岸) 全域の確保だった。完
全装備の増援部隊を安全に上陸させることが出来るようになり、これが
、この戦いのターニング・ポイントとなった。 11)
日本軍は西方一帯の海岸地帯を蹂躪されてしまったが、南と北の海岸
では少しの弛みもみせなかった。海岸のトーチカには依然として兵員が
−25−
配置され、しかも積極的だった。この日の成果を維持し、海岸線を確保
するため、互いに支援できる防御陣地がつくられた。12 )
12時15分、トーチカのてっぺんの換気孔より這い出した日本軍が伍長
の脚を撃った。米兵たちの1m以内に常時日本兵がいる。
浜辺には1000名もの海兵隊がいたが、日本軍のたった 1門の機関銃に
阻止されていた。海兵隊の大半は勇敢だが 1部は常に後方でウロウロし
たり、後退する口実を探そうとする。どんな戦いでも闘う勇士は前線に
いる。そして残念なことに、いつも優秀な部隊の死傷者数が多いのだ。
午後も戦闘は激しく砲火は殺人的であったが、弾薬、水などが到着し
て、海兵隊は前進を続けた。 13 )
13時00分、約 200名の兵は滑走路へ前進した。もし日本軍が内陸部に
も海岸線と同等の強力なトーチカをもっていたならば、このひらけた地
帯で、はたして何人が生き残れたかは疑問だ。日本軍の銃火は激しかっ
たが、致命的ではなかった。海兵隊は放棄された日本軍の塹壕により、
200mの海岸線を確保した。小銃と手榴弾の近接戦が繰り広げられたが
、米軍は何とか持ちこたえた。14 )
連隊本部付近で埋葬をおこなうために、死者をぞくぞく運んでくる。
その悪臭はとてもたまらない。残っている水陸両用車は、定期的に軍需
品を揚陸して、帰りに負傷兵を運んでいる。水陸両用車はときたま弾丸
をこうむる程度である。
16時00分、桟橋の根もとを横切ろうとする兵をめがけて日本軍の狙撃
兵の弾が、待ってましたとばかり唸りをたてる。
米軍戦車の75mm砲弾の破片が木をひき割いてはねかえり、海兵 1名
を殺す。また、飛行機からの50mm口径の散弾が味方の兵の肩から肝臓
−26−
まで突きぬけて殺した。これが戦争における運なのだろう。
16時30分、 1部隊は島の東端部を目指して進撃する。また別の隊は中
央部を掃討中であり、新鋭の 1個大隊は島の南岸、つまり小鳥の背中に
あたる部分へ南下した。 15 ) 日米両軍の第 1線が接近しているため、空爆
撃もできず、結局、双方の機関銃合戦であった。1 6)
戦況は上陸開始後30時間を境に、米軍に有利に傾いていった。17 )
日本軍は、米軍が臆病になって講和を結ぼうとしないかぎり勝つ機会
はないし、またそのことを知っている。 4名がトーチカに閉じ込められ
てしまったが、たぶん彼らは引き出されるまえに自殺するだろう。それ
が日本人の戦い方なのだ。1 8)
桟橋の先端で大混乱が巻き起こった。桟橋の端に軍需品を山のように
積み上げているところへ、日本軍狙撃兵が射撃を開始したのだ。それは
海中に半分沈没した軽戦車の中から来るものだった。
19時00分、軍医が負傷兵の手当てに懸命になっていた。医者にとって
は死にもの狂いのひどい戦闘だった。連隊全体でわずか 3名の軍医が手
元にいるだけだ。また、ほとんどの衛生兵は撃ち殺されてしまった。
これは、海兵隊の歴史で最大の死傷者を出したといえる。もし海兵隊
のすばらしい勇気がなければ、米軍は敗北を期していただろう。19 )
島の西北部、礁湖を見下ろす低い丘の上にある第七佐世保特別陸戦隊
の拠点は、この日も 1日、米軍の猛攻に耐え抜いていた。掩体もまだ完
全だったし、士気も高かった。20 )
「『こんや10時を期し、全員夜襲に参加せよ。司令部に集まれ』日本軍
の伝令の低いが、力のこもった声が呼ぶ」
通信線を断ち切られた日本軍は、第三特別根拠地隊との連絡も取れな
−27−
い。島の海岸線で戦っている各隊にも緊急の指令が届かない。連絡のた
め島を走る伝令は米軍の銃弾の的となった。2 1) 血の匂いに満ちた日本軍
の壕のなかでは、山ほどの負傷兵の体にいれてやる血漿もなければ食糧
もない。兵器も十分ではない。
上陸部隊の戦車揚陸艇から降ろされたシャーマン戦車の群れが島を目
指して来る。何両かは爆弾でできた大穴に落ち込む。日本軍の砲撃で炎
上したものもあった。しかし残りは上陸を果たし、島の中央部へ進む。
戦車の吐き出す75mm砲弾が日本軍兵士のいる壕に飛び込む。椰子丸
太の天井が 1瞬、膨張したようにたわみ、凄まじい轟音とともにそれを
覆っている珊瑚の砂が10数m もの高さに噴き上がった。腕や手をもがれ
た日本兵が外に飛び出すと、今度は機関銃と火炎放射器が狙った。
戦車はキャタピラの音を唸らせながら、次の標的へと向かう。米軍の
銃弾は依然として、休みなく不気味な音を立てて飛んでくる。掩体壕に
砲弾を撃ち込み、多数の日本軍守備隊員の命を奪った数10両のシャーマ
ン戦車が飛行場周辺に集まり、滑走路を踏み砕いていた。 22 )
午後10時10分前、前進の命令が下る。太田兵曹は述懐する。
「自分達の命も後10分で終わりだ。もう、誰一人として話をする者もな
い」血と汗と泥が滲み込んで乾いた戦闘服が、倒れた椰子の葉を擦る。
軍靴が、地下足袋が、ものいわぬ戦友を跨いで行く。それでも戦って死
んだ者は、幸せなほうだったかも知れない。動けない者は、戦闘に参加
できない者はどうなるのか。
「『夜襲に参加できない者は各自、適当なる処置を取る。決して後世に
汚名を残さぬよう決意されたい』」
−28−
タラワだけでなく、南方の多くの島々で、玉砕の美名のもとに数え切
れないほどの将兵が故郷に思いを残しながら死んでいった。生きて虜囚
の辱めを受けることなかれ、という戦陣訓がその背後にあった。23 )
「兵士それぞれに手榴弾が山ほど渡された。重くて歩けないほどの量だ
った。『用意 !』我々は手榴弾で壕を灰にした。待っていてくれ。俺も
すぐ行く」傷の痛みももう分からなくなった太田兵曹は前進する。2 4) 手
の届くところに米兵はいる。軍刀を片手に耳を済ますと、チューインガ
ムを噛んでいるではないか。米兵一人ひとりに怨みはなくても今は敵だ
。戦友を殺した敵だ。もうすぐだ。音をたてるほどに奥歯を噛みしめる
。「心臓が激しく打つ。何も入っていない胃袋が痛む。喉が乾く。落ち
着け。じっと目を閉じる。母の顔が写る。日本刀をしっかりと握りしめ
る手が湿っていく。『突撃! 』全員がそこかしこに飛んで行く」
手榴弾が炸裂し、轟音が轟く。闇夜にもかかわらず昼のように明るい。
夜襲の指揮官の指示通り、30∼40m の距離で爆雷の安全装置をはずし、
戦車の死角を狙ってキャタピラの下にもぐり込む兵士たち。手榴弾では
戦車に歯が立たず、戦車は日本兵の上を乗り越えて進んだ。「彼らが戦
車の下で何を叫んだのか、声は轟音にかき消されていった。その時、爆
弾の大音響とともに、戦友の身体と戦車は木っ端微塵に飛び散った。慌
てた米軍戦車隊は飛行場より桟橋付近へ敗走する」 25 )
無我夢中で撃ち放れたライフル銃の音、悲壮な叫び声に怒号、まさに
地獄絵さながらの夜間戦は小 1時間で終わった。ほとんど全員が死んだ
が太田、大貫両兵曹はどうにか生き残った。2 6)
爆煙に包まれた付近一帯は鮮血の巷と化した。近くの壕内には 7∼8
人の負傷兵がいた。そこに太田兵曹らも倒れていた。「戦車部隊を撃退
した安心感が疲労を誘う」
−29−
おそらく、こうした夜襲が米軍上陸の11月21日から 3日間にわたり、
ペシオのあちこちで繰り広げられていたはずだ。2 7)
守ること、攻めること、選択肢がそれぞれ、 1つしかない点では日本
軍も米軍も同じだった。ただ決定的に違ったことは、米軍は膨大な物量
に支えられていたが、日本側には友軍機の来援もなかったことだ。
その夜 8機の日本機が飛来して 3回の爆撃をした。海兵隊員はタコツ
ボでじっとしていた。死と隣りあった戦闘で大きな自信と無言の連帯感
を持ちえていたのだった。2 8)
24時00分、 3時間ばかり眠った後、目をさまされた。潮が満ちてきて
タコツボが水浸しになっている。
午前 3時、日本爆撃機 1機が 8個の爆弾を投下し、半数が海兵隊の戦
線に、半数は日本軍の陣地に落下した。あまり公平に爆撃したので、海
兵隊の連中はさんざんからかった。
5時00分、担架をになった人たちは、浜辺沿いに歩きながら明るい半
月の下で影絵のように描き出されていた。
5時30分、悪臭の原因は、すぐそばに埋葬されたアメリカ兵の死体の
腐乱した臭いであった。 29 )
[注]
1)防衛庁防衛研究所戦史室著『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦 2
昭和17年 6月以降』 (朝雲新聞社)P.184
2)ロバート・シャーロッド/ 中野五郎訳『タラワ 恐るべき戦闘の記
録』 (光文社、1950)P.182∼184
3)同上書、P.184 ∼185
4)佐藤和正『玉砕の島 太平洋戦争・激戦の秘録』 (ワニの本)P.69
5)ヘンリーI. ショー/ 宇都宮直賢訳『タラワ 米海兵隊と恐怖の島』
(サンケイ新聞社、1971)P.97
6)ロバート・シャーロッド前掲書、P.186
7)ヘンリーI. ショー前掲書、84∼88
8)ロバート・シャーロッド前掲書、P.190
9)同上書、P.202
−30−
10)同上書、P.192 ∼195
11)『
』
(American Historical Publication,Inc.,1996)P.49
12)ヘンリーI. ショー前掲書、P.114
13)ロバート・シャーロッド前掲書、P.201 ∼203
14)ヘンリーI. ショー前掲書、P.103
15)ロバート・シャーロッド前掲書、P.203 ∼207
16)高橋是人『慟哭の島・タラワ』 (海交会全国連合会、1979)P.91
17)防衛庁防衛研究所戦史室著 前掲書、P.184
18)ロバート・シャーロッド前掲書、P.207 ∼208
19)同上書、P.211 ∼214
20)高橋是人 前掲書、P.92
21)読売新聞大阪本社社会部編『タラワ 新聞記者が語りつぐ戦争(2) 』
(新風書房、1991)P.146
22)同上書、P.146
23)同上書、P.146 ∼147
24)『
』P.50
25)読売新聞社 前掲書、P.148 ∼150
26)『
』P.50
27)読売新聞社 前掲書、P.150
28)ヘンリーI. ショー前掲書、P.93
29)ロバート・シャーロッド前掲書、P.215 ∼217
*第3日目
11月23日
6時00分、駆逐艦群は非常に近距離から、ものすごく強固なコンクリ
ートの防塞めがけて砲撃を開始した。これらの防塞の 1つには 300名の
日本兵が死守していると報ぜられている。空からは 200機以上の戦闘機
が急降下爆撃と機銃掃射を半時間も続けている。猛烈な攻撃に、ある時
は島全体がぐらぐら揺れて、いまにも海の中に消えてなくなるかのよう
であったという。この猛烈な砲撃に 2日間持ち堪えた日本軍の要塞の典
型がある。ペシオでは地下1m以上掘ると水が湧いてくるため、トーチ
カはその半分を地下に隠し、半分を地上に現している。このほとんど難
攻不落の要塞構築をみては、日本海軍には立派な工兵がいることを認め
ないわけにはいかない。砲弾の大穴の中から 2名の日本兵の死体が発見
された。いずれも米海兵隊の鉄兜、戦闘衣に革紐を着用していた。
米軍のある兵士たちはトーチカに通ずる地下の入口で、野外用コンロ
−31−
の上に野菜と牛肉の缶をのせて温め 2日ぶりに腹にもたれる朝食をとる
余裕がでてきている。1 )
この日、米軍は残りの予備軍の 1個大隊をグリーンビーチに上陸させ
た。これで予定の上陸部隊はすべて投入し、戦闘は急速に収拾に向かっ
ていった。2 )
8時00分、火ぶくれができそうな強烈な太陽の下で、死体を埋葬する
準備が進められている。不気味にふくれあがったものもあれば、すでに
緑色に変色しているものもある。また顔のないのもあれば、内臓が体か
らとびだしているのもある。またある死体は長い間水中につかっていた
ため、その眼球が寒天のようなかたまりに変化していた。ある海兵の死
体は首が完全に吹き飛ばされ、その左腕はもぎ取られており、わずかに
皮膚の断片が肩からたれさがっているばかりだ。
大きなブルドーザーが深さ1mの長い塹壕を掘っている。ときたま日
本軍の射撃がくる。従軍牧師が彼らの検死と最後の礼拝を行う。人間の
最後の儀式は荘重でなければならないが、ここではそうではない。それ
からまた 2番目の塹壕を掘りはじめる。3)
日本軍は島の南部へと追い詰められる。米軍は島の東部に艦砲射撃を
繰り返しつつ、日本軍の抵抗を排除していく。
米軍戦車の群れは日本軍の壕がありさえすれば、黒い砲身を回し、海
に向かって開いている壕の銃眼に照準をあわせる。せめて、米兵の 1人
でも道連れにと走り出る兵は、例外なく火炎放射器の炎に包まれて、黒
い物体となった。次に、ガソリンはオレンジ色の炎となって、壕の中を
焼き尽くした。4 )
掃討したばかりの壕の陰でひと休みしている海兵隊に、たった 1人で
忍び寄り、小銃弾を浴びせかけ、米兵の何人かを倒した日本兵がいた。
−32−
また爆弾の穴から穴へと移動しながら、米兵を狙撃する日本兵もいた。
倒れた海兵隊員の戦闘衣を着込み、そのヘルメットをかぶって近寄り、
何人かの米兵を殺した者もいた。戦線を分断され指揮系統を失った日本
兵は、こうして島のあちこちで、少数の集団あるいは一人ひとりで最後
の突撃を試みていた。白い褌のほかは真裸の日本兵が、手榴弾を手に戦
車のキャタピラーの下に身体を投げ出す。しかし彼の自殺攻撃は武士の
本望をとげただけだった。5 )戦況全体を把握するすべもなく、傷つき疲
れた陸戦隊員は、個々に戦局の帰趨を判断し自決していった。 6)
島の中央部の石油タンクに砲撃が加えられ、30m 四方の地域が火炎と
黒煙のかたまりと化している。島全体が震動し戦慄してこの世のものと
も思えない大騒音を奏でている。
本部のトーチカにこっそり忍び寄って来た日本兵が、新しい弾薬集積
場に銃火のひぶたをきった。作業をしていた海兵たちは逃げはじめる。
大佐は、「とまれ!こん畜生!敵の奴を叩き殺せ!」とどなる。
爪先の破れた地下足袋以外、丸裸の捕虜 5名が連行されてくる。
「朝鮮人の労働者です。捕虜になって大よろこびですよ。」
その中の 1人はわずか数日前にペシオに到着したのである。それまでは
ほかの島で椰子の丸太の伐採に従事していた。丸太はペシオへ建材とし
て積み出されていた。ペシオ島の鬱蒼と茂る椰子の木は、米軍が砲撃を
開始するまではほとんど掻き乱されてはいなかったのである。
死体埋葬班は日本兵の死体の埋葬を始めた。それは 3日たって死体の
悪臭が耐えられないくらい激しくなっているからではあるが、勝利が米
軍のものになったことを示す兆候でもあった。 7)
22日夜の反撃の決定的挫折により、日本軍の組織的抵抗は、ほぼ終わ
った。しかし、これは日本兵全員が殺されたり、捕虜になったことを意
−33−
味するものではなかった。ペシオでは、まだ数日にわたり掃討が行われ
た。日本軍の弾丸がまだ盛んに飛んでいるうちに、米軍は飛行場の修復
にとりかかった。島の内陸部の強力なトーチカがいくつか破壊された。
間断ない攻撃は次第に効果をあらわしてきた。
13時00分、日本軍の抵抗はまた、だんだん頑強になってきた。桟橋の
たもとにあるトーチカにブルドーザーがやってきて、入口に砂を厚く積
み上げ約 150人が生き埋めにされた。また別の壕では、絶望的な戦闘に
疲れた日本兵90名ばかりが、自決した。8 )
日本軍の掩体壕をひとつずつ破壊していく、蝸牛のように遅い速度の
作戦と、それにひきかえ海兵隊が受けた極めて大きい損害のために、緊
張で消耗した兵士の間に、悲観とあきらめに似た微妙な雰囲気が漂いは
じめる。島の東部の掩体は、まだ弱体化されていなかった。9 )
13時10分、海兵隊は ‘ 鳥の尻尾’ の部分に突入した。 500名近くの日本
兵を殺傷し14名の捕虜を得た。その大部分は朝鮮人労務者だった。1 0) こ
の日午後、戦闘開始以来最も頑強に抵抗してきた西部ポケット地帯の第
七佐世保特別陸戦隊の拠点がついに落ちた。機関銃弾を撃ち尽くした後
の陥落であったのか。
この拠点の奮戦についてヘンリー・ショーは次のように書いている。
「良い位置に、たくみに構築された掩体と防塞によった決死の日本軍
は 3日間の攻撃に耐え抜いてきた。彼らは海兵 4個大隊の上陸を粉砕し
て効果的に陣地を防衛した。日本軍守備隊のどのグループよりも、米軍
に大きな損害をあたえた。沖合の珊瑚礁には破壊された上陸用舟艇や装
軌艇の残骸が散乱している。これらは、この日本軍の正確な側防射撃の
犠牲となったものである」11 )
それほどの拠点も、この日 3時間にわたる集中砲火を浴びてついに沈
−34−
黙した。突入した海兵隊が見たものは、夥しい陸戦隊員の壮絶な自決の
姿だった。1 2)
75mm砲を搭載した半装甲トラックが終日、ペシオの島内を往復して、
高性能爆撃を日本軍のトーチカめがけて雨霰のごとく撃ち込んだ。火炎
放射器を携えた海兵の 1隊は日本軍の陣地の内外で数百名の日本兵を焼
き殺した。米軍の 3日目の問題は、日本軍の残存兵を掃討するのに、い
かに人員の損失を少なく食い止めるかであり1 3) 日本軍にとっては自分が
殺されるまでに何人の敵を倒せるかであった。
3日間の砲撃で日本兵の死体が到るところに散乱している。さらに多
くの日本軍戦死者が掩体陣地、塹壕、防塞などの迷路の中にあった。
彼らは降伏を拒絶して自決したのだ。瓦礫の積み重なった穴の中で、
爪先の破れたゴム底の地下足袋を右足だけぬいで、銃身を額にあてがっ
て、右足の親指で引き金をひいた。また、ある者は手榴弾を胸にぶつけ
て胸を破裂させ、右手を吹き飛ばしたのである。1 4) 日本兵が勝つために
すべきことは、ただ攻撃的に闘うことであった。そして勝つことができ
なかった時は、自殺する以外に方法を知らなかった。降伏は日本人にと
って社会的に葬られてしまう恥辱を意味するからである。
しかし、米軍の接近するのをただぼんやり見て、生死を超越した顔つ
きの兵士たちもいた。彼らは戦車や火炎放射器が潜伏所を破壊したり、
焼いたりしたとき、なんの抵抗もなく死んでいった。或いは、名ばかり
の抵抗をしただけのものもいたという。 15 ) 精根尽き果てたのか、あるい
は設営隊の非戦闘員だったのかも知れない。
三方からの慎重な前進の 3時間後、いまは沈黙し、くすぶり続けてい
る廃墟を完全に占領した。
16時30分ごろ、50人ほどの日本兵が藪の中から忍び出て、米軍掃討部
−35−
隊を襲撃した。小銃、手榴弾、銃剣による戦闘の末、日本兵のほとんど
は戦死した。さらに19時ごろ、まず50人の斬込隊を編成し、海兵隊の野
営陣地に突撃させ、米軍の反応を確かめている。しかし、この企画は米
軍に察知されていた。日本兵は喚声をあげ、手榴弾を投げ、わずかの小
銃で射撃しながら突っ込んだが、 1人も陣地に突入できなかった。続い
て第 2波の50人も米軍の機関銃の応射により全滅されてしまった。それ
から 4時間の沈黙をはさんで数丁の機関銃が唸り、ついで24日午前 4時
ごろ今度は 300人の日本兵の最後の組織的攻撃が敢行された。機関銃が
米兵をなぎ倒しまさに白兵戦だったが、戦いの大勢は、すでに決してい
た。30分足らずの肉弾戦で 300を超える日本兵の死体が散らばった。こ
の夜の数次にわたる逆襲は、守備隊が行った最初にして最後の組織的な
夜襲だった。にもかかわらず、戦果はほとんどゼロに等しかった。1 6)
食料も水もなく、弾薬も底をついた極限状態の守備隊員にとって残され
た道は、 5体の動くうちに突撃死するほかなかったのだろう。奇蹟的に
生き残った音里 1等水兵は語る。「もう手元には手榴弾も残っていませ
ん。重傷者に渡す自決用もないのです。足を砕かれている者は、銃の引
き金を足で引くこともできず、互いににじり寄り、気合いとともに帯剣
で刺し合うのです。心臓を刺しても人間はすぐには死なないのですね。見
るに見かねて戦友が介錯しました」 17 )
この恐るべき大殺戮にもかかわらず、まだ少なくとも 500人の日本軍
部隊がペシオ東部に残っていた。
一方、眼を真赤に充血させて、汚れきった服をまとった海兵たちが血
なまぐさい前戦からよろめきながら出てきたが、生き残ったものより戦
死した者の方が多かった。この夜、恒例の日本軍の飛行艇が夜間偵察に
飛来した以外は、何事もなく過ぎた。1 8)
−36−
23日の夜間防御命令は、各歩兵大隊に全海岸線にそって壕を掘らせ日
本軍の逆上陸にそなえた。環礁のまわりは海軍艦隊が警戒した。日本艦
隊はこの段階でもなお、米軍にとっておそるべき脅威だったのだ。トラ
ック島から出撃してこないという保証はなにもなかった。はげしい殺し
あいに生き残ったのに、今になって爆撃でやられてはかなわないという
思いが、壕の完成に拍車をかけた。
壕が深く掘られたのは結果的によかった。夕暮れすこし前、最後まで
抵抗していた日本兵 1人を始末するため、海兵が掩体壕に手榴弾を 1個
投げ込んだ。そこは地下弾薬庫だった。ものすごい爆發がおこった。砲
弾はつぎつぎに誘爆を起こして四方八方に飛び散り、 1晩じゅう破片を
ばらまいた。米兵たちは艦砲射撃の間ずっと耐え抜いた日本兵たちが、
どんな思いをしたか想像することができた。
この騒ぎのなか、少数の日本軍部隊が最後の突撃をするために隠れ場
所から現れた。将校 1人が殺され 2人の海兵が銃剣で刺し殺された。1 9)
上陸 4日目の13時12分にペシオは「確保されたり」と公表された。
それは海兵隊の第 1次挺身上陸隊が浜辺に突入してから75時間42分を経
ていた。しかしその後も、瓦礫と死体の詰まったトーチカから、日本軍
の狙撃兵は数日後まで、射撃を続けていた。2 0)
タラワ玉砕後 4次にわたるギルバート諸島沖航空戦が行われたが、日
本軍機は 1方的に追い立てられるばかりで2 1) 殆ど見るべき戦果は上げら
れなかった。また貴重な潜水艦の犠牲は 6隻を数えた。 22 )
[注]
1)ロバート・シャーロッド/ 中野五郎訳『タラワ 恐るべき戦闘の記録』
(光文社、1950)P.222∼225
2)佐藤和正『玉砕の島 太平洋戦争・激戦の秘録』 (ワニの本)P.72
3)ロバート・シャーロッド前掲書、P.229 ∼231
−37−
4)読売新聞大阪本社社会部編『タラワ 新聞記者が語りつぐ戦争(2) 』
(新風書房、1991)P.159∼161
5)ロバート・シャーロッド前掲書、P.232
6)児島襄『太平洋戦争 下』 (中央公論社、1995)P.84
7)ロバート・シャーロッド前掲書、P.233 ∼242
8)ヘンリーI. ショー/ 宇都宮直賢訳『タラワ 米海兵隊と恐怖の島』
(サンケイ新聞社、1971)P.131∼137
9)同上書、P.149
10)同上書、P.155
11)同上書、P.162
12)高橋是人『慟哭の島・タラワ』 (海交会全国連合会、1979)P.96
13)ロバート・シャーロッド前掲書、P.220
14)同上書、P.222
15)ヘンリーI. ショー前掲書、P.154
16)高橋是人 前掲書、P.96∼98
17)佐藤和正 前掲書、P.73
18)ロバート・シャーロッド前掲書、P.255
19)ヘンリーI. ショー前掲書、P.167
20)ロバート・シャーロッド前掲書、P.260
21)高橋是人 前掲書、P.77
22)防衛庁防衛研究所戦史室著『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦 2
昭和17年 6月以降』 (朝雲新聞社)P.501
*日本軍陣地の被害跡
米従軍記者、ロバート・シャーロッドの記述により、日本軍陣地の戦
いの跡を見てみよう。彼は 1日半をかけて、島の視察踏査を行った。
ペシオで見たものは、人間の手による最大の破壊作業だったという。
これらはとうてい言葉でも写真でも表現することはできない。それは、
諸君が写真から臭いを嗅ぐことができないからだと彼はいう。
飛行場の滑走路に沿って 1ダースほどの飛行機が置かれているが、相
当銃弾をうけている。しかし軽快な起動力のある零式戦闘機は、かなり
良好な整備状態にあった。数台の日本製のトラックもある。 4社(ダンロッ
プ、ブリジストン、ヨコハマ、ファイアストーン) の違ったタイヤを履いている。黒色のセダン
型乗用車も日本製であるが、命中弾を受け半分焼けてしまっている。 1)
2台のコンクリート・ミキサーは日本軍がタラワを守り抜こうとした意
図を証拠だてるものだ。鋼鉄の格子でできた鉄柵は、2mもあり、コン
−38−
クリートの土台の周りを取り囲んでいる。日本軍は増強工事用の鋼材を
据えつけて、コンクリートの壁を流し混まないうちに、米軍が上陸して
きたのだ。また、コンクリート造りの 6mx10m の防空壕があって日本将
校の死体がある。たぶん 2日前に重傷を負って、ここに這って行って死
んだのだろう。この中には、兵隊の給料帳簿と戦時貯金通帳らしいもの
が詰まった箱があった。ここの壁は厚さが1.5mもあり、わずかに爆弾と
砲弾で刻み目がついているだけだ。 2)
ペシオの嘴にあたる北西部では、まだ片づけられていない日米両軍の
兵士の死体が、戦闘の状況を物語る姿で散乱している。強烈な太陽は、
白人も黄色人も同じように腐敗させていく。
防波堤の後方に77mm砲を据えつけた穴があり、その補充弾薬はまだ半
分しか消耗していなかった。さらに100mばかり奥には、空襲音響探知
機と発電所があった。この北西の浜辺一帯には77mm砲が稠密に配置さ
れているが、その 1門は艦砲射撃のため大破されている。
小鳥の嘴の先端に、口径14cmの日本軍の巨砲がある。砲弾の長さが5
0cmもあるのが 6発づつ箱に納められて 6箱もある。さらに数百発の砲
弾が積まれている。おそらく機銃弾らしきものが命中して、砲員を皆殺
しにしたものと思われる。
その南の小鳥の額にあたる所に、別の14cm砲があった。そしてこの
穴の内部には 4名の日本兵が、まるで炭の棒のように黒こげになって焼
け死んでいる。この辺のトーチカは3mおきに並んでいて塹壕でそれぞ
れ連結している。 7基の探照灯は戦闘機の恰好の目標になり全部破壊さ
れてしまっていた。3)
南岸の沿道は、難攻不落の機関銃陣地の壁と化しているが、島の南西
端の巨砲 2門は、 1發も発射されていない。最初の戦艦群からの砲撃に
−39−
より操作不能におちいったようだ。この大砲の隣の火薬室の内部には、
約25名の黒こげの日本兵の死体があり、砂丘の上にはヘドを吐き散らし
たように散乱している。 4)
日本軍の倉庫には、おびただしい食糧、主に缶詰の鮭や小海老、米な
どを貯蔵していたようだ。この倉庫の近くには、 1ダースほどの自転車
の残骸がある。さらに小銃の弾薬を詰めた大箱の山がある。あの恐るべ
き爆撃にも異状がなかったのだ。
また別の焼け落ちた倉庫には数百本の酒の瓶がある。山のような軍服
と鍋や皿などの食事用道具、ほうろう引きの茶碗とコップ、多数の圧力
釜、それに約80台の自転車などがある。他国の海軍と同様に、日本の海
軍も陸軍よりはるかに贅沢な給与をうけていたのだ。
日本軍がペシオの建設にあたり、いかに周到な注意を払ったかについ
ては、多くの証拠がある。すなわち地下の掩体の中に隠されていたガソ
リン輸送トラックには全く異状がない。また、4mx10mの貯水槽にはま
だ 4分の3 ほど水が満たされている。5)
縦横 20mx12m、高さ8mもある要塞の一つには、約 300名の日本兵が
黒こげになっている。この要塞の屋根には階段で行けるようになってい
て機関銃 2門が備えつけられている。ここは日本軍の司令部だった所だ
。 サイドカーのついた 1ダースばかりのオートバイは焼けて鉄の残骸
になっているが、黒塗りセダンはほとんど無傷だ。小型オート三輪もか
なり良い状態で残っている。
北浜側には、長さ15m もあるトーチカが 3つと、これより小型のトー
チカが10ばかりずらりと並んでいる。大きなトーチカは、てっぺんが吹
き飛ばされている。島の先端数百m 以内は、浜辺に幾重にも鉄条網と
地雷とを敷設している。弾薬集積場の壁は厚さ2.5mもあり、まるでコン
−40−
クリートの塊のようなものである。ここには 1人の日本兵しかいた形跡
はない。それは散乱している 1本の脚と 2本の腕が、たぶん合うからで
ある。島の尾端近くで数百トンのまだ錆びていない鉄のレールが積まれ
ている。それは1000台の貨車が走れるほどの分量である。日本軍がペシ
オにおいて大計画を持っていたことは間違いない6 )と記している。
北岸では、満潮になったため、浜辺に横たわっていた海兵の死体が防
波堤にぶつかりながら浮いている。その多くはすでに頭髪が抜け落ちて
しまっていて、実に哀れな姿となっている。同じ舟艇の24名中 3名が上
陸しただけだと言う 1等兵は「こんなに一生懸命に祈ったことはありま
せんでしたよ」と話す。直ちに埋葬隊を増設するよう命令がだされた。
歴戦の 2人の少将の目は、この変わり果てた海兵の姿を見た時、涙ぐ
んでいた。「この海兵たちはただ突撃し続けたのだ。ここが攻略できた
ということは、全く人間の領域を越えたものだ。日本軍は、防御施設の
構築にかけては名人ぞろいであった。前大戦で、ドイツ軍はフランス戦
線でこのようなものは構築しなかったよ。」
ペシオ島の西半分が屠殺場であったなら、東半分は破壊の極致であっ
た。無数の爆弾や砲弾の穴、根こそぎにされた椰子の木、爆發した弾薬
集積場に粉砕されたトーチカと大砲、それに数百名の腐敗した日本兵の
死体があった。 6日目の累々たる死体の臭いは信じられないほど強烈だ
った。ここに手が、あそこに首が、ずっとむこうに軍靴を履いた片足が
と言うようにばらばらに散らばっている。赤道直下の太陽にあぶられた
死体は、内部にガスが充満して膨れ上がる。瓦礫の山から燃えくすぶる
火が、死体に燃え移る。炎が肉とガスをなめるたびにシュウシュウポン
ポンと異様な音をたてて、破裂した。7 )
−41−
スプルーアンス海軍中将とその幕僚は、ニミッツ提督 1行と共に島を
見回った。「死の臭いをかいだのは、これが初めてだ」とニミッツがつ
ぶやいた。8 )生き残りの海兵隊員の服は汚れ、目はくぼみ、髭はのびて
表情は虚ろだった。まだ少年にすぎない隊員もみな老人のような顔つき
をしていた。 7) カール・ムーア参謀長が落ちていた靴を蹴飛ばしたとこ
ろ、その中には日本兵の足が残っていた。9) 彼らは終始陰鬱な表情であ
った。海兵1000名が戦死したと報告されたとき、スプルーアンスは初め
て直接戦争の惨禍に触れたのであった。彼にとっての戦争は、そのほと
んどが抽象的、理論的な研究であったし硝煙の戦場との接触はなかった。
マーガレット夫人への手紙には、日本兵の死体で埋まった日本軍のト
ーチカを見た時の耐えられない思いが書かれている。
害獣と余り変わらない日本兵を殺すことは、愛国的な義務だと宣伝さ
れた当時でも、彼は敵を憎んではいなかった。それどころか、日本軍を
尊敬し、その戦闘能力を充分認識して、理性によって戦ったのだ。
1944年末、スプルーアンスは真珠湾の日本兵捕虜の収容所の前を通り
かかった。彼は思わず鉄条網に近寄り、身振りを交えながら「君達日本
軍の戦闘ぶりは立派だった」と何度も言うのだった。 4つ星の海軍大将
が敵の捕虜に向かって熱心に話し掛ける光景は奇異でもあった。病院へ
見舞いに行った時も、彼は敵味方の区別なく思いやりを示した。10 )
日本軍の捕虜の語ったところによると、日本軍の士気を挫いたものは
航空爆撃でもなければ艦砲射撃でもなくて、彼らの撃ちまくる機関銃弾
にもめげず、ぞくぞくと上陸してくる海兵隊の光景であったそうだ。 11)
日本軍の機関銃火は海中でも浜辺でも多数の海兵を殺したが、それらの
者たちの後から次の海兵が殺到した。そして防波堤をよじのぼり、敵陣
−42−
地に突撃していった。日本軍は米軍がかくも勇敢に突撃しようとは思わ
なかったのだ。1 2) そして米軍を驚かせたのは、島の堅固な防塞と、猛火
の中に生存していた日本兵だった。
タラワにおける戦闘が極限の激しさを見せたのは、先ずマンハッタン
のセントラルパークの半分もないような小さな場所であったこと、次に
海抜1mの平らな島で椰子の木が焼かれてしまった後は、地下壕以外に
避難場所がなかったことである。すなわち山やジャングルが無いので、
戦術的な欺瞞工作がとれず、お互いに手の内を見せつつの戦闘だった 13 )
ことなどによる。また、強力な火器による白兵戦であったことは、負傷
者に対する死者の多さにも現れている。ただ、唯一の救いは、この戦闘
で命を落とした現地人がいなかったことだ。
ペシオは敵対する日米両軍のボクシング・リングだったのだ。14 )
[注]
1)ロバート・シャーロッド/ 中野五郎訳『タラワ 恐るべき戦闘の記録』
(光文社、1950)P.262∼263
2)同上書、P.246
3)同上書、P.271 ∼274
4)同上書、P.286
5)同上書、P.275 ∼278
6)同上書、297 ∼301
7)同上書、P.290 ∼296
8)JOSEPH H.ALEXANDER『
(NAVAL INSTITUTE PRESS,1995)P.2144
』
9)E.B.ポッター/ 南郷洋一郎訳『提督ニミッツ』 (フジ出版社、1979)P.363
10)トーマス.B. ビュエル/ 小城正訳『提督スプルーアンス』 (読売新聞社、1975)
P.249∼251
11)JOSEPH H.ALEXANDER 前掲書、P.248R
12)同上書、P.248U
13)野中郁次郎『アメリカ海兵隊』 (中央公論社、1995)P.76
14)JOSEPH H.ALEXANDER 前掲書、P.248
*アパママとマキン (ブタリタリ) の戦い
−43−
22日早朝、タラワの南の環礁アパママの西海岸に、78名の海兵隊が無
血上陸した。午後、島の北部で見張所員の激しい抵抗に会い、対峙戦が
2日間続いたが 1) 1名が戦死し、26日残りの24名の日本兵は全員自決をと
げた。小さなアパママ環礁の占領が厄介な問題だとは予想されなかった
が、上陸前の砲撃も加えず米軍の手に落ちるとは誰も考えなかった。
海兵隊の斥候が、わずか25名の守備兵しかいないことを知り、潜水艦
の援護射撃を頼りに進撃し、アパママを占領してしまったのだ。2)
“ガルバニック”作戦のもう 1つの目標はマキンだった。
マキン環礁はタラワにくらべて 180kmほど日本軍の主要基地トラック
島に近く、日本艦隊の出撃に直面する可能性があった。
マキン上陸部隊の攻撃目標は、ブタリタリ島だった。この島の形は、
ゴルフのパターのクラブに似ていて、頭部は西をむき、長さ10kmたら
ずのその細長い柄は北東へのびていた。
21日午前 5時31分、ブタリタリ島の西側へ強行上陸した海兵隊には、
ペシオの上陸とはちがい、海岸からの死の出迎えはなかった。上陸用舟
艇の大半は珊瑚礁に乗り上げたが、霰のような銃弾をくぐることはなか
った。米兵たちが密生したヤブ道を東進したとき、散発的だった射撃は
正確さと激しさを次第に増していった。しかし、ほとんど守備兵の姿は
見えない。日本軍は上陸部隊が射程内にはいってくるのをじっと待って
いた。前進した米大隊はそこで猛射を受け、日本軍との肉弾戦を展開し
て、激しい 1日を過ごすことになった。密生した植物で前進が阻まれ、
さらに準備砲撃での倒木が散乱していて進撃は困難をきわめた。日本軍
の掩体壕を破壊するどころか、それを見つけだすことさえ難しかった。
日本兵は戦車が落とし穴の上へ来るのを待って射撃した。戦闘は混乱
−44−
し、訓練未了の陸軍の州兵師団にとっては、苦しい試練だった。3)
夜になって、米兵は、日本兵の手榴弾が届くくらい近い所に壕を掘っ
て潜んだ。恐怖の一夜だった。日本兵は米軍戦線の各所に潜入して攪乱
した。新米の部隊では、本当の攻撃なのか陽動作戦なのかの区別もつか
ず、動く物、音をたてるものすべてに神経過敏になって、やみくもに激
しい射撃をする。それは止めようもなかった。 4) 夜が明けてみると日本
兵にはなんの損害も与えていないことが分かった。
22日いっぱい、激しい近接戦が続いた。遅々としてはいたが、着実に
日本軍の掩体を破壊し、中にいる守備兵を殺していった。この日夜まで
に日本軍全陣地は蹂躪され、守備隊の生存者は東方へ退却した。
23日、米軍大隊は日本軍陣地を前にして、壕を掘って身を隠し、終夜
小規模な攻撃を撃退した。夜が明けて日本兵の死体51が数えられた。5)
24日、マキン島占領が公表された。6 )
マキン占領のための米側の犠牲は、6472名中、戦死66名、負傷 218名
だった。日本軍 693名は玉砕した。 104人の朝鮮人が降伏したが日本軍
は水兵 1人が捕らえられただけだった。7) ブタリタリ島の守備兵力は陸
戦隊が 284名で、残りは設営隊だった。日米戦闘員の比率が23:1であっ
たことから見ると、米軍損害は大きかった。8 )ちなみに、この戦闘に参
加した者の中に、その前年、同島攻撃にも参加したジェームズ・ローズ
ベルト中佐 (大統領の息子) がいた。彼は無傷で戦いを切り抜けた。9)
マキン戦闘の最大の損害は上陸した部隊ではなく、これを支援した艦
隊の乗組員であった。11月21日援護射撃のさい、旧式戦艦ミシシッピー
の砲塔が破裂し43名が戦死、19名が負傷した。また24日、日本潜水艦の
魚雷により護衛空母「リスカム・ベイ」が沈没して、乗組員約 900名中
将校52人、下士官兵 591人が艦と運命をともにした。
−45−
ホーランド・スミス将軍はかんかんになって怒った。 1日でこの島の
日本兵を掃討できず、釘付けにされた艦隊に被害がでたからだ。10 )
24日正午、タラワ環礁のペシオで、焼け残ったパーム椰子に星条旗が
掲げられラッパが吹奏された。それが全島の兵の耳にとどいたとき、彼
らは不動の姿勢をとった。疲れた多くの米兵のほこりにまみれた顔に涙
がつたわって流れた。1 1)
海兵隊員は礁湖のなかに、待ちに待った光景を見た。輸送船が沖合い
に浮かんでいた。上陸の激戦が繰り返された桟橋は、いまはペシオを去
る海兵隊員の退出路となった。
この作戦の主な仕事は終わった。後はペシオ以外の島の残存兵をかり
出さなければならない。その任務はこの戦闘に参加しなかった隊に与え
られた。日本兵はなかなか発見しづらく、アメリカ兵が接近するまで射
撃しなかった。白兵戦を交えながら、日暮れまでに数えられた日本兵の
死体は 175で、 2人の朝鮮人捕虜が捕らえられた。アメリカ軍側の犠牲
も大きかった。32人の将校、下士官が戦死し、59人が負傷した。
11月28日、第二海兵師団がペシオに上陸してから 1週間で、タラワ、
マキン環礁は完全にアメリカ軍のものとなった。1 2)
“ガルバニック” 作戦を指導した参謀たちは、ギルバート諸島の戦闘が
終了した瞬間から、戦闘中に生じたすべての過失を発見し、詳細に吟味
した。ニミッツはハワイのカフーラウエ島で、日本軍と同じ掩体壕を造
り、爆撃実験を行った。 13 ) 艦砲射撃も航空攻撃も、島への挺身上陸隊に
とってほとんど役にはたたなかったこと、珊瑚環礁への侵攻には、環礁
攻撃に適した型式の爆薬を使用すべきこと、上陸に先がけて、海上なら
−46−
びに海岸から障害物を一掃すること、さらに、珊瑚礁の上を乗り越えて
行くには、多数の装甲した水陸両用車を必要とすることなどを学んだの
だった。しかし、空母機が上空の制空権を確保したことは、将来の作戦
での航空支援を強化することになった。島を孤立させることにより日本
軍の航空基地群の中心にある環礁でさえ、落とすことが可能であること
を証明した。 14 ) ギルバード諸島での戦訓は、その後の太平洋全域の戦闘
に応用されたのだった。
他方、日本軍はこの戦闘の教訓をどこにも生かすことはなく、以後、
「玉砕」は日本軍離島作戦を語る常套語句となった。
アメリカ本国の人々は、海兵隊の死傷者3000名と公表されたとき、驚
きに息がとまった。こんなことは断じて再び起こしてはならないと、あ
る新聞論説は怒った。1 5)
戦死者の遺族は非難の手紙をニミッツに送った。ある母親は「貴方は
私の息子をタラワで殺した ( murdering my son)」と非難した。1 6)
戦争の初期にはアメリカの報道機関は国民にたいして、戦争の酷しい
事実を伝え得なかった。戦況公表は、少数の爆撃機が爆弾を投下するた
びに、敵を大いに撃ちまかしているような印象を与えていた。戦線から
離れた、後方の司令部記者により書き直された記事は「粉砕」とか「猛
撃」とかの語を撒き散らしていた。「新聞の戦争は、俺たちのやってる
戦争とは違うものらしい」とある軍曹は言った。
1943年の時点で、平和の夢をむさぼっていたアメリカ国民にとっては
戦争はなお遠く離れたものに見えていたのだ。 17 )
中部太平洋の進撃は、いかにして敵の島嶼基地の点在する海洋を横断
しうるかという、過去に例のない進攻だった。 18 )
−47−
そしてタラワこそ、厳重に防備を固めた珊瑚環礁にたいする最初の正
面衝突であったし、アメリカ 3軍中で最強をもって任ずる海兵隊が「テ
リブル・タラワ」と恐れた戦闘であった。
皮肉にも、アッツ島での最大の敵は日本兵ではなく凍傷であったし、
ガダルカナル島では最悪の敵はむしろマラリアであったという。ところ
が、タラワ島ではじめて、日本軍の最精鋭たる海軍陸戦隊がアメリカ軍
にとって最強の敵として出現したのである。
太平洋戦史研究の権威、モリソン博士は、
「アメリカ合衆国はいまだかって、日本帝国海兵軍より頑強で、良く訓
練された戦闘部隊と闘ったことはなかった....。とは言え、アメリカと戦
う以外に名誉ある手段を持たなかった日本軍部と煽動家たちが強行した
政策に対しては、憤激を禁じえない」1 9) という。
柴崎司令官とその部下は、一にも二にも自分たちの計画を全うした。
海軍の要請どおり、米軍上陸部隊を湾に 3日間足止めさせた。
最後の陸戦隊員らは、西の水平線を見つめて、日本の艦隊がやって来
るのを虚しく待ちながら死んでいったのであろう。 20 )
約 1カ月後、大本営はその事実を「玉砕」の表現で発表した。
“大本営発表 ( 昭和18年12月20日15時15分)
「タラワ」島及「マキン」島守備の帝国海軍陸戦隊は11月21日以来、
3千の寡兵を以て 5万余の敵上陸軍を邀撃、熾烈執拗なる敵機の銃爆撃
及艦砲射撃に抗し、連日奮戦、我に数倍する大損害を与えつつ敵の有力
なる機動部隊を誘引して友軍の海空作戦に至大の寄与をなし、11月25日
最後の突撃を敢行、全員玉砕せり。
指揮官は海軍少将柴崎恵次なり
−48−
尚両島に於いて守備部隊に終始協力奮戦せし軍属 1千 5百名もまた全
員玉砕せり” 21 )
[注]
1)防衛庁防衛研究所戦史室著『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦 2
昭和17年 6月以降』 (朝雲新聞社)P.473
2)C.W.ニミッツ/ E.B.ポッター実松譲/ 富永謙吾訳 『ニミッツの太平洋海戦史』
(恒文社、1962)P.222
3)ヘンリーI. ショー/ 宇都宮直賢訳『タラワ 米海兵隊と恐怖の島』
(サンケイ新聞社、1971)P.180
4)C.W.ニミッツ/ E.B.ポッター前掲書、P.221
5)ヘンリーI. ショー前掲書、P.186 ∼187
6)防衛庁戦史室著 前掲書、P.503
7)同上書、P.504
8)C.W.ニミッツ/ E.B.ポッター前掲書、P.221
9)『ニューズウィークが報道した激動の昭和(1933 ∼1951) 』
(TBSブルタニカ、1989・7・26)P.195
10)C.W.ニミッツ/ E.B.ポッター前掲書、P.220 ∼221
11)ヘンリーI. ショー前掲書、P.172
12)同上書、P.179
13)E.B.ポッター/ 南郷洋一郎訳『提督ニミッツ』 (フジ出版社、1979)
P.365
14)野中郁次郎『アメリカ海兵隊』 (中央公論社、1995)P.91
15)ロバート・シャーロッド/ 中野五郎訳『タラワ 恐るべき戦闘の記録』
(光文社、1950)P.306
16)JOSEPH H.ALEXANDER『
』
(NAVAL INSTITUTE PRESS,1995)P.229
17)ロバート・シャーロッド前掲書、P.307
18)C.W.ニミッツ/ E.B.ポッター前掲書、P.207 ∼208
19)ロバート・シャーロッド前掲書、P.319 ∼321
20)『
』
(American Historical Publication,Inc.,1996)P.51
21)防衛庁戦史室著 前掲書、P.503
〔主要参考文献〕
1)『戦史叢書
中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和17年 6月以降』
防衛庁防衛研究所戦史室著 朝雲新聞社刊
2)『タラワ』 恐るべき戦闘の記録
R・シャーロッド著 1950
中野五郎訳
光文社刊
3)『ニミッツの太平洋海戦史』C・W・ニミッツ/E・B・ポッター
実松 譲/富永謙吾訳
1962
恒文社刊
4)『タラワ』 米海兵隊と恐怖の島
H・I・ショー著 1971
−49−
宇都宮直賢訳 サンケイ新聞社刊
5)『提督スプルーアンス』
T・B・ブュエル著 1975
小城 正訳 読売新聞社刊
6)『児島襄戦史著作集(VOL.V 太平洋戦争 (全 ) 』 児島襄著 1978
文芸春秋刊
7)『提督ニミッツ』
E・B・ポッター著 1979
南郷洋一郎訳
フジ出版社刊
8)『慟哭の島・タラワ』
高橋是人著 1979
海交会全国連合会刊
9)『1億人の昭和史・日本の戦史 (9)』太平洋戦争 (3)
1980
毎日新聞社刊
10) 『ニューズウィークが報道した激動の昭和 (1993∼1951) 』1989
TBSブルタニカ刊
11) 『タラワ』 新聞記者が語りつぐ戦争 (2)
1991
読売新聞大阪本社社会部編
新風書房刊
12) 『玉砕戦全史』
新人物往来社戦史室編 1994
新人物往来社刊
13) 『太平洋戦争 (下) 』
児島襄著 1995
中央公論社刊
14) 『玉砕の島 太平洋戦争 激戦の秘録』
佐藤和正著
ワニの本刊
15) 『UTMOST SAVAGERY The Three Days of Tarawa』
1995
J・H・ALEXANDER
NAVAL INSTITUTE PRESS刊
16) 『アメリカ海兵隊』
野中郁次郎著 1995
中央公論社刊
17) 『MHQ (The Quarterly Journal of Military History )』1996
American Historical Publications,Inc.刊
18) 『海軍時代の思い出』
広田 省二著 1977
非売品
19) 『三度目の誕生日』
田中喜作著 1992
非売品
20) 『予備学生出身一兵科士官の回想』
大津留 廉著 1997
非売品
21) 『アベマーマの守備隊長』
栗林徳五郎著 1995
かもがわ出版刊
22) 『マウリ・キリバス』
郡 義典著 1996
近代文芸社刊
23) 『鳴呼 海軍神風特別攻撃隊』
石川県甲飛会編 1997
非売品
24) 『環礁』 第4集
遺族会機関誌特集 1983
マーシャル方面遺族会刊
25) 『タラワ環礁』
下里梅子著 1988
製作協力・北海道新聞社出版局
26) 『キリバス友の会会報』
キリバス友の会編 1997∼1998
27) 『太平洋学会誌』
太平洋学会編 1997∼1998
[御世話になった方々の御芳名] 敬称略・順不同
柴崎 晃 (柴崎 恵次タラワ三特根司令官子息) 、 緒方 研二 (元電電公
社専務理事、昭和18年タラワ、マキン両島を訪れてレーダーを設置、緒
方竹虎氏の次男) 、 大津留 廉 (元キャタピラ三菱常務取締役、海軍予備
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学生第一期生、昭和18年 2月∼11月タラワ三特根司令部付小隊長) 、 広
田 省二 (元日本興行銀行、海軍予備学生第一期生、タラワ玉砕の前に
帰還) 、 田中 富士雄 (元三菱商事、短期現役 7期生、タラワ設営隊主計
科士官、18年10月頃帰還) 、 岩本治郎( 元三菱商事、短期現役 8期生) 、
谷浦 英男 (18年玉砕の前までタラワ、マキンの守備) 栗林 徳五郎 (
キリバス共和国名誉総領事) 、 大東 信祐 (靖国神社主事) 、 中島
洋 (太平洋学会) 、その他遺族会の皆様。 再度にわたる訪問や質問に
対して、常に誠意をもって対応してくださった方々、種々の出版物や資
料を紹介、提供してくださった皆様に深く感謝いたします。とくに、柴
崎晃様のご協力とご厚情なしには、とてもなし得なかったことと存じま
す。
最後に、きめ細かく、丁寧なご指導をくださった指導教員の高橋和夫
先生に心よりお礼申しあげます。
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