中央銀行における信用貨幣と国家 −中央銀行独立性への一視角−

中央銀行における信用貨幣と国家
−中央銀行独立性への一視角−
佐賀大学 楊枝嗣朗
<報告要旨>
(一)
中央銀行は行政機関ではなく、その銀行券は信用貨幣であって、行政権に基づく政府紙
幣とは異なる。したがって、金融政策は権力の行使ではない。ここに中央銀行独立性の究
極の根拠があるという中央銀行の本質論は、今日、内生的貨幣供給論に立つ論者に止まら
ず、多くの人の共感を得ているように見受ける(吉田暁「あいまいな存在としての中央銀
行」
、
『武蔵大学論集』第 47 巻第 3 号、2000 年、867-871、873 頁)
。と同時に、ニクソン・
ショック、変動相場制以降の金融の自由化・グローバル化等の進行は、かつて通説であっ
た不換銀行券=国家紙幣説を色褪せたものにし、異端と見なされていた岡橋保氏らの不換
銀行券=信用貨幣説を見直されている。こうした見解は、
「国債買い切りオペでマネタリー
ベースを大幅に増やせば、それが民間資金需要を刺激し、マネーサプライを増やし、景気
回復をもたらす」という、最近、メディアを賑わせている俗論を批判するものでもある(同
「異説異論」、
『日経ビジネス』
、2001 年 3 月 26 日号、191 頁)。
報告者は、上記の見解に基本的に同意するものの、中央銀行の本質が、中央銀行券の信
用貨幣性からだけでなく、国家により中央銀行通貨が「法貨」とされたという、その「半
官半民」たる性格をも踏まえて論じられる必要があるのでないかと考えている。近代国家
の生成と近代的貨幣・金融制度の生成が深く関連しあっていたことや、国家により発券業
務が単一化され、中央銀行券が法貨とされてきた歴史的事実を抜きに、中央銀行の本質は
論じられない。本報告は、何故に国家が信用貨幣に深く関わり、中央銀行を生み出さざる
を得なかったのかを明らかにすることで、中央銀行の独立性について、貨幣と国家の関連
という観点から考察を試みる。
(二)
従来、中央銀行の成立は、理論的には銀行券の一般流通手段化に伴う複数銀行券流通に
関わる貨幣流通上の諸問題(銀行券の質的同一性と数量調節の要求⇒発券集中・独占)か
ら経済的必然性をもっていると考えられ、国家はその必然性を実現するため、ただ補助的
役割を演じたに過ぎず、国家の存在は理論的には希薄なものであった(川合一郎『資本と
信用』
、1954 年、有斐閣、第 2 編第 2 節第 5 款参照、著作集第 2 巻所収)
。発券規制も銀
行券の支払約束性を維持し、取引の安全を図るという、
「いわば私法的領域での規制」であ
ると考えられている(吉田「決済システム・準備預金および中央銀行―E. F. Fama のアカ
ウンティング・システムの検討」、同上誌、第 37 巻 2―5 号、1990 年、170 頁)
。
しかし、例えば、イングランド・ウェールズにおいてさえ、イングランド銀行への発券
集中が完了するのに、1844 年のピール条例制定以降、70 年以上もかかっており、またス
コットランドでは発券集中が見られない事から見ても、このような議論は成立しがたいと
考える。
「自らの債務を一国の通貨体系の基軸」となるには、国家の積極的関与抜きには不
可能であろう。
報告者は、かつて、貨幣・金融制度への国家介入の内容は、国家に恣意的に委ねられて
いるのではなく、経済社会の内部に形成された社会的規範、あるいは自生的に形成されて
共同行為・経済関係によって与えられているのではないかという視点から、中央銀行の成
立を論じた。近代における信用貨幣による支払決済システム(銀行債務・信用が貨幣機能
を果たすという制度)の広がりは、信用貨幣の崩壊に経済社会を耐え難くする。18、9 世
紀のイングランド、スコットランド、合衆国において貨幣恐慌に見舞われた経済社会の事
例に見られるごとく、
経済社会は、自ら創り上げた支払決済システムの全面崩壊を回避し、
支払決済システム=信用制度を維持せんとして、
「国民がその富全体をもって」信用貨幣の
後ろ盾になるという共同意思、共同行為、共同規制を自生的に生み出してきた。そして、
そのような共同意思は、国家意思に上向転化される。中央銀行券たるべき信用貨幣は、法
貨規定を与えられ、
「国家の貨幣」となる。「銀行券を発行する主要銀行は、国立銀行と私
営銀行との奇妙な混合物として事実上では国民信用の背景をもち、その銀行券は多かれ少
なかれ法定手段」(マルクス)であるというのも、経済と国家のこのような連関によるもの
でないのかと論じた。国家貨幣という資格を与えられながらも、中央銀行債務の信用貨幣
たる性格に変りなく、貨幣価値の安定が中央銀行の任務とされるのも、共同行動や共同規
制の内生性に根拠を持っている。そして、スコットランドで発券集中が見られなかったの
は、そのローカルな位置と共同行動・共同規制形成の容易さ故に、国家の介入を必要とし
なかったのでないかと考えた(拙稿「中央銀行―経済・国家・法の連関―」
、川合一郎編『現
代信用論』上巻所収、1978 年、拙著『貨幣・信用・中央銀行』、同文館、1988 年、第 9 章
参照)。
経済社会に自生した共同行為、共同規制に中央銀行生成の根拠を求める同様な見解は、
1970 年代の激しいインフレーションの発生から厳しく中央銀行を批判したフリー・バンキ
ング学派に抗して、G.ゴートンや D.マリノーによって、中央銀行の存在を擁護する立場か
らも、展開されている。言わば、市場の失敗に対処して、国家が Public Good を与えるた
め、中央銀行を設立するという構成である(G. Gorton, “Clearinghouse and the Origin of
Central Banking in the U. S.,” Journal. of Economic History, 46-2, 1985, G. Gorton &
D. J. Mullineaux, “The Joint Production of Confidence: Endogenous Regulation and
Nineteenth-Century Bank Clearinghouses”, Journal. of Money, Credit, & Banking, 19,
1987 参照)
。C.グドハートの議論も、銀行の負債の側ではなく資産の側に着目するといっ
た違いがあるが、基本的視点は変わらない。
「銀行取り付けの問題は、大部分、銀行資産の
valuation をめぐる不確実性にあると思われる。この不安定性を解決できれば、パニック
も減り、さらに排除されることになるので、そうした恐慌を取り除くために最後の貸し手
を供給する用意のある中央銀行の役割は不必要となろう。」
「中央銀行の支援を必要とする
銀行の特別な性質は、支払サービスの供給者と資産のポートフォリオの保有者としての銀
行の共同の役割ではなく、その資産ポートフォリオの特別な性質である。」(C. A. E.
Goodhart, “Are Central Banks Necessary ? ” in Unregulated Banking, Chaos or Order,
edited by Forrest Capie & Geffrey E. Wood, 1991, pp. 2, 3.)。
しかしながら、こうした見解は、フリー・バンキング学派の K.ダウドや G.グラスナー
等からの厳しい批判に晒されてきた。「銀行規制や中央銀行の生成過程は、金融市場におけ
る内在的な欠陥に対処するために発展したのではない。……最も明白な理由は political な
ものである」
。銀行クラブの形成も自生的であると言うより、銀行制度への国家の干渉・規
制の結果であり、国家による発券独占は、銀行間の競争を抑制し、価格水準の安定性を犠
牲にするものであって、経済社会の a natural monopoly ではないと述べ、中央銀行の廃
止を主張する(K. Dowd, “Competitive Banking, Bankers’ Clubs and Bank Regulation”,
mimeo, August 1992, Nottingham University, p.18. この論文は Journal of Money,
Credit, and Banking 誌に投稿されたものであるが、手元に同誌を所持していないので、
mimeo からの引用ですませた)
。
ところで、銀行間の内生的な規制や共同行動を、フリー・バンキング学派は国家規制の
結果とみなすが、しかし、彼等フリー・バンキング論者が最も賞賛するスコットランド銀
行制度においても、拙稿で触れたように、内生的共同行動が見られた。C.マンは、L. H.
White, Free Banking in Britain : Theory, Experience and Debate, 1800-1845, 1984 の
書評において、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドやバンク・オブ・スコットラン
ドらの最後の貸し手機能や銀行券交換への参加強制を、ホワイトらが無視していることを
指摘している(Business History, Vol.27, No. 3, 1985, p. 341)。しかし、こうした内生的共
同行動にもかかわらず、スコットランドで発券集中は見られなかったが。
グラスナーも、国家の貨幣独占(鋳造の独占、中央銀行による発券独占の意味―引用者)
は、貨幣の技術的必要と何ら関連をもっておらず、軍事・主権防衛等のための財政収入を
確保せんとする国家の政治的介入の帰結であると言う(D. Glasner, ”An Evolutionary
Theory of the State Monopoly over Money”, Bureau of Economics, Federal Trade
Commission, Washington, DC., 20580, Jan. 1993, pp. 23, 29)。ただ、グラスナーは、軍
事技術の変化や国家の借入能力、課税能力の上昇から、この国家独占への
sovereign-national defence の合理性が今や、低下していると論じている(op. cit., p. 28,
D. Glasner, Free Banking and Monetary Reform, 1989, Part 1をも参照されたい)。
鋳造の独占にしても銀行券発行業務の集中にしても、それらが決して経済的必然性をも
った a natural monopoly ではないとのフリー・バンキング学派による主張は、正鵠を得
たものであろう。鋳造について「国家が行なったことは呼称の付与と重量品質の保証にす
ぎない」とか、国家が「社会的妥当性を与える」といった従来の説明は、余りにも歴史的事
実と乖離した認識と言わざるを得ない。日本やヨーロッパの貨幣史や、例えば、ナポレオ
ンによるバンク・オブ・フランスの設立とパリやその後、リヨン、ルーアン、リールでの
発券独占や、また第二次大戦後の植民地独立に伴う発展途上国における中央銀行の設立の
経緯を見ると、
「答えは極めて政治的である」というフリー・バンキングの認識は、評価し
得ると考えられる(東野治之『貨幣の日本史』、朝日新聞社、1977 年、歴史学研究会編『越
境する貨幣』、青木書店、1999 年、桜井英治「日本中世における貨幣と信用について」、『歴
史学研究』
、No.703、1997 年、 G. Davies, A History of Money, From Ancient Times to
The Present Day, 1994,
Banking in Ceylon, 1962,
H. Gunasekera, From Dependent Currency to Central
George Dalton, “Barter”, Journal of Economic Issues,
Vol.16, No.1, 1982, Gunnar Heinsohn & Otto Steiger, ”Private Property, Debts and
Interest or : The Origin of Money and The Rise and Fall of Monetary Economies,”
Studi Economici, N. 21, 1983, Id., ”A Private Property Theory of Debts, Interest and
Money,” Economies et Societes, Vol. 28, 1994 参照。これまでの貨幣論研究においては、
国家が不在であった。貨幣史の新しい研究は、貨幣は商品交換の必要から生成したのでは
なく、貸付・信用による債権債務関係から、計算貨幣として生成し、商品交換や市場や鋳
貨の生成に遥かに先行していたこと、また、銀行業の生成が鋳貨に先行したこと、そして、
その生成に国家が深く関わっていたことを教えている)
。
しかしながら、フリー・バンキング論にあっては、中央銀行と国家は一体のものと認識
され、中央銀行通貨は政府紙幣と同一で、政府により経済の外部から投入されると考えら
れている。ただ、戦争金融その他の財政的理由から国家によってのみ中央銀行が設立され
たと見るのであれば、なぜ政府紙幣を発行しなかったのであろうか。中央銀行が株式会社
組織をとり、行政組織に所属しているわけでない事から見ても、中央銀行券と政府紙幣を
同一とみなす彼等の見解は受け入れがたい。
(三)
1970 年代の急激なインフレーション、スタグフレーションの発生が、フリー・バンキン
グの主張を強固なものにしたことと並行して、中央銀行の擁護論や独立性の論議が高まっ
た事は興味深い(F. Capie, C. Goodhart, S. Fischer, and N. Schnadt, ed., The Future of
Central Banking, The Tercentenary Symposium of the Bank of England, 1994, Chap.
1 The development of central banking 参照)
。1970 年代のインフレーション以降、多く
の国の中央銀行は、
「自らの債務を一国の通貨体系の基軸といしている」ことから、「財政
収支を中央銀行を頂点とする銀行システムの中に組み込み」
、物価安定をその中心的課題と
して、中央銀行の独立性への努力を払ってきた(上掲、吉田論文参照)。
われわれは、中央銀行独立性の議論をめぐっては、中央銀行に体現されている国家と通貨
の関係が 1970 年代以降の金融の自由化・国際化の中で、大きく変貌してきたことに注目
する必要があると考えている。この変容こそ、翻って、近代以降、中央銀行創設の努力に
現れた貨幣と国家の関連に着目させることになった。
報告者は、中世以来、近代の信用貨幣をめぐる国家と銀行との協調と対抗関係の中に、
中央銀行が設立されていく論理を分析し、中央銀行の独立性が 1970 年代以降、脚光を浴
びるようになった背景を考察する。
ヨーロッパ中世・近代初期における民間での支払決済システム・信用貨幣の生成流通は、
明らかに鋳貨流通への侵害であり、国家のシーニョリッジ取得の妨げにとなろう。国家は
様々な形で、銀行業に介入している。また、商人や銀行業者による、鋳貨(real money)と
は異なる計算貨幣(imaginary money)の創造も、貨幣公権への侵害であった(拙稿「1696
年の銀貨大改鋳と抽象的計算貨幣としてのポンド」
、『佐賀大学経済論集』1997 年参照)
。
すなわち、国家の鋳貨に代わって、債務=信用貨幣が、経済社会の債権債務を終結せしめ、
貨幣機能を果たすという社会的慣行の発生は、国家の貨幣たる鋳貨の流通領域を侵するも
のであった。したがって、国家貨幣(鋳貨)と民間(信用)貨幣は対抗関係にあった。国
家はそのような信用貨幣を抑制するか、あるいは、積極的に信用の貨幣化という慣行を利
用するため、それらを社会規範として強制、定着させるために、裁判あるいは法令により
裁可するかを選択せねばならなかった。例えば、16 世紀のネザランドでは預金銀行の設立
を繰り返し禁止したし、あるいは、17 世紀末のロンドンでにおいて、コモン・ロー法廷は、
金匠銀行券が「手形ではなく、商人間では常に現金とみなされる」として、
「金匠銀行券で
支払った者は、為替手形の振出人と違って、たとえゴールドスミスが倒産しようとも債務
責任は免れる」との判決を下し、積極的に承認している。
このように信用貨幣の絶対的貨幣機能の承認は、すでに中世の預金銀行業においても見
られた。1355 年のフィレンツェの法令は、「もし債務者が債権者の出席と同意のもとに、
銀行あるいは両替商の帳簿で振替によって支払をなしたならば、そのような支払は、銀行
あるいは両替商の支払能力の如何にかかわらず有効である」と規定しており、また、ブリ
ュージュ商業都市でも 1452 年 3 月 9 日に、
「債権者が債権を銀行から入手しうる前に、た
とえ銀行が支払を停止しても、債務者は免責される」との判決が見られる(拙著『イギリ
ス信用貨幣史研究』
、1982 年、同『貨幣・信用・中央銀行―支払決済システムの成立―』、
1988 年、第 8 章参照)
。われわれは、イタリアやスペイン、さらにはアムステルダムの公
立預金銀行の設立もこうした歴史の流れの中で位置づけらると考える(C. F. Dunber, ”The
Bank of Venice”, Q. J. of E., Vol.6, 1892, A. P. Usher, The Early History of Deposit
Banking, 1943, H. Lapeyre, “La Banque, les changes et le credit au 16 siecle”, Revue
d’histoire moderne et contemporaine, No. 3, 1956)。国家は経済社会における支払決済制
度の安定のためばかりでなく、自らの資金調達のため、信用貨幣制度を必要としたのであ
る。
金本位制時代までのイングランド銀行をみると、1694 年、1697 年、1708 年、1725 年、
1775 年, 1777 年、1797 年、1811 年、1819 年、1826 年、1833 年、1844 年(唯一の発券
株式銀行の設立、政府債務の貨幣化、銀行券の偽造=反逆罪とする、額面の規制、正貨支
払の制限あるいは再開、地方支店の設置、法貨規定、発券量の制限等)の法令におけるよ
うに、国家はイングランド銀行と極めて密接な関係を有してきたことは周知のところであ
る。両者の関連については、かって、イングランド銀行の保証準備発行額と徴税権に着目
された松井安信氏は、恐慌期におけるイングランド銀行券の流通能力の維持という視点か
ら、国家と中央銀行の関連を指摘された(松井『信用貨幣論研究』、日本評論社、1970 年)
。
しかし、国家と信用貨幣の関係は、先の私見同様、恐慌期に限った問題領域に止まるこ
とはできないであろう。国家と信用貨幣の関連は、近代国家が「中央管理された徴税シス
テム」とともに、
「国家権力が調整し、裁可した貨幣システムの発展」=国民通貨制度を不
可欠としていたいう視角から論じれる必要があろう。近代国家の生成は、近代的金融制度
の生成と分かちがたく結びついていたのである(A. Giddens, The Nation-State and
Violence, 1985, 松尾・小幡訳『国民国家と暴力』、1999 年、 L. R. Wray, Money, and Credit
in Capitalist Economy,1990, Chap. 2 参照)。
確かに、イギリスは信用貨幣なしには近代国家成立の不可欠の要件である「財政革命」
に成功することはなかったであろうし、1689 年以降 100 年に亘る戦争金融も覚束なかっ
たであろう。私的所有や契約自由の承認により、国家の市場からの排除が進められたにも
かかわらず、「政府債務の貨幣化」は信用制度への国家介入の大きな目的であった。
しかし、
他方、強調されるべきは、近代的貨幣制度も国家を抜きに、其の成立を望み得なかった。
多大な特権を付与されてイングランド銀行の創設は、1630 年代以降の重金主義から決別す
る流れを確たるものにし、信用の貨幣化の広がりという事態の進展を決定づけた。
イングランド銀行を唯一の株式発券銀行となし、銀行券の偽造を反逆罪として事実上、
国家の貨幣(鋳貨)と同等の地位に就け、さらに銀行券を納税手段として承認するなど等々
の特権付与により、イングランド銀行の信用・債務の貨幣化は、商人間の支払いに止まら
ず、国民的な広がりを見せた。そして、1775 年にロンドン手形交換所が設立される頃まで
には、国内外の支払決済の多くをイングランド銀行の債務(銀行券・当座預金)で行ない
うるハイラーキーな信用貨幣制度が構築されていたのである。かくして、信用が貨幣機能
を果たす体制の国民的広がりが、1745 年のジャゴバイトの乱、さらにはナポレオン戦争時
の危機に際して、信用貨幣制度への商人社会を超える国民的支援を自生的・内生的に生み
出すことになったのである。いまや鋳貨による決済への回帰は国民経済的には不可能であ
った。1811 年の Stanhope 法による金約款の一時停止を行ない得た基盤は、早や十分に整
備されていたのである。
イングランドにおいて、18 世紀はじめの財政革命により戦争金融が成功し、産業革命に
先行して 18 世紀半ばまでに、近代的貨幣金融市場の基本的骨格が構築され、また 19 世紀
初めまでに H. ソーントーンによりイングランド銀行が事実上、中央銀行と認識されるに
至ったこと、さらにポンド貨幣価値が極めて長期にわたって安定的であったことは、イン
グランド銀行債務が事実上「国家の貨幣」となって、金貨とともに最終的支払決済手段とな
っていたことと無縁でなかった(拙稿「シティ鳥瞰:1660 年代−1913 年」
、
『佐賀大学経済
論集』
、1997 年参照)。イングランド銀行が政府に長期の貸付(国債保有)を行なっていた
だけでなく、度々の短期貸付要請に増資で対処していたことも、よく知られているところ
である。近代における英仏戦争の帰趨を決定した戦争金融の優劣が、信用による決済シス
テムを構築したイギリスと、重金主義を払拭できなかったフランスにおける国家と貨幣信
用制度の関連の差異にあったことは言うまでもない(P. G. Dickson & J. Sperling, ”War
Finance, 1689-1714”, New Cambridge Modern History, Vol.6, 1970, pp. 284-315 参照)。
経済社会が銀行券の兌換停止を受容する条件は、すでに信用貨幣制度(信用の貨幣化)の
中に潜んでいたのであって、国家が信用貨幣を「国家の貨幣」と裁可することによって、
準備されたのである。言い換えれば、信用貨幣が国家を取り込むことによって、別言すれ
ば、国家が信用貨幣制度に入り込むことによって、国民国家(主権国家)の内部で信用によ
る決済システムが構築されたのである(L. R. Wray, op. cit.,参照)。このことこそ、中央銀行
における国家と貨幣信用制度の関連の眼目であった。国家が一方的に銀行業に介入したと
ばかりは言えないのであって、銀行業の側でも、信用の貨幣化の国民的広がりにとって、
国家権力を必要としたのであった。
かくして、このような中央銀行生成、国民通貨創造の過程こそ、中央銀行と国家の対抗
と協調の関係を規定しているのであって、両者の距離の長短、関係の強弱は、資本主義の
諸段階、各国資本主義の有り様で異ならざるを得ないであろう。中央銀行設立の方法や時
期が各国で区々とならざるをえなかった。中央銀行の「あいまいな存在」は、その生成に
おける国家との関連に由来するのである。
(四)
「歴史的には、絶対主義は伝統的国家形態と現代の国民国家の過渡期を記し、世襲的
継承に支配された階層的社会構造に代わって、官僚的国家機構が徐々に制度化されること
に特徴づけられる。この過程は国民国家出現のための道を拓き、領土内に広がる貨幣ネッ
トワークに統合された基礎構造的変容を生み出すのに資するのであった」
。N.ドッドによ
れば、国民国家と国民通貨の結びつきは、(1)国家の領土的集中、(2)資本主義企業の拡大、
(3)国家の軍事力の強化、(4)財政運営の集中・強化等から、齎された。すなわち、貨幣制度
への国家の関与は、近代国家機構の発展にとって、言語、宗教、運輸・通信、文化等とと
もに、極めて重要なロジスティカルな技術であると見做されている(N. Dodd, The
Sociology of Money:Economics, Reason & Contemporary Society, 1994, pp.31, 32, 35)。
中央銀行通貨は、言わば、
「国家信用貨幣」(state credit-money)とも呼びうる存在となっ
ているのである(G. Ingham, “On the Underdevelopment of the ‘Sociology of Money’ “,
ACTA SOCIOLOGIA, Revue Scandinavia de Sociologie, Vol. 41, 1998, p.3)。
このように、近代における中央銀行と国家の関連の眼目が国民通貨の創造にあったと考
えることができるならば、今日、先進国において、中央銀行の独立性が法的に保証される
ようになったばかりか、発展途上国においてすら、独立性が論議されるようになっている
のは、国民通貨と国家の関連に新たな変化が現れてきたからであると考えざるを得ない。
「歴史的には、国民国家(主権国家)は大抵、国境の内側において他国通貨の流通を認めず、
独自の通貨を維持し続けてきた。実際、これら国民通貨(あるいは”territorial currencies”)
は、国民国家の統治権の明白な指標であると、広く信じられている。しかしながら、20 世
紀末に至って、国民通貨はますます様々な難題に直面しつつあるように思われる」(E.
Gilbert & E. Helleiner, Nation-States and Money:The Past, Present and Future of
National Currencies, 1999, Chap. 1, Introduction, p.1)。(1)ヨーロッパでの共通通貨ユー
ロの出現、(2)自国内での外国通貨の使用拡大、例えば、Dollarization の進行、(3)ユーロ・
カレンシー市場の拡大、(4)様々な地域通貨の流通等の事態は、明らかにこれまで自明とさ
れた通貨の領土性への挑戦であり、国家と貨幣の絆を動揺させるものであろう(op. cit.,)。
コーエンも、これらの事態を捉え、1648 年のウェストファリア条約以来、国民国家(主
権国家)の役割を強調する標準的政治地理学の伝統の中で育まれてきた「貨幣地理学のウェ
ストファリア・モデル」に陰りが生じ、
「貨幣の非領土化(the deterriotorialization of
money)」が進行していると見ている(Benjamin Cohen, “The New Geography of Money”,
in Nation-States and Money, op. cit., Chap. 7, pp. 121-125)。
今日、近代国民国家の重要なロジシティカルな武器であった言語、宗教、運輸・通信、
文化が、
経済活動のグローバル化の中で、その国民的性格を薄めつつあることと並行して、
金融のグローバル化、自由化の中で、国家と国民通貨の絆も緩みつつあると言えよう。か
つて、中央銀行が国家に従属させられていた管理通貨制度や国家独占資本主義と呼ばれた
時代は、過去のものとなりつつある。中央銀行の独立性も、このようなパースペクティヴ
の中に、位置づけられるのではなかろうか。
<フロアーからの質問とそれに対する回答>
1.質問者:中央大学 建部正義氏
質問:
(1) 信用貨幣は国家の介入抜きにはできないとすれば、信用貨幣の信用は、いかにていが
されることになるのか。
(2) 中央銀行の国家・政府からの独立性を主張する議論は幻想にすぎないのか。
回答:
(1) 信用貨幣の生成は国家の介入を必要としないが、中央銀行については、国家抜きでは
考えられない。したがって、中央銀行通貨についてその信用貨幣性を強調するだけで
は、中央銀行の「あいまいな性格」は解からないであろう。だからといって、今日の
中央銀行券の流通根拠を国家強制にもとめ、国家紙幣と同一視することはできない。
(2) 今日の状況では幻想でない。大戦間から戦後の高度成長期に多くの国では、独立性が
確保するのが難しく、そして今日、独立性が確保されつつあるのをみると、独立性の
根拠に、ただ、中央銀行通貨の信用貨幣性を強調するのでは、不十分でないかと考え
ている。地域通貨にしても、かって 30 年代のオーストリアでの試みが潰されていたこ
とからみても、貨幣と国家の関係が、1970 年代以降、大きく変容してきたことをみる
必要がある。