痴呆研究/最近の進歩⑫

老研痴呆プロジェクト情報
NO.14 1996 年 3 月
(財)東京都老人総合研究所
痴呆研究/最近の進歩⑫
東京都老人総合研究所が行っている長期
的な原因であるということです。老化に伴
プロジェクト「老人性痴呆に関する総合的
い脳の神経細胞の機能が低下する原因を探
研究」は、実際の臨床に携わる老人医療セ
るために、世界中の研究者があらゆる角度
ンターと協力して、老人性痴呆の制圧に向
から研究を進めています。
けてさまざまな問題に取り組んでいます。
痴呆にはいくつかのタイプがありますが、
今回は、脳の神経細胞の老化の原因に関
する 3 つの研究、
「アルツハイマー病におけ
それらのどの場合にも共通していえること
る蛋白質のラセミ化」
「脳機能の衰退と接着
は、脳を形成している神経細胞がその働き
分子」「老化の進化と脳 1 をご紹介します。
を正常に行えなくなってしまうことが根本
アルツハイマー病における
蛋白質のラセミ化
東京都老人総合研究所分子病理部門・研究員
白澤卓二
老人性痴呆のなかにアルツハイマー病と
くると、この D 体アスパラギン酸が脳のな
いう病気があります。最近の研究により、
かで増加してくることが知られています。
その一部に家族性の遺伝性アルツハイマー
多くの研究者は、蛋白質が老化する過程で
病があり、それらの家系では特定の遺伝子
L 体アミノ酸が D 体アミノ酸に変換する化
に病気の原因が発見され、アルツハイマー
学反応が、体の中で起きているのだろうと
病が発症することが知られています。しか
考えています。
しながら、大部分の散発型のアルツハイマ
私たちの研究からアルツハイマー病の脳
ー病の発症機構はいまだに解明されていま
でもこのラセミ化蛋白質が異常に増加して
せんし、また痴呆の進行をストップできる
いることが明らかになりました。正常の老
ような治療法も確立されていないのが現状
化でも一定の割合でラセミ化蛋白質が蓄積
です。
してくることから、アルツハイマー病では
私たちのグループでは、散発型のアルツ
正常の老化が異常に加速している状態にあ
ハイマー病の脳で発現が増えている遺伝子
ると考えています。また、アルツハイマー
に注目し、アルツハイマー病で痴呆が進行
病の特徴的病理学的変化である老人斑(図
する分子機構を明らかにし、治療に役立て
1)、神経原線維変化(図 2)でもラセミ化蛋
ようと研究を進めています。
白質が増加していて、病気の進行に関与し
散発型のアルツハイマー病で増えている
ていると考えています。現在、老人斑を構
遺伝子のなかにプロテインイソアスパラギ
成する蛋白成分のラセミ化が病気の進行に
ン酸メチル転移酵素(PIMT)の遺伝子があり
与える影響について、研究を進めています。
ます。PIMT は蛋白質のラセミ化という一種
の蛋白質の老化性の変化に反応する酵素で
す。したがって、この酵素は脳の中で、蛋
白質の「ラセミ化」を防止しようとして増
えているらしいのです。蛋白質はアミノ酸
という基本分子から構成されていますが、
アミノ酸は自然界に 20 種類存在していま
す。そのなかの 1 つであるアスパラギン酸
図 1 ラセミ化蛋白質の局在を示す免疫組織化学。
には L 体と D 体の 2 つの型のアミノ酸があ
矢印で老人斑を示している。
ります。不思議なことに、生物の体の中で
図 2 神経原線維変化におけるラセミ化蛋白賞に反
つくられるアスパラギン酸はすべて L 体ア
応するプロテインイソアスパラギン酸メチル転移
スパラギン酸です。D 体アミノ酸が体の中
酵素(PIMT)の局在。神経原線維変化の外面に染ま
でつくられない理由はよくわかっていませ
る黄色の部位(矢印)に PIMT が局在している。
んが、興味深いことに、蛋白質が老化して
脳機能の衰退と接着分子
東京都老人総合研究所実験生物学部門・研究室長
渡辺和忠
脳では、どの神経細胞もすべて数多くの
をつくっていますが、老化ラットではその
長い線維状の突起を伸ばして、別の神経細
量が随分と減少していることがわかります。
胞の突起部分に結合しています。このよう
そこで、試験管の中で神経細胞を培養し遺
な結合が網の目のように無数に張り巡らさ
伝子工学の技術を使用して、この分子を人
れていることで、学習や記憶などの脳の働
工的に減らしてみると、神経の突起の伸び
きが維持されています。どの神経細胞が別
が非常に悪くなることがわかりました(図
のどの神経細胞と結合するかは、非常に厳
2)。
密に決められていて間違えた結合をすると
このようなことから、歳をとると神経の
脳は正常に働くことができません。正確な
表面にある接着分子が減少して神経同士の
結合をするために、神経細胞は表面にそれ
結合が緩んだり、外れたりして脳が若いと
ぞれが神経接着分子とよばれる特別な分子
きほど働かなくなっているのではないかと
を必要なときだけ出して、お互いに結合す
思われます。私たちは、このような分子の
べきかどうかを決めています。このような
減少をどうずれば食い止めることができる
結合の大筋はほとんど生まれる前に終わっ
のかについてこれからも研究を続け、脳の
ていますが、生まれた後でも別の神経接着
働きの低下防止や痴呆の治療に役立てるよ
分子を出して、結合を維持したり結合の微
う努力したいと思っています。
調整を行っていると考えられます。
このような分子が少なくなると神経同士
のしっかりとした結合が維持できなくなり、
脳は正常に働くことができなくなる可能性
があります。図 1 は大人のラットと老化し
図1
たラットの脳内で、ある接着分子がどの程
白い部分が多いほどたくさんつくられていることを示し
度つくられているかを比べたもので、白い
ている。
ラットの脳での接着分子コンタクチンの量の比較
部分が沢山つくられているところを示して
います。大人のラットでは沢山の接着分子
図2
遺伝子工学によりコンタクチンを制御した効果
コンタクチンを減少させると神経の突起が伸びなくなる。
老化の進化と脳
東京都老人医痕センター研究検査科・部長
松下哲
子孫を残すことは生物の大切な役目です。
の進化があったといってよいのです。中枢
誕生から生殖時期までの生存競争に有利な
神経系では差引勘定は起こりにくい、つま
遺伝子は子孫に伝わり、種の存続を確保し
り脳は老化しにくいのです。これは脳の老
ます。同じ遺伝子が生殖終了後に生存に不
化を考える場合に大きな意味をもってきま
利に働いても生殖までのメリットとの差引
す。
勘定がプラスであれば、全体としてその遺
最近コレステロール輸送に関与する蛋白
伝子は自然選択上有利な扱いになり、ここ
の同位体(アポ E4)がアルツハイマー型老年
に老化を起こし得る遺伝子が蓄積可能とな
痴呆の危険因子であることが分かりました。
ります。単一の遺伝子が異なった機能をも
ここに述べた原理に従えば、この危険因子
つことを遺伝学では多面発現性といってい
が働く機序はホルモンや免疫系、ついで血
ます。このようにして生物の進化とともに
管系が考えられ、また、かりに脳自身とし
老化も進化してきたと考えられ、それから
ても神経細胞ではなくその周りにあるグリ
導かれる結論(表)は系統進化や医学でみら
ア細胞にこの危険因子がかかわっている可
れる老化現象によく合います。この老化の
能性が強いといえます。
進化が解明されれば老化の予防にも役立つ
はずです。
健やかな老化を達成するにはこの持ちの
よい脳をもとにして、理想的な日内リズム、
最近分子レベルの進化の研究が非常な進
食事、運動つまりライフスタイルにより、
歩を遂げました。いろいろな酵素や受容体
血管系、ホルモン・免疫系を適当に制御す
の活性部分の進化の速度(アミノ酸置換の
ることが大切です。
速度)をみると、免疫系で速く、中枢神経系
で遅く、他の組織はその中間でした。つま
り分子進化は中枢では保守的である一方、
周辺の組織は柔軟で、生物はこの原則に沿
って進化してきたといえます。
この進化の速度と老化の進化を併せて考
えてみましょう。老化は進化してきたわけ
ですから進化の速い周辺の組織・器官で起
こってきたと考えられます。つまり情報伝
達、外界とのやりとりに当たる組織、ホル
モンや免疫系で老化の進化が起こってきた
と考えられます。また相対的にいえば、中
間の進化速度の血管や血液の成分でも老化
表
老化の進化説から導かれる結論
1.親子関係があるところにしか老化はみられ
ない。
2.老化は生殖が始まる時期から起こる。
3.野生で淘汰圧力が強いところでは老化動物
は稀にしかみられない。
4.自然淘汰の圧力を広い住処(鳥)、大型化、
防御(亀)、共同生活(こうもり、ヒト)で
減らすことに成功した種では老化はゆっく
り起こる。
5.同じ種のなかで淘汰圧力、競争に曝される性
のほうが老化が速く進行し、寿命が短い。
6.突然生殖が中止つまり閉経が起こると、その
後には淘汰圧力は働きにくく老化はゆっく
り進行する。
7.老化は一部の器官に起こるのではなく、多数
の器官で起こる。