01 - 水煙会

頭
ロ
服
部
範囲
本煙会会長
34年 卒 )
水煙会会員 の皆様 には、 ご健勝にお過 しの ことと存 じます。
今年度 の特筆すべ きことは、何 といつて も8月 30日 、衆議院議員選挙 での
自民党 か ら民主党へ の政権交代 で しよう。本稿 を記 してい る9月 初旬時点 で
は新政権 の陣容な ど不明ですが、国民 の下 した審判は今後 に計 り知れない影
響 を与える ことは疑 い あ りません。私は この機会 に、世界一 難解 と云われる
建築基準法 が、分 り易 い条文 に一新 される ことを強 く望 み ます。何 しろ市1定
後60年 、前任者 の作成 した条文 を書 き替 える ことな く、上書 き改訂 を繰返 し
た法 や施行令、通達類 は解説書な しには理解 し難 く、 これが建築紛争 の一 因
を成す とも云われてい ます。
の
こ
最 近 の 自然 災 害(山 口県 下 や台湾 の集 中豪 雨、静 岡県 の地震 な ど)の 多発 も気 懸 りな とです。母校
14日 に田
建 築学棟 で は平成 20年 度 に耐 震 十二.コ 改修 を行 な い 、す っか り面 目を一 新 しま した。去 る 5月
川教授 の ご案 内 で見学 しま したが、格 子状 の鋼板耐震壁 や、外壁 を覆 った壁 面緑化、 内部配管類 をあ え
て露 出 させ て教材用 とす るな ど、新 しい試 み は一 見 に値 します c
平成 16年 に寄贈 した中村 lll平 作 、旧横 浜銀行本 店壁 面彫刻 の一 部 も正面 に陣取 り、所 を得 た感 じです 6
で が、
今 年 度 の総 会 は 3月 19日 、 海岸 通 りのBankartで 開催 しま した。 卒 業 設 計展 に合 わせ た もの す
学 生諸君 の設営 した懇親会が とて も好 評 で した。
々の業
今 年 度 も多 くの 会 員 が逝去 され ま した。 8月 2日 、初代 会長 の吉 原慎 一 郎氏 、享年 100歳 。数
い ご努 力 と思 い ま
績 の 中 で も後 輩 の た め に吉 原賞 を昭和50年 度 か ら提 供 され続 け て い る こ とは比類 な
々
い
々
す。 5月 4日 に は4代 目会長小 岩 井直和 氏 、 また、 長年監査 に当 た られ た津 木富男氏 、 ず れの方
も水煙会 に多大 な貢献 をな さい ま した。
謹 んで ご冥福 をお祈 り申 し上 げ ます 。
新型 イ ンフルエ ンザ に負 け るこ とな く、健康 に 日々 を送 られ るこ とを祈念 致 します。
建築学教 室 の近況
建築学 コー ス
コース長
田
川
泰
久
(昭 和51年 卒 )
2008年 10月 か ら20010年 度 末 まで の予 定 で 建 築 学 コース の コー ス 長 (教 室
主任 )を 務 め る こ とにな りま した。宜 し くお願 い致 します。
建 築学教 室 と しての近況 と して は、 い くつ か大 きな こ とが ござい ます。
報 告 は、時系列 を遡 る こ と しま した。重要 度 の順 で はないので 読 み難 い点
は ご容赦下 さい 。
最近 の大学 としての動 きとして、学部 は工 学 部 か ら理工学 部 へ の 改組 や大
学 院 で は建 築学 は工 学研 究 院か ら出て新 大学 院 の方 向 での改組 で動 い てお り
ます。政権交代、少子化 と工学部離れなどの若者文化 の流れに対 して、大学 の思惑 のその実現 は如何 に ?
といったところです。建築学教室 としては、肝心 なのは結果、学生に対す る研究・教育環境 の レベ ルアッ
プや少な くとも維持 と社会に対 しても如何 に有益 な人材 を輩出し続け得 るかの基本 を守 りつつの対応 で
す。
.
2か ら 3年 後、或 いは10年 後 に良 い報告 が出来れば と思って、建築学教室の意向を出来る限 り採 り入
れて もらう方向で、動 いているつ もりです。 しか し、生来実験屋で机 の上で考 えても半Uら な くもないが、
説明が難 しい な ら実験 しよう派なので、現教職員ス タッフに種 々手助けをお願 い しなが ら短気 に走 らず
ス トレスをため なが らの対応が実状 です。同窓の皆様にもご協力 をお願 いす る局面 もあるか と思います。
宜 しくバ ックアップをお願い します。
3月 と4月 の教職員の移動 と、学生の動向についてです。
1999年 に建築研究所の所長 より建築材料構法 の研究室 の教授 でお迎え した山崎裕先生が定年退職 され
ました。先生は現在 (社 )建 築振興協会 の会長 としてご活躍 です。先生には我 々 を含 めて建築業界の指
導的立場で引 き続 き、 ご指導 ご鞭撻頂け ます。 また技術職員 の原美幸 さんが退職 されました。原 さんの
育休期間をフォロー して頂 いた技術職員補佐 の石橋庸子 さん も新 しい職場 での再出発 とな りました。新
規 の教職員 の人事 に関 して、全学的に 1年 間の凍結 との横国大 ローカルルール (姑 息な人件費削減 だけ
ではないはず のシステム)の 影響 もあ り、今期4月 常勤教員採用 の ニュースは な しです。来年度 4月 に
は有望材な教員 の複数名採用 を予定 して動 いてお ります。 ご期待下 さい。
4月 には67名 の学部生 と44名 の博士課程前期 と 5名 の博士課程後期 の大学院生 を迎 える ことにな りま
した。 いずれの入学試験 も難関です。少子化 による影響 は大学や分野の区別化で、十分 な学力 を有 し、
かつ特異な能力 や経験 を有する人材 を考査出来る状態 を維持 してお ります。
2009年 3月 には58名 の学部卒業 生 と60名 の博士課程前期 と 2名 の博士課程後期 の修了生 を出 しまし
た。博士課程前期 についてはTEDプ ログラムとPEDプ ログラムが区分 された第 1期 生です。YGSAの す
す める博 士課程前期のPEDプ ログラムは、横浜国立大学 の建築学教 室のひとつの 目玉 です。入学希望者
。
も多 く、学内での建築学教室の発言力 の源 のひとつ となってお ります。YGSAに 限 らず卒業生 修了生
には横浜国人 の建築出身の 自負 を持 って社会 での飛躍 をお願 い したい と思 い ます。
最後に、建築学棟 の耐震改修 に伴 う概要 をご報告致 します。2008年 7月 にそれぞれ仮住 まい に引っ越
-2-
しして、2009年 3月 に改修後 の建築学棟 に戻 りました。YGSAも 馬車道か ら建築学棟 に移 りました。そ
の意味では2008年 度は大変慌ただ しく、多方面に御迷惑 を掛 けなが らの 1年 で した。特 に、学部学生に
は、製図室に代わる教室が十分なものでな く、院生 も先生方 との コ ミュニケー シ ョンが取 り難 いロケー
シ ョンなどなどで、申し訳 なかったと思ってお ります。
お陰様で、弘明寺か らの統合移転 (1978年 )か ら31年 目の本年度は、常盤台地区で リニ ュー アル した
建築学棟での再出発 とな りました。建築学棟 の リニ ュー アルの詳細 は、本紙 で も紹介があると思います
し、新建築 6月 号や 日経アーキテクチ ャの 7/27日 号に詳細 を譲 ります。
私か らは「建築学棟 の耐震改修が何故 この時期 に ?」 のお話 しをしたい と思 い ます。先ず、 1972年 か
ら1978年 にかけて統合移転 をした常盤台地区には現在90数 棟 の建物が建 ってお ります。その90%以 上は
RC造 です。1971年 以前の RC造 建物 はせん断補強筋が疎 らで第 1期 の建物 として1981年 の新耐震以前 の
建物 の 中で も耐震補強の優先順位が一般的に高 く、本学の施設部は他大学に耐震補強 の予算が配分 され
る中、第 1期 の建物が少 な く耐震補強の予算がなかなか付 きに くい状況があ りました。我 々にも施設部
か らの相談 もあ り、学生使用施設 を優先すべ き、オイルシ ョック当時 の コンクリー トの品質はばらつ き
が大 きいので コ ンク リー トの材質調査や簡易診断による優先順位の洗い出 しを示唆致 しました。一部講
義棟 などの コア採取 と 1次 耐震診断が行われ、2次 診断 と改修計画の順位付 けが施設部で行われました。
ここで、建築学棟 はなぜかワース トテ ン (改 修優先順位 の上位 )に 入ってお りました。 コンクリー トの
コア強度 も特 に問題 な く、服部水煙 会会長による手書 きの構造設計書 (私 どもの手元 にあ りますが)で
は、ベース シア係数を0.25と 約1.25倍 して計算 されてお りました。 この計算書 は、 当時 の手計算 な らで
はの細かな構造的な配慮がされた構造設計 の妙 を見るものです。
い っぽ う、施設部 は建築学棟 を 1次 診断 (釈 迦 に説法ですが、1次 診断は建物重量 に対 して どの程度
耐震要素 としての柱や壁 の面積があるかによる診断)す る際に、SRC造 であるに も拘 わ らず、RC造 と
して診断 した ことにワース トテ ンは起因 してお ります。高次診断ではSRC造 で診 断 されましたが、下層
部分 の吹 き抜 けやイ レギュラー な平面計画 (耐 震診断では簡易的に減点 をしますので)が 幸 い して ?耐
震診断基準 を僅かに超 えることが出来ず、早期 の耐震補強対象建物 にな りました。結果、上層の荷重軽
減なども含めて耐震補強に関 しては、余 り予算 を割 くことな く、設備などの環境 に予算 を多 く振 り向け
られました。最後 に こ じつ けですが、 リニュー アルが上手 くいった一因には建築学棟 に鉄骨が入 ってい
たか らとも言えます。現在、鉄骨構造 を教 えている田川か らの コメン トです。
-3-
横浜 を去 るに あ た って
山
崎職
横浜国立大学建築学 コース 前教授
1年 6月
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響 ,摯
ユ■4‐
)
横浜国立大学工学部建築学教室に着任 したのはち ょうど10年 前、1999年 の
7月 で した。つ くばの建設省 (当 時)建 築研究所 の所長 の職 を辞 して横浜へ
来 ました。建築研究所 には1968年 に入所 して31年 間、 自身の基礎研究 として
地震時の建築物の振動問題、特 にね じれ振動問題 に取 り組み ました。行政付
属 の研究所ですか ら、基礎研究だけをしていれば良い とい うわけにはゆかず、
並行 して、様 々なプロジェク ト型研究に参加 した り、あるい は日本政府 の 国
際技術協力事業に関与 した りしました。また、阪神淡路大震災 をは じめ とし
て、いったん地震が発生 し、建 築物 の被害が出た場合は、現地へ 出かけて被
害調査活動などをしました。
建築研究所での最後の10年 間ほ どは、管理職 とい うことで研究 の最前線か らは離れることにな りまし
た。横浜国大 に着任す るに当た って、この研究上 の ブ ラ ンクをどう補 うかを考 える必要があ りました し、
また、建築学教室での着任講座が材料・構法研究室 とぃうことで したか ら、 この講座名 にふ さわ しい研
究テーマ を設定す ることも必要で した。着任後 もなお考えが定 まりませんで したが、ち ょうど、卒論で
木造 をや りたい、 とい う学生が飛 び込んで きた こともあって、 よし、心機 一転木造 を始め よう と決めま
した。 この講座 には、かつ て飯塚五郎蔵先生 とい う本造研究 の大家がお られたことも大 きな理由で した。
木造研究 の 中で も、 い わゆる伝統木造建築に対象 を絞 り、大 きく、土塗 り壁 と茅葺屋根 の構造性能を実
験 を中心に調べ ることにしました。木造 の実験研究を始めるに して も、加カ フレーム もジャッキ も計測
器 も何 もな く、かつ校費 もわずか とあって、 これ らを少 しづつ整備 しなが ら構造実験 を始めました。校
費が少 ないので、 い ろいろな財団に研究費助成の申請 をしましたが、かつ ての研究仲 間である建研 OB
のご支援なども受けておかげさまで打率は 3割 位で した。
教育に関 してい えば、主な講義 として、学部 2年 生の「建築構法」 と大学院の「建築構法論」が挙げ
られます。前者 は木造、RC造 、鉄骨造、その他の各種構造 の構法につい てですが、研究 との 関連か ら
木造 に少 し重点 を置 い た内容 としました。一方、後者 の講義 では、建研時代 にRM構 造 とい う、全 く新
しい中層補強組積造の 日米共同による研究開発に長年取 り組 んだこともあ り、組積造 を取 り上 げました。
こ うして、授業 の 中では木造 とい う柔な建築 と組積造 とい う剛な建築 の両極端 を取 り上げたことにな り
ます。
研究所では、国内外の研究者、あ るい は時に よっては行政担当者が相手で したが、大学 では、 もっぱ
ら相手 は学生 とい うことで、長年研究所で過 ご した私にとっては、かな り異質な環境で した。私が本学
に着任 して 1年 後 の本会会誌に「横浜国大に着任 してJと 題する一文 を寄稿 してい ます。何 を書 いたの
かを改めて見 てみました。『さて、大学で教壇 に立 ってみて、 自分が学生だった頃の教室の雰囲気 とは
ず いぶ ん違 うな、 と思ったのが第一 印象です。30年 以上 も前の時代 と今 を比べ るのですか ら違 って当た
り前 なわけですが、しか し、これは大学特有 の現象 ではない にしても、とにか く学生 のマ ナーが悪 くな っ
たな、と思 い ました』、とあ ります。残念なが らこの感想は今 も変わ りがあ りません。しか し、その一方 で、
-4-
卒論、修論 で講座 に配属 になった学生 の相 手 を してみて、実 際 に話 をす る と実 に素 直 で、 また よ く考 え
て いて、私 の若 い 頃 の学 生像 と全 く変 わ らな い こ とに も気 づ きま した。授業 の 際 の 集 団 としての学 生 像
と、個 人 の学生像 との 間 に これ ほ どの ギ ヤ ップを感ず るの はなぜ な のか。や は り、私 が歳 を と り過 ぎて
いて 、保守 的 で、 時代 に追 いつ けない とい う こ とが大 きいの で し ようか。
最後 に、卒業生の皆さんに一言。建築 とい う学問、あるいは卒業後は職業 といってもよいで しょうが、
非常に間口が広いのが特徴です。その全部を一人が カバーするのは今 日では専門化が進み、凡そ不可能
です。 どうい う専門に進 もうとも、常に建築全体を見通す中で、自分の専門領域の技を磨 くようにして
もらいたい ものです。 これは言 うのは簡単ですが、実際にはなかなか困難なことです。 日常、つい専門
領域に入 り込んでしまって、その中で 自己満足 に浸るとい うことがあ りがちです。片時も忘れず にいる
とい うことは難 しいにしても、ふっと振 り返る、 とい うことが大事 だと思い ます。
10年 間、横浜 とい う歴史ある街で過 ごす ことができました。機会 を与えていただいた横浜国大の建築
学教室 と教職員の皆様 には大変にお世話になり、あ りがとうございました。大学の運営 も今後 はますま
す難 しくなろうかと思い ますが、教室の皆様が一致団結 して事に当たられ、地に着いた発展を遂げ られ
ますよう願 って離職のご挨拶 とします。
-5-
建築学教室 の 空 間戦略
横浜国立大学建築学コース 教授
ゴヒ
饉J
`巨
(昭 和51年 卒)
常盤台キャンパ ス と建築学棟
す でに「新建築Jや 「 日経アーキテクチ ャー」 でご覧になっている方 も多 い と思いますが、横浜国立
大学 の建築学棟 を改修 しました。「 しました。
」 と書 い たのはこの改修工事 の設計 を建築学教室の総力 を
挙げて、私 たちが行 ったか らです。
ご存 じのように、横浜国立大学常盤台キャ ンパ スは30年 ほど前、市内 に分散 していた学部 を統合する
目的で、 ゴルフ場跡地に計画 されました。 このキャ ンパス計画 は建築学科設計意匠講座 の河合正一教授
が担当されてい ます。当時は学内にキャンパス計画室が設置 されていて、私は大学院の ときに模型製作
などのアシスタ ン トをしてい ました。
常盤台キャ ンパスは屈曲して背骨 の ように貫 く歩行者専用道が設け られ、それに接 してキャ ンパス中
央 に中央広場、そ して中央図書館 と何故か建築学棟が シンボ リックに配 されてい ます。 この配置にはイ
タリアの中世都市 のCentro(都 市中心)を 構成す る、Piazza(広 場 )、
Duomo(公 会堂 Chiesa(教 会
)、
)、
の関係が隠喩 されてい るように思 えます。 この場合、建築学棟 は教会に当た ります。キャ ンパス全体 は
東西 に人文分野 と理工分野に分かれて ゾーニ ングされてお り、その真ん中に建築学棟が配置 されてい ま
す。 このよ うな配置 には、建築学 とい うものが文理融合 の学問である ことを示そ うとい う、河合教授 の
意図があると思 い ます。建築学棟 は屈 曲する歩行者専用道の ビス タス トップに配 され、中央広場 に食 い
込むような位置関係 をもち、竣工時はキャンパス 内で最 も高 い建物 で した。建築学棟 はこのキャンパ ス
の なかで重要なラ ン ドマー クになるように巧妙に計画 されてい ます。 この建築学棟 の建築 は当時助教授
でい らした山田弘康先生
(昭 和34年 卒
)が 設計を担当されました。
独立法人化による環境の変化
建築学棟が耐震改修 の概算要求 の候補 になっているとい う情報 を得 たのが、一 昨年2007年 の 7月 で し
た。今 までならば このよ うな情報が この段階で教室 に入って くる ことはなかった と思 い ます。2004年 の
国立大学法人化 によって大学 はかな り風通 しが良 くなって きているのです。 これを感 じましたのは、丁
度 この国立大学法人化 の頃、私が非常勤講師をしていた芸 大 と東工大で耐震改修工事があ り、法人化の
前 と後ではその対応 に大 きな違 いがあることを体験 したか らです。2004年 に芸大で建築科 の入 る建物 の
耐震改修工事が施工 されてい ましたが、名だたる建築家 を抱 える芸大の建築科の教授陣はこの計画の蚊
帳 の外 で、大 手組織事務所がそ の設計 を行 ってい ました。その組織事務所 の担 当者が気 を遣 ったのか、
で きあがった建物が どことな く六角鬼丈風であった り北川原温風 であるところが僕 には残念で した。
その翌年、法人化直後の2005年 に設計 が まとめ られた東工大の建築学科 と土木学科が入 る緑が丘 1号 館
の耐震改修工事がお こなわれます。 この ときも大手組織事務所が実施設計で入 っているのですが、概算
要求 の通る1年 前 に建 築学科 の教員達で基本設計内容 を固めてい たそ うで、東工大の教員達がその設計
を主導 して、耐震改修の予算 であ りなが ら開放型 ダブルスキ ンとい う環境対応機能をもつ ファサ ニ ドを
提案する とい う内容 になってい ます。 この工事 は法人化以後 の執行 で あ ったので工事 の予算配分 にかな
「東京工 業大学緑が丘1号 館 レ トロフィッ トJと い う粋 な作
り自由度があ ったよ うです。 この耐震改修 は
-6-
品名で発表 され、 日本建築学会作品選奨、グッ ドデザイン賞金賞な ど多数 の賞 を受賞 してい ます。
この芸大 と東工大 の事例 を身近 に見ていたので、 7月 に耐震補強 の概算要求の候補 にあがっているこ
とを知 って、建築学棟 の設計は建築学教室の教員の総力で対応 で きないか検討 を始めました。実は、 こ
の建築学棟 の概算要求 の1年 前 に教 育人間科学部棟 の耐震改修工事があったのですが、教育人間科学部
の教授か ら個人的に相談 を受けて既 に概 算要求が決定 してい る内容 の検討作業 を手伝 い ました。その時
は、非常勤講師に来 ていただいている下吹越武人 さん (昭 和63年 卒)、 田井幹夫 さん (平 成 4年 卒 )に
ボランティアの ような状態 でこの設計作業に入 ってもらったのですが、本学 の卒業生 の大西知子 さん (平
成 5年 卒)が 施設部 の課長に就任 されていたこともあって、思 いがけず私 たちの提案に柔軟 に対応 して
いただ くことが出来 ました。 この時の経験 で建築学棟 の設計内容は東工大方式で出来るのではないか と
考えていました。
グ リー ンウォール と基本構想策定
横浜国大 では耐震改修工事 に関 して施設部でその指針が決め られてお り、 これまでは耐震改修 の度に
建物 の外装 を自のタイル張 りに変 えてい ました。 これは当時の副学長の発意で、柔軟 に対応 していただ
けた教育人間科学部棟 の改修 工事 で も、 この 自の タイル張 りは外せ ませんで した。 タイル自体が メンテ
フリーであるとして も、後施行 タイルでは躯体保護にはならないであろうし、接着貼 りをしたタイル は
いつ かは剥離する可能性があ ります。そ もそ も建築 を教 える建物 にこのよ うな厚化粧 をすることに個人
的に抵抗感があ りました。
内部空間に関 してはかな り柔軟 に提案 で きる ことは分かってい たのですが、外部仕 上 げ に関 しては
キャ ンパス全体の ルールに関する ことなので、 さらに上位の判断があるようで した。「東京工業大学緑
が丘 1号 館 レ トロ フィッ ト」を見ていたこともあって開放型 ダブルスキンによる緑化壁面は当初か ら考え
ていたのですが、当時 の施設部長か らは外壁 に対するこの提 案には難色 を示 されました。
そ こで、 まずは白い タイル張 りとい うルールを作 られた副学長 と学長に建築学棟 の緑化壁面の理解 を
得 よう と考 えました。緑豊かな中央広場 に食 い込むような位置関係 をもつ建築学棟 はキャンパ スの なか
でラン ドマー クとなる特別な建物であ り、そのグリー ンウォールは大学 のエ コキャ ンパス化 のシンボル
になるとい う主張です。 ここで、河合先生が巧 まれたであろう建築学棟 の配置計画が生か されました。
実際、21世 紀 の建築学 は建築が環境 にいかに対応で きるのか とい うことが重要な研究テーマ とな ります。
建築学棟 の緑化壁面 とい う実験的な試み は、横浜国大建築学教室 の建築に対する姿勢 を示す ことにもな
り、そ して学生 に対す る教 育効果 も期待で きると考えてい ました。 この大学 の執行部 との調整 の後、建
築学教室 の 中に「建築棟改修WG」 を立ち上げ、その年 の暮れにはほぼ実施案 に近 い、以下の ような基
本計画 を策定 しました。
環境対応型建築】南立面に開放形ダブルスキンによる緑化壁面を設け、南北に風通しのよい平面と
【
するなど環境対応型を目指す建築とする。
スケル トン空間】内部空間は天丼をはがしたスケル トン空間とし、建築の成 り立ちを目に見える物
【
とする。(目 に見える構造形式、設備配管)
公共的空間】研究室フロアは中廊下を撤去してホール型の院生室とする。研究室の ドアはガラス戸
【
とす るな ど、 あ らゆ る場所 を公 共 的空 間 とす る。地 下 1階 、1階 はパ ブ リ ックな空 間 と位 置 づ け る。
図書室、 オ フ ィス 、会議室 な どを開放 的 な公共空 間 と して設 える。
教育的空間】建築学教室の総力をあげて取り組む。屋上に膜構造のルーフを設けるなど、建物その
【
もの を建 築 の教 育 的空 間にす る。
-7-
2008年 に入 ってか らこの基本 計画 を受けて、大原一興教授 (昭 和56年 卒 )を 中心 とする「計画WG」
と飯田善彦教授 (昭 和48年 卒 )を 中心 とす る「設計WGJを 立ち上 げ作業 を進めました。 この実施設計
では横浜国大建築学教室の もつ グリーンビルディ ング環境 工学講座、膜構造 の研究室が積極的に参加 し
ています。当初 の 目的通 り建築学教室 の教員が総力 を挙げて この建築棟改4グ に当たることが出来 ました。
キャンパス デザイン計画室
教育学部棟 の計画 を行 っていた年、 工 学部
の先 生か らも工学基礎 実験棟 の改修計画 の相
談が持 ち込 まれ設計意匠研究室で検討 をお こ
ない ました。独立法人化後、建築系の教員が
キャ ンパ スの計画 に参画で きる状況が生 まれ
て きたのですが、 この よ うな要請 に対応す る
制度的受け皿が なかったので、建築の教員が
参画 してキャ ンパス計画 を進めてい る東工大
の事例 を参 考 に して学内にキャ ンパス デザイ
ン計画室 を設置 して もらうことにな りました。
そ して、本年度か らこの「キ ャ ンパス デザイ
ン計画室」は学長直属 の機関 として設置 され、
Y―
CSA(横 浜 国 立大 学 大学 院/建 築都 市 ス
クール)の プ ロ フェ ッサ ー・ アー キテク トを
中心 にキ ャ ンパスマス ター プランの検討 を行
うことになってい ます。
大学 の広報であるYNUニ ュース に以下の よ
うにこの改修工事が紹介 されてい ます。
活きた建築教育の場を志 して
一建築学棟 リニ ューアルー
プライ ドを持 って学べ る場 としたい -2009
年 3月 、建築学棟 が リニ ュー ア ル しま した。
壁面緑化、屋 上の膜 構造、鋼板耐震壁 な ど、
本学建築学教室 の総力 をあげて様 々な実験 的
試みが行われて い ます。そ して、未来型 の教
育空間を試行 して、内部 はガラスパー テシ ヨ
ンを多用 し、あ らゆる場所 を見通 しの きく公
共的空間 としています。
(文 責、松 本 由香 准教授 )
写真提供
-8-
Y GSA
設設助手
三 浦 丈典 氏
追悼
小岩井直和 さん
さよ うな ら
昭和 15年 卒 同期 の友
青
木
榮
(昭 和 15年 卒)
去年 の早春
暖か い 日射 を浴びなが ら老人ホームの病床か ら奥様 に抱 えら
れるように身を乗 り出 して思 い 出話 しに時間を忘れて過 したあの時が最後に
な りましたね。次 々 と大小様 々の画帳にお得意 の人物画,お 子様 のスケ ッチ
,
そ してフラ ンス旅行 の風景画等 々,そ してこれか らは可愛 い幼子 を画 くんだ
よと,あ の半笑 いの顔 で上 目使 い に話 して くれ た あ の 時が生涯の思 い 出 と
なって しまったんです。
車椅子 の生活 とは言え, まだまだ と思って い ましたが,残 念です。悔 しい
です。君 とは昭和 12年 4月 旧制 の横浜高工建築学科 に入学 し,は じめてバ ラッ
クの大製図室で一 緒 になったのですね。そ して中村順平先生のパ リのデボ
ザ ール (美 術学校 )と 日本建築 の真髄 に触れることになったのです。そんな ことでフランス語 の学習は
必須に近 く,一 高,東 大 で も教 えてい た,内 藤濯先生の秘蔵弟子 とまで言 われる程,優 秀 で した。だか
ら何か とい う時 はいつ も「パ リの屋根の下」などのシャンソンを歌 い ましたね。病気がちの身体 で も結
構 スポーツ もや ってお り仲間づ き合 い も良かったですね。 シンが しっか りしてい ます よ。生 まれは小倉
市 ですが多分 父上が 日露戦争 で武勲をたてた陸士出の砲兵少佐で,当 地に勤務 されていた頃で しょうか。
その後彼が 3才 の時不幸 にも病死 されてい ます。その後は当時のインテリで学校教師を していた母上に
育 て られ東京市立一 中か ら横浜の学校 に入った0で す。
昭和 15年 3月 横浜 の学校 を出て神奈川県庁 に採用 されたが,戦 争に入 り,昭 和 18年 召集に よ り兵役 に
従事 ,鮮 満及南方戦線 に参加 ,陸 軍技術少尉 とな り終戦後,昭 和26年 県か ら横浜市 に入 り昭和38年 建築
局審査課長,昭 和43年 建築局指導部長,計 画局長,建 築局長を歴任,昭 和52年 9月 定年退職,そ の後引
き続 き横浜市住宅供給公社 に勤務する傍 ら,横 浜国立大学講師,横 浜地方裁判所民事調停委員 を務めて
い ます。
建築行政 を通 じ,横 浜市 の建築的発展 に貢献する所極めて大で,美 しい街造 りは天与 の君 の芸術心が
もた らす ものであ り,横 浜 の中心街 の耐火建築促進,建 築指導行政 では堅実な手腕 を発揮 されてお りそ
の 間,横 浜市 の ロス ア ンゼルス震災調査団長 として現地 に赴 き帰国後防災技術部長 として地震対策機構
の確 立 と防災対策を推進 した功績 は永 く後世に伝 えられるものです。 これ らの業績 により,平 成 5年 県
民功労者 として受賞,平 成 16年 ,秋 の叙勲 では瑞宝章の栄に浴 し車椅子で宮中に参内されました。その
後 しばらくして君が数十年 に亘って同期の幹事 として面倒 を見て もらった「一三会」 の会合 を目黒の八
芳園で奥様介添 でや りましたね。その翌年 も学士会館 で車椅子 の同期会 をや り愛用 のベ レー帽亡失事故
があ りましたね。思 い 出はつ きません。
40年 にも及ぶ長 い公務員生活 を終えてか らは堰 を切 った様に念願 のフランス旅行 を行ってい ます。昭
和59年 の賀状 にはノルマ ンデー風景,昭 和62年 8月 にはアルザ スの コルマール, リヨン,モ ンペ リエ
,
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プ ロバ ンス等 にスケ ッチ旅行。平成 2年 旅行中帯状疱疹 にかか り手遅れの後遺症 で神経痛療養中,更 に
パ キ ンソン病が発症 ,他 に皮膚疾患等 に悩 まされ,足 腰不 自由の車椅子在宅介護生活そ して老人ホーム
にて療養,そ して今年 1月 にイ ンフルエ ンザ肺炎,一 時退院 したが又入院, 5月 3日 早朝脱水 ,老 衰等
で逝去 されました。90年 に及び苦闘 と栄光の歴史の 中に今やあの世 とい う処 で静かに眠 っている貴兄 に
僕等 の一三会はもとよ り, 日本 の国,そ して横浜の為 に生涯を通 じて墨 して頂 いた御恩 は終世忘れ るこ
とは出来ません。ほんとうに有難 う。 さようなら。
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追悼
弔辞
吉原慎 一 郎 さん を悼 む
1日
横浜高工建築学科 1組 卒
和ヽ
ガ壺
陽
(昭 和 17年 卒)
水煙会倉1設 の産み の親育 ての親で もあ り、 また激励制度 として今 日の吉原
賞創設 に貢献 された大先輩である2期 の吉原 さんが急逝 され ました。平成21
年 8月 6日 ご 自宅 にて しめやかに告別式 を営 まれ ました。享年100歳 であ り
ました。
謹 んでお知 らせ します と共 に、立派な建築家 として も社会的に重要な建築
を残 された活動 などを偲びなが ら、感謝 と敬意 を表 しご冥福 をお祈 りしたい
と思 い ます。
吉原さんは何か と先見 の明をお持 ちでつ ねに雄大 な ビジ ョンをもとに多様
な芸術上 の実践 をなさい ました。
戦前中国に渡 るに際 し、直前 に周到 な用意 としてアメリカのス タンダー ド石油会社 に勤務 し、設計の
基本や英会話 のマス ター をされてお られます。
同窓の後輩数名 を引 き連れ中国において倉1亜 設計 と称す る設計事務所 で仕事 をし、成果があったとみ
られます。
名称 の亜にはアジアの文化発展 に尽す意が こめ られ痛快 に感 じられます。
太平洋戦 の敗戦 に合わせて吉原 さんが早急に帰国で きましたのには実は、当時中国全土 の平和 と安定
を目指 して支配力 の頂点にあ ったかの蒋介石の「戦犯 を問わず戦 いが終われば全ての恨みは消 えてよし
とす る」雄大な東洋思想 の発令 一下 の効果が ものをいいまして、 中国に居合 わせた 日本人は一斉に開放
され、吉原 さん も苦 しみ も少な く引揚げ られたの も一つの運であ ります。
終戦直後 の町風景 は横浜 に限 らずで したが市街地 一面が どこで も焼夷弾 による火災で焼 け野原 で し
た。その中で鉄条網で囲った広 い敷地には トタンを半 円 に曲げて急造 したカマ ボ コ兵舎群が整然 と立ち
並び、伊勢佐木町通 りの裏手 はブル ドーザ ー によって滑走路が出来上が り、パ イパー カブなる軽飛行機
が威勢 よく離発着 してい ました。敗戦 の現実感が身近 に感 じられた ものです。
闇市 なども トタ ン張 りで急造 され、美空ひば りの元気 の よい唄声 が どこか遠 くのラウ ドス ピーカーで
風 に流 され人 々 に少 なか らず希 望 と活気が戻 り始 めたようで したが、私共 の仕事 としては復興 に真 っ先
に実施 されたのは米軍 の家族用 の団地造 りで、吉原 さん以下全員多忙 を極めました。
創和 の始 まりは事務所名称 の決定か らで したが、吉原 さんの即断即決で、 日本 =「 和 の新 たな創造 の
意」 をこめて創和事務所 の旗上 げ とな りました。
所員 は吉原 さんの構想 で、母校 とす る国大 につ なが る旧横浜高工のOBの 方 々 に当る人選が行われ、
当時 ご健勝 であつた中村順平先生 のご意見 も採 り入れ10名 未満 でスター トを切 りました。
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当初か ら人数の割に仕事量 も多 く、米軍の信頼度 も高 ま りました。米軍 の家族住宅団地か ら始 ま り、
次第に他 の重要 な米軍施設(本 造系 の)劇 場や教会や運動施設に ショッピングセ ンター と忙 しさに応 じて
所員数 も次第に充実 し、更に新 しい敷地を求めてはバ ラックの事務所 を後 に引越 しとな り、又移 った先
にバ ラックが待 っている、 といった増強増大方向の指向性 の 中に全員 の元気 も出せたかに思 い ます。
かつ ての母校の製図室そっ くりのバ ラック暮 らしでの十数年間を過 ご した私 にとっての最終段階での広
い敷地は千代崎町で したが、そ こでは将来の増築 まで見込んだ広 々 とした空地に驚かされました。バ ラッ
クの平屋建 てで伸 びのび活動 で きました。 いつ も吉原 さんの温かい ワ ンマ ン性 に安定感があ りました。
空 いた敷地 の有効利用 は今では考えに くいところですが、裏手には手造 りの農園や (食 糧難下 で重要
な要素で もあ りえました)健 康維持へ の対処 として昼夕 の休みに多人数 で利用 で きるバ レー コー トや弓
道場 までが準備完了で した。
吉原所長は映画好 きで したか らよく一 同で見物 した ものです。椿 三十郎など全員で楽 しんだ ものです。
アメリカは敗戦国 ドイツに対 し多大 な経済支援 をしたことが伝 えられました。一方、同 じ敗戦国の 日本
には食糧 のみの援助 にとどま りました。 もちろんそれで もあ りがたい贈 り物 で した。そ うした 中で 日本
は黙 々 と努力底力 を発揮 し次第に戦前 にも増 した驚 くべ き回復 を遂げるまでにな りました。
'
そ して敗戦 4年 目の昭和 二十四年夏には吉原 さんは横浜人 として も活躍 され 日本貿易博覧会の開催 を
熱望す る実践行動 に協力 し計画上で も創和設計一貫 の大事業 を成 し遂げ られたのはお見事 で した。そ し
て 日本は昭和27年 4月 には連合 国に よる 占領下を解かれ晴れて一路平和 を目ざす独立 を回復 します。そ
れを機に私 は創和の明るい前途を喜 びつつ吉原 さんに激励 され創和 を後 にいた しましたが、その後 は受
注 の視野 を日本 自体 に向けられ大 きな記念的な建築 を残 され万 々歳で した し、中で も横浜 ス タジアム は
吉原 さんの記念すべ き大 ヒッ トではないで しょうか。
吉原 さんはご自宅での転倒が もとでの急逝でまことに残念な限 りです。
吉原 さんの盛んな設計活動の念頭 には、つ ねに母校愛が溢れていたよ うに思われ、なかなか普通 では
考 えられない レベ ルの高 さであ りしか も、 スピーディー をモ ッ トー とす る不言実行 の大先輩 として先導
性 を発揮 ご奮闘された ことを偲 びつつ、お別れ したい と思います。
吉原 さんの ご冥福 をお祈 りいた します。
合
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掌
追悼
吉原慎 一 郎 さん を偲んで
有
礼
子 (寺 本 )
(昭 和50年 卒 )
吉原慎 一郎氏 ご逝去 の報 に接 し心 よ りお悔やみ申し上げます。 同時に、私
共後輩へ の長年 にわたる励 ましに感謝 しお礼 を申し上 げたい と思います。
昨年秋、吉原氏のご子息 と結婚 された同級生 の大島
(旧 姓
)啓 子 さんにお
目にかか りました。お義父様はお年 を召 されてい よいよ元気で倉1作 活動 をさ
れてい る、若 い者 の方が負 けそ う、作品が増 えて置場の確保 に苦労 してい る
とのお話で した。
2005年 には「吉原慎 一郎 の造形/80歳 か らの出発」 とい う作品集 を頂 きました。幾何学的な造形か ら
感覚的な形、紙 ・粘土 ・木 ・金属 。絵 の具 と様 々 な材料や分野 にわたる870点 もの作品群で、物 を創 る
喜 びにあふ れてい ました。それが80歳 か らの出発 とい うのですか ら、再び大先輩 よ り激励 されてい ると
感 じた ものです。 フェ ミニス トの吉原氏 らしく、本は奥様に献 じられています。
吉原賞は卒業設計 に対 して1975年 に創設 され、私 は第 1回 目の賞 を頂 きました。バ リケー ド育ちで、
あち こちに突っかか り、何年 も留年 しどのよ うな路 に進むか も見 えずに苦 しんでいた頃のことで、その
よ うな反抗的な学生 も認めて下 さった先生方 の寛容 さにも感謝 します。 あるとき、祖母が「何年 も卒業
しないの は、落第 とい う事 で しょうか」 と言った ことがあ りました。 うちの孫 にか ぎってと思 いなが ら、
年 々膨 らむ疑 間が口にでたので しょう。卒業 と受賞 を聞いて安堵 した祖母の顔 は忘れる事がで きません。
受賞式 の 日、 自分 の死後 もずっと贈 り続け られるようにメダル を沢山造 ってあると言われました。 当
時はメダルの作者にまで考えが至 りませんで したが、今思えば、吉原 さん自身の作品に違 いあ りません。
吉原賞は、創設 された氏の志 と同時に、後輩が良 い仕事 をする事 によって重みを増 し、育 ってい くこと
と考 えます。私 自身を顧みれば′
さもとない 限 りですが、若 い方 々 に期待 し、世代 を越 えて「創 る喜 び」
が受け継がれてい くことを祈 ってお ります。
あ りがとうございました。
島根県松 江市在住
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吉
原
慎 一 郎氏
略歴
1908年 (明 治41年 )12月 横浜市中区で出生。
横浜第一 中学 (現 在希望 ヶ丘高校)横 浜高等工業 (現 横浜国立大学)卒 業、その後研究生 と
して1929年 か ら一年間在学。
1930年
スタンダー ド石油会社入社
1940年
華北交通北京鉄路局 (北 京市)入 社
1943年
創 亜建築設計事務所 (北 京市)創 立
1945年
中国 よ り帰国
創和建築設計事務所 (横 浜市 )設 立
.
1949年
東京事務所開設
1969年
的 UA都 市建築研究所
1972年
的創和設計 に社名変更
1973年
帥創和設計 の創立30周 年記念式典挙行、同時 に水彩画 の個展 を開催
1979年
創和設計解散
閉 UA都 市建築研究所
創立
設立
80才 か ら建築家の余技 として木、鉄、陶芸 の素材 で創作 を手掛ける。
この間各種美術展出品 個展等 を20回 程開催
1995年
第20回 岩手藤沢野焼祭
2000年
第56回 ハマ展
TVKテ
現代土器賞
レビ賞
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