2.秀吉の伴天連追放令で示された右近と家族の英雄的行為と霊性 (1)伴天連追放令とは何か ①全体の流れ ②追放令直前の状況とそこから見えてくるもの ③追放令後の司祭信徒の状況 ④宣教師の対応方針 ⑤バテレン追放令の要因 ・秀吉の国家観 宗教観 (2)右近とその家族はその時どのような行動をとったのか ①秀吉の棄教命令に対する右近の対応と信仰宣言 ・年報・日本史を基本に時系列的整理 ・右近の信仰宣言 ②明石における家族の対応と信仰宣言 (3)右近とその家族の潜伏生活 ①小豆島における信仰宣言 ・右近とオルガンティーノ神父の信仰宣言 ②九州での霊想 (4)バテレン追放令後の布教状況 ①信仰の質の変化、布教の拡大 ②巡察師ヴァリニャ-ノ神父の第二次巡察とそこで示された右近の心情吐露 ③26聖人の殉教と右近 (5)右近とその家族の霊性 ①殉教への覚悟 「永遠の命」の確信 -いざパライゾへ・家族と共に- (既に用意されていた覚悟 それは最後まで変わらなかった) ・村重謀反で示された信仰心は、バテレン追放令で極められ、マニラ追放まで変わることはなかった (一次資料) 大雑把には、全体の流れをつかむには1588年2月20日付フロイス書簡、 詳細は完訳日本史 1.完訳日本史④第13章~ 第13章 秀吉の九州攻め(右近の出陣の様子、明石でダリオが迎える、顕如参加、秋月の戦いなど) 第14章 秀吉の九州攻め(肥後八代で秀吉と副管区長コエリヨ会見・大型艦船問題、全宋同行、川内に進軍など) 第15章 秀吉の九州攻め(秀吉博多に陣・区割り・フスタ船見学、副管区長コエリヨ博多で秀吉と会見、 大型艦船は博多湾には廻航できないと船長が説明など) 第16章 バテレン追放令 (右近悪い予感、コエリヨへの詰問、追放令など) 第17章 バテレン』追放令 (右近九州攻め明石から九州に出発する時の様子、右近への棄教命令 右近の返答、翌朝右近家臣に話す、多くの人が右近を訪ね思い直すよう勧める 右近博多湾の島に移動 右近の決断の兆しは以前からあった 明石の様子) 第18章 伴天連追放令 (追放令に基づく様々の命令など) 第19章 追放令後の状況 (オルガンティーノの書簡[行長回心、右近や神父の状況・信仰宣言等]) 2.完訳日本史③第64章~ 第64章 追放令後の状況 (1588年の出来事 キリシタン大名の状況、右近が加賀にいる) 第65章 追放令後の状況 (1589~1590年の出来事 都地方にいたキリシタン武将の動向、高槻の状況等) 第66章 第2次巡察 (1591年 第二次巡察都滞在中の出来事 多くの信徒の訪問 コンフラリオ 右近・ダリオ加賀加増 巡査師滞在中都に来た) 2.イエズス会年報 ・1588年2月20日付フロイス書簡 ・その他イエズス会年報 3.日本26聖人殉教記 (フロイス著) 日本巡察記(ヴァリニャ-ノ著) (その他資料) ・高山右近の生涯、(ラウレス神父著)、高山右近の研究と資料(ラウレス神父著) 高山右近(海老沢有道著) ・キリシタンの弾圧と抵抗(海老沢有道著) ・日本キリスト教史(五野井隆史著)、日本キリシタン殉教史(片岡弥吉著) ・高山右近史話(チースリク神父著) キリシタンになった大名達(結城了悟著) ・霊想(門脇佳吉著)、禅(愛宮真備著) ・ペトロ岐部と187殉教者 ・その他 【はじめに】 (事のなりゆき) ・今日は7月23日、右近に棄教命令が出される前日、このような時に考える機会が与えられた事に感謝” 秀吉が九州攻めを終えた1587年7月24日の夜に、私の故郷博多で、秀吉により「右近への棄教命令」が 出された 翌日25日には「伴天連追放令」が出され、全ての宣教師は国外退去を迫られたのです ・右近は7月22日の時点で、不吉な予感がすると危機を感じ取っています 24日は、フロイスの記録では この日を、「日本史」で使徒サンティアゴ(聖ヤコブ)の祝日の前日と書いています 以前、聖年の年に サンティアゴ・デ・コンポステラを巡礼した時に、聖ヤコブの日はスペインの国民的なお祝い日で、国王も 大聖堂に来られると聞きました バテレン追放令が出されたその日は、宣教師や右近にとって、決して 忘れることのない日となったのです (この時期ポルトガルはスペインの支配下にあった) ・24日の夜は、右近にとって眠る事が出来なかった、人生最大の試練の夜であったと思います フロイスの記録ではポルトガルの大型艦船の博多湾への廻航が出来ないとポルトガル船長の回答があった その夜、右近への棄教命令が出されます それは、領主の地位にいたければキリシタンの信仰を捨てよ、 すなわちキリシタンの信仰か領主の地位か何れか選択せよという二者択一を迫られたものであった 村重 謀叛の時はキリシタンの信仰共同体か人質の命かという二者択一でした 人質も領主の地位も何れも この世的にはとても大事なもので、信仰を守るためにそれを犠牲にしなければならないという試練、 キリシタンであるが故の試練を、再び味わう事になったのです 24日の夜には右近に対し、最初の棄教 命令が出され、右近が直ちに信仰は捨てないと返事をした後、妥協的な提案を持った使者が再度遣わ されたが、右近はこれも断り、その後次々と伝言が伝えられたので、恐らく一睡もする事はできなかった と思います 同じ夜、フスタ船で寝ていた副管区長コエリヨにも秀吉よリ使者が遣わされ詰問が行われた 日本での布教方法や伝統的宗教に対する対応、神社・仏閣の破壊、人身売買等に関する問題について 回答を求めるものでした コエリヨはこれに対し、これまでの事を正当化する、非妥協的な返答をした 秀吉は、右近や副管区長コエリヨの対応に激怒し、右近改易といわゆる「伴天連追放令」出す事を決めた ・その翌日25日、スペインの守護聖人聖ヤコブの日に、秀吉はこれを知っていたかどうかわからないが、 いわゆる「伴天連追放令」をポルトガル船の総司令官に手交します 右近はその日の早朝に、家臣達に 秀吉の棄教命令と自分の考えを説明します 右近と家臣の信仰による深い絆を感じる実に感動的な場面 です その後、知らせを聞いた多くの人達が右近を訪ねてきます 助言、同情、金銭の援助等様々です なかには右近に「関白殿に従うふりをして、彼の意向に沿うようにすると言わせ、心の中ではまだキリシタン のままでいればよい 家族家臣を路頭に迷わすようなことはすべきでない」と説得する者もいたが、 右近は毅然として、デウスの事においては、いささかなりとも真実に違反する事があってはならないと答え、右近を 説得出来なかった また、右近は秀吉に直接面会し、キリシタンの教えを説き、これまでの行いの正当性を主張 しようとしたが、それは更なる処分を招き、キリシタン全体を危険な状況に陥らせると止められている 余りにも多くの人が右近を訪ねてくるので右近は博多湾にある数軒の漁師がいる島に身を寄せたそうです ・明石にも使者が派遣され7月末の夜、右近追放の処分が知らされ、混乱状態の中、家臣の家族等は直ち に避難を始めます 右近の父ダリオや弟の太郎衛門は右近の気持ちをきちんと受け止め、大いなる喜びで あると、語ったそうです (右近への棄教命令とバテレン追放令が出された理由) ・今回の右近に対する棄教命令の理由は、右近が宣教師の布教に協力して多くの家臣領民や有力武将を キリシタンにし一向宗よりも強力な宗団を形成した事、その中で日本の伝統的宗教を悪魔視し、神社、 仏閣等を破壊した事、右近はそれらを強力に推し進めた張本人であり、日本の祖イザナミ・イザナギの 子孫で神仏を崇敬してきた神国日本にとって許しがたいというものです 秀吉は九州攻めで、長崎等 のキリシタンと領主の実態等を見聞して、宣教師の布教活動目的は彼等の母国による日本の植民地化に あるのではという疑念を持ち始め、有力武将が次々とキリシタンに改宗する動きに危機感を感じ、これ以上 のキリシタンの勢力拡大は、自分の今後の海外遠征や国内統治に重大な支障をきたすと判断した結果、 まず、宣教師に極めて従順で、キリシタンの信仰共同体の中心人物である右近をターゲットにした攻撃、 すなわち棄教命令を出し、これに右近がどう対応してくるのか、これを見極めたうえで、次の手を考える事 にしたのであろう 秀吉は恐らく右近は棄教する、最悪でも政治的駆け引きで収束できると見込んでいた のであろう 再度使者を遣わし、次々と伝言をしている事から推測できる しかし右近は全く変わらなかった また、副管区長の対応にも失望したのであろう もはやこれまでと考えた秀吉は20日以内に宣教師全員が 国外退去する事を命じた 今後の国外国内政策で利用価値なしと判断し、冷酷に切り捨てた瞬間であった 秀吉にとっては反キリシタン政策という政治的問題であったが、右近や宣教師は、信仰に関する重大な 問題として受け止め、信仰を如何に守り抜くかという観点から対応をした 今回の措置は、禁教令と言わ れるが、キリシタン信仰の全面禁止ではない あくまでも、その中心にあるのは伴天連追放令である しかも宣教師全員20日以内というのは物理的に無理な事であった 秀吉は実質何を目的にこのような事を したのであろうか また、右近や宣教師は何故、非妥協的な対応しかできなかったのか 右近の霊性という 点で注目すべき事は何かといった問題意識を持って考える事が必要ではないかと思います (既に右近の覚悟は決まっていた) ・この時、右近は35才、実質的な最高権力者秀吉の側近であり、何もなければ、更に武将として立身出世 が見込めたかもしれない この世的にはここで人生の敗残者となるには、如何にも、もったいない 彼の決断で、家族や家臣とその家族等は一瞬にして、生活の経済的基盤が破壊されてしまう 下手を すれば、彼がキリシタンの柱石であったが故に、キリシタン全体に大きな悪影響をもたらす可能性があった 右近をよく知る異教徒である武士達も右近の選択に驚き、考え直すよう、助言をしている しかし、彼はきっぱりと、秀吉に仕える事を止め、デウスに仕える事を選択した 信仰者としては勝利である 彼の心には相当以前から、このような場面で、このような決断をした事があったし、今回のことはあらかじめ 決めていた覚悟があったからこそ、すぐに神に仕える道を選ぶと宣言出来たのだと思います すなわち、右近の決断を記す宣教師の記録の中に、信長の葬儀での焼香の場面で見せた右近の 真っ正直な、妥協を許さない勇気ある態度が記してある 秀吉に媚、畏れる事はなかった また、村重の 謀叛で示された右近とその家族の勇気ある英雄的行為も、今回の出来事を記す箇所で紹介されている そこで示された右近とその家族の霊性は今回も何なら変わる事はなかった 大阪での有力家臣に対する布教に対し不満を持つ施薬院全宋が秀吉に讒言しようとしている事を聞いた 時の右近の発言等にも、今回の右近の選択を予感させるものを感じ取る事が出来る また、追放令後の潜伏期間中で見せた右近の姿や巡察師ヴァリニア-ノ神父の第二次巡察でその心情 を吐露した事などからも右近の真実の姿が見えてくるのではと思います 右近は秀吉の天下取りの戦に数多く参戦していますが、私は、これは決して心穏やかなるものでは無かっ たと思います 戦にあっても福音宣教の事は片時も忘れず、その姿は修道者のようであったと言われてい ます 右近の内心は、これらの戦で、あるべき信仰生活と現実との乖離に相当悩んだであろう事も推測 されます 恐らく秀吉の伴天連追放令が出る頃には、その蓄積された思いが耐え難いほどまでに膨らんで いたのではないかと思います 今後確実に行われる北条征伐、朝鮮征伐を右近は十分認識できる立場に あった これ以上、秀吉の野心に付き合う事は出来なかったと思います 右近の本当の姿は、潜伏期間中に見る事が出来ます 右近は「霊操」に励み、オルガンティーノ神父 と共に、殉教への覚悟を決め、その流れ出る血で日本のキリスト教の土台を作ろうと決心しました 秀吉の怒りに触れ、何時死罪を申し渡されてもおかしくない危険な環境で、右近の信仰心は「霊操」の 神秘的体験を通して、ますます強固なものになっていったのであろう 殉教という神への愛を示す最高の 証をたてる事によって、永遠の命がパライゾへに招待される道をより確実に出来ると考えたのであろう (秀吉の国つくりの根幹にあるもの) ・ポルトガルの大型艦船の購入斡旋を依頼された副管区長コエリヨも、秀吉の怒りを買わないようにする ための苦労も大変であった 秀吉への対応のまずさはあったであろう 追放令を出すタイミングを与えた かもしれない しかし、もし秀吉の野心に協力していたら、宣教師が朝鮮・支那侵略の手先となっていた であろう 右近もその先兵として派遣されていたであろう 秀吉の海外戦略は際限がなく南蛮まであった 朝鮮征服後は朝鮮をキリシタン大名に配分し、支那征服の先兵にし、九州をも変える構想があった 外国勢力の日本植民地化を防ぐと言いながら、戦前の神国日本の海外侵略と同じような発想が見られる 秀吉の伴天連追放令の思想的根拠は、日本固有のナショナリズムの感情に依拠するもので、国内的には 神国日本の国家論に基づく神道を中心とする伝統的宗教・政治勢力による支配であり、権力の源泉を 天皇家に求め、自らを神格化し、対外的には排外主義と海外遠征を正当化するものであった 秀吉は、実際に九州攻め後、キリシタン大名を九州に集中的に配置し、キリシタン勢力を九州という地域 に封じ込め、多くのキリシタン大名を朝鮮侵略に加担させた 何という凄い戦略家、その中で、多くの人が 苦しんだ キリシタン武将は多くの打撃を受け、多くの朝鮮の人が殺害され、戦の勝利を示すため多くの 人が日本に連れてこられたそうです。バテレン追放令は、秀吉が次の政治課題は朝鮮遠征であると考え、 その実施計画を構想している時期に出されている 1586年コエリヨが大阪城を訪問した際に、秀吉から、 日本国を弟(羽柴秀長)に譲り、自分は朝鮮・支那遠征に専念し、今そのための2000隻の船舶建造の ための木材伐採をしている事を知らされ、朝鮮・支那遠征のためのポルトガルの大型艦船の購入斡旋の 依頼をコエリヨはされている この時にコエリヨとフロイスが適切な対応をしなかった事が追放令の遠因に なったとも言われる箇所である もともと、秀吉の方が役者が上で、適切に対応したとしても、反キリシタン 政策は、何れかの時期に出されるものであった 恐らく秀吉には、1586年頃には統治構想が出来上がっ ており、反キリシタン政策はその論理的帰結で、避ける事は出来なかったと思います 右近と宣教師は その歴史の中で大きく翻弄されたのだと思います 右近の神社・仏閣の破壊や、副管区長コエリヨの対応 のまずさなど、細部に目を奪われると、本質的なものが見えなくなり、誤った判断をすることに繋がるのでは と思います この神国日本という日本固有のナショナリズムの問題は、江戸時代の鎖国・キリシタン禁教令 、明治維新の尊王攘夷、国家神道、征韓論、第二次大戦に繋がり、今の政治の右傾化にも関連する問題 です日本のナショナリズムの在り方という問題に共通するものが、追放令の思想の根本にあると感じます (キリシタン側の「対応) 追放令に対する宣教師や右近の対応は、無抵抗で日本に留まり、殉教を覚悟するというものでした 様々 の選択肢があったが、恐らくこの選択しかありえなかったと思います 追放令後の約1年間は、秀吉と 副管区長との腹の探り合いという状況で、それぞれが的確な情報を持ち、見守っていた 黒田官部衛は 秀吉の情報を副管区長に伝え、対応について適切な助言をしていた 宣教師は追放令後七カ月後には 追放令の本格実施はないかもしれないと思い始めている 秀吉の怒りを買わないように、深く静かに潜行 しておれば、見て見ぬふりをする兆候を見出したと記している 1590年には巡察師ヴァリニャ-ノ神父が 再び来日する 1591年、黒田官部衛等の尽力により、インド副王使節としての体裁を整え、秀吉と巡察師 との会見が実現し、宣教師残留の実質的な承認が得られたと言われています (1)いわゆる「伴天連追放令」といわれるもの 「伴天連追放令」とは、1587年7月24日に行われた秀吉の右近に対する棄教命令と 翌日公布された宣教師の国外追放命令といわれものです その前に作成された「禁令」 があります これは、秀吉の元々の目的を理解する上で、非常に重要なものです そこで、 ここではこの三つを中心に時系列的に紹介します 当時の宣教師が書いた一次資料としては、1588年2月のフロイスの書簡、1588年度年報、フロイスの 完訳日本史④(第16章)が参考になります ①全体の流れ 最初に①から⑦までの全体の流れを知る事によって、より理解が深まると思います ①「天正15年6月18日付覚朱印状」 (天正15年 6/17 作成) (1587.7.22) ②右近への棄教命令 ( 〃 6/19夜 執行) (1587.7.24) ③コエリヨへの詰問書 ( 〃 6/19夜 執行) ④「天正15年6月19日付覚定書」 ( 〃 6/20手交) (1587.7.25) ・ポルトガル船総司令官のモンティロに手交されたと思われる日本文のポルトガル訳文を日本語に戻した もの(正式に朱印が押され、ポルトガル船総司令官に交付された日本文を翻訳したもの) ・平戸松浦史料博物館所蔵の「6月19日定書」 ⑤その後の命令 教会・修道院の破壊等 ⑥秀吉の発言 (6/19 6/20) ⑦追放令後の状況 ①「天正15年6月18日付覚朱印状」 (1587年7月22日作成) ・これは、右近への棄教命令が出される前に作成されていたと思われるもので、天正15年6月19日付の ものとは異なるものです 伴天連追放令を出した秀吉の元々の目的を理解する上で、重要な資料と されているものです 内容は日本キリスト教史 五野井氏著同書のP153に掲載されている ・原文の所在は確認されていないが、伊勢の神宮文庫に「写し」がある (秀吉は当時、伊勢神宮と密接な関係を築きつつあったので、伊勢神宮に送付されたのかもしれない) ・この文書は、右近の棄教命令前に作成されたもので、その内容は、次の点で、追放令と異なっている ・ 「18日付」では大身・諸侯の給人層のキリシタン改宗は規制するものの、それ以下の階層の士卒、 一般庶民・農民等のキリシタン信仰は許し、パードレ達の布教活動も許容する内容であった が「19日付」では、給人層のキリシタン改宗の規制に加えて、「バテレン追放」が明示されている ・ 「18日付」では、仏教との共存が要求され、また、宣教師の活動が九州に限定されることが 前提とされていたが、「19日付」では宣教師全員の国外追放となった ・著者は、「19日付」は「18日付」よりも厳しい内容になっている事、その理由は、右近の棄教命令拒否 と副管区長コエリヨの詰問状に対する非妥協的回答が秀吉の逆鱗にふれた事にあると指摘されている また、「18日付」は、右近は恐らく棄教命令を出せば棄教するという前提でつくられたと指摘されている ・「18日付」文書は17日作成、18日交付の考え方のものであった 従ってポルトガル船船長のナウ船の 博多湾への廻航拒否の秀吉に対する返事は、17日ないしそれ以前の事であったと推測されている ②右近への棄教命令 [1588年2月20日付フロイス書簡](使者は一回) 1587年7月24日(天正15年6月19日)夜、右近に棄教命令が出された 元仏僧徳運(施薬院)が以前から思っていた右近をはじめとするキリシタン武将についての考え (右近には謀らみがあるなど)を秀吉に注進したところ、怒った秀吉は右近に伝言 を伝えさせた (詳しくは⑥秀吉の発言参照) 【関白殿(秀吉)がジュスト右近殿に伝えた残酷な伝言】 「彼(右近)がキリシタンをやめるか、それともその全ての身分を失い、彼(右近)、彼の父(ダリオ)、 妻(ジュスタ)、子供並びに全ての親族、兵士、彼(右近)のために働いている人々が追放され、 非常に窮乏して何もなくなり、場合によっては飢え死にするかと詰問するものであった」 【右近の答え】 「私はキリシタンであり、家臣をキリシタンにしてそれを大きな富と思っている というのはそれ がデウスに仕えると思うからである この教え以外に救いは無い そして、殿下がもしそのため に追放しようとするのであれば、喜んで追放を受け入れ、領地を返すであろう」 [完訳日本史④第17章](使者は2回以上) ここでは、上記の「1588年2月20日付フロイス書簡」とは、異なり二回使者を遣わし、二回目の妥協的な 提案も右近は拒否し、秀吉は次々と伝達した後、激怒し、追放処分を告知したと記されている (一回目) ・秀吉は、右近が棄教すれば他の全員は弱化する外あるまいと考え、使者を遣わし次のように伝えた 「キリシタンの教えが、身分ある武士・武将たちにおいて広まっているのは、右近の説得によるものである が、予は不快に思う それは、キリシタンには血をわけた兄弟以上の団結が見られるし、それは天下に累 を及ぼすに至ると案ぜられるからである ・・右近が高槻、明石の者をキリシタンにし、寺社仏閣を破壊した それらは大いなる悪事であるので、今後とも武将としての身分に留まりたければ、直ちにキリシタンたる ことを断念せよ」 これに対し、右近は次のように答えた 「私は殿を侮辱した覚えは全くない 高槻や明石で家臣達をキリシタンにしたのは私の手柄である キリシタンをやめることは全世界が与えられようともしないし、自分の霊魂の救済と引き換える事はしない よって、私の身柄、俸禄、領地は、殿が気に召すように取り計らわれたい」(右近の俸禄7万表) 右近と親しい武将が、突如領地を失い、家族・家臣の生活を路頭に迷よわすような事をすべきでない等と 助言したが、右近は毅然として、デウスの事においては、いささかなりとも真実に違反する事があっては ならないと答えた (二回目以降) 秀吉は右近の果敢な答弁に対し、徹底的に意地の張り合いをするのを回避し、はたして、彼はその 決意を押し通す気なのか、それとも自分の言葉次第では後退し、キリシタンを断念するのかどうか確か めようとして再度使者を右近の許に遣わした そして、もし、当初の言葉通りに振舞うのであれば、俸禄 と領地を没収するゆえ、肥後に赴き、肥後領主となったばかりの佐々成政に仕える事を許すと伝えた 右近は、これに対し、当初と同様、現世においては、いかなる立場におかれようと、キリシタンをやめは しない 佐々成政に仕える必要はなく、霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭達のように 追放に処せられようとも、何ら悔いはないと答えた 使者が帰ると右近は、内心不可思議な力、及び霊魂のやすらぎを感じ、・・殉教の栄冠を得たいとの 欲望に駆られ、・・関白の前に出頭し・・我等の教えが・・至当の道理であると・・秀吉に説教するべく 出かけようとしたが、それは、貴殿が待望しており、貴殿の功徳にはなっても、日本のキリシタン全員を 秀吉が更に過酷に苦しめる機会を提供する結果となる事は明白であるのでと言って、諫止した やっとのことで留まらせた 関白は次から次へ右近に伝達した そして怒りを込めて右近に対し、多く の凄まじい言葉を放ち、彼の追放を告知せしめた (千利休も使者 海老沢有道著高山右近) ③コエリヨへの詰問書 (1588年2月20日付フロイス書簡) 7月24日(6月19日)夜、副管区長コエリヨに訊問(詰問と回答)が行長宿舎でなされた (右近への最初の使者が遣わされた後に、コエリヨへの使者が派遣されたそうです) ・フスタ船で眠っている副管区長コエリヨのもとに、二人の使者が秀吉の伝言を持ってきた 下船させ浜へ向かい、伝言を伝えた 【詰問の内容】 ・何故司祭達は、あれほどの熱意で人々をキリシタンにするのか 無理にでも改宗させるのか (フロイス日本史では「日本の仏僧は教えを説くだけで、宗徒を作る事や熱烈に扇動する事はしない、 汝等全て当下九州に留まるよう命ずる、仏僧のような普通の布教手段で布教せよ不服ならマカオに 帰還せよ、都・大坂・堺の修道院・教会の接収・・・」が書き加えられている) [答え]・日本人の霊魂を救うためである キリストの教えには救いがある ・強制していない そのような権力もない 説かれている掟が真実だから動かされている ・何故神や仏の寺社を破壊し、その仏僧を迫害するのか (この箇所はフロイスの日本史では、翌日20日に別途詰問されたと記されている この後追放令が手交) [答え]・神や仏には救いがないと判っているので、彼等自身が寺社を破壊し、その後にデウス への教会を建てている (日本史では、「・・我等から説得・勧告される事なく、キリシタン信徒が自ら決断し破壊・毀損した」と記す) ・何故馬や牛を食うのか 牛馬は人間に仕えた有益な動物ではないか [答え]・馬は食べていない 牛は国の食習慣で、食べているが止めてもよい ・何故ポルトガル人は多くの日本人を買い奴隷として彼等の国に連れて行くのか、 (フロイスの日本史では、更に詳しく記されている 商用で渡来するポルトガル人・シャム人等が多数 の日本人を購入し、諸国に連行している 許せない行為 日本人を連れ戻せ ・・) [答え]・ポルトガル人が購入する日本人は、他の日本人が売るから買うのであって、司祭は これを悲み、できる限りこれを阻止しようとしてきたが、できなかった というのも土地の領主やその他の異教徒達が売るからで、・・殿下が・・重い罰で命ぜられ れば、容易に解決できる この詰問回答が終わると追加の沙汰を考え、死を覚悟した 右近への「宣告文」(棄教命令)が見せられた (フロイスの日本史では、これらの詰問の使者は小西行長の家臣と安威了佐で、海辺の行長の宿舎で おこなれた事、詰問終了後、河内のキリシタン結城ジョルジュ弥平次が海岸で待っており、殉教の覚悟 を示した事、幾人かのキリシタン武士が訪ねてきた事等が記されている) (この事を記した箇所で、薩摩は平穏無事であり、今回の九州征伐の目的は、薩摩と戦うためではなく、 キリシタン宗団の弾圧にあったのではないかとの疑念をフロイスは記している) ④「6月19日付覚定書」 (正式に朱印が押され、ポルトガル船総司令官に交付されたもの) 7月25日(6月20日)、「追放令」がポルトガル船総司令官に手交された ・2名の使者が来て、長い口上を述べ、関白の布告を司令官ドミンゴス・モンティロに手交した ・ポルトガル船長カピタン・ティモールに手交されたと思われる日本文のポルトガル訳文を 日本語に戻したものと、平戸松浦史料博物館所蔵の「6月19日定書」とは基本的に同じもの 次に記すものとも同じ 完訳日本史④第16章P215~216と1588年フロイス書簡とは同じ (1588年2月20日付フロイス書簡) 第一 日本は神々の国である キリシタンの国から司祭が来て、悪魔の掟を説く事は、まったくもって 悪事である 第二 日本の諸国、諸領に来て、その宗旨に改宗させ、そのため仏の寺院を破壊する事は、今も昔も 見たことも聞いたこともなく、天下人が、人々に、王国、町、市、所領を与えるのは、現在の時点 のみであって、彼等は天下人の掟、決定を完全に守る義務がある しかるに、平民がこのような 騒乱を起こすのは処罰に価する 第三 もし天下人が、キリシタンの意向と意図に従って、司祭達がその宗派について、先に述べた通り の事を行うのを良しとすれば、それは日本の法を破ることになる これは甚だ不正な事であから、 司祭達を日本の地に留めない事にした 従って本日より20日以内に自分の荷物をまとめて、 各自の国に帰るべし もしこの期間中に、彼等に害をなす者あらば、これを罰する 第四 (ポルトガル船)は商取引のため来るのであり、これと全く異なっているため、その業を行ってよい 第五 今後、商人のみでなく、その他のインドから来るいかなる者といえども、神や仏を阻害しない限り 自由に日本に来る事ができ、その旨知らしめる 天正十五年六月十九日 使者は副管区長コエリヨに、秀吉のコエリヨに対する怒りをこれ以上深刻にしないように注意した また、船はこの先六ヵ月は出航しないとコエリヨが返答すると、秀吉は、船が入る平戸に司祭全員は集結 し、そこに留まるべしと命じた 秀吉の怒りは何日もの間続き、司祭はのみならず修道士も全員出て行くべし 残る者は殺害すると言った ⑤その後の命令 教会・修道院の破壊等 (1588年2月20日付フロイス書簡) 完訳日本史④第18章にも同じものがある ・商売でくるポルトガル人は、その船に司祭や教えが説ける人を乗船させてはならない ・司祭の国外追放を記した布告を公開場所での掲示(博多や日本の様々のまちや主要な場所) ・船・陣所の十字架の印のある全て旗や、祈祷用のコンタツ・首に懸ける聖遺物の取り外す事 ・秀吉が博多で与えた教会建設用地を他の人に分割し与えた 神社・仏閣の建設命令 ・大坂・堺・都の修道院の召し上げ、家臣や他の者に与えた ・長崎の港、茂木と浦上にあるイエズス会の所領の召し上げ、長崎のキリシタンへの多額の罰金命令 ・有馬の所領にある城と教会・十字架の破壊 ・キリシタンは元の宗教に戻る事 従わない者は司祭と共に国外追放する (*今まで(1588年2月)のところ、キリシタンの追放・改宗命令は実施されていない) (フロイス日本史では、前記の他に次のような事も記されている) ・一部のキリシタン武将等に熊野権現への血判の誓い(信仰放棄)をすることを迫る(6.7名譲歩) ・長崎の城壁の破壊 ・大村、有馬の地の諸城の破壊 教会、十字架を破壊 ・堺・都の都市、高野・伊勢などに追放令を通達 ・都南蛮寺の没収、解体 ・官部衛にはすぐに豊前を与えなかった ・長崎教会を小早川に寄贈 ・長崎・平戸も修道院の一部分を異教徒に与えた ・大阪城内のキリシタン夫人の追放 ⑥秀吉の発言 【秀吉と全宋等が棄教命令を出すにあたって語った内容】 (1588年2月20日付フロイス書簡) 大型ポルトガル艦船の博多湾廻航を断れた夜、夕食で副管区長が送った葡萄酒を飲み、干し果物 食べた後の歓談中に施薬院全宋は好機が到来したと思い、巧みに話したので、秀吉は怒りはじめ ・・激怒にかられ、全宋達が炊きつけ、キリシタン大名の宣教師の驚くべき服従、仏僧・神仏の蔑視 、破壊、信仰の強制などについて語った ジュスト右近殿も同じことをし、最初高槻にい時は、家臣 を全員キリシタンにしたほか、その地の殿下が与えた全ての寺社を破壊した 明石でも同じことを しており、また、先日徳運(全宋)が行った大村や有馬の地でも同様なことが事が行われた これに より、日本にいる司祭達は大きな力を持ちつつある このような一問一答の間に、秀吉は激怒・憤怒 に変わり、爆発した すぐさま秀吉は右近に伝言を伝えさせた その骨子は次の通り 「キリシタン宗門の布教のためにそれほどつくし、神や仏の末寺を破壊し、家臣達を自由意志という より強制的にキリシタンにする者は、天下人に仕えることは出来ない 従ってキリシタンを止めるか さもなくば領国より追放するというものであった」 (日本における領主・領地・再配分・所領替え・領地が奪われることの意味等縷々記している) 次に関白が右近に伝えた伝言を紹介している 「彼(右近)がキリシタンをやめるか、それともその全ての身分を失い、彼(右近)、彼の父(ダリオ)、 妻(ジュスタ)、子供並びに全ての親族、兵士、彼(右近)のために働いている人々が追放され、 非常に窮乏して何もなくなり、場合によっては飢え死にするかと詰問するものであった」 この部分につて、ラウレス神父は、未刊のプレネスチーノの書簡がより適切であると、これを 「高山右近の生涯」で紹介されている 基本的な内容は同じ 【右近に棄教命令を出した翌日の秀吉の発言】 (1588年2月20日付フロイス書簡) 「 我等の掟や司祭たちに対し、・・この掟は悪魔のものだ 一切の善を破壊するものだ 司祭達は人を誤ら せ、救いを説く衣の下で人を集めてきて、後で日本で大きな騒乱を起こす 彼等は狡猾、博識で、やさしい 言葉と巧みな論議で日本人の心を自分達に従わせ、多くの領主達と武士を欺いた もし彼も考え深く慎重 でなかったら欺されるところだった 司祭達が巧みに組み立てた言葉と明白な論理の下に毒を隠している のを始めて見出したのは自分であり、彼等のもくろみを阻止しなければ、大阪の仏僧のように一向宗の 掟を説くという口実の下に多くの人を自分に引き付け、その地の領主達を殺してそれを自分のものとし、 大領主となって天下人の信長を大いに苦しめたが、あのようになっていたろう 今度の司祭たちの方が ずっと害が大きく危険だ というのは、大阪の仏僧のように下層の人々を、引きつけるだけでなく、日本の 主な領主たちや武士らを自分に引き付けるからで、そうすれば大坂の仏僧よりずっと簡単にその主人に なれる キリシタンになった人々を集めれば、司祭達には従順で尊敬しているので、時を待って天下人に 立ち向かうこともずっと易しいし、日本に大きな戦や問題を引き起こす この発言の後、副管区長コエリヨに対する二つの伝言を送り、宣教師の20日以内の国外退去を命令し、 この命令はポルトガル人全体の司令長官にも伝えられた いわゆる「バテレン追放令」が交付された (完訳日本史④第16章P213~214にも、ほぼ同趣旨のことが記されている) (日本の祖イザナミ・イザナギの子孫たる我等は神仏を崇敬してきた バテレンのなすがままに任せると その教えは失われる バテレンは教えを権威づけようと予の庇護を利用してきた 予の甥と2名の貴族 の事を心配している バテレンは知識と計略の持ち主であり、予が注意してなければ欺かれたかもしれ ない 奴らは一向宗徒に似ているがより危険で有害である・・バテレンは高度な知識を根拠に、異なった 方法で、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとしている 相互の団結力は一向宗よりも強固である この狡猾な手段は、日本を占領し、全国を征服せんとするためである・・なぜなら同宗派の信徒は、 その宗門に徹底的に服従しているからである・・) ⑦追放令後の状況 (1588年2月20日付フロイス書簡) ・「追放令」が出された事を記す同じフロイスの書簡で、「我等の追放令を廃止し、又は、少なくとも我等 のことを知らぬ振りをする兆候は次のようである」と、追放令後七カ月も経過しているのに、その本格的 な実施がなされず、緩み始め、その事に希望を抱き始めていることが記されている (幾つかの兆候) ・没収された大坂・堺・都の修道院・教会は、その後誰にも与えてないなし、破壊されていない 右近の家も同じ状況 ある身分の高いキリシタンは、関白は追放を解くであろうとの書状を寄こした ・秀吉は大坂のある祭りの席で「結局、予は急ぎすぎた」と語った ・「司祭は立ち去ったか、ロレンソもそうか」と秀吉が尋ね、「未だ船が出ないので、留まっている」と 答えたが怒らなかった ・「右近はどうしているか」と秀吉が尋ね、「どこかの日本の無人島にいったのであろう」と答えると 「余はそれほどにしろまでは言っていない 日本のどこかに追放されて生きておればよい」と答えた ・秀吉は追放令後、宣教師に圧力を懸けてこなかった 平戸に誰も駐在に来なかった ・都に戻った秀吉は、都の信徒に棄教を命じる伝言もなく、少しも圧迫をかけない また、次のようjな事も記している ・我等が今いる有馬やその他のキリシタン領主に対して兵を出せば多くの血が流れる ・今回の国替と反乱で形成した諸王国は皆満足しておらず、諸地方で戦の煙幕を張ろうとしている ・その他日本の各地で秀吉に満足しない者がおり、坂東への戦も決められているので、西国方面の 戦や動乱を起こさないようにしているのかもしれない (副管区長コエリヨは、秀吉の軍事的な対応もあるのではと、危惧していたのか?) (大きな視点からの①~⑦のまとめ) ・日本の政治、社会からキリシタン勢力を一掃する事が目的、その手段としての右近への棄教命令で あり宣教師の国外追放であった しかし、経済関係は維持しようと考えた そのストーリーは、最初に 右近への棄教命令を出し、これによりキリシタン武将全体を棄教に導き、政権内でのキリシタン勢力を、 一掃し、そして、彼らを九州に集中配置し、朝鮮・支那遠征に備えるというものであったと思います ところが、右近はあくまでも棄教を拒否した 副管区長コエリヨの回答も非妥協的で自らを正当化する ものであったので、秀吉は激怒し、宣教師の国外追放となったと思われます ・「6月18日付覚朱印状」は右近が棄教命令に応じることが前提で作成されたものではないかと言われています 予想とは異なった事態となったので、「6月18日付覚朱印状」は修正され、当初は入っていなかった宣教師の 全員国外追放が書き加えられた「6月19日付覚定書」となってしまったのかもしれない ・ところが、宣教師の全員国外追放は、経済関係を維持するには、得策でないと分かったので、次第に振り上げた 拳を下げざるを得なくなり、キリシタン勢力がその建前を守り、九州を中心に静かに潜行しておれば、見逃すという 姿勢に変わったのであろう ・時の権力者秀吉が何故追放令を出したのかについては、⑥の秀吉の発言によく表れていると思います ②追放令直前の状況、そこから見えてくるもの ・事の次第を正確に理解するには、1586年5月、大阪城で行われたコエリヨと秀吉の会見までまで遡る 必要があります この会見でコエリヨは九州平定やポルトガル大型艦船調達の斡旋について、協力 すると秀吉に約束しました その後九州平定では秀吉の行動に随行するかのようにふるまっています 八代での秀吉との会見では、ポルトガル定航船の堺来航を要求されていますが、このときの対応の 仕方は危険なものでした 九州平定を終え博多に来た秀吉は、平戸にいたポルトガル定航船の博多 廻航を要求します また秀吉は軍備が施されたフスタ船の乗船し見学します 定航船の博多廻航は できないとの回答が秀吉になされたその日に、右近は不吉な前兆を確信し、コエリヨに十分な備えを するように忠告します そして、この日に、追放令の原型となる「天正15年6月18日付覚朱印状」が 作成されたのです すなわち、秀吉の胸中にあった1586年のコエリヨとの大型艦船斡旋協力の約束、 定航船の堺寄港の要求、その延長線にある博多湾への廻航、これが拒否された、これは、秀吉に とって大きな屈辱となった 朝鮮・支那遠征のための大型艦船の購入斡旋の問題、これは、矢継ぎ早 に国内・海外施策を進める秀吉にとって急ぐ問題であった このことが、追放令の原因とは思わないが、 直前の動きを省みると、重要な切っ掛けとなったことは否定できないであろう ・そして、このタイミングで予め考えていた「天正15年6月18日付覚朱印状」を交付しようとし、その前段 の措置として右近への棄教命令を出した しかし、右近が棄教を拒否したため、「天正15年6月18日 付覚朱印状」は交付されずに、宣教師の全員国外追放という、更に厳しい内容の「天正15年6月19 日付覚定書」が出されと考えることができます 【追放令直前の経過】 -年報と日本史の記述の時系列的整理- 日本キリスト教史(五野井氏著)等を参考(日付、日本史と異なる点あり) 五野井氏の資料は、推測を含めよく整理されているので、これを基本とする (フロイスの日本史と異なる点はそのまま書きとめた) (天正15年4月19日) (1587年5月26日) 秀吉八代に到着 コエリヨ、秀吉と一時間近く会談 秀吉は定航船が 堺付近の適当な港に来ることを強く要望 コエリヨは十分な水深と船が 入りえる港があれば喜んで協力すると回答 これに応え、秀吉、コエリヨの八代城内拘禁 捕虜の助命嘆願の要請に応じる コエリヨ、秀吉との大阪城以来の友誼が更に深まったと確信 する (完訳日本史④ P182~187) (*本来秀吉は自分の裁断に嘴を入れられる事は最も嫌う 相当の忍耐を持って受け入れたのであろう) (天正15年4月25日) 秀吉薩摩川内へ 泰平寺本陣 右近も参戦 (完訳日本史④P188~189) (5月 8日) 島津義久剃髪し、無条件降伏 (5月27日頃) コエリヨ、大砲を装備したフスタ船で博多姪浜に到着 (6月 7日) 秀吉 博多箱崎に到着 九州全域の知行割 (肥後:佐々成政、豊前:黒田孝高、筑前筑後:小早川隆景、豊後:大友義統など) (6月10日) 秀吉 フスタ船に乗る ナウ船を平戸から博多に廻航するようコエリヨに依頼 (ナウ船:大航海時代の大型帆船積載量大、中国征服のため、大阪城・八代で秀吉は 購入斡旋をコエリヨに要請していた) (右近と行長の二人は、秀吉のフスタ船訪問を聞き、その意を察して、進んでこれを秀吉に贈呈し 秀吉のため製造・輸入したと強調すべきと勧告した コエリヨは態度を変えなかった 1590年10月14日付ヴァリニア-ノ書簡 海老沢有道 高山右近) (6月11日)(7/16) 博多再建の区画割りを命じる 朝鮮・中国征服の兵站基地 コエリヨの求めに応じ教会建設用地を与えた (五野井) *これらの事は、フロイスの日本史では陽歴7月19日の出来事として記されている その内容は、秀吉が海上から博多の区画割りを指示している時にコエリヨがフスタ船で 姪浜より箱崎に到着し、秀吉がフスタ船を隈なく見学した事、教会建設を認めた事、 翌日再び秀吉を訪問し、秀吉が求めに応じ長崎の深堀氏の厳罰を約した事が記されている (6月12日) コエリヨと秀吉と会談 ポルトガル定航船(ナウ船)の見学を希望するも不可 (6月15日) 対馬を通じ朝鮮国王の来朝を促し、服従しなければ出兵すると通告 (天正15年6月17日頃)(7/22) ・フロイスの日本史では、6月19日(7/24)、これも信憑性有るも、五野井氏の説を採用した ①ポルトガル船のカピタン・モール(総司令官)モンティロが、ポルトガル(ナウ)船を 博多湾に廻航出来ないことの説明のため秀吉を訪問 ②右近フスタ船にいる副管区長コエリヨを訪ね、不吉の前兆を知らせる サンティアゴの祝日(7/25)の三日前、フスタ船にいたコエリヨを訪ねた 秀吉の性格をよく 知る右近は、コエリヨと司祭等の同席を長引かせた後、そこで我等に向かい、 「私には間もなく悪魔による大いなる妨害と反撃が始まるように思えてならない・・ そうした事態に対し十分な備えが必要である」と語った その手掛かりを知っているのかと いうコエリヨの質問に対し、特別な情報に接しているわけではないが、かくも順調な布教の 進捗に悪魔が妨害を加えるはずがないと確信している 次の夜、現実となった (完訳日本史④P201~) (①と②のまとめ) 恐らく、ナウ船廻航に執着していた秀吉にとって、それを拒否された事は相当の屈辱で あったであろう モンティロの拒絶は、コエリヨに対する秀吉の不信感に繋がったのでは ないだろうか 右近はこの事に気付いたのか、フスタ船を秀吉に寄贈することを勧めた 以前、コエリヨが大阪城の秀吉を訪ねた時、右近やオルガンティーノ神父はコエリヨの秀吉 への対応は危ういと忠告していた 右近は八代、川内、博多と秀吉に近いところで同行 しており、秀吉の身辺の動きを知りえる立場にあったのではないだろうか コエリヨは、この事態の深刻さを全く気付いていなかった ナウ船廻航の調達斡旋が実質的拒否された、この夜に「追放令」の原案が 作成され [秀吉、「追放令」の実行のタイミングを狙っていたのか?] (6月18日)(7/23) [6月18日付覚朱印状](伊勢神宮文庫)追放令(案)が右近に対する棄教命令前に作成 その内容は、大身・諸侯のキリシタン改宗禁止それ以下の身分の者は許す 宣教師の布教 も仏教徒の共存が条件で九州に限定して許すというもの 当初の主目的は、秀吉側近の大身・諸侯のキリシタン信仰を禁止する事、仏教徒との住み 分けであった(秀吉の追放令は、廻りの主だった武将が、右近の影響で、次々と受洗して いく事に危機感を持ったので、それを食い止めるためのもの「南蛮寺興廃記」) その後、右近の棄教拒否、コエリヨの回答が、秀吉の逆鱗にふれ、宣教師の追放を一気に 決断させたと思われる(五野井) (6月19日)(7/24)・秀吉の使者が右近に棄教命令を伝える 右近拒否 秀吉激怒 深夜、副管区長に 詰問状を出す(使者安威了佐等) 回答を待たず右近改易処分の宣告文をコエリヨに告知 (秀吉は、右近は棄教するものと楽観視していたと思われる) (6月20日)(7/25) 天正15年6月19日付「伴天連追放令」を発す 宣教師20日以内国外退去 この追放令はコエリヨに通達、フスタ船に乗船していた、ポルトガル船のカピタン・モール (総司令官)のモンティロには追放令の印を押した文書、朱印状が手交された *フロイスは、この日を、日本史で使徒サンティアゴ(聖ヤコブ)の祝日、(スペインの国民的祝日)と記述 ③追放令後の司祭信徒の状況 (1588年2月20日付フロイス書簡) ・その後様々の命令が下される ((1)追放令とは何か-⑤参照) ・副管区長コエリヨは、秀吉の怒りを避け、平戸に帰る 各地の司祭に追放令の内容を知らせ、協議をする ので平戸に来るよう書簡を出す 豊後・都の地方の司祭に幾人かは、危険がなく、問題がない場合は、 隠れて留まる事とした 関白の奥方等に救済嘆願の書状を出した ・この追放令の知らせは流言飛語を伴って各地に伝わり信徒は大混乱となった 司祭が平戸に向かうと更に 増幅した 殉教を覚悟するものも出た ・この知らせを受けた明石は大混乱となった 五畿内では右近の追放が知らされた2日後、司祭修道者の 追放が知らされた 教会(都、高槻、大阪、堺、明石)には多くの信徒が押し寄せ、告解を願い、殉教者に なる用意があると言った 司祭との別れを嘆き悲しんだ 都にはオルガンティーノ神父と二人の日本人 修道士が残留した ・(当時五畿内にいたセスぺデス神父の書簡) ・平戸にすぐに来るようにとの副管区長からの知らせが着いたので準備をし、数日以内に派遣された家臣が 大阪に来て、修道院・教会の明け渡しを求めたので、応じた 「大きな困難の中でキリシタンが献身するのを 見て、大きな励ましを受けた・・様々の所からキリシタンが来て、その信仰を示し、昼も夜も教会は人で一杯 告解・聖体拝領をし、・・命を捧げる準備ができていると言った」 追放により多くの侮辱を受けると思っていたが、逆に同情され、励まされた ・(大阪のセミナリオの状況) ・去るか、残るか生徒の選択に任せたところ、最近入ったごく若い4~5人を除く全員(25人)が、司祭達と死 ぬ決心をし、この決心をもって、この条件で神学校に入ったのだと言った 各地の修道院にいた同宿達も 同じ事を言った ・山口や豊後でも苦労していた 豊後は修練院・学院等数人を除き、皆避難した ・113人を超すイエズス会司祭修道者が出て行かねばならなくなったが、全ての地方で、修道院は略奪を 受けなかった 多数の信徒が助けに来て不都合が生じなようにしてくれた 多数のキリシタン大名がおり、 異教徒の大名も同情してくれた もちろん迫害に同調するものもいた ・堺でも、多くのキリシタンが教会を訪れ、殉教者として死ぬ覚悟を示した ・大村・有馬では、領主の住居部分だけを残した城の取り壊しの命令が来た 城と教会を取り壊したので混乱 と困惑が生じた ・長崎でも一時混乱が起きたが、平静さを取り戻した 教会も焼かれず、大きな混乱もなかった しかし、 秀吉が科した税金に苦しんだ 長崎のイエズス会の領地は召し上げられたが、有馬・大村領主がもともと 我等の領地として返還を求めると秀吉はこれに応じたので、イエズス会はこれまで同様に利用できた 大村・有馬が自国に戻り、秀吉が都に帰ると、安心感が広がった ④宣教師の対応方針 (1588年2月20日付フロイス書簡) (方針):宣教師は、キリストを証しするため、殉教を覚悟し、全員、日本に残る ・秀吉がその軍勢を連れて都に戻った後、司祭達は、秀吉の布告とこのような危機の際のキリシタン宗団の ためのその他の事を協議するため平戸に集まった そして次のように決定した ・秀吉の布告は守らない-司祭・修道士一人たりとも日本を去らない- 今が命と血をもって異教徒やキリシタンに、我等が説いている掟は真実なのだという事を立証すべきである ・ただし、しかるべき慎重さを持って、できる限り秀吉自身を含め満足させるような方法で行動し、秀吉が 我等の残留で更に大きな怒りを引き起さないようにする ・次にポルトガル司令官と協議し司令官の名前で次のような事を伝えるため、贈り物を添えて使節を派遣した ・司祭修道者の数が多いので今年だけで全員を運ぶことは出来ない・・乗れるだけ乗せるが、残った者は 別の年に去らせる (実際にはその通りにはしなかった) (この使節への対応は行長・全宋により行われ、秀吉は「残ったものは切り捨て海に捨てよ」と言った ・司祭達は、彼等を領内に置くことを申し出たキリシタン領主たちの所へ分散する事に決めた ・なかでも有馬晴信はこの事に熱心で、全ての司祭と修道士を引き受けると申し出た (実際引き受けた) しかし、他の領主も満足させるため、有馬には司祭・修道士70人近い人と統合されたセミナリオの生徒 73人が残ることとなり、他は分散することになった(都の地方3、平戸4、大村12、豊後5、天草6、大矢野3 五島2、筑後2) ・秀吉が司祭達が日本に残留している事に怒りがやまず、探し殺すように命じたならば、キリストに生命を捧げ 殉教者となると決定した (1588年度年報) 我等は指定された期間内に日本を出発することが不可能であることを関白に申し立てた 関白は我等が平戸 にゆくようにせきたてた 平戸には出帆準備を整えた定航船が碇泊していた 都と豊後の一部を除き、様々な 場所にいる司祭を平戸に招集し、関白に対する対応について協議会を開催した その結論は「イエズス会の 会員は一人として日本を出てはならぬ」、 関白の激怒が起きぬように最大限の配慮をするというものであった これは、「今こそ、血と死をもって我等の宣布する律法が如何に真実であるかを証明するにふさわしい時である これで、不信心の我が敵どもを納得せしめ、このキリシタン宗門の若き根は十分に根をおろすことになろう また、こうすることによって、暴君の残酷な脅迫とその禁令に立ち向かう勇気を培える」という考えによるもので あった ・追放された場合など、追放された人が頭を丸め世捨て人のように生活すれば素知らぬふりをするという 日本の諸侯が行う習慣がある 今はそのような小康状態であり、関白もそう認識している この状態は どこかが破たんすれば、たちまち別の至るところが破綻してしまうという性質のものである 関白はだから 面子にかけてこれらのキリシタン諸侯の存在に目をつぶっているように思われる 迫害期の聖人のように 山中や洞窟に隠れながら、やがて暴君に捕えられ、大胆に告白を行い、己が信仰のために命を投げ 出す時が到来するのをじっと待つ かく振舞うことが最もふさわしいと、司祭達の一致した見解となった そうしなければ、関白の面子を潰し、彼は戦を仕掛ける事を余儀なくされ、これはキリシタン宗団の破滅 となる キリシタンの領主は関白に長期間抵抗する力など持っていない 司祭達はよく顔を知られ、 迫害の張本人である施薬院全宗でさえ我等の残留を知っており、関白の耳に入らざるを得ないが、 しかし、関白は目をつぶり、満足そうな素振りをみせている 以上のように、イエズス会としての、秀吉の迫害に対する最終的な対応方針は、1588年2月のフロイスの書簡 や、1588年度年報に記載されているように、無抵抗のうちに殉教を覚悟し、日本に留まるというものです しかし、イエズス会としての判断と行動ではなかったが、見逃すことが出来ない副管区長コエリヨの個人的な 軽率な判断と行動があった これは、恐らく、これまで彼が必至に築いてきた布教の根拠地であるイエズス会 長崎領の召し上げと宣教師の全員追放という秀吉の処分に逆上したもので、秀吉を見下していたコエリヨの 完全な個人プレーであり、現実には全く不可能なことで彼の妄想に留まったものであった これがその後の 迫害の口実に繋がっていったとすれば、極めて残念なことと言わねばならない 今でも、南蛮侵略説の根拠と して、取り上げられています 詳しくは、右近の「マニラ追放」の「南蛮侵略説」のところで、論じたい 【コエリヨの軽率な行動】 (秀吉に軍船であるフスタ船を見せた) ・フスタ船で博多に出向き、フスタ船で秀吉をもてなしたが、これはイエズス会の武装を見せることになった 1590年再来したヴァリニャーノは総会長への報告で次のようなことを報告している ・コエリヨは命令に背いて、一艘のフスタ船を作らせ、何門かの大砲を買いいれた 秀吉が博多にいたときに、 旗で飾り立てたフスタ船に乗って大提督のように博多に出向き、秀吉の全軍を驚かした 秀吉はフスタ船船内に入り隈なく観察し、大いに讃え、これは軍艦である云々と語った 秀吉の心中や気性をよく知る高山右近と小西行長やそこにいた何人かのパードレは、大きな災難が キリスト教界に生じることを恐れ、これは秀吉のために作らせたのだと言って、秀吉に与えることを強く 勧めたが、コエリヨは全く気にせず、彼を説得することは出来なかった ・日本の一艦隊全てに対抗でき、防御設備をよく施したフスタ船は、秀吉の猜疑心・嫉妬を生じさせたと パードレ・パシオは記している ・長崎が軍船まで持って武装化されていることを知った秀吉は大きな衝撃を受けたに相違ない さらに コエリヨは秀吉に恩を着せ、それが教会の発展に寄与すると思ったからであろうか、統一事業や東亜政略に 協力を申し入れているが、これはかえって、伴天連追放令という教会最大の危機を招く原因と なった ・このフスタ船の事件が起きる前に、コエリヨが大坂城の秀吉を訪問したときに、コエリヨは、九州の全キリ シタン領主を秀吉の味方につけさせるとか、支那征伐の時にはポルトガルの軍艦二隻を提供しようとかを 申し出たが、秀吉はこのときに、宣教師の危険な性格を見出していたはずである 巡察師ヴァリニャーノはその書簡で、有力なキリスト教徒の領主を持つキリシタン宗団が本願寺と同じような 振る舞いをする存在になるかもしれないと内心思い始めたと記している ・このようにしてフスタ船を視察した秀吉は、宣教師の影響力、本願寺的性格のより重大な危険性を再認識した (コエリヨの秀吉に対する抗戦計画) キリシタンの弾圧と抵抗 海老沢有道著 ・コエリヨは、伴天連追放令後、有馬に走り、有馬晴信及びその他のキリシタン領主に対し、力を結集して秀吉 に敵対するように働きかけ、武器・弾薬を提供して援助すると約束し、直ちに多数の火縄銃の買入 を命じ、 火薬・硝石その他の軍需品を準備させた しかし、有馬氏と小西行長はコエリヨに嫌悪している旨を告げた コエリヨは反省するどころか、スペイン兵の導入を考え、フィリッピン総督等に援軍の要請をした 援軍は不可能との返書がきたが、コエリヨは諦めずに、パアドレモーラを派遣し、軍事的援助を要請した オルンガンティーノを除く他のパードレはコエリヨの考えに賛同していた フロイスもそうであった コエリヨは 1590年死去した 1590年再来日したヴァリニャーノは武器弾薬をマカオに売却し、コエリヨの考えは妄想として 退け、事態を収拾した しかし、コエリヨの軽率な行動は、秀吉に南蛮国侵攻の恐れを抱かせ、反キリシタンの者が、宣教はそのため の謀略であると言いふらす口実となった (コエリョ神父の再度の軍事的援助要請) キリシタン史孝 チースリク神父著 ・秀吉の伴天連追放令後の1589年、コエリョ神父の秘書フロイスは、イエズス会やキリスト教界を維持する ため、この地域に堅固な要塞設置の必要性を記した書簡をローマの総長あてに送った この要塞は、 司祭達への迫害からの避難場所であり、彼等の資産・衣服・生活に必要なものの保存のためであった これは日本管区の準管区長であるコエリヨが自分の職責を果たすために行った、自分が所属する修道 会の上長への意見具申であり、修道会として決定したものではなかった 実際にこの意見具申を知った 巡察師ヴァリニャーノ神父は、甚だ怒り、一切の軍事的干渉を堅く禁じた 1590年コエリヨは死去した ⑤バテレン追放令の要因 既に用意されていたものであった 何時、どのような内容を出すかの問題であった (考えられる幾つかの要因) 要因は秀吉の一時的な感情や一部の伝統的宗教勢力に属する人物の讒言ではないと思います 「好色秀吉の美女(有馬の身分の高い1人のキリシタンの娘)狩り」とか、「施薬院全宋の不当な讒言」とか、 「大型艦船廻航を拒否された事」等に憤激したとか、フスタ船で宣教師から貰った葡萄酒の飲みすぎ 悪酔いから一時的な激情にかられたからではないように思います それらは、何れもあったかもしれない しかし、追放令が出される「切っ掛け」になったに過ぎない のではないかと思います 何故、秀吉は伴天連追放令を出したのか 次のようなものであったと私は思います ①日本の伝統的政冶・宗教勢力(朝廷、神道・仏教勢力等)からのキリシタン排除の秀吉への働きかけ キリスト教が日本に入って来てからずっと継続してきた問題 特に都地区からの排除 ②秀吉の神国日本という国家観に基づく統治構想と海外政策(朝鮮・支那遠征) ・九州攻めの前に彼は全国制覇を実質成し遂げたという自負があり、今後の日本の国の在り方、 統治方法と朝鮮・支那征伐を構想していた (1586年副管区長コエリヨが大阪城を訪問した時、 秀吉は地位を委譲し、朝鮮遠征に専念したいと発言し、コエリヨ二大型艦船の購入依頼をした) 【神格化された秀吉を中心とする新たな国内の中央集権的な支配体制の構築】 ・神国日本という国家観、権力の根拠を朝廷の権威-朝廷の宗教的権威神道に求める、昔内裏が あった中心に聚楽第を建てるという事に象徴される権力の正統性の根拠の求め方、関白という 地位を中心とする政治体制、神仏擁護といった基本的な考え方による中央集権体制を目指した ・日本の伝統的政冶・宗教勢力との和合、本願寺と和解し支配体制に取り込む 畿内権力中枢 部から日本の植民地化に繋がるキリシタン勢力を排除し、キリシタン武将を九州に集中配置し、 布教範囲を限定するという構想が九州攻めの前からあった 最初は日本の一向宗よりも危険な キリシタン宗団を限定的に排除するという考え方で、全面的な布教禁止、宣教師の全員追放 ではなかった 【南蛮まで視野に入れた朝鮮・支那遠征という海外政策】 ・次に九州攻め後の海外政策、南蛮まで視野に入れた朝鮮・中国遠征策を重要課題とした事です このために、秀吉は2000隻の船舶に必要な木材の切り出しを既に実施し、九州征伐後には、 キリシタン大名を九州に集中配置し、ここに海外侵略の根拠地を作り、朝鮮征伐後には、朝鮮の 領土をキリシタン大名に配分し、彼らをその先にある支那侵略の先兵にしようとする構想があった これは、国内のキリシタン勢力を九州という地域に封じ込め、海外に連れ出し、一掃するという もので、結果的には敗北し、完全実現には至らなかったが、彼等を弱体化させ、九州に封じ込め る事には成功した (1592年10月1日付日本年報にこれらを推測させる記述がある) *・・関白は次のように言った 「もし支那征服が首尾よく終わったら、予は国替えを実施し、キリシタン 諸侯には、朝鮮国と支那を与え、代りに日本国における彼等の旧領を異教徒の諸候に与える所存 である」とこのようなことはキリシタン全体を全く破壊させるものであり、キリシタンはいずこにも居処を 失ってしまう 施薬院はこの事を行長に知らせ、行長は巡察師に報告してる(1591、1592年年報) 【行長と施薬院は密接なコミュニケーションが取れる関係にあった】 (完訳日本史⑤P264~) この頃(1593年)、関白殿は支那の司令官沈惟敬が小西行長と約束したように、朝鮮の半分を日本 に引き渡し、和平協定を締結するために、行長が支那の国王使節を伴って間もなく帰国するのを 上機嫌で待っていた 関白は、朝鮮半国に日本から渡った人々を居住させ、下の九カ国の全ての 殿達、並びに山口と九カ国の領主である毛利その他をかの地に留めしめ、その後には、自らの家臣 を配するつもりでいた (秀吉の海外政策) ・1590年の北条征伐で、秀吉は事実上の天下人となった 次に実施したのは近隣諸国を支配すること であった 1590年、琉球王国に進貢を求めた 朝鮮使節を聚楽第で引見し国書を受け取り、朝鮮国王 に征服を告げ、進貢を求めた 1590年頃、長崎商人原田喜右衛門等340人がマニラを偵察し、防備が 手薄であるとの報告をした マニラは当時、日本の海賊等に脅かされ内外とも行き詰まり、スペイン国王 にルソン放棄を進言していた 1588年に、既にスペインの無敵艦隊はイギリス艦隊に滅ぼされていた 1591年、再三朝鮮へ服従するよう促し、諸大名に朝鮮出兵を命令した インド総督に書簡を送り、 ルソン総督へ投降することを求める書簡を送った この年また巡察師ヴァリニャーノは都で秀吉に 接見した 1592年秀吉は支那征服に専念するため関白を辞し、朝鮮出兵を実施した 小西行長等の 武将は快進撃した キリシタン武将11人が加わった 秀吉から朝鮮出兵を知らされたルソン総督は秀吉 に返書を送るため使節を派遣することにした 使節は名護屋で秀吉に接見した 再度ルソン総督は秀吉 に使節を送ることにし、イエズス会は協力せず、フランスシスコ会士を使節に任命した 1593年フランシス コ会士4人が名古屋で秀吉に接見した 1593年小西行長は大敗し、和議を受入れ、京城から撤退した 戦果を示すため4、5万人の捕虜を連れ帰った その後諸将に撤退を命じた 明との和平交渉に当たっ たのが、河内のキリシタン結城ジョルジュ弥平次と言われている 1596年サン・フェリペ号事件が起った 1597年秀吉はフランシスコ会士等26人を処刑した 1596年講和交渉のため訪れた明国使節と秀吉は 接見した 明国が秀吉を日本国王とするといものであることに気付いた秀吉は使節を追い返した 1597年 再度朝鮮・明への出兵を命じたが、苦戦の連続で、秀吉は1598年亡くなり、撤退することになった (大型艦船問題) これに対する 宣教師・キリシタン大名の協力の必要性 当時その中心にあったのが、大型艦船 の購入斡旋依頼で、これに繋がる大型艦船の博多湾への廻航は出来ないと回答した (これに協力していれば、恐らくこのタイミングでのバテレン追放令はなかったかもしれないが、しかし、 更なる軍事的協力を求められる可能性があり、キリシタンは何れは放逐される運命であった) (秀吉は徹底したリアリスト、現実主義者 利用価値あるものは主義主張に合わないものでも、仲良くし 徹底して利用するという性格 大型艦船の購入斡旋依頼について宣教師はたいして役に立たない と判断した秀吉の対応は早く、かつ冷酷であった) (神国日本という考え) ・この朝鮮・支那征伐という海外戦略を正当化する世界観、ナショナリズムを正当化する論理も 必要であった それは神国日本という考えであった 日本が外国の侵略にあい、植民地化される 事をを防ぐとともに、軍事力による積極的な海外進出を目指す論理でもあった 当然これは海外から見れば侵略行為に映る 秀吉は実際に朝鮮征伐を実行に移すのである そこには九州征伐後、同地に領地を与えられた武将達が主力となって行われたものであった キリシタン武将の多くが参戦させられた そこで領地を確保し、キリシタンの宣教を行えと言わん ばかりの扱いであった 戦前の神国日本という天皇を神格化したナショナリズムを想起させる 秀吉の神国日本は、その論理の行く先は、反キリシタンであった 秀吉の神国日本という考えは その後の江戸時代の禁教令に繋がるものである (秀吉の神国日本論については、海老沢氏著の「キリシタンの弾圧と抵抗」が詳しい) (完訳日本史③第63章P250)「秀吉は天照大神、偶像の筆頭になろうとしている ・・己が(神として)礼拝 されるよう我等デウスの教会を迫害している これはスペイン国王の彼に対する戦に十分な理由となる) ③宣教師の布教は、宣教師の母国の日本植民地化にあるのではないかという疑念を持ち始める 秀吉は九州攻めで九州のキリシタン大名・信徒と宣教師の関わり方、長崎の要塞化等の実情を見聞 し、その意を強くした (1580年イエズス会の長崎領有(大村氏寄進)・要塞化・武装化 有馬への軍事援助) ④秀吉側近の有力武将が右近の働きかけで次々とキリシタンに改宗し、黒田官部衛までも受洗した事 は、宣教師らの政権運営への影響力が強まる事になり、特定の宗教勢力の政治介入は政権に危う い状況をもたらすと考えた事 (キリシタンは一向宗より危険) そして、①~④の考えに基づき、九州攻めの前から、秀吉は、キリシタンの勢力を九州に封じ込める 構想をもっており、九州攻めが一段落した段階で、これを実施しようと考えていたのではないか コエリヨが大阪城を訪問した時に、秀吉は次のように言っている 「下の諸国を分配する際には、右近 と立佐に肥前の国を与えよう」と皮肉って言った つまり、権力の中枢である畿内から宣教師と主なキリシタン大名を排除して九州に配置し、朝鮮・支那 遠征の先兵にしようとの構想を実施しようと考えていたのではないだろうかと推測します この構想は、右近に対する棄教命令前に作成されたであろうと考えられている [6月18日付覚朱印状] (伊勢神宮文庫)追放令(案)において伺えると思います 1588年2月20日付フロイス書簡の次の記述に注目すべきと思います ポルトガル船の博多湾廻航が不可であると船長が回答した夜に右近の棄教命令が出され、翌日、 追放令が出された事を記した後、秀吉が次のように述べたと記している 「彼(秀吉)は、ずっと前から悪魔の法を説き、神や仏に反対するデウスの掟を日本から根絶し、全て の司祭を追放することを決心していた事、彼等を日本の掟や習慣に害を及ぼすと考えていた事、 これにより、今回の迫害は、デウスの掟を憎み、嫌悪する公式のものであり、今までこれをしな かったのは、彼等がその宗団と信者の大部分を西国に持っていたので、そこの支配者に なるまで待っていたが、既に征服したので、今回その意図を実行するものであると宣言した」 (これを書いたフロイスは「ずっと以前から考えていた」とは思えない、「突然の怒りからだ」と記しているが、 私は前後の一連の流れを全体的に俯瞰すると、とても一時的には思えない かりに一時的な怒りがあったと すれば、それは、大型艦船の博多湾廻航が不可となった事に対する激しい怒りであろう) そして、この構想実施の切っ掛けを与えたのが、秀吉がコエリヨに強く要請していた朝鮮・支那遠征 のための大型艦船購入斡旋の実質的な拒否と秀吉が受け取った大型艦船の博多湾への廻航不可 との回答をポルトガル船総司令官がした事であった バテレン追放令([6月18日付覚朱印状])はこ の夜に作成されている 右近はこの事にいち早く気付き、不安を感じ、フスタ船を寄贈するように、 コエリヨに勧めるが、コエリヨにはこの危機感が全くなかった 恐らく秀吉は、大型艦船の廻航がなされておれば、すなわち朝鮮・支那遠征についての宣教師の 利用価値があると判断できる場合には、まだ切り捨てるつもりはなかったと推測します 秀吉はコエリヨの大阪城訪問では、大型艦船購入斡旋に協力させるため、これ以上ないぐらいの 待遇をし、九州征伐後の知行配分まで言及した 八代でもコエリヨの顔を最大限立てた対応をした 廻航不可との回答を受けた時の秀吉の屈辱感は相当なものがあったであろう 既に日本の最高 権力者となった秀吉に対するコエリヨの対応は、秀吉には利用価値のない、思い上がった人間である との認識をもたらしただけであった そして、施薬院全宗がこの絶好のタイミングで、日頃からの意見を 炊きつけたと想像することもできる 参考資料(ラウレス神父著 高山右近の生涯P210~)(海老沢有道著高山右近 P138~) (コエリヨの大阪城訪問で書いたものを再掲しておきます) 伴天連追放令そのものの根本原因は、他に大きなものが考えられるが、その一つ、あるいは 切っ掛けづくりになった事は間違いないと思われる コエリヨ等の宣教師の外交上の当事者能力や 利用価値に相当疑問を持ったであろう 秀吉は信長のように権力で強圧するのではなく、接待と ビジネス的な取引により、目的を達しようとしたが、相手がその事に応えないとわかると、権力者 本来の冷酷な牙をむき出した 九州征伐後の海外遠征を主な戦略とした秀吉にとって、コエリヨは 最大限の「おもてなし」を必要とする利用価値のある重要人物には見えなくなったと思います そのせいかどうかわからないが、バテレン追放令はコエリヨではなく、ポルトガル船のカピタン・モール (総司令官)のモンティロに追放令の印を押した文書、朱印状が手交されたのです 秀吉にとってはその本性をバテレンの前に隠す必要は全く無くなったわけで、天下をほぼ手中に した彼がこれからの新たな日本の外交政策と国内のキリシタン政策の基本を示す絶好の機会と なったのではないかと思います 朝鮮・支那への遠征は、唐突に出てきたものではなく、もともと信長の構想であり、南蛮までの日本 の権益を視野に入れた対外政策であった その政策を秀吉は引き継ぎ、九州攻めの約一年前の コエリヨ訪問時には、そのための船舶の建造に着手し、極めて大きな展望のもとに、九州攻めを 計画していたわけです 戦国の世に、一代で最高権力者の地位を勝ち取った秀吉という人物の スケールの大きさがわかる バテレン追放令は、当時のキリシタンにとって極めて衝撃的に受け止められたが、その後、実際に は実行されなかた部分もあるので、秀吉の本気度を疑問視する考えもあるようですが、私は、それは 対外貿易政策で、徹底的に宣教師と対立する事は得策でないと判断し、キリシタン側が大人しく、 潜行した布教と信仰生活をしておれば見逃すという方向に方針転換したからであって、この時点で の本気度は確かなものであったと思います その証拠は26聖人の処刑で分かります これは バテレン追放令が法的根拠となったものだそうです 秀吉が亡くなるまで、キリシタンは深く潜行し、 秀吉の機嫌を大きく損ねるような事は出来なかったのです 秀吉が亡くなると信徒は急増します 当時の大阪城の様子を知る上でこの箇所の記述は大変興味深いが、その後の伴天連追放令と 関連付けてみてみると、この訪問が全のく別ものにみえてくる 次に、何故そのように思うのか、当時の一時資料などを紹介したいと思います ①フロイスが記した資料 日本史 年報 26聖人殉教録 フロイスは、日本史で秀吉の伴天連追放令の原因は、「美女狩り」と施薬院の讒言 であるかのような記述をしているが、フロイスが亡くなる年に書いた「26聖人殉教録」 では、九州攻めで九州のキリシタンの状況を見聞した秀吉が、宣教師の布教は、日本 を征服するためのものではないかとの疑念を持ち始め、有力武将がキリシタンなって いく事に危機感を持った事にあると記している 私は、施薬院全宗の讒言も効果的であったであろうが、「26聖人殉教録」に書かれて いる方に説得力を感じる 私はこれが、追放令を出した理由を端的に記したものだと 思います 【26聖人殉教録】第2章 (施薬院全宗の讒言) ・施薬院全宗は秀吉の医師で、以前坊主であり、キリシタンの最大の強い敵で、秀吉から多大の 援助と恩恵を受けており、一部を比叡山の再建に使うつもりで、日本の宗旨の衰退を心配しており、 教会と神父達を憎悪し、迫害の機会を狙っている 施薬院はある時次のように言った ・「私の知る限りキリシタンたちが現在非常に自由に振舞い、神父達が望むままに信者をつくって いる 日本は神仏の国であるので、その振る舞いは非常に有害な事で我慢できない 秀吉に 告訴して厳罰にする」 (「永遠の命」を信じ、キリシタンに改宗した都の高名な医師・学者曲直瀬(まなせ)道三も秀吉の 医師であった 道三と施薬院全宗との間に接点があったかどうかわからないが、全宗は道三の 改宗に相当な反発心と、日本の伝統的宗教に対する危機感を相当もったのではないだろうか) 次にフロイスはバテレン追放令について次のように記している (原 因) ・「王(秀吉)の意図を知るには私達イエズス会の者が常に特に都で貴人の改宗を求めていた ことを考えねばならない 彼等が改宗すれば他の人々の改宗を容易にする その事実に気付 いた施薬院は、それは永遠の命で霊魂の救済よりも日本を征服するための企てでであると思った ・・私達が征服のため国王から派遣されたものと考えている この疑惑、また、私達の諸事に対し て抱いている憎悪によって私達の追放を目指して以前にも度々(秀吉)に話したことがある また、 ジュスト右近殿が、貴人達にキリシタンになるように勧めているのを見て、その疑いを更に強めた ・当時、(秀吉)は、施薬院の言葉に耳を貸さなかったようであるが、薩摩の大名との戦のためこの下 の国々にいて多数の領主がキリシタンであるを見、また、その大将である官部衛の勧めで他の領主 も信者になった事が分かり、同時に今まで会う事がなかったポルトガル人を見て、彼等が聡明、勇敢 であると思い、また、この地方には信者が多く、皆互いに団結し、神父に対して尊敬と服従を示す 事が分かり、施薬院が度々忠告していた事を思い出して、私達が教えを述べ伝えるなら、この国 の支配に害を加えることになると思うようになった (秀吉の対応の軟化) 追放令が出されたが、実際は宣教師は九州に集結し、国内に留まる事が出来た その事情を次の ように記している 「しかしながら、私達が日本にいる事によってポルトガル人との貿易を継続することを考え、受けた 情報によると・・ポルトガル人は・・中国には50年以上いるが、そこでは征服を目的とせず、単に 交易のみである事を知り、・・(1590~1592巡察師ヴァリニア-ノ神父の第二次巡察、秀吉訪問) で、いくらか態度を和らげ、私達が日本に滞在している事に対して見ぬ振りをした 特に私達は 以前と違って、完全な自由を持って行動する事ではなく、潜伏して外面的にはその命令に服して いるのを見て、私達は許されていくような状態になった ②大型艦船の購入斡旋に関する資料 ・完訳日本史 大阪城や八代や博多での秀吉とコエリヨの会見の様子を記す資料で確認できる ・オルガンティーノ神父が総会長に送付した1589年3月31日付けの書簡 ・現在の資料 五野井 二本キリスト教史五野井 P156~キリスト教規制の背景 【大坂城でのコエリヨと秀吉の会見】 オルガンティーノの書簡 (1589年3月31日) この訪問には司祭・修道士・同宿・神学生など30人を超える人が参加した その中にオルガン ティーノ神父もいた 彼は、後年、総会長に送付した1589年3月31日付けの書簡で、「コエリヨ がフロイスを介して、秀吉が九州下向と中国遠征を決意していたことについて、大いに助力する ことが可能であり、船が必要なら、秀吉に供給できるであろうし、また、ポルトガル人たちに この事を指図できることができると答えた」という事を記しているそうです (何故か、フロイスは 日本史でこの事を記していません)また、同神父はその返答がイエズス会とキリシタン教界に不都合 な事態を招く事になるという不安を感じて、フロイスにその話を中断させようとしたが、余りの熱弁 のためできなかったと回想しているそうです ラウレス神父、五野井氏はその著書において、 事の重大性を指摘されています (日本キリスト教史五野井氏著、高山右近の生涯ラウレス著) 【八代でのコエリヨと秀吉の会見】 正装して迎えた秀吉は、豪華な装いのポルトガ人に破格の饗応をし、次のような事を語った 「日本全国を平定し秩序立てたうえは、大量の船舶を建造せしめ、20万~30万の軍勢を率いて 支那に渡り、その国を征服する決意であるが、ポルトガル人らはこれを喜ぶや否やと付け加えた その問いに対するポルトガル人の答えを聞くと、関白は無上に満悦した様子を示した・・それが すむと関白は・・副管区長とフロイスを呼び、そこで1時間近く種々の談話した」 ポルトガル人の要請に応え、秀吉は定航船のための特許状を交付し、定航船が堺付近の何れか の港に来るように強く要望した コエリヨは定航船水先案内人が航路を調べ、その結果、十分な 水深があり、入りえる港があれば・・喜んで奉仕するであろうと答えた ③秀吉の国家観 宗教観 既存の伝統的宗教との関係 「高山右近」の著者、海老沢有道氏は次のように考えておられる 参考になるので紹介します ・追放令は、秀吉が天下統一の完成段階で出された事に注目され、その内容に集権体制を目指 す文言、特に「日本は神国たる処」という箇所に注目され、神仏混淆の立場でキリシタンを「邪法」 と規定した意図は、集権体制がほぼ完成した政治事情と密接に関連している その政治的事情とは、仏教保護政策-本願寺の懐柔であり、この一向宗よりも強力なキリシタン 宗団は大きな危険性も持つものとして、民族的宗敵に仕立て上げる必要があった この追放令により、秀吉は、キリシタンの社寺破壊に不当なる事を強調し、・・思想統制の根拠 とするとともに、神仏の保護者である事を示した キリシタン宗門は、統一過程で伝統的勢力の 否定者として利用され、統一の完成段階では排撃され、封建権力に利用された (秀吉はこの頃、伊勢神宮と密接な関係を築きつつあった) ・秀吉は次第に「天下人秀吉の自己神格化」をしてくる 自己神格化の観念は、早くからあり、年 を経るごとに強化され、かねてからの念願である「世界統一」の野望へ拡大される 秀吉は対外的には全世界を光被する太陽神として諸国の来服を喪求め、対内的には太陽神= 天照御大神の申し子として、天子の権限を委託された天下人と自認していた 秀吉政権が、朝政における関白政治の建前をとり、天皇に代わるものとして、「御公儀」としての 性格を発揮し、神権政治こそ「王法」であるということになる 自己神格し、自己以外の一切の 権限を認めない秀吉にとって、伴天連の教えは「邪法」ほかならない ・秀吉政権が人民支配のため神道・仏教の保護者として政策転換したことは、「天道」・・の発展と もに神道を主とする「三教一致論」(仏法・儒道・神道)として、現わされた この国是は、江戸時代にも引き継がれた 次に掲げる資料が秀吉の追放令の思想的根拠を示しているとされるものです(先に紹介済み) 【右近に棄教命令を出した翌日の秀吉の発言】 (1588年2月20日付フロイス書簡) 「 我等の掟や司祭たちに対し、・・この掟は悪魔のものだ 一切の善を破壊するものだ 司祭達は人を誤ら せ、救いを説く衣の下で人を集めてきて、後で日本で大きな騒乱を起こす 彼等は狡猾、博識で、やさしい 言葉と巧みな論議で日本人の心を自分達に従わせ、多くの領主達と武士を欺いた もし彼も考え深く慎重 でなかったら欺されるところだった 司祭達が巧みに組み立てた言葉と明白な論理の下に毒を隠している のを始めて見出したのは自分であり、彼等のもくろみを阻止しなければ、大阪の仏僧のように一向宗の 掟を説くという口実の下に多くの人を自分に引き付け、その地の領主達を殺してそれを自分のものとし、 大領主となって天下人の信長を大いに苦しめたが、あのようになっていたろう 今度の司祭たちの方が ずっと害が大きく危険だ というのは、大阪の仏僧のように下層の人々を、引きつけるだけでなく、日本の 主な領主たちや武士らを自分に引き付けるからで、そうすれば大坂の仏僧よりずっと簡単にその主人に なれる キリシタンになった人々を集めれば、司祭達には従順で尊敬しているので、時を待って天下人に 立ち向かうこともずっと易しいし、日本に大きな戦や問題を引き起こす この発言の後、副管区長コエリヨに対する二つの伝言を送り、宣教師の20日以内の国外退去を命令し、 この命令はポルトガル人全体の司令長官にも伝えられた いわゆる「バテレン追放令」が交付された (完訳日本史④第16章P213~214にも、ほぼ同趣旨のことが記されている) (日本の祖イザナミ・イザナギの子孫たる我等は神仏を崇敬してきた バテレンのなすがままに任せると その教えは失われる バテレンは教えを権威づけようと予の庇護を利用してきた 予の甥と2名の貴族 の事を心配している バテレンは知識と計略の持ち主であり、予が注意してなければ欺かれたかもしれ ない 奴らは一向宗徒に似ているがより危険で有害である・・バテレンは高度な知識を根拠に、異なった 方法で、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとしている 相互の団結力は一向宗よりも強固である この狡猾な手段は、日本を占領し、全国を征服せんとするためである・・なぜなら同宗派の信徒は、 その宗門に徹底的に服従しているからである・・) (1588年度年報 P82~) 最近、ポルトガル船総司令官が秀吉に使いを出し、巡察師が支那まで戻ってきていることを知らせると、 秀吉は「巡察師は友であった しかし、貴殿らが広めていた教法は、日本の神々に反するものだ 日本 の神々とは、その偉大さと勝利により崇められる「諸候」であり、日本の「諸候」は神になろうと出来る限り の力を尽くしている 伴天連達が広める教えは日本の「諸候」に相容れぬもである よって、伴天連達を 追放した」と言った ・・この男の意図するところは、他者より崇敬をうけること、日本の最も主要な神の一人 になることに尽きる さすが、周到で頭の切れ身のよい現世の真の落し子らしく、彼のなすことはただ一筋 この目的と、自らの意図を妨げる諸々の障害を除去し、自らの栄光を永遠ならしめるという目的に、向かい つつある この目的のため財宝を集め分配し、名声と栄誉を得て記憶を永遠にするため偉大なことを やろうとしている (このあと、領地替え、淀城築城、大仏再建、刀狩り等、秀吉の様々の施策を紹介され、 聚楽第の建設と盛大な天皇の御幸について記されている) (2)右近とその家族はその時どのような行動をとったのか ①秀吉の棄教命令に対する右近の対応と信仰宣言 【年報・日本史を基本に時系列的整理】 1587年7月24日[天正15年6月19日の夜] ・右近に対する秀吉の棄教命令 再三の説得がなされるも右近は拒絶 右近に「肥後国の陸奥守(佐々成政)に仕える事を許そう」という提案もなされた ・副管区長コエリヨに対する詰問状 右近改易処分を示す 7月25日[陰暦6月20日](聖ヤコブの日、「栄光のサンティアゴ聖人の金曜日」) ・右近家臣に心境を語る ・伴天連追放令を発し、ポルトガル船長に交付する 【追放令直後の右近の信仰宣言】 (1588年2月20日付 フロイス書簡) 右近は秀吉の棄教命令を拒否し、キリストに仕える事を選択した この右近の霊性は後の箇所で記します ここでは、まず、事の次第を確認します 右近が語った事が宣教師によって記されているので、これを味わいたい 元仏僧徳運(施薬院)が以前から思っていた右近をはじめとするキリシタン武将についての考え (右近には謀らみがあるなど)を秀吉に注進したところ、怒った秀吉は右近に伝言を伝えさせた 【秀吉と全宋等が棄教命令を出すにあたって語った内容】 (1588年2月20日付フロイス書簡) 大型艦船の博多湾廻航が不可となった夜、夕食で副管区長が送った葡萄酒を飲み、干し果物を 食べた後の歓談中に、施薬院全宋は好機が到来したと思い、巧みに話したので、秀吉は怒りはじめ ・・激怒にかられ、全宋達が炊きつけ、キリシタン大名の宣教師への驚くべき服従、仏僧・神仏の蔑視 、破壊、信仰の強制などについて語った ジュスト右近殿も同じことをし、最初高槻にいた時は、家臣 を全員キリシタンにしたほか、その地の殿下が与えた全ての寺社を破壊した 明石でも同じことをして おり、また、先日徳運(全宋)が行った大村や有馬の地でも同様なことが事が行われた これにより、 日本にいる司祭達は大きな力を持ちつつある このような一門一答の間に、秀吉は激怒・憤怒 に変わり、爆発した すぐさま秀吉は右近に伝言を伝えさせた その骨子は次の通り 「キリシタン宗門の布教のためにそれほどつくし、神や仏の末寺を破壊し、家臣達を自由意志という より強制的にキリシタンにする者は、天下人に仕えることは出来ない 従ってキリシタンを止めるか さもなくば領国より追放する」というものであった 【関白殿(秀吉)がジュスト右近殿に伝えた残酷な伝言】 「彼(右近)がキリシタンをやめるか、それともその全ての身分を失い、彼(右近)、彼の父(ダリオ)、 妻(ジュスタ)、子供並びに全ての親族、兵士、彼(右近)のために働いている人々が追放され、 非常に窮乏して何もなくなり、場合によっては飢え死にするかと詰問するものであった」 (ラウレス神父の「高山右近の生涯」ではプレスチーノの未刊書簡を紹介 基本的内容は同じ) このような事は、日本の領主達からすれば、死よりも大きな苦痛と考えられている・・・・・ この残酷な伝言が右近に伝えられると、彼は(秀吉に従わねば)・・貧困と惨状を見る事になり・・、全ての 身分と・・領地・・を失う事、(従えば)これを持ち続ける事が出来るが、デウスの教えに対し罪を犯す事に なる事を考えた 彼の心の中でデウスに対する愛と義務が勝ち、直ちに大いなる熱意をもって答えた (*村重の謀叛の際には、大いに悩んだが、今回は直ちに返答した) 【右近の答え】(右近の信仰宣言) 「私はキリシタンであり、家臣をキリシタンにしてそれを大きな富と思っている というのはそれ がデウスに仕えると思うからである この教え以外に救いは無い そして、殿下がもしそのため に追放しようとするのであれば、喜んで追放を受け入れ、領地を返すであろう」 (ラウレス神父の「高山右近の生涯」ではプレスチーノの未刊書簡を紹介 基本的内容は同じ) (完訳日本史④第17章にも同趣旨の事が記されている) この伝言を伝えた人や右近の友人は右近に「関白殿に従うふりをして、彼の意向に沿うようにすると 言わせ、心の中では、まだキリシタンのままでいればよい」と説得したが、右近を説得出来なかった (日本史: 突如領地を失い、家族・家臣の生活を路頭に迷よわすような事をすべきでないと助言されたが、 右近は毅然として、デウスの事においては、いささかなりとも真実に違反する事があってはならないと答えた) 使者が右近の真意を文字通り伝えないかもしれないと感じた右近は自ら秀吉に返事をしようとする 右近の真摯さ・平静さは全ての異教徒を驚かせ驚嘆を引き起こした (*普通は誰しも、このような場合取敢えず、危険を回避し、様子を見ようとするが、右近は決して、 そのような態度をとることをよしとしなかった それを直ちに決断した事がすごい 何年もかけて彼が準備 してきた答えであった 何がそうさせたのか ここに右近の霊性があり、どういう思いで 秀吉と関わり、 彼の天下取りの戦に関わってきたがわかる) 秀吉にこの右近の伝言が伝えられると、秀吉は、激情と怒りに満ち、右近の領地を他の者に与え、 直ちに副管区長に二つの伝言(詰問状)を出した 使者は、フスタ船で何も知らず寝ていた副管区長 に伝言を伝えた 副管区長は弁明した 副管区長は次の厳しい沙汰を予想し、死をも覚悟した 1588年2月20日フロイス書簡では、一回しか使者を派遣していないように書いているが、「日本史」や プレスティーノ未刊書簡では、再度使者が遣わされた事が書かれている 「日本史」は既に、 (1)①の伴天連追放令で紹介済み プレスティーノ未刊書簡その内容は次のとおり 【2回目の使者の派遣】 (1587年10月1日付イエズス会アントニオ・プレスチーノの未刊書簡 高山右近の研究と資料) この資料では、右近が返答した後、秀吉の激怒は記されず、右近への懐柔策とも言うべき事が記されている 「関白は、右近殿の簡単な確答を聞いたが、事態を究極に押し詰めることは望まず、右近殿が断固として、 志を翻さぬかどう見るため、再び使者を送った 右近殿が譲歩して、前言を取り消すことを望むかに見受け られた 右近殿がキリシタン宗門を捨てぬ事を望み、且つ、この意志を曲げないならば、領地、俸禄、所領 を没収するであろうが、予が肥後国を与えた陸奥守(佐々成政)に仕える事を許そう もし右近殿がこの 提案、を受け入れなければ パアデレと共に支那へ赴かねばならぬと言った」 「右近殿はこの度も同じくキリシタン宗門を捨てることは出来ぬし、又、肥後領主陸奥守に仕えることも望 まず、パアデレ達と共に、己が霊魂の救済のため、憐れ貧しく追放されることを意に介しない」と答えた (ラウレス神父はここおいて、秀吉は大いに怒ったと記している) (秀吉は、当初の計画通り、何とか右近をつなぎとめようとしていたのであろう) 右近殿は・・心の中に不思議な力と甚だ大いなる霊的慰籍とを覚えた・・キリストに対する愛のため 、殉教者として果てるべき望みに燃え、・・大小を棄て、関白の前に出で、・・所信を述べようと準備を 整えた ・・他の友人達はこれを止め・・・」 関白はこの通告を悉く一夜の中に次々と右近殿のもとに送り 、処分の理由を書いた一書を伝達しようとした (混見摘写 加賀藩の旧記を抄写集覧したもの) ここには、秀吉が右近の茶の湯の師匠である千利休に、キリシタン宗門を改めさせよと 命令し、千利休は 右近に改宗を勧めたが、右近は従わず、「例え主君の命令たりとも、信仰を捨てることは出来申さぬ また、これと信じた信念を貫くことこそ男の志ではござるまいか」と言ったので、利休もそれを承知し て、敢えて意見を加えなかった (私見) このように、秀吉は政権内でのキリシタン勢力を排除・弱体化する目的で、右近に棄教 命令を出すが、右近はこれを毅然と拒否した 右近の棄教を期待していた秀吉は次に 再度使者を遣わす事とし、棄教しないのであれば(明石の領地は取り上げるが)肥後の 佐々成政に仕える事を許すという妥協的な提案も右近は拒否した (この時、肥後は佐々 成政に大半が与えられており、右近は十分な禄を与えられる可能性があった また、元々右近に 肥後を与える事を言っていた) この秀吉の提案は、破格のもので、恐らく秀吉の右近に対する政治的 配慮として、最大限のものであったと考えます 恐らく秀吉は、これで政治的決着がつく と思った しかし、これでも右近の態度は変わらなかった その後、秀吉は次々と伝達 した後、秀吉は激怒し、改易追放処分を右近に告知したと記されている 次々と伝達したとは、千利休の派遣のことか、とにかく右近を陣営に留め、当初の構想 通りに、何とか思い留まらせようと努力した つまり、右近を武将として完全抹殺する ところまで考えていなかったと思われる 秀吉は今後の国家の在り方、統治方法に関する問題として、反キリシタン政策が必要 との観点から政権内でのキリシタン武将の排除・弱体化するための戦術として、右近に 対する棄教命令を行ったので、駈引きと妥協による決着でよかったのではないだろうか しかし、右近にとっては、長年心に決めていた、キリシタンの信仰の根幹に触れる問題 であったので、秀吉の期待するそのような世俗的な対応は全く眼中になかった つまり、煎じ詰めて言うならば、秀吉にとっては政治的問題であったが、右近は政治的 対応をしなかった 個人の純粋なキリシタンとしての信仰の在り方、あるべき生き方に 関する問題であった 彼の心の中は戦国武将としての心構えで構成されていたのでは なく、近代的自我を持った、本物のキリシタンとしての心構えが構成されていた 右近のこの時の精神構造は、恐らく清貧・貞潔・従順を誓った修道者そのものであった と思います 村重の謀叛の時にその事は示されていますし、その後心情を吐露した 場面もありました この後の潜伏生活などのなかで、その事が鮮明に浮かびあがって きます 彼の心がこのような境地にあったが故の、普通の戦国武将の価値観では、 あり得ない選択で、秀吉も激怒し、それが、宣教師の国外追放までエスカレートした のかもしれません 右近は秀吉に仕える事を拒否し、神に仕える事を選択したのです 【翌日、右近は家臣に心境を語る】(右近の信仰宣言) 右近の棄教命令が出された翌日の早朝、右近は事の次第を説明します 司祭たちは、ジュスト右近殿が、あのようにして身分を剥奪され追放されるのを見て最大の落胆を 示したが、右近殿は常に顔に喜びを表し、その後右近の家臣や戦さで従って来た兵に語りかけた ・・・関白殿が右近に対して命じた事を家臣達に告げ、・・身分の剥奪と・・自身の追放については 残念とは感ぜず、むしろ長年我等の主イエズス・キリストの名誉と栄光のために、自分の信仰の証し をしたいと思っていたので、処分の理由がこのようなものであることに喜びを感ずると言った しかし、唯一つ悲しい事は、家臣達がこれで苦しむ事で、右近と一緒に天下人に仕えて生命を大き な危険に曝した家臣達の働きに報いる事が出来ない点である だが、今は、右近がしたいと思って いる助力を彼等にしてあげられないので、[右近は]デウスの力強い御手を信じるのであり、 [右近の家臣等は]デウスのためにこれを耐え忍んでいるが、家臣達には更に良い時節が賚されるで あろうし、また、家臣たちが天国において得る事を期待している富の他に、現世の幸福にも事欠かぬ であろうと言った そして、別れに際し家臣達に勧め熱烈に望むことは、死に至るまで信仰を強く堅持して良きキリシタン として生き、今まで常にそうしてきたように、また、これからもそうであると信じているような良い模範を 示してもらいたい 今は家臣達を支える物を持っておらず、関白殿から追放されたので、皆の者が 妻子を養う最良の手段を探し、他の領主に仕えてもらいたいと言った 右近殿が静穏な顔で極めて優しくこの話しを終えると、これを聞いた皆の悲しみの感情が余りにも 大きく、涙と泣声が湧き、彼と共に死にたい 彼の労苦と追放を死ぬまで御供すると言った そして、述べた事を実行に移す事を示すため、家臣達は短刀を抜き、・・髷を切り、右近と共に追放 されたい意思を示した ・・右近殿は彼等にこの愛を感謝した後、彼等を長い間説得し、関白の怒り を大きくしないよう彼から離れた方が良いと勧め、・・3~4人の下僕と密かにどこかに引きこもるつもり だと言った このように右近の家臣に対する言葉を記した後、あらかじめ準備されていたかのような右近の冷静な 対応は、彼の深い信仰と神の恩寵のほか、右近は秀吉に仕えるなかで、このような事態が到来する 事を予測し、当地で準備し、その場合、領地と生命の代償が必要になる事を覚悟していたからだと 記している 右近と家臣とは、何と深い信仰による信頼感で結ばれていたのだろうか 感動せざる をえない その後、右近に多くの人が会いに来た 金銭を援助するものもいたが、右近は殆どすべてを必要 ないと断った 右近の今回の選択に理解できない人が多く、「心中ではキリシタンであってもよい せめて外面だけでもキリシタンを断念したと言って、関白と折り合い、卑下されたらよい 領地は 放棄してはならぬ 表向きキリシタンでない事を示す気があるなら 関白に対し・・取り次ぐ・・」 などと切に嘆願する者もいた 右近の心は変わらなかった 余りにも多くの者が来たので、右近は博多湾のある島に身を寄せる事にした [他のキリシタン大名と秀吉の棄教命令] ・秀吉の怒りは日々に募り、キリシタンになった者を非難し続け、これを更に推し進めて、日本の全 キリシタン宗団を破壊する事を決心した そのため重立った首領を倒そうとし始め、彼自身が、 あるキリシタンの領主に話して、棄教するよう話せと命令した その内3~4人は大きな災難を恐れ れ言うとおりにした しかし、信仰においては完全を保ち(心には信仰を抱いていた) 大いなる悔恨にかられ、自己の過ちを公開し、新たな熱意を持って、司祭達と領内の改宗に従事 した (1588年2月20日付 フロイス書簡) ・小西行長は、最初冷淡であったが、オルガンティーノ神父等から説得され協力するようになった 右近とその家族等を匿う 右近の家臣を召し抱える ・黒田官部衛は、秀吉の側にあって、適切な助言を宣教師たちにし、宣教師達は危機を乗り越えた ・蒲生氏郷も信仰は捨てなかった 秀吉の態度が変わるのを待っていた 棄教を厳しく迫られたキリシタン武将は、右近以外にはいなかったようです 右近は毅然として信仰 を貫く姿勢を取った事は、良かった 恐らくキリシタン武将の精神的なシンボルとなり、精神的支柱 となったであろう 右近以外の武将は、秀吉を怒らせずに、彼の気持ちが変わるのを待つ、それまで は自分の心の中にしまっておくという姿勢であったのであろう それぞれが、置かれた立場を確認し あい、出来る事を きちんとし、助けあっていた 右近もそのような状況があったからこそ、信仰と家族 を守る事が出来た また、離散した家臣やその家族も救われた しかし、以前のような表だった積極 的な布教は、秀吉の存命中は出来なくなってしまった ②明石における家族の対応と信仰宣言 村重の謀叛の時と同じように、右近の家族は共に支えあった 右近の重臣の一人が右近の命により右近追放の知らせを届けた7月末の夜、残された 家臣の家族は突然の逃亡を余儀なくされ、紛糾と混乱が巻き起こる中、父ダリオと 弟太郎衛門とは、神に対する確固たる信頼を示し、毅然とした態度で対応した (当時明石にいたアントニーノ師の書簡) ・1587年7月の終りに、右近の主要な家臣の一人が夜明石に着き、この地にいる司祭に右近の 身分剥奪を説明し、その目的は父ダリオと妻に知らせて、その子息と資産を隠すためであると言 い、家臣の妻たちにも最良の物を持ち出す事を言った ・この知らせは、一同に非常な悲しみと痛みを齎すものであるが、右近の父老ダリオとその息子で ジュストの兄弟太郎右衛門殿が如何に気力と努力を持って、その知らせを受け入れたかを・・ 説明するのは難しい そして、もし右近が何か卑怯なことをするか関白殿に対して罪を犯したので あれば非常に悲しいが、しかし、キリシタンをやめないで、・・イエズス・キリストへの信仰のために 失ったので、安心して満足しているというのは、デウスが助けて下さるからであると言った ・その夜すぐ、この地の身分ある全ての人々は、家を空にし、家財をまとめ、夜明けになると土地を 離れ始め、・・自分たちが助かる可能性のある所に向かった 夫達が戦でほとんどいないので、 ・・荷車を曳く者・舟人の不足、多数の夫人・娘達、年少の子ども、老人、病人を伴って、その家財 を背負い、どこに行くか、必ずしも定かでなく、突然逃げ出す際の紛糾や混乱が如何に大きな ものであったか・・ 明石からの全ての道で武士や夫人が不安を抱いて泣きながら家を去るのが 見られた・・十字架であり苦痛であった (完訳日本史④第17章 P230~233にも同様の事が記されている) ・・ダリオとジュストの弟にあたるその息子は、我らを驚嘆させるばかりの勇気と喜びを表して、 この報せを受け取った ダリオ父子は直ちに教会に訪れ、我等の主なるデウスに感謝の祈りを 捧げ、次のように我等に告げた 「司祭方よ、尊師らは、どうか心を鎮め、気をしかと持たれたい というのは、我が子ジュストが 何らかの過失を犯したために領地なり地位を召し上げられたのならば、名誉を喪失したことにな り、大いに悲しんだことでありましょう ですが、今回の事件は、ジュストがキリシタンである事堅持 したために生じたと聞いている以上、私にとり、それは大きなる喜びであり、慰めでもあります 私は常々、こうした素晴らしい出来事に際会する事を深く望み、そのために心の準備をして 参ったのです」ダリオは驚くほどの喜びと冷静さを表情に示して、そのように語った (1588年2月20日付 フロイス書簡) ・右近が示した強さは大きなものがあったが、他方その父ダリオ及び兄弟の太郎衛門の強さもこれに 劣らなかった というのも彼と共に身分を失い追放されたにもかかわらず、右近殿が卑怯な事をする より、その身分を失う道を選んだ事に大きな喜びと満足を示し、自分自身の損失はいささかも後悔 せず、イエズス・キリストの勇敢な騎士としてそのことを右近殿に感謝し、キリストへの愛のために 自分を捧げる準備をしており、今は貧しい生活の中で益々献身的で熱烈な信仰を示している (完訳日本史③第61章 P217) 追放令後、ダリオが淡路から、室にいたオルガンティーノ神父に会いに来た時の様子が記されている ・司祭達が室から出発するに先立って、淡路から父ダリオと次男が合いに来た 両人は告白・聖体 拝領をし、・・次のように言った 「この度の苦難はまもなく終わることだからデウスに対して信頼するように もし伴天連様が支那に 渡られるようなことになっても、(迫害が終れば)再び日本に帰って来られると思う ・・と元気づけた その時、右近を関白が元の身分に戻すかという話題になった時、父ダリオは次のように言った 「伴天連様が追放されているのに息子ジュストが、旧位に取り立てられるような事があれば悲しい」 (3)右近とその家族の潜伏生活 伴天連追放令後、右近は、小西行長を頼って、秀吉の怒りを避けるため潜伏生活をします (1587年7月25日のバテレン追放令後の右近の動静) 博多→博多湾の小島→淡路島→小豆島(1587年9月中旬)→九州(肥後→島原)(1588年7月) →都→加賀(1588年後半~1589年2月24日[1588年報の日付])といった流れを想定されている (1589年2月24日とは、1588年報の日付) 右近が九州、加賀に行った時期はよく分かっていない (ラウレス高山右近の研究と資料) (小西行長の所領替えにより、右近が九州に移動した時期 -1588年7月頃か) 右近が九州に移動するのは、小西の所領替えに伴うものであり、その所領替えの時期が問題となる 佐々成政が肥後の所領を召し上げられた後に、同地が行長の領地となった 召し上げの原因となった 「肥後国人一揆」は1587年12月に終息し、成政は、その責任をとらされ、尼崎に幽閉され、成政切腹は 1588年7月頃といわれている この事から、行長の所領替えは1588年7月頃で、右近の肥後への移動は、 その直後に行われたと思われる ラウレス神父は、右近が小豆島を離れたのは1588年の夏頃と推定 【小豆島に行くまでの行動を記す一次資料】 (完訳日本史④第17章 P227) -右近、夜分、密かに船に乗り、博多の真向かいにある、ある島に 身を寄せる事にした-(そこは漁夫の家が2.3軒あるのみ) (完訳日本史③第61章 P217) -淡路島に父ダリオ等が避難- ・追放令後、早い時期に、都にいた司祭達は、副管区長からの連絡で平戸に向かうべく、 室に行く そこで淡路から来た父ダリオと弟太郎衛門 と逢っている 父ダリオ等は淡路に避難していた事が伺える (オルガンティーノ神父は平戸には行かずに、室に留まると記されている) ①小豆島での信仰宣言 (小豆島に潜伏していること記す資料) A(1588[1587]年11月25日付 オルガンティーノ書簡) -右近と妻子が小豆島に潜伏- ・「ジュスト右近殿は、ここから二里の所に妻子と共に隠れており、何回か私を訪問し、ここに来る度に 下僕を連れず、2~3日滞在し、互い逢った時は大いに励まし合い、何時もこの迫害の中の悪魔の 罠に対抗して何ができるか相談している (なお、この資料は1588年となっているが、これは明らかに間違いであると、チースリク神父は、 「右近史話P232」で指摘されている) B(1587年12月15日[11月25日]付 オルガンティーノ書簡 完訳日本史④第19章 p275) ・この書簡は、潜伏から二か月後に書かれた事が記されている (神父が小豆島に来たのは1587年 9月中旬か) 神父は病が再発したり、非常な高熱に冒され、当地で死ぬ覚悟をしている ・行長、右近、オルガンティーノ神父等が協議し、小西の所領で、神父と右近を匿う事が決定 *ラウレス神父は、A・B何れも1587年11月25日の同一のものと考えておられる(高山右近の研究と資料) 【1588年2月20日付 フロイス書簡】 私は、追放令後の潜伏期間中の右近の姿にこそ、今回の追放令で示された右近の凝縮した霊性が 感じられると思いますので、この資料できるだけそのままに、紹介したいと思います 追放令は日本各地に大きな衝撃と混乱をもたらし、その中で明白な信仰を示し、大きな危険に身を置 いた者のうち、右近の事を最初に記している 「イエズス・キリストの勇敢な騎士の中[その中で当然第一位を占めるべき]に、ジュスト右近殿がいる というのは、今回の迫害の最初の対象であり、誰よりも多くを失い、大きい苦悩を背負い、関白殿に対 する返答においては、今まで有していた俸禄や名誉を意に介さず、また、子女、親類、家臣が彼の 追放と共に困窮し、惨めな状態におちいることも省みずに力を尽くし、恐れを抱かず、・・光輝ある勝利 を獲得した 今は、彼は剃髪して、・・ほとんど妻と子ども達だけと、この迫害と困難の中を生きているが 、謙虚で明るく満ち足りて、何事もなかったかのように思われるのを見ることは、ただ素晴らしい事としか 言いようがない 彼は、日本の領主達は日々追放されたり、戦で滅び、その身分、名誉や自分達の生命まで失い、 人を殺したり、自決したり、自分がイエズス・キリストへの愛のために身分を失った以上のもの失っている と言い、日々デウスへのより大きい献身、託身の境に入り、そのために生命を差し出す準備をしている オルガンティーノ師の書簡[彼も追放されて、アゴスティノ弥九郎殿(小西行長)の領地に隠れている が、そこに右近殿も身を引いている]によると、右近殿の熱意と堅固さは驚くべきもので、彼と何時も、 この戦いで如何にして悪魔に勝つかを数時間話し合う事は最大の励まし、気分一新の一つである由」 このように記した後、荒木村重の謀叛の際に右近が示した英雄的行為を記してしる 「このデウスの勇敢な騎士右近殿の徳と偉業をここで上げるとすれば、・・信長の時代に、彼がデウス の掟の一点に背かぬために、領地、妻、子どもを捨て、剃髪してオルガンティーノ師のもとに行った 事を上げれば十分であろう・・」 今回の迫害の打撃を大いなる努力によって受け止め、その中で 打ち克っている 【1587年12月15日付 オルガンティーノ書簡】 完訳日本史④第19章 -右近と神父の信仰宣言- 小豆島での潜伏中の出来事が記されています その主なものは次の通りです 中でも、右近とオルガンティーノ神父の互いに都の信仰共同体の指導者としての自覚と責任感と 互いに共通する殉教に繋がる深い信仰心を感じ入る事ができる素晴らしい書簡です 潜伏期間中の二人は、俗世の日常から隔絶される事により、より深い「霊操」を行う事ができたように 私は感じました 少なくともオルガンティーノ神父は殉教を覚悟した深い霊操を行っている事が伺える 右近もオルガンティーノ神父と互いに励まし合っている事が記されており、神父の影響で、深い霊操 に潜心したのではないだろうか 逆境の中の閉塞状態が、理想的な「霊操」環境を作り出したと 推測します 村重の謀叛の時に、霊的に深い関係を構築した二人は、ここでも深いところで心を 通わせたことは間違ないだろう そのためにも、この書簡に記されているオルガンティーノ神父の 言葉は右近にも共通するものと考えるのが適切であると思う ・小西行長の領地、室での出来事 室ではオルガンティーノ神父に冷淡であったので、行長を室に呼び、同神父や河内のキリシタン、 ジョルジュ・弥平次の説得により、行長は思い直し、領内での潜伏に協力するようになった 予期せず、右近と河内のキリシタンマンショ、小豆島を管理する作右衛門が逢いに来た 都のキリシタンの幾人かが、近江の潜伏場所に移すべく、神父らを迎えるために来た ◎【右近の信仰宣言】 ・その後、ここに集まった一同は多くの事を協議し、オルガンティーノ神父と右近を当地方に匿う事 にした 行長は神父や右近を匿う事の危険性を厭わず、神父、右近とその家族を匿う事を誓った ・この時に右近は次のような信仰宣言をした 「日本での戦においては、通常五千ないし一万人が、単に悪魔を愛し些少の世俗的利益を得んが ため命を捨てる しかも彼等が死ぬだけでなく、その家族全員が蹂躙され、破滅され、敵から 思いのままの仕打ちを受ける 現下我等が直面しているのは、その悪魔との戦いではないか この戦で死ぬことは、キリストとともに勝利者となることであり、この徳行によって、キリストの 家族である当日本の教会は庇護されるのである あたかもそれは、世界の教会が何千という 殉教者の死によって崇められるに至ったのと同じであり、その功徳により、世界の果てなるこの 日本の地まで司祭方が渡来されたのである すなわち、死によって勝利を得、キリストの教えが 高揚し公布するのである それゆえ、デウスからかかる精神を授かった者は、生より死を望む べきである 我等は好まずとも、結局は死なねばならないし、それが我等にとって利益になるか 害となるかは、デウスのみが知り給うのである」 これを聞いた一同は「仰せの通り、〃」と答えた 同神父は、「・・苦難のさなか・・その僕たちをかくも励まし給う主を永久に讃美・・」と締めくくっている (小豆島での生活場所等を推測させる記述) ・翌日、我等一同は別れた 行長は大阪に行き、神父を迎えにきた信徒は都に、三箇マンショは讃岐 へ、右近はここから近い二里の所へ、父ダリオは二日前に妻子を伴い、当地から十里の所にある行長 の領地にそれぞれ向かって行った 私は、現在いる小豆島に夜分到着した ・オルガンティーノ神父がいる所は、誰もいない一軒家で、他の家々からは小銃の一射程程離れて おり、四方山の外は見えず、外からは誰一人来ませんでした ・小豆島を管理する行長の家臣は非常に善良なキリシタンで、神父等が発見されないように、最大の 注意を払っており、必需品を届けてくれる3名のキリシタンのみが神父等の居所を知っている ・行長は安楽に潜伏できる一軒の家を建てた 万一のため更に別に家も用意された ・神父はコスメ修道士、同宿・説教師レアンと一緒で、日本人を装った ◎【オルガンティーノ神父の信仰宣言】 ・今回の迫害で、キリシタン信徒は、その信仰を疑うどころか、殉教への覚悟を示し、もし、更に迫害が 厳しくなり全員が殉教すれば、日本中が改宗していくだろう・・ こうする事によって、・・デウスが初代 教会に据え置かれた土台が築かれると記している ・マカオに遣欧少年使節や巡察師等が到着し日本来ようとしている これは神父等の仕事を引き継ぐ もので、デウスは我ら全員が教えのために生命を捧げる事を望んでおられるのかもしれない ・関白は我等の教えの最大の敵であり、されば、我等は、デウスとその教会の前で、真の証人として、 デウスの聖なる教えこそ、唯一の真の教えであることを遵守し、生命を賭して暴君の命に反抗する 必要があります ・(潜伏生活は、自己への沈潜、霊魂の改心、(霊想)の絶好機会となった事が記されている) 日本での伝動事業は、愛徳、謙遜、忍耐、寛容、清貧、勤勉等の尺度によって評価されるもので、 これらの諸徳がどれだけ根を張っているか事だけが問題 そうしたことから我等としては、会則が 命じている日々の自己への沈潜を通じ、その事実を悟るように努力する事が、デウスの御旨である 自己への沈潜は、霊魂の改心に大いに役立つものであるであるが、日本の現状は突発的な用務 によって中断されるので効果的ではない 従って、デウスは、・・我等が自己に沈潜し、心を更新し、デウスが授けて下さった恩恵・ 賜物に思いを寄せ、・・我等の過ちを反省し、・・この聖なる心の修行に専念する事を命じた のだと思います かくて我等は多くの艱難・誘惑を通じて当日本の教会を基礎づけ、確立するという デウスの御旨を遂行することができる 次に記されているのは、オルガンティーノ神父の総告白とも言うべきもので、殉教の覚悟を持って 最後まで司祭の任務を全うするという神のお恵みを心から願っている気持ちが、過去の自分を 振り返る中で記されています(オルガンティーノ神父はロレトの修道院にいた) ・この書簡は、潜伏から二か月後に書かれた事が記されている (神父が小豆島に来たのは1587年 10月頃か) 神父は病が再発したり、非常な高熱に冒され、当地で死ぬ覚悟をしている ・オルガンティーノ神父は、今後の自分のやるべき事を四つ上げている 一つは敵を注意深く見守る 事、二つ目は罪を悔い改める事、三つ目は後続者に良い模範を示す事、四つ目に都のキリシタン を守り抜く事と言った事を挙げ、最後に迫害から多くのお恵みが神から与えられることを祈っている ・この潜伏期間中に堺・大阪・都・高槻の山間部から書状や報告があったことが記されている (1588年5月6日付のオルガンティーノの書簡) 完訳日本史③第63章P246~253 ・小豆島潜伏中のオルガンティーノ神父は、小豆島と都を行き来していた事が記されている ・ガラシャの信仰の問題はキリシタン全体にとって大きな影響を与える極めて重要な問題で、慎重に 扱うべきと神父は判断していた 神父は闇の水曜日に都に入った ・秀吉は都・堺・大坂の修道院・教会を解体し、淀城に運ぶ事を命じた ・私(神父)も、殉教を覚悟し、当地のキリシタン達も発覚せぬようにと深く用心して過ごしている (オルガンティーノ神父と霊操) ・オルガンティーノ神父は、イタリアでは、イエズス会指導の聖母信心会の創立者の一人であった この信心会はイエズス会の霊操を踏まえた、念等・黙想をともなうものであったそうです ・信徒の信仰を維持し深めるための自主的な組織の代表的なものとして、サンタ・マリアの組という ものがあります 聖母マリア様に対する信仰は、ロザリオの祈りが普及するなかで、信徒の中で 広まって行き、聖母マリア様の信心会もできました ・サンタ・マリアの御組は、聖母信心だけでなく、キリシタンの信仰生活全般において大きな影響を及ぼした この信心会は、目的、実践、性格など様々なもので、異なったものであった (イエズス会指導の聖母信心会) 1563年ローマで発足 イグナチオの心霊修行の精神を信徒使徒職のリーダー養成に適用したもので、大衆 むきのものではなかった オルガンティーノ神父はこの信心会の創立者と友人で、彼も創立者の一人でも あった 彼は1570年来日し、1606年まで都の布教区で働いた 伴天連追放令後、イタリアでの経験を生かし、 彼は都地区で幾つかの信者団体をつくった この団体は、聖母マリアを保護者としたが、弾圧に備えての 隣組方式のもので、リーダーは同宿・看坊であった ヴァリニャーノはこの組織を奨励した フロイスは「この組は日本人の精神にかない、日本人からたいそう感激して迎えられ、この国の第一人者で 最も身分が高い人達が、この組の一員に加えられることを名誉と考えている」と記している 宣教師の記録中に 記されており、大きな役割を果たしていた 1603年にはローマの本部の支部して認められた信心会が有馬の セミナリオで出来た それは「御告げの組」であった 入会を希望する者が多く出たが人を選ぶようにしたので 入会を希望する者は徳を高めることに努力した 入会すると、一週間、イエズス会の心霊修行をし、次に 総告白をし、日々時間ごとに定められた祈りをし、組の規定により、良心の究明そのほかいろいろの修練を するというものであった 会員は50人で、徳を修め、信心を養い、速やかに罪を悔い、苦行をし、互いに欠点 を教え、日々喜捨金を持参して貧民を救い、教えを説き、しばしば病人を見舞い慰める 加入を望む者が多 いので、更に一組設けた その後迫害と弾圧に備えるため、宣教師たちはこの信心会を一層強化した 一般むきのものとした 殉教の覚悟まで準備するものへとなって行った ドミニコ会もロザリオの組をつくった 【小豆島の布教】 完訳日本史③第60章 1586年の年報 ・1585年、小豆島は小西行長の領地となり、1586年7月、行長の要請で、小豆島にセスぺデス神父 と修道士1人と島の管理人河内のキリシタン三箇マンショが、同島の布教のために上陸した 早速島民・僧侶等が説教を聞き始め、約一カ月の間に1400人が受洗した 7プラサ以上もある非常 に美しい一基の十字架が建てられた 行長は立派な教会を建てることを決めた (この日本史の第60章に「天正の大地震」の事が記されている 堺、都の周辺は、4日4晩大きく揺れ 40日程絶え間なく余震が続き、長浜では大地が割れ、半分の家屋と多くの人が呑みこまれ、残り の家屋は炎上した 現在原発のある若狭では、大津波が襲い、町は痕跡を留めないほど破壊された と記されている ある時ある所でこの事を紹介したら、すぐにテレビ・新聞で掲載されたのは驚きであった) ・セスぺデス神父が布教した地区は、現在の「草壁地区」と推測されている オルガンティーノ神父 が潜伏した場所は、肥土山地区と推定されている 右近の潜伏地はそこから更に数キロ奥に入った 中山地区と推定されている 小豆島カトリック教会には、高槻・マニラ・高岡・能登と同じ右近像が あります 毎年7月に高山右近祭を催されています 右近の霊性という点で極めて重要な場所です ②九州での霊操 小西行長の小豆島から肥後への所領換えにともない、小豆島等行長の所領で潜伏して いた右近達は肥後に移動します この時の様子を記す資料は、右近の霊性を示す箇所 が多くあるので、ラウレス神父や片岡弥吉氏は、右近の霊性を知る上で大変重要視され ています それは、右近が南島原を訪れたことを記している箇所です 右近は副管区長コエリヨを訪問し、追放令後の様々の問題について話をした その後、右近は、有家の修練院で心霊修行(霊操)や総告白を行った これは、秀吉の 召喚命令から予想される試練に備えるためものであった 右近のここで行われた心霊修行(霊操)は、小豆島から続く潜伏生活における自己への 沈潜、霊魂の改心、黙想の最終段階ともいうべきものであった 秀吉の迫害に対し、 キリストの教えを証しするため殉教の道を歩むという決心を、固めるためのものであった この後、右近は秀吉の召喚命令に応じ、都に行った ①1588年度年報 (1588年2月21日~1589年2月14日までの出来事) 竜造寺の圧迫に苦しみ、逼塞している長崎に、右近が訪ねてきた様子、及び右近が加賀に送られた 事が記るされている (P35~38) ・この時期にコエリヨを訪問したのは右近だけではなかった 官部衛、行長も訪問していた 恐らく、 コエリヨを中心に、秀吉への対応、追放令下の布教活動について重要な協議がされたと思われる ・1588年島原にいるコエリヨを訪問したのは、長崎に絹の買い付けに来た小西立佐、定航船見物と いう口実できた黒田官部衛、肥後の国主となる小西行長である 立佐は司祭たちに友好的で、 司祭たちの貿易上の利益を損なうことがないように配慮をした 官部衛と行長は、コエリヨに、国主になったばかりで、今は領内に司祭や信徒を匿う事はできない 事、また「この時期に日本の改宗事業に大きな波瀾を巻き起こすよううな事はどうか差し控えて 頂きたい・・機会が到来すれば・・」と懇願した この記述の後に右近がコエリヨを訪問してきた事が記されている 【右近の訪問】 ・右近もまたその他全ての司祭たち(オルガンティーノ?)を伴って副管区長を訪ねてきた ・右近は、僅か6人の従者を従え巡礼のようにして来訪、・・より大きな満足感と喜びを全身で 表し・・栄光と名誉をもって迎えられた・・有馬殿のみならず全ての民衆は歓待し・・敬意を払う・・ 見物人が街路にひしめき合い、精神の強靭さを称賛した ・ジュストはデウスの栄光を傷つけるような罪を犯すくらいなら、自らの俸禄を全て投げうち、己が生命 を確実に危険の曝す方をむしろ望んだ・・さらに彼が周囲の人々を驚かせたのは、多大の労苦と 貧窮のうちに自身の追放令を受け入れるにあたって示した忍耐強さと喜びの気持ちであった 数日間滞在し、司祭とイエズス会の利益に関する諸事について協議 腹蔵なく吐露した やがて有家の修練院で数日間籠り、模範的に、熱意を込めて、心霊就業、総告白を行った これは、生じうる全ての事への準備を固めるのがその意図するところであった 彼は一切のことを大いに模範的に、かつ熱い想いをこめてやりとげたから、修練院のあらゆる司祭 ・修道士、その他いかなる人々も彼の大いなる徳と称賛されるべき慎重さに心からの感嘆を発して やまなかった ・右近滞留中、様々の人から書状が届いた その中で、秀吉の態度が軟化し、都に来ることを 望んでいることが書いてあった 事態の推移が確実につかめるまで出向かぬ方がいいとの忠告もなされた 副管区長の援助の申し出もあった また小西行長は右近に肥後領内で、二万表で取り立てるという申し出 をした しかし、右近は様々な理由から都に出向いた 都からの情報は最初はよいもので、追放は 無くなり、加賀で俸禄をとらせるとか・・・しかし加賀へ送られたが・・囚人のような扱い・それは関白 の命令・・右近の友人である前田利家も冷淡・・右近とその家族は苦難に耐えている・・関白が・・ 処刑しないか危惧している ②1588年年報 P82 「都の諸地方とキリシタン宗団について」 ・都地区のキリシタン宗団の破壊 かつて、都地区の摂津高槻・河内のキリシタン領主の領地には3万5千人ものキリシタンがいた ここを通過することになった 関白が統治を始めて以来、彼に立ち向かって殺されたり、追放・迫害 を受けたり、他領へ移されり、酷い扱いをされたりしたため、あのいとも善良で偉大なキリシタン宗団 は完全に破壊された 残った農民等は棄教したり、少しづつ信仰に冷淡になっていく オルガンティーノ神父等は、露見しないように、彼らを訪問したり、手紙で励ましている ・受洗したガラシャが、夫から逃げ出して、下[九州]に赴きたいという決意した 関白の迫害の口実に なるので思いとどまらせた 夫はガラシャがキリシタンであることをまだ知らない 知れば大変なことに なる 彼女は平生邸内に閉じ込められている キリシタンの侍女とともにこの苦難を乗り切っている ・オルガンティーノ神父等肥後へ向かう 小豆島に潜伏中のオルガンティーノが・・書簡で・・したためてきた・・オルガンティーノは、小豆島 からその他の地の信徒を訪問していた・・しかし、(小西行長の所領替え)により、オルガンティーノ は、右近殿、弥平次殿らそこに潜伏していたその他すべてのキリシタンたちともども小豆島を発た ざるを得なくなった オルガンティーノは副管区長の命令を受けてコスメ修道士とともにこの下に来た キリシタン達の大半は肥後で小西行長から十分な厚遇を受けている (結城ジョルジュ弥平次) 小西行長の領地替えに伴って、行長を頼っていた者は全て新たな行長の領地である肥後に行か ざるをえなくなった その中に、河内のキリシタン武将結城ジョルジュ弥平次も肥後に逃れてきた 彼はそこに留まり、小西から与えられた肥後の一城主になり領内の布教に尽力した その後行長 亡き後、有馬に一城を与えられ、最期は長崎へ行った 彼の霊性も素晴らしい 河内の代表的な キリシタンとして最後まで誇り高く信仰を全うした 南蛮寺の建設、大阪の教会建設では高山親子 と協力し、献身的な働きをした 追放令直後、殉教の覚悟をいち早く示し、行長の改心にも尽力し、 そのお陰でオルガンティーノ神父や右近等の潜伏が行長の領内で可能となった ③(完訳日本史11第74章 P207) 上地方の小豆島からジュスト右近殿が高来(諫早付近)に来訪した。彼はただ司祭や修道士達 と会って、慰めを得たいばかり遠路はるばる来た・・彼の慰めと喜びは尋常ならぬものがあった 彼は仏僧のように頭髪と髭を剃り、・・貧しい僧侶に見られるように、紙でつくられ、・・使い古して ぼろぼろになった衣をまとい、変装し、6~7人の家来だけ伴って訪ねて来た *高来は、コエリヨがイエズス会員を集結しようとしていた場所であった(完訳日本史⑪ P152) 南島原における右近の行程は次の通り (高来→加津佐→有家→加津佐) (加津佐 2~3日滞在 コエリヨと協議) 右近は加津佐に着くと告白し聖体拝領した。彼は己が生命を主なるデウスに捧げ、デウスに奉仕 すること・・を求めており、・・彼が示した徳操、思慮、分別・・挙措動作は、人々の心を奪って あまりあった。・・2~3日同所に留まって副管区長(コエリヨ)と、我等の追放、及びキリシタン宗団 のことで協議した・・。 (有家 数日間滞在 心霊修行) ・・当時の修練院が置かれていた有家に赴いた。そこで彼は数日間ある質素な家に身を寄せ心霊 修行にいそしみ、その間に総告白をした。そうした行為は、司祭修道士に深い感銘を与え、彼の 謙遜と応接ぶりは彼らを魅了した。彼は心霊修行を終えて出てくると、あたかも修練生の一人である かのように厠の掃除・・庭を掃いたりして過ごしていた。 *(「心霊修行」という言葉は、【1587年12月15日付 オルガンティーノ書簡】完訳日本史④第19章P259にも 書かれている 「・・イグナシオ(デ・ロヨラ)師が、その著「心霊修行」の中に書き残されていること・・」 オルガンティーノ神父は右近の霊的指導司祭であり、共に試練を乗り越えてきた朋友であり、右近は 同神父より、本格的な霊操指導を受けていたのではないだろうか オルガンティーノ神父は、 潜伏という環境は、自己沈潜の絶好機会となった事を記している) (加津佐 再び戻る コエリヨに別れを告げる 右近父ダリオの徳操を語る) コエリヨは右近に道中や船旅の幾ばくかの路銀を与えようとするも右近受け取らず 右近、ダリオの深い感銘を与える幾つかの徳操について語る (右近は島原に来たが、どこから来たのか) フロイスの完訳日本史⑪第74章では、小豆島からやってきたと記述されている ラウレス神父は、小西の所領が小豆島から肥後に変わったので、右近は肥後に移り、その後 島原に来たと考えている [この時、右近、父ダリオの様子を語る] ・右近は下に下る途中、ダリオがいる備中の「クライン」という所に立ち寄った。 ダリオは、母や妹と伴に素性を知られることなく過ごしていた。 ・ダリオは、元来燐憫とか慈悲の業に心ひかれていたので、それまで多年行っていた・・眼の医術を 人々に施し、同時に他の病も治してした。ダリオは60歳を超えていたが、・・朝は・・祈ることに長い 時間を費やし・・右近に同席する事を求め・・その間・・薬をもらいに来る人でいっぱいになっていた。 ・ダリオは不治と思われる多くの病気を治し・・異教徒たちがダリに寄せる愛情は非常なもので、・・ 何ら野心もなく・・善行を施すのに接して、・・人々はダリオを天から遣わされた人のように思った ・ダリオは・・追放されているを苦とすることなく・・司祭・修道者の困窮を同情していた ・・清廉な交際による深い名残と感動を残して、右近は加津佐を出発した (右近は、妻子を島原には連れてきていない ダリオの所に預けた可能性がある) ④(右近のその後の動静について 加賀へ出立 ) 都の友人から都に来るようにとの連絡あり、右近都に行き、その後加賀に行く (1588年度年報) ・右近がコエリヨを訪問した記述のすぐ後に、次のような事が記されている 右近がそこ(島原)に滞留中に、関白のもとで働いている友人等から、様々の書状(秀吉は 右近について優しい言葉を発しており、右近が都に来る事を望んでいるので、都に来るように との内容)が届き、右近は都に行く事を決意を固めた これに対し、その地の司祭や信徒は 事態の推移が確実につかめるまで、行かない方がよいと勧めたり、また、コエリヨ(滞留に 全面協力)や小西(肥後領内で二万俵の俸禄)は援助の申し出をしたが、しかし、右近は 様々な理由から都に行った ・右近が都に行ってからの右近の動静に関して、最初の方は良い情報(秀吉が右近の追放を取り とか、加賀で従前と変わらない俸禄を給するとか等)がはいってきた しかし、後日、右近は加賀 に行ったが、その待遇は決して良いものではなく、「・・(右近の)友人である国の主君(利家) も・・いい顔を少しも示さなかった・・ほとんど囚人のような扱いを受けた・・それは関白殿の命令 によって行われたものと理解された」・・(右近は極めて困難な状況におかれており、それを耐 えている)・・一番心配なのは処刑されないかということである・・彼の親族一同並びに家臣が 苦難に耐え忍んでいる様は 筆舌に尽くし得ない・・彼は流謫生活を味わい・・貧窮に甘んじ ている (完訳日本史③ 63章 P241 [1588年4月19日付オルガンティーノの書簡]) (オルガンティーノは小豆島から都に戻って、潜伏中であった) ・黒田官兵衛は、「秀吉の弟秀長の命令で、右近を召喚させた」と小西に告げた その召喚の目的は、「右近を小西の配下として、その最良の地で6万表の俸禄を与える」と いう事を伝えるためであった これはオルガンティーノが小西から聞いた話である ・この事について、オルガンティーノが右近に話をしたところ、右近はそのような事は全く 知らない様子であった ・オルガンティーノの推測としては、この召喚の目的は、北条征伐に送り、亡きものにしようと の悪だくみと捉えている 右近は召喚を受けても断るであろうと推測している ・また、北条征伐は避けて通れない状況である事を伝えている (北条征伐:1589年秀吉北条氏に上洛を要求 1590年1月宣戦布告~同年7月和平開城) (上記の資料から解る事) ・この時点では、右近の所在は、様々の人に正確に伝わっており、都では右近の処遇をどう するか、問題となっていた事がわかる 小西の所領替えに伴う九州への移動の際に伝わった のかもしれない そして、何故右近を呼び寄せたのであろうか 恐らく、北条征伐を目前に 控えた秀吉のキリシタン大名に対する対応の軟化のなかで、右近の都への召喚が行われ ていることを斟酌すると、その目的は次のように理解することが出来るのではないだろうか 恐らく、北条征伐、朝鮮・支那出兵を控え、国内、特に九州の不安定要素を除去しておく 必要があると認識したからだと思います 右近もこれ以上の潜伏は他のキリシタン大名に悪影響を与えると判断したのであろう 以上の事柄を推測させる次のような資料があります (完訳日本史③ P257~) ・1588年の都での出来事として、秀吉の命にそむき宣教師を匿っている九州のキリシタン大名 (小西・有馬・大村)が都に赴いた その際、秀吉の責めを覚悟していたが、以外にも、秀吉から 「破格の名誉と歓待」もって臨まれ、・・帰国を命じられた つまり、彼らの領内でのキリシタンの 布教を実質的に容認したかのような対応であった事が記されている (北条征伐に先立って、西国での反乱を恐れた秀吉の対応策か?) (フロイス日本史 5 P28) 秀吉の権威を示すため、1588年5月、諸侯を集めた天皇の即位式と御幸の行事を行ったと その内容が詳細に記されている 恐らく前記の小西・有馬・大村の都訪問は、これに関連して 行われたのであろうそして、この記述の最後に右近の動静について、加賀に行くように命じら れたと記るされている (キリシタン大名と宣教師のネットワーク) ・右近が加賀に行った事、そこでの処遇は最初の頃の情報とは異なる、極めて冷淡なもので あった事、そして、その情報が、コエリヨのもとに伝わっていた事がわかる これは恐らく、右近に関して、秀吉の近くにいる黒田官部衛、小西行長等のキリシタン大名 とが密接に連絡を取り合っていた事を示すものと推測することができる (完訳日本史③ P261) ・「・・黒田官部衛は、暴君(秀吉)の政庁にあって、その側近の一人である 彼はことさら多くの書状を 副管区長(コエリヨ)にしたためているが、彼はカトリックの信仰について慎重でその発言は、大いなる、 比重を有する」と記されており、官部衛が秀吉と宣教師たちとのパイプ役 を果たしていたことがわかる (加賀に行った時期) 以下の資料から、1588年4月以降に行った事は確かであるが、それが何時かということは明確 ではない 私は次の資料から、遅くとも1588年12月までには行ったと思います (完訳日本史⑤ P39 )-1588年の事柄を記述した事項の末尾にフロイスが記述- (右近、秀吉に加賀に行くように命じられる) ・右近は天下の主だった殿から招かれた・・大勢の知友があり、・・秀吉の・・感情は以前より 和らいでいると彼は言っていたので・・右近は都に出発したが・・秀吉は右近を引見しようと はせず、加賀の国に行くように命じた・・それは新たな追法を意味した・・司祭・修道者がいない 、キリシタン集団もいない北の辺境の地 (右近を九州から離す必要性があり、秀吉が一番信頼する人物の所に知行を与え隔離するのが 妥当と考え、加賀前田家に罪人として預けられたのであろう) (完訳日本史③ P262~) ・1588年の出来事として書かれている中の項目の中に、右近が都から6~7日の旅を要する加賀の国 にいると記されている (堺のキリシタン達の話によれば) ・加賀で領主前田利家は、右近に出陣する義務を課することなしに、生経費として 毎年1000表を与えており、彼はその地で平静に、家族と共に満足して過ごしている ・ダリオは妻と共に前田家が領主の越中という別の国に住んでいる 利家は、息子利長の 付き人、後見人としてダリオを付けた 利家はダリオに6000表を与えた(右近は1000表) (4)バテレン追放令後の布教状況 追放令後、一時闇黒の状況が生み出されたが、その中で、信徒の信仰心は鍛えられ、信仰の基盤が 形成されたとされる その後、キリシタン領主を信徒にしそこから布教を拡大していくという装置は、以前 のようには機能させる事は出来なくなった 宣教師側は、表面は秀吉に服従する態度を保った 秀吉は 貿易政策を進める上で、宣教師との全面対決は得策でない事が分かり、迫害は次第に軟化していった このような状況で、迫害は小康状態を保っていった もともと、秀吉は政権内の上級武士の信仰を排除し 、拡大させない事が目的であり、一般庶民の信仰まで固く禁ずるつもりはなかった 追放令後も受洗者 は多く出ており、信徒数は減ってはいない ・1588年度年報(P6~7、P10~11)では次のように記されている (要約) (1588年度年報 1588年2月~1589年2月24日までの出来事 コエリヨから総長宛のもの) ・この時期我等は大いなる不自由な大迫害の時代にあった ・豊後の学院や修練院、都の諸地方の神学校その他多くの修道院や司祭館もろとも破壊され焼かれ た 学院いた者は全て辺鄙な土地に集め、修練院にいた人々を別の場所に配置した 全ての司祭 達は新しい様々な司祭館に分駐した 多くの不便を被ったが精神的には後退を些かも感じず、 むしろ大いなる進歩を遂げたように思われる 苦行や祈祷の回数は増えた ・下の至る所で我等キリシタン宗団の大部分を擁している 司祭修道者が150人以上が分散している 豊後や都の一部は別だが、その他は全て下の諸地方に分散していたので十分な教化を行えるように なり、下のキリシタンにとっては大きな利益となった 昨年から今年にかけて大いなる改宗があった ・都、堺、大坂に所有していた、最も費用がかかっていた修道院や教会は打ち壊された ・危険から逃れるためには一時潰れてしまったかのよう見せかけしかない 自分達の衣装や僧服に 変更を加え、教会の正門を閉鎖し、一部修道院を移転し、居所を変更した 関白はこのような事情 はよく知っていたようだ 我らがこのように振舞うことで知って知らぬふりをしてくれている ・1590年度年報では次のように記している 都地方においては、キリシタン達の熱意と信心は、常に他の信徒全員の誇りとなっていたが、このたび の迫害期にあっても、その過酷な難局にゆるがぬ態度でのぞみ、もってその不屈の精神を大いに証明 してみせた 修道院や教会は破壊され、大黒柱達は自国を奪われ、その結果他の親族たちも悉く 所領を失ってしまったからである そのため彼等の心は、信仰の熱意は失せるどころか、より一層燃え あがるように、信仰はこの試練によって、彼等の心中で一段と力を増したのである 主は、この度の迫害 からも多くの利益を引き出された なぜなら、それらキリシタン達は諸国に散らばって、その評判、信用 、収入においてずっとよい状態におかれている キリシタンの教えはあまねく流布して、福音の信仰は 力を増し、我らが聖なる戒律の名声は改善された この後に小西行長や右近の事が書かれている 結城弥平次などの河内のキリシタンも健在であることが記されている 高槻では、安威シメアンが高槻 の一部を司っている ・1592年10月1日付イエズス会日本年報では、次のように記されている イエズス会員は130名、23の司祭館にて居住、ロレンソ亡くなる、関白による国勢の変化により、大いな る窮地に追い込まれ、以前のように話したり、行動したりする自由はないが、しかし、新たな受洗者は この2年間で1万5千人になると記している この中には行長の娘婿である対馬の国主(宋義智)もいる ①信仰の質の変化、布教の拡大 1588年2月20日付フロイス書簡 【1588年2月 イエズス会の状況】 ・会員総数113人(司祭40人、修道士73人(うち日本人47人)) 神学生73人 ・学院、修練院、二つの神学校、約22の修道院と司祭館 【追放令後の状況】 (宣教師の布教方針) ・伴天連追放令には従わず、司祭修道者は基本的には九州に集結して、日本に残留する事及び 秀吉の怒りをかわないように深く静かに潜行した布教をおこなう事を会議で決めた (信徒の状況) ・何れの布教地区も殉教を覚悟で信仰を守り抜く信徒が多く発生した その筆頭が右近と記されている 信徒の信仰の質は高まり、より確かなものとなった ・ガラシャをはじめとする積極的な改宗者がでた この迫害後も五千人以上が受洗(1588.2.20書簡) 迫害の中、布教が進んだ事の筆頭として、ガラシャ婦人の受洗が特筆されている (彼女の受洗は、夫忠興との関係で、細川家大きな打撃を与えるし、秀吉の一層の迫害を齎す危険性 があったので、小豆島に潜伏するオルンガンティーノ神父は危険を冒して都に立ち戻っている) (ガラシャ婦人ついては多くの事が宣教師の記録に記されている 彼女の扱いは、忠興と秀吉の関係、 追放令に直結する、政治的に慎重さを要する重要問題であった) ・九州は、秀吉の九州征伐後、反キリシタンであった薩摩、肥前の竜造寺、秋月が勢力を大きく そがれ、キリシタン大名であった有馬、大村、大友が勢力を盛り返し、また黒田、小西等の キリシタン大名が九州に新たに領地を与えられ、更には司祭修道士が九州に集中したため、 九州の布教は格段に進んだ (1588年2月フロイス書簡) オルガンティーノ神父は、書簡の中で、信徒の信仰が強められた事を、次のように記しています 【信徒の殉教の覚悟に神父は感激し、神父を励ます事になった】 「8月初め、我等(オルガンティーノ神父)は暴君(秀吉)の残虐に関する尊師(コエリヨ)の書簡を受取り、 これに従って、一切の事を整理し、まずキリシタンを励まし、忍耐を披露し、全員に 告白をさせ、聖体を 授けたが、これは、原始教会の迫害以来かつて見たこともないものと私は思う キリシタンは我等の 主イエズス・キリストへの愛の為め殉教者となることを皆望んでいるが、この動きを見ることは、私が愛 してやまぬところである というのも、このように大きな力があろうとは気がついていなかったし、この例に 励まされて、我等も主イエズス・キリストが望み給うなら強く同じ願を持つものである」 【信徒が教えを良く理解するようになり、一歩進み、殉教の覚悟をもつようになった】 「我等がかくの如く追放されるに至ったことは、これにより諸人が従前よりも我が聖教をよく知り 、この迫害によって我等は一歩進んで皆キリシタンを愛するために死するよう、我等の主が 計らい給い、日本全国がキリシタンになるにいたることを信じるのである 我等がキリストの 愛の ために死すれば、我等の主デウスは最初の教会に与え給うたと同じ基礎を置き給う事は疑いない」 ( 追放令下で、信仰を守るため、信徒が考案した信仰共同体 一種の「組」を組織 ) (完訳日本史③ 63章~69章 中でも注目すべき信仰共同体に関する事項 66章 P282) ・一種の「組」を組織 ・様々の階層、職域のキリシタンが、その中に振り分けられ、グループを作る ・日曜日毎に全員が一軒の家に集合し、長時間にわたって霊魂のためになる行事をして過ごす ・霊的読書、語らい、短い祈りを一緒に行う キリシタンの旧状復帰を祈願 ・復活祭、降誕祭、その他主要な祭日を祝う 四旬節の毎金曜日や聖週間に鞭打ちの苦行 ・教会暦を日本語で印刷 ・都で、こうした組が7~8つできた(婦人は男子と別に、同じ仕方で互いに方法を講じている) ・「組頭」のようなひときわ熱心で献身的なキリシタン ・教義をよく理解し、説教や教理を教える幾人かの盲人が大きな役割を果たしている 毎年多くの人を改宗させている ・これらの頭目の第一人者と看做されるのは加賀にいるジュスト右近殿である ・この信仰共同体の理解の参考となる事項 キリシタンの心(チースリク):ミゼリコルジア、上智大学川村准教授の「コンフラリヤ(民衆共同体)」 【信徒数等の推移 概略 一部未整理】 1587年の秀吉の迫害によって、信徒や教会全体としては、現状が維持された 更に信徒が増加 するのは秀吉が亡くなってからのことと思われる ・1581年 信徒数15万人(1581年度日本年報)大小200の教会、四つの教育機関、10の修道院・司祭館 ・イエズス会員84~85名(司祭32名、日本人修道士20名など)同宿100名、雑役小者・看坊300名 合計500名 ・1587年秀吉の禁教令前 信徒数は20万人、教会は200、イエズス会修道院・教会施設は22を数えた(日本キリスト教史) ・1592年 信徒数21万7千5百人、教会207 ・1603年1月の状況 ・信徒30万人、教会190、イエズス会所有のカーザとレジデンシア21、布教活動従事者 900人(司祭・修道者126人、同宿284名、看坊170名以上、小者330名) ・1614年禁教令の状況 ・信徒数37万人前後と推定 [50万人とする宣教師の報告もある] ・禁教令にもかかわらず、1614年から1626年までの13年間の受洗者はイエズス会 2万人、 フランシスコ会2万6千人以上信徒を獲得と自認している。 (都地区にいたキリシタン武将等の動向) 摂津高槻・河内の重だったキリシタン武士は、小西行長等に召し抱えられた (完訳日本史③第65章) 「修道院・教会の破壊・・当都地方の全キリシタン宗団(高槻・河内)は、右近等のキリシタン武将の移動に 伴って、大規模な離散が行われた ・・キリシタン宗団は消滅しなかったばかりか、このように拡散 する事によって、むしろ、一層広がっていき、我等の聖なる教えの評判は、あらゆる地方において 更に高まった ・・この度の迫害からも大いなる利益を引き出された すなわち・・彼等が行った諸国に種 のようにばらまき植え付けて、・・その結果、彼等は、信仰を守ったのみか、その評判、信用、収入において も、今では一般に当初の頃よりはるかに良い状態を保つ 小西行長は、肥後半国の領主となり、・・彼の 栄進によって、・・右近・・の他、領地を失った(殿)の家臣や親族・・まで浮かび上がった 今では、これらに 人々は、行長の領内で居城や俸禄を得、当初よりもはるかに豊かで落ち着いた身分となった・・行長の父は、 室、小豆島を支配下に置く・・右近は加賀で三ヵ国を有する大名の知遇を受けていいる 右近二万俵、 父ダリオ六千俵の俸禄 右近出陣の義務なし 北条征伐に右近に行く 「・・事実都のキリシタン達 の信心と信仰は極めて強く、これら肥後のキリシタンは実はことごとく都からきた人たちなのである このようにかの肥後国からしばしば多くの男女が司祭達がいる有馬地方や長崎に来て、深い信心を持って、 告白し聖体を拝領した・・」 (1588年度年報) P12~13 九州にキリシタン領主は集められた ・西国の9カ国の大部分はキリシタン領主の手中にある 豊前はシメアン黒田官部衛の領地で、彼は熱烈 なキリシタンで、昔、関白から得ていたのと同様の寵愛を回復しているし、とやかく言われていない 筑後は小原川府秀包の領地で、彼は大友宗麟の娘マセンシアと結婚し共によきキリシタンである 日向の国の半分は、ローマでも知られる伊東マンショの兄弟とともに従兄弟がこれを有する 彼等も キリシタンである 肥前は有馬、大村が領している 彼らには12万を超えるキリシタンがついている 肥後の国に属している天草もそうである 今年にって、肥後半国は小西行長の領地となった 彼は強力な 領主となった 彼は都地方を追放され流浪の身となった重だったキリシタンの貴人を集め、十分な俸禄を 与えた 彼等はこれまでなかったほどの安楽な暮らしを楽しんでいる (1588年度年報) P26~27 秀吉は肥後の国を二つの部分に分かつことを決意した その半分を小西行長に引き渡し、他はかつての 領主に渡した 行長は32万表(16万石)の収入の領主となった このことは都地方の身分あるキリシタン にとって、大きな救いとなった 彼等は追放の身であって土地・財産を失くし異常な悲惨さに耐えていた 行長は彼等を一人残らず自分のもとに収容し、立派な職務と収入を与え、彼等の一部を自らの親類衆とした 親類衆は親戚になり代ってその相談役となる さらに別の一部へは、二千~六千表という厚遇をもって 司令官や名誉職を与えた このような厚遇を受けた者たちのなかには、伊地知文太夫、結城弥平次、 堺のビセンテ、そして右近の親類衆の数人がいる 彼は以上をすべて親類衆として選び出した その人々 は、今やかつてなかったほど裕福になり、しかも生活の便を得ている (民衆の反応) 何れの布教地区でも同情と憐れみをもって受け止められた 民衆からの大きな迫害、略奪、 放火は無かった (主なキリシタン武将の対応) ・秀吉には表面は恭順を装ったものの、個人の信仰心は何れも守られていた ≪小西行長≫ 小西行長は最初は冷淡であったが、オルガンティーノ神父と出会ってからは、キリシタンのために 大いに助けてくれている 同神父、2人の修道士、右近とその家族、その他のキリシタン武士と その親族、一緒に追放された家臣等を匿ってくれたほか、結城ジョルジュ弥平次の生活を支え、 また、迫害のためそこに隠れ住んいるその他の武士を支えるための土地を与えた 秀吉の近くで可愛がられているので、必要に応じて事態を取り繕ってくれている ≪黒田官部衛≫ ・豊前一国を領する領主で、彼も少なからぬ強さと価値を示した 秀吉は彼には転向を迫らなかっ たが、キリシタンであったので様々の批判をし、秀吉は当初考えていた領地は与えなかった それにもかかわらず、常に強く信仰固く、もし、そのキリシタン信仰に少しでも弱さを示したら、 前に決めていた所を与えていたであろう 秀吉は彼がキリシタンになったので悪口を言ってたが 今回の戦で大いに働き、功績を上げた事を認めていた 今はキリシタンであるため彼を好みは しなかったが、彼に与えた所領はそのままにしていた この全ての過程において、彼は、信仰に ついて心が堅固で、司祭達と話し、度々書状を出し、そのなすべき事について様々の助言をし、 キリシタン宗門のために死ぬ用意がある事を示した (1588年2月20日年報) ・副管区長にこう忠告した 伴天連たちはこれまでのところ日本から追放されていないのだから、 配下の伴天連達は出来る限りしっかりと自重せしめ隠匿しておかれるように努められるがよい 全ては関白が司祭達とキリシタン宗団に対して最大限の猛烈さを以て突然の怒りを発する 事のないようにするためである (1588年度年報 P26) ・都の教会や修道院はことごとく焼き払われたが踏みとどまったキリシタン達は信仰を維持し続けた 関白が召し抱えている腹心の諸候達の幾人かの好意が重きをなしている どんなときでも人一倍 好意を示しているのはシメアン官部衛である(1589年度年報) ・黒田官部衛は、教名をシメアンと称し、彼は、キリシタンになった後、豊前にいた頃短期間で おびただしい数の改宗を実現した 現在豊前国領主の息子がキリシタンとなり、官部衛は豊後の 領主である 更に筑後の相当部分の領主である毛利秀包、その他多くの武将が改宗したので、 やがて、多大の成果をもたらすであろう いうまでもなく官部衛は熱心な信仰の持ち主で、好機が あれば、この度の坂東の戦(北条攻め)において、大いに名声を高めた・・ (完訳日本史③第65章 1590年頃) ・官部衛は何時も秀吉の政権の内部にあって、追放令後の潜伏期間中、九州にいる副管区長と 連絡をとりあい、秀吉に対しどのような対応が最適か連絡相談し合っていた また、巡察師ヴァリニア-ノ神父の第二次巡察に際しては、秀吉との会見に実現に尽力した 彼は政治の世界でキリシタンを守るため尽力した 最後まで信仰を捨てることはなかった ≪有馬、大村≫ (完訳日本史③第64章P258) 「関白が、全ての司祭と修道士の日本追放を明らかに命じているにもかかわらず、小西、有馬、大村らの 諸候は、その命令を無視し、懲罰を恐れることもなく、司祭修道士たちを公然と領内に居住させ、教会を 建て、十字架を顕示してきたし、我等の教会には常に大勢の人々が様々の教会の儀式に参列しており、 キリシタン信仰の営みや、異教徒たちに対する頻繁な受洗が行われているからである」 (蒙った損害) ・日本で極めて有効であった改宗を促す装置、すなわち、「頭(領主)を改宗させる」ということが難し くなった これまでの「頭」を取り込み、家臣・領民を改宗していくという装置が機能しなくなった 既に受洗している多くのキリシタン大名も領地での積極的な布教が難しくなった ・各地に在った修道院・教会が機能しなくなった 豊後の修練院・学院・司祭館・教会が 破壊、伊予・下関・山口の新しい司祭館を失う 日本中で最良のものであった大坂・堺・都の修道院 も失った 大きな経済的損失を伴った ・都の教会・修道院は解体し淀城に運ぶ、堺の修道院、大阪の教会・修道院も同じようにする事を 命令された ②巡察師ヴァリニャ-ノ神父の第二次巡察とそこで示された右近の心情 第二次巡察は、イエズス会トップと秀吉の追放令後の言わば「手打ち式」のような性格で、実質的に 宣教師の日本滞在を認めさせる事になった 右近は、都で巡察師と合い、その胸の内を明かしている どのような気持で、これまで秀吉と関わっていたのか それを推測させる場面がある 【1591年第二次巡察】(1590~1592) ・1590年、遣欧少年使節と共に再び来日し、秀吉の伴天連追放令後の布教体制を整える (遣欧少年使節の役割) ・日本の福音宣教の重要性をスペイン王、バチカンに認識させ、財政援助を取り付けた 日本が単なる布教地区から準管区→管区(1608年)になる「きっかけ」となった (第二次訪問の意義) バテレン追放令を撤回させる事は出来なかったが、貿易継続のため10名の司祭の長崎残留が 認められ、これ以降、実質的に追放令が緩められていった 約130名のイエズス会宣教師は 日本に残留し、宣教師の日本滞在を既成事実化し、恒常化させることとなった [経 過] ・1587年7月24日バテレン追放令 ・1588年8月11日 巡察師・遣欧少年使節マカオ到着 バテレン追放令を知る ・1590年7月21日 巡察師・遣欧少年使節、長崎到着 (日本史では7月18日長崎入港) ・1590年11月上旬[10月末] 長崎出立 11月下旬に室津に着く 秀吉の会見の招待がないので、室津で2カ月を超える滞在 黒田官部衛の献身的努力により、五奉行の一人、増田右衛門が秀吉との仲介の労をとり、条件付きで 秀吉は会見を承諾する (フロイス日本史 5 24章) ・1590年12月3日 秀吉朝鮮国使節を聚楽第で引見 約300名の使節団 ・1591年1月25日 巡察師都に上ってもよいと知らされる ・1591年2月17日 都に行くべく 室津を出立(秀吉の許可) ・1591年2月19日 大阪着 2月23日淀川を船で都へ ・1591年3月3日 京都聚第で秀吉と会見 長崎に10名に宣教師滞在を許可 都に22日滞在 3月16日奈良、3月25日都から下へ ・1591年11月10日 秀吉諸大名に朝鮮渡海を命じる ・1592年2月10日 秀吉太閤、関白の座を秀次に譲る ・1592年2月3日~14日 日本イエズス会管区総会議 ・1592年2月17日 インド管区長ペドロ・マルチネス神父が第二代日本管区長 ・1592年5月23日秀吉:朝鮮出兵 行長釜山上陸 ・1592年6月5日 秀吉、名護屋城に入る 6月12日 行長京城に入る ・1592年9月1日 副王宛ての秀吉書簡作成 ・1592年10月9日 巡察師長崎を発つ ゴアへ [バテレン追放令下での宣教方針の協議会開催] ・1590年8月13日 第二回協議会 上長23名が出席 日本人修道士10名(第一回1580年) 8月25日まで開催 11月5日に14の事項について巡察師裁可 (長崎の裁治権、財政問題、日本に対する適応化、宣教師の日本語学習) (長崎に集積されていた武器・軍需品の処分、砲弾はマカオへ) ・1592年2月3日~14日 日本イエズス会管区総会議を長崎で開催 12名の古参の司祭が参加 43の事項について協議 日本管区独立の要請をする事で一致 【第二次巡察を記す資料】 ①完訳日本史⑪ 86章 ・1590年7月18日 バリニャーノ巡察師と4人の遣欧少年使節の帰国 長崎に定航船入港 同じ頃、ジャンク船で中国から司祭12人、修道士4人も来日 ・本年のイエズス会員数は140人(司祭47人、他は修道士) ・遣欧少年使節 千々石(ドン・ミゲル):航海中終始病んでいた 病床にある 晴信見舞う 海外の事情を聞く 伊藤(ドン・マンショ)、原(ドン・マルティノ)、中浦(ドン・ジュリアン) 使節の一行は、8年前に日本を出発した時よりも多いに成長容貌が変わっていたので、互いに 見わけがつかない程であった 人々は、彼らから多くの事を聞き、感銘を受け、ローマ教会の権威とキリシタンの宗門について 新たな考えを抱くようになった 多数の楽器の様々ぼ演奏 協和音、相応性に、人々は驚嘆した 有馬を訪ねた巡察師・4人の少年使節を、晴信は、新たな屋敷で歓待した 3日留まった ・巡察師、加津佐に赴き、学院、神学校、修道院、司祭館の上長達が集合し、協議会を開催 重要、かつ有益な諸事を評議し決定した (第二回協議会) 13日が費やされ、毎日6時間を会議に宛てた この会議中、4人の少年達は、有馬で大歓迎を受けた 有馬領内では、7296人の受洗者 ②完訳日本史⑤ 23章~30章 巡察師が長崎→室→大阪→都へ行くまでの出来事や秀吉と会見などが記されている この時、秀吉は北条征伐の和平交渉の最終段階で、日本を手中に収め、朝鮮遠征出兵の準備を、 していた 秀吉は最初巡察師の来日を歓迎していたようであるが、秀吉はその訪問の目的に疑念 を持ち始めた そこで、黒田官兵衛・小西行長等の忠告により、外交使節インド副王としての秀吉 との会見という形を整え、できるだけ賑わしく、贈り物を持って行くことにした 定航船でやってきたポルトガル人11~12名とその従者、遣欧少年使節4人、その他で22名 で、構成し、司祭修道者はできるだけ少なめにした ③完訳日本史③ 66章 巡察師が22日滞在した都での出来事を記している 多くの信徒が遠方からも絶え間なく巡察師のもと に訪れた事、都地方にあった多数の教会や修道院は跡かたもなくなっている事、官部衛・秀次・利長 ・蒲生氏郷等と巡察師が合った事、「キリシタンが考案した迫害下で信仰を守るための方法(信徒の 組織)が構築され、その頭は右近である事」、右近は加賀で3万2千俵、ダリオは6千俵の俸禄を得 ている事、ダリオは60歳を超える身で2度も死にかけながら都にやってきて、巡察師が都に留まって 入る間、都にいた事、高槻の地では幾つかの村落が根気強く信仰を保持している事、追放令下の 離散したキリシタン宗団の信仰維持に小西行長とその父が大きな貢献をしている事、追放され離散 したキリシタン(武士)は、他の多くの主君に奉仕し、全員が共通して、以前にもまさる俸禄を得ている 事など、迫害下の興味深いことが記されている ④フ完訳日本史⑫ 94章 ・都に22日滞在 →大阪に向かう 8日滞在→平戸・長崎・加津佐 ・オルガンティーノ、ジョアン・ロドリゲス修道士(通訳)が、秀吉の返書に関する用件のため 残留した(ロドリゲスは通訳として公然として、オルガンティーノは隠れるようにして留まった) ・オルガンティーノは、返書の用件が済み、ロドリゲスも去ってからも、信徒が提供した隠れ家に 身を潜めた (秀吉の憤りを心配しながら) ・巡察師は、大阪から海路で、平戸に僅かの日数で着いた ・平戸に3日滞在、長崎に行く そして学院があった加津佐に赴いた ⑤1591、1592年度年報 基本的には、①~④の日本史と同じ内容が記されている 右近について次のような事が記されている ・我等の主なるデウスは、こうした組織(信仰を守るための一種の組)を永続させるために、各組織にひときわ 熱心なキリシタンをあてがい給うた ・・これらの頭目の第一人者と看做されるのは、加賀にいるジュスト 右近殿である 殿は危険や損得を無視して精神的にだけでなく物質的な援助によって、貧しい人々を 助けた そして、巡察師が都に滞在している間は殿は決してその側を離れようとはしなかった ・ジュストの父、越中国のダリオも同様に振舞った 彼は巡察師が都に到着した事を知ると、60歳を超える 身で真冬の大雪の降りしきる中を、50里以上もの遠方からはるばる都にやって来て、巡察師が都にいる 間都に留まった 【右近の心情】 完訳日本史⑤第25章(P84~)に記されている この25章は、巡察師が室を出発して、大阪に上陸し、そこから都に向かい、秀吉に会見するまでの 出来事が記されている 【高槻・三箇の状況】 ・巡察師が大阪に来ると高槻や三箇の離散したキリシタン集団の名残として各地に生存する多数 のキリシタンがきて、告白し、列は終日、真夜中まで続いた 彼等は異教徒から痛ましい迫害と 侮辱を加えられていたので、大きい希望と歓喜を抱いて会いに来たのであった ・キリシタン領主は移動・追放された結果、以前共に生活したキリシタンは分散させられ貧しくなり、 生計を求めて各地に離散し、もとの領地には下層の者が残り、憐憫の情に耐えぬものがあった 農民のあるものは死に、ある者は迫害され憔悴し、ある者は離散した僅かばかりの者が異教徒 の間に留まっていた 特に、婦人たちはひどく哀れな状態にあった 右近や三箇の殿の領地は、まるで荒れ果て、・・荒涼とした無人の地を思わせた (高槻領の農民) -山間部のキリシタンか- ・しかし、高槻の農民からなる幾つかのキリシタン集落では、団結して信仰を守る有様に接した 領主は耕作する民を失うことを恐れ放任した。 高槻の領民は、多数、隊をなして訪れた。 高槻には二人のリーダー(説教師ジョウチン、堺で癩病院の世話をしているロケ)がおり、領主は 二人を棄教させれば他の信徒は屈服すると考え、二人を磔刑に処すと脅したが棄教しなかった ので、これを実行しようとしたが、右近の友人の領主に説得され、中止した 高槻に埋葬された修道士ルイス・アルメイダの墓は破壊され、遺骨はまき散らされた ジョウチンは これを集め、一つの箱に入れて埋めた 巡察師はこれを長崎運ばせ埋葬した ・加賀から出てきた右近は、大阪で巡察師を待ち受ける。(P84~) 右近と巡察師と逢い、心境を吐露する 「俗世を去り、教会または司祭がいるどこかに隠遁したい」) 「巡察師が大阪に着くと、・・ジュスト右近殿がいた 彼は・・加賀の国にいたが、巡察師からの書状 によって、彼の到来を知り、早速オルガンティーノ神父に逢おうとして都に赴いた (右近は)巡察師 は、まだ室にいると思い行こうとしたが同神父はこれを止めた 同神父は、右近の助力を得て・・ 右近の大の友人である黒田官部衛と交渉したが、右近は・・使い走りする若者のように、司祭から 様々の伝言を帯びて行った 彼は、巡察師が大阪につくわずか一時間前に、そこに到着した 巡察師も他の一同も、・・右近と逢って・・喜んだところで右近の胸中に浸潤しているキリシタン精神 と信仰が、いかばかり堅固なものか言葉に尽くしがたい なぜならば彼は何も失いはしなかった のようであり、関白によるこのたびの追放と迫害を通じて彼に与えたもうたキリシタンとしての知見は 非常に優れていたからで、そのことを彼は次のように明白に語った 「すなわち、主なるデウスから受けることができた最大の恩寵の一つは、関白の政庁と交わ らなくてよくなったことである というのは自分が政庁に出入りしていた時には、領主や重臣たち との危険の多い用務や交際のうちになにかと惑わされることがあったので、デウスの御心に障ら ぬよう、出来うる限りの事をしても、自らの霊魂が救われ得るかどうかどうかという点では、常に 大いなる懸念や、危険を感じて過ごしていた しかるに主なるデウスがその政庁との繋がりや 交渉から解放させ給うた今では、デウスに仕え、デウスに身を任せ奉ることができるよう、いっそう の平静さ とより大きい便宜のうちに生活しているからである」と また、その大阪で彼は、この俗世を去り、更に息子を捨てて、教会または、せめても司祭 たちがいるどこかに隠遁したいという自らの希望について巡察師と十分相談した 彼は、これについていとも懸命に司祭に語るところがあったので、巡察師も彼の深い信仰と不屈 の志を知って驚いたほどであった 巡察師は、右近には妻や幼い子供があり、一族・家臣が皆彼に依存している事、まだ40才に 達していない・・事、右近はまだ領主達の間で信望があり尊敬されているので、関白の後を継ぐ 者が取り立ててくれるかもしれないし、そこでデウスのために尽くす事になるかもしれない事等 を理由に、反対した 右近はこの事に大いに抗弁するところがあったけれども、この問題に ついては、巡察師の決定に従う決意であったので、その決意通りにした それというのも、彼は そのためにこそ、久しい間、巡察師に逢うことを渇望していたと述べていたのであった (この頃の右近の状況を記す資料) [1590年の年報] 1589年~1590年10月までの出来事 P181~082 ・天の善意が・・右近の場合・・・加賀の国主のもとで恩恵を受けるように取り計られた 関白殿の命令で、年4万俵の俸禄が彼に与えられ、しかも何一つ責務を負っていない 関白殿は彼に対する寵愛を取り戻そうとしているとみなされている 確かに彼は城も兵士も持っていないが、それでも もっと快適で豊かな状態にある 前田家の長男は受洗したくて仕方がない様子で、司祭の派遣を求めている (私 見) この頃の右近の取り巻く状況は、右近も前田家家臣として参戦した秀吉の北条攻めが終わり、 国内的には安定した時期で、朝鮮出兵する前であった 伴天連追放令後の布教環境も落ち着き 、巡察師と秀吉の会見が実現し、一定の「手打ち」が出来る状況となった 右近の前田家における 立場も安定した時期に入った 北条征伐に関わった事によって、前田家内部での信用を高め、 客将としての地位を築き、俸禄も高くなり、1590年の年報では「もっとも快適で豊かな状態にある」 と記している 従って、村重や伴天連追放令直後のような緊迫した中での発言でないので、余り 注目されないかもしれないが、この安定した時期だかこそ、日頃キリシタンとしてかくありたいと 願っていた修道者としての生き方が実現できると考えたのではないだろうか 長男(16~20才)に 家督を譲って、父ダリオがしたように、キリシタンの信仰に専心したいと考えたのではないだろうか 秀吉の天下取りの戦のなかで、右近は、「出来うる限りの事をしても、自らの霊魂が救われ得るか どうかという点では、常に大いなる懸念や、危険を感じて過ごしていた」わけで、恐らく 自分があるべきキリシタンとしての生き方と現実の深刻な乖離に悩まされてきたのであろう それは、右近の信仰心が極めて高いところにあるが故の深刻な悩みであった 「清の病」と言われる 程の右近は、永遠の命がパライゾに迎えられるには聊かの曇りも許す事が出来なかったのであろう もうこのような思いはしたくないと固く決意したからこそ、「隠遁」したいと語ったのだと思う そして、私は、この「隠遁」という言葉から、右近が追放令後九州の島原に行き、次のような生活を をしていた事を想起するがどうであろうか (有家に数日間滞在 心霊修行) ・・当時の修練院が置かれていた有家に赴いた そこで彼は数日間ある質素な家に身を寄せ心霊 修行にいそしみ、その間に総告白をした そうした行為は、司祭修道士に深い感銘を与え、彼の 謙遜と応接ぶりは彼らを魅了した 彼は心霊修行を終えて出てくると、あたかも修練生の一人で あるかのように厠の掃除・・庭を掃いたりして過ごしていた また、茶室で黙想に励む右近の姿も想起します (茶人としての右近) 加賀での右近は、茶人として高く評価され茶道に専心したと言われている 「高山ユストは、この芸道で日本における第1人者であり、そのように厚く尊敬されていて、この道 に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄が修徳と潜心(道徳と隠遁:浜口乃ニ雄訳)の ために大きな助けとなるとわかったとよく言っていた・・・・それ故、デウスにすがるために一つの 肖像をかの小家において、そこに閉じこもったが、そこでは彼の身についていた習慣によって、 デウスにすがるために落ち着いて潜心(隠退:浜口訳)することができたと語っていた・・・ 」 (日本教会史ジョアン・ロドリゲス) 私は、この文章から、霊操に励む、観想修道者のような姿を右近に感じるがどうでしょうか そして、「隠遁」と「潜心」とは、ほぼ同じ意味で使われており、これは心霊修行ではないか 高齢になって「隠居」するという意味では、全くないと思う 右近のこの世におけるキリシタンとして としての生き方を表現するものであった 観想修道者のような生き方を理想としたのかもしれない しかし、右近を取り巻く環境はそれを許さなかった マニラに追放されるまで、在俗のキリシタンと して、権力の近いところで、柱石である事を求められ続けた その頸木は、彼が高い本物の信仰心を求めるキリシタンであるが故に生じたもので、マニラに 追放され、殉教するまで解かれることはなかった ③ 26聖人の殉教と右近 「今こそ、神の御慈悲が私の上に表れ、オルガンティーノ神父と共に殉教者になる」と 「殉教」の覚悟を示しています 1596年 26聖人殉教と右近 (資料 日本26聖人殉教記フロイス 第10章) (背景:スペイン船サン・フェリペ号事件) ・秀吉は、スペインの統治下にあったマニラに入貢・服属を要求した。 ・秀吉の要請で来日したマニラのスペイン総督の使節フランシスコ会士が、秀吉により禁止されて いた布教活動(修道院・教会建設・病院・布教)を都で公然と行った。 (これまで、教皇により認められてきたポルトガル:イエズス会による日本での布教に、スペイン系 のイエズス会士・他の修道会との軋轢が日本に持ち込まれた。) その後、フランシスコ会士は増加し、ポルトガルの司教が来日しますます軋轢は ひどくなった。 (恐らく、イエズス会は、秀吉を怒らさぬように深く潜行した布教が基本であったので、秀吉から 布教許可を得たと思ったフランシスコ会の布教活動に、危うさを感じたのかもしれない また、 日本での布教はイエズス会が行う事が必要との布教方針にも問題があったのかもしれない いずれにしても、「伴天連追放令」は生きていたわけで、秀吉の怒りを買えば、曖昧な布教 環境は激変する事を示している 日本26聖人殉教録第1章に詳しく記されている) ・このような状況下で、スペイン船サン・フェリペ号が土佐に漂着し、その際に行われた尋問で 「スペインの領土的野心」があるとの報告が秀吉になされ、秀吉は激怒した ・秀吉はこれらのことに対し、バテレン追放令違反として、フランシスコ会士等の逮捕を命じ、 26名を長崎で処刑した。(1861年、1862年列福) (右近の対応) ・当初、右近も拘束対象の名簿の筆頭に記載されていた ・右近は京都で、秀吉が神父の処刑を命じた事の知らせを、オルガンティーノ神父の使いの イルマンから受け、自分も殉教できると非常に喜び、次のように言った 「今こそ、神の御慈悲が私の上に表れ、オルガンティーノ神父と共に殉教者になる」 (ここに小豆島の潜伏生活を共にした神父と右近は、共に殉教の覚悟をした事が伺われる) 死を迎える覚悟をし、茶器を持って、都から伏見にいる主君前田利家に別れの挨拶に行った。 そこで、処刑の対象にはイエズス会はなっていないので、心配する事はないと言われた事に対し 右近は、「もし王の前でイエズス会と修道者の区別があるかどうか、私はそれについて何も言わな が、私は数回修道者の家にその教えを聞きに出かけて、彼等の教えが私に受けたそれと同じ ものか否かと確かめ、全く同じだとわかった しかし、幾分疑問が残る それは私が殿の家臣で ある故に多分、安心させようとそのようにいわれているのではないかということである」と言った 右近はこの事聞き都へ帰ったが安心していなかった (利家は秀吉が怒ったその場にいたそうです) また、イエズス会のイルマン・パウロ三木とその二人の同宿を救出すべく、石田光成のアドバイス に基づき、右近や前田玄以の息子達が発起人となって、大阪奉行と交渉(賄賂)しようとしたが、 オルガンティーノ神父はキリシタンのつまずきを与えることになるのでしてはならいと厳しく禁じた これで、・・日本で最も優秀な説教師が死ぬことは神の御旨と悟った (日本26聖人殉教録 第20章 P158 P248) ・(殉教者となる好機を逃さないため)高槻の山から数多くのキリシタンがかけつけた ・高槻山のキリシタンはミヤコで起こったことを聞いて全員その教会に集まり、男女、子供等が死ぬ 準備をしていた 内に進軍など) 回答があった いなる喜びで わらなかった 瞬間であった は勝利である 繋がるのでは は人を誤ら シタン勢力を、 思わないが、 日)と記述 再認識した し、朝鮮・支那 付覚朱印状] からの意見を ピタン・モール 私は、それは 心配しており、 が聡明、勇敢 事情を次の は人を誤ら 対する政治的 良きキリシタン た事が伺える の失っている 所にある行長 、更に迫害が 初代 になっていた。 この度の迫害 維持し続けた
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