食べ物という遺伝子

2015.12.5
東北大学
飲食詩集出版記念ブックコンサート
食べ物という遺伝子
クァク・ヒョファン
郭 孝 桓 (詩人、大山文化財団常務)
1.
日本の東北地域の中心、仙台の東北大学を訪問することになり、とてもうれしく思いま
キム・ギリム
す。東北大学は、韓国近代史にモダニズムを代表する詩人であり評論家でもある金起林が
修学したところとして、私にとっては格別に記憶しているところです。
キム・ギリム
金起林は 1930 年代英米イマジズムと主知主義を導入し、韓国近代詩史に大きな転換点を
もたらしました。彼は科学的方法に依拠した詩学の確立、自然発生的ではない意識的な製
作方法によって組織された詩、感傷主義を克服したイメージと知性を強調した詩を書いた
詩人であり、文学理論を確立した評論家でした。
私が注目したのは、近代化と物質文明の発展を肯定的に見て、これを明朗に表現するこ
とを主張した彼の「午前の詩論」が臨画をはじめとする KAPF(朝鮮プロレタリア芸術家
キム・ギリム
同盟)陣営から過剰な技巧主義に傾斜したという批判を受けた金起林が、この場所で修学
しながら再び自身の文学を再確立したものと考えたからです。すでに 1930 年日本大学文学
芸術科を卒業していた彼が再び 1939 年に東北大学英文科を卒業し、同年 10 月に『人文評
キム・ギリム
論』に発表した文章が「モダニズムの歴史的位置」です。この文章で金起林は、モダニズ
ムは感傷主義と理念志向主義という二つの否定を準備しているとし、新しい道でモダニズ
ムと社会性の総合を提示しました。彼は卓越した作品は最上のモダニズムが相互補完的な
出会いとして実現するというモダニズムとリアリズムの会通を早期に見極めた先駆的な慧
眼にほかなりません。
キム・ギリム
私は、批判を受容して新しい方向を探す金起林の開かれた文学態度が、この場所で修学
しながら培われたものと考え、その痕跡をじっくりとたどってみたいという思いで、招請
に喜んで応じました。
2.
今日は 2013 年、韓国詩人協会が企画して編纂した食べ物の詩集『詩で風味を添えた幸せ
な私たちの韓国料理』の日本語翻訳版である『飲食のくにではビビムパブが民主主義だ―
おいしい詩を添えて』の出版を記念して開かれた場です。この韓国版詩集は私が詩人協会
シン・ダルジャ
会長団の一員として会長の愼 達子 詩人の要請を受けて企画に参加した詩集であるため、感
慨が特別です。
今日、本格的な話をするのに先立ち、韓国人と韓国の詩人らが最も愛する詩人のうちの
ベク・ソク
一人である白 石 の詩を一つ、先に紹介しようと思います。
1
雪がたくさん降って
山の鳥は野原に降りてきて
雪の穴に
ウサギが落ちでもすれば
村に なにかうれしいことがやって来ると思い
ひまな子たちは
暗くなるまでキジ狩りをして
貧しい母さんは
夜中
キムチの置き場に行き
村を おいしい楽しみに包んで
ひそかに浮き浮きしながら
あれが
来るよ
あれは
日なたか日かげにぽつんとある山の畑から
一晩中ぼうっと白い湯気の中
皿の牛脂の明かりがぼうっと灯る台所に
シマヘビみたいに
来るよ
あれは
麺が出て
遥かのむかし
のんびり楽しかった日々から
糸のような春の雨の中を過ぎ
燃えるような夏の日差しを過ぎ
すこし甘ったるい九月十月の南西風の中
を過ぎて
子々孫々生まれては死に
死んでは生まれつづけるこの村の人びとの鷹揚な心を過ぎ
悠然たる夢を過ぎ
て
屋根に
庭に
井戸のへりの小高い場所に
父さんの前に
盛られて
あれは
幼い子どもの前に
ぼたん雪が積もってゆく夜
父の前には大きなうつわに
来るよ
熊に背負われて大きくなったという
藁敷きの席に立ち
くしゃみをすると
遠いむかしのお祖父さんが来るように
ああ、この
子どもの前には小さなうつわにうず高く
うれしいものは
山を越えた村まで聞こえたという
来るよ
何か
この 白っぽく
やわらかく
冬の晩
トンチミ汁を好きだと
凍った
遠いむかしのお祖母さんが来るように
地味で
退屈なものは
何か
ひりひり辛い唐辛子を好きだと
みずみずしい山キジの肉が好
きだと
そうして
タバコのにおい
酢のにおい
けものの肉を煮るにおいもうもうと立ち込める
ほかほか熱いオンドルの焚口を好きだという
この
しずかな村と
この
かぎりなく枯淡で素朴なものは
これは
葦敷きの部屋
何か
この村の鷹揚な人びとと暮らしに親しいものは
何か
何か
この詩は 1930 年代中後期、韓国詩壇を代表する「貧しく、孤独に、高く、寂しく」生き
ベク・ソク
ピョンヤン
た詩人である白 石 が 1941 年 4 月『文章』誌に発表した『グクス(麺)』です。 平 壌 冷麺を
2
ベク・ソク
指す『グクス』は食べ物の名前を詩のタイトルにした白 石 の唯一の詩であり、韓国近代史
において初めて単一の食べ物を一つの素材にして書いたものではないかと思います。
この詩は雪がたくさん降っているめでたい日に、懐かしく嬉しいもの、つまりグクスを
迎えるとしています。母親が夜中に、冬にキムチを埋めておいた穴蔵であるキムチガジェ
ミに、トンチミ汁を汲むために足を運ぶところからグクス作りは始まります。詩人は村を
おいしそうな楽しみで包みうきうきさせる、グクスが作られる過程と、ずっと昔からグク
スを食べてきた村人たちの由来を長く説明しています。父と息子の前に置かれたどんぶり
に入ったこの「嬉しくて白くて柔らかくて、地味で味の薄い」ものは、山辺の畑で永年培
った蕎麦をとってきて、台所で製麵機に入れたものであり、また、長い年月の間、この村
に代々暮らしてきた人たちの伝統料理でもあり、それはおじいさんとおばあさんが来るの
と同じことなのです。お酢の匂いがするトンチミと牛肉を煮たスープを混ぜた汁に、唐辛
子の粉とキジ肉が入った麺は「静かな村と村のしっかりした人々」と長い間ともにしてき
た歴史性を持っているのです。 したがって、麺と村と村人たちは「枯淡で素朴」な特性を
ベク・ソク
共有しています。白 石 は冬の日に、オンドルの焚き口に近い場所で、ざくざくした氷トン
チミ汁に入ったグクスを食べる過程を、一個人の食べる楽しみに限定することなく、村と
村人たちのそれに広げ、ひいては土俗の食べ物を通じてその国の歴史性と民族の本来の心
にまで拡張しているのです。
キム・ギリム
ベク・ソク
かつて金起林は、1937 年白 石 が最初の詩集『鹿』を上梓した際に、「詩集『鹿』の世界
はその詩人の記憶の中にうずくまっている童話と伝説の国だ。そしてその中で、実に偽り
のない郷士の顔が、表情をみせている。それなのに私たちはそこでいかなる回想的な感傷
主義にも、吹いてくる復古主義にも出会うことなく、この上なく愉快だ。 (中略)その点で
『鹿』はその外観の徹底した郷土趣味にもかかわらず、無定見な一連の郷土主義とは明瞭
に区別されるモダニティを抱いているのだ1。
」という評価で、
「薄緑色のダブルブレスト(ボ
タンが二列になった上着やコート)」を着て「寒帯の海の波」を連想させる黒いウェーブの
カンファムン
ベク・ソク
かかった髪を翻し、光化門交差点を渡る青年詩人・白 石 が成し遂げたモダニズムを賞賛し
たことがあります。
ベク・ソク
ブッパン
白 石 の詩集『鹿』は、辛く苦しい時代に理想的共同体の空間としての始原の北方マウル
(村)を再構し回復しようとする努力として読むことができ、その後の詩の世界も『鹿』の混
在と反復、そして多様な変奏で見ることができます。詩集『鹿』には幼年の話者が登場し、
ブッパン
現在形で和解的で暖かい故郷、北方マウルに対する記憶と懐かしさなどを透明に描いてい
ます。植民地時代の暗鬱で疲弊した現実に詩人は一次的に生まれ育ち、幼年期を送った故
ピョンアンブット
ブッパン
郷である平安北道(北朝鮮の北西部海岸を占める道)の北方マウルを再構していますが、究極
的には和解的で平和な一つの理想空間を復元しているのです。
1
金起林(キム・ギリム)「『鹿』を読んで―白石(ベク・ソク)詩集 読後感」朝鮮日報 1936.1.29
3
ベク・ソク
ピョンアンブット
白 石 はこのイデアの世界を作るために、二つの装置を使用しています。平安北道の方言
と、食べ物に関する詩語です。
ブッパン
詩集『鹿』の方言は、幼年の話者が幼年の言語で幼年の体験が盛り込まれた北方マウル
の土俗的な生活と風俗などを表現する際に使われており、これを通じて理想空間としての
ブッパン
北方マウルは具体的に生き生きと、美しく平和な空間として再構されます。故郷のなまり
は昔から親密な雰囲気をとてもよく作り出すだけでなく、故郷のなまりが持つ特殊な話し
声のイントネーションは幼い時代の雰囲気を再び呼び起こすので、一度も会ったことのな
い見ず知らずの人をも共感させる、というドイツの哲学者ボルノウ(Bollnow)の言葉がある
ように、故郷の言葉は親しみやすく平和な空間を再構するのに非常に効果的な手段にほか
なりません。方言はそれを共有する集団、つまり言語共同体の結合を促進して凝集力を強
化させる作用をするからです。
ベク・ソク
白 石 の詩に無数にあふれ出る食べ物に関する詩語もまた、非常に効果的です。 解放空間
ベク・ソク
まで発表した白 石 の詩 95 篇のうち 67 篇にわたって現われた食べ物は種類も 150 種あまり
に達するほどで、全編にわたって持続的に現れます。食べ物は『鹿』の詩篇では理想空間
ブッパン
としての北方マウルの平和で暖かい生活を生き生きと再構する役割をしますが、以後、紀
行詩では立った旅行先の特性を把握して定義する方法で、そして流浪詩篇では旅先での郷
ベク・ソク
愁を呼び起こしたり、旅愁を慰めたりする方法で現れます。これは白 石 の詩の世界が、観
念的で形而上学的なものではなく、生活に密着したイデアの世界を志向していることを意
味するのです。
3.
詩集『詩で風味を添えた幸せな私たちの韓国料理』で私が最初に書きたいと思った食べ
物は、コドゥルペギキムチ(イヌヤフシソウキムチ)でした。私が覚えている一番おいしい
ジョルラ ブ ッ ト
ジョンジュ
食べ物の一つがイヌヤフシソウキムチだからです。私は全羅北道の全 州 というところで生
まれ、幼年時代をそこで過ごしました。私の祖父は、誰もが貧しかった農村で、唯一お金
を儲けることができた、蚕業を総括する全羅北道蚕業検査所の所長を務めていました。蚕
を運ぶための大きな竹の箱でお金を運ぶほど、蚕業検査所にはお金と人が溢れたそうです。
しかし、残念ながら私の記憶は祖父の全盛期ではなく、彼が退職後に全州市の町外れに建
ハ ノ ク
てた、広い畑と庭のある大ぶりの改良韓屋から始まります。
拙詩『私の幼年、女性たちの家』に示したように、その家は「女性たちの家」でした。
公務員時代に出入りしていた麻雀屋を戦々恐々と回っていた祖父(祖父は、現職の時は麻雀
屋でかなり儲けたが、退職後は結構なお金を失い、結局は、数十年の公務員生活の結実だ
った改良韓屋も賭博の借金を返すのに使ってしまった)と、軍人になりたがっていたものの
一人息子であることを理由に引き止めたまわりの人々のせいで夢を実現できず、外でさす
らうばかりだった父は、いつも家にいませんでした。広い板の間と庭と甕台、そして菜園
をこまめに行き来する祖母とその後を影のようについていく母、小説や雑誌を脇に抱え、
4
果樹園の道を回って裏山に登っていた年配のおばたち、そして姉。この女性たちの家で私
の唯一の友は一日中後をちょろちょろと付きまとってきた駄犬のゴムドゥンイ(日本語で
「クロ」の意味)でした。また、家族の中で唯一の男だった私をねこかわいがりしていた
祖母の愛は相当なものでした。
母には特に厳しかったけれど、口才で人の物真似が得意だった祖母は、幼い私にとって
は生きた物語本であり、他の家族たちには内緒で腰に下げた巾着を開いては小銭を握らせ
てくれた、限りなく慈しみ深い人でした。男たちのいない家で祖母とともにしていた食卓
に上がった多くの食べ物のうち、とりわけ記憶に残るのが祖母の手作りのイヌヤフシソウ
キムチです。
イヌヤフシソウは全羅道の山脚や畦、道端で多くみられるものであり、苦菜とも呼ばれ
ます。イヌヤフシソウは根と葉をすべて食べられますが、キムチを作るためには、まず塩
水に一週間ほど漬け込んで、苦い水を抜いた後、水気を取り除きます。次に、カタクチイ
ワシの塩辛に水を入れて沸かした、カタクチイワシの塩辛汁に唐辛子粉を入れて、みじん
切りしたネギ、ニンニク、ショウガなどを入れて混ぜます。この時、唐辛子の葉っぱや細
いネギや切り干し大根を一緒に入れたりもします。そして、胡麻や栗を千切りにして入れ
れば完成です。材料が貴重で手の込んだイヌヤフシソウキムチは、作ってから一週間くら
い経つとようやく食べ頃になり、時間が経つほどに味が深まります。
祖母はこのように漬けたイヌヤフシソウを、湯気がゆらゆらとたつ炊きたての白いご飯
をすくった私のスプーンの上にわざわざのせてくれたりしました。今でもたまに祖母が作
ってくれた食べ物が思い出されますが、苦かったり渋かったりしながらもやや辛くて酸っ
ぱくて甘い、いや、形容すること自体が難しいですが、ともかく、記憶が生き生きと蘇る
その味を振り返ったりします。それでたまに評判の市場の惣菜の店で買ったり、家で漬け
て食べたりするのですが、記憶の中にある、祖母の手の先から出たその味を再現すること
は容易ではありません。もしかしたら私が覚えているイヌヤフシソウキムチは、祖母とそ
の先祖から代々受け継がれてきた、我が家の遺伝子のようなものなのかもしれません。
このようなイヌヤフシソウキムチについて書きたかったのですが、先輩詩人が先に自ら
サ マ プ
希望したため、次に選んだ食べ物が三合です。ガンギエイの刺身と茹でた豚肉を適当な大
きさに切って、これを古漬けのキムチと一緒に食べるサマプは、イヌヤフシソウキムチと
共に、私の故郷である全羅道地方を代表する土俗料理です。サマプは、ガンギエイの発酵
した程度、肉と脂身が適当に混ざった豚肉の柔らかさと香ばしさ、そして古漬けのキムチ
がよく調和してはじめて味が完成されます。
ジョルラナムド
フクサン ド
サマプに用いられるガンギエイは、主に全羅南道の黒山島沖合で獲れる、エイ科の菱形
の魚です。肉が豊富で風味が香ばしく、骨が柔らかいため、骨ごとこりこりと噛んで食べ
られるガンギエイを、全羅道では発酵させたり乾かしたりと、多様な方法で食べます。
ホ ン オ
ガンギエイをさす「洪魚」はまるで方言の如く、全羅道の人々の情緒とアイデンティテ
ィをつなぐ役割をします(一部の既得権層や極右勢力が全羅道の人たちを卑下するために
5
悪意的に使用することもありますが)。また、ガンギエイの発酵の程度が強まると全羅道の
人はもっとおいしく食べますが、それ以外の地方の人はその独特の臭いと辛い味のために
食べられなかったりもします。
休日の午後
何年か前
小学生の息子が
サマプ食べたいサマプ食べたいとひっきりなしに言う
父方の祖母八十歳の誕生日にはじめて食べたサマプ
なにげなく口のなかに頬張ったときの食感を
幼いころ
思いだしたのか
親父についていくと
きまって立ち寄った
地方の安酒場
ふるびた卓の上に置かれたサマプと
あちこちへこんだマッコリのやかん
この味が分からなきゃぁここの人間じゃないぞ
宴会にこれがなきゃぁ宴会じゃぁないんだ
発酵したガンギエイの
顔が赤くほてり
ありゃぁ
ぷうぅんと鼻を刺すアンモニア臭
口いっぱいに満ちて
目のふちに涙がこぼれそうににじむと
辛い息を鼻からふきださなきゃ
目のふちを拭ってくれた太い指の節
なつかしくも遥かに遠い
濁り酒にぬれた 低いあのだみ声
すこし早い夕ぐれ
飲んべえたちが来るにはまだ早い
市場の路地の南道食堂
臭いふりまく古漬けキムチの葉を広げ
ゆで豚に小エビの塩辛のせて
ぴりぴり腐らせたガンギエイのせて
むかし親父がそうしたように
マッコリを指でかき混ぜながら
子どもとぼくと
孫には一度も会ったことがなかった親父
車座になった三者を
しみじみ想う
舌から舌へ伝わっていく見えない遺伝子を
つくづくと
眺めている
サマプ
―「三合」全文
サ マ プ
拙詩「三合」は、前述した食べ物が悟らせてくれるひとりの個人と、共同体の記憶とそ
の起源に関する考えを書いてみた作品です。
この詩は、ソウルで生まれソウルで育った、都会の子供である小学生の息子が、休日の
午後にふとサマプが食べたいということから始まります。ピザでもハンバーガーでもファ
ミリーレストランの料理でもなく、ガンギエイの刺身と茹でた豚肉と古漬けのキムチを組
6
み合わせたサマプとは。よくよく考えてみると子供が小学校に入る前の六歳のころ、父方
の祖母の八十歳のお祝いで初めてみたサマプを、はばかりなく口の中いっぱいに入れて美
味しく食べ、周りの人たちに嘆声をもたらしていた記憶が浮び上がります。
ここで私は子供時代に南地方の都市の場末にあった居酒屋で父親と初めてサマプを食べ
た風景を思い出します。初めて食べた腐ったガンギエイの、ぴりっと辛いアンモニアの匂
いのせいで顔が赤くほてり、涙がにじんで溢れそうな幼い私の目を太い指でぬぐいながら
「ありゃぁ、ガンギエイの辛い息を鼻からふきださなきゃ」と言って濁酒を指でぐるぐる
かきまわしていた父親の、低く濁った懐かしい声が、はるか遠いながらも生き生きと思い
出されます。
その日の少し早い夕暮れ、昔父と私がそうだったように、市場の横丁の南道食堂で子ど
もと、当時の父の年になった私が対座しました。子供はむしゃむしゃとサマプをおいしく
食べ、私は「むかし親父がそうしたように/マッコルリを薬指でかき混ぜながら」子どもと
私、そして子どもは会ったことのない祖父が、まるで一緒にいるかのような思いに耽りま
す。そして、その三代が持つ、家族と故郷という目には見えない和について考え、それが
もしかすると舌から舌へと遺伝する何かなのではないかという考えをめぐらせてみました。
もう話を終えなければならないようです。私は世界で一番おいしいものは、幼い時に食
べた物だと思います。母の、あるいは私のように大家族の中で育った人にとっては祖母の
手の先から作られた食べ物が、世の中のどんな山海の珍味よりもおいしく、尊いものです。
これは、食べ物は一人の人間とその家族の生活と風俗の来歴であるということを意味する
でしょう。さらに、食べ物は、そのような生き方と文化を共有してきた村人、いや、もっ
と大きな範囲の村の人々のアイデンティティを最もよく表す、遺伝子のようなものです。
その遺伝子は目には見えませんが、通時的には長い間代々受け継がれてきた物であり、共
時的には同時代、同空間を共有する人々をお互いに結びつけ、一つの共同体として一緒に
生きていけるようにしてくれる、大切なものであると信じております。ありがとうござい
ました。
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三合(サマプ)
休日の午後 小学生の息子が サマプ食べたいサマプ食べたいとひっきりなしに言う
何年か前 父方の祖母八十歳の誕生日にはじめて食べたサマプ
なにげなく口のなかに頬張ったときの食感を 思いだしたのか
幼いころ 親父についていくと
きまって立ち寄った 地方の安酒場
ふるびた卓の上に置かれたサマプと あちこちへこんだマッコリのやかん
この味が分からなきゃぁここの人間じゃないぞ
宴会にこれがなきゃぁ宴会じゃぁないんだ
発酵したガンギエイの ぷうぅんと鼻を刺すアンモニア臭 口いっぱいに満ちて
顔が赤くほてり 目のふちに涙がこぼれそうににじむと
ありゃぁ 辛い息を鼻からふきださなきゃ
目のふちを拭ってくれた太い指の節
なつかしくも遥かに遠い 濁り酒にぬれた
低いあのだみ声
すこし早い夕ぐれ
飲んべえたちが来るにはまだ早い 市場の路地の南道食堂
臭いふりまく古漬けキムチの葉を広げ
ゆで豚に小エビの塩辛のせて
ぴりぴり腐らせたガンギエイのせて
むかし親父がそうしたように
マッコリを指でかき混ぜながら
子どもとぼくと 孫には一度も会ったことがなかった親父
車座になった三者を しみじみ想う
舌から舌へ伝わっていく見えない遺伝子を つくづくと 眺めている
8
花びらのなかにかくれているあの頃
まだ新芽の出ていない木を見に行くと
きれいに復元された川に 春の花 満ちている
水の道に沿ってできた 花樹の道
風が吹くたび 花びら みだれ散る
傾きはじめた春の陽射し
散る花びらのなかにかくれているあの頃
1
ひとつの世界が つかのま開いて 閉じる
川邊の向こう 大小の家々が集まっている貧しい小さな村
土手の道には しばし停まったままの手押し車、おんぼろ三輪トラック
2
ひとつの季節が満ち そして傾く
繁茂していた道端の大きな樹、順番に咲きそして枯れる
レンギョウ チンダルレ 山茱萸 桜 もくれん 杏の花
3
ひとつの季節が 来て 去る
低い土塀の家 セメント煉瓦でつくった改良韓屋 何棟か
村の入り口 スラブ屋根の下にならんだ 米屋 雑貨屋 一杯飲み屋
4
のどかだった一日が だんだん暮れる
こじんまりした自転車屋、すこし崩れかけた古い礼拝堂
父の長い影法師 ゆらゆら過ぎてゆく
5
風が吹き 梨の花の香りほんのり
果樹園の家 おかっぱ頭の女の子がうつむいて それから
アカマツの鬱蒼とした 川邊の 子どもたち
9
獒樹(オス)の人びと
景福宮の西側 韓屋村入り口にある 体府洞食堂の方隅で
中年の男三人、初老の男二人が 割り勘酒を飲んでいる
全羅北道任実郡獒樹から来た人びと
僕は全州の出で 獒樹は父の故郷だと言うと
そうかそうかと皆 マッコルリ杯になみなみマッコルリ注いでくれる
盃も回り 言葉もきりなく回りつづけて 流れて行く
義犬が出たという獒樹、鳳泉里(ポンチョンニ)君坪里(クンピョンニ)鰲岩里(オアムニ)出身の
頭に白い霜被った
人生の半分はすでに過ぎ 全盛期も過ぎた
初対面の 互いによく似た人びとの一団にたちまち心安らぐのは
彼らの口から流れでてくる おくに言葉のせいだろう
なにより嬉しいのは
真似できないが 彼らだからこその
アクセント イントネーション 音の高低長短のせいだろう
僕のからだの奥深くにひそんでいた遺伝子が
ざわざわ騒ぐせいだろう
むかし 父と親戚一同が渡った鉄橋は もう無いと
村の半分以上が空家になって もうずいぶん経つと
夜が深まっても ひそひそ続く獒樹の人びとの酒宴
亡くなって久しい父と 父の友人たちは
いまではもうない村の風景や人情と さいごまで一緒だったろう
僕のはじまりが そこにひっそり入っていただろう
註:義犬
獒樹の忠犬。草を水で濡らして主人に火事を知らせ主人は助かったがその犬は焼死したという
統一新羅時代の物語上の犬。1994年獒樹里義犬公園に義犬碑が建てられた。
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