2014年12月】『主の道を備えよ

教会報
2014年12月 第63号
「主の道を備えよ」
主任司祭
岩間
勉
1916 年、韓国の木捕の沖合に浮かぶ小鹿島にハンセン病療養所が創立されました。
クリスマスの前後をこの療養所で過ごしたことがありました。その頃、家族以外この島の施設に入れません
でした。ソウルにある神の愛の宣教者会の院長から紹介状をもらって出かけました。
鹿洞港の岸から幅 600M程の潮の流れの速い海峡を隔てたところにこの島はあります。検問所を通ると日
が落ちてきたので、急いで海の見える丘の上に登ってテントを張りました。すると、薄暗がりの向こうから
手招きしてこちらを呼んでいる人がいました。近くの白い家に住むガダルーペ宣教会のフランシス神父さん
でした。以前、コロンバン会の司祭が住んでいた家に迎えてくれました。その晩、私たちをドイツから来た
二人のシスターが夕食に招いてくれました。食べきれないほど大きなミートパイを作ってくれました。
入った部屋は障子の入った4畳半の和室でした。彼らは、結局45年間この療養所で医療奉仕をした方たち
でした。翌朝、島の大きな聖堂でミサに与りました。療養者たちの「平和の挨拶」の光景は今でも忘れられ
ません。近くにいる仲間たちと、指のない手で互いの肩や背中をポコポコと軽く叩きあっていました。視力
を失った人が笑顔で交わす奇妙で楽しい「平和の挨拶」でした。午後になってから目の見える療養者たちに
誘われて、聖堂の屋根に上って一緒にクリスマスの飾り付けをしました。その時、荷物を満載した一台のト
ラックが前庭を通っていきました。積荷を聞くと、毎年、近隣の教会から贈られてくるキムチだと言います。
指のない療養者たちがキムチを作れないことを知った全羅南道の教会員たちが、年末に届けていました。
病院の近くに創設時に立てられた長屋形式の宿舎が記念として残されていました。中を見るとまるで家畜小
屋のようでした。家族から引き離された患者たちにとって、信仰の兄弟姉妹が作ってくれるキムチは心も体
も温まるプレゼントなのだと感じました。
皆が主を迎えられるように「主の道をまっすぐにせよ」と洗礼者ヨハネが荒れ野から呼びかけています。
どのように主の道を整えたらよいのでしょうか。神は人間を探しておられます。人間が自力で神のもとへ至
ることができなかったので、神ご自身が自らの力をもって私たちの所に来られます。異邦人宣教に派遣され
たパウロは多くの苦難、不幸、死の危険に晒されました。しかし、キリストに結ばれ、神の愛の内に置かれ
ていることを、何ものにも代えがたい幸いであると見なしています。この世の現状の改革が最終的な問題で
はありません。神が来られる時、自らご自身の道を切り開かれるでしょう。しかし、だからといって恵みの
到来のために道備えをする必要がないとか、その到来を困難にしているものを取り除く必要がないというわ
けではありません。恵みがどのような状態の私たちの処に来るのかということは、決してどうでもよいこと
ではないのです。信仰に至ることを困難にしているものは、私たち自身なのです。ひどい恥を受けたり、人
に捨てられたり、貧困に陥れられた人、孤立無援の人は、神の慈しみとその義を信じることは困難です。
生活に規律を失ってしまった人は、神の戒めを信仰の内に聞くことが困難です。さらには、権力を持つ者、
満ち足りた者は神の恵みと裁きを理解することは困難です。主の到来を妨げているものは、古い人にとどま
る個々人の中に、また交わりの中にあります。
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「主が来られる」ことが重要です。そのために霊的な道備え(回心)が呼びかけられています。
「悔い改め」は自分の内側に暗く沈み込むことではなく、救い主へと顔を向けて喜びを得ることです。
ヘブライ語の「悔い改め」
(シューブ)は「転回する、立ち帰る」の意味で、生きる方向が根本的に変わる
ことです。ルカ19によれば、ザアカイはローマの徴税人の頭であり、人々から軽蔑されていました。消え
行く富以外、自分の拠り所を見出せませんでした。そのような状況の中でイエスは神の国を先取りされます。
「今日、私はあなたの家に留まらねばならない」と言います。彼はイエスを喜んで迎えます。主の霊が迎え
られる処では、悪霊たちは追放されていきます。イエスと弟子たちは貧しい者、病気の人、死にかけている
人、囚われている人、見捨てられた人、体の不自由な人、拒絶されている人たちと親しく関わりました。
イエスは人を神の子とする霊が到来するように、分かち合いと癒しといった生活の具体的な関わりを通して
その道を整えていきました。ザアカイが喜んで持てる物を貧しい人に分かつようになった処に聖霊の働き
(神の国到来の徴)を見てイエスは宣言します。
「今日、この家に救いがやって来た」と。
イエスは神の国の福音を宣べ伝える前に、その福音に生きていました。イエスの先駆け、洗礼者ヨハネの
呼びかけは非常に具体的です。
「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けよ。食べ物を持って
いる者も同じようにせよ」
(ルカ3:11)と命じます。さらに兵士と徴税人に対しても同様の指示を出し
ています。第二次大戦中、ナチスの待つドイツに帰り、終戦の直前に処刑された牧師 D. Bonheoffer は、
目に見える世界への具体的な介入をしつつ、喜びに満ちた緊張の内に主の到来を待つようにと訴えています。
「飢えている者をそのままにしておくことは、神と隣人への冒涜です。というのも、隣人が必要としている
ことは、まさに神が近くにおられるということだからです。キリストの愛、全ての人の父の愛は私たちのも
のです。同じように、神の愛は飢えている人のものであり、この愛ゆえに私たちはパンを裂いて共に食べ、
住む家を分かつのです。もし飢えている者がそのために信仰に至ることができないとすれば、その責任はパ
ンを拒んだ者の上に留まるのです。
」
私たちが様々な処で、神の子らに相応しい環境と交わりの実現に努めるならば、神が一番よいと考える
時に、主自らが訪れてくださるのではないでしょうか。そのため、まさに聖書では、皆が主を迎えられるよ
うに回心と同時に、目に見える世界への具体的な介入を繰り返し呼びかけています。主が来られます、主の
道を整えていきましょう。
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