日米半導体貿易摩擦とは一体何だったのか

日米半導体貿易摩擦とは一体何だったのか
中沼 尚
1980年前半から1990年前半まで熾烈な日米半導体貿易摩擦が吹き荒れました。
その渦中にあった私は日本半導体産業の現状をみてあれは一体何だったのかという
思いが駆け巡ります。これを知的所有権とビジネスの観点から振り返ってみました。
1.知的所有権
「貴 方のお母さんの旧姓 はなんですか」「佐藤 です」「あなたは誰にアメリカへ行けと
言われたのですか」「鈴木さんです」「ニューヨークに鈴木という人がいますが貴方とどう
いう関係ですか」「ニューヨークの鈴木さんなんて知りません」・・・、1986年このような
無意味な質問を延々二日間にわたってスタンフォード大学近くのホテルで受けました。
これはテキサスツルメント(TI)が日本の半導体メーカーのDRAMはキルビー特許に抵
触していると提訴して裁判の準備のため行ったデポジションなのです。TIの弁護士がN
ECの弁 護士と裁 判所 の書 記 立ち会いの上 で調 書をとるのですがおよそ技術 的 な質
問はなく、訴訟 社会の無駄を実 感させられました。但し、感 心したのは裁判 所の書 記
のたたく音声タイプライターでした。私の日本語をパチパチパチとすごいスピードで打ち
込むのです。書記は日本語が分からないというので、打ち込んだのを再生してみてくれ
といったら見事に私の日本語を再現するのです。さて、日本の半導体産業は家電の需
要に支えられて急成長しましたが、先行のアメリカ半導体会社の所有する特許で売り
上げの10%近くもの特許使 用料 支払いで痛めつけられました。そのため私たちは必
死になって技術開発を行い、多くの特許を出願しました。問題のキルビー特許はICの
基本特許というものの今のICとは似ても似つかない代物で1977年に登録されたった
3年間で1980年に失効したのですが、審査過程で先願主義を活用して、次から次と
関連特許を出願し、あたかもサブマリン特許のような出願がなされ、訴訟をバックに高
額な使用料を要求したのです。
1984年ごろまではロサンゼルスオリンピックで湧き、パソコンブームなどでDRAMが
飛ぶように売れました。TIにもメモリーシステム部門があり沢山のDRAMを買ってくれ
た上、DRAM百万個で1個も不良がなかったので競争会社だけれど表彰しないわけに
いかないと表彰してくれました。しかしその後不況と過剰生産でDRAM価格が下落し
て業績が悪化し、半導体生産部門が日本叩きに走ったのです。
NECはDRAMで大きなシェアを獲得したものの日本のユーザーのためにマイコン用
ICの開発にも重点を置いていました。ところがインテルがマイクロコードを流用している
と提訴してきたのです。NECも必死になって裁判で反論をしました。潮の流れが変わっ
たのはインテルが提出した資料をカリフォルニヤ大学の教授がこの資料を高く掲げて
ビザール(bizarre)と証言してからで、見事に裁判で勝訴しました。
貿易摩擦の根底には熾烈な技術開発が絡んでいます。特許だけではなく今後ソフト
の著作権が益々重要な課題です。30年も前のことですが、アメリカの友人宅に招かれ
たとき小学生のお嬢さんがパスカルでプログラムを作っていると見せてくれました。なん
という落差なのであろうかと驚いた。今日でも日本の小学校ではプログラム言語を教え
ることのできる先生は殆どいなのです。アップルがアメリカの殆どの小学校にパソコンを
寄付してパソコン教 育 をした貢献は計り知れないものがあります。この世代が今 第 一
線のソフト産業を担っているのです。
日本も製造 業の空洞 化が大問題で20年 間 GDPが増えていないのにアメリカは2.5
倍も増えているのです。この大きな要因の一 つがアップルをはじめとしてソフト産業の
成長があげられます。日本もソフト産業の育成が経済成長の根幹でなければなりませ
ん。そのためには小中学校から大学までの教育改革が必要です。
2.ビジネス
1986年アメリカ勤務を終え帰ってきて与えられた仕事が貿易摩擦対応でした。おり
しも経済不況と、DRAMの世界的生産過剰により価格が急落し、アメリカの半導体メ
ーカーが日本の半導体メーカーに対してダンピング提訴に踏み切りました。ところがD
RAMを輸入禁止にするとアメリカのパソコンメーカーが困るので半導体以外の電動工
具業など関係のない商品の輸入差し止めという理不尽な政策を実行し、日米両政府
を巻き込んだ政治 問 題となったのです。アメリカ政府 はダンピング禁 止と外国 製 半 導
体シェア20%という要求を突き付けてきました。
日本側は通産省の電子機器課と日本電子機械工業会電子部品部会が対応するこ
とになり、まずダンピング対策として、東南アジアで売られている安いDRAM回収、生
産調整という難問に次々と通産省からの指示がきました。夜遅くに通産省から呼び出
されたこともありました。NECは最も沢山DRAMを売っているのだから一番責任があり
ますと、貿易摩擦を回避するために長年かけてアメリカでの工場建設し、生産し、アメ
リカで雇用を創出した実績はほとんど評価されませんでした。そして外国製 半導 体の
輸入促進をするため半導体国際交流センターを作るから各社2,000万円を支出しな
さいという指示でした。競争会社の製品を売るセンターに出資するなど自由貿易の世
界でありえない提案に仰天すると同時に必 死に抵抗しました。ダンピング対策では東
南アジアで安売りされているDRAMを回収しなさいという指示で、香港の秋葉原のよう
な電 機製 品 販売 街に香港 支 社長と一 緒に回収 に行 き約 10万 個 を買いました。一 週
間あれば百万個でも二百万個でも持ってくるというのです。支社長がこれ以上は不測
の事態が起こりかねないので止めてくださいとのことで引き揚げました。品物がどういう
経路を辿ったものかわかりませんので再販するわけにもいかずシンガポールの工場で
廃棄処分をしました。
次は生 産 調整 で何 日 何枚シリコンウエハーを投入して、何 日 何個 出荷 でするのか報
告せよとの指示です。しかも掛かったコスト以下で出荷してはいけないというのです。D
RAMの生産は数百工程で作られ、各工程で何%良品になるかという歩留は日々変動
するので何日何個出荷できるか推測でしか言えません。どうもTVや自動車のように1
00台分の資材を投入すれば100台出荷できる産業を想定しているようで長時間の説
明を余儀なくさせられました。
こうして1987年悪名高い「日米半導体協定」が締結されたのです。 そして1992年
には日本での外国製半導体シェアは20%以上となり協定が終焉することになりました。
日本半導体産業の現状は世界一を誇った面影は全くなくなり見るも無残な惨状です。
この原因はいくつかあり日米半導体協定だけではありません。メーカー自身の問題で
大きいのは日本の家電産業の衰退で大口顧客を失ったことに加えて、システムLSIの
マーケティング能力と開発能力の不足があります。ソフトやアナログ技術が不足してい
るので注文がとれないし、ソフトの塊である開発ツールが世界標準からはずれているな
どで価格、性能、納期で競争力を失ったのです。
一方生産活動で大きな問題は優遇税制の削減が挙げられます。昔の通産省は高度
成長時代に多くの大型プロジェクトを企画して、技術開発を推進してきた貢積は素晴ら
しいものがありました。特にハイテク電機産業は数十兆円の産業を育てて百万人以上
の雇用を創出し日本の高度成長の土台を築いたのです。しかし半導体産業は常に新
しい製品を開発し続けなければならない宿命を持っています。新しい製品を作るために
は新しい半導体製造装置が必要です。昔は技術者がコツコツと努力をして歩留まりを
上げることにより品質と生産性をあげて売り上げを伸ばすことができましたが、新しい
半導体製造装置でないと新製品ができない時代になってきました。一台数十億円もす
る装置が並ぶ時代ですから工場一つが数千億円もかかると累積の投資額は気が遠く
なるような金額です。好不況を繰り返す業界ですので赤字の時でも投資が必要です。
赤字の時には資金調達が困難になりますが、設備の償却費は貯まる現金ですからキ
ャッシュフローに貢献します。高度成長時代通産省協力のもとに数々の優遇税制が制
定されました。24時間稼働による加速償却、償却年数の短縮、テクノポリス償却など
初年度50%を超える償却がなされキャッシュフローに貢献したのです。しかし左翼勢
力の台頭でこれは大企業への優遇税制だとやり玉に挙げられ次々と姿を消して行きま
した。私も時限立法だった3年償却を延長して貰うため議員会館で議員に陳情して廻
りました。議員の中には理解を示してくれた人もいましたが、半導体業界は自分で起こ
した問題だから自分で解決しろと厳しいことも言われました。そして日本半導体産業は
優遇税制を持つ台湾、韓国、中国にシェアを奪われて行ったのです。
以上、振り返ってみると私たちが働いた時代は努力をすればするだけ報われた良き
時代でしたが、一方で競争による摩擦問題と政治問題に翻弄された時代でもありまし
た。いま日本政府も成長戦略という旗を掲げているもののとても軌道に乗っているとは
言えません。新産業が生まれて、今の若者たちにもっと夢が持てるような時代になって
ほしいと願っています。このためには時 間がかかり選挙の票に結 びつきなせんが、科
学振興を目指した教育改革を今こそ強力に推進すべき時なのではないでしょうか。
2015 年 9 月