■随想 ︵高 回︶ 走り続けた﹁あの日たち﹂ 福沢富夫 ●ふくざわ・とみお 昭和8年豊丘村生まれ。演出家。 演劇集団円所属。日本大学芸術 学部演劇学科卒業。劇団民藝を 日本演出者協会会員。演劇を始 経て、﹁演劇集団円﹂の演出部に。 めダンス、オペラなど多方面に 亘り、演出を手がける。 軍人になるために教育を受けた私たちは、小学校六年 生の時に終戦を迎えることになりました。その教育から ﹁高校時代﹂の﹁演劇﹂と私 いまだに六十名も、しかも一年も休みもなく四十五回 も続けている﹁二七会﹂という会があります。 おかしいと思われている演劇部に入ってくるとは期待外 当 時 の 飯 田 高 校 は、 男 女 共 学 に な っ た と は い え、 一 クラスに女子は二、三名。その少ない女子たちの中から 工夫した結果を、発表の場に持ち込みました。 屋に押し込められていました。そうした中で、 話し合い、 男子がやっていました。部室も、誰も使わない屋上の部 導者はいない、脚本はない、女子はいない。女子の役を 当時、学校で演劇をやる人はおかしいと思われていた 時代でしたが、それでも四、五名の部員がいました。指 一八○度変わって民主主義になり、学校制度も旧制から 新制になりました。今の六・三・三制になったわけです。 六十、七十は、鼻たれ小僧。 男盛りは、これから、これから。 百歳過ぎても現役で仕事をやり続けた、世界的彫刻家 の平櫛田中の言葉です。 何回か使わせてもらっている言葉があります。 ﹁ 二 七 会 ﹂ と は、 昭 和 二 十 七 年 に 飯 田 高 校 を 卒 業 し た 同期の会につけた名前です。その会を始める挨拶の中に、 高4回の会﹁二七会﹂と私 4 私も、百歳過ぎてから、こう言ってみたいし、自分の 選んだ仕事を、死ぬまでやり続けたいのです。 17 ﹁演劇﹂と私 随想 でした。しかし、男 ︵山本有三作︶です。 飯田高校の参加作品は﹁海彦山彦﹂ 部活費が少ないので炭俵を使って大道具をつくり、女子 強引に引っぱって来られた友達を含めて、会場となっ た風越高校の講堂は、千余名を数え、満員となりました。 な状態の中で演劇 がいないので男子だけです。青春のあの日たち、海彦と で、一校での閉鎖的 を続けていくには限 この成功の反面、当時、演劇は不健康なものという先 入観のもとに、男女が一緒に集まるだけでも、いかがわ はあの時の私です。すごいときめきを感じました。 のは生まれて来なく しいとの報道がなされました。特に女子校である風越高 からは何も新しいも て、この状況を打ち 校が参加している訳ですから、尚更のことです。 した。あの時の情熱と、何事も強い信念を持って行動す ました。 そこで他校に働き かけ、高校における演劇の重要性を広くアピールしてい れば必ず成せると感じた精神は、私の演劇人生の大きな 力の一つになっています。 こうして出発した演劇合同発表会が西暦二〇〇〇年で 五十回を迎えたなどとは、当時は考えてもみなかったこ となく繰り返しました。そしてついに、各校の先生たち ネルディスカッションに参加しました。続けることの意 この年に﹁舞台と歩んだ半世紀﹂と題して記念行事が 開かれ、私はその記念行事に招かれて、発表会の後のパ とです。 の不安の中、﹁第一回伊飯地区演劇合同発表会﹂が風越 味の大きさを感じ、本当にうれしく感無量の思いでした。 な顧問の先生を突き上げ、承諾しない校長の説得を何度 高校︵旧校舎︶の講堂で幕を開けました。 た。各校の演劇部員との話し合いを何回も持ち、消極的 スポーツとは違って、演劇で他校と交流関係をつくっ て合同発表会を持つなどということは、大変なことでし させるきっかけとなったのです。 きたいと思って考えついたのが、演劇合同発表会を発足 他校との交流を﹁演劇は桃色遊戯の温床﹂との見出し である新聞が報道したので、その新聞社に抗議に行きま 破りたいと思い始め 界があります。そこ 子だけの少数部員 劇団民藝で舞台仕事の打ち合わせ。正面が宇野重吉さん 18 随想 ﹁大学時代﹂の﹁演劇﹂と私 まっていました。何より嬉しかったのは、その中に女性 がいたことでした。もう女の役を男がやらなくてもいい 古くさい木造の校舎の中に、演劇の発表が出来る講堂 と立派なスタジオがありました。そのスタジオは東宝な ということです。 へ行き、大学で演劇の勉強がしたかった。このことを先 どに貸しているらしく、まだ若い三國連太郎や当時の映 飯田高校の校歌の言葉ではないが、〝都の塵も通い来 ぬ〟この山々に囲まれた伊那の世界から抜け出して東京 生たちに相談し、演劇学科のある大学を聞いてみたが、 画スターたちが撮影に出入りしていて、それが私の大き 五次試験まであったその民藝に合格した私は目立ちた がりやで、何時も皆の中心にいないといられない人間で、 ﹁劇団民藝時代﹂の﹁演劇﹂と私 民藝水品演劇研究所の二期生として合格しました。 四年生の時、同期の宍戸錠が日活の一期生に合格して 抜けていきました。私は卒業の年に劇団民藝を受験し、 な刺激になりました。 誰も知らなかった。 いろいろ調べてもらって、やっと日本大学に芸術学部演 劇学科があることが判った。そこに入学した訳だが、学校 で演劇をやること自体がおかしいと思われていた時代に、 ましてエリート校で あ る 飯 田 高 校 か ら、 演劇学科に入るなど、 ったと思います。 自分は格好良くいい男だと自惚れていました。その頃は 大学か﹂と田舎者の は久保栄、岡倉士郎など。若い俳優に内藤武敏、大滝秀 民藝には、滝沢修、宇野重吉を中心に、女優では細川 ちか子、小夜福子、北林谷栄などがいました。演出家に それが自分の生き方の一つの支えだったのです。 私 に も 驚 き で し た。 治、奈良岡朋子などがいました。この指導者、先輩たち 東京・練馬区江古 田にあるこの校舎は そこには、多くの個 は、私の﹁演劇﹂に対する考え方を根本的に変えました。 当時木造で﹁これが 性的な仲間たちが集 19 考えられないことだ 劇団青俳恒例のピクニックで。右が木村功さん 所で﹁僕は、若い で、水品演劇研究 月から翌年二月ま 前、一九五六年四 特 に、 久 保 栄 は亡くなる二年 出やレッスンもやっていました。 また、加藤道子が中心となっていたNHK放送劇団の演 優、酒井法子、清水美沙などが教え子の中にいました。 の新人歌手を教えることになりました。松田聖子、早見 太川陽介が出演した﹁がんばれ元気﹂という舞台があ りました。それを演出したのが縁で、サンミュージック 今、本当に続けることの大切さを強く感じています。 また、好きなことをやり続けて来た私が今言えること は、人は誰でも多くの可能性をもっており、大切なのは、 最後に選んだのは﹁演劇集団円﹂の研究所で、新しい 演劇人を創り出す仕事をすることでした。 ないことには、死 その可能性を自分で引き出す努力をするということです。 の役者になってく んでも死にきれな れる人が出てくれ い﹂と、心血を注 いで講義を行いました。この久保栄の情熱を傾けた気迫 ある講義は、私の中に深く焼きつけられました。 を繰り返さなくてはならない、忍耐力のいる仕事です。 十五年間在籍していた民藝を退団した私は、岡田英次、 蜷川幸雄たちがやめた後、木村功が中心でやっていた﹁劇 てください。そして今は、自分を信じて、一生懸命走り しさ、そして強さを忘れずに、心に風を感じる人になっ ﹁今やりたいことより、今や 時は待ってくれません。 るべきこと﹂を考えて行動してください。素直さ、やさ 団青俳﹂に入りました。体力・気力の漲っている四十歳 ジです。 続けなさい。これが生涯現役を目標とする私のメッセー などを精力的にこなしました。 代の私は、演出以外に多くの研究所で基礎的な演技指導 ﹁その他のこと﹂の﹁演劇﹂と私 つらさを伴うものです。それを背負って可能性への闘い 鮮度を失わず、一つことを持続させていくことは、本 当に大変なことです。時には血の吹き出るほどの怖さ、 人でもいい、本当 君たちの中から一 岸田今日子さんと舞台の仕事の打ち合わせ 20
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