08, 08,11, 11,10 世界が 世界が尊敬した 尊敬した日本人 した日本人( 日本人(36) 36) 初代ベンチャービジネス 初代ベンチャービジネスの ベンチャービジネスの真珠王・ 真珠王・御木本幸吉 前坂 俊之 (静岡県立大学国際関係学部教授 静岡県立大学国際関係学部教授) ) 志摩国鳥羽( 志摩国鳥羽(三重県) 三重県)の神明湾の 神明湾の養殖場で 養殖場で、御木本幸吉( 御木本幸吉(36歳 36歳)、うめ )、うめ( うめ(29歳 29歳)夫婦は 夫婦は 人工真珠の んだアコヤ アコヤ貝 けていた。 人工真珠 の種を埋め込んだ アコヤ 貝を開けていた 。 莫大な っている る?」「大法螺吹 莫大な借金をつぎ 借金をつぎ込 をつぎ込み「狂ってい 」「大法螺吹き 大法螺吹きや!」と周囲から 周囲から疎 から疎んじられながら、 んじられながら、徒 手空拳で 真珠の 人工養殖 養殖に んできて、 がたつ。 手空拳 で真珠 の人工 養殖 に取組んできて 、早や5年がたつ 。 来る日も来る日も何百という 何百というアコヤ というアコヤ貝 アコヤ貝を開くが、 くが、一向に 一向に変化はない 変化はない。 はない。明治 26 年(1893) 1893)7 11日 うめが 相島( 現在の 真珠島) 養殖場で いつものように開 けた貝 ピンクに 月11 日、妻うめ が相島 (現在 の真珠島 )の養殖場 でいつものように 開けた 貝の中にピンク に くものがあった った。 輝くものがあ った 。 驚いたうめは いたうめは大声 うめは大声で 大声で幸吉を 幸吉を呼んで確認 んで確認すると 確認すると、 すると、紛れもない半円形 れもない半円形の 半円形の 5 ミリほどの ほどの真珠 真珠ができていた ができていた。 人工真珠を 世界で めてできた 瞬間で ミリ ほどの 真珠 ができていた 。人工真珠 を世界 で初 めてでき た 瞬間 で ある。 ある 。 「その時歴史 その時歴史が 時歴史が動いた」 いた」風に言えば、 えば、115 115年前の 年前のこの明治 この明治 26 年(1893 1893)7 月 11 日こそ、 こそ、 わが国 ではじめて世界的 世界的な ベンチャービジネスが 誕生した した歴史的 歴史的な なのである。 わが 国ではじめて 世界的 なベンチャービジネス が誕生 した 歴史的 な日なのである 。 御木本幸吉は 御木本幸吉は安政5 安政5年(1858) 1858)年1月に志摩国鳥羽( 志摩国鳥羽(三重県) 三重県)でうどん屋 うどん屋の長男でまれ 長男でまれ た。 明治11 明治11年 11年、21歳 21歳の時、当時、 当時、東海道はまだ 東海道はまだ鉄道 はまだ鉄道が 鉄道が開通して 開通していないため していないため、 いないため、江戸時代と 江戸時代と同 じく徒歩 徒歩で 11日 かけて上京 上京し 文明開化の 東京、 横浜の 異人街 など、 じく 徒歩 で11 日かけて 上京 し、文明開化 の風が吹く東京 、横浜 の異人 街など 、2ヵ 月 間 も 商売の 勉強と 新知識の 吸収に かけた。 商売 の勉強 と新知識 の吸収 に出かけた 。 ここで、 ここで、外国人たちが 外国人たちがアワビ たちがアワビや アワビや干魚、 干魚、海産物などを 海産物などを高額 などを高額で 高額で買いあさり、 いあさり、中でも天然真珠 でも天然真珠が 天然真珠が世 王侯貴族、 金持ちに ちに愛 される女性 女性の 最高の 飾品であり であり、 最高級の 輸出品であるこ 界の王侯貴族 、金持 ちに 愛される 女性 の最高 の装飾品 であり 、最高級 の輸出品 であるこ とを知 った。 とを 知った 。 1 商才に 商才に長けた幸吉 けた幸吉は 幸吉は世界の 世界のビジネスに ビジネスに目を開 くとともに、 くとともに、やり方次第 やり方次第で 方次第で地元の 地元の海 産物を 産物 を世 界的ブ ランドにできると にできるとピン ピンと ひらめいた。 界的 ブランド にできると ピン とひらめいた 。 30歳 30歳で東大・ 東大 ・箕作佳吉博士の 箕作佳吉博士の指導を 指導を受けながら、 けながら、全財産をつぎ 全財産 をつぎ込 をつぎ込み、英虞湾の 英虞湾の孤島に 孤島に 一家で 一家 で 移住して 移住 して、 して 、真珠の 真珠 の養殖に 養殖に 取り 組んだ。 んだ 。半円真珠の 半円真珠の 養殖成功 養殖 成功に 成功に力 を得 て 、さらに天 さらに天 真珠に 真円真珠の 開発に 悪戦苦闘する する。 然の真珠 に近い真円真珠 の開発 に悪戦苦闘 する 。 赤潮、 赤潮 、冷水の 冷水 の 発生によって 発生 によって養殖貝 によって 養殖貝が 養殖貝 が全滅するなどの 全滅 するなどの大被害 するなどの 大被害に 大被害 に 何度も われながら、 そのたびにさらに大借金 大借金と 何度 も襲われながら 、そのたびにさらに 大借金 と血のにじむような 開発努力 努力によって によって、 真珠養殖の 技術が 最終的に 完成したのは 開発 努力 によって 、真珠養殖 の 技術 が最終的 に完成 したのは 明治38 38年 1905) 幸吉48 48歳 であった。 明治 38 年(1905 )、幸吉 48 歳の時であった 。 「 資源もない 資源 もない」 もない 」「 金 もない」 もない 」「 情報もない 情報 もない」「 もない 」「技術 」「 技術もない 技術 もない」 もない 」ないない づくしの当時 当時、 づくしの 当時 、御木本は 御木本はモノづくりによって モノづくりによって外貨 づくりによって 外貨を 外貨を稼ぐ 「貿易、 貿易 、技 術立国」 しか日本 日本の きる道 はないことを見抜 見抜いて いて、 独力で 術立国 」 しか 日本 の 生 きる 道 はないことを 見抜 いて 、独力 で真 珠養殖に チャレンジして して、 成功したのである したのである。 珠養殖 にチャレンジ して 、成功 したのである 。 明治38 明治 38年 38年 、明治天皇が 明治天皇 が伊勢神宮に 伊勢神宮に 行幸した 行幸 した際 した際に 、「 世界中の 世界中 の女 の首 を真珠でしめてご 真珠 でしめてご にいれます」 覧にいれます 」と大見得を 大見得を切ったが、 ったが、その通 その通りミキモト・ ミキモト・パールの パールの大部分は 大部分は海外に 海外に輸出され 輸出され、 され、 いに外貨 外貨を いだ。 その意味 意味では では豊田佐 豊田佐吉 創的な 発明王であり であり、 日本人初の 大いに 外貨 を稼いだ 。その 意味 では 豊田佐 吉と並ぶ独創的 な発明王 であり 、日本人初 の 国際ビジネスマン ビジネスマンであった であった。 国際 ビジネスマン であった 。 御木本の 御木本の独創性は 独創性は ① 地方 地方の のハンディーを ハンディーを乗り越えて、 えて、三重県という 三重県という片 という片田舎の 田舎の海産物を 海産物を世界な 世界な高級ブランド 高級ブランド、 ブランド、 高価な 高価な輸出品に 輸出品に仕上げたという 仕上げたという地域 げたという地域おこし 地域おこし、 おこし、町おこしの典型的 おこしの典型的な 典型的な成功事例である 成功事例である。 である。 ② 明治 明治44 44年 44年のロンドン支店 ロンドン支店を 支店を皮切りに 皮切りにパリ りにパリ、 パリ、ニューヨークに ニューヨークに出店するなど 出店するなど海外販売網 するなど海外販売網を 海外販売網を築 き、日本企業の 日本企業の海外進出のさきがけ 海外進出のさきがけ的 のさきがけ的な存在となった 存在となった。 となった。 ③ 来日 来日した した世界 した 世界の 世界 の VIPがこぞって VIPがこぞって真珠島 がこぞって 真珠島を 真珠島 を訪 れたが、 たが、御木本は 御木本は 大いに歓迎 いに 歓迎して 歓迎 して、 して 、真珠と 真珠 と 日本を 日本を大いに売 いに売り込んだPR んだPRの PRの天才だった 天才だった。 だった。 ④ 異文化コミュニケーション 異文化コミュニケーションの コミュニケーションの天才で 天才でもあり、 もあり、外国人との 外国人とのコミュニケーション とのコミュニケーションに コミュニケーションにも抜群の 抜群の才能 発揮した したー などで 115年前 年前の ベンチャーの 実践は でも大変参考 大変参考になる になる。 を発揮 した ーなど で、115 年前 のベンチャー の実践 は今でも 大変参考 になる 。 2 昭和 2 年(1926) 1926)2 月、欧米視察旅行にでかけた 欧米視察旅行にでかけた御木本 にでかけた御木本は 御木本はニューヨークで ニューヨークでエジソンと エジソンと会見、 会見、 「私はダイヤモンドと ダイヤモンドと真珠だけはどうしてもできなかった 真珠だけはどうしてもできなかった。 だけはどうしてもできなかった。その真珠 その真珠を 真珠 を発明されたことは 発明されたことは世界 されたことは世界の 世界の 驚異です です。 おめでとう」 世界の 発明王から から絶賛 絶賛され され、 御木本は 大感激した した。 驚異 です 。おめでとう 」と世界 の発明王 から 絶賛 され 、当時 69 歳の御木本 は大感激 した 。 もう1 もう 1つ御木本の 御木本の偉大さは 偉大さは、 さは 、明治の 明治の経済人の 経済人の中でも最 でも最 も長寿であったことで 長寿であったことで、 であったことで、独自の 独自の健康 食事法を 実践して して、 法、食事法 を実践 して 、96 歳8月という稀有 という稀有の 稀有の長寿を 長寿を保ち、昭和 29 年 9 月にその生涯 にその生涯を 生涯を えた。 終えた 。 3
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