予稿集原稿 研究発表:日本研究/文学 映画 2012 年 第 九 回 日 本 語 教 育 ・ 日 本 研 究 シ ン ポ ジ ウ ム ―日本語教育・日本研究: 双方向的アプローチの実践と可能性― The Ninth Symposium for Japanese Language Education and Japanese Studies: Interactivity, Praxis and Possibilities タマシ・モニカ(大阪大学大学院生) 居場所を失くしたペルソナ ― 多和田葉子の作品における変身― キーワード: 多和田葉子; 変身; 女性; ペルソナ; 身体 要旨 多和田葉子の作品における人物は余所者の存在であり、その立場から文化や言 語の現象を考察している。多和田の描く女性は二つの文化の間に宙吊りにされた 存在である。彼女たちは、異文化と直面する人物はそれまでの自分の文化と改め て向き合うことになるという文化現象の正当性を分析しながら、自己認識を再確 認しようとする。本稿では多和田の作品における女性人物の自己認識やペルソナ の関係を中心にして、変身・転生の意味を考察したい。 1. 本 研 究 の 必 要 性 と 目 的 グローバリゼーションの時代にポストコロニアル文学を背景にした多和田葉子の作品は 自由に文化の間にある境界を飛び越えて異文化間コミュニケーションの可能性を問題化す る。1982 年からドイツに住んでいる多和田の文学には人物の造形のレベルや言語のレベ ルでも二つの文化の間のずれが表れている。彼女の文学は Sturm-Trigonakis が理論化し た「新しい世界文学」に属すると言える。二ヶ国語で書かれた小説や、日本語あるいはド イツ語で書かれた小説の中でグローバリゼーションやローカリゼーションの現象を象徴的 に表しつつ、ポストコロニアル世界のコンテクストに生まれた移民/亡命文学やマイノリ ティ文学から離れ、世界文学に新しい位置を占める多和田の文学を研究する必要性があ る。多和田の作品から見えてくる言語と翻訳の関係は特に文学評論家によって考察の対象 とされてきたが、本研究では多和田の作品における女性人物の自己認識やペルソナの関係 を中心にして、変わりやすい環境に置かれた女性人物の変身・転生の意味を考察したい。 予稿集原稿 研究発表:日本研究/文学 映画 2. 多 和 田 葉 子 に つ い て 東京都中野区 1960 年に生まれた多和田は幼い頃から本を愛読した。高校時代、第二外 国語として、ドイツ語を習い始め、1978 年に早稲田大学第一文学部ロシア文学科に入学 する。学生時代を通して、早稲田の語学研究所でドイツ語も勉強しながら多くの同人雑誌 に参加し、多くの小説を書いた。1982 年、ベーラ・アフマドゥーリナの文学に関する卒 業論文を提出して早稻田大学を卒業する。しかし、彼女は卒業式に出席せず 3 月の初め にインドに向けて出発して、世界を回る旅を始める。旧ユーゴスラビアを経て、5 月にド イツのハンブルク市にあるドイツ語書籍輸出取次会社に研修社員として就職し、2006 年 までハンブルグに在住する。1987 年までドイツの書籍輸出取次会社で働きながら、ハン ブルグ大学修士課程を修了する。同年、ドイツの出版社から初めて二か国語の詩集(『あ なたのいるところだけなにもない (Nur da wo du bist da ist nichts)』)を出版する。 1991 年に『三人関係』を発表し、日本でも作家としてデビューする。そして、2 年後に 出 版 さ れ た 「 犬 婿 入 り 」 で 第 108 回 芥 川 賞 を 受 賞 し て か ら 日 本 語 と ド イ ツ 語 で 相 次 い で 小説を発表し、日本とドイツで多数の文学賞を受賞した。 3. 多 和 田 葉 子 の 作 品 に お け る 女 性 人 物 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 多和田の作品における人物は余所者であり、その余所者の立場から文化や言語の現象を 観察している。多和田の描く女性は、多和田と同じく、二つの文化の間で宙吊りになった 存在である。彼女たち、異文化と直面する人物たちはそれまでの自分の文化と改めて向き 合うことになるという文化現象の正当性を分析しながら、自己認識を再確認しようとす る。 移民にとって、移民先の国の文化と向き合って新たな国の言語に自分の存在を翻訳する ことは最も劇的な経験であると思われる。以前の安定した自己認識は異文化と向き合うこ とによって揺らぐようになり、「自分」という存在を再定義せざるを得なくなる。多和田 葉子の殆どの作品における女性人物は、新しい国での生活に順応するために苦心し、異文 化との直面によって余所者としての自らの姿を映しだしている。そして、移民先の文化が 彼女たちに強制する文化的適応のせいで、彼女たちは無意識に新しいペルソナを作りなが ら自分を失っていく(これらは「ペルソナ」、「うろこもち」、「かかとを失くして」等 によく表れている特徴である)。見知らぬ環境に置かれた人物は、自身の居場所を失くす ため、自分が物質的に確かに存在しているという事実すら担保できなくなるのである。 3.1. 多 和 田 葉 子 の 作 品 に お け る 変 身 の モ チ ー フ Lerke von Saalfeld とのインタビューを受けたとき、多和田は次のように述べた。 「私はいつも相変わらず、「わたし」が中心にあることを望んだが、この「わたし」は 水のようなものである。固定されていない「わたし」であり、アイデンティティがな く 、 動 き ま わ り 、 流 動 的 で 、 形 の な い 物 体 で あ る 。 […] そ し て 、 こ の 「 わ た し 」 が 世 予稿集原稿 研究発表:日本研究/文学 映画 界 を 受 け 入 れ る と き 、 そ の 「 わ た し 」 自 身 が す っ か り 変 わ っ て し ま う 。 」 (Von Saalfeld, Lerke. 1998, 186) 「雲を拾う女」という短編小説の括弧で括られた(わたし)は前述の説明にぴったり当 てはまる。落ちた靴を返すために沼に住む悪魔と取引をした(わたし)は「何でもあげる わ」と魔物に約束するが、「身体が持ち物の一種だと思ったことはなかった」のである。 身体を悪魔に渡した(わたし)は駅前通りを通り過ぎる群集の靴を眺めながら「小さな雲 が足に付着しているかのような」白いハイヒールを履き、道端に落ちている灰色のパンの かけらを拾う女に注意を引かれる。その女を公衆トイレまで追いかける(わたし)はトイ レの鏡の前に置き忘れられた哺乳ビンの乳首に変身する。個室の中でパンのかけらをこっ そり食べていた女は個室から出てきて、哺乳ビンの乳首に気づいてすばやく鞄の中に閉じ 込めて家へ帰る。 コウモリと呼ばれるその女は税金を節約するために同性愛の男と結婚して同居してい る。コウモリは「ひとつの存在の中で、別の存在が出している音」を録音したがってい る。しかし、鏡に姿の写らないコウモリは(わたし)のように特異な存在であるにもかか わらず、自分が拾った哺乳ビンの乳首に別の存在が隠れていることに気づかない。沼に住 んでいた悪魔がコウモリのアパートに入るとき、(わたし)は自分の身体を返してくれと 求めるが、(わたし)は「雑音や世迷い言を全身に刻み込まれた録音テープに変身」させ られる。箪笥に隠されたパンのかけらは引出からあふれて外にこぼれる。山積みのパンの かけらは、光を吸い込み白く輝きながら、コウモリの身体を包み込んで窓から宙に浮か ぶ。 2001 年に出版された『変身のためのオピウム』を読むと、古代ローマの詩人オゥイデ ィウスの影響が明らかに見えるが、「雲を拾う女」を含めて多和田のほかの作品でも『変 身物語』巻十五のピタゴラスの教えから受けた影響が読み取れる。密接な関連あるのは次 の引用部分である。 「万物は変転するが、何ひとつとして滅びはしない。魂は、さまよい、こちらからあち らへ、あちらからこちらへと移動して、気にいったからだに住みつく。獣から人間のか らだへ、われわれ人間から獣へと移り、けっして滅びはしないのだ。柔らかな蠟には新 しい型を押すことができ、したがって、それはもとのままではいられないし、いつも同 じ形をたもつことはできないが、しかし同じ蠟であることには変わりがない。それと同 じように、霊魂も、つねに同じものではありながら、いろんな姿のなかへ移り住む―そ れが私の説くところだ。」(オウィディウス 1981, 下 307-308) 多和田の作品における身体は変わりやすい/変えやすい身体である。「雲を拾う女」の (わたし)が言うとおり「カタチがあると、壊れるのが恐いので、カタチがない方がい い」のである。このような一時的で変化しやすい身体は、物質世界の儚さについて考えさ せる。元の身体から抜け出して、次の身体を受け入れる。その次の身体が人間の身体では 予稿集原稿 研究発表:日本研究/文学 映画 ない場合もある。霊魂は自由にこの世を漂って、手袋を嵌めるように新しい身体に入り込 む。身体は主題でもないし、対象にもならない。身体は単なる道具であり、移動する魂の 仮の宿となる。『変身のためのオピウム』におけるラトナが述べるように、「身体などと いうものは、空中にいくらでも浮いているけれども、その中には、わたしたちの所有すべ き 身 体 は ひ と つ も な い 」 ( 42 ) 。 そ し て 、 早 く 年 を と り た が っ て い る ポ モ ナ は 、 「 一 つ の身体の形、髪の毛の色、身分証明書を持ち、煙草を吸う人だったり、吸わない人だった りする、そういう一人の人間でありたいと望むことが滑稽なことのように思えてしま う 。 」 ( 190 ) と 述 べ る 。 そ れ は 、 彼 女 が 若 さ に 魅 力 を 感 じ な い 一 方 で 、 経 験 を 積 ん だ 「年とった女たちにはいつも魅了されてきた」からである。同じく、ゼメレにとって年を とる過程は「ずっと恋をし続けるようなもの」でありながら、「成熟した目の玉を囲む皺 が語っている。『あたしは知っている。』」と書かれていることから分かるように、年を とるにつれて身につけた分別が強調されている。確かに、オウィディウスの『変身物語』 から出た女神にとって、年齢には価値がある。もちろん、『変身のためのオピウム』の女 性人物は現代に生きている女性であるが、オウィディウスの『変身物語』の世界に生きた 女性人物の生まれ変わりとしても解釈できる。殆どの女性人物はただの移民として造形さ れているが、中には人間でありながら神秘的な能力を持つ女性人物もいる。その神秘的な 能力が最も顕著な形で表れたものが、自分の物語の作者になることであるのかも知れな い。 3.2. 日 本 人 と し て の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 『うろこもち Das Bad』(1989) と „Ein Gast”(お客さん)では聴覚と話す能力につ いて扱われている。本稿では『うろこもち』について触れたい。『うろこもち』の「わた し」はドイツに移民した日本人の女性である。モデル経験がないにもかかわらずクサンダ ーのためモデルになった「わたし」の姿は写真に写らない。「日本人としての自覚が足り ない と こういう ことに なる」(162)とクサン ダーが言う。 他の文化が自分の文化 につ い て規定した規範に合わせるために「わたし」はせっせと化粧するが、日本にいる母親と再 会した時、「おまえ、どうしてそんなアジア人みたいな顔になったんだい?」[…]「よく アメリカ映画にでてくる日本人がいるだろう?ああいう異国趣味な顔になってきたよ。」 ( 44 ) と 母 親 に 言 わ れ る 。 無 免 許 の 通 訳 と し て あ る 商 談 に 立 ち 会 っ た と き 「 わ た し 」 は 商談で話されたことと全く違うことを商談相手に伝わる。「みんなわたしの口を通して語 っている」と考える「わたし」は、商談で行われているのは偽りの会話であることに頓着 しない。「舌平目」という料理が運ばれてくるが、この魚の名前は多和田の作品において は「舌」を象徴する重要なモチーフである。どもり始めた「わたし」はお手洗いに入って 失神する。見知らぬ女が「わたし」を助けて自分の家に連れて帰るが、翌日、クサンダー に会うとき「わたし」は自分の舌がその女に取られたと気付く。実は、「わたし」を助け た女は自殺した女性の幽霊であった。小説の終わりの一行において、「わたし」は自分に ついて「透き通った一個の棺桶だ」と気づく。 予稿集原稿 研究発表:日本研究/文学 映画 自分自身を何回も再定義する「わたし」は、死者によって舌を奪われたため死者の言 葉が分かるようになる。しかし、これは最初の変身ではない。彼女の皮膚に生えるうろこ は「わたし」の特徴的な印でありながら(日本にいるお母さんの身体もうろこで覆われて いる)、カフカの『変身』を思い起こさせる。そして、「うろこもち」の中に記されてい る魚になってしまう母親の伝説も下敷きになっている。 „Erzähler ohne Seelen“ (魂のない語り手)に出てくるアメリカインディアンの教えによ ると、魂が動く速さは飛行機の速さより遅いので、飛行機旅行をする人は自分の魂を失っ てしまうのである。多和田作品における人物は文化と文化の間の空間に宙吊りにされたよ うになり、そして移動する人物の心も居場所を失ってしまうのである。„Das Fremde aus der Dose ( 缶 詰 の 外 国 人 )“ か ら 分 か る 通 り 、 魂 は 船 の ス ピ ー ド で 移 動 で き る と 思 わ れ る が、身体が変化してしまう。スーパーで買った缶詰の表面に日本人の女性が描かれている ので、「わたし」は缶の中にその女性がいると期待する。しかし、缶を開けて中身のツナ を見たとき、「わたし」は長い船旅の間に日本人の女の人が魚の一部分になってしまった と簡単に結論する。 「ペルソナ」にも日本人としてのアイデンティティが問題化されている。小説のテーマ はデラシネ感だと思われる。留学のためドイツに移民した若い道子がハンブルク港の辺り をさ迷い歩く。「東アジア人は無表情だから何を考えているかわからない」とか言われた 道子は何度かベトナム人と間違えられる。自分は日本人なのだと言っても、「ああトヨタ か」などと笑われてしまう。最後の場面に道子は能面を被って道を歩くが、「一番日本人 らしく見えたこの日に」も、周りの人は道子が日本人であることに気づいてない。 4. ま と め : 異 文 化 と の 出 会 い と ア イ デ ン テ ィ テ ィ 多和田葉子のドイツ語で書かれた小説は記号論を中心的なテーマとし、オリジナルと翻 訳の間の相互依存の関係を考慮しつつ言葉遊びによって新しい意味を作り出している。彼 女は翻訳のテキストにもオリジナルテキストの痕跡を残しながら同時に翻訳の必要性とオ リジナルテキストのアイデンティティを認めている。多和田はオリジナルテキストから他 言語に翻訳するとき、その翻訳された言葉にも配慮しており、そのような書き方によって 彼女は二つの文化と二つの言語の間の緊張関係を表している。それは多和田作品の人物の 造形の仕方にも明らかである。多和田作品の人物は多文化性を問題化しながら、その中で 自分のアイデンティティを守ろうとしている。しかし、ある人物が一つの文化から他の文 化に移る場合、その人物は元の文化によって特徴づけられるわけではない。二つの文化、 つまり彼らが後に残してきた文化とこれから入っていこうとする文化の間の空間に宙吊り になっているため、多和田の描く人物はその二つの文化のずれや異なる文化の間では本当 のコミュニケーションは不可能であるということを示している。 予稿集原稿 研究発表:日本研究/文学 映画 参考文献 多和田葉子(1992)『三人関係』講談社 多和田葉子(1993)『犬婿入り』講談社 多和田葉子(2000)『ヒナギクのお茶の場合』新潮社 多和田葉子(2001)『変身のためのオピウム』講談社 Tawada, Yoko. 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