アントワーヌ・ド・リヴァロル Antoine de Rivarol: sa vie et son œuvre

人間環境学会『紀要』第1
4号 Sept 2010
<論文>
アントワーヌ・ド・リヴァロル
―その生涯、その作品(十五)―
伊 東
冬 美*1
Antoine de Rivarol: sa vie et son œuvre
Fuyumi Ito*1
Antoine de Rivarol, né dans le Languedoc en 1753 et mort à Berlin en 1801, est un des
grands écrivains littéraires et politiques du XVIIIe siècle. Membre de l’Académie de Berlin
par le Discours sur l’universalité de la langue française (1784) , il montra son esprit étincelant
et la raillerie mordante envers tous les écrivains impuissants avec Le Petit Almanach des
grands hommes (1788), avant de se révéler journaliste admirable dans sa défense de la monarchie, attitude politique qui le contraignit à l’exil sous la Révolution française.
Depuis l’étude sagace et profonde que lui a consacrée Sainte−Beuve en 1851, on a assez
souvent parlé de lui. En France, tout le monde connaît au moins le nom de Rivarol, sauf sa vie
et son œuvre. Mais au Japon, même le nom de Rivarol reste, à mon grand regret, dans l’obscurité. C’est pourquoi je me propose, dans ce mémoire, de vérifier sa vie orageuse, et d’analyser son œuvre variée.
Dans ce mémoire(15), je décris la mort affreuse de Champcenetz et Chamfort, l’Opération du débarquement dans l’île de Quiberon, et l’ arrivée de Rivarol à Hambourg.
*1
Kanto Gakuin University: 1−50−1, Mutuurahigashi, Kanazawa-ku, Yokohama 236−8503, Japan.
key words:リヴァロル、十八世紀フランスの作家、王党派ジャーナリスト
Rivarol, écrivain français du XVIIIe siècle, journaliste monarchiste
シャンスネの刑死とシャンフォールの自害
リヴァロルがロンドンでペルティエやティイ伯爵に再会したとき、彼らはそれぞれ腸を断たれる
ような苦痛に身悶えした。彼らの朋友たちが無残な死を遂げたのを知ったからである。
シャンスネは彼らの親友だった。とりわけリヴァロルにとっては刎頚の友であり、
『偉人小年
鑑、1
7
8
8年版』を一緒に執筆した仲だった。
ティイ伯爵は亡命する際にともにパリから脱出しようとシャンスネを促した。しかし、シャンス
ネはティイ伯爵の申し出を断り、パリ北東4
0キロのモーに革命の難を避けた。が、パリの自邸の図
書室で版画を眺め、書物を読みたいという欲求に引き立てられ、数日でパリに戻った。パリに戻っ
*1
関東学院大学人間環境学部現代コミュニケーション学科;〒2
36―8
50
3 横浜市金沢区六浦東1―5
0―1
― 59 ―
た彼は1
7
9
2年1
1月に逮捕された。
軽妙洒脱で陽気で豪快な点は誰もが認めたシャンスネの魅力であった。彼は逮捕ののちもその魅
力をいささかも失わず、
「ギロチンの請負人」として衆人から恐れられていた革命裁判所検事総長
フーキエ‐タンヴィルが彼に死刑の判決を下したときにも笑いながら検事総長に尋ねた。
「法廷とい
うのは人が入れ替わる国民公会のようなものでしょうか。
」陰険なフーキエ‐タンヴィルが怪訝な面
持ちで「なぜですか」と質した。シャンスネは答えた。
「できましたら、貴方と入れ替わりたいと
思いまして!」
(4
9:4
0
8)
1
7
9
3年6月、シャンスネは牛馬のように乱暴に荷馬車に放りこまれた。荷馬車は処刑場の革命広
場へと向かった。その途中、シャンスネは汚い荷馬車の中から御者に向かって大声で叫んだ。
「速
く走らせてくれたまえ。酒手をはずむから!」
(4
9:4
0
8)
人をからかうのが三度の飯より好きなシャンスネらしく、彼は最後の日まで冗談を飛ばしてい
た。彼は革命派との決戦に臨むように傲然と頭を起こして断頭台に上って行った。天晴れな最期で
あった。
シャンフォールが世を去ったのは1
7
9
4年4月1
3日である。
シャンフォールは良家の娘と氏素性の知れぬ男性との間に誕生した私生児だった。このためか、
生まれた年も1
7
4
0年、4
1年、4
3年と諸説ある。彼は、貧困に堪えつつ給費生としてパリのデ・グラッ
サン学院に学んだのち、代訴人の書生などをしながら数篇の喜劇を書いた。やがて1
7
7
6年1
1月、悲
劇『ミュスタファとゼアンジール』
(Mustapha et Zéangir)が王妃マリー‐アントワネットの臨席の
もとフォンテーヌブロー宮で喝采のうちに上演されるにおよんで名声を確立した。
そして、こののち、彼はコンデ将軍の司令部書記官、王弟プロヴァンス伯爵の朗読係、王妹エリ
ザベートの秘書官などに任ぜられ、1
7
8
1年7月には栄誉あるフランス・アカデミー会員の地位に昇
りつめた。
だが、不運な出自のためか、貧乏の体験のためか、彼はヒューマンな魂と反骨の精神とを持って
いた。それゆえ、王族や貴顕紳士との交わりを怏々として楽しまず、貧者弱者に心を寄せていた。
フランス大革命勃発前夜、彼は自嘲している。
「私の人生は私の信条に明らかに反する事柄の連続
である。私は王族を好かないが、王女と王子とに仕えている。私の書いた共和主義的箴言は世に知
られているのに、半面、私の友人のうち何人もの人間が王政の勲章で身を飾っている。私は自ら選
んだ貧困を好むが、実際は富裕な人々と一緒に生きている。
」
(1
6:1
4
4)
ヒューマンな魂と反骨の精神とを持つシャンフォールは、自身の信条と実際の生活との乖離を完
全に解消せんと王政の転覆を望み、第三身分のブルジョワ支配の共和政を願うようになった。
ブルジョワ革命のバイブルとなったシエイエス師著の小冊子『第三身分とは何か』が出版された
のは1
7
8
9年の1月であった。大革命勃発前夜のこの時分、シャンフォールはシエイエス師と親しく
― 60 ―
アントワーヌ・ド・リヴァロル
していて、大革命の起爆剤ともなったこの小冊子のために標題を附けてやった。リヴァロルの知友
でもあったローラゲー伯爵に、シャンフォールは打ち明けている。
「この標題は著作そのものだと
貴方にもお判りになりましょう。この標題には著作の精神が含まれていますから。それもそのは
ず、私があの潔癖なシエイエスに標題を進呈したのです。
」
(1
6:1
4
3)
さらに、同年5月のころ、シャンフォールは「1
7
8
9年の愛国者たち」という革命クラブを創設し
た。このクラブには、三部会選挙で第三身分の代議員に選出されたシエイエス師、ミラボーのほ
か、ノアイユ子爵、ラファイエット、ラ・ロシュフーコー公爵、レードレル伯爵、ラメット兄弟以
下の自由主義貴族、1
7
9
0年成立の僧侶民事基本法を考案する僧族のタレイラン‐ペリゴール、のち
にジロンド党員となるコンドルセとクラヴィエール、のちに山岳党ダントン派となるエロー・ド・
セシェルなど、政見もさまざまな革命派3
6人が名を連ねた。
さらにまた、やはり大革命勃発前より、シャンフォールは盟友ミラボーのために身を削って数多
の演説を起草した。前述のように、1
7
8
9年6月2
3日、ミラボーは、議場から退出すべしという国王
の下命に抵抗して議場で獅子吼した。
「われわれは人民の意志によってここにとどまる者であり、
銃剣の力によらずば退去せぬであろう。
」歴史に残るこの演説もシャンフォールの筆になるもので
る。
1
7
8
9年7月1
4日、大革命の火蓋が切って落とされると、シャンフォールは民衆を鼓舞するために
バスティーユ獄に駆けつけた。そして、翌年、貴族制度廃止の決議に先立つこと2日前の6月1
7日
には、シエイエス師、ラファイエット、コンドルセなどとともに「1
7
8
9年協会」を設立した。これ
は「1
7
8
9年の愛国者たち」のメンバーを核にして6
0
0名のメンバーにふくらませた政治クラブであ
り、宮廷側に寝返ったミラボーから、主戦論者となるブリッソ以下、のちのジロンド党員までを擁
する比較的穏和なクラブであった。
こうしてクラブを設立する一方で、シャンフォールは『1
7
8
9年新聞』
(Journal de 1
7
8
9)
、
『村の
新聞』
(Feuille Villageoise)
、
『プロヴァンス通信』
(Courrier de Provence)などを舞台に民主主義の
論陣を張った。
リヴァロルは、啓蒙思想家ダランベールが主賓だったレスピナス嬢のサロンあたりで1
7
7
0年後半
にシャンフォールを知己に得ていたと思われるが、論文『フランス語の普遍性についての叙説』に
よって、リヴァロルがベルリン・アカデミーに迎えられた1
7
8
5年以降は親交が一段と深まった。
シャンフォールがリヴァロルのこの論文を賞讃してやまなかったからである。
人民主権を主張するシャンフォールは、
『使徒行状録』や他の王政派の定期刊行物の執筆者たち
の批判の的となったけれども、リヴァロルが彼を批判することはなかった。友達だったからではな
い。政治的な立場が対立するとはいえ、リヴァロルは傑出した論客として彼を評価していたのであ
る。リヴァロルは彼を擁護して述べている。
「廉潔ということに厳しい人間たちは、暴政の恥ずべ
― 61 ―
き恵みで生計を立てたのち、暴政を見捨てた、と言って彼を非難した。しかしながら、誠実なシャ
ンフォールは反駁の余地がない論拠によって中傷に応えた。
」
(1
6:1
5
0)
ミラボーが死去して約1年、1
7
9
2年3月、ジロンド党内閣が成立したとき、シャンフォールはジ
ロンド党ともつかず、山岳党ともつかず、是々非々の態度で両者の間を行き来した。
ところが、1
7
9
2年の「八月十日革命」の直後、内務大臣ロランが彼に国立図書館の館長就任を要
請した。シャンフォールはジロンド党政権下で官職に就くことに乗り気ではなかったが、要請を断
りきれずに館長に就任した。その結果、彼はジロンド党員と見なされ、山岳党からの非難にさらさ
れるようになった。彼も負けずにマラーやロベスピエール批判を行なったけれども、それも1
7
9
3年
春までであった。
1
7
9
3年6月、ジロンド党が議会から追われ、山岳党独裁の時代に入ると、彼の首元に断頭台の刃
が迫ってきた。彼は山岳党による処刑を受け容れがたく感じ、同年1
1月中旬、自分の顔に向けて拳
銃の引金を引いた。銃弾は彼の鼻の上と右目とを打ち砕いたが、死にきれなかった。次の声明文
は、そのとき、鮮血に染まり、痛みにのたうちながら彼が書いたものである。
「私儀ジャン‐セバス
チアン‐ニコラ・シャンフォールは、奴隷として刑務所に引き立てられて行くよりは自由な人間と
して死ぬのを望んだのだと言明する。
」
(5
9:1
0
4)
1
7
9
4年4月1
3日、シャンフォールは傷に苦しんだ末に息を引き取った。リヴァロルがル・カトー
の陣を観戦した2週間後のことである。
リヴァロルが先述の『人民主権論』の序文を執筆したのはロンドン滞在中であった。1
7
9
4年1
2月
2
3日附、ダヴィド・カパドース宛の手紙において、リヴァロルは『人民主権論』の執筆に励んでい
ると伝えている。手紙には、この書物は革命戦争の泥沼からヨーロッパを救い出す「頼みの綱」に
なるとあるから、非常な自負をもって執筆していたのだろう。
「貴方は長きにわたって続いている
ヨーロッパの断末魔の苦しみについて小生の意見を尋ねておいでです。現在、小生はヨーロッパを
この苦しみから救うための頼みの綱をなうべく努めています。
(・・・)小生は書物の執筆に大い
に精を出しています。
」
(4
9:3
2
6)
ロンドンでは『人民主権論』執筆のほかに、ピット首相との会談、バークとの邂逅、旧友との再
会などがあった。だがしかし、反りの合わないフランス人亡命者たち、ロンドンで聞きおよんだ
シャンスネおよびシャンフォールの痛ましい死、それに、濃霧と煤煙などのせいで、1
7
9
5年4月こ
ろ、リヴァロルは気鬱にとらわれた。
ダヴィド・カパドースがロンドンにいてくれれば少しは気分が晴れるかと思い、彼に訪英を勧め
てみた。けれども、娘が船と海賊とを怖がっているので訪英は叶わぬという返答だった。
気鬱にとらわれたリヴァロルはドイツに向かって出発しようと考えはじめた。目的地がドイツで
あるのは、ヴェローナに居留していたプロヴァンス伯爵がそろそろハム・イン・ウェストファーレ
― 62 ―
アントワーヌ・ド・リヴァロル
ンに戻るころだと予想したからであり、プロヴァンス伯爵のもとに行く必要を感じたからである。
1
7
9
5年4月2
6日、ロンドンからダヴィド・カパドースに送った手紙にリヴァロルは述べている。
「小生はこの亡命の都を去るつもりです。十分な理由がありまして、プロヴァンス伯爵のおそばに
伺うのです。従って、ハンブルクを通ることになりましょう。
」
(4
9:3
2
7)
リヴァロルの手紙はハンブルク経由でハム・イン・ウェストファーレンに向かうと告げているの
だが、どのような理由からプロヴァンス伯爵のもとに行こうと考えたのか。
この年、1
7
9
5年の1月、ピシュグリュ将軍率いるフランス革命軍がヨーク公率いるイギリス軍を
オランダから一掃した。これにより、オランダは崩壊した。
フランスは優勢のうちに戦争を続行していたが、かさむ戦費で財政は逼迫していたし、国民の間
には疲労と厭戦気分とが蓄積されていた。プロイセンは全兵力をポーランドに投入して第三次分割
の主導権を握ろうとしていた。革命戦争の重荷を減らしたいという点でフランスとプロイセンの思
惑は一致したので、同年4月五日、両国は講和条約を結んだ。続いて、同年7月にはスペインがフ
ランスと休戦するにいたった。
一方、イギリスは、ヨーク軍がヨーロッパ大陸から排除された1月以降、アルトワ伯爵が切望し
ていたキブロン半島遠征への支援を考えはじめた。事ここにいたって、イギリスはやっと重い腰を
上げようとしていたのである。
リヴァロルがプロヴァンス伯爵のもとに行こうと考えた主な理由は、列強のこうした企図動向に
ついてプロヴァンス伯爵と話し合い、王政復古への道筋を探ることにあったろう。
ほかの理由としては、獄内の亡命貴族を救うためにプロヴァンス伯爵の力を借りたいと考えたこ
とが挙げられよう。リヴァロルの上掲の手紙はショワズール公爵とダマース伯爵の投獄について触
れ、救出の可能性を語っている。
「われらがお気の毒なショワズール公爵と、ダマース伯爵とを襲っ
た不幸をお聞きおよびでいらっしゃいましょう。しかしながら、お二人をお救いする希望はなきに
しもあらずなのです。お二人はダンケルクの牢舎に繋がれておいでです。
」
(4
9:3
2
7)
ショワズール公爵は渡英するリヴァロルに旅費を用立ててくれた人物であり、ダマース伯爵はコ
ンデ将軍の主馬頭だった人物である。
アルトワ伯爵のキブロン半島上陸作戦
リヴァロルが実際にロンドンを離れるのは上掲の手紙をしたためた4ヶ月後、1
7
9
5年8月末にな
る。
ロンドンを離れるまでの4ヶ月の間に、プロヴァンス伯爵の側にもアルトワ伯爵の側にも状況の
変化が生じた。
1
7
9
5年6月2
1日、ヴェローナに仮寓していたプロヴァンス伯爵はルイ十六世の王太子ルイの訃報
― 63 ―
を受けた。プロヴァンス伯爵は1
7
9
3年の「フランス摂政の宣言」において王太子ルイをフランス国
王ルイ十七世として声明したが、その王太子が1
2年の人生を終えたという。
プロヴァンス伯爵は衝撃とともに幼君の訃報を受けた。そして、重臣のダヴァレ伯爵をそばに呼
び、
「国王が崩御あそばされた」とだけ述べた。ダヴァレ伯爵は昂揚した面持で「国王、万歳!」
(1
1:1
3
8)と応え、死を悼んだ。
悲しみに浸る暇もなく、プロヴァンス伯爵とその家臣たちは王位継承問題を解決しなければなら
なかった。6月2
4日、プロヴァンス伯爵は直ちに自らをもってフランス国王ルイ十八世を任ずる旨
の宣言を列強に発した。
この宣言の難点は旧制度の完全な復元をも言明していたことである。王政復古時代に明瞭になる
ように、プロヴァンス伯爵自身はイギリスふうの立憲王政をよしとしていた。しかし、彼は、周囲
の過激王党派の声に押され、意に反して旧制度の完全な復元を言明してしまった。
この時代錯誤的で、強硬な言辞は、立憲王政派の間に懐疑心や警戒心を生み、王政再建への熱意
を覚まして、王政復古実現を遅らせる一因ともなる。それゆえ、プロヴァンス伯爵にとっても、リ
ヴァロルにとっても大いに悔やまれる言辞となった。
イギリスは、自国軍隊がヨーロッパ大陸から逐われるにおよんでキブロン半島上陸への支援を考
えるようになり、1
9
7
5年5月に支援の意向を明らかにした。
イギリスはいまだアルトワ伯爵に渡英許可を出していなかった。このため、アルトワ伯爵はフラ
ンス支配下のオランダにあって、革命軍から逃れながら諸州を彷徨していた。
イギリス政府の意向に基づいて、キブロン半島遠征軍の総司令官にはフランス人のピュイゼ伯爵
が納まった。
ピュイゼ伯爵は、国境地帯守備龍騎聯隊の少尉として軍務に就いたのち、全国三部会の立憲王政
派代議員に選ばれた。そして、1
7
9
3年、フランス西部で反革命王党派ふくろう党の人々、すなわち
シュアンによって軍団が結成されると、ノルマンディ地方でシュアン蜂起軍の指揮を執ったが、同
年7月、シュアン蜂起軍が革命軍に敗れたため、イギリスへの亡命を余儀なくされた。
キブロン遠征軍でピュイゼ伯爵の副官を務めたのはジャン‐ジャン、G.カドゥーダル、タンテ
ニャック伯爵、ダレーグル伯爵、ヴォーバン伯爵だった。いずれもシュアンの指導者である。
ピュイゼ伯爵は兵を三度に分けてキブロンに上陸させ、第三陣は陣頭にアルトワ伯爵を置いて上
陸せしめるという戦略を立てた。ピット首相は彼の戦略を是とした。
今なおイギリスは、フランスに王政を復活させるためではなく、フランスの国力を低下させるた
めに戦うのだという政治姿勢を取り続けていた。1
7
9
5年5月2
8日、イギリスの密使ウィッカムは、
ピット内閣の外務大臣グレンヴィル卿に宛てた書翰においてイギリスがキブロン半島上陸を支援す
る理由を念押している。
「真の目的はフランスの軍事組織を破壊することにございます。
」
(1
8:T
― 64 ―
アントワーヌ・ド・リヴァロル
蠡、1
0
5)
1
7
9
5年6月、キブロン遠征軍第一陣のイギリス艦隊は8万の銃のほか、大砲、火薬、
2
9
0
0名の兵、
6万人分の衣糧などを積んでイギリス南海岸ポーツマス港の停泊地スピットヘッドで錨を上げ、キ
ブロン半島へと針路を取った。やがて地平線にフランス艦隊が現れる。イギリス艦隊はフランス艦
隊に攻撃を加え、4隻の船舶を拿捕した。そして、6月2
5日の夜、キブロン湾の錨地に錨を下ろし、
2
7日に湾内のカルナックに兵士たちを上陸させた。
2
9
0
0名の兵の内訳は、解散に追いこまれた亡命貴族軍の将兵が大部分を占めたが、ほかにデュ
ムーリエ将軍の謀叛のせいで行き場を失った元革命軍兵士や、国籍がさまざまな志願兵およそ1
0
0
名も含まれていた。カルナックに上陸した兵士たちは数時間のうちに集まってきた農民1万5
0
0
0人
の出迎えを受けた。
ピュイゼ伯爵は、ブルターニュ人たちを遠征軍に組み入れ、それを三つの部隊に分けて、オーレ、
ランドヴァンへの進攻を命じた。ブルターニュやヴァンデのシュアン叛乱軍もこぞって遠征軍に加
勢した。革命軍は敵の進攻を目にしてヴァンヌに後退した。ヴァンヌはオーレの東1
7キロにある。
一方、ピュイゼ伯爵はエルヴィイ伯爵に対してもブルターニュ半島内陸への進軍指令を出した。
が、エルヴィイ伯爵は、アルトワ伯爵の上陸に備えてキブロン半島を確保しておかねばならぬと言
い張り、指揮下の部隊をキブロン半島沿岸にとどめ置いた。
エルヴィイ伯爵はルイ十六世に忠義を尽くした軍人であり、大佐の位階にある。キブロン半島遠
征軍において彼は総司令官と同等の権限を与えられていたが、王室への過度の忠義立てのゆえに
ピュイゼ伯爵の指令を聞き入れず、キブロン半島遠征を失敗させる人物である。
ピュイゼ伯爵の指令を斥けたエルヴィイ伯爵は、増兵によりキブロン半島の守りを堅牢にしたい
と考え、ブルターニュ人たちにキブロン半島への集結命令を発した。ところが、集結命令が誤って
退却命令として伝わってしまった。ブルターニュ人たちはパニックに陥り、老若男女がものに憑れ
たようにキブロン半島の方角に走って行った。オーレやランドヴァン方面に進攻していた兵士たち
も前後の見境もなく戦地からキブロン半島の方向に逃げ出した。
ほどなくキブロン半島の付け根の地域、つまりカルナックとサント‐バルブ砦の間の地域は津波
のように押し寄せたブルターニュ人と兵士とで埋まった。ブルターニュ人の数は男性3
0
0
0人と、そ
の妻子たち、それに司祭などである。すし詰め状態になったのを憂慮したエルヴィイ伯爵はこれら
の人々をキブロン半島へと誘導した。
人々がキブロン半島へとなだれこんだそのとき、革命軍司令官オッシュ将軍が大隊を集結させ、
キブロン半島へと兵を進めた。
7月3日、遠征軍とシュアン叛乱軍はキブロン半島のパンティエーヴル要塞の後方に陣を築い
た。彼らは袋小路に入ったも同じだった。7日、オッシュ軍はパンティエーヴルの要塞まで進撃し
― 65 ―
てきて、要塞を包囲した。
しかし、エルヴィイ伯爵は、築陣から7月1
6日までの間、陣にこもり、いかなる指令も出さなかっ
た。その間に、遠征軍から脱走兵が続出した。脱走したのはイギリスで軍籍登録した元革命軍兵士
であり、これら兵士はイギリスで王党派に与したものの、パンティエーヴルの要塞で包囲される
と、再び革命軍側に寝返った。
7月1
6日、エルヴィイ伯爵はオッシュ軍攻撃に出た。万里の波濤の音を掻き消すほどに砲声が轟
きわたっていたとき、遠征軍第二陣のイギリス艦隊がキブロン湾に姿を現した。エルヴィイ伯爵は
瀕死の重傷を負い、さらに指揮官数人が死ぬなどして、遠征軍およびシュアン叛乱軍はパンティ
エーヴル要塞の後方へと退けられた。退けられた兵士たちは、外科医を求めて第二陣のイギリス艦
隊のもとに走った。キブロン半島は戦死者と戦傷者とであふれかえっていた。
遠征軍第二陣は元亡命貴族軍兵士や元革命軍兵士など、フランス人ばかり計1
5
0
0名から成ってい
た。司令官は2
6歳のフランス人、ソンブルイユ大佐であった。この若き大佐はプロイセン軍の一員
として戦場を駆け巡ったのち、イギリスに渡っていた。
2
0日夕刻、嵐がキブロン半島を襲った。激しい風雨がパンティエーヴル要塞を打ちつけた。要塞
の後ろの王党派陣営では兵士たちが喧嘩をしたり、負傷に苦しみもがいたりしていた。彼らの士気
低下は覆いようもなかった。ブルターニュの女性たちは胸に子供を抱き、棄ててきた村を思って泣
いていた。
同日深更、雷鳴が要塞を打ち叩いているころだった、革命軍のメナージュ大佐が口にサーベルを
くわえて、パンティエーヴル要塞後方の敵軍陣地に忍びこんだ。再び革命軍側についた元革命軍兵
士たちが大佐を先導していた。大佐の後には複数の精鋭兵が続いていた。彼らは待避壕で眠ってい
た敵軍砲兵たちの喉をサーベルで掻き切った。
2
1日早暁、パンティエーヴルの要塞に革命軍の三色旗が翻った。同日午前5時ころ、聯隊を率い
たソンブルイユ大佐が要塞の前方に到着した。けれども、要塞の奪還は難しく、宿営地に戻らざる
をえなかった。
ピュイゼ伯爵は、パンティエーヴル要塞の陣地で苦しんでいるエルヴィイ伯爵以下の将卒たちを
ポール‐オランジュに上陸させたいと考え、ポール‐オランジュ防衛をソンブルイユ大佐に命じた。
しかし、ソンブルイユ大佐はキブロン半島の地理に通じていたかったために誤ってポール‐アリグ
アンの砦に行ってしまう。
ポール‐アリグアン砦でソンブルイユ軍を待っていたのは革命軍の凄まじい砲撃だった。ソンブ
ルイユ軍はこれに必死に応戦した。亡命貴族やシュアン叛徒が束となって海に投げ出された。海水
が喉まで達した。そこへイギリスの軍艦ポーモーナに積まれていたボートの一隻が近づいてきた。
波間に浮かぶ戦旗を亡命貴族のマイエがかき集め、ボートに乗せた。ボートは七人乗りだったが、
― 66 ―
アントワーヌ・ド・リヴァロル
互いに譲り合い、誰も乗ろうとしなかった。ポーモーナが沖へと遠ざかって行くのを見ながら、彼
らは海に散った。
ソンブルイユ軍はポール‐アリグアン砦で惨敗した。ソンブルイユ大佐は降伏を潔しとせず、ピ
ストル自殺を図った。これで死にいたらなかった彼に対し、革命軍が銃火を浴びせ、彼をハチの巣
にして息の根を止めた。
7月2
8日からヴァンヌおよびオーレにおいて、翌2
9日からはキブロンにおいても、革命軍は捕虜
にした遠征軍兵士並びにシュアン叛乱軍兵士の処刑を開始した。このときから翌1
7
9
6年1月までの
間に、革命派は捕虜にした亡命貴族7
0
0名を銃殺し、イギリスで軍籍登録した元革命軍兵士と、シュ
アン叛徒、計3
0
0
0名を革命軍に編入する。
捕虜となった遠征軍兵士並びにシュアン叛乱軍兵士が次々銃殺されていた1
7
9
5年8月7日、イギ
リス政府は、アルトワ伯爵がイギリスの停泊地スピットヘッドに到着したとの報を受けた。アルト
ワ伯爵は何とか商船にもぐりこんでオランダからイギリスに渡ったのだった。
遠征軍第三陣は、1
7
9
5年の9月1
2日、キブロン湾の停泊地に入った。第三陣はアルトワ伯爵以下
5
0
0
0の戦士で構成されていた。アルトワ伯爵は戦艦ジェイソンに乗船していた。
このころ、キブロン半島でシュアン叛乱軍を指揮していたピュイゼ伯爵はアルトワ伯爵の即時の
キブロン半島上陸を願ったが、しかし、ブルターニュ地方における戦局はポール‐アリグアン砦の
戦いで大方決していた。このため、ロール男爵をはじめとするアルトワ伯爵の側近たちは、伯爵を
艦上にとどめ置こうと腐心した。側近たちにすれば、プロヴァンス伯爵に次いで第二位の王位継承
権を持つアルトワ伯爵を敗色濃厚なキブロン半島に上陸させるのはいかにも無謀に思われた。
戦艦ジェイソンに縛りつけられた恰好のアルトワ伯爵は焦慮に駆られ、1
3日、ピュイゼ伯爵に書
状を送った。
「イギリス政府が救助と支援とを余の忠誠なる同胞らに与えるよう、余は断固として
イギリス政府に懇請し続けます。国王に対する貴公の非常なる奉公を国王の御前で誉め上げるこ
と、これが今後とも変わらず余の真の喜びとなりましょう。
」
(1
8:T蠡、1
3
3)
艦上から将兵の武運を祈ることしかできなかったのだから、アルトワ伯爵はどれほど惨めな思い
だったことか。
翌1
4日、ピュイゼ伯爵は直ちにアルトワ伯爵に返書を呈した。
「殿下に対し王国の扉を開けて差
し上げる運命にないと悟り、全司令官が味わっております苦悩すべてにつきまして、また、こうし
た悟りが、殿下のご来臨を仰ぐ幸福を熱望していた多数の忠臣の間にいかに失意を巻き起こすかに
つきまして、小生は殿下に対し言葉で申し上げることができません。
」
(1
8:T蠡、1
3
3−1
3
4)
ピュイゼ伯爵のこの苦汁に満ち満ちた書状により、アルトワ伯爵はキブロン半島で起死回生を図
るのは困難と判断し、作戦変更してヴァンデ県への上陸を決定した。
ヴァンデ県でシュアン叛乱軍の指揮を執っていたのはシャレットだった。アルトワ伯爵は至急
― 67 ―
シャレットのところに伝令を走らせ、ヴァンデ県上陸を予告した。予告された入港地点はサン‐ジ
ル‐クロワ‐ド‐ヴィ港のそばのシオンとあったが、シオンでは逆風が吹き荒れており、入港は難し
かった。このため、シャレットは、9月2
4日、サン‐ジル‐クロワ‐ド‐ヴィの南東2
5キロに位置する
レ‐サーブル‐ドロンヌの入江への入港をアルトワ伯爵に進言した。
しかし、ときを同じくして、グルーシー侯爵指揮下の革命軍がレ‐サーブル‐ドロンヌに参集し
た。アルトワ伯爵たちを乗せたイギリス艦隊は急遽進路を変え、ノワールムーティエに向かって発
進した。ノワールムーティエはサン‐ジル‐クロワ‐ド‐ヴィの北西約4
0キロにある半島である。だが
しかし、イギリス艦隊がこの半島に近づいたとき、カンブレイ将軍率いる革命軍がすでに岸壁で敵
艦隊を待ち構えていた。
ノワールムーティエ半島への接岸を断念したアルトワ伯爵たちイギリス艦隊は、結局、サン‐ジ
ル‐クロワ‐ド‐ヴィの西3
0キロの沖に浮かぶユー島に上陸した。9月3
0日のことである。
5日後の1
0月5日、コンデ将軍の子息ブルボン将軍がユー島でアルトワ伯爵たちに合流した。武
功赫々たる将星ブルボン公爵はヴァンデ県での戦陣で指揮を執らんとして駆けつけたのだった。し
かし、ヴァンデ県の海岸はいたるところ革命軍で固められていて、アルトワ伯爵もブルボン将軍も
ヴァンデ県の地を踏むことができない。
シャレット軍はシオンやレ‐サーブル‐ドロンヌでグルーシー侯爵麾下の革命軍と戦っていたが、
1
0月上旬より、革命軍はピレネー地方から増援を得て勝ち戦を重ねた。
シャレット軍に加勢できないアルトワ伯爵は、1
0月1
3日、ユー島で地団駄を踏みながらダルクー
ル公爵に告げ知らせる。
「海岸には共和国の軍隊しか見えません!」
(1
8:T蠡、1
3
6−1
3
7)このとき
もまた、側近たちがアルトワ伯爵のヴァンデ県上陸に異を唱えたのだった。
やがてシャレット軍は総崩れとなる。そして翌1
7
9
6年3月、シャレットは捕えられて虐殺される。
1
7
9
5年1
1月2
5日、アルトワ伯爵は底知れぬ失意のうちに戦艦ジェイソンに乗り、ユー島からイギ
リスへ向かった。キブロン半島上陸作戦は、命令への不服従、士気の低下、アルトワ伯爵のオラン
ダ出立の遅延、アルトワ伯爵の側近たちの臆病などが災いして失敗に終った。
イギリス政府は、アルトワ伯爵の存在を迷惑に思いながらも、エディンバラ北方に建つホーリー
ルード城を伯爵に提供した。城内に隠棲すること、城外に遠出しないことが条件であった。従っ
て、ここでの暮らしは軟禁生活に等しかったが、アルトワ伯爵は王政復古までここに暮らす。
アルトワ伯爵がホーリールード城に暮らすようになったころ、リヴァロルはもうイギリスに滞在
していない。従って、二人がイギリスで相見えることはなかった。
ロンドンからハンブルクへ
熱月派の革命たちはブルジョワジーの利益を貴ぶ共和主義をよしとし、1
7
9
5年8月2
2日、革命を
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アントワーヌ・ド・リヴァロル
著しく後退させる「共和暦第3年憲法」を制定した。これは、
1
7
9
3年の民主主義的憲法とは異なり、
普通選挙の廃止と制限選挙の導入、所有権の絶対的不可侵、経済統制の解除と自由主義経済の採
用、度合いを狭めた自由並びに平等の原理、それに、独裁防止のための5百人議会と元老院との二
院制などを定めた反動的な憲法である。
共和政成立とともに誕生した国民公会は、反動政治下の1
7
9
5年1
0月2
6日に廃止される。そして翌
日には、
「共和暦第3年憲法」に基づいた総裁政府が成立して、バラス以下5人の総裁が集団指導
体制によりブルジョワ的共和政治を司る。
「共和暦第3年憲法」制定から1週間経った1
7
9
5年8月3
0日、リヴァロルはマネット同伴でロン
ドンを発ち、海路ハンブルクに向かった。
ベルギーないしオランダの港から馬車でハンブルクへの道を辿る経路も考えられなくはない。
が、リヴァロルがロンドンを去ったのは雨季に入る時期だったから、馬車でハンブルクへの道を辿
れば、泥濘が馬車を立ち往生させるに相違なかった。
また、当時はフランスがプロイセン、スペインと相次いで休戦条約を結んだところで、除隊に
なったフランス兵がドイツおよびその周辺諸国で蛮行を働くことも間々あったから、陸路は危険
だった。このため、船でハンブルクへ直行することにしたのだった。
しかし、危険は海路も変わりなかった。北海には数隻のフランスの艦船が出没したからである。
リヴァロルは、フランス艦船を認めるや、彼への讃辞が盛られたローマ教皇ピウス六世の小勅書や、
その他の内密の文書を北海の泡立つ波浪の中にそそくさと捨てた。
北海およびバルト海に面したハンブルクは中世以来のハンザ同盟都市であり、国際交易の要地で
ある。埠頭では海洋船の胴体から吐き出された幾つもの箱、梱、麻袋、樽、壜を陸揚げする荷揚人
夫たち、帳簿を持って取引所に流れこむ貿易商たちで活況を呈していた。
埠頭に漂うタールの匂いや植民地産の香辛料の匂いを嗅ぎ、海上に煌き映る赤煉瓦の倉庫群を眺
めるうち、リヴァロルはハンブルク到着をしみじみ実感した。
しかしながら、彼がそのそばにありたいと願ったプロヴァンス伯爵はハム・イン・ウェスト
ファーレンに戻っていなかった。仕方がなく、リヴァロルはハンブルクから2キロのところにある
村ハムにささやかな家を借りた。
そこでプロヴァンス伯爵のハム・イン・ウェストファーレン帰還を待つことにしたのだったが、
しかし、伯爵がヴェローナから立去るのは1
7
9
6年4月である。しかも、伯爵がハム・イン・ウェス
トファーレンに帰還することはもうないのである。
1
7
9
6年4月、ナポレオンの指揮するイタリア遠征軍がアルプス、アペニン両山脈を越えた。怖れ
をなしたヴェネツィア元老院はプロヴァンス伯爵のヴェローナ退去を決定し、4月1
4日、プロヴァ
ンス伯爵にその決定を通告した。伯爵は、しょうことなしに4月2
0日にヴェローナを発ち、2
8日に
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南ドイツのフライブルク付近に至り、それからフライブルクの北2
0キロ、ライン右岸の地リーゲル
に布陣していたコンデ軍に合流した。
リーゲル滞在中、プロヴァンス伯爵はライン河畔でフランス軍と対峙しているコンデ軍の前衛部
隊を見舞った。伯爵の姿を認めるや、コンデ軍の兵士たちは一斉に「国王陛下、万歳!」と歓呼の
声を張り上げた。これに対し、ライン河左岸に陣取っていたモロー将軍麾下のフランス軍兵士たち
は機械的に「共和国万歳!」と叫んだ。
フランス軍兵士たちはプロヴァンス伯爵がコンデ軍兵士たちの間に立っているなどとまったく考
えていないようだった。このため、コンデ軍の熱烈な王党派将校がメガホンを通して「国王陛下が
われらとともにここにおいでになるのだ」とライン河左岸に向かって叫んだ。ライン河左岸からは
やはりメガホンを通して「そちらに国王陛下がおいでになる!
へー!
国王をそちらに引き止め
、と声が発せられた。
ておけ。王国はわれらのものだ」
(1
1:1
4
0)
両軍のこの応酬はプロヴァンス伯爵にもコンデ軍にも由々しき事態を招くことになった。プロ
ヴァンス伯爵がリーゲルのコンデ軍陣地に到着したとき、コンデ軍とモロー軍は休戦していた。と
ころが、上記の応酬をきっかけにして、モロー軍がライン河を超えてコンデ軍に襲いかかり、休戦
が破られたのである。急襲を受けたコンデ軍はヴュルテンベルクまで兵を退かなければならなかっ
た。
コンデ軍の退却を聞きおよんだオーストリア皇帝フランツ二世は、ヴュルテンベルクから出発す
るよう、コンデ将軍を通じてプロヴァンス伯爵に申し渡した。プロヴァンス伯爵がコンデ軍陣地に
とどまればフランス軍を刺激し、戦闘が激化しかねないというのがフランツ二世の述べた理由だっ
た。このころ、コンデ軍を支援していた唯一の軍隊はオーストリア軍である。だから、コンデ将軍
にしてもフランツ二世の意向に逆らうことができなかった。
プロヴァンス伯爵は、行く当てもないまま1
7
9
6年7月1
4日にヴュルテンベルクを発ってドイツ国
内を北進、5日目にアウグスブルクの北西3
5キロにある小都市ディリンゲンに到着した。伯爵はこ
こでロシアをはじめとする列国に滞在許可を懇請した。王位継承を宣言したプロヴァンス伯爵はフ
ランスの敵意を掻き立てる厄介至極の存在である。それゆえ、このときも列国は進んで伯爵に避難
所を提供しようとしなかった。
結局、プロヴァンス伯爵の重臣カストル元帥が奔走して、ブラウンシュヴァイク公爵から公爵領
内のブランケンブルクへの滞在許可を取りつけた。ブランケンブルクはハルツ山麓の小村であり、
ブラウンシュヴァイク公爵はここにも城館を所有していた。がしかし、公爵がプロヴァンス伯爵に
認めたのは針葉樹の中に深く埋もれた、見るからに陰気で寒々とした村への滞在だけであって、城
館の使用は許さなかった。
翌月8月から1
7
9
8年2月までの1年半、プロヴァンス伯爵はブランケンブルクに居留するが、こ
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アントワーヌ・ド・リヴァロル
の間、伯爵は惨めにもビール醸造業者ミューラーの寡婦宅に三部屋のみ間借りして月日を送らねば
ならない。
[参考引用書目]
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3年、ラングドック地方に生まれ、1
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0
1年、ベルリンに歿したアントワーヌ・ド・リヴァロル
は十八世紀の偉大な文学者、政治評論家の一人である。1
7
8
4年、
『フランス語の普遍性についての
叙説』を発表し、この論文によりベルリン・アカデミー会員に就任した彼は、
1
7
8
8年に出版した『偉
人小年鑑』において煌めく才気を見せると同時に、無能な作家たちに手厳しい嘲弄を浴びせた。そ
の後、彼は王政を擁護する称讃すべきジャーナリストとして活躍する。そして王政擁護という政治
姿勢のために、フランス大革命下に亡命を余儀なくされた。
1
8
5
1年にサント‐ブーヴが明敏かつ深遠なリヴァロル論を執筆して以来、リヴァロルについては
少なからず論じられてきた。フランスでは、リヴァロルの生涯および作品は別だが、少なくとも彼
の名はあまねく知られている。ところが、非常に残念なことに、日本では彼の名さえ知られていな
い。従って、本稿においてリヴァロルの波瀾に満ちた生涯を精査叙述し、併せて彼の多彩な著作を
分析することとする。
本稿(十五)では、シャンスネおよびシャンフォールの惨死、キブロン半島上陸作戦、リヴァロ
ルのハンブルク到着について述べる。
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